- 『狐の向かう先。コーンポタージュの味』 作者:甘木 / リアル・現代 未分類
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全角13015.5文字
容量26031 bytes
原稿用紙約39.35枚
冬の終わりの夜中の公園で俺は一人の女の子に出会った。とても不思議な女の子に……。
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「ねぇ、北はどっちか知らない?」
「を? わぁああ!」
俺は情けない叫び声をあげてベンチから転げ落ちてしまった。
大袈裟ななどと言わないでほしい。真夜中の公園のベンチでうとうとしている時、不意に声をかけられたら誰だって同じ反応を示すと思う。ましてやアルコールが入っていて身も心も無防備に弛緩していたんだから、これぐらいのリアクションで済んだのは常日頃冷静沈着と謳われた俺だからだろう。しかし、笑いをとるリアクションとしたらベタ過ぎる反応かもしれない。ベンチから転げ落ちると同時に前転やバク転を織り交ぜ、公園を一周するくらいのリアクションじゃなきゃ客は満足してくれないかも……って、客って誰だよ! クソ寒い夜の公園に誰がいるって言うんだよ!
「だいじょうぶ?」
…………いた。
少しばかりの自己弁護と自惚れと身体を張ったギャグについて考察していたら、頭上から女の声が降ってきた。
「あ? ああ、大したことない」
俺は公園のベンチから転がり落ちて、地面で仰向けになることが今の流行なんだぜ、そんなことも知らないのかよ──って感じで、何事もなかったかのように立ち上がる。本音を言えば、転がり落ちた時に左肘をぶつけてジンジンと痺れているのだが、革ジャンのポケットに左手を入れて握り拳をつくることで堪えてみせる。
「仰向けになったまま動かなくなったから心配したよ。私が声をかけたせいで転がり落ちてさ、打ち所が悪くて死んだなんてなったら嫌だからね。もし死んだとしたら傷害致死罪とかになるのかなぁ。それとも殺人罪? こんなことで刑務所には行きたくないよ。ねぇ、私どうすればいいと思う?」
傷害致死って……俺、死んでないし。
「刑務所なんか入ったら大変だよ。私みたいな可愛い子は、可愛さ故に同房の人に妬まれて苛められたり、看守の人が私の身体目当てに言い寄ってきて弄ばれるんだ」
はい?
「どっかのお間抜けのせいで刑務所になんか入りたくないよぉ」
お間抜けって、俺のことかよ?
「どうしよう?」
なに言っているんだ。俺は死んでねぇだろう。
「逃げたほうがいいかな。お間抜けの一人や二人が死んだところで、ケーサツだって真剣に捜査なんかしないよね。証拠さえなければ私とお間抜けとの接点はないし、目撃者もいないからバレないよ。きっと」
女は俺が転げ落ちたベンチに座りこんで、腕を組んで妄想を広げている。
酔っぱらっているのか? ひょっとして頭が少し足りないのか?
「……足跡は消して……指紋は手袋をしているから大丈夫だよね。そうだ、お間抜けを後ろの藪に隠しちゃえば当分見つからない。上手くいけば腐って身元なんか分からなくなるかも……」
俺の生存を無視して犯行の隠蔽に思案を巡らせはじめやがった。確かにこの女と俺とはいま初めて会ったばかりだから、これまでのつながりはない。それに三月の終わりとは言え、今日みたいに真冬の再来の思わせるような日の、ましてや真夜中の公園に来るような酔狂なヤツはいないだろうから目撃者はいないはず。現に周りを見渡しても無人のベンチが点在するだけ。
だいじょうぶ。きっと、だいじょうぶ──女は自分に言い聞かせるように呟き、完全犯罪(?)の目途がついたのか大きく頷き、
「やったよぉ。完全犯罪成功だよ」
瞳に喜色を浮かべて俺を見上げる。
「そりゃ良かったな」
つられてこたえてしまったが、被害者の俺に同意を求めるなよ。
「うん!」
女はミトンをはめた両手で握り拳をつくり嬉しそうに微笑む。
