- 『たかちゃんとさんた 【かんけつ】』 作者:バニラダヌキ / お笑い ファンタジー
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全角63768.5文字
容量127537 bytes
原稿用紙約192.2枚
ご存知たかちゃんシリーズ――いやもうほとんど誰も知らないか――ともあれ、かばうま主観の番外編です。久々の文芸作品――どこがや。
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1
ようやく恵子さんと入籍して孤独死候補から脱却したのが初夏の話で、しかし新居が決まった頃には、もう冬になっていた。
ことほどさように、貧乏人の人生と言うものは慌ただしい。転居費用など一銭もないぞ、などと思い悩みながら、相変わらず過労死寸前のノルマをこなしていると、夏のボーナスやら秋の決算ボーナスやらで、命が縮まったぶんの報酬は確実に口座に貯まる。そう、泡沫デジタルプリント・チェーンの雇われ店長稼業にすぎない俺でも、この飽食の国の中年男として、相応の年収は得ている。ただ三年前までは、その大半をろりおた関係の散財に回してしまっていただけなのだ。そしてこの二年ほどは、たかちゃんトリオに食いつぶされていただけなのだ。
新居は俺の職場のあるターミナル駅と、恵子さんの職場である三浦家、つまりゆうこちゃん家のある青梅駅の中間あたりを探し回っていたのだが、結局間取りやら敷金やらの関係で、青梅駅から徒歩十五分の安賃貸マンションに決まった。なんのことはない、お互いの古巣から徒歩五分、以前俺が住んでいた安アパートや、恵子さんが住んでいた三浦家家政婦寮の、すぐ近所である。
三浦家は皆様ご存知のように、日本有数の大財閥の総帥に位置している。その家名自体はマスコミ等にあまり流れないが、それはあくまで巧みな資本構成の為せる技で、実質的にはこの日本において、世界経済におけるロスチャイルドやロックフェラーのような存在と思って間違いない。ただそれらユダヤ系財閥のような、獅子の奢りとハイエナの貪欲さの両翼を、剥き出しにしていないだけである。だから恵子さんの寮の家具調度などは全て雇主負担の備品であり、引っ越しで持ち出せる大物はほとんどなかった。
一方の俺は、住宅手当が月に僅か一万五千円という、いつつぶれてもおかしくない弱小企業の社員である。当然、安アパートの家具調度など、ペコペコ・スカスカの組立式家具と、量販店のチョンガー向け特売家電だけだ。なんとか新居に置いて恥ずかしくない程度の物件のみ持ち出し、あとは本社紹介の運送業者になあなあで始末してもらって、ほとんどの夫婦生活用品は、新たに用意することになる。で、俺の貯金は、それだけで残高三十万を割った。四十面下げた男が、ようやく嫁をもらった時点で、ほぼ無一文からの再出発である。それを承知の上で嫁に来る女性というのは、有難いより、むしろ怖い気もする。
いないだろう、普通。
まあバツイチであるとか、見えない背後霊もコミで嫁に来るにしろ、前の旦那はとっくに再婚してほぼ音信不通状態だそうだし、背後霊だって俺には見えないのだから、現段階でとても三十過ぎには見えない可憐な女性が俺と生涯同居してくれるらしい、そして俺の預金残高の十数倍は貯金がある、それだけで、俺はなんだか怖い。幸せすぎる気がするのだ。
そろそろ気づかれた読者の方も多いと思われるが、そう、俺は今、全霊をもって力の限りノロけているのである。ごめん。
★ ★
「……あら」
お互い四連休を取って引っ越しを決行した師走の街の夕暮れ間近、ちらほらと小雪が舞い始めた。
「お引っ越しの日に、初雪。なんだかとってもロマンチック」
俺もそう思う。この際、お互いの歳は関係ない。
引っ越しそのものが一段落するともう午後遅くで、夕飯の買い物のために駅前のスーパーに出、ついでに足りない小物の買い物なども済ませた俺たちは、小雪の中を新居に向かった。いつもの年なら、クリスマス商戦まっただ中のこの時期に連休を取るなど夢のまた夢なのだが、今年は某駅前に某有名カメラ量販店が出店したため、その駅にあった某弱小チェーンの支店――つまり俺の仲間の店があっさり撤退してしまい、正社員がふたりばかり宙に浮いているのである。こっちの新規出店予定は来年二月までないので、俺はここを先途と助っ人を頼り、溜まりに溜まった有休を、本部に睨まれない程度に消化するつもりだった。
青梅駅前はどこにでもあるベッドタウンのロータリー、そんな感じだが、旧青梅街道に折れると、そこはもう昭和レトロの色濃い個人商店が続く。昭和レトロそのものをウリにしている町並みなので、あちこちに古い映画の絵看板が飾られ、路地の角の街灯などもそれらしくデザインされている。その街灯を今しがた彩った赤みをおびた光に、恵子さんの吐く息が白く漂う。俺は両手に下げた手提げ袋をまだ濡れていない舗道の路肩に下ろし、ウインド・ブレーカーを脱いで、恵子さんの肩にかけてやった。薄手のベージュのコートだけでは、いかにも寒そうだ。
「大丈夫?」
ベストだけになった俺を心配そうに見上げるその視線は、やはりどう見ても三十過ぎには見えず、頭上の絵看板に描かれた昭和中期のしっかり者の少女、そんな感じだ。当節の娘たちの多くのように、均整のとれた肢体に幼児のような頼りない顔がくっついているのとは正反対で、小柄でふくよかな重心の低い体に、生活感に溢れた表情が乗っている。俺が餓鬼の頃、田舎で見上げていた憧れのお姉さん達の姿だ。そう、俺にとってのろりとは、昔も今も変わらぬ幼女から、昭和三十年代の女子中学生まで、そんな価値基準なのだ。これ見よがしに半裸で踊る昨今のジュニアアイドルなど、ただのウーパールーパーに過ぎない。
「平気」
俺はそう笑って、また荷物を持った。実際、平気なのである。北の雪国に生まれ育った身であり、かつ皮下脂肪に恵まれた――早い話が大デブなので、東京近郊の市街地なら、冬場でもすぐに汗をかく。
道筋の古びた写真館のウインドーに、幸せそうな花嫁が微笑している。レースの大輪が、冬薔薇のように清く健やかだ。
「……ほんとうに、いいの? 披露宴」
俺は入籍前に一度だけ訊いたことを、その日もう一度だけ、聴いてみたかった。
「あんなの、一度だけでたくさん。だいたい、もうこの歳ですもん」
あっけらかんと返す言葉にためらいはないが、むしろ、俺の経済状態を慮ってくれているのだろう。ウェディングドレスの花嫁を、世間に見せびらかす金がない。金を借りる親もいない。
「それより、早く子供作らないと。家もやっぱり、欲しいでしょ?」
ううむ、やはりこの女性はろりではなく、あくまで大人の女なのだ――俺は少々寂しい気がした。
「……でも、落ち着いたら、あそこで写真だけ、撮ってもらいましょうか」
恵子さんは、通り過ぎた写真館を見返った。
「貸衣装の看板も出てる」
そう、それくらいの予算なら、ボーナスの残りで――俺はちょっと嬉しくなった。
まあどっちみち、青年時代からの夢想、ウエディングドレスの新妻をバックからナニする、そんな夢は、自前の衣装を買えない限り不可能なのである。
やがて行く手の道筋に、長岡履物店――くにこちゃんの家が見えてきた。まるで映画『三丁目の夕日』のセットのような燻り具合だが、紛う方なき現役の店舗兼家屋だ。
「お嬢様、まだ遊んでるかしら」
初夏の騒動以来、たかちゃんとゆうこちゃんは放課後になると、根気よくくにこちゃんの手伝いを続けている。休日にはほとんど入り浸り状態らしい。表向きはくにこちゃんの妹・ともこちゃんの子守りということになっているが、要は赤ん坊を玩具にして、勝手気ままに遊んでいるのだろう。ともこちゃんもあのトリオの玩弄に負けず育つとすれば、さぞ強靱なろりに育つに違いない。
日暮れも近いので、ゆうこちゃんがまだ遊んでいたら帰宅を促すつもりなのか、恵子さんはその木造店舗の粗末な見世土間を覗きこんだ。サンダルや運動靴や下駄など、どう見ても平成の靴屋とは思えない品揃えの棚の奥に、これまた古風な障子戸が、暖かそうに色づいていた。店を見守るため真ん中あたりはガラスになっており、奥の間の炬燵から、くにこちゃんのお母さんがにこやかに会釈した。それがどうやら赤ん坊に母乳を与えている最中らしいので、俺は会釈を返しながらあわてて視線をそらした。一見下町の貧しいおかみさんのような身なりでも、実は鄙には稀な美女なのである。俺ひとりであれば、こっそりその豊かな乳房を垣間見ようと画策するところだが、隣の恵子さんに後でシメられてはかなわない。
「今日から、お外で遊んでるんですって」
炬燵から手を伸ばし、障子を引いて声をかけて来たのは、くにこちゃんのお母さんではなく、なぜかたかちゃんのお母さんだった。
「私も連れて帰ろうと思って、寄ってみたんですけど」
駅前のスーパーの、パート帰りなのだろう。
圧倒的な美女がふたりで所帯じみた炬燵を挟んでいる姿に、俺はなんだか一瞬非現実的な目眩を覚えた。それぞれの旦那の懐具合や顔面造作を思えば、ここまで「男は顔や甲斐性じゃない」と悟れる美女が揃っているここ青梅という町は、当節異常と言っていい。まあ俺の隣に恵子さんがいること自体、すでに異常なのだけれど。
胸を整えたくにこちゃんのお母さんの話によると、ともこちゃんの子守問題は、もう解決したらしかった。旦那さんの本業――伝統的な和履物を造る職人芸が、某財団の補助対象となって、なんと通いの弟子がふたりもできてしまったのだそうだ。そういえば土間の脇、作業場らしい引き戸の奥から、何やら職人言葉のような指示の声が聞こえる。これで今まで夫の手伝いばかり強いられていた奥さんも、子育てや家事や、店の世話に専念できるわけだ。
「善し悪しだわねえ」
たかちゃんのお母さんが、笑いながら言った。
「いつもここにいてくれたほうが、ほんとは安心だったのに。また三人で、糸の切れた凧になっちゃうわ」
三人の女性は、微妙な苦笑を交わした。母親としてあるいは事実上の乳母として、娘たちをめぐりなんかいろいろあった末に、すっかり気のおけない仲になっているようだ。
「まああの三人なら、心配ないでしょう」
俺は断言した。実際、あの三人にどんな災厄が降りかかったとしても、最終的に犠牲になるのは『災厄』の側に違いない。
★ ★
ふたりの母親に別れを告げて、俺たちはまた家路についた。
新居のマンションは、長岡履物店からほんの数分の、旧青梅街道沿いにある。湿った小雪はさらさらの粉雪に変わり、鄙びた旧街道を覆い始めた夜の帷《とばり》を、極めて浪漫チックに演出している。
「このぶんなら、今年はホワイト・クリスマスだね」
自分の息が白ければ白いほど、俺の胸は暖かかった。
恵子さんはそれに答えず、小さな声で、ビング・クロスビーのあの歌を口ずさみ始めた。
ああ、このぶんなら、今回の『よいこのお話ルーム』番外編は、果てしなく小市民的かつ虫のいい新婚物語にシフトして行ってくれるのではないか――などと、つかのま期待して恵子さんの白い歌声が雪夜に溶けこむ様を堪能していた俺の眼に、ふとなにか、とてつもなくいやあなものが、映った気がした。
恵子さんも歌うのをやめて、街道の向こうから近づいてくる大きな影に、眼をこらしている。
体長2メートルの巨大三毛猫にまたがった、狸だかアライグマだかなんだかよくわからない生物。
そしてその猫が引いている、飾り屋根の屋台車。
「お晩方です。おいしいバニラシェイクはいかがですか?」
あああああ、そうだったのだ。
やっぱりこの世界は、どーがんばっても、そんな非常識な世界観だったのだ。
「冬季限定のドドンパ・シェイクもありますよ」
この寒空に、いったいどこの誰が露天でそんなシロモノを啜ると言うのだ。
俺と恵子さんが揃ってふるふると頭を振ると、バニラダヌキ――いや、冬毛の色合いから見て従弟のミントダヌキか、あるいはハトコのピーチダヌキか――は、あいかわらず何を考えているんだかわからない円らな瞳で、さしたる失望の色も見せず、ぺこりと頭を下げ、駅方向に悠々とすれ違って行った。
俺同様、しばらく呆然と佇んでいた恵子さんが、やがて何かを吹っ切るように、ぷるぷると首を振った。
「さあて、早く帰って、湯豆腐湯豆腐!」
見なかったことにしたらしい。
俺も見なかった。
「夕飯の前に、風呂でもいいなあ!」
絶対、なーんも見なかった。
この冬だけは、甘いホワイト・クリスマスやどーでもいい紅白やフヤけた新春番組の流れる中、浪漫チックに、でもちょっと、いやしこたま淫靡に、皮膚感あふれる新婚生活描写を繰り広げるのだ。
俺たちはなんの中身もない四方山話を明るく交わしながら、「なーんも見なかったもんね」「そうそう、ここは普通の私小説世界」と健気に確認し合いつつ、新居のマンションのエントランスをくぐった。
エレベーターのペンキもコテコテと塗り重ねられた古マンションだが、新居は見晴らしのいい最上階である。街道の南側はそのまま多摩川に下る傾斜地なので、たとえベランダの柵がやっぱり錆隠しの塗料まみれでも、多摩丘陵を見晴るかす眺望だけは、超一級だ。俺はさっき遭遇したスラップスティック物件をなんとか記憶の底に沈めて、ベランダからの雪景色はさぞ浪漫チック、などと思いながら、扉のキーを回す恵子さんのやーらかそうな指を見つめた。
「……あら?」
鍵が開いている。
絶対に閉め忘れたはずはないのだが――ふたりして恐る恐る三和土に入ると、明るいルーム・ランプの下、ちっこい靴の群れが眼に入った。年季の入ったスニーカーは豪快に散らばり、ピンクの高そうなひと組はお行儀良くちょこなんと並び、またひと組はななめはすかいにポーズをとって、おジャ魔女どれみの笑顔を見せびらかしている。
恵子さんが、ふう、と溜息をついた。
俺も脱力しながら、お約束、という言葉の重さを、ずしりと背中に感じていた。
2DKの奥の六畳にまとめておいたはずの段ボール箱が、幾つかダイニング・キッチンまで運ばれているようだ。
シンクの上やテーブルの上に、その内容物がうずたかく積まれているのは、まあ子供なりに分類整理したつもりなのだろう。
しかし、なぜか侵入者たちの姿が見えない。開けられた段ボール箱が、なにやらよれよれに組み合わされて、壁際に細長い大箱を形成している。
――だ、段ボールハウス。
俺と恵子さんが思わず一歩引いていると、その段ボールの一部が扉のように開き、カップラーメンを抱えたくにこちゃんが首を出した。
「うっす」
なんということだ。俺たちの新居に、ろりが巣作りを始めている。
「おそかったな」
「……なんだ、これは」
「ふゆやすみ用の、べっ荘だ」
そう言えば、小学校はもう冬休みである。
俺はお約束を重ねる自分の立場にやや屈辱を覚えながら、やはりこう訊ねざるをえなかった。
「……どっから入った」
なんぼなんでも、マンションの最上階の窓まで、外壁をよじ登ってきたとは思えない。
「かんたんだ。かんりにんのおやじを、ゆうこが、たらしこんだ」
恵子さんがちょっと小首を傾げ、それから、あちゃー、と言うように額を打った。そう、管理人は恵子さんの職場を知っている。そして三浦家の超美幼女を知らない市民は、この町にほとんどいない。
段ボールの中から、くすんくすんとしゃくり上げる声が響いた。
「……ご、ごめんなさあい」
そんな声も、かすかに聞こえるようだ。
くにこちゃんはラーメンをすすりながら、
「ゆうこを、しかってはいけない」
もっともらしくうなずいて、カップを床に置くと、
「おもいついたのは、こいつだ」
くにこちゃんに襟首をつかまれ、たかちゃんが顔を出した。
「やっほー」
たかちゃんは、いつものちょんちょん頭の下に満面の笑みを浮かべ、
「んでも、ゆーこちゃんをおどしたの、くにこちゃん」
くにこちゃんは大真面目な顔で、またラーメンをすすりながら、
「ひとぎきのわるいことを、いうな。おれは、これからもおれたちとあそびたいなら、おとなしくゆーことをきけと、たのんだだけだ」
段ボールの奥からは、まだくすんくすんと可憐な泣き声が響いてくる。
満面の笑みと大真面目な顔で、イジメの罪のなすり合いをしている幼女たちに、俺は大人として、いったいどんな責を問えばいいのだろう。
そのとき、途方にくれている俺をよそに、
「さあて、じゃあ、みんなで湯豆腐にしましょうか!」
恵子さんが、からりと朗らかな声を上げた。
ろりたちも、ぞろぞろと段ボールハウスから這い出してくる。
「わーい! ゆどーふ、ゆどーふ!」
「おう、いいな。ゆきみゆどうふ。とても、ふーりゅーだ」
「……くすん、くすん」
俺は自分の未熟な性格を恥じると同時に、改めて自分の妻が賢明な大人であることを、快く痛感していた。
★ ★
他人の家にいきなり巣作りを始めるような無法ろりたちだが、無論それぞれに立派な、いや、なんだかかなり個性的な家庭がある。
俺と恵子さんはろりたちの家に電話を入れてから、本番の晩酌や夕飯は後でゆっくりやることにして、適当にろりたちの遊び心を満たしてやるため、おままごとのような湯豆腐をいっしょにつっついた。もっともくにこちゃんだけは、買い置き用の豆腐までぺろりと平らげてしまったが、家に帰る頃には消化してしまうだろう。
ろりたちも当座の好奇心は満たされたらしく、また泊まりこむ気も最初からなかったらしく、俺と恵子さんが家まで送ると言うと、すなおにきゃぴきゃぴと部屋から出てくれた。仲良し三人組の中では、やはりいいとこのお嬢様であるゆうこちゃんの門限が、一番厳しい。恵子さんの職業上の義務もある。俺たちはとりあえずお屋敷を目ざして、雪の住宅街の坂を多摩川方向に下った。新居のマンションからだと、多摩川沿いの遊歩道を通ったほうが、屋敷への近道なのである。
坂を下る途中、見覚えのある一角を通る。
「おい、たかこ」
「ほーい」
「あすこ、おまいんちだろう。いっとー、むかしの」
くにこちゃんが指差したセコいツー・バイ・フォーをながめて、たかちゃんが嬉しそうにうなずいた。現在誰が住んでいるかは定かではないが、狭い敷地に安く再建された家屋は、昔住んでいた家と大差ないのだろう。
「うん。でもでも、いまのおうちのほうが、ずうっと、おっきいよ」
「たかこんちは、いいよなあ。つぶれるたんびに、でっかくなる」
「こくこく」
「また、なんべんもこわしたら、そのうち、ゆーこんちみたく、でっかくなるぞ」
たかちゃんのみならず、ゆうこちゃんまで真顔でうなずいている。
笑って聞き流すべきなのだろうが――俺はまた、少々不吉な予感に囚われた。
恵子さんと並び、ろりたちを引き連れて雪の町を歩く間は、それなりにまっとうな日常感覚に戻れていた。しかしこの『たかちゃんの家』という話題をほんの少し掘り下げてしまうと、先刻シェイクの屋台と出会った時のような、きわめて非常識な世界観が再浮上してしまうのである。
恐竜、海坊主、巨大軟体生物『どどんぱ』――。いやいや、そんなものが、この世に存在するはずがない。仲良し三人組と共に、それらの同類相手に何度か七転八倒してしまった俺が言うのもなんだが、いないだろう、普通、東京都青梅市の住宅街に、そーゆーイキモノは。お願いですからせめて今年いっぱいは出てこないでください。
俺は恵子さんの手を、思わず強く握りしめた。恵子さんも同じ気持ちなのだろう、小ぶりの手のひらで、けなげに握り返してきた。
