- 『暗い森の獣』 作者:カルデラ・S・一徹 / ショート*2 未分類
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全角3550文字
容量7100 bytes
原稿用紙約12枚
男は人間が嫌いだった。
「人間には牙もなく爪もなく翼もなく毒もなく、強者の助けを待ち、彼に寄生する劣悪で最弱な生命体だ」
男は人間をやめたいと思った。
強く獣になりたいと願った。
果たしてその願いは聞き届けられ、彼は狼になった。
狼は野山を駆けていく。
群がる草食動物を食い漁り、人が立ち入ることを拒み続ける秘境の森を一気に抜けて、高台に立ち、白い光に照らされる世界を一望す。
月下、彼の体躯は銀に燃え、双眸はぎらりと黄金を抱く。
強い、俺は強い、これこそ、これこそが、俺が望んだ唯一のもの。
狼は哄笑し、月に吼えた。
ある日、狼は森の中に一人の少女を発見する。
初め、狼は、少女は森で迷っているのだろうと思った。
ところがどうやらそうではないらしい。なぜなら、少女の歩く様子に、まったく迷いというものがなかったからだ。森の奥へ奥へと、弱々しい足取りで、けれど躊躇いなく進んでいく。どちらにせよ狼には関係の無いことで、ちょうど腹をすかしていることだし、喰ってしまおうと少女に近付いた。
少女は何か呟いている。狼に人の言葉が分かるはずもない。ただ、狼は、少女が何を口にしているか気になった。そして狼は、狼のくせに、人の言葉を理解したいと思った。すると狼は、人間の言葉が分かると同時に、棄てたはずの人間としての思考を再び得てしまった。狼は後悔したが、すでに遅い。狼は少女の言葉を聞いた。
「……ごめんなさい、生まれてきて、ごめんなさい……」
狼は喰らおうとした。
けれど、喰らうことは出来なかった。
喰らうのならば、少女がどうして生まれてきたことを後悔しているか知らなければいけないと思った。
知るには訊く必要があって、そのためには、喋る必要がある。
なので、狼は人の言葉が喋れるようになった。
同時に、狼は四足歩行を失って、後ろ足で立たねばならなくなった。
狼は人狼となった。
人狼は少女に尋ねる。
「人間、先ほどから、一体何を謝っている」
「……ごめんなさい、生まれてきて、ごめんなさい……」
少女は答えない。答える気力がない。目はうつろで、心臓は今にも止まりそう。何も飲んでいないし、何も食べていないのだろう。
人狼は少女のために、水と果物を用意した。
果物は飲み込めなかったが、水を得た少女は、すとんと意識を失い、眠った。
少女は三日間眠り続け、ついに目を覚ました。
きっと少女は自分の姿を見て、恐れるだろうと思っていたが、そんなことはなく、じっと人狼を見つめ、あなたはだれ? と尋ねてきた。
「俺に名などない。俺は狼だ、俺は獣だ。貴様こそ、名をなんという」
少女は答えない。
じっと人狼の目を覗き、無言で先ほどの問いの答えを待つ。
「分かった、分かったから、そんなに見つめてくるな。俺はな、俺は…………」
「……わからないの? あなた、じぶんのおなまえがわからないの?」
「……どうやらそうらしい」
「じゃあわたしもわからないわ」
そうか、と人狼は答えた。悪くないと思った。
少女は人狼と暮らすことにした。
帰ろうにも記憶がないという。
きっと名前を棄てたから、本当に記憶がなくなってしまっているんだろうと思った。
事実、人狼にも記憶がない。
人から狼になって今まで、記憶は地続きだと思っていた。
だが、いざ思い出そうとすると、境界のところで、ふつと途絶えてしまっている。
人狼はあるとき、少女に、人間なのか獣なのか尋ねたことがあった。
「わたしはにんげんよ。みればわかるじゃない。どうしてそんなこときくの?」
人狼は、いや、訊きたくなっただけだと返した。他意などあるはずもない。
ただ少し、自分が狼であることが憎らしくなった。
そんな気持ちも、少女が成長するにつれ、なくなっていった。
なくなると同時に、人狼は二足歩行をやめ、四足歩行の狼に戻った。
そしてその日がやってきた。
「私ね、森を出ようと思うの」
「…………」
うすうすは感じていた。
少女が人間であるといったあの日に、なんとなく感じていた。
きっと森から出て行くだろう、狼の自分とは、一緒にいられないだろうと。
だから狼は狼であることに腹が立ち、同時に、決して自分が人間に戻れないだろうことを確信し、諦め、人の言葉を喋らない狼に戻ろうと思ったのだった。
狼は止めない。
止めるはずがない。
何故なら、彼は狼だから。
「それでね、世界を見て、疲れたら、戻ってこようと思う」
森を出るそのときの少女――女性となった少女の言葉に、狼はぐるると喉を鳴らした。悪くないと思った。
