- 『暁の空に君の夢を』 作者:渡瀬カイリ / リアル・現代 未分類
-
全角48742文字
容量97484 bytes
原稿用紙約162.9枚
医者の家族が癌になったら。医療関係者が家族としてできること。病理医とその妻の二年半の記録。
-
暁の空に君の夢を
▼二〇〇三年
▼初夏
「結婚するから」
焼き鳥片手に、目の前の男はそういった。
――結婚。……誰が? 誰と?
「結婚するから」
もう一度その男はいった。今度は少し苛ついた声で。
俺は何と返していいのか分からなかったので、とりあえず、へぇ、とあいまいな返事をした。
目の前の男、志村は、決して不細工ではない。男にしては柔らかく、漆黒という表現がぴったりの髪、人形師が作ったように繊細な顔立ち。不細工どころか、どっちかというと美形の部類に入るだろう。ただ恐ろしく鋭い眼光を放つ切れ長の目と、口数が少ないのとが災いして、普通の女性はおろか職場の人間ですらあまり近付かない。性格も悪くはないが、何よりもその雰囲気と口調が全てを台無しにしている。しかも、こいつは面倒くさがってほとんど人付き合いをしない。
犬に例えるならドーベルマン。よく訓練された軍用犬。主人には忠実で、仕事には熱心だけど、他人にほいほい尻尾は振らない。
他人には懐かないこの男と、結婚したいという相手が世の中にいるのだろうか(もちろん反語)。どう考えても、こいつが結婚するとは思えなかった。
「一応聞きたいんだけど、その主語は誰なわけ?」
俺のリアクションの薄さが、志村の機嫌を損ねたらしい。少し鋭さを増したやつの視線に俺は慌てて、やっとの思いでそれを口にした。
「……主語? ……そんなの、俺に決まってるだろうが」
俺の質問は想定外だったのか、志村は一瞬あっけにとられたような顔をして答えた。
「……本当に?」
「……悪ぃかよ」
ありえない。この男に限って、結婚なんてありえない。
ただ、悲しいかなこの男は、こんなに真剣な顔で冗談を言う男でもなかった。
「えーと……相手の方はどういう……」
ばしっ。
こいつと結婚するなんていう物好きの顔がいっそ見てみたい。そう思って口にした瞬間、俺の目の前五センチのところに、一枚の写真(らしきもの)が突きつけられた。
「可愛いだろう?」
……そんなに自慢げに言われても、五センチの視界は近すぎて逆に見えない。
俺は少し顔を引いて、志村から写真を受け取る。
見ると、そこには志村にはもったいないような、エプロン姿の美人が優しい笑顔で写っていた。
「松井志保。ルタシーの」
「……嘘だろう?」
ルタシーはうちの病院から歩いて五分の喫茶店。高校生の頃から入り浸っている俺たちは、もう立派な常連だ。
病理医をやっている志村は、論文だの原稿だのをよく書く。不思議なことに、あの店で書いた文章は高く評価がされるので、緊急の時(こいつはたまに外科もやる)は携帯で呼び出すことにして、職場ではなくあの店に出向くことが許されていた。
写真の彼女、松井嬢はそこの看板ともいえる店員。紅茶に詳しく、興味のある客には惜しみなく淹れ方だのブレンドのレシピだのを公開している。三年前に彼女が店にきてからは、コーヒーが多かった店のメニューに紅茶が増えた。
小柄で華奢な身体に色白の肌。艶やかで長いストレートの髪。いつも穏やかな笑顔を絶やさず、誰にでも優しい、志村好みの大和撫子。むしろ、みんなの人気者。
その皆の人気者と、紅茶一杯で数時間居座る厄介な常連が、何を間違うと結婚するということになるのだろう。
確かに、こいつが彼女に好意を抱いているのは知っていた。けれど、人付き合いの苦手なこいつの好意なんてたかが知れている。せいぜい遠目で見て和む程度。注文以外の言葉を交わすことすら困難な状況だったはずなのに……。
「式とかは挙げねぇけど、一応……正樹には報告しとかねぇとまずいと思ってな」
そういって志村は少し照れたように笑った。
その晩は、祝賀飲みと称して、かなり遅くまで騒いだ。
志村とは子供のころからの付き合いだけど、あんなに嬉しそうに笑うのを見るのは、本当に久しぶりだった。
◆ ◆ ◆
都心から私鉄で二十分。そこから徒歩でさらに二十分。商店街と住宅地を抜けて、畑に差し掛かり、いいかげん、道を間違えたのではないかと思うころに見えてくる雑木林。住所は一応東京都だが、周りの景色は山村のように自然にあふれている。その雑木林の真ん中に、不自然にそびえ立つ白い建物。そこが、俺たちの勤める林中央病院だ。
名前の由来は、もちろん、雑木林の真ん中に立っている病院だから林中央病院。別に設立者の名前が林さんだったからではない。
あまりにもお粗末なネーミングセンスで命名されたこの病院は、都心からも、学閥からも隔離されてひっそりと存在している。
交通の便は決して良くないが、それなりに徹底されたインフォームドコンセントや、スタッフの技術水準の高さが、口コミで広まって、今ではそれなりに繁盛していた。……いや、病院が繁盛するっていうのは決して喜ばしいことではないのだけど……ね。
診療科は俺のいる内科を含めて十一。病床数は約百五十。六階建てのそれなりに大きな病院で、裏には俺や志村や大部分の職員が住んでいる、職員専用の寮がある。
まあ、場所だけは無駄にたくさんあるので、施設に不自由はしていなかったし、緑の多いこの場所は、療養にはぴったりの環境だった。
◆ ◆ ◆
「あの、志村先生って、どういう人なんですか?」
志村と飲んだ翌日、俺は薬剤部の大島に飲みに誘われた。
大島は薬剤部臨床課の若手薬剤師。黒目がちな丸い目に、よく笑う人懐こい性格。柴犬みたいなどといわれて、患者にも職員にも人気だった(こう考えるとうちのスタッフは犬属性が多い)。
俺も、部署は違うけれど、最近の若手の中では一番気に入っている。普段のノリが軽いのが厄介だが、仕事に対してはいつも熱心で、歳や肩書きに関係なく、正しいことは正しい、間違っていることは間違っていると、はっきりいう性格が良い。
いつも笑顔で、明朗快活を絵に描いたような男だった。
しかし、その大島が、今日は、話があるんです、と追い詰められたような目で言っていたのが気になって、少し静かに話の出来る飲み屋を選んだのだが、席に着いたとたん、やつは泣きそうな顔で切り出した。
「どういうって……どういう意味で?」
質問の意図がつかめず、俺は聞き返した。
「病理医の仕事が?」
志村のやっている病理医は、外科医や内科医と違いかなり裏方的ポジションだ。死亡診断書を書いたり、各部署から提出された組織の一部を検査して病名を決めたりするのが主な仕事なので、直に患者と接することがほとんどない。
そのため、スタッフですら何をしているのかを知らない者もいるので、まだここに来て日の浅い大島もそれが知りたいのかと思ってみたのだが、どうやら違うらしい。
「僕、従姉妹がいるんです」
少し間を空けて、ウーロンハイを飲んでから、突然、大島はそう切り出す。
「三歳年上で、今は上京して僕の家族と一緒に住んでるんですけど、僕にとっては姉みたいな存在で……」
はぁ、としか返すことが出来ず、俺は先を促した。まったく、志村にしても大島にしても、唐突に話を切り出すのが好きらしい。
「で、その従姉妹が、今度結婚するって言い出して……」
俺はすごく嫌な予感がした。
「バイト先で知り合った人って聞いたんですけど、その相手が……」
志村先生だったんです。と大島は消え入りそうな声で答えた。
俺は、世の中って狭いねぇ、とか思いつつ、現実逃避気味に日本酒をあおった。
「姉ちゃん、前に付き合ってた人がかなりひどい男だったから、うちの親も心配して。だから、職場の人に噂とか聞いて来いっていわれたんですけど、他の人に聞いても、みんな知らなくて。この病院で志村先生と仲良くって言うか、普通に付き合っていられるのって神谷先生だけだから、その……」
俺は軽い目眩を覚えつつ、ここまできたら腹を括るしかないと心の中で呟いて、追加の日本酒を注文した。
俺はあいつの生まれたときから知っているし、ほとんど兄弟みたいに育ってきたから、あいつを怖いとも思わない。でも、多分、この病院であいつとまともに話せるのは俺と、外科部長の知己さんくらいだろう。
学生時代の指導医だったあの人を、志村は師匠と呼んで慕っている。迅速で迷いのない、職人芸のような手術をする姿には、確かに先生というより師匠という言葉のほうが似合う。
「姉ちゃん、すごく嬉しそうにしてるんです。志村先生はすごく優しいって。でも病院での志村先生って、あれだから……。もし病院の先生が素の志村先生で、姉ちゃんの前で嘘って言うか、演技とかしてたら、それを知ったら姉ちゃん絶対傷つくから、それだけは……」
「演技って、そんな……。あいつは、演技なんて器用な真似できないぞ、絶対」
嘘をついても一瞬でばれる男だ。
「確かにあいつは口数も少ないし、誤解されやすいところはあるけどさ。そんなに悪いやつではないよ?」
別に、本人は相手を悪く思ったりはしていないのだが、いかんせん見た目とぶっきらぼうな口調の相互作用が相手を怖がらせる。そう伝えると、大島は、本当ですか? と泣きそうな顔で言った。
「けど、大島って、その従姉妹の人をお姉ちゃんって呼んでるんだな」
唐突な俺の言葉に、大島がきょとんとしながらそうですけど、と返す。
「だったら、あれ、お前の兄貴になるな」
それを聞いたときの大島の表情を俺は一生忘れない。
▼年末
暖冬という割には寒い冬の夜。俺は外科部長の知己さんと、志村と大島、それから志保さんを誘って忘年会と称し、飲みに行った。
一次会の食事は女性にもうけが良さそうなダイニングバーのようなところを探し、二次会は無難なところでカラオケにした。
♪エリィ、My Love So Sweet〜
「やっぱり、神谷先生のサザンは何ていうか、男の情念を感じますね。あー、僕、一度は自分の彼女の名前で歌ってみたい〜」
わけの分からない感想を述べて、大島がビールをすする。
「……そういえば、姉ちゃんたちはお互いのこと何て呼んでるの?」
「はぁ? 大島、お前ぇ何を言ってやがる」
気が付けば、大島はちゃっかり志保さんの隣に座って、笑顔全開で喋っている。
「だって、気になるんだよね。姉ちゃんはともかく、志村先生のぷ・ら・い・べ・ぇ・と」
アルコールも十分まわって、いつもよりさらに饒舌になった大島はお姉ちゃんにべったり、といった状態でにこにこと無邪気に笑う。
さすがに姉弟同然に育った従姉弟同士とはいえ、お互い仕事をしているとなかなか会う機会もないのだろう。
「普通に志保って名前で呼んでるよ? たまに志保さんって呼ぶけど。でも、玲一さんって、病院ではそんなに怖いの?」
彼女もアルコールが入ったのか、少し赤い頬で楽しそうに笑っていた。
「何で自分の奥さんをさん付けで呼ぶかなぁ。……けど、姉ちゃんは、玲一さんか。なんか、不思議な感じ。あ、職場の先生は、めちゃくちゃ怖いよ。ミスした書類があると、書いた人に音読させるの。書いた人は、何が間違ってるか分からないけど、間違ってることだけは分かるから泣きそうな顔で読むんだよ。で、読んでる時にね、ものすごい無言の圧力をかけるの。もう、あれが怖いのなんのって……。病理部って、最上階にあるんだけど、あそこは別名危険区域っていって、普通の人はほとんど近づかないんだよ」
彼女の反対側の横で、志村がその無言の圧力をかけていたが、アルコールの入った大島は無敵の笑顔で怯まない。
「それに、志村先生って、白衣着てなかったら、なんか見た目がドラキュラ伯爵っぽいでしょ? それがまた近づきにくさを演出するんだよね」
その言葉に知己さんが、苦笑しながらそうやなぁと返した。
さて、アルコールは理性を抑制し、気分を高揚させる。その魔手にやられた大島が、ついにその禁断の台詞を口にした。
「そういえば、志村先生って姉ちゃんに愛してる、とかいったりするの? あと、おはようのちゅーとか」
「大島ぁっ!」
烏龍茶を噴きそうになるのを必死に堪えて、志村が怒鳴ったが、上手をいったのは、彼女だった。
「……そういえば、言ってくれたこと……ないかも。おはようのキスは……教えてあげない」
「っ、志保っ!」
普段の「冷徹」だの「冷酷」だののイメージはどこへ消えたのだろう。送迎当番でアルコールは一滴も飲んでいないはずの志村は真っ赤になって絶句した。
「えぇ! だめじゃないですか。志村先生!」
「な、何でお前にダメだしされなきゃいけねぇんだよ。っつーか、そんなの今更……」
面白いくらいに、志村はうろたえている。
「言わなくても分かるなんて、甘いですよ。言葉は言わなきゃ伝わらないんです! それに、姉ちゃんだって言って欲しいよねぇ?」
なぜか勝ち誇ったようにいう大島。
「まぁ……ちょっとは……ね」
「ほら、志村せん……」
「黙れ!」
「痛っ!」
結局志村に拳をくらって、大島は撃沈したが、とりあえず志保さんは志村よりも上手だという認識が全員に浸透した。
▼二〇〇四年
▼年末
今年もあと一ヶ月。ある休日、志保が映画を見に行きたいというので、家から車で十五分ほどのところにある映画館に行った。
子供から大人まで楽しめるというのが売りの三部作ファンタジーの最終話。前日までにレンタルDVDで前の二話を予習させられて見たそれは、三時間という長さも感じさせず、なかなかに楽しめる内容になっていた。
志保の様子がおかしいことに気づいたのは、映画館を出て、昼をどこで食べようかと併設のショッピングモールを物色している時だった。
「……おい、大丈夫か? 具合悪そうだぞ?」
大丈夫、と志保は答えたけれど、この寒いのにうっすらと汗をかいて、軽く息が上がっているのを見ると、どう考えても、大丈夫には見えない。
「なんか、ちょっとだるいだけだから。映画、楽しかったけど、長かったから疲れただけだって」
無理やり作った笑顔は、少し口元が歪んだだけだった。
それでも昼はどうしても外で食べたいというので、近くの店でパスタを食べた。だが、昼を食べても、あまり調子が良くなさそうだったので、年末の買い物がしたいという志保を、そんなのはまた次でいいと押し切って、家に連れて帰った。
「なぁ? 明日、仕事行く前に、うちの病院に来ないか?」
その日の夕食のとき、俺がそういうと志保は、もう大丈夫だといって笑った。
「さっきはちょっと疲れただけだって」
確かに、帰ってからずっと寝ていたのが良かったのか、顔色もずいぶん良くなっている。
「けど……さっきすごくつらそうだったぞ。ちょっと検査するだけだから。な?」
「もう平気だって。玲一さん、変なところで心配性なんだから……」
そういって、志保は取り合わない。
「……あのなぁ、病理医ってのは、変なところで心配性なもんなんだよ。ただの腫瘍じゃないかもしれない、ただの食あたりじゃないかもしれないって、いつも疑ってかかるのが仕事なんだから、しょうがねぇだろうが」
良性・悪性、細菌によるもの、免疫反応によるもの、ぱっと見で区別が付きにくくても、それを見分けなければならない。
俺の出す診断を基に、他の医師たちが治療法を決める。俺が見落としたら最後、治るものも治らない。
「……病理医って……因果な商売ね」
「悪かったなっ」
検査の結果何もなければそれで良い。
検査で何でもないことが分かると、検査を受けたことが無駄だったというやつがいるが、それは間違っていると思う。何でもない、ということが分かっただろう。だから、無駄骨だったとは思ってほしくない。
最後は結局拝み倒して、約束を取り付けた。
◆ ◆ ◆
「……とりあえず内科だな。今日の担当は……神谷かよ……。あいつ、一応呼吸器専門だけど、他もちゃんと見れるやつだから安心しろ。まぁ、まだ受付の時間じゃねぇから、そこの自販機でなんか買って、その辺に座って……あとは……」
