- 『Ag』 作者:J / 未分類 未分類
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全角10384文字
容量20768 bytes
原稿用紙約31.4枚
崎村家の水槽の中で泳ぎ続けた次男。彼を成仏させるために主人公和也が奮闘する。
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隣の部屋が騒がしかった。
壁越しに伝わってくるその騒がしさで、カーテンから漏れる光でも破られなかった夢が、現(うつつ)の浅瀬に打ち揚げられた朝だ。それでもまぶたは重しを乗せられたようにふさがったままで、崎村和也のまどろみは続いている。
――うるせえなあ……久美。
隣の部屋で妹の久美が雑音をたてているのだと和也は思った。が何度も寝返りを打つうちに、その思いは切り替わる。
――久美のはず、ないか……。
実家を出て二年。
和也は大学のために都心に出て、アパートで一人暮らしをしている。しかし夢うつつの時の和也はいまだに実家にいる錯覚をおぼえた。
今もそうだ。
物音は妹の部屋からだと思い込んで、勝手に腹をたてていた。実際には和也の妹の部屋は、ここから電車を三時間も乗り継いだ田舎町の実家の二階の北側にあるというのに。寝ぼけた耳は、はるか遠い場所をいつも近くに引き寄せる。さっきの物音はアパートの隣室からだったんだと、まどろみの中の和也が思い直した、その時だった。
「九時半だよ」
――え?
妹の声。
「九時半だよ。お兄ちゃん」
和也は夢の澱(よど)みをかき分けて薄目を開けて首を起こす。見ると、ベッドの足元には仁王立ちした久美。男の子みたいなショートヘアの、丸顔の、ぽっちゃり体型の、久美。はるか遠くにいるはずの妹の久美。
「あ……れ? いつから? いつからこっちに来てたんだお前」
と言った瞬間に、ああ、と気づいた。
くすんだ網膜に映ったのはアパートの部屋ではなくて実家の自室の内装だ。
和也は頭を枕にどさっと埋める。
――くそ。ややこしい……。
「寝ぼけないで。ここは実家だよお兄ちゃん。さては夕べ夜更かしが過ぎたね?」
高校生の久美がまるで姉のような口ぶりで和也をたしなめた。
「ちょっとお前をからかっただけ。つか、ノックぐらいしろよ」
「ノックはしたよ。それに九時半になったら一応声かけてって夕べ言ってたじゃん?」
「え? 九時――、半なの?」
「さっきから言ってる」
頭の上の置き時計を確かめてから和也は大あわてでベッドを降りる。久美は口をとがらせて、
「私。悪くないもーん」と言いながら部屋を出て行った。
和也はすぐに身支度を整え、階段を降り、トイレに駆け込む。それから洗面所の鏡の前に立って顔と髪を仕上げる。逆立った短髪。たくさんのピアス。――都会の猥雑さそのものの和也の風貌はとてもこの町の空気を吸って育った人間のものではなかったが。
――心は清らかなつもり。
満足げに鏡をのぞき込み右頬を軽くはたいた。それからキッチンに入ってパンを一口かじる。キッチンから地続きになっている居間でテレビを見ていた久美が振り返った。
「お兄ちゃん。野村さんによろしくねー」
それに対する返事もそこそこにキッチンをあとにし玄関に出て靴を履く。
「――エイジ。今日も元気そうだな。じゃ。行って来るからな!」
和也は下駄箱の上の水槽を泳ぐエイジに声をかけた。どんなに急いでたって実家にいたらエイジに対しての声がけは忘れない。エイジは和也に応えるようにひれを動かしながらハランとUターンした。
外に出ると、早春の冷気がぴしっと肌を刺してくる。都会よりも寒暖が激しい町だ。三方を囲む山の稜線は青い空に鮮やかに映えている。
陽光は冴え、足元の影は濃い。
都会の大学では薄くなりがちな和也の存在感は、この町でなら色濃く投射できる体になれた。
「行ってらっしゃーい」
