- 『天国の絵画 ―完結―』 作者:花角 / 未分類 未分類
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全角5617.5文字
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原稿用紙約18.6枚
おじいちゃんは現実の世界を汚いと言って、自分の描く絵を美しいと、天国だと言っていた。そんなおじいちゃんが、死ぬ間際に書いた最後の絵は――。
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私は絵を描いている。定年で退職をした時から、指先の震え始めた今に至るまで。
絵は永遠で、無限で、美しい。
美しい。醜悪は刺激で、苦痛はその後にそれを遥かに凌駕する快感を齎す。絵には全てがある。私の求む全てが。美しい。私はそこにこそ浸りたい。永住したい。
小さな地下室で、私はカンバスを広げた。
絵を描こう。美しい、雪原の絵を。
「おじいちゃん? ご飯だよ?」
雑音が、私の手を止めた。震えは継続されたままであるが。
「私は絵を描いている! 他所に行っていろ!」
私は即座に振り返り、そう声を荒げた。
少女の小さな肩が、私の怒号と当時にびくりと跳ねた。
その少女は私の孫である。ここは人並みに育った息子の一軒家で、私は少ない年金で絵を描き続け、息子夫婦に三食と住居を分け与えられる事になった。
そんな事はどうでも良い。所詮は汚い『現実』の話だ。
私はいち早く絵に浸かった。思い巡る理想に恍惚とした笑みを浮かべ、それをカンバスに現す。
「げほっ、げほ!」
私は途中、何度もそんな乾いた咳を吐いた。
さっき来た様な無知な少女でも、それを聞き、私の姿を見れば直ぐに察するだろう。
もう、長くは無い――と。
それは私自身が最も承知している。だからこそ、私は老体に鞭を打ち、昼夜を問わず美しい世界を描き連ねた。
私の天国はそこにこそあるのだ。
何時間が過ぎただろうか。空腹が集中を途切れさせ始めた頃、私は筆を置いた。
そこには、薄っすらと彩り始めた景色があった。
霜枯れた森に囲まれた、一切の建物が無い、緩やかな起伏のみの雪原。
「……美しい世界が描けそうだ……」
呟いて、私は醜い現実に精神を戻した。
「汚い……」
そこには、脱ぎ散らかした私の服や、片手間に小腹を満たした菓子の空き箱などが散乱していた。見上げると小さな電球に虫がたかっていた。
私は無意識になった仏頂面のままで、自室である地下室を出た。
不意に朝日が私を射た。私は目を伏せ、闇雲に伸ばした手でカーテンを閉じた。
「おじいちゃん……おはよう」
脅えた風に声を掛けたのは孫娘だった。私はそれに一瞥を返した。
少女は寂しげに顔を逸らすと、私には聞こえない程小さな声で「行って来ます」と呟いた。少女は通学の為、家を出たのだ。
私はそれを無視した。
私の息子とその妻は共働きで、既に出勤した後だった。
朝食は用意されていた為、私はそんな事どうでも良かった。
私は炊飯器から温かな飯を一人前盛り、その上に冷めた目玉焼きを乗せて食べた。食べている間、しばし沈黙が続いて退屈だったが、視界の端に付くテレビを私は頑なに無視した。
あれは負の塊。醜い物を伝達・配信する最悪の産物。
私はぶち壊したい衝動を抑え、やがて地下室へと戻った。
「ただいま、私の天国」
美麗な雪原が私を迎え入れた。
私は筆を走らせた。
美しい、素晴らしい。直ぐに、私が表現してやる。お前の美しさを。お前の世界を。私の天国を!
私はひたすらに筆を走らせ続けた。徐々に雪原は厚みを増し、柔らかな空は日光を帯びた。静かなそこに吹き喚く風が見え、飛び散る粉雪が覗け――私は涙した。
「おかしい、こんなに、こんなに美しいのに……」
私のしわがれた頬を涙が伝った。その涙は決して感動の産物では無かった。
「なぜ、こんなに寂しいのだ!」
私は吠えた。その世界は、カンバスの世界は美麗で、雪の肌寒さも透き通る様な空の暖かさも完璧に現れているのに、それなのに、私の心は締め付けられる様に寂しく、苦しかったのだ。
それが病によるものならば、私も腑に落ちただろう。しかし、違う。この苦しみは、寂しさは、切なさは。
そうこの思いは――。
「そうか!」
私は、私の思いを遮って言葉を発した。心の何処かが、その言葉が発せられることを脅えているのだ。
「これは天国だ。そうか、そうだな……天国に住人が居ないのは可笑しいな。だから、こんなにも虚しいのだな」
私は天国に相応しい住人を想像した。
まずは、男か女か――無論、女だろう。男は毛深いし、血気盛んで貪欲だ。性欲も天国では疎ましい。
純粋な子供がいい。穢れを知らない少女。 雪原に輝く銀髪、落ち着きがあり哀愁を帯びた瞳……勿論、無限の雪原を見据えている。
さぁ、天国の住人よ。私をそこへ誘っておくれ。
少女の唇に紅が灯る。
私は筆を落とした。
「完璧だ……」
私は微かな畏怖さえ覚え、崩れるように椅子に腰掛け、カンバス全体を見回した。
控えめに、されど燦然と輝く太陽。押し広げた様な薄い雲のかかる青空。そしてその下で輝く雪原。霜枯れた森。
そして中央の、微かに盛り上がった雪原の上に佇む――少女。
粉雪の様な肌に頬と唇の紅が映え、静かな瞳には、その先にも延々と続く雪原が映し出されていた。少女は全身を灰色の外套で包み込み、小さな手で暴れる銀髪を押さえていた。
「最高だ……これこそが、私の天国……」
私は感激の涙を零し、椅子から立ち上がろうとした。
どさっ。
急に脱力し、私は顔面から床に落ちた。次いで、激痛が全身を掻き毟る。
私は嗚咽を漏らし、唸り声を上げながら必死に上体を起こした。
嘗て無い激痛。それは明らかに私の終わりの時を報せていた。
もう少しだけ。もう少しだけ! この絵を見させてくれ!