「あ、あの、子供じゃないんだし、一人で大丈夫だってば。それに、そろそろ仕事の時間でしょ?」
俺の出勤時間に合わせて、志保が支度をしたので、受付はまだ開いていなかった。待合ロビーにもまだ人はほとんどいない。
「あぁ? 俺の仕事はそんなに急ぎじゃねぇから、だ……」
「志村先生! 朝かららぶらぶですねぇ!」
……後ろから阿呆みたいに能天気な声がした。
「おはよう、奥様。いつもご主人には、いぢめ……じゃなくて、お世話になっています。っていうか、今日はどうしたの?」
「おい、大島?」
俺の声を無視して、大島は、志保に話しかける。
「まあ、受付時間までしばらくあるから、良かったらこれでも飲んで待ってなよ。さっきそこの自販機で買ったんだけど、このココア意外とおいしいんだよ。よそじゃなかなか売ってなくて微妙にレアだし。後は……」
ちゃっかり志保に缶ココアを渡し、ニコニコと笑っている大島に、俺はゆっくりと呼びかけた。
「お・お・し・ま・君?」
「はい? 何でしょう?」
少し、こわばった表情で振り返る。
「お前、仕事どうしたんだよ」
「いやだなぁ、僕夜勤明けでもう上がりなんです。規則正しく昼間に出勤できる志村先生とは違うんですぅっ」
よく見れば、大島の目の下にはうっすらとくまが出来ていた。
「じゃ、志村せんせ、姉ちゃんは僕に任せて、お仕事がんばってくださいね!」
大島に背中をどつかれて、殴り返してやろうかと思ったが、志保の手前、そういうわけにもいかず、俺はしぶしぶそこを立ち去った。
明日必ず、殴ってやろうと心に誓いながら。
◆ ◆ ◆
志村の奥さんが受診した日の昼休み、過保護な夫はわざわざ俺の部屋まで来て、パンをかじりながら検査内容を聞いてきた。
「まだ一般的な検査だけだって。っていうかさ、検査結果がないのは、お前が一番よく知っているだろう」
なにせ、レントゲン以外の検査結果を出すのは志村の部署なのだ。さっさと帰って結果を出して見ればいいだろうという俺の言葉に、今気付いたといわんばかりの顔で、なるほどと頷く。
俺は、志村の無言の圧力によって、殺伐とした空気に包まれるであろう午後の病理部の検査技師たちに、心の中で合掌した。
「ま、さすがにそんなえこひいきはできねぇけどな」
検査結果は順番に出すよ、というあいつの発言に意表をつかれる。お前ならやりかねないと思ったんだけど、と笑うと、あいつはうるせぇと少し赤くなった。
「失礼します!神谷先生?」
……今日は千客万来だ。しかも、何だろう、この過保護な連中は。恐ろしいまでに愛されている彼女に、羨ましいというよりはどちらかというとちょっと同情をしつつ、返事をする。案の定、大島が私服で入ってきた。
「あの、姉ちゃん、何だったんですか?」
ソファーの志村を横目で見つつ(睨んでるように見えるのは錯覚だろうか)、大島は俺の方を向く。
まだ一般的な検査しかしてないよ、とさっきと同じように答えると、なぜか大島は俺と志村の顔を交互に見て気まずそうな顔で結果は? といった。
「だから、まだ出てないって」
そんなにすぐに出るわけないだろう? と続けると、大島はほっとしたように良かったと呟く。
「じゃあ、妊娠じゃないんですね?」
盛大にコーヒーを吹いた志村に、大島は満面の笑みを向けた。
◆ ◆ ◆
「で、どうだった?」
検査の結果が出た日、家に帰った俺は、居間に走りこんだ。
「あ、お帰りなさい。そんなに慌てなくてもいいのに。なんかね、レントゲンでちょっと気になる部分があるから、もう少し詳しく検査しましょうって」
次はお店休んでいかなきゃねぇと、志保は笑う。
「レントゲン? なんでまた……」
結核、肺癌。嫌な言葉が頭をよぎる。ただ、結核も肺癌も志保とは縁がなさそうなのですぐに打ち消した。それに、神谷は呼吸器に関しては本当に腕のいい医者だから、俺はとりあえず、そんなに心配はしなかった。
◆ ◆ ◆
年末も近くなり、日々のスケジュールが、いわゆる年末進行に切り替わる。
緊急でもない限り、年末年始には大きなオペや大掛かりな検査は行われない。その分、今のうちにできる限りの仕事をということで、俺の部屋には各部署から提出された検体があふれかえっていた。
これを片っ端から、染色だの固定だのして顕微鏡で見ていかなければならない。そしてそのあと報告書の作成……。考えただけでも頭痛がしそうだ。
ただ、嫌だの何だの愚痴ったところで、この病院には病理医は俺しかいない。俺はため息をつきながら、顕微鏡の前に座った。
ヒトの体を構成する最小単位を細胞という。
平均的な細胞の個数は約六十兆。それも全て同じ形をしているわけではない。肝細胞、脳細胞、血球……。臓器ごと、部分ごとに色も形も機能もさまざまだ。そして、それが病変したとき、また新しい形の細胞が出来上がる。その変化は本当に限りなくて、万華鏡のようだった。
プレパラートをステージに載せて、光を絞る。ステージの高さの微調整をしながらレンズを覗くと、そこにはミクロの世界が広がった。
脂肪で破裂しそうな肝細胞。壊死した脳細胞。異形の赤血球。そんな中、ひときわ鮮やかな紫色が映る。
その毒々しいまでの紫は癌細胞。傷ついたDNAが修復されることもなく細胞分裂を繰り返し、未分化な細胞として増殖する。
壊れたプログラムが作る未熟な細胞は、修正を加えられることなく無機質に増加し、やがては正常な細胞を差し押さえて全身を支配し、宿主を死に至らしめる。それでも、その恐ろしい新生物は、ぞっとするほど綺麗だった。
「……むら。おい、志村」
癌細胞に見とれているうちに、来客があったらしい。
俺は慌てて戸口の方を向いた。
「あ、知己さん」
ドアのところに、外科の知己さんが立っていた。
「あ、知己さん、やないわ。どれだけ呼んでると思ってんねや」
「……すいません」
学生の頃から世話になっているため、俺はこの人に頭が上がらない。
「今日は大きなオペもないからな、少し手伝ってやろうかと思ってきたんやけど、することあるか?」
そういって、試料が積んである棚の方へ歩いてくる。
「あ、だったらこの辺の染色とかプレパラートとか作ってください」
サンプル作りも嫌いではないが、鏡検に集中した方が作業は早く進む。それに鏡検をした者が報告書を作らなければならないので、いつ外科に戻ってしまうかわからない知己さんに鏡検は頼めない。そう思っていうと、知己さんは、分かったといってサンプルの作成に入った。
「そういや、さっき何見とったん?」
「……? 何がですか?」
「俺がここに来た時や。何か熱心に顕微鏡覗いて、見惚れてたみたいやから」
「……あぁ、癌細胞ですよ」
俺がそういうと、知己さんはあぁ、と頷いた。
「癌細胞は、綺麗に染まるからな」
綺麗な花には棘があるって言うけど、と苦笑する。
「不謹慎やけど、魅入られてしまうわな」
そう、あれは怖いくらいに美しい。
「まぁ、気ぃつけや。いくら綺麗でも、患者や家族は苦しんでるんやからな。忘れるな」
今更いわれるまでもない。たとえどんなに見た目が綺麗でも、あれは異形のものなのだ。
絶対に魅入られてはいけない。
◆ ◆ ◆
「志村? 時間あるか?」
志保の二回目の検査から二日後、業務を終えて帰り支度をしていると、珍しく、神谷が病理部を訪ねてきた。
「おぉ。どした? 頼まれてたやつはまだできてねぇぞ」
神谷に頼まれた病理組織の検査結果は、まだ手付かずのまま置いてある。緊急という指示は出ていないので、まだ締め切りには間があったはずだが……。
「違うよ。奥さん……志保さんのことでちょっと」
そういって、神谷は言葉を濁した。
「何だ? 結果ならあいつが来週直接聞きに来るだろ」
そうはいってみたが、嫌な予感がした。
「……あのさぁ、良かったらこの後、ちょっと俺の部屋に来ないか?」
まともに俺の方を見ようともせず、神谷は無理に明るい声を上げる。
「それは構わねぇけど、どのくらいかかる? 何ならうちに電話してから行くんだが……」
そんなに時間はかからないというので、俺は鞄に荷物をまとめて、神谷の後をついていった。
内科呼吸器系資料室。要するに神谷の部屋。座れといわれる前に、俺は来客用のソファーに腰を下ろした。
神谷は自分の机から、カルテだのレントゲン写真の入った封筒だのを持ってきて、向かいに座る。
座ってからも、神谷は少し迷っているような顔をして、なかなか口を開かなかった。
「で、話って何だ?」
俺が先を促すと、あいつはやっと決心したのか、俺の方を見据えて
「ここから先は、彼女の家族としてのお前に話す」
と、言った。
「これを……見て欲しい」
そういって、おもむろに取り出されたレントゲン写真。神谷が蛍光板にセットして、電源を入れる。黒ずんでいた写真が、光を受けて画像を結んだ。
「……これは……」
ごくわずかだが、肺の一部が欠けている。それの示す意味に、言葉が続かない。
「見ての通りだ。お前のところの結果待ちだけど、おそらく、悪性の……」
声が出せなかった。
「それで、志保さん、アンケートに告知をして欲しくないって書いてた」
神谷は、淡々と言葉を続けた。
うちの病院は、検査の時にアンケートをとる。もし重大な病気が見つかった時は告知するかどうか。家族へ知らせるのか。説明は誰と受けたいか等。強制はしないが、一応どんな簡単な検査のときにでも、全員に回答してもらえるよう、説得はしている。そのアンケートで、彼女は告知を拒否して、病状の説明を受ける代理人のところに俺の名前を書いたらしい。
「だから、これは主治医の俺から、彼女の家族のお前に」
「……そんな……嘘だろ……」
そんなこと、あるはずがない。
神谷が苦い顔で呟いた。
「……残念だけど」
◆ ◆ ◆
その日、いつもより少し帰りの遅かった彼は、ひどく疲れているようだった。
食事のときも、心ここにあらずといったように、何度も箸を止めて、何かを考えるようにしている。
「……仕事、忙しかったの?」
「んあ? ……あぁ、ちょっとな。年末進行でありったけの仕事が回ってくるから、追いつかねぇんだ。一日中顕微鏡見てると目がちかちかするし」
そういって、話すのが何か変な感じだった。けれど、あまり仕事のことを話したがらない人だから、彼が話すまではこちらから聞かない方がいいと、私は勝手に判断して、別の話題を探した。
「そういえば、お店の方、今日からクリスマスの期間限定メニューを作ったの。良かったら、休憩時間にでも食べにきてね」
見かけによらず、甘い物好きなこの人は、少し嬉しそうにして、おう、と笑った。
「しかしクリスマスか。どおりで最近寒いと思った……」
……今までは寒くなかったのだろうか。今年は十一月くらいからずいぶん寒かった気がするのだけど……。
「明日なんか、もしかしたら雪が降るかもしれないんだって。今年はいつもより寒いんだから、気をつけてね」
関東に十二月から雪が降るのは珍しい。雪自体が嫌いなわけではないけれど、関東の雪は水っぽくて、溶けた後がちがちに凍ってしまうので、意外と大変だった。
「雪か……。帰るときに凍ってなきゃいいんだがな……」
同じようなことを考えたのか、苦い顔で焼き魚を突っつく。
私は、天気予報でも見る? といって、テレビのリモコンに手を伸ばした。
「私、あと半年しか生きられないの」
テレビをつけた瞬間、流れてきた言葉。
医療ドキュメンタリードラマのワンシーンだった。
――ごとっ。
「……玲一さん?」
何かが倒れる音が聞こえて振り返ると、醤油まみれになったテーブルと、呆然とする彼の姿が見えた。
「玲一さん?」
もう一度名前を呼ぶ。
「……あ、いや、あまりにもすごいタイミングですごい台詞が聞こえたから……ちょっと驚いて……って、うわっ。悪ぃ」
やっと事態に気が付いたのか、慌てて布巾で醤油を拭き取る。
本当に、いつもの彼らしくなかった。
「……なぁ、志保? やっぱり、普通のやつって言うのは、病気の告知とかされたくねぇのかな?」
チャンネルを変えるタイミングを逃してしまったテレビでは、難病で余命半年と告知された主人公が、その未来を嘆いて恋人の腕の中で泣いていた。
「そうねぇ、知りたいって思う人もいると思うけど、私は嫌かな」
「どうして?」
「うーん、なんていうか、玲一さんたちみたいにね、お医者さんとか、看護婦さんだと、多分、癌とかの患者さんをいっぱい見てるから、癌って聞いても、そんなに驚かないと思うし、怖くもないと思うの」
彼は頷いて、先を促す。
「でも、私みたいな、っていうか、普通の……あんまり病院とか病気に関係していない人だとね、そういうの聞くとそれはもう、絶対治らない病気って思っちゃうの。まあ、絶対治らないわけじゃないけど……すごく怖いっていうか、大変な病気だって思っちゃうのね」
「まぁ、そうかもな」
「そうすると、病名だけで、怖くなっちゃって、治そうなんて気になれなくなっちゃう気がするのよ」
「あぁ。逆に、もうだめって思うってことか?」
そうそう、と私は頷く。
「だから、風邪とかなら良いけど、癌みたいななじみのないって言うか、怖い病気っていうか、そういうのだったら逆に知らせないでほしいって思うんだ。知らないでいたら、すぐ治る、いつか治る、って希望が持てるでしょ?」
そういうと彼は、まあな、と答えた。
「でも、それだと後始末ができないから、家族は迷惑かなぁ?」
後始末? と、彼が聞き返す。
「だから、たとえばお金のこととか、日常の細々したこととか、いろいろあるじゃない。そういうの、全部放っぽって死んじゃったら、残された家族は大変かなって思ったの。例えば、玲一さん、ごみの日がいつかとか、トイレットペーパーのストックのある場所とか知らないでしょ? 私が急にいなくなったら困るんじゃない?」
そういうと、彼は苦い顔をして、だったらずっと元気でいろよ、と言った。
そのあとは、チャンネルを変えてニュースと天気予報を見た。
明日の夜から明後日の朝にかけて雪になるらしい。とりあえず、明日の帰りは大丈夫そうだった。
◆ ◆ ◆
「それで、治療法はどうする?」
検査結果を彼女が聞きに来る前日の夜。仕事を終えて、俺の部屋に来た志村は、いつもよりもさらに不機嫌そうな顔で、俺の前に座っていた。
「いや、治療法云々の前に、告知するかだな」
俺の言葉に、やつの眉間のしわが深くなる。
「……告知は……しないでくれ」
ゆっくりと、志村が顔を上げた。
「黙って治療するのは、大変だと思うけど、やっぱり、あいつが嫌だってことはしたくねぇ……だから……」
告知はしないでくれ、ともう一度志村は繰り返した。
「分かった。それじゃあ、告知はしない」
俺はゆっくり復唱する。
志村がそれを聞いて頷いた。
「あと……もうひとつ、頼みたいことがあるんだけど……」
いつもの横柄な態度はどこへ消えたのか、あいつはおずおずと、消え入りそうな声で囁いた。
「何だ? 希望はなるべく言ってくれ。努力するから」
黙っていられるよりも、要望は言ってもらった方がより良い治療ができる。
「あのな、抗癌剤のことなんだけどな……」
ぼそぼそと、呟くように志村は続けた。
「……できれば……副作用の見えにくいやつっていうか……その……髪が抜けたりしないやつにしてほしいんだ」
思いつめたような声。
「……それは、どういう……」
志村の言葉の真意が分からず、俺は聞き返した。
「あのな、あいつ、これから体調悪化するだろう? そのときに、薬のせいで外見まで変わると、多分、……傷ついたりすると思うんだ」
志村の言いたいことはよく分かる。患者、特に若い女性などは、外見が変わるとそれだけでストレスになることがあるからだ。
「それに、こんなこと思いたくねぇけど、どう見てもあれは、簡単には治らないだろう?」
