- 『鼓動』 作者:いずみ孝志 / リアル・現代 未分類
-
全角11665文字
容量23330 bytes
原稿用紙約32.9枚
幼いころ父親を亡くし、母と二人で暮らしてきた少女『香苗』は受検に失敗し、母との関係もうまくいかずに失意の中にいた。そんなある日、香苗は公園である人達と出会う。 新たな出会いの中から自分を見つめ直す香苗。少女がちょっとだけ大人になる、その過程を描いた物語。
-
春って季節はなにもなくてもなんだかワクワクする季節だけれども、その春、私はどん底だった。あの時『ああしていれば』とか『こうしていれば』なんて言い出してもキリがないからなにも言わないけれども、それでもやっぱり後悔ってしちゃうものなんだ。つまるところ、私は受検に失敗したのだった。
小さい頃からどちらかといえば成績は優秀な方だったし、これまで大きな失敗なんてしたことがなかった私は今回も当然楽勝とたかをくくっていたのだった。人生そんなにアマくはなかったのだ。
「ちょっと、カナちゃん。いい加減ふて腐れてないで、勉強するとか外に出るとかしたら?」
そう呼ぶのはお母さんだ。ちなみにカナちゃんと呼ばれているが私の本名は香苗だ。いい加減『カナちゃん』なんて呼ぶのはお子様みたいだからやめて欲しいって言ってるのに。もう私、十八なんだから。
お母さんはいつも何かと私の世話を焼きたがる。私の記憶に残ってないくらい昔に死んでしまったお父さんとの唯一の子なんだから大事にしたいのはわかるけども、私だってもう大人なのに、いつまでも子供扱いするんだから始末に負えない。いい加減、うんざり。
お父さんが死んでから、ええと、もう十六年経つのか。と言っても私は覚えていないんだけれど。それ以来ずっとお母さんと私の二人で暮らしている。おじいちゃんはお母さんに帰ってこいって言ったらしいんだけれど、せっかくお父さんと二人で建てたばかりの家を手放したくはなかったみたい。お陰で今でもお母さんはずっと働いている。それでも毎日ちゃんとご飯と私のお弁当を作ってくれていたのだからまったく頭が下がる。
私だってね、別にふて腐れているわけじゃないの。ちょっと今は休息中。そう、休んでるだけ。だってあんなに頑張ったんだもの。いいでしょ、少しくらい休んだって。今はみんな受検の時はやれ塾だの予備校だのに通っているけども私はそんなのに頼らずにひとりで頑張ったんだから。でも、確かにもう何日もなにもしていないとそろそろ身体がおかしくなってきた気がする。少し、外の空気でも吸ってこようか。
「お母さん。私ちょっと散歩に行ってくる」
「いってらっしゃい。晩ご飯までには帰ってきてね」
約一週間ぶりに外にでた気がする。なんだか頭がくらくらするのは軽く貧血だからかな。やっぱりあまりにも動かないと身体もおかしくなるものね。
散歩に出てみたは良いけれども、別にどこに行くあてもない。せっかく外に出たのだし、ちょっと遠くの公園まで足を伸ばしてみる事にした。公園はここから歩いて三十分くらいのところにある。大きな池にボート乗り場まであるけっこう大きな公園だ。散歩には丁度良い。
公園に着くと周りは子供連れの夫婦やらカップルやらがちらほらいるくらい。あとは私と同じく散歩をしている老人たちがぽつぽつと。いかにも日曜日の公園という感じだ。今日は天気がよくて、景色もよく見える。大きな池を泳ぐカモが日曜日ののんびり感を演出していた。私はのそのそと歩きながら、鈍りきった身体がだんだんと感覚を取り戻していくのを楽しんでいた。
しばらく歩いていると、中央の広場の方からなにか不思議な音が聴こえてきた。気になったのでそっちの方に進んでみると、そこでは数人の人達が輪になって何かをやっていた。
あれは……太鼓? どうやら太鼓だ。輪になってみんな太鼓を叩いている。近くの芝生に腰を下ろし、私はしばらく聴いていることにした。
しばらく聴いていると、みんな違う事を叩いていることに気付いた。みんなバラバラに叩いているのに、こうして聴いていると不思議な統一感がある。不思議。しかも、それぞれが途中でリズムのパターンを変えている。それなのに全体のバランスは決して乱れたりしない。誰か合図でも出しているのかしら。そんな事を考えながら私はぼーっとその集団に見とれていた。
「お嬢さん。そんなにこれが珍しい?」
ぼーっとしすぎていて私はその人が近づいていたのに全く気付いていなかった。
「え、いや。皆さん楽しそうだな、って。」
「楽しいよ。君も一緒にやってみる?」
正直な話、私は別にやってみたいとか思ってはいなかった。今の私は何をするのもおっくうで、何かをしようなんて気には到底なれなかったのだ。でも、その人は結構強引で、別に『うん』ともなんとも言ってない私をむりやり輪のところまで連れていってしまった。
遠くから見ていてもなんだかよくわからなかったこの集団は、近くで見てみるとますますよくわからなかった。メンバーは男もいれば女もいるし、いかにも最近の若者といった人から結構おじさんっぽい人までいる。これ、何集団?