私はカンバスを支える三脚にしがみ付いた。私の体重でカンバスが崩れ落ちる。
「あ……ああ……ああ!」
私は落ちるカンバスを受け止め、今度は背中から床に落ちた。
徐々に、痛みは消え始めていた。
狭まり始めた私の視界一杯に、少女が映っていた。
「君を、描けてよかった……」
私の視界が光を失った。鈍い音と――鈴が鳴るような綺麗な声が、最後に私の鼓膜を震わせた。
「描く必要なんてなかったのに」
私の体は、心は――蕩けてしまったかの様に全ての感覚を失った。
「た……」
ただいま。そう言いかけて、少女は口を噤んだ。
家にはおじいちゃんしか居ない。言っても、無視をされるだけ……。
少女は少しだけ表情を暗くして、家の中を歩いた。テレビのあるリビングに行くには必ず地下室の前を通らなくてはならない。
その時、少女はある異変に気付いた。
「なにこれ……」
ふと見ると、階段を下った先にある地下室に続く扉の下から、真っ白な粉らしき物が垣間見えていたのだ。
好奇心にかられた少女は、気付かれないよう足音を殺し、静かに扉の前にしゃがんだ。
そして、真っ白のそれに手を伸ばす。
「冷た」
驚いて少女は手を引いた。それは、紛れも無い雪だったのだ。
「どうして、こんな所に……?」
おじいちゃんは滅多に外出をしない。特に、絵を描いてる最中には、殆どありえない。それなのに……。
雪の肌寒さが、少女まで届いた。まさかと思って少女が扉に触れると、扉が氷の様に冷えている事に気付いた。
「!」
少女の脈が早まった。扉の横の隙間から、びっしりと雪が見えていたからだ。それは地下室の全てが雪に覆われていることを暗示していた。
「おじいちゃん」
興奮して、少女は扉を引いた。
途端に雪が崩れ落ち、少女を覆った。
「おじいちゃん、おじいちゃん」
しかし少女は怯まず、決死の思いでそこから這い出すと地下室内に飛び込んだ。
眩い白銀の世界を掻き分け、少女は進んだ。
意味がわかんないよっ。どうなってるの!? おじいちゃん! 何処!?
少女はおじいちゃんが好きだ。いや、好きだった。
ある時を境に、おじいちゃんは冷たくなってしまった。
だから少女はその時から、おじいちゃんと距離を置くようになった。怖くなった。だけど、いつか元通りの優しいおじいちゃんに戻ってくれると信じていた。
「おじいちゃん!」
何度叫んでも返事は返ってこず、少女はますます慌てた。
「おじいちゃん! おじいちゃん!」
走馬灯の様に、優しかったおじいちゃんとの思い出が蘇る。
小さな、小さな幼女がおじいちゃんの膝の上で楽しそうに笑っていた。
――いいなぁ、おじいちゃんはいつでも好きなことできて。
幼女が言うと、おじいちゃんは困った様に笑い返した。
――誰でも歳を取れば、頑張ったご褒美に好きなことが出来るんだよ。
すると、幼女は少し黙ってから、ぱぁっと表情を明るくして言った。
――じゃあ、あたしがおばぁちゃんになったら、いっしょに好きなことしてあそぼうね。
おじいちゃんは驚いて、幼女を凝視した。しかし、すぐに表情を綻ばせると、幼女の頭を撫でながら言った。
――厳しいなぁ。もう直ぐ、私は天国にいってしまうからね。
幼女はその意味が分からなかったのか、悲しそうな顔をするでも無く、すぐに質問を返した。
――テンゴクって? どんなばしょ?