正直な話、むしろ治る方が奇跡に近い。
希望は捨ててほしくない。けれど、彼女の癌が、簡単に治療できるレベルのものではないということは、俺も志村も、経験から知っている。
「だから、せめて、見た目だけでも、綺麗なままでいてほしいっていうか……。別に、見た目だけが全てじゃねぇのは分かってるけど……せめてそれだけでも……」
あいつが、彼女の外見だけに惚れているわけではないことなんか、今更言われなくても分かっている。
見た目が変わってしまったときに、彼女が傷つくのが、この男は怖いのだ。
「なぁ、神谷……頼む……」
うなだれているのか、頭を下げているのか、志村は下を向いたままだった。
「分かった。外見に影響を与えるような副作用のある薬は避けることにする。あと、痛みの治療を優先した方がいいか? その方が、日常生活を続けられるから」
そういうと志村は、あぁ、と頷いた。
▼二〇〇五年
▼一月
正月気分もいいかげん抜けたころ、咳とわずかな血痰を神谷が『見つけて』入院させた。もちろん、そんなのは前から分かっていたことだ。ちょうどベッドが空いたのと、年末年始のイベントも一段落したので、そろそろいいだろうと判断してのことだった。
精密検査をして、気管支に傷が付いているので、今後のことを考えて抗癌剤を打つと話した。
「……抗癌……剤?」
その言葉を聞いた瞬間、志保は愕然として目を見開く。
「あの、抗癌剤っていっても、癌だから使うわけじゃないんですよ?」
神谷が付け加える。
「今傷ついている気管支の先には、肺があります。肺ってすごく治療のしにくい臓器なんです。だから、なるべく肺を病気にしたくないんですね」
ゆっくりと、志保の目を見て語りかける。志保は神谷から眼をそらさずに、黙って聞いていた。
「気管支の傷ついた細胞が、傷ついたままたくさん増えてしまうと、肺に良くないんです」
こくりと、志保が頷く。
「抗癌剤っていうのは、もともと傷ついた細胞を増やさないようにする薬なんで、今回は、肺を守るために、先手を打って使うっていうわけなんです」
だから、癌だから使うわけではないんですよ、と神谷はもう一度繰り返した。
「肺を、守るため?」
志保が呟く。
「そう。守るために、使うんです」
神谷のその台詞を聞いて、安心したように志保は笑った。
◆ ◆ ◆
就業時間も過ぎ、病院には夜勤のスタッフと入院患者だけが残っている。
誰もいなくなった病理部で、俺は自分の机に足を乗せて、天井を仰いだ。
自分は何もしていないのに、昼間のやり取りで、気力を使い果たしてしまった気がする。告知をしない治療というのは、抗癌剤ひとつ打つための説得に、こんなに緊迫するものだったのか。
「神谷ぁ……今日はありがとな……」
さっき、神谷の部屋に顔を出した。
「俺に礼を言うくらいなら、彼女のそばにいてやれ。それに、このくらいのことで、疲れている暇はないぞ。まだ、始まったばかりなんだからな」
厳しい顔で、神谷が返してきた。同僚の医師のアドバイスというよりも、父親が息子に説教するような言い方。事情を知らないやつが見れば、不思議な光景なんだろうが、家族を早くに亡くした俺にとっては、こいつがこうやって言ってくれるのが、嬉しかった。
「あぁ……分かってるよ」
神谷の言い方も父親のそれだが、俺の受け答えも、恐ろしく子供じみている。それでも、それしか返せなかった。
「……なぁ、神谷?」
部屋を出る前に、もう一度戸口であいつを呼んだ。
「何だ?」
カルテを見ている神谷に振り返る気配はない。
「臨床って……大変なんだな」
「何だ? 急に」
俺の言葉の意図がつかめずに、神谷が聞き返す。
「いや……何でもない。これからもよろしくな」
振り向かずにあいつの部屋を出た。
患者から、ずっと逃げてきた報いだろうか。
患者への告知。日常生活を優先させる副作用の選択。
自分が無視して、逃げてきた現実が一気に襲ってくる。
深く息を吐いた。
「こんばんは」
突然、入り口のところで声がした。驚いて、身構える。
関東とは違うアクセントに小柄なシルエット。
外科の知己さんが、立っていた。
「神谷から聞いたよ。奥さん、大変やなぁ」
細い目をさらに細めて、かけられる言葉。一瞬、プライバシーはどうしたのかと考えたが、オペの相談をしたのだろうと思い当たる。知己さんは、うちの病院の看板とも言える、腕のいい外科医だった。
「告知は、せんのやてな」
はぁ、とあいまいな答えを返す。
なぜ、知己さんがここに来たのか、分からなかった。
「抗癌剤も、見た目に副作用が出んようなのを使うてほしいて、いうたそうやないか」
「……それが、何か?」
何が言いたいのだろう、この人は。
俺の指導医だったこともあるから、ずいぶんと長い付き合いになるが、それでも、京都弁の柔らかさにごまかされて、この人の真意はいつも読みにくかった。
「自分の身内で、やっと分かってきたか?」
何が言いたいのかは分からなかったが、その言葉に好意的な意味が含まれていないことくらいは分かる。
「……何がおっしゃりたいのですか?」
さすがに、自分よりずっと年上のこの医師に、暴言を吐くわけにはいかない。
「別に。ただ、お前がどうしてるか、見に来ただけや」
何でこんなことを言われなければならないのか、分からない。……いや、分かりたくなかった。
「なぁ、志村。臨床は、大変やろ」
今は一番聞きたくない台詞。
「お前は、組織や検査結果でしか患者を見ていない。患者は、心のある人間なんや」
そういって、俺は、指導医だった知己さんに、何度も怒られた。
「お前の説明は教科書どおりや。そんなんで患者が納得すると思うとるのか?」
何度も繰り返されたその言葉に、それ以上の何が必要なんだとたてついた。
「お前の技術は心が足りん。治るものも治らんわ」
心なんて、不明確なもの、どうしろというのだ。だったら、いっそ、患者と直接関わらない病理医になりますと、売り言葉に買い言葉で、俺は病理医になった。
「あれからもう何年たつかなぁ。お前は確かに、優秀な病理医になった。知識もあるし、手先も器用。診断は迅速で的確や」
お前の診断で、俺も何度も助けられたよ。そう言葉は続いたけれど、褒められている気はしない。
「けどな、お前はあの時患者から逃げたんや。お前は一度も、患者と向き合ったことがないんや」
今更、言われなくても、分かっていた。
「ま、過ぎたことはもうええ。お前が病理医として優秀だったのは事実やからな。けどな、たとえ何があっても、自分の奥さんからは逃げるなや。たとえどんなことがあっても、最後まで必ず、見届けるんや」
主治医は神谷だけど、お前は必ずそばで見届けるんや、と知己さんは繰り返した。
今度こそ、俺は患者と向き合わなければならない。しかも、その患者は俺の家族だ。
彼女のために、医師として、家族としてできること。その両方を考えなければならない。
やっと、知己さんの言いたいことが分かった気がした。
「……けどまぁ、お前は一人やない。みんなで、治そうな」
部屋を出て行く直前、耳元でささやかれた言葉。
ぽんと背中をどつかれて、机に突っ伏した。顔を上げられなかったのは、机の角に胸をぶつけたせいだ――。
◆ ◆ ◆
抗癌剤を投与し始めてから一週間。
副作用やその他の自覚症状を、薬剤師の立場で観察するため、僕は彼女の病室に行った。彼女の従兄弟という身内の立場である僕が担当になることについて、病院内でも議論は交わされた。ただ、彼女ができるなら僕がいいと言ったのが決定打になって、結局、僕が担当の薬剤師になった。
今の僕の仕事は、彼女に薬についての不安や疑問があったら、分かるまで説明すること。医者には聞きにくいことでも、薬剤師なら、と思ってもらえればいい。
とにかく、一人で不安になってほしくなかった。
「抗癌剤って、使うと髪が抜けるのかと思ったけど、抜けないんだねぇ」
雑談も交えて、緊張が解けたころ、彼女は少し意外そうに、そういった。
「ドラマとかは大体そうだけどね。まあ、さすがに副作用が全然ないものっていうのはないけど、一応少しは選べるんだよ」
髪が抜けない代わりに、彼女は時々吐き気に襲われている。
「……そういえば、孝ちゃん、いつかの飲み会の時に玲一さんが私に愛しているって言うかって聞いたことがあったでしょ?」
唐突に、姉ちゃんが言った。
「あぁ、言ったね。あの時は志村先生に殴られちゃったけど」
あはは、と笑って返す。
「愛してるって言ってくれたことはないけど、きれいな髪だなって、褒めてくれたことはあるんだよ」
そういって、姉ちゃんは少し誇らしげに笑った。
「……え、志村先生が?」
思わず聞き返してしまう。
「あ、もちろん、一回だけだけどね」
慌てて付け加えられた一言。
「それがすっごく嬉しくって。だから、抗癌剤っていわれたときに、髪が抜けたら嫌だなって思ったの。あの人が、唯一、言葉にして褒めてくれたものだから」
何よりも嬉しそうな笑顔。
「そうだったんだ」
あのがさつでぶっきらぼうな志村先生が、唯一口にして褒めた髪。
そういえば、髪が抜けるような副作用の抗癌剤はやめてくれといったのは、志村先生らしい。
「あ、ご、ごめんね。のろけ話で」
「ううん。なんか、志村先生がそういうこと言うのが想像できなくて……」
そういうと、姉ちゃんは、そうかもね、と笑った。
「でも、確かに、志村先生は本当に姉ちゃんのことが好きだよね」
きょとんとした表情で、僕を見る。
「や、まぁ、絶対恥ずかしがって言わないと思うけど、前、酔っ払った時にさ、俺の志保は世界で一番可愛いって言ってたよ」
先生にばれたら怒られるかもしれないけど、言ってしまえ。
りんごみたいに真っ赤になって俯く姉ちゃんは、すごく可愛かった。こんな可愛い人を奥さんにした志村先生が羨ましい。
本当は、僕だって姉ちゃんをお嫁さんにしたかったんだ。志村先生が彼女と出会うよりずっとずっと前からそう思ってた。
でも、僕の思いが伝わる前に、姉ちゃんは志村先生と出会ってしまった。
無口な常連客と新しく入った店員。まともな会話もない、ただそれだけの関係。それなのに、あの人は僕ら家族ですら気付けなかった、彼女の影に気づいた。デートDVを繰り返す恋人。それこそ、心も体もぼろぼろにされていた彼女は、あの男に救われたのだという。まぁ、あくまで彼女視点の話だけど。
抗癌剤の投与、カテーテルによる血管の縫合による止血、さらに様子見をしながら、彼女は二月下旬に退院した。
▼三月末
退院から一ヶ月。
一時期治まっていた、だるさや咳が、また始まった。
毎晩眠れないほどの咳が出て、ずっと寝不足状態が続いた。それでも、私がやってこられたのは、私より忙しいはずの玲一さんが、咳がおさまるまでずっと、付き合って起きていてくれたからだと思う。
「大丈夫か? って、大丈夫なわけないよな」
子供のように、私は彼の膝に乗せられている。
「大丈夫。まだ、そんなに苦しくないから」
これは嘘じゃない。咳は長く続くと息が苦しくなってつらい。だから、始まりは、嫌だと思っても、まだ実際はつらくない。
「悪ぃ。何にもできねぇ」
私が咳き込むのを見て、彼は呟いた。
口調と表情が誤解させることがあるけれど、この人は本当は周りにすごく気を遣う。周りが傷つくのを極端に怖がって、人と関わるのを避けているだけで。
今も多分、この人は、自分が何も出来ないと、自分を責めているのだと思う。医者は魔法使いじゃないから、何でも出来るわけじゃない。それでも、自分を責め続けるのは、優しさ故だと思う。
「ねぇ? 私の病気、他の人にはうつらない?」
傷ついた顔を見たくなくて、私は話題を変えた。
「あぁ、細菌感染じゃないからな」
俺が自分で調べたんだから間違いない。とひとり頷く。
「良かった」
私は笑って、肩に寄りかかった。
「何が?」
言葉の意図がつかめなかったのか、少し不思議そうに聞き返してくる。
「玲一さんに、うつらないでしょ?」
そう笑うと、彼は拍子抜けしたように
「けど、お前はつらいだろうが」
何の解決にもならねぇよ、と続けた。
「いいの」
「何が?」
今度は何だと、いわんばかりに聞いてくる。
「つらくないから」
「はぁ?」
もうわけがわからないらしい。私はその表情を見て、笑いながら
「こうやってるとつらくないから」
と、抱きついた。そうか、と少し焦ったような声が上からしたけど、表情は見えなかった。
「ねぇ?」
「あ?」
咳の合間は、普段よりたくさん話した。腕の中で話すのは、距離が短い分、言葉の温度も気持ちも一緒に届きそうで心地好い。
「病気が治ったら、お願いがあるの」
「何だ?」
いつもよりずっと近い声。少し首を傾ければ、言葉が紡がれる度に、胸が震えるのが分かる。体から直接伝わる言葉が、ひどく愛おしかった。
「病気が治ったら、欲しいものがあるの」
「おぉ。何でも、言っていいぞ」
そういえば、まともにプレゼントなんて渡したことなかったよな、と少し気まずそうに呟く。
「あのね、治ったらね……」
あぁとも、おぉともとれる声を上げて、しばらくベッドの上で奇妙にのた打ち回った後、彼は分かった、と小さく頷いた。
暖かくて大きな手に背中をさすられているうちに、咳はいつの間にか止まっていた。
欲しいものは病気が治ってから。それまではこの腕を独り占めしておこう。
▼四月
咳が再発して二週間。彼女は弱音を吐くことが多くなった。
眠れないほどの咳に怯えて、眠ること自体が恐怖に変わってしまっている。
夜中目が覚めるたびに、彼女はもう嫌だと、うわ言のように繰り返した。
「やっぱり、ちゃんと話した方がいいと思うんだ」
昼休み、わざわざ俺の部屋を訪ねてきた神谷は、持ってきた昼食に手をつけもせずに言った。
「薬だけじゃもう限界だと思う。ちゃんと話して、放射線科へ移転したほうがいい」
抗癌剤を打つときですら、かなり苦しい嘘をついた。それに加えて放射線治療をするというのは、さすがにもうごまかせない。
それでも、幸い志保は、医者としても、知人としても神谷のことを心から信頼していた。だから多分、告知しても大丈夫だろう。俺は、分かったと頷いた。
◆ ◆ ◆
診察の後、私は小さな応接室のようなところに案内された。そこにはなぜか、仕事中のはずの玲一さんがいて、私の顔を見て、よぉ、と掠れた声をあげた。
時計の秒針の音だけが響く、嫌な空気だった。
「お待たせして申し訳ありません」
そういって、少し大きめの封筒を持って神谷先生が入ってきたのはどれくらいしてからだろう。すごく長かった気もするし、まだ二分くらいしか経ってない気もする。
その後の彼の言葉を、私はほとんど覚えていない。
自分はもちろん、家族に煙草を吸う人はいなかった。工業地帯とか、空気の悪いところに住んでいた記憶もない。
それなのに、私の肺は癌だという。
冗談だと思った。
二人を信じてないわけじゃなかったけれど、間違いだと思った。
だって、私がそんな病気になるはずがないから。
足元の地面が急になくなって、底のない穴にすーっと落ちていくような感じがした。
周りの音が遠ざかって、そんなことないと繰り返す自分の声も遠くに聞こえる。
頬っぺたの辺りを流れているのが涙だということも、自分が泣いていることも分からなかった。
落ち着いてから、放射線治療のことを聞いた。
入院するのがどうしても嫌だとわがままをいったら、通院でいいといわれた。家は病院から歩いて三分だから、そんなにこだわらなくてもいいと。自分が一番落ち着く場所で療養すればいいと、そういわれた。
◆ ◆ ◆
その日、初めて玲一さんと喧嘩をした。
喧嘩というよりも、私が一方的に捲くし立てただけ。
あんなに知りたくないって言ったのに。どうして告知したの? 何で黙っていてくれなかったの?