声に振り返ると、玄関から半身を出して手を振っている久美の姿。無視もしきれずに少し照れながら、和也は小さく振り返した。
和也が休みを利用して実家に帰ってきたのは、入院している旧友、野村幸太から「見舞いに来てくれ」と頼まれたからだったが、それとは別に、とある花屋で働く女の子、水島朝奈を久しぶりに見たいという理由があった。もっとも今までの経験上、今回も彼女の姿を拝めない方の可能性が高いわけだが。
「二割引き! 二割引き!」
野村幸太の見舞い用の花を買うためにも、水島朝奈の働く店が存在する商店街アーケードを和也は行く。この町で一番華やかな場所。客足がひしめき、相変わらずの盛況ぶりだ。
店頭のテーブルに並べられたミシンには人が群がり、そばで黄色いエプロンをかけた人が手打ちをしながら客引きをしている。うどん屋の入口でショーケースをのぞき込んでいる若者たち。靴屋の店先ではダンボールに詰め込まれた破格の靴を試着しているヤングミセスの姿。和也にとっては子供の頃からおぼえのある店構えばかりが続いている。
特に馴染みがあるのは仏具屋だった。店主が店先で腰を手を当てて、何かを物色するように通りの混雑をにらんでいる。昔和也は市民センターでこの店主から卓球を習い、ずいぶんとお世話になった。教え方は今にして思うと行き過ぎた暴力があったものの、熱血が信条の店主らしいものだった。その覇気がいまだ健在なことが、彼の目の光から見て取れた。和也は首を縮め、店主の目から身を隠すように人ごみを渡った。説教好きな店主なので見つかればややこしいことになりそうだ。
そしてふいにバニラのにおいに和也の鼻腔が襲われる――その発信元を探ろうと足を止める、と後ろから人に押されてしまった。
「にいちゃん! ごめんな!」
男に笑顔で謝られる。知った笑顔でなくても、ここで出会う笑顔はどれも不思議と懐かしい。
音質の悪いスピーカーから流れる趣味の悪い音楽と、頭上の古びた提灯(ちょうちん)の列の愛すべき野暮ったさも健在だ。和也は生まれ育った町の人間や店の様子をこのままウォッチングしていたい気もした、が。
――急ご。急ご。
『絶対見舞いに来いよ。お前に話したいことがある。とっておきの話。水島朝奈に関するとっておきの話があるんだ』
野村幸太の言葉が耳の奥でこだましていた。
和也が水島朝奈の姿をもしも拝むことができたらそれは実に二年ぶりになる。年二回は実家に帰ってくるが和也はいつも彼女を見れなかった。今回もわからない。
――水島朝奈に関するとっておきの話ってなんだろう。
野村幸太の思わせぶりな言葉も気になってしょうがない。
アーケードに連なるのは人の頭々々々。芋洗いの海のような中、泳ぐように歩く和也は知り合いのおばさんを発見する。先方も目ざとく和也を発見し、人をかき分けながら近づいて来た。
「あんたっ!」
――見つかっちゃった……。
「しばらく見なかったねー。立派になってえ」
「あ、いえ。それほどでは」
おばさんの目が和也の逆立った短髪とたくさんのピアスにとまり、「アカぬけたねー」と感心されれば、以前より小さく見えるおばさんを見おろしながら和也は恐縮して猫背になった。
「あんたー。お母さんにもっと会いにいってあげないとー。あははは」
和也をばんばんとたたいてきた。
「盆と正月には帰ってきてるんですけどね」
「そうなの? お母さんとは会った?」
「はい。こっちに帰ったの、夕べなんで」
そのあとおばさんは、孫が三歳になった、だとか、その子が字が少し読める、だとかをまくし立て、和也は「ええ」とか「はあ」とか言いながら相づちを打った。
「あんたも早くお母さんに孫を抱かせてあげな」
――勝手な飛躍。
「あははは」
また和也をたたく。けっこうな力だ。おばさんの話は終わらない。カルチャースクールに入っただとか、おじさんがパチンコばっかりしてるだとか、さらには庭の花にまで話が及んで和也の気が遠くなりかけた時に、やっと話は終わった。
