- 『雨に濡れたその刃で』 作者:螺旋の竪琴 / リアル・現代 未分類
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全角11885文字
容量23770 bytes
原稿用紙約39.65枚
鏡に映る顔を見つめてみよう。 鏡に映るその顔は笑みをこぼしているだろうか? 鏡に映るその顔は陰りがさしているだろうか? 鏡に映るその顔は涙を流しているだろうか? そしてもしかしたら、鏡に映るその顔は血に塗られているだろうか? しかし、どれにも言える事がひとつだけある。 その顔は、自分の顔であるということだ。
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ここ、環凪(かんなぎ)町ではこのところ切り裂き魔が現れる事で、ちょっとした話題になっている。
時期は六月。梅雨に入り、雨も多く、時たま霧も発生するこの時にだ。そのせいあってか、犯人は全くの目星すらついていない。顔の特徴や身長、職業。さらには男であるか、女であるかも不明であるという始末。誰一人として死んでいないのに、誰もその顔をはっきりと確認できていない。被害者の数は今月に入り三人。まだ入って間もないからより被害者がでてくると予想されている。ちなみに被害者は小学生から高校生までの範囲であるという事を除いては共通点を持っていない。ただ、それは表向きには。実際にはもう一つの共通点があるのだ。
それは被害者の全てが、いじめをしている者だという事。
ただこれは偶然の可能性が充分ある。もしこれを前提とすると、どこからがいじめでどこからがそうでないか、それが曖昧だという事。またどうして犯人は他校の生徒の事まで知っているのか。あきらかに幅が広すぎるという事。この二つの問題が浮かび上がるのだ。
ともかく、そんな中からこの物語は始まっていくのだ。
○
霧崎詠実(きりさきえいみ)は過去にいじめを受けていた経験があった。
理由は本人にもわからない。見た目が悪い、というわけではない。どちらかと言えば可愛い方だろう。ただ、最初は本当の両親がいなく、自分は養子である事をからかわれていたような気がする。それからは、気が付けばそうなっていたとしか言いようがない。
悪口や陰口なんて当然の事。時には階段から突き落とされかけた事だってあった。何度か先生に相談して、解決したかと思えば、結局またいじめられる。参加しなかった者達も、保身のために助けに行くなんて事は一度もあるはずがなかった。
彼女はずっと傷ついてばかりだった。
人の前で泣く事しかできず、怒る事や笑う事なんて一切できなかった。悲しい顔がすでに彼女の普段の顔となるほどに。
そして、気付けば彼女は一度自殺を決意した。
凶器となる小刀はすでに前から用意しておいた。もはやこの世界に未練などのこしていない。今日、学校から帰ったら決行しよう。そう思っていた。
そんな中、彼女は体の調子を悪くして保健室へと足を運ぶことになった。どうせ今日死ぬんだ。そんな重い足取りで小学校の廊下を歩き、保健室の中へと入る。
するとそこには、保健の先生と共に一人の少年がいた。詠実とはクラスが違ったが、同じ学年であるという事はなんとなくだがわかった。思わず、無意識に扉を閉めて逃げ出しそうになってしまう。
「霧崎さん。どうしたの?」
先生が問いかけるが、栄美は入れず逃げ出せず、ただ出入り口で戸惑うだけだった。
「篠原(ささはら)くん。それじゃあ、ベッドで休んでいてくれるかしら」