そばにあったものを手当たり次第に投げつけて、最後に投げた時計は、玲一さんの右腕に切り傷をつけた。
「ねぇ、どうして?」
電気もつけずに居間にいた志保は、俺が帰ると悲鳴のように叫んだ。
「どうして、黙っていてくれなかったの?」
あんなに嫌だっていったのに、と泣き叫ぶ。俺は必死に言葉を探した。
「黙ってたら、希望が持てたのに。治らなくても、信じていられたのにっ」
手元にあったクッションが飛んでくる。
いつも物静かな彼女が、取り乱して暴れるのを、当たり前かもしれないけど、俺は初めて見た。
「……抗癌剤使うっていわれたときから、なんとなく分かってた。放射線治療も始めたら、いくら私でも分かるよ? でも、玲一さんや神谷先生が『癌じゃないですよ』って言ってくれたら、信じていられたのに。何で教えたの? 何で告知なんかしたの?」
飛んできた時計が、右手に赤い筋をつけた。
「何で……信じさせてくれなかったの?」
座り込んで、俯いて、志保は泣きじゃくった。
「抗癌剤使う時は、まだ何とか誤魔化せた。でも、抗癌剤に放射線治療じゃ、誰だって分かるだろ? 嘘ついてるって思われながら、治療するのは、良くないと思った。自分に本当のことを言わないで、隠れてこそこそ治療してるって思ったら、志保は医者のこと信じられなくなるだろ」
そんな上辺だけのやり取りは、信頼とはいえない。でも、俺たちの思う信頼と、志保の思う信頼は違ってしまった。
「私は、玲一さんたちみたいに強くない。本当のこと、教えられて立向かえるほど強くない。ばればれの嘘でも、それでも、信じさせて欲しかった」
見え透いた嘘でも、俺たちが口にすれば、彼女にとっては真実の、生きる糧になったのかもしれない。
何で、気付けなかったんだろう。何で、分かってあげられなかったんだろう。
医師という立場は、嘘すら真実に変える力がある。偽りの真実も、生きていくのに必要なときもある。
今更気付いても、遅かった。
「ごめんな」
謝ることしか、出来なかった。
「でも、治すから。もう大丈夫だって、ちゃんと治ったって、必ず言うから」
嘘でなんて絶対に言わない。絶対に、真実にして言ってやる。
「……約束して」
どんなにつらい治療も受けるから、絶対治して、と、志保は繰り返した。
約束する、と俺が返すと、志保はかすかに頷いた。
それから、夏になるまで、志保は二ヶ月以上、放射線科へ通った。
◆ ◆ ◆
「なぁ、ひとつ聞いていいか」
夕飯も終わって、寝るまでの穏やかな時間。
体調は悪くなかったけれどベッドの上に座って休んでいた私に、横で添い寝をするようにしていた玲一さんが、ふと顔を上げた。
「何で、通院して治療したいっていったんだ?」
それは本当に何気ない一言で、拒絶や疎ましさは微塵も含まれていなかったけれど、マイナスの方向に傾き気味の私の思考回路は、ひどく否定的な感情を生み出す。彼はそんな私の顔を見て、はっとしたように言葉を補った。
「あのな、お前が思ってる意味は違うぞ。俺はお前がうちにいるのを嫌だなんて思ってない。けど、病院にいた方が、設備もスタッフも整ってるし、食事もちゃんとしたのが食べられる……それでも帰りたい理由って何なんだろうなって思ったんだ」
お前がいて、嫌だとか思うわけないだろうが、と起き上がって、さも心外だといわんばかりの表情で拗ねる。
「家族で、いたいから……かな」
ひどく驚いた表情をする彼に、私は次の言葉を探した。
「あの時計……」
私は壁にかかっていた時計を視線で示す。
結婚したときに買った木枠のシンプルな壁掛け時計。デザインは地味だけど、電波時計で時間はほとんど狂わない。話のつながりが分からず、彼は私と時計を交互に見た。
「結婚してあれを買ったとき、これが私の新しい時間なんだなって思ったの。時計を買うのって、時間を買うみたいだから……」
彼は黙って頷いて続きを促す。
「けど、今は、違う気がするの」
口にすると、なぜか心の底から不安が湧き出して、私の声は震えた。
「入院して、病院に泊まる日が続けば続くほど、あの時間から疎外されていく気がしたの。あの時計は、二人で買った時間のはずなのに、私がここにいない間もこの家できちんと時間を刻んでいて……私はその時間から隔離されて……」
泣いたら玲一さんがまた心配するから、泣いちゃいけない。そう思っていても、私の思惑を無視して涙は勝手に零れる。彼は案の定、ひどく困惑した表情を浮かべた。
「下らない妄想だよね。けど、病院にいると、そんなことばっかり考えて……」
一度溢れ出した言葉は止められなかった。止め処なく流れるマイナスの想像が言葉になってしまう。
まともに妻らしいことができないどころか、どう考えても今の私は彼の重荷でしかない。そのことと時間からの疎外感が、彼がどこかに心の拠り所を作ってしまうのではないかというひどい妄想を生み出して、それを考える自分がひどく卑しい人間に思えて――。思考回路はずっと悪循環を繰り返した。
あの病院に病理医というのは玲一さんしかいないらしい。ただでさえ忙しいその仕事に、私の看病が加われば、浮気なんてできるわけがない。そんな当たり前のことすら冷静に考えられない自分がどうしようもなく憎い。それとも、一番嫌なのは、彼を支えたいと思っているのに逆に支えられるしかない無能な自分なのだろうか。彼を信じられない自分なのだろうか。
止まらない言葉。――もう、何もかもが嫌だった。
「家にいれば、お帰りなさいって言えるでしょ。病室だと、来てくれてありがとうだけど、お帰りっていえるから……。けど、私がいたら、玲一さん、家でもゆっくりできないかな。病院にいたほうが……」
いいのかな、と続けようとした言葉は最後まで言えなかった。
「っかげんにしろっ」
初めて聞く声。告知のときですら、彼は一度もこんな大声で怒鳴ることはしなかった。
「何で俺がお前のこと重荷だと思わなきゃならないんだよ。何で病気ごときでお前のこと疎ましく思わなきゃならないんだよ」
「……けど……」
まだお互いが客と店員だった頃、私は一度だけ、彼に恋人はいないのか、と聞いたことがあった。たまに町で見かけると、彼はいつも綺麗な女の人と一緒だったから、特定の恋人はいないのかと聞いたのだ。答えは、面倒だからいらない、だった。
今の私は、どう考えてもそれ以上に面倒な存在だろう。
「……なんでそんなことになるんだよ」
さっきよりは落ち着いた声。だけど、まだ怒りは収まらないのか、彼は壁を苛々と叩いた。
「そんなつもりで聞いたんじゃねぇよ。っつーか、そんなつもりで結婚しようなんて思ったわけじゃねぇよ」
何でそんな話になってるんだと混乱したように頭を振る。
「店に行けば会えるから、それだけでいいなら、別に結婚しようなんて思わない。けど、そんなんじゃなくて、俺はお前の……っつか、お前が……か、家族だったら嬉しいと思ったんだ」
なんか上手く説明できねぇ、と普段の彼とはおよそ想像もつかない表情で、言葉を探す。
「お前は俺の唯一の家族だ。例え癌だろうが、インフルエンザだろうが、どんな病気でもどんな怪我でも、その事実には関係ない」
意志の強い瞳が私を見据える。
「それに、俺はお前にただいまって言えて嬉しかったんだ。だから、お前のいない間一人でこの家にいるのが嫌だった。帰ってきてくれて嬉しかった。けど……」
瞳の意思が揺らいだ気がした。
「だけど、俺は……神谷や知己さんみたいにお前の不安を取り除くことができなくて、食事も全然上手に作れなくて……。俺がもし臨床やってたら、お前のこと安心させられたかもしれない。医者なのに、お前に何もできなくて……」
愛想をつかされるのは俺の方だ、と彼はひどく寂しそうに笑った。
私が抱いているのとは、また別の種類の不安をこの人も抱いていた。
『医師』という職業につきながら、私の病気の専門家になれない疎外感。神谷なら大丈夫だという笑顔が、どこか寂しそうなのは、自分でどうにかできる範囲に私がいないから。病理医というのは、検査の結果を誰よりも早く知ることができるらしい。自分の手におえない結果をこの人がどんな気持ちで神谷先生に報告しているのか、私は知らない。
「けどね、お医者さんの玲一さんも好きだけど、私はうちにいる玲一さんが好きだよ」
病院で見る彼は冷静で有能だけど、その彼にとっては、私はただの癌患者に過ぎない。
「私は、玲一さんの患者さんじゃなくて、家族でいたいんだよ」
有能な医師より、料理の作れない夫の方がほしい。だけど、病院にいる彼にそれは望めない。それを望めば、医師である姿を否定してしまうことになるから。だから、家にいる間くらい、私は彼に医師であることを忘れて欲しかった。
家族が欲しいと望んだ言葉を、信じたかった。
「一つだけ、今すぐ教えられることがある」
抱きしめられて、沈黙の後、呟かれた言葉。
「あの時計は壊れない。だからずっとこの時間は続く」
なぜか、彼の声は震えている。
「ずっとずっとこの時間は続くから、これからも、一緒にいて欲しい」
重荷だなんて思わないから、と彼は囁く。
立場が許さなくても、私たちの望んでいたものは同じだった。
▼七月・八月
夏らしい天気が続くようになったある日、放射線科の田村先生が、にっこりと笑って癌は消えましたよ、といってくれた。
「よく頑張りましたね。とりあえず、一安心です」
入院しないで、よく通えましたね。その強い気持ちが、癌をやっつけたんですよ、と褒めてくれた。放射線治療はここまで。後は、経過を神谷先生に見てもらうようにといわれて、私の放射線治療は終わった。
その後、田村先生に言われたとおり、週一回は、経過を見るために神谷先生のところへ通院したけれど、治療するために通うわけではないので、気持ちはずっと楽だった。
「なぁ、旅行とか、行かないか?」
放射線治療が終わって数日後、仕事から帰ってくるなり、玲一さんが切り出した。
「今年の夏休みは三週間だってさ」
と、信じられないような言葉を口にする。一体何があったのか聞くと、
「去年の夏とか、俺全然家にいなかったから」
と分かるような、分からないような答えが返ってきた。確か、去年は外科部長の稲田先生が長期不在で、手薄になった外科の補充人員で彼はほとんど家にはいなかった。
「知己さんが今年は代わりに俺の仕事やってくれるっていうから、三週間。まぁ、他にもいろいろ理由はあるけど……」
そういって、なぜか決まりの悪い顔で目を逸らす。
「いろいろって?」
そう聞いても、別に、と流された。何だろう。
けれど、結局そのとき彼の口からは聞くことが出来なかった。
どこでも好きなとこ行こうな、と言われて、私は久しぶりにわくわくしながら眠った。
翌日の朝、マンションの隣の部屋から出てきた神谷先生に、昨日の「いろいろ」について聞くと、彼は苦笑しながら教えてくれた。
「あいつ、新婚旅行に行ってないでしょ? この前、一緒に飯食いに行ったんですけど、その時それが知己さんにばれて、『この嫁不孝者がっ』って怒られたんですよ。で、強制的に三週間お休み。来たら外科部長の独断で停職処分らしいですよ」
どこまで不器用なんでしょうねぇ、と笑う。
「だから、三週間はあいつに思いっきり甘えて大丈夫ですよ。仕事の電話とか、一切しないように職場に厳命が下ってますから」
まぁ、あいつと三週間は逆に大変かもしれませんけど、頑張って下さい、と言い残して神谷先生は職場に向かった。
結局、その夏はずっと行きたかった北海道を十日かけて周って、残りは東京近郊の日帰りを繰り返した。
あっちも行きたい、あれもしたい、あれも食べたいと散々わがままを言ったら、お前は本当に病みあがりか、と玲一さんに呆れられた。
ちなみに一番面白かったのが、ケーキバイキング。山のようにケーキを食べた後、更に餡蜜を食べに行こうといったら、泣きそうな顔で付き合ってくれた。甘い物好きな割りに、意外と量は食べられないらしい。もう、一生分のケーキを食べた気がする、と帰ってきた後、ものすごく渋い顔で、とっても苦い胃薬を飲んでいたのが可愛かった。まぁ、あの人は変なところで傷つきやすいので、あえて黙っているけどね。
▼九月
九月に入ってすぐの診察で、私はまた入院を言い渡された。
放射線照射による肺の繊維化のため、薬の集中投与するのだそうだ。
よく分からなかったので聞き返すと、放射線で治った癌の残骸を片付ける作業だと教えてくれた。
二週間、私はまたベッドの上で過ごした。
ただ、前の入院よりも、勝手が分かっていたし、別に病気が悪化しての入院というわけでもないので、意外と気楽にすごせた気がする。
ちょうど、旅行の疲れも出てきたところだったので、いい休暇といえば、いい休暇だった。
外出できない私の代わりに、休み時間を潰して玲一さんが図書館を往復してくれて、かなりの本も読んだ。といってもほとんどミステリーばかり。旅行記を頼んだら、玲一さんが十津川警部シリーズを借りてきたのだ。
「ただ旅するだけじゃつまんねぇだろ」
と、子供のように得意げな表情を浮かべる彼に、苦笑しながらお礼を言った。
その後、次は女性作家がいいといったら、宮部みゆきを、時代物を頼んだら、鬼平犯科帳を渡された。
ちょっぴり、彼のセンスを疑う。まぁ、罪と罰とか森鴎外とか、読めそうにない純文学を持ってこられるよりはましだったけど。
でも、最後に渡された絵本は、とても気に入ったから、買ってもらってベッドのところに置いた。日本の漫画家がゴッホの絵を題材にして作った絵本。
ひまわりの黄色が鮮やかで、夜の紺色が深くて、何度も何度も見返した。
置いてあるだけで、殺風景な病室が明るくなった気がした。
◆ ◆ ◆
「レントゲン、俺も見ていいか?」
帰り際、志村が俺の部屋を訪ねてきた。
午後一番で届いた彼女のX線写真には、小さくなった腫瘍がまた動き出しているのが写っていた。放射線で全てを叩ききれなかったと伝えると、志村が自分のところの検査結果と照らし合わせたいといってきたのだ。どうやら、再発を示す腫瘍マーカー値が上がっているらしい。志村は、持ってきた検査結果とレントゲンを見つつ形のいい眉を顰めた。
「この値……肺のせいじゃねぇよな……」
志村の言うとおり、確かに動き出したとはいえ、肺の腫瘍はそこまでの値を出せる状態にはなっていない。多分、と曖昧な答えを返した俺の方を見ることもせず、あいつは苦々しげに唇を噛んだ。
「この感じだと、腸とか、消化器系じゃないか?」
結果の用紙を睨みつけて、志村は頷く。
「腸と……あと……」