おばさんは手持ちの袋からタイ焼きを取り出し和也に握らせる。
タイ焼きは和也の大好物だ。
「これ笹本のだよ。久美ちゃんと食べな。私、これから花見に行くの。こんなとこで油売ってらんないわよ。じゃあね」
おばさんは去った。握らされたタイ焼き二つはまだあたたかい。出がけのパン一口が朝食の全てだったことを和也は思い出す。一つはハンカチに包んで上着のポッケに入れ、残った一つを手にもって歩き出す。これ以上知り合いに会いませんようにと祈りながらタイ焼きをかじる。
――あ。
タイ焼き二口目。くにゅりとあんこが舌に溶け、和也の眉間に力が入る。
――あっめーなー。
笹本のあんこは甘いのだ。口に入れてからそれを思い出した。でも、もう遅い。仕方なく口に入れた分は根性で飲み下した。が残りは、さあどうしよう。頭が欠けて、あんこがむき出しになったタイ焼きをぼう然と見る。そして前方に寸胴型のゴミ箱があるのを発見した。
「成仏しろよ」
ゴミ箱に寄って、その真上からぽさっと落とす。タイ焼きはゴミにまみれて、尾っぽを宙に突き立てた。タイ焼きの最期の姿だった。
――さてと。じゃあこいつは……。どうすっかな。
和也は片手でポッケの中の久美の分のタイ焼きにそっと触れる。
――どうすっかな。
こっちも甘すぎることは必至。捨てようかとも思ったが。
――まあ、いっか。持って帰ってやって、久美に決めさせよう。
やがてアーケードの最終地点が見えてきた。行き交う人もまばらなあたり、水島朝奈が働く花屋だ。
店頭にあふれる様々な色や形は遠目にも鮮やかだった。淡色の花々の中で原色の花々の華やかさはひときわだ。
しかし何よりも目を引くのは春だというのに一本のひまわり。
店頭の一番日当たりの良い場所の鉢植えのひまわり。
造花なのだろうと和也は思った。
そのかたわらでパイプ椅子に腰を落とし、寄り添うようにひまわりの茎を握りしめている中年男。
ここらで名物ともいえる光景は、なんとも言えない違和感を周囲に放っている。
花屋はこの男が経営している店で、男は夏だけでなく、春にも秋にも冬にも店先にひまわりを置き、茎に手を添えながらパイプ椅子に座っていた。ただし夏以外は造花のひまわりだ。太陽の方に向かってひまわりの顔を一日中動かしている。花屋は病院に近いので、見舞い客によって保たれているような店だと和也は聞いたことがあった。
そして水島朝奈はあろうことかこの中年男の妻なのである。
高校時代、水島朝奈は和也の一学年先輩にあたり美貌で有名な人だった。水島朝奈にとって和也は数多い彼女のファンの一人にすぎず、和也の顔も、存在すら知らないはずだ。だから和也も、水島朝奈がなぜこんな中年男の奥さんになったんだろうという悔しさは胸におさめるしかないことを知っている。感情論はともかく自分にその資格が無いことを頭では理解していた。
和也は花屋の前まで行って奥をのぞいてみた。
男はひまわりに熱心で和也に一瞥(いちべつ)もくれない。魂を抜かれたようにひまわりだけに集中している。水島朝奈は店内のどこにもいなかった。
――やっぱり今日もいないか。
「あのお」
声をかけると男は初めて和也を見た。奥目がちな彫りの深い、いわゆる美形なその顔立ち。これほどの至近距離で男を見たのは初めてだったが、若い頃はそうとう遊んだという噂にもうなずけた。水島朝奈はこのマスクに惹かれて妻になったんだろうかという思いがかすめる。
「お見舞い用に。みつくろってもらえますか?」
「予算は?」
蚊の鳴くような声だった。笑顔一つ作るでもない。ひまわりの茎を握りしめることを中断されて、むしろ不快そうな眉間のしわ。中年男はゆっくりと立ち上がった。肩幅は広く、少しやせていて、身長は百八十はある。
男が面倒くさそうに花を選んでいる間に、和也は奥の住居らしき横引きの扉を見ている。薄暗い扉は固く閉ざされていた。
――彼女はあの向こうにいるのだろうか?