「えっと、君はこれ、なんだか知ってるかい?」
例の強引な彼がそう聞いた。この人、何歳くらいなんだろ。年上だとは思うけど。
「いえ、知りません。太鼓ですよね?」
「うん。ジャンベって言うんだ。知ってるかな?」
知らないっていったばかりだというのに。この人はどうやら頭が悪い。
「いいえ。初めて見ます、それ。」
「そっか。この太鼓はね、一つの太鼓でいろんな音が出せるんだ。高い音から、低い音まで。だからこれ一つで色んなことができる。それでこの公園に叩きにきてたら同じことをしてる人がたまたま居たんだ。それで集まってみんなで叩いてるのがオレ達ってわけ。」
そもそも、公園までわざわざそんな太鼓を叩きに来てる人がそんなにいるって時点で驚きだ。私には縁のない世界。
「ほら、叩いてみてごらん。こうするんだよ」
その人はポンっと軽く叩いてみせた。そして私に太鼓……ジャンベを渡して叩いてみるよう促した。周りの人達は、新しい仲間を見つけたような、そんな目つきで私のことを見ている。いや、だから私はただの通りすがりなんだってば。
ジャンベの皮に手を添えて、とりあえず思いきり叩いてみた。『バンッ』とあまり可愛げのない音がした。
「ああ、ちょっと力が入りすぎかな? もうちょっとリラックスして叩いてみて」
私は今度は力を抜いて軽く叩いてみた。今度はさっき彼が叩いたみたいに『ポン』と軽い音がした。彼の顔を見ると満足そうにニコニコしている。そんなに嬉しいか。
「いいねぇ。だんだん楽しくなってきたでしょ? それから、ジャンベは他にもこんな音を出せるんだ」
そう言いながら彼はジャンベの真ん中を叩いたり、端を叩いたりして『ボン』だの『カン』だのと器用に色々な音をだして見せた。そのうちだんだんと乗ってきたのか彼は私の存在を忘れちゃったかのようにリズムをたたきはじめた。すると、周りの人達もそれに合わせて思い思いのリズムを叩きはじめて、すっかりさっきみたいな大合奏になってしまった。この人達の嬉しそうに叩いている顔を見ていると、なんだか私は不思議な気持ちになってきた。なんでこの人達はこんなに楽しそうなんだろう。
大合奏はしばらくの間ずっと続き、やっと終わる頃にはもう日が傾きはじめていた。ひとしきり叩いて満足したのか彼はやっと私の事を思い出して慌ててこっちを向いた。
「ごめんごめん! なんだかすっかりノっちゃってさ。ずっと聴いてたの?」
「ええ。みんななんだかとっても楽しそうで、声をかけられなかったです」
「そっか。いや本当にごめん。また今度ぜひ遊びに来てよ。オレ達いつも日曜にはここにいるからさ」
「はい。気が向いたら、また来ます」
「うん、絶対だよ。君、名前はなんていうの?」
「香苗です。落合 香苗って言います」
「香苗ちゃんか。オレは馬場 慎司って言うんだ。みんなはシンとか、シンさんって呼ぶけど」
「今日はなんだか迷惑かけちゃったみたいで」
「なに言ってんの。迷惑かけたのはこっちの方だよ。オレが誘ったのに全然構わなくってさ、怒らないでまた来てね」
そう言ってシンさんはニヤっと笑った。まるで子供みたいな顔。本当に、この人は年齢不祥だ。
「ただいま」
「おかえりなさい。ご飯もうちょっとだから先お風呂入っちゃってて」
お風呂に入りながらさっきの事を思い出す。あのシンさんとかいう人、本当に私がまた来ると思ってるのかな。たぶんもう行く事はないと思うけど。今日はたまたま。たまたま出掛けて、たまたま出会っただけ。たまたまの出会いだったけども、そんなに気分としては悪くなかったし、良い思い出になると思うわ。たぶんすぐ忘れるけど。良い人達なんだろうけども、私とはきっと相容れないと思う。だって、あんなに楽しそうなんだもの。何をやっても楽しくない私はきっとあそこにいてはいけないのだと思う。だから、もうあそこへはきっと行かない。
お風呂から上がると、リビングにはもうきちんと食事の用意ができていた。私は席につき、二人で食事を始める。いつもどうりの食事を。
「お母さん思ったんだけどね、なにも大学へ進学するばかりが人生じゃないと思うの」
いきなりこの人はなにを言い出すのだろう。
