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『EDEN〜神の箱庭〜   第ニ話『日常の話』』 作者:晃 / リアル・現代 ファンタジー
全角20679文字
容量41358 bytes
原稿用紙約62.8枚
 商店街を真っ直ぐに突き抜ける大通りを、学ランを着た少年が一目散に駆け抜けていた。短く切った茶髪が風に靡く。
 左右に並ぶ店舗の数は決して少なくない。時刻は、後十分で二時を指すところだ。休日の今日、混んでいそうな時間帯のわりに、人通りは少ない。否、少ない、ではなく、少年しかいないのだ。
 天気が悪いわけでもない。むしろ、晴天といえよう。地上からはるかはなれたところにあるせいか、雲一つ無い青い空に太陽がぽっかり浮かんでいる。
 吹き抜ける風に、ビニール袋が飛ばされて、走る少年の足元をすり抜けた。
(しくじった)
 それをぐしゃりと踏みつけて、少年は学ランの裾をはためかせ、走る。
 その顔はどことなく青ざめており、同時に酷く焦っていた。
 見れば左右の店舗の主たちが、開け放してあったドアを閉めている。店じまいという訳ではない。その証拠に、オープンとかかれた札が、閉じられたドアや軒先で揺れている。店主達はそのまま、風取りのための窓まで閉め始める。
 野外にワゴンを出していた店も、そのワゴンを中にしまったり、ビニールをかけたりしている。
(講義が長引いたせいだ)
 一つ舌打ちして、走る速度を速める。
 大して面白くも無い話が、結果的に一七分も定められた時間をオーバーして話し続けられた。おまけにあの教師と来たら、鳴ったチャイムなぞまるで聞こえませんと言うように、慌てるでもなくゆっくり喋っていたのだから。
 まぁ元をたどれば補習の講義を受けねばならないほど、自分の数学の成績が破滅的という事になるけれど。
(だからって――だからって何もこんな日に長引かせなくても)
 今日が何の日かすっかり忘れていた自分も自分だから、人のことは言えない。
 腕時計をちらりと見やると、あと三十秒で二時を指す。ちなみに、此処から少年の家までは、どんなに急いでも五分はかかる。
 諦念を込めて、少年は走る向きを唐突に変えた。今まで来た道を引き返し、真っ直ぐ行かずに途中で右に折れる。見慣れたマンションが目に入った途端、晴れ渡っている空から、南米のスコールもビックリの強さで、大量の雨が降ってきた。





EDEN〜神の箱庭〜

前夜祭『空に浮かぶ町』





 西暦、と呼ばれる暦を人が使い始め、もうすぐ三回目のミレニアムが訪れる。
 その都市は、太平洋の上、一応日本の領空に存在しているから、日本である、といって言い。もっとも、『そこ』は日本と言う国に当てはまらず、それ自体が独立した一つの国であると言う見方も、決して間違ってはいないのだけれど。
 空中都市『エデン』
 人は、皮肉をこめてそこを神の箱庭と呼ぶ。
 空中都市。一言で言えば簡単だ。その名の通り、空中に浮かぶ都市。科学技術の粋を集め、広さは東京の半分ほど、人口およそ三万人。今から百年程前に打ち上げられ、動く事無く同じ場所に浮き続けている。雲すらも超え、地上の人間が容易に入り込めないそこは、確かに箱庭なのだろう。
 表面は通常透明なドームで覆われており、風や温度、湿度に至るまでコンピュータが管理している。月に二度の『雨の日』にのみ雨が降り、雪も年に一度しか降らず、三日で溶けるように設定されている。曇る事もなければ寒すぎる事も無い。太陽の光で暑すぎることはあるけれど、家の中に入ってしまえば気にならない。当然ながら、四季も存在しない。
 地上の生活をしてきた人間は、快適だが面白みに欠けると言うだろう。最も、百年の間で地上の生活を送ったことのある人間は既にいなくなっているのだが。
 閉ざされた世界で、エデンの人間は独自の生活を作り出していったのだった。


「ああもう最悪だッ!」
 エデン居住エリアA−SL通称『レイラン』
 商店街から程近いこのエリアは、高級住宅街といっても過言ではない。そんな中、一際目立ってそびえたつは、エデンで一番の高層マンション・朝影。五十四階建ての新築マンションである。そのエントランスホールで、びしょびしょで濡れ鼠より酷くなった学ランの少年――倉崎草太郎は、そう悪態をつく。
 エデンで月に二度降る雨は、南米のスコールを思わせるほど強く、激しい。締められたガラスの自動ドアの向こうは、相変わらず突き抜けるような晴天で、太陽も輝いている。それなのに、周囲の景色がけぶってよく見えないほどに、雨は強く地面を叩きつけているのだ。一種異様な光景に思えるが、エデンでうまれてエデンで育った草太郎からしてみれば、至極当然の事だ。
 すっかり失念していたが、今日は雨の日だ。今朝テレビでも言っていたのに、傘を持って歩くのが面倒だったので手ぶらで家を出たらこのザマだ。こんなこともあろうかと事前に連絡しておいてよかった。
 はふ、と妙な溜息をつき、草太は何基もあるエレベータから、最上階直通の専用エレベータのボタンを押した。運悪くエレベータは最上階に止まっている。これは最上階と一階にしか止まらないので、こう言うこともままあるのだ。待っている間、草太郎は何気なく辺りを見回す。
 チリ一つ落ちていない滑らかな大理石が、天井高くにつるされたシャンデリアの、金の光を反射している。控え目に施された装飾も、よく見ればそれがかなり凝ったものだと分る。高級ホテルさながらである。これで五四階建て、セキュリティシステムはばっちり。おまけに築五年の割と新しいマンションだ。家賃はなんだかもう凄い事になっているらしいが、草太郎は此処に住んでいないので、詳しい事は知らない。
 守衛らしきおじさんに軽く会釈をして、草太郎はついたエレベータに乗り込む。エレベータの中もなんだかそこはかとなく豪華だ。最上階のボタンと、ついでに暗証番号を入れなければなら無いのは、朝影の最上階がまるまる一フロア、一人の人間の部屋になっているからだ。ドアが閉まります、とスピーカーから音声が漏れる。
 濡れた体でエレベータの壁にもたれるのはどうだろう、と考え、草太郎は結局中央に直立不動の姿勢をとった。
 エレベータはぐんぐん昇って行く。やがてチン、という軽い音を立てて止まった。ドアが開きます、と声がかかり、ゆっくりとドアが開く。扉が開くと、そこはすぐに靴脱ぎ場になっており、ついでに事前に草太郎の連絡を受けた少年が、腕を組んで立っていた。
 流れるような長い黒髪に、白い肌。少年のような少女にも見えるし、少女のような少年にも見える。六割がたの人間は、散々迷いに迷って「……女の子?」との結論をだし、眉間のしわを深くした、女に間違われる事を嫌う少年に、嫌味をあびせられるか裏拳を喰らう。ちなみに草太郎はミドルキックだった。
 何はともあれ、この部屋の主でもあり草太郎の親友でもある少年は、服を着たまま海で二時間泳いだような状態の草太郎に、ただ一言。
「……馬鹿か、お前」
 と言った。