「ところで、本当に完全犯罪か? ここに来るまでは誰にも見られていないんだろうな?」
「あっ!」
小さな悲鳴とともに輝いていた瞳が艶消しの暗色に変わる。
「私……この公園の近くまでタクシーで来ちゃった。顔覚えられてるかも」
「だいじょうぶじゃないか。人間の記憶なんて案外曖昧なものだしさ」
俺は慰めるつもりはなかったのに、口が勝手に動いてこたえていた。いや、本当なら得体の知れない女の相手などせずさっさと帰るのだが、女の座るベンチの前に突っ立ったまま動けず──見とれていた。
背中の真ん中まで届きそうな長い髪。公園の弱々しいライトのせいか青白く見える肌の色。黒目がちのちょっとつり上がった切れ長の目、細いけどくっきりとした眉毛。すっーと通った鼻筋、鋭角的なラインをつくっている頬と顎。やけに生々しい赤色をした唇はさっきから動くことをやめず、妄想をだだ漏れさせている。
ま、ぶっ飛んだ思考を除けば顔は綺麗だ。顔は。スタイルは全然分からない。もこもこの黒いダウンジャケットを着ているし、ジーパンもサイズが合っていないのかだぶっとしている。ただ、ダウンジャケットの襟から見える首が心許ないほど細いのがやけに目につく。
早い話が女は美人だった。ずばり俺のストライクゾーン。目の前に好みの女がいるのに立ち去るほど俺のリビドーは枯れていない。それに深夜の公園に女一人残して立ち去るのは紳士としては問題があると思う。俺が紳士かどうかは識者の判断によるだろうけどさ。
「でも、私って可愛いじゃない。こんな可愛い子の顔を忘れるかなぁ……私、可愛いく生まれてきたせいで完全犯罪もできないんだ」
女はタクシーを使った己の不用意さを悔いているのか、投げ出した足の間に両手を突っこんで肩をすくめている。
なんだか哀れを催す姿だねぇ……、
「ま、気を落とすなよ。完全犯罪は難しいから完全犯罪って言うんだ。完全犯罪はできなくて当たり前なんだよ」
って、だからなんで俺が慰めているんだよ。完全犯罪なんて、この女の妄想じゃねぇか。妄想に付き合っている俺ってバカじゃないのか。
「ありがとう。そうだよね」
女は俺を見上げた。その顔には安堵の笑みが浮かんでいる。
勢いで言った慰めだけど、女の嬉しそうな笑みを見たら言って良かったかなと思ってしまう。
「こんどこそは頑張るよ。誰にも見られずあなたを殺して完全犯罪を成功させてみるね」
あのぉ……完全犯罪を勧めているわけじゃないんですけど。と言うか、次回の被害者もまた俺なのかよ。
「ま、頑張ってくれ」
「うん!」
女は気持ちがいいほどの表情で頷いた。
* * *
「ところでさ、俺になにか聞きたいことがあったんじゃないの?」
「忘れていた」女はぽむっと手を叩いて小さく首を振る「君をからかうのが面白くてすっかり脱線しちゃった。そうそう聞きたいことがあったんだよ」
からかってたのかよ。まぁいいけどさ。
「で、聞きたいことって」
「北はどっちか教えてほしいんだ」
「北?」
「うん。私、東京に来てからあまり出歩いていないんで地理に疎くて、どっちが北だか分からないんだよ」
「引っ越してきたばっかりなんだ。入学かなにかで地方から出てきたの?」
「そんなところ」
女はうん、うん、と頷いて照れるような笑いを浮かべる。
「ふーん」
「で、どっちが北か分かる?」
「北ねぇ……ところでここは……」
俺は周りを見わたした。東京生まれで東京育ちだけど、いちいち方位を気にして暮らしてはいない。ましてや今日は飲み会で飲み過ぎたんだ──ハッキリ言おう、俺はいま自分がどこにいるかさえ分からないのさ。飲み屋を出たところまでは覚えているけど、そこから先の記憶が曖昧で。どこをどう歩いたのかは分からないが、公園を見つけた時には足が棒になりそうなほど疲れ切っていた。それでちょっと休もうとベンチに座って──俺こそ自分がいまどこにいるか知りたいくらいだ。
高いビルの航空灯がチカチカと瞬いている。自由が丘で呑んでから北に向かったことは朧気に覚えている。でもいくら歩き回ったとしても新宿までは行っていないはず。と言うことは、あの高い建物は三軒茶屋のキャロットタワーだろう。じゃあここは駒沢公園あたりかな。