そんな詠実の様子に気付いてか気付かずか、先生は少年に指示を出す。彼は小さく「はい」とだけ答えてベッドへと移動する。
「それで、霧崎さん。体調が悪いの?」
「はい」
静かに答えて、とりあえず差し出された体温計にて体温を測る。別に熱があろうがなかろうが関係は無いのだが。どうせ今日死ぬのだし。
「熱はそれほどないみたいだけど……とりあえず休んでおきましょう。ベッドは使うかしら?」
「いいです」
「そう? それじゃあ、先生は職員室に用事があるから……」
言って先生は教室の外へと出て行く。
そして訪れるは沈黙。詠実にとって、この沈黙は嫌だった。同じ学年の人と二人っきり。いじめという境遇に会っている彼女にとって、これははっきり言って辛い。
「君が霧崎さん?」
ふと、さっきまでベッドで横になっていた少年が立ち上がり、詠実を見る。詠実は思わず軽く身を引いた。
「あ、ごめん」
思わず少年は謝って、ベッドに腰を下ろす。彼は軽く一息吐いてから、突然話し出す。
「俺、篠原誠一(せいいち)。よろしくな」
「?」
わけがわからなかった。一体何が言いたいのか。自分と同じ学年であるのだから、自分の事を知らないわけがない。それほど忌み嫌われているはずなのに……
彼は少し照れを見せながらも続ける。
「なんつーか、君って誰とも話したとこ見た事無いしさ……とにかく」
「同情?」
突然、誠一の言葉を遮った。言った直後、自分でも驚いていた。ただ無視をすればそれで充分だと言うのに。気付けば口が動いていた。
「それは、同情なの?」
「さあな」
肯定の「はい」でなく、否定の「いいえ」でもない。中途半端な答え。
突然、彼女の力が抜けた。「はい」と答えたら突っぱねるつもりだったし、「いいえ」と答えても嘘だと突っぱねるつもりだった。
ただ、そのどっちでもない答え。
どうやって突っぱねろと?
「ま、とりあえずよろしく」
言って彼は手を差し出した。
「汚い」などと言われ、ずっと避けられ続けた自分なのに。
それなのに……
「うん。よろしく……」
彼はよろしくと言って手を差し伸べてくれた。
結局、彼女は自殺を図る事はできなかった。
正確には、できなくなった。したくなかった。
彼に、期待を託したかった。
●
それから数年の時が経過した。
激しい雨の降りしきる夕方の町。雨が視界を悪くし、雨音が他の音を遮断する。さらには霧が立ちこめ、今ならば多くの悪行も人の目につく事はない。
その中を、ある者が疾駆する。漆黒のローブに身を包み、フードを被っているため、顔も何もわからない。男であるか、女であるかすらも。手にはどこにでもあるような小刀。だが、抜き身のそれはよく研ぎ澄まされており、触れた雨水は真っ二つに切り裂かれる。
(匂いは、この左)
狭い路地の中を左に曲がる。そこには一人の少年がいた。見たところ中学生の彼は傘を忘れたのか、鞄だけを持って必死に走っている。
(見つけた)
人間離れした脚力で飛翔。すぐに少年の前へと降り立ち、体を百八十度反転。少年の方を向く。彼に驚く間を与えずに、急接近。素早く腹部を切り裂き、切り抜ける。悲鳴をあげさせる余裕も与えない。すぐに上空へと蹴り飛ばし、殴り、蹴り、引き裂く。
「がっ!?」
地面に叩きつけられた時にうめき声を上げ、そして彼は気絶した。返り血をどれだけか浴びたが、すぐに雨が洗い落としてくれる。
初撃から僅か十二秒。それだけで、この場を立ち去る。
とどめは、ささない。殺さず、ただ苦しめるのみ。
(奴は、充分苦しんだだろうか?)
