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『先生』 作者:タカハシジュン / リアル・現代 未分類
全角19508文字
容量39016 bytes
原稿用紙約55.05枚





 会場は、結婚式の披露宴をするには少々チープだが、忘年会や送別会をやるには若干格式ばっているといった雰囲気のホテルの程々の広さの一室で、部屋の隅には造花ではない本物の花が、平凡ではあるけれど部屋の程々の雰囲気を損なわない落ち着いた造詣の花瓶に活けられて置いてある。丸テーブルが部屋をすし詰めにしない程度の間隔でいくつか並び、宴席がしつらえてあるが、僕と元田さんの席札はなく、一般人は空席にご自由に座れという形式を、受付で聞いていなかった僕らは会場の様子で察した。
 指定席はごく限られた来賓ばかりのようだ。受付でもらった資料に記載されている彼らの名前は、見覚えのあるものもあれば全く素通りしてしまうものもある。この陳列物の中で、どなたかご存知の方でもいらっしゃいますかいと、ややくだけて元田さんに尋ねたら、眼鏡をかけ僕より心持小柄な元田さんは、目元は笑わず口の端だけをにやりとさせて、この連中とお友達のぺーぺーがいたらお目にかかりたいもんだと答えた。
 そりゃあそうですね。僕は答えた。いずれも、雲居にいらっしゃるお歴々ばかりで、地下(じげ)の我々のところになんざご降臨されないでござんすからね。その僕の言葉に元田さんはやはりにやにやとする。もちろん僕のこの言葉には含みがある。偉そうにふんぞり返った偉そうな連中は職場を離れても偉そうに遇されるのがお好みであるらしい。
「もっともな」
 元田さんは皮肉そうに笑う。こんなところが共通していてお互いウマが合うのかもしれない。
「殿上人も今となっては多少は気まずいのかもしれないな。ウチの高校出身なんていうのは、要は若い頃はお勉強なんて苦手で大嫌いでございましたって表明しているのも一緒だから」
 ウチの高校はバカ学校、そんな風に自分の母校をにやにや笑いながら悪態をつく元田さんに僕自身全く同調してしまう。その同調の中には、懐かしさと、幾許かの愛着も含まれていることを否定できない。そういうものが香辛料として含まれていればこそ、悪態もつけようというものなのだ。
 宴席は、職場の中で結成されている我が母校の同窓会の親睦会として設けられたものだ。
 目につくような大企業というものがさほどあるわけではない地方の役所というものは、就職先としては安直で、冒険や挑戦を求めて上京することを億劫だと思う怠け者の身の置き場としては都合がいい。そして、類は友を呼ぶせいか、似たようなことを考えるのはやはり似たようなルートを辿った人間が多く、かくして我が母校もこの役所に対して数だけはなかなかの人数を送り込んでいるという格好となる。
 毎年入ってくる母校の後輩らはこの職場同窓会の席で先輩連中を見上げ、ああさすがに我が母校の先輩方だけあって頭の悪そうな雁首並べていやがるなとしみじみ感じ入るといったところだろう。
「峰村の頃はもう随分おりこうさんの学校になったんじゃないのか」
 元田さんはテーブルクロスが皺なく敷かれたテーブルの座席にざっかけなく腰掛け、さっと灰皿を引き寄せて煙草に火をつけてから、僕の横顔を眺めつつそう尋ねた。
 まさか、僕は反射的に答えた。
「アホでしたよ。ろくでもないことしかしてなかったですよ」
 僕はひとつ大きく伸びて、背反するいくらかの感慨を自分の中で整理し押さえ込み、それから元田さんに話しかけた。
「ねえ元田さん、ウチの高校ってバルコニーがあったじゃないですか」
「ああ、あったよなあ」
「あそこで麻雀やったり、エロビデオの交換したりね。そんなことをやってたなあ」
「そりゃあ充実した放課後活動じゃないかよ」
「いや、授業中でしたけど」
 言い終えてから元田さんと二人して、周囲もはばかりなくバカ声で笑った。周りも似たようなもので、往年のろくでもない活躍や悪事を思い出し並べては、失笑したり頭をかいたりしている。
「バカ学校にバカ生徒。そんな気持ちのいい、牧歌的な学校だったんだがなあ」
 元田さんの指先で、煙草がいたずらにくすぶり、あてどなく紫煙が漂っていた。
「……ホント、くだらなくなっちまった」
 同窓会の会長だというどこかの部の部長というオッサンが笑み崩れながら挨拶をした後、乾杯をし、ひとしきり歓談をした後で元田さんは笑みをかげらせ、若干うつむきながらそんなことをつぶやいた。壇上、母校の理事長が演説を始めていた。
「我が校は努力に努力を重ねまして、今や県下では一番の授業のコマ数を実施しております。また毎日始業開始前に『自主的に』生徒諸君に英数の小テストを受けさせ、そのテストのために毎日結構な量の宿題を課しております。これは保護者の皆様に非常に好評でございまして、ウチの子を勉強させてくれると大いに安心いただいておるところでございます」
 それまでの宴席の笑い声は収まり、理事長の演説はよく通るようになった。誰もがそれに聞きほれるようになったわけではなかった。
