- 『今日も天使<セラフ>はやさしく笑う 第三章〜第四章』 作者:祠堂 崇 / リアル・現代 ファンタジー
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全角57180.5文字
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Chapter.B 闇姫
いつも通りの日常は、穏やかすぎるほどに進んでゆく。
姫宮朱音にとってのそれはまさに、気を抜けばうつらうつらとしてしまう陽だまりの下のように、ゆっくりと時が刻まれてゆくようなものだろう。
無意味と有意義。相反する原本。筋書きはまるで違うように見えて、そこに喜劇や笑劇だけしか書かれていなければ誰も涙は流さない。そういう、日常。
それでも、朱音には血のような涙を流さなければならない、筋書きが起こる。
まるで悲劇か惨劇か。
そして思い知る。
神化計画という名の幕を知った、翌日。
戦場という名の惨劇。
選択という名の悲劇。
総てが悪夢へと変わり果てていたことに彼が後悔する、四月八日の木曜日。
その刻が訪れるまで、誰一人、知らない幕。
燦々とした陽光。小春日和なんて言葉すら吹き飛ばすほどの晴天。
それでもまだ少し肌寒さを拭えない中で、朱音はグラウンドを駆ける。
目の前に立ちはだかる男子生徒。朱音は一度ボールを止め、右へトラップ、する振りをしてビタッ! っと止まる。
「う、っわ……!?」
視線一つ与えずにフェイントを掛けられたせいで男子生徒が一歩右へ足を出す。朱音は見逃さずに左脚でボールを少し浮かせ軽やかな跳躍と共に抜く。
左側面から、黄色い声が重なる。
朱音はそれに見向きもせずに一気に走りだし、仲間のフォワードに三角パスをして再度トラップ、シュート。
ゴールキーパーの居ないがら空きの部分へ向けて、ボールは綺麗に入った。
途端、さっきの倍近い声援が飛び交う。
そこでやっと朱音は視線を向けた。
現在は四時限目、体育。
本来は男子と女子に別れ、男子はサッカーをして女子は段差の下にあるテニスコートでテニスになるはずだったのだが、どうやら女子の体育教師が居ないらしく、女子はあえなく見学になってしまったようだ。
それはいいのだが、いかんせん文字通りの『見学』である。興味本位でやって来た女子達にいい所を見せようなどという見栄が生まれた野郎が多数生まれ、どうにもスライディングの多用やらガンガン前に出て自滅してる連中が多い。サッカーは根性だけで勝てるスポーツじゃないというか、ぶっちゃけ霄壤学園の生徒かと思うほどバカっぽすぎる気がしないでもない朱音であった。
「さっすが姫宮っ、ワイらのめちゃめちゃ圧勝やんか」
近寄ってきた男子生徒の一人が声を掛けてくる。朱音はジャージの襟を引っ張り強引に汗を拭く。
「テメェら俺に頼りすぎだっつぅの。少しは動けよな」
確か久代信長(くしろ のぶなが)という名前だったはずだ。いかにも女の子好きしそうなヘラヘラ顔とこてこての関西弁調の割に厳つい名前なので覚えていた。染めた茶髪をワックスである程度運動の邪魔にならないように掻き上げている背が高くてやや細身な体格の奴で、どうも本格的なスポーツでもしてるのか、捲ったジャージの袖から覗く腕や肩辺りがかなりしっかりと鍛えられているように見えた。
「いやー、他の連中はみぃーんなアッチのほうにアピールしとるんでゲームに全然集中出来てへんだけ思うんやけどな」
したり顔で小さく指を差す信長。朱音もその延長上を見ると、同じクラスの女子が応援をしていた。当然、あの二人も居る。
「ワイの見解からすりゃ朝生ちゃんと御門ちゃんに見惚れられたいんやろうねぇ〜ウチの夢見集団ドモは。ま、無理はないんやろうけどねぇ〜♪」
「アレに見惚れられたいかぁ? 一方は陽にやられて半分寝てて、もう一方はまるで試合に乱入しかけない眼力で見つめてきてんぞ?」
というかさっきからどっちも全然応援してない。
本当にアレがいいのか……? と思いながら朱音は試合終了の笛と共に別のチームと交代する。
土手坂のようになっている芝生に腰掛けると、一つの影が陽を遮った。
見上げると、そのシルエットは中途半端な髪を左右で縛っている。
「おぉ、んだよお前か。つかヒナといいお前といい、まさに観るだけだな」
「応援する必要が無いから声を挟まないだけだ。君には要るか?」
相変わらず口調は硬い。だが内容は友達付き合い以上の確信があった。
御門熾織は朱音の隣りに立つ。座らないのは、自分がどれほど人気かを自覚しているからだ。さして意味も無く引っ付いてくる雛菊と違い、御門熾織には『戦姫』という立派なポテンシャルがある。そういう意味では男とワンセットだと朱音が色々危うくなるのだ。
朱音も熾織も、互いに次の試合を観ながら会話を始める。
「……ヒナは、来てくれると?」
「あん? ああ、『大丈夫かなぁ』とか言ってそわそわしながら微妙なリアクションしてたから、飯ん時にお前からも言ってくれよ」
「そうか」
視線はこちらに向いていないが、表情に薄く温かみが生まれる。
「最近のヒナ、どこか元気が無い気がしてな」
「そうか?」
「何だ気付かなかったのか、修行が足りんぞ」
「なんの修行だよ……」
朱音は思わず言葉を濁した。
まさか幼馴染が知らない内に本物の天使の代行をやってるなんて、それこそ熾織には言えない。
事情を知らない彼女もまた真説とは違う路線で心配そうな顔をする。
「何にせよ、僕も昼に訊いてみる」
「道場はいいのか? 土日ってやってんじゃなかったっけ」
「ふむ、それはやるんだが……」熾織は口元に手を当ててしばし考え、「そうだ、久し振りに僕と手合わせしないか?」
あん? と朱音は片眉を上げ、不敵に笑んで熾織を見上げた。
「俺に勝とうってか?」
「どうかな? 昔のように負かされてばかりと思ったら大間違いだぞ?」
互いに視線を合わせて、見つめること数秒。ふっと熾織が笑った。
「あと十分か……そろそろ終わりだな、じゃあ昼に会おう」
と言って熾織は女子の集まっている中に戻ってゆく。
女子数名と何かを話し始めたのを見て、朱音はゆっくり立ち上がった。
「……ん? どないしたん姫宮」
「ちょっち喉乾いたから水」
さよか、と言って信長は試合観戦に視線を戻す。
朱音は石造りの階段を上って校舎内に入る。
横に並んだカランの一つを上に向け蛇口を捻る。
ジャバジャバと溢れ出てくる水に顔をつけ、汗を流す。口に含んで吐き出し、また含んで飲み込んだ時にふと気付いた。
隣りに、賀上洋介が立っていた。
朱音はビクッ! と肩を跳ね上げさせて体を起こした。
「び、っくりしたぁ〜……んだよオドかすなよな」
音も無くこちらを見下ろしていた洋介にそう言い、朱音はジャージの袖で顔を拭う。
彼は何故か制服のままだ。というか、朝っぱらに苛々をぶつけてきたことを追及してシメてやろうと思ったのに、教室にも居なかった。どこに行ってたのかと思った矢先、朱音はふと気になるものが視界に入った。
右手だ。袖から覗く手は、指先までぴっちりと包帯が巻かれている。
怪我でもしたのかと眉をひそめたその時、
「なあ、お前さぁ」
唐突に洋介が口を開いた。
「熾織のことどう思ってるわけ?」
一瞬、朱音は言葉を選ぶのを仕損じた。
彼と熾織との接点について記憶を辿っていたというのもあるし、何より今、彼は熾織を名指ししていた。コイツ、熾織とそこまで仲が良かったっけ? と思考を巡らせていると、洋介はさらに一歩詰め寄る。
「どう思ってんだって尋いてんだよ」
朱音は本能的に警戒心を抱いた。語気そのものが質問をしているという次元ではなかった。もはや、脅迫による尋問だ。
「……別に、腐れ縁の親友ってとこ、だろ?」
変に疑問系になってしまったが、そういえば正直なところ熾織のことをどうとか思ったことはなかった。あの事故のこともあるし、それなりに気を遣わなければならない事も多々有ったせいで、そういうのを考えたことさえなかった。
どう、思ってる?
漠然とした解答だと朱音は思った。
対して、洋介は鼻で哂うように口の端を歪めた。
「あーあーいいよなぁ……同じクラスで同じ女顔で同じようなレッテル持ちが幼馴染なら、そりゃ向こうも気を許すってか」
嘲うかのような声。
朱音はカチンときた。反射的に視線を据わらせる。厭味なら言われ慣れているが、これはあまりにも明確な悪意のある言い方だ。何より、人の容姿にケチつけただけでなく、今この場で最も関係の無い人間まで悪く云ったのだ。
無差別すぎる陰険。
それを、朱音は決して許さない。
悲哀を乗り越えて今が在る二人を侮辱する者など、絶対に赦さない。
「――はっ」
だから朱音は、ここ数年の間は出すことのなかった表情を久しく見せた。
それは、敵に対する圧倒的な苛虐の嘲笑。
あまりの昏い笑みに、洋介は薄く目を瞠った。
「だからどうしたよ、友達伝えを理由にしてメアドでも教えて欲しいのか? 本当はメールしてるのは姫宮君でしたぁ〜とかサプライズドッキリでもかまして欲しいのか? レッテルがどうのでしか人を判断出来ないような色ボケに、俺の大事な大事な親友の身を売るなんて残酷な真似は、俺には出来ねぇなぁ」
せせら笑う。洋介が途端に目を細めて怒りに表情を険しくする。
「てめぇ……」
「それはこっちの台詞だテメェ……、勝手に好きになるのは結構、だけどな」
一度、拭いきれてなかった首筋辺りを袖で拭い、睨みつける。
「そういうのは熾織と真っ向勝負でカタぁ付けやがれクソが。テメェのワケの判んねぇイラチに俺やヒナを巻き込んでんじゃねぇよ、何様だよテメェは」
「こ、の……野郎っ!」
顔を赤くしていきり立った洋介が左手で朱音の胸倉を掴もうとする。
次の瞬間、
グルン! と洋介の視界が回った。
「え――」
流れてゆく景色はほんの一瞬。直後に視界が急停止し、背中から衝撃が奔る。
かっは、と息が抜ける。真上に朱音が洋介の左手首を掴んで立っていることから、何かの技で投げられたと理解するのに数秒かかった。
「……調子乗んなつってんのさっきからよ。そういう意気込みは恋文にでも書いて待ち合わせで玉砕してろ」
そう言って朱音は腕を放す。その時、学園中にチャイムが鳴り響く。
「ん……終わりか」
「ぐ、ごほっ……げほ、ごっ……ぅ」
背を強かに打ったことで咽る洋介に冷めた一瞥を向け、朱音は毒づく。
「つーわけで、俺達に下らねぇことしたら……いや、ヒナにまで手ぇ出したら」
すっと、倒れ込む洋介の首を掴み顔を上げさせる。
まるで虫でも見るかのような、残酷な眼。
それを見た洋介は、思わずぞっと背筋を凍らせた。
「潰す程度じゃ済まさねぇぞ。俺は不良じゃねぇからテメェに関係する奴等を的に掛けることはしねぇ。だったら判るよな、何をぶっ殺せばいいと思う……? テメェの地位も成績も友好も外見も何もかも、ニート確定の一生送らせてやる。ぶっ殺す。テメェをじゃなくて、テメェが大事にしてるテメェをぶち殺すぞ=v
ひっ、と洋介の喉から悲鳴が掠れた。
朱音はその恐怖を見逃さない。これだけ言っておけば、二度とやってくることはないだろう。こういう手合いは嘘を吐くと逆効果だが、ここは霄壤学園だ。不良でさえ当たり前のように進学コースを取るような優等生の集まりである。いじめも高度なら、その逆もまた凄まじい。警察沙汰になることを、揉み消せるからという一言で片付けてしまうとんでもない奴だって潜んでいるだろう。
それに、自分にだって姫宮穹沙の弟という強力なレッテルが貼られている。ある意味やろうと思えば本当にやると思われているのだ。
朱音は何も言わず、踵を返す。地面に手を突いて俯いているため表情はもう判らないが、朱音は急いで教室へ向かった。
一人残った洋介は、ギリ……、と口腔を噛み千切って零れた血を感じる。
「ちくしょう……」
言葉が漏れた。
自分は今、完全に負けた。
精神的な言い合いや物理的な喧嘩ですら負け、挙句の果てには、あんな奴を相手の脅迫に怯えた。怯えてしまったのだ。
ちくしょう、とまた呟く。
卑怯すぎる。
なんでなんだ。
どうしてあいつばっかり強いんだ。
同じ人間なのに、同じ性別で同じ年齢で、いや、体格ならこっちが勝ってる。ちょっと運が良かったからって熾織なんかとベタベタしやがって……、そうだ、さっきだって二人で喋ってた。熾織が、熾織が一瞬、あいつに向かって笑った。微笑んでた。厳格そうで実は優しい笑顔が、オレジャナクテアイツニ――
「ちくしょう……」
コンクリートの地面に手を一度打ち、拳を強く強く握る。
悔しい。欲しい。熾織をオレのモノにしたい。欲しい。欲しい。欲しい。
最早悪意か純粋なものかさえ、判らない思考が洋介の頭を駆け巡る。
不意に、陽を遮る影が目の前の地面に現れた。
誰かに見られたのか、と胡乱な表情を上げる。
ちょうど逆光を浴びていて、そのシルエットは影でしかない。
まるで、神のように神々しい。
洋介はもうどうでもよかった。
どうでもいいから、誰かなど確認もせずに口を開いていた。
「オレは……どうすれば欲しいと思ったモノを手に入れられるんだ?」
絶望から希望を探すようなその声と共に、洋介はその時気付けなかった。
逆光のせいで影でしかないその主の口元が、少しだけ、歪に吊り上ったのを。
昼休みの屋上。
いつも通りに弁当を開き合い、談笑をする三人。
どうかしたのか? と、不意に黒髪の少女は問いかけてきた。
青年は逡巡し、このことは本人には伝えずにおこうと思い、首を横に振った。
不意に、携帯電話の着信音がほんの数秒流れて切れる。
音源は、栗毛髪の少女のポケット。
なんだ持ってきてるならアドレスを交換してくれ、と黒髪の少女が自分の携帯を取り出す。相変わらず、黒くて平べったい実用重視の頑固な携帯だった。
アドレスを教えながら、栗毛髪の少女は視線をこちらに向ける。
青年はこれにはすぐに、しかし気付かれないように頷いた。
どうやら、異質の世界がまた展開されるのだと悟った。
臆することはない。もう青年には逃げる道など選ぶ気はない。
その、はずなのに。
何気ない仕草として弁当に視線を戻した青年を見つめ、
栗毛髪の少女は、どこか表情を曇らせた。
朱音は、再び理事長邸宅へ赴いていた。
本当なら雛菊も連れて行ったほうがよかったのかもしれないが、当の本人が何故か見当たらず、仕方なく一人でやって来た。
扉を開き、ホールに出る。
すると、昨日はあの青年が立っていた場所に、別の人物が居た。
髪を撫で上げ、寡黙そうにこちらを見据える白いスーツの男性。
確か名前は……、
「氏家、さん?」
男性は一度、短く頷いた。
「氏家宏也(ひろや)、知っているとは思うが私も代行者だ」
氏家は朱音が階段を下りて近くまできてから、口を開く。
「理事長は少し出られている。先に理事長室に案内しよう」
「ああ、ども……」
さっさと歩き出す氏家の後を追う。
ただ、ふと気になった。
「……ヒナから聞いたんだけど、あの倭とかいう奴が待ってるんじゃなかったっけか?」
昼休みの終わりにこっそりと雛菊から伝えられたのは、氏家が言うように理事長が急用でしばし遅れるため、昨日の青年に案内してもらうはずだった。
それを訊かれた氏家は一瞬の間のあとすぐ、落ち着いた声で答える。
「君が来るのが予想出来た。昨晩の君の言葉から、何となくな……」
「……そうかい」
昨日はある意味、事態がまるで理解できずにいたために、咄嗟に訊いたに近かった。何となく気恥ずかしくなった朱音は視線を泳がせる。
「姫宮君、と言ったかね?」
「ああ、っていうかどうせヒナが言いまくってたんだろ?」
「ふふ……彼女は随分と君を信頼しきっているようだったよ」
それはそれで一体何を言い触らしてるのか気になる物言いだ。後で尋問だな、と朱音は思いながら、ふと気付いたことを口にした。
「……あのさぁ、ちょっと訊いてもいいか?」
「答えられる範囲でならな」
「代行者っていうのは、実際になろうと思ってなれるもんなのか?」
氏家は一度黙り込む。噤むというより何かを考えるような気配の後に答える。
「……場合によるが、大体は素質に近い」
昨夜の理事長も同じことを言っていたような気がしたのを朱音は思い出す。
「どういうことだ?」
「つまり適正を持った人間にしか天使の魂を抱えられないということだ。言うなれば人間はコップだな、中に本来の人間としての魂という水を蔵したコップ。その中に天使の魂を入れて、蓋をする」
言いながら氏家はネクタイを緩めてボタンを外す。ぐいっと鎖骨の辺りを朱音へ見せた。右胸上あたりにあるのだろう黒い十字架の刺青の上部が覗いていた。
「その蓋が聖痕、だっけか」
「そうだ。加えて、聖痕を穿たれた者は禍喰(シャッテン)の影響を受けん。天使の魂を享受した者にしか聖痕は刻まれないがな」
「アンタもそうやって代行者になったのか?」
「私の代行は律と夜行の天使レリエル。【結社(アカデミー)】に属する者のほとんどの者は神化計画(セラフ・プロジェクト)の研究者によって天使の能力を植え付けられる」