しかし、運命の女神は弁天様のごとく嫁ぎ遅れて嫉妬深いのか、あるいはシリーズ物における不可避の『お約束』か。
多摩川沿いの遊歩道に入って間もなく、眼下の暗い河原から、なにやら殺気立った喧噪が、雪紛れに響いてきた。
「このやろう」
「ふてえガキだ」
「たたんじまえ」
「コンクリ履かしてフィヨルドに沈めたろか」
目を凝らせば、数個のでかくて異様な影が水際にわだかまり、よってたかって、ひとつの痩せこけた人影をフクロにしているようだ。それを遠巻きにしている影も少なくない。
酔っぱらいの喧嘩にしては、明らかに殺気が違う。ヤクザ屋さんのリンチ――それにしても、多摩川でも東京湾でも南港でもなく、フィヨルドとは。近頃は中国系だけでなく、北欧系マフィアも日本進出してきているのだろうか。
俺はとっさに恵子さんを背中に隠した。
くにこちゃんも、反射的にゆうこちゃんを背中に隠した。
しかしたかちゃんは、まじまじとその集団を見つめたのち、
「おう、くりすますくりすます」
などと嬉しそうにつぶやいて、止める間もなく、とととととと河原への斜面を駆け下って行く。
俺は慌てて恵子さんやろりたちを木陰に退け、たかちゃんを追って河原に走った。
本音を言えば、できればそーゆー荒事はこそこそ見て見ぬふりをして、通り過ぎたとたんに記憶から抹消して、早く家に帰って風呂に入って寝てしまいたい。いや、もう嫁がいるのだから、早く家に帰ってあんなことやそんなことをしたい。まあフクロにされているのが若い女性やろりだったら、あえて命を張るにやぶさかではないが、近づけば近づくほど、それは貧相な男がひいひいと情けなくいたぶられているだけで、ほどなく川で溺死しようがフィヨルドで凍死しようが、俺や世界に痛みは感じない。だから早めにたかちゃんを回収し、そのまんま逃げてしまいたかった。
しかし、そのとき――
「まて! たかこ!」
くにこちゃんが叫びながら、俺の頭上を、猿《ましら》のごとく跳び越えて行った。
そう、この戦闘的ろりが、そうした荒事を見逃すはずもない。
こうなると水際の連中も、さすがにこちらの存在に気づく。
くにこちゃんがたかちゃんに追いつくと同時に、その殺気立った一群はリンチを中断し、いっせいにこちらを振り向いた。
俺は焦ってろりたちの前に躍り出た。
「なんや、おっさん」
異形の影の中でもひときわ大きな影が、俺を睨め回した。
いかにもの凶眼である。
一対の枝分かれした巨大な角が、その頭頂に禍々しく揺れている。
「いらん怪我しとうなかったら、はよ、去《い》ねや」
そんな緊迫の展開をまったく無視して、
「やっほー! るどるふ!」
たかちゃんがひらひらと手を振った。
――まあ確かに、獣顔の真ん中あたりがとっても明るい、赤鼻のトナカイではあるのだけれど。
2
「ほう、嬢ちゃん、わしの名、知っとるんか」
赤鼻のトナカイは、草食獣らしからぬ三白眼を、わずかに緩めた。
「あんたとこに、ブツ回した覚えはないがのう」
そのブツとは、やはりクリスマス・プレゼントなのだろうか。あるいはハジキ、それともシャブやコカインか。
ほっとくとそのトナカイの背中によじ登って行きかねないたかちゃんを、俺はあわてて抱えこんだ。
「ねえねえ、るどるふさん」
たかちゃんはラスカルのポシェットから、プリキュアの手帳とキティちゃんのラメペンを引っぱり出した。
「さいんさいん」
トナカイの前脚が、眼前に突き出された。
ふさふさした毛の先に覗くトナカイの蹄《ひづめ》というやつは、雪上を走るため、とてもでかい。いきなり黒い鈍器を突きつけられたように感じ、俺はとっさに力いっぱい睨みつけてしまった。前にも言ったが、俺は相手が恐ければ恐いほど、反撥して無謀に対処し結局墓穴を掘ってしまう、難儀な性格なのである。
「クロト相手に、そないなガン飛ばすなや。命落とすで」
赤鼻のトナカイは、物騒な科白とはうらはらに、あんがい柔和に目を細めていた。
「あんた、そん子のおやじさんか?」
「……いいや。友人兼、保護者だ」
俺が警戒をゆるめず首を振ると、腕のたかちゃんが、脳天気に説明してくれた。
「これ、かばうまさん。こわくないよ。おやつ、くれるよ」
赤鼻のトナカイは、怪訝そうに俺の体を上から下まで検分してから、おもむろにうなずいた。
「なんや、人にしちゃあ妙にむくんどる思うたら、やっぱりケモノかいな。まあ、なんでもええ。河馬でも馬でもわしら同様、蹄仲間じゃ。いらん喧嘩はやめとこ。――ほれ嬢ちゃん、貸しいな」
「わくわく」
トナカイは蹄の間に器用にサインペンを挟み、いかにも外人の書きそうな片仮名で、『ル』『ド』『ル』『フ』、とサインする。
「んーと、ここんとこに、たかちゃんへ、って」
「おうよ」
「ありがとー!」
ルドルフはふっと前髪を掻き上げ、気取った微笑を浮かべた。
「……有名なんも、善し悪しや。どこに下りてもサイン攻めじゃ」
案外お調子者らしい。
ここは場が治まっているうちに撤退を――俺はろりたちを連れて退こうとしたが、
「まて、るどるふ」
それまで黙って周囲の挙動を見守っていたくにこちゃんが、憮然として言い放った。
「おまいは、きくところ、もっといーやつだと思ってた」
確かに赤鼻のトナカイと言えば、昔は気弱なイジメラレ、しかし今ではみんなの人気者のはずである。
くにこちゃんは、ルドルフの背後で他のトナカイたちの足元にうずくまっている、枯れ枝のような人影を指差した。
「なにがあったかしらないが、そんなよわげなやつを、よってたかって、ふくろはない」
「……ほう。こっちの嬢ちゃんは、やけに威勢がええのう」
余裕で笑うルドルフだったが、
「――!」
突如、その顔に当初の凶眼が戻った。くにこちゃんの野生を察知したのだろう。
「…………」
「…………」
その三白眼を、しばし真っ向から受けていたくにこちゃんは、
「――ていっ!!」
一気に宙に跳躍した。
「ぬおっ!?」
身構えるルドルフの首筋めがけ、鷹のごとく下降する。
「どおすこいっ!」
刹那、100キロ超の巨大な獣はくにこちゃんの腕に抱えこまれ、河原の砂利に組み伏せられていた。かつて多くの人型鬼畜のみならず、野生の羆もシメ落としたと噂される必殺技、地獄の首がためである。
「兄貴!」
「おやっさん!」
背後で殺気立つ他のトナカイ相手に、
「……ふっふっふ」
くにこちゃんは頭目の首をねじ上げたまま、不敵に頬笑んだ。
「としょ室の、図かんで、みたぞ。おまいらとなかいは、角のでかさで、おとこをはかるとゆーな」
久々に野生全開のくにこちゃんが放つ禍々しいオーラは、とうてい草食動物の比ではない。
「――いっぴきのこらず、ぼーずにしてやろう」
巨大な角の片方を片手でねじり上げると、それだけで獣の頭骨がぎしぎしと軋んだ。
ルドルフは圧迫された声帯を絞るように、
「……ま、待て。話せば……わかる」
「ぼーずにしてから、きいてやる」
こうなると、もはやどちらが悪役か判らない。まあトナカイの角という奴は、実用的にはほとんど雪を掘る道具のはずだから、折っても死にはしまいが。
結局このろりの本能は、正邪というものを、己の存在のもとに普遍化しようとしているのだ。もしくにこちゃんが仏教系おたくでなく一神教に惑ったりしていたら、とうの昔に世界をリセットしているだろう。
「ねえねえ、くにこちゃん」
俺の腕の中から、たかちゃんが声をかけた。
さっきサインをもらったくらいだから、仲直りでも勧めるかと思いきや、
「つの、はんぶんちょーだい。るどるふの、つの」
さすがは俺の人生をいっとき狂わせた純ろりである。
やはり最終的に犠牲になるのは『災厄』の側だったな――俺がなかば傍観者の諦念に囚われていると、
「るどるふさん、いじめちゃだめ!」
いきなり白くてちっこいコートが、小雪を巻きながら俺たちの横をすりぬた。
ゆうこちゃんである。
恵子さんも慌てて追って来たが、眼前の異様な光景に、俺と並んで立ちすくんだ。
しかしゆうこちゃんはそのまんまくにこちゃんに飛びつき、
「……ひっく。けんか、いけないの。みんなで、なかよくするの。ひっく」
くにこちゃんの腕とルドルフの首を同時に抱えながら、例によってくすんくすんと、非力な天使の見果てぬ夢をしゃくりあげた。
天使モードに入った幼児というものは、非力であればあるほど、この世の何者よりも尊い。その至高性を感覚できない者は、この世に居ること自体、なにかの間違いなのだ。それは実社会のリアルにけして矛盾しない、高次の哲学的アウフヘーベンである。
恵子さんが慈母の表情で、その場に歩み寄った。そして弛緩したくにこちゃんと、泣いているゆうこちゃんと、半分落ちているルドルフを、まとめて腕に包みこんだ。
背後のトナカイたちも、それぞれ本来の草食獣らしい気配に戻っている。
俺の腕の中で、たかちゃんが「んむ」などと、もっともらしくうなずいた。ついさっきまでルドルフの角を欲しがっていたことなど、その場の雰囲気にまかせて、きれいさっぱり忘れているようだ。まあこうした脳天気さもまた、純ろりの純ろりたる至高性、高次の哲学的アウフヘーベンなのである。
「……良かったら、放してくれんか」
ルドルフが力なくつぶやいた。
「もともとあんなもん、命《タマ》まで取る気、ないわ」
背後のトナカイたちの足元から、その『あんなもん』が、ずるずると這い出してきた。
「……す、すいません。ぼ、僕が悪いのです」
ふがいない若者の声だった。
頬骨の目立つボコ顔で、頭を下げる卑屈なありさまに、俺はなんだか、ひどくうすら寂しい季節を感じた。なんだか学生時代のビンボな俺に似ている。まあ今でも体格の割には十二分にビンボだが、もっと心身ともにビンボで、まだ痩せていた頃。そう――たとえばクリスマス・イブだと言うのに金も女もなく、赤い衣装でパチスロの看板持ちのバイトをしていた、遠い冬の飢えた俺である。
暗い河原のことでもあり、また帽子は吹っ飛び衣装も汚れてしまっているので、今まで気づかなかったのだが、その若者は、明らかにサンタクロースらしかった。
★ ★
【国際サンタクロース協会日本支部代表 黒須三太】――磨き抜かれた黒檀のテーブルで、青年が差し出した名刺には、そう印刷してあった。
俺は社会人の習性で、反射的に自分の名刺を差し出した。【株式会社●○プリント▲▽店長 沖之司 拡】――肩書きではかなり位負けしているが、けして卑屈には感じない。なんとなれば青年の名刺は、端の方から茶色に変色し、まるで骨董級の古葉書のようにみすぼらしい。今にも角が崩れそうなほど、風化している。
「……ずいぶん年季の入った名刺だね」
俺が思わず感嘆すると、青年は弱々しい微笑を浮かべ、なにか戦前の邦画に登場する若者のように、律儀らしく頭を掻いた。
「実は祖父の代からの刷り残りなので」
この青年の祖父の代――太平洋戦争前後の時期だろうか。しかし、代々同じ名刺を使うというのは、ちょっと話がおかしい。
首をひねった俺に、青年はまだ頭を掻きながら、
「父も祖父も、同名なのです。僕で四代目になります。初代の曾祖父が、明治の初めに任命されて、まあ仕事柄、ずるずる世襲ということで」
なんだか歌舞伎役者の話のようだ。
名刺交換している俺たちの背後――豪奢な絨毯敷きの洋間では、たかちゃんとくにこちゃんがそれぞれ気のあったトナカイにまたがり、例によって戦闘訓練をやっている。
「どうどう!」
「ほれ、つきころせ!」
トナカイたちは軽い運動程度に角を突き合わせているだけなので、まあ、あくまでも遊びである。
また壁際の暖炉の前では、高価そうな織物のクッションにもたれ、気取ってポーズをとるルドルフを、ゆうこちゃんが一生懸命クレヨンで写生している。
「あの、あの……」
ポーズがちょっと描きにくいらしい。
「おう。――こんなもんか?」
「……ぽ」
ゆうこちゃんの要望に応じて脚を組み替える様など、やはり赤鼻のルドルフは、かなりのええかっこしいだった。
「で、そのサンタクロースの跡継ぎが、なんでまた、あーいったありさまに?」
俺が訊ねると、青年はうつむいて言い淀んだ。
「……話せば長いことながら」
「話さなければ、わからない」
これでは古い漫才である。
そのとき、重厚な木彫りの扉をノックして、恵子さんが紅茶のトレーを運んできた。菓子類のトレーを抱えた若い女中さんも、後に続いた。若い女中さんのほうは、部屋にたむろするトナカイたちにまだ怯えているようだが、恵子さんはもはや泰然と構えている。
俺も泰然と超高級本皮ソファーにふんぞり返った。
恵子さんが「あんまり調子に乗らないで」と言うような、苦笑を送ってよこした。
そうした道具立てからもうお気づきのことと思うが、当然ここは俺の新居でも、近所のファミレスでもない。三浦家の応接間である。まるで迎賓館の一室に迷いこんでしまったようだが、これでも数室ある応接間の中では最庶民的――つまり新聞勧誘員や宗教書配りや霊感壷売り等、どんなつまらない客でも上げてもらえる部屋なのだそうだ。もともと本式の洋館部分だから、床が多少土足で汚れてもかまわない。時にはサラブレッドの取引にさえ使われるそうで、蹄鉄の硬さを思えば、野生のトナカイの蹄くらい楽勝だろう。
無論そうした流れは、三浦家の当主にきっちり了承を得ている。しかしその当主はなにせ経済界の重鎮なので、月の半分は家を空ける。現在もニューヨークに出張中である。通常の当主なら「なぜ私の留守中、家にトナカイの群れがお茶を飲みにくるのか」と国際電話の向こうで大いに悩むだろうが、そこはそれゆうこちゃんの父親だから、トナカイだろうが北極熊の大群だろうが、今さら驚かない。そしてその妻も、京都のお茶会の主賓とやらで、年末年始はそっちに泊まりとのことだった。司法試験に一発合格して法曹界に入った兄さんが休みで帰ってくるまで、夜は交替制の女中さんしか、家にいないのだそうだ。例のSPたちもどこかで警備しているのだろうが、ふだんは表に顔を出さない。
そうして今夜はどうやら、なし崩しに関係者一同、三浦家お泊まり会になりそうなあんばいだった。それを悟って、頬を真っ赤にして喜んだゆうこちゃんの日常的な孤独感を思い、俺はちょっと涙が出そうになった。女中頭・恵子さんとの親子のような、いや、年の離れた姉妹のような親密さも、そうした事情から来るのだろう。また同時に、今後の恵子さんの共働きもゆうこちゃんにとっての幸福なのだと、俺は自分の甲斐性の無さをいくらか正当化できた。
それにしても、今座っている空間のあまりに非現実的な豪邸っぷりに、俺はもはや私小説的世界観だのバニラダヌキ的世界観だのを、完璧に超越していた。考えてもみてほしい。この地球上《リアル》には、三浦家どころか総資産何兆円という『個人』と、預金残高が三十万弱の俺どころか荒野の難民キャンプでたった今餓死していく『個人』が、『合法的』に『共存』しているのだ。青梅の河原で赤鼻のルドルフたちと四代目邦人サンタが諍いを起こすくらい、なんでもない。
「まあ、ちょいと話がおかしいとは、思ったんやけどな。とうの昔にサン協は、本部からしてワヤじゃけん」
暖炉の前から、ルドルフがポーズをとったまま、話に加わってきた。
「それでも、ま、なんつーか――俺らも昔の男花、死ぬる前にもういっぺん咲かしたろ――そんな歳になっとったわけや。そやけ、そいつからエアメール届いた翌朝には、僅かな残党探し集めて、はるばる大陸越えて飛んできたわ。当節そんな地球の裏に、根性のええサンタがまだ生き残っとったか――そげな夢、追っかけてな」
ゆうこちゃんがクレヨンの手を休め、ルドルフの話に聞き入っている。たかちゃんもくにこちゃんも、いつの間にか紅茶とケーキの皿を手に、暖炉の前に寄ってきていた。プレゼントをくれるはずのサンタ本人より、赤鼻のトナカイに集まってしまうというのは、やはり見た目のリアリティーの差か。
三人のろりのハテナ兼ワクワク視線を、至近距離でモロに受けてしまったルドルフは、ふと、視線を宙に逸らした。
「……やめとこ。綺麗事や」
ニヒルに苦笑いしながら、
「あんたらに嘘は言えても、こん子らに嘘は言えんわ。これでも昔ゃあ、絵本や童謡の主役張った身じゃ」
それまで若ぶって張っていた声に、やや老いの音色が加わった。
「本部つぶれた時ワヤになっちまった未払いの賃金、ちっとでも回収できんか、そう思うとったんや。まあそれが無理でも、またいっぺん橇引いて聖夜の修羅場くぐりゃあ、来年いっぱいは、女房子にうまい草たらふく食わしてやれるけん」
気取ったポーズの割には、ほとんど雪国からの出稼ぎ親爺だ。
「ま、そんな胸算用でいたとこに、そいつの懐具合、聞いちまってな」
ルドルフは、怒りではなく諦めの視線で、うなだれている若サンタを顎でしゃくった。
「そいつ、文無しや」
若サンタは申し訳なさそうに、しかし真顔で言った。
「……けしてトナカイさんたちを騙そうなんてつもりは、無かったのです。これだけは信じて下さい」
俺は当惑していた。
トナカイたちの立場はなんとなく想像できたが、肝腎のサンタクロースという職制の在りようが、ちっとも想像できない。つらつら鑑みるに、実際世界中の子供達にプレゼントを配るとすれば、無尽蔵の資金が必要になる。ビンボな山の中で育った俺が、まだサンタクロースを信じていた頃にもらった安玩具、あれだって仮に両親でなくサンタの出費だったとしたら、日本中で何億、世界中なら何十兆円も必要になるのではなかろうか。
俺の隣に座った恵子さんも、もの問いたげにサンタを見つめている。ちなみに若い女中さんは、他のトナカイたちにバケツで飼い葉を与えながら、ふんふんふんふんと懐いてくる鼻と角の群れに、往生しながら面白がっている。
「……僕も、曾祖父が着任した当時の『本部』や『組織』の実態は、よく知らないんです。昭和五十五年の生まれなもんで」
若サンタが、ぼそぼそと事情を語り始めた。
「祖父や父の話によると、大正の始め頃までは、ほぼ無尽蔵の資金が毎年届いたらしいのです。いえ、資金と言うより、担当地域に配布するプレゼントの現物ですね。トナカイさんたちの賃金は本部決済で、毎年お呼びするとすぐに飛んできてくれたそうですし。サンタクロース自身はボランティアみたいなものですから、あくまで委託された橇の整備、そして年に一度の宅配が任務です。ですから日常生活はごく平凡な社会人、仕事も家庭も別にあります。僕の家は、その頃からこの町で小さな工場を営んでおりました」
「しかし、全世界の子供に一夜にして配るとなると、膨大なサンタが必要なのでは?」
「いえ、その頃でもサンタ数は日本で十数人、全世界で二千人弱だったと言います」
俺は納得できず、首をひねった。
若サンタは、ごもっとも、そんな顔で、
「意外に配送条件が狭いのですよ。『その子供がサンタクロースの存在を心から信じてくれている』、これは特にキリスト教圏など確かに多いのですか、そこに『サンタクロース以外にプレゼントをくれる人間が一人もいない』、その条件が加わりますから」
なるほど、元来ギリギリのボランティアだったのだ。それにしたって全世界なら大変な数だろうが。しかしこれで、俺が昔もらったペコペコのブリキの自動車や粗悪類似品地球ゴマは、両親の出費と確認できた。いっそ俺の家がきれいさっぱり無一文だったら、希望どうりにカメラやラジオがもらえたのではないかと、俺はちょっと損をしたような気分になった。
