- 『二人で奏でる旋律 【第一章〜第五章】』 作者:こーんぽたーじゅ / 恋愛小説 恋愛小説
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原稿用紙約185.35枚
室井祐二は理由があって「もう二度と恋はしない」と決め込んでいた。そんなある日、祐二は駅のホームでバイオリンらしきものを手に持った女性に恋をしてしまった。 女性の正体を知らないまま祐二の恋は加速していく。しかし、それは祐二の自分の中で決め込んでいる誓約を破ってしまうことになる。果たして、恋のもどかしさの中で祐二が見出す答えとは?
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【第一章 出会う。そして悩む】
「私は二度と恋をしない」あることをきっかけにして以来、私はそう決めている。しかし、同僚にたまに誘われて合コンに行くのだが、そこでも盛り上がらないことにしている。なので、合コンのときはいつも女性から冷たい目で見られている。ならば行かなければいい。というのは事実なのだが、どうしても同僚の誘いは断れないのである。
私は昼休みには独特の過ごし方がある。それは、会社の屋上で、流れる雲を目で追いかけながら缶コーヒーを口に運ぶ。そう会社の屋上は私にとって唯一の安らげる場所なのである。一年浪人して入った普通の大学を出て、自分なりにはその当時は良いと思って入社した会社での仕事は主に営業、口うるさい上司は中年太りな上に、口臭がひどい。なぜこんな会社に入社してしまったのか答えは風の中である。
そんなこんなで現在二十八歳、独身、彼女なし、趣味、特技なし。
自分で言うのもなんだが、我なりにルックスは人並み以上ではあると思う。一八〇センチはある身長に、毎朝綺麗に整えている自慢の黒髪、服装はファッション雑誌を見て研究して着こなしている。ここまで決めているのは心のどこかにモテたい心があるからにちがいないと思うが、最大の問題は親しくない人とテンポやノリで話せないことである。そう、私は世間で言う、「ノリが悪い男」である。
そうやってぼーっと空を眺めていると、誰かが私の名前を呼んでいる。
「おい、祐二! そろそろ営業に行く時間だろ」
室井祐二。これが私の名前である。そして今、私の横にいるのは同僚の徳永大輔である。大輔のルックスは私とさほど変わらないが、私との圧倒的な違いは、その巧みな話術と、初対面の人でも打ち解けあう明るい性格。合コンの誘いの約九割は大輔から誘ってくる。そして合コンのときも大輔は話題の中心にいる。そう、世間で言う「ノリの良い男」である。ちなみに大輔も私と同じ二十八歳、独身、彼女なしである。
「すまんすまん。それじゃあ行きますか」
私はゴミ箱に空き缶を捨てると、立ち上がり大輔と営業に向かった。
私と大輔は営業に向かうべく、駅を目指していた。
東京のビル群にあふれる雑踏、路地に佇むいかにも怪しそうな店、バイクの音、車の排気。私は全てが嫌だった。こんな生活を送るのなら、田舎で伸び伸びと農業でもやっておけばよかったと今更ながら後悔している。
すると、大輔がふと、
「祐二はガキのころ何になりたかった?」
と聞いてきた。あまりに唐突な質問だったので、少し困惑したが答えないわけにはいかないので、「小学校の教師」と答えておいた。
「俺は、お花屋さんになりたかったな」
大輔の夢に少しあっけに取られた。返事に困った末に、「何か変わってるな」とだけ答えると、
「やっぱり変だよな、笑ってもいいんだぜ」
私は笑ってもいいとは言われたが笑ったらあまりに失礼だと思ったので笑わなかった。
「何でお花屋さんなんだ?」
気になるので聞いてみた。男の子の華であるプロ野球選手やサッカー選手を差し置いて何故お花屋さんなのか? そこにはきっと深い理由があるに違いない。私はそう確信していた。しかし大輔の返事はあまりに予想外なものだった。
「だって、お花って綺麗じゃん。俺んちのベランダはまるでお花畑だぜ」
この言葉にはさすがに笑わない訳にはいかなかった。見た目からは花とは到底無縁であろうと思っていた大輔が、ニコニコしながら花達に囲まれて生活しているのを想像したら急に笑いがこみ上げてきたのである。
「そこまで笑うことはないだろう! 男が花をいじって何が悪い!」
「悪くはないけどさぁ、ニコニコしながら花と戯れる祐二を想像したら面白かったんだよ」
「じゃあさぁ、祐二は何で小学校の教師になりたかったんだ?」
しまった。私はこの行き当たりばったりの回答の次を予測していなかった。
「そうだな、小学校のときに尊敬できる先生がいたんだ。その人は四年生のときの担任で、気が弱かった私をよく守ってくれたんだ」
我なりにベタだがなかなかの回答だと思った。
「その先生は、男? 女?」
「男に決まってるだろうが」
ちなみに実際の私の小学四年生のときの担任は、もう孫がいそうなほど年をとって見える婆さんだった。その人は授業中に何度も倒れては救急車が学校に乗り上げる。最初のうちは野次馬も数名やってきてはいたが、そのうち誰も来なくなった。終いには救急隊員の人に、「またですか。」と呆れられていたほどの教師だ。
ふと大輔を見ると、つまらなさそうな顔をしていた。おそらく大輔は美人の女教師を想像、いや妄想していたのだろう。
そんな会話をしているうちに私たちの足は、駅に到着していた。時間は……発車まであと二分、急がねば。私と大輔は顔を見合わせると切符売り場へ走った。
私たちは切符を買うと同時に、プラットホームへ駆け上がった。なぜならば階段の上からは電車の足音が響いているからである。階段をハードル選手のように二段飛ばしで駆け上がった、そして盗塁を決める野球のランナーのような滑り込みで電車に飛び乗った。
間一髪セーフ。
電車は私たちを飲み込むと同時に口を閉じた。そして次の瞬間、目的の場所まで大きなモーター音を立てながら走り出した。
電車の中では大輔とは話さないまま、目的地に着いた。ここからは徒歩十五分で取引先の会社に着く。こちらの環境は、同じ東京ではあるが、私たちの会社のある町より静かで、雑踏、怪しい店、排気その他諸々が少ないように感じた。とはいえ、ここも都会といえば都会なのでビルとビルの間から覗く空は狭く、雑踏などの私にとって忌まわしいものは少なからずある。