 草太郎にとって、マンション朝影の最上階は、もう一つの我家と言っていい。それでも、ここにくるたびに、部屋は持ち主に似るな、と思ってしまうのだ。
 黒を貴重とした高価ながら落ち着いた家具が、モデルルームさながら整然と並べられている。綺麗に掃除されているせいか、生活感があまり感じられない気もするが、部屋の主を見てみると、なるほど此処は確かに彼の部屋だ、と実感するだろう。まるまる一フロア使っているため、ドアが居間にも廊下にもついており、それだけで迷う人間も少なくない。
 草太郎でさえたまに迷う。もっとも、部屋の主である神林あおは、迷う事などないのだが。
「死ぬかと思った……」
 頭をバスタオルでわしわしと拭きながら、草太郎は呟いた。とりあえず風呂を借りてさっぱりした草太郎を横目で見ながら、あおは軽く溜息をつく。ぬれた学ランは洗濯機に放り込んである。明日は補習も学校もとりあえずないし、何より乾燥機がついているから大丈夫だろう。
 あおの部屋に置いておいた草太郎用のシャツとジーパンを身に付け、我家のごとくソファでコーラを飲む。それでもあおは何も言わない。言うのが面倒臭いだけなのか、雨に降られた自分を少しは同情してくれているのかは、分らないけど。
 時刻は午後二時二十分。
 壁の一面を使った窓からは、もう雨は降っていないことが伺える。此処からだと高すぎて見えないが、今ごろ道路に設置された機械が、余分な水溜りや水分を吸収しているだろう。
「どうにかなんないのかな、あの雨の強さ。本気で死ぬかと思ったぞ。何もあそこまで強くしなくてもいいよなぁ」
 コーラに入れた氷を噛み砕いて、ぼんやりと窓の外を眺めてそう呟く。
「自然災害に文句つけてもしかないだろ」
 本気なのか、冗談なのか。あるいは皮肉かもしれない。
 コンピュータで管理され、降る時間から止む時間、果ては成分すら地上に降る雨をもとに、人に害をなすようなものは取り除かれた、作られ、管理された雨に対しては、およそ似合わない言葉。
「自然災害じゃあないだろ……」
 それに律儀に突っ込みを入れつつ、草太郎はついでとばかりにクッキーの缶も開ける。
「全く、雨の日に傘持ってかないなんて、なに考えてんだお前は」
 揶揄と非難と嘲りと呆れと説教を器用に一緒くたにして あおはクッキーにかじりつく草太郎に話し掛ける。自分用のコーヒーを淹れて、それに砂糖とミルクをティースプーンでかき混ぜながら、テーブルの向かいがわのソファに腰掛けた。細くしなやかな指先がクッキーをつまむ。
「講義が遅れたんだよ、十七分だぞ十七分。普通に終ってたら間に合ってたっ」
「普通に終らなかったじゃないか。仮定の話をするな」
 取り付く島も無い。無表情にそう言い切られ、草太郎は僅かに顔をしかめる。
「なんだよ、お前は半ヒキコモリだからいいけどな」
「……誰が引きこもったか」
「必要な時しか外でないじゃん、お前」
「必要のないときに外に出てどうする」
 最近、必要な時も外に出ていない気がする。学校は出席日数がぎりぎり大丈夫な程度しか行かないし、そのくせして成績は謎にいい。外に出るのが面倒臭いので買い物に行かず、死にかけたのを保護した事もある。
 それを言うと、だから何だと鼻で笑われた。
「……お前相変わらず爆裂不健康街道を南に向かって突き進んでるんだろ」
「なんだその怪しい街道は」
「遅寝遅起で外にも出ない上に三食ろくに食べないで、食べたと思ったらジャンクフードとコーヒーなんだろ」
「……菓子類も食べてる」
「自慢になるか」
 憮然と言い返す友人にすっぱり言ってやって、それで僅かに溜飲が下がる。
 さっきコーラを取りに言った時見た冷蔵庫の中身は、呆れるほどの弁当やらパックの惣菜やらが積み重なっていた。まともに料理する気はないらしい。米を炊くだけ、まだましか。
 この広い家に、あおは一人暮らししている。高校二年生で一人暮らしというのは、学校側も良い顔をしない。おまけに、どこかに下宿ならまだしも、高級マンションの最上階をまるまる使ったうえ、他に同居人もおらず、完全に自分の事は自分でやらねばならないとなれば、なおさら。
 彼の親が何を考えてこんな何もかも面倒臭がって、そのうち息するのすら面倒臭がって死にそうな奴を、一人暮らしさせようと思ったのかは分らない。まあそこは家庭の事情で、草太郎が口を出す問題でもない。
 草太郎はよく面倒見が良いといわれる。あおにはお節介といわれるが、他者との関り合いを拒むあおには、お節介な位が丁度いいというのが、草太郎の見解だ。
「おまえなぁ、そんなんで学校卒業したらどうするんだ?」
「お前こそ、そんな破滅的な成績で卒業できるのか?」
「でーきーまーすー」
「どうだか」
 小馬鹿にするように言われた。
 可愛くない。全く持って可愛くない。可愛いと言えば眉間のしわを深くしたあおが百倍くらいにして言い返すのを解っているので、可愛くなくていいのかもしれないが。
 底にたまった砂糖の甘さを楽しむかのように、あおは残り少ないコーヒーを一気に流し込む。台所へ向かうその背に、草太郎はぼんやりと呟いた。
「あー帰んの面倒だな……」
「泊まってくのか?」
 飲み終えたコーヒーのカップを水を張ったシンクに沈めながら、あおは振り向かず問う。
 泊まっていって、まともな夕飯を作っていってやりたいのはやまやまだ。しかし、今日は宿題がある。明後日までには絶対終わらないだろうと言う宿題の量を思い出し、草太郎はげんなり肩を落とした。
 ちなみに、あおは頭はいいが他人の勉強事情に口を出さない。すなわち、頼んでも手伝ってくれない。
「やめとく。宿題死ぬ気でやんなきゃいけないし」
 そう返すと、鼻で笑われた気がした。思いっきり馬鹿にしている。
 いつものことだし、と大して気にする事無く、草太郎はクッキーの最後の一枚を口に放り込んだ。台所から戻って来たあおが、こいつ全部食いやがった、という目で睨んでくる。
「悪かったって。今度クッキー買って来るから」
「当たり前だ」
「……さいですか」
 当然、とばかりに返す友人に、草太郎は笑う。
 鈴鳴堂のクッキー、確か新しいの発売してたな、とか、それとも、スクランのオレンジクッキーがいいかな、など、思考をめぐらす。あおに土産を選ぶのはなかなか楽しい事なのだ。
 何はともあれ、そろそろ帰ろう。殺人的な宿題をこなさねばならないし。
「帰るのか」
「そうする。クッキー御馳走様でした」
「ありがたく思え」
「そう思います……じゃーな」 
「ああ」
 軽い別れの挨拶に、ソファに身を沈めたままあおがそう返す。
 いつも通りの会話を背に、草太郎は朝影を後にした。