「んむ、そーゆーしくみだったのか」
数個目のケーキを飲みこんだくにこちゃんが、こくこくとうなずきながら言った。たかちゃんやゆうこちゃんは、話の半分もわからずきょとんとしているが、くにこちゃんは趣味の仏教修行を通して、大人の話から大筋の意味を悟るのに慣れている。まあ、七歳児なりのかなりとっちらかった解釈をしてしまう場合も多いのが、玉に瑕だが。
「どーりでおれんちには、組み立てひこーきしか、とどかなかった。きょねんのさんたは、やっぱし、おやじだったのか」
今回はしっかり把握しているようだ。
「おれんちが、もっともっとびんぼーなら、へりこぷたーのらじこんが、とどいたのかもな」
俺はくにこちゃんを力いっぱい抱きしめてやりたくなった。いや、貧しい家庭に育った者同士、慰め合いたくなったというのが正しい。俺も昔、Uコン飛行機――当時はラジコンがなく、地べたから直接ワイヤーで曲芸のように操っていたのだ――が欲しくて欲しくてたまらなかったのに、あの竹籤や木や紙で作るゴム動力飛行機のキット袋が届いてしまい、サンタの懐を疑ったことがある。
「ま、いいか。おやじとつくると、はんぱなしでとぶからな、ぷろぺらひこーき」
俺はくにこちゃんといっしょに飛行機を組み立て、空き地で飛ばし、夜はいっしょに風呂に入りたくなった。隣でちょっと涙ぐんだりしている恵子さんには、もちろん内緒である。
「……大正の始め頃まで、と言ったね」
俺は漠然と、裏事情が想像できた。
「第一次世界大戦の頃だな」
青年は、沈鬱な顔でうなずいた。
「――しかし、その後も細々と、現品は届いたらしいのです。しかし昭和に入ると、どんどんその質が落ちて、希望リストだけで現物はサンタ自身の裁量、そんな年もあったそうです」
「自腹――純ボランティア?」
「はい。それでも、リストが届くうちは、まだ良かったのです。祖父の代の末には、リストすら届かない年もあったそうですから」
第二次世界大戦――裏事情を想像するほど、俺は暗澹たる気分になってきた。サンタクロースという存在がどんな組織であれ、あくまで人類の『善意』あるいは『総意』に関わっているとすれば、その対極にあるのは――世界規模の諍いである。
「こっちの飼い葉代も、その頃から溜まりっぱなしや」
暖炉の前で、ルドルフが紅茶をすすりながらつぶやいた。
「もとから本部の場所も知らんし、あくまで風の噂やがな――御輿《みこし》のてっぺんのお方が、どうもいけんらしいで」
その話は若サンタも知らなかったのだろう、俺たちといっしょになってルドルフを見つめた。
「まあ死んではおらんっちゅう話やが、頭がいかれてもた。なんや、心配して地べた見下ろしとったら、いきなりどえらい光で、まず片目がつぶれちまった。それからごっつい音がして、かなつんぼや。あわててもう片っぽで窺っとったら、そっちもピカ、ドンで――両方、わやや。いきなりそんな目におうたら、誰だっておかしくなるわ。なんや、それっきりあっちこっちご近所の宇宙《うつ》、ぶつぶつ徘徊しとるらしいわ。ずいぶん歳や聞いとったから、ボケちまったのかも知れんなあ。……ま、ただの噂やけど、それっきり便りがないのも確かじゃけん」
俺は思わずうめいていた。
「右は、たぶん……1945年8月6日だな」
隣の恵子さんが、目を丸くして俺を見上げた。
「……8月9日に……左?」
十中八九、当たっているだろう。
俺たちが暗澹たる思いで沈黙していると、若サンタはなぜか、ちょとまて、と言うように両手を広げた。
「それは確かに、そうだったのかも知れません。戦後の父の代も、おととし僕が後を継いでからも、実は一度も本部からは音沙汰無しですから」
そう言う割には、表情が暗くない。ただ戸惑っている、そんな顔だ。
「しかし……実は、届いてしまったのですよ、この前。現物と、配送先のリストが」
3
それまで三人組で絨毯に座り、きょろきょろと俺たちの会話を聞いて、いや、ながめていたたかちゃんが、口をはさんできた。
「ねえねえ、さんたさん。たかちゃんたちのおてがみも、とどいた?」
通知表にはいつも「ひとの話をきかない」と記されてしまうらしい天然ろりのこと、ちっとも話が通じていない。まあ、まだまだサンタなど信じている――実際目の前に座っている事実はちょっと横に置いといて――信じている年頃の幼児なのだから、当然と言えば当然か。くにこちゃんのほうが、幼児としては苦労人すぎなのである。
「たかこ、おまいは、だまってろ」
その苦労人がたしなめた。
「おまいがなんかゆーと、はなしが、なんでも、わやわやになる」
「むー」
下関名物ふぐ提灯のようになったたかちゃんを、ゆうこちゃんがぽんぽんと慰めた。
「……こくこく」
「すねるな。あとで、きちんと、おれがわかりやすくおしえてやる」
「ほーい」
種々の前例を鑑みるに、それもちょっと不安なのだが、なにはともあれ、すぐにフグ化しても一瞬後には縮んでくれるのが、たかちゃんのほっぺたである。
俺は若サンタに話を戻した。
「プレゼントが届いたのなら、すばらしいことじゃないか。その一番偉い人の、傷が癒えたのかもしれない。まあ今もなんかいろいろ物騒だけど、東西冷戦も沈静して久しいし」
ルドルフが首を傾げた。
「じゃが、俺らの村には、そっちからはなんの話も来とらんで。あんたからの赤紙だけや」
「先ほどのルドルフさんのお話だと……一番偉い人は、まだ、ボケているのかも知れませんね」
若サンタは悩ましげに話を続けた。
「あるいは、たまたまほんのちょっとだけ、加減が戻ったとか。祖父が晩年、アルツハイマーを病んだのですが――ああ、ますます心配になっちゃった。あれは離脱していても、一瞬意識がつながって正気な言動を始めて、その途中でまただしぬけに離脱したりしますから」
もはやローマ法王にでも聞かれたら、激怒のあまりプッツンされそうな話の流れである。
「と言うことは――つまり、その届いた品物や配送リストに、何か問題があるのかな?」
俺が訊ねると、若サンタがうなずいた。
「はい。まあ、納得できる物件も確かにあるにはあるのですが、なにがなんだか解らない品物なども……。もしや、ルドルフさんたちなら、何か聞いているのではないかと思ったのですが」
「……そげん話やったんか」
ルドルフはうなるように言った。
「そんならそうと、とっぱなから言うてくれりゃええもんを」
「えと、その、いきなり未払い賃金の話が出てしまったものですから」
ルドルフは、のそりと立ち上がった。
飼い葉のバケツに鼻を突っこんでもぐもぐやっている配下たちを、ちょと来い、と呼び寄せ、なにやらごにょごにょと相談している。
俺はとりあえず、頼りなげな若サンタに言ってみた。
「とにかく、その品物と配送先を、一度見せてもらいたいな。何か少しはたしになるかもしれない」
つまりこの青年は事実上、形式的に跡目を継いだだけで、実際のサンタ業務はまるっきり素人なのである。それでは俺の店で先週雇ったばかりのフリーター青年と変わりがない。世間には熱意や善意だけでは回らない仕組みがあるのだ。俺だって本物のサンタになったことは一度もないが、多少長く生きているぶん、おたくなりの世間知は積んでいる。
「はい、そうしていただければ、実にありがたく」
そのとき、トナカイたちが、ぞろぞろと若サンタに寄ってきた。
「すまんかった」
一同揃って、若サンタに頭を下げる。
「わしら、ちっとばかりヤキが回っとった。というか――正味、根性曲がっとったわ。すまん」
潔く詫びるルドルフに、くにこちゃんが、よしよしとうなずいた。
「んむ、それで、いい。るどるふ、おまいはやっぱし、うわさどおりの、いいやつだ」
くにこちゃんとルドルフは、なにやら武闘派同士らしい熱い視線を交わした。
「とにかく、ルドルフさんたちにもいっしょに見てもらおうよ。長年世界中を回っていたのなら、俺たちより遙かに経験が豊かなはずだ」
俺が言うと、ルドルフのみならずくにこちゃんも、はりきってうなずいた。
「んむ、さんにんよればもんじゅのちえ、とゆーな」
すっかりこの事態に入れこんでしまったようだ。たかちゃんやゆうこちゃんまで、はりきってこくこくとうなずいている。どこまで理解できているか怪しいものだが、まあ詳しい事情がどうであれ、サンタの活動実態に興味を覚えない幼児はいるまい。
「こんな夜中に出かけるなんて、とんでもない」
恵子さんが三人組をたしなめた。
「そろそろ晩ご飯の時間じゃないの」
俺たちにとっては宵の口でも、正しいろりにはもう夜中――なし崩しに今夜のお泊まり会の責任者になってしまった保護者としては、当然の意見である。
「雪も止まないみたいだし、明日にしようよ」
俺は若サンタに言った。
「どっちみち活動そのものは、クリスマス・イブの夜限定なんだろ? まだ二日ある」
正確に言えば世界で最も早くイブを迎えるのは日付変更線のこっち側(?)だが、それにしたって時差は確か三〜四時間のはずだ。逆に日付変更線を一歩あっちにまたげば、さらに一日余裕がある。ちなみに『夜』を日没から日の出までと解釈した場合、サンタの徘徊許容時間は三十六時間程度だろう。
間合い良く、さっきの若い女中さんが、食事の用意ができたと知らせに来た。
「わーい、ごはんごはん!」
たかちゃんは真っ先に立ち上がり、早く早くとくにこちゃんやゆうこちゃんを引っぱった。
「ばたくさく、ないだろーなあ」
くにこちゃんが物問いたげに恵子さんを見上げた。
「大丈夫。今夜はすき焼きよ」
「わーい、すきやきすきやき!」
たかちゃんに引っぱられながら、くにこちゃんはキラリと目を光らせた。
「おう。いいな。さむいよるには、ぶたにくにかぎる」
恵子さんは、ちょっと困ったような顔で、
「えーと、牛肉は、きらい?」
長岡家の経済状態による発言か、好悪による発言か、計りかねたのだろう。
「……ぎゅーにく」
くにこちゃんは小さくつぶやいて、虚ろな目でふらふらと立ち上がった。
三人揃って仲良く食堂に向かうろりたちの間から、
「……ぎゅーにく」
またつぶやく声が聞こえる。足跡がよだれで濡れている気もする。このぶんだと、牛の一頭くらいは平らげてしまいそうだ。
「初仕事に備えて、元気付けとこうよ」
俺は遠慮している若サンタを促した。今後どうなるにしろ、俺は皮下脂肪・内臓脂肪ともに満タンなので雪原の橇でも平気だが、この若サンタの体格だと、あっという間に骨まで凍えてしまいそうだ。
「わしら、草食なんじゃが」
ルドルフが言った。
「飼い葉、もうちょっともらえんか?」
「えーと、春菊なんか、お嫌いですか? あちらにたくさん用意してありますけど」
「おう、そりゃええ。何より滋養じゃ」
ルドルフは配下たちを顎でしゃくった。
「おい、お前らも飼い葉ばっかり食っとらんで、ゴチになろうや。春菊は夜目に効くで」
それから俺たち夫婦と仲良し三人組と若サンタとトナカイの群れが、迎賓館級の食堂で繰り広げたすき焼きパーティーに関しては、まあ、皆さんのご想像にお任せしよう。
★ ★
当然のことながら、もはや引っ越しの始末など考えている場合ではない。
翌日の結構な朝飯をいただいて間もなく、俺たちは若サンタに案内されて、多摩川沿いの遊歩道をその家に向かった。
雪はもう止んでおり、河原に薄く白斑を残す程度だ。その代わり朝の大気は氷のように鋭く、冬枯れた木立の間で、皆の白い息が煙のように濃い。土面の霜もまだ溶けず、足元でしゃりしゃりと音をたてる。
それでも三人組とトナカイたちは、まったく元気だ。くにこちゃんとたかちゃんは、それぞれ気の合ったトナカイにまたがり、
「♪ ゆき〜のしんぐん 氷をふんで〜 ♪」
「♪ ど〜れが河やら道さえしれず〜 ♪」
本当にどこからそんな歌を覚えて来るやら。
くにこちゃんは狸のような腹を抱えて、ご満悦である。
「いやー、朝っぱらから、あじのひものくいほうだい、ごはんみそしる、おかわりじゆうだもんなあ」
以前泊まった時、西洋料理が苦手のくにこちゃんが往生していたので、今回は恵子さんが気を効かせてくれたのである。
「これからは、ちょくちょく、とまりにこよう」
トナカイを乗りこなせず、恵子さんと手を繋いで歩いていたゆうこちゃんは、その言葉を聞いて嬉しそうに頬を染めた。
先頭をゆく若サンタも、昨夜よりはずいぶん元気だ。晩飯の牛肉のおかげだろう。くにこちゃんや昔の俺のようなギリギリの貧乏人にとって、松坂牛はストレートに血肉になる。若サンタも、そんな生活を送っているに違いない。実際、教会に行くと四六時中飽きもせず十字架にぶら下がっている、あの痩せこけた人に似ているほどだ。
昨夜騒動のあった河原近く、小暗い林のちょっと奥に、その工場はあった。廃工場、と言うべきか。大昔の製材所のような木造の建物で、少なくとも二十メートル四方はありそうだ。その錆びたトタン屋根の上に、『黒須製作所』という朽ちかけた看板が傾いている。
「おう、でっかい、こや!」
たかちゃんが感嘆した。
「すげー。おれんちより、ビンボくさいぞ」
くにこちゃんが嬉しそうに言って、身軽にトナカイから着地した。
若サンタはその工場の裏に回り、勝手口らしいガラス戸をがたぴしとこじ開けながら、
「数年前、倒産しちゃいまして」
「何を作ってたの?」
俺が訊ねると、
「タワシです」
若サンタは照れ臭そうに答えた。
「『神の子たわし』と言いまして、昭和三十年代までは、ずいぶん売れたそうなんですが」
どうやらシャレではないらしい。
「機材ももう売り尽くして、僕はバイトで食ってます」
なるほど、見かけどおりのフリーターだったのだ。
「ここに住んでるわけじゃ――ないよねえ」
とても人の住める建物には見えない。
「いえ、自宅は昔、父が売ってしまったので、ここの宿直室で寝起きしてます」
扉をくぐると、そこは休憩所か商談用らしい土間だった。早い話、やっぱりくにこちゃんの家に似ている。違うのは、土間に商品棚ではなく椅子やテーブルやストーブが置いてあり、奥の框の上がガラス障子の代わりに板囲いになっており、引き戸に『宿直室』のプレートがあるところくらいか。もっとも、隅っこの『作業場』とあるドアの奥は、ずいぶん広いはずだ。
「今、お茶を入れます」
ストーブに火を入れようとする若サンタに、
「角《つの》がつかえて入れんど」
ルドルフが後ろから訴えた。
「あ、すみません。今、表開けます」
奥のドアに向かう若サンタに、俺は言った。
「先に、そのプレゼントや配送先リストってのを、見せてくれないか」
「あ、はい。じゃあ、いっしょに、こちらへ」
そのまま付いていこうとすると、たかちゃんが俺の袖を引っぱった。
「ねえねえ、おしっこ」
寒い道をけっこう歩いたからだろう、ろりたちや恵子さんは、みんな異議なしの顔をしている。
「あ、すみません。宿直室の奥に。――万年床、敷きっぱなしですみません」
「じゃあ、先に行ってるね」
トナカイたちは表に回り、女性軍はぞろぞろと宿直室に上がり、俺と若サンタは、表の工場スペースに入った。
建坪の大部分を占めるコンクリ床の、ところどころが四角く斑になったり、でかいボルトを引っこ抜いたらしい穴がいくつも点在しているのは、製造設備を処分した跡なのだろう。
その廃墟じみた空間で、真っ先に目についたのは、俺の背丈の倍ほどもある、ゴテゴテした金属の塊だった。
「ある朝、目が覚めたら、そこにありました」
古い機械ではないらしく油光りしており、動力機関らしいピストンや、電信柱の直径ほどの穴が覗いていた。そしてその横に、ワイヤーで束ねられた無数の金属管が、ゴロゴロと山積みになっている。
表の大扉を押し開きながら、若サンタは言った。
「それの正体は、どうやら理解できたのです」
ルドルフたちもぞろぞろ入って来て、唖然としてその機械を見上げた。
「ネット喫茶で調べてみたら、灌漑用ポンプ機材でした」
俺はうなずいた。そんな物を実地に見たことはないが、イメージとして、それ以外に考えられない。
「……送り先は?」
見るからに何十トンはありそうな質感に不安を覚えつつ、とりあえず訊ねると、
「これも解ります。いえ、納得だけはできるというか――中近東の、難民キャンプですから。ただ、そこまで、橇で運べるものでしょうか」
「この星の上なら、地の果てでも海の底でも、どこでも行ったるで。しかし、こりゃあ……」
ルドルフが配下たちを呼び寄せた。
トナカイの群れは、阿吽の呼吸でその機械に取りつき、逞しい角を当てて四肢をふんばる。しかしその金属塊は、微動だにしない。
「……あかん。やっぱり、大将ボケとる」
ルドルフがぼやいた。
「こないなもん、なんぼわしらでも、よう引かんど。バラして、小荷にでけんかのう」
「――それはとりあえず、こっちに置いといて」
もっとも横に置いとけない問題を考えたくなくて、俺は先を促した。
「他の物件は?」
「はい、こちらです」
機械の裏に招かれると、そこには平べったい段ボール箱が、山積みになっていた。ひとつひとつは大人が抱えられるほどの大きさだが、それが数列、俺の背丈を優に超えている。
「これは、配送先には問題ないのです。孤児院数箇所、いずれも国内ですから」
ルドルフは自分の角で、器用に箱の重さを確かめた。
「なんとか橇に積めそうやな。分けてしょってもええ」
しかし若サンタは、まだ悩ましげな顔をしている。
箱に印刷されているレタリングを見て、俺もなんだか、とてもいやあな予感がした。
『不二家』『クリスマス限定 キティちゃんサンタの苺ミルフィーユケーキ』『大丸六個』。
俺の胸には、ふたつの悩ましさが渦巻いていた。
「……いつ届いたんだっけ」
「一週間ほど前です」
まさか、生ケーキじゃないだろうな――この悩ましさは、たぶん若サンタと同じ悩ましさだろう。
しかしもうひとつの悩ましさは、このプレゼントの選択センスに起因する。
そのとき、
「おう! すごいすごい!」
案の定、たかちゃんの歓声が廃工場中に響き渡った。
ととととととこっちに駆けてきて、若サンタの胸にぴょんと張りつき、
「やっぱし、とどいた! りくえすと! りくえすと!」
ああ、やっぱり。
背後ではくにこちゃんが、あのでかい機械にがしがしよじ登り、
「すげーぜ! やったやった!」
てっぺんから若サンタの頭上にダイブしてきた。
「なんだ、しんぱいさせやがって!」
痩せた若サンタは、ふたりのろりの重みに耐えきれず、見事に尻餅をついた。
「ねえねえ、ゆうこちゃんのは?」
「そーだそーだ。ゆうこのが、いっとー、すげーんだ」
ふたりは全体重や腕力を駆使して、若サンタを窒息寸前に追いこんでいる。
「……ぐ、ぐえ」
さて、そのトリのゆうこちゃんは、と見ると、恵子さんの袖を握りしめながら、赤くなったり青くなったり、信号機のように心配している。
恵子さんは事情がつかめず、ただきょとんと首をかしげた。
「えと、あの……」
若サンタが、必死でろりの下から這い出してきた。
「とゆーことは……これ、どーゆーことか、わかるかな?」
不二家の段ボールの裏から、銀色のジュラルミン・ケースを引きずり出す。
「わくわく」
「むふふふ」
「……どきどき」
三者三様の視線を浴びながら、若サンタはケースを開いた。
赤い布張りの型クッションに、ちっこい玩具のような物が、三つ並んでいる。
――ぴこぴこハンマー?