よく見れば矢印の下に『国立病院東京医療センター』とか『サッカーグラウンド』と書かれた案内がある。国立病院東京医療センターのそばでサッカーグラウンドがある公園なんて駒沢公園ぐらいしかない。
「キャロットタワーが右に見えるんだから……北はあっちだよ」
俺は照明が少なく闇に飲みこまれていく通路を指差した。
「ありがとう。やっと方向が分かったよ。道を聞きたくても人は歩いていないし、交番もコンビニもなくって困っていたんだ」
「でもさぁ、この近くまでタクシーで来たんだろう。だったら途中で降りないで目的地まで乗っていけば良かったのに」
「それはそうなんだけどぉ」
女はダウンジャケットのポケットの手を突っこみ肩をすくめる。
「タクシーに酔っちゃってさ、具合悪くなっちゃって降りちゃった。ほら、タクシーって独特の臭いがあるじゃない、あの臭いが苦手で」
「そうだっけ? 臭いなんて気にしたことなかったなぁ。と言うかさ、車に酔うなんて子どもじゃん」
「女の子はデリケートなんだよ」
女は頬膨らませてぷいっと横を向く。
拗ねるなんてやっぱ子どもじゃん。
でも、子どもじみた仕草は妙に女に似合っていていた。
「ああ、分かったよ。怒るなよ」
「怒ってないわよ! 道教えてくれてありがとうね。じゃあ、さようなら」
女は横を向いたままベンチから立ち上が…………ろうとして腰を上げたが、糸が切れた操り人形みたいにすとんっと腰を落とす。
なんだ?
女は自分の身体を抱きしめたままうずくまった。呼吸が不規則で凄く苦しそうだ。こ、これって、なんかやばくないか……。
俺は突然の事態というヤツが苦手だ。とくに病気や怪我の時にはオロオロしてしまう。いまだって背中を丸める女に手を差し出すのも怖くて、ベンチの背もたれを掴んで女を覗き込むようにして声をかけるのが精いっぱいだ。
「おい、どうした? 具合が悪いのか? だいじょうぶか?」
自分自身の声のはずなのに、情けないことに声が裏返っていて、なんだか他人の声のように感じられる。
「だいじょう……ぶ…………すぐ……すぐ治まるから…………み、水を……お願……い…………水を持って……きて」
女は絞り出すように言葉を紡ぎながらも、顔に笑みを浮かべる。でも、弱々しくてぎこちない笑みが、どれだけ辛いかを如実に語っている。
「わ、わかった。すぐ持ってくるから待ってろ!」
「ありがとう……落ち着いたよ」
女はペットボトルのミネラルウォーターを両手で抱え、はぁぁと息を吐き出す。
「おい、本当に救急車とか呼ばなくていいのか」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。いつもの発作だから。あれさ、見た目よりひどくないんだよ、驚かせちゃってゴメンね」
「ならいいけど」
「心配してくれてありがとう。ホント感謝だよ。神様仏様お間抜け様だよ」
女はミトンをはめた手をぱふっと打ち合わせて俺を拝む。
お間抜け様ってなんだよ! メチャクチャ御利益のなさそうなネーミングじゃねぇかよ。と言うか、
「わざわざ飲み物を買ってきた恩人に向かって〈お間抜け様〉とは大した言い草だな」
「ゴメン。怒った? だって私、君の名前知らないしさ。あっ、そうだ自己紹介しようよ。私は大庭花蓮(おおば・かれん)」
「大馬鹿れん? 凄い名前だ」
俺のことを〈お間抜け〉なんて言いやがったくせに、自分だって〈大馬鹿〉じゃねぇかよ。
「誰が大馬鹿よ。おおば、かれん。変なところで区切らないでよ」
「そりゃすまなかったな」
「で、君の名前は?」
「三郎丸。三郎丸義晃(さぶろうまる・よしあき)だ」
「ふーん、珍しい名字だね。三郎丸。さぶろう……まる。ちょっと言いづらいかな」
花蓮はミネラルウォータのボトルに口を付けたまま、飲むわけでもなくじっと俺の顔を見ている。
「そうだ! 三郎丸って言いづらいから、サブちゃんって呼んでいい?」
は?