「私どものクラス編成といたしましては、国公立大学進学を第一志望とするAコース、私立を主眼としますBコース、更に学業とスポーツの両立を図り全国の様々な大会で活躍する生徒諸君のためのCコースを併設いたしまして、様々な要望に答えられるカリキュラム作りに邁進しておるところでございます。これらは、各学期中はもとより、長期休みに於いてもそれぞれのコースごとに学習合宿やスポーツ合宿を行って学習、鍛錬を欠かさないように努めているものでして、生徒諸君のやる気に答えられるように万全の手はずを整えております。また土曜日に関しましても補講の時間とし、生徒諸君の『自主的な』参加を募っておりますし、このことについても生徒諸君や保護者の皆様から大変ご好評いただいております。これらの効果が現れ出ていることは数字によって明白でありまして、一昨年度の国公立大学進学者数はその前年度より十八人増加。昨年度はそれより更に七人増加いたしました。これにより……」
 くだらねえな、元田さんはつぶやいた。何でアホ学校だった頃の面々が集まった同窓会の席で、今のおりこうさん学校の自慢話を聞かされなければならないんだ。
 僕はその言葉にうなずいた。うなずきながら、コップに半分残っていてほとんど泡の失せたビールを一息で飲み込んだ。麦芽の苦味が音を立てて咽喉奥に飲み込まれていくのを感じながら、僕は昔のことを思い出していた。








 どうだ峰村……。
 昨日のことのように、嶋岡の声が聞こえ、ほとんど手入れをしていないような白髪交じりの頭髪の下の、勢いづいたような笑顔が浮かんできた。教室。窓側には僕らが悪さをしていたバルコニーが壁の向こう側に設けられていて、そこは川原と川とに接するように通っていたから、他校の生徒からはうらやましがられていた。川原道は遊歩道で桜並木が続いてあった。時々別の制服姿がそこから母校を見上げていた。記憶は曖昧だから嶋岡がいつごろそんな話をしてきたか定かではない。ただバルコニーと隣り合うその窓から、朗らかな光がふんだんに教室の中に入り込んできたような覚えがある。今連想して、葉桜の頃だったかな、それだったら本当にすがすがしくて心地いい日々のことだったなと思ってしまう。川からの穏やかな風に揺れる葉桜や柳の青さが好きだった。だから通学は多少迂回して、川原の遊歩道を自転車で駆け抜けていた。
 嶋岡の声が聞こえる。
「どうだ峰村、おんもしろいだろう。あの人」
 はい、僕はうなずいた。確かにそうだった。面白くて仕方がなかった。今思えば嶋岡は多少は心中複雑であっても悪くなかった。自分の担任のクラスの生徒が、自分の教えるリーダーの授業にこれっぽっちも情熱を示さずやる気も見せないというのに、大学受験の主要科目とは言いがたい世界史に食い入るように熱中しているのだから。
 それだというのに、嶋岡は僕に対して陰湿の感情を欠片も見せることはなく、どうだおもしろいだろう、そういって笑っていた。それもいいけれどお前もう少し英語がんばらないとまずいぞとか、世界史だけで行ける大学は例え私立の史学科であってもほとんどないんだぞとか、そういうことは言わなかった。今にして思えば嶋岡には悪いことをしたなと思うが、その頃はそんなことはこれっぽっちも思いつかず、ただ本心から面白いと思うものに対して面白いと答えるだけだった。
 浮世離れしているとでも言うべきなのだろうか。嶋岡が僕の担任であったのは高校二年の時だ。あの頃大学受験だのなんだのといった小うるさいことは確かに日々の中で幾度となく聞かされてきていた。嶋岡だってそのことは何度も口にしていた。だけれどもそこにはどことなく脱俗的というか、世知辛い綿密さからは遠く、どこか袋の一端が破れているような大らかさがあった。目前の点数に固執するような偏狭な厳しさは嶋岡からは伝わってこなかった。 それは甘いといえば甘いのかもしれない。それだから予備校や塾に頼らなければ大学には行けない。それも公立高校ではなくて、ここは卒業生が立派な成果を収めることによって宣伝とし、それによって多数の生徒を確保して経営を安定させる私立の高校なのだ。
 うかつにそんなのんきなところを見せたら、保護者によってはかみついてくるだろう。子供の一生を台無しにする気かとなじるだろう。
 昔は言えなかった。何も得てはいなかったし、そもそもしくじってさえいなかったから。今は言える。こんなことで台無しになる一生はクソだ。
 嶋岡の笑顔が浮かぶ。そして、嶋岡があの人といっていた芝松先生の矍鑠とした皮肉たっぷりの表情が浮かんでくる……。
 多分僕は遠い目をしていたのだと思う。同窓会の席上で隣の元田さんは、僕の表情にちゃんと気づいていて、僕の空のコップにそっとビールを注いだ。慌てて礼を言い、元田さんに注ぎ返すと、僕はビールを流し込んだ。苦い液体が飛沫と一緒になって咽喉を通る。
「ねえ、元田さん。芝松先生って覚えていますか」
「……オレ、日本史選択だったからなあ」
 元田さんの返答が、少しだけ遠くからのもののように聞こえた。
 周囲の喧騒が、追憶の中に飲み込まれる。
 そうだ、
 力強く。
 銀髪の悪童は痩身のどこにそんな力があるのかと不思議になるくらい豊かな声量で、堂々と胸を張って、明るい日のそそぐ窓辺に立ち青空を見つめながら歌った。




Che bella cosa 'na iurnata' e sole,
n'aria serena doppo 'na tempesta!
Pe' l'aria fresca pare gia 'na festa
Che bella cosa 'na iurnata' e sole.