『あと』? まだ他にもあるというのだろうか。
「志村? あとってどういうことだ?」
俺がそう聞くと、勘だ、と返された。
「あんまり単発でこの数字は見たことねぇから」
まぁ、一箇所で済むならそれに越したことはねぇけどな、と祈るように言葉は続いた。
結局、その祈りは届かなかった。追加で行った検査で、腸を含めた二つの臓器に転移が判明した。
◆ ◆ ◆
仕事が一段落したので、彼女の病室に行った。
テレビをつけたまま、彼女は眠っている。音を立てないようにパイプ椅子を引き寄せて、座る。ゆっくりと、でも、規則的な呼吸。
そっと彼女の髪に触れると、彼女はうっすらと目を開けた。
「れ……いちさん?」
掠れた声が、酸素マスク越しに聞こえる。
起こしたか、と聞く俺に、彼女は大丈夫、と答えた。
「ね、私、ずっと寝てばっかりだね。ナマケモノみたい」
そういって、くすりと笑う。
「あれもまぁ、自然を生き抜くための知恵らしいからな。ありじゃねぇの? やつら、やるときはやるらしいからな」
そう返すと、彼女はなぜかおかしそうに笑った。
「やる時って……ご飯の時だけでしょ。玲一さんみたい」
……何だそれは。俺がいつ、飯時だけ俊敏に動いたっていうんだ。
憮然とした俺の表情を見て、志保は宥めるように、冗談だといった。
「でもね、全然動いてないのに、すごく疲れるの。運動してないからかな。ナマケモノとは大違い」
悔しそうで、寂しそうな表情。
「まぁ、治ってから鍛えりゃいいんじゃねぇの? まだ若いんだし。付き合いますよ? マラソンでも、水泳でも」
だが、俺はマラソンがあんまり好きじゃない。フルマラソンに挑戦したいとか言われたら、泣くかもしれない。どきどきしながら次の返事を待った。
「あのね、ダイビングがしたい」
「……空から?」
それはそれで勘弁して欲しい。けれど、志保は首を横に振った。
「イルカとかね、マンタとか、一緒に泳ぎたい」
「あぁ、スキューバダイビング。いいんじゃねぇの?」
そういうと、嬉しそうに笑う。
「早く、治さなきゃだね」
まぁな、と答えてから、ふと気が付いて、もう一言付け加える。
「でも、急がなくていいから。無理はしなくて、いいからな」
きょとんとした顔で、俺を見上げる。
「ゆっくりで、いい?」
「おぅ」
だから先を急がないでいいから、ゆっくり治そうな、と付け加えると、彼女は安心したように微笑んだ。
「今より、ゆっくりでも、大丈夫かな?」
少し不安そうな声。
「ちょっとね、疲れちゃった。いっぱい薬使うとね、使わなくちゃ治らないのは分かってるんだけど、つらいんだ」
と呟く。
「少し、休みたい」
だめかな? と見上げる瞳に、俺は大丈夫だ、としかいえなかった。
◆ ◆ ◆
翌日、志保は神谷に抗癌剤投与の中止を願い出た。
勝手なこと言ってごめんなさい、と謝った志保に、神谷は穏やかに、謝ることなんて何もないですよと答えた。
「治療って、薬を選んで使うだけじゃないんです。薬を使わないっていうのも、一つの方法ですから」
と話す。
インフォームドチョイス。患者は自分の治療法やその選択肢について、医師から十分な説明を受け、選ぶことが出来る。そして、それにはもうひとつ「治療しない」という選択肢も入っている。もちろん、積極的に治療しないというだけで、痛ければ痛み止めを、吐き気がすれば吐き気止めを処方するなど、日常生活に支障が出るような症状には対症療法を行うことも出来る。
「でも、今まで使ってきた薬、無駄になっちゃいますよね」
申し訳なさそうに、志保が聞く。
「そんなことないですよ。今まで使った分は、今までの分として、ちゃんと働きましたから」
それに、今は薬をやめても、また、気が向いたらやってみるっていうのもありなんですよ、と神谷は言う。いつでも、好きな時にしたいことをして下さいと、説明した。
「うちでゆっくりして、いっぱい旦那さんに甘えて、わがまま言うのも、いいですよ」
もし家で具合悪くなっても、志村がいるし、僕もすぐ近くにいますから、と神谷は優しく笑う。それを見て、志保は嬉しそうに頷いた。
「久しぶりに家に帰れるんだね」
玲一さんが、退院の準備のために片付けているのを、私はベッドの上に座って見ていた。
「そうだな。今日から風呂に毎日入れるぞ」
そういって、タオルを投げてくる。
「今日はゼリーのお風呂がいい」
私のわがままに、はいはい、と彼はバッグを閉じながら返事をした。
「さて、じゃあ、行きますか?」
と、バッグを肩にかけ、立ち上がる。
私は、ふと、家までどうやっていくのかを考えた。
「……ねぇ、うちまでどうやって帰るの?」
いくら寮がここから徒歩三分とはいっても、数メートル先のトイレに行くのすら困難なくらい体力が落ちている今の私にはフルマラソンをするくらい無謀なことだ。
急に心細くなって玲一さんを見上げると、彼は、さて、どうしましょうかねぇ、と不敵に笑った。
「何か、困ったことがあったらいつでも来てくださいね。まぁ、あの家なら何があっても大丈夫でしょうけど」
帰りに立ち寄ったナースセンターでは、私の担当だった看護師の石井さんが、笑いながら見送ってくれた。
彼女は私よりちょっとだけ歳上で、この何回かの入院でかなり仲良くなった。私と同じ歳の妹がいるといるから他人事とは思えないといって、暇を見つけてはよく病室に来て励ましてくれた。歳が近いせいで話も合うし、私も彼女が来てくれるのを楽しみにしていた。病院では、玲一さんは怖い人で通っているらしく、家では優しい人だというと、とても驚かれて意外だった。
隣の部屋が主治医で、同居してるもの医者という環境だから、退院するのに不安は無い。
でも、多分彼女の笑い、というより苦笑の理由は他のところにある。むしろ、絶対そうだ。
私は、あろうことか、玲一さんに背中と膝を支えられて、いわゆる……お姫様抱っこの格好をさせられていた。
「ね、ねぇ、やっぱり車椅子とか借りて帰ろうよ……」
恥ずかしくて、私は必死に頼んだのだけど、病理部に車椅子はねぇ、とわけのわからない一言で一蹴され、今の状態になっている。
「じゃ、いいかげん手ぇ痺れそうなんで行きます。ありがとうございました」
そういって、玲一さんは石井さんに頭を下げる。石井さんも笑いながら、お大事にと答えた。旦那さん、意外と大胆ですね、とこっそり囁かれて、私は顔が熱くなるのを感じた。
「志保、風呂沸いたよ? 入らねぇの? ゼリーのやつ、入ってるよ? なぁ、聞いてる? 志保さぁんっ!」
久しぶりの我が家なのに、私は恥ずかしさですっかり臍を曲げてしまった。必死に私の機嫌を取ろうとする玲一さんは、正直面白かったけど、今度はやっぱり車椅子を借りてこようと思う。
◆ ◆ ◆
「失礼します。志村先生?」
彼女が退院した翌日。いつものように志村の部屋で昼を食べていると、昼休みが始まってまだ五分もしないうちに大島が駆け込んできた。
「あれ? 大島、どうしたの? そんなに慌てて」
大島の来室の理由は分かっている。だから、俺はわざとのんびりした声で話しかけたのだけれど、大島は俺を無視して、志村の机の前に立った。抑えきれない怒りが、大島を包み込んでいた。
「あの、お聞きしたいことがあるんですけど」
必死に怒りを押さえつけて、大島はゆっくりと切り出した。
「姉ちゃん、いえ、志村志保さんの抗癌剤治療中止の意味を教えて下さい」
ぎりぎりと、歯を食いしばる音が今にも聞こえてきそうだ。
「聞く相手、間違えてるんじゃないか?」
主治医は神谷だ、と志村が答えると、大島は、そういう意味じゃありません、と怒鳴った。
「治療方針上の、投与中止の意味なんて聞いてません。僕が聞きたいのは、僕が言いたいのは……」
今にも泣き出しそうなくらい、大島は興奮している。ぎゅっと結ばれた口元が、少し震えていた。
昨日が非番だった大島に、今朝の打ち合わせのとき、彼女の抗癌剤投与中止を知らせた。
彼女からの希望があったこと、志村もそれで了承したこと、治療に関係する話なので、全て伝えた。けれど、身内の治療は、大島には荷が重すぎたかもしれない。医療者としての冷静さを欠いて、あいつは志村の前に立っていた。
「どうして、もっと努力しないんですか? 先生は、姉ちゃんのこと愛してないんですかっ! 医者だったらもっと努力して下さいよ!」
ものすごい勢いで志村の襟元を掴み、椅子から引きずり上げる。身長では負けていなくても、どちらかというと細身の部類に入る志村が、バスケで鍛えた大島の体格に敵うはずが無い。わけわかんねぇこと言ってんじゃねえよ、と苦々しげに返した志村に、怒りに我を忘れた大島は、怒鳴り続けた。
「だって、そうでしょ? 何でこんなに簡単に諦めちゃうんですか? 抗癌剤投与をやめたら、病状が悪化することなんて、誰だって分かりますよね? 抗癌剤はクールで使わなきゃ効かないって知ってますよね? 何考えてるんですか? 何でそんな無責任なこと出来るんですか?」
締め上げられて苦しいのか、答えを考えているのか、苦い表情のまま志村は黙っている。
「ねぇ、何とか答えてくださいよっ!」
椅子に突き飛ばされるように解放された志村は、少し咳き込んだ。それから音もなく椅子を降りて大島の前に立つ。無言で立ちはだかった志村に、大島は少し怯んだ。
「……あいつが、もう嫌だっていったんだ」
ゆっくり、言葉を選ぶようにして出された答え。その言葉からは表情が読めない。
「……だから、諦めるんですか? ふざけないで下さい」
大島が、恐怖を振り払うようにして、頬を引きつらせて笑った。
「じゃあ、お前はあいつがどんなに副作用で苦しんでも、それでもいいって言うのか?」
静かに響く志村の重低音。
「……そんなの言い訳じゃないですか。姉ちゃんが嫌がるから? そんなの、ただの逃げじゃないですか。どんなに副作用がつらくたって、死ぬよりましでしょ? 生きてなきゃ、意味ないじゃないですかっ」
どっちの言い分も、痛いくらい分かる。だから、俺は止めることができなかった。
「無理やり薬で苦しめて、それでなんかいいことあるのかよ?」
大島の興奮が移ったのか、少し志村の語気が荒くなった。
「……先生は、諦めてるんでしょ。どうせ姉ちゃんの癌は治らない。だったら……」
「っざけんじゃねぇぞっ」
最後まで言葉を言い切る前に、志村の右手が、一瞬で大島の喉を捉えた。
「志村! 手を離せ。それから大島、お前も言い過ぎや」
俺が止めるより早く、知己さんの声が響いた。びくり、と体を震わせて我に返った志村は、大島から手を離す。大島は、何をされたのかわからないと言うような顔で呆然としていた。
いつの間に来ていたのか、知己さんがドアのところに立っている。
「お前ら一体いくつや? 一般人はここまで来ることないけど、あくまでもここは病院や。騒ぐなら表行き」
そういって有無を言わさず二人を黙らせてから、知己さんは俺の方を向いて、大島を連れて行くようにと顎で示した。
◆ ◆ ◆
「あいつがさ、そんなこと思ってると本気で思ってる?」
「…………」
俺の部屋に来たときから、大島は俯いて一言も話さない。
「あいつが、奥さんのこと、愛してないと思ってる?」
大島は、未だに志村に苦手意識を持っているのだろうか。
「……分かんないんです。だって、僕たち医療関係者でしょ? 病気とか怪我を治して幸せにするのが仕事でしょ? それを諦めた志村先生が、何考えてるのか、何を思ってるのか分からないんです」
しばらく沈黙してから、大島はぼそぼそと所在無げに話し始める。
大島が言いたいことも分かる。治療中止が諦めに思える気持ちも分かる。けれど、志村は諦めたわけではない。
「あいつは、抗癌剤投与をやめたって、諦めてなんかいないよ?」
「どういう意味ですか?」
怪訝そうな顔で返される言葉。
「あいつ、漢方の本とか、いろんな文献とか、読み漁ってるんだ」
仕事以外の時間、最近のあいつは、何かにとり憑かれたように漢方理論の本だの、肺癌関係の論文だのを読んでいる。抗癌剤投与をしていたときも、抗癌剤を用いた人為的アポトーシスの可能性というまだ実験段階の理論にまで手を出していた。何かに追われるように、縋るように、あいつは文献に溺れている。
「西洋医学だけじゃなくて、他に道はないのか。もっと彼女の体に負担がかからないような治療法はないのかって、今でも探してるんだ」
大島は何も答えない。
「確かに、俺たちは西洋医学を主にやってきてる。でも、世界には他の治療法もいっぱいあるだろ? だから、西洋医学の治療をやめても、治ることを諦めるわけじゃない」
「……そんなの、理想です」
泣きそうな顔で、大島は搾り出すように答えた。
「うん。でも、諦めてはいない」
これは、詭弁だろうか。でも、詭弁でも何でも良かった。ただ、諦めたと思われるのが、嫌だった。あいつはまだ諦めていない。諦められるはずがない。
大島は、黙って小さく頷いた。
◆ ◆ ◆
退院してから数日。志保の体調は、奇跡的とも言えるように好調だった。さすがに、二週間以上寝ていたせいか、最初は動くのがつらかったみたいだが、それでも今日は夕方に散歩に行きたいと言い出した。
紅茶を淹れたり、ベランダで本を読んだり、彼女は怖いくらい普通に生活している。
この日々が少しでも長く続くように、俺はそれを祈ることしかできなかった。
「ねぇ、玲一さん、少し痩せた?」
夕飯のとき、唐突に聞かれた彼女の言葉に、俺はすぐ返事ができなかった。
「何で?」
測ってはいないが、彼女が退院するまではほとんどまともな食事をしていなかったから、体重が落ちているのは測らなくても分かる。そういえば、神谷にもこの前同じことを言われて、怒られた。
「なんかね、頬っぺたの辺りの線が細くなったなぁって。気のせいならいいんだけど、ほら、自分が具合悪いと、他の人も気になっちゃったりして」
ごめんね、変なこと言って、と笑った彼女に、俺は何て返したらいいかわからなかった。
「入院してるとき、ご飯作れなかったし。それに、ただでさえ忙しいのにずっと会いに来てくれてたでしょ? だから、ちゃんと食べたり休んだりする時間あったのかなって」
まぁな、と曖昧な返事はしたけれど、まともに彼女が見られない。
「会いに来てくれるのは嬉しいけど、カロリーメイトとエンシュアリキッドばっかりじゃだめだよ?」
「何で分かっ……。あ……」
思わず声を上げると、志保はやっぱり、と呟いた。
「ベッドの下にダンボールが置いてあったから」
「…………」
