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『MazE』 作者:law / ファンタジー 未分類
全角15701文字
容量31402 bytes
原稿用紙約49.75枚
月が照らす闇夜に一人で歩く、世界から排除された異種族。世界は、憎らしい異種族の末路をあざわらって、彼らを“ひとり歩き”と呼んだ。


 月夜が照らす細い路地を、息を殺して、ひとり歩く。
 隠れながら、怯えながら歩くことを、いつしか世界は“ひとり歩き”と呼ぶようになった。


MazE1


 一年前、世界の表情は、一変した。
 異民族の中の一人の野心家が、同胞を引き連れて世界に宣戦布告をしてから、この世界は変わってしまった。この穏やかな聖女のベールを剥ぎとった中から現れたのは、疲れ果てた、か細い手で杖を持った皺だらけの老女であった。
 三本の足で立っている世界は、一人の異民族によって大きくバランスを崩す。
 そして、それは始まった。


 からからから……。
 金属と石が擦れあう音が、夜の静寂に溶け込み、消える。
 独りで片足をひきずりながらゆっくりと歩を進める青年は、二十歳前後に見えた。細い路地の壁に身を預けながら、俯いている。彼の前髪の隙間から時折見える彼の碧の瞳は目の前の闇のみ映し、ガラスのように鈍く光っていた。
 決して速くはない速度だった。しかし、それが危険な歩調であることは、見れば一目瞭然だった。石畳をすりながら進む彼の右足の後を、点々と赤い血が追っている。重傷だった。 青年は知っている。歩くのも、もう限界であろうということすらも。
 もう筋肉すらもあまり動かないのだ。力の入らない手で、ただ剣の柄は離さないように、彼はこの石畳に赤い染みを作りながら、歩く。……歩いた先が、何になるかは分からずに。
 剥き出しの剣先が、石畳とこすれあって、からからと寂れた音を生み、流れて消える。
 風の冷たさが心を包んで、無防備な体を掠めとる。温かいのは、右足と右肩から流れる赤いもの。
 ――ここは、どこだろう。
 青年の方向感覚を狂わしたのは、痛みのせいだけではなかった。彷徨い歩いた時間もそうであるし、変化のないこともそうであった。彼の記憶は、一年ほど前から変わってはいない。
 ――痛い。苦しい。
 無表情の下で、もう一人の自分が叫んでいる気がした。これも一年前から、変わっていない。声が枯れんばかりに、頬を絶え間なく流れる涙を隠そうともせず、暗闇に向かって叫び続けている。泣き叫んでいる。
 そんなに叫んでも、誰も聞いてくれやないのに。
 ――くるしい。
 独りで歩く、暗い路地。閑散としていて、闇が息を潜めて棲んでいる。住むべき光の世界から追い出された、異民族達の墓場。
 ――くるしい。
 心を切り裂いて駆け抜ける風。決壊した場所からあふれ出す思いと想い。目くるめく変わる目の前の景色全てが彼を拒み、消す。
 ――ここは、どこだ……。
 細い路地を曲がった先には、無数の星があった。
 街、だった。しかしもう動く気力さえない青年の瞳には、それは確かに星に見えたのだ。小さな宇宙に見えたのだ。
 青年は立ち尽くして、路地の壁に体を預ける。しかし、預けた体の筋肉は弛緩し、そのまま座りこんでしまった。星の群は青年の碧の瞳を少し照らした。街の明かりに照らされた青年の格好は、兵士のそれであった。重量のありそうな防具の損傷は、激しかった。
 失った。
 ここに辿り着くまでに、いろいろ失った。
 異民族の中の一人の野心家の目論みは、いいところまでいったが、結局失敗した。政府は異民族を脅威に感じ、異民族は“今まで以上に” 迫害された。
 始まった異民族の排除政策に、居場所もなくなった。
 一人の兵士に、何が出来るというのだろう。表情を変えた時代を受け入れ、暗い道を無意志で徘徊する死体のようになれたら、どれだけ楽になるだろう。
 家族も友人も恋人も失った独りの人間に、一体どれだけの価値があるだろう。
 自分がここでこうして死ぬことさえ、誰にも知られずにいる人間は、生きていいのだろうか。
 何も見えない。
 歩いて、歩いて、歩き疲れた先にそびえる黒い壁。出口のない迷宮から、青年はひたすら暗雲の中に明日を探す。価値を他人から定義してもらえない人間は、なんのために歩いているのか。
 ――“ひとりあるき”。
 ひとり、月夜が照らす細い路地を、息を殺して歩く。
 世界は、憎らしい異種族の末路を、あざ笑ってこう呼んだ。


 いつのまにか、小さい宇宙の星たちの大半が消えていた。
 彼の瞳は、また闇を映すガラス玉に戻った。
 フィルターがかかったように朦朧とした世界を、碧の瞳はおぼろげに見つめる。
 虚空を向く意識と相まって、どんどん感覚が薄れてくる。ただ、血の温かさだけが、意識を繋ぎとめている。
 目を伏せて、青年は側面の壁に全体重を預けてゆく。
 その命さえ預けようと、青年は瞼をゆっくり閉じた。
 消えてゆく感覚の中のひとつが、ふいに青年の意識を呼んだ。
 鈍い反応を返す少年の意識に、それは、第三者の訪れをぽつりと告げる。
 青年は、思い瞼をうっすらと開けた。
 目の前に、不思議そうにこちらを覗き込む女の姿を確認し、ようやく青年はここがどこだかを知った。