Ma n'atu sole chiu bello, ohine,
'O sole mio sta n'fronte a te,
'O sole, 'o sole mio sta n'fronte a te,
sta n'fronte a te



 昔は肉がついていたと聞いたことがある体型は、僕が教わった頃は針金のようにしか見えないものだった。大病したせいだと噂を耳にしたことがあった。だというのに憎たらしいくらいに背筋がのびていて、その傷痕は感じられなかった。見るからに度の強い眼鏡をかけていたが、それは鋭く険しい眼光を弱める効果はちっともなかった。ぎらぎらと生徒を凝視する。口ぶりはひどく傲慢な様子だった。何せ毛唐だ。
「毛唐は今でこそ己が優越を見せつけ世界を謳歌しているが、彼らの歴史上の活躍はほんの近代になってからのことであり、彼らの発展の契機となったルネサンスの原動力となったのは彼らの不倶戴天の敵であったイスラームの文化圏からの影響に他ならないのだった。彼らがいい調子になっているのは歴史を見れば実におこがましい」
 こんな調子だ。
 先生の自己紹介によるプロフィールによれば、学生自分とにかく毛唐語(西洋語ということだろう)が苦手で苦手で、しかも迂闊なことに史学というのは言語に堪能でなければやっていられない商売だとのことで、西洋史学なんてけったくそ悪かったから東洋史学を学んだそうだ。
「そのお陰で私のような見事に偏狭な人間が出来上がったわけなのである」
 そのくせ見事にカンツォーネを歌った。それも心から楽しそうにだ。先生のところに押しかけていって歌ってくれとせがんで歌ってもらったのではない。授業中にだ。生徒は聞き惚れるどころではない。唖然としていた。
 当時六十は過ぎていた。私立だから公立のような定年とはやり方が違っていたせいだ。であるのに年寄り臭いところが一切ない。そもそもそういう部分を見られるのを唾棄せんばかりに嫌う様子だ。不意に生徒の横っ面をひっぱたくような勢いで朗々と美声を張るなんていうことは、稚気以外の何物でもないだろう。
「愛読書はツヨシしっかりしなさい。私はこれを徹底的に研究している。ツヨシの家の間取りも書いた。それと沈黙の艦隊。しかし海江田四郎の原潜独立国家論、あれは実に結構だ。十二海里以内を自分の領土としてそこに入ってくる船を攻撃し、物資を奪えば、半永久的に活動することができる。実に考えられた設定であります」
 唐突にこんな話題に脱線することもしばしば。と思いきや次には往年のアイドル論評を始め、やはり山口百恵は別格だった、あの瞳には他に類のない生気が宿っていたという風に話し出す。
 歌い、駄弁を繰り返し、雑学、それもサブカルチャーにすら堪能、こんな調子の授業であったから、さぞかし内容は楽であったかというととんでもなかった。脱線を繰り返す代わり、本線に回帰した時の濃厚な密度は常軌を逸していた。そもそも第一回目の授業を僕は未だに克明に記憶しているが、のっけからギュンツ、ミンデル、リス、ウルムである。いわゆる四大氷期の名称だがここにそれぞれの特性が付与される。世界史の教科書をみんな必死になってめくるが、良くて欄外にわずかばかり注釈があるという程度で、そもそも読まれる固有名詞からしてどこにも書いていないというパターンが多い。アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスにアリストファネスという辺りならば、さすがにへっぽこ教科書にも名前が出てくるが、更にそれぞれの代表作と作風を連呼してくるわけだから頭の配線の複雑化も追いつかなくなっていく。それもギリシャならギリシャ、ローマならローマと限定してくれればいいのだが、包括的に世界中のあらゆる部分を押さえるというのが高校の世界史のコンセプトであり、そこにはそれぞれの領域にあまり深入りせず、ざっとひととおりさらっておけばよいという暗黙の了解があるものだが、このじいさん先生、芝松さんにそのような暗黙だの沈黙だのの了解やお約束などこれっぽっちも通用しなかった。とにかく先生は僕ら生徒たちに濃く、深く、そして泣きたいくらい幅広く、世界各国の歴史を叩き込んだのである。それも、日本の世界史に於いて主要と目される西洋史のウェイトをある程度抑え、中国、インド、ペルシャをはじめとする中近東といった東洋史に対してフルパワーで、だ。何せ、僕はその後大学とやらという場所に進んだが、そこで受けた教養分野程度の歴史であれば、実は芝松先生の授業と同じといっていい水準だったし、ものによっては芝松史学のほうがマニアックだった。
 おそらく世界史を選択する全国の高校生たちは、「すいへいりーべーぼくのふね」と同じノリで、戦国の七雄を趙・魏・韓・燕・斉・楚・秦、「ちょーぎかんえんせいそしん」と覚えていったろうけれど、西域四郡酒泉・張掖・武威・敦煌についてはどうだったろうか。或いは張騫の立ち寄った国の順番、そのルート、或いは玄奘三蔵の学んだ唯識の講義、これらをざっとではなくて、濃密にこと細かく教えていく。下手をすれば出典が出てくる。勿論授業は余興ありおまけありだから、内容の密度が突出しているといっても教え方は懇切丁寧からは程遠く、一回しゃべれば後は知らん振りだった。
 僕らはその年頃もあって、なかなか狡知な、今にして思えばしゃくに障る小僧小娘たちばかりだったように思うから、このじいさんこれだけ授業を小難しくやっても、どうせ試験はここまでレベルを高くしない、平易なスタイルでやってくるだろうと、ある種たかをくくっていた。高二の頃であったとはいえ、既に受験勉強に血眼になっている人間は少なからずいた。僕や、僕の仲間たちは、三年になっても全くのんびりし続けていたものだったが、そうでない人間の方がずっと多かったし、元田さんが笑いながらたずねてきたおりこうさん学校というのは、我が身に省みればタチの悪い冗談だったが、周囲にすれば的外れというわけでもなかったのかもしれない。そしてそういう集団にあっては、センター試験の主要科目でもなく、二次試験に至っては出題科目として選択されていることさえ稀有である世界史なんていうものを重視する気分にはなれず、精々内申の評点で他の足を引っ張らないように試験で無難な点数を稼いでおけばいいというのが本音だったのだろう。それより英語、それより数学と、ほとんどの人間が小難しく小うるさい世界史の授業を聞き流して、教科書だけを復習して試験に臨んだ。