そして私たちは何も話さないまま、目的地である会社に到着した。ここからが私にとっての試練の始まりである。
営業。
他人との人付き合いが苦手な私にとってこれほど苦痛なものはない。相手の気も気遣いながら、こちらの意見も通さなければならない。要はタイミングである。タイミングを間違えれば、契約決裂の危険性も秘めたものである。
しかし、大輔は私にとって苦痛のほかにない営業を得意としている。会社でも三本の指に入るほどの営業のプロフェッショナルである。大輔は合コンで培った巧みな話術で、相手を商談成立にしてしまう。その時間は私の十分の一という驚異的早さである。
そして、今日も商談は成立した。全ては大輔のおかげである。
私たちは会社に戻ると、今日の報告をあの中年太りの部長にしたあと、私と大輔は残業はせずに午後七時に会社を出た。大輔はバイクで会社まで来ているのでその場で別れた。
昼間通った雑踏あふれる道は、会社帰りのサラリーマン、塾に向かう中高生、買い物帰りの主婦など昼間より人が多かった。私はそれが嫌で駅まで駆け足で行った。ビルとビルの間からは夕日が見えていて、今にもその後ろのビルの陰に隠れてしまいそうだった。秋の夕方は思った以上に寒く、明日からは少し厚手のスーツにしようかな、と思った。
駅に着くと、駆け足で走ったせいか全身がポカポカとして額には少量の汗をかいていた。しかし、その汗はプラットホームに上がったときにはもう乾いて、急に寒くなった気がした。
電車が来るまで五分はある、この暇な時間をどう使おうかと迷っていると私の携帯電話がポケットの中で静かに震えた。私はそれをポケットから出し、背面待ち受け画面を見る。大輔からのメールだった。何の用だろうか、私は片手で携帯電話を開きメールを見た。
『今度の日曜日、合コン来れる? 来れたらメールください。場所などはまた教えます』
今度の日曜日、確か今日は木曜日だから三日後……スケジュール帳を胸ポケットから出し、見る。その日のスケジュールは真っ白で何も書かれていなかった。
『行ってもいいかな』
私はそれだけを打ち、送信した。気が付けば、線路の向こう側から電車がホームに到着しようとしていた。私の視界にぱっとベンチに座る一人の女性が映った。彼女は黒いロングコートを身にまとっていた。年は私より少し下の二十五というところだろう。彼女の髪の毛はシャンプーのコマーシャルに出られそうなほど艶があり、その色はコートと同じ黒色をしていた。電車がホームに入ってくるときの風がその黒い髪をかき分ける。ふっと彼女の顔が見えた。彼女の顔は小さく陶器のように真っ白だった。彼女の瞳は数メートル離れた私のいる場所からでも分かるほど大きく、その目に映ったものは吸い込まれそうなほど黒く澄んでいた。
彼女の手には何かが握ってあった。よく見るとそれは、バイオリンのケースのように見えた。そう見えた理由はそのケースがバイオリンの様な形をしていたからである。彼女はバイオリンでもしているのだろうか。私はバイオリンはお金持ちのやることだと思っていたので、彼女はどこかのお嬢様だと思った。
しかし、彼女はその黒い服と共鳴しているかのように浮かない顔をしていた。何故だかは当然わからない。
やってきた電車に、彼女は乗り込んだ。彼女が乗り込んだとほぼ同時に電車のドアが閉まった。そして電車はうねり声を上げながら走り出した。ふと、窓越しに彼女と目が合ったように思えた。私は少し恥ずかしくなりすぐに目を逸らしたが、正面を向いた彼女に顔は遠くから見たときよりもはっきりと分かった。やはり彼女は端正な顔をしていた。
「しまった」私は彼女を見ているうちに、彼女が乗り込んだ私が乗るはずの電車は、すでにこのホームからは見えなくなっていた。
私はすぐ後ろにあった時刻表と時計を確認する。
「あと七分か」
私はこの七分という微妙な時間をどう使おうか迷った。そこで密かに鞄に忍ばせておいた文庫本を取り出し読むことにした。この本は映画やドラマにもなり、累計百万部を売ったベストセラーの純愛小説である。私は読書はあまりしない人間だが、偶然立ち寄った本屋で大々的に並べられていたので試しに買っておいたのである。
本に目を通すが内容が全く頭に入らなかった。いや、入ってこようとしなかった。その理由はただ一つである、さっき見た女性の姿が頭から離れなかったのだ。彼女の姿が自分の頭から離れないと自覚した瞬間、急に体が火照ってきた。もしかしたら私は見ず知らずのあの女性に恋をしてしまったのかもしれない。それは無い、なぜなら私はもう恋はしないと心に決めていたはずである。おそらく一過性のものであろう。
しかし、私の心はその予想を裏切った。帰りの電車の中でも彼女が頭から離れなかったし、駅から出て自宅までの徒歩での道のりはいつもの三倍ほどの長さに感じた。途中でコンビニに立ち寄り、缶ビールを買って帰り、歩きながら呑んだがそれでも離れることはなかった。
私が自宅に帰宅したのはまだ午後九時にもなってないときであった。最近引っ越したばかりのこの2DKの賃貸マンションは、駅からも近く立地条件も悪くはなかった。家賃もそこそこ余裕を持って払えるほどで、部屋の日当たりも景色も悪くはない。要するに『穴場』であった。
帰宅したのはいいのだが、そのまま私はご飯も食べず、シャワーも浴びないままベッドに横たわって眠った。早くこの一過性の恋を忘れさせるためである。
次の朝、目が覚めると同時に私は極度の空腹感に襲われた。食パンを焼いている間、私はシャワーを浴びて、歯を磨き、髭を剃り、髪の毛をセットした。「チン」という音と共に食パンの焼けるいい匂いがした。私はそれを皿に乗せ、冷蔵庫から牛乳と作り置きのサラダとドレッシング、そしてピーナッツバターを取り出しそれらを両手に抱え、テーブルに向かった。
「いただきます」私は食パンにピーナッツバターを塗り、昨夜から空っぽになっている胃にそれを流し込んだ。牛乳を一口飲み、また食パンを食べる。食パンを食べ終わると次はサラダを口に運んだ。「シャキッ」という音と共に口の中にドレッシングと野菜の風味が広がった。
そして朝食を食べ終えた。皿洗いは面倒だったので帰ってきてからすることにした。いつもは汚れた皿をほったらかしにするのが嫌で仕方ないのだが、今日はそれもする気になれなかった。