花の選別が終わり、あっけなく会計が済んだ時、和也は男に思いきって聞いてみた。
「なんでひまわりを一年中出しているんですか?」
和也は店の奥をちらりと見る。この最後の時間稼ぎによって一目でも水島朝奈の姿を拝みたかったのだ。
「ほうっ! 知りたいかい? じゃあ逆に質問だよ! 太陽がひまわりに養分を与えて養っていると、きみは思うかい? ひまわりは、太陽の動く方向に顔を動かすと思うかい?」
男のあまりの高揚に和也は質問したことを後悔した。話がややこしくなりそうだ。男は満面の笑みで、目をぎらつかせている。
「……ええと。そうなんじゃないですか? ひまわりって太陽の方向に動きますよね?」
すると男は目を見開いて和也の顔をのぞきこむ。
「ははは! 逆、逆! 太陽はひまわりに支持されてはじめて存在が支えられるんだよ! それにきみは、ひまわりの顔は太陽が動く方向に動くと言ったね? 逆なんだよ。真実は、ひまわりの顔が動く方向に太陽が動いてるんだよ! だから私がひまわりをたとえ一日でも動かさなかったら、一体太陽はどんなことになると思うかい? わかるね? そういうことだよ! つまり私はこの世にとって、とてつもなく大切な仕事をしているんだ! つまりこの仕事は――」
和也の心臓がとふんと鳴った。
意識が突然男から離れる。薄暗い奥の横引きの扉が少し開いて、水島朝奈の顔がのぞいたからだ。数メートル先に現れた彼女は以前と変わらぬ美しさだった。陶器のような白い顔に、濃密なまつ毛で縁取られた目。顔や体から発散される柔らかさはどこか儚(はかな)い。二十一歳にしては落ち着いた色香だった。和也の視線は彼女に奪われ続け
、男の声は耳からますます遠ざかる。二年間待ち焦がれた瞬間だ。が感覚的には二年以上だった。やっと会えた、という興奮が体の末梢を巡り、頭頂までを突き抜ける。もしかしたら二度と見れないかもしれないとあきらめかけていたからなおさらのこと、昔のままの可憐な彼女に、和也は夢見心地で吸い込まれる。
そしてまぎれもない笑顔を見た。水島朝奈はまぎれもなく笑顔だった。男のまくしたてる珍説に彼女は律儀に相づちを打っている。その姿が妙に和也をいらつかせていく。
――なんなんだよ。こんな話にうなずくのかよ……。
失望とも怒りともつかない思いが胸に渦まいた。しかし彼女の笑みは絶えない。うなずきながら微笑む彼女の姿は、男の話に対する肯定を意味しているらしいが。
――馬鹿げている。
彼女は話の内容だけでなく、夫であるこの男の存在を認め肯定しているのだと今さらながらに悟った。
――馬鹿げている。どうかしてる。どうかしてるよ。
和也は朝奈の笑顔と相づちをどう飲み込んだらいいのかわからなかった。そして『夫唱婦随』とか『絆』という言葉がふと浮かんだ時に、男の演説は終わった。
「ありがとうございました!」
歩き始めた和也に男は高らかに礼を述べた。
「ありがとうございました」
続いて鈴の音のような声が届き、和也は足をとめて鋭く振り返る。店の奥から和也のために会釈する水島朝奈の姿があった。花束を抱えた和也が、彼女をまっすぐに見つめる。貫くほどに見つめる。
しかし彼女はすぐに扉を閉めて、去り、店の奥は再び暗く閉ざされた。一方中年男のほうは、パイプ椅子に腰をおとしてひまわりの茎を握って固まっている。
それは来た時と寸分違わぬ光景。
寸分違わぬ揺ぎ無さ。
和也の足は動けない。
――そうか。男はひまわりを支え、ひまわりは太陽を支え、そしてこの男を支えているのは、水島朝奈……。
和也は見舞い用の花束を抱え直し、アーケードの先へ一歩また一歩と進む。
――そうか。円だ。完結した円。完全な円。
珍妙な中年男を支える水島朝奈の心理は和也にはわからない。が二人の絆の強さだけはわかった気がした。
いくつもの建物の向こうに、目指すべき病院がそびえている。そこへ続くブロック塀を乗り越える緑樹の枝葉は瑞々しく揺れている。
――彼らの円の中に俺が割り込むすき間なんて一ミリも無いんだ。
あたり前のことを確認しただけ。それだけなのに、春の光で輝く道がやけに目にしみた。萎えた気持ちを抱え、ゆっくりと行くとまもなく川に出た。短い橋に足をかけた時、前方からの男性が和也に会釈する。和也もあいまいに頭を下げた。すれ違ったあとで、川向こうの寿司屋の従業員だったなと思い出した。橋中央で立ち止まり、たもとからぼんやりと川を見おろす。よどんだ川面を見つめながら、今日、野村幸太を見舞うのはやめとこうかなと迷う。しょぼくれた自分が行っても患者の方が迷惑なだけなんじゃないかなと、惑う。
水際には色鮮やかな花が群れていた。人目につかないこんな場所にでも春はあふれていた。黄色く黄色く揺れていた。
――昔、久美と来たなあ。
和也はふいに、アーケードでおばさんにもらったタイ焼きを思い出した。そういえばどこのポッケにしまったっけ、と確認しようとした。花束を抱え、不自然な体勢で洋服をまさぐったその瞬間。
はずみでぴょんとタイ焼きが飛び出した。
「あ」
ハンカチに包まれたタイ焼きが低めの欄干(らんかん)を軽々と越える。川へと続く傾斜に落下して、バウンドする。ハンカチがばらけ、むき出しになったタイ焼きが転げ始めた。
――久美の分のタイ焼きが……。
タイ焼きは小躍りしている。
――ああ。タイ焼きもやっぱり魚か? やっぱり川が恋しいのか?