志保が退院するときに、部屋を少し片付けた。見つかると心配すると思って、ダンボールの置き場を考えたのだけど、どうやら当時の俺はエロ本を隠す小学生並みの思考回路しか持っていなかったらしい。
「栄養はちゃんと食事で取ってね」
しっかりと釘を刺されて、俺ははいと頷くしかなかった。
「……けど、ごめんね。本当は、私が作らなきゃいけないのにね」
消え入りそうに呟かれた言葉は、痛いくらい優しい。自分が一番の重病人なのに。
どんなに忙しくても、食事は必ずすると、俺はもう一度繰り返した。
◆ ◆ ◆
「ねぇ、炊飯器でケーキ……」
食器を洗っていると、リビングから話しかけていた志保の言葉が途切れた。
「炊飯器がどうかしたか?」
水を止めて、タオルで手を拭きながらリビングに向かう。ソファーの上で、彼女は蹲っていた。
「志保? どうした?」
顔を見ると、彼女は苦しそうに下腹部を押さえて、痛い、と呻いた。尋常な痛がり方ではない。
「お腹張ってない?」
電話口で神谷が訪ねる。俺は、いや、と答えた。
「熱もないし、とりあえず痛み止め用意してもらっていいか?」
すぐに連れて行くから、と続けて電話を切った。
「何かいつもと違ったこととか、ありましたか?」
痛み止めが効いて落ち着いてから、神谷が聞く。志保は首を横に振った。
「思い当たること、何もないんです。ずっと調子良かったから」
俺が見ていても、たいして変わったことはしていなかった。さっきまで、あの瞬間まで、彼女は普通に話していたのだから。他に考えられることといえば……。
「……神谷、外科は?」
転移した辺りの腸は無事だろうか。
「……ありえないとも言い切れんけど。お前、診られるか? 俺よりいいだろう」
神谷と交代して、志保の腹部に触れる。開腹しないと確実なことは分からないけれど、おそらく腸に穴が開いたのだろう。何となくだが、指先に妙な手応えがあった。
「どうだ?」
神谷が聞いてくる。俺は、おそらく、と頷いた。
「今日の居残り組は?」
急ぐわけではないが、彼女の精神衛生上、なるべく早く手術に持ち込みたい。そう思って聞いた宿直のメンバーに外科はいなかった。
「どうする? お前一人じゃ無理だろう? 知己さん呼び戻すか?」
「いや、だったら朝まで待つ。とりあえず、今夜は眠って備える方がいいだろう」
それだけで、神谷は頷いた。志保の方を向いて、ゆっくりと話しかける。
「志村さん? 多分、今の痛みは腸に傷がついたからだと思います。だから、明日の朝一番で手術をして、その傷を塞ぎます。今は痛み止めをしっかり打って、痛くないようにしますから、朝まで待てますか?」
そう聞くと、志保は頷いた。
翌朝、少し早めに知己さんに来てもらって、手術をした。思ったとおり、腸に穴が開いていて、それを塞いだ。
「手術室、入ったのなんて初めて。まぁ、麻酔かかってたから、あんまり中は見られなかったけどね」
手術をした翌日、僕が様子を見に行くと、姉ちゃんは笑いながら言った。
「でも、急に痛くなったんだろ? 大丈夫だった? 不安じゃなかった?」
姉ちゃんが、何でこんなに笑っていられるのか、僕には分からない。
「それはもちろん、不安だったし、怖かったよ。でも、ずっと玲一さんがそばにいてくれたし、神谷先生もすぐ診てくれたし……だから、大丈夫。それに、稲田先生って、すっごく腕のいいお医者さんなんでしょ? 玲一さんの師匠なんだって。だから、手術も怖くなかったんだ」
医療関係者が家族にいると便利だね、と彼女は楽しそうに言った。
「そういえば、手術、先生も立ち会ったみたいだね」
不意に僕がそういうと、姉ちゃんは、え? と聞き返した。
「先生って……玲一さん?」
うん、と頷くと、姉ちゃんは目を見開いた。
「……そ、だったんだ。何でだろ……」
戸惑うような表情。
「執刀は俺がやったけど、縫合は志村がやったんや。あいつの縫合は、傷跡が残らんからな」
突然現れた稲田先生が答えた。
「い、稲田先生。どうしてここに?」
僕が慌てて聞くと、様子見や、とあっさり答える。それから、姉ちゃんの方を見て、元気そうやな、と笑った。
「はい、おかげさまで。でも、縫合をれい……志村先生がやったって……」
不思議そうな顔をする彼女。
「珍しくあいつが自分から言って来たんや。外科の手伝いなんて、よほどのことがないとやらんくせに、自分の身内には甘いらしい。まぁ、何より、あいつは手先器用やから。見事なもんやで。治ったら見てみるとええ。どこ切ったか分からんからな」
そういって、稲田先生はにっこり笑った。姉ちゃんは、ひどく嬉しそうな顔をして、ありがとうございました、といった。
それから、彼女は一ヶ月入院した。
けれど、入院したことで良くなるというわけではなく、合併症も始まり、病状はあまり良くなかった。
▼十月
浅い眠りから浮上するように目を覚ます。時計を見ると午前五時。疲れすぎてて、寝た気がしない。
志保が入院して三週間。家には風呂と着替えと寝に帰るだけの生活が続いている。唯一の救いは、彼女の入院先が自分の職場ということ。面会するのに、移動時間など余計な手間がかからない。
ただ、彼女のいないこの部屋に帰るのが、ひどくつらかった。
結婚前とは違う孤独感。一人でいることには慣れていたはずなのに、今はその時間が怖かった。ソファーの上に置かれた、彼女のお気に入りのクッションでも視界に入ろうものなら、吐き気にも似た寂しさが襲ってくる。少しでも彼女のそばにいたい。少しでも彼女の声を聞きたい。寝ても覚めても、思考を支配するのは、それだけだった。
それでも、勤務中はそういうわけにはいかないので、仕事に没頭した。自分でも怖いくらい集中して、仕事は普段の倍のスピードで進む。ただ、一度張り詰めてしまった気持ちの緩め方が分からなくて、休むこともできず、体はとっくに限界を超えていた。
体中に残るだるさを流すために、俺は風呂場に向かった。湯船に浸かっている暇はないのでシャワーだけ。思考にまで浸透していただるさがお湯に溶けて流されていくようで、少し気分が良くなった。
リビングで髪を拭いていると、携帯がけたたましい音を上げた。無機質な機械音。病院からだ。電話に出ると、大島の焦った声が聞こえてきた。
「あ、志村先生? すいません、今すぐ来れますか? 姉ちゃんが、ちょっと……お願いします」
志保の名前が出ただけで、少し温まった体から、一気に熱が逃げて行く。嫌なことしか頭に浮かばない。
俺は慌ててそこら辺に投げてあった服を着て、病院へ走った。
「あ、先生? 姉ちゃん、いえ、奥さん、痛み止めの副作用で幻覚を見ちゃったらしいんです。で、点滴の管切って病室から逃げ出そうとして……」
大島の報告を後ろに聞きながら病室に入ると、そこは戦場のようになっていた。床にぶちまけられた点滴の中身。一体どうやったらこんなことになるのかと思えるように引きちぎられたカーテン。ぐちゃぐちゃになったベッドの上に、真っ青な顔で志保が座っていた。
「志保? どうしたの?」
できるだけ刺激しないようにそっと話しかける。志保は俺の顔を見るなりぼろぼろと泣き出した。
「ごめ……な……さい。怖……かったの……。蛇がね、大きな蛇がね、沼みたいなところにいるの。私、そこに引きずり込まれたの……息ができなくなって……」
俺の上着の肩を必死に握って、志保は幻覚の話を続ける。
「息ができなくて、苦しくて、助けてって言ったけど、誰もいなくて、私しかいなくて……ごめん……なさい」
少し冷静になったのか、ぐちゃぐちゃの部屋を見て、泣きながら謝り始める。
「謝らなくていいから。それに、志保は一人じゃない」
俺も、石井さんも、皆すぐそばにいるから、と宥めても彼女は俺にしがみついて離れようとしなかった。
「あの……ありがとうございました」
俺は病室の片づけを手伝いながら石井さんに声をかけた。泣き疲れた志保は、病室を隣に移って眠っている。
「いいんですよ。たまにあることですから」
まぁ、点滴の管を切るのは予想外でしたけどね、と彼女は丸い目を細めて続けた。
「でも、やっぱり旦那さんは違いますね」
は? と聞き返すと、石井さんは笑った。
「だって、志村さん、私たちの前じゃ一度も泣いたことないんですよ? どんなに痛みがひどくても、弱音ひとつこぼさないのに、先生の顔見た瞬間、あんな風に泣き出すんですもの。信頼されてるんですよね。先生の前では泣いても大丈夫、甘えても大丈夫って、分かってるんですよ」
「……そんなもんですか?」
正直、実感が無かった。
「あら? 気付いていらっしゃらなかったんですか?」
情けないくらい、俺は何も気付いていない。
「先生が何を考えてるかは知りませんけど、今の彼女にとっての一番の家族は先生なんですよ? 大島君でもなければ、実家のお母さんでもなくてね」
俺の心を見透かすような言葉。だから、先生は彼女のそばにいなくちゃいけないんです。と少しきつい口調で彼女は続けた。
雑巾を取り上げられ、部屋を追い出される。俺は、彼女の眠る部屋に向かった。
それから、彼女はその痛み止めを使うことを必死に拒否した。
一度見てしまった幻覚のせいで、どんなに痛みがひどくても、あの薬だけはやめてと、痛みを堪えて拒絶した。
▼十一月・十二月
十一月になって、彼女は退院した。
自宅療養をしたいという彼女きっての願いだった。
体調の変化は著しくて、さっきまで調子が良さそうだったのに、今はぐったりしているとか、そんなことばかりが続く。
「れ……ちさん……。れ……い……」
ある夜中、苦しそうに俺を呼ぶ声で目が覚めた。
「いき……できなっ……」
涙で目を真っ赤にした彼女の呼吸は、もう限界だった。
通常の空気から酸素をとるのは困難で、彼女は常に酸素マスクをするようになった。
その頃から、発熱が頻繁化して、彼女は夢と現をふわふわと彷徨い続けた。
それでも、俺が帰宅すれば、うっすらと目を開けて嬉しそうにお帰り、と告げる。それは、どんなに具合の悪いときでも、必ず告げられる一言だった。
いつかのときのように、何で帰って来たいといったのか、などという愚問はしない。
言うのに一秒もかからないこの言葉が、一日の幸せだった。
退院からひと月。月が変わるとすぐに、彼女はまた入院した。
高熱の時間が長引き血尿が出るようになったからだ。
朦朧とする意識のせいで、病院に移ったのすら最初は分からなかったらしい。目を覚ましたとき、彼女は俺をみてお帰り、と笑った。
彼女の体が、壊れていく。
意識も、呼吸も、病巣ではないところの機能ですら壊れていく。
覚醒している時間がどんどん短くなって、残された時間がもうわずかしかないことが、怖かった。
◆ ◆ ◆
その日はとてもよく晴れた日で、非番だった俺は、彼女の病室でずっと付き添っていた。
ひどく体調が良さそうで、彼女はずいぶん長い時間起きていた。
午前中はルタシーのマスター夫婦が紅茶を持って見舞いに来てくれたし、昼休みには大島が彼女の大好きなガレットを持ってきた。
病室で開かれた小さなお茶会。病状は決して良くないのに、志保は楽しそうに始終笑っていた。
午後になって、様子を見に来た神谷に、彼女は少し息苦しいと訴えた。
「疲れもあると思いますけど、薬の副作用ですね」
昨日から使っている薬の副作用が出ている。一過性のものなので慣れてしまえばなんともないらしいが、それでも気分が悪いのだろう。いつになったら、この息苦しさは消えるんですか? と彼女は神谷に聞いた。
「二、三日で消えますよ」
そう答えた神谷に、彼女は、それじゃあすぐですね、と笑った。
「……ちさん?」
夕方、志保の呼ぶ声で目が覚めた。
「あ? 悪ぃ、寝てたか、俺」
どうやら、ベッドに突っ伏して寝てたらしい。俺は、軽く頭を振って眠気を払った。
「うん。ごめんね、起こしちゃって」
少し申し訳なさそうな声。
「いや。で、どうした? 水でも飲むか?」
サイドテーブルの方を向いて水を探す。
「ん? いらない」
歌うような口調。振り向くと、志保はなぜか楽しそうにしている。
「……どうした?」
笑顔の意味が分からず、俺が聞くと彼女は、手、繋いでいい? と、いった。
「あぁ」
言われるままに右手を出すと彼女は嬉しそうに指を絡める。
「……あったかいねぇ」
目を閉じて、両手で俺の手を頬のところに持っていく。
「そか?」
「うん。大きいし、指長いし」
俺の指をなぞりながら、いたずらっぽくいう。
「まだ、帰るのには時間あるよね」
何かを期待するような眼差し。……正直、どうすればいいのか、分からない。
「一緒に寝ようよ」
ちょっとだけでいいから、と、眠そうな声を出す。
俺は右手を預けたまま、左腕で布団ごと抱く。彼女の胸の辺りに頭を乗せて、重くないか? と聞いた。
「うん。大丈夫」
そういった彼女の目はとろんとしていて、今にも眠ってしまいそうだ。
彼女の瞼が閉じるのを、同じように眠りに落ちた俺は最後まで見届けられたのか、夢で見たのか、分からなかった。
◆ ◆ ◆
夕方、僕は彼女の様子を見に病室に行った。
昼間すごく調子が良かったみたいだから、今はどうしているのだろうと思って。
病室は電気がついていたけれど、やけに静かで、僕はふと不安になった。
カーテンをそっと開けて、僕は少し後悔する。
彼女はひどく幸せそうな顔で眠っていた。彼女が胸のところで抱きしめているのは、大切な人の右手。
そしてその人も、僕らが見たこともないような顔で眠っている。
こんなに穏やかな顔ができるのかと、僕は妙なところで感心する。ひどく不機嫌な顔でレポートを読み上げる姿は、どこかに消え失せて、子供のように眠っている。
お互いが、お互いの事を守って、守られて。
――何だ、心配しなくてもらぶらぶじゃないか。
病室に立ち入り禁止の札でも貼っておこうとか思いながら僕は物音をたてないように立ち去った。
◆ ◆ ◆
夢から覚めたのは、奇妙な音のせい。
さっきまで静かだった彼女の呼吸が、ゆっくりと異常なリズムを刻み始めたからだった。
「志村、声をかけて……。お前の声は、まだ届くよ」
慌てて呼び出した神谷は、静かに、俺にそう告げた。
ありがとう? 幸せだ? 一体、何を言えばいい。
何か声をかけたくても、こんな時に限って言葉が見つからない。
ただ、名前を呼んだ。
――「言葉は言わなきゃ伝わらないんですよ」
いつかの大島の言葉がよみがえった。
あの時は照れて伝えられなかった言葉。
言うなら、今しかない。
伝えられるのは、もう、今しかない。
ずっと、ずっと言えなかった言葉。
心の中では何度も繰り返した言葉。
志保、聞こえるか?
