- 『愛は煙草から 上』 作者:水割りカティーサーク / リアル・現代 恋愛小説
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全角27182文字
容量54364 bytes
原稿用紙約78枚
不必要。世界なんて不必要の塊で構成されていると思っていた某少年。しかし、某少年の前に現れた涼しげな女性。某少年は女性に魅了され、虜になる。某少年の人生を綴った、煙草から始まる愛の物語。
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自分の好きなあるメーカーのマッチで煙草に火をつけた。一瞬頭に白いものが襲って、またすぐに去っていく。その後の快楽が大好きだ。
煙草を好きになった理由は、ある女性に惹かれたからである。もちろん彼女が煙草を好きだから、自分も好きになろうというわけではない。ただ、彼女の吸う姿を見て吸ってみた途端、好きになったのだ。いや、大好きになったと言い直そう。
彼女はどちらかというと、悪っていう感じであり、いつも手に煙草が乗っかっていた。気分で屋上に行くと、大抵吸っている彼女だった。
ある日のこと。いつも通りというよりは、気まぐれで屋上に行ってみた。そしていつものように彼女はいた。どうやら彼女は一箱吸い切ったみたいだ。仕入れに行こうと思ったのかすっくと立ち上がり、自分の横を通り過ぎようとした。ふわっと彼女の吸っていたマイルドセブンの涼しい香りが胸の中に入ってくる。
その香りで思い出したことがある。マイルドセブンの詳細についてだ。確か、マイルドセブンはセブンスターの姉妹品とのことだ。セブンスターより「マイルド」という意味を込めて「マイルドセブン」らしい。そして、普段使っている「マイルド」という言葉は日本が最初に使い始めたとのことだ。嘘か本当は知らないが。
そしてその思考を終えた瞬間、いつもの白いものが襲ってきた。いつもは女子に声をかけることも戸惑うような自分だったが、その時はすらっと彼女を呼び止められた。可笑しい話ではあるが、理由としてあげるとすれば、ただののりなのかもしれない。
「何?」
と彼女は生返事というか、それでもすっきりした声で振り向いてくれた。少し不機嫌そうな表情が印象に残る。
「煙草。切れたんすか?」
内心びくびくしていたが、それでもさりげなく聞けた。聞けた理由は青春しているのだろうか。しかし、その考えはふっとすぐに消える。
彼女は照れ笑いというより、むしろ恥ずかしそうに笑っていた。さりげなく煙草を箱ごと差し出すと、「サンキュ」と軽く礼を述べながら一本取った。その長い指を以って。そして、その長い人差し指と細い親指で、煙草を掴み、差し出した自分の手の中で、煙草に火をつけた。
「随分古風な感じだね」
突然の質問に「え?」と生返事が漏れた。物凄く間抜けな顔だと自覚する。鏡で見たくはない。
「いやさ。最近マッチで煙草に火ぃつける人。見たことないし」
彼女はそう言い切ると、耳鳴りがしそうなツーンとした静寂が訪れた。空は雲を包み、雲は空を飛んでいた。壁にもたれかかった彼女を真似し、そっと座り、壁にもたれかかった。ごつごつした感じが、妙にしっくりと来た。
遠くの方に目を向ける。遠くの方と言っても、そのまま遠いところなどではなく、過去のことで。そこには、樹齢何年かは知ったことではない、ただでかい大木があった。別名「ウドの大木」――勿論、ウドは木などではなく、愛称として呼ばれるその木は、自分の卒業した小学校に生えていた。小一か、小二の時、何度もあの木に訊ねた。「君、何歳?」と。答える口もない、ウドの大木に、何度も、何度も、同じ質問を繰り返した。結局、その大木から答えが返ってくることは、一度もなかった。自分の問うた数に見返りはなく、ただその言葉が大木に吸い込まれるだけだった。
「それさ。お気に入り?」
静寂が嫌いかどうか分からないが、焦り気味という感じで訊いてきた。なんだか少し分からないけど、彼女の目を直視することはできなかった。
「まぁ。弟みたいな感じ。かな?」
と、答えた。問いに問いで答えるのは感心せんぞ。と親父に言われそうな答を返してしまった。親父の顔が浮かんでくる。良い顔とは言いがいたい。
しかし、彼女は、ふーん。と言うだけ言って、後は何も言わなかった。ただ静寂が流れ、時間が流れた。風が少し。でも、強く吹いていた。煙草の煙が風に流された。
いつの間にかと言うのか、自分の苦笑と彼女の苦笑も、静かに流されていたと思う。たまに喋る会話は、初めて会った二人という感じではなく、昔から知っている仲みたいな感じだ。吸っていた煙草も吸い終わった。彼女はその場をじゃあねと言って去って行った。彼女に対する余韻と、マイセンの香りを残して。
手の中で転がす煙草は冷え切っていた。 外は暗闇で一寸先も見えない状態である。しかし、それはコンビニから漏れる光がなかったらの話である。することもなく、ただ仕方なくコンビニから出てくる客をただ静かに眺めていた。缶コーヒーを飲む手も冷え切って、そろそろ帰るかなと思い始める。最後にお得意のマッチで煙草に火をつけた。終いの煙草だ。
座ってる車を止めるストッパーも、随分と冷え切っていて寒かった。時間は十二時を回っていたが、コンビニに雪崩込んでくる客はたくさんいた。こんな時間に雪崩れ込んで来る理由はなんなのだろう。多分、酒を買いに来たか、またはもっと別のことなのか。それは人それぞれだろうけど。さてと、と声をかけながら立ち上がると、コンビニに入ろうとする真泉を見つけた。
「あ」
つい変な声が出てしまったので少しやばいと思ったが、真泉は想像より柔らかそうな表情で振り返った。
「なんだよ。天霧じゃないか。どうしたんだ? こんなとこで」
秋の外は冷たい風が押し寄せていた。真泉は寒そうな表情を少し曇らせていたが、その分暖かそうなダッフルコートを身に着けていた。 手には黒い手袋をしていて、なんとなく犯罪者を想像してしまった。
「いや。特に理由はなし」
「ん。そっか」
真泉は店内に入るかと思ったが、方向を変えて隣に座った。 が、それは自分が座ってるようなストッパーではなく、ただの地べただ。 ジベタリアンとでも言うのだろうか。なんとなく思い出してしまった。
「最近どうよ」
「絶好調。なんて言葉あるのかって感じ」
確かに言った後そんな感じだと思った。 明日のことなんて考えることもできなかったし、自信のあることもなかった。そして、 何一つやり遂げたということもなかった。 がむしゃらに、そしてひたむきに努力していることもなかった。こういうことを自暴時期とでも言うのだろうか。
「あ。そういやこの前聞いたぞ?部活、やめたんだって?」
二週間前。ただ目標も無く努力している自分が嫌で陸上部をやめた。持久走で頑張っていたのだが、彼女と出会って吸い始めた煙草のせいか。最近体力ないなーということがよくある。
例えば、ちょっと階段を駆け上がるだけで息を吐くようになってしまったし。他にも体育の時なんて終った瞬間、だぁーって脱力感を諸に感じてしまう。でも、それがわかっていてもやめられない煙草なわけで。結局、体力が落ちていく自分の身体に毎日付き合わされているのだった。ニコレットでも使わないと駄目かな、と心底思うのだが。
「なんだかしんどくなってな」
本音を言った。
「老けたな」
図星だった。
「五月蝿ぇーハゲ」
「ハゲじゃねぇー! これはな、坊主だ」
突き出す親指をなんとなく折りたくなった。真泉の家は親が住職で当たり前のように、皆、坊主なのである。もちろん母親と妹――これが早織ちゃんと言ってシスコンの真泉。フルネームを言うとすれば、真泉直哉。彼には必要不可欠な存在なのである――は坊主ではないわけだが。早織ちゃんが坊主の髪型をしていたら、あのかわいさが台無しになってしまう。真泉の母親は大して美人ではないけど、おっとりとした感じで、確実に良い母親だと思う。真泉はいつもそんなことない、と言いのけているが、見た感じ尻に敷かれた旦那と同じような物である限り、口だけならなんとでも、というタイプなのであろう。
「いちいちハゲハゲ言いやがって。たまには良い顔しろ」
