- 『生卵、いるか?』 作者:Red Bull / リアル・現代 お笑い
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カレーが食べたい。
同居している彼女、麻美がそう言った。そして俺は今、夕飯の買い物に出掛けている。
俺は麻美に心底うんざりしていた。
大学入学時のあの繊細で可憐で可愛らしくて臆病者でカレーならぬ華麗だった彼女は何処に行ってしまったのだ?
卒業間近の今現在、デートを殆ど断っておきながら俺の部屋に住み着き、化粧もろくにせず、毎日俺のベッドの上でみかんを食べ、いきなり家を飛び出し、突然さかりのついた猫の様に声を荒げる変態女になってしまった。最近は風呂さえ三日に一度だ。
思い出せ、あれは夏休み前の昼下がり、俺は大学構内のテラスで彼女に告白をしたんだ。
あの頃は良かった。夏休みに旅行も行ったし秋には紅葉狩り、冬はクリスマスにホテルを予約し、年越しは二人で過ごして春は車で花見ドライブに出掛けた。それを四年間繰り返した。友人達からは『おしどりカップル』と呼ばれ両方の両親からも良い関係と見られていた。大学を卒業したら結婚まで考えていたのだ。
それが突然この有様だ。愛想を付かされた感じでは無いのだが、昨日の夜なんて久々にあいつを抱いたらあまり動いてないせいなのかお腹の辺りが妙にぽっこり…。
…とりあえず俺は麻美が昔の彼女に戻ってもらえるよう努力したし友人達にも協力を惜しまなかった。なのに何故奴等は皆麻美は特に変わっていないと言っているんだ? そして茜、その憐憫の眼差しは何だ? 確かに俺は去年お前の告白を断ったがそれが原因なのか? そして田中、その妙な興奮の眼差しは何だ? お前、昔麻美に惚れてたらしいな? 早く別れて欲しいのか?
俺は今日麻美にカレーを作ってやる気は毛頭無い。今日の献立はあいつの苦手なにんにく臭い餃子にあいつの嫌いな玄米にあいつの大嫌いな緑黄色野菜をたっぷりと使った温野菜サラダにあいつの食わず嫌いな大根の葉を使った味噌汁にそして極め付けに幼稚園以来口にしていないという納豆だ。…いや、納豆は俺も苦手だった。
とにかく俺は今日上記の料理を完璧に作り上げ、食べ終わった後でにんにく臭い息を吐きながら彼女に別れを切り出すつもりだ。就職は内定しているが卒業して就職して残業してクタクタになって帰宅しても麻美が部屋でゴロゴロしている環境なんて何よりも耐え難い。…未練は無い。今の麻美に未練なんて無い。
昔の麻美なら俺がちょっとした用事で部屋を出る時も必ずこう言ってくれた。
『…早く帰ってきてよ、夜は短いんだから…』
それが三十分前はこうだ、
『生卵も買ってきてよ』
だと。生卵だと、しかも生食用の茶色い卵だと。呆れてため息も出なかった。
まあいい、俺はカレーを作る気は無いのだから関係ない。今日であいつの食事奴隷からも解放だ。
▼ケース1:お婆さん
俺のアパートから商店街には200メートルほどの坂道がある。それほど急では無いがよく老人や自転車に乗った子供が転ぶ事故が多発している様だ。電柱には“スピード出し過ぎ、ブレーキ引かな過ぎ”というよく意味が伝わってこない看板が立てかけられている。それほど語尾に“過ぎ”を使いたかったのだろうか。それなら老人の為にも“前を見なさ過ぎ”等を付け加えたほうがいいのではないだろうか。