 旅と戦いに疲れ果てた旅人を、温めるように抱き、癒す。
 誰もの心を愛し、無償の癒しを捧げる女性を、いつしか旅人は“乙女”と呼んだ。





 “乙女”の名を、アキといった。
 傷つき疲れた“ひとり歩き”は、彼女の部屋のベッドで、やけに多い光り物がある天井を見ながら、目を閉じた。暗い視界の中に、天井の明かりが瞼越しに小さく映る。青年は、ようやく自分の見た小さな宇宙が、旅人の休息地、“乙女の町”であったことを知った。


MazE2


 アキには、独特のセンスがあった。
 光を反射するものが好きなようで、部屋内はガラス細工の置物がたくさんあった。それが天井の明かりを反射していて、しかし嫌味な感じは不思議と感じられない。彼女の部屋は、光に満ちていた。
 青年はうっすらと目覚めたとき、少し目を眇めた。暗い風景に慣れきった眼には、この部屋は明るすぎた。
「あら、起きたかしら」
 フリルのついたワンピースの上に、上着を着ていた彼女は、小奇麗な格好をしていた。よくみると、薄化粧をしている。青年は胡乱げに目を細めると、彼女の問いに頷いておいた。
 彼女は、そんな彼を振り向きもせず、台所へ向かって「待って、もうすぐ出来るから」としきりに何かをしている。青年には、その声が少し上擦って聞こえた。
 戸惑ったように、二人とも何も喋らなかった。
 それから、しばらく何かをたたく音と水の音だけが、光で溢れる部屋内を静かに漂った。
「……私ね、アキっていうの」
 しばらくすると、彼女は口を開いた。青年は、ふと顔を彼女に向ける。
「ひどいケガだったね。でも手当ては得意なの。だからもう大丈夫だよ」
「……そ、う」
 青年はぎこちなく頷いて、また天井へと視線を戻した。
 “乙女の町”。旅人の休息地。乙女は旅に疲れた旅人を無償の愛で癒し、夢を与え、彼らの旅路を見送る。旅人の憩いの場で、欠かせないのが“乙女”だった。
 青年は、複雑な思考を持て余しながら時折アキの後姿を一瞥する。
 だが、青年は旅人ではないのだ。異種族で世界から嫌われる、“ひとり歩き”。
 追われている身であり、決して他人と何かしらの関係を持ってはならない。関係を持てば、居場所を特定され、その人にも迷惑をかける。異種族は、碧と青の瞳をしていることで既に有名なのだ。
 青年は下唇を噛み締めて、視線を落とす。なんとか異種族だとばれる前に、ここから逃げないと。彼の考えは、そのことでいっぱいだった。
 ふと、布団を握りしめて、ため息をついた。
 ……人と話すのは、久しぶりだ。
 久しぶりに触れた柔らかい布団の生地を眺めながら、青年は苦笑いを浮かべた。
「ねえ旅人さん。お名前はなぁに?」
 たおやかな振る舞いで、青年の隣に正座で座ったアキの手には、スープがあった。青年の顔を覗き込んできた彼女に、彼はぎょっとして顔ごと視線をそらす。
 絶望的な状況に、青年は徐々に心臓が速くなるのを感じた。目を見られれば終わりなのだ。異種族か否かなど、すぐに分かる。目を見られる前に、ここから脱出できるかどうか。
 ――できるはずがない。
 不思議そうに顔を傾ぐアキを後方で感じながら、青年は自分の声が落ち着いた声であることを祈って口を開いた。
「……フィル」
「フィルさん? いいお名前ね。ねえ、何かしたいことでもある? 自分のお家だと思ってもらってかまわないのよ。スープ作ったんだけど、飲むかな」
 気遣うような声色で、アキは言った。決して強制しない口調だった。
 慣れているのだろう。フィルは目を眇めた。どうやらアキは、青年を訳有りで話しベタなタイプと判断したようだった。半分正解で半分不正解なのだが、フィルは今そんなことを考えている暇はなかった。
 見たところ、入り口は三つ。
 一つは無理だ。彼が届かない程の高い場所にある。二つ目、正面口。ここからとても遠く、さらに鍵がかかっている。一番希望的観測ができるのは、最後の勝手口だった。……台所の隣になければ。
「スープ、飲みたくない?」
「い、いやっ。別に……。飲みたくないわけでは……」
「ならどうぞ。体が温まるよ」
 スープを差し出すアキの手は、驚くほど綺麗な手だった。手入れが施された、優しい手のひら。端正な顔こそ持っていないが、その代わりに柔らかい表情を持っている女性だった。
 だめだ。受け取れない。
 青年は反射的にそう思った。なぜだろう。完璧なものを見ると、無性に腹立たしくなってくる。彼女は自分にないものを持っている。彼が死んでもなお、持てないであろう物を持っている。
 傷ついた心を抱擁する柔らかい両手を持っていて、存在意義をもっていて、他人を救える言葉を持っていて、そんな彼女に、きっと他人は大きな価値を定義するのだろう。
 憎い。
 未来を持つこの女が憎い。他人のために生きることができるこの女が憎い。癒しの両手を持つこの女が、羨ましい。
 他人を下落されることしか知らない自分の両手が、たまらなく憎いのだ。
 青年は下唇をかみしめる。かみしめた下唇からは、軽く血が滲んだ。鉄の味がじわりと口内を蝕む。
 剣をひっかけ、右肩と右足から血を流し、それでしか自分の歩いた道を残すことができない。異種族。世界から毟り取られた民。孤独の旅人。――“ひとり歩き”!
「……フィルさん?」
 不安げに揺れる声に、青年ははっとした。ふと、自分の瞳孔が開いていたことに気づく。我にかえると、冷たく悲しい気持ちが波のように押し寄せてきた。
 決して幸せになれない。自分の将来を憎み、人の将来を妬み、隣人の将来を奪う。社会から否定されたものは、この世にあってはならない。
 世界を定義するものは、常識と一つの社会を作っている人間だ。
「……ご、ごめんなさい。スープはお下げします」
 申し訳なさそうな顔のまま、アキは立ち上がった。その言葉は、フィルの心を少し揺るがした。彼は顔を顰めて、アキの背中を一瞥した。少し寂しそうな、小さな背中。
 罪悪感に駆られて、口を開きかけた。だが、半ばまで開いたところで、それは閉じられる。
「……ねえあなた、辛いんでしょう?」
 ふいに、アキは呟いた。フィルははっとして、アキへと視線を上げる。
「本当は、苦しいんでしょう?」
 アキは振り向いた。青年の意識に語りかけるように、彼女は必死に本質へと同調しようと訴えた。
 青年は、初めてアキの双眸を見た。栗色の瞳は、切なげに細められている。
 初めて、“ひとり歩き”と“乙女”の視線が交差した。