「もしも、カナちゃんにやりたいことがあるんだったらそれを思いっきりやってみるっていうのも一つの方法だと思うのね。だから、カナちゃんそんなに無理しないで……」
「お母さん。私はね、ひとつも無理なんかしてないの。受検だって自分で決めたことだし、ちゃんと一人でできるの。それに、私にそんな思いっきりやってみたいことなんてないよ」
実際そうだった。特に私は将来の夢なんて持っていない。とりあえず考えるのを保留して大学への進学を選んだのだった。でもそれって結構普通なんじゃない? みんなもそうでしょう?
「でも、カナちゃん落ち込んでるみたいだったから」
さっきの一言はお母さんなりの配慮だったのだろう。受検に失敗して落ち込んでるであろう私への。何て言っていいのかわからなくて、考えて考えた末、さっきのワケのわからない発言になっちゃったんだろう。お母さん、突飛すぎだよ。
「大丈夫よ、お母さん。一浪くらいザラにいるんだから。もう一年頑張ってみて、私は大学に行くつもり。迷惑かけちゃうかもしれないけども、私がんばるから。ごちそうさま」
そう言って私はさっさと自分の部屋に帰っていった。なんとなく、お母さんといると辛い。お母さんが私のことを心配している。そのこと事態がなんとなく息苦しい。どこか別のところへ逃げてしまいたい。
結局この一週間、一切勉強には身が入らなかった。問題集を開いてもいくつかパラパラと問題を解くだけで集中力は途切れるし、お母さんが仕事に出ている間はいいけれど帰ってくるとまた例のプレッシャーがのしかかってくる。私が勉強していたらしていたで、やれ無理をするなとか。していなかったら今度は、やっぱり勉強するのは辛い? ときたものだ。お母さんは私の心配をする為に生まれてきたのだろうか。私はお母さんに心配される為に生まれてきたんじゃないのよ、と言ってやりたい。
だから日曜日は最悪。朝から晩までお母さんと一緒にいるからまったく息がつまる。
たしかに家にいたくなかったというのはある。だからって、なんで私は今この公園に来ていて、あの輪の中に入ってしまっているのだろう。
それはまったくの偶然だった。家にいたくない私は、図書館で勉強をすると言って家を出た。もちろん今は勉強する気なんて起きないし、どこかで適当に時間を潰して帰るつもりだった。まずは本屋にでも行こうと駅前に歩いていくと、なんとバッタリとシンさんに出会ってしまったのだ。
「やあ、久しぶり! 香苗ちゃんもこれから公園に行くところ? 一緒に行こう。自転車うしろ乗っけてやるよ」
正直しまった、と思った。本屋と公園はうちから同じ方向だったし、まさかシンさんにバッタリと会うとは思わなかったのだ。しかも、私のこと覚えているなんて。それでも、嬉しそうなシンさんを見ていると「いえ、私はこれから本屋に行くんです」なんてとても言える雰囲気ではなくて、意思の弱い私はついついシンさんの自転車の後ろに乗ってしまったのだ。
それで、今はこの有り様だ。前回の反省からか、シンさんは今度は私と一緒に一つのジャンベを囲んで叩いている。私は適当にリズムを取りながらみんなと一緒に合奏をしている。シンさん曰くは、セッションとか言うらしい。みんなとセッションしているうちに色々なことがわかってきた。
この前は誰かが合図でも出しているのかと思っていたけれど、別にそんなことはなく、誰かがなんとなくリズムを変えると、みんななんとなく適当にリズムを変えていたのだ。全てがなんとなくでできているようなセッションで、参加している人達もなんとなく参加していた。そっか、なんとなく集まって、なんとなくセッションしてるから楽しいのかな。この人達は普段なんのかかわりもない人達だけれども、週に一回こうしてなんとなく楽しんでいる。その『なんとなく』の輪に、私もなんとなく加わろうとしていたのだ。
「どう? 実際参加してみると結構楽しいでしょ?」
「ええ。意外と」
これは本音だった。息が詰まるような家にいるよりも、こっちにいる方がずっと気楽になっていた。この前は、楽しそうにしているみんなの中に私が入ってもいいのか、それが不安だったのに、実際入ってみるとそのハードルは本当にあったのか疑問に思うくらい小さいものだったのだ。それもこれも、あのシンさんの強引さのお陰なんだろうな。