 あおがその存在に気付いたのは、草太郎が朝影を後にしておよそ一時間後、衣類を洗濯機に放り込もうとしたときだった。
「……」
 見覚えのある黒いものが、洗濯機の底で絡まっている。
「……」
 それはどこからどう見ても、草太郎の学ランだった。
 乾燥も既に終ったらしい、乾いているそれを、あおは眉間にしわを寄せて取り出す。間抜けなのは、渡してもらうのを忘れた草太郎か、それとも渡すのを忘れたあおか。
 ちっと軽く舌を打ち、学ランを洗濯機の横の棚に乱暴に放る。そして、代わりに自分の持っていた衣類を詰め込んだ。
(あいつ自分のもんなのに忘れやがって)
 あおの中では早々に悪いのは草太郎だと結論がついた。放っておいても別にいいのだが、きっとこのまま気付かないで、明後日になって慌てるだろう草太郎の姿が簡単に浮かぶ。だからと言って、彼の家まで持っていくのは面倒臭い。道のりにすると、いそいで五分。のんびり行けば七、八分。
 暫く考え込んだあと、しょうがないな、と呟いてあおは居間に戻る。
 棚からアイロンを出して、おざなり程度にかけておく。綺麗にとはいえないものの、しわにならないよう一応たたんでおいて、紙袋に突っ込んだ。届けに行くのは面倒なので、あっちからきてもらう事にした。彼の携帯に電話をかけようとして――いきなり、玄関のドアであるエレベータが開いた。それに、わずかに眉をひそめる。
 現在鍵を預けているのは、草太郎しかいない。両親にすら鍵は預けていない。あの馬鹿が戻ってきたにしては、足音が複数ある気がする。それもコツコツと言う音からして、革靴だ。草太郎はスニーカーをはいていた。それに、当然の事だが靴は脱ぐ。
 誰だ、と警戒するのは、当然のことと言えた。居間に現れたのは、数人の男だった。黒いスーツに、案の定黒い革靴を履いている。汚れた廊下を目にとめて、あおは軽く舌を打つ。掃除が面倒だ。見覚えは全くない連中に、何故こんな手間のかかる事をされるのか。なにかのエージェントのごとく、黒尽くめで固めている男たちを軽く睨む。
「こんにちは」
「土足で入ってくんな」
「お尋ねしたいことがあるのですが」
「無視か」
 会話にならない。無意識的にしているのではなく、相手は確実に、意識してやっている。自分たちの要求のみ押し通すつもりなのか。
 視線のきつくなったあおにひるむ事無く、黒服の男たちは口を開いた。
「           」
 告げられた言葉に、あおは僅かに目を見張った。



第一話『(クッキー+少女)÷黒服=超常現象?』



 倉崎家の家事は分担制だ。
 母親が十年前に他界して、父親は仕事が忙しく、滅多に帰ってこない。実質的に言えば、妹と二人暮し。昔は草太郎一人で家事全てをこなしていたのだが、妹の佳織が中学校に入ってからは、家事は週代わりで交代することになった。今週は草太郎が料理と洗濯だったので、昨日買っておいた食材でカレーでも作ろうかと思っていたのだ。
 時刻は午後四時十分前。
 夕飯には早すぎるが、カレーならいつでも温めて食べられるし。
 最近お年寄りの間で流行っている演歌を歌いながら、玉ねぎの皮をむいていく。何故か身につけているのは割烹着で、傍から見ると間抜けな事この上ないのだが、包丁を扱う手は熟練主婦並だから、ミスマッチなことこの上ない。
 サビの部分を情熱的に歌い上げていると、階段を下りる音がする。佳織だ。
「ちょっとお兄ちゃん、声、外まで漏れてるよきっと。お向かいの長谷川さんが笑ってたもん。恥かしいな」
 見れば確かに台所の窓が全開になっている。
 下りてきて早々文句を言う妹に、それでも草太郎は大人しく歌うのを止める。近所に歌が聞こえているのは、正直恥かしい。このまえ向かいの長谷川さんに「草ちゃん歌が上手ねぇ」と言われた時は、暫く思考が停止した。おまけにチョイスする歌が演歌なのだから、尚更恥かしい。否、現代的な歌でもきっと恥かしい。しかもノリノリで。いつだったか演歌をラップ調で歌っていた時、あれも聞かれたのだろうか。もう暫く近所を歩けない。
「あれ?」
 思考に沈みながらも器用に人参を切っていた草太郎は、佳織の訝しげな声で現実に舞い戻ってきた。振り向けば、佳織はまじまじと草太郎の服を見ながら、呟いた。
「お兄ちゃん、今日学ランじゃなかったっけ?」
 その言葉に、持ってくるのを忘れた学ランを思い出して 草太郎は完全に動きを止めた。