スーツに着替えると、財布の中にある先週、会社から支給された新幹線のチケットで時刻を確認した後また財布にチケットを入れた。そう、今日、私は大阪に出張なのである。しかも一人なので大輔には頼れない状況にある。まだ新幹線が発車するまでは余裕があったのだが、少し早めに家を出た。
大阪に向かう新幹線の中で、私はやたらと値段の高い車内販売のサンドイッチを頬張っていた。味はコンビニのやつとさほど変わらなかった。私は車内で読書をしたり、今日の資料をチェックしたりしたがやはり頭に入ってこなかった。私の頭の中では、読書や資料の中身が、昨日の駅でのあの一瞬の出来事が頭の中のほとんどを占めて、昨日の帰り道同様、そのこと以外が頭の中に入ってこなくなっていた。
「ヤバい、私は恋をしたのか? いや、そんな筈がない。私はもう二度と恋をしないと堅く決めているからな」と、朝の新幹線の中で呪文のように唱えた。すると、私の横に座る四十半ばほどに見える男が、軽蔑が入り混じった目線で私を睨んできた。男は「フン」と鼻で笑うとこくこくと居眠りを始めた。それにつられたのかは定かではないが私もいつの間にか眠りの世界に入っていった。
目が覚めると新幹線は京都のあたりに差し掛かっていた。「危なかった」新幹線での寝起きは妙に清々しかった。
新幹線を降りるとそこは、東京と変わらないほどの雑踏がプラットホームに溢れていた。わたしはそれに嫌気がさしたが、これも仕事なので仕方ないと思い改札口を目指した。改札口に着くと、そこは蟻が忙しそうに次から次へと巣に出入りする様にそっくりだった。押されながらも何とか駅から出た私は、目的地を目指した。新幹線のチケットと一緒に貰った地図を頼りに駒を進めた。途中で道が分からなくなったのでタクシーに乗り、目的地を目指した。
タクシーの窓から大阪の風景を見ていると、やはりあの女性が真っ先に頭に浮かんだ。「なぜ彼女は浮かない顔をしていたのか?」や「バイオリンは趣味なのか?」等と色々な疑問ばかりが浮かび上がる。実のことを言うと、昨日から気になっているのは彼女の容姿もそうなのだが、最も気になっているのは、あの時浮かべていた浮かない表情である。人間には皆悩みがあるのは当然であって、そういった表情も毎日のように見ている。しかし彼女だけは違った。何か心配で、気にかかって仕方がなかったのである。できることなら話を聞いてやりたいとも思った。こう思うのはやはり、彼女に特別な思いを寄せているからなのであろうか――
急にタクシーが急ブレーキをかけた。私はその衝撃に耐え切れず前の座席にぶつかった。一瞬「事故か?」と思ったが見える世界は普通である。どうやらこの急ブレーキには何か他の意味があるようだ。
「お客さん、大丈夫でっか?」
運転手が後ろを向き、流暢な関西弁で聞いた。
「ええ、大丈夫です。少し体をぶつけただけですから」
私がそういうと、運転手は一瞬目を丸くした後さらに言った。
「ここでっせ、お客さんが言ってはったのは。えーと会計は二三〇〇円頂戴します」
私は財布からその金額を渡すと運転手は「おおきに。」と笑顔を浮かべた後、私をタクシーから降ろして去っていった。
時計は昼の一時を指していた。ここからが試練である。目の前に立ちはだかったビルに私は乗り込んだ。
夜の八時を回ったところで、私は大阪駅のホームで新幹線を待っていた。出張先での営業は成功したと言って良いだろう。それにしてもまあ、今日は疲れた。早く家に帰ってシャワーを浴びたいものである。
相手の会社は私の勤務する会社とは大違いでビルの大きさも半端ではなく、全ての部屋に最新式の指紋認証式のロックがかけてあった。ありがたいことに私が向かおうとしている部屋の前で相手の方は待っていてくれた。私たちは軽く挨拶を交わした後で、部屋に入って話し合いをした。相手の方の名前は池谷海人という男だった。池谷は私と同年代だというのにもう課長に昇格しているいわゆるエリートだった。池谷はエリートというだけあって話しのセンスが大輔以上だと感じられた。結局どちらの言い分もスムーズにまとまって終わった訳だが、それならなぜ私が疲れているか、である。
話し合いが終わると池谷は「飲みにいきませんか?」と誘ってきたのである。私は勿論断ったが、池谷の予定が空いており、どうしてもというので行くことにした。そして、会社の近くにある池谷オススメだという居酒屋に入った。最初は普通に酒を交わしながら話をした。話といっても私は殆ど相槌しか打っていないのであるが、そのうち酒がある程度は入り、私たちのテンションが上がったところで、店に池谷と同じ部署で働くOLたちが入ってきた。
ここからが悪夢の始まりである。池谷は女癖が悪く、そのOLたちと一緒に飲み始めた。池谷は私に対しては暗かった表情も、相手が女性になった途端、目の色を変えて自分の自慢大会を始めだしたのだ。
「やってられない。」私は二人分の料金を支払い店を出た。全く不愉快な思いをさせられたものだ。そして途中でタクシーを拾って今に至っている。居酒屋には相当な時間居たらしく、自分でも自覚がなかった。
私は駅のベンチで疲れながらも、駅にいる人々に視線を注いだ。もう通勤ラッシュは当の昔に過ぎており、駅には人が疎らだった。会社帰りのサラリーマンのほかに、太いレンズのメガネをかけた少年がいた。横に目をやると、中年の女性がいた。女性の手には紙袋がどっさりと握られていた。少年と女性とは反対の方向に目をやった。そこには一人の女性が立っていた。女性は遠くにいたが、じっと目を凝らして見てみると。そこにいたのは思ってもない人物だった。
「うそだろ! そんなはずが……」
私の酔いは一気に覚めた。そして同時に全身の血が騒ぎ出すのが分かった。目を擦ってからもう一度見る。間違いない。視線の先にいたのは昨日から気にかかっているあの黒髪が美しい女性だった。今日も彼女は黒いロングコートを羽織り、手にはやはりバイオリンらしきものが入っているケースが握ってあった。
「彼女は一体、何者なんだ?」
私の疑問は膨らむばかりであった。
【第二章 近づく。そして離れる】
私の疑問は帰りの新幹線の中でも解消することはなかった。むしろ、疑問は増えた。何故彼女はそこにいたのか? そして、彼女は一体何者なのか? 考えるたびに私は缶ビールを口にした。飲みなおしである。先ほどのあまりに衝撃的だった再会のせいで体中のアルコールが全て吹っ飛んでしまったからである。