「植え付ける、って……」
「文字通りだ。神託の儀という名の、天使をその身に降ろす。薬物投与により睡眠状態から徐々に仮死状態に移し……その者に生じた魂の空白に天使の魂を押し込むニュアンスだな。聖痕は天使の魂の流出と汚染を封じる縫い針か」
まるで人体実験だ。迷惑な他人に同情する気はないが、幼馴染までそんなことに加担させられてるとなると話は別だ。
すると、氏家は首を横に振った。
「彼女は特別だ。天使の魂を受け継いだ……言わば生まれつきの代行者だ」
朱音は驚きに目を見開いた。
「……なん、だって?」
「つまり彼女は事実上神化計画に関係無く神に魅入られた人間ということなんだ。数々の過程を通じて、それでも成功する確率は限りなくゼロに近いほどの難易度だというのに、それとは何ら関係性のない経路で#゙女はこの世に生まれ落ちた時から代行者なのだ」
信じられない。
朱音は思わずそう口にしてしまった。
「私も正直信じ難いことだと思う。生まれた時から既に代行者であった彼女は三年前に霄壤学園へ入学したことでクロト理事長に気付かれるまで、それこそ最も近くに居た君はおろか自分自身ですら己が代行者だなどとは知らなかったらしい。重ねて言うが聖痕を穿たない限りは代行者も禍喰(シャッテン)の影響を充分受ける。ある程度の耐性はあるようだが、それでも有るのとは大きな違いだ……」
氏家は理事長室の手前隣りにある扉を開く。
中はがらんとした部屋にソファが相対するように設置されており、周りにはファイルを収めた棚や給湯器がある。どうやら面会用の部屋だと朱音は察した。
氏家は朱音をソファに座るよう促し、給湯器の傍らのポットに手を伸ばす。
「コーヒーと緑茶、どちらがいい? 生憎と紅茶は茶葉が切れているようだが」
「あんたに任せるよ」
そうか、と氏家は小さく笑んだ。どうにも堅苦しい性格しているのかと思いきや、朱音の口の悪さに対してもあまり気にしている節はなく、案外いい人なのかと思った。
珈琲豆を入れてセットし、上から熱湯を流す。
その僅かな静寂に、氏家は口を開いた。
「禍喰(シャッテン)は厄介極まりない。それは常に人の心のすぐ隣りに在る」
見たまえ、と氏家は濾されてポットに落ちてゆく焦げ茶色の雫を見せる。
「どれほどの綺麗な魂を持つ者達も、理性という布切れ一枚では保てない感情というのが在る。この計画の副産として我々は神凪町の安寧を維持しているが、禍喰(シャッテン)から逃れる術は最早代行者として聖痕を背負うしかないのかも知れない」
空いている左手で鎖骨の辺りを擦る氏家。
「君も気を付けるんだな。人間である以上は容赦無くその魂を食い散らかす。人間であれば例外なく、な……」
朱音は人知れず息を呑んだ。重い言葉。いや、重さを深く知っている$コだ。
「何か、あったのか……?」
思わず訊くと、氏家はさして声色を変えずに答えた。
「私の妻は禍喰(シャッテン)に侵蝕された者に殺された」
「……っ!?」
「あれは四年、いや五年は昔か……私が神化計画(セラフ・プロジェクト)に身を投じるきっかけになった出来事だ。文字通り、闇は深く、そして人を選ばん。まさに無差別」
「……悪、い。知らねぇで何も考えずに……」
バツが悪そうに目を逸らしてしまう朱音に、氏家は苦笑で返す。
「いや、無知であることは若い者の特権だ。少なくとも無恥ではないと、君を見れば判る。これも、昨晩送った時の君の様子と彼女の言葉を聞いたからだが」
ごめんなさい、と。
真実を押さえ込んで、ただこの絆が壊れるのが恐かった雛菊はそう必死に繰り返した。
今になってみれば、自分がもし雛菊のような境遇に生まれ、それを知ったとすれば、
(言わない……絶対に、言えない)
体裁が気になるなんてものじゃない。信じざるを得ない者に対して、こんなことが言えるはずがない。雛菊だけでなく、熾織や穹沙、他の人間さえも巻き込んで、真実を明かさなければならなくなる。
自分は、人間ではないのだと。
自分の意志で放棄したのではなく、生まれた時から人間じゃないと。
ここにきて、朱音は雛菊の重みがやっと理解できた。
「……代行者が、人間に戻ったケースは?」
ぴくり、と。ポットからティーカップへコーヒーを入れる手が止まる。
数秒の間言葉は無く、やがて、
「……無い。生まれつきの代行者自体が彼女だけ(はじめて)だ」
「そう、か……」
朱音は顔を俯かせた。
結局、自分が雛菊へしてやれることなど極僅かで、極些細だ。
そこでふと、もう一つの疑問に気付いた。
「なぁ、そういえば気になったことがあるんだけどさ」
「何だ?」
ティーカップを差し出す氏家がこちらを見たのを機に朱音は尋ねる。
「ヒナの奴は、なんでここに入ってるんだ? いくら代行者だからって、戦う意思……つぅか、戦えなさそうな奴に無理させるようには思わねぇけど」
「……っ、それは」
氏家が渋面を作った。何かと朱音が怪訝な顔をした直後、
ズバン! と扉が開く。思いの他乱雑な、まるで蹴破るような勢いだ。
二人が視線を向けると、そこには白い制服を身に纏い、腕を組んでこちらを睨んでいる金髪の少女が居た。
「やっぱここに居た……クロトさん、倭先輩! 居ましたー!」
声を上げると、数秒後に理事長と長身の青年が入ってくる。
倭昴流は大した感情は表していなかったが、クロト=フェルステンベルクは氏家の姿を確認した途端に整っている表情を険しくした。
「……氏家、これはどういうことか説明して下さい」
いつもと変わらぬ丁寧な敬語。だが、声の質が明確な『怒り』を表している。
氏家は少し視線を泳がせた。
「い、え……お戻りになられるのが遅れると聞いたので、先に待っていてもらおうと」
「黙りなさい、氏家」辛辣にクロトは遮る。「真実を知っていようと朝生君の幼馴染だろうが、彼は被害を被っただけの部外者です。余計なことを知られない為に、私がどれほど苦労をしているのか解かっているのですか?」
「は、……申し訳御座いません」
腰から折って頭を下げる氏家。
「謝るくらいでしたら金輪際私の許可の無い行動は慎んで下さい」
「お、おいおい……」
堪らず朱音は立ち上がって二人の間に割って入った。
「部外者の俺が言えることじゃないかもしんねぇけどよ、少なくとも話してもらわなきゃなんねぇことはちゃんと教えてくれたんだぜ? 注意こそすれ、頭下げることなんざねぇだろ」
「いや、いいんだ」
顔を上げて朱音へ向く氏家。だが、これでは朱音の気が済まない。
「よくねぇよ。生まれた時から代行者だとしても、俺がヒナと幼馴染なのは絶対に変わらねぇ」
はっと、クロトの表情に驚きが生まれ、一瞬にしてさらなる怒りを孕んだ視線が氏家へ注がれる。朱音は氏家の前に立ってそれを妨害するように言い放つ。
「秘密だ機密だと言いくさってやがるが、聖痕以外でヒナがアンタらに加担する理由はまるで無ぇじゃねぇか。何隠してんのか知らねぇけど、黙りこくって、改めてまた後日とかほざいてる奴に四の五の言う資格はねぇぞ」
「……」
クロトは朱音を見つめる。思慮が読めない無表情な顔を睨み返してやると、根負けしたようにクロトは溜息混じりに肩を竦めた。
「良いでしょう、私にも非が有るとして目を瞑ります。ついてきて下さい」
といって部屋を出るクロト。朱音は一度振り返り、氏家を見て、
「……なんて差別だっつぅの、なんかあったわけ?」
氏家は申し訳無さそうに頭を掻いて苦笑を浮かべた。
「理事長に就任される前の彼女は計画の研究員だった私の、言わば上司でな」
「……、ご愁傷様」
どうしようもない朱音は呆れながらに言って部屋を出た。
廊下を歩き、今度はとんでもない物の前に出くわされた。
「……おい、二階建て豪邸の一階に居るのに、なんでこのエレベーター地下の四階まであんだよ……」
朱音はエレベーターに乗り込むクロト達を見て、開いた口が塞がらないといった風に訊いた。
クロトは特に気にも留めず、冷静に答える。
「この邸宅の建っている敷地内だけ地下約五十メートル下まで開拓しています。勿論、地下以降の階は総て神化計画(セラフ・プロジェクト)に関する、【結社(アカデミー)】基地ということになりますので、部外者でこれを知っているのは今の所貴方だけです」
あ……っそ、と朱音は何か納得しきれず乗り込む。クロトの手が地下一階のパネルを押し、一瞬の浮遊感が起こる。
「……」
エレベーター特有の沈黙が、ここでも起こる。朱音は視線を巡らせた。
扉の近くに立つ氏家、クロト、朱音の横に立つ昴流。そして、金髪の髪の少女は壁に背もたれて口をもごもごさせている。ガムを噛んでいるらしい。
ふと、少女が朱音の視線に気付く。嫌悪、とまではいかないが、どこか不審そうに眉をひそめた。
「何よ」
「……別に」
視線を扉に戻す。それから、ぽつりと呟いた。
「……、ここに居る俺以外の全員が、代行者か」
氏家以外の視線が朱音に集中する。
答えたのは隣りに立つ昴流であった。
「というより、事実上は代行者以外は滅多に来ない。ある意味でも研究者達もここへ来るのは異例だと思う」
律儀にも答えてくれるもんだな、と朱音は内心舌打ちをする。すると、唐突に少女が口を開いた。
「ていうか、なんで赤の他人の部外者の無関係な人を入れちゃうんですか? さっさと隠蔽しちゃえばいいのに……」
つんけんした物言いに、氏家や昴流が苦笑する気配が充ちた。『いつものことだ』と言いたそうな苦笑だ。だが、そこで甘んじるほど人間が出来ている朱音ではない。
「はっ……ハジメテのお遣いに失敗するようなダメ代行者にそんな提案を通らせるだけの立場が有るとは思えねぇけどな」
「……っ、なんですって?」
少女の声音が低まる。朱音は視線を向ける。
「もういっぺん言ってみなさいよ、氷漬けにしてあげるわ」
「善良な被害者を勝手な判断でアイスに出来るんならやってみろ。調子こいて張り切ろうとするから、昨日みたいにヘマすんだ」
「! 言うじゃない……アンタなんてただの人間のくせに、助けて貰った恩も忘れたわけ? 最っ低」
「助けてくれなんて言ってないもんでね、介抱してくれたのもヒナだしな」
と言って、脇腹の辺りを軽く叩く朱音。相当の怪力で殴られたが、咄嗟に相手の手首に肘を落として威力を殺いだので、骨に異常はないようだった。念のために雛菊が滅茶苦茶に包帯を巻いているのを、彼女も苛々しながら見ている。
「ブリジット」
昴流が咎めるようにして名を呼ぶと、少女は少し逡巡した後に舌打ちをしてぷいっと顔を背けた。
朱音も視線を扉に戻す。それから、エレベーターが止まる瞬間の重圧の増す時に、朱音は口を開いた。
「……助けてくれなんて言うかよ」
少女が振り向く。
朱音は振り返らずに、開いてゆく扉に紛らわせるように言った。
「俺は、お前の言う通り結局は無力なただの……人間でしかねぇからな」
怪訝そうに少女が顔をしかめるが、さっさと降りるクロトに続き、朱音もエレベーターを出た。
地下というと薄暗いイメージがあるが、それとは逆に眩しいくらいだった。
リノリウムの床に、材質の判らない金属じみた壁。整然と続く廊下を歩きながら、朱音はクロトの背中に声を掛けた。
「で、そこの金髪が言ったように、被害者なだけの部外者に何をさせるつもりなんだよ」
「ちょっと、金髪って何よ……!」
少女がいきり立つ、朱音は煩そうに視線を向けた。
「じゃあ何て呼ぶよ。金髪を金髪と形容して何がおかしい、染めてんのか?」
「そ、そんなわけないでしょ!? アタシには――」
「ブリジットっ」
今度はいくらか語調を強めた昴流の声に、ビクリと肩を竦ませて少女は黙る。
「お前も茶々を入れないでくれるか?」
と、朱音にも言ってくる。朱音は申し訳程度に両手を挙げて降参のポーズを取った。溜息を洩らし、クロトが答える。
「彼女はブリジット=ハミルトン。一年前にこちらへ着て、代行者になった者です。代行は氷雪と封印の天使シャルギエル……知っていると思いますが」
「氷漬けが能なんだろ?」
「それだけみたいな言い方しないでくれる!?」
いちいち煩い。朱音がうんざりするが、クロトは意に介することなく続ける。というか、会話に混じりたくないのかもしれない。
「正確には『温度を下げる』能力ですね。一定範囲内の空気を一瞬で凍るレベルまで温度を下げる力。気体化している水分どころか空気ごと気温が零度を下回るので、雪を舞わせ、次々に氷を創ることが可能になる、かなり強力な能力です。まず、周辺の影響を殆ど受けずに発動出来るメリットが強いです」
「へっへーん、どうよ」
本当に外人なのかと思う台詞と共に胸を張るブリジット。朱音は疎ましげにねめつける。
「威張ってんじゃねぇよ。それが総てとでも思ってんのか?」
「……っ! ふ、ふんっ……何の力も無い人間よりはマシよ」
「ブリジット」
また昴流が口を挟むが、朱音は沈黙した。
「……、そうだな。俺は、何も出来なかった弱い弱い人間だよ。お前ら代行者なんざ嫌で嫌で堪らないぐらいにな」
でもな、と、視線は誰に向けることもなく、朱音は言う。
「今はその力が羨ましいよ」
「な、なに言って……」
「もっと早く、お前らみたいな力があれば、ヒナをこんな場違いな世界に放り込むことなんてしなくてよかったかもしれないからな」
今度は、ブリジットが押し黙った。
昴流も思わず息を呑んでいた。
この場に居る四人は、この姫宮朱音という人間にとって、朝生雛菊というただの幼馴染の関係なだけのこちら側の世界の種族の者を心配していることに、ある意味での驚きを抱いていた。
四者の沈黙に中てられてそれ以上口を開かない朱音は、やがて大きなホールに辿り着いた。
前面に巨大なパネルスクリーンが設置されており、下のデッキに左右対称で据え付けられている椅子の前には見るだけでも眩暈を起こしそうな計器の数々がある。上部デッキには円を描くようにしてドーナツ型のテーブルが置かれている辺り、一種のオペレーションルームの類なのかと朱音は推測した。
そして、テーブルの一席にちょこんと座る二人の少女。
一方は知らない。一箇所だけ椅子が設置されていない空白のスペースに、車椅子に座ったままこちらを見やる、小学生ぐらいの女の子だ。緩やかなウェーブをした蜂蜜色の髪が背中ほどまで伸びており、白いワンピースとカーディガンを羽織る姿は、深窓の御嬢様然とした儚さを感じる。
もう一人のこちらを振り向いた少女は、朱音に気付いて何とも言えない微苦笑を浮かべていた。
誰よりも近くに居て、誰よりも絶対的に触れられない線を引いている。
そんな、幼馴染が座っていた。
「幾分か、顔触れが足りないようですが……」
着席した面子を見回して、目を伏せてクロトが言う。
すると、車椅子に座っている少女が手を小さく挙げた。
「あの、愛奈(あいな)さんにお電話したんですけど……繋がりませんでした」
今度は昴流が口を開く。
「博士は支部の方へ赴かれているらしい、帰ってきたら伝えてくれと言われた」
「……時任(ときとう)君は、いつもの通りですか。来ない以上は眠っているのでしょうね」
クロトは朱音へ視線を上げる。
「全員と対面することは出来ないようですが、話を始めてしまいましょう」
そのまま視線を氏家に向けると、氏家は椅子から立ち上がり、リモコンをスクリーンに向けて操作する。
ふっと部屋の電気が弱くなり、辺りが薄暗くなる。
何をするのかと、思った矢先、ドーナツ型のテーブルの中央に、微細な線と点による立体映像が浮かぶ。
映し出されたのは、神凪町の四分の一の地域――つまり居住区だった。
「俺達の町……」
朱音が小さく呟くと、クロトは頷き返す。
「実は、今回我々はある事件を追っている最中に、貴方を保護したのです」
氏家がリモコンを操作すると、とある一箇所に赤い点が燈った。点といっても、町そのものの中の点では極々小さい。だが朱音はそれでもその赤い点が燈った場所を知っていた。
「……神凪郷土資料館?」
中等部時代に課外授業で一度来ている。
「そう、始まりはここから。……氏家、姫宮君に闇姫(ディーヴァ)のことは説明したのですか?」
クロトの口から出てきた知らない単語に朱音は眉をひそめる。氏家は首を短く横に振った。
「いえ、機密事項と思い……」
どこか不遜に、しかし感情の起伏を感じさせない頷きをクロトはする。
「事の発端は、この資料館内で巡回していた警備員が殺害された事件から」
唐突に死を告げられて、朱音の視界の端で雛菊が自分の手を強く握るのが見えた。
「警備員は以前から禍喰(シャッテン)の影響を受けていたらしく、その結果、いわゆる残留思念のようなものがその場に残ってしまったのです」
「怨念みたいなもんか? また随分とオカルトチックに言いやがるな」
「それ以外に形容出来得る言い方が無いのです。元より、宗教的な世界に足を踏み入れているのは我々が天使の魂を抱えていることから解かるでしょう」
朱音の茶々に冷静に言い返すクロト。また反対側の視界の端でブリジットが『やーい』とアカンベーをしているが無視した。