 五分後。
 草太郎は家の外を歩いていた。結局カレー作りはトイレ掃除と引き換えに妹に任せ、あおの家に学ランをとりに行く事にしたのだ。別に明日でも良かったのだが、明日は自室に引きこもって宿題を総て終らすつもりだったのだ。善は急げとも言うし、今から行っても大丈夫だろう。
 雨が上がったためか、商店街はいつものような賑わいを取り戻している。値切る主婦の声や、客引きをする店員の声。夕方には少しは早い、商店街の空気。
 それを吸い込んで、草太郎は思い立ったように道を引き返す。八百屋と魚屋に挟まれて、こぢんまりと建っている一軒の店。洋菓子屋・鈴鳴堂。金字でそう書かれた店のガラス戸を開ける。
「いらっしゃーい」
 カウベルの音に重なって、店員の明るい声が響く。
 鈴鳴堂は、今日も繁盛しているようだ。スペース的には狭いが、棚と中央のテーブルをフルに活用して所狭しと並べられた菓子類の甘い匂いが、店内に満ちて食欲をそそる。客は子供連れや女性が大半だが、ちらほらと男性客の姿も見えた。
 一通り見て回ったあと、草太郎は新商品のクリームクッキーへと手を伸ばす。爽やかな甘味がいい、と草太郎の通う高校でも、おおむね評判なそのクッキーの、最後の一つを手にレジへと向かう。
 ついでで缶コーヒーも二つ同時に購入して、店員の「ありがとうございましたー」という入ったとき同様、明るい声を聞きながら、草太郎は店を後にした。
 鈴鳴堂からマンション・朝影まではそう遠くない。草太郎の家より、朝影のほうが近いくらいだ。程なくして入った朝影のある高級住宅街は、商店街と比べて人通りが少なかった。誰もいないのをいい事に、草太郎は空を見上げたまま歩き出す。雲一つない晴天。エデンは雲の上にあるので、曇る事もない。ゆえにいつも同じような天気なのだが、それでも一枚の板のような、透明で限り無く澄んだ青空は、見ていて飽きがこない。
 何と無く楽しい気分になって、草太郎はへらリと微笑んだ。
「ふーんふんふんふん……っと、うわぁっ!」
 調子に乗って鼻歌まで歌ってしまう。傍から見ればかなりアレな人だが、幸い周囲には誰もいない。
そのせいで、気を抜いていたのかもしれない。足元が不注意になっていたらしい草太郎は、何かにつまずいて前につんのめった。二、三歩たたらを踏んで、転倒は免れる。誰もいないとしても、転ぶのはいやだ。
 よそ見していた自分のことは棚に上げて、思わず悪態をついてしまう。
「っぶないなぁだれだよ、こんなトコに人がつまずくようなもの置い……」
 置いた奴、という言葉は途中で途切れた。草太郎がつまずいた物体エックス――心なしか、白いツーピースのようなものを着ている気がする。言われてみれば、スカートと思しき布から伸びているのは、白いソックスを履いた細い足のような気もする。腕、かも知れない白いものが投げ出され、それを覆うような髪すらも、白く長かった。
 おそるおそるその物体エックスを仰向けにひっくり返す。
 長い白い髪をそっと払うと、その間から白い顔が表れた。白い、といっても、病的な白さではない。雪のような、健康的だが神秘的な――透き通った白さ。頬に影を落とす睫も、存外長い。薄く開かれた桜色の唇から漏れるのは、安らかな寝息。
 もしかしなくても、それは少女だった。それもかなりの美少女。触れたら解けてしまいそうなほど、儚いさまは、まるで本当の雪の精のよう。
「……」
 全身真っ白な少女を目の前にして、草太郎は黙り込む。何だよもー寝相わるい人だなぁと思うほど、草太郎の頭はオメデタク出来ていない。とりあえず助け起こして、頬をぺちぺちはたく。
「おおーい。生きてますかぁ」
 ビクビクしながら呼びかけると、少女の眉根が一度、苦しげに痙攣した。はっと息を呑んで少女を凝視していると、少女の双眸がそっと開く。綺麗な蒼の瞳が潤んでいるように見えて、一瞬ドキリとする草太郎のことなんか当たり前に放っておいて、少女は空気を取り入れるためにのみ開かれていた唇を動かす。
「……さま、どこ……?」
「さま?え、なに?」
「はやく、しないと……が、こわ、れ、る……」
 全く要領の得ないことを、虚ろな瞳で喋る少女。ところどころ聞き取れない箇所もあり、尚更意味不明だ。何が壊れるのかを問おうとした瞬間、少女の瞳は白い瞼に閉ざされる。
「どうすりゃいいんだよ……」
 後にはただ、途方にくれた草太郎のみが残った。


「悪いが、それは出来ない」
 マンション・朝影の最上階で、神林あおはリビングに押し寄せてきた黒服たちを睨み、きっぱりと言った。言われたほうは気に食わなさそうに方眉を上げる。
 眼鏡をかけた、インテリ系の男だ。生気の無い目をする集団の中、彼だけが無表情だが、感情らしいものをもっているようにも見えた。おそらく、彼がリーダー格だろう。
「何故?あなたはここがどうなってもいいと?」
「そうは言っていない。この状態を保つためだったら、他に手立てはある」
「……あんな時代遅れのモノを使うおつもりで?」
 黒服の顔に、嘲笑らしきものが浮かぶ。あからさまに馬鹿にした態度と言葉。表情が浮かんだのは、あおと喋っている黒服のみで、ほかの男たちは相変わらず向き質な瞳を向けていた。あおは大して気にすることもなく、男たちを睨みつけたまま淡々と答える。
「時代遅れ?そうか。お前等の生贄じみたやり方も、充分時代遅れだと思うがな」
「一人の犠牲で、また暫くの間平和が約束される――貴方達のやり方が、必ず成功する保証がどこに?」
 その問いにあおはすっと目を細めた。妙に迫力のある表情に男たちが怯むさまを、無感情に見返し、それでもあおは力強く言葉を発する。真っ直ぐした、決意とも取れる光を瞳に浮かべて。
「これは必ず成功させる――成功させなきゃいけないんだ」
 男の質問の答えにはなっていない。それでも、あおは構わず続ける。
 真っ直ぐに、ただ前を見詰めるように。
「だから、邪魔をするな」
 言いながら、あおは居間に備え付けられた、背の低い棚へ徐々に移動していく。傍から見れば、この状況を打開すべく逃げ道を探しているように見えるだろう。
「……邪魔をするなといわれましてもねぇ。貴方達の動きには、私たちも困っているのですよ」
 そう言って眼鏡の男は懐に手をつっこんだ。取り出されたのは、黒光りするレーザー銃。
 軽く眉根を寄せて、あおは棚へ向かう足を僅かながら速めた。
「お前達の邪魔をしているつもりは無いが?」
 言いながら、ちらりと横目で棚を見る。距離はもう少し。棚の上で、花瓶に挿された百合の花弁が一枚落ちる。
「『夜叉』を差し出さない時点で、貴方は充分私達の邪魔をしている……棚が気になりますか?」
 眼鏡の男の問いに、あおはぎくりと体を硬直させてしまう。直後に、しまった、と自分で自分の迂闊さを呪った。あんなあからさまに動きを止めれば、棚に何か仕掛けをしたと思われて当然だろう。
 室内に緊迫した雰囲気が流れる。銃を向けられて一歩も動けないあおに、眼鏡の男は冷笑を送る。
 銃の引金に指がかけられた、そのとき――
「あおー入るぞ?」
 玄関から響いた間抜けな声に、あおは小さく舌打ちをした。