そして、今この新幹線にはその女性が乗っている。しかし彼女の席は、私のいる車両から二つも離れたところにあった。
私はまた缶ビールを一口飲む。冷たくてのど越しが最高だった。ビールを喉に流し込む度、自分の決心を確かめた。私は決して恋をしてはいけないのだ、と。
私はその決心が揺るぎのないものだと確信して、浅い眠りに就いた。眠りに就く寸前、新幹線の揺れが妙に心地よく感じたのは気のせいだろうか――。
突然私の携帯が鳴った。部長からの電話だった。
「もしもし、室井です」
「室井君、出張ご苦労さんだった。で、契約は結べたのかね?」
電話の向こうの部長の声は生で聞くよりも低く感じた。部長は一回咳払いをすると、「君に言わねばならんことがある」といった。その声はいかにも真剣そうであった。
「何ですか?」
電話越しに妙な緊張感が走っている、もし私に様々なオーラが見えるのならきっと私の携帯からは妖気とも取れるオーラが出ているに違いない。
「すまんが君はクビだ、これは上の決めたことだ逆らえない。退職金やその他の色々なことは君が帰ってきてからにしよう。荷物もまとめなければならんしな」
絶望だった。まさかこの歳で失業するとは思ってもみなかった。夢なら醒めてくれ! 私は自分自身の頬を抓った――。
「うわぁぁっ!」
目が醒めるとそこには、叫び声をあげた私を嘲笑する目で見ている乗客がいた。携帯ゲームをしている幼い兄弟がくすくすと私を指差して笑っているのが見えた。兄弟の親はすかさずその指を下ろさせると、知らん顔をし始めた。
どうやら夢であったようだ。それにしてもあまりにリアリティのある夢だった。とても喉が渇いた。私は目の前にある紙コップを手に取るとその中に並々と注がれている茶色い液体を一気に流し込んだ。この液体が自分のものではないことに気づいたのは飲み干してから一秒後のことであった。そしてこの茶色い液体が麦茶ではなく、ウイスキーであることに気づくのに二秒かかった。隣ではそのウイスキーを私に飲まれて不快そうにしている男がいた。私はその男に頭を下げて、明後日の方向に目を向けた。ここはどの辺りなのだろうか?
すると、車内アナウンスが流れ始めた。
「次は〜東京。次は東京でございます。御降りの方は足元にお気をつけください」
私は知らず知らずの間に二時間も寝ていたようだった。二時間も寝たおかげで頭はすっきりしていた。
電車はプラットホームに止まると、静かにその扉を開けた。
人が数人降りていくのが見えた。私も鞄を手に取ると駆け足で新幹線から降りた。夜の東京駅は何か物寂しく、秋の冷たい風がただ身に凍みた。
私は突然めまいを催した。おまけに吐き気もするし、頭も痛い。その症状は尋常でなく、ベンチに腰掛けようと歩み寄ったが足元がふらついてうまく歩けず、プラットホームで転んでしまった。自分の意識が遠のいていく……。ふと、誰かの近づく足音と「大丈夫ですか? もしもし?」という声が聞こえたのが分かった。その声は女性のものらしく、透き通っていて、少しハスキーだった。私の頭には勿論そんな声の主のことを考えている暇などなく、ただ「死」について圧倒的な絶望感と空虚感に襲われていた。
「私は死ぬのか? まだ死ぬわけにはいかない……。ち、ちくしょう――」そこで私の意識は途絶えた。
目が覚めると私はベットの中にいた。家のではない、病院のである。どうやらあの後私は病院に運ばれたようだ。妙に頭が痛い。腕を見るとそこからは数本の点滴のチューブが伸びていた。
横を見ると、二十顎で髭の剃り跡が青い白衣を着た男がいた。男の横にはいかにもベテランそうな看護婦がいた。白衣を着た男は話し始めた、
「目が覚めましたか、急性アルコール中毒です。大変危ない状況でした、ヤケ酒は止めなさい。それと、あの女性が助けなかったらあなた死んでましたよ」
医者が患者に「死ぬ」なんて使っていいものかと思ったが、それよりも私を助けてくださった女性は一体誰だろう。ふと、医者とは反対の方向を見る。私は急性アルコール中毒というより、心臓麻痺で死にそうになった。それほど衝撃的だった。今にも心臓が口から出そうだ。そう、そこにいたのはあの黒いロングコートのバイオリンを持った女性だったのである。
「あ、どうもありがとうございます」
私は彼女に向かって礼を言った。彼女は私のほうを見ると、うつむき気味の表情を少し和らげて言った。
「いえ、困ってる人を助けるのは当然のことなので」
「あなたは命の恩人です。何かお礼をさせていただけないでしょうか?」
私は意を決して彼女に礼という形で食事にでも誘おうと思った。でもそれはもし、彼女に彼氏がいたら大変なことになってしまう。
「気を使ってもらわなくてもかまいません。それに、この調子ではあなた動けないでしょう?」
失敗だった。それならせめて名前だけでも聞こうと思った。私がこんなに見知らぬ人に自分から話しかけるなんて珍しいことである。
「それではせめて、お名前だけでも教えていただけませんか?」
「榊原恵美です。あなたは確か、室井祐二さんですよね」
何故、彼女は私の名前を知っているのか私は分からなかった。
「え? 何で私の名前を……?」
「お医者様が治療をしているとき、言ってました。それにほら、あなたの後ろに書いてあります」
とっさに後ろを見た、確かにそこには「室井祐二」と書かれたプレートが掛けてあった。それを見た彼女の表情はさらに和らいで、その表情は軽い笑みを浮かべていた。笑った彼女は当然のごとく美しく、それは一瞬にして私の脳裏に焼きついた。
「それでは、私帰ります。お大事にしてください、それでは」
彼女は扉を開けると病室から出て行った。追いかけて送っていこうとベッドから立ち上がろうとしたが、医者に腕をグイと捕まれて咎められた。
「何をするんですか。あなたは病人ですよ、今日一日は安静にしていなさい」
悔しかった。咎められたことではない、医者の手を振り払ってでも彼女を追いかけられることより、自分の身の安全を取ったことに対する悔しさである。
「いつ退院できますか?」
私は聞いてみた。明日会社で報告をしなければ、新幹線での夢が正夢になってしまうからだ。私を見ると医者はにっこりと微笑んで答えてくれた。
「明日にはできますよ、単なる急性アルコール中毒でしたから。それよりもう寝てくださいね」