そう思ったらなんだかちょっと面白くなって和也はふふふと笑ってしまった。
――どうせ草にひっかかるに決まってる。
しかし角度とスピードが良かったのか、順調に転がり続けて、隆起にはじかれ、大きく宙にはね上がる。きれいな弧を描いて川へと飛び込み、大輪の波紋を咲かせ始めた。波紋はいくつもいくつも連なって、円、円、円、円、円。
――ひとつ、ふたつ、みっつ……。
自然に目は円を追って、数を読む。
――おいタイ焼き。川に戻れて本望かよ?
和也はふふふとまた笑った。
――……エイジは、幸せだろうか? エイジは、きゅうくつ……なのかな?
水槽に閉じ込められた崎村家の次男。エイジをつと思った。
水島朝奈が結婚して花屋に嫁いだのは高校を卒業してすぐのことである。
花屋の華ともいえる健気な若妻のその姿は、制服を着たならばまだ女子高生の風采で、当時の商店街の注目を集めた。朝奈が嫁いだことにより男性客も増え、花屋は一層潤った。朝奈の夫は、若くて働き者の朝奈を慈しみながら、彼女と力を合わせて働いた。彼自身も快活な働き者で、年の離れた仲の良い夫婦であった。
当時高校三年生の和也は学校帰りに花屋の前を行き来しては、遠巻きに朝奈の姿を盗み見たものだった。そして高校在学時よりもさらに遠ざかってしまった憧れの人、朝奈に、それでも途方も無い夢想を寄せ続けた。
しかし和也が卒業し大学のために都心へ移ったのち、新店舗へ乗り出す目的で朝奈夫婦の姿がその店から消え、代わりに花屋を守るようになったのは朝奈の姑(しゅうとめ)、つまり夫の実母だった。それ以来店は一時客足が遠のき、閑散としたたたずまいになったものの、老いてなおエネルギッシュな女性であり、のちの朝奈の夫となった一人息子をたずさえて生涯に六人もの夫を持った人らしく、朝奈の姑は持ち前の明るさで客足を取り戻していったのだった。それは朝奈夫婦の影さえ消し、姑こそが店の顔になるほどの頑張りだった。その頑張りが約一年半ほど続いた頃に彼女の老体に変調が起こり、それを気づかった朝奈夫婦は新店舗をたたんで地元のこの店に戻った。
姑は戻った息子夫婦の顔を見て、安心したせいなのか天命なのか、他界し、それにより朝奈の夫はもぬけになった。しかしもぬけから脱したあとでさえ、彼が元の明るい夫に戻ることはなかった。母を失った彼の心に何かが起こり、ひまわりに対する奇妙な執着が始まる。同様に妻を失った痛みから舅(しゅうと)の呆けまでひどくなる。
こうして朝奈にとって易くない人生が幕開けた。今では店の奥の横引きの扉から、ひまわりを握る夫の背中を時折ながめるだけで、あとは家事や舅の世話に明け暮れる朝奈である。
和也はそんな朝奈の姿を、実に二年ぶりのタイミングでかいま見たわけだったが。和也にとってこの再会は、夫婦の絆を見せつけられただけのものとなった。彼らの絆の強さの前にたちうちできない自分を確認しただけの再会となった。
その和也は今、落胆の息を吐いて花束を抱え直している。
――彼女に会うんじゃなかった……。
苦い思いが胸に落ちて、和也の胃をずっしりと重くしていた。それでも野村幸太のいる病院へと和也の足は向かっている。
風は冷たく、吐いた息が霞む。
和也の前方には植樹や建物越しに病院の白亜が輝いていた。白亜のはるか頭上には、弓なりに渡る深い蒼天と、高く低く移ろう雲の淡さがある。足元のアスファルトは、桜がこぼした桃色で縁取られている。自然物も人工物も冬をくぐり、色めきたっているのだ。
春は美しい。しみるほどに美しい。共に高揚できぬものを切り捨てる残酷ささえも美しい。滞(とどこお)るものは、冬とともに消えたはずの幻の雪の中へ埋もれるしかないだろう。
花屋から歩いて十分ほどの道のりを、和也は三十分以上かけて病院へとたどり着いた。
入口の自動ドアを踏み込むと、一階フロアの不快な空調に体が取り込まれる。むせ返るような暑さだ。外は花冷えとはいえ、かといって暖房には馴染まない難しい気候である。