 手を伸ばしたら自分はきっとその人を斬ってしまう。
 手を伸ばしたら自分はきっとその人にしがみついてしまう。
 そんな自分はきっと、どこまでも“ひとり歩き”のままでどこまでも醜い死人のままなのだろう。
 ――そのことを分かっていて、青年は彼女の柔らかな手をとってしまった。


MazE3


 視線が交錯したたった数瞬に、さまざまな思いが脳内を駆け巡った。
 しまった。瞳の色を知られてしまった。弾かれたように最初に声をあげたのは、この考えだった。もう何もかも終わりだ。次に浮かんだのはそんな下降思考。迷惑をかけてしまう。深い罪悪感がそんな下降思考へ交差した。そして、逃げろ、と切実に神経に迫る考えが上から叫ぶ。
 様々な思いが駆け巡り、全ての考えが個々の主張をし、全て相殺される。
 青年は、視線を外せなかった。栗色の双眸に吸い込まれるように、彼女の瞳から目を離せなかった。
 この手を、離したくない。新たな考えが青年の心へと囁く。
 いやだ。純粋な拒否を示す悲しみの感情を、振り切るようにした唇を噛んだ。
 青年は思った。旅人を癒す“乙女”は、双眸さえも澄み切っていて綺麗なのか。そんな場違いなことを考えた青年の心は、既に正常なものではなかったのかもしれない。
「……た、旅人さん?」
 震えた声で、アキは自らの顔を覆った。フィルは俯いて、自分の手のひらを見下ろした。彼の手のひらは、彼女のそれとは違って傷だらけだった。
「その、目……どうかしたの?」
 彼女の指の隙間からみえる栗色の瞳は、明らかに震えていた。
 それを見た瞬間、ざわっと風が吹いたように、心が揺れた。
 見るな。そんな目で俺を見るな。また、心の奥の自分が叫んだ。耳を強く塞いで、目を閉じて、弱々しくその場にうずくまって震えているもう一人の自分が。
 そうやって一人で震える彼は、いつも絶対的な社会の序列のどん底にいた。
 ……なるほど、正常な反応だ。
 フィルは、自嘲的な薄い笑みを浮かべた。一拍おいて、力いっぱいに奥歯を噛み締める。同時に、傷ついていない左腕でベッドを突き飛ばし、左足で床を蹴った。
 アキははっとしたが、青年はそれ以上に速い。負傷しているとはいえ、重量のある防具がない。身軽になった彼にとって、テーブルの上にある剣を取ることは容易なことだった。
「動くな」
 剣先を、短い言葉とともに突きつける。
 アキの白い首筋に、一筋の赤い血が妙に鮮明に映る。鮮やかな赤を視界に入れると、心臓が、どくんと跳ねた。七年前の感覚が戻ったような錯覚を、起こす。
 一瞬の間に後ろへ回った青年の技能は、誰がどう見ても手慣れたものだった。正体を知られた者を消す為の、鋭い剣先。彼は、何度もこうやって来たのだろう。彼の動作は、それを感じさせるのに十分なほど、達者だった。
「……あ、あなた、“ひとり歩き”なの?」
「うるさい」
 フィルは自分でも驚くほど冷たい声で、そう吐き捨てていた。
 彷徨い放浪する孤独の旅人。そんな異種族の末路をあざ笑う名前で、彼女は自分を呼ぶ。彼女はもう自分の名前を忘れてしまったのか。そんなに自分の名前は価値の無いものなのか。
「俺は異種族でも“ひとり歩き”でもない。……俺は、俺だ」
 一つ一つを、はっきりとした言葉で綴った。碧と青の双眸が、鋭い輝きを放つ。
 多人数が常識であり、少人数は何の力も持てない。これが、社会を決める全てであり、それだけ。
 そんな社会など、認めない。
 社会の中にいない人間でも、存在する意味はある。生きる世界がなくとも、傷を負おうとも、歩けなくなろうとも、生きる意志があれば、人はまだ生きていられる。この世界に存在している。社会から弾かれても、嫌われようともだ。生きようと思えば、地に足をつけて立っていける。――まだ、歩ける。
 ……それだけで、もう俺はこの世界に存在している。俺は、この世界に存在できる。
 首筋の切っ先に、さらに力が込められる。全ては、彼女に向けられた言葉ではなかった。自分自身の傷ついた心を包む、ひとつの小さな希望だった。
「……ううん。でもあなたは、やっぱり“ひとり歩き”だわ」
 青年は、その瞬間切っ先に力を入れた。彼女の白い首筋に血の筋が伝い、彼女は小さく呻く。殺してもいい、と心が叫んだ。存在意義を否定するこの女を、殺さなければならない、と。
 しかし、心の奥でそれを諌めるものが、強く耳を塞ぎながら本能を優しく抱く。少し、強張った筋肉が限界で止まる。
「……違う」
「ううん。きっと、違わないよ。あなたは“ひとり歩き”で、孤独の旅人なんでしょう?」
 青年は沈黙した。沈黙の間に、複雑な思いが絡み合った。腕がひとりでに動き出しそうで、強烈な自制心がそれを制する。いや、それが自制心なのかも分からなかった。なにが彼の殺戮の意思を止めているのか、彼自身にも分からなかった。
 その思いが何を感じているのかが定かにならないまま、彼女はそれを消すように言葉を繋ぐ。
「陽気な旅人でも、きまぐれな旅人でも、流浪の旅人でも、それはやっぱり旅人だと思うの」
 アキは、言いながら優しく剣先を手のひらで包み込んだ。
 とても自然で緩やかな動作だった。剣先を掴まれたにもかかわらず、彼は動けなかった。今まで考えていたことが、次々とぶつかりあって、頭の中に渦巻いた。
 そこからすっと入ってくる彼女の言葉の一つ一つが、妙に脳内にがんがんと響く。腕の力が、弱まっていく。薄い口紅をひいた彼女の唇から紡がれる次の言葉を、青年は切望していた。
「旅人なら、“乙女”は誰でも受け入れます。……ねえ、孤独の旅人さん」
 剣の鋭い切っ先を手のひらで包んで、アキは彼に笑いかけた。
 フィルは、栗色の目を見つめながら、不思議と現実感を感じていた。本当は、こういう言葉を求めていたのかもしれない。後ろから追い詰める何かに追い立てられるように、命の恩人に剣を向ける青年。迫る暗闇から逃れるべく、叫びながら剣を振るう青年。気づけば、“乙女”に向けられた切っ先はとても不恰好で、不釣合いだった。






 七年前から一心不乱に探してきた。暗い夜道に光を探し求め、愛を与えてくれる人を捜し求め、一年で遂に見つけられずに、諦めた。
 せめて話してくれる人を捜し求めたのに、なぜ実際に話そうと思ったら何も言葉が出てこないのだろう。
 七年前のあそこに、人を切り刻む言葉以外を置いてきてしまった。
 混濁する思考の中、ただひたすらに答えを見つける。
 人と話したら、何も分からなくなった。