フッと、その場から姿を消した。
(これは、裁きだ)
○
雨上がりの環凪町。
いつもとたいして変わらない通学路を、詠実は歩いていた。
誠一との出会いから何年か経ち、今では二人とも高校生。二人とも、市立の環凪高校へと進学していた。
ぼうっと、雲の少ない空を見上げる。
あれから随分と彼女は変わった。まず雰囲気が少しだけだが明るくなった。笑顔も少しずつ取り戻された。何かあっても誠一がいるから、と少しは物事を明るく捕らえる事ができるようになった。そして、いじめも少しだけなくなった。いや、ひょっとしたら気にしなくなったのかもしれない。
中学校生活でもそれはあまり変わらなかった。全くいじめられなくなったというわけではないのだが。それでも、もう辛いと思う事はそんなになかった。
「よ。詠実」
そんな彼女の肩をぽんと叩きながら、誠一が彼女の隣に並ぶ。
「おはよう」
「おう」
小さく微笑み合っての挨拶。これはいつもの事。二人はいつもの通学路をいつものようにあるいていく。ふと、ある会話が耳に入った。
「そういや、また出たみたいだぞ。あの切り裂き魔」
周囲を見渡せば、他の学生も歩いている。彼らは何人かで集まって会話をしていた。聞こえてくるのは、ほとんど同じような事ばかり。
「殺ってないのに犯人の目星が一切ついてねえって、ありえねーよ」
「ったく、警察何やってんだよって感じだね」
「次の被害者はてめぇかもな」
「おいおい、冗談言うんじゃねえよ」
笑い合いながら彼らは学校へと進んでいく。
「切り裂き魔ねえ」
「……気になるの?」
ふと呟いた誠一に問いかける。まあ、気にならない方がおかしいのだが。
「まあ、一応な。最近は厳戒態勢って事らしいけど」
「不安なの?」
詠実は誠一に尋ねた。彼はこめかみをかきながらも答える。
「俺がって言うよりかは、菜津希(なつき)が大丈夫かってな」
「妹想いなんだね」
微笑みながら詠実は言った。誠一には一人の妹がいる。中学生で誠一の三つ下。篠原菜津希という。
しばらく沈黙が続く。二人はただゆっくりと歩いていき、校門の前まで出る。予鈴まではまだ時間がある。
これもまた、いつもの事。
学校にいても、ほとんどは誠一と一緒。教室の席も隣だ。そう言えば誰かに誠一が詠実に対して恋愛感情があるんじゃないのかと茶化されたことがある事を聞いた。
それを聞いた詠実はちょっとだけ恥ずかしかった。
確かに誠一は好きだけど、恋愛感情は持ち合わせていない……と思う。
親友というにはあまりにも深すぎて、ただ恋愛感情と言うと違う気がするこの誠一への思い。
自分でもよくわからない。とにかく、自分がもっとも信頼の出来るひとという事ぐらいしか言いようがなかった。そして、唯一心を開ける人。
言い方を変えれば、誠一に依存していた。
「そういや菜津希がな、最近料理の練習してるんだよ」
いつものように授業を受けた後、二人は帰路を歩いていた。
「上手だったの?」
「微妙だったな」
誠一は苦笑を浮かべて返す。夕方にさしかかったあたりの時間なのだが、雨雲がひろがっているせいでもうけっこう暗くなってきつつある。
学校から詠実の家まではおおよそ二十分ほど。もうすぐ通る十字路でいつも誠一と別れている。
「それじゃ、また明日な。いつもの駅前で」
「うん。またね」
言って誠一は十字路を右へと曲がる。詠実はこの先をまっすぐだ。赤だった信号が青に変わったのを確認して、彼女は先へと進んでいく。
彼女の足取りはいつもより三割ほど軽やかだった。
明日は休日。しかも誠一と一緒に遊びに出かける約束をしたのだ。場所は環凪ファンシーパーク。いわゆる遊園地というやつだ。ただ、地方のものなだけあって大きいわけでもないし、そこそこ古い。
ただ、そんな事はどうでもいい。誠一と一緒に行けるのだから。
気が付けば、彼と何に乗るか、彼と何を食べるか……誠一との事ばかり考えていた。もうわくわくしてたまらない。
そこで、ふと立ち止まる。
(これって、デートになる……のかな?)