「ねえ、シンさん。どうしてこの前私のことを誘ったんですか?」
「え? ああ、なんとなくだけどね。香苗ちゃん寂しそうな顔してたから」
私はそんな顔をしてたのか。なんだか恥ずかしくなってきた。昔っから鍵っ子だった私は一人でいることに慣れていたし、それが当然だと思っていた。だから一人でも寂しいことなんかないんだって思っていた。だけど、心のどこかではやっぱり寂しかったのかもしれない。それを初対面のシンさんに見破られてしまったことが、たまらなく恥ずかしかった。
「でも、こうやってみんなでセッションしてると寂しくなんかないでしょ? オレも昔、とても寂しい頃があったから香苗ちゃんの気持ちわかるような気がするんだ」
いつもの私なら『何言ってんの、あなたなんかに私の気持ちわかる訳ないでしょ』なんて考えちゃうところだったけど、シンさんの言葉にはなんだか説得力があった。それがこの人の不思議なところだ。なんともいえない強引さで人をぐいぐい引き付ける魅力がある。私は、やっと居場所を見つけたような気がした。
それからというもの、毎週日曜日には必ず公園に行ってジャンベのグループに混じるようになっていた。シンさんは毎回私の為にもう一つジャンベを持ってきてくれるようになり、私はシンさん以外の人とも徐々に話すようになってきた。家ではいつも鬱々としている私だったけど、日曜日にはここでリフレッシュできる。日曜日だけ、私は人間らしくなれるんだ。そんな気がした。
この前の食事での会話以来、お母さんは私の勉強についてなにも言わなくなった。私が勉強をしていようがしていまいが、もう何も言わない。私としてはそっちの方がはるかに気楽だったんだけども、お母さんはなんだか疲れているみたいだった。仕事が忙しい時期なのかな。徐々に溜息をつく回数が増えているような気がする。それでも、私にはジャンベがあるから、楽しいから大丈夫。大丈夫、だと思う。
それは七月の半ば頃のことだった。母が食事中にこう切り出した。
「ねえ、カナちゃん。今度の土日は空けておいてね。お父さんのお墓参りに行くから」
そうか、もうそんな時期だったっけ。すっかり忘れていた。お父さんのお墓は実家のそばなので、どうしても泊まり掛けになる。私は母方の祖父母は大好きだったけど、父方の方はなんだか好きになれなかった。だって、私の顔を見る度にやれテストはどうだったのとしつこいんだもの。自分達の唯一の肉親である私をどうやら大物にでもしたいみたい。そんなこと言ったって無駄なのに。だから私はあまりお父さんの実家には行きたくなかった。
「お母さん、一人で行ってきなよ。私、受験生だしさ。それに土日はやりたいことあるし。」
いつもだったら勉強を盾にすればどうとでもなるお母さんだったが、今回はどういうわけかそうはいかなかった。
「向こうでも勉強くらいできるわよ。それに、一日二日でどうこうってものでもないでしょう? 年に一回のことなんだから、ちゃんとお父さんに挨拶しに行きましょ」
「その一日二日が大事なんじゃない。お母さんは私のこと全っ然わかってないんだから。それに、私はお父さんのことなんて全く覚えてないんだから、今更行ったってなにも言う事なんかないよ」
それを聞いた母は少し落胆した顔をした後、私が今までに見た事もないような表情を見せた。怒りでもなく、悲しみでもない複雑な表情。そしてこう言い放った。
「だったら勝手になさい。土日は私一人で行ってくるから。カナちゃんのことお母さんはわかってないのかもしれないけれど、カナちゃんだってお母さんのことなにもわかってないみたいだから」
そう言ったきり、もうお母さんは口を聞いてくれなかった。
土曜日の朝早くお母さんは家を出ていった。二日間、私は一人になった。
勉強をしていてもなんだか身に入らないので、私は土曜日だっていうのに公園まで行くことにした。たぶん誰もいないとは思うけど。