「あ。その言葉あのマイナーなバンドの曲から盗ったろ! この盗人!」
「だまらっしゃい!」
言ったり怒鳴ったりしながら、なんて不毛な会話なんだろうと思う。でも、高二の自分達らしいと思ったり、考えたり、笑ってしまったりもする。口には出しにしないが。
「……なぁ」
深刻な顔――暗闇だから見えたわけではないが、ただそう感じた――で真泉は声をかけてきた。瞬時に自分の体に緊張が走り、目が自然に真泉の目に行く(これも眼が見えているわけではない)。
「最近、屋上に行ってるだろ?」
問われた瞬間。何故かためらった。答えることに。
――柳が屋上にいるから行ってるんだけど
なんて馬鹿正直に言った日には、確実に毎日「南美ちゃん。」と真泉が後ろを付いてくるだろう。頭の中でそれを考えると、真泉が物凄くなさけなくて見えたのだが、想像の中だから仕方がないだろう。
「行ってるけど」
とりあえずぶっきらぼう気味に答え、相手の応答を待つ。
「それ。柳がいるからか?」
真泉は、なんてことを聞くのだろうか。正直真泉は心を読めるのかと心の中で後ずさりをした。少なくとも読心術を心得ていると思う。そうじゃないとこんなに上手いこと自分の心の声を聞けるわけがないのだ。遠くで走る車の音を耳を澄ませることもなく聞き、一点の外灯――昔はこういうのもガス灯だったのかと思うと温かく見えた――を見つめた。彼女の煙草のてと、淡いマイセンの香りを思い出した。
「んー。近い。かな?」
「そーか」と言って「そーかそーか」と繰り返した。
真泉は立ち上がってコンビニに来たはずなのに、何も買わずに帰っていった。帰り際に「ま。頑張れよ」と声をかけてくれたので「ラジャー」と気だるく応えておいた。空になった缶コーヒーを、缶入れに投げ入れる。外れてしまったので、周りを見たが、誰もいない。こういう時、何故かほっとしてしまう。
なんだかどうでもよくなってきた。視界が少しぼやける。秋の夜空はなんて綺麗なんだろう。こんなぼーっとするのも悪くないな。と密かに地べたで苦笑した。立ち上がった自分は、外した缶を缶入れに入れた。
学校に行く道の中。その日は雨が降っていた。雲はどんよりとしていて、道行く人たちも少し暗めの顔をしている。足元を見ながら歩く人たちを横目で見ながら歩く。傘を持つ手は、やはり疲れてきた。首の辺りに巻き付けたら楽なはずだろう(そんな恥ずかしい真似はできやしないけど)。
こういう日はマッチのつきも悪い。あの特別なマッチ――名前は忘れたが、湿っていても点けれるタイプのマッチだったと思う――があれば、煙草も吸い放題なんだろう。足早に学校に向かって歩く。そして、学校に辿り着いた。いつもいる先生達は雨のため、校門前で待ってはいなかった。ほっとしたような、どうでもいいような。
目の前で弾く水溜りを見ながら、それを弾いた足を目で追いかけた。同じクラスの奴だった気もするが思い出せない。なんだか記憶力が悪くなってきているなと自覚する。煙草のせいではないよな、と苦笑する。
教室ではいつも通りのメンバーがいくらか固まっており、そして先ほど走っていた彼もいた。あの席の周りは、危険地帯と呼ばれていたはずだ(不良の溜まり場とは言えはしないが、少し悪い奴らが囲んでいるのだ)。
柳は数日前から学校に来ていない。先生の話によると、風邪を引いたという話だ。真泉を探したがあいつもいなかった。昨日のせいで風邪を引いたか、何か変な物でも拾い食いしたのだろう。あるいはサボりだ(この可能性が一番高いけど)。
授業に入ったが真泉も柳もいないせいだろうか。黒板をぼんやりと眺めることしかできず、集中できない。睡魔が襲い、寝てはいけないと思いつつも居眠りをしてしまう。
眼が覚めると授業が終っており、騒いでる生徒や先ほどの彼などが教室で喚いていた(危険地帯からの退避後の一服と言っても過言ではないと思う)。次は自習という文字を見て、また寝た。こんなに寝たら普通は怒られるはずだけど、そこは気にすることではない。昔から怒られるのは慣れているし、この睡魔に勝てる物はないのだ。
しかし、夢を見るほど深い眠りでもなく、時折自習にも関わらず喋ってる女子達の声が聞こえてくるほどの浅めの眠りだった。机に平伏しながら、あぁー。と声が出そうだった。そこはなんとか我慢したけど。
一日の授業も終わり、ぞろぞろと帰っていく生徒達。何か用事でもあったのか、あの彼はもういない(ただ危険地帯から逃げたかっただけかもしれない)。起き上がって体を伸ばすと、骨が心地良く鳴った。気持ちよくて、んー、と続いて声が溢れた。教室には誰もいない。いや。いないように見えただけで実はいたみたいだ。隅っこの方に長倉とかいうあまりよく知らない奴がいる。
何をしているかは見てもよくわからない―― 実は視力がよくないのだが、一生懸命と背中に書いてあるほど、何か熱心に作業している風に見えた。こっそり近付いて見てみると、教室の扉から窓――ちょうど自分が写らないところ――辺りをスケッチしているみたいだった。
時折眼鏡がずれてすっと直したり、戻したりしながら、鳥が家を作るかのようにせっせと手を動かしている。その様を見ていると、突然長倉は振り向き、何。と声をかけてきた。長倉の眼鏡姿は、結構様になっている。
「何書いてるんだ?」
長倉とは初めて話すことになる。そもそも長倉という苗字がわかっていたのは、たまたま彼が一番背の低い男子だから覚えていた。という阿呆らしい記憶なのだ。このことを長倉に言ったとすれば、確実に白い目で見られるだろう。
「見ての通りだよ」
と言って、興味なさげにまた絵を描く方に集中してしまった。仕方なく近くの椅子に座り、見てて良い。と聞き、うん。と言われ深く腰をかけた。まだ少し眠気が抜けない。辺りは少しずつ暗くなり、ふと時計を見てみると、五時半を過ぎていた。木々のざわめきが聞こえてきて、何故か寒気がした。どちらかと言うと悪寒でもあるけど。
「さて。俺は帰るけど。長倉君は帰らなくて良いの?」
なんだか先生みたいな口調になってしまったが仕方がない。元々人見知りをよくするタイプで、初対面の人とまともに話せた試しがない(彼女と話せたのは説明できないが)。あの真泉と初めて会った時だって敬語だったのだ。今回敬語で話してない限り、大分慣れてきた方だと思う。
「んー。じゃあ僕も帰ろうかな」
そう言って、先ほどまで描いていた絵をくしゃくしゃにしてしまった。そのまま紙くずになってしまった絵を、ゴミ箱に向かって投げた。綺麗に弧を描いて、綺麗に収まった。
「え」
確実に変な声が出た。と自分でも確信する。何故あんなに一生懸命に描いていた絵を捨ててしまうのだろう。
「良いの?捨てちゃって」
「うん。あんまり出来がよくなかったし。正直暇つぶしだったしね」
長倉はさらりと言ってのけ、鞄を持ち上げた。
「じゃあ一緒に帰る?」
長倉の問いに答える答は、生まれた前から決まっていた。
十分ほど歩き駅に着き、そこで長倉と別れる。話していて分かったが、長倉は少し離れたところに病気の母親がいる。心配させたくないから。と、寮に住まずに毎日遠いところから来ているのだ。
絵を描いている理由は、母親が元気だった時、一番最初に褒めてくれたからで、いつか親孝行として絵で世界を描いてあげたいのだと長倉は言った。
夜道を歩いていると黒猫に出会った。さっきまで話していた長倉は隣にはいなくて、夢を持っている彼は自分と大違いだと思った。猫が紅い舌を出してこちらを細い目でじっと見ている。外灯がやけに眩しく感じて、自分が弱い人間だと気付いた。胸がきつくなり、小石を蹴ると、小石は電柱に当たり、自分に襲いかかってきた。
図書室で本を読んでみる。いや、読んでいると言うより読んでみていると言うべきなのかもしれない。あまり本を読むことはない自分なのだ。
あれから一週間が経ち、仕方なく文芸部に入部した。スポーツはできないわけではないが、一番落ち着くし、元々こういう穏やかな部も嫌いではないのだ。
外はまだ明るい色を放っていて、部活で汗を流す人々を照らしている。そして、窓越しと言えど、自分にもそのいくらかは当たっているわけではある。紫外線を浴びると、突然死、風邪、ガンなど、様々の病気促進になってしまうのだが、それを抑える方法としての日焼け止めを塗るほどきつい紫外線ではない。そして、その紫外線は突然自分を襲うのをやめた。