今までにも誠一と遊びに出かけた事は何回もある。ただ、気付けば共に出かけていっていた。特別な意味なんて意識した事は無い。普通の子供が友達と遊んでいるような、そんな感覚だった……と思う。
よくはわからない。彼以外と遊びにでかけた経験なんて無いのだから。
あまりにも期待に胸がふくらんで、あまりにも誠一に会いたくて、思わず、詠実は二十分も早く待ち合わせ場所である駅前へと来ていた。
服は昨日の夜にタンスやクローゼットから徹底的に引っ張り出し、一時間かけてようやく決めた服だ。髪も念に念を入れてチェックして、寝癖等は一切ない。さらにちょっぴり背伸びをして化粧なんかもしてみた。しっかりと義母に変になっていないかも確かめてもらった。
さらにこの時期には珍しく、天気は快晴。まるで祝福してくれていると言わんばかりの天気だと彼女は思った。
時計の針が一秒一秒刻まれる度に、詠実の胸の鼓動は少しずつ早くなっていく。早く来てよかった、と思った。やはりもう少し落ち着きたい。
「お、やっぱりもう来てた」
行き交う多くの人混みから、一人の少年が詠実へと歩いてくる。誰なのかは、言うまでもない。篠原誠一だ。
「せ、誠一君!?」
素っ頓狂な声が思わず出てしまう。それから早業と言わんばかりに数秒で顔を真っ赤に染め上げた。それでも、混乱は止まらない。
「ど、どど、どうして!? まだ二十分もあるのに……!?」
あたふたとしている姿を見て微笑を浮かべながら誠一はその疑問に答えた。
「いや、詠実の事だからそろそろだろうって。何年友達やってると思ってるんだ?」
「あ……うん」
ちょっぴり嬉しさを感じながら詠実は答える。そうしてなんとか、徐々に冷静さを取り戻していった。
「それじゃあ、行くか」
「うん」
ここから目的地まではバスを利用する。二人は丁度駅前に到着したバスに乗り込んだ。
窓から覗く風景はいつも見慣れた町並み。早からず遅からずのスピードでバスは目的地へと進行していく。同じく乗り込んでいく人も数多い。さすが休日だけあって、中は結構混み合いそうだ。
バス内の雰囲気は妙にピリピリしていた。普段ならそれほど空気が張りつめているわけがない。やはり、切り裂き魔に対する不安に満ちているのかもしれない。バス内で現れたのならば逃げ場など無い。出てくるわけがない、と楽観視する者などあまりいなかった。
(やっぱり、切り裂き魔は怖い)
当然不安なのは詠実も同じで、やっぱり落ち着いてなんかいられない。
誠一はどうだろうか? と彼の顔を覗き込む。
彼は随分と平然な顔で窓の外をぼうっとながめていた。それどころか、その表情がどこか期待に満ちているようにも見えた。
「なあ」
ふと、誠一が話しかけてくる。
「向こうに着いたら、とことん楽しもうぜ?」
「……うん」
詠実には中途半端な返事しかできなかった。
ふと、窓の外に大きな時計塔が映る。レンガ造りの時計塔。目的地である環凪ファンシーパークのシンボルだ。
(とにかく、今日はとことん楽しもう)
とりあえず、小さく意気込んでおく。
なんともならない事を祈りながら。
町の遊園地のゲートを潜り、周囲を見渡す。
それは小刀を握り標的を探る。
あれだけバスに人がいたということは、当然人遊園地に人が多いわけで、中は当然込むといわけだ。
結構な待ち時間の後に、ようやく二人は遊園地のゲートを潜ることができた。
「乗る順番はどうしようか?」
さっそく期待に胸を躍らせながら詠実は誠一に尋ねてみる。言われた彼は待ってましたと言わんばかりに張り切って答える。
「まずはジェットコースターで思いっきり絶叫して次はコーヒーカップ。で、広場で飯喰ってから湖のボート。締めは観覧車。でいいかな?」
「う、うん……」
ジェットコースターと聞いて一瞬どきりとしながらも、詠実は頷いた。実は蛇とコースターは苦手なのだが、なかなか言うに言い出せず。
「キャー………!」
丁度近くを通り過ぎていったコースターに乗っていた人の悲鳴が聞こえてきてさらに詠実の気分は憂鬱なものとなっていった。ただ、見てみればそれほどスピードはないように見える。
(大丈夫……だよね?)