広場に行くと、やっぱり誰も……いた。あれはシンさんだ。シンさんはその後私よりも十歳も年上だっていうことがわかったんだけども、こんな時間一人でなにしてるんだろう。今日は仕事休みなのかな。
「シンさん。こんにちは」
シンさんは驚いたようにこっちを振り向いた。
「ああ、香苗ちゃんか。どうしたの? 今日はみんなはいないよ」
「たまたま来てみたの。土曜に私がいちゃ悪い?」
毎週毎週顔を出しているうちに私は周りの人に対してすっかり敬語を使わなくなっていた。みんなもその方が気楽なんだって。
「悪いなんてことはないよ。ちょっと驚いただけ」
「シンさんって日曜以外はいつもこうやって一人で叩いてるの?」
「うん、たまにね。みんなでセッションするのも楽しいけども、こうやって一人で自分のプレイを突き詰めていくのも楽しいもんだよ」
シンさんは相変わらず不思議な人だ。一人でいても、みんなでいても楽しそう。でも、一人の時のシンさんはどことなく寂し気で、それを隠すかのように楽しそうに振る舞ってるように見えた。ジャンベを叩いている時は、その隠れた寂しさがどこかにいってるみたい。ジャンベってすごい。不思議。
「ねえ、シンさんはどうしてジャンベを叩いているの?」
「んー、そうだね。楽しいからってのもあるけども、他にも理由があるんだ」
「聞かせてくれる?」
「ジャンベにはね、神様が宿ってるんだよ」
なんだか抽象的な話になりそうだった。私はそういう話はあまり好きではないんだけれども、シンさんの話すことだし、ちょっと聞いてみたかった。
「神様?」
「そう。神様。ジャンベの生まれた国ではジャンベは神様と話をする道具なんだ。ジャンベの胴は木でできていて、皮は動物の皮を使っているだろ? 樹と動物の命をもらって作ったものだから、ジャンベには樹と動物の神様が宿っている。そういう風に向こうの人達は考えているんだ」
「へぇ」
私はなんとも間抜けな返事をしてしまった。それがシンさんがジャンベを叩く理由になっているのか私にはよくわからない。
「オレは神様とか特に信じている訳じゃないし、何かを拝んだりとかしてもあまり実感が湧かないんだ。でも、ジャンベを叩いてる時はひょっとしたら神様にオレの気持ちが伝わっているのかなぁって気分になれる。ひょっとしたら、死んじゃった人にもオレの気持ちが伝わるんじゃないかってね」
私はその時、はっとした。シンさんはきっと誰か大事な人を亡くしてるんだ。だからちょっと寂しそうなんだ。私は、ふとお母さんのことを思い出した。お母さんにとって、お父さんはやっぱり大事な人だったのだろうか。
家に帰ったけれども、やっぱり誰もいない。そりゃそうか。お母さんは明日の夜まで帰ってこないんだもの。私はお母さんの部屋に行ってみることにした。お母さんの部屋には仏壇があって、お父さんの写真がかざってある。何度見ても思い出せない私のお父さん。今見てもやっぱり実感がわかない。
私はなんだか急にお父さんのことが気になり出した。私のお父さん。確かにいたけれども記憶に残っていない。私はお父さんとの思い出なんか一つも持っていないけれど、お母さんにはたくさんあったのだろうか。もしも今お父さんがいたら、私にどんなお説教をしてくれるんだろう。どんな会話を私とお母さんの三人でしていたのだろう。そういえば、私はお母さんにお父さんのことを聞いた事がない。お父さん、どんな人だったんだろう。私はふとシンさんのことを思い出した。シンさんは若いけれど、『お兄さん』というよりは『お父さん』という感じのする人だ。もしもお父さんが生きていたら、あんな風に私の心を安らかにしてくれるのだろうか。
翌日、私は昼頃まで寝た挙げ句に一人で適当な昼食をとった。お母さんが冷凍庫に残しておいてくれた冷凍ピザをチンして暖めて。いたらいたでうざったいお母さんでも、いない一人の昼食はやっぱり寂しかった。
昼食をとった後、いつものように公園に行った。シンさんも他の人達もいつものように暖かく私を迎えてくれる。私はシンさんにジャンベを借りて、いつものようにみんなとセッションを開始した。みんなの出すリズムにノリながら私は物思いにふけっていた。
ねえ、お父さん。お父さんはお母さんと出会えて幸せだったの?
