- 『死にかけのサカナ』 作者:碓氷 雨 / リアル・現代 恋愛小説
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全角1709文字
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原稿用紙約5.2枚
水族館の大水槽を目の前にして、あの日彼は糸のように細いこえでこう云った。
「死んでる」
私はそのことばの意味が判らず、首をかしげて聞き返した。
「どのサカナもちゃんと息を吸って泳いでるじゃない。なんのことを云ってるの?」
彼は水槽をじっと見つめたまま答える。
「こんなところに閉じ込められて、心地良いわけがない。死んでしまうに決まってるさ」
こころが、と彼は付け加える。
私は聞こえないふりをした。
あおい水の中をひらひらと抜けるように泳ぐサカナたちは確かにうつくしくて、けれど彼の云う通りに死んでしまっているのかもしれない。
そして私たちもこの子たちと同じに地球という息苦しい空間に閉じ込められているのだということに気付かないふりをしている。
彼は他人と比べて幸せな家庭ではなかった。浮気三昧の父とホストクラブに入りびたりの母。いつも一人だった、と話してくれたことがある。
そんな彼は中学を卒業すると同時に一人暮らしを始めたらしい。高校三年間は仕送りを受け取っていたが、卒業してからはそれを拒み、バイトだけで生活していたという。
私が彼と出会ったのは二年前、そのバイト先でだ。当時大学二年生だった私と彼はひどく自然な流れで恋人になり、一緒に暮らし始めた。
彼はいつも遠くを見ていて、何処からも抜け出せていないようだった。
あいしてる、と何度交し合っても、まるでそれはつなぎ止める為の紐のように弱いものだったし、あいしあっていたことは事実でも彼は常に薄い膜を張っていた。
さみしそうな眼をする彼の手はきまってつめたい。まるで彼には温度など存在しないかのように。
そんな彼がいたくて抱締めてみると、彼はフィルターのかかったような笑顔で幸せだと云った。其れは不安定すぎて、触れたらつぶれてしまいそうな「幸せ」だ。
けれどもしその「幸せ」を決定付けることの出来る何かがあったなら、私はきっと探しに行った。
とにかく彼は空気のように不確かな存在で、けれど平凡な人生を送ってきた私にとっていつしか必要不可欠な存在になっていたことも事実だ。
いとしくてたまらなかった。この手で守り通したかった。あいし続けたかった。この手で、触れていたかった。
空気のような、彼を。
一緒に暮らすようになってから二ヶ月経った四月三日、もうずっと連絡を取っていないという彼の母親から電話があった。そのヒステリックな声はしっかり私にも届いていた。
ずっと仕送りしてやってたっていうのに感謝もせずに突然止めろだなんて云い出してその上連絡もしなくなって、あなたなんでそんなに勝手ばかりしてるのよ! 恥ずかしいじゃないの。おかげで子育てを放棄した親だなんて云われるのよ! 産むんじゃなかった、あんたなんて。
それだけいうと電話は一方的に切れてしまった。
彼は酒の飲みすぎでおかしくなったんだろ、とからから快活にわらっていた。
やっぱり、空気みたいに。
そして彼は、本当に空気になってしまったらしい。
墓前に花を添えると、同じバイト先の友人であった日和が手を振って此方へ向かってきた。
「やっぱり来てたんだ、ゆり子も」
「うん、命日だしね」
命日でなくても本当は毎日来ているけれど、と付け足そうとおもったがやめておいた。
「……びっくりだったね。まさか中川君が自殺なんて。飛び降りだっけ? あんなにやさしくて気さくなひとだったのに」
彼の名を呼ばれることはひどく苦痛だった。日和は少し涙ぐんでいる。そして、彼女もそっと花を添える。
「ほんと、びっくり」
ふふ、と微笑む日和を見て異常に切なくなった。
彼はずっと独りだった。私が居ても。
私は彼を救えなかった。
あいしてる、と、ただ思うだけでは足りなくて。だけどそれ以外に判らなかった。あなたが消えたらかなしい、と、其れを伝える方法が。
けれど彼はこうなる運命だったのだろう。
これが正しかったのだろう。
いつもさみしい眼をしていた。水族館のあのサカナたちと同じように。
彼のさみしさを埋めるように桜の花は彼の墓に積もった。
私は彼の命に触れながら、そっと墓石に口付けた。
End.
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