それはどう見ても、ピンクと青と白の、ぴこぴこハンマー三色セットだった。
三人のろりが、歓声を上げた。
「どどんぱ!」
「おう、どどぱんど!」
「……どんぱ!」
きゃぴきゃぴとひとかたまりになって飛びはねているが、無論俺たちは、なにがなんだか解らない。
ケースの蓋の内側に、マニュアルのような大判の冊子が帯留めされている。
若サンタはそれを引っぱり出し、
「これは、配送先リストなんでしょうか」
ろりたちはわいわい転げ回っているばかりで、聞いてくれない。
若サンタが開いて見せたその内表紙には、世界地図が見開きで印刷されていた。そしてそのあちこちに、多数の蛍光マーキングが点在していた。
「丸印、妙に多いね」
「品物は、おもちゃのハンマー三個だけなんです。でもマーキングは、全世界にざっと数十箇所あります。そして――見て下さい」
若サンタは、太平洋のあたりを指差した。
「これは、船なんでしょうか。太平洋に限らず、あちこち海を動き回ってるのも、うじゃうじゃと」
さすがは一番偉い人の印刷物だ。確かに印刷のマーキングが、あっちこっち、うろうろ泳いでいる。
「……うひゃあ!!」
素っ頓狂な声が、工場に響いた。
そんなおまぬけな恵子さんの声を聞くのは、去年のゴールデン・ウイーク以来だろうか。
恵子さんは、わたわたと俺の腕を掴んできた。
「えーと、ほら、いつか話したでしょ。『天使のハンマー』のお話」
「て、天使のハンマー?」
俺が餓鬼の頃、憧れのお姉さんたちが聴いたり歌ったりしていた、アメリカのフォークだろうか。
「えーと、ピーター、ポール&マリー? いや、作曲はピート・シーガーか」
「違う違う。あの歌じゃなくて、あの子たちが作ったお伽話よ」
そういえばそんな話を、リー・ヘイス作詞の古典的反戦フォーク以外にも、いっぺん聞いたような記憶がある。
「えーと…………あ」
俺は絶句してしまった。
思い出した。
あんまり思い出したくなかったが、思い出してしまった。
思い出してしまったものは仕方がない。俺は若サンタとルドルフを、こち来い、と手招いた。
怪訝そうに顔を寄せる若サンタとトナカイの首を、両手で抱えこむ。
「えーとね、ちょっとね、未確認とゆーか、確認法自体が、ちょっと、とりあえず思い当たらんのだけど」
「ごくり」
「なんやねん、うじゃうじゃと男らしゅーない」
仕方がないので俺は言った。
「たぶん、あれ、対核兵器用玩具」
★ ★
それはふた月ほど以前、冷たい雨の降り続く、ある晩秋の日曜日――。
仲良し三人組は、例によってくにこちゃんの家に入り浸り、ともこちゃんを肴に酒を飲んで――いや失礼、なんかいろいろ、うだっていた。
遊びもしつくし、歌も歌いつくし、僅かなおやつも食いつくし、といって外はしとしと雨だから、赤ん坊をしょって散歩に出るわけにもいかない。くにこちゃんの家には、中毒性のゲーム機などもない。三人のろりと一人の乳児は、卓袱台の前にハムスターのごとく群体を成して体温を保持しながら、テレビを見ていた。
そのけだるい午後に、たまたまザッピングした教育番組で、長い紛争のさなかに枯渇してしまった難民キャンプの子供たち、あるいは地方行政の破綻により補助金が限界まで縮小されてしまった孤児院の子供たちやらを、清く正しげなお兄さんやお姉さんが、子供向けに噛み砕いてレポートしていたらしい。
三人のろりは、それまで半年に及び、きわめてお気楽にとはいえ、曲がりなりにも赤ん坊の成長に関わってきていたので、まあたぶん人間の『生』そのものに、なんらかのアレを感じていたのだろう。ふだんなら「ああかわいそう」と心を痛めて五分後にはきれいさっぱり忘れてしまいそうな社会問題を、妙に深々と心に刻んでしまった。
子供というものは、一度何かにかぶれると、その正邪を問わずとても短絡的だ。たかちゃんが「ことしのくりすますは、ぷれぜんと、いらない。あっちのみんなに、ぷれぜんと」とか言い出すと、くにこちゃんも侠気《おとこぎ》方面で負けたくないので、「ようし。んじゃおれは、さばくに、みずをとどけてやる」などと、例年自分のもらうプレゼントとは、経費《かかり》のケタが違うことを言い出す。
ゆうこちゃんが、それらしい趣向をふたりに取られてしまって寂しがっていると、今度はテレビで核兵器問題を取り上げ始めた。これも子供向きにショックは和らげてあるものの、広島やら長崎やらに始まって、現在の核拡散防止運動やその矛盾まで、清く正しげなお兄さんやお姉さんがせつせつと語っていた。その終盤でくにこちゃんは天に向かって怒りの咆吼を上げ、脳天気なたかちゃんまで、今後の人生いったいどーしたものやらとおろおろ居間を駆け回ったと言うから、繊細なゆうこちゃんなど、どれほどトラウマを負ってしまったか想像に難くない。
そこでトラウマ昇華のため、ゆうこちゃんによって考え出されたのが、『天使のハンマー』である。一見ただのぴこぴこハンマーだが、そこはそれ神様の特注品だから、大変な破壊力がある。どのくらい破壊的かというと、そのハンマーで核弾頭の鼻の先をぴこんとやっただけで、「かくばくだんがお花ばくだんになってしまいました」、それくらい破壊力がある。子供たちの設定から科学的に推測すると、たとえばエノラ・ゲイに搭載された広島型のリトルボーイを投下前にぴこんとやっただけでも、広島市街は爆心地から半径二キロにおよび、一瞬にしてひまわり畑になってしまう。まして現在の大型核ミサイルをぴこんとやって数発も飛ばせば、全世界の文明圏がことごとくひまわり畑になってしまう、それほどの破壊力らしい。ただし、生物殺傷能力や衝撃波はない。
たかちゃんやくにこちゃんも大いに感動し、その日は夕方まで『天使のハンマー』物語で盛り上がり、みんなでせっせとでっちあげた話を、ゆうこちゃんが愛用のお絵かき帳にせっせと描きとめた。ゆうこちゃんは家に帰ってからも、夢中でその絵本もどきをテコ入れしていたので、恵子さんが気づいて見せてもらうと、「……ぽ」などと頬を染めながら聴かせてくれるお話が、とてもおもしろかわいい。それでいっしょに絵本のテコ入れを手伝い、後日俺にも、その話や由来を聞かせてくれたのである。
「……あれを、まんま、リクエストしちまったわけか」
廃工場の休憩所でお茶をいただきながら、俺はうめいた。
たかちゃんたちは、嬉しそうにこくこくとうなずいた。
「そーだよ。たかちゃんのおてがみと、くにこちゃんのおてがみと、ゆうこちゃんの絵ほん。あゆみ橋のまんなかから、ふーせんにくっつけて、お空に、おくったの」
「絵本って、どんなお話なんですか?」
若サンタが、興味津々で訊いてくる。
メイン・ライターのゆうこちゃんはもじもじと頬を染めるだけなので、俺と恵子さんが顔を見合わせていると、たかちゃんが率先して語り始めた。
「うーんとね、さんにんの天使さんが、さんたさんのとこに、おりてくるの」
「うん」
「んでもって、くりすますいぶにね、せかいじゅー、げんしばくだん、ぴこぴこするの」
「うん」
「ちょっとしっぱいして、みたけさん《御岳山》、ひまわり山になったりするの」
「うんうん」
「んでも、ほかの、きちんとぜんぶ、ぴこぴこするの」
「うんうんうん」
「えーと――おしまい。めでたしめでたし」
たったそれだけながら、たかちゃんは深々と頭を下げた。
くにこちゃんとゆうこちゃんが、ぱちぱちと拍手すると、たかちゃんは「や」「や」「や」と手を振った。
まあ実際は、天使たちのぴこぴこに関する脳天気なサブ・ストーリーなども幾つかあるのだが、大筋は確かに、それだけなのである。
「お絵かき帳までくっつけて、風船、よく上がったなあ」
俺が感心すると、
「おこづかい、ぜーんぶ、ふーせん」
たかちゃんは、得意そうに胸をはった。
「んむ。やっぱり、たかこが、ただしかったのだな」
くにこちゃんがもっともらしくうなずいた。
「さんたのりくえすとは、窓から大ごえでどなっても、だめなのだ。おうめにいるさんたは、下っぱなのだ」
若サンタはかわいそうに、すっかり気を落としている。
ゆうこちゃんはそんな若サンタを存外頼もしそうに見つめて、目が合うと、ぽ、と頬を染めながら、ぺこりと頭を下げた。現にサンタがそこにいるのだから、お願い物件は必ず有効になると信じているのだろう。
若サンタもルドルフたちも沈思黙考するばかりなので、俺は提案した。
「簡単そうなほうから、ひとつひとつ、確かめよう」
大人はともあれろりたちを悩ませたくないので、俺はなるべく剽軽に言った。
「じゃあ、はじめに、たかちゃんのリクエスト、審査しまーす」
たかちゃんは自分でぱちぱちと拍手した。この子はほんとうに単純でありがたい。
まず、恵子さんに訊いてみる。
「俺は詳しく知らないんだけど、苺ミルフィーユって、そんなに日持ちする?」
「生クリームだったら、冷蔵庫で三日くらいかしら」
ああ、やっぱり。
「でも、カスタード・クリームやバター・クリームだったら、もう作り方によって色々よ」
まだ希望があるかも知れない。
「悪いけど、あの届いてた奴、確かめてくれないか? ひとつは、開けちゃってもいいだろう。どこかに賞味期限とか、書いてあるかも」
恵子さんはうなずいて、作業場に向かった。
「配送能力には問題ないよね?」
これにはルドルフがしっかりうなずいた。
「楽勝や。こんなちんまい国なら、端から端でも五分で飛んでみせるわ。ま、サンタの命は保証できんけどな」
「大丈夫です。死んでも耐えてみせます」
「おう、その意気や」
となると、問題はやはりケーキの日持ちだけだ。最悪、俺が新たに買うという手もあるが――預金残高が心細い。
恵子さんが携帯を畳みながら帰って来た。
「OK。脱酸素材入りの、個別包装だわ。賞味期限は二十六日の朝ですって。念のため知り合いのケーキ屋さんに訊いてみたら、あの包装はもともと保存用の製品だから、冬なら年明けまで平気だろうって。賞味期限なんて、もともと保険みたいなものだし」
すばらしい時代である。一見生に見えるナントカケーキが、半月も日持ちしてしまうのだ。そういえば観光地の土産物屋のケーキなど、カスタード・クリームと書いてあっても、常温で半年もったりする。まあ中身の成分を考えると、防腐剤の塊のような気がして、ちょっと怖い気もするのだけれど。
「よーし、たかちゃんのリクエスト、解決!」
「わーい、かいけつ、かいけつ!」
「次は――くにこちゃんのリクエスト、審査しまーす」
くにこちゃんは、あっさり言った。
「おれのは、へーきだ」
悠々とお茶をすすりながら、
「いざとなったら、じぶんで、かつぐ」
それが可能なのが、このろりの脅威なのである。
「でも、あそこの砂漠までだと、ずいぶんあるぞ。途中には、海もある」
「いいんだ。くりすますがだめでも、おとしだまにする」
確かにこの子なら十日もあれば、地球半周くらいできるだろう。しかし、国境問題あるいは中近東の戦闘地域――説明しあぐねる俺に代わり、ルドルフが言った。
「嬢ちゃんの根性は買うが、それ、まずいんじゃ。クリスマスの朝までに配りきらんと、あれらは消えちまう。次のプレゼントになるための、精《スピリッツ》に戻っちまう」
くにこちゃんは、さすがに考えこんだ。
「ねえねえ、くにこちゃん」
たかちゃんが言った。
「おふどーのおじさん、よぼう」
例の不動明王のことだろう。
「いんや、だめなのだ」
くにこちゃんはむっつりと腕を組んで、
「まえに、おししょーさまに、きいてみたのだ。ほとけさまも、ぷれぜんとをくばったら、もっとにんきがでるんじゃないか、ってな」
それも確かに、良案かもしれない。
「んでも、だめなのだ。やそ教と仏教は、ちがうのだ」
くにこちゃんは遠い目を宙にさまよわせ、
「ほとけのみちは、ちがうのだ」
「どう、ちがうの?」
「それが、じぶんでわかったら、おれもりっぱなぼーずになれる――おししょーさまは、そういった」
俺も会ったことのあるあの老僧は、柔和な外見に似合わず、子供に媚びない主義らしい。
「……あの、あの」
ゆうこちゃんが、ぽしょぽしょと言った。
「パパに、たのんでみるの。ひこーきとか、へりこぷたーとか」
三浦財閥の力をもってすれば、物理的にも経済的にも、それは可能かもしれない。しかし、国際社会の表でそれをやるには、やはり期間が足りないのである。
俺はゆうこちゃんの無邪気な善意を傷つけないよう、軽い調子で答えた。
「うーん、ちょっと重すぎて、飛べないだろうなあ」
「じゃあ、おふね?」
「お船なら運べるけど、何ヶ月も、かかるかなあ」
しょんぼりしてしまうゆうこちゃんを、たかちゃんとくにこちゃんが両側からぽんぽんと慰めた。
俺は、ひとつの裏技を考えていた。
俺の知る限り、この世界にはもうひとり、『なんでもアリ』方向のキャラが存在するのである。
「俺が思うに――ここは、たかちゃんのママに、ちょっと頼んでみたいんだけど」
「あ」
たかちゃんが、ぽーんと手を打った。
「ママが、しゅわっち! ひとっとび!」
はりきって立ち上がり、俺の手を引っぱりながら、
「いこういこう! きょうは、おうちにいるよ!」
4
たかちゃんのママは、駅前のスーパーと科学特捜隊極東支部の、掛け持ちパート主婦である。
たかちゃんによると、今日はいつもなら科特隊でパートをやっているはずの曜日だが、この時期そっち方向は、なぜか暇なのだそうだ。まあ怪獣や怪人や宇宙人といった連中も、歳末はなにかと年間活動の後始末で忙しいのだろう。
駅近くの住宅街に向かって街道をたどると、若サンタ率いるトナカイの群れは、さすがに人目を引いた。道行く幼年層は「あ、そろそろぷれぜんとのじゅんびをしてくれてるんだ」、そんな視線でわくわくと眺め、ちょっとひねた年頃の子供だと、「サンタってのは、やっぱり、いるのか? 自分の社会認識は、ちょっと俗事に過適応しすぎか?」、そんな顔をしている。また大人たちは、あくまで何かイベント関連物を見る目、あるいは仲良し三人組の前歴を多少なりとも知っているのか、過大な不安と期待が微妙に錯綜する、そんな目をしていた。
やがて、たかちゃんの家――春に新築したという瀟洒な青い三角屋根が見えてきた頃、
「……ねえ」
恵子さんがこっそり耳打ちしてきた。
「もしかしたら、だめかも」
俺が「どうして?」と目で問うと、
「たかちゃんのママも、不動様と同じかもしれないわ。春に、あの桜さんを助けた時、そんなふうに言ってた気がするの」
「つまり例の裏技は、あくまで――」
「そう。『怪獣退治の専門家』」
言われてみれば、もっともである。俺としては、あのママさんが例の公然の秘密状態、つまり「しゅわっち」状態に変身して助力してくれれば、灌漑用重機のみならず、もしかしたらぴこぴこハンマーの件まで、いっきに解決するかと期待していたのだが。
「……とにかく、訊くだけ訊いてみよう。世界平和だって、科特隊の広義の任務だし」
恵子さんもうなずいた。
いっそマイティジャックあたりでパートをやっててくれれば、用件が被って良かったのかもしれない。
たかちゃんの新居の庭は、確かに以前の倍はあった。洋風のオリジナル設計家屋とあいまって、日本の中流家庭というより、軽井沢あたりの小洒落たペンションのようだ。
「ぴんぽーん! ただいまー!」
「はい、おかえりなさい」
出迎えてくれたたかちゃんのママは、愛娘の背後にわだかまるトナカイの群れを見ても、まったく動じなかった。それどころか、頭目のルドルフに目を止めて、
「あら、お久しぶり」
懐かしそうに目を細めた。
「あ、姐さん!」
ルドルフは一尺ばかり飛び上がった。
「その節はどうもお世話になりっぱなしでご無沙汰しっぱなしでいやはやどうもなんとお詫びしていいやら」
冬色の芝生に角をすりつけている。配下たちも同様だ。
「あらまあ、そんな、頭をお上げになって」
おろおろと微笑するその上品な佇まいに、俺は寒気に似た畏敬を感じた。
「わーい! ママ、るどるふさんと、おしりあい?」
驚くより先に瞬時に喜んでしまうたかちゃんも、なかなか怖い。
「え、ええ、ちょっと昔、北極のツンドラ地帯で……」
ママさんはわけありげに言葉を濁した。そーゆー謎の母なのである。
「ゆうこちゃんちでは、おとなしくしてた?」
「うーんと……ふつーに、してたよ」
たかちゃんの気を逸らす呼吸も、板についている。
「さあさあどうぞ、皆さん、お上がりになって」
ぞろぞろと上がりこみながら、くにこちゃんがつぶやいた。
「おれはどーも、ちかごろ、あのおふくろさんが、おそれおおい」
同感である。恵子さんもゆうこちゃんも、しみじみうなずいている。
「なつにおまいりした、たかさきの、大かんのん様のよーだ」
たかちゃん家の間口は、トナカイの角も楽々通った。
趣味のいい応接間でお茶を出され、昨日の夜はどうも貴子がお世話をおかけしてしまって、いえいえこちらこそなんのおかまいもできませんで、などとごく日常的な挨拶を交わしたのち、例の超非日常的相談の内、とりあえず砂漠物件について切り出すと、
「――ごめんなさいねえ」
たかちゃんのママは、心苦しそうに頭を傾けた。
「ねえねえ、いこうよいこうよ。あらじんの、さばく」
たかちゃんは、多摩動物園でもおねだりするノリでママを揺すっているが、
「ごめんね。ママのお仕事は、やっぱり、お相手がいないと駄目なの」
「おあいて、いるよ。えーとね、なんみんってゆう、こどもとか。いっぱいいるよ」
ママさんは愛娘を、優しく、しかし哀しげにぽんぽんしながら、
「ごめんね、ママもなんとかしてあげたいんだけど――それは、ほかのおじさんやおばさんの、いいえ、世界中のみんながいっしょになってがんばらないと、いけないお仕事なのよ」
「ぶー」
そう、たかちゃんがいくらフグになっても、光の国の戦士は人間が限界に挑んだ果てでないと、ベータカプセルもウルトラアイも使用できないのだ。それが唯一神教における『神の沈黙』にも似た、人類永遠の命題なのである。
くにこちゃんが、なにか粛然とうなずいている。
重苦しい沈黙の時が流れた。
今回はいつになってもたかちゃんのフグが縮まらないので、ママさんはさすがに胸を痛めたようだった。天井を見上げながら、いや、たぶん屋根の彼方の空を見上げながら、じっと考えこんでいる。俺たちも言うべき言葉がない。
と、ママさんの視線が、なぜか俺に下りてきた。
頭のてっぺんから足の先まで、しげしげと値踏みするように眺め回している。
俺が思わず顔を赤らめからだろう、隣の恵子さんがちょっと殺気を帯びた。
「沖之司さん、とても良い体格でいらっしゃいますよねえ」
「は、はあ」
「ただのデブ――ごめんなさい、肥満体じゃなく、お相撲さんタイプとお見受けしますわ」
「え、ええ。けっこう物を持ち上げたり走ったりできますよ」
アンコ型力士が本気で走る時のような恐るべき迫力はとても出ないが、それでも人並みの持久力はあるつもりだ。
「ただのおたく――ごめんなさい、上っ面だけの嗜好閉塞ともちがうと、おうかがいしているんですけど」
たしかに、俺はおたくの定義にも厳しく生きてきたつもりだ。真のおたくとは理論に裏打ちされた実践である。たとえば、ろりのために死ねない男は断じてろり野郎ではない、そんな矜持である。
「もしかして、アトラクションのお仕事なんか――」
俺は力いっぱいうなずいた。
「はい。学生時代、豊島園でひと夏、ケロニアやウーを」
夏の屋外アトラクのバイトは、心身ともにおたくを磨く道場である。一日三キロずつ痩せていくのだ。
「それでは、最後に、質問です」
「は、はい」
「水の無い砂漠地帯に出現した場合、もっとも始末に困る怪獣は?」
「え、えーと――メジャーなところでは――ジャミラでしょうか。あるいは、バルゴンなども。どちらも弱点は、ただの水ですから」
「ぴんぽーん」
おう、正解だ。ウルトラ関係の方に認められて、俺はときめいた。
「……失礼」
たかちゃんのママは軽くつぶやいて、なぜか携帯を取り出した。
「――あ、ご無沙汰いたしております。青梅の片桐でございます。はい。いえいえ、そんな、とんでもない。本当につまらない物で、あいすいません。ところでモロボシさん、あなたのお家に、たしか、予備のカプセルが残っておりましたわねえ。ええ、ええ、収容設定が未設定の。まことに申し訳ないんですけれど、そちら、しばらくお借りできませんかしら。はいはい。いえいえとんでもない。これから伺いますわ。いえそんな、お気をお使いにならないで――あら、アンヌさんが明日吉祥寺に? それはそれは。――あーらお久しぶり! おほほほほほほ! あなたなんで鎌倉から吉祥寺なんかに? あらあら、若いわねえ。ホントに隅に置けないこと。じゃあ、あの小劇場ね。十時半開演――良かった。ええ、間に合うわ。はーい、じゃあ、明日ねー。…………ぽち、と」
賑やかな通話中、ピンクの携帯のキティちゃんが一生懸命光ったりしているのは、母娘共通の趣味なのだろうか。
たかちゃんのママは携帯を閉じ、俺に向かってにっこりと頬笑んだ。
「ちょっと体型はアレですけれど――あなた、ジャミラでお願いしますね」
は?