「何してるんだい?」
それは、唐突な声で怒りも何も含まれてない、ただ平坦な声だった。どうやらこの声の持ち主が光を遮る様に立ったのであろう。口調と声質からして、もう誰かはわかった。
そして、その人を見る。その人の正体は、陸上部部長、松山先輩であった。
「不良少年が煙草も吸わずに本を読むなんて、傑作だな」
松山先輩は少しも嫌味を含めずに淡々と言った。何となくむず痒くなり、椅子に深く腰をかける。この人は少し苦手だ。
「どーも。大地さん」
松山先輩は隣に彼女をつけていた(何故かこの人はいつも違う女を連れてくる)。彼女は、どうも。と言い、こちらもすかさず、こちらこそ。と言う。よく見ると、野球部のマネージャーだった。どうやってこの人は野球部のマネージャーを落としたのだろう。
「最近調子はどうだい?少年」
先輩は何時も通りに少年と呼ぶ。顎鬚を摩るようにしながら。その姿は、物凄く様になっている。
「不順調ですね」
「はん。そんな言葉ないだろうに」
先輩は、まあ良いか。と言い、近くにある椅子を引っ張って――彼女もすいませんと言いつつ椅子を用意して――それに腰を掛ける。よっこらせと聞こえそうなほど豪快に。誰でも椅子の方を心配してしまうぐらいの座り方だ。
思うに、この人にサングラスをかけたら右に出るものはいない。実際この人は、車の免許持っていても可笑しくなさそうな程大人っぽいし、無人島に五人家族で暮らしても平気で暮らしていけそうだし、何より顎鬚がかなり決まっている。何故、こんな人が高校生として留年しているわけでもなく、存在しているのだろう。それは理解の余地すらない。
「ところで。だ」
いつも以上に真剣な―俗に言う渋い―顔をして、遠くを見つめるように窓の外を見る。その眼は、獲物を狙う野獣のような眼だ。サッカー部の新人らしき少年が、豪快にシュートを空振った。
「何故、陸上部をやめた」
答に。答を出すことに躊躇う。咽喉がつっかえる。しかし、答えるしかないのだろう。もし、答えなかったなら何をされても文句は言えまい。
「もう一度言う。何故、お前ほどの実力があるものがやめてしまうのだ?」
それは――
「貴方なら分かるはずです。高みがいくら登っても見えてこない、この陸上の世界が」
ただそれだけで――
「ただ僕は疲れただけなんです。見えないものを追いかけ続けるのは」
それ以上もそれ以下もなく――
「僕はもう走りたくないんです。ただ―― 普通にしていたいんです」
平凡な理由だった。
でも、それは。自分が逃げてしまっていると分かってしまう情けない理由だった。
ふと松山先輩を見やる。先輩は―― 彼女といちゃついていた。
「…………」
憎むような視線に気付いたのか先輩はこちらを向く。
「ああ。すまんすまん。で、なんだって?」
なんて馬鹿だったのだろうと思う。今まで一度でも、そう、ただの一度でも真面目に話を聞いてくれることは、まずなかったのに。
「もう良いです。帰ります」
先輩と彼女――確か十三人目だった気がする。十三という数字を聞いて、何人の人がキリストのことを思い浮かべることか、正直気になる――を残して図書室を立ち去ろうとする。
「天霧」
珍しく天霧と呼ばれたため、振り向かざるをえない。しかし、それはすぐではなく五秒ほど溜めてだ。先輩は―― 欠伸をしていた。
そこで話は終わる。馬鹿馬鹿しい、少し真面目に話した少年の小話。
帰路を歩いている。確実に尾けられていると気付いた。それは何故か。
オーラだった。ただのオーラではない、凄まじいオーラ。確実に探偵なんかに向いていない、凄まじいオーラを放つ者はそう簡単にいるわけがなく―― そこに真泉がいた。
「よっ。ガリ勉君」
「よっ。ハゲ鷹大将」
何時も通り小突り合いになる。が、しかし。珍しく素直に真泉が引いた。今まで一度もなかったと思う(しかし、それは自分の記憶力の限界なので本当かどうかはわからない)。
「…なんですか?」
敬語口調で問い、喧嘩腰で掛ける。何故なら真泉との喧嘩は唯一の笑って楽しんで。存在を確かめ合える様な喧嘩だからだ。子供の時からの幼馴染で、何時も鼻水を垂らしていたのは自分。何時も真面目そうにしていたのが真泉であった。真泉は頭が良い代わりに体が弱かった。喘息持ちだった。今となってはほぼ完治と言っても良いほどだが、その時はひどかったのだ。
元々の出会いは阿呆らしい間抜けな話であった。真泉は「運動の出来ない真泉君」ともっぱら噂の少年だった。それに対し、自分は「馬鹿大将」と今となっては呼び始めた奴を全員殴り飛ばしたいが、ただそう呼ばれていた。体育の授業で木陰にいる真泉君を突付いて来るという指令――戦隊好きだから指令と呼んでいた―─で、馬鹿大将と呼ばれていた自分の出番になる。
そして、真泉に触れた瞬間、同属の匂いがした。それからは真泉と仲良くなっていった。先祖からの同属だったのだろう。自分達に言葉はいらなかったのだと思う(自己満足だろと言われそうではあるが)。そしてあの時から真泉とはよく遊ぶようになった。
最初の喧嘩は確か中一の時。本当に血で血を洗う喧嘩だったかもしれない。喧嘩の発端は部活やめよーかな、と言った自分だった。よく覚えている。神社に呼ばれてかったるそうに行くと、そこには真泉が突っ立っていた。そして、突っ込んできた。真っ直ぐに。右も左も、東も西も、北や南すらないように。ただ一直線に。
終わったら馬鹿らしいと思う。真泉もぼろぼろで、自分もぼろぼろ。血が流れている箇所は数え切れなかったと思う。拳やら頬やら歯やら。ぼろぼろで、痛々しくて。結局、その日病院に担ぎ込まれるまで意識はなかったと思う。真泉のことはその時どうなったか知らない。
しかし、その日から真泉は喘息が抜けたのだと聞いた。血の具合が上手く抜けたとだか。それでも勿論あいつの両親には謝りに行ったし、真泉にも謝った。真泉は笑って、俺も悪かったし全然気にしてねぇよ、と言っていたが。
まじまじと真泉が俺の顔を覗いてきた。真泉の顔はすっきりとしている。しかし、別にそっちの趣味ではなくての話である。そして、
「柳と調子どーだよ。ガリ勉君」
と苦笑しながら問いかけてきた。
あれから屋上には何回か行った。しかし、いつもいた彼女はいなかった。何故かは知らないが、少し、かなり心配だった。
「会ってない」
ぶっきらぼうに言った俺に対して、やれやれという表情を見せて携帯を取り出した。慣れた手つきで携帯をいじくる。
「今ちょっとメアド教えたるから待っとけよ」
遠くに見える信号機が赤になった。真泉の顔を見る。視線は携帯に堕ちている。
「いや。なんでお前が柳のアドなんか知ってんだよ」
「元彼って言う奴に教えてもらった」
真泉を見る。真泉は既に携帯を見ていなかった。
琵琶湖は本当に大きいと思う。多分、今その周りを走ってみろと言われたら絶対拒否する――いつ言われてもだが――だろう。しかし、その分琵琶湖を見るのはとても穏やかな気分になるし、なんて壮大なんだろうと感嘆の声が溢れる。
そして今、そこにいる。
隣に、柳が座っている。
「元彼って……」
「そんなの頭の中じゃわかってただろ?」
真泉は携帯に目を戻し、えーと、と呟きながら柳のアドレスを探している。本当に慣れた手つきで。
「言っておくが。柳はお前の物じゃない。柳にだって自由はあるんだからな」
目を携帯から離さず、淡々と語る口調は冷静さだけが響いていた。そして、自分は何も言い返せなかった。ただ、某映画の主題歌の着信メロディが響きだして、ポケットがざわめいた。
「送ったからな。じゃあまあ元気にやれよ」
真泉が言いたかったことはよくわからない。元彼のことも、何一つ教えてくれず、去って行った。ポケットから携帯を取り出し、メールにアドレスが来ていることを確認する。そして、そのアドレスに一つ言葉を添えて、送った。
――話ができるなら、明日の正午琵琶湖に来てくれ。
「久し振りだね。逢うのもさ」
彼女は普段着ている制服とは違い、ラフでカジュアルな服装をしていた。手には煙草をのせていて、涼しい顔をしていた。
座っているベンチが妙に落ち着きを与えてくれない。
「なんで学校来なかったんだ?」