少女は何年かに一度、森に帰ってきた。
そして狼に、人間の世界のことを話した。
狼はまったく興味がなかったが、少女の話を聞いているだけで、落ち着いた。
あるとき、老いて少女とはいえなくなった少女が、一人の少年を連れてきた。
その子は少女の子供ではなく、孤児だったのを拾ったのだという。
そんな子供を連れて来て、一体何をするつもりだろうと狼は訝しく思ったが、なんのことはない、つれて歩くのに邪魔だから、森においていったのだ。
「っざっけんなよあの女ッ!」
思わず狼も人狼に戻ってしまうほどだった。
とにかく、人狼はかつての子育ての経験を買われ、少年を育てることになったのだ。
人狼と少年は、仲が良いということはなかったが、悪くも無かった。
少年は初め狼に不信感を抱いていたが、人狼が思ったよりも理知的で、物知りで、夜中に尿意をもよおし目が覚めたとき、必ず一緒に厠まで着いてきてくれるのを知り、信頼した。
人狼も人狼のほうで、めんどくさいとは思っていたが、かつての少女見たくベタベタとまとわりついてこないので、不機嫌になることは滅多になかった。くわえて、自分が狼であることが憎らしく感じることも無かった。
つまりどうでもよかったのだ。
あるとき少年は人狼に尋ねた。
「ね、あんたさ、なんで人間やめたの?」
「明確な理由は憶えてない。ただ、人間が嫌いだったってことは憶えている」
少年も、なんとなく人間は嫌いだった。
何しろ自分が孤児になった理由は、人間が戦争を起こしたからだ。
少年は理知的な人狼の下、理知的な大人になっていった。
老婆が森を訪れた。
かつて少女だった老婆は、疲れた、といった。
大人になった少年に、世界は人間はそんなに悪くない、と言葉を残した。
老婆は眠ろうとして、人狼を呼んだ。
人狼はきゅっと口を閉じ、老婆を凝視している。
老婆のいまだ濁っていない眼を覗き込み、彼女が生きていることを確かに認めた。
「狼さん、私ね、思い出しました。かすかですけど、貴方と出会う前のこと」
「…………」
「訊かないんですね、狼さん」
「…………」
「でもね、きいてください、狼さん。わたしはね、貴方と出会う前の、思い出したくもない辛く冷たい時代、これはね、あってよかったと思うんですよ」
「……何故だ? 辛い記憶は、無いほうがいいだろう」
「わたしもそう思ってたんですよ、この間まで。でもね、それがあったからこそ、わたしは世界を巡ろうと思ったのだし、狼さん、貴方にも出会うことができた」
あなたにもね、と老婆は少年に言う。
「狼さん、あなたが人間をやめた理由は分からない。きっとわたしが経験した辛いことよりも、もっともっと辛いことを、あなたは味わってきたはず……そうでなければ…………人間をやめたりなんか、できない……」
「違う、そんなことはない、俺はただ、ほんとうに、人間が嫌いなだけなんだ!」
「…………」
老婆はもうなにも喋らない。
じっと空を見つめ、幾千の星を網膜に焼き付けながら、永眠した。
少年は泣いた。
理知的な大人に育った少年は、静かに、杯のふちから水がこぼれるように、泣いた。
人狼は啼いた。
吼えた。
森の木々が震えるほどに、足元の草むらが薙ぐほどに、強く強く強く啼いた。
喉が潰れるまで啼こうと思った。
涙を流さない人狼に出来る悲しみ方は、それぐらいしかないと思った。
だが、いつになっても、喉は潰れない。
潰れるはずがない。
彼は、か弱い人間でないのだから。
苦しい、辛い、なきたい、泣きたい。この苦しみを消化したい。
だがそれは、記憶を編集できる人間にしかできない。
やめだ、狼であることは、やめだ。
人間に戻ろう。
人間に戻ろう。
人間に戻ろう。
かつて少年だった大人は、人狼が森を出て行くのを見た。
彼はきっと人間に戻るだろう。
そして、喉が潰れるまで泣くだろう。
その上で、狼だったほうが好かったと、後悔するに違いないのだ。
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2007/02/11(Sun)23:23:00 公開 / カルデラ・S・一徹
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■作者からのメッセージ
絵本を意識して書きました。
今まで書いた中で一番、私にとって、しっくりくる話です。
オチのところなんて、ホント「誰が書いたの?」ってくらい、私にはぐっと来ます。
いいか悪いかも含め、これに目を通してくださった読者の方には、どうか意見を書いていってもらいたいです。
「思った」という文末が多いのは、まぁ、雰囲気がそれらしいので目をつぶってくださいや。