 一学期中間試験、世界史の時間。教室の中が凍りついた。芝松先生は、授業を難解にする代わりに救済措置として試験は甘く作ってやろうなどと考える、殊勝で心優しい感性など、アリやミジンコほども持ち合わせない鉄の人だった。
 答案用紙とにらめっこしながら、声に出さず、僕は笑った。ああ、ギュンツ・ミンデル・リス・ウルム、出てきてるよ……。
 実を言えば、僕はこの先生が最初の一発目から好きだった。ああこの人はホンモノだと一発目から思い知らされた。ホンモノ、それが一体なんであるか僕にはわからなかったし、今でも良くわからない。だけれども、高校に入って出くわした教師たちの言う、社会に出たらこんなもんじゃないんだ、こんな風に甘えては生きられないんだというお決まりの言葉には、何の感銘も受けなかったし、それ以上にその言葉は嘘だと強く思った。社会というものが甘くないというのは嘘だ、ということじゃない。教師たちがそれを言うこと、教師たちがそれを知っているということが嘘だとたまらなく思った。試験の成績や内申の評価のアップダウンの狭間で生きている人間が、一体世の中の何を知っているというのだろうか。いい成績を収め、いい大学に入る、そのことが、一体どれだけ人間の幸せに直結しているのだろうか。いや、そもそも、それは自分の幸せのために行うことなのだろうか。彼らはそれを語らない。彼らはそのことを考えない。ただ盲目的に、その道のみが唯一のお前たちの生きる道だと強いてきた。そのことに対して、内心で、具体的な言葉を結ぶことなくただ色のない憤懣として、僕は抱え込んでいた。
 甘いということがよろしくないのならば、甘いということをやらなければいい。ただそれだけの話なのだ。そして甘くないとは厳しい校則や規律を持ち出すことでもなく、これでもかとばかりに勉強することを強いることでもない。
「わからなければ寝ていればいい。寝言だけは言うな。うるさいから」
 芝松先生は、ただそれだけであった。後はやりたい放題に教えたいことを教えた。後はお前らが決めろというスタンスだった。学びたいやつは学べばいい。見向きもしたくないやつはそっぽでも向いてろ。おざなりに、程々にやってそこそこの点数を稼いでやろうという器用な狙いのやつは、そうすればいい。ただし、やれるものならやってみろ。
 そういう横柄な、倣岸な、八方破れの態度を示されると、僕というひねくれた人間は俄然ファイトを燃やす。面白い、やってやろうじゃないかとついつい利益度外視の、不毛な情熱を傾けてしまう。僕にとって生涯でこれほど真面目に勉強しようと思った瞬間はない。ノートは取った。だけでなく、家に帰って清書した。それでも追いつかなかった。別のクラスの友人に頼んで、そこでのノートも借りた。自分と他人のノートを照合してノートを清書するのだ。大体、恐ろしいマシンガントークであるから、完全な書写などテープでも使わなければ不可能だったから、この方法でも完全からは遠かった。だからひところレコーダーを購入しようか、真剣に悩んだことがあった。
 言うまでもないが、このパフォーマンスは世界史ひとつに情熱を傾けたからこそやれたわけだった。つまりは他の教科は常からしておざなりであったが常にもましておざなりになった。
 だから、高校最初の試験は、ほとんどの科目で苦しい戦いを繰り返したが、答案が戻ってきた後でそのことはきれいさっぱり忘れた。世界史はそういうわけにいかなかった。楽しくて楽しくて仕方がなかった。マニアックな設問を前にして、堪能しながら回答を記述していくことが実に楽しかった。十分に手ごたえを感じることに満足した。
 最初の試験が採点され、芝松先生はまず平均点を発表した。四十点そこそこだった。教室の中が凍りついた。ひとりひとり名前を呼ばれ返される都度、絶句か悲鳴が続いた。
 僕の番が来た。僕は多分、不敵に笑っていた。芝松先生はそれを見て苦虫を噛み潰した表情ながら苦く笑っているようにも思えた。答案には点数が、九十七と記入されていた。芝松先生は皺だらけの顔の中の鋭い眼光でもう一度僕をにらむと、あごをしゃくって早く自分の席に戻れと促した。立ち去りながら僕は答案のマルとバツに急いで眼をやった。達成感はあったが正直点数にあまり興味はわかなかった。むしろどこが間違っていたか、それを即刻知りたかった。マルが並んでいた。手ごたえのとおりだった。サンカクがひとつだけあった。中に三点と記入されていた。記述式の問題だった。そこを限定されてこの点数に落ち着いたようだった。横には赤ペンで文字が記入されていた。芝松先生の字のようだった。
「お前の言いたいことは、うまく説明がなされていない」
 笑ってしまった。よもや世界史ではなくて国語の文法やら作文の領域で減点されるとは思わなかった。僕はこのコメントを書く芝松先生の表情を思わず想像してしまった。生意気な、こしゃくな小僧だと思われただろう。それは楽しい想像だった。
 この事件があってから、僕と芝松先生の間に微笑ましい師弟の交流が生じた、わけではなかった。この老先生に個人的に声をかけられたことは一度としてなかったし、こちらも押しかけていって教えを請うようなかわいげはなかった。似ているというと、老翁と十六七の小僧とがそうであるというのは突飛に過ぎるが、どうも先生と僕は他人に対する可愛げのなさという一点でどうにも平仄が合っている部分が存在していたように思う。だからといって繰り返すがそういうなかよしこよしの関係は御免であった。ただ尊敬しているかと問われれば、間髪をいれずにそうだと返答しただろう。またあちらも、殊更に僕に親しみを示したことなどはなかったが、授業で何度か僕をかけて様々な事象の説明を求め、僕がしどろもどろにそれを口にすると、僕の眼には満足に映る薄笑みを浮かべてうなずいた後、「お前の説明はわからない」と答えたことが何度かあった。