言葉が見つからなくて、とりあえず聞かないといけないと思うことを聞いた。琵琶湖には大勢の観光客が詰め寄せていた。彼女は苦笑し、説明をしてくれた。
元々彼女には自分と会う前から付き合っていた彼氏がいた。彼は一つ年上で、いわゆる大学組という奴だった。受験のため勉強をしていた彼は、初めて彼女と会えなかった屋上にいたその前の日。勉強に集中したいからと言われて別れたらしい。
彼女は別に彼氏のことなんて大して好きじゃなかったんだと強がりを言ったが、それでも少し声が湿っていた。自分がこの高校に入ってきた時から彼女は付き合っていたらしく、そう考えると長い間付き合っていたという感じだと思う。
そして、学校に行かなかったらしい。
「それでも、大分元気は出た方だと思うんだけどさ」
彼女は声を震わせながら、下にうな垂れた。膝に肘を乗せる格好で。頭を抱えて。煙草は疾うに投げ捨てていた。煙は風に流されている。
「元気なんて出さなくて良いんちゃう?」
彼女は反応し、俺は呟いた。
「元気なんてあれば良いだけで必要ない時はいらないもんだよ」
だから――
「だから捨てちゃいなよ」
彼女の頭に手を乗せて、そっと撫でながら、言いたいことを言った。手に伝わって来たのは、彼女の震える体と。表しきれない涙。苦虫を噛む様な気持ちに駆られる。
お気に入りのマッチを取り出す。この世で一番好きな煙草だと思う、「Moon Tear」に火を灯す。灯った火を眺め、手を口元に当てながら大きく息を吸い込む。慣れた煙草で咽るようなことは、吸い始めた当初以外もう無い。
彼女の小さな頭に、ゆっくりで良いよ、と優しく声をかけた。
「おはよーさん。爽やか三組」
気軽に声をかけてきた正体は滝本であった。半分は冗談で半分は馬鹿にしている。結局は適当に声をかけてきたのだ。
「だーれが爽やか三組や。爽やか一人」
どうでもいい会話をした後に、眠気が襲ってくる。自然に欠伸が出そうになり、それを噛み締めようとするから涙がじわりと出てくる。
「いや。そこ涙出るほど笑うところじゃないだろ」
すかさず真泉の突っ込みが入る。咽喉下に鋭く。咽た自分に対して、爽やか二組と爽やか一人が爆笑する。本当に殴りたくなってきた。
しかし、それは教室に入ってくる先生により抑えられ、結局皆ずらずらと自分の席に戻るのであった。先生――現在二十九歳独身。皆から某アニメのポン汰に似ていることからポンちゃんと呼ばれている――の話を聞く気にもなれず、窓の外を見やる。
季節は変わらず秋で、少し肌寒い空気が入ってくる。紅葉もとうに迎え、そろそろ秋も終わり、冬に入ってもいい頃だろう。今頃虫達や動物達がせっせと餌を集める姿を思うと、何故か神秘的な物を感じた。
今まで一度だけ動物を飼ったことがある。小さい時――小2の頃――親に駄々をこねて犬を買って貰った。ゴールデンレトリバーで、名前はルデン――ゴールデンのルデンの場所の響きが当時凄く気に入ったのだ――に決めた。ルデンは最初から大きくて少し年寄りだった。いつもゴロゴロしているから、自分も隣でついごろごろしてしまう。そのせいで親によく怒られたものだ。
ルデンは小4の時にはもう人間で言う七十歳を超えていた。目もよく見えていないみたいで自分が近付いても誰か分からなかったり咆えてきたりした。鼻があれば匂いで嗅ぎ分けることも可能だろうけど、ルデンは元々鼻が弱く、匂いの嗅ぎ分けが苦手だったのだ。だが、餌をやると食い気だけはあると宣言するようにがつがつとがっつく。その姿は動物の本能その物なのだろう。
そして、それから半年後にルデンは死んだ。どのように死んだのかはよく覚えていないが、多分それは覚えていたくなかったのだろう。けど、その死で自分は大きく変わった気がする。当時は両親に甘えたがっていて、よく困らせていた。ルデンが死んでからは、自分で生きるために何をしないといけないか、これからどうすればいいかなど、たくさんのことを考えた。
結局それは今現在に至るわけだ。確かルデンが死んだ時もこんな秋から冬にかけての寒い時期だったと思う。まだ煙草を吸っていなかったため、その時の溜まったものの矛先は何処にも無かった。けど、今みたいにそこまで溜まるということ自体少ないから、別に怒ったり泣いたりはしていなかったと思う。たまに溜まるといざこざが少々あったが、今となっては塵も同然である。
あれから彼女は学校に来ている。ちゃんと屋上にも来ている。たまに行って話をすると、いつも以上に楽しそうな顔をしたり、軽く怒ったりしていて元気になった。煙草は手の上に乗っかっているときもあれば、逆もある。彼女なりに元彼とのケリみたいなものはついたらしい。正直、まだ安心できる精神状態なのかはよくわからない。元々人の心を読むことが苦手で、全てが予想できる範囲外ということも多々ある。だから、常に心配性だったり、疑うことが多かったりする。
突然隣でガタンという大きな音がした。何事か、と思うと隣の山岸が突然立ち上がっていた。いや。それは違った。授業が終わったみたいだ。ぞろぞろと教室から出て行く組と残る組に別れる。授業前に話していた奴等は残る組だった。
「爽やかリーダーお疲れ様。なーにを妄想してたんだか知らんがな」
後ろにいた滝本が話しかけてきた。すかさず叩いておく。恨むような目を無視してもう一度教室を見渡す。真泉と滝本と西尾。この3人は確実にいる(真泉と西尾と滝本と自分で爽やか四組。滝本はたまに爽やか一人。それを引いて三組だったというわけだ)。あとはだらだらした女子数名と学生寝――机に寝ることを自分はそう呼んでいる――している男子数名。そんな感じだった。
秋を感じる今、煙草を吸いたくなった。あの屋上で。秋風を肌に感じながら、流れる煙と彼女を眺めながら。
今は兎に角飯を食いたい。限界に近い状態だ。たらふく食ってぶっ倒れるように眠ってしまいたい。周りのことなんてどうでもいいから、ただ自由に食べて眠って死にたかった(これは例えであって、じゃあ死んでくれと言われても、死んでたまるものかとつき返すだろう)。
秋のため、テストに向けての勉強が忙しかった。スポーツの秋、食欲の秋、読書の秋とはよく言ったものだが、勉学の秋なんて聞きたくもない言葉だった。しかし、単位を取って置かないと留年、という最悪の結末に陥ってしまう。それだけはなんとしても避けたい(これは自分の人生最大の修羅場かというとどうかと思うが、ここで留年して真泉達に笑われることは気に喰わない)。
単位を取るためには提出物をしなくてはならない。まず、片っ端出されたものをこなし、先生の言うことをよく聞いて勉強に励む。実際こういう取り組む姿勢一つで頭に入ることが増える。簡単に言うと集中が途切れづらいのだ。この方法で覚えれば、あの手この手で問題を出されても、応用すれば良いだけである。ただ、舌足らずと同じように、自分は頭足らずのため、正直難しいのだ。
元々、昔から言われる馬鹿大将─―認めたくはないのだが─―のレッテルの通り、自分でも驚くぐらい馬鹿だ。分からないことが多すぎて、小学生の時なんて提出物一つすら出した覚えはない(覚えがないだけで出したのかもしれないが)。まあ、先生の教え方が素晴らしく良いくせにこいつはなんでわからないんだというわけではなく、普通の先生だから普通に馬鹿な自分には、理解するということが出来なかっただけだと思う。
高校に入れたのは多分、恩師がいたからだと思う。中学の時、自暴自棄の自分に手を差し出したのは香山先生だった。今でも、あの人の顔は鮮明に覚えている。勉強の些細な楽しさと、やる気を教えてくれた先生は遠くに行ったと聞く。一年間しか教えてくれなかったが、それでも先生が今までこの短い人生で一番の恩師。敬うことの出来る素晴らしい先生だと確信する。
先生は、人は真っ直ぐであるべきだと、当初の自分に対して恥も知らずに熱弁した。俺とお前が会ったのも一つの縁で、この縁は決して簡単には切れない。先生と生徒と形で出逢ったけど、私は生徒と生徒で出逢っても今と同じように語っていると確信するよ。天霧君。君も僕と一緒に学校で生きていこうと思わないか。先生の言葉は正直小っ恥ずかしかった。でも、心の髄に響いたのだ。自然に先生を先生として見るようになり、先生の言うことはなんでも聞くようになった(流石に犯罪の手助けなどは出来ないが)。
