- 『流離の山水仙』 作者:オスタ / 未分類 未分類
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全角3336.5文字
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原稿用紙約8.65枚
満身創痍の飢えた侍が何もない山中で、仲間を殺し、肉を食ってしまった。侍は自らの体に一人の人間を宿してしまった。もはや私は私でない……いったい私は誰なのか。崩れてしまった自己を取り戻し、人間の愛と侍の一途な生き様を描く、新感覚の時代小説。
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雨音は何時しか遠く、吹き抜ける天つ風に流されて切れ切れになる雲間から羽衣の如く月影照らす。やがて浮き彫りになった私の枝宛らの細い指の上で、名も知らぬ男の心臓はどす黒い液体を四方に散らしながら必死に鼓動し続けていた。その小さな生命は未だ仄かな熱を帯び、管と管とを絡め合って、落命までの僅かな時間を一寸たりとも無駄にすまいと、その赤く艶やかな表面に強固な意志を保っていた。なんとも勇ましい姿であった。
膝元に横たわる亡骸は私の斬り刻んだ頭の傷口から夥しい量の血を流し、白目を向いた馬鹿面で体のあちこちの肉を蝕まれた誠に疎ましい様子であったが、依然として物音一つ立てず、口をぽかんと開けて黙ったままであった。周りの木々も風に少し揺れるだけでひっそりとし、山の独特の静寂が夜の底を覆っていた。色褪せた葉から零れる雨水の滴りさえも月影に輝いて魅せるきりで、何処に落ち着いたのかも皆目分からない。
すっかり痩けてしまった私の、剥き出しになった頬骨の上を瞳から溢れ出る大粒の雫がゆっくりと伝わった。私は涙した。涙せずにはいられなかった。自分が生存しようとする限り、必ずやどこかで他人を犠牲にしなければならず、時に命の窮地に立たされれば、こうして他人の命をも奪わざるを得ない、この義に反する非道な人間の秩序に従った自分自身を大いに恥じ、何故自らの死を選ばなかったのかを深く問い詰め、両手の平に収まる仏様に対してどう尊び、礼拝するかなどを考えている内に、結局は後悔が強く襲ってきて自然と涙ばかりが溢れてくるのであった。人間の命の有様とはこんなにも劣悪なものであったなどとは、今の今まで知りもせず、何人もの人間を叩き斬ってきた無神経且つ無鉄砲な私の胸をそれは刃の如く貫くのであった。私は溺れていた幻と目の前の現実との差異に驚愕せざるを得ず、唯々自責するばかりであったが、他方で生と死の間の大いなる差異には甚だもって落胆した。剰え、怒りも覚えずにはいられなかった。何故死とはこんなにも身近にあって遠いものなのか。生者と死者とはそもそも住む世界が違うのか。人間とは果たして生と死の二面性を備えた存在なのであろうか。それらの疑問が熱を帯びて、時の経過が怒りを沸騰させ、沸き上がる蒸気の凄まじい勢いに思わず男を握り潰しかけたが、片隅で待ち構えていた理性が台頭する本能を抑え込み、その衝動を一瞬にして消し去ってしまった。残ってしまった余熱を私は仕方なく舌の上で転がして、それを男に向かって吐きかけた。つい先程まで鎌を手に私を追い駆け回していたあの威勢の良さは何処へやら、唯男はその濡れた皮膚を月影によって静かに輝かせているばかりであった。闇の奥底からこみ上げて来る、抑え切れようのない己惚れに私はどっぷりと酔いしれていた。
私は男を見つめた。男の生命力は衰弱を辿る一方であると確信した。腕や顔についた男の返り血は今や黒く凝固して、私は恐ろしいほどの死の重みをそこに感じていた。この男も、また月が雲隠れする頃にはそこらの山石と見分けの付かぬほど冷たく固く重くなり、吹くや否や草木の萎れる山風の嵐などが無理にでも運ばぬ限りには、それはやはり山石と同様、頑固に居座り続けるであろう。そうなる前にと、私は男を口元に近づけるのであった。鉄の匂いが私の鼻孔に突き刺さり、その血生臭さが私の内蔵を激しく痙攣させ、嘔吐を誘った。しかし男を散々食い荒らした我が身には心臓を残して立ち去ることなど断じて許されない。幾ら死の姿に落胆し、更には怒りを覚えようとも、最期に死者を成仏するのが人間の最低限の礼儀であり、侍の真の道理というものであろう。少なくとも私だけはそう信じたい。私は震える手を必死に抑えて男を私の口の中へ押し込み、押しては返される自分自身との長きに亘る死闘の末、それを一口で飲み込んだ。私は一人の人間を確かに私の中へ取り込んだのだった。