私は覚えていないけど、私と過ごせた二年の間、お父さんは幸せだった?
私はジャンベを叩きながらずっとお父さんに問い続けた。樹の神様、動物の神様。私の気持ちをどうかお父さんに届けて下さい。私は夢中でジャンベを叩き続けた。いつからか、周りの音は一切聴こえなくなっていた。
お母さん。お母さんは私のことが大事なの?
大切で大切でしょうがないから、私のことを傷つけちゃうの?
「カナちゃんだって私のことわかってないじゃない」
そんなお母さんの言葉を思い出す。あれはどういう意味だったの? 私、お母さんのお父さんへの気持ちわかってなかったのかな。お母さんは今でもお父さんのことを大切に思っているのかな。
「香苗ちゃん、今のよかったよ」
シンさんの言葉で私は我に帰った。
「なんか、いつもと違うって感じだったわ」
「そうそう、自分をさらけだしてるって感じで」
みんな口々に私の演奏のことを言っている。良かったのかな、今。楽しくなって私はまたジャンベを叩き始めた。今度はみんなが私のリズムにのってくる。心地良い。こんなに楽しいことがまだこの世の中にはあるんだ。今までの不安がなんだかジャンベのリズムの中に溶けて空に昇っていくみたい。
ひとしきりセッションをして、今日は解散になった。私はシンさんと話がしたくてシンさんのところへ走っていった。
「シンさん。私の話を聞いてくれる?」
いいよ、というシンさんの眼は優しかった。ひょっとしたらシンさんは私の悩みをわかっていたのかもしれない。自分ではどうにもならない自分のもどかしさ。お母さんを怒らせてしまった私の後悔。見た事のないお父さんへの気持ち。これまでのことを全部包み隠さず話そうと思った。シンさんならば聞いてくれる。理解はしてもらえなくてもいい。聞いてくれるだけでいい。シンさんにひとつひとつ私の悩みを話していくうちに、なんだか私の気持ちが軽くなっていくがわかった。人と話すのって、まともに話すのって本当に久しぶり。こんなに気持ちの良いことだったなんて。
全部話したころには辺りは暗くなり始めていた。シンさんは、私を家まで送りながらポツポツと話をしてくれた。
「今までずっと一人で抱えてきたんだね。辛かったでしょ。よく頑張ったね」
「…………」
「最初に香苗ちゃんを見た時……うまく言えないけれども他人とは思えなかったんだ。本当は寂しいのに、そうじゃないって思いたいところとかさ。オレ、三年前に恋人が死んじゃったんだ。それでもうどうしようもなく寂しくてさ、なにもする気が起きなくなっちゃって毎日ブラブラしてた。ある日たまたまこの公園に来たらさ、ジャンベをやってる人がいて、それでそこからは君と同じだよ。気付いたらジャンベにのめり込んでた。さっき君はジャンベを叩きながら何を思ってた?」
「……お父さんと、お母さんの事を」
「オレはいつもその恋人のことを想いながら叩いてる。ジャンベを叩いていると、樹と動物の神様がオレの言葉を彼女に届けてくれる。そんな気がするんだ」
「恋人が死んじゃった時、やっぱり悲しかった?」
「そりゃそうさ。今でももちろん悲しいよ。でも、今のオレにはジャンベの仲間や、他にも友達がいる。オレはちゃんと生きてる意味があるんだ。最初はジャンベを叩きながら彼女に『寂しいよ、寂しいよ』って語りかけてたんだけど、今は『オレはちゃんと生きてる。楽しいよ。だからもうちょっとだけ待っててくれ』って言ってる」
そう言いながらシンさんは眼を細めた。優しくて、ちょっと悲しい眼。でも、とても強い眼。