 世界史の授業は僕にとっては先生との対決という意味合いがあった。もっとも、対決というのもばかばかしい。あらゆる物を知っている人間に対して、あらゆる物を知らず、先生から掠め取ったことを記述していく側が立ち向かうのである。これは勝負でもなんでもない。ただし、掠め取ることさえどことなく拒絶しているような、或いは拒絶でないにせよ手を差し伸べることは一切しないのは全く確実であるような、そういう先生に食らいついていくというのは、僕にとっては紛れもなく勝負だった。
 だから、
「ねえねえ峰村君、あのさあ、芝松ってムカつかない?」
 と尋ねられると、夢から揺り起こされたような気になった。




 芝松先生は、試験の答案を返した授業で、試験内容の解説をわざわざやるような親切心を、おそらく嫌っていたんだろうと思う。そんなものは、それが必要だと思う人間だけがやればいいということだったんだろうか。大方引きつった顔ばかりの生徒の顔色などお構いなしに、次の時代の次の歴史を語り始めた。
 そのくせこの先生は、全員に模範解答例と詳細な解説の載ったプリントを配った。それはどう見ても単なる一試験の解説にとどまるものではなくて、ほとんど大学の講義で使用されるレジュメに等しかった。模範解答例だけを読んでも勉強になるものだった。渡された方は気づかないものだが、そういうものを作成するには時間と気力が必要なものだ。だから、今にして思えば芝松先生はやる気のない教師からは程遠かっただろうし、傲岸不遜や天邪鬼であっても教えるということを断念してしまっているのとは全く違っていたんだろうと思う。
 生徒のために、わかりやすく、上手に教える。そんな模範的教師からすれば、理解しがたい姿であり、子供をいじめて喜んでいる偏屈のじじいという風に見えたかもしれない。だけれども、僕はそうではないと思った。生徒のためにわかりやすく上手に教えてくれるというのは、何を教えてくれるのだろうか。それは大学受験でいい点数を取るための教えではないか。
「氷河期が終わりを迎え、とにかく暖かくなってくると、ああそうだ、諸君ははじめ人間ギャートルズを知っておるか? あの輪切りの肉、そう、あれだ。当時の人類がああいう風にマンモスなんぞの肉を食えたかどうかはともかく、氷河期は世界中に分布していたマンモスやらが段々暖かくなっていくと、連中は寒いところにしか暮らせないから北へ北へと向かっていく。そうなっていくと次第に暖かくなっていく土地には獲物が乏しくなる。だから人類も、強いやつ、体の頑健なの、足腰の強いのは、獲物を追って共に寒いところに向かった。弱いのは残った。残らざるを得なかった。強いのに置き去りにされたし、無理に連れて行かれてもおそらく生きてはいけなかった。さて、ところがだ、諸君。暖かいところの人類は、彼ら強い集団に置き去りにされ、飢え死にして死滅してしまっただろうか。違うな。そうではない。文明の大半は比較的温暖な地方から発生している。置き去りにされた人類はどうにか生き延びるために、この時代生き延びるということはつまりは食料を確保するということだが、そのために、或いは農業を、或いは牧畜を考え出し、それらをひとりで行うことはできないから、そのための社会というシステムを作り出した。何百年、何千年とかけ、彼ら弱い者の子孫は巨大な文明を作り上げ、その領域を拡大させ、繁栄を迎えたのである。
 一方、獲物を追いかけ北に向かった強い連中は、獲物にありつくことはできた。だが獲物を追いかけ何百年、何千年としているうちに、弱い連中の文明がいつの間にか生い茂ってきた。ここに至って、強いのと弱いのの勢力は全く逆転してしまったわけである。かつて弱い者は強くなり、かつて強かった者は弱くなった。
 しかし弱くなった強い方もそのままではなかった。彼らは寒冷の土地に住むため、温暖な土地のような定住する農業は多くを望めない。そのため彼らは或るシステムを生み出した。それが遊牧である。かくして歴史は、或る程度文明が進行すると、農耕民族と遊牧民族の抗争という局面を迎える。西のフン族、東の匈奴といった連中は、それぞれローマや漢といった農耕民族の大帝国を圧迫し続けたし、それから千年以上経過した時代に至ってはチンギス・ハン、蒼き狼と白き牝鹿の子孫がユーラシア大陸を席捲、毛唐の住む東欧まで攻め込んで東西に渡る空前絶後の大帝国を築き上げたわけである。
 かくして強弱はまた逆転したわけだが、この遊牧民族国家もやがて四分五裂しそれぞれ農耕民族の国家に取って代わられるわけで、またも強弱は再逆転する。歴史上における強者と弱者の関係などはかくの如しであって、今強いこと、今弱いことが、未来永劫そうであり続けるという保証はどこにも存在していないことを、何より歴史が証明しておる。
 諸君らの中にも、今強いやつもおれば、おそらく今弱いやつもおるだろう。私は強いやつには興味がないし、弱いやつには更に興味がない。そんなことは勝手にちーたかやっておればよろしい。よろしいが、強と弱が永続することはありえない、ということだけは私は今ここで述べておく。勿論いついかなる時代のいついかなる場所に於いても、弱者は常に生き延びることに必死であった。その必死さが積み重なって、いつしか強者になったのである。……いうまでもないが、その過程に於いて、滅んだ弱者も無数あったろう。歴史に名を残す滅んだ弱者も無数であり、そうでないものはより多いはずだ。弱者であっても、必死でがんばれば必ず報われる、などという甘いことを私は言わない。世の中そんなに甘くない。甘くないが、それは強者にとっても甘くはないということでもある。それもまた真理ならば、こちらもまた真理なのである。以上」
 芝松先生は、手加減ということをしない。子供にも全く自分の考えていることをストレートにぶつける。芝松先生は毒だ。だけれども、毒を上手に隠して都合よく、撫で転ばすようにさするように、真綿にくるんで教えるというのは、幼稚園か、小学校の授業だろう。一人前の人間を育てるためには、毒だろうとなんだろうと、ありのままをありのままにぶつけるしか術はないと、先生は思っていたのだろうか。或いはそんなご都合主義の考え方を鼻で笑うだろうか。