俺だけでなく、ママさん以外の全員がきょとんとしている中、ママさんはたかちゃんのおつむをくりくり撫でながら、満面の笑みを浮かべた。
「明日のクリスマス・イブに、その砂漠にジャミラが出現します。ジャミラという怪獣は、もとは地球から見捨てられた宇宙飛行士の方が変身したもので、それはもう前途をはかなんでおりますから、やけくそでゲリラのアジトやら多国籍軍のキャンプなどを、見境無く踏み荒らしてしまいます。当然科特隊が出動しますが、当然通常の攻撃では退治できません。ジャミラさんは灼熱の惑星で鍛えぬいておりますから、大量破壊兵器だって平気ですもの。唯一の弱点は――」
そう、その異星に無かった、ただの『水』なのである。体長に見合った、大量の水。
「――そこに、アレが出現します。ハヤタさんが現役の頃ですと、お手々から放水車のようにお水なんか出せたわけですが、残念ながら現在のアレには、そんなご都合技は使えないんです。ですから、どこかでジャミラさんの脚あたりにダメージを与え、動きを止めるのが、せいいっぱいですわね。当然、その付近に急遽大量のお水が必要になります。給水車くらいではとても足りません。つまり河川からの灌漑設備が必要になります。そのときアレが設備一式運んでくれば――きっとゲリラの皆さんも多国籍軍の皆さんも、総出で敷設してくださいますわ」
う、ウルトラ八百長試合。
つまり俺は、あのカプセル怪獣収容器(兼・シリーズによってなんでもありカプセル)でこっそり怪獣化し、砂漠でウルトラママと出来試合を繰り広げるのである。
恵子さんが必死になって、俺の見えないあたりの袖をつんつん引っぱっている。それが俺の身を案じてくれてか、ナイス・バディーなウルトラママと組んず解れつするのを妬いてかは知らず、俺はもう反射的に、激しくこくこくとうなずいてしまっていた。
それは天地神明にかけて、邪念によるものではない。元祖ウルトラ怪獣世代なら、きっと解ってくれるはずだ。俺たちは女子のふくらみかけた胸や尻に邪念を抱くより遙か昔から、そしてウルトラマンやマグマ大使そのものよりも、実は『怪獣になりたかった』のである。
とにかくこれで、くにこちゃんのリクエスト物件も、無事配送の目処が立った。細々としたスケジュールは、たかちゃんのママに任せるしかない。
その日の昼食もママさんが出してくれることになり、俺たちは恐縮しながらも、お手製の秘伝の炒飯をおいしくいただきながら、最後の問題に移った。最大の難関――ゆうこちゃんのリクエスト『天使のハンマー』をいかに駆使するか、である。
「肝腎の天使が届いていない以上――自力でぴこぴこしろ、と言うことなんだろうなあ」
俺が言うと、
「イブになったら、来てくれるんじゃないかしら?」
恵子さんが楽観論を述べた。
「……しかし、もし、来てくれなかったら。つまり、一番偉い人が、まだ斑《まだら》ボケだったら」
若サンタが悲観論を述べた。
「やっぱり、そのハンマーも、ほっとくと翌朝には消えてしまうの?」
たかちゃんのママが、ルドルフに訊ねた。
「まあ、昔の決まりどおりなら、十中八九、それっきりですわ。いっそ――」
心苦しそうに話を続けるルドルフを、俺は目線で制した。
そう、『自分のためにそういう物が欲しい』とだけ手紙に書けば、その効果は恒久的だったのかも知れない。ストーリー込みの絵本仕立てであったことが、かえって仇になっているのだ。しかしこの無邪気な三人組に、そんな事情まで諭す気はない。
「――やっぱり、消えちまうでしょうなあ」
ルドルフも長く生きているだけあって、俺の目線を悟ってくれた。
「ねえねえ」
たかちゃんが、くにこちゃんとゆうこちゃんを呼んだ。
なにやらごしょごしょ相談し、
「どっこいしょ」
テーブルの上によじ登る。
そして、三者三様、びしっと思い思いのポーズをキメて、
「へんーしん!!」
俺はまだ見たことがないが、前の冬に出現したと言う噂の美幼女戦士を、再現するつもりらしい。自分たちで天使の役をやるつもりなのだろう。
「…………」
「…………」
「…………」
約三十秒、静止沈黙したまま、お互いお目々だけできょときょとと確認し合ったのち、
「……しっぱい、しました」
たかちゃんが代表で頭を下げた。
ママさんがよしよしと頭をなでた。
「いいのよ。あれはねえ、たまたま、福引きの大当たりみたいなものだから、もう無理だわ」
なにか大宇宙規模のラッキーセブンだったと聞くから、一生に一度くらいの確率なのだろう。あるいは三人がそろって七十七歳になったら、美老婆戦士に変身できるのかもしれない。
「とにかく、そのハンマーや配送先リストが見たいわね。それから、お空に送った絵本。実際、どんな話を書いて、どんなお絵描きだったのか」
恵子さんとゆうこちゃんが、顔を見合わせた。
「あのとき、練習で描いたのが、たくさんあったわよね」
「……ぽ。……つくえの、なか」
★ ★
恵子さんとゆうこちゃんが絵本の下書きを取りにお屋敷に戻り、たかちゃんのママは例の八百長をスムーズに成立させるためになんかいろいろ根回し(と、たかちゃんの着替えやら何やら)、そんなこんなで、とりあえず俺たちは四手に別れた。いずれあの廃工場に集う約束である。たかちゃんのママは、例の灌漑用機材一式も、見ておかねばならない。
若サンタとトナカイには先に帰ってもらい、俺はくにこちゃんを連れて長岡履物店に向かった。超強化ろりとはいえ、弱冠七歳の女児を、ただ電話だけ入れて連れ回し続けるわけにはいかない。
幸いたかちゃんのママも長岡家に連絡してくれたおかげで、俺は幼児連れ回し犯的な処遇は受けず、くにこちゃんとお母さんが奥でなんかいろいろやっている間に、居間の炬燵でともこちゃんと親交を深めた。
ともこちゃんはさっそく俺の膝をおしっこで濡らし、烈火のごとく泣き始めたが、あくまで濡らす前は笑っていたから、俺が嫌われたわけではないだろう。今どきパンパース類でなく布おむつというのも、世のヤンママなどは目を顰めそうだが、本当は乳児のためにはその方が自然なのである。勝手に放尿して勝手に泣くのが乳児本来の仕事で、それを始末しながら優しくいじくりまわしてやるのが親の仕事だ。俺は親ではないが、忙しそうなお母さんに頼まれてともこちゃんのおしめを替えてやり、ついでにこっそりあちこちいじくりまわした。
濡れたおむつをはずしてやった時点で、ともこちゃんはもう笑っていた。とてもかわいい。生後一年もたっていないはずなのに、金太郎のようにでかい。さすがにくにこちゃんの妹である。赤ん坊なので当然あそこはつるりとふくよか、ありきたりの表現だが桃の割れ目のようである。三年前の俺だったら、思わず欲情していたかもしれない。
しかしたかちゃんたちに鍛えられてか、あるいはここ一年ほどの恵子さんの存在が抑止力になってか、俺は欲情する代わりに、大昔おしめを替えたり風呂に入れるのを手伝ったりした、寝たきりの祖母を思い出していた。
子供の頃――あの奥羽の片田舎。
正直、動ける間の祖母を、俺は心底嫌っていた。憎悪していた、と言ってもいい。長男の嫁、つまり俺の母親をさんざ理不尽にいびり尽くし、内孫の俺にも小遣いひとつくれたことがなく、分家夫婦や外孫が里帰りしてきた時だけ、別人のように『優しい祖母』になった。つまり家内の人間にとってはまったくの夜叉、外面《そとづら》だけは菩薩、そんな完全多重人格状態だったのである。だから、祖母の体と頭が一度に破綻し、無様な寝たきり痴呆老人になった時、俺は天罰が下ったのだと小気味よくさえ思った。しかし、その天罰は、同時に俺たちをも直撃した。寝たきりの痴呆老人――それは体重何十キロの巨大な赤子だったのである。これから育つのではなく、ただ朽ちてゆくだけの。
それから数年、祖母は寝床の上で生き続けた。昼夜を問わず好きなだけ泣きわめいた。赤子と違うところは、その泣き声に、ときおり日本語として言霊を伴ってしまう異常な悪態あるいは哀訴が入れ替わり混じる点、そしてその重量である。山家ゆえ両親は共に森や畑で働いていたから、いきおい俺もおむつや風呂の世話を分担させられた。おむつは臭くて汚い。昔の木製丸風呂桶は狭くて縦長なので、介護入浴には最悪だ。親父がこの厄介なしろものを後生大事に世話し続けるのは自分の親だから仕方ないにしても、なぜ母はあれだけいびり尽くされたこれを風呂に沈めてしまわないのか、不思議でならなかった。
そして数年後のある冬の夜――確かちょうど今頃の時期――母親と俺が風呂に入れてやっていると、直前まで意味不明の怒声を上げていたその祖母が、突然おとなしくなり、やがて蚊の鳴くような声でつぶやいた。
「ありがとう」
見ると、湯気に霞む祖母は安らかな半眼で、裏の古寺にある阿弥陀様のような顔をしていた。
俺はその単語を、高校生になったその時まで一度も祖母の口から聞いたことがなかったから、驚くと言うより、ただ頭の中が白くなった。
母はくぐもった声で泣いていた。
それから俺も泣いてしまったのだけれど、祖母の言葉に泣いたと言うより、母の涙に泣いたのだと思う。
そのとき湯船の中に見えた祖母の性器は、白髪まですっかり抜けてしまい、赤ん坊のようにすべすべしていた。毎日風呂に入れているから、けして汚れてもいなかった。寝たきりでもきちんと物を食わせいるから、痩せてもいなかった。むしろ俺がそれを女の性器と認識しなくなった数年前よりも皺が少なく、赤ん坊のような肌色に戻っていた。
そう、今、炬燵の上から俺を見上げてきゃっきゃと笑っている、ともこちゃんの桃のように。
祖母はその年の大晦日を待たずに、息を引き取った。
そしてともこちゃんは、これからいよいよ元気に育っていく。
しかし俺の耳に、あの時の祖母の言葉とともこちゃんの笑い声が同じものと聞こえ、あの時の祖母の顔と今のともこちゃんの笑顔が同じものと見えるのは、ただの感傷だろうか。
「ちゃんと、やさあしく、ふいてやっただろーな」
いつの間にか、着替えたくにこちゃんが横にしゃがんでいた。
「あかんぼのおはだは、とっても、でりけーとなのだ」
俺は安心しろと言う代わりに、笑って天瓜粉のパフを上げてみせた。
★ ★
お母さんの了承を得て、またくにこちゃんと連れだって街道に出ると、くにこちゃんが言い出した。
「おい、かばうま。ちょっと、えきまえに、よっていいか?」
さほど遠回りではないし、時間もまだある。
「おう、なんか食いたいものでもあるか?」
「けんた! ……いや、ちがう」
力いっぱい喜んだ直後、いきなりむくれた。
「……おまい、おれを、すっげーはらへらしだと、おもっているな?」
おお、この無敵ろりも、恥じらいというものを覚え始めたのだろうか。
「おししょーさんに、あうのだ」
くにこちゃんは、なにやら思い詰めた顔で言った。
「……このまんまじゃ、くやしい。おれのでばんが、ない」
よほどイブのサンタ活動に貢献したいのだろう。
「でも、あの機械を用意しただけで、俺はすごく偉いと思うぞ」
甘やかしではなく、心底の賞賛である。
「……んでも、やっぱし、くやしい。せめて、おれの、りくえすとだけでもな」
まあその侠気《おとこぎ》を認めてやるのも、やぶさかではない。
「……んで、けんたっきーで、いいぞ」
その食欲も、認めるにやぶさかではない。初めて会った日のような高級寿司は、懐の苦しい現在、ちょっとパスだが。
街道を少し逆行して駅前のロータリーに出ると、くにこちゃんの言った意味が解った。
歳末らしい種々の募金運動や救世軍の社会鍋の喧噪からちょっと離れて、街灯の下に、墨染めの托鉢姿が佇んでいる。あまりに死灰のごとく気配が薄いので、くにこちゃんが教えてくれなかったら、気にも止めなかっただろう。
老僧はくにこちゃんの気配に気づいたのか、深編笠を上げて柔和に微笑した。
「おう、邦念か」
くにこちゃんの修行名は、邦念というらしい。
俺は何度かその寺にも参拝したことがあり、住職の顔にも馴染みがあった。しかし、老僧はすでに紫の衣の大僧正であり、真言宗の重鎮であると聞く。今さら寒風の中で托鉢に回る立場とは思えない。そもそも托鉢という行為自体、今の日本では、なんじゃやら七面倒な届けを出さないと違法なのである。
「そちらのお方は――何度か境内でお会いしましたな」
「はい」
この老僧と話すときは、自然、頭が垂れてくる。
「もしや、邦念の言う『かばうま』さんでは」
「はい」
老僧の顔の皺がますます柔和に波打った。
「この寒空に、立ち話も、なんですな」
老僧は背後を見返って、
「邦念のことじゃから、あすこが良かろう」
すたすたとカーネル・サンダースの店に歩き始めた。
ケンタのテーブルに座ってチキンを食う托鉢僧というのは、かなり変である。
しかし笠を外した老僧は、がふがふと二人前の特盛りセットを食らうくにこちゃんをにこにこ眺めながら、自分も一ピースのウィングを悠々と囓り、旨そうにコーヒーを啜っている。俺もポテトをお相伴にあずかった。
「――ほーゆー、わけなのら」
くにこちゃんは食ってるんだか説明してるんだか判らない状態で、
「おししょー。みょーおーたち、使ってもいいよな」
老僧はあいかわらず微笑しながら、
「おそらく、いくら真言を唱えても、現れまいよ」
くにこちゃんは、あからさまにご機嫌斜めの顔になった。
俺としても、今回の事態であの不動明王や孔雀明王なら、ぜひ助力を乞いたい。ジャミラ化するのもけしてやぶさかではないが、仏様の仲間なら、もっとこっそり穏便に、なんかいろいろ出来そうな気がする。
「やはり、それは宗教的な――失礼ですが、縄張りの違いなのでしょうか」
老僧はティッシュで指の脂を拭いながら、
「神と言えば神、仏と言えば仏、所詮信じる者の心ひとつ――そんなことを、申しますな」
「はい」
「確かに、大元の『仏』はひとつであろうと、私も考えております。モーゼ、キリスト、マホメッド等が唯一神と信じたもの――エホバあるいはアラー――それらのいずれもが、根源的には『仏』に通じているのでしょう。しかし、『仏』への道はあまりに険しい。私も七十年求め続けましたが、なお解らない。先達が何代も修行を重ね、なお種々の惑いに隘路を重ねている。それほどの険しい道を、人は歩まねばならない。そう、たとえば、一匹の蟻がヒマラヤの最高峰の頂きに昇らねばならない。行きたくなければ、行かないで済むというものではない。森羅万象のすべてが、すでにそうした存在なのです。数億年か数十億年か、そんな途方もなく長く険しい山道を、いつかは届く『仏』の座をめざして、一歩一歩登らねばならないのです」
「は、はい」
「あなた、己が生涯そんな登山の途上にあることに、耐えられますか?」
「えーと、まあ――私はとても楽観的なたちなので」
老僧はおかしそうに笑った。
「なるほど、邦念がなつくのも、無理がない」
「べつに、なついては、いないぞ」
くにこちゃんがきっぱりと言った。
「おやつを、もらうだけだ」
老僧は愉快そうにうなずいて、話を続けた。
「しかしまあ、世の誰もが、そんな登山に耐えられるものではありません。道にも迷えば、逃げ出しもする」
「はい」
「そこで、『騙し』が要るのですよ」
「……だます、のですか?」
「はい。向かわねばならぬのがヒマラヤの最高峰ではなく、たとえば富士山であるとか、愛宕山であるとか、あるいは上野のお山であるとか。それならば、まあ登り続けようという気にもなる。そのために存在を許されているのが、まあ、いわゆるキリストやマホメッドの教えなのでしょう」
もはやローマ法王のプッツンどころか、中近東から刺客が飛んで来そうな話だ。
「あなたは口の堅いお方だそうだから、言ってしまいましょう。私は、お釈迦様や御大師様も、そのための存在ではないかと、近頃推測しております」
おお、ついに総本山金剛峯寺にまで仏罰を食らいそうな話になってしまった。
「――内緒ですよ。もしあなたが、私がこんなことを言ったなぞと本山にチクりでもしたら、私はきれいさっぱり、しらばっくれますからな」
悪戯っぽく笑われてしまうと、もう冗談なのか本気なのか分別がつかない。
「あにをゆってんらか、ちっとも、わかんらいぞ」
くにこちゃんが、数本目のチキンを囓りながら言った。
「やっぱりクリスマスは、仏様の管轄じゃないんだってさ」
俺はなるべく軽く言ってやった。
「大丈夫。あの機械は、俺が死んでもなんとかしてやる」
くにこちゃんは、不承不承うなずいた。お師匠様に直談判できたので、あきらめがついたのだろう。
老僧は水のような顔で、ガラス越しに見える駅前のロータリーを見返った。
「あれらも、こう言ってはかわいそうですが、所詮『騙し』なのですよ」
募金活動の群れを言っているらしい。
「僅かな小銭と小さな見栄を、『上』から『下』へ、恵んでやる仲介に過ぎない」
これには、脳天気な俺もちょっと引っかかった。
「それは確かに雀の涙かもしれないですが――たとえ『騙し』にせよ、日本円一円で救われる命は、この世界に必ずあるはずだ」
老僧は動じなかった。
「それは、『放下』ではないのです。己の懐が痛まない程度に、哀れなどこかの誰かを救っても、仏への道にはほとんど繋がらない。己と他人を等しくする、いや、己はあってない、森羅万象すべてが己であり同時に他者でもある――それが『法身仏』――いずれ到達する仏の本態であると、私は思っております」
くにこちゃんがこくこくとうなずいた。
「なあるほど、そいで、おししょーさまは、いちもんなしなのだな」
「一文無し?」
俺が驚くと、
「そうだ。りっぱなてらも、でっかいとちも、みーんなほんざんから、かりている。んでも、やねのしゅーりとか、いろんなかかりは、こっちもちだ。おふせやかいみょう代は、ぜーんぶそっちにまわる」
てっきり坊主丸儲けで、少なくとも生活に不自由はないと思っていた。
「んでも、おれのみるところ」
くにこちゃんは続けた。
「おししょーさんは、たぶん、ほんこの『たくはつ』をするために、わざわざ、ふつーにかねのあるふりをしているのだ」
残念ながら、くにこちゃんが理解しているらしいことを、無学な俗人の俺は理解できない。
首をひねる俺を見て、老僧は言った。
「私が、何に見えますかな? いや、あの街灯の下に立っていた姿です。あなたが私の寺や、普段の僧衣姿を知らないとして、です」
「……ただのお坊さん……としか、言いようがありませんね」
俺は正直に言った。
ケンタのチキンを食っている今はともかく、さっきの姿はそうだった。編笠を被って顔を伏せてしまうと、年寄りだということもわからない。托鉢姿の僧衣は貧弱でも華麗でもなく、寒そうでも暖かそうでもない。言ってしまえば、ただの僧形の置物である。
「それでも朝から立っておりますと、ふたりのお方から、喜捨をいただきました。その方々は、私を憐れんでくださったのですかな? それともどこぞの学会のように、浄財を積めば御利益があると、有り難がってくださったのですかな?」