食堂に行きもせず、今は勉強に集中している。人生初の試みでは無いものの、こんなのは受験以来初めてである。時計なんて見る暇すらない。腹が減れば戦は出来ぬと言うが、腹が減っても思考はできるのだ。ただひたすら問題集に神経を集中させる。わからない問題が大半を占めているが、解説を読むことによってその道は開かれる。しかし、それもとても面倒くさいことだった。
次第にわからなくなって答を見ようと手を勧めかける。理性なんて疾うになくなっている。理性なんて疾うに超えている。が、それは帰って来た真泉に止められることになる。正直真泉が来た時、天使が舞い降りたのとは正反対に、悪魔が契約を申し込んでくる幻覚をはっきりと見てしまった。
「勉強になんないぞ?ガリ勉君」
最近はよく幻聴が聞こえるみたいだ。勉強の疲れ、または煙草の吸い過ぎ――覚醒剤とかとは全然違うが――のせいだろう。目は問題集を追いかける。
「無視かよ」
よく聞く突込みだった。某芸人のネタだと確信する。
「じゃあ勉強と言うものを教えてくれ。ハゲ鷹大将」
くるりと振り向いて問うたもの、そいつはもうこちらを向いてなかった。
聞いた話によれば、自分の学校の女子は、料理が得意らしい(別に自分の学校に限った話ではないが、聞いた話はそれだけだから仕方ない)。自分は実際調理実習なんて参加しない─―いわゆるサボりをやってるわけだ―─ため、女子が料理を作ることは見たことがない。でも、上手いらしい。
それで思ったのが、女性というものは料理が上手いということだ(完璧な偏見であるが)。実際、よく知りはしないが、少なくともパティシエや料理人――と言ってもシェフは大抵男性であるが――は女性が多い。もちろん、その一人として自分の母親が入る(父さんは男性側として肩を持つことになる)。しかし、どうしたものか。
自分には妹が一人いる(断っておくが、自分は真泉と違い、シスコンではない)。実は今日、両親とも家に居ない。普段はそんな時、自分が作るように親に言われているのだが、なんと珍しく――UFOを夏の終わりに見かけて写真を撮るぐらいの確率だと言っても、全くもって過言ではないと言わせてもらう――妹が私に作らしてと言った。少々疑ったが、自分が絶対作らないといけないわけではないし、正直今日は勉強を頑張ったせいで精神的に料理を作ることは難しいところだった。そこで出てきた鴨を掴まない手はないはずだ。
でも、今、後悔する。ただただ後悔した。航海した。そして更改した。目の前にあるのは、異物。料理といえる代物ではない。完全に、完璧に、絶対に、絶大に、異物だ。それ以外の表現は可笑しく、正に異物こそが実に言い得て絶妙なのだ。これは料理とも言えず、物とも言い難い異物だ。それを一瞥して妹を見てみる。妹はさぞ嬉しそうに、食べてとでも言わんばかりの笑顔を自分に送る。もちろんそれを、はい、食べます、なんてできるわけがなく、ちょっと椅子に座って、と声をかける。澪奈はするりと椅子に滑り込む。
「澪奈」
真剣な眼差しで説教でも始めることにする。絶対ここは言っておかないといけないだろう。例え乙女の心を傷つけても、今なら間に合うはずだ。
「このままじゃ嫁にいけん」
妹は特に傷つきはしなかったようだ。なんというか、きょとんとしている。何故此処で嫁についての話が出てくるのか理解できません。と、顔にしっかり墨汁で力強く書かれている。哀れな妹、とまでは思いはしなかったかが、もう少し頭が良くなるように努力してほしいものだ(自分はどうなるのと突っ込まれると、ごもっともとお答えするはずだろう)。
「何が?」
蛙の鳴き声でも聞こえてくるかのようにけろっとした表情で質問してくる。どう見ても飼い犬が御主人様を見て疑問を感じてる表情にしか見えない。昔から物分りの悪い子――父も母も自分達二人に哀れな視線を向けていたのかもしれない――だとは思っていたが、此処まで来ると流石に重症だ。カウンセリングが必要なのかもしれない。確か、滝本の父親がカウンセラーをしてると聞いた。
「今からちゃんとした料理を作ってやる。だからもう少しましな物を作れるように努力しな」
首が落ちても可笑しくないほどかくんと頷いた。よし、と一言吐き捨てて台所に立つ。昔から妹の好きだった酢豚を作ることにした。妹の好みはパイナップル入りだ。自分にはその好みはわかったものではないのだが。
料理の過程を説明するのは物凄い面倒くさいため、説明はしない。程なく料理が出来上がる。
「できたぞ」
そう発した言葉は、妹の耳に届くことはなかった。
「明日ハンマーいるよねー」
そう奇怪な寝言を残して、妹は消えていった。そのセリフはどこかで聞いたセリフだった。しかし、奇怪なセリフが誰のセリフだったかを思い出せることはなかった。
だらだらとした日が続き、気付けばもう冬だった。雪が降ってないもの、月としてじゃ既に十二月だったため、日が落ちるのもぐっと早くなってきていた。肌寒さだけだったものが芯まで冷える寒さになっていたし、大体がそろそろクリスマスなのだ。なのに、なのに雪が降っていないなんて、可笑しい。というよりは、自分にとってクリスマスはホワイトクリスマスでしかない、というどうでも良い気持ちから生まれた話だから、本当に甲斐性も無く、どうしようもなく、どうでも良いのだ。そしていつものようにクリスマスはやっぱりホワイトクリスマスだよな、と一人嘆息を吐き、学校の廊下を歩くのだった。
そんな日が続いて二十一日。三日後にはクリスマスイヴだ。でも、そんなクリスマスは結局、隣に誰もいない自分には溜息しか出ない憂鬱な日なのである。
「私がいるじゃない」
と、言ってくれたら嬉しいのに……。と心の中で思う。例え自分はどんな可愛くない女子だろうと、眼鏡があれば許しはするだろう(いや、やはり少しは可愛さも欲しい)。
「だから私がいるじゃない」
もう一度後ろから声が聞こえた。……どうやら空耳ではないようだ。少しやばい雰囲気を感じながらくるりと後ろを振り向くと、そこには地獄が待っていた。
「あ……相田……」
通称「三番目の使徒」。名は体を現すことのできないその異名は、恐ろしいまでの強さから来ている。彼女の父親は空手七段という兵であり、彼女自身も空手三段という近寄りがたい強さを持つのだ(三番目とは空手三段から来ているという線が一番有力である)。その彼女と何故自分がこうも対等―― には見えないだろうけど、上手く渡り合えているか。それは、
「何よ。その幼馴染に対しての怪訝な顔は。冗句でしょーが。冗ー句」
本名は相田美雪と言い、幼稚園からの付き合いだ。別に空手をやっていたわけではない。ただ彼女の家と、相田流空手道場が自分の家の近くに─―図々しくなんて言っては怒られるだろうが─―あるため、嫌と言っても知り合いになってしまったのだ。今、嫌と言うと、明日の太陽を見ることができなくなってしまうため、そんな馬鹿な真似はしないことにしておく。するはずもない。
「相田。何か用か?」
質問をしたが、それは早歩きで逃げながらの話だ。とてもじゃないが関わっていられない。命がいくつあっても足りないと言っても過言ではない相手だ。今まで病院送りにしてきた人は三十人を軽く超えている。更に、それは全て柄の悪いお兄さんたちであり、全くもって危ない話だ。
「何よ。あんたが思いつめてる顔してたからじゃないのよ」
髪は短いが脚は長く、身長は百七十を超えている。今の自分に追いつくことも余裕だろう。こちとら百八十の短足ボーイだ。精一杯の全力を出し切りすぎて、吐き気を抑えながら歩く(陸上部に入っていた時はこんなこともなかったのは言うまでもあるまい)。
「それにそろそろクリスマスだしねー。あ、なんかいる? ってか何が欲しい?」
「いらん。相田から物なんて受け取れん」
何時だかに貰ったバレンタインチョコはとても食える物ではなかった。料理やお菓子作りの腕なら妹に負けないかもしれない。今度クッキングバトルと称して大会を開いても良いかもしれない。病院行きが多数出ても良いという場合の話ではあるが。
「その言葉は傷つくな」
相田の苦笑は彼女の苦笑と違い、少し重く響く。でも、相田の重みのあるハスキーな声が好きだったり、お気に入りだったり、恐怖を感じたりする。ああ、付いて来ないでと言いたい。いや、叫びたい。覚悟を決めて言ってみる。