 そんな先生がムカつくというのは、真綿でくるんでほしいということだったのだろうか。
「ありえねーよ。こんな点数。つうか、テスト難しすぎ。できっこないじゃん、こんなの」
「宮崎センセの世界史のクラスと平均点違いすぎだよ」
「親に見せらんねえ」
「アタシたち内申どうなんのよ、これ。これじゃあ」
「平均四十ちょいだったら、クラス三分の一くらいは赤点ってことか」
「ドジった。世界史じゃなくて日本史選択にすればよかった」
「もう、やめやめ。オレもう世界史捨てた。来年のセンターは倫政か地理で勝負する。授業中は内職決定」
「それにしても、あのジジイ、ホントムカつく。殺してえ」
 授業が終わって先生が戻ると、教室の中は大騒ぎになった。暴動のようなものだった。生涯がかかっているからだ。生涯、なるほど。
「ねえ峰村君、ヒドイでしょ。ヒドイよね。ヒドイと思わない? ムチャクチャだよ。こんなのもうひどすぎるよ。ホラ見てよ、麗奈泣いてるでしょ。テストで五十点なんて生まれてはじめて取ったって」
 大柄で、僕と背丈が同じくらいで、くせっ毛をショートヘアでまとめている桐原朋美がいかにも憤懣やるかたないという表情で、僕と長居麗奈を見比べながら話しかけてきた。桐原に促されて僕は長居麗奈のほうを見た。確かに桐原の言うとおり、長居麗奈は目の淵を赤くしていた。彼女のことはよく覚えている。おとなしくてろくに話したことはなかったし、クラスの男子も大方似たようなものだったが、大きな目と長い睫毛が人目を引く古風な印象を受ける女の子だった。親はなんとかという会社の役員だそうで、放課後はフルートとピアノのレッスンに追われていて、仰々しい表現だがお嬢様という境遇に生れ落ちたお人であったかもしれない。男どもは長居麗奈の可愛らしさを十分に認めつつも、その雰囲気に辟易して遠巻きに眺めているというのが関の山だった。結局男にしたって、手の届かない憧れの女というものよりも、気軽に騒げて気軽に遊べる女のほうが一緒にいて気楽でいいのだし、年をとってもそうなのだからガキの頃は尚更だ。
 大人しい感じだったから同じクラスの女どもと一緒になって騒いでいるところなど見たこともなかったし、女どもだってそういう彼女に対して、嫌うわけでもなく接触を避けるわけでもなかったが、べたべたするのは気苦労だったのだろう。だから長居麗奈の友人は限られているように傍目からは見えた。ボーイッシュな桐原朋美はその限られた友人の一人のようで、自分は長居麗奈の第一の親友であることを自認している様子を、常に見せ付けられているような感触を覚えたものだった。
 その桐原は、やはり長居麗奈に対する義憤を殊更とさえ思えるほどにたぎらせ、自分の試験の惨状などはほったらかしで、長居麗奈のためにという忠臣の面相に激怒と悲痛とを並べていた。
「許せない。麗奈みたいな子を泣かすなんて。どうすんのよ、あのジジイ。麗奈の進路、これでむちゃくちゃになったら。どうすんのよ。もうアタシ、絶対許せない。担任に、ううん、お母さんに、親に言って学校に抗議してもらう。あんなわけのわかんない授業されて、成績がこれでじゃ、もう全部台無しだよ」
 桐原の運動が成功したのか、それとも違うか、その辺りの機微はわからなかった。だが、惨憺たる結果に終わった芝松先生の世界史クラスの試験結果には、後で二十点程度の下駄をはかせるという特例の措置が成された。そのことを伝えたのは芝松先生ではなくて、僕らの担任の嶋岡だった。嶋岡ののんきそうな、或いはのんきさを装った声から伝えられた調整措置に、クラスの大半が安堵の声を上げたが、僕はこのことを芝松先生が直接伝えないということに、先生の腹の中でどういう思いや考えがあるのか、あれこれ想像せずにはいられなかった。
 しかしその後、少なくとも外見上は芝松先生の態度は微塵も変化しなかった。背筋は相変わらずしゃんとしていたし、声の勢いは平素であっても朗々、罵声に至ってはこちらのほうが飛び上がらんばかりの勢いにいささかの減退も生じなかった。
 毅然としている。悪く言えば、かわいげなんてこれっぽっちもない。
 クラスの敵意が、次第に芝松先生にそそがれるようになっていった。
 きっと先生もそれには気づいていただろう。若い僕らの眼光や表情はあまりに露骨であったし、若い僕らの判断基準は青臭いほどに好悪の感情に左右されてばかりいた。それでも先生は変わらなかった。僕らや僕らの後ろにいる親などというアタマのおかしい存在に対する媚やへつらいは全く湧き出てこなかったし、その逆に、僕らの生理的な反発心を押さえ込もうと改めて用意した威圧なり嫌悪感なりも存在してはいなかった。先生はちっとも変わらなかった。相変わらず、しゃべり、脱線し、気分がよければ歌ったし、歴史の中の無数の賢愚美醜を事細かに語っては、言外の示唆を物言わず雄弁に語り、また時としてそれに対する饒舌さえ押さえ、にじみ出るように僕らに訴えかけてきた。であればこその濃密な授業の内容、濃密な歴史、濃密な試験であった。先生は首尾一貫していた。受験のためだとか将来のためだとかにあわせて自分のスタイルを変えるつもりは毛頭ないようだった。だから、受験のためという自分では首尾一貫だと思い込んでいるあやふやさに支配され、他の教師たちに扇動されている僕らにすれば、芝松先生の情熱とかたくなさは悪徳以外に他ならなかった。
 その中で真面目に先生の授業を受けることは、少々心苦しいものだった。
 

 僕は熱血ではないし正義感なんて大して持ち合わせてもいなかった。中学生日記の登場人物でもなかったから、先生に対してそういう態度はよそうとか、真面目に授業を受けようとか、ちょっとまあお前ら落ち着けとか、そういうつまらないシュプレヒコールをするつもりは毛頭なかった。もっと露骨に言えば、僕は僕のクラスに帰属する意思はほとんどなかったのだ。同じように考え、同じことを同じようにやる気はなかった。だから積極的に芝松先生を好意的に受け入れられるような啓蒙活動なり言動をした覚えはない。