「なんとなく気が向いた――そんなところでしょうか。あるいは、ただ、仏教好きであるとか」
「どっちでも、いいのだ」
くにこちゃんが言った。
「そいつらは、かねを、ただですててくれたのだからな」
金銭《かね》――近代における見栄や物欲の凝り――近代における『上』と『下』。
「ちょっとでも、ほとけさまに、ちかづくぞ」
なんとなく、ふたりの言わんとするところが解った気がした。つまり僧自身が仏に近づくためではなく、他人を仏に近づけるための行為が『托鉢』なのである。で、仏教的概念においてもともと自分と他人は等価のものだから、結局、自分も他人も含めた社会の総体を、仏に近づけることにもなる。物理的利害や精神的利害の関わらない純粋な『無私』、それが仏だからだ。
なんのかんの言いつつ、この子に不動明王たちがタメ口でつきあう理由が、解ったような気もした。
これれも『捨てる』ことになるのかな、などと皮算用をしながら、チキンの勘定は結局俺が持ち、俺たちはロータリーに戻った。
老僧は軽く会釈をして、街灯の下に戻って行く。
「さあて、残る難問は、天使のハンマーだけか」
「んむ。おれも、そっちでなんか、がんばろう」
連れだってあの廃工場に向かおうとする俺たちに、後ろから声がかかった。
「今、天使とおっしゃいましたかな?」
老僧が振り向いていた。
「は、はあ」
「ゆうこの、りくえすとなのだ。てんしのハンマー」
老僧は口の中で、『天使のハンマー』と小さく反復した。
「――それが何かは解りませんが、詳しく、お聞かせ願いたいですな」
「しかし、クリスマスは、管轄外と」
「クリスマスはどうでも、『天使』は、キリスト様の専売特許ではありませんぞ」
老僧の細い目は、皺の奥で光っていた。
「むしろそれ以前の、多神教から派生したものとも言われております。仏の道も、見ようによっては、無慮数の神への道なのですぞ」
5
廃工場に戻ると、すでに他の関係者一同があの土間に会していた。
ゆうこちゃんのお絵かき帳が広げられたテーブルには、たかちゃんのママがノート・パソコンやモバイル・プリンターも持ちこんでおり、例の地図帳だか配送リストだかの、検討を始めているようだ。
俺たちが連れてきた老僧に、皆は驚いたようだったが、若サンタとトナカイ以外はすでに知己である。初対面同士の挨拶は失礼ながら当人たちにお任せして、俺はさっそく検討中のスタッフ(?)に言った。
「不動様たちが使えるかもしれない」
一同の顔が少しだけ明るくなった。
「助かりますわ」
ママさんはパソコンの液晶画面を見つめ、キーを叩き続けながら、実感をこめて言った。しかし、予断を許さない厳しい声でもある。
「絵本も地図帳も見せていただきました。やはり、解釈はひとつしかありませんね」
キータッチを止め、マウスで画面をスクロールしながら、
「知っているつもりではいたのですけれど――ほんとうに、この大宇宙の宝石のような星では――」
つくづくあきれ果てた、そんな顔をしていた。
「なんて愚劣な阿呆ばかり、高い地位に揃っているのかしら」
ママのあまりに強張った表情に、さすがの脳天気たかちゃんも、ちょっと怯えてしまっているようだ。
「えーと……声がでかくて、語彙が単純で、馬鹿でも直観的に受け入れやすいですから」
俺がそう言い訳しながら、たかちゃんの頭を「大丈夫」と撫でてやると、ママさんもそれに気づき、ごめんね、と言うように娘の頭に手を置いた。
「今、科特隊のデータベースにこっそりお邪魔させてもらったんですけど」
パソコンの液晶モニターには、英字と数字の表組みが、びっしり表示されている。
「アメリカ、中国、フランス、イギリス、インド、イスラエル、ロシア、パキスタン――これはまあ、あると言っておりますから仕方がありません。それから、NATOに属するベルギー、ドイツ、ギリシャ、イタリア、オランダ、トルコ――当然、アメリカの物件が各所に配備されております。そして国際海域をこっそりあるいは堂々と泳ぎ回っている各国艦載物件。これもまあ、ほとんど科特隊のデータと一致しますから仕方ないとして――」
ママさんは例の地図帳を、ぱん、と叩いた。
「このマニュアルだと、撤去あるいは廃棄済みのはずの国家にも、多数の位置情報が記載されています」
この美しい星はその程度の星なのだ、とは、さすがに言えなかった。
「でもね」
ママさんは、なんなのよこれと言うように、地図帳だかマニュアルだかの、栞が挟まっていた頁を開いて見せた。キティちゃんの栞だったから、俺がいない内に自分で挟んだのだろう。
「貴子を連れて、故郷《さと》に帰ろうかしら」
わはははは、あるじゃん。なんか見慣れた弧状列島の南よりの海岸に、なんかひとつ、マーキング。
「そこにも一艦船、四基搭載して泊まっているのは、なんなんでしょうねえ」
こっそり寄ってるんじゃないかと思ってました、とも、さすがに言えなかった。それから、実家に帰るときはあのぶよんとしてしまりのない旦那さんは置き去りですか、とか。
「……おひっこし、やだ」
たかちゃんがふるふるとつぶやいた。くにこちゃんとゆうこちゃんも、真顔でこくこくした。
ママさんは気を取り直して、たかちゃんを胸に寄せた。
「うりうりうり」
「だいじょうぶよ。明日の夜がどうでも、お引っ越しなんて、こうなったら意地でもしないわ」
それから俺たちを見回し、こほん、と咳払いをひとつ、
「とにかく、この絵本とマニュアルから推論する限り、全世界に散在する総計三万二千六百八十四基のアレを、たった三人の天使が、クリスマス・イブの夜限定で、こっそりぴこぴこハンマーでぴこぴこして回る――そーゆーことなんです」
具体的な個体数を出されると、さすがに俺は絶句した。マーキングは世界に数十箇所、昨夜そんな話を聞いた記憶があったので、あの不動や孔雀、そして俺は見たことがないが近頃加わったと言う愛染、その三明王が動いてくれれば、もしや楽勝なのでは――つまり老僧の話から察するに、明王と呼ばれる存在もまた広義の『天使』に他ならないのではないか。それらの機動性をもってすれば、日付変更線を起点に地球を西へ周回しながら、三十六時間以内に数十箇所くらい回れるのではないか――そう虫の良い期待をしていた。しかしその数十箇所というのは、あくまで見開き大に縮尺された世界全図に対してのマーキング、つまりマーキング自体の中に複数の施設が含まれ、それも静止施設のみだったらしい。なんと全世界には、個別にすると三万以上のぴこぴこ対象が鎮座ましまし、あるいは巡回なさっているのだ。仮にずらりとまとめて端からぴこぴこやったとしても、そう簡単には終わらない。
「……とにかく、できるだけのことを、考えてみるしか」
恵子さんが、堅実な意見を述べた。俺もそう思う。
「おししょー」
くにこちゃんが、老僧を見上げた。
「おししょーは、もう、ぜんぶのみょうおうと、しりあいだよな」
老僧は、ゆうこちゃんのお絵かき帳をめくりながら、
「わしはもう、お前のように放埒には明王を呼べん。わしがそれをやったら、もう、お前に仏法を説く資格がなくなる。お前と同じ、小坊主からやりなおしになる」
「そーゆーもんなのか。……んじゃ、しょーがない。ふどーたちに、せいぜい、はっぱかけよう」
くにこちゃんは、かぽんかぽんと腕を鳴らした。
その肩に手を置きながら、老僧は、俺たちを向いて言った。
「――ところで、私には、そのサンタさんたちの元締めさんというお方が、そうボケているとも思われないんですがな。たかちゃんや邦念の手紙は一応読めとりますし、このゆうこちゃんの絵も、一応は見えているはず」
老僧はお絵描き帳を広げて見せた。
「わしには、この天使さんたちは、どう見ても、この子ら自身に見える」
そのお絵描きでは、白い雪印の舞う夜空を背景に、いかにも子供の絵らしい頭でっかちのアンバランスな天使たちが、ぴこぴこハンマーを手に、ほよほよと飛んでいた。
確かにそれは三人組が創った話だから、天使たちのモデルも三人組なのだろう。ひとりはゆうこちゃんのようなくるくる巻き毛だし、ひとりはくにこちゃんのようなショートカットだし、ひとりはたかちゃん的ちょんちょん頭である。
老僧は三人組をひとりひとり見渡した。
「思うに、お前たち、天使に『来て欲しかった』のではなかろう。本当は、天使になりたかったんじゃあないかの?」
「はいはいはいはい!」
たかちゃんが、元気にお手々を上げまくった。
「わっかと、おはね、ほしいほしい!」
くにこちゃんは不思議そうな顔で、
「んでも、おれは、ほとけさまにつかえる身だぞ?」
そう言いながらも、当然、なりたくてたまらなそうな顔だ。
ゆうこちゃんに関しては、言うまでもないだろう。
「……ぽ」
そのまんまでも充分天使の代理をできそうな姿で、めいっぱい頬を染めた。
老僧は満面に笑みを浮かべ、俺たち大人を見渡した。
「この絵本の件は、わしに預けてくださいませんかな? あなたがたには、明日の晩までに、その残りふたつの算段を、間違いなく詰めてもらうということで」
いつもより格段に穏和な声は、誰も疑問を口にできないほど、格段に厳かだった。
★ ★
――『サンタクロースは、クリスマス・イブの晩、世界中の子供たちにプレゼントを配って回ります』――。
そんな決まり文句を広めることは、本当に子供たちの『情操』に繋がっているのだろうか――火の気のない夜の廃工場で、あの灌漑用機材一式の山を前に、たかちゃんのママがプリント・アウトしてくれた科特隊秘蔵の情報地図を見ながら、八百長試合のシナリオを詰めていると、つくづく疑問が生じる。
それは確かに一見『汚れなき夢』であるような気もするのだが、一方で、子供の俺が国語のテストの時などつくづく往生した、あの『この文章を、何文字以内にまとめなさい』という愚問、その解答(?)と同類なのではなかろうか。それは単なる味気ない情報処理のための感性の切り捨てにすぎず、本当の情操は、逆方向の作業で初めて育つはずなのである。しかし、ひたすら直観的キャッチ・コピーや馬鹿にでも解りやすい夢物語を量産し、人も心も経済も踊り踊らせることによって、結局この社会は、上意下達のバビロン・システムを日々構築し続けている。最近の論文重視の教育にしたところで、あくまでそのテーマは『選ぶ側』が決めるのだ。まあ、これからいい歳こいて嬉々としてジャミラをやろうという中年おたくが何をぼやこうと、世間様にはなんら影響しないだろうけれど。
「また、降ってきたみたい」
熱いお茶を運んで来てくれた恵子さんに、俺はしみじみ頭を下げた。
恵子さんは、お茶を運んでくるたびにママさんに説教されている俺の、悩ましげな表情に同情するように、微苦笑を浮かべてくれた。
そう、砂漠でただアトラクを演じて子供たちのウケを取ればいい、そんな生やさしい計画ではないのである。どこでどうふるまえば現実上のゲリラや政府軍や多国籍軍やあっちこっちの支援部隊が効果的に動いてくれるか、そんなシミュレーションを徹夜でやっても、まだ明日の夜まで間に合うかどうか怪しいのだ。その上明日の昼、たかちゃんのママは青梅と吉祥寺を往復しなければならない。その間も俺が同行して、打ち合わせを続ける手もあるが――ウルトラママのナイス・バディーなど、堪能する気力はとても残りそうにない。
恵子さんもそれを悟り、当初の焼き餅風視線はさらりと捨てて、かいがいしく夕飯の調達やお茶汲み係に徹してくれている。まあ、そこいらの感情的ななんやかやは、引っ越しの後始末も含め、この件が終わったらまとめて俺の頭上に降りかかる恐れがあるから、明後日以降は、めいっぱい実生活上のフォローをしてやらないと。
たかちゃんたちは例のぴこぴこハンマー・セットを抱えて、あの老僧と共に、ストーブのある休憩室に詰めている。子供や年寄りが、風邪でも引いたら大変だ。
外の林に出ていた若サンタが、橇に乗って戻ってきた。若サンタ一族が長年整備だけは怠らなかったと言う、正調サンタ型のでかい橇である。泥棒や悪戯等もしもの事を考え、林の中の秘密の小屋に隠してあったのだそうだ。引き手はルドルフが先頭、他のトナカイが二列で八頭。サンタの橇は、九頭立てらしい。伴走している四頭は、交代要員か。
「ええ調子や」
ルドルフが笑った。
「滑りも飛びも完璧じゃ。これなら、わし一頭でも引き回してみせるわ」
サンタ帽が薄く白い若サンタに、俺は訊ねた。
「積もりそう?」
「はい、もうかなり、積もってます」
若サンタの声は、やけに力がなかった。
「じゃあ、今年はやっぱりホワイト・クリスマスだ」
聞こえているのかいないのか、若サンタには、やっぱり覇気がない。
「どうしたの?」
「…………結局、僕って、なんなんでしょう」
微笑が寂しげだった。
「何から何まで、皆さんのお世話になるばかりだ」
弱気なサンタの頭に、背後からルドルフの巨大な角が、ごん、と乗った。
「何ゆーとるねん。サンタなんてのは、橇の上でふんぞりかえってガハハと笑っとりゃええんじゃ。御輿の上のもんが、下から御輿かつげるはずないやろ」
言われてみれば確かにそうだ。
「そん代わり、御輿の上と子供の前じゃ、何があってもガハハと笑え。たとえ修羅場ぁくぐって、赤いおべべの下のハラワタ、ごっそりはみ出しててもな」
若サンタは気をとりなおしたのか、ちょっと精悍な表情になってうなずいた。
そのとき休憩所のほうから、
「やっほー! みてみて!」
たかちゃんが、とととととと駆けてきた。あのぴこぴこハンマーのピンクのやつを、得意げに振りかざしている。
皆の前で立ち止まり、
「へんーしん!!」
自分で自分の頭をぴこんとやった。
待つこと数秒――なんにも起こらない。
「……しつれい、しました」
たかちゃんはばつが悪そうに、ぺこりと頭を下げた。
それから、後ろから来ていた老僧たちに向かい、フグになった。
「ぶー。もう、こしょう」
青いハンマーを持ったくにこちゃんは、
「たかこ、おまいはどーも、ひとのはなしをきかなくて、いけない」
余裕綽々でたかちゃんの頭をぴこぴこしながら、お説教をたれる。
「むー」
「さんにんいっしょに、ぴこ、だったろー」
ゆうこちゃんも、白いハンマーをかかえて、こくこくしている。
老僧もにこにこうなずいている。
「んじゃ、やりなおし。はい、ならんでならんで。……たかちゃん、まんなか」
あくまで自分が仕切りたいらしい。
「へんーしん!!」
ぴこんがみっつ重なって、剽軽に響いた。
と、三人組の頭上に、なにやらさらさらの粉雪のような光が舞い上がった。ハンマーと同じで、ピンクと青と白の、光る雪である。
その舞い上がった光は、やがて渦を巻き、それぞれの体を包んでゆく。
「……おお」
「……あらま」
「……これは」
「……なーる」
種々の感嘆を漏らす俺たちの前に、三人の天使――いや、正確に言えばひとりの天使と、ふたりのなんだかよくわからない羽根付き物件が並んでいた。
「……ぽ」
ご想像のとおり、ゆうこちゃんはもはや天使以外の何者でもない。もともと白いボア付きハーフコート姿だから、頭の上でぽよぽよと揺れる光輪も、背中に生えた白鳥のような翼も、思わず教会の塔の上をくるくる飛び回ってほしくなるような姿だ。
しかし、ジーンズに黒ジャンパー姿のくにこちゃんは――まあ頭の光輪は色違いながらなんとか天使っぽいのだけれど、背中の両側に堂々と突き出しているのは、どう見ても白銀色の超合金可変翼である。その半ばで脹らんでいる二対の吸気口は、推定ジェット・エンジンか。そして背中中央には、鉄人28号のごときロケット・エンジンまで装備している。
「いやー、としょ館の図かんは、見とくもんだ」
くにこちゃんは得意満面で、つんつんとその最新鋭の翼を見せびらかした。
「こっちとこっちが、ふつーのそら用、のこりが水んなかだ。んで、ここんとこが、うちゅう用なのだ」
俺たちは絶句して立ちすくむ他はなかった。
それは、超合金可変翼のためばかりではない。
まん中のたかちゃんのビジュアルが、ちょっとまたアレだったからである。
「てんし!」
まあ本体のナリは見慣れたオレンジ寄りのベージュのスカート付きパンツ(推定特売二枚組千二百九十円)にピンクのファー付き中わた入りジャケット(推定特売二千四百八十円)だから仕方がないとして、背中でぱたぱた言っているのは、どう見ても巨大なモンシロチョウの羽である。頭には御丁寧にやはり推定モンシロチョウの触覚をはやし、それを囲むようにピンクの光輪がぽよぽよと揺れている。
「かんぺき!!」
もはや力いっぱいうなずいてやるしかないので、俺たちは力いっぱいこくこくしてやり、ついでに盛大な拍手を送ってやった。
老僧は言った。
「つまり、上のお方は、やはり斑ボケらしいですな。合理的に機能統合したのか面倒なのでいっしょにしたのかは解りませんが、その使用法を、マニュアルに載せ忘れただけなのでしょう」
「……飛べるのですか?」
俺が誰にともなくつぶやくと、
「もちだ」
くにこちゃんの両翼が、どどどどどと炎を吹いた。
びゅん、と発進したかと思うと、まだ閉めていなかった表の扉から、一瞬に表の空き地に流れた。直後、今度は背中中央からスペース・シャトル打上のごとき壮大な炎と白煙を吹き出し、雪を巻きながら垂直上昇して消えてしまった。
「……………………」
しばしの沈黙の後、俺たちは残りのろりたちを振り返った。
たかちゃんは、すでにひらひらとごきげん状態で、あっちこっち気まぐれに宙を行き来している。もはや春のキャベツ畑の、モンシロチョウそのものだ。
「ねえねえ、ゆうこちゃんも」
「……ぽ」
まだ下にいたゆうこちゃんは、ちょっと自身なさそうに、その白い翼をぱたぱたさせた。それから、ふう、と深く息を吸いこんで――廃工場の寒々とした空間に、それはそれは優雅な、白鳥の舞いを描いた。
俺たちが見とれているんだか呆れているんだか自分でも解らず見呆けていると、外からどどどどどと例の轟音が戻ってきた。
びゅん、とくにこちゃんが出現し、俺たちの前でぴたりと止まり、ホバリングしながら言った。
「ちきゅーは、やっぱし、あおかった」
★ ★
これで三人の天使問題は、まあ『できる限り』の範囲内で解決した。
しかし、ここまで盛り上がっても、まだ終わりは遠い。
最大の問題は、数十箇所の基地と、あっちこっち海上や深海を移動している、えーと、なんだかよくわからないほどの数の艦船に搭載された、総数三万を超す『ぴこぴこ対象』の把握である。
天使になったら、ほっといてもそこを察知できるのではないか――そんなはずもない。ならば初めから地図帳だのマニュアルだのは不要である。大体、あくまで本物の天使でもなく、脳味噌はいつもの三人組だ。
再度ぴこんとやって翼を引っこめた三人組に、例の大判冊子を与えても、
「……しゃかい、きらい」
「うーんと、この『ろしあ』ってのは、えきまえの、ぼるしち屋か?」
「ふるふる。ぴろしき屋さん」
やはり、サンタの元締めは斑ボケらしいのである。