「そんな演歌歌手みたいな呼び方は勘弁してくれよ」
「サブちゃんが嫌なら、お間抜け君って呼ぶわよ」
妙に勝ち誇った顔で花蓮は手にしたペットボトルを俺に突きつける。
勘弁してくれよ。お間抜け君なんて呼ばれているところを誰かに聞かれたら格好悪いじゃん──周りに人はいないけどさ。それに、お間抜けと言われるたびに自尊心が傷つくんだよ。こう見えても俺は繊細なの。
俺の心を読んだかのように、花蓮は上目遣いに俺を見て猫を思わせる笑みを浮かべ、小声で「お間抜け君、お間抜け君」って呟く。
「分かったよ。サブちゃんでもなんでも好きに呼べよ」
「うん。そうするよ。サブちゃん」
あぁ、サブちゃん決定か。
「サブちゃんってさ、いい人だよね。見ず知らずの私のために色々してくれたしね。でも、どこか抜けてると言うか、おっちょこちょいだよね。だってさ、私が水って言ったらこんなに買ってくるんだもん」
花蓮は自分の右側を指差す。
そこには──ミネラルウォーター、缶コーヒー三本、ミルクティーとストレートティーの缶、缶のお茶二本、コーラー、コーンポタージュ缶、オレンジジュース、缶のお汁粉、スポーツドリンク、それになぜだかオデン缶まで並んでいる。
「頼んでおいて言うのも悪いとは思うけど、こんなに買ってどうするの?」
花蓮は出来の悪い生徒がしでかした悪戯を咎める先生みたいに、呆れと諦めの混ざったため息をつく。
「いや、ちょっと気が動転してさ」
そう、俺は花蓮の発作を見て軽いパニックになっちまったんだ。水を探して公園を走っている時見つけた自販機に千円札を突っ込み──それも二回も──手当たり次第に商品ボタンを押した。だってホットがいいのかコールドがいいのか分からないし、本当に水でいいのか、それとも水とは飲料物を表す総称なのか分からないじゃないか。だからボタンを端から順番に……買い過ぎなのは認めるけど、俺の気遣いに対してもっと感謝してくれてもいいじゃん。
「買っちゃったものはしょうがないね。ねえ、隣に座りなよ。二人で飲もう」
「ああ」
俺は飲み物の群を挟むようにしてベンチに腰を下ろした。
「サブちゃん遠慮しないでね。どれでも好きなのを飲んでいいよ」
飲んでいいよって……俺が買ってきたんだけどなぁ。
「……サブちゃんって大学三年生なんだ。と言うことは二十一歳?」
「ん」
俺は二本目の缶コーヒーに口を付けた。うわぁ、凄く甘い。なんか気持ち悪い。たて続けに缶コーヒーを飲むんじゃなかった。
「じゃあ私の方がお姉さんだね。私、今年で二十二歳だもん」
なんでか分からないが、花蓮は偉そうに胸を張る。たかが一歳しか違わないじゃん。
「二十二歳ねぇ……見えねぇな。よくて大学一回生、へたすりゃ高校生ぐらいにしか見えないけど」
「あっ、傷つくぅ。そりゃ私だって自分が童顔だってことは自覚してるよ。でも、改めて他人に言われると傷つくんだよ」
花蓮はミルクティーの缶を両手で持って、まるで絵本の熊が蜂蜜壷をなめるみたいに、ちょっと猫背になって啜る。
「若く見えるならいいじゃん」
花蓮は本当に若く見える──二十二歳と言われなかったら、俺は花蓮を高校生に思っていたろう──いや、若いと言うより年齢不詳と言った方がいいのかもしれない。ぱっと見、高校生ぐらいにしか見えないのだが、時たま妙に大人びて妙に達観した表情を見せるんだ。
「そうかもね。サブちゃんのようにおっさん顔よりはマシだもんね」
と、花蓮は子供じみた笑みを浮かべる。
「うるせぇな。貫禄があるって言えよ」
俺は老け顔だ。高校の時には大学生と間違われることがよくあった。そのおかげで高校時代にどれだけ深夜の繁華街を徘徊しても補導されることはなかったが、顔で得した思い出はそのくらいだ。
「高校生にしか見えない二十二歳よりマシだ。それにな、俺みたいな貫禄ある顔は歳をとってもあんまり老けこまずに変わらないままなんだぜ。逆に童顔のヤツは急に老けこんだりするんだ。将来俺がナイスミドルになった時、きっとオマエなんてシワシワのババアさ。その時見て驚けよ」