 ただ、世界史にだけ熱心な僕の姿を奇異に捉える彼らの視線は億劫だった。やがてそれが奇異から、より鋭いものにゆっくりと変質していくことを、なんとなしに僕は感じていた。クラスの連中にしてみたら、芝松先生に対する憤懣だとか憎悪だとかをクラスで団結して意思統一したかったのだろう。僕にはそんなつもりは毛頭なかった。彼らが先生を嫌うのは仕方のないことだし、勝手にやればいいだけのことだと思った。ただ自分がそれに巻き込まれるのはごめんだった。僕は相変わらずだった。熱心にノートは取ったし、照合や清書も続けていた。クラスの中には僕の奇特さを半ばからかうために、試験対策と称して僕のノートを借りていく人間もいたが、大抵苦笑してすぐに返しに来た。そもそも僕のノートは試験対策虎の巻、対芝松スペシャルという要領のいいものではなかった。まとめではないのだ。先生の授業の聞き漏らし、覚え漏らしがないように作ってあるものなのだから。僕のノートを使った復習は、世界史の復習ではなくて芝松授業の復習であるから、芝松先生を嫌悪している人間にとっては、最悪の時間の二段重ねだったわけだ。
 やがて、そんな人間もいなくなった。一学期期末、二学期中間、相変わらずの芝松先生、じりじりと不穏な空気ばかりが募っていった。
 事は起きようとしていた。
 ボイコット。
「ボイコット?」
 僕はつぶやいた。それは僕の耳にはどこかからのささやき声で伝わってきた。
 数日前から、何かがおかしいとは思っていた。クラスのそこかしこでひそひそという声が交えられていて、クラスの大方が何かに暗く盛り上がっていることだけはわかった。
 一度、例の長居麗奈のシンパのボーイッシュな桐原が僕のほうを露骨に見やって、あの人はダメだと、小声にしては抑えきれない声色で何人かと話していたのが聞こえ、桐原に何か悪いことでもしたかと思いはしたが、さして深刻に考えてもいなかった。誰かに嫌われたり排斥されたりする経験は何度かあったから、そのことについて多少の不快感はあっても、惑ったり悲しんだりすることは大してなかった。だから僕はボイコットの件については、おそらくそういう伝令がどこかから発し、張り巡らされたのだろう、僕は直前まで全く知らなかった。
 芝松先生の授業をボイコットして、抗議を示す。
 もっと受験に役立つ授業を、別の先生からやってもらう。
 そのことを近隣の席の人間のささやき声で察知した僕は、彼らには悪いが、反発とか、芝松先生に対する敬意だとかと関係なしに、その幼さに呆れた。桐原の態度もようやく合点がいった。なるほど、そのとおりだった。この企てに関して僕は、確かに「あの人はダメだ」なのだった。
 僕はそっと桐原の顔を見た。桐原の目は、自分が正しいと思うことをかたくなに信じる人間のものだった。その眼光は桐原の友人とされる長居麗奈に注がれていた。桐原は長居麗奈を必死になって説得していた。いい? これはアンタのためでもあるんだから。そんなことを繰り返していた。桐原には悪いが滑稽だと思った。桐原が長居麗奈のためと吹聴し実践している錦の御旗は、どうやら長居麗奈にしてみれば、少なくともこの一件に関してはありがた迷惑以外の何物でもない様子だった。長居麗奈はその性格からして、あらゆる暴挙や暴発を嫌がるし、自分はそういうものに参加したくはないと本音では思っている人間のようだった。そのことはうつむき加減のそのときの彼女の表情が如実に語っていた。だけれども僕は、ある意味たかをくくってもいた。長居麗奈は積極的に賛同などはしていないが、桐原のような人間の意志を最後まで跳ね除け、自分は自分の行動を取るということはないだろうと。
 自分はどうするか。
 笑ってしまった。そもそも僕のところには、翻意を促す説得の使者など誰一人やってはこなかったのだ。
 こいつはクラスで孤立かなと思った。笑った。仕方がない。強いことも、正しいことも、悠久の時間の中でいつか必ず覆る。いつか誰かが必ず覆す。そういうことを教えてくれたのは芝松先生だ。孤立をしても、それで潰されてしまうこともあるだろうけれど、そうでないことだって先々あるかもしれないしそれは誰にもわからない。それより芝松先生の授業を受け漏らすことのほうが僕にとってははるかに重大事だったのだから。
 クラスの大方が、示し合わせて出て行こうとした。桐原が長居麗奈の袖口を引っ張った。僕は座ったままだった。廊下に足音が聞こえた。休み時間はまだ残っていたのに、ひょいと担任の嶋岡がクラスに顔を出した。一瞬、クラスの連中の顔色が曇った。事が露見したと咄嗟に思ったのだろうか。誰かがボイコットのことをチクったとでも考えたのだろうか。そのとき、僕にいくらか疑惑の視線が集まっていたのだろうか。
 嶋岡は、休み時間に悪いけど、みんな、ちょっと聞いてくれと、教室に入って教壇に立って、相変わらずののんびりとした口調で僕らに話しかけた。
「突然のことなんだが、世界史の芝松先生が、またどうも病気がぶり返したらしくて、これからすぐ入院なんだそうだ。とりあえず次の時間については自習してもらう。今後については、宮崎先生か佐々木先生にスクランブル登板してもらうしかないわなあ。うん、つまりはな、ちっと芝松先生、長引きそうなんだわ。みんなも大変だろうけど、まあ体調不良で芝松さんも苦しい思いをしているわけだから、そこの辺り、悪いけど汲んでやってください。というわけで次の時間自習ね」
 クラスから、歓声が上がった。誰も彼も喜んでいた。桐原を見た。桐原はガッツポーズをしていた。
 担任の嶋岡は、歓声に一瞬だけ険しい表情を見せた。だが次には、普段の穏やかな顔つきに戻って、明らかに落ち着きを失ってしまっている僕らに語りかけた。
「おいおい、……自習になったからって、そんなに喜ぶことはないじゃないか。もうすぐ授業も始まる。静かにしなさい」
 その日の放課後、僕はそっと嶋岡のところに行った。芝松先生の具合が知りたかったからだ。嶋岡はうなずいて、ぽんぽんと何度か僕の肩を叩いた。
「芝松さんもなあ、不摂生だったから。入院して、このまま退職かもしれないな。六十過ぎてるし、公立高校だったらとっくに隠居だ。まあお前は残念だろうけどさ、でも仕方がないよ。こればっかりはさ」
 僕は尋ねた。病気って、治ってなかったんですか?