「らちが、あかない。おれの、でばんだ」
くにこちゃんが真っ先に投げて立ち上がり、
「みょーおーたちなら、なんでも、わかる」
かぽんかぽんと腕を鳴らした後、
「りん! ひょう! とう! しゃ! かい! じん! れつ! ざい! ぜん!」
お得意の、目にも止まらぬ九字の印。
「なぅまくさまんだばざらだんかん! ふどうみょーおー」
あそこあたりに出るんじゃないかと期待して見たが――何も出ない。
「……あいつはさけのみだから、おきるまで、じかんがかかるのだ」
くにこちゃんは、あっさり次に移った。
「おんまゆらきらんでいそわか! くじゃくみょーおー!」
空から来るかと頭上を窺ったが――夜の静寂が深い。
「……あいつはええかっこしいだから、はねを、つくろっているのだ」
くにこちゃんは自分に言い聞かせるようにつぶやいて、さらに印を変えた。
「おんまかあらぎゃばさらうしゅにしゃばさらさたばじゃうんばんこ! あいぜんみょーおー!」
これは、俺がまだ一度も見たことのない、ニューフェイスだ。ラブラブあるいは痴情関係の明王と聞くから、どんなご尊顔かと期待して待つが――やっぱり、出ない。
「……おししょー」
くにこちゃんが世にも情けない顔でふり向いた。
「みょーおーたちも、ふゆやすみなのか?」
老僧は慌てる様子もなく、いつものように頬笑んだ。
「やはり、出番が違うのかも知れんの」
それでは予定が狂ってしまう。俺は少々焦った。
「明王も、やはり『天使』には関われないのでしょうか」
老僧は微笑を浮かべたまま沈黙している。
そのとき、ルドルフが厳しい声で、背後の配下を呼んだ。
「おまえら、ちっと、ここに並べ」
何事かと集う配下たちに、
「――おまえらも、そろそろ、独り立ちしてええ頃や」
「兄貴……」
「おやっさん……」
「そっちの橇は、わし一人で充分や。おまえらは、お嬢ちゃんたち、体ぁ張っても、あんじょう導け」
「そんな……」
「まだ、わしら……」
若い声が不安を訴える中、ルドルフを兄と呼んだ年長のトナカイが、別の表情で言った。
「……兄貴のためじゃ。どつかれてもかまわん。はっきり言わしてもらうで。今の兄貴に、ひとりであれを引っぱるのは無理じゃ。わしらの倍は、引き疲れた体やないけ。あんな嬢ちゃんひとりにねじ伏せられる歳で、なんぼこのちんまい国でも、死――」
「アホ」
ルドルフは優しげな目で、相手の言葉を制した。
「そやから、お前らに行ってもらうんじゃ。わしにはもう、そっちの届け先、十《とお》にひとつも覚える頭がない。半惚けや。上のお方のこと、とやこう言えんわ。こっちのケーキの孤児院で、いっぱいいっぱいじゃ。さっきのあの嬢ちゃんの飛びっぷりに、タメ張る骨も、もうない。おまえら皆してかかれば、昔の働き思や、何千何万でも覚えられるやろ。そん気になりゃあ、月まで飛ぶガタイもある。そんでな――」
それから唐突に怒声を上げた。
「ナメくさるなや、こんガキゃあ!!」
さっきの舎弟頭らしいトナカイに、いきなり角から突進する。
二対の角が、火花を散らして絡んだ。
舎弟頭が、どう、とコンクリートの床に臥した。
ルドルフは白い息を吐きながら、不敵に笑った。
「……このちんまい国でも――なんと言うた?」
6
そして、12月24日の夕刻――。
日暮れを待って、俺たちは雪の河原に出た。
このあたりの多摩川は、東京都内のような広い河川敷でなく、渓谷の風《ふう》が多く残っている。対岸は切り立った崖になっており、その上に斜面を成す冬木立は昨夜からの雪で綿のように和らぎ、木立に隠れて見えない住宅街もすでに雪の屋根と思われ、彼方に連なる多摩丘陵は、もとより白の重なりだった。
「ほんとに、寒くないの?」
たかちゃんのママやくにこちゃんのお母さんや恵子さんが繰り返し訊ねると、
「いまは、ちょっと、さむい」
「んでも、ぴこぴこすると、さむくないぞ。うちゅーでも、花見とおんなしだ」
「こくこく」
確かに、寒い朝に天使が凍えて道に墜ちていたという話は、いまだかつて聞いたことがない。ましてモノホンの天使は裸である。
一夜にして全世界を回る――例の時差による許容時間を考えれば、昼間から旅立ってニュージーランドあたりで待機したほうがいいのだろうが、そこまでのこだわりは、三人組の混乱を考慮してやめておいた。ルドルフ配下のトナカイたちは、生体ナビゲーターの誇りを賭けて、一睡もせず例の位置情報を全箇所分担記憶してくれたのだが――ほんとうに言いにくいことだが――どっちみち、三万超の物件を一夜にしてぴこぴこするなど、不可能なのである。あくまでハンマーは3個しかない。もしその物件が万一使用された場合、非戦闘員や地球環境にダメージの大きい順列をたかちゃんのママが割り出してくれたので、その優先順位に従い、夜明けまで可能な限りナビゲーションしてもらう、そんな計画だ。あとは、人類の理性を信じるしかない。
綿雪が夢のように舞っている。
女性軍の不安げな眼差しが気になって、俺はたかちゃんのママに言った。
「大丈夫ですよ。天使を撃てる人間はいない」
ママさんは不安というより、また厳しい顔になった。
他の女性たちには聞こえないように、小声で応える。
「……あくまで、『なったつもり』じゃないのかしら。トナカイさんたちはともかく、あの子たちが『寓話』に溶けこめる保証はないわ。この星では、サンタやトナカイを心底信じながら、今も無数の子供たちが、木っ端微塵に吹き飛んでいるのよ」
「それでも、大丈夫」
俺はあっさり断言した。
「あの三人の『なったつもり』を、甘く見てはいけません。それは、お母さんのあなたが一番よくご存知でしょう?」
ママさんはちょっと表情を和らげ、
「それより、あなたの『なったつもり』はいかが? 迫撃砲や誘導ミサイルだって、当たるとけっこう痛いですよ」
確かに痛いだろう。俺の昔のバイトはアトラク専門だったから、映画のような着弾や爆発を経験したことはないが、憧れていた初代ゴジラの中島春雄氏や平成ゴジラの薩摩剣八郎氏、あるいは同世代のゴジラ・ジュニア破李拳竜氏――その他、ゴジラ以外のスーツアクターの方々も、インタビューや著書で、何度も燃えたり溺れたり、死にかけた話をしている。怪獣の振りをするだけでも、それだけ過酷なのだ。ましてモノホンの怪獣ともなれば、外まで自前の皮である。
しかし、ジャミラの痛みなら、俺は甘んじて受けられる気がする。いや、この社会で真のおたくを目ざすような人間は、一度はそれを実感しなければならないのではないか、そうまで思う。
大国の面子のために使い捨てにされ、灼熱の惑星に墜ちた宇宙飛行士が、過酷な環境の中で怪獣と化し、自分を見捨てた故星に復讐してやろうと、数十年かけて宇宙船を改造、帰郷する。その狂ったジャミラが、なぜ国際平和会議を復讐の標的としたのか――それは、そここそが全ての欺瞞の集積と、悟っていたからではないのか。口先だけのなあなあで、己の手を汚さず、この故郷を治めるつもりの連中。一介の宇宙飛行士の痛みを、名誉の戦死に書き換えてしまう連中。民衆の生活をパワーゲームの駒のひとつとしてしか捉えられない、『一番偉い者』という虚像の集う場所――だからこそジャミラは、真の復讐対象として、国際平和会議会場を選んだのではないか。しかしまた、怒りにまかせてのどかな民家を次々と焼き払いながら平和会議会場に向かいつつ、ふと見せたジャミラの困惑の表情は何か。なぜ愕然と地上を見下ろしながら、破壊と火炎放射を中断したのか。それは、蟻のように逃げまどう市民もまた自分と同じなのだ、そしてそれを焼いている自分もまた、本来焼いてやるはずの者と同じ存在になってしまっているのだ――そう目覚めたからではなかったのか。
結局、なまじ灼熱の惑星に適応したため水に弱いジャミラは、『地球の平和を守る』ための科特隊やウルトラマンに、水攻めにあって敗北する。あの泥濘の中で苦しみ悶え、異様な嗚咽を繰り返しながら死んで行ったジャミラ。無論、肉体的にも、極限の苦痛だっただろう。しかしあいつはその時、何を思いながら泣き叫んでいたのか。ただの痛さ惨めさからだろうか。報復を遂げられなかった無念、それだけだろうか。灼熱の異星で極限の渇きに耐えながら切に願っていた『水』、それがもはや己にとって毒と変わっていることにも、泣いていたのではないか。そう、結句、人は己を己としか認識できなくなったとき、他者を殺し、そして己をも殺す。その先にあるものは、永遠の矛盾、永遠の慟哭しかない。
そしてジャミラが泥濘の中をのたうち回りながらおうおうと咽ぶ異様な声は、円谷プロの制作スタッフの話によれば、実は『赤ん坊の泣き声』を加工したものだったのである。また、ジャミラという名は、砂漠の国で占領軍に陵辱された少女の名に由来するともいわれる。
永遠の矛盾の中で慟哭する、寄る辺なき魂。
だから俺は、曲がりなりにも二代目ジャミラとして、初代から輪廻する者として、今回のトリックを、是が非でも完遂しなければならない。ジャミラを追いつめた者たちを出し抜いて、ジャミラが狂うほど欲していたものを届け、第三第四のジャミラの根を、ほんの僅かでも断たねばならない。それが所詮『騙し』の中で生きざるを得ない凡俗な俺の、せめてもの輪廻なのだ。
「――まあ、痛いのも、生きていればこそですから」
俺が笑うと、ママさんも笑ってくれた。
などとその場では白々しく楽観論を述べた俺だが、実は昨夜まで、自分や若サンタはともかく三人組に関しては、内心死ぬほど心配でたまらなかった。
それで、人間勢が仮眠を取っている間、徹夜で位置情報を覚えこんでいた舎弟頭たちに、こっそり会いに行ったりした。
「あのう……」
「おう、かばうまさんけ。あんじょうやったるけん、心配すなや」
「いえ、それもあるのですが、あの……もし、出かけた先で危険がありそうだったら……ほんのちょっとでも、現実的な危険がありそうだったら……迷わず、引き返してほしいのです」
舎弟頭は、にやりと口の端を上げた。
「……おんなしようなセリフ、さっきから何遍聞いたか」
おう、やっぱり。
「まあ、引き受けた以上、玄人《クロト》として百の力は出す。けどな、サンタ護るんも、わしらの大事な仕事なんじゃ。御輿つぶすような無茶はせえへん」
「よろしくお願いします」
俺は深々と頭を下げた。
「やめときいな。橇引き風情が、さっきから何遍も頭ぁ下げられて、かえって往生するわ。――しかし、なあ」
舎弟頭はちょっと口調を変えて、例の位置情報を掲げて見せた。
「こないなもん、一個も残しとうないわ。わしらにできるんなら、ひとつ残らず叩きたいとこじゃ」
間近に見る舎弟頭の目は、案外理知的かつ穏和だった。
「ま、とにかく、こっそり来なかったんは坊さんだけや。心配すな」
つまりさっきのママさんの言葉も、たかちゃんたちへの気遣い以上に、俺と自分の計画に対する感慨だったのかも知れないのである。
そんな経緯を思い出しながら、俺はあの老僧を窺ってみた。
背後に無言で佇み、ただ微笑を浮かべその場を見守っている老僧は、昨日駅前のロータリーに立っていた時と同様、気配すら雪に紛れるように微かだった。
★ ★
川辺に並んで待機する十二頭のトナカイに、少し離れて若サンタと橇のチェックをしていたルドルフが、蹄を響かせてゆっくりと歩み寄った。
「……行ってこい」
「兄貴……」
「おやっさん……」
ルドルフは静かにうなずきながら、自分の赤く光る鼻を、あの舎弟頭の鼻にすりつけた。
舎弟頭の鼻に、ぽっ、とその暖かい光が宿った。
「暖簾《のれん》分けじゃ」
なるほど、あの赤い鼻には、そんな意味合いもあったらしい。
舎弟頭は濡れた瞳で、力強くうなずいた。
ルドルフは、戸惑っている他のトナカイたちにも、次々とその鼻の光を移していった。
「これで、みんな独り立ちや」
何頭かのトナカイが、低く泣いた。
「熱い酒と、春菊鍋用意して待っとるわ。……んでもな」
ルドルフは優しい声を、また突然荒げた。
「帰って嬢ちゃん方の柔肌に傷一本ついとったら、おまえらみんな、トナカイ鍋やど!!」
おう、と十二頭が鬨の声を上げた。
一方たかちゃんたちは、
「んじゃ、ほんばん、かいしー」
「おう。ひごろきたえたもぐらたたきのうでを、せかいじゅーに、見せてやるのだ」
「……こくこく」
この緊張感は、ふだんゲーセンに行くのと、さほど変わらない気がする。
「へんーしん!!」
ぴこん、ぴこん、ぴこん。
そうして三人組は、ひらひらぱたぱたあるいはごうごうと、トナカイの群れに合流する。
くにこちゃんは余裕で単身ホバリングしているが、たかちゃんとゆうこちゃんは、とりあえずトナカイに乗らねばならない。速度の問題があるからだ。
「やっほー!」
たかちゃんは、最初の夜に気の合った若いトナカイに、ぴょん、と飛び乗った。
「ねえねえ、ちゅーがえり、できる?」
ゲーセンではなく、遊園地のノリかもしれない。
ゆうこちゃんは、あの舎弟頭に乗ることになっていた。一番護衛能力がありそうだったからである。
「あの、あの……よろしく、おねがい、します」
「おう、よろしゅうな。モノホンの天使にまたがってもらえて、光栄じゃ」
「……ぽ」
いよいよ出発準備が整った。
そのとき――。
あの老僧が、音もなく俺たちの横をよぎり、トナカイの群れに歩み寄った。
すれちがいざまに、さて頃合いじゃな、そんなつぶやきを聞いたような気がする。
「邦念よ」
くにこちゃんが呼ばれ、ホバリングしたまま老僧に近づいた。
「おれなら、しんぱいいらないぞ、おししょー」
「しんぱいなんぞ、ちっともしとらん」
くにこちゃんは嬉しそうに胸を張った。
「邦念。おまえは、あの真言を覚えておるかの?」
ハテナ顔のくにこちゃんに、なにやらごにょごにょと耳打ちしている。
「んでも、おししょー。おれはまだ、にょらいたちは、よべないぞ」
くにこちゃんは目をぱちくりさせた。
「ほっほっほ。まあ、仏様も、そろそろプレゼントをくれる気になったかもしれんぞ」
「ほんとうか!?」
「とにかく、心から、唱えてみい。これからお前たちがしようとしていることを――あの絵本をみんなで描いたとき、お前たちが何を思い何を望んでいたか、よーく、心に、念じながらな」
老僧の、穏やかながら確信に満ちた声に、くにこちゃんは「んむ」としっかりうなずき、ぼぼぼぼぼと河原の雪空に舞い上がった。
そして、これからの旅の先陣を切るように、天に向かって力強く印を結んだ。
「おんころころせんだりまとうぎそわか!!」
気合いの入った、ボーイ・ソプラノにも似た声が、雪の奥多摩丘陵に谺した。
俺たちは、息を潜めて夜空を見上げた。
そして、直後、思わず自分の目を手のひらで覆った。
夜に舞い降りる雪のとばりが、一瞬、純白を越えた閃光のようなハレーションを生じたのだ。照り返しを受けた丘陵がミ二チュアに見えるほど、巨大な光だった。
「……何?」
恵子さんが俺の腕を強く握った。
そのハレーションは、すぐに光をおさめ、しかし舞い降りる雪のそれぞれに淡い光を残し、その雪たちは緩やかな巨渦をなして、遙か高みからこちらに降りようとしていた。
俺たちもトナカイたちも、ただ呆然とその光の渦を仰いだ。
「ほわー」
たかちゃんの脳天気なつぶやきが聞こえた。
「……きれい」
ゆうこちゃんのすなおなつぶやきも聞こえた。
雪の渦の先端が、宙空で印を結び続けるくにこちゃんに、ゆるゆると届こうとしたとき――その先端が、四方八方に弾けた。いや、正確に言えば十二方に弾け、その弾けた雪の渦の分岐は、さらに河原に向かって収束し、立ちすくむトナカイたちを、個別に直撃した。
個々の渦の先端がトナカイたちに届いた瞬間――それぞれの体から、まるで歌舞伎の土蜘蛛が放つ千筋の糸、それを幾層倍にも広げたような雪の光の糸が、河原の空に広がった。
ぶわっ――いや、音はしなかったと思う。丘陵いっぱいに、そんな音が響いたような気がしただけである。
視界全体がまた純白に光って、俺は思わず尻餅をついた。隣の恵子さんもよろめくのを、俺はあわてて自分の太鼓腹で受け止めた。
ふたりして目をこすりながら立ち上がり、他の見送り勢も、それぞれよろよろけながら身を起こす。
視界が戻る前に、その薄白い世界から、なにやらきゃぴきゃぴと、異様な声が響いてきた。
聞き覚えがあるような気もするのだけれど、どうも反響が効き過ぎて、個々の声の正体がつかめない。
きゃぴきゃぴきゃぴきゃぴきゃぴきゃぴ――。
俺はなんだか、いやあな予感、いや、嫌なんだかキショクいいのかよくわからない予感を抱きながら、目をしょぼしょぼさせて、視界の白が薄れるのを待った。
ようやくもとの河原風景が戻ったとき――俺はちょっと、一時的に発狂した。いきなり阿波踊りを踊りたくなってしまったのである。「えーらいこっちゃえーらいこっちゃヨイヨイヨイヨイ」の、あれだ。
俺の眼界いっぱい、つまり夜の河原の雪空いっぱいに、何千何万というたかちゃんとくにこちゃんとゆうこちゃんが、群れをなして、きゃぴきゃぴきゃぴきゃぴと大騒ぎしているのである。
正直、腰が抜けた。
「あ、あ、あ」
ぷるぷると震えながら、ただひとり平然と立っている老僧にいざり寄り、状況説明を求めると、
「――私どもの業界に、薬師如来、という仏がおられます」
「は」
「人々を病から救う仏、そう言われておりますが、その病とは、本来風邪や腹痛ではない。癌やエボラ熱でもない。人の心に生じる無明の闇――つまり、煩悩――欲の凝《こご》りを言うのでしょう」
「は、は」
「で、その薬師如来様は、なんといいますか、親衛隊のようなものを、一ダースお持ちなのですな。それぞれの親衛隊の代表、これを十二神将と呼びます――お解りかな?」
河原の岸には、あの十二頭のトナカイたちが、淡い光を湛えたまま、毅然として頭上のろりの群れを見据えている。
「は、はい」
俺は、その頃になってようやく正気を取り戻した。つまり、頭上の夜空できゃぴきゃぴとぴこぴこし合ったり相撲を取ったり「……ぽ」と頬を染め合ったりしている幾千幾万の三人組を眺めていても、阿波踊りを踊り狂う欲求から、かろうじて逃れられるようになったのである。
他の一同も気をとりなおし、俺といっしょに老僧の話を聞いている。
「――そしてその十二神将は、それぞれ七千の眷属を使うと伝えられております。それらが薬師如来のお求めに応じて、病の元を断つわけですな。えーと、十二かける七千――八万四千になりますか。まあ、そんな数はどうでもよろしい。要は、人の煩悩の数だけおる、そういうことでございましょう」
老僧はいつもの微笑を浮かべたままで、しゃくに障るほど悠々と続けた。
「ま、とりあえずあれだけ『天使』の数が揃っておれば、『欲の凝り』は三万いくつ、ひと晩でも、なんとか始末がつくのではございませんかな?」
宙空のろりの群れの中には、くにこちゃんが両手でたかちゃんとゆうこちゃんを抱え、びゅんびゅん飛び回ってブイブイ言わせている組み合わせも生じていた。そう、あれなら機動性にも問題ない。