「単なる?」騙された。私は一歩間違えば死ぬのではなかったのか――。
「はい、わかりました」
医者が病室から出て行く。そして電気を消された部屋は暗闇に変わり、空から伸びた月光が静かに私を包み込んだ。
頬を抓って、このことが夢でないことを確かめた後、私は眠りについた。
次の日、私の体調は昨日のことが嘘のように優れていた。それは、病院のベッドでぐっすり眠ったり、点滴で元気になったからであろう。そして私は昨日、奇跡と言うべき形であの女性の名前を知った。
無論、急性アルコール中毒の症状は辛かったが、おかげで彼女の名を知ることができた。うれしいような悲しいようなそんな気持ちである。
今、私は病院を退院し、自宅にいる。今日は安静にしろと医者に言われたので、今日は外出しないことにして、家で出張の報告書の作成をしているところである。これが終わった後は、のんびりと休日を読書なり、昼寝で楽しむことにしよう。
私は家の中にある家具は必要最低限のものしかそろえないことにしている。なぜならば、必要のないものがあったとしたら、使わなければただの粗大ゴミと化してしまうからである。二つの部屋の割り振りは、書斎と寝室を兼ねている部屋と、箪笥や掃除機などが置いてあるいわゆる物置部屋の二つである。そんな書斎部屋の窓から逆サイドに位置する場所にパソコンがおいてあり、今はそこで作業をしている。
コーヒーの入ったマグカップをパソコンの脇において、ラジオを掛けながら仕事をする。これは、私にとっての最も集中できる方法である。
私はコーヒー豆には少しこだわりがある。私が好んで飲むのは、タンザニア産のキリマンジャロである。タンザニア産のキリマンジャロは他の豆と比べ、酸味が強くコクがあるのが特徴であり、私は家ではこれを好んでブラックで飲んでいる。
「やっぱり缶コーヒーより自分で入れたほうがおいしいな」
私はこう呟くと一口その黒い液体を飲んだ。程よい苦味と香りが鼻や口の中でほのかに広がった。ラジオからは最近の邦楽チャートのトップ三〇を流している。
パソコンに向かい、キーボードを打ちながら作業をしていても、その手が止まる瞬間がある。それは、ラジオからラブソングが流れてきたときである。その時私は榊原恵美のことを考えてしまうのだが、同時に「二度と恋はしない」と決めた時の情景の方がより強く頭に浮かんでしまうからである。もしも、私が本気の恋をしてしまったら私は間違いなく裏切り者である。
ラブソングが終わると同時にキーボードを打つ手は再開された。朝の十時から作り始めて二時間、そろそろ完成である。完成したら昼ごはんを食べよう。確か大阪で密かに買ってきた限定カップラーメンがあったはずだ。それを食べよう。
「最後にこのグラフを貼り付けてっと……終わったぁ」その資料を私は保存し、プリンターで印刷すると電源を切り、台所へ向かった。
ごそごそと鞄の中からお目当てのカップラーメンを取り出した。
「『大阪風、たこ焼き風味ソースラーメン』……か。まあいいや、食べてみよう」
私はそれの包装フィルム剥がしてふたを開けた。中は見るからに怪しく、化学調味料タップリですよ。と言わんばかりの茶色い粉末と、強烈なソースの匂いが鼻を突いた。
私は、お湯を注ぎ三分待っている間、ダイニングに置いてあるテレビとDVDプレーヤーの電源を入れた。昨日念のために撮っておいたドラマを見るためである。そのドラマはそこそこ話題と視聴率をたたき出している学園ものである。内容は視聴率をとっているだけあってこれがまた面白いのである。
三分経ったので台所からラーメンを運んできた。ふたを開けるとそれはまるで、お湯を捨てる前に間違えて粉末スープを入れてしまったカップ焼きそばのようだった。強烈なソースの匂いをかき分けて一口食べる。一言で言うと「辛い」。二言で言うと「辛くて濃い」である。その強烈な一口を食べたところでDVDを再生させた。
今回の内容は「生徒のいじめに教師が立ち向かう」がテーマになっていて、このカップラーメンの味と同様、濃い内容となっていた。
ドラマが残り十分のラストシーンに差し掛かったところで私の携帯の着信が鳴った。
私は、「誰だよこんな良いシーンのときに」と言いながら携帯に近づいた。どうやら電話のようだった。「大輔か」私はドラマを一時停止にして電話に出た。
「何の用だ?」
「いやいや、明日の合コンの場所と時間決まったから電話したんだけどな」
大輔は妙にテンションが高いらしく、所々声が裏返っていた。
「どこだよ。早く教えろ!」
私の苛立ちは募る。ドラマの続きが非常に気になるからだ。一秒でも早くこの会話を終わらせて、プレーヤーのリモコンの再生ボタンを押したくてたまらなかった。
「何でキレてるのかは知らんが、えーと場所は、洋風居酒屋『深海』。時間は午後七時。集合場所は会社近くの駅にある噴水の前だ」
大輔の声はかなりスローテンポでまるで私を挑発しているかのようだった。
「わかった。じゃあな」と私は足早に電話を切ろうとしたが、大輔が「ちょっと待った」と足止めを食らわしてきた。
私の視線の先にはリモコンと『大阪風、たこ焼き風味ソースラーメン』の食べかけがあった。テレビの画面では教師がいじめをしている生徒に殴りかかる瞬間で止まっている。
「今回のメンバーは、有名オーケストラに所属している演奏者の女の子で、向こうは三人連れて行くと言ってたから、こっちも谷村を連れて行くことにしたよ」
谷村とは私たちの同僚である。だが、谷村には彼女がいる。合コンなんか行ってものなのだろうか。
「分かった。また明日な」
「オッケー」
私は電話を切ると、リモコンに近づき、再生ボタンを押した。ボタンを押した瞬間、いじめをしている生徒は殴られ、教室の床に転げ落ちた。
ラーメンをまた一口食べる、やはり辛い。舌の辺りがピリピリして、麻痺してきた。このままでは味覚障害になってしまう気がした。
水を飲もうと冷蔵庫まで行って、戻って来たころにはドラマは次回予告を告げていた。それを私は咎めることなく、静かに停止ボタンを押した。
「オーケストラか。そういえばあの人はバイオリンみたいなものを持っていたな」
いつの間にか私は、ドラマの続きより榊原恵美とバイオリンとの因果関係を考えていた。
日曜日、午後六時五十分。