俺は、ずっと前から、ずっとこれからも、お前のこと――
「アイシテルヨ」
苦しそうな表情が和らいで、志保が、笑った気がした。
◆ ◆ ◆
耳障りな電子音が響いた。
涙も出なかった。
ただ、目の前の彼女が冷たくなっていくのが怖かった。
少しでも熱を留めようと、必死で彼女の手を握る。
それでも、志保の細い指が俺の手を握り返すことはなかった。
もしも魂なんてものがあるのなら、それは、この体温と一緒に何処かへ行ってしまうのだろうか。
空気に奪われて、何処かへ行ってしまうのだろうか。
「志村……」
神谷が、志保の瞳孔を確認して、俺に頭を下げた。
――あぁ、分かってる。
もう志保はいってしまったんだろう?
もう、ここにはいないんだろう?
「ありがとな」
そういって、俺は笑おうとした。
唇は、うまく歪んだだろうか。
神谷がナースたちを連れて病室を出て行った。
その気遣いがありがたかった。
椅子に座りなおして、俺は志保の胸に頭を凭せる。
優しい音はもう聞こえない。
起き上がって、彼女の髪を撫でて――
まだ温かい彼女の唇に触れた。
◆ ◆ ◆
「解剖は、俺がやります」
病室を出てきた志村先生は、しっかりとした声で言った。
「それは――」
戸惑う稲田先生に、お願いします、と頭を下げる。
土下座しそうな勢いに押されて、稲田先生は分かったと答えた。
薬剤師の僕にすることなんてないのに、僕は解剖に立ち会った。目が、離せなかった。
志村先生のメスは迷うこともなく動き、解剖は普通よりもずっと短い時間で終わった。
稲田先生の一番弟子だったというのも頷ける、必要最小限の傷。もしも治ったら、傷も残らないだろう。
最後に、看護師の石井さんが死化粧を施した。
青白い頬が、眠っているようなピンク色に変わる。
仕上げは、病室にいつも置いていた一番お気に入りのリップグロスだった。
病室のテレビに何度も映った桜色のそれは、彼女が欲しいとねだったその日に彼女のものになった。
昼休みに駅前のドラッグストアで店員さんに「伊東美咲のリップグロス下さい」って言ったんだって。
診察のときはつけちゃだめだぞ、と、キングオブ仏頂面の志村先生が恐ろしく甘い表情で嗜めるのを、僕は苦笑いしながら見ていたんだっけ。
手が空けば、必ず会いに来る大好きな人に、彼女が唯一できたメイク。
そこには、今にも目覚めそうな彼女がいた。
◆ ◆ ◆
「どうしたん。こんなとこで」
通りがかった稲田先生に声をかけられるまで、薄暗い廊下で一人、僕はへたり込んでいた。
手伝うことがあるのかもしれなかったけど、立ち上がれなかった。
「解剖で、何かあったんか」
「…………」
答えられる気もしないし、もし自分の中に明確な答えがあったとしても、答える気もしなかった。
「上手かったやろ、志村の解剖」
――そうですね。すごく上手でしたよ。
「でも、納得いかんかったんやろ。お前は」
「……何で……」
どうして、分かってしまったんだろう。
「何が納得いかなかった。あいつが解剖したことか」
違う、と僕は首を振る。別に、そんなのはどうでも良かった。
「……僕には、諦めが良すぎるように見えたんです」
上手く言葉に出来ないけど、稲田先生は、黙って頷いてくれた。
「あんなにあっさり別れを告げて、良かったのかなって」
もっと、延命の方法はあったはずだ。
「忘れられるのが怖い」
「へ?」
稲田先生が突然、独り言のように呟いた。
「嫌われても、恨まれてもいい。でも、忘れられるのが怖いって、志村がいってたんや」
――意味が分からなかった。
「脳死状態でもなぁ、人工呼吸器つけて、息させることは出来る。でも、脳が水みたいになってしまうんや」
はぁ、と僕は稲田先生の方を見た。
「あいつ、それを知ってるから、自分でそういう症例見たことあるから、出来なかったんやないかな」
確かに、脳が液化するというのは聞いたことがある。けれど、やっぱり意味が分からない。
「脳が溶けたら、記憶、なくなってしまうやろ」
あいつ、見かけによらずロマンチストやからなぁ、と寂しそうに苦笑する。
「それに、自然に命が消えるときっていうのはな、大脳が脳内麻薬を出すから、つらいと思わないらしい。逆に無理やり延命した患者の最期はな、痛々しいもんや」
「……何で……」
涙が、止まらなかった。
「お前とあいつと、どっちが正しいかなんて、分からんし、答えはないと思う。けど、あいつのやったこと、理解できるようにはなると思う」
時間はかかるだろうけどな、と滲んだ視界の向こうに残された言葉は優しくて、僕は子供のように声を上げて泣いた。
◆ ◆ ◆
「お疲れさん」
解剖を終え、更衣室で着替えている志村に、俺は声をかけた。
「……ありがとうございました」
シャツに片袖を通したまま、志村は礼をする。
「いや、礼なんかいらんよ」
別に、俺は礼を聞きたくて来たわけではなかった。
「……聞いてもいいか?」
「何ですか?」
器用に片手でボタンを留めながら、こっちを見ることもなく志村は答える。少しだけためらって、それでも俺はその言葉を口にした。
「あそこで、別れたのは、何でや?」
「……どういう、ことですか?」
質問の意図が掴めなかったのか、聞き返された。
「以前のお前なら、人工呼吸器でも何でも使って、延命したやろなって思うたんや」
こいつは、良くも悪くも、患者を人体という名前の物体と見ている医者だった。どっちかというと、あの時の大島のような考えをしていたはずで、あのやり取りは俺には意外だった。
――医者の使命は、命を長らえさせること。だから、病気を治す。
そのためには、使えない臓器は機械で代用することも厭わない――
生きるという最終目的のための手段は問わない。極端な話、そういう男だった。
「……忘れられるのが、怖かったんです」
しばらくの沈黙の後、着替えを終えてジャケットを羽織りながら志村が答えた言葉は、あまりに唐突過ぎて理解に困った。
「俺、あいつに嫌われても、恨まれてもいい。でも、忘れられるのだけは、嫌なんです」
俺の混乱など無視して、独り言のように志村は続ける。――『忘れられる』? 俺はふと思い当たった。
「……脳か」
俺の言葉に志村は少し自嘲気味に笑う。
「分かってますよ? 死後の世界なんてないこと。そんなの、生きてるやつの自己満足だってこと。焼いたら灰になるし、体はただの物質だけど、それでも、嫌なんです」
そういって、志村は俺の隣に座った。
「あいつの脳が水になって、俺との記憶とか全部忘れて、無くなったらって考えたら、怖かったんです」
壁にもたれて俯いたあいつの表情は読めない。
脳死した体を解剖して、脳を取り出すことは困難だ。酸素の供給が途絶えた脳は、水のように溶けだす。指の間から零れ落ちるその臓器を、俺たちはもう何度も見てきた。
「俺、あいつの淹れてくれる紅茶がすごく好きでした。……彼女オリジナルのブレンドだそうです」
愛おしそうに、誇らしげに紡がれる言葉。
「だから、天国なんてあるわけないと思うけど、もしあるんだったら、その記憶を持っていって欲しい……。あいつの全てを、なくしたくないんです」
ひどく静かな目をして志村は話した。それでも、その瞳の奥には拭いきれない感情が沈んでいる。
「俺は結局あいつを救えなかった。救えるかもしれないなんて思うこと自体、間違ってたかもしれない。でも、それじゃ何のために医者やってるのか分からない。何のために、自分がいるのか、自分がやってきたことがあるのか分からない。……見返りが、欲しいんですよ。せめて、自分の家族くらい、守りたかったんです」
膝を抱き寄せて、志村はまた俯いた。
「これから先、誰を救えなくても、何ができなくても、あいつだけは、守りたかったんです」
血を吐くように、絞り出された言葉。
「知己さん? 医者って、非力ですよね? 自然の現象に、逆らうことなんてできないのに。何で、医者っているんですかね?」
知識があっても何もできない無力感。いや、知識があるからこそ見せ付けられた現実。それは、何も知らずにいることより、ある意味残酷で、ある意味幸福だ。
「けど、お前は十分すぎるくらいやったと思うよ」
言わない方がマシな気休めしか、口にできない。
志村はひどく悲しそうに微笑んだ。
▼二〇〇六年
▼一月
それからは、現実から逃げるように仕事に没頭した。
一瞬でも、この現実から逃げたかった。
異様な集中で、切り出しの精度は格段に上がったし、レポートの作成も右手が勝手に動いていると錯覚するくらいの勢いで進んだ。資料検索も、病巣の診断も検索システムのように無機質に進む。
人としての感情を思い出せば、心が崩壊してしまいそうで怖かった。
目の前の情報を的確に処理するだけの精密機械のように、ひたすら感情を押し殺して仕事に没頭した。
けれど、四十九日の法要のあと、突然ひどい虚無感に襲われた。
仕事もする気になれなくなった。
胸に穴が開く、なんてもんじゃない。魂が半分削られたような感覚。
体に宿る魂の密度が薄くて、生きている気がしなかった。
何を食べても味がしない。
何をしても何も感じない。
ふわふわと、ただ日々を過ごした。
職場に行っても仕事に手がつかないし、書類を前にしてもペンを取る気になれなかった。
気がついたら、朝から一文字も書いていない診断書を前に、一日が終わっていた。
俺のことを気の毒に思っているのだろうか。
神谷も、大島も、何も言わなかった。
その翌日の朝、ベッドから降りるのがひどく億劫で、仕事をさぼった。
一度休むと、なし崩し的に欠勤が続いた。
病理専門の医者は俺しかいなかったが、知己さんが代わりにやってくれているらしい。
外科がその分忙しくなっているのは、行かなくても分かったが、それでも行く気にはなれず、結局知己さんに任せきりだった。
何をするでもなく、部屋にひたすらこもっていた。
新聞もダイレクトメールもそれっぱなしで、気が付いたら床に山ができていた。
神谷が数日おきに食事を作って行ってくれたけれど、それを温めなおす気にもなれず、冷たいまま流し込んだ。
食欲はなかったけれど、食事だけは必ずするという彼女との約束にすがるようにして流し込んだ。
どこかが壊れてしまった。
俺はどれだけ彼女に依存していたんだろう。
彼女に会ったのは五年前。一緒に暮らしたのはたったの二年半。その短い時間で、彼女の存在はどれだけ大きくなっていたのだろう。
物心ついたときにはすでにいなかった母親はともかく、大好きだった姉が死んだときも、ここまでのショックは受けなかった。
たった一人の人間の死が、自分をここまで壊すとは思っていなかった。
会いたい、逢いたい、あいたい。
少ない写真を、何度も何度も見返した。
テープでも、ビデオでも、声が聞きたかった。
声を聞きたい。
ひとことで良いから。
声を聞きたい。
声を――。
ただそれだけが俺の思考の全てだった。
◆ ◆ ◆
明け方、ふと目が覚めた。
テーブルに突っ伏して、眠ってしまっていたらしい。
顔を上げると――テーブルの向こう側に彼女がいた。
し……ほ……?