「とりあえず、これ以上は付きまとわないでくれるかい?」
勿論、相田の方なんて見ていられない。廊下が無くなり、階段を上がることになる。擦れ違う生徒は皆顔見知りではなく、見たことない後輩もいた。挨拶することなく進み続ける。後ろなんて全く見やしない。見たら殺されるかもしれない。
「もー。こんな良い女ほっぽり出して。良いわ。何も貰えない寂しいクリスマスを過ごしなさい」
後ろから小走りする音が近付いてきた。重みのあるローキックをお見舞いした後、相田は走って消えた。殺されないことに少し安堵する。勿論、殺された場合は両親にたんまりと保険金が転がり込むだろう。多分、相田は殺人罪で死刑だ。うん、死刑になって欲しい。
そして自分は、今なら相田の方が速い、と密かに思い、ニコレットのマークを思い出して一人で爆笑した。爆笑を終えた後に吸う煙草は、上手く言えない程の至福の味だった。
「じゃあね」
そう言い、彼女は自分の前から去って行った。僕と彼女を残して。クリスマス当日。午前八時。この話に至るまでの話が少しある。
この話の魂胆は、時計の針を戻さないと説明することができない。クリスマス当日。午前七時三十分。お早い御着きで校門の前に佇む自分。結局雪は降らず、ホワイトクリスマスにはならなかった。それでも、やはりクリスマスのため自然に脚は進むわけで。過去にいたるわけだが。
どうやら校門が開いていない様だ。この学校は、早く来た生徒のために門を開けておこうなんて考えもしないのだろうか。結局そこで十分程度待たされた挙句、なんとか校内に入ることが出来た。爽やか三人組の姿はなく、十二月の寒さと人気の無さだけが傍にいた。上履きに履き替え、教室に上がる。教室の位置を説明するのは面倒くさいので省略しておくが、一応二階にある。
誰もいない教室に、たくさんの机達が並んでいる。その姿は正に滑稽だった。もしかしたら滑稽和合人に載っているかも知れないが、その可能性は薄いだろう。第一あの時代に学校なんて無かったはずだ。いや、寺子屋はあったんだっけ。そんなどうでも良いことを考えていると、気配が近付いてきた。それは柳ではなくて相田で、寒そうにマフラーを巻いたままの姿だった。
「あ」
「うん」
あ。と言った相田に、うん。で阿吽を作ってあげた。案の定鞄が腕に直撃する。正直かなり痛い(これは普通の威力なら大して痛くないだろうが、金具の部分が直撃したため、想像以上にダメージを負った)。少し涙が目から出そうになった。
「今日は朝が早いわね。なんでかしら」
突然の女言葉で話し出す相田に対して口をあんぐり空けていると、相田が構えをした。流石に口を閉じないと殺されてしまう。
「クリスマス効果。とでも言うのかしらね。あんな遅起きの霧雨坊やが遅刻どころかこんなに早く登校するとは」
霧雨。という名前は自分の名前である。大勢の人に「きりさめ」と読まれるが、これは「きりゅう」である。これでも母親が愛情を込めた名前なので、馬鹿にはしないで欲しい。馬鹿なのは自分だけで十分だ。それを認めた上で、あえて馬鹿なことをなるべくしないようにしないと、相田から命を守ることはできない。
「それにしても雪降らなかったねー。ホワイトクリスマス好きのロマンチストさんはどう?がっかりかしら?」
「五っ蝿いなー。静かにしてくれないか」
突き放すと何時も相田はローキックを入れてくる。本気でないにせよ――本気ならバットを折ることも可能な相田の脚は、確実に自分の骨を粉々にしてしまうだろう――結構痛い。もうそろそろその突っ込みは本当にやめて欲しい。
と、そこでまた別の気配を感じる。十二月に限ったわけではないだろうが、この乾燥した寒い時期は異常に気配というものが鋭く伝わるものだ。そして、滑稽ともいえる程、柳が現れた。
「……うん?」
柳の頭に疑問符が浮かぶ。取ってやりたいぐらい理解できない顔をしている。ああかわいい。かわいすぎる。
「あら。柳さん。ご機嫌麗しゅう」
「おい。何処でそんな言葉覚えてきたんだ」
「あ。どうも。ご、ご機嫌麗しゅー」
「真似すな」
突っ込みどころ満載の言葉が飛び交う。相田は皮肉いっぱい――表に出したら瞬時に胴体と頭が切り離される――の笑みで、柳は不思議な――またの名を可愛らしい――笑みでお互い会釈を交わした。
「じゃあ私トイレにでも行って来るかしら」
一応男の子の前でそんな下品――そうでもないか――な言葉を使わないで欲しい。まあ、それも今に始った話ではない。
「霧雨。じゃあね」
これが「じゃあね」発言までの魂胆だ。
妙な感じになってしまった。これも何もかも相田のせいと言っても過言ではないだろう。トイレ行くなどと言って、自分と柳だけを残していくなんて無神経にも程がある。普段ならまだ良い。しかし、今日はクリスマスなのだ。期待してない、と言えば嘘になってしまうではないか。
「おはよ。霧雨君」
柳は普段と変わりなく話しかけてきた。そんな柳の眼は、柔らかい微笑のせいで少し細くなっていた。
「おはよ。柳」
寒かった。雪が降ってきたわけではない。それでも、自分の体温がその寒さで奪われていく。吐く息はそのせいで白く、そして寒さで身が縮ませ、自然と息が荒くなる。
「クリスマス……だね」
「……ん。そだな」
とてもじゃないが、緊張してきた。まだ誰も来る気配はない。ただ自分達の間に寒さの塊が佇んでいる。
「……マフラーも着けないでさ。寒くないの?」
突然彼女が問いかけてきた。それなら聞きたいが、柳自身もマフラー着けないで寒くないのか。と、言おうと思ったがすんでのところでやめた。そんなことを言う雰囲気ではないはずだ。
「ちょっと寒いけど。うん。結構心地良い感じだよ」
そうは言ったものの、大してそんなことないと思った。寒くないならポケットから手を出してみろよ、と言われそうだ。
「そっか……。じゃあこれ無駄になっちゃったかな」
柳が鞄から何かを取り出した。何かと思い、目をその鞄から出てくる物体に向けた。そして、心臓が飛び跳ねた。
それは、不格好でも暖かそうで、綺麗ではないけど新鮮さがあって、売り物になんかにはまずならないだろうけど、たまらなく自分の心を動かしてくれるものだった。
それは―─ マフラーで。
それを持つ手は、煙草しか持たない手を、無様に絆創膏で汚くしていた。さっきまでの寒さなんて、溶けるどころか蒸発してしまった。心臓の音が自分の耳に重く圧し掛かってくる。鼓動が自分を責め立ててきた。彼女の声が自分の頭の中で記号化される。
「そのマフラー。作ったの?」
当たり前のことだけど、その言葉しか思いつかなかった。激しい鼓動に対して、自分は最善の言葉というものがあるだろうに、それ以外何も思いつかなかった。まだまだ甘い餓鬼だ。
「あ。うん。変になっちゃったけどね」
彼女は照れ隠しのように頭をかく。痛々しく感じる絆創膏だらけの手で。いつもはクールに煙草を持つ手で。その仕草は、初めて出会ったあの日のようだった。
「…それ俺にくれるの?」
彼女は瞬時に身体を強張らせた。頬が紅潮することはなかったけど、何か言いたそうに何度も口を開きかけ、何度も口を閉ざした。
「……いらない。かな……」
そう言う彼女は、煙草を持つ彼女と違って、女の子だった。凄く切なさと愛しさ――恥ずかしい話だが――が込み上げてくる。
「欲しい。ちょうだい」
そう言うと彼女は嬉しそうにそれを僕にくれた。貰った自分はそれを首に巻きつけた。もう寒くはなかったけど、それでも暖かさをまた感じた。
「……ありがとう」
「……どういたしまして」
「ちわーっす」
突然第三者が現れた。その正体は有無を言わさず、爽やか三組の内の一人、滝本だった。へらへらした面構えがだるい朝ですね、と語っている。
彼女も自分も即座に反応し、少し距離をとった。
「おはよーさん。滝本」
「おはよ。滝本君」
うーん、と頭の中で唸る。自分はポーカーフェイスに関しては右に出るものはいないと自負しているが、どうやら彼女にとってポーカーフェイスはお手の物らしかった。やはり少しかっこよく見えてしまう。
「やや。これは霧雨と柳ご令嬢ではありませぬか。こんな朝早く何を。はっ。まさか。これはこれはどうやらお邪魔だったようで。私は退散と……」