MazE4


 アキは黙って剣を下ろした彼に、何も言わずに微笑みかけた。
「さっきは驚いてごめんね。異種族の方だとは思わなかったの」
 呆然と立ち尽くしているフィルの手を取ると、優しく、彼の手から剣を外す。呆然と立つ青年は、曖昧に頷き、少し俯いた。
 そんな彼を見て、彼女は困ったような笑みを浮かべて、テーブルの上のスープを片付けた。
「あの、それ、ごめん……」
 冷め切ったスープを見やると、フィルはそう言って顔を背けた。しばらくしてから、気にしないでというような内容のソプラノの声が、彼を追った。
 小さく頷くと、沈黙した双方の間にそっと静寂がすべりこんだ。先ほどとはうって変わって、部屋内に一種の倦怠感が充満する。
 フィルは入り組んだ感情の前に、ただ立ち尽くした。何事も無かったかのように接するつもりか。そう思った先にあるのは、複雑な思考だった。彼が何を思っているのか、彼自身にも分からない。一体自分は嬉しいのか、悲しいのか、困っているのか。
 ただひとつ分かること。それは、この家は、青年には明るすぎること。
「アキ、さん。俺は、やっぱり――」
「ね、フィルさん。しばらくお酒なんか飲んでないんじゃないですか?」
 いいかけた青年を制すように、アキは栗色の瞳に悪戯めいた光をちらつかせながら、酒瓶を片手に持った。ふと我に帰り、顔を上げる。
「飲みましょう。今日が特別な日になるように」
 ね、と青年の肩に手をかけると、アキは有無を言わさず、フィルを椅子に座らせた。戸惑ったように視線を酒瓶に向ける彼を一瞥すると、悪戯めいた笑顔を収め、少し目を細めた。
 アキには、考えがあった。
 “乙女”が旅人をもてなす際に、酒というものは必要不可欠なものになる。酒は人を陽気にさせ、抑制を外すのに有効な手段の一つとなる。それは癒しを目的とする“乙女”の常套手段であり、この手を利用しない手は無い。
 アキが見る青年。心が傷つき、複雑で繊細な心を持ち、しかし揺るぎない鋼鉄の意志をもっている、孤独の旅人。彼は自分の運命を一身に背中で受け、前を見据えて、まだ歩いている。
 なぜまだ歩いているのだろう。 簡単だ。彼の何も譲らない強固な意志が、傷ついた心を認めず、自分の中から排除しているからだ。
 ならば、傷ついた心を認めさせ、はきださせてあげればよい。それが出来れば、それは初めて“乙女”の管轄内に入る。
 室内の賑やかな光の数々が、二人を穏やかに包み込んでいた。時計は光を反射しながら、刻々と時を刻む。アキはフィルの隣に座って、彼を眺めていた。
「……ねえ、フィルさん」
 彼は振り向かなかった。ただ、グラスの中の液体を一心に喉へ流し込んでいる。そんな感じだった。
「ねえ、つらい? 今まで、苦しかった?」
 先ほど聞けなかったことを、ストレートに問うてみる。彼女はまず、そのことを意識させることから始めようとした。歌うような柔らかな口調は、彼女独特のものだった。
 彼の口は、動かなかった。答えは返ってこない。彼女は首を傾げて、もう一度口を開いた。
「旅人さん、これからどうするの?」
「……分からない」
 ぽつりと簡素な返事が返ってきたかと思うと、彼はグラスをもう一度口に運ぶ。
 フィルターがかかったように霞んだ部分と、妙にはっきりした思考を感じていた。判断力が徐々に鈍ってきているのに気づかず、ただ彼の心を誘うまどろみに身を沈めたかった。
 早く、何も考えずに眠りたい。
 彼は、必死だった。
 いや、今までも、必死だった。
 痛みを訴える傷口と、孤独を嘆くもう一人の自分と戦いながら、暗色の双眸で世界を呪っていた。暗い路地を踏みしめ、ただ大地をのし歩く。いつまで続くか分からないこの路地を見据えて、思考を停止させる。
 周りを見回し、太陽が昇っている間に隠れられる場所を、一晩の内に探す。
 空を見上げ、暗雲の中に、ずっと明日を探し続けている。
 必死だった。彼は本当に、必死だった。
 だから、何かを考えている暇は無かった。平穏を探すことしか、彼に許された道しかなかった。
 ――だが、今、彼女が、“乙女”が隣にいる。
 体を休められるベッドがある。青年を照らすライトがある。天候から身を守る家がある。他でもない平穏がある。そう、他のことを考える時間が、あるのだ。
 今までの辛い思い出をせき止める必死という堤防が急に決壊し、鋭利な刃を持った記憶が、無防備な心に流れ込んで、溢れてくる。