私は予定通りに約束の十分前に駅の噴水の前に立っていた。まだ誰も来ていないだろうな、と思いながらジーパンのポケットに手を突っ込みながら待っていた。噴水の周りには、私と変な広告を配っている中国人らしき男がいただけだった。
私はしばらく噴水の近くのベンチに腰掛け、他のメンバーを待っていた。ふと、噴水に視線を向けると、もう広告を配り終えたのだろうか? 中国人らしき男は姿を消していた。
そして男のいた位置から少し視線を右にずらすと、そこには何と榊原恵美がいた。彼女は相変わらず黒のロングコートを見にまとって噴水の前に一人で立っていた。
「彼女はもしかしたら今日の合コンのメンバーなのか? いや、それなら友達も一緒に来るはずだ」等という発想を巡らせる前に無意識のうちに彼女に歩み寄り、そして気が付いたときには彼女の目の前に立っていた。
彼女は私を見るなり、その大きな瞳がさらに大きくなり、きょとんとした表情で私を見つめた。
「あなたは……」依然、彼女の表情からは驚きが隠せていないように見えた。
「室井祐二です」私は彼女が言う前に自分の名前を言った。私にはこの後どうやって話しを続ければいいのか分からなかった。話題がないのだ。「良い天気ですね」なんて言ったらきっと彼女は引いてしまうだろう、それだけは避けたい。
しばらく沈黙の時間が過ぎた。私が話題を考えているときだった。彼女の口からごく自然に、そして何気なく私に対しての言葉が漏れた。
「つかぬ事を聞きますが、室井さんは今日、『深海』での合コンのメンバーですか?」
彼女の視線は上目遣いであり、少しドキリとさせられたが、それ以上に彼女の瞳は何でも見通す水晶玉のように澄んでいて、その瞳を見るだけで私は心臓が破裂しそうだった。
今にも破裂しそうな心臓の高鳴りを押さえて私は答えた。
「そうですが。もしかして榊原さんもメンバーですか?」
初めて彼女の名前を呼んだ。ただそれだけなのに心臓の高鳴りはさらに激しさを増していた。「もう恋はしないのに」この言葉がふっと頭をよぎった。そうだ、私は恋はしないのだ。今までだってそう念じてきた。ならば今回の胸の高鳴りは何だ? やはり私は榊原恵美に恋したのか?
「はい、私は友達に誘われたので来ました。合コンなのにこの服装は地味でしょうか?」
彼女は漆黒のベールに包まれているロングコートに目を向けた。
「別に大丈夫だと思いますよ。それに、そのコート似合ってますし」
似合ってます。ごく自然にその言葉は私の口から出た。女性への褒め言葉が自然と出たのはいつ以来だろうか? きっと私が「二度と恋をしない」と誓った八年前以来だろう。自分の言葉からは懐かしささえ感じられた。それほど女性を自然と心から褒めることに疎遠だったのだろう。
「似合ってますか。うれしいです」彼女はにっこり微笑んだ。それにつられて私も微笑んだ。あれほど冷たかった風が、全く冷たく感じられなかった。
「おっ! 祐二はフライングかい?」
駅の脇に広がる街路樹から大輔が谷村と歩いてきた。二人の横には手を振りながら歩いてくる二人の女性がいた。私の隣で彼女が手を振っていることからあの二人もメンバーだと安易に予測できた。
「そういう大輔もフライングだろ」
祐二はジーパンにスタジャンを身にまとって、頭の上にはサングラスが乗っていた。そしてそんな大輔の横にいる谷村は、いつも会社に来るときと変わらないスーツ姿で来た。谷村曰く「俺のスーツはイタリア製」なのだそうだ。
大輔たちと一緒に来た女性の一人は茶髪の綺麗なストレートが特徴で、もう一人は茶色に染めた髪をふんわりと縦にロールさせてあった。二人の女性は雑誌のモデルから借用したような最近流行のファッションをしていて、バックはキラキラと光って目が痛かった。二人の女性はは世間一体から見れば美人なのだが、私にはその魅力は伝わってこなかった。そう、私の目にはどんなに流行に合わせている二人の女性よりも、榊原恵美のほうが断然美しく感じられた。
私たちはその場で軽く自己紹介をした。髪が茶髪でストレートの女性は安藤沙希という名前で、茶髪を縦にカールしている女性は瀬戸みゆきという名前らしい。
二人とも日本ではそこそこ名の通った音大出身で、榊原恵美はまた別のこれまた名門の音大の卒業生だそうだ。オーケストラでは安藤沙希はフルート奏者をやっていて、瀬戸みゆきはホルン奏者をやっているそうだ。そして、榊原恵美はやはりバイオリン奏者だった。
そして私たちは『深海』を目指し歩き始めた――。
「あの、恵美と室井さんって知り合いなんですか?」
私がいつものように女性と会話をせずに、ただ黙々と『深海』を目指しているとき、瀬戸みゆきはふいに横から私に話しかけてきた。その時に大輔と谷村は私のいる位置よりも十メートルほど前で安藤沙希との会話に夢中になっていた。どうやら二人とも安藤がタイプのようだ。そして榊原恵美は私のすぐ前方、つまり大輔たちと私の間を、寒そうに歩いていた。
「一度、駅で助けてもらった恩人です」
私は瀬戸に答えた。すると瀬戸は、「へぇ」と言った後、「室井さん、駅で何かあったんですか?」と尋ねてきた。
「軽い急性アルコール中毒で気絶していました」と私は少し笑みを浮かべて瀬戸に答えた。早くこの会話を終わらせたい。と思ったが、どうしても瀬戸には聞かなければならないことが一つだけあった。
「一つ聞きたいのですが、榊原さんはいつもあんなに落ち着いている人なんですか?」
私が聞くと、瀬戸は分かったような表情を浮かべ私に答えた。
「あれは寒いからですよ。恵美は寒くなるといつも行動が制限されてしまうんです。でも温かい室内なら明るくなりますよ」
瀬戸は寒さは全く気にしていないようなおっとりとした口調だった。もしこの口調が合コンのために訓練されたものなのだとしたら瀬戸は相当な猫かぶり女であると私は予想した。
「寒いから……ですか……」
私が次の会話に困っていると、瀬戸は私の前に回りこんで人差し指を立てて口の前に持ってくると、そのおっとりした声で「シー」と言ったあと、両手を前に突き出して「ストップ」と言って私を止めた。その言動で私は確証した、やはり瀬戸は極度の猫かぶり女だ。私はこのような女は最も苦手としている。なぜならばその行動と口調が鬱陶しくてたまらないからである。
私は鬱陶しい気持ちを隠して瀬戸の話を聞くことにした。