 あのあと、少女を抱えたまま何軒か家を訪ね歩いた。結果、少女を知っている人はいなかった。
 道行く人にも尋ねてみた。結果、少女を知っている人はいなかった。
 少女を起こしてみようとも思った。結果、少女は起きなかった。
 そして暫く右往左往した草太郎は――とりあえず、あおに相談する事にした。
 守衛さんに怪しいのものを見る目で見られ、愛想笑いを浮かべながら、草太郎は運悪く最上階の方に止まっていたエレベータを呼び戻す。少女を負ぶさって、片手にクッキーと缶コーヒーの入った袋を持つ草太郎は、かなり目立っている気がした。少女が真っ白でなくて、せめて靴をはいていれば、もう少し目立たなかった気がしないでもない。
 着いたエレベータにさっさと乗り込んで、人目に触れる前に扉を閉めようと、「閉」のボタンをかなりのスピードで連続して押した。勿論それでエレベータの扉が早く閉まるはずも無く。のんびりと自身のペースで扉は閉まる。ドアが閉まります、という合成音に馬鹿にされた気がして、草太郎は暫く落ち込んだ。
 走行しているうちに最上階に着いたらし。草太郎はエレベーターを降りた。
「あおー入るぞ?」
 玄関で一応声をかける。返事はないものの、玄関に靴があるし、あおがいつも室内で履いているスリッパがないので、恐らく家にいるはずだ。人の気配に、廊下の電気が自動で点いた。明りにさらされた廊下の惨状に、草太郎は僅かに首を傾げる。
 廊下に付着している、無数の足跡。どれも全く同じに見えたが、一人の人間でこれだけの足跡をつけるのは難しい。何回も居間と玄関を往復しなければならないし、恐らく此処までつける前に、几帳面なんだが大雑把なんだがわからない友人にフライパンで殴られる。
 耳を済ませば、微かにリビングから話し声が聞こえる。
「あーおー。お客さんかぁ?」
 だから出られないのかもしれない。まずいタイミングに来てしまったが、今更引き返すのもどうだろう。大体廊下の足跡をつける客なんて……一体どこの国の人を呼んだのだろうか。
 肩に担いだ女の子のことをどう弁解しようか、と頭の中で考えながら、草太郎は居間の中に足を踏み入れ――
「は?」
 固まった。
 居間には七、八人の男たちがいた。皆、黒いスーツに黒い革靴。全身黒で固めている男たちが、足跡の主だろうか。これでサングラスをかけて銃を持たせたら……きっと面白い。否、そうではなく。
 どう見てもカタギに見えない人間の無機質な瞳がこちらを向いている。そしてその中に。見なれた小柄な姿を見つけ、草太郎はとりあえず安心した。
「倉崎! 何で此処に来た!?」
 切羽詰ったような様子のあおの顔色が、草太郎が背負っている少女を見た途端、変わった。その変化に、黒服たちを驚いて眺めていた草太郎は気付かない。
「あお?お前こう言う人達を友達にするのはちょっと。いや、人は見かけによらないって言うからもしかしたら、動物ランドのオーナーとか、そういう落ちが待ち構えてるのかもしれな」
「それをよこせ!」
 草太郎の言葉を遮って叫んだのは、あおの向かいに立っている眼鏡の黒服だ。
 言われた草太郎は、きょとんとして眼鏡の男とあおを見た。何がなんだかさっぱり解らない。
(それ? それってどれ? もしかしてクッキー? クッキーなのか!? 何でこの人クッキーにこんな必死になってるんだ? 鈴鳴堂に行けば普通に売ってるって……場所知らないとか? でもこの人達、クッキー貰いにわざわざあおの家に土足のうえこんな大人数で押しかけたのか? それってどうなんだ? あぁっ! って言うかクッキー一人分しかねぇじゃんか! 此処にいる人達全員には配れないぞ!?)
 超高速で思考が組みあがっていく。ともかく、このクッキーを渡せばいいのか。二〇〇円は惜しいが、この状況でそうも言ってられない。クッキーはまた買えばいいだろうし、あおだってこの状況を打破すべくクッキーを渡すのだ、文句は言うまい。
「えーと渡すのは別にいいんですけど……」 
「渡すな、倉崎!」
 眼鏡の男に近づこうとした、そのとき。
 あおがあげた叱咤の声に、草太郎は目をぱちくりと瞬いた。
 そんなにクッキーが食べたいのだろうか。たしかにあおは甘党だ。滅多に学校にこないくせに「六組の神林って常軌を逸した甘党なんだって」と噂されるくらいの甘党だ。クッキーが好きなのも知っている。
 しかし。
「渡すなって、だって渡さなきゃなんかダメっぽいし……」
「いいから渡すな!」
「早く渡せ!」
 あおの言葉に被せるように、眼鏡の男が怒鳴る。正反対の事を両側から叫ばれて、草太郎はちょっとビクつく。
 それより、あおはともかくとして、眼鏡の男のこの大人気なさはどうだろう。奇妙なものを感じながらも、草太郎はとりあえずあおと眼鏡の男に近付く。ここはどちらかを説得せねばなるまい。眼鏡の方はなんか恐かったので、草太郎はあおに話し掛ける。
「あお……クッキーならまた今度買ってやるから。な?」
「クッキーじゃない! 阿呆かお前は!!」
「え?」
 妥協案として出した言葉を、妙な方向からあっさり否定され、草太郎は間抜けな声を上げる。
 クッキーではない、とはどういう事か。確かにクッキー一つに此処までムキになるのはおかしいと言えばおかしい。だからと言って、草太郎は他に何も持っていない。
 そこまで考えて、思考が停止した。草太郎が今持っているものといったら、クッキー一袋、財布やら何やらが入ったカバン。そして――白い服に身を包んだ、真っ白い謎の少女。
 まさか渡せと言うのは、もしかしなくても。
「この子だったり、する?」
「何で気付かないんだお前は……っ!」
 いつもなら呆れたように呟かれたろうその言葉は、焦りと苦々しさを伴って草太郎の耳を打った。
 見れば草太郎の行動を、渡す気なしと判断したのか、眼鏡の男が臨戦体制をとっている。よく見れば手にレーザー銃らしきものを持っている。この状況で本物かどうかを疑えるほど、草太郎は疑り深くない。他の黒服たちも、機械のように無感情だった瞳に、好戦的な色を浮かべている。
 逃げようと、あおの手を引っ張った。しかし、あおと草太郎のいる所は部屋の一番奥で、出口であるエレベータへの通路は完全に固められている。後ろには窓ガラスがあるが、ここは五十四階。飛び降りたら、死ぬことは間違いないだろう。
 こんなさっぱり訳の判らないことに巻き込まれて死ぬのは、真っ平ゴメンだ。かといって逃げる手段はない。もともと家具や置物が少ない家だから、武器になりそうなものもない。
 絶体絶命という言葉が、頭の中に浮かんでくる。
「それを渡せば、あなたの命だけは助けましょう」
 悪役がはくお決まりのその言葉に、草太郎は眉根を寄せる。
 こんな状況なのに、頭の中は驚くほど冷静だ。おそらく、この事態をまだ現実のものとして受け入れていないのだろう。目が覚めて、これは夢でしたと言われても、疑問に思わないほど。