「だましだましだったんだろうなあ」
「……どうしてあのじいさん、さっさとリタイアしてのんきに暮らさずに、仕事続けていたんですかね。いや、こっちにすれば先生が授業してくれたことは本当にラッキーでしたけど」
 嶋岡は、僕から視線をそらして、窓辺を満たす夕焼けの紅さを見やった。
「芝松さんなあ。多分な、意地だったんだわなあ」
「意地?」
「昔なあ、しょうもない派閥争いがあってなあ。こんなバカ学校だってのに一丁前になあ。芝松さん、あんな性格だろ」
「……負けちゃったんですか」
「けちょんけちょんになあ。でもあのじいさん、負けず嫌いだろ。さっさと辞めたら、自分が負けを認めたことになるからって、嫌がらせされても病気になっても、歯食いしばってたんだろうなあ」
 嶋岡に、ボイコットのことを話そうかと思った。そういう企てがあったことを伝えようかと思った。それは意味を成さなくなった。どうやら事態は大方の望みどおりに、殊更に何もせずとも推移していくことになりそうだった。だから嶋岡に尋ねてみたくなった。もしそういうことが起きたら、芝松先生はどういう風に思ったろうかと。だけれども聞くには踏ん切りがつかなかった。自分でも、どうにも下種の勘繰りのように思えてなからなかった。まごつく僕の表情を嶋岡が見つけ、豪快に笑って力強く僕の背中をぽんと叩いた。一瞬だけむせ返った。
「峰村、面白いじいさんだったろう」
 僕は、一瞬だけ言葉を失って、やがてうなずいた。
「本当にいい勉強になりました」





 ……。
 ……。
 ビールの泡はグラスにこびりつき、ゆっくりとその姿を消そうとしている。
 我に返って、慌ててグラスを取った。口に含むと、どことなく温い感触がした。
 隣の席の元田さんは、相変わらず煙草をふかしていた。灰皿に吸殻が何本か増えていた。
 相変わらず、今の理事長の演説が続いていた。どうやら幹事やらこの宴会の世話役やらのみ、義務感で聞き続けてはいたが、大勢は僕のように呆けていたか、しらけていたかのようだった。やれやれ、僕にすればこれでは往時と全く逆のポジションじゃないか。何年か前、鬼籍に入ったことを伝え聞いた芝松先生の場所には、熱血受験仕掛人の現在の理事長が立ち、かつての悪童たちの我が職場の面々は、そろそろこっそりボイコットの計画でもささやくべきだろうか。
「移転するんだとさ、今度」
 元田さんがつまらなさそうにつぶやいた。
「これまでの校舎も売却するんだと」
「どこかに再利用されるんですかね?」
「あのボロ校舎をか? ムリだろうさ。ぶっ壊して更地にして、マンションでも建てるんじゃないか。一応川原沿いのウォーターフロントでございってことになる」
「思い出の地は露と消えうせ、難波のことも夢のまた夢でござんすかね。まあここは難波じゃないですが。でもまあ、これでいいんですよね。今の母校はおりこうさん学校ですから、ウチらにしてみたら居心地が悪いってもんですよ」
「違いない。まあ、もう一杯いけさ」
「いただきます」
 元田さんがついでくれたビールを、一息で半分ぐらい飲み干し、その後で僕は尋ねた。
「元田さん、ウチのバカ学校に、昔派閥抗争があったなんていう話って聞いたことあります?」
 ひょいと元田さんは視線を上げて僕を見た。
「初耳だね。でもま、意外というほど意外でもないわな」
「そりゃまたどうして」
「人間の集団なんざその程度ってことよ。そういう小市民どもが偉そうな顔つきでものを教えるのは滑稽だとは思うが、まあそれが人間の集団の関の山ってことだろうさ。チンケであっても、そんなもんよ」
「全くそのとおりですよねえ」
 あの後僕は、別人にすりかわった世界史の授業を適度にこなし、進学して就職するのに右往左往しはしたが、とりあえず落ち着いて現在に至る。
 高校の友人とは未だに悪さを続けているが、その中に、あのクラスで一緒だった人間はひとりもいない。
 大学時代の帰省時期に何度か、実家に桐原朋美から電話がかかってきた。不思議とその都度僕は留守をしていて、親が電話を取った。親は対人関係に古風な考えを持つ人間だから、せっかく電話をくれた人にかけなおさなくていいのかとしつこく聞いてきたが、億劫だったので返事もせずにいた。彼女とはあの以前もさほどに親しくなかったし、あの時も別段腹が立ったわけでもなかったし、あの後も親しくはならなかったが冷淡になったわけでもなかった。師匠の仇討ちとか、そんな殊勝さは、芝松さんが殊勝とは縁遠かったように、僕もどうやら程遠いようで、だから桐原朋美に対する嫌悪感があるわけではない。ただ、その辺りも含めて、自分の心境を彼女に説明し、或いは理解を求めるということは、億劫だなと思った。というより、しゃべったところで無駄だろうなという断念の計算があらかじめ答えをはじき出してしまっていたというところだったろう。かくして、なるべくしてというか、彼女とは立派に音信不通だ。
 芝松先生の授業を受けて、あれだけ夢中になって書き記した例のノートは、実家に未だに大切に保管してあって、何年に一度くらいだろうか、疲れたときに引っ張り出して読んでみる。高校在学中はちっとも興味はなかったが、年を取ったせいか、小うるさくへぼいはやりの音楽を押しのけて、時々CDの中にカンツォーネなんぞを混ぜるようになっている。
 やわらかい光の窓辺にたたずみ、朗々と歌う芝松先生の姿が蘇ってくる。



Che bella cosa 'na iurnata' e sole,
n'aria serena doppo 'na tempesta!
Pe' l'aria fresca pare gia 'na festa
Che bella cosa 'na iurnata' e sole.
Ma n'atu sole chiu bello, ohine,
'O sole mio sta n'fronte a te,
'O sole, 'o sole mio sta n'fronte a te,
sta n'fronte a te



麗しの日は射しきぬ
嵐止みて青き空に
さわやけくそよ風吹き
光豊かに射しきぬ
いとしの日懐かし
恵みの日その影
ああ 日の影よ
懐かし永遠の日

'o sole mio
E.di Capus/川路 柳虹


<了>
2007/02/13(Tue)20:34:02 公開 / タカハシジュン
■この作品の著作権はタカハシジュンさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 歌曲のCDはカタログ程度に考えたほうがいいというのはけだし名言で、実際にしかるべき場所で生声を聴くと本当に身震いするほど感動するものです。作中'o sole mioは、わたしゃサッバティーニ氏のコンサートで二度、しかもアンコールのしめの曲として聴きましたが、手のひらクラッシュするくらい叩きまくってスタンディングでブラボーでござんした。
 やっぱ生音。しかし、歌曲のCDがカタログなら、小説ってなんだろ。読んで狂って拍手なんて、恐怖するくらい困難な道だしなあ。
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