即座に突っ込みを入れようと思ったが、それは俺が入れる幕もなく、なんと相田が突っ込んでくれた。第四者になったわけだ。何時でも何処にも現れる、神出鬼没の「三番目の使徒」は、突っ込みタイプであり、ボケタイプではないようだ。とりあえず、滝本にはご愁傷様と言っておこう。
「御用は済んだかな。霧雨君」
「お互い様だろ。相田」
蹴りを一発――めちゃくちゃ痛い。やばい。折れたかも知れない――もらったが、暖かいマフラーが自分を優しく包んでくれていた。彼女と目が合い、少し恥ずかしくなる。しかし、彼女の方はそう思ってはいないのかもしれない。確認することは勿論できるわけがないのだが。
兎にも角にも、今年のクリスマスこんな感じで幕を閉じた。少し良い話であり、少し苛立たしい話。そんな感じのクリスマス。
どうやら喉を痛めてしまった。これはやはり、煙草の吸い過ぎか。声が物凄くハスキーになってしまった。どうしてこんな失態をしてしまったのか。それはもう決まっているだろう。彼女に会う時、どんな顔をすれば良いかわからないからだ。
余談ではあるが、なんと妹に彼氏が出来たらしい。と、言ってもそいつのこと好きか、と聞いたところ、好きになるところ、と答えたため、まだまだって感じだった。告白したのはあちら側らしいが(物好きがいるものだが、妹の手料理を見たらどんな顔をするだろう)。
今の状態ならあのハスキーな渋い声で歌うボズの曲も、なんなり――キテレツ大百科とは何の関係もない――と歌えてしまうかもしれない。しかし、多分それは無理だろう。何故なら英語を理解できないからだ。物凄い単純明快な話ではあると思うけど。
勿論、こんなことは言わなくて済むはずなんだろうけど、今の状態ではキテレツ大百科の「はじめてのチュウ」は確実に歌えない。まあ、普段歌うのもかなり困難だが、あの歌声を持つあんしんパパ様には尊敬の眼差ししか向けられない(尊敬とは憧れと大きくかけ離れている、と言ったのは誰だったか)。
クリスマスを終えての休日。そろそろ冬休みだ。陸上部のままならこの時期、走り続けることが義務づけられているが、そんなことはしなくて良い。完全な自由ではないが、完全に暇だ。そして、灰皿にはたくさんの煙草が積まれていく。
クリスマスを終えた後にやっと雪が降ってきた。今年は残念ながらホワイトクリスマスではなかったが、良いクリスマスだった。良いプレゼントももらったし。
それにしても、最近の若者はどうしたことか(自分も若者ではあるが、客観的に見ての意見なので自分は含めないでおこう)。ソファに座るのは妹であるが、さっきからだるそうにメールをしているだけだ。料理ぐらい作れるように努力すれば良いのに(しかし、その作った料理は土下座されたって食べまい)。彼氏とらぶらぶなことなら別に邪魔をしようとは思わないが、もし、相手が彼氏ならばそんなだるだるな顔でメールをしないで欲しいものだ。その辺りが今の世の中――顔を見せないでも相手とコンタクトを取れる楽々さ。そして、どんな格好をしていても伝わらない自由さ――を切実と物語っているのだろう。
溜息を一つ吐くと、某ホラー映画――首がグルグル回って死んでしまったあの人が出る映画だ――の曲が流れる。この曲を聴くと、どうしても身を構えてしまうのだが、それは恐怖心を捨てるために自分に着せた枷なのである。それは電話ではないためすぐに音をやめた。そしてそれを取り出し、新着メールを開く。
「BLACK DEATHって知ってるか?」
勿論知っている。「ブラックデス」。別名「ペスト」。日本語で言う「黒死病」。別にそんな大それた病気に罹るわけではない。ただ、その名前が人の気を妙に引く。まるで覚醒剤みたいに。だが、自分の周りでそれを吸ってる人はいない。
「知ってるけど。それがどうした?」
そう返し、返答を待つ間、妹を見る。だるそうに机の上にある、こんそめぱ〜んちを食べている。溜息を吐く前に返信が来る。
「今度それに替えようと思うんだよね」
どうやら、そういうことらしい。煙草を替えるという通告。自分の知ったこっちゃない。
「浮気者」
ただその一言を送る。そしてソファをもう一度見る。妹の姿はなく、こんそめぱ〜んちの残骸だけが残っている。本日三度目――心の中も含め――の溜息を吐き、電源を落とした。
自分の部屋に入り、重力に押し潰されるようにベッドに倒れこんだ。手元にあるのは年賀はがきだ。と、言っても大量ではなく、手に収まりきるぐらいの少量だ。名前より先に内容を確認してみる。
「あけおめー。ことよろー……」
こんな少量の文――文というより単語と言った方が適切なのかもしれない――と下手な絵は確実に爽やか三組の一人。別名「嵐の中に」の西尾彰太しかいないだろう。確認すれば下手な字で「西尾彰太」とちゃんと書かれていた。笑えない程汚い字だ。次の物に取り掛かる。
「少年。調子はどうだ?今ならまだ間に合うぞ。陸上部に戻って夢をやり直すべきだと私は思う……がな……か」
陸上部のことを掘り出してくるなんて、そんなのは本名松山大地。別名「サンダース軍曹」の松山先輩しかいない。あの人ほど文章も真面目で、字も整った人は今まで見たことはない。周りの環境が環境だから仕方のないことかもしれないけど。だけど、俺はもう陸上部に戻る気はありません。
「あけおめ。元気にやってるかい? こっちの方は親も大体元気になって……。お、良いことじゃないか」
別名はないが、本名は長倉真司。どうやら親の調子が大分よくなってみるみたいだ。勿論、完治が来ない病気と聞いたから、気休め程度の元気なんだろう。でも、それでも前より良くなっているなら心から嬉しい。また今度会ったら詳しい話を聞きたいところだ。
「あけおめ! ことよろ! 恥ずかしながら彼女ができました! ……ま、良い事だな。今度逢ったら祝ってやろう」
写真つきの年賀状だ。結構可愛い彼女を持てると言えば、滝本連しかいないだろう。やはり美青年はもてるものだ。正直今まで彼女ができてなかったのが不思議だ。まあ選ぶ権利というものが世の中にはあるからかと思いなおす。流石別名「虚空で独り」。そろそろその別名が変わる日も近いんだなと苦笑する。
「Happy New Year! 今年もヨロシクネ……ヨロシクネはないだろ」
流れる様な筆記体を完璧に扱えるのはあいつしかいないはずだ。空手三段、お隣さんの相田美雪。何故、頭が良い人というのは字も綺麗なのだろう。軽く嫉妬してしまう。別名は今更掘り返さないでも大丈夫だろう。引っ越しましたという知らせを早く聞きたいものだ。
「天霧と柳が仲良くなりますように。ハート。……っておい」
のり突っ込みをしてしまう相手は、別名「帰り道」の真泉直哉以外はいないと狂言しても良い。まず、年賀状を短冊と同じように書くところが三ポイント。それに加え、ハートマークではなく、ハートとカタカナで表記されているとこで四ポイント。そして、名前を「天霧」ではなく「雨霧」と表記していることで二○○○ポイント。合計二○○七ポイント。見事に自分の中で今年の年数を提示してくれたことだ。流石粋なことをしてくれる真泉である。
「……あら。誰だこれ」
初めて見るこてこてな字は、少し魅入ってしまうような字だ。数字や英字が特徴的で、全体的には少し丸みを帯びている。一般的に、一回見たら忘れないような字にあてはまるだろう。他のは捨ててしまってもこれだけは当たり前に残しても間違えではない、と断言してもよい。
「新年あけましておめでとう。今年もよろしくね。か。随分とまーよくある言葉だけど……」
爪を長いままにしている人差し指と、軽く右側に曲がってしまっている不格好な中指でくるりと翻してみる。それを見て飲んでいたジュースを気分的に零してしまった。視点がその名前に合うことはなく、ぐらぐらと住所や郵便番号の方向へ乱れる。決して零れてはいないジュースを一気に飲み干してその名前をしかと見る。
「柳……南美…。うわー。マジっすか」
予定外のことに恥ずかしながらの独り言が、弾かれるノコノコ達のようにとめどなく零れる。確実に聴牌している自分に僅かながらの苦笑を捧げたくて仕様がない。さっきまで持っていた他の年賀状も落としてしまっている。丸っこい字を何度も読み返し読み返ししている。雪がしっかり降り積もっている中、外に出したくない、と宣言しているような文字だ。良い字を書いてくれるじゃないかと心底思う。