 傷ついた心を必死に隠し通して、青年は暗がりでじっと押し黙っていた。
 アキは、眉を顰めて、もう一度口を開く。
「どこへ行くの?」
「……分からない」
「これから何をするの?」
「……分からない」
 心が宙に浮いているような覇気のない口調に、アキは微弱な苛立ちを覚えた。
「分からないって、どういうことなの?」
「……分からない!」
 青年は、空のグラスを叩きつけるように置いた。室内に大きな音が響き渡り、アキはびくっとして顔をフィルへ向けた。青年は強くグラスを握りしめて、碧と青の双眸で少し酒が底面に残っているグラスを、じっと睨みつける。
 ……忘れろ。
 七年前で止まった記憶が、頭をがんがんと叩きつけ、内容物をめちゃくちゃに荒らしながら暴れまわる。
 ……忘れろ! なぜ今ごろになって現れるんだ!
 “ひとり歩き”の名は、呪いの名だ。勝手に世界が付けた、異種族を表す“記号”。
 この世界にしか生きられない人間。だが異種族は、その生きるべき世界から排除された。他でもない異種族の裏切り者一人によって、異種族はどん底まで突き落とされた。
『あいつが世界に宣戦布告などしなければ、俺たちは迫害されやしなかった』
 記憶の中の中年の男が、そう叫んだ。碧と青の双眸に鋭い光を称えて、周囲の全員を睨んでいる。周囲を注意深く睨む男を、他の異種族は肯定的な目で見ていた。
 集団の内の一人が、頷き、高らかに声をあげた。
『殺せ。異種族を世界のどん底へ突き落としたあいつを、どこまでも探し出し、殺せ!』
 違う。異種族は、初めから社会に弾かれていた。
 今までも、青と碧の目をもつ異種族に、社会の目は冷たかった。
 愚かだ。それに気づかない振りを、いつまで続けようというのか。ついに一人へ責任をなすりつけ、自分達は心の平穏を得ようというのか。未来、異種族に降りかかる災難の全ての責任を一人の異種族へ押し付け、代わりに何を得られるというのだろう。
「違うんだ……。何も得られない。何も、変わらなかったじゃないか!」
 彼の声が壊れたスピーカーのように、一オクターブあがる。
 異種族は救いを求め、お互いを傷つけていった。
 そして、異種族同士の信頼さえ、世界の陰謀によって切り刻まれた。
「フィルさん、どうしたの! 何かあったら私に全部言っていいのよ?」
 アキは、掠れた声で一つ一つ吐き出すように発音するフィルの顔を覗き込んだ。その瞬間、彼女ははっとした。
 彼は、自分を守るように、限界までの力で両腕を掴んでいる。瞼をぎゅっと閉じて、しきりに何かを呟いていた。薄く開いた唇からは理解不能な言葉が羅列されている。
「フィルさん? どうしたの? フィルさん……フィルさん!」
 アキは、反射的に青年の両肩を揺すった。すぐに、青年が我を取り戻さないと危ないと思った。そして、そうしたら彼は元に戻ってくれると本能的に思っていた。
「どうしたの? 何かあったの? ねえ、戻って。元のフィルさんに戻って!」
「触るな!」
 青年は弾かれたように叫ぶと、操られたように椅子を蹴って立ち上がった。アキは、振り払われた手を呆然と見て、フィルへと視線を移す。
 彼の体は、理性を容易に打ち破った。
 脳内で、記憶が悲鳴をあげながら暴れまわる。
 心の中で、処理しきれない感情がほとばしる。
 彼の下のもう一人の青年が、色が違う二つの眼球から、血の涙を流している。暗がりに膝を抱えて座っている。前髪の隙間から暗色の双眸で、虚空を睨みつけている。
 ……俺は、何の為に生きてるんだ?
 その姿は、まだ子どもの頃の彼だった。血の涙を流す彼は、無表情で立っている青年に、そう問いかける。青年は間髪いれず、こう答えた。俺が殺した親友の為に。仮面のような顔で、そう言う。
 座っている少年は、高らかに笑った。
『うそつきだね』
 顔を上げて、低い声で言う。
『あんな“きちがい”、お前は何の気にも留めちゃいない』
 少年は、目を剥いて叫んだ。
『でないと、お前がラルを殺すわけがない!』
 引っ張られたように立っている青年の顔が、だんだん歪んでゆく。
 仕方なかった。そう繰り返し呟く青年は、視線を少年へと向けずに、自分の手のひらから離さなかった。顔を上げて、非難の視線と目を合わすのが怖かった。傷つくのが、恐ろしかった。
 もう、傷つきたくなかったのに。