おじいちゃんは遠くの景色を眺めた。
――考えたこともなかった。天国、か……。
「そう、そうだわ……」
少女は雪原の真ん中で足を止めた。
「あの時から、おじいちゃんは……」
おじいちゃんはとり憑かれた様に、楽しくなさそうに絵を描き始めた。
「そう。それがあの方の、本当に些細な、間違いの始まり」
「だ、誰!?」
不意に聞こえた、若い声に、少女は驚いて辺りを見回した。すると。
少女が掻き分けて進んでいた柔らかい雪の上に一人の、灰色の外套とフードで全体を包み隠した小柄な女が姿を現した。
顔は見えないが、その声は確かに女性のものだった。
「誰!? おじいちゃんは!?」
興奮して少女が怒鳴りかかると、フードの女は無言で足元に広がる雪を拾い上げた。
「これは、あの方の天国」
「何を言ってるの!?」
「黙って聞いて」
フードの女のその声が発せられたのと同時に、ざわりと冷たい風が吹き、少女を撫でた。
「ひっ……」
それに悪寒を覚えた少女が思わず声を上げると、フードの女はふわりと舞い踊るように少女の目の前に降り立った。
二人の身長は丁度同じくらいだった。
「こ、こないで……」
「行かないわ。あなたが私の話を聞いて、信じてくれるのなら」
「…………」
少女は沈黙した。本当は今すぐにでも悲鳴を上げて逃げ出したかったが、今、このフードの女に背を向けると、その瞬間に背中を突かれてしまいそうな気がして、どうしても後ずさる事しか出来なかったのだ。
そんな少女の行き先を塞ぐように、フードの女は地下室唯一の出口へと歩きながら、冷たい口調で語り始めた。
「あの方……貴方のおじいちゃんは、ある時から天国を求めるようになったわ」
「…………」
やっぱり、あの時からおじいちゃんは……。
脅えながらも、少女は幼少期を思い出していた。
――テンゴクって? どんなばしょ?
やっぱり、私のあの一言が始まりだったのだろうか。私は、全然そんなつもりなんて……。
「初めは貴方に、美しい天国の絵を見せたかっただけだった。だけど、ある事と重なって、あの方は貪欲に天国を求め始めた」
「……ある事……?」
「あの方は、死期を知った。貴方達もでしょうけど」
おじいちゃんは重病だった。老衰している事もあって、医者は「長くない」と言ったらしい。私は直接聞いたわけでは無いが、それからのおじいちゃんの焦りっぷりを見ていれば、大体想像がつく。
「そして、死を意識せざるをえなくなったその時、あの方は天国を狂ったように追い求めた。いや、本当にあの方が求めていたのは……」
言いかけて、フードの女は一辺の雪を拾い上げた。
輝く雪は、何故かフードの女の掌で溶ける事なく、投げ捨てられるその時まで形を保っていた。
「天国の『形』。……それが、あの方が本当に求めていたもの」
言い終えると、フードの下で女は微笑を零した。少女がそれを見て眉を顰めると、フードの女は、その灰色のフードの縁に手を掛けながら少女に歩み寄った。
「あの人は天国の形を描く事に成功したわ。だけど、それこそが自分の天国だとは最後まで気付かなかった」
「どう言う……」
フードの女が、そのフードを外した。
銀色の髪が、ふわりと宙に舞った。
「! うそ……そ、そんな……」
狼狽する少女の前に立つその女は――少女と同じ顔をしていた。
ただ髪の色を除いて、その全てが少女と同じだった。
瞳も、肌も、体格も、声も。全て。全て。一縷の狂いも無く。
「私は、あの方の天国に描かれた、たった一人の住人。この意味、分かる?」
「…………」
「あの方は貴方を愛し続けていたわ。そして、貴方と居る時間こそが至福で、天国である事を体の何処かは知っていたの」
少女は脱力して崩れ落ちた。
「あの方は、『貴方以上の天国』を求めていたの。何故なら、貴方と言う天国は永遠で無いから」
「おじい……ちゃん……」
「私の……いえ、貴方の居る天国を描く事が出来て、あの方はとても幸せそうだった」
灰色の外套を羽織った少女の姿が、すっと明かりに透けた。
少女は悟った。消えてしまうのだと。
「ま、待って! おじいちゃんは!?」
積もった雪が残らず舞い上がり、灰色の外套を羽織った少女の辺りを緩やかに回転し始めた。
「天国に」
雪も、自分と同じ顔をした少女も、風も、全てが光り輝く粒に変わり、やがてそれも全て消え去った。
「おじいちゃん……」
そんな金色の粒子の真ん中で、おじいちゃんは横たわっていた。
ふらふらと、少女は這うようにしておじいちゃんに近づいた。
「おじいちゃん、おじいちゃぁぁん……」
そして、少女はその胸に飛びつき、両親が帰って来るその時まで、泣き続けた。
その傍らに描かれた雪原に、人の姿は無かった。
天国の――雪原の絵は、おじいちゃんと一緒に火葬した。だって――。
私とおじいちゃんの天国は、永遠じゃないから。止まっていちゃ、いけないものだから。
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2007/01/17(Wed)00:15:06 公開 / 花角
■この作品の著作権は花角さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
ここでは二回目の投稿になります。花角です。
今回は、ある出来事がきっかけで、この話を書きながら私自身、その出来事について深く考えさせて貰いました。
それは勿論、天国ではないのですけど、この話の意味合いとしては同じニュアンスを持ったものでした。
読み返しはしたものの、結構勢いで書いてしまったところなどもあるので、至らないところがありましたら、指摘して下さい。
よろしくお願いします。