「お兄ちゃん、初詣行くからお母さんとかによろしくー」
遠くから妹の声が聞こえてくる。持っている年賀状は、既に机の上に置いていたものの、なんとなく手元を確認してしまった。人というものは、どんなささいな後ろめたいことでもあれば、後ろを振り返ってしまうんだなと思う。全身全霊の溜息を吐いた後、年賀状を引き出しにしまった。
「おーい。天霧。かまくら作ろうぜ。かまくら」
真泉が我が家を自転車で訪ねてきた。雪が降り積もってる中自転車で来る根性は尊敬に値する。そんな真泉は、ばっちりと寒さ対策をしている。北の国からで着そうな服と、北の国からで被りそうな帽子と、北の国からで履きそうな長靴と、ホームアローン――日本語で言う「家で一人ぼっち」。または変な方向で見ると「鍵っ子」――ではめそうな手袋という異色なコラボレーションで攻めて来ている。それに加えて、真泉は少年のような目を輝かせている。確実に高校生には見えない姿を見てしまった。
「……待ってろよ。俺にも寒さ対策っていうもんをさせろ」
かまくらを作るなんて何年ぶりだろう。子供の時は物凄いかまくらを作っていた気がする。特に相田は、鍾乳洞みたいなかまくらを作ったせいで、風邪を引いたこともあったはずだ。今日ここに相田が来てない事が幸いである。
「じゃあ俺は先に雪達磨でも作ってるからさ。早く準備しろよ」
そう言ったきり、真泉は顔を出さなくなった。とりあえず、こういう時に一番必要な手袋を探すことにする。えーと、手袋手袋と無意識に声を出す自分を馬鹿らしいと思うこともなく。
「んー……お、あったあった」
しかし、いつはめても手袋は落ち着かない。手が温まるのは確かだけど、はめる時もめんどくさいし、物を掴む時も掴みづらくてしょうがない。ゴム手袋みたいにぴったりはまらない部分も気に食わない。勿論、ゴム手袋をはめた時の手汗の量は、ゴム手袋の大きな欠点と言っても良いかもしれない(手汗をかかないゴム手袋もあった気がするが、あっても高そうだから親は買ってくれないだろう)。
「あーまーぎーりー……」
生命の消え入るような声が、遠くから聞こえてくる。一応無視しておく。もし、無事ならすぐに声が聞こえてく――
「うぉーい。あーまーぎーりー」
よし、大丈夫だ。ちゃんと無視しておこう。分厚いコートを振るうように被り、軽くストレッチを始める。アキレスをのばしたところでやめておく。流石に柔軟までいくとめんどくさくなる。畳でやると結構気持ち良いが、そんな誘惑に屈していちゃ駄目だろう。とりあえず外に出て真泉とかまくら作りをしよう。
「遅いぞー。天霧。雪達磨作り終わったしかまくらの基礎までできちゃったやないか」
「気にするな。良いか。作るのは巨大なのだ。四人は入れる奴じゃないとな」
張り切ってる自分が少し恥ずかしいが、こういうのは結構好きなので仕方ない。遊ぶことに関しては昔から張り切ってしまう性質で、そういうことになると真剣に暴れたり、走ったり、転んだり、笑ってみせたりする自分だったことを、今でも鮮やかに思いだせる。正直あの頃の方が純粋に恋しい気もするが。
広がる景色には何度も感嘆してしまう。地を走る白銀の蟲が、自分を引き寄せてくる。軽くそこに猫のように転げまわりたくなる衝動に駆られる。でも、そんなことはできないのだ。理由はわかりやすく、真泉が隣にいるからである。勿論、柳だろうと相田だろうと、爽やかの奴らだろうと誰だろうとそんなことはできない。誰もいない時、自分は本当に猫のようにごろごろ転がりまわるのだろう。
「こら。なぁに手を止めてやがる。とっちめたろか?」
「最近さ。お前が真剣に怖く感じるんだけど。どーすれば良い?」
そこで出るのは、伝説の必殺技「パワーブリッジ」。必然的に「ロープ!ロープ!」と叫んでしまう。真泉の先祖は絶対格闘技、またはプロレスの王者だったはずだ。中々に痛い技が上手いのは、絶対にそのせいだ(痛いところを突いてくるのも、絶対にそのせいだ)。しかし、例え真泉が俺より強かったとしても、相田と戦ったら五秒でKOなのは目に見えている。
かまくら作りは異常なほど順調に進んだ。五分で半分も出来てしまったのは驚きだった。元気があればなんでもできる、ではないが、軽くその言葉を信じてしまう。真泉の顔は物凄く活き活きしている。まるで少年のようだ。少年よ大志を抱けと言ったのは誰だったか。あんまり好きな言葉ではないが(少年以外は応援しないのか、と突っ込みたくなる)。
「あと少しやな。あとはもう全力勝負や」
真泉の目が真剣になる。蛇に睨まれる蛙だかなんだか知らないが、少しそんな気分になった。俺を睨んですらないのに、そういう気持ちにさせるとは中々の腕だ。真泉はどうやら一皮向けたみたいだ。職人顔がなんだか少し格好良く見えて、少し嫉妬してしまう。
手つきも変わり、凄く良いかまくらが着々と出来上がってきている。もう既に自分の役目は終わったみたいだ。雪達磨を作る気力もない状態だったため、仕方なく小さな雪玉を幾つも作っておく。完成して喜んでる最中にぶつけると、またパワーブリッジをしてくるかもしれない。まあ、それはそれで楽しいからぶつけてやろうと腹に決めた。
「柳とも、こうやって、雪で、遊びたかったな。だろ?」
「黙って作っとけ。若はげ」
飛んでくるかまくらのパーツを左に避け、サウスポーの自分は雪玉を投げ返してやる。肩に見事命中した。粉々になった雪が三三五五と散っていく。真泉が大袈裟に痛がっている。舌を出してやると、真泉は睨んできた。無視して玉作りに専念する。真泉はしょうがないと思ったのか知らないが、またかまくら作りに専念し始めた。良い国作ろう鎌倉幕府と唱えながら。
「なー。今日って何曜日だ?」
「木曜」
「そーか」
ついにかまくらは綺麗に整えるだけの段階に入った。整えることも手伝わず、気力の戻ってきた自分は雪達磨を作り始める。題名は「だるだるくん」。今の気分にぴったりの名前だ。
かまくらは残り少しで完成となり、雪達磨も残り少しで完成となった。珍しく突っ込まない真泉に少々疑問を感じたが、それだけ夢中になってるのだろうとそこもまた無視しておいた。気付けばそろそろ昼頃で、母さんも帰ってくる時間だ。
「ん。雪降ってきたな」
ふわふわとボタン雪が空から舞ってくる。上を見上げと少し寂しくなる。雪と自分との二人の隔離された世界を広く感じてしまうから。でも、その雪が舞うことしか能がないため、それを阻止するなんてひどい話だ。だから放っておくことにする。それらはただ舞って散って、仲間たちの下へ行く。
「んよしっと! できたぜ天霧。ほら、ほら、ほら!」
軽く鼻の詰まった声で真泉が喜んでいる。こういうのをうざいというのだと思ってしまう。そこで自分は雪玉を投げ出した。いらないものを破壊するように。雪玉は壊れた。砕けた。戻った。幾つもの雪玉は何事もなかったように、降り積もった雪の上に還っていく。なんとなく綺麗でつい見とれてしまっていた。気づけば自分の顔面で白い物体が破裂していた。
「仕返しじゃ、仕返し」
真泉の屈託のない笑いにまたしてやられる自分がいた。顔がじんじんするけど、怒れない。怒りたくても、すっかりその気をなくしてしまう。とりあえずこの気持ちは軽く雪玉をぶつけることだけで留めてしまおう。
「あら。何してるの? あらあら。真泉君じゃないのよ」
「あ、お邪魔しています。お姐さん」
何時も真泉はお姐さんと呼ぶ。それにしては随分と老けているお姐さんだが。性懲りもなくお姐さんと呼ぶ真泉に、母は優しく笑いかける。顔中の皺が一段と集まる。そんな母はもう四十を過ぎたお姐さんなのだ。
「あれ。霧雨。かまくら作ったの? ちゃんと壊すのよ。恥ずかしい」
「近所の人に見られたらどうするのよ」母はそう言い、「ああ、寒い寒い」と、家の中にそそくさと入っていった。視線を玄関から真泉にゆっくりと移す。そこにいたのは灰だった。
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■作者からのメッセージ
面白い面白くないの境界に位置しない作品だと思います。
何かを感じ取って頂ければ嬉しい限りです。