 ラル=ド=クランディス。
 世界最高の犯罪者の名前にして、世界最大の異端の存在であり、異種族の長の息子にして、フィル=リ=レアリードの最高の親友。


MazE5


「フィル、ごめんな。また今度……」
 これが、ラルの口癖だった。
 フィルがラルを遊びに誘ったとき、ラルは困ったような笑みを浮かべながら、いつも言う。
 ラルは、“賢者”という異名を持つ異種族の長、アルドの一人息子だった。だから異種族の中で群を抜く知識が必要で、毎日家に閉じ込められなければならないのだった。
 元長が“賢者”と呼ばれるには相応の理由があった。世界をまわった確かな経験と、溢れるまでの知識。元長は、長に必要とされるその二つの要素を持っていた。その子であるラルが、どんな生活を強いられていたのかは、子どもでも想像は容易だ。
 ラルは、戦っていた。
 自分の自由を奪う父親と。目の前の理解不能な言葉の羅列と。一族の期待と。自分と。毎日飽きもせず家にくる、自分の親友と。
 戦いに、彼は勝ったのだろうか。
 問われると、フィルはきっと大きく振りかぶってこう答えるだろう。「いや、全部に負けた」、と。
 周りに存在する全てに押しつぶされて、身近にいた父親にさえも抑圧されて、彼はまた困ったような笑みを浮かべる。彼の足元には、一族へのただ一つの愛だけが落ちていた。一族を愛し、しかしそれ以外は何も愛さなかった――愛せなかった。
 全ての視線が耐えがたかった。気がついたら、彼は自分から家で勉強するようになった。
 ……気づく、べきだった。ここで。
 フィルはここまできていつもため息をつく。全ての怠惰と寂寥を込めた息をついて、しかし吐き出したその感情がまた浮かび上がってきて、結局彼はどこからも抜け出せない。
 ラルは自分の世界に生き、毎日夜に目を閉じ、楽しい夢を見ながら、深く暗い殻に閉じこもった。
 事が起こる一週間前。
 フィルはいつしか、ラルの家の扉を叩かなくなった。