幾分か体は重くなったが、それが自分自身であることには何の変わりもなく、これといって体に異常も見られない。残った亡骸には目も呉れず、月が隠れて光を全く失った山を私は宛も亡霊のように彷徨い始めた。石の角で足裏を鋭く切ったとしても、その流れ出る血を勿体ないなどと思うことはもうなかった。
私は生き残ったのだ。人を斬り、命を奪い、義に反し、人を飲み、そして人間の命の不条理を打ち払ったのだ。私は侍だ。私に斬れぬ刀などない。私に斬れぬ未来への障壁などないのだ。例え飢えようが呪われようが、生きている限りでは誰にも負けはしまい。命の教訓を受けた今、命に無知な者に負けることなどあろうものか。何処からこんな自信が次々と湧いて来るのかは露知らず、唯生きているという真実だけが私をこうして驕り高ぶらせるに相違ない。
不意に私は激しい痙攣を起こし、近くの木の太い根本に膝を着いて、間もなく口から滝の如く流れ出る吐瀉物がその中に溢れ返り、汚物の沼を作った。全く予期せぬことであったが故、吐瀉物の氾濫を抑えることができず、そのあまりの勢いに、自ら嘔吐しつつも驚いた。胃液の酸っぱいのが鼻の中を何時までも燻ぶり、私は吐きながら涙した。苦しいのでは決してない。やはり全ては後悔なのであった。吐き出されたものは血や肉や心臓などではなく、紛れもない自分自身なのであった。
……夜が明けた。
目覚めると、私のいる世界はまだ仄暗かった。朝日は何処を探しても見当たらず、空は鈍色の雲が支配していて、万物に生気が見られなかった。この山の暮らしが何日目かなど数えるのは先の見えぬ光への距離を測っているようで馬鹿馬鹿しくなってやめてしまった。今朝は特に冷え込んでいて、吐く息は白い。寝ている内に出ていたらしい鼻水が上唇の上で凍り、両方の鼻孔も氷の膜で塞がれて全くもって息苦しい。剰え、若い身ながらも節々が叫ぶように痛み、私は苦痛に顔をしかめた。甚だ不愉快な朝である。刀を腕に抱き、木に寄りかかって一夜を明かした私であったが、そこから腰を持ち上げるのに大層長い時間を要した。昨夜、あれだけ嘔吐したにも関わらず、体は驚くほど重く、未だ満腹で動く気が全くしないし、それはまるで私でないように思えてならなかった。
苦闘の末、やっと立ち上がった私は早速目眩に襲われたが、木にしっかりと掴まって落ち着くまで待ち、改めて私の立っている位置を確認しようとした。ふと、私の目の前を一枚の紅が舞をしながら通り過ぎていった。私は思わずその行方を目で追った。まるで舞子のような美しい舞踊にその見事なまでの着物姿は、照らす光などないはずなのに私の瞳には誠に眩しく映り、目を細めずにいられないほどであった。又、その葉が躊躇するようにして右へ左へと忙しく動く様子も愛らしくてならなかった。それが木の枝から切り離され、落ちて地に溶けることを運命付けられたものとは到底思えぬほどであった。これぞ正しく有終の美である。できることならその落葉の様をずっと見ていたかった。しかし、世の中は諸行無常の定めにて永久に見たいと思えども移ろい行くは仕方なし。この葉の色も何時しかは徐々に褪せて浅ましく、我の思いも何時しかはすっかり冷めてしまうもの。故に万物はこのように盛者必衰の理を表す(なのだ?)。葉が地に着いて静かになると、私は急に居たたまれない気がして息の詰まるような胸の苦しみを強く感じた。その苦しみに自分が慣れてしまうと、気分は冷静沈着になった。ついさっきまで確かに美しいと感じていた紅の葉は止まってしまうと単なる枯れ葉にすぎなくなった。やはり何事も定めや理に従うのだ。それはいた仕方ないことであった。落ち葉はやはり落ち葉の他の何者でもない。枝から離れればいくら抵抗すれども、結局は落ちる以外の行動はし得ないのだ。私は木々の茂る山の遠くを眺めた。風はないが、運命に逆らえない落葉たちがちらほらと、地に向かってひたすら抵抗していた。大層惨めであった。潔く運命に従おうなどとは決して思わないのだ。私もそうであった。あの男もそうであった。皆止まることを恐れているが故、こうして必死にもがくのだ。そして今、私は生と死の境に位置していることを確かに認めた。
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2006/12/23(Sat)22:47:28 公開 / オスタ
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■作者からのメッセージ
未完成であり、ただ今思考・推敲を重ねながら執筆中であります。今作品、既に友人には酷評をいただいております。ほんの出だしの部分なのですが、全く会話文がなく、深読みしなければ理解できない部分が多々あると思います。そういった点を是非ともご指摘していただければ光栄です。読者の皆様には苦労をかけますが、どうぞご感想の方をよろしくお願いします。