「そうだね。ナイスミドルになったサブちゃんを見られたらいいね」
花蓮は眩しさを堪えるように目を細めて俺を見つめ、柔らかい声で言う。
ありゃ? てっきり「そんなことないわよ!」とか「美人は永遠に美人なの!」なんて文句が来るものと構えていたのに、ちょっと肩すかしだ。
花蓮は視線を外すと真っ直ぐ正面を見て──闇が広がる公園の奥を見つめて──「見られたらいいね」と、もう一度呟く。
* * *
それから俺たちは飲料品(一部食料品を含む)の試飲会を延々と続けていた。試飲会と言っても飲むのは専ら俺だ。花蓮はミルクティーをちびちび飲むだけで、最初に口をつけたミネラルウォーターも三分の一も飲んでいない。そのくせ偉そうに「次はこれ飲んで」などと言っては一方的に俺に飲ませ、
「お汁粉は美味しかった?」
ニヤニヤしながら聞いてくる。
「ぬるいし甘すぎて喉にへばりつくようで美味くねぇ」
「やっぱりそうかぁ。私も美味しくないんじゃないかなと思っていたんだ」
だったら飲ませるなよ。
「甘いのはもう嫌でしょう。じゃあ次はこれ。これなら甘くないしね」
オデン缶をぐいっと俺の方に押し出す。
ちょ、ちょっと待ってくれ。俺はもうコーヒー二缶、黒豆茶、コーラ、ストレートティーにオレンジジュースを飲んでいるんだぜ。もうこれ以上飲んだら死ぬ。絶対死ぬ。ジュースで溺死してしまう。そんな死に方はしたくねぇ──俺は美人の嫁さんをもらって子どもを二人作って、たまには嫁さんとケンカしながらも長生きして、最期の日には子どもと孫に囲まれる中、嫁さんの手を握って「良い人生だった」と言って息を引き取る予定なんだ。こんなところで死んでたまるか!
「あれ、どうしたの? 私が蓋を開けてあげようか」
「ちょ、ちょい待ち!」
蓋を開けるためミトンを外そうとする花蓮の手を押さえる。
「遠慮しなくていいんだよ。いまを逃したら私みたいにカワイイ娘にオデンをお酌してもらう機会なんてないよ」
オデンのお酌なんていらねぇ……ああ、俺のバカ。なんでオデン缶なんか買ってきちゃったんだろう。って、後悔している場合じゃない。いまはこのピンチをどう逃れるかが先決だ。花蓮は食わせる気満々だし……なにか気を逸らせさせないと。
そうだ!
「なあ、北に行かなくていいのか?」
「ん。別に急ぐわけじゃないから」
「でも、こんなところでグズグズしてたら風邪をひくだけだぞ」
「これ温かいんだよ。それに私、寒さには強いんだ」
と言いつつ、花蓮はモコモコのダウンジャケットに首を埋める。
いいぞ、いいぞ。花蓮の意識がオデン缶から逸れたようだ。
「寒さに強いのか。俺は全然ダメ。寒いと生きているのも嫌になるね」
「そうかなぁ、寒い方が身が引き締まって、自分がいま生きているって実感できるじゃない」
「実感なんかできなくていいよ。俺は断然暖かい方がいいね。冬はもういいから、早く春にならないかなぁ」
「私だって春は嫌いじゃないけどさ、寒い冬があるからこそ春の暖かさが幸せに感じるんじゃない」
「そんなもんかね」
「そうだよ」
花蓮は力強く頷く。
「寒さが好きだから北に行こうとしていたのか? でもどうしてこんな夜中に行こうとしたんだよ? 昼間だったら電車でもバスでも何でもあるじゃないかよ」
「それは……」
花蓮は言葉を飲みこんだまま公園の通路の奥──俺がさっき教えた北の方角を──暗闇が広がる方を見つめている。俺もつられて闇を見つめたが、闇は闇でしかなく黒い塊にしか見えない。見ていて楽しいものじゃない。
「サブちゃんは『狐は死して必ず丘を首にす』って言葉を知っている?」
しばらくして平坦な声が返ってきた。
「なにそれ?」
狐がどうしたって言うんだ。俺が聞いたのは夜中に北に行こうとした理由だよ。狐は関係ないじゃん。それともキタキツネ絡みの因縁話でもあるのだろうか……キタキツネって夜行性だったっけ?