「しかし……くにこちゃんが、ここまでやるとはなあ」
俺はつくづく感嘆した。
「あの子だけの力では、ございますまい」
老僧は、そう断言した。
「えーと、くにこちゃんが、その薬師様に通じて、その十二神将とやらを降ろしたのではないのですか?」
俺が首をかしげると、
「だけではない、と申しましたろう。あの三人の誰かの思いなのか、すべての思いなのか。それともここにいる我らの誰かなのか、全てなのか。あるいはここにいない数多の人々の願いが、たまたまこの日に重なったのか」
老僧は粛然とそんな一般論を述べ、もっともらしく合掌した後、
「ま、私が思いまするに、あの子らが上げた風船は、偉いお方だけでなく、他のどなたかも覗いておったのではございませんかな」
にんまりと、悪戯っぽく笑って見せた。
「あるいは、お絵描きしているその部屋で、そのどなたかがいっしょに遊んでいたのかも」
やがて十二頭のトナカイは、揃ってこちらに一礼すると、雪空ならぬろり空に向かって、光の尾を引きながら駆け上がった。
そして幾千幾万のたかちゃんやくにこちゃんやゆうこちゃんも、トナカイたちの後を追いかけて、さながら幾筋もの銀河の流れのように、ホワイト・クリスマス・イブの夜空を、きゃぴきゃぴきゃぴきゃぴと流れ去って行った。
★ ★
「さあて……こっちは、地道に行こうかの」
ルドルフが渋い笑いを浮かべ、若サンタを促した。
「物騒なしろもんの代わりに、かわいい子らの寝顔、拝ましてもらおうや」
深々とうなずいたサンタと共に、こちらに軽く一礼して、背後の橇に向かう。
「じゃあ、沖之司さん」
たかちゃんのママが、奇妙に明るい声で言った。
「あっちがまだ明るいうちに、おデートに出かけましょうか」
内に秘めたナイス・バディーを思わせる、くびれたコートの内ポケットから、銀色のカプセルを取り出して見せる。
「夜には、砂の上で、たっぷり組んずほぐれつしましょうね」
どーして今になってそーゆー言い方をするのだろう。
俺は隣の恵子さんの顔を、恐くて確認できなかった。
まあ、自分の娘型モンシロチョウが万単位に増殖して夜空に旅立つのを見れば、多少ハイになるのは、仕方ないのかも知れない。現に、まだ夜空に向かってマリア様でも拝むように指を組んでいるくにこちゃんのお母さんの両眼などは、さっきからきらきらと、昭和三十年代の少女漫画化したままだ。
恵子さんもトリップしてくれていればいいのだが――しかし俺の頬をキリキリと刺す視線は、やはり殺意か。
「それでは拙僧は、お待ちのご婦人方のために、夜通し安全祈願の祈祷でもいたしましょうかな」
老僧ののどかな声を聞きながら、俺はたかちゃんのママにおいでおいでされるまま、自分の体がハクション大魔王のように変形縮小するのを感じながら、ガチャポンもどきのカプセルの中へ吸い込まれた。
7
結論から言って、俺は砂漠で悶死せずに済んだ。その証拠に、こうして正月を迎えている。職場の定休は元旦だけなので、引っ越しの始末も終わらないのに、また明日から働かなくてはならないのだけれど。
人間というものはつくづく現金なもので、国土や資源や面子をめぐり殺し合いまでしていても、その奪い合う国土や資源そのものがワヤになってしまっては元も子も面子もないから、凶悪怪獣を早いとこ悶死させてしまおうと即座に停戦協定を結び、全軍よってたかって土方に早変わりしてくれた。で、朝になっていざ水をぶっかけようとする頃には、凶悪怪獣は某科特隊員のナイス・バディーのポケットに、ちゃっかり戻ったりしているわけである。
ウルトラママとの取り組みについては、残念ながらほとんど覚えていない。それ以前にあっちこっち着弾したり給水車で軽く放水されたりしていたので、熱くて痛くて赤ムケで、それどころではなかったのである。まあビートルで行き来する間に隠れていたカプセルの中では、やけにぽよんぽよんとクッションが効いている気がしたから、あ、ここは胸ポケットか、いやもしかしてお尻のポケットでは、などと多少記憶に残る部分もあったのだけれど、恵子さんには内緒である。
若サンタとルドルフが無事に正調サンタ便を全うしたのは、言うまでもない。両者とも雪山の遭難死体のような有様で帰って来たというが、その凍てついた顔の瞳は、両者同等に光っていたそうだ。過酷な一夜を通し、老練な侠客の心意気が、若いサンタに確かに受け継がれたのだろう。きっと本来サンタ・システムと言う奴は、子供への『お恵み』ではなく、子供による『托鉢』なのである。
そして皆さん最もアレだと思われる、仲良し三人組の大群に関しては――なにせ何千何万という同一ろりがよってたかって同時に繰り広げたわけだし、それを率いたトナカイたちも『もう何も思い残すことはない』『男の本懐は遂げた』『んでもこれからはもう誰がなんと言おうと七歳児の大群を引率するのだけはかんべん』、そんなげっそりとやつれた顔で、ルドルフと共に若サンタに別れを告げ翌朝故郷に帰ってしまったので、まともに話を聞ける相手がいない。
だから、去年の歳末の各国タブロイド新聞(日本で言えば某スポーツ新聞のようなヨタ誌ですね)や、有象無象のネット情報(部分コピペや又聞きを繰り返した末のヨタ話ですね)から、数件のそれらしい話を紹介するにとどめたいと思う。
★ ★
【アメリカのNASAが計画していた赤外線探査によるサンタクロース追跡計画は、その追跡対象が世界中あっちこっち一度にゴマンと探査されてしまったため、システム不調を理由に中止されたと、NASAから正式な発表があった。無論初めから広報用のジョーク的サービスなので、各国の子供たちからはかなり苦情が入ったものの、当然大人は笑って聞き流した。「そりゃあサンタだってひとりで全世界回れるわけないよなあ」とは、NASA職員の弁。】
【アメリカはノース・ダコタの空軍基地に、「♪ そ〜ら〜を〜こえて〜、ららら、う〜み〜のかなた〜 ♪」と歌いながら小型の未確認飛行物体が飛来、五重六重の防御をくぐり抜けミサイル・サイロに侵入、二十基の核ミサイルを周回の後、そのまま西海岸方面に去って行った。事後の確認ではサイロ中にはなんの異常も見られなかったが、未確認飛行物体を某国テロ兵器と認識し追跡・撃墜しようとした迎撃戦闘機が六機、ダコタ砂漠と太平洋に墜落。脱出した乗組員は全員「アストロ・ボーイが機首を羽交い締めにして進路を狂わせた」と証言し、現在某空軍病院精神科にて精密検査中。なお、追跡中に「前頭部にレーダー装置を備えた四脚の飛行物体を目撃した」という証言もある。】
【北大西洋を潜行中の中国原子力潜水艦内に、突然キリスト教様式の天使が、トナカイ状の神獣(推定)にまたがり出現。乗組員が取り押さえようとしたところ、凶暴な神獣が応戦。天使も「きゃあきゃあきゃあきゃあ」と槌状の神器(推定)で応戦、艦内を羽ばたきながら周回の後、「あの、あの、おじゃまむしました」と謎の言葉を残し、再度神獣にまたがり昇天(昇海?)した。事後調査では艦内に異常はなく、空調老朽化によるなんらかの集団幻覚として報告された。しかし後日、乗組員全員が寄港先の某軍事港にて集団脱走、翌日上海駅前で『悔い改めよ』のプラカードを掲げ宗教活動に従事している現場を取り押さえられた。逮捕された元艦長は「あの天使の瞳で見つめられ、慈愛の槌で『ぴこん』と戒められては、もはや悔い改めるしかなかった」と、泣きながら語ったと伝えられる。】
【英国のドーバーに近い某軍事基地のミサイル格納庫から、深夜突然『猫踏んじゃった』のメロディーが流れるという異常事態が起こった。関係者は述べる。「きわめてスローテンポで、奇妙なピコピコ音ではあったが、確かに『猫踏んじゃった』に間違いない」。監視カメラの録画では、複数のミサイルの先端を鍵盤に見立て、夢中でひらひらと飛び回りながら一生懸命玩具のハンマーで弾き回っている、体長一メートルを越す紋白蝶状の生物が確認されている。保安要員が駆けつけたところ、その生物は「しつれい、しました」と言い残し、合金製障壁をすり抜けて消えてしまった。保安要員は、「サー・アーサー・コナン・ドイルは、やはり正しかったのかもしれない。あれは紛れもなく、フランシスとエルシーが撮影した妖精の仲間だった」と述べたが、後に空軍省は「監視カメラの映像は捏造されたものであり、事態そのものがクリスマス・ジョーク」と発表した。しかしほぼ同時刻、フランス西部でも同様の異常事態が報告されており、その際のメロディーはミヤザキのアニメーション主題歌『となりのトトロ』、言い残した言葉は「どどんぱ」。ただしこれを目撃したフランス兵たちは、直後のワイン飲酒が発覚し、全員拘留中である。「そりゃ飲まなきゃやってらんないだろう」――彼らの共通した意見である。】
【北朝鮮内陸部の休耕地(ペンタゴンによる分析では、大規模地下軍事基地と推定されていた)が、直径四十キロに及び、一夜にして向日葵畑に変貌しているのが、二十五日早朝、アメリカの軍事衛星によって確認された。ワシントン政府筋の発表では、「遺伝子操作による促成栽培技術の、研究施設だった可能性が高い。核開発関係施設でなかったことは国際平和上喜ばしいが、いずれにせよ無闇な遺伝子操作は、地球生態系への影響が懸念され、引き続き厳重な監視が必要である」とのこと。なお、大統領はこの報告を受け、「確かに油は採れるし種も食えるし、平和的でハッピーな花じゃないか。金一族の意外な人間性を見た思いだ」と述べた。ただしプライベートでは、こう発言したとも伝えられる。「なんでヒマワリ? ならず者どころか病気だぞ、おい」。
余談であるが、年末の脱北者によると、その研究には日本人が関わっていたのではないか、そんな風聞があるようだ。詳細は未確認だが、「えへへー、しっぱい」「きにするな」「ごめんね、ごめんね」、その三つの日本語が、意味不明のまま現地周辺の民衆に広まっているらしい。】
★ ★
斑に雪の残る渓谷の青空に、幾つもの凧が泳いでいる。
主に河原で遊ぶ子供たち、そしてその親たちの揚げている凧だ。
快晴だがそのぶん風が強く、親たちは寒そうに襟を合わせたりしているけれど、子供たちは凧の揚がり具合のほうが優先なので、もっと吹けもっと吹けと空を煽っている。
俺と恵子さんは住吉神社に初詣した後、川向こうの釜の淵公園でも散策しようと、鮎美橋を渡った。
本当は早く帰って引っ越し後の整理を続けなければならないのだが、俺が正月は元旦しか休めないので、恵子さんも、寝正月ならぬうろつき正月に賛同してくれた。
恵子さんの和服姿を見るのは、始めてだった。朝、着付けから帰って来たときは、短絡的に思わず押し倒したくなってしまった。しかし、俺はもちろん恵子さんも着付けができないので、それは御法度である。
鮎美橋はけっこう広くて近代的な橋だが、人と自転車しか渡れない。元旦の午前中から川を渡る用事は少ないらしく、ほとんど人通りがなかった。
その中ほどに、見慣れた三人組の姿が見えた。
凧を揚げるくにこちゃんを、たかちゃんとゆうこちゃんが応援している。
「おう、すごいすごい。いっとーしょー」
「おうよ。くものうえまであげてやる」
「わくわく」
近づいて見ると、くにこちゃんはねんねこ半纏姿で、背中にともこちゃんをしょっていた。四人組だったのである。
「あけましておめでとう、みんな」
恵子さんが声をかけると、四者四様の声が返った。俺はひとりひとりに新年の挨拶を返した。
「やっほー! あけおめ!」
「ましてでとう」
「おう、おまいも、めでたいか?」
「めでたいぞ」
「あけまして、おめでとう、ございます」
「ほんねんも、よろしく、おねがいいたします」
「だあ」
「ばあ」
たかちゃんはにこにこと、しかし必死に手のひらを突き出している。
「――! ――!!」
ゆうこちゃんは、さすがにそうしたはしたない真似はしない。そもそも現金を持ったことが、ほとんどないらしい。青梅の商店なら、小店から駅前のスーパーまで、フリーパスである。もっともいいとこのお嬢様らしくしっかり躾けられているので、買い食いなど滅多にしない子だ。
両手で凧の糸を操るくにこちゃんがどう出るか――俺は無言でにこにこと、その挙動を興味深く見守った。
くにこちゃんはしばらく空を見上げたりこっちを見たり悩んでいたが、そのうち「べ」と舌を突き出した。お年玉を口に蓄える気らしい。まるでシマリスだ。
恵子さんが、くすくす笑いながら、ハンドバッグを開いた。どうせどこかで会うと思って、ポチ袋を三つ、すでに用意している。
そのままみんなに与えるかと思いきや、恵子さんは俺にそのポチ袋を預けた。ああ、いい呼吸だ。
「ほい、たかちゃん」
「ありがとー!」
「はい、ゆうこちゃん」
「……ぽ。……ありがとーございます」
くにこちゃんは明るく笑いながら、舌を突き出し続けている。
俺はそのちっこいベロにポチ袋を乗せかけて、さすがに躊躇した。
「…………」
けしてじらしたわけではないのだが、ねんねこのポケットやズボンでは、超活動的ろりのこと、落っことしてしまいそうだ。
「…………」
くにこちゃんの目が、三白眼になった。
「……おまいは、ことし、めでたくない」
結局、ねんねこをちょっとつまんで、ジャージの胸ポケットに入れてやる。
「ほい」
「んむ。めでたいな」
ついでに背中のともこちゃんを突っついてやると、林檎のようなほっぺたで、また「あー」と挨拶してくれた。
「すごいわねえ。ほんとに雲に届きそう」
恵子さんが空を見上げて感嘆した。
「おう。おやじとつくった、とく大だ。いとをきらなきゃ、うちゅーまで上がるぞ」
蒼穹遙か、かろうじて四角く見える白い凧のちょっと下に、俺は奇妙なふくらみを見つけた。糸に、何かくくりつけてあるらしい。
「あのなんかぶら下がってるのは、秘伝か?」
特製の重心でも工夫したのかと思ったのである。
たかちゃんがふるふると首を振った。
「さんたさんの、えらいひとに、おくすり」
ゆうこちゃんがこくこくとうなずいた。
くにこちゃんが糸を操りながら言った。
「めぐすりだ」
「そー。おとしだまで、かったの」
「こくこく」
「あんなふくろくっつけて、どうだかなあ、とおもったが」
くにこちゃん手元の巻き糸は、するすると快調に、いくらでも吸い上げられてゆく。
「これがふしぎに、あがるのだ」
「上でも嬉しがってるぞ」
俺は断言した。
三人組も恵子さんも、それぞれうなずく。
凧はすでに豆粒のようになって、ふと、糸だけになった。切れたのではない。糸はまだ、びょうびょうと風を鳴らして張っている。
「……雲に届いた?」
恵子さんが怪訝な顔をした。
山や高原ならいざしらず、普通、平地でそれはない。
しかし実際、俺にもそう見えた気がする。
くにこちゃんが、手際よく糸を戻し始めた。
「わくわく」
「んむ、ちょっとまて」
「どきどき」
しばらくすると、凧はまた四角く見えてきた。
目を凝らして、その下を見つめていると――凧の下には、糸だけだった。
「おう!」
「やったな!」
「ぱちぱち、ぱちぱち!」
「きゃー」
大喜びしている三人組、いや、四人組を見下ろしながら、俺は思った。
届いたのかもしれない。
強風で袋が飛んだだけかもしれない。
しかし、それはどちらでもいいのだ。
くにこちゃんの手元までたぐり寄せられたでかい凧は、白い凧ではなかった。
あの絵本にあったようなピンクのクレヨンで、ゆうこちゃんの丸まっこい字が――いつものちまちま文字よりずいぶん大きく、こう書いてあった。
☆ おねがい ☆
せかいに せんそうが なくなりますように
せかい中のひとが なかよく へいわに くらせますように (^o^)
☆ かみさまさんへ ☆
俺は無性に子供が欲しくなっている自分に気づき、傍らで目を潤ませている恵子さんの手を、改めて強く握ったりしてしまった。
《終》
……いい具合に終わっておいて、お邪魔虫。
ちなみに、あの『天使のハンマー』一式が、その後どうなったか。――秘密である。三人組との約束で、どうしても秘密なので言えません。ごめんなさい。
まああれらの天使用玩具が今どこにどうしているにしろ、俺には今回の大騒動が、本当のハッピー・エンドだとは思われない。俺を含む人類と言う奴のこれまでの長い歴史を思えば、もしも自分たちの煩悩の塊がことごとく『お花ばくだん』になってしまうと悟ったら、人類という奴は、次の代替物件を探すだけなのではないか。生物兵器、化学兵器――政治家や軍産複合体の喜びそうな悪魔の玩具は、いくらでもある。
願わくばこれからの向日葵畑が、すべて本来の種子による実りでありますように。
そして、もしもこの地上すべてが、ただ向日葵の咲き乱れる果てしない丘になってしまった時――人類は過去の馬鹿さ加減に大笑いしながら、子供たちを連れて――ほんのちょっとでも、空に近づけますように。
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2007/04/22(Sun)12:13:53 公開 / バニラダヌキ
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■作者からのメッセージ
正規シリーズの連載も進まないというのに、季節柄、そしてやむにやまれぬ情動(?)によって、打ち始めてしまいました。季節限定ネタにもかかわらず、クリスマスには間に合わないと思いますが、なんとか年内には打ち終わりたいと思います。
ううむ、どうやっても予定よりどんどん長くなってしまう。自分のクドさをどうしても見積もれない。はたして年内に仕上がるか――などと言っているうちに、もう正月です。明けましておめでとうございます。ともあれ、次回で完結になる――本当か?
それから、若サンタのキャラクター・デザインを一新しました。かばうま的体型から、貧相な痩せ型に変わっております。なにとぞご了承下さい。
やっぱりまだ終わりませんでした。次回、まちがいなく最終回です。
ようやく完結しました。初期構想の倍を超しております。……クドい。
メイルマン様のご感想を参考に、若サンタの外観と宅配後の変化を、前半と後半にほんのちょっとだけ追加しました。
明太子様のご感想を参考に、姑息にいじくりました。怒らないで下さい。
4月22日、ジャミラについての考察を再修正しました。
なお、文中に谷川俊太郎氏・作詞『鉄腕アトム』の一部を、引用させていただきました。また、最後のゆうこちゃんのメッセージは、石森章太郎先生の不朽のコミック『サイボーグ009』の中でも燦然と輝く『地下帝国ヨミ編』最終回より、引用させていただきました。そして文中の『二代目ジャミラ』という表現は、正確には『ウルトラマンパワード』への同名怪獣登板を勘定に入れると『三代目ジャミラ』なのでしょうが、筆者の独断により、パワードのアレは別モノである、そんな扱いにさせていただきます。