少し先に行ってしまった誠一の後を追いながら、詠実は思う。
広場を抜け、少し離れた場所から人混みを眺める。
それは小刀を握り標的を選ぶ。
「その……ごめん」
ふらつく足取りで歩く詠実を支えながら誠一は何度目かの謝罪の言葉をかける。結局詠実の想像を超える速度で駆けるコースターに彼女は見事に撃沈。こうして気分を悪くしてしまったのである。
それで、今はこうして広場で休憩。コーヒーカップはパスだ。二人はベンチに座っている。
「私こそ、ごめん」
「今度からは、無理なら無理ってちゃんと言ってくれよ?」
「……うん」
「それじゃあ、飲み物でも買ってくる」と、誠一はベンチから立ち上がってその場を去っていった。
(失敗しちゃった……)
重いため息を一つ吐いてから、ふと顔を上げる。と、人混みの中に怪しい人物を見つけた。目深に被った帽子。厚めのコートにサングラス。さらにマスク。典型的な不審者人物だ。怪しい、と思いながらもつい見てしまう。
ふと、その不審人物と目が合ってしまった。
一人の少女と視線が合った。
それは小刀を握り標的に迫る。
まずい。
全身がそう訴えかけてきた。これは小学校時代に何度も感じてきた恐怖感とは全然違う。それは命の危機。
詠実が真っ先に思いついたのは誠一の姿。彼に助けを求めれば……と思いつつもそこで踏みとどまる。これは今までの問題とは違う。命に関わる可能性のある問題。誠一を巻き込んでしまってしまってはいけない。
だったら、どうする?
恐怖で足がすくんでしまっている。立ち上がる事すらできない。周囲の人は恐らく変わった人としか彼を見ていないだろう。助けを期待できそうにない。
不審人物は徐々に迫ってくる。時間が経つ度に恐怖心は募ってくる。ふと、詠実のすぐ近くで立ち止まった。
ドクン……
ふと、胸の奥で鼓動を感じる。恐怖心とはまた別の不思議な感覚。
なんだろう。何かがわき上がってくる。
(なんだろう……これ?)
一瞬、詠実の意識が飛んだ。
それは、不審人物が懐から小刀を取り出したと同時だった。
●
突き出された小刀を上体を動かすだけで回避。突き出してきた者の右手を掴み、小刀を奪い取る。相手の鳩尾に一発拳を入れて動きを鈍らせる。さらに相手を押さえ地面に叩きつけた。
今、自分の手には小刀がある。使い慣れた物とは少々違うが、たいした事ではあらず。問題ない。
(いっその事、刻んでやろうか?)