俺がそんな事を考えていると前から商店街の買い物袋を持ったお婆さんが歩いてきた。八百屋の紙袋には結構な量が入っているらしくお婆さんは肩で息をしながら休み休み歩いているようだ。頂上付近で紙袋を足元に置いて額の汗を拭っている。お婆さんが再度紙袋を両手で抱えて持ち上げようとすると紙袋は突然ぐにゃりとまがり、中から数個のジャガイモが坂道を転がり出した。慌てふためくお婆さん。俺はすかさず転がってきたジャガイモを素早くキャッチした。これでも高校の時は野球部で甲子園を目指した事もあるのだ。…県大会二回戦敗退だったが。
俺は一つ取り逃がしたジャガイモをため息をついてから坂道を下って取りに行き、駆け足で頂上に上がった。ジャガイモは全部で5個。新ジャガらしく結構な重みを感じた。
「有難う、お兄さん、若い頃の巨人の桑田みたいに良い動きをするわねぇ」
元野球部だとは言わずに俺は笑顔で皺くちゃのお婆さんの手にじゃがいもを手渡す。
「何かお礼をしなくちゃ。…そうだ、このジャガイモ持っていきなさいよ」
俺が手渡したジャガイモを今度は胸元に突き返され、困惑した表情で断ったがお婆さんは笑顔で答える。
「若い頃の阪神の掛布も遠慮がちだったけど私はまだ一杯持ってるの、貰ってちょうだい」
今さっき桑田って言ってなかったかいお婆さん? むしろそんな一杯ジャガイモ買って何作るんだ? 俺はぐいぐいと胸元に押されるお婆さんのジャガイモを苦笑いで貰いうけ、礼を言って商店街を目指した。まあいい、ジャガイモを買う分が省けたのだからよしとしよう。
▼ケース2:八百屋
商店街の入り口の直ぐ脇に八百屋はある。夕暮れのサービスタイムにはまだ少しばかり時間が早いので買い物客はまばらだったがやたら威勢の良い頭の薄い店主は大根を片手に安いよ早いよ美味いよと連呼していた。だが早いとは何だ? それは牛丼屋のキャッチフレーズじゃないのか?
ジャガイモを買う分が省けたので八百屋での取り分が一つ減った。買う代物はブロッコリーとカリフラワーだ。俺は店主にブロッコリーとカリフラワーを一袋づつと注文した。俺の言葉に店主の顔が一瞬にして曇り始める。
「済みませんお客さん、今日どっちとも売りに出せないんですわ」
俺は何故かと店主に問いかけると店主は壁に掛かったビラを指差した。
『ブロッコリー、カリフラワー共に病原性大腸菌が発見された為しばらくの間お売り出来ません』
迂闊だった。そういえば昨日のニュースでそんなニュースが流れていた事を思い出した。俺が食器を洗い終わって目をテレビに向けた時には既に麻美が裏番組のバラエティにチャンネルを変えていたので気付かなかったのだ。全く、何処までも俺の邪魔をするなお前は。俺は芸人の子育て奮闘記に全く興味なんて無い。
軽く舌打ちをしてから出直しますと店主に伝え、八百屋を離れようとしたその時だった。
「お客さん、その代わり人参と玉ねぎが半額ですよ」
俺はその言葉に耳を疑った。半額? 今年は中途半端な気候で野菜類は割高だと聞いたぞ。それが半額?