「屈原という人の詩の一節だよ」
「屈原って古代中国の楚の国の大臣だったっけ?」
こう見えても大学の一般教養では中国史を受講したんだ──出席だけでテストがないから単位が取りやすいって理由だけどさ。
「そう。国の危機の際に国王に諌言したけど、逆に流刑の罰を受け、楚の滅亡の時に自殺した人」
花蓮は闇を見つめたまま言う。
「屈原の詩に『哀郢』というのがあるの。流刑になった屈原が祖国を懐かしんでうたった詩なんだ。『狐は死して必ず丘を首にす』は、その中に出てくる一節」
「…………」
花蓮が何を言いたいのか分からず、俺は黙っていた。花蓮は俺の無反応さを気にすることなく言葉を続ける。
「意味はね、獣である狐ですら死ぬ時は必ず古巣の丘の方を枕にして臥すんだって」
「はあ……そうですか」
我ながらマヌケな反応だとは思うけど、俺にはこれ以上の反応はできなかった。花蓮が何を言いたいのかさっぱり分からない。闇を見続けている花蓮の横顔を盗み見ても、磁器のような白い顔には感情が浮かんでいない──感情を超越した無の境地というものがあるなら、いまの花蓮の顔になるんじゃないかなぁ──俺はどう話せばいいのかも分からず、ダウンジャケットとミトンの隙間に見える白く細い手首を見つめていた。
「………………あのさ、」
花蓮は言葉を切って、ゆっくりとベンチから立ち上がる。そして俺の正面に立つと、少しだけ腰をかがめて笑みを浮かべる。まるで秘密を打ち明ける子どものような、期待と不安と仲間意識が混ざったような笑みを。
「私ね、もう長いことないんだ」
あまりにもあっけらかんとした物言いに、言葉の意味が理解できなかった。
私ネ、モウ長イコトナインダ──言葉として、日本語として、耳に入ったはずなのに言葉が頭の中をすり抜けていく。とても重要なことを言われたような気はするんだけど……。
「さっき見たでしょう発作、あれ心臓の発作なの。私のポンコツ心臓はもう限界みたいなんだよね」
「ポンコツ心臓?」
「うん。特発性心筋症と言う病気なんだ」
花蓮は自分の胸を指差して、わざとらしく渋面をつくってみせる。
「私、七五〇グラムの超未熟児で生まれたんだ。そのせいか分からないけど、肺も心臓も内臓が全般的に奇形なんだよ。生まれた時お医者さんはこの子は二十歳まで生きられないって母さんに言ったんだってさ。でも、その予想は大外れ。なんせ私は二十二歳だからね」
花蓮はミトンの親指をぐっと立ててにぱっと笑う。
「普通の子みたく走り回って遊んだりはできなかったけど、高校までは平穏に過ごしてきたんだ。私もこのままずっとこの状態を維持できるんじゃないか、なんて思っていたんだよね。でもさぁ日本の医学はやっぱり凄いよ。お医者さんの予想じゃないけど、大学入試前に心臓がダメになっちゃった。身体の負担が全部心臓に行っちゃったのかなぁ。おかげで受験はできないし、それからは入退院の繰り返しだよ。私は東京の大学に行きたかったんだけどね」
疲れたのか花蓮はベンチに座るとひとつ小さく息をつく。
「そうなんだよねぇ。大間から出たかったんだよねぇ……あ、私の故郷は青森県の大間町なんだ。サブちゃんは大間町って知ってる?」
「いや、知らない」
地理は苦手だ。俺の乏しい脳内日本地図では北は従兄弟が住んでる郡山までで、そこから先はまったくの白地図。青森県は知っているけど大間町がどこにあってどんな町なのかは見当もつかない。
「えーっ知らないのぉ。マグロの一本釣りとかで有名なんだけどなぁ。しょうがないなぁ、簡単に言うと恐山のある下北半島の突端にある町だよ。海の向こうは北海道。晴れた日には北海道が見えるんだよ」
「そうなんだ」
何となく場所は分かった。でも、それが花蓮の言っている場所と合っているのかは保証できないけど。
「ま、知らなくても当然かな。単なる田舎町だからね。だから私も東京に行きたかったんだけどね。心臓を悪くして行けなくなっちゃった。地元で治療していたんだけどさ、最近発作が頻発するようになって、それで心臓病治療で有名な大田区のK病院に転院してきたの。あーぁ、こんな形で東京になんて来たくなかったなぁ、どうせ助からないのにさ」
頭の後ろで手を組んだ花蓮は、身体を反らして子どものように足をブラブラさせる。