「ここだけの話ですよ、恵美はオケの時に私たちとは会話するのだけど、男性とはほとんど会話はしないんです。恵美が男性と話しているのを見ていると不思議だなぁって沙希と話していたんです。もしかしたら恵美はあなたに気があるのかもしれませんよ」
この話が本当かどうかは定かではないので、私はあまり信用しなかった。
気が付くと瀬戸は大輔たちと一緒にいた。いつ移動したのだろうか? 全く見当がつかなかった。
そして、相変わらず榊原恵美は一人で寒そうに歩いている。私は榊原恵美に近づいて話しかけようとしたが、少し躊躇った。それはやはり私の心の中に潜む「恋をしない」宣言がブレーキをかけているからだ。しかし、最近そのブレーキが利かなくなってきていることはなんとなく分かった。もしもそのブレーキが壊れてしまったとき、私は裏切り者という名の十字架を一生背負って生きていくことになることも分かっていた。
町ではそろそろイルミネーションが始まっているようで私たちの歩いている大通りの街路樹はライトでぴかぴかと照らされていた。町には雑踏が溢れて、今日は日曜日ということもあり、カップルがその雑踏のほとんどを占めていた。
しばらくイルミネーションで照らされた道を歩くと、一つのビルの前で大輔たちが待っているのが見えた。榊原恵美も大輔たちのグループから少し離れた所で立っていた。大輔の表情が少し引きつっていたので、私が随分遅れを取っていたことは即座に分かった。
急いで私は駆け足で大輔たちのほうへ向かった。
「祐二。歩くの遅いぞ、何かあったのか?」
大輔が少し不満そうな顔で言った。
「何でもない。それより、すまん」
私は軽く頭を下げて謝った。それを見た大輔の表情からは不満は消えていた。
「『深海』はこのビルの二階だぜ」
大輔が指差した方向を見るとそこには「洋風居酒屋『深海』」と木を彫って作ったような大きな看板が、ビルの壁に不具合な形で取り付けてあった。
「それじゃぁ、行きますかーっ!」いきなり大輔が叫んだ。その瞬間に人々の迷惑そうな視線が私たちに降りかかってきたことは言うまでもない。
「オゥーー!」私と榊原恵美を除いた三人が、迷惑としか言いようがない声で返事をした。
そして、大輔を先頭にして谷村、安藤、瀬戸の四人がビルの階段を上がっていく、私は少し間を空けてからその階段を上がった。後ろには榊原恵美もいた。
そのビルの階段は薄暗く、手すりは少し錆びていて、そのビルの古さを感じられた。
だが『深海』は階段の薄暗さとは対象に、入り口に掛けられた暖簾〈のれん〉から照明の明るさと人の話し声が漏れており、温かい雰囲気を醸し出していた。
私は階段を上がり終え、店に入ろうとしたとき後ろから「あの……」という少しハスキーな声が聞こえてきた。振り返るとそこには当然榊原恵美がいて、「室井さんはこうやってワイワイ騒ぐのって苦手ですか?」と聞いてきた。
私はあまりに唐突な質問だったので少し戸惑ったが「実のところ苦手です。榊原さんも苦手ですか?」と返事をした。
「私も苦手ですね、お酒を飲むときは極力一人がいいです」
彼女は少し笑って答えた。
「私もお酒は一人が好きです。一人だと落ち着きますからね」
「あ、それ分かります。それに一人だと他人の目を気にせずに飲めますしね」
彼女の表情は笑っていたが、ポケットに手を突っ込んでいる動作や声が少し震えているところから、瀬戸が言っていた彼女は寒がり。というのは本当であると確証がもてた。
「風邪でも引いているのですか?」
「えっ!?」
彼女は少し驚いた表情で私を見た。ポケットには依然手が突っ込まれている。
「いえ、ちょっと寒そうなので」
「風邪は引いてません。私、寒がりなんです」
「そうだったんですか、それなら早く店に入りましょう。大輔たちも待っている筈です」
「そうですね」
彼女がそう返事すると私たちは早足で店内に入った。店内では暖房が入っており、その温かい風が体を包んだ。店内は広々としていて、インテリアのほとんどは「和」を意識していた。入って左側に目をやると、そこにはカウンターやテーブルが並んでいて、そこには大輔たちの姿はなかった。右は、一部屋一部屋が襖で仕切られているお座敷タイプの宴会席になっていて、入り口から向かって二番目の部屋に「徳永様」と書かれた紙が貼っていて、そこに大輔たちがいることが想像できた。
「いらっしゃいませ、二名様ですか?」
店の奥から渋い緑色の制服にエプロンを巻いた男性店員がやってきて言った。店員はまだ高校生のようで、胸に付けている名札には『アルバイト』と書かれていた。
「いえ、待ち合わせです」
私がそう言うと店員は「そうですか、お席は分かりますか」と尋ねてきた。
「分かります」
私がそう言うと店員は一礼して店の奥に去っていった。
私が後ろを向くと彼女はロングコートを手に持って椅子に腰掛けていた。ロングコートを脱いだ彼女はやはり美しく、心臓の鼓動がだんだん早くなっていくのが感じられた。彼女の服装はジーンズに上は少し胸元の開いた黒の長袖Tシャツを着ていて、その上には黒のカーディガンを羽織っていた。そして彼女の胸元には銀色のネックレスが光っていた。
私は高まる心臓の鼓動を抑え、大輔たちのいる部屋を指差して言った。
「部屋、あそこのようです」
「あそこですか、それじゃあ行きましょうか」
彼女は椅子から立ち上がった。椅子から立ち上がるときに、銀色のネックレスは輝きながら静かに彼女の胸元で揺れた。ほんの小さな輝きだが、私のはその銀白色の光に見とれていた。「胸元ばかり見ていたら怪しまれる」と頭に浮かんだ瞬間、その光から目をそらした。
「はい、行きましょう」
私は「徳永様」と書いてある紙が貼ってある部屋の前で靴を脱ぎ、襖に手を掛けて静かに開いた。
「えぇっ!?」
そこには信じがたい光景が広がっていた――。
「大輔、お前なんで静かにしてるんだ?!」
私にはこの状況が分からなかった。大輔の合コンのパターンは決まっている、自分が盛り上げ役になってその巧みな話術で場の雰囲気を盛りたて、持参してきたパーティグッズの数々でさらに会場のボルテージを上げて、そしてこっそり女性と仲良くなる。である。
しかし今日の大輔は違った。店の前までのテンションの面影はなく、パーティグッズは鞄の中から覗いているだけで、さほど使った形跡はなかった。そして、大輔は子犬のようにブルブル震えながらただじっと黙っていた。何故だ?