「ブロッコリーもカリフラワーも出せないんでね、この位奮発しなくちゃ」
俺はとりあえず人参と玉ねぎの値段を確認してみた。一袋100円もいかない。安い、安過ぎる。
値段に負け、俺は人参と玉ねぎ両方とも買ってしまった。まあ二つとも切れ掛かっていたので問題は無いのだが。
▼ケース3:精肉店
俺は買い物を続けてきて段々不安に襲われてきた。明らかに今俺が手に入れている代物は皆カレーの具材他ならない。神様は俺にカレーを作れといっているのか? 麻美のいいなりでい続けろと? 冗談じゃない、何故俺が好きな物を作っちゃいけないんだ。精肉店では餃子用のミンチ肉を買うだけだ。何があってもカレーに使う豚肉を買うわけにはいかない。俺は掌に文字を書いて飲み込んでから精肉店へと踏み込んだ。
書いた文字はもちろん“ミンチ”だ。
中にはうるさい子供を連れた主婦一人しかいなかった。ビラを確認してもミンチ肉が売っていないという文字は見当たらない。八百屋と変わって髪が生え揃っている店主に俺は安心してミンチ肉を注文した。
「すいません、ミンチはもう品切れちゃって」
不安が頭を揺さぶる。俺はなんとかならないかと必死で懇願した。店主は困った表情で答える。
「じゃあお客さんにだけ特別に新しいの作りますんでちょっと待っていて下さいね」
店主は笑いながら店の奥に消えていった。俺は深々と頭を下げて礼を言ってカウンターの正面にあるベンチに座った。ほっと息をつく。
…しかし子供がうるさい。前の店で菓子を買ってもらえなかった事を愚図っている様だ。母親はしかり続けるが子供は金切り声をあげながら身体中で菓子の素晴らしさをアピールしている。俺は右手の人差し指で右耳に栓をした。
「静かになさい!あそこで座ってるお兄ちゃんに迷惑がかかるでしょ!!」
おい、主婦、俺をだしに使うな。
「jウェhヴァjがrvげあmrぃhgじゅ!!!!!」
おい、子供、何言ってるか全然わからん。
店主が袋を二つ持って奥から出てきた。主婦も何かを頼んでおいたらしい。俺は奪う様に店主から袋を貰うと金を払い、釣りはいらないと言って外に駆け出した。夕方の生活音が聴こえはするが店の中に比べれば森林の湖畔の様に静かに思えた。店主が何か言っていた気がするが子供の泣き声で全く聴こえなかった。子供の泣き声は殺人未遂罪に相当するかもしれない。
ふと俺は妙な気持ちにを覚えた。ミンチ肉ってこんなに重かったか? 俺は静かにゆっくりと袋を開けて肉が包まれた紙を解いてみた。印刷用紙にはこう書かれていた。
「特製豚肉切り落とし カレー用」
あんんのガキィィィィィ!!!???iii
俺はすぐに精肉店に戻ったが時既に遅し、主婦とあの子供の姿は見えなかった。店主に必死で弁論したがミンチ用の精肉はもう完全に底をついたとの事。俺は諦めて礼を言い、精肉店を後にした。
▼ケース4:コンビニ
俺はフラフラになりながら商店街を後にして例の坂道を下り、もう数メートルあるけば自宅のアパートという場所に辿り着いた。だがその前に傍のコンビニでトイレットペーパーや生活品を買わなければいけない。正直今日はもう買い物が怖い。
だがまだ大丈夫だ。いくら神様の思し召しとはいえカレー粉が無ければカレーは絶対に作れない。俺は深く深呼吸をしてコンビニの中に入った。学生が雑誌コーナーに入り浸っていて俺は立ち読みを諦め、ミネラルウォーターのペットボトルとトイレットペーパーをカゴの中に投げ入れた。レジは多少混んでいて俺は並ぶ人々の最後尾についた。ふと目線を下げるとそこにはカレー粉が陳列されていた。直ぐにカゴの中を確認したがカレー粉は入っていない。俺は笑って心の中でゆっくりだが勝ち誇った様に呟いた。神様よ、俺の勝ちだ。
「次の方こちらのレジにどうぞ〜」
もう一つのレジに女子高生風の店員が入り、俺はそちらのレジに移動した。店員がバーコードを読み取っていく。
「合計で638円になりますね、クジを一枚抜いて下さい」
そういうと店員は俺に四角形の箱を掲げてきた。そういえばキャンペーンで500円以上買うとクジがあることを忘れていた。俺は何も期待せずに星型に象られた穴に手を差し込む。大体この形はおかしいだろう、角が当たって手首が痛いんだよ。少しは考えろ。