「助からないって……心臓移植とか治療方法はあるんじゃないのか?」
「うーん、たぶんダメ。私は心臓だけじゃなくって内臓全般がいかれているから、移植してもたぶんどこかにまた負担がかかって壊れちゃう。それに心臓移植って凄くお金がかかるんだよ。私の家はお金持ちじゃないし、いままで結構治療代がかかっていて両親や弟に迷惑かけているから、これ以上甘えられないよ」
「でも、まだ二十二歳だろう。死んでいい歳じゃないだろう」
「『まだ』じゃないよ『もう』だよ。私、覚悟はできてるんだ。小さい頃から体が弱かったから、何となく自分は長生きできないってこと感じていたし、発作が起こるたびに自分が死に近付いていることが分かるんだ。それに二十歳まで生きられないって言われていたんだよ。いまある命はオマケみたいなものなの。まさに命があるだけめっけものってヤツ」
笑って言う花蓮の足は力無く地面をこすり止まる。
「覚悟はしていたんだけど……病院のベッドで寝てると無性に大間が恋しくなって。もう生きて大間を見られないと思うと、あんなに出て行きたかった大間が恋しいんだよ。おかしいよね」
「……恋しい」
「うん。もう、居ても立ってもいられないくらい恋しくなっちゃって、病院を勝手に抜け出して来ちゃった。無理したら死ぬかもしれないのにね。えへへへへ」
舌を出して悪戯っぽく笑う花蓮に対して、俺はなにを言えばいいのだろう? 花蓮を引き止めるべきなのか?
俺は今まで生きてきて死を自覚したことなんてない。大病を患ったこともないし、入院したことだってない。花蓮から見ればぬるま湯のような中で生きてきたと思う。
花蓮を引き止めることは簡単だ。花蓮を引きずって病院に戻ることは造作もないだろう。でも、花蓮は死を覚悟してまで故郷に向かおうとしているんだぞ。俺にそれを邪魔する権利があるのか? 命がけで行動している人間に対して、俺も命がけで押しとどめる勇気があるのか?
──ない。俺の言葉は常識ってヤツだけの中の上辺だけの知識だ。命の意味も知らない、命がけの重みも知らない、軽い言葉でしかない。
「やだなぁサブちゃんそんなに深刻な顔をしないでよ。同情や慰めが欲しくて言ったわけじゃないよ。これは私の愚痴。東京に来てから知り合いがいなくて愚痴が言えなかったからさ。なんて言うのかな、サブちゃんって愚痴を言いやすいタイプなんだよ」
俺の肩にやさしく手が置かれた。
「私のことを心配してくれてありがとう。でも気にしなくていいよ。いますぐ死ぬってわけじゃないしさ……それに私だって大間まで行けないことぐらい分かっているんだよ」
「え?」
「大間まで行くお金は持っていないし、私の体力じゃ東京からも出られないかも。それにさ、朝になったら私がいないこと病院にばれるじゃない。ケーサツに連絡されて捕まっちゃうかも。ひょっとしたら、ひどい発作を起こして行き倒れになる可能性もあるしね」
へへへって感じで笑う花蓮の顔には重苦しさも、悲壮感もない。あるのは屈託のない笑顔だけだ。
「たどり着かないのが分かっているのに行くのかよ」
「うん。大間に着けなくてもいいんだよ。病室にいると大間の空気を感じられないんだ。でも外にいると遠い大間の空気がほんの少しだけど感じられる。そして病院から一メートルでも、一歩でも北に行くだけで大間の空気が増える気がする。だから、大間の空気を少しでもたくさん感じたいから北を目指すの。北に行くにつれ大間の空気が、大間の匂いが、強くなってくるんだよ。ま、これは単なる私の思いこみなんだけどね」
花蓮は深呼吸でもするように両手を広げ息を吸いこむ。そしてなにかを思い出したようにぐるりと公園内を見回す。
「ところで、ここって時計がないんだね。ねぇ、いま何時か分かる? 私、時計も携帯も持ってこなかったんだよ」
俺は革ジャンの袖をめくって三時四十二分であることを告げる。
「もうそんな時間なの……それじゃあ私そろそろ行くよ。北に向かう冒険の続きを始めなきゃ。朝になって病院に気付かれる前に距離を稼いでおかないとね。ここでサブちゃんに会えてよかったよ。東京に来てこんなに楽しかったのは初めてだよ。私に付き合ってくれてありがとうね」
ぺこりと頭を下げ、花蓮はゆっくりとベンチから立つ。