一度思ったが、やっぱりやめた。あまりにも人が多い中で刻むのは良くない。
何よりこいつは「匂い」を持っていない。不要な刻みはやはり不要だ。
とっさの覚醒だったが、これで問題無いだろう。
○
「……え?」
気付けば、自分が不審人物を取り押さえていた。小刀を取り出されたところから、一応助けは来たみたいだが、すでに取り押さえられていて拍子抜けしている。
「詠実!」
そんな中を誠一が駆け寄ってきてくれた。遊園地の係員も一緒に連れてきている。
「大丈夫か?」
自分もあまり状況が理解できなかった。とりあえず、自分がこの不審人物を取り押さえたんだろう。
結局遊園地で遊ぶどころではなくなり、結局その後帰宅する事となった。
ふと、帰りのバスの中で誠一が呟いた言葉にひとつ疑問を感じた。
「これで、切り裂き魔の事件も終わりかな」
別に普通の人が感じるところ。だいたい、あんな小刀で突然斬りかかってきたら今騒ぎになっている切り裂き魔と見て間違いないだろう。
何故だろうか。自分でも不思議に思った。
ただ、思う。
(あの人は、本当の切り裂き魔じゃない)
ただ、勘でだが……いや、これは勘じゃない。
それは確信だ。
(事件は、まだ終わらない)
環凪の切り裂き魔、ついに逮捕。取り押さえたのは一人の女子高生。
昨日の遊園地での出来事は新聞の一面を飾り、学校の話題もそれで持ちきりとなった。ただ、当の詠実は特になんとも感じていない。
それはあの犯人がただの模造犯だからと思っているからなのか。よくはわからない。
「にしても、手掛かり一つ残さなかったあの切り裂き魔がこうも易々と捕まるもんなのか?」
雑踏の中、そんな事を言う声は無かった。
誰も疑問に感じなかった。このクラスの誰一人として、そして、誠一でさえも気付かなかった。
しかし、詠実は口にしない。
●
あの遊園地での出来事から三日が過ぎた環凪町の夕方。やはり雨が降りしきり、霧が立ちこめる。
表向きには事件終結とされているから、人々の警戒心は薄れている。これほどやりやすい事は無い。
人の心を傷つける者の独特の「匂い」を追って駆ける。「匂い」を持つ者はこの先。路地を一つ外れた人通りの無い場所。人目のつかない場所を選び、目的地への最短距離を駆け、距離を詰める。
見つけた。
背丈は高校生だろうか? 傘をさし、携帯電話を操作している女。背後から振り向かせずに仕留めてみせる。まずは右肩を一突き。小さくうめき声を上げている女の背を蹴り飛ばす。立ち上がろうとしたので小刀を投擲し、左足に突き刺す。
「ひっ!」
ふと、この女とは違う、少女の声。振り返れば、一人の少女が恐怖に怯える顔で立ち尽くしていた。見た目は中学生。
警戒心が薄れていたのは自分もか。内心舌打ちをしながら少女の首を掴む。得物は先ほど投擲したばかりで、手元にはない。とりあえず、肺の部分を殴って呼吸を一時敵に停止させ、さらに打撃を重ねて気絶させる。
顔は……見られていないだろう。
「兄さ……ん……」
ふと、その口が小さく動いた。
別にどうでもいい。ただ、彼女からは「匂い」は感じない。刻む必要は無いだろう。とりあえず、さっきの女から小刀を引き抜く。まだ意識はあるみたいだが、これではそう簡単に動けまい。痛みの余りにのたうち回っている様子だ。
ふと、気絶させた少女の制服に付いていた名札が目に入った。
環凪中学校、篠原菜津希。
それを見て、驚愕に目を見開く。
○
これは、一体……?
なんで、誠一君の妹である菜津希ちゃんが倒れてるの?
●
とにかく、長居は無用だ。
この場を離れなければ。
○
血塗られた小刀?
どうして私がこんなものを……?
●
まずい、さっきから意識が途切れ途切れだ。
○
これって、もしかして……
●
やはり、気付かれたか。
○
私が、菜津希ちゃんを傷つけた……!?
●
霧崎詠実が真犯人であるという事が。
小刀を鞘に納めながらこの場を走り去る。
人目には、つかれていない。
○
詠実は部屋の中で震えていた。
自分が切り裂き魔だったという事実。この血塗られた小刀から見て間違いない。誠一と出会ったあの時、自殺のために用意しておいたあの小刀。これが使われていたとは……いや。
それよりも、だ。
自分が大切な人の妹を傷つけてしまった。
(もしこれが、誠一君に知られたら……)
絶対に、見放される。唯一のすがる人、大切な人が、離れていってしまう。
それは、怖い。
嫌だ。絶対に嫌。
誠一にまで嫌われてしまったら、自分がどうすればいいか。考えても、何も思いつかない。誠一がいなくなったら、自分はもう何もできない。
気付けば、詠実は小刀を握る。逆手で、自分に突きつけるように。
(こんな、私なんて……!)