 ――起きろ。
 目を覚ました先にあったのは、隣の家のおじさんの見下ろす怜悧な視線だった。寝ぼけた頭を叩かれ、腕を掴まれて広場に引っ張られた。
広場で待っていたのは、闇夜に光る大人たちの厳しい多くの瞳だった。
 ――答えろ。ラルとお前は仲がいいだろう。あいつは昨日なにか言っていたか。
 一人が怒号を発した。びくりと身を震わせ、早口でまくし立てた。
 なにも。フィルは戸惑っていた。それに仲なんて良くありません。ラルは付き合いが悪いから、最近は遊んでいません。どうかしたんですか。
ラルが何か悪いことをしたんだ、とフィルは瞬間的に感じた。少年は目上の人の表情の変化に敏感で、怒るときの表情の変化を、長年生きた元長などよりずっとよく知っている。
 ラルとの関係を絶つことで、これからくる叱責の太い声から逃れようとした。どんな小さなことからも逃げ出す少年は、悲しいほどに歳相応だった。
 ――あいつが、王を、殺そうとしたんだ。
 死刑囚の同胞を勝手に連れ出して。
 おじさんの一句一句を吐き出すようにして発した口調の中には、沈んだ暗い色が見えた。この深く深くに沈んでいったこの色こそを、絶望というのだろうか。
 世界に、宣戦布告した……。
 あの困ったような笑い方が、フィルの脳裏で最初に浮かんできた。あいつが、と掠れた声で誰にともいわず問うた。その呟きは既に太陽が沈んだ暗い月明かりの中、静かに空気へ溶けていく。
 うそでしょう。そう口に出してみた。しかし、誰もフィルの言葉には反応せず、大人たちは難しい言葉で議論を繰り返すだけだった。
 ――迫害だ。
 また、難しい言葉が一人の口から発せられた。フィルは顔を上げた。
 ――逃げられない。これから社会規模で始まる。そして、もう決して終わらない。
 フィルの不純物の無い瞳の奥に、気がふれたような父の表情がいやに鼓膜に焼きついた。
 何年も経った今も、消えてくれない父の姿。フィルの見た父の最後の姿は、誰に向けて言っているかも分からないような呪いの姿だった。
 あれから、父はどこにいってしまったのだろうか。



 しばらくして分かったのは、一族が全員散らばってしまったことだった。
 気が付けば周囲にはいつも人がいない。かくれんぼだよ、と母は言った。まだ幼いフィルの手を引きながら、涙を流しながら笑っていた。ずっとかくれんぼをするんだよ、これから。
 ――見つかっちゃったら死んじゃうよ。




 それからもうしばらくして、少年は全てを知った。
 ラルが引き起こしたこの事件によって、全ての均衡が崩れたことを。今までも少しずつ異端扱いを受けていたこの状況を、雰囲気的にとでもいえばいいのだろうか。それがきっかけを得て、具体化した。それだけのことなのだ。そして具体化させた原因となったのは、ラルではなく、一族自身だと。たった、それだけのこと。
『あいつが世界に宣戦布告などしなければ、俺たちは迫害されやしなかった』
 おそらくそれはほとんど正解で、少しだけ違う。
 訂正を加えると、ラルが世界に宣戦布告する少し前からも、迫害を受けていたのだ。その事実から目隠しをして自分達の殻に閉じこもったまま生活を共にする異種族は、確かな異端の存在として社会に確立されている。そして自分の殻の外の少年一人に憎悪をぶつけ、彼らは今までとなんら変わっていない。
少年を殻の外に押し出したのは誰なのだろうか。
『殺せ。異種族を世界のどん底へ突き落としたあいつを、どこまでも探し出し、殺せ!』
 もうやめよう。
 たぶん、ラルももう死んでるんだ。



 彼を救ってやらなかった異種族。
 彼を救ってやれなかった幼い自分。
 何を自分が考えようと、二つの間にあるのはたったそれだけの差なのだろう。どうしようもない。
 全ての事実に目を閉じて、ただ明日のことだけを考えて、今日はもう寝よう。
 あした。
 明日、考えよう。