「我々代行者はその残留思念を速やかに……言い方が若干気分の良いものではないですが、排除するために緊急で赴いたのです」
「それのなにが事件だよ?」
「ええ、実は禍喰(シャッテン)の痕跡が跡形も無く消えていたのです」
「……どういうことだ?」
意味が分からないという具合に顔をしかめる朱音。クロトも表情を変えずに肩を竦める。どうしようもない、ということなのだろうか。深くツッコミを入れるな、ということなのだろうか。表情の変化が乏しいのでさして判らない。
「端的に言うのであれば、禍喰(シャッテン)を持ち去られたというべきでしょうか……我々にもあまり理解出来ているものではないので、深くは訊かないで下さい」
前者だったらしい。律儀と懇切の意味合いを履き違えている理事長である。
「初めの内は不審、という辺りで調査を続けていたのですが……氏家」
命令の下に氏家がリモコンを操作すると、二つ目の赤い点が浮かび上がる。今度は南へ数十メートルの所にある、小さな公園らしき場所だ。
「子供連れの母親が殺されました、ここにきて初めて異常が露見されたのです。通り魔に襲われたという情報から緊急で行った際に、突然禍喰(シャッテン)の反応が消え、そこに人影の目撃証言があり、我々は本格的に調査を開始しました」
続いて、そこから南南西に三十メートルもない建物の路地裏に赤い点が燈る。サラリーマン風の格好をした中年男性であり、調べるとその男性は数日程前に解雇(リストラ)されて、家にも帰っていないらしい。
次に、路地裏から大通りに出て繁華街を横に突っ切ると見えるコンビニ裏で、一週間前に恋人に振られたことでバイト仲間に苛立ちをぶつけていて、評判を落としているらしき女性が殺されていた。
「警備員と母親は怠惰、サラリーマンは強欲、女性店員は恐らく憤怒でしょう。どれも禍喰(シャッテン)の影響を受けて、精神的に不安定になり始めた人物ばかりです」
そうして次々と殺され、そして闇を奪われた奇怪な事件。
また燈された赤い点が民家の中で起こったものであると説明を受けたとき、クロトは口を開いた。
「この事件の最中に、我々はようやく敵の正体を知りました」
朱音はクロトが氏家に訊いた単語を思い出す。
「……ディーヴァ、だっけか?」
クロトは、肯定の頷きを見せた。
「何なんだ? それは」
「……有り体に言うのでしたら……我々代行者と対極に位置する者、と言うべきでしょうか」
朱音は瞠目した。善悪で見分けた際に善良と呼ぶべきかは迷うが、良いイメージを持つ天使の代行者の対ということは、即ち悪を意味するほかない。
「その者が何のつもりで禍喰(シャッテン)の残滓を奪い取っているのかはまだ定かではありませんが、少なくとも我々に対する敵意は明確に確認されております。現に、倭君と氏家が相対した途端、交渉の気配を見せることなく攻撃をしてきたそうです。黒尽くめのマントに身を隠す異能力者」
氏家がさらにリモコンを操作し、地図上に赤い点を燈している時に、ふと朱音は違和感を覚えた。
何かを探って立体映像を見つめる朱音に気付き、クロトは口を開いた。
「敵は姿を消す直前に、住民を殺害した民家の壁にペイントを施して、自らを闇姫(ディーヴァ)と名乗りました。神化計画(セラフ・プロジェクト)における大いなる障害と自負しながら」
「障害?」
赤い点が増え、比例するように膨れ上がる違和感を必死に目で追いながら、聞き返す。
「代行者ですら排除するしか方法の無い禍喰を回収出来る℃メ。古い文献にすらその名を持たないながらに、我々の担当を任されている博士に厳重注意を促される、闇を操り支配する能力者……さて、姫宮君。ここで一つ質問です」
謎掛けをするような口火の切り方に、朱音はそれでも赤い点を追い続ける。
優に十数件にも及ぶ殺人事件。
居住区で多発される通り魔の正体、闇姫(ディーヴァ)。
始まりは郷土資料館。居住区の北端に位置する建物。
次々と点灯する赤い、死。
場所にはなんの共通点も無く、ましてや夜間である以外は時間さえバラバラ。
そして朱音も通う霄壤学園を通り越し、ついには朱音や雛菊の住む地帯へ。
「――、?」
そう、気付いた。
北端の郷土資料館、南南西へ行った公園、そこから三十メートル南のビル、さらに南東にあるコンビニ、さらに南へ学園、朱音の家の付近、大通り……。
てんでバラバラに発生する赤い点。
クロトの言葉が、答えへと急速に導く。
「単に禍喰(シャッテン)を集めるだけなら居住区である必要はありません。ですが、闇姫(ディーヴァ)が居住区内でのみこれだけの殺害を起こしているのは、何故だと思います?」
どこか回りくどい物言い。
「姫宮君……」
確信へと算出された解答に朱音が、クロトへ視線を上げる。
「仮に、闇姫(ディーヴァ)に禍喰を具現化する力があるとすれば、どうなると思いますか?」
そう。
地図を奔る赤い点が、北から南へと居住区のど真ん中を突っ切っている=B
「……っ!」
ここに、その異能力者の『目的』が判明された。
力を得るという生易しいものではない。
禍喰(シャッテン)とは本来存在し得ない代物だと氏家から聞いた。
だからこそ、負の感情が爆発した人間の心にしか巣食わない。
だが、もし、それを人為的に発生させることが可能であれば、
「居住区の大半の人間が禍喰の影響を受ける……!?」
クロトは、今度ははっきりと深く頷いた。
「負の感情というのは誰にでも存在します。我々代行者にだってある物。単に代行者は聖痕を穿たれているために影響を受けないだけに過ぎませんが、夜の寝静まった居住区に禍喰(シャッテン)の力が集約されれば途轍もない事態が起きます」
そうして、最後らしき赤い点が出た場所に、朱音は目を細めた。
南端、廃屋街とを繋ぐ大きな橋――水伽橋の数百メートル手前で、まだ幾分か空白のようなものが見える。
「途轍もない事態、って……なんだよ」
ただ一人知らない朱音の当然の質問に、全員が黙る気配が充ちた。
ゆっくりと、クロトが答えた。
「……邪神(サクリファー)」
再び生まれる、新たなる単語。
「邪神とは邪悪なる神という意味ではありません。邪道なる神話、つまり邪神」
「邪道なる神話……」
「要は、非現実的に発露された『現象』です。日常の法則を無視し、因果を無理矢理崩壊させて存在しない現象(しんわ)が顕現する出来事……それが邪神(サクリファー)」
すると、地図のやや上空に一人の人間の映像が浮かぶ。実際のスケールの六分の一、人形程度の大きさの人の形のホログラムだ。
その人間の映像では、黒いマントを足元まで羽織り、フードで顔を隠して口元がちらと見える程度の姿をしている。
「倭君と氏家の証言を元にプロファイリングした闇姫(ディーヴァ)の外見です。身長は一六〇センチ前後、丁度貴方と同じぐらいでしょう」
次に地図のほうで、赤い点の上を緑色の矢印が北から南へ伸びてゆく。
「軌道からして算出される次の地帯がここでした」
見覚えがある。当然だ、昨日朱音も通った場所なのだから。
水伽橋。廃屋街とを隔てる大きな川に掛かる、居住区最南端の橋だ。
そこで理解した。
「……それで張ってたところ、運が悪く禍喰(シャッテン)に侵蝕されたバカに襲われた俺を見間違えて遭遇しちまったってわけか」
視線を向ける。向けられた金髪の少女は不機嫌そうにぷいっと顔を逸らした。
クロトが視線一つ送ると、氏家はすぐにリモコンを操作。立体映像を消して、オペレーションルーム全体を元の明るさに戻す。
「邪神(サクリファー)を抑える為に禍喰(シャッテン)を可能な限り薄めるのが、我々【結社(アカデミー)】の役目。神凪町は地域的に因果の亀裂が生じ易い地、これだけの連鎖が一気に起きれば、まず間違いなく何らかの大惨事を招きかねません。何としても阻止しなくては」
「……」
朱音は一度、すぅと息を吸い、ゆっくりと吐いてゆく。
カチリ、と。スイッチを切り替えるような感覚を脳裏に感じて、
「……はっ」
鼻で笑うように、クロトを睨んだ。
「それで俺に隠蔽とかゆうヤツをしないわけだ」
クロトは何も言わない。氏家はどこか気まずそうに視線を泳がせ、他四者は首を傾げた。
数秒の沈黙の後、朱音は口を開いた。
「つまり、俺を疑ってるわけか」
「……えっ?」
唐突に驚きの声を洩らしたのは雛菊だ。彼女は信じられないと言いたげにクロトへ向く。ブリジットや昴流も神妙な顔になる。
「……クロト、さん?」
雛菊の窺うような声に、クロトは伏せていた瞼を上げる。
「単なる説明責任への従事だと思っていたのでしたら付け入る隙はいくらでも有ったのですが……予想以上に鋭い……」
「誰かさんの弟やってるもんでね。姉貴と違って俺の場合、他人はまず疑うか利用出来るか考えてる最中に相手の質を見定めるタイプだけどな」
「成る程、実に敵対的な言い分です=v
両者の視線が絡み合う。ブリジットが間に割った。
「どういうこと……?」
「うるせぇよ金髪」
疎ましげに朱音は、それでも視線を動かさずに言う。
まるでブリジットにというより、クロトに言い聞かせるようにして。
「そりゃそうだよな。運悪く襲われた極普通の一般人。でも、いくら運が悪いっつったって、これだけの連続殺人で……しかも次の殺人が起きる可能性がある周辺で襲われるような不自然なほど運の悪い奴≠ヘまず疑わしいと俺も思うよ。木を隠すなら森の中。自分の容疑を晴らすには、まるで無関係の加害者から被害を受けるのが一番合理的で巧く隠せる」
そこまで読んでいたのか、と昴流やブリジット、車椅子の少女は息を呑む。まるで別人がそこに座っているかのような錯覚を覚えた。
――ただ、朱音は気付かなかった。
――隣に座る雛菊の肩が、一瞬小さく揺れたのを。
しかし、変わらずクロトは冷静に返してくる。
「昨夜、私は貴方のことを曖昧だと言いましたね」
初めの内はどういうことか理解が回らなかった。だが今なら解かる。
このことを言っていたのだ。
「闇姫(ディーヴァ)の出現。居住区を縦断する禍喰(シャッテン)の視えざる杭、邪神(サクリファー)の布石。そして、布石の中には貴方の通う学園や家、行ったことのある道筋ばかり=B仕舞いには次の殺人が起きると思われている場所で貴方が見つかり、逃げる布石の餌」
ここに、朱音が疑われる要素は満載だ。
「本当は禍喰を得ようとして代行者に気付き、被害者のふりをしているだけ。というのも、強ち捨てきれない考えだと思いますが?」
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ……!」
堪らず雛菊が椅子から立ち上がる。困惑が薄く混じった、否定の怒りの表情。
「朱音ちゃんがそんなことするはずありませんっ! そ、それは朱音ちゃんは性格歪んでるし、すぐ怒って頭叩くし、突っかかってきたイジメの集団さんを登校拒否に追い込んだり、交渉で購買のパンをタダで貰ったりしてますけどっ」
「……、そんな事をしているのですか」
本題とは違う怒りを表情に浮かべてくるクロト。思わず目を逸らしながら、朱音は思いっくそ雛菊の横顔を睨んでやった。見てないが口パクで伝えてみる。『あ・と・で・ぶ・ん・な・ぐ・る』。
「でもっ……人を殺すようなことは、絶対にしません。私が保証します」
クロトをじっと見据える雛菊。その時だけ、雛菊はいつになく意志の篭った口調であることに朱音は内心で驚いた。
「……まあ、姫宮君の素行については追々言及するとして――」
『いっそそのまま忘れてください』、と朱音が口パクするが、素で無視された。
「――いくらメタトロンの代行者の頼みと言いましても、彼が闇姫(ディーヴァ)ではないという確証がない以上、今、敵を本拠地に入れ込んでいる状態なのですよ?」
軽く目を細めて言うと、それだけで威圧に負けた雛菊がぱくぱく口を動かし二の句を継げなくなってしまう。最強の割に意志弱っちぃな、と助けに入って貰った恩も棚上げモードで舌打ちする朱音。
「じゃあ、こういうことだろ? 俺が犯人じゃないように、本物を誘い出せば俺は無罪放免で代行者様方の庇護下に置いて貰えるっつぅわけだ」
「若干失礼な物言いですがどうです。ですが、どう解消するおつもりですか?」
静かに緊迫した空気の上を飛んでくるクロトの声に、朱音は目を閉じて数秒考え、それからはっきりと答えた。
「俺が囮になる。俺を襲った奴を捕まえて吐かせれば、俺が犯人じゃないって信じるか?」
クロト以外の全員が目を瞠った。
当のクロトは、さらに目を細めて見据えてくる。
「……正気ですか?」
「ざけんな。こちとら命狙われた上に疑われてんだぞ、これ以上テメェらの言いなりになってられっか」
「……」
しん、と静けさが戻る。
再び見詰め合う中、先に目を伏せたのはクロトだった。
「いいでしょう……今夜七時、水伽橋の周辺に陣形を張る予定です。作戦通り倭君とブリジット君は監視、氏家は周辺地域の人払いを、八月一日宮(ほずのみや)君は私と共にバックアップ、朝生君は姫宮君と同行し後に監視班と合流してください」
了解の頷きを見せる四人に対し、雛菊だけが俯き加減で黙っていた。
「朝生君」
再びクロトが名を呼ぶと、雛菊は自分の膝に視線を落としたまま頷いた。
「はい、わかりました……」
「では準備の方を。姫宮君は一度帰らなければいけないのでしょう?」
「るせぇ……」
毒づく朱音にクロトは小さく溜息をつき、席を立つ。
「解散。各自午後七時に持ち場についてください」
その言葉を境に面子は次々と部屋を出てゆく。
そんな中、自分も席を立った時に朱音は傍らに近寄る気配を感じる。
向くと、不安そうにこちらを見上げてくる雛菊が居る。
「朱音ちゃん……」
朱音は溜息混じりに腰に手を当てた。
「大丈夫だよ。どの道ここで俺を襲ったバカを捕まえない限りは、俺が怪しまれるんだから、心配すんな」
そう言って、朱音は何気ない仕草で雛菊の頭に手を置こうと腕を上げた。
途端、
びくん! と突然雛菊の体が強張った。
朱音が思わず手を下げると、雛菊は空笑いした。
「う、うんっ……もしも朱音ちゃんに何かあったら、私達が護るからねっ」
といって、そそくさと逃げるようにして雛菊は部屋を出て行った。
今朝のことをまだ引き摺ってるんだな、と朱音は伸ばしたままの手で自分の頭を掻いた。
「……姫宮君。朝生君はまだ一度しか神術を発動させたことがありません」
ただ一人残っていたクロトが、そう口にする。
朱音は振り返る。
「そもそも開発的に代行者になったのではないので、コントロールが難しいのでしょう。そういう意味でも、彼女には精神的に支えになるべき者が必要なのです」
その先を、言わなかった。
だからなんだというのか。
そんなもの、
「……だから、るせぇっつってんだろうが」
言われるまでもない。
「大丈夫? あまり向こうの人に迷惑を掛けちゃ駄目よ?」
玄関で靴を履く朱音に甲斐甲斐しく言葉をかけてくる穹沙。
朱音は簡単なバックを背負い、立ち上がる。
「たかが一晩だぜ? 大丈夫じゃねえってどういう状況だよ、俺もガキじゃねぇし大丈夫に決まってるだろ」
ノブに手を掛け玄関を開ける。まだ寒い空気を持つ夜の外へ向かう。
後ろから声がかけられる。
「じゃあ、熾織ちゃんに宜しくね」
彼女もまた、少なからずも熾織のことを支えてあげられた人物なのだ。その懸念はきっとそういう意味なのだろうと朱音は察して、軽く頷いた。
門を開け、閉じる。
一度息を吸い、深呼吸。
そのまま、視線を左に移した。
昨日と同じ、白い制服に身を包む雛菊が壁から背を離してこちらを見てくる。
いつものように太陽みたいな笑顔を振り撒く姿はない。
いつものように子犬みたいにくっ付いて来る姿はない。
不安そうな表情で立つそれは、天使の代行者の姿だ。
それでも、朱音は腹に力を入れて、はっきりとした口調で雛菊に言った。
「行くぞ、ヒナ」
戦場へ。
「……うん」
どこか翳を差した表情で、雛菊は頷いた。
昴流は一人、アパートの屋上に降り立つ。
暗闇にコンクリートのごつごつとした縁に座り込む形で姿を隠し、すぐそこに見える大きな橋を眺めていた。
背後には、まだそこかしこで明かりの燈っている民家の海が見える。だが、ここら一帯の民家は既に氏家による広域隠蔽術により、『非日常的な現象を認識出来ない状態』になっている。
詳しくは判らないが、それが氏家の天使、レリエルの神術である。レリエルは『夜』の象徴。夜は陰を意味しており、即ち『静寂』、つまり『激変がない』ということだ。代行者として長い経験を持つ昴流やクロトは勿論のこと、大局的に言えばある程度の隠蔽や結界操作、得手不得手を無視すれば治癒の類も全ての代行者には備わっているが、氏家は特に操作するという援護向きの能力を使うらしいことは、クロトから聞いていた。
おかげで、周囲に人影は一切ない。当然だ。よしんば出て周囲の民家に蹴り入れたとしても、入れられた本人はそれが異常だと認識できない。『あれ? どうしてこんなところに居るのだろう?』と小首を傾げるようなものだ。
昴流は眼下に歩いている影が無いことを確認してから、耳元に取り付けている無線のスイッチを入れる。