…いかん、色々あり過ぎたせいか多少イライラが堪っているみたいだ。このイライラは今夜、全て麻美にぶつけよう。
俺はクジを一つ摘み、店員に差し出すと店員は丁寧にクジを開いた。
「D賞ですね、景品をどうぞ」
店員は菓子箱ほどの大きさの袋を差し出した。袋を開けると俺は驚きのあまり、手荷物を足元に落とした。
『D賞 72時間煮込んだカレー粉』
ギャアアアアアアアアッッッ!!!???iii
俺はいらないと断る。マニュアルに記載されていない客の行動に困惑する店員。後ろから文句を垂れる客。
皆、ぶん殴ってやりたいと思った。…俺を含めて。
▼ケース5:自宅
「今日のカレー美味しいね。お肉、奮発したの?」
麻美は笑いながら俺の作ったカレーを食べている。俺の前にも同じカレーがあるが手をつけられない。カレーをご飯に混ぜながら食べる麻美の癖は昔から一つも変わっていない。
「何で卵買ってきてくれなかったの?」
頭を下げて無視する俺。すると麻美は口にくわえたスプーンを抜いて皿にそっと置いた。
「…貴方に話したいことがあるの」
俺は頭を上げた。上目遣いで俺を見つめる麻美。あの頃の麻美の様だ。
「…何で私がずっとわがままばかり言っていたか判る?」
判らないと言った。判りたくないと思った。
「…何で私がカレー食べたいって言ってたか判る?」
それも判らないと言った。判ろうと思う気がしれないと口から出そうになった。
「…赤ちゃん、出来たの…」
…は?
「貴方の、赤ちゃんだよ…?」
俺は真っ白に曇った頭の中から必死で麻美の行動を思い出した。麻美の、メッセージを探し始めた。
…みかん。…急に家から飛び出す。…突然の怒り。…芸人子育て奮闘記。……ぽっこり…。
「貴方の迷惑になりたくなかったから、皆に相談して試してみたの…。貴方が私のわがまま聞いてくれるなら、私は貴方の事を永遠に愛そうって。貴方の、赤ちゃん産もうって」
それでなんでカレー?俺は緊張と驚きで最も関係の無い質問を麻美に聞いた。
「カレーは、貴方が初めて私に作ってくれた料理だったから…。凄く、美味しかったよ」
その時、俺は悟った。友人達も、皆、俺を試していたんだと。俺がどうするか、皆で。
その時、俺は全然悟っていなかった。もしや商店街もグルか? と馬鹿な考えも浮かんでいた。
「卵は本当についでなんだよ、私が生卵かけて食べるの好きだっただけで…、黙ってて御免なさい!」
麻美が頭を下げて謝った瞬間、ピンポ〜ンという間の抜けたチャイムが部屋に木霊した。俺は黙ったままゆっくりと立ち上がってふらつきながら玄関まで歩き、ドアの鍵を開けた。外にはスーツを着た男と段ボールを抱えた作業服を着た男が2人立っていてどんな顔をしてるかもわからない俺に笑顔で挨拶をしてきた。
「夜分遅くすいません。私共は来月からお向かいの通りで無農薬食品専門のスーパーを開業するものでして、サンプル品になりますがどうぞお使い下さい。名称は決まってないんですが大変美味しいんですよ」
そう事務的に喋るとスーツの男は名刺と共に作業服の男の抱える段ボールから小さな袋を取り出し、俺に手渡した。二人は丁寧に礼を言って隣の部屋に進んでいく。俺はドアを閉めて鍵を掛け、部屋に戻った。麻美はカレーの前で小さくうずくまって涙を流している。俺は袋の結び目を解き、そして口を開いた。
「生卵、いるか? 麻美、子供の名前、あんま凝らない様にしような」
袋の中に包まれた卵のラベルにはこう記されていた。
『あなたが私の名前を決めてね!』
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2006/12/06(Wed)02:13:55 公開 / Red Bull
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■作者からのメッセージ
身近な奇跡ってのを考えてみました。
こんなものでいいんじゃないでしょうか(笑)
いざとなった時の男の弱さがもっと表現できれば…。
感想、意見よろしくお願いします。