「俺も一緒に行くよ。これもなにかの縁だろうからな」
同情と憐憫が入り混ざった気持ちに押されて、俺の口から言葉がこぼれる。いや、それだけじゃない。俺自身が本当に花蓮と一緒に行って、大間の空気を感じてみたかったんだ。
「ううん。サブちゃんは来ないで」
立ち上がろうとした俺を花蓮は手で制し首を振る。
「サブちゃんの気持ちは嬉しいけど、これは私の冒険なの。冒険ってアクシデントやスリルがあるから面白いんじゃない。でも、サブちゃんが一緒に来てくれると、私はサブちゃんに頼っちゃうと思うから。そうなったら冒険は終わり。だからここから先は私一人で行くよ」
「でも……俺も大間の空気と言うものを感じてみたいんだよ。俺も手助けをしたいんだよ。東京の地理は分からないだろう。また迷っちまうぜ」
「ありがとう」
優しい笑みを浮かべて礼を言うけど、その中には確固とした拒絶の響きがある。
「ゴメンね。あっ、そうだ! サブちゃんの気持ちとして、このオデン缶とミネラルウォーターをもらっていくよ。ほら冒険には水と食料は欠かせないからね」
花蓮はダウンジャケットのポケットにオデン缶とミネラルウォーターのペットボトルを突っこんだ。そして、ミトンを外すと、ベンチに置いてあるコーンポタージュの缶を掴み上げ軽く振る。
ぺしゅ。
花蓮の指がプルトップにかかり小さな音を立てた。
「はい」
コーンポタージュの缶を俺の鼻先に突きつける。僅かに残っていた温もりが、これが最期とばかりトウモロコシの甘い匂いを漂わせる。
「サブちゃんはここで試飲会を続けてよ。せっかく買ったんだもん、飲まなきゃ勿体ないじゃない。まだオレンジジュースもコーヒーもお茶も残っているんだよ」
なにもいっぺんに飲む必要なんてないじゃん。缶ジュースなんだからすぐに腐るわけじゃない。放っておいてもだいじょうぶなものばかりだ。ここに放置したって買ったのは俺だし、俺自身にはこいつらに執着も未練もない。なのに俺は……コーンポタージュの缶を受け取っていた。
「こんどこそ行くよ。さようならサブちゃん」
花蓮は子どものようにぶんぶんと手を振って別れを告げる。
別れの言葉は「またこんど」でも「いつか会おうね」でもなく「さようなら」だ。その一言が強い意志となって俺をベンチに縛り付ける。
俺はベンチに座ったまま、ゆっくりとした足取りで北に向かう花蓮の後ろ姿を見つめていた。後ろを振り向くことなく、前だけを見つめて歩く姿を。
その姿が闇に溶け込む寸前、花蓮は振り向いた。
「ねぇ、コーンポタージュは美味しかった?」
小さな声だったけど、俺の耳にはしっかりと聞こえた。それはいまにも笑い出しそうな楽しげな声。
「か、花蓮……」
けど、花蓮は俺の答えを聞くよりも早く闇の中に姿を沈ませてしまった。
俺はコーンポタージュの缶を握りしめたまま──缶を握りしめていることすら自覚はなかったが──花蓮を飲みこんだ闇を見つめていた。分かったことは、闇の中にもう何もいないことだけ。
花蓮は行っちゃったんだな。俺にコーンポタージュを押しつけてさ。
俺はコーンポタージュを一口飲んだ。
もう冷たくなっていて美味しくなかった──トウモロコシの甘味も、ミルクのふくよかさも消えている──でも、ほんの少しだけ大間の空気の味がした。
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■作者からのメッセージ
久しぶりの投稿になります。12月の中旬から風邪をひいて体調を崩し、忙しさも加わって、小説も書けずに年を越してしまいました。初めはショート・ショートのつもりで書きだしたのに、久しく文章を書いていないとペースというものが分からなくなってしまうのですね。気がつけばこの長さになってしまいました。
この作品は屈原の詩集を読んでいる時に思いついたのですが、当初のアイデアはどこかに消え去り、いつの間にやら得体のしれない作品に(笑。
ネタバレになりますが、特発性心筋症の人間があんな発作を起こしたら確実に死んでいます。そこは小説の妙と言うことで御寛恕下さい。
このような作品ですが読んでいただけたら幸いです。また一言で構いませんので、御意見・御感想などいただけると嬉しいです。