「ブリジット」
『――はい、先輩』
「異常はないか?」
『今の所は誰一人居ません』
「そうか……理事長の話では橋周辺を死守出来ればまだ手は打てるそうだ」
『了解』
恐らくは地上の、どこかの茂みに隠れているのだろう。昴流は電源を切る。
(……闇姫(ディーヴァ))
道の途中から合流した氏家と共に対峙したときは、信じ難いものだった。
人の身でありながら、同じ人を殺める。あってはならないことだ。
(次こそ正体を暴き、止めてみせる)
ちらと、昴流は天を仰いだ。
今日はとても綺麗な満月の日だ。暗闇に慣れた眼には、黒塗りの空に眩いほどの星が散りばめられている。
何とはなしに舌打ちし、ぽつりと呟いた。
「……今日は天気が良すぎるな、足手纏いにならなければいいが」
マナー設定されている携帯がぶるぶると震える。
クロトは手袋の嵌められた手でそれを取り出し、通話ボタンを押した。
「来ましたか」
『……とりあえず大通りから神凪駅沿いに進んで五分の所だ、あともう五分もあれば橋に着く』
どこか不機嫌そうに答える朱音に、クロトはちらと傍らに居る車椅子の少女に視線を向ける。少女は、こくりと一度頷いた。
「分かりました、そこに朝生君が居ますね? 替わって下さい」
数秒後、声の主は雛菊のものに変わる。
『はい、なんでしょうかクロトさん……』
こちらはどこか緊張気味に聞いてくる。普通は逆だと思うクロトはそれを内心に潜めた。
「そろそろ姫宮君だけで行動して貰います。朝生君は彼がギリギリ見える距離を保って、後ろから尾いて下さい」
『わ、はいっ……解りましたです』
『理事長、正直凄ぇ不安なんだけど?』
後ろから朱音の抗議が聴こえる。頷きそうになったが、一応は身内を庇う。
「朝生君、橋付近に来れば倭君とブリジット君も監視していますので、そこまで気負う必要は有りませんよ。肩肘を張らなくても大丈夫です」
『は、はい……』
「今回のポイントゲッターは倭君とブリジット君です。貴女は彼を護ることだけに、全神経を集中させて下さい。信じていますよ」
労いの言葉を掛けると、受話器の向こうで喉の震えるような声が上がった。
『が、頑張りますで……っきゃ!?』
『ばっ……! これからって時にドブに足突っ込むバカが居るかアホ!!』
『だ、だってだってクロトさんに元気付けられちゃったんだもん!』
『テメェ理事長ヒナを褒めんな! こいつが張り切ると逆効果なんだよ!』
『あ、れ? あ、朱音ちゃ〜ん。ぬ、抜けなく……あれれ?』
『がっ……! そのスカート丈で暴れんじゃねぇよ見えちまうだろーが!!』
頭を殴られた際の雛菊の悲鳴と共に、ブツ、と通話が切れてしまった。
ツー、ツー、と流れる携帯を耳元から離し、クロトは車椅子の少女を見る。
少女はある程度の会話が聴こえていたのか、苦笑を浮かべた。
「が、頑張りましょうか……クロトさん」
「……そうですね」
夜七時。
携帯の液晶を覗いていた昴流は、無線を繋げる。
「ぼちぼち時間だ。ブリジット、結界準備」
『――了解、展開します』
数秒後、パキン、と眼下の茂みで甲高い音が鳴る。
たちまち、夜空に薄い膜のようなものが張り巡らされる。これは氏家のそれとは違い探知用、領域内の温度差を察知出来る彼女ならではの特殊結界である。
これで朱音が来ても、すぐに見分けがつくように――、
『――倭先輩』
不意に、僅かなノイズに混じって、ブリジットの声が発せられる。
どうしたのかと問い返した。結界の完全展開には、まだ多少時間が掛かるはずだ。彼女の御目付け役を任されている自分が、一番知っている。
『領域の内側で熱探知反応……外を歩いてます』
何? と昴流は顔をしかめ、足元に置いてあるバッグから暗視ゴーグルを取り出した。
ここら一帯は氏家の結界で既に人払いが済まされているはずだ。少なくとも人間が外を歩いているのは在り得ない。かといって、朱音が来るのはまだ先のはずだ。
(氏家さんの結界の外から入って来たのか? くそ、どこだ……)
緑色に光を燈すレンズの視界。暗視ゴーグルで周囲の暗がりを見回していると、ふと人影を発見した。姿を確認しようとしたが、折悪しく建物の陰に隠れてしまう。昴流はバックに暗視ゴーグルを突っ込み、立ち上がる。
「ブリジット、展開中止。俺が確認してくるから、待機していてくれ」
『了解……でも、大丈夫ですか?』
ブリジットの声には、懸念の色があった。恐らくはこの天気を見て訊いたのだろう。
昴流はふっと笑みを零し、出来る限り優しい声で返した。
「心配するな、ストックならある。それに、お前だって満足に戦えるとは限らないだろう? お前よりも強い俺に、そんなことが心配出来る立場か?」
『う……』
押し黙るブリジット。一年前から自分には素直に応える可愛い後輩に、昴流はくすくすと笑った。
『も、もうっ……』
「俺は大丈夫だ。彼を頼むぞ」
『……はい』
最後に聴こえた返事は、自分に課せられた役目を果たす責任感に満ちたものだった。
通話を切り、昴流は即座に建物を飛び降りた。
朱音は一人、遥か遠方に橋が見える道を歩いていた。
雛菊は居ない。彼女はずっと後ろを尾いているはずだ。
(俺なんかより絶対あいつのほうが危なっかしい……)
ドブから救出してやったのにそそくさと背後へ隠れだしたり、そんなに気にするような奴だったっけか? と割かし失礼なことを考え、橋の袂に辿り着く。
まあ自分に比べ、彼女が着てた白い制服は下手な防弾チョッキよりも頑丈で耐熱耐寒性能も優れた代物らしい。雛菊曰く『ナサって人が喉から手が出るほど欲しがる素材だってクロトさんが言ってたよ〜、ナサさんって誰だろうね〜』。今は居ないが敢て言おう。それは人ではないし。明らかにローマ字のアレだし。
まあ実質何の防御性も無い私服で着てる朱音が一番危険なのだが、さー、と流れる運河のせせらぎを耳にして、朱音は立ち止まった。
「……ん?」
ふと気付く。考え事をしていたせいで、既に橋を渡り始めている。
しまった、と朱音は小さく吐息を零した。話では袂付近で立ち止まるはずだったのだが、いかんせん他人の事に頭が回っていたことで忘れていた。
快晴の星空の下、朱音は頭を掻き振り返ろうとした。
月明かりよりも、後ろの橋の袂に立っている街灯の光のお陰だった。
足元に伸びる自分の影の隣りに、もう一つ影があるのに気付けたのは。
「――、」
それを見た途端、全身の総毛が立った。
行き過ぎたことへの注意から、ブリジットや雛菊が追ってきたのかも知れない。あるいは昴流や、もしかしたら氏家ということもあった。
だが、その影が明確な殺意を持っていることを、瞬時に察した。
足元に広がる影は、左腕を振り上げた状態だったから=\―、
「、――っく!」
朱音は体をめいっぱい前に倒した。
刹那、ドゴン! という鈍くも凄まじい一撃が分厚い欄干に突き刺さる。三車分は通れる大きな橋を、ビリビリと震えさせた。
ごろごろと地面を転がり、朱音は一気に振り返る。
月夜に立つのは、昨日と同じ黒いパーカーとスポーツウェア。フードで顔を隠した男は欄干に打ち付けている拳を戻し、こちらを見ているのだろう。
「来たかよっ、怪物……!」
暗い笑みを浮かべ、朱音は体を起こす。
男はじっとこちらを見ながら、余裕の笑みを浮かべる朱音に小首を傾げた。
朱音としては来てしまえば後は御役御免だ、後は代行者の仕事。
「残念だったな、他の皆さんに御同行してもらえ」
すっと指を差す。男がばっと後ろを振り返れば、
黒い壁が、そそり立っていた。
「……、は?」
朱音の表情が凍った。二人の立っている場所を中心に、橋の両端までを包むドーム状の黒い膜が覆っている。
指を差したまま硬直する朱音。敵を封鎖するのに朱音を巻き込むならまだしも、代行者がなんで居ない?
ゆっくりと振り向く男。
その口元が、にやりと歪められる。
「……う、そ……だろっ!?」
事態が読めない朱音へ、男は一気に駆け出した。
「な、なによコレ……!!」
ブリジットは一人、橋の袂で声を荒げた。
既に天使化(アドベント)している彼女の背中には、空色の翼が眩く広がっている。金糸の髪がふわりを風を孕み、一瞬にして白く染まる。気体となっている水蒸気が瞬時に零度以下に温度を下げられたことで、周囲との温度差で生じる冷気だ。寒い中で吐いた息が白くなる原理を全身に纏う、氷雪の天使シャルギエルの代行者ならではの戦闘形態である。
なのに、その常軌を逸した能力が、通用しない。
目の前に展開された巨大な黒い膜のようなもの。見た目にた黒い色をしたシャボン玉みたいな薄さの、針一つで簡単に壊れてしまいそうな壁だ。
かれこれ五分近い氷弾が全く通らない。傷一つ付かない強固さだけでなく、恐らく修復効果もあるらしい。手で触れて凍結させても、すぐに戻ってしまう。
「因果断層による空間の隔離……神術じゃない、これは禍喰(シャッテン)の反動……!」
今日の昼、理事長が素人の青年に説明した最悪の惨事。
邪神(サクリファー)。
ブリジットは未だに見たことがないため、ピンとこない。
だが、その光景を見たことがあるという昴流や膂力の天使の代行者も、皆が口を揃えて言っていた。
あれは、絶対に引き起こしてはならないモノだと。
一年間にも及ぶ修練の果てに、ようやく能力を自由に使えるようになった半人前のブリジットにも、何となく察しはついていた。
世界を崩壊させるほどの力をも引き出しかねない力場の欠片ならば、少なくとも代行者一人を足止めさせるには充分過ぎるものだということを。
「やっぱりさっきの音は、昨日の奴……!」
迂闊であった。まさかこれほどタイミング悪く昴流が居ないとなると、どう対処すればいいか判らないブリジットは壁へ意味も無く攻撃するしかない。
歯軋りする。これほどまでに力が足りないとは。
だが、ブリジットはすぐに距離を取り、腕を振るう。白い粒子がビキビキと乾いた音を立てて、握り拳大の氷弾が出来上がる。
負けられない。失敗など許されない。
何の為にあれだけの血反吐を吐くような地獄の修練を積んできたというのか。ここで失敗するような使えない要員になることだけは、死んでも御免だ。
ましてや、放浪癖のゴリラ女や味方ですらない予言者紛いなんかに引けを取るどころか、あんな、三年も代行者をやっているくせに己の神術も満足に使えない奴なんかに、負けたくなんてない!
「シャルギエル!」
一喝と共にブリジットは更に腕を掲げる。
呼応するようによりいっそう煌きを放つ空色の翼から細雪が飛び散り、人と変わらぬ大きな氷の塊を形成、
「いっけえええぇぇぇぇぇぇええええええええ――っ!!」
黒い膜めがけて渾身の一撃を放った。
遊歩道を右に曲がり、狭く街灯も無い薄暗い小道に辿り着く昴流。
辺りを見回す。見つけた場所からの方角を真っ直ぐ歩いていてくれれば、恐らくこの付近のはずだと、ずれ落ちそうになったバックを掛け直す。
「どこだ……っ」
もし禍喰(シャッテン)に侵蝕された者が、一般人を狙った場合最悪の状況と言える。元々は無差別的な虐殺が有り得ない訳ではない。クロトが言っていた理論は単に、朱音に揺さぶりを掛けているためのただの方便に近いのだ。
あの人は優しい。だから真実を話さずに誤魔化したまま事件の解決に加担させた。
(気持ちは解らないでもないけどな。仲間としてもあれ≠ヘ辛いのに、幼馴染が知るべきことかどうかは俺にだって躊躇われる)
だが、知らないほうが幸福に思える真実とはいえ今は非常事態なのだ。これだけの殺人事件が連続で起これば、警察組織にも勘付かれる。
(そして何よりも……)
昴流は、一人の少女の顔を思い出す。
あどけなくて、ぽやっとしてて、底抜けに明るくて、可憐な少女。
背丈の低い体躯に最強の天使を持つ、最強の代行者。
天使にも恵まれ、才能にも恵まれ、故に――、
ふと小さな公園に差し掛かった時、街路樹に紛れて人影が視界に入った。
弾かれたように振り返る。茂みのせいでまた視界から消えるが、進路先を塞ぐように迂回した。
ばっと姿を現した昴流の前には、誰も居ない。
「――っ?」
おかしい。足が早いとしても、まさか走って追ってきた自分より速いことは無いはずだ。どこかで道を曲がった可能性が高いが、この付近に建物は有ったかと再度周囲を見回そうと振り向いた。
「『追う少女。逃げる兎。懐中時計は忙しく回る、クルクルクルクル壊れたように』――」
不意を衝かれた、というのもあった。
だが、昴流の思考の空白に滑り込むように耳朶を打つ、謳うような凛とした声が、あまりにも場違いなまでに聴こえたから。
何とはなしに反射で振り返ってしまった昴流の眼前で、黒い外套を羽織った少女が、
「――『狂おしく続く追走劇(ハイド・アンド・シーク)に終焉を。非道外道何のそのの黒き魔術は覚醒す』」
抑揚の無い謳歌を紡ぐ。
刹那、
彼女の足元の影が、蠢いた。
「な――っ!?」
殺意を感じぬ風体。外套の奥に何か武装をしているかもと、そちらに目がいっていた昴流の視界の下辺で、彼女の影はまるでタールのように艶やかな漆黒を纏い、どぷり、という液体に近い泥のような音と共に膨れ上がる。
それが、人の形を形成した途端、
昴流は咄嗟に肩に背負っていたバックを前に向けていた。
直後、割って入ったバックを殴りつけるように、影が腕を伸ばしてきた。
「っぐ……!」
重い一撃に後ろへ吹き飛ばされる昴流。
急いで顔を上げる。満月を背に立つ外套の少女と、傍らでまだ完全に人間の形に成り切れずに蠢いている影が立っていた。
あまりの事態に言葉を失う昴流は、すぐに記憶を掘り起こす。
黒い外套。数日前の夜。
明確なる、異質。
「闇姫(ディーヴァ)……!」
体勢を低めて、昴流は思考を巡らせる。
「女だったとは意外だ、まさかとだって思わなかった」
「……」
闇姫(ディーヴァ)は何も言わず、ただ立ち尽くす。これでは独り善がりの発言だ。どことなく面白くない昴流は話の内容を妥当なものに変えた。
「一体何が目的なんだ? 何故こんな騒動を起こした……?」
どろり、と気味の悪い粘着的な音を発する影の人型を一瞥し、闇姫(ディーヴァ)はこちらを見る。だが、外套から覗く口元は一切開かれる気配はしない。
ふー、と息を吸い込み、昴流は目を閉じて天を仰ぐ。
それから、
「判った。話すつもりがないなら、連行するまでだ」
前に持ってきていたバックに視線を落とす。もしもの時の為に携帯していたが、ここで使うべきかは推し量る昴流の眼前、たんっ、と革製のブーツの底が地面を蹴る音が聞こえ、一気に姿勢を低めた。
唸るような風切り音。頭のあった場所を鋭い蹴りが過ぎる。
昴流は体を低くしたまま軸足を払うべく蹴りを返す。だが、読んでいたように軽やかに跳躍してそれをやり過ごして一歩退く闇姫(ディーヴァ)。逃がすまいと前に出かけたその時、はっと気付いた。
相手は、二人居る。
闇に紛れるようにして、死角から影が飛び出してきた。しかも牽制の気配は一切ない、全身を投げ打つような突進だ。
「う、わっ!?」
咄嗟に踏みとどまるが、当然それで避けられるはずがない。がばっと覆いかぶさるかのように突っ込んでくる影に両腕を捕らえられ、昴流は仰向けに倒れこんでしまった。
目の前で、影が大口を開けて顔に喰らいつこうとした手前で、何とか昴流は首に当たる部分を掴んで押しとどめる。人間と同等の質量と筋力を有するその影は、強引に喰いつく為に迫ってくる。
ギリギリの距離を保つのに精一杯な昴流の視界の端で、コツ、とブーツの鳴る音が聴こえ視線だけを送る。
「ま、待てっ!」
「……退け」
制止を促す昴流に視線一つ寄越さず、闇姫(ディーヴァ)はその一言と共に駆け出した。
道を曲がって姿を消してしまうのを目で追い、舌打ちを強くした。
「くっ……! まったく……訳が分からないな……! 重いし……!」
無理矢理首を狙ってくる影を鼻先に睨みつつ、昴流は開いている左手でバックの口を開け手を突っ込む。
無論、右腕が空いた影はその手を昴流の右手首に掛け退けようとした。
右手が外され、迷うことなく落ちてくる影の口を見つめたまま、昴流は小さく呟いた。
「――マルティエル」
カッ! と、背に閃光が奔った。
同時、影が一気に吹き飛ばされる。昴流と影の合間で、強烈な水飛沫を上げて爆発が起きたのだ。
べしゃりと地面に倒れこみ、蠢く影。激しい動きをしながら起き上がるのに対して、昴流はゆっくりと余裕をもって身を起こした。
その背には、夜の空に似つかわしい瑠璃色の翼が光を淡く放っていた。
「もしもの為に取っておきたかったけど……そうは言っていられないようだ」
こぽん、と気味の良い音が染み渡る。
足元に落ちているバックから転がって出てきたのは、数本のペットボトル。今時コンビニで売られている飲料用の真水だ。
その内の一つはキャップが空いていて、とぽとぽと空気を含む音と一緒に地面に広がって――いない。
口から溢れた水が、重力に逆らって宙を踊り、やがて昴流の腕に絡み付いていた。
昴流の視線が下へ向く。