優しい笑顔。
その表情に病の影はない。
「玲一さん」
ずっと望んでいた声。
手を伸ばして、そっと頬に触れた。
もう一度、名前を呼んで。
俺はここにいるから、名前を呼んで。
指先に伝わる温かい熱は生者の体温。
もう二度と手放したくなくて、力いっぱい抱きしめる。
ずっとあいたくて、待っていて、探していて――
優しい温もりに満たされる。
志保――。
名前を呼んだところで、目が覚めた。
暁の光に照らされた部屋は、昨日までと何も変わらず、さっきの再会が夢だったと知る。
それでも良かった。
声だけで、それだけで心の底に不思議な感情が溢れた。
歓喜にも似た、何かに赦されたような感覚。わけもなく笑いたくなって、なぜか涙が溢れた。
▼その後
彼女が死んで半年。
一時は廃人のように沈んでいた彼も、職場に復帰して、何事もなかったような日々が続いている。
けれど、何かが確実に変わっていた。
「何か……変ですよね」
夕方、僕は神谷先生と呑みに行った。何がと問いかける神谷先生に、僕は志村先生が、と答える。
「もともとあんまり喋らないし、不機嫌と面倒だ以外の感情はあんまり見せない人でしたけど。今はそういうのも全然ないし。感情が欠落してるって言うんですか? あんな感じ」
僕の言葉に、神谷先生はまあな、と頷く。
「けど、俺たちがどうこうできるものでもないだろう。それはあいつ自身がどうにかしなくちゃならない問題で、時間とあいつ自身にしかできないことだと思うよ」
「それはそうですけど……」
返す言葉もなかった。
この前、大きな手術のためのカンファレンスがあった。その間中、彼は幾度となくぼーっと空を見上げていた。もちろん病理医としての発表はきちんとしていたし、質問にも的確に答えていたけれど、自分の出番じゃないときはずっと空を見ていた。見かねた稲田先生が、いいかげんにしろ、と注意するまで。
「僕はあんな志村先生見たくないです」
僕の言葉に、神谷先生が視線を上げる。
「仕事の質は、確かに変わってないですよ? 質問だって、前よりもしやすくなりました。でも、あんなやる気のないって言うか、覇気のない志村先生、志村先生じゃないですよ」
質問がしやすくなったのは、前ほど「近づくな」という雰囲気が出ていないからだ。僕はあの雰囲気が怖くて、志村先生が苦手だった。でも、飲み会のときに稲田先生や神谷先生に見せる打ち解けた表情や、姉ちゃんに見せる優しい表情は嫌いじゃない。
今のガラス球のように何も映さない彼の瞳は、ひどく痛々しくて見ていられなかった。
「しかしまぁ、俺たちにはどうにもできんよ。何とかしてやりたくても、俺たちじゃな……」
俺もああいうのは見たくないけどな、と神谷先生は寂しそうに笑う。……そう、僕たちには何もできない。
「神谷先生? 八日の日って休めますか?」
少しして、僕は今日どうしても言いたかった言葉を口にする。
「まぁ、休もうと思えば休めるけど。どうして?」
ちょっと、お願いしたいことがあって……と言葉を濁す。神谷先生は僕の目を見据えて、分かったと答える。僕はほっとして、それからもう一つ、と付け足した。
「七日の夜も、ついでに空けておいて下さいね」
絶対ですよ? と念を押して、その日はお開きになった。
◆ ◆ ◆
ピンポーン、ピンポーン。
七日の夜。仕事を終えた俺と大島は、志村の部屋のインターホンを鳴らしていた。
「おかしいなぁ。検査部の子の情報だともう帰ってるはずなんだけどなぁ……」
一人呟いて、大島はまたインターホンに手をかける。嫌がらせのように鳴らしていると、やっと部屋の主は現れた。
「あ、志村先生。いたんだったらもっと早く出てくださいよ」
大島はそういったが、髪から滴る雫を見れば、それが不可能だったことが窺える。何の用だと問う志村に、大島はにっこりと、俺の手にあったスーパーの袋を指し示した。
「あ、神谷先生、ラップってどこですか?」
一人張り切る大島に振り回されて、俺は志村の部屋のキッチンでラップを用意する。風呂に入りなおして、首にタオルをかけた志村が、リビングで不審そうな顔をして座り込んでいるけど、大島は無視している。
レンジで温めなおした焼き鳥が、おいしそうな匂いをさせてテーブルに並ぶ。準備ができて、俺たちは席についた。
「で、お前ら一体何のつもりだ?」
少し不機嫌そうな顔をして、志村は俺たちを睨む。
「まぁ、そういわないでくださいよ。今日は先生の誕生日でしょ? 誕生日を一人で過ごすなんて、寂しすぎるんで、僕らお祝いしてあげようと思ってきたんですよ」
悪びれもなく大島はにっこり笑う。そういえば今日、七月七日は志村の誕生日だった。
三十過ぎて誕生日なんて嬉しくも何ともねぇと呟く志村の言葉は完全に無視される。
それでも、数ヶ月前の廃人のような姿からはずいぶんと立ち直っていて、俺は少しだけ安心した。話しかけてもまともな答えが返ってこなかったあの頃よりは、口答えされる今のほうがずっとましだ。
「はい、じゃあ……誕生日、おめでとうございます!」
そういって大島がグラスを傾ける。グラスの中身は氷雨という志村の大好きな銘柄。ここへ来る途中に、酒屋に連れて行かれ、志村先生が一番好きな銘柄の酒を選んでください、といわれたのだ。
渋々といった風に志村もグラスを傾けたけれど、氷雨は気に入ったのか、さっさと空けて二杯目を注ぎ足す。
飲むことも食べることも放棄していたときに比べると大きな進歩だ。
大島は、こいつに前のように戻ってほしいというけれど、俺はこのままゆっくり立ち直ればいいと思っていた。
家族を早くに失くしたこいつが、やっと見つけた家族が彼女だった。それを失って、さっさと立ち直れというのは無理な話だ。もともと、こいつは大切な誰かを失うのが怖くて、人と付き合えない人間だった。大切な人を作らなければ、失っても傷つかない。そんなことを考えていたやつが数ヶ月で立ち直れるわけがない。
それでも、大島は何かを企んでいて、俺に明日一日はこいつのそばにいてほしいと頼み込んできた。
「で、これは僕からのプレゼントです」
大島が渡したプレゼントはシルバーアクセサリー。シンプルなデザインが、志村に良く似合う。
口元を笑みの形に歪めて、志村はありがとうと受け取った。
感情の欠落したこいつが覚えたのは、表情を作ること。もともと人形のように整った顔立ちのこいつがそれをやると、完璧な表情が出来上がる。けれどそれは本当に人形染みていて、俺は怖かった。ここにいるのは俺が子供の頃から知っている志村玲一なのか、それともよくできた人形なのか、区別がつかなくなる。
「俺からは……これでいいな」
精緻なその笑みが怖くて、俺は氷雨を指差す。志村は視線を向けて、おう、と答えた。
「けど、七月七日って、すごい日が誕生日ですね」
焼き鳥も大方食べ終えたところで大島はふと思い出したように話し始める。その言葉に志村はたいして興味がなさそうに、そうか、と流した。
「だって、七夕じゃないですか。天の川の向こうとこっちに引き離された恋人達が年に一度だけ会える夜ですよ。ロマンチックだなぁ」
むしろ運命ですね、と笑う大島に、俺には関係ない、とあっさり切り捨てる志村。大島は軽く溜息をついて、僕はそうでもないと思いますけどね、と静かに呟いた。
「だってほら――」
鞄の中から取り出した小さな銀色と、水色の封筒。目の前に差し出されたそれを、志村はきょとんとした顔で見つめる。
「天国から、あなたに」
大島の言葉に、志村は目を見開く。差し出された掌に、大島はその銀色のものと封筒を載せた。
封筒の表には住所も何もなく、ただ一言、青いインクで玲一さんへと書いてある。その文字と大島を、志村は交互に見て首を振る。嘘だ、そんなことあるはずがないと呟く声は掠れていた。
銀色のものは懐中時計。電池式ではない、今時珍しいぜんまい式。
震える手で開いた手紙を、こいつは最後まで読めたのだろうか。
子供のように泣き叫ぶ姿を見て、大島は俺に、後はお願いしますと頭を下げた。
彼女が死んだときも、葬式のときも、一度だってこいつは涙を見せなかった。必死に堪えて、ひたすら耐えて、一度も涙を見せなかった。
それが、今は号泣している。
「あ、志村先生、大丈夫でした?」
電話に出るなり大島が聞いた。俺はあぁ、と返す。泣き疲れた志村は、ソファーの上で気を失うように眠っている。
「後始末、まかせちゃってすいませんでした」
でも僕じゃ役者不足だから、と大島は続ける。
「あいつのお守りは昔から俺の役目だから気にするな。けど、どうしたんだ、あれ……」
まさか本当に天国から届いたわけではあるまい。俺は志村が完全に寝入っていることを確かめながら聞いた。
「生前、姉ちゃんに頼まれたんです。秋ぐらいかな。点滴切っちゃった後です」
入院している彼女に、大島は自分の代わりに、ぜんまい式の懐中時計をひとつ選んで買っ来てほしいと言われたという。その頃の彼女には、遠出をするほどの体力はもう残っていなかった。
「志村先生の誕生日にあげたいからって。もし自分がいなくなっても、絶対に誕生日に渡してくれって頼まれたんです」
絶対に秘密だといわれて、大島はずっと黙っていたらしい。
「姉ちゃん、知ってたんだと思います。自分がもう長くないこと。あと、自分がいなくなったら志村先生が壊れちゃうこと」
だから、自分の死後すぐではなく、誕生日まで待てと言ったのか。
「あれは形見じゃないんです。誕生日のプレゼントなんです」
大島はなぜかそこを強調して繰り返した。
「僕はその違いがよく分からないんですけど、姉ちゃんが何度も言ってたから」
もし起きて何か聞かれたらそう伝えてください。僕の役目はここまでです、と大島は明るい声を上げた。
「姉ちゃんが指名買いしてたから、きっと大丈夫です」
志村先生は絶対元気になります。と大島はやけに自信に溢れた声で言い切った。
確かに、志村は感情を欠落させていたわけではなかった。表に出さないように、自分の中に押し込めていただけだ。とんでもない破壊力でそれを打ち壊した時計は、志村の右手に握られている。
「あんな作り笑いをしなくても大丈夫なくらい、前の不敵で無敵な志村先生になります」
不敵で無敵がいいのかどうかは疑問だが、あの綺麗すぎる作り笑いは見たくない。
「だといいけどな……」
「絶対大丈夫ですから」
その言葉を信じるしかない俺は、そうだなと答えて電話を切った。
ひどく穏やかな表情で寝入っているこいつの髪に触れ、俺も目を閉じる。
朝になって目が覚めたら、こいつはどんな顔をするのだろう――。
◆ ◆ ◆
「……みや……おい、神谷っ」
がつがつと頭を蹴り飛ばされて、俺は目を開ける。眩しい光が、窓から差し込んでいた。
「ったく、ひとんちで昼まで寝てんじゃねぇよ。ちゃっかり有給までとって休みやがって」
お前のその計算高さが恐ろしい、と毒づく志村。
「さっさと顔洗って来い。腹減ったから飯にするぞ」
タオルを投げられたけれど、俺は上手く受け止められなかった。
昨日の酒宴は綺麗に片付けられていて、テーブルの上にはチャーハンと卵スープが載っている。座って、向かいの志村を見ると、散々泣いたせいか、目が赤くなっていた。
「……昨日は、悪かったな」
チャーハンを食べながら、志村が小さな声で言う。
「っつか、昨日っていうより、今までずっと……」
ぼそぼそと呟くような声で志村は話し続ける。
「けど、もう、大丈夫だから。心配……しなくて……いいから……」
最後の方はほとんど聞こえない。
「レイチ?」
呼ぶと志村は顔を上げて、泣きそうな表情で笑った。それは、昨日までの笑みとは違ってひどくぎこちないものだったけど、作り上げたものではない。俺は昨日の大島の言葉を思い出して、息をついた。
「手紙、何て書いてあったんだ」
俺の問いに、志村は少し考えるそぶりを見せる。
「何だよ、教えてくれたっていいだろう?」
俺の言葉に、志村は渋々口を開いた。
「……ぜんまい式の時計は、一日一回ぜんまいを巻かないと動かないけど、その作業は一日という時間を作るための作業だから我慢しろって……」
「はぁ……」
なんだか、よく分からない。
「そういえば、昨日大島が言ってたんだけどな、あの時計は誕生日プレゼントらしいぞ」
その言葉に、今度は志村が不思議そうな顔をして、それ以外の何だって言うんだと聞いてくる。
「いや、形見じゃなくて、プレゼントなんだって」
志村は少し考えてから、頷く。
「なぁ、どういう意味だ?」
聞いた俺に、志村は不敵な笑みを浮かべ、それは秘密だ、と答えた。
何かが吹っ切れたように、志村は感情を取り戻した。まだ本調子ではないけれど、後は時間の問題だろう。
彼女の仕掛けた策が、何なのか、俺にはわからないけれど、彼女の思いはしっかりと届いたらしい。
銀色の時計は、今日も時間を刻んでいる。
『玲一さん 誕生日おめでとう
今年の誕生日プレゼントは時計です。一日一回、ぜんまいを巻いてね。
手はかかるけど、一日という時間を作るための作業だと思って我慢して下さい。
この時計が、幸せな時間を刻めますように。
今まで、好きでいてくれてありがとう。
志保』
-
2008/02/29(Fri)16:05:26 公開 /
渡瀬カイリ
■この作品の著作権は
渡瀬カイリさんにあります。無断転載は禁止です。
-
■作者からのメッセージ
初めまして。
普段は短編の二次創作をやっていますが、どうしてもこのテーマを書きたくてオリジナルに挑戦しました。
長編を書いたのも初めてですが、テーマ性を感じていただけたら幸いです。
どんな些細なことでもいいので、感想いただけたらと思います。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
公開履歴
◆2007/12/xx(xxx):公開
◆2007/01/04(Thu):アドバイスを参考に、最後を修正、加筆
◆2008/02/29(Fri):体裁修正