誠一のいない生に希望など感じられない。この選択に躊躇いなどなかった。
詠実は、小刀を腹部に突き刺した。思いっきりに。
腹部から血が流れ、同時に詠実の意識が遠のいていく。意識がなくなるのに、それほど時間はかからなかった。
○●
ここはどこだろうか。
この世でなければあの世。天国で無ければ地獄。外で無ければ中。
ここは、自分の中……?
ふっと、蜃気楼のように揺らいで見える影。自分とうり二つの、それでいて自分とどこか違う何かを放っているそれ。己であり、別人であるそれ。
それはゆっくりと何かを呟いた。
君は誰?、と。
あるいは、すまない、と。
お互いに引き合わされ、そして通り抜けてゆく。
●○
最初に見えたのは真っ白な天井。周囲を見渡してここが病院であり、自分はまだ生きている事に気付くのに結構時間が掛かった。
これから、絶望に生きることになるのだろうか……どこか諦めたように、再びそっと目を閉じる。
ふと、突然ノックの音が聞こえた。同時に目が開かれる。それから数秒して、扉が開かれる。
「詠実、起きてたのか?」
どこか安心したような表情で現れたのは篠原誠一。彼を見て、詠実の胸は締め付けられた。ほんとうに、泣き出しそうなくらいに。
自分には、その笑顔が辛いのに。
「まったく、突然自分の腹刺すなんて、心配したじゃねえかよ。まさか、俺が何かしたか?」
その優しさが辛いのに……!
「だいじょうぶ。誠一君は、何も、やってない、から」
ほとんど涙声だ。彼の顔を見続けるだけで心が痛い。
「ごめん……」
詠実は誠一を押しのけて病室を出て行った。
とにかく、彼の側にはいられなかった。病院の廊下を駆け抜け、とにかく階段を駆け上がる。思い扉を開けたその先は病院の屋上。町の風景が一望できるそこは今はだれもいなかった。
と、突然その肩が何者かに捕まれる。誰かなんてわかっていた。だからあえて振り向かない。驚きを見せる必要も無い。
「菜津希を傷つけた事、そんなにも気にしてるのか?」
突然、図星をつかれた。詠実は驚きを隠せない。何故、もう知られているのだろうか? いや、それよりも……これでもう決まってしまった。誠一に見捨てられたと。
「あの小刀を調べた結果、詠実が犯人だって聞かされたから。それと、詠実が二重人格者っての詠実の親さんから聞いた」
二重人格。正式名称は解離性同一性障害。自分の中に、もう一人別の人格が宿っているそれ。たまに記憶が途切れたり、身に覚えがないのに痛みを感じる事があって薄々は自分もわかっていた。だが、親に伝えた覚えは無い。
「今のところ、二重人格という事でひとまずは書類上の処理で終わってる」
「……何で」
「ん?」
震えながら、詠実は問いかける。
「何で突き放さないの? 私は菜津希ちゃんを傷つけたんだよ?」
「さあな」
また、この一言だ。曖昧なこの答え。どう反応すればいいのかわからなくなる、身勝手な回答。
「ただ、詠実が傷つけたっつってもそれはもう一人の人格だろ? 詠実に罪は無いって思う」
「なんで、私じゃなくてもう一人の人格だって……」
「詠実がそうそう人を簡単にを傷つけるとは思えないさ。何年友達やってると思ってるんだよ?」
やっぱり、この優しさが辛い。
自分で勝手に混乱しているのはなんとなくわかっていた。ただ、どうしようもなく、震えるばかり。もう、わけがわからなくなってきた。
ぷつりと、自分の中で何かが切り替わった。
●
背後に居た少年の首を押さえ、壁に叩きつける。
この男が、彼女を苦しめ続けた……!