地面を転がるペットボトルの腹を思い切り踏んだ。容積の限界が一気に縮まり、蓋の隙間からプシュウッ! と水が昴流の足に掛かる。それを繰り返す度に、昴流の手へ導かれる水の量が蓄積される。
まるでビデオテープの逆再生のように。
意思を持つかのように、水は支配を受けて手の平へと昇る。
総ての水を取り込んだその手が一度握られると、ごぷん、と鳴った水が長細く動き、形状を無視した圧縮を起こし、鋭さよりも実用的な破壊力を秘めた水の剣が出来上がる。
水流と豊災の天使マルティエルの代行者、倭昴流は蠢く影を一瞥した。
「何のつもりか知らないが、そっちが止まらないならこっちだって容赦しない」
ぐらり、と男の拳が標的の僅か右へずれる。
男の視界が数センチ脇で鉄柵を唸らせる腕に驚愕している朱音から、自分の腰周りに向く。
そこには、体当たり気味に抱きつく、か細い腕。
邪魔されたイラつきが競り上がった男はその腕を掴んで退けようとする。
「どけ、よっクソがぁ! ぶっ殺すぞゴラァア!!」
だが、自分の手首を掴み全力でしがみ付いてくるその腕の主に怒り心頭した男が殴りかかろうとした刹那、
朱音が立ち上がっているのに気が回らなかった。
「人の幼馴染ぶっ殺すなテメェ」
ゴッ!! と鈍い音が頭の奥で聴こえる。
顔面を殴られた痛みを知覚するよりも早く、舗装された地面に倒れこんだ。
息を整え、朱音は視線を落とす。
「ヒナ、お前――」
落として、閉口した。
安堵するように腰を抜かす頼りない雛菊の背には、純白の綺麗な翼が浮かんでいた。
雛菊は朱音の視線に気付き顔を上げ、少し寂しそうに笑った。
「え、えへへ。大丈夫だった? 朱音ちゃん」
「いや、大丈夫だけど……お前、どうやって……」
黒い膜はまだ展開されている。隔絶された空間の中に閉じ込められたとして、雛菊はどうやって入って来たのだろう。などと思っていると、恥ずかしそうに雛菊が空に向けて指を差す。その延長線で、黒い膜の一部が罅割れたように穴が空いていた。角度からして建物の屋上から突っ込んだような高さだ。空前の無茶をしてらっしゃいますね……! と朱音は思わず絶句した。膜にタックルかましてもびくともしなかったのに、どうやって入ったのかを訊くのが、正直躊躇われた。
追及を諦めた朱音は、欄干に手を掛けてふらふらと立ち上がる男を睨む。
「……くそ、何がっ……ちくしょう……!」
その男は腹の底から怒りを滲ませた呻き声と共にこちらを振り返る。
振り返った、その顔にフードは被さっていない。殴りつけた勢いで、フードが外れてしまったのだ。
その顔を、朱音は唖然と見つめた。
「……賀上……?」
知っている、人物だったから。
賀上洋介はゆっくりとした視線を一度巡らせる。まるで疲れきったように生気を失った表情でこちらを見て、
ひく、と。
人間がするものなのかと疑ってしまうほど、歪んだ笑みを浮かべた。
「よぉ、姫宮ぁ。昼振りか? あん時は随分とやってくれたなぁ」
「……」
言葉を失ったまま硬直する朱音。理解が回らなかったのだ。寄りにも寄って、とても身近すぎる奴に殺されかけたのだという戦慄に、思考が停まる。
「何止まってんだよ、姫宮。今さらワケがわかんねぇってカオしてんじゃねぇよクソがよぉお」
低い声。はっとして朱音は無理矢理雛菊の腕を引っ張って立ち上がらせ、距離を測る。
「なん……なんだよ、賀上……なんでテメェが……!?」
すると、賀上洋介は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに下卑た嘲笑を口元に浮かべて笑った。
「なんで? 何が『なんで』なんだよ。お前が一番関わっていて、お前が何よりも俺から大切なモノを奪っておいて、今になってワケワカリマセンって顔してんなよ! 人の想いを踏みにじっておいてよぉおおおおお!!」
突然に咆哮を唸らせる。驚いた雛菊が裾をきゅっと掴んできた。
「想い……? 何を言って――」
はっとした。
思い出す。昨日の理事長の言葉。
『人間には負の感情によって出来上がる、他人へは向けてはならない知性が存在します。強欲、怠惰、嫉妬、暴食、色欲、憤怒、そして傲慢。七つに分類された感情は人である以上必ず抱きます』
日常的であっても、神凪町内で生まれた負の感情が爆発すればそれは禍喰(シャッテン)の格好の餌となる。
『ですがそれはあくまで他人の日常を侵蝕しない程度によるものです。例えば大金をはたいても欲しかった物を横から取られたら、悔しいでしょう?』
正に今の賀上洋介の言っている『想い』というのが、踏みにじられたというのが、嫉妬を意味しているのだとしたら、
『他人へは向けてはならない、日常を侵蝕する意欲……要は殺してでも奪いたいですとか、常軌を逸した思考ですね。普段の日常では考えたこともない、「自分の人生を狂わせるほどの感情」を抱くことで、力場が反応し、それと同化しようとしてしまう。魂が共鳴してしまうのです』
なら、
原因は、引き金になったのは――、
「ちょっ……」朱音は思わず手を前に出して制止する。「冗談じゃねぇぜ!? なんで俺が悪いってんだよ! 蚊帳の外で勝手に進んだ話をいきなし聴かされて、それで殺されろなんざ納得できっかよ! 俺には関係ねぇじゃねぇか!」
朱音の当然の言葉に、しかし触発されたかのように賀上洋介は怒りを顕わにした。
「うっせぇよクソがあっ!! お前さえいなけりゃ、熾織はオレのことを見てくれる可能性だってあったんだ!! それを! テメェのせいで! テメェが居たせいで熾織はっ! テメェばかり! ちくしょう!!」
錯乱しきった声を張り上げ、勢いに感けた罵声を浴びせてくる。
もう、朱音に見覚えのある『賀上洋介』は何処にもない。
お茶らけていて、だけど情報通気取りで、やんちゃをしては屈託無く笑う。
絶対に、友達になれるなら、こういうバカっぽさで共感出来る奴だと。
朱音は、思っていたのに。
「……んなことで、踏み外したんかよ……」
煮えくり返る程の、後悔。
今になって気付く。賀上洋介はさっきから左腕でばかり攻撃してくる。右腕を包帯で巻いて、庇っているような気がした。
朱音の記憶の中で、つい最近右腕を怪我した男と来れば、ブリジットの一撃を受けた、目の前の妄執の悪鬼しか居ない。
なんでもっと早く気付けなかったのか。
こんなことになるなら他に方法なんて、もっと、もっと――、
「朱音ちゃん!!」
傍らから劈く雛菊の声。はっと我に返ったと同時、腰周りに体当たりをされ押し倒される。
刹那、空を裂く重い音が宙を掠めた。
倒れこんで、今度は雛菊が朱音の腕を掴んで立たせようとする。
「立って朱音ちゃん! 逃げなきゃ……!!」
こんな状況を、少なからずも朱音より見て来ているのだろう雛菊の、冷静な状況把握の結果が、耳に染みる。
それでも、思考がドロドロとして、何を考えるべきかが定まらない。
途端、雛菊の視界の端で爆風のような笑い声が炸裂する。
「ヒッハハハハハハハハハァ!! どこへ逃げるってぇ!? 朝生! 入れたからって調子こいてっと剥いて犯して殺すぞクソアマぁあ!!」
ヒュン! という音が鳴る。雛菊が朱音を押して欄干際に追いやり、視線を巡らせる。
横からくるフック。狙い澄ました一撃が頭部をスイカのように砕こうとする拳を、後ろにバックステップを踏んで回避する。
「ひゃっは!! スゲェな朝生! 今の『技』は姫宮だって目で追えなかった動きなのに! 避けやがった! スゲェよお前! さすが代行者だ!!」
だが、
「これはどうだよ!!」
ぐわっ! と右腕を天へ掲げる。動かせたのか、と朱音が理解するより早く、ハンマーのように橋へ拳が落とされる。
ズドン!!
「がっ……!?」
「ぅあぐ……!」
初めに来た感覚は、眩暈だった。
鉄柵など簡単にひしゃげさせてしまう渾身の殴打が橋全体を揺らす。これが石造り等の古い建造物であれば衝撃は殆ど吸収してしまうのだろうが、水伽橋は居住区と外側に住んでいる住民とを繋ぐ大事な通行手段だ。幾度と無く補強がなされ、しっかりとした土台はまるで衝撃を緩和することなく、地に足を着けて立っている朱音と雛菊を怯ませた。
その、一瞬の隙。
「さすがは『天使』の朝生。やっぱお前に喧嘩は向いてねぇわな」
ずど……! と鈍い音が朱音の耳に入った。
目を見開く。
眼前で、足元に気がいっていた雛菊の顔を殴りつける、賀上洋介の姿。
ぷつり、と。理性の切れる感触は脳裏に響いた。
「てっめぇええええええええええ!!」
がばっと起き上がり、拳を作って邪笑を零すその顔へ向ける。
しかし、まるでその表情を変えずに賀上洋介はひらりと避ける。
「無理だよ姫宮ぁ。今のオレは人間じゃねぇんだ。今日の昼みてぇにお前が上だと思ったら大違いなんだよ。いや、違うな。こりゃ上下の問題じゃねぇ」
振り向き様に腕を振り被った瞬間、ズドン!! と足が踏まれる。
大したことの無いはずの一撃。非日常を纏った賀上洋介のその一撃が、朱音の踏み出していた右足の骨に、亀裂を生みかねない程の衝撃を与える。
「ぎっ――!」
右足の激痛。軸足になるはずだった足を潰され、がくんと前に倒れそうになった朱音の首に、綺麗に手が掛かる。
そのまま、一気に吊り上げられてしまった。
「は、っが……!?」
「格が違う……お前なんてもう虫以下だ、そう思うだろ? 朝生」
朱音の首を締め上げながら、視線を落とす。
明滅する視界を必死にこちらに向けながら、雛菊は口元から血を流しながら苦悶の表情を向け倒れている。
「あ、かね……ちゃ……」
「あーあー、哀しいことだよなぁ姫宮。せっかく護ってくれるはずだったのに、朝生はホントに使えないんだなぁ」
ヒヒ、という笑い声が漏れる。その間も、自分の体重と賀上洋介の握力によって呼吸も儘ならない朱音は、睨みつける。
「が……! て、め……っ」
「お前さえいなければ良かったんだ……でも、もう戻れない。もう、もう……! 熾織が!! オレの熾織が……! お前なんかのせいでぇえええええ!!」
ミシ、と。
嫌な音が内側から溢れる。
「は、……あっ!? あ、が……かはっ……!」
じたばたと足掻く朱音。腕を殴り、腹を蹴り、精一杯の抵抗をする。
だが、何一つ効かず、賀上洋介は愉悦の表情を満面に浮かべる。
「ははははははっ! 最高だよ姫宮! このまま死ぬのを見届けてやる!! 何分保つかなぁあ!? 静かに死ぬのもアレだろ!? オレの苦労話でも聞きながら死ねよ姫宮!」
嘲笑と、憎悪に満ちた言葉が突き刺さる。
「熾織と初めて逢ったのは中等部ん時だなぁ! クラスの割り当て表を見てる横顔に一目惚れしたんだ! オレが! だけどクラス違くてさぁ! 諦めるしかないって思ったね! だけど、だけどな! 熾織ってばホント真面目でさ! 自分から進んで風紀委員に入って、朝の正門に立って服装チェックを教わりながら挨拶してたんだ! 平日毎朝だぜ! 学校行きゃ必ず逢えるんだ! 毎日毎日挨拶したよ! 仕事で手が回らなくて返事して貰えなかった時は辛い一日だって感じたね! 『うむ』って短くても答えてくれた時は嬉しくてしょうがなかった! 一番嬉しかったのは一回だけだけど、『おはよう』って微笑みながら返してくれた時だ! あれは最高だった! 一生で一番の幸せを感じた!」
吐露してゆくに近い愉悦と陶酔の言葉。時たま力が入るせいで、朱音は意識が飛びそうになるのを懸命に堪える。
「だけど! だけどよぉお! オレの熾織に近づきやがったクソが二人居た! そう、お前らだよ! 姫宮! 朝生! 朝の正門で挨拶しようとしたら、ずっと立ったままオレの熾織にくっ付いて喋くりやがってよぉ! オレの一日の始まり潰しやがってよぉ! それからだ! 何かにつけてお前らは熾織とべったり付き纏いやがって! オレと熾織との関わりを奪いやがって! 挙句告ってみりゃ断られた理由が、理由がぁああああ!!」
途端、明確に握力が増した。油断していた朱音の呼吸が殺される。
「は――、あっ……か、……っ」
朱音の抵抗から、徐々に力が失われてゆく。
それでも、賀上洋介の狂気には、眼前の朱音など視えてなどいない。
「なんでお前なんだよ! 男女とか言いながらちょっかいだして! それでいて別の女とイチャイチャしやがって、ムカつくんだよお前!! お前さえいなけりゃ! いなけりゃああ!!」
「……ざまぁ、み……ろ」
不意に、そんな声が割って入った。
あまりに脆弱で、息を吹きかければ蝋燭の火のようにあっさりと消えてしまう程のか細く潰れた声で、でもはっきりとした言葉としてリフレインする。
視線を、ゆっくりゆっくり、戻す。
あと少し握力を込めたら首が折れるんじゃないかという程の、青ざめた顔の朱音が、居る。
「……なに、言った? いま……」
理解が遅れたように抑揚無く訊く。すると、朱音は笑った=B
恐怖など無く、笑っていたのだ。
「や、っぱ……告って……たんだ、な……はっ、ぐ……、ざま……みろ。……て、め……みてぇな、……ひとり、よが……り、の……バカに、……熾織、が……懐く、わけ……ねぇだろが……ばーか、ばーか」
今すぐ殺されるというのに。
笑っている。
不敵に、まるで勝っているのは自分だと言いたげに。
「お、まえ。うるせぇ……うるせぇよっ!」
「ざけん、なよ……? て、め……みてぇ、に……失った、もの……同士でも……ねぇ……奴、に……あい、つの……苦しみ、が、……わかって……たま、るか……よっ……なに、ひとつ……わかって、ね……てめぇ、……は……一生……かけ、ても……おれ、殺して……も……熾織、は……手に、入ら、ねっ!」
「やめろ……! 黙れ! 黙れよオマエぇぇええ!!」
「あとな、……気安く、……オレの、って……言うな……――うぜぇから……」
ゆっくりと、
力無く、
しかし非日常を相手にしても最後まで笑っているこの顔が、恐くなった。
恐くて、反射でしかなかった。
脳が理解するよりも早く、脊髄が反応するよりも早く、理由なんていいから、
今すぐこの恐ろしい笑顔を潰してしまいたい衝動に駆られた。
「ぅあああああぁぁぁあああぁぁぁああああああ!!」
ゴウ! と空を薙いで襲い掛かる右拳。
雛菊の悲鳴に似た、自分を呼ぶ声も、酸素が薄くなった頭には霞がかかったように整理することも出来ない。
(本当に、運が悪い……)
迫ってくる拳を眼前に、走馬灯の最後の一言のような言葉を、気だるげに、
どちゅん……!!
そんな音が、夜の水伽橋に小さく響いた。
人の頭が砕ける音は、こんな音なのかと、朱音は思う。
痛みは無い。そりゃそうだ、痛みを感じる脳が爆発四散したんだろうから。
かはっ、という喉から空気が吐き出される短い悲鳴。
(……悲鳴?)
ふと思う。自分はいつまでこの感覚に浸っているのだろう、と。
疑問は疑念へと変わり、一気に違和感へと激変する。
ゆっくりと瞼を上げる。
目の前にはまだ、賀上洋介が居た。
口から血を流す、賀上洋介が。
「…………………………、――っ!?」
朱音が瞠目する。その直後に、一瞬だけ重力から解き放たれ、すぐに地面に倒れこんだ。
「――ぐっ、げほげほっ……、お、ごっ……ごほっ!」
突然酸素の供給を赦され、チカチカと火花の散る視界を、無理にでも上げる。
何が起きたのかを、見るために。
それは、ほんの一瞬前に朱音が考えていたことを、有りの儘に提示した世界。
運が悪かった。
ただ、それだけなのかも知れない。
だって、
「あ、……が、……だ、れ……!」
振り向こうとする賀上洋介。だが、物理的にそれは無理であった。
背後に立つ誰かの左腕が、いっそ見事すぎるほど賀上洋介の背中を貫き、胸を突き破っていたのだ。
鮮血に塗れた腕の先、手の平に、グロテスクな何かが乗っている。
ソフトボール大の大きさで、気味が悪いことに、どくり、どくり、と脈打っている。
それが何かを理解することは、賀上洋介には最早出来なかった。
誰か、と問うたことへ、返事が返ってきたからだ。
毎朝、狂気的に堕落してしまう程に渇望した、何よりも聴きたかった声が。
「ふむ、色欲(ルスト)か強欲(グリード)が燻っていた際に僕に振られた事で、朱音への嫉妬(エンヴィ)を禍喰(シャッテン)に喰われたな? 相手が心理的に有利であればあると思い込む度に攻撃力が上がる能力か……いかにも嫉ましさ所以の異能だな」
誰も、声を発することさえ出来なかった。
朱音も、雛菊も、果ては賀上洋介でさえ。
何故、こんなことになったのか。
いつしか朱音が口にした言葉だ。
そして、その返答さえ実に簡単。
運が、悪かっただけのこと――。
「あ、……え?」
呆けたまま、首だけでも後ろへ振り向こうとする賀上洋介。
視界の端に何とか映ったのは、黒い外套とフードが取れてしまったらしく、乱雑に縛った、多分ツインテールの片側が、見えた。
「賀上洋介。君が堕ちたのは僕の所為だ……僕がもっと全力で君のその憧憬を殺しておけば、こんなことにはならなかっただろうな」
凛とした声。
落ち着いていて、あまりに、冷淡。
「だが、朱音を殺すつもりなら……貴様の非日常は僕が悉く否定するんだよ=v
ド――、パン!!