「香苗ちゃんのお母さんは、今でもやっぱり悲しいんだよ。きっと。それはお父さんがとても大切な人だったから。今でもお父さんのことをとても大切におもっている。だから香苗ちゃんがお父さんのことなんて覚えてないって言ったとき、頭ではわかっていてもとても悲しかったんじゃないかな」
「ねえ、シンさん。私、どうしたらいいと思う?」
「それは君が自分で考えることだよ。香苗ちゃんのお母さんにとって君は今を生きている人なんだ。お父さんは過去を生きている人。どっちも大切なものだけれども、やっぱり『今この時』の力って大きいものだよ。香苗ちゃんはお母さんとどうなりたいの?」
「私は……やっぱりお母さんと仲直りをしたい」
「ならそうすればいい。それが一番だよ」
そう言ってシンさんは今度はにっこりと笑った。シンさんの話はなんだか難しくてよくわからなかったけども、私はなんだか安心して聞いていることができた。色々考えていたけれど、きっとそんなに難しいことじゃないんだ。きっかけは簡単なことだったんだ。お母さん。私、やっぱりお母さんのこと大好きだよ。
「このジャンベ、香苗ちゃんにあげるよ」
シンさんはいつも私が使っていたジャンベを私に渡してくれた。
「え、でも……そんな。貰えないよ」
「いいんだよ。気にしないで。そのジャンベは今日君のものになったんだから。さっき君に叩いてもらってとても嬉しそうだったんだ。だからそれは君にあげるよ」
「ありがとう。シンさん」
気付いたら、家の前に着いていた。私はシンさんにペコリと頭を下げ、玄関に行こうとした。
「あ、香苗ちゃん」
シンさんは笑顔でこう言った。
「また来週」
「うん、また来週」
なんだか、全てがうまくいく。そんな気分にさせてくれる挨拶だった。『また来週』それだけの言葉に今の私の安心が全てあるような気がする。今度は私がお母さんを安心させてあげなくちゃ。
「ただいまー」
「おかえりなさい」
お母さんは予想よりも早く帰ってきていたようで、食卓には暖かいご飯がちょうど用意されたところだった。お母さんも私も席に着き、いただきますと言う。
私はお母さんがいない間、どれだけこの質問をしたかったのだろう。今まであえて私が振らなかった話題を、ついにお母さんに聞いてみることにした。お味噌汁が私の身体を暖めてくれて、私の力になってくれる。
「ねえ、お母さん。お父さんってどんな人だったの?」
お母さんは眼を丸くしてこちらを見たあと、とても懐かしそうな眼をしてこう言った。
「カナちゃん、はじめてお父さんのこと聞いてくれたね。どこから話せばいいかしら?」
「お母さんの知ってること、全部話してほしいの。お父さんのことを今とても知りたくなったの」
「長くなるけども、大丈夫?」
お母さん、大丈夫よ。私、今だったらいくらでもお母さんの話を聞くことができるもの。それに、心配しないで。お母さんの長い話が終わったら、私も長い長いお話をするつもりだから。素敵な仲間たちに出会ったこと。それから、樹の神様と、動物の神様の話を。神様とお話する道具を見せながらたっぷりと聞かせてあげる。
お父さんとの思い出を嬉しそうに話して少女のような顔になってるお母さんを眺めながら、私はお母さんにこれから話すことを思い、ちょっと微笑んだ。
-
2007/02/19(Mon)17:37:00 公開 / いずみ孝志
■この作品の著作権はいずみ孝志さんにあります。無断転載は禁止です。
-
■作者からのメッセージ
小説というものを初めて書いてみました。至らぬところ等、多々あると思いますので御指摘、御感想お待ちしております。