 それでも――夢でも現実でも、この男の言い種はなんなのか。
「悪いけど――何があるかはしらないけど、この子は渡せない」
 はっきりそう告げる。眼鏡の男の瞳に冷たい色が浮かんだのを見て取り、それでも言葉を続ける。
「あおが渡すなって言ってるし……それに、俺だけ助けるってことは、あおには手出しするってことだろ?第一、人のことあれこれ表現する人間は碌な奴がいないからね」
 だからダメだ、とそういい切る草太郎を、眼鏡の男は鼻で笑う。
「なら、しょうがありません。二人そろって……」
 二人そろって、どうなるのか。その先はわからなかった。
 眼鏡の男の言葉より早く、あおが動いた。近くにあった、腰程度までの棚の上にある花瓶を倒す。ガラスが床に落ちて水がカーペットを濡らすが、それにかまわず花瓶の下の木目を手のひらでなぞる。
 全く無駄のない、滑らかな動き。黒服たちがそれに気付いたのは、あおがあらわれた何かの図形の周囲に、指先で円を描いた時だった。
 それが、合図の様に。
 かたり、と音がする。
 音を立てたのは黒服達ではない。草太郎でも、あおでもない。皆彼の行動に驚いて動きを止めている中、奇妙な静寂にその音はやけに響いて聞こえた。
 動いているのは、壁に掛けられた絵画だった。日溜りの中、ライオンとその周りを戯れる妖精達が描かれた絵。淡いタッチのその色合いが、ぼんやりしていた輪郭が、はっきり浮かび上がってくる。
 かたり。かたり。
 音はそれだけではやまない。部屋のいたるところから、数少ない絵や置物から、それぞれ聞こえてくる。
 まるで部屋自体が振動しているよう。
「あお……?」
 なにしたの、と小声で問い掛ける草太郎に、あおはちらりと視線を向けただけだった。
 動揺する草太郎と黒服を差し置いて、あお一人だけが冷静だった。
 変化が真っ先にあらわれたのは、氷の女神とペガサスの絵だった。二次元的な絵が段々と三次元的に……立体的になってくる。かたかたと揺れる部屋の中で――ペガサスの嘶きが、空気を振動させた。
「え」
 なんで、と。そう問う暇もなく。
 部屋の中が動き始める。
 ペガサスが鼻ずらをブルリと震わせ、隣で杖を掲げていた女神がたおやかに微笑む。べつの絵のライオンが大きく吠え、周囲で戯れていた妖精たちがさざめくように言葉を交わす。騎士の置物ががしゃがしゃと鎧の関節を動かして、剣を高々と振り上げる。オルゴールの上の天使が羽を動かし、ラッパを吹き鳴らす。陶器の犬がのっそり起き上がり、周囲を見渡して唸る。ガラス製の仔猫たちは割れないようにそっと棚から降り、その周囲をやはりガラス製のアゲハチョウがひらひらと飛び交った。
 幻のような光景に、黒服の男たちでさえ飲み込まれた様に立ち尽くす。
「あ、お。これ、一体……」
「逃げるぞ」
 固まる草太郎に、あおは言い放つ。
 逃げる、と言われたって、出口は黒服達が塞いでいる。この光景に呆気にとられているとは言え、恐らくそう簡単に逃がしてはくれまい。
「そっちじゃない」
 端的にそう言い、後ろのガラス窓をこつりと叩く。
「ここからだ」
「……はぁ?」
 さっきから驚いてばっかりだ。
 そう思ったとき。
 絵からペガサスの足が突き出した。明らかにペガサスの大きさと、額縁の大きさはあっていないのに、それでもなんなくペガサスはその白い肢体をこちら側へあらわにする。そして、その後に続くように、蒼い杖を持った女神も。
 それだけではなかった。
 ライオンや妖精も、次から次へと現れる。絵の中から、こちら側へ。
 そして剣を片手にしていた騎士も、棚から降りたつど同時に、その姿を人間となんら変わりないサイズにしていた。
「な、なんだこれはっ!」
 黒服の一人がようやく我にかえって、悲鳴じみた怒声をあげる。
 それに、他の男たちも我にかえり始めたのだろう。きつい目で、あおを睨む。
「貴様っ」
 この状況を作り出した張本人であろうあおに掴みかかろうとした男の足が、寸でで止まった。オルゴールの上に居た天使達が、妖精と一緒に男の服や髪をひっぱている。きゃっきゃという楽しそうな笑い声が、怒声とかさなって部屋の空気をふるわせた。
 あおは部屋の様子を一度くるりと見回し、窓の開閉ボタンを押す。ウィーン、と機械音がして、窓はゆっくり開いた。そこから入ってくる風は、冷たくもなければ暖かくもない。エデン特有の、風。
 呆気にとられつつもその風を感じていた草太郎は、次の瞬間おもいっきり引っ張られた。
「え?」
 引っ張ったのは他でもない、あおだった。
 慣性に従って、重力に従って。あおと草太郎、そして草太郎が担いでいる少女の体は、窓の外に投げ出される。やけに周囲がゆっくり動いているように感じる。本当は、高速で落ちているのだろうに。
「うわああぁぁぁっ!」
「うるさい」
 悲鳴をあげるのは人として当然な気がする。しかしあおは落ち着き払ってそう切り捨てた。
 灰色の地面がどんどん近くなる。きっと明日の新聞の見出しはあれだ『朝影で飛び降り自殺。男女三人が心中』とかだ。
(お父さん、佳織……先立つ不幸をお許しください……)
 胸の中でそう呟いた時。がくん、と落ちる速度が弱まった。。
 みれば、自分たちの服を天使と妖精が掴んでいる。小さい羽を懸命にパタパタ動かしてはいるが、宙にとどまる事は出来ない。それでも、格段に落ちるスピードは減っていた。しかし――地面まで後少しの時。天使達の手が急に離れた。
「う、わ」
 慌てて担いでいた女の子を上にする。
 一瞬後、腰と背中に襲ってきた鈍痛に、草太郎は顔をしかめる。あおはちゃんと着地したらしい。余裕の表情で仰向けにひっくり返っている草太郎と少女を見下ろしている。
「大丈夫か?」
「なんとか。でも……」
「あの黒服なら大丈夫だ。あと三十分はどうにも出来ない……何時まで寝てる気だ。ひとまず此処を離れるぞ」
 さらりと言い、あおは草太郎に手を差し伸べる。なんとなく理不尽な気がしないでもなかったが、それでも草太郎は大人しく手を借りて立ち上がった。
 思わず朝影の最上階を見上げてしまうが、そこはいつもとなんら変わりない。窓があいているかどうかすら、この距離では確かめられない。当然ながら、何の音も聞こえない。
「倉崎、行くぞ」
 ぼぅっと上を見上げていた草太郎を、呆れたようにあおが呼ぶ。
「とりあえずお前の家に行こう。それでいいか?」
「ああ……」
 ぼんやりと返事をする。とりあえず、聞きたい事がたくさんあった。あの黒服のこととか、この少女のこととか、さっきの幻のような出来事とか。そして――あお自身がいったいなんなのか、とか。そのためには、どこか落ち着ける場所が必要だ。最適なのはやはり、草太郎の家だろう。
 こんがらがった頭を一度軽く振り、改めて少女を担ぎなおし、草太郎はあおに続いて歩き出す。
 夢のような現実が、早く覚める事を願いながら。