いっそ、笑えるほど滑稽な音が鳴り響いた。
黒い何かが左手に収束し、グロテスクな肉塊を包み込み、中身諸共破裂した。
赤黒い液体が、目の前で膝を突いてこちらを向いていた朱音の顔に飛び散る。
あ、と。賀上洋介の喉から震えるような声が漏れる。手の平から消滅した、己の心臓を。そして、誰よりもこんな世界には居るはずがないと信じていた、賀上洋介にとっての神様の、命を破壊した真紅の左手を見下ろして。
「なん、で……―――――――」
最期の、縋り付くような言葉には、何も答えてくれなかった。
一気に腕が抜き取られ、人形のようにべしゃりと倒れる死体。
それを見下ろす姿を、朱音は呆然と見ていた。
呼びかけたのは、雛菊であった。非日常に多少は慣れている、雛菊であった。
「……熾織、ちゃん?」
透き通るような白い肌を血塗れにして、機械とも思えるほど無感情すぎる顔の、親友が居た。
この瞬間から、朱音のこの非日常に対する一つの疑問は肥大していた。
何故、
約六十億という人間達から、
五十九億九千九百九十九万九千九百九十八人もの他人ではなく、
この二人が選ばれたのだろう、と。
間幕 最強と異常の面会時間
病院の廊下だというのに、走る音が聴こえる。
誰か子供がはしゃいでいるのかと思った。案の定、看護婦が注意を促す。
「うるせぇ! 誰が悪いかを決めてるヒマはねぇんだよ年増ぁあ!!」
すると返事を、というかとんでもない罵声を放った声の主は、知っていた。
(会いたくないなぁ……)
少女は咄嗟に思ってしまう。
彼が来るに決まっていることなのに。
何よりも、彼があれほど怒っているのも、自分のせいなのに。
それを、事実とするために言葉にしてしまうのが、辛かった。
ガラガラ! とレール音がかなり乱暴な音を立てる。正直個室で良かった。
現れたのは、やっぱり予想通りの、いつもの青年。
息を荒げていたが、すぐに扉を閉め、つかつかと歩み寄ってくる。
あ、と少女は短く声を出したが、遮られた。
青年がその勢いのまま、腕を掴んで無理矢理正面を向かせたのだ。
体勢を崩して、ベッドから落ちそうになるのを堪える少女へ、青年は怒鳴る。
「なんでだよ……! なんで熾織と戦った!?」
「朱音ちゃん……っ」
「なんで俺の言葉を無視しやがった!? 熾織がっ……まだ敵ってわけじゃなかったのに……! テメェはなんで勝手に戦ったんだよ!」
「いたっ……! 朱音、ちゃん……痛いよっ」
思った以上に表情を歪める少女に気付き、ぱっと青年は手を離す。
包帯が巻かれた二の腕を擦りながら、やがて少女はやっと青年を見上げた。
「……なんで、……なんでだ!」
それでも青年の怒気は全く衰えてはいない。少女は恐怖に薄く怯えた。
「だ、だって……熾織ちゃんは……」
「熾織が、何だよ……闇姫(ディーヴァ)だから倒すってか!? テメェも理事長どもと同じ考えだったってゆうのか……!」
少女は押し黙る。シーツが被っている脚を三角座りにして、丸くなる。
彼女の、逃げの仕草だと、青年は判りきっていた。
だからこそ、苛立ちは更に膨れ上がる。
「……そうだよなぁ。結局俺はただの人間、一般人だ。幼馴染だろうがお前は代行者で、親友だろうがアイツが闇姫(ディーヴァ)だっつぅことは何一つ変わりねぇよなぁ。だけどよ、だからって殺し合うのかよっ! なんでそこまでっ――」
「私がっ……!」
突然、少女が声を荒げて遮った。
傷の痛みからか、その声はあまりにも掠れていて弱々しい。
だが、痛みとは違う苦しみに歪んだ顔を、青年へ向ける少女。
青年はふと、少女が何を言おうとしているのかを瞬時に悟った。
「私が代行者だから! 熾織ちゃんを闇姫にした私の責任だからっ=I だから熾織ちゃんは私の敵にならないと、この力を得た意味が無いって言ってた! だから熾織ちゃんを代行者の敵にした私も、熾織ちゃんの敵にならなきゃ――」
「やめろよ!!」
一際大きい声で、青年が再び遮る。
それでも、少女は止まらなかった。
大声で怒鳴れば首を竦めて目を瞑り黙り込む少女が、非日常として答える。
「朱音ちゃんも聞いたんでしょう!? クロトさんにっ! 私の……私が、朱音ちゃんや熾織ちゃんをこんな目に遭わせた原因なんだって! 私が逃げたら駄目なの……! 私が、私は……何も知らないで朱音ちゃん達を苦しめ続けてきた罪を償わなきゃいけないの! それは誰かに強制されたわけじゃないよ! 私がっ……私の意志でっ、やってるんだもん!」
「なんだよそれっ! だから熾織を殺すのかって訊いてんだよ!」
「――っ!」
少女は呼吸が死んだかと思った。
今まで、必死に言わないようにしようとしていた言葉を、青年に怒りのまま言い放たれる。
頬を、涙が伝う。
青年も言葉を切った。
「……、!」
「……悪い」
バツが悪そうに俯く青年に、泣きながら少女は首を横に振った。
「わたし、こそ……ごめんなさい……でも、……で、も……っ」
シーツを力一杯に握り締めて、少女は泣き腫らした顔を向ける。
「熾織ちゃん、言ってたよね……朱音ちゃんはどちらか選ばなくちゃいけないんだよ。ねぇ、朱音ちゃん……」
ギクリ、と。青年の心臓が凍りついた。
やめてくれ。
そう、願う。
そんなもの、決められるわけがないのに。
突き付けないで。
「決めてよ、朱音ちゃん……私と、熾織ちゃん。どちらを選ぶの?」
「……っ」
ぞっとする。
数時間前の光景が目に焼きつく。
今の少女の瞳が物語っている。
どちらを選んでも赦される、とでも言いたいかのように。
そんなもの、選べるわけがないのに。
どちらかを選べば、どちらかが死ぬのに。
身も心も、殺してしまうというのに。
恐い。怖い。
どうすればいいかを必死に考える。
だけど、答えは出ない。
当然だ。
目の前に居る少女が居なければ、こんなことにはならなかったかもしれない。
そんな事実が、長い沈黙を生む。
かっ、と息を詰まらせるように、青年は精一杯に言葉を生み出す。
「ど、どうにかなんだろ! もっと方法はあるはずだぜ!? もっと……! お前も熾織も傷つけずに済む方法が……!」
焦ったように言葉を発してゆく。
助けたかったのだ。救いたい。何よりも、二人とも救いたかった。
なのに、
「……!! 朱音ちゃん……!」
顔を上げた少女の顔は、明確な怒りに溢れていた。
青年が、怯えるほどに。
「なに……それ……っ! 両方!? そんなの、無いよ! どっちかが死んじゃうんだよ!? 私はっ、熾織ちゃんを……殺そうとしてるんだよ!? どうしてちゃんとどちらか選んでくれないの!? そんな、! 中途半端で……! そんな答えが聞きたいんじゃないのに! なんで!!」
まるで壊れた機械のように、身を摺り寄せてくる。当然、境界線のように隔していたベッドなどすぐにずり落ちてしまう。
それでも、支えようとすることが、青年には出来なかった。
恐くて。
リノリウムの床に落ちても、這いずるようにして青年の脚を掴む少女。
泣いていて、でも怒っていて。綯い交ぜになった感情をそのまま顔に出して、見上げる。
「なんでどちらも捨てようとするの!? 熾織ちゃんがどれだけの想いでっ、私を殺すって言ったのか分かるの!? 私だって! 私だって朱音ちゃんが! 好きだよ!? 信じてるんだよっ!? なのになんで、そんなズルい答えを選ぶの!!」
途端、廊下を走る音と共に扉が開かれる。
振り向くことさえ出来なかった。息を乱し入ってきた金髪碧眼の異国少女が怒声を上げながら無理矢理青年を引きずりだす。
それを疎ましく腕で払おうとしながら、床に倒れ付す少女に男性が近づいているその景色を見つめ、叫んだ。
「なんでだよ! 本気なんだ! 本望なんだよっ! なんでっ、こんな……!」
すると、肩に黒い手袋のされた手が掛かる。腰にしがみつく異国少女と違い、予想を遥かに上回る力で引きずられる。
部屋を出て、扉が閉まる最後の最後に、少女は、か細く聴こえ難い程の声で、
「単に……運が、悪かっただけなんだよ……朱音ちゃん」
混乱してしまっている青年の耳に、その言葉は残酷なまでにはっきり届いた。
Chapter.C 君ヲ想フ謳歌ノ連鎖
【結社(アカデミー)】本拠地。霄壤学園理事長邸宅の地下約五十メートルを掘り、そこに建造物として設置されている巨大な作戦基地。
ここら一帯の土地は地盤が固く、掘削と建設を同時に行わなければならない地下建造物は費用より時間に悩まされる。結果として現在建造されている地下四階までで既に一年半が経っているが、ある意味これほどの短期間でこれだけ立派な強度を誇る基地が出来上がるのは人間業ではないと言える。それは偏に、常人離れした能力を保有する者の¥風ヘ所以のものなのだ。
(まぁ、このイジメはどうかと思うわけなのでありますですが……)
神化計画(セラフ・プロジェクト)第二研究部署総合管理官及び【結社(アカデミー)】担当博士、という仰々しい肩書きを持つ少女、シャルロッテ=グレーシェルは内心思う。
ここのエレベーターのボタンは現在四階までだが、七割は進行が済んでいる五階のボタンも、一応赤いテープでバツ印に貼ってある。それは別にどうでもいいが、外見年齢的に中学生と名乗っても疑われる幼児体型のシャルロッテは地上階はおろか地下一階のボタンにさえ全く手が届かない。明らかに建設に携わった弐番ドッグの面子のシャルロッテへの微妙な嫌がらせだと考えられるが、考えてみれば車椅子に座っている子だっているのに何考えてんだあの野郎達は、と溜息を吐いてしまう。
『電話口で溜息とはどういった了見です? そんなもの私が吐きたいですが』
「おわぅ! 失礼したのでありますですよ……っ」
携帯電話に応答する若い女性の声に、シャルロッテは慌ててジャンプをして地下一階を押す。帰りどうしようとか、地上階のボタンを見上げつつ軽く後悔。
『では、我々は通常常務ということで、手を出すなと?』
「何もそこまで言うわけではないのでありますですが、どうもクロト理事長が問題を抱えたと呼び出されたので、【結社(アカデミー)】内での処理になるんじゃないかと思っているのでありますです」
『……、別に良いのですけれどね。私はあくまで代行者達の肉体のことだけを考えていれば良いわけですから』
「大事なのは魂……心なのでありますですよ、第一総合官」
『そんなものは開発でどうにもなる問題です。現場が担当の貴女には、所詮解らない話だと思いますけれどね』
シャルロッテは女性の冷酷な言葉に顔をしかめた。第一や第四の研究部署は、代行者は真説次世代兵器とイコールだと思っている者が多い。当然、代行者と直接の接触を要する第二研究部署は、彼女の優しさに同意したほんの極僅かの人員だけであり、よもや第二研究部署はお荷物的存在として白い目で見られる傾向がある。
だが、それでもシャルロッテには引くわけにはいかない矜持がある。
彼女達代行者は立派な人間。精神が不安定になれば暴走という形で悪影響を及ぼすというのなら、それは邪険にすべきではなく寄り添うことが必要となる。
人に無い力を得るということが、彼女達にとって人間を捨てることだとは限らない。モルモットのように扱われ、人権を縛られてあのように規定の制服や地域的な神術の使用限定などを作ったのは、他でもない、自分達ただの人間が恐れているからである。危険を冒してまで安寧の為に戦ってくれている者をだ。
(身勝手な話でありますです……)
代行者としての適正を持たないシャルロッテは歯痒い思いを抱く。
一人の少女を思い出す。その少女は生まれながらにして天使の魂を抱えるという、神化計画(セラフ・プロジェクト)の文献≠ノさえ存在しない方法で代行者となった、天才だ。しかも降ろしているのは、文献≠ナの最強を誇る大天使、メタトロンときた。
しかし、その強大な能力は必ずデメリットも存在する。彼女が、それを悔いていることを、シャルロッテは良く知っていた。
知っていても、知るだけしか出来ないと解ってもいながら。
必要事項の確認を済ました女性は、何ら世間話をすることもなくさっさと通話を切ってしまった。
少しぐらい代行者達の話題に興味を惹いて欲しいものだが、シャルロッテはサイズの合っていないぶかぶかの白衣のポケットに携帯電話をしまう。
自動ドアを潜り、オペレーションルームに入ったシャルロッテは、瞠目した。
場に居るのは三人。
クロト=フェルステンベルクと朝生雛菊の二人は知っている顔だが、残る一人の青年は知らない。そもそも、どうやらここの関係者ではないようである。【結社(アカデミー)】に関わる人間全員の顔と名前を記憶している彼女にとって、【結社(アカデミー)】内で顔を知らない人間と会うことはつまり、部外者と会うということになる。
シャルロッテに気付いたクロトは、表情を変えずに小さく会釈した。
「お疲れ様です。お互いに、ですがね……」
「話はある程度聞きましたでありますです。何でも闇姫(ディーヴァ)が再び現れたとかで、さっきから第三部署が情報処理でシッチャカメッチャカなのでありますです」
ウェーブを纏って背まで流れる白銀の髪を、あまり女の子らしくない仕草でガシガシと掻いて、報告書の一枚をクロトへ渡す。
それに目を通し始めるクロトから、シャルロッテは視線を変える。
部屋の壁際にある長椅子に座る二人。雛菊は怪我でもしたのか、右の頬に痛々しく湿布が貼ってある。しかし彼女はそれに脇目も振らず、隣りに座っている青年が脱いだ夥しい血の付いたコートを一生懸命濡れたタオルで拭いていた。彼の血かと一瞬ドキッとしたが、ただの返り血だったようだ。
青年は片脚を折り曲げてそれに腕を回して顔を沈めていて表情が読めないが、雛菊のほうは、車に酔ったかのように真っ青な貌をしている。
「あの……彼、誰でありますですか?」
おずおずと見上げると、クロトは報告書から視線一つ外すことなく冷静に答える。
「朝生君の幼馴染です。そして、闇姫(ディーヴァ)の親友だそうですよ」
「……、はい?」
後半の一言がとんでもない内容であることに理解が遅れるシャルロッテを尻目に、報告書を読み終えたクロトは視線をやっと向けた。
「姫宮君、たった今闇姫(ディーヴァ)の正体が判りました」
少し回りくどい言い方。シャルロッテが怪訝な顔をする最中で、その肩がピクンと揺れた。
「御門熾織、と言いましたね。セキリュティを引っ掻き回して得られた映像では、賀上洋介を殺害して逃走する貴方の親友の姿がしっかりと映っていますよ」
ゆっくりと、姫宮朱音は顔を上げる。
その表情は雛菊を上回る、土色気になってしまった相貌であった。
「……なんで、だよ……なんで、こんなことに……っ」
震える声で朱音は言う。クロトはしかし冷静に徹した。
「博士、例の闇姫(ディーヴァ)について立てた貴女の仮説を、彼にも教えてあげて下さい」
「え?」シャルロッテは驚く表情をした。「いいので、ありますですか……?」
「説明しないと彼に病院送りにされるまで殴られ兼ねませんよ、先程の様に」
シャルロッテは顔をしかめた。
彼女が居ない間、水伽橋で自分が闇姫(ディーヴァ)であることを朱音と雛菊に説いた後で、御門熾織は姿を消した。その際に錯乱した朱音が、止めに入ったブリジットの顔に振り回した腕を当ててしまい、悶着を起こしたのだ。
強引に精神安定剤(ジパゼパム)を打たれて、朱音は少し揺らせば吐くんじゃないかという瀬戸際の顔を上げた。
「なん、だよ……それ」
雛菊の横顔を覗くが、こちらを見たくないかのように視線を落としている。
「彼女の立てた仮説です」クロトは答える。「……闇姫(ディーヴァ)の発生方法、のね」
「!?」
朱音は瞠目した。
「【結社(アカデミー)】内では周知で、しかし暗黙の了解にすべきことだと私が判断したので貴方には知らないままでいて欲しかったことなのですがね……まさか素人で学園の生徒、それも三人も事件に関与していることが発覚した以上、話さないわけにはいかないでしょうから……」
「どういうことだ……! 熾織がっ……闇姫(ディーヴァ)になった、理由……!?」
「つまり、彼女も元々は人間だったということです。恐らくはつい最近まで」クロトがシャルロッテに一瞥をくれてから、続ける。「彼女は、邪神(サクリファー)によって異能の能力に覚醒めた可能性があるということです」
「――、」
ついには、言葉を失くす朱音。
シャルロッテが少し怖そうにこちらを見ながら、説明する。
「さ、邪神(サクリファー)が影響を及ぼすのは大抵その場に関係する総ての『因果』、つまり『起こるべきだった出来事』を捻じ曲げてしまう効果が基本的でありますです。解りやすく言えば、特に人間で言うところの……運命」
「運、命……?」
「過ごすはずだった日常ということでありますです。それも、運命の歪曲ではなく運命の破壊。一度起これば修復という方法では収拾がつかなくなるのでありますです」
「……意味が、」
「解らないなら解りやすい言い方で答えましょう」
シャルロッテを睨もうとした朱音に、クロトが冷徹にも遮る。
「禍喰(シャッテン)はあくまでエネルギー体だと話しましたね? つまり邪神(サクリファー)は禍喰(シャッテン)が集まって出来た『因果を破壊するに至る力場』ということです。伝説としか言いようの無い、例えば竜を呼び出すことも、世界をゼロ以下の質量に変えることも出来ます。およそ不可能とされている出来事や存在を、記憶や伝承等の記録として保管されているモノであればどんなことでも発露させてしまう力場、それが邪神(サクリファー)。従って、禍喰(シャッテン)が起きやすい地域内の人間が異能力者になることも、有り得ない話ではないということです」
「それ、って……」
「何のことは有りません。単に運が悪く御門熾織が邪神(サクリファー)によって闇姫(ディーヴァ)になっただけということです」
「そんっ……!」
朱音は身を起こそうとしたが、視界が一気に乱れた。昇ってくる吐き気を抑えるように、口に手を当てた。
「神凪町内に居る以上、人間である者は皆禍喰(シャッテン)の影響を受けます。貴方も例外ではなく、御門熾織も例外ではありません。貴方ではなく彼女のほうが運が悪く、そして何より……彼女には心の闇が在ったということです」
最後の一言に、朱音はグラグラと揺れる頭で意味を掻き出した。
そう。禍喰(シャッテン)の影響下に及ぶのはあくまで日常を脱した負の感情によるものだ。たかが数日後には忘れてしまう程度の簡単な感情の起伏で侵蝕されるなら、道すがらで肩がぶつかってイラッとしたことなど数え切れない朱音はとっくに賀上洋介のようになってしまっている。