これは合コンというよりお通夜だ。私は直感的に思った。テーブルの上には、カルパッチョや揚げ物、お刺身といった豪華な料理が並べてある。さらにテーブルには酎ハイや焼酎、ビールといったお酒の数々が並べてあった。これだけの物が揃って、なぜこの会場は、そして大輔は盛り上がらない?
「あのぅ、何かあったのですか?」
ふと後ろから声がした。振り返るとお座敷の部屋に半歩踏み入れた状態で固まっている私を不思議そうな目で見つめる榊原恵美がいた。
「いえ、ただこの光景に驚いてただけです」
「確かに、変ですね。これは合コンというよりまるでお通夜みたいですよね」
彼女が少し笑みを浮かべて答えた。一瞬、私は自分の心を読まれているのかと思いドキッとした。
「とりあえず入りましょう」
「はい」
私と彼女はお座敷に上がった。部屋は八畳ほどの広々とした和室に、テーブルが一つ。窓際に大輔と谷村、襖側に安藤と瀬戸といった配置で座っていた。
とりあえず私は大輔の横に腰掛けてまだ震えている大輔に話しかけた。
「大輔、私達がいない間に何があった?」
私がそう言うと大輔は人差し指を口の前に当ててから言った。
「お前、入って右の部屋にいる人たちが分からないのか?」
大輔はひっそりと言った。
私は席を立って外に出て入って右の部屋の張り紙を見た。それには『安間組』と書かれていた。私は危ない系統の職業の人たちが隣の部屋にいるのだと察知した。
私が中に戻ろうとしたとき、その部屋の襖が開いて、中から出てきた男と目が合った。
「旦那ァ、何かうちに用ですかい?」
中から出てきた男は昔アメフトでもやっていたかのようながっちりとした体型を派手なスーツで包み、頭髪にはパンチパーマがかかっており、サングラスをかけたいかにも私は危ない職業に就いてます。と言わんばかりの男だった。
私は下に視線を送り、男の右手を見た。太い指にはめ込まれた幾つもの指輪は厳つく、そしてその男には小指がなかった。
私はさすがに怖気づいて「いえ、何もありません」と言って襖を閉めた。大輔が恐れるのも無理はないと思った。
私は大輔の横に座り、大輔に話しかけた。
「隣にいる人たちがどんな人たちかは分かった。でも、何でお前があんな人たちと関わりがあるのか分からない」
すると大輔は声を潜めて私の耳元で返事をした。
「俺が持ってきたクラッカーをみんなで鳴らしたんだ。そうしたら隣の部屋からヤクザの人が来て『てめぇら、わし達の部屋の横で何鳴らしとるんや、殺すぞ』ってすごい剣幕で怒鳴られて、その人が帰ったときには女の子は泣いてて、俺も谷村も怖気づいちまったんだよぉ。情けねぇ」
大輔の表情からはどんなに恐ろしかったかが伺えた。周りを見回すと谷村はすっかり立ち直ってのんきに刺身に手をつけていた。安藤は相変わらず泣いていて、それを榊原恵美が慰めていた。瀬戸も谷村と同様、すっかり立ち直り泣いている友人なんかお構いなしといった表情で鯛のカルパッチョに舌鼓を打っていた。
だが依然としてこの八畳ほどの部屋に合コンらしい雰囲気はなく、私の耳に聞こえてくるのは隣の危ない職業の人たちの宴会の声と、安藤沙希の泣き声だけだった。
この状況でむしゃむしゃとご飯を食べれる谷村と瀬戸は似たもの同士、気が合うのではないか、などと考えていた。
どれくらいの時間が経っただろうか、私は時計を確認する。九時ちょうどだった。私がこの状況に遭遇した時間が大体七時半だったのでもう一時間半も経っている計算になる。
安藤沙希はすっかり泣き止み、大輔も何とか立ち直っていた。隣はさらにヒートアップしたらしく、歌い声とも叫び声とも聞こえるような声が壁越しに伝わってきた。
出された結構な量の料理はこの一時間半のうちに谷村と瀬戸で完食してしまった。谷村は満足そうな表情を浮かべているが、瀬戸はまだ食べ足りないらしく、メニューとにらめっこをしていた。
「今日はお開きにしようか」私の横でまだ少し気の抜けた表情の大輔が言った。
「そうしましょうか」安藤が言った。頬にはうっすらと涙のあとが残っている。
「そうですね」瀬戸と谷村が同時に言った。やはりこの二人は気が合うようだ。
「それじゃあ私も」榊原恵美が言った。彼女の表情は少し眠たそうだった。この一時間半、彼女は安藤を慰めるのに精一杯だったのだから疲れたのだろう。
「そうしますか」最後に私が続いた。
私たちは立ち上がり部屋を後にした。外に出てみると、隣からの叫び声がさらに大きく聞こえてきた。大輔は靴をはきながら「あいつらさえいなければ」といった目でじっと隣を睨みつけていた。
レジでお勘定を済ませた。当初の予定では大輔考案のゲームで誰がおごるかを決める予定だったのだが、そのゲームも出来ず仕舞いで、結局私たち男性陣で女性陣への謝罪を兼ねて割り勘をして払うことになった。
「ありがとうございましたー」
店を出るときに放った女性店員の言葉は妙に明るく、顔には笑顔が浮かんでいた。こちらの事情も考慮してもらいたいものだ。
店から出て、薄暗さを増した階段を手すりを伝って下りた。こんなにも暗かったら電気をつければいいと思ったのだが、あいにく蛍光灯は切れていて全く点かなかった。
夜風が顔に突き刺さり、寒いと言うより痛かった。すぐそこまで冬将軍がやってきているようだ。
仄暗い、そして寒い階段を下りると目の前に広がったのは雑踏とビル郡の明かりだった。その明かりはライトアップされたものではなく、単なる明かりなのだが何故か私の心に小さな明かりが灯ったような気がして嬉しくなった。
「じゃあ俺達はこっちだから」
谷村と瀬戸が仲良く手をつないで駅とは逆の方向を指差した。どうやら今からもう一軒いくらしい。二人はあの状況下、どうやって親