和也は雑談する老人たちのソファを横目にロビーを抜けて、長い廊下を渡りエレベーターに乗る。低い走行音をたてながら上昇を始めた一人きりのエレベーター。内壁の鏡に向かい、和也は笑顔を作ってみた。可憐な花束をかたわらに添えた笑顔が、頬骨のあたりでぎこちなくひきつる。しかし水島朝奈との再会でおぼえたみじめさを野村幸太の前に晒(さら)すことはできないと和也は思っていた。病人である友の前にまで暗い顔を持ち越すつもりはなかった。
三階で降り、幸太のいる最奥の大部屋へ向かう。そして病室に入ると、和也は他の病人たちに向かって漫然と頭を下げた。が、彼らは来客と会話したり、テレビを見るなどで、誰も和也に気づく者はいなかった。
幸太のベッドは入口手前の左側だ。白いカーテンがほんの一部だけ開いたそのすき間から、ベッドに横たわっている幸太と、かたわらに立つ女の子の姿が見てとれた。
和也が歩み寄った時、幸太は雑誌にふけっていたが、女の子の方が和也に気づいた。
「どうも」
「あ。どうも」
女の子と言葉を交わす。初対面の社交辞令そのもののぎこちなさ。
「おー! 和也。あっ。なんだよその頭」
久しぶりの野村幸太は想像していたよりもずっと顔色が良かった。
「あ。こいつね、俺のカノジョなの。――それとこいつは高校の時のやつで、和也」
幸太のそう紹介されて再度会釈を交わしたあと、カノジョとして紹介された女の子は気をきかせて病室から出て行った。
「ピアスしすぎだろお前。耳、切れっぞ」
二人きりになったとたん幸太が和也の顔を指差した。
「ずいぶん元気そうだな」
「もうゼンゼン元気だよ。来週あたり、退院かも。だから退屈で退屈で」
「なんだよ。心配して、損した」
急性胃腸炎で入院していたが退院間近とあって幸太は元気だ。和也の方がよっぽど病人みたいな表情で丸椅子を引き寄せ、力無く腰を落とす。なるべく明るい顔を見せるつもりが、幸太の元気な顔を見たとたんに決意を忘れてしまったのだ。
「最近、大学のほうはどう?」
幸太が腕組みをしながら和也に問いかける。
「どうもこうも……。高校の方がやっぱ百倍ましだった。つまんなくって死にそ」
「あいかわらず無気力学生やってんだな――って、ところでさ。さっきの子。かなりかわいいだろ? 最近つきあいだしたんだよ。和也の方は? 和也の方は、カノジョは?」
得意げな幸太の口調。カノジョができたことを誇示する口調だった。
「別にカノジョなんてつくる気ねえし。女なんてめんどうくせえだけだし」
分かりやすい強がりを和也が吐くと、幸太は鼻でふふんと笑った。
「なんかあった?」
そう言う幸太の表情は、和也を心配しているというより、面白がっている。
「別に。――しっかし幸太のカノジョって、気がきかねーなー。せっかく花買ってきたんだからまず花びんにさしてくれって話だよな。……ったく」
和也は日用品でごった返している備え付けの台をちらりと見ると、その上へ花束を倒して置いた。
「機嫌、悪いなー」
幸太はとても嬉しそうだ。
「ま。色々あってね」
「色々って?」
「タイ焼きはまずいしさ」
「え?」
「なんでもない。――さっき。行ったんだよ。花屋。あー。ほら、水島朝奈の」
「で。彼女はれいによって店に出てなかった、と」
「いや。ちらっと見れた」
「わ! ラッキーじゃん」
幸太は人差し指で和也をさした。
「ならもっと嬉しそうな顔しろよ和也」
「……うん」
和也は花屋で何があったか詳しく話したい気持ちはあったが、気力がわかず、黙り込んで目を伏せる。
幸太はそんな和也をにやにやしながらながめている。
「実はさ。和也にお願いがあってさ」
「お願い?」
「水島朝奈のことだよ。言ったろ?」
「は? とっておきの話って、お願いだったわけ? ややこしい話なら、すんなよ」
和也は眉根を寄せて逆立った短髪をかきむしった。もう水島朝奈に関することは聞きたくもないくらいだった。
「水島朝奈を。俺の幼なじみの水島朝奈を、和也の力で助けてやって欲しいんだ」
(つづく)
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2006/12/06(Wed)17:06:50 公開 / J
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