ならば自分のやる事は一つ。この少年を叩きのめす。彼に何も罪はなかろうとも、彼女が勝手に苦しんでいようと、苦しみの原因はこの少年にあるのだから。得物はなくとも、拳一つで十二分。
右手を振り上げて、思いっきり前へと突き出す。
狙うはその顔面。
だが、どうしても、それを捕らえる事ができなかった。常に標的に気付かれず、素早くしとめていた自分でも、どうしても彼の顔面は捕らえられなかった。全く動いていないのに。
殴ったのは顔面の横。真っ白な壁。
しばらく沈黙が流れた。流れる風の音。下に広がる雑踏の音。病院のアナウンスの音。それらが妙に遠くに聞こえた。
「……すまない」
ゆっくりと、口を開く。
「私はお前の妹に手を上げた。さらには、お前にまでも……」
目の前の少年は何も言わない。
「私に何を言おうと構わない。ただ、彼女だけは見捨てないで欲しい。そのためならば何でも甘んじよう」
これは心からの言葉。彼女の、そして自分の気持ち。殴りつけた壁から、手を離しながら言う。
「……何当然な事言ってるんだ」
ふと、少年は口を開いた。
「俺は詠実を見捨てる気はもとからねえって」
やはりこの少年は優しい。だから、彼女は苦しんだのだろうか。何か、償いをさせてほしい。
「ただ、一つ頼みがある。もう人を切るのはやめてくれ」
「……ああ」
もう、人を切る気にもなれなかった。人を切るのはすでにやめようと思っていた。少年は言って歩き出し、屋上の真ん中で座る。彼のもとに近づき、自分も座った。
そしてまた、沈黙。今度は少年の方から口を開く。
「……そういえば、お前はどうして人を切ってきたんだ?」
当然の疑問。躊躇わず、答える。
「人の心を傷つけた者に対する裁き、と言い聞かせてきた。実際は、単なる憎しみなのかもしれない」
「菜津希も……人の心を傷つけたのか?」
少年はぼうっと、呟くように言った。それは誤解だ。首を横に振って答える。
「いや、彼女は私を目撃したから、人を呼ばれる前に気絶させてしまった」
「そうか……」
それはどこか安心したような表情。
「そういや、一つ言い忘れてたな」
言われて、少年の顔を見る。少年も、自分の方を向いた。
「遊園地で、詠実を助けてくれてありがとう」
ありがとう。
自分に対して、感謝の言葉をかけてきた。世間を怯えさせた切り裂き魔であり、彼の妹を傷つけた憎むべき対象である自分なのに。
何故か、一瞬どきりとして。何故か、おかしくて。そして何故か、嬉しくて……
笑った。
この人格となって始めて、笑い続けた。そして一通り笑い終えてから一つ言ってやる。
「私からも一つ言っておこう」
らしくない、と言えばそうなのかもしれない。自分でもこんな笑顔を見せれたのは意外だった。
自分にも、彼女にも今までなかった。どこか悪戯っぽい、笑みをうかべて言う。
「ありがとう」
「……それはお前の言葉か、詠実の言葉か、どっちなんだ?」
言われて、これでもかってほど、仕返しだと言わんばかりに言ってやる。
「さあな」
これにて、環凪町を脅かした切り裂き魔の事件は終わり。
それから詠実と誠一はどうなったのか。そして、詠実のもう一人の人格の彼女は一体どうなったのか。
それは、この物語を最後まで読んだ人の数だけ存在する。
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2007/02/11(Sun)20:06:55 公開 / 螺旋の竪琴
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■作者からのメッセージ
「風来人ゼン」でピンときた方、お久しぶりです。
そうでない方、初めまして。
螺旋の竪琴です。
今回の物語、どうでしたでしょうか? 前回に「後半のペースが速い」とご指摘を頂いたので、今回はそこに気を配ってみました。まだ、後半のペースが速いと言うならば、どうぞ遠慮無く感想の方で言ってください。他にもいくつかアドバイスを頂ければ幸いです。
もちろん、感想ご指導その他諸々ございましたら、遠慮無くお願いします。
それでは、今回はこのあたりで……