――それでも俺は、この事件がこれで終らない事を、どこかで理解していたんだと思う。



第ニ話『日常の話』



 能天気なチャイムの音がスピーカーから流れ、四時間目の終わりと、昼休みの始まりを全校生徒に告げる。途端にがやがやと活気を取り戻す教室。話題はもっぱら、先ほど数学の授業で行なわれた抜き打ちテストの事。抜き打ちテストを好む数学教師は、例によって例のごとく、散々なテストの結果を嘆く生徒に、どこか嬉しそうな笑みを浮かべて去っていった。
 草太郎は窓際の一番後ろの席で、大きく伸びをした。背中がゴキリと音を立てて痛むが、これが結構気持ち良い。教室の窓から見えるのは、広いグラウンドと青い空。抜き打ちテストの悲惨さも忘れて、草太郎は窓から流れる風に身を任せる。
 昼休み、教室に残る生徒はほとんどいない。皆学食に行くか、中庭に行くか、屋上に行くか、はたまた駐車場にレジャーシートを広げるものもいる。雨が決まった時にしか降らない、と知っているからこそ、そして湿度も気温も、常に丁度良く設定されているからこそ、生徒たちは安心して外へ向かう。
 草太郎もそんな生徒の一人だ。
「草太ー、早くしないといっちゃうぞー」
 爽やかに風を受けていた草太郎を現実に戻したのは、友人の高田旭だった。派手に染め上げた金髪と、学ランの中に着込んだ赤いTシャツが目立つ旭は、相も変わらず間延びした話し方でのんびり歩み寄ってくる。見た目から一見ものすごい素行の悪い不良と勘違いされがちだが、旭は結構大人しい生徒だ。というより、ぼんやりしている。
 立ち上がった草太郎は、瞬間感じた、めまいにも似た感覚に二、三歩たたらを踏む。転倒は免れたものの、何と無く恥かしくなって浮かべた照れ笑いに、旭は微妙に眉根を寄せた。
「どうした?」
「ああ、立ちくらみ。かな? 二週間前からこうなんだ……風邪でもひいたかな」
「だぁいじょーぶ。馬鹿は風邪を引かないって昔の人が言ってるし」
 失礼の物言いに、むっとした表情は作るが、別に本気で怒っている訳ではない。すぐにいつもの表情に戻った草太郎に、旭は楽しそうに笑っている。
「旭、今日学食?」
「んーにゃぁ弁当もって来た。草太はー?」
「俺も弁当。屋上行くか」
 席を立ってのんびり歩き出す二人の周りを、男子生徒が学食の席を確保すべくダッシュで駆け抜けていく。草太郎たち二年生の教室は、学食から一番遠いから、席取りにも一苦労なのである。
 昼休み特有のざわめきをもつ校内を、屋上へ向けてゆっくり歩く。周りからしてみれば、こののんびりさが見ていて年寄りを連想させるらしい。のんびりしている人間は他にもいるのに、とたまに理不尽に思うが、そんなに気にした事は無い。
 屋上へ通じるドアをあけた。
 すでに生徒が二十人近くおり、それぞれがそれぞれのグループを作って会話と食事にいそしんでいる。草太郎と旭は、フェンスから一番近いところに腰をおろし、弁当の包みを開けた。
「旭テストどうだった?」
「それなりー。草太は……訊くまでもないかぁ」
「ボロボロでしたよ」
 苦笑すると、旭が微かに笑った。草太郎の数学の成績を良く知っているからだ。
 他愛無い話をしながら、卵焼きに箸をつける。チーズを中に入れて焼いた卵焼きは、妹の友人から好評らしい。誰かに美味しいと言ってもらえるのはいいことだ。
「あれさ、あの場で採点ってのがキツイよなぁ。おまけに隣と交換してだぞ。点数ばれるじゃないか」
「草太の隣の……誰だっけー、まぁともかく隣の人がさぁ、草太の採点楽しいって。あまりにも点数低いから」
「……そこまで低くない」
「低いだろー。補習組なんて、お前だけだったし」
 ケラケラと笑う旭に、張ったおしてやろうか、などと物騒な事を考えながらも、草太郎は話題を転換すべく言葉を探す。
「大きいテスト暫く無いもんなぁ。代わりに小テスト多すぎだろ」
 結果、こぼれたのは結局テスト関係のことだったが。しかし、旭はそれ以上は何も言わず、草太郎の話に合わせる。
「日本史も抜き打ちするらしいってさぁ。小柴が紅茶饅頭と引き換えに、大山センセーからネタを買ったそうな」
「ばらしたら抜き打ちにならないだろ……」
「紅茶饅頭、高いからなー。それにほら、大山センセーって日本史のセンセーだろー?賄賂は江戸時代の政治に於いて重要な技術の一つがうんたらっつってたらしーし」
「おいおい……」
 突っ込みながら、それでも、昼食を食べ終わったら少し勉強しておこう、と草太郎は気を引き締める。数学以外の成績はそんなに悪いわけではないのだが、それはテスト直前に集中して勉強するからであって、抜き打ちに対応できるほどのポテンシャルを、草太郎は持っていない。
(谷北さんとかなら頭良いからなぁ。テストとかも余裕そう……現にさっきの数学もクラスでトップだったし)
 ぼんやりそんな事を考えながら、頭のいいつながりでふと思い出す名前があった。最近連絡をとっていないその人物を、何とはなしに口にする。
「そういえばさ、あおから連絡、来た?」
 いきなり変わった話題に、旭は目をぱちくりと瞬かせ、噛んでいたおにぎりを飲み下し、ペットボトルの茶を一口啜ったあと、ゆっくり首を振った。
「来てない。神林も薄情だよなぁ、手紙の一つもよこさないなんて……」
「ま、新しい環境に慣れなきゃいけないしな。あいつ、大丈夫かな」
「だぁいじょうぶっしょ。言葉じゃあるまいし」
 それもそうか、と軽く笑い。
 軽く笑った瞬間にまたクラッと揺れた意識を正すように、草太郎は爽やかな青空を見上げた。エデン特有の、蒼いガラスのような澄んだ空を。
 思い起こされるのは、二週間前転校した親友の事。


 内容的には簡単だ。
 あおが遠くで働いている両親と共に暮らすことになり、あおの住んでいる居住エリアから一番はなれたエリアに引っ越すことになった、と。ただそれだけ。
 勿論、寂しくないと言えば嘘になる。それを聞いた時はたいそう驚いたし、挨拶もそこそこにいなくなった親友を恨みもした。しかし――長年別居(というには少し違うかもしれないが)していた両親と共に暮らせるのだ。電話もあるし、携帯もある。会いたくなったら、少し遠いが休みの日に電車で行けばよい。
 最も、あおは引っ越して一段落つくまで連絡はよこすな、と言って電話番号は愚か住所すら教えてくれなかったが。しかし、あの半ヒキコモリで人とのかかわりが大いに苦手だったあおの事、環境が変わったら何かと大変だろう。そういうわけで、草太郎と旭は今現在連絡待ちである。
 それが、二週間も前の出来事だ。最後に友人を見たのは、そう、忘れてきた学ランを取りに行ったとき、あのときは何も言わなかったのに、次の日になって突然の引越し宣言である。
『大した理由は無い。お前等に騒がれると五月蝿いからな……落ち着いたら電話する。じゃぁな』
 かかってきた電話は最後にそう締めくくられた。途中、コインの落ちる音がしたのを聞くと、あれは公衆電話だったように思える。携帯を使わないことと言い、どこかあおの様子がおかしかった気がするが……同じく電話がきた旭h、別におかしなことは何も無かったといっていた。
 そしてその電話を最後に、音沙汰は全く無い。
 夏休みに入ったら遊びに行こう、と草太郎は呑気に考えていた。考えながらも、いつもと変わら無い日常に身を溶け込ませているのだ。心の奥で引っ掛かる何かに気付かないまま。


 何の変哲も無い住宅街を、右手には学生カバン、左手にはスーパーの袋を手にした学生がフラフラ歩く。言わずもがな草太郎である。
 特売で、一パック七十八円で手に入れた卵を使って、今日の夕飯はオムライスだ。るんるん気分で家路に尽く草太郎を、ご近所さんは和やかな目で見守っている。
 ここ、エリアBーCNと、あおが住んでいたAーSLの境界線近くに位置する草太郎の家は、ありふれた住宅街のひとつである。近所には気のいいおばあさんや小学生が住んでいて、草太郎と同じ学校の生徒も数人いるはずだ。
 遠くで五時を知らせる鐘が鳴った。近くにある寺から聞こえてくるその鐘は、一種の時計代わりとして親しまれている。鐘の音に触発されたような、犬の鳴き声が耳に触れる。遊んだ帰りの小学生が、ランドセルを揺らしながら競って家路に着く。いつもと変わらないそんな風景を何とはなしに眺めながら、草太郎は帰宅した。
 家の中は静まり返っていた。人の気配はせず、シンとした冷えた空気が、靴を脱いだ足に染みる。電気をつけながら居間に入ると、案の定、そこには誰もいなかった。
 仕事で忙しい父はいないのが当たり前だ。では、妹はどうしたのか。
 見れば、電話の留守録のボタンが光っている。ボタンを押すと、合成音が日付と時間を告げ、メッセージが流れる。幾つかのメッセージを聞き流しつつ、ぼんやり聞いていると、不意に慌てたような少女の声が、静かな居間に流れた。
『っもしもし? 佳織です。友達と帰り、図書館よって勉強会してくるから。夕飯にまでには帰る。それと、あぁもうっ。こう言うときに限って電池無いんだから……ええと、トイレットペーパーそろそろ切れるそれで帰り買って来るからお兄ちゃん買わなくていいからっ。それじゃっ』
 最後の方は、いそいでいるためか早口で告げてきたのは、やはりというか妹の佳織だった。携帯の電池が切れそうだったららしい。
 ふむ、と草太郎は一度頷いた。
 トイレットペーパーの事をすっかり忘れていたが、佳織が買ってくれるから良しとしよう。出来る妹がいてよかった、と草太郎は安堵の溜息をつく。
 ちらりと時計を見る。時刻は五時五分。佳織は、なんだかんだで夕飯には絶対に間に合う。図書館の閉館時間は、今日は確か六時だ。
「って事は、六時半くらいだな、かえってくんの……」
 つまり、夕飯は六時ちょっと前から作り出せば間に合うだろう。頭の中で計算しながら、草太郎はテキパキと野菜や卵を冷蔵庫に入れる。弁当を食器洗い機に放り込めば、自分のやるべきことは終わりだ。
 勉強でもするか、と草太郎は自室に足を運んだ。勉強しようとして――しかしそこで急に頭がクラリとした。
「またか……少し寝よっかな」
 最近、いつもこうだ。二週間前、あおが引っ越してから、立ちくらみに似た頭痛が起こるようになった。それは一日に一回程度だったのに、やがてどんどん回数を増し、今では数十分に一度のペースで訪れる。おかしいと思うものの、心当たりも無い。
 あるとすればあおの転校くらいだが……頻繁に立ちくらみを催すのとはなにか違う気がする。ものすごいショックでこうなったわけでもあるまい。ショックにはショックだったが、休みには会えるし、という割かし能天気な思考で草太郎は過ごしているのだから。
 原因が思い当らず、首を傾げつつも、草太郎は学ランのままベッドに倒れこんだ。着替えるのも面倒だったし、ほんの一時間眠るくらいだ。
 大して疲れているわけではないが、眠気はすぐにやってきた。これは、何と無く深い眠りになりそうだ。
(目覚まし、セットしとくべきだったかも……)
 そう考えるも、すでに闇に意識を委ねてしまった後だ。どうしようもなく、覆い被さってくる睡魔に、草太郎は抵抗も無く瞼を降ろした。



 そうしてまた夢を見る。起きたら完璧に忘れてしまう、それでもおそらく――とても、大事な夢を。






                                    続
2006/12/15(Fri)19:22:17 公開 /
■この作品の著作権は晃さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
こんにちは、晃です。
連載ものに初チャレンジです。

皆様感想ありが問う御座います!励みになりました―。
ヘボイ小説ですが、楽しんでいただければ幸いです。
                  
それでは。
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