「……旅人さん。旅人さん」
 彼女のうたうような柔らかい声が、室内に響く。その声音は、柔らかい。しかしどこか硬質な色を帯びていて、妙な焦りが滲んでいるのが分かる。
 呼ばれている。
 彼女が青年を覚醒させようとしているのが分かったが、彼は重い瞼を閉じたまま、沈黙をやぶろうとはしなかった。まだ深く優しい海の底で、じっと沈んでいたかった。太陽に反射して煌く波の光を、眺めていたかった。
「フィルさん!」
 フィルは、ふいに強烈に深いまどろみから引っ張り出す力強いものを感じた。
 それが何か分からないうちに、周囲に泳いでいた色とりどりの魚が、消えてゆく。先ほどまで揺らめいていた波の光が、消えてゆく。深淵を歌う暗い海の底が、消えて行く。彼が思い描いた“自分の殻”が、音をたてて崩れていく。
「……ここは」
 視界に広がる月明かりに照らされた数々の光物が、鈍い輝きを放っていた。この独特なデザインを施してある家。彼には見覚えがある。ここは。
「フィルさん……。良かったぁ……」
 彼が目を覚ますと同時に、身体に軽い衝撃を感じた。気が付けば彼女の細い腕が彼に回されている。彼女の体温が、彼にじわりと滲んだ。どこか懐かしい感触だと、ふと思った。
「アキ、さん?」
「フィルさん。私、もう目を覚まさないかと……!」
「いや、た、ただ寝ただけ……」
 言い終わらないうちに、二本の腕の力が強くなったことを感じた。戸惑う彼の耳に、ぎしりとスプリングの軋む音が飛び込んでくる。思考がゆっくりと彼の脳内を歩き回り、やっと彼女の温もりと優しさをだんだん処理し始めた。
 彼女の頭を見下ろしながら、彼は苦笑いを浮かべた。
 ――ラル。
 あの困ったような笑みが一瞬浮かんだが、フィルはそれを全て押し殺して、ただ彼女だけを見据えた。彼女はその言葉の先に、何を見ているのだろうか。いや、その問いさえ野暮だというものなのかもしれない。答えは、既に彼女の両方の腕にもう見えている。
「ねぇ、フィルさん。ずっとここにいていいの。あなたのお家だと思っていいのよ。もう歩かなくていいの」
 暗い路地の向こうで、決意と剣を手に引っ掛ける悲しみの旅人。社会の黒を象徴する孤独の旅人。“ひとり歩き”。
 彼の長い旅路。ここにたどり着くまで、何を失っただろう。いや、何がまだ自分に残っているのだろうか。
 まだ、残っているものはなんだろう。
「…………アキさん」
 表情筋が本人の意思に反して、勝手に動く。元に戻そうとしても、もう力が入らないことは分かっていた。それが泣きそうな表情を形作り、彼はもう表情さえが崩れ始めたことを悟った。
 ――なあラル。やっぱり人って、存在を定義してもらわなきゃ、生きていけないんだよな。
 彼の困ったような笑顔の中には、確かな笑顔が隠れていた。
 一日たった二言。たった三秒しか顔をあわせなかった二人の少年。
 しかしそれだけで、既に二人は最高の親友だったのだ。
 ――ごめん。いつもお前の所に遊びに行ってた俺が、お前の存在を繋ぎとめてたんだよな。
 泣きじゃくる彼女を困ったように見下ろしながら、気が付けば困ったような笑みを浮かべている自分がどうしようもなくおかしい。一筋の涙が頬を流れ、頼りなく彼女の髪の上に落ちる。
 彼の困ったような笑みの意味を幼い少年が知るまで、七年の歳月がかかった。
 長かった。長すぎたんだ。
 一日に一回見るこの笑顔には、自分の親友への愛が溢れていたんだ。




 フィルは、泣き疲れて寝てしまったアキを、ゆっくりとベッドに横たえる。
 まだ癒え切っていない傷を守るように、柔らかいベッドから起き上がる一つの黒いシルエット。どこかぎこちないその動きは、非の打ち所がないほど十全に仕事をやり遂げた“乙女”を何度も気遣っていた。
 壁に立掛けてある剣を迷いなくとると、黒のシルエットはもう一度彼女を振り返り、しかしそれだけで、もう振返りはしなかった。
 静かに扉を開いた彼は、もう一度暗闇へと足を踏み入れ、旅路を辿って行く。




 寝ながら涙をこらえるって、なんて難しいんだろう。
 彼女は柔らかいベッドに身を預けながら、もう一度だけ涙を堪えようと、強く瞼を閉じる。
 彼は、どこへ行くのだろう。
 出口の無い迷宮を死に物狂いに駆け抜け、一体どんな終焉に辿り着こうというのだろう。
 光物の多い部屋の中に、月の光が反射する。どこか頼りないこの光に、彼女は祈りをのせた。
 彼の旅路と、この月に照らされた不安定な世界と、彼の未来と……。
 ……そんなに頼みすぎたら、叶うものも叶わないかな。
 しかしながらひょっとすると答えは、最初から目の先に既に見えていたのかも知れなかった。祈りほど、他力本願で勝手なものはないのだ。自分の願いは、自分のためだけに存在していて、それは願うだけで応えてはくれない。
最初から分かりきっていることに気づくのに、少しだけ時間がかかった。





 孤独の旅路。暗い路地を踏みしめて歩くその先に見えるもの。
 人一倍生きることに必死だった、孤独の旅人。しかし、彼はまた人一倍生きることに戸惑っていた、悲しい旅人だったのだろう。
 彼は色が違う双眸から決意の光を湛えて、静かに闇夜を歩いていた。
 彼の供は月明かり。
 この旅路は、父や母、途切れた一族と彼の親友へと繋がるものだという光を胸にひっかけて、彼は片手に剣をひっかけて歩を進める。
 ……少し疲れたら、またあそこに戻ってもいいかもな。
 くだらないことを考えて、青年は側面の壁に全体重を預けてゆく。細い路地を曲がった先に見えるのは、無数の星。先ほど自分がいた、綺麗な“乙女”の街。
 視界を覆う地上の星は、さながら小さな宇宙だった。




2007/01/29(Mon)16:32:49 公開 / law
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■作者からのメッセージ
 最後まで読んでくれた人、ありがとうございます。
 人間関係の大切さや、常識というものは決して正義ではなく、ただの多数決でしかないから、正義は自分で探すものだ、とか、そんなことを伝えたくて書いたものなのですが、やはり文章が拙かったですね。
 伝わらなくても、私は最後まで読んでくれた人がいるだけで心がいっぱいです(●^▽^●)ありがとうございました。
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