「何が彼女をこちら側に呼び込んだかは判りませんが、学園の者が敵となった以上は、早々に事を終えなければ惨事になる可能性は上がるばかりです」
「なっ……!」朱音はクロトのあまりに迷いの無い言葉に顔を上げた。「敵にって……ちょっと待てよ……っ! 熾織は俺達を救ったんだぜ? そりゃ賀上を殺したのはやりすぎだと思うけどよっ……! まだ敵ってわけじゃ……!」
「同時に、連続殺人を起こした張本人で、しかも倭君は二度の接触の両方とも明確な攻撃を受けているのですよ?」
「っ……!」
見据えるというよりも、少し怒っているような視線を向けられ、朱音は黙る。
「少なくとも賀上洋介の殺害については貴方達を護るという名目がはっきりしていますが、他の事件の全ては明らかな無差別殺人です。現に彼女は目の前で賀上洋介の禍喰(シャッテン)を特殊な方法で奪い取ったと朝生君から聞きましたよ?」
雛菊はぴくりと肩を震わせ、叱られる子供のようにちらと朱音を見た。
朱音は苦笑しながら弱々しく頭を振る。
「なんでお前が恐がってんだよ……少なくともお前に非は無ぇだろ?」
「――、」
ふと視界の端で雛菊のコートを拭っていたタオルを握る手に、力が篭るのが見えた。
何だ? と顔を上げたが、俯いているせいで髪が邪魔して見えなかった。
視線を向け直す。二人もどこか言葉を濁すように口を噤んでいるように思えたが、クロトは事務的な声色で続けた。
「ですが貴方の意見が皆無というわけではありません。何も処刑や拷問をするというつもりもありませんし、捕まえて尋問をし、必要と有らば貴方と一緒に隠蔽処置を施すまでです」
「はっ……その手法が得意だっての、は……解ったよ」
怒鳴り散らしてやりたいが吐き気を抑えるので精一杯の朱音は、ゆっくりと立ち上がる。
「今日はここで療養して下さい。その状態では明日の登校が厳しいですよ?」
クロトが言う。こういう時に限って理事長の勤めは忘れないか、と朱音は睨んでから雛菊を見やった。
「悪い、コート返してくれ」
すっと手を伸ばす朱音に、雛菊は一瞬ビクリと首を竦めたが、やがてゆっくりとコートを渡した。
「?」
どうも雛菊の様子がおかしい。
そんな思考が生まれ、何を考えているのか、と自分を責めた。
自分がこうして薬など投与されるほど錯乱した理由は、彼女のこの消沈した姿も同じであるのだ。熾織が人を殺して回っていたなど、雛菊にとっては朱音以上に内心で辛い思いをしていることだろう。
何か言葉を掛けてやるべきかと逡巡したが、この薬がまた立ち上がった瞬間に強烈さを増し、雛菊に案内されるままにオペレーションルームを出た。
「……クロトさん」
二人きりになった中で先に言葉を発したのは、気の毒そうな表情で見上げたシャルロッテだった。
「もしかして……彼女の、代行者のこと≠ヘ言っていないのでありますですか?」
ほんの刹那だけ沈黙するクロトは、やがて口を開いた。
「言えるわけがないでしょう……もし彼がそれを知れば」
クロトの顔は、どこか、罪悪感に歪んでいる気がした。
「恐らく彼が朝生君を憎んでしまう可能性は、捨て切れないのですから……」
Medical Room(医療室)、と書かれたプレートのある部屋に訪れた。
最新の設備を彷彿とさせる医療機器が揃っているが、ベッド自体は一つしかなかった。恐らく本当に応急処置の為の部屋であって、ここでの処置が無理だという場合は医者に行け、ということなのだろう。
朱音は真っ白なキャンパスを汚すように、血の染みた服のまま倒れこむ形でシーツの上に身を投げ出した
着替えたほうがいいんじゃ、と珍しく気を利かせる雛菊に、朱音は首を横に振る。正直血の臭いがキツいが、これ以上動くと確実に吐いてしまうと思った。
「じゃあ、私ちょっとシャワー浴びてくるね」
雛菊は控えめにそう言って振り返る。白い制服が、今は朱音と同様に固まり始めている血で赤黒く汚れてしまっている。
額に腕を置き、朱音は部屋を出ようとする雛菊を呼び止めた。
「……ヒナ」
「え?」
「悪いな、俺がしっかりしなきゃなんねぇのに……気なんか動転させちまって」
「――、」
雛菊の呼吸が、途切れる。朱音はそれに気付けなかった。
「熾織と会って、……必ず、何とかなるようにすっから……熾織が、意味も無く、人殺しするわけ……ねぇもんな……」
扉の前で立ち尽くしているのだろう雛菊へ、朱音はそれだけ言って寝返りを打った。
数秒の沈黙。後に、扉がスライドする音が二度聴こえ、静寂に包まれた。
朱音はまどろみとは程遠い視界を瞑って、シーツを握り締めた。
浮かび上がるのは、後悔。
日常を逸脱した嫉妬を抱き、非日常に足を踏み入れた賀上洋介。
賀上洋介を、非日常の世界の者として殺してしまった御門熾織。
数十分前の景色がフラッシュバックする。
有り得ないという現実性よりも、思い出すのも嫌悪する光景だ。
熾織が、
親友が、
誰よりもそんな闇から遠いと信じていた親友が、
クラスメイトを、何の躊躇も無く殺したのだ。
血を浴びて呆然と見つめてくる朱音を、哀しげな眼で見下ろす姿。
つい最近、雛菊が同じ表情をしていたのを思い出す。
知られたくなかった、という後悔と畏怖の表情だ。
なんでなんだ、と朱音は唇を噛み締める。
何故、雛菊が代行者(ひにちじょう)であったと気付けなかった?
何故、熾織が闇姫(ひにちじょう)に成ったと気付けなかった?
誰よりも身近に居て、
どちらの異常にも気付けなかった。
いざこの眼で見れば、恐いと思ってしまうほど浮き彫りだった二人の異常を、
どうして、気付けなかった?
今の今の今まで、それこそ、取り返しがつかないと理解してしまうまで、
自分は、蚊帳の外のままだった?
「ちくしょう……」
ベッドの上で、力無く呟く。
せめて、今朝のままで彼の取り巻く非日常が雛菊だけであったなら、きっと苦しむことなどなかったに違いない。
何が、
クロトが言っていたように、何が熾織の運命を狂わせた?
彼女は、道を踏み外す程の、何を抱いたのだろうか?
何故、彼女だったのか。
護らなくては。
そう、願う。
雛菊も、熾織も、みんな、みんな……、
あの屋上で弁当を食べて笑い合う、三人の姿。
それが、何にも変えがたい、朱音の在るべき日常なのだから。
気絶にも近い勢いで意識を沈み込ませてゆく中で、ただただそれを願った。
「―――――――なさい……ちょっとぉ! 起きろってば!」
泥のような眠気から、意識を呼び戻すのは少女の声。
力無く瞼を開けると、金糸の髪の異国少女がこちらを睨みつけていた。
「……なんだこいつ……」
「それ、寝言だったらぶっとばすわよ?」
剣呑な物言いだ。そこでやっと本気で記憶を掘り起こして、思い出す。
ブリジット=ハミルトン、という名の、天使の代行者だったはずだ。
身を起こす。するとパリパリという乾いた音と共にブリジットが「げ!?」と嫌そうな声を上げた。
「ちょっとアンタっ、もしかして昨日のまま寝たわけ!? 信じらんない……」
血塗れの格好で眠りについてから大分時間が経っているらしく、服もシーツも赤黒く変色した染みが固まっている。億劫そうに意識を正常へと戻そうとしてゆく過程の朱音を見て、大仰に溜息を吐くブリジット。
「人がついさっきまで情報処理であくせく働いてたってのに、いい御身分よね」
厭味たっぷりと言葉に朱音は苛立ちを込めて視線を上げる。
だが、口を開いた途端にその顔が目に入って、閉じる。
ブリジットの右頬に湿布がされている。他でもない、朱音が錯乱して殴ってしまった場所だ。あの時は猛烈に逆上したこの少女に本気で氷漬けにされそうになった気がしたが、有りの儘に罵声を放ちながら殴られれば怒るなというほうが無理だ。
しかしブリジットは朱音の視線が頬にいっているのに気付き、ぷいっと右を向いた。
「そんなことより、さっさと起きなさいよね。もう七時よ」
「ん……」
反論する気になれず従うように身を起こす。幾分か薬の気持ち悪さは抜けたようだが、何気なしに体を起こした途端に視界が立ち眩みに似た明滅を起こす。
ゆっくりと頭を振る。その様子をじっと見ていたブリジットは、神妙な声色で問いかけた。
「闇姫(ディーヴァ)って……アンタの友達だったの?」
「あん?」
「御門熾織ってんでしょ? クロトさんから聞いたのよ」
少しずつ意識を蘇らせていた朱音は、その一言で一気に眠気が掻き消える。
「今も友達だよ、『だった』って過去形にすんな」
ブリジットはムッと表情を歪める。
「訊いただけでしょっ、いちいち偉そうなのよ女の顔殴っといて!」
「……、」
本人はあまり自覚していないようだが、事実であるために朱音は口を噤んだ。
「フンッ……別にいいけどね、アタシには関係無いし。でもその御門ってのが闇姫(ディーヴァ)であるなら関係あるか、何しろ敵なんだし」
「――っ!」朱音はブリジットを睨みつける。「まだ決まったわけじゃねぇぞ。勝手に決めてんじゃねぇよ」
「……」
「……、んだよ」
言うと、途端にブリジットは無表情のままこちらを見下ろしてくる。至近距離で見ると、こいつも意外と顔整ってんな、と朱音は思う。
しばし無言で見つめてきたブリジットは、しかし目を伏せて視線を外す。
「…………………………やっぱり、知らないのね……」
「は?」
小声で何か呟いたが、朱音は聴き損ねる。
「何でも無いわよ、それよりさっさと仕度して学校行けって言ってんでしょ。 ここ出て右の突き当たりにシャワールームあるから、血落として早く行けば?」
ベッドの脇に置かれているバッグを指差す。どうやらこれを持ってきてくれたようだ。
礼を言おうか迷っていると、ブリジットはさっさと部屋を出ようと歩き出してしまった。
朱音は仕方なくバッグを開くと、扉を開けたままでブリジットが踵を返した。
「ねえ、一個訊くけど……」
顔を上げる。ブリジットは、どこか怒りに滲んだような表情で言った。
「雛菊と幼馴染だってね、アンタ。てことは御門ってのと雛菊は仲いいの?」
朱音は顔をしかめた。
ブリジットと雛菊は同僚(なのかは知らないが)、少なくとも朱音と雛菊の関係性のほうが気になるはずだ。朱音はほんの数時間前まで、闇姫(ディーヴァ)なんじゃないかと疑われていたのだから。
逆にそれが発覚したからこそ熾織のことを知りたいというなら、知っている奴が目の前に居る以上こっちに訊いてくればいい。答えてやる気は全く無いが。
何故、雛菊と熾織の関係性を訊く?
言っていることが良く判らないので、とりあえず頷く。三人の関係だけは、どうしても嘘をついてしまいたくなかった。
「当たり前じゃねぇか、むしろ俺とより仲良しだよあの二人は……」
答えると、ブリジットは再びじっとこちらを見据えてくる。
いい加減何か言いたいなら言えよ、とイラついてきた朱音に、
「……一応、警告しとくわ」
ブリジットは真っ直ぐとこちらを見て、言った。
「アンタ、ちょっと雛菊に近づき過ぎよ。これ以上あの子困らせたくないなら、出来る限り関わらないことをオススメしとくから」
一瞬、何を言っているのかと思った。だがすぐさま朱音は理解する。
ハッ、と。邪悪に笑んでみせた。
「人間なんかにウロチョロされたら堪らないってか? ざけてんじゃねぇぞ、いくら熾織を敵だって言ってもな、ヒナはそうは思ってねぇ」
「……」
「単に正義ぶってるだけだろ? 他所でやれよクソ野郎、何様のつもりだ? テメェ等に熾織を傷つけさせはしねぇ。絶対に、俺が――」
その時、唐突にブリジットが溜息を吐いた。
何を言うでもなく、落胆したように。
「……?」
何だ、と朱音は勘繰る。言い負かされるつもりはないと気を張っていた彼に、ブリジットはただ一言だけ言って部屋を出た。
「そうね、所詮アンタは人間。あの二人のこと……何一つ解ってないんだもの」
え? と眉をひそめた。だが、自動ドアは通る者が居なくなれば、閉まる。
取り残された朱音は、頭の中で今の言葉を焼きつけ、思考していた。
「俺が……何一つ……?」
不意に、胸の奥で強烈な怒りが湧いた。
昨日今日会った分際で、
「――っ!!」
朱音は視界の端でチラついていた銀のトレイのような物を殴り飛ばした。
カランカラン、と甲高い音を発して床を転がるそれに見向きもせず、朱音は唇を噛み締める。
そんな訳が、無いんだ。
信じているに決まっているのだから。
雛菊と熾織は、無二の親友なんだと。
血を洗い流し、制服を着た朱音は急いで学園へ赴いた。
正門の前に立ち朱音を待っていた雛菊は、にこりと笑う。
最早隠しきれてなどいないほど、ぎこちない笑みだった。
正門を潜る時に、自然と視線を巡らせている自分に気付く。
望まずともそこに居た姿は無かった。
欠席。それは、彼女の日常的な異質であった。
「姉貴、ちょっと出掛けてくる……!」
土曜日。洗濯物を干していた姉、穹沙に朱音は言う。急ぐようにして玄関へ行き靴を履いていると、背中から声がする。
「朱音? どこへ行くの?」
「ん……熾織ん家に忘れ物、今から行って来る」
「あらあら。そんなに急ぐだなんて、一体何を忘れたのかしらね」
頬を染めて手を当てる姉。本当に天然な人物だ。
だが、朱音はそんなことにツッコミを入れることが出来なかった。それどころか、自分は半分嘘を吐いているほどだ。
「悪い、他にも用事込みだから、昼はいいや。夜までには帰ってくっから」
「それはいいけれど……最近夜道が恐いんだから、早く帰って来なさいね」
「ああ……!」
あしらうように頷き、扉を開ける。閉まる前には、既に走りだしていた。
ゆっくりと閉まってゆく扉を穹沙はきちんと閉め、振り向き様に微笑む。
「あそこまで焦るなんて……本当に何を忘れたのかしら?」
宛が有るわけではなかった。
ただがむしゃらに朱音は走る。
唯一の場所へ。
ここに居なければ、もう行方など判らない。
それでも、走った。
迷いは既に、焦りへと移ろいを表していたから。
水伽橋に辿り着いた朱音は人だかりに差し掛かって足を止めた。
こそこそと耳打ちをし合う人間達を睨みつけ、邪魔だと苛立つ。
「ちょっと、退いてくれ」
手と肩で人の波を強引に掻き分け、朱音は『KEEP OUT』と書かれた黄色いテープを疎ましく跨ぐ。
「なっ……ちょっと君! 何やってるんだ!!」
慌ててやって来た男性は警備服ではなく、プロテクターとヘルメットを着用している。機動隊じみた風体の男に一瞬ぎょっとしたが、朱音はすぐに眼を細め顎でしゃくり上げた。
「俺、向こうに用あるんすけど? 通させて下さいよ」
きっぱりと言う。だが、先進国気取りの浮いた格好の男は面食らいながらも却下してきた。まあそれもそうだ、あっさり通してくれるなら橋の袂なんかでこんな人だかりが起こるわけがない。
ふとその時、
「いいですよ、彼を通して」
一方的な感情の無い吐露の連発で、口論にもなっていない二人の間に割って入る声。
振り向くと、倭昴流が立っていた。白い制服で、腕に何か腕章を付けている。
やっぱり揉み消しが掛かっていたかと朱音は思う。いきなり身内に言われた男は少し狼狽しながら問いかけてくる。
「い、いいんですか……? 私服で、腕章も……」
「今この場の管理は総て俺が任されていますし、彼は俺達や計画のことも一応知っている人間ですので構いません。それに、目的は通ることなんだろう?」
わざわざ訊いてくる。どうせすぐにまた通ることになる、という結果を既に知っているような口振りだ。それに気付いた朱音は目を細める。
「ただし、出来れば左側を歩いてくれ。君も嫌と言うほど経験したと思うけど、人一人分の血がぶち撒けられてるんでね」
「――っ!」
朱音は思わず、あの光景を思い出してしまった。
血一色の世界。いや、それだけなら大したことではなかった。首を絞められ骨をへし折られる寸前だった視界はかなりぼやけていたから。
だが、赤い色を見るとどうしても思い出してしまう。
血に塗れ、その手で死を作った親友の、人形のように生気の篭らない顔を。
咄嗟に口に手を当て、さっさとテープを跨ぐ。
昴流は歩き出した朱音の右脇に立ち、一緒に歩いてくる。そこまで信用されてないかと哀しくなったが、今の喉は吐き気を押さえ込むので精一杯だ。
恐らく、現場を見せないようにする配慮だったのかも知れない。他にも捜査の類を作業としている連中が居るが、昴流の一挙ですぐに視線を戻す。
橋の向こう側に着くまで何故か昴流は尾いてくる。嫌気が差した朱音は睨み、やっと口を開いた。
「おい……何で尾いてくんだよ……」
「何、ちょっと話があったんで人の目が気になって、な……」
視線をちらと向ける昴流。確かに、と朱音は思った。居住区側の袂は何人も野次馬が居たのに対し、住人自体が圧倒的に少ないこちら側の袂は誰一人として居なかった。
「んだよ……」
こっちは早く駆け出したい気分だ。もうすぐそこに、彼女が居るのだ。
「ちょっと、話し難い内容ではあるんだけどね。彼女……御門熾織さんの事だ。率直に言おう、姫宮。御門熾織は諦めろ」
「……、なん……だって?」
湧いて出たのは、怒りだった。相手は違えど、似たような内容の警告を既に今朝受けている。意表を衝かれる事は無かった。
「ったくよぉ……どいつもこいつもホント嫌な性格してやがるよ……今度あの金髪にもそう言っとけ」
「何だ、ブリジットに既に言われていたか」
「対象が違う警告だったけどな。雛菊と関わるなの次は、熾織と関わるなかよ」
閉口する昴流。だが彼のその目には言うべき言葉をあえて言わないという、イラつきしか与えない配慮が窺える。
「何が言いてぇんだよ! 俺が人間だからか? 素人は首突っ込むなってか? 邪魔だってんなら素直にそう言やいいじゃねぇか! ムカつく顔しやがって」
下から睨みあげると、少し上から見下ろす昴流の無愛想じみた表情に、困惑気味の苦笑が浮かぶ。頬を掻きながら視線を泳がせた。
「……そんなつもりはなかったんだけど、な」
「ならどんなつもりだよ? はっきり言えっつってんだろ!」
「だからお前が彼女と会ってしまったら、彼女は雛菊を――」
そこで、昴流ははっとした風に口を噤んだ。
朱音が、それを見逃すはずがない。少なくともこの青年が冷静に物事を図れるタイプの人間だと朱音は見抜いている。
彼のようなタイプが言い淀むのは、相当言いたくないことだったに違いない。
しかも引っ掛かったのは『雛菊と熾織』という二人をワンセットにした単語。
見逃せる道理は、どこにも無い。
「熾織がヒナを、なんだよ?」
「……」
わざとらしい視線の逸らし方をして、断固として先を言わなくなる昴流。
喋るまで睨んでいようと思った時、ふと違和感を覚えた。
いや、違和感というよりも、既視感≠フような……。
(……どこで?)
胸元に痞えたような感覚が何かを探っていると、時間が勿体無いことを思い出した朱音は舌打ちをしながら振り返る。
「……行っても無駄だよ」
背中から昴流の冷静な声が降ってくる。
「別に熾織が居ると思ってねぇよ。親父さんがこの世界を知ってるかどうか、確かめなくちゃいけないだけだ」
いくら不可解と云えど、紐解けば自ずとすべきことは浮かんでくる。
邪神(サクリファー)によって異能力を携えたのなら、彼女が禍喰(シャッテン)の影響を受けて人格や記憶に何かの異変を生じさせた起源があるはずだ。
とても近すぎるほどの間柄である朱音や雛菊ですら気付かなかった。しかし、私生活を共有している父親なら、薄くでもそれに気付いているはずだ。
何でもいい、何が原因になったかを知り、朱音はそれ≠殺せばいい。
救える手段としては漠然としているが、無謀ではないはずだ。
だが、振り向きもせずに乱雑に答える朱音の背中に、今度は溜息が聴こえた。
今度はなんだと視線を向ける。
目を閉じ、少しだけ息を吸い、吐く。
拍子を置いて、それから顔を上げた昴流は言った。
「だから、行っても意味が無いって言ったんだ。何故なら――
力の限りに扉を開けようとした。
当然のように鍵の閉まっている引き戸。勢いが余ってぶつかってしまう。
だが朱音は走りすぎて震える右手でずっと握り締めていた、昴流から借りたこの家の合鍵を差し込む。
かちゃん、と鍵が開くと共に朱音は扉を開き、入った。
信じたくなど、なかった。
――『何故なら、あの家はもう誰の家でも無いに等しいからだ』
居間へ通ずる襖を開ける。
畳の上に置かれた腰の低いテーブルと、少し旧式のテレビ。
――『最近、この辺りで通り魔が有るって注意されてただろう?』
廊下を早足で歩き、親父さんの寝室となっている部屋に入る。
武術は勿論のこと、経済や金融、その他にも健康についてや、趣味であろう釣りや登山の本が沢山本棚に納められている。
静謐で……そして、埃っぽい空気。
――『初めの内はお前を襲った者、つまり賀上洋介だと思っていた。違うとすれば御門熾織。どちらにしても事実を知らない住人には通り魔という噂として伝播して、賀上洋介も彼女もその噂を隠れ蓑にしていたんだと踏んでいたけど』
その隣りから続々と連なる客室としてしか使い道の無い部屋を、一つ一つ空けて中を覗いてゆく。
――『違ったんだ。昨日の……いや正確には今日の明け方五時頃に、変装した女性警官に気付かず通り魔をしていた犯人が、現行犯で捕まった。気になったクロト理事長が、彼の事情聴取の内容を得てきたそうだが……その中に』
信じたくない、ないのに。
土曜で仕事も無く、夕方にしか道場を開かないはず。
だからこそ、家に居るはずの人間が居ないのは、
一つの答えを、生み出す。
――『三ヶ月前にサラリーマンの中年男性を後ろから心臓を一刺しという惨いケースが有ったらしいんだ』
三ヶ月前。通り魔事件が起き始めた頃。
三人の間で、受験という疎遠関係が続いた頃。
二人と熾織とを繋ぐ絆が、最も薄かった頃。
――『殺害された男性の名前が……御門一弥(かずや)さん――』
彼女の狂いだした時期、三ヶ月前。
三人で映画を見に行って以来、合格通知が来る三月頃まで会わなかった。
気付けるはずの朱音は自分と幼馴染の受験で必死で、
気付けるはずの雛菊は幼馴染に勉強を見て貰うので必死で、
気付けるはずの親は、気付くべき予兆が起こる以前に――、
――『彼女が闇姫(ディーヴァ)になった原因はきっと……お父さんの死への、憤怒(ラース)だ』
何が遅いかなど、どうでもいいなどと朱音は現をぬかした。
だが違った。
朱音自身が、踏み外してはならないモノを――、
そして、朱音は最後に彼女の部屋の扉を開く。
出自が、揃った。
彼女の、闇へ堕ちた起源。
逃れることの出来ない絶望。
それが、血が滲み乱暴に荒された悲痛を満ちた部屋として、体現されていた。
『はわぁ〜……面白かったね! 朱音ちゃん、熾織ちゃん』
――それは、半年も無い頃の過去の記憶。
――三人が、まだ三人≠ナあった頃の。
観たのは日本で製作された日本の近未来を描いたアクション。
作品名は確か、『Scramble for.』だったはず。
片方は最後まで単語の意味が判らず仕舞いだったが、『奪い合い』を意味する。
内容は正直うろ覚えだが、主人公の怨敵が主人公の実妹の脳に自滅チップを埋め込んで、二人を戦わせるという悲哀を帯びたドラマティック映画だ。
少し眠りに落ちかけていた朱音は最後のシーンをあまり覚えていない。
唯一覚えているシーンといえば、最終的に勝負に負けた妹が、自滅する前に主人公に殺して欲しいと希い、主人公は銃口を向けたまま引き金に指を掛けて、それでも選択に迷う、という場面であった。
その後、どうしたのだったか。
思い出そうと試みる。あの後、確か主人公は……主人公は――
『感動したよぉ〜、最後に悪の首領を二人の力で倒すのがカッコよかったぁ〜』
余韻に浸りながらも、勢いを殺すことなく感想を切り出す栗毛の髪の少女。
こんな時だって、彼女はよく笑っていた。空笑いや苦笑もあったけれど、彼女の笑顔はいつだって純粋だった。
――それだけは、鮮明すぎるほどはっきりと記憶していた。
――ただ、悪の首領という表現はちょっとどうかと思った。
そこでふと彼女の言葉を反芻し、やっぱり妹は助かったのかと朱音は気付く。
映画なんてこういうものだ。空想である限り、体のいい奇跡なんかが起こる。
現実はこんなものじゃないのだ。失敗したらそのままでリセットも出来ない。横からひょいと奇跡がやって来る訳じゃない。絶望とは一つの単語でしかなく、結局はそれを塗り替える為には実力でどうにかするしかない。奇跡などという運任せの筋書きなど、起こりはしないのだ。
そんなことを考えていた後ろで、もう一人の少女が口を開いた。
黒髪を左右で縛った少女だ。寡黙というわけではないがずっと黙り込んでいたのだが、ふとこう言った。
『僕は……先刻の映画、あまり好きではないな』
そういえば、と思い出す。
この頃にはもう完全に武士みたいな喋り方が定着してしまった時だった。
最初の内は突然固い言葉になった彼女に、周りの生徒連中が目を丸くしていたのを横で笑みを噛み締めていた朱音が水面下で足を踏みつけられた。酷だ。
『えぇ〜、なんでなんで? 二人ともカッコよかったのにぃ〜』
『格好良くたって、お互いに殺し合いをするなんて嫌だ……しかも、兄妹で』
その言葉に、栗毛の少女は意図を察してか(かなり遅いほうだが)しゅんとうな垂れる。
『そう、だよね……やっぱりあのシーンだけは私も……見れなかった』
その言葉に、黒髪の少女は俯き加減に頷く。
どのシーンだ? と朱音は思った。基本的に栗毛の少女はスプラッター系統、黒髪の少女はエロ系統のシーンが来ると決まって目を瞑り耳を塞いで横を向くという完全防御体勢に入るので、二人が共通して直視出来ない場面というのはあまり想像が付かなかった。
というか、中学最後の見納めで観に行った映画でテンションを落とされてもこっちが困るんだけど、何しに来たんだろうと朱音は別の意味で俯いた。
『……でも、』
――その時の言葉は、特に記憶の奥に焼き付いていた。
――言葉の矛先が何であるかを忘れてしまったことを、悔いる程に。
『でも、兄が銃を向けた時に妹が謡った曲は、好きだった』
黒髪の少女がぽつりと言ったことだった。
外に出ようとしていた栗毛の少女は聴こえなかったと思う。
だから、その言葉は朱音にしか聴こえなかったと思う。
足を止め、振り返った。
意外だったからだ。
普段から黒髪の少女は映画やショッピングといった女の子らしい休日の過ごし方をしない。よしんば映画を観ても、コメントの類を言うとは思っていなかったぐらいだったのに。
そんな彼女の小さな声に、朱音は曲とは何か訊ねた。
『どんな、って……やっぱりあの時うつらうつらしていたのは本当だったのか』
肩を落とし溜息を吐く黒髪の少女。確かにそんなシーンが有ったのは朧気に記憶しているのだが、いかんせん意識が曖昧だった。
その旨を言いながらもう一度訊き返すと、黒髪の少女はまた落胆しながら、しかし教えてはくれなかった。
『どの道英語だったからな、ヒナに訊いても無意味だぞ。地力で思い出せ』
はっきりとそう言って、歩いて追い越す黒髪の少女。
つい視線で追ってしまった。
――その光景も、強く記憶に残っている。
――悪戯と、自嘲。どちらかまでは判らない、微笑であった。
――多分、それがきっと、
――彼女の人間としての、最後の笑みだったのだろうか。
「―――――――、……」
眠気は、最悪だった。
ベッドの上に全身を投げ打って眠る朱音の服装は、昨日のまま。
どれだけ町を駆けずり回っても、逢えなかった。
帰ってきた時刻は、深夜の一時過ぎ。
リビングのテーブルの上には夕食をラッピングしたものと、書置き。
久しぶりに、姉の背筋の凍る怒りによって綴られた文面を見た。
裏返して、そこに『ごめん』とだけ書いて、そのまま寝てしまった。
空腹で起きたのか。
夢で起きたのか。
どちらにしても、
「……ちくしょう」
弱々しい声は、自室の中でゆっくりと飽和する。
日曜日。
闇の出生を知った朱音は、再び家を出た。
焦燥感は無かった。
絶望で簡単に塗り潰されていた。
家を出て、彼女が行きそうな場所を探しにまずは商店街へ走ろうとした。
すると視界に入ったのは、幼馴染だった。
濃紺のブレザーとは真逆に近い、【結社(アカデミー)】専用の白い制服を着ている雛菊が、こちらに気付いて「あ……」と小さく呟いた。
自然と朱音の視線は彼女の二の腕に向く。案の定、昨日昴流が着けていたのと同じ腕章が有った。
お前まで俺を蚊帳の外にするのかよ、という思考が生まれたが、何も言わずに立っていた朱音に、どこかぎこちないながらも微笑む雛菊。
苛立ちが、生まれた。
こいつの悪い癖だ。雛菊は存外、色々と感情が豊かだ。言い換えれば喜怒哀楽の起伏においては、冷静さが働く朱音や熾織なんかよりよっぽど激しい。
そういう時に、決まって雛菊は『まず笑う』という行動を起こす。
それだけ熾織との約束が意識の根深い部分に存在するという事なのだろうが、それが雛菊に悪癖を生じさせてしまう。無理に取り繕おうとするあまり、彼女は判り易い程の笑みを浮かべてしまうのだ。
朱音にとって、易しく笑う彼女は嫌いである。
「あ、朱音ちゃん……ど、どこか行くの?」
そんな格好で良く言うよ、とも言いそびれた。朱音はそのまま無視して歩き出す。
だが、無言に徹する朱音に気付いた雛菊は、朱音の進路を塞いだ。
「……朱音ちゃん、どこに行くの=H」
「っ……」
まさかここまで反抗的に出られると思ってなかった朱音は思わず感心しそうになった。だがその意味合いが何を示しているのか既に知っている問い掛けは質問とは言わない、尋問だ。
そんなものを、雛菊の口から聞きたくない。
苛立ちが、哀しい程の苛立ちが静かに湧いてくる。
「別に、どこだっていいだろ……お前が決めんじゃねぇよ」
「……良くないよ」
「何でだよ……!」
「誰に会いに行くのか言ってくれないと、私でも通せないよっ!」
目を瞑り強く言い放つ雛菊。
ぐっ、と朱音は唾を飲み込み、ゆっくりと怒声にならないように返した。
「熾織だよ……会って、話をすんだよ」
それだけ言って朱音は雛菊の脇を通り過ぎ、足早に進んで行く。
「――っ」
どす、という音と共に、背中に重みが圧し掛かってきた。
振り返る必要は無い。いきなり雛菊が抱きついてきたのだ。
行って欲しくないとでも言いたいのか。これが知らない奴なら女であろうが遠慮無く振り払っているところだが、朱音は腕を掴んで解こうとした。
だが、すぐに雛菊は腕を放し、駆けて離れる。
「……?」
なんだ、と思ったが、こちらを向いた雛菊が冷静な声で言った。
そう、冷静な、声で。
「熾織ちゃんをさがしてくれてありがとう。でも、お願いだから熾織ちゃんに会おうとしないで……」
「な――」
「もしこれでも、私のお願いでも、無視するんだったら……」
澄んだ表情。
いつだったか、商店街で見たあの機械のような相貌だ。
ぞっとした朱音が、それでも強気で訊く。
「無視した、ら……なんだよ?」
雛菊は抑揚の無い一言で、返した。
「私が……ううん……私の力が、朱音ちゃんを熾織ちゃんには会わせないから=v
言っていることが、よく解らなかった。
その意味を消化しきれずにいる朱音を置いて、雛菊は逆方面へと走りだす。
「ちょっ……!」
制止の声は届く前に、栗毛の長く艶めく髪が道の角を曲がって消えた。
朱音は腕を伸ばしたままの格好で、一人硬直していた。
何を、言っているのだろう。
ダメだ。解らない。
一つ一つのパーツがあまりにも突飛している内容で、巧く噛み合わない。
初めから絵柄の違う二種類のパズルで、一つの絵を作ろうとしている感覚。
朱音は伸ばした手が視界にあるのに気付く。
「……っ、!」
焦燥感が、一気に高まる。
どうすればいいか、思考が定まらない。
ただ思いつく最善。それは、一人の少女の顔を思い出させる。
「熾織……っ」
朱音は踵を返し、走りだした。
「はぁ……はぁ……は、っ……はぁ……はあっ……はあ……はあ……!」
もうかれこれ、どれぐらい走っているのだろう。
空の色はもう変わり始めている。姉に今日は夜になる前には帰ってこないと赦さないと言われているので、刻限はすぐ間近だ。
なのに、
「……っは、……はぁ……はぁ……、くっそ……はあ……はあ……!」
町を、走った。
商店街。学園。住宅方面。公園。路地裏。入りそうな店も全て。
なのに、
逢えない。
途中で、見覚えのある金糸の髪や、黒い短髪が見えた気がした。
それすらも無視して、我武者羅に走り続けた。
なのに、
「ちくしょ……はあ……はあ……はっ……ち、くしょうっ……、――がっ!?」
途端、公園の中で足を芝生に取られて、前に倒れこんだ。
第二近隣公園。この辺りでも通り魔があったのでもう人の気配は無い。
短い夕陽に伸びる一つの影が、右腕で地面を殴る姿を映す。
「ちくしょう! ちくしょう!! なんでだ! なんで逢えないんだよ!!」
感情任せに地面を殴り、芝生を掴んで千切り、地面に叩きつける。
声は息切れで掠れ、震えていた。
蹲り、ひたすら歯を食いしばった。
どうしてなんだろう。
どうして、この想いは届かないのだろう。
どうして、この願いは叶わないのだろう。
メルヘンにも似た悲劇。
勿論それでも現実で、朱音は手に血が滲むほど力を込めて握り締める。
多くなんて要らない。ただ一つの希望だけ許されてくれればいいのに。
それでも、この声は決して届かない。
それでも、この涙は決して響かない。
冷酷に、悲劇は続く。最後の最後の最後に待っている、絶望へ続く、劇は。
「ちく、しょう……!」
涙が手へと落ちる。
空は、停まることなど全くせず、群青色に染まり始めている。
第四章 終
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2007/01/10(Wed)06:53:18 公開 / 祠堂 崇
■この作品の著作権は祠堂 崇さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
第四章、終了です。
とりあえずまた文字量重くなってきたので、新しく投稿します。
佳境に入ってきて、物語のペースは加速してるのにタイピングのペースは比例しない不思議。途切れ途切れですみません(泣)。