- 『ナキムシのにおい』 作者:ちな / 恋愛小説 ショート*2
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原稿用紙約11.25枚
布団、オレンジのひかり。あの特等席で合図が聞こえる。けれど、甘い匂いがまとわりついて離れない。もう、そこで眠ることはできない。
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つめたい金具に手をかけた。横に引いて、向こう側の世界。
小さなオレンジに染まる部屋の真ん中に横たわる人が、笑った。
「遅い。湯冷めしただろう」
昔から、真っ暗な部屋では眠ることができない。
それを知っている唯一のひとがひとつしか用意されていない布団に入っていた。
小さなひかり。豆電球。オレンジ色。あたしを安眠に導くもの。
部屋に無言で足を踏み入れた。畳の青い匂いと少しだけ甘いにおいがして、どこかがちくりと痛んだ。きっとこれは拒否反応に違いない。
「おいで」
ふすまを後ろ手に締めると、目の前のひとは布団を軽く持ち上げた。白いシーツがオレンジ色に染まっていて、その上に影ができている。
ぽんぽんと出来上がった空間を叩く音。特等席の合図。
そこは、あたしの場所だと言わんばかりに。
「嫌」
立ち尽くしたまま、一言そうきっぱり言ってやった。本当に嫌なのだから、これ以上フォローのしようがない。できればこの部屋に入る前に上に駆け上がって、自分の部屋のベッドで眠りたかった。
突っ立ったままの足から畳も床と同様に容赦なく体温を奪っていく。指を縮めて熱を溜め込もうとしたら、また笑い声が聞こえた。
「足、冷えたんだろう。昔からすぐ足が冷たくなって、眠れないってしがみついていたくせに」
ぽんぽん。合図は途切れることなく続く。
子どもの話を蒸し返されるのが、本当に嫌だ。まだお前は子どもなのだと、あからさまに言われている気がしてならない。
自分が子どもであることを否定するつもりはないけれど、それでもどこかでかちんと火花が散った。
「しがみついてなんかない。そんな昔のこと覚えてないわ」
握りしめた手。指先はもう足と同様にとっくに冷たくなっていた。
言い返したあたしに、目の前のひとはかすかな笑い声を出した。にやにやと馬鹿にしたその表情が目に入って、さらに火花が激しく散った。
「何だ、反抗期ってやつなのか。これだからお年頃は困るな。今更恥ずかしがることでもないだろうに」
ぽんぽん、ぽんぽん。ゆっくりと続く合図。あそこはきっと、あたたかいに違いない。
だって、あたしは知っている。あの場所はずっとあたしのものだった。
知っている。あの手の温度も、あのひとの匂いも。
「習慣だろう。ほら早く、おいで」
特等席。あの腕の中。
暗いのが嫌いで、一人で眠るのが嫌で、いつもしがみついて眠ったあの頃。
両親は共働きで帰りが遅く、あたしの面倒を見てくれたのはこの目の前のイトコだといっても過言ではない。近所のよしみということもあって、いつもイトコはこの家に来て食事を作り、お風呂を沸かして、あたしを寝かしつけていた。
習慣とはなんて恐ろしいものなのだろう。中学に上がった現在でもこの習慣は続いていて、一向に終わりが見えてこない。
一回りも違う歳の差。それを意識されることすらない。
イトコの中であたしは永遠にしがみついていたあの頃のままなのだ。
「おいで」
けれど、あたしはこんなにも大きくなってしまった。暗闇も一人で眠るのも、もうなんてことはない。なのに、このひとの目に今のあたしの姿がうつることはなかった。
オレンジのひかりの下、やたら熱い頬。
たとえばもし、まぶしい蛍光灯の下に立っていたなら。このひとはあたしの感情に気がついてくれるのだろうか。
「上で寝るから。おやすみなさい」
すっかり固まった足をぎこちなく動かして体の向きをかえようとしたそのとき、あの合図が止んで右足首に熱いものが巻きついた。声を出す間もなく、ぐっと強く引かれて上半身のバランスが崩れた。前のめりに倒れて顔を打ち付ける前に、後ろから腕が腹を支えた。それでも先に落ちた膝は鈍い音を立てて畳に沈み込んだ。
「っつ、痛った……」
「ざまあみろ。逃げ出すお前が悪い」
腹部を支えていたイトコの腕がそのままあたしの体を持ち上げた。食い込んで苦しい。膝も痛い。どうしてこんな目に合わなければいけないのか。
抵抗らしい抵抗もできずに、布団に引きずり込まれた。あの特等席に。あたしのものだった場所に。
「離して、やだ」
「うるさい。すっかり冷えているじゃないか」
腰に両手を回されて固定される。感覚のなくなった足に、熱っぽい足が絡んで心拍数が跳ね上がった。どうすることもできない。
「明日も学校だろう。いい子だから早く寝なさい」
頭の上にあごが乗って、完璧に脱出は不可能になった。もう諦めるしかなくなって、あたしは体に入っていた力を抜いた。
慣れた感触が、胸を締め付けた。いつもこんな風に後ろから抱きしめられた。
慣れない鼓動が、耳を打つ。こんな風になってしまったのはいつからだったのだろう。
だめだ。本当は引っ掻いても、殴ってでもここから抜け出さなくてはいけない。なのに、冷えきった体は、急激に熱を受けてじんじんと痛んだ。痛みはつま先から駆け上がって目頭をも刺激する。
だって、本当は寂しかった。一緒に眠る習慣をあたしに植え付けたのはこのイトコなのだから。
あったかくて、あったかすぎて、ぐらぐらとめまいがした。
「ひとりで寝たいとか言い出すようになったんだな」
ようやく落ち着いたとばかりに口を開かれて、その振動で頭がふるえる。吐き出された息からは苦い煙草のにおいがした。
すっかり父親気取りのイトコは腰に回した手を緩めて、布団を肩口まで上げる。目の前のオレンジ色をした布団に顔を押し付けて、最後の抵抗を試みる。
「もう、子どもじゃないよ」
ふるえそうになる喉を押さえつけて、吐き出した言葉。これが最後の抵抗。
ずっと、いってやりたかった。たとえ届かないとしても。
自分の吐き出した言葉が熱くて、布団に吸収されずに顔に戻る。冷えきった体のどこにこんな熱が潜んでいたのだろう。
どうして、この熱はこのひとに伝わらないのだろう。
「そうだな。俺もいい歳になったしな」
小さな笑い声。かすめた吐息。熱のこもる体をさらに煽って通りすぎていく。
苦い煙草のにおいで、このひとを思い出すようになった。どこにいても、体は正直に熱を発した。そしてその分、痛む回数が多くなった。
「……なにいってるの。まだ、若いじゃない」
痛みが増した原因は他にもあった。この部屋に入ったときから感じていたもの。
気がつかないわけがなかった。あの匂いに。
「それに、結婚もしてないし。これからでしょ」
早くこの特等席を放棄したかった。苦いにおいにひとりで盛り上がって、いつまでも夢を見ていたかった。
いつの頃からか、一緒に眠るたびに煙草とかすかな甘い匂いがするようになった。吐き気が込み上げるほどくらくらした。においが纏わりついて離れなかった。
知らない誰かを抱きしめて、イトコは眠るのだろう。この特等席にわずかなにおいを残して。
もうすでに特等席はあたしの場所ではなくなっていた。
あたしを抱きしめて眠る行為に、甘い意味なんて微塵もない。においを移すすべすら持たずに、知らない振りをして眠ることはどうしてもできなかった。
なのに、まだ抱き枕のように特等席に収まっている。こんなのは馬鹿みたいだ。
「耳に痛いな、その言葉。まあしばらくそんな予定もないから、それまでは一緒に寝ろよ。さみしいだろう」
しばらくたったら、このひとは誰かのものになってしまうのだろうか。煙草の匂いが完全に甘い匂いに変わって、この特等席で誰かを抱いて。
「……もう寝る」
痛みとともに、じわじわときたものをごまかすために、口を閉じてさらに布団に顔を押し付けた。
嫌だ。
甘いにおいが、離れない。
息を吸い込むことも吐き出すことも嫌で、込み上げてきたものを飲み込んだ。
ここで泣いたら、だめだ。なぐさめてくれるだろうその手は、確実にあたしを子どもとして捉えてしまう。
必死に声を押し殺しても、布団の綿を抜けて漏れてしまうものに両手で耳を塞ぎたかった。けれど腕どころか体すら固定されているこの状況ではどうすることもできない。
「よいしょ、っと」
そんな掛け声とともに、体が向きをかえた。布団に押し付けられていた顔が、今はイトコの胸に押し付けられている。
ぽんぽんと布団を叩くあの合図のように、頭をなでられて気が緩んでしまった。こらえていたものを吐き出すように、次々に涙がパジャマに吸収されていった。
もう、子どものままでもいい。
あたしのものにならなくていいから、どうか誰かのものになったりしないで。
「おやすみ」
頭上で優しく響く声。熱い体の中で反響して、小さく痛む。
あと何回、この声を聴いて眠れるのだろう。まぶたが落ちるそのときまで、鼓動に耳を傾けていた。
誰かの残したにおいは、いつのまにかあたしの涙のにおいに消されていた。
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2006/11/23(Thu)11:21:18 公開 / ちな
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■作者からのメッセージ
お久しぶりです。
久々の執筆に、体力を使うものなのだと実感しました。
ご感想、ご意見いただければ幸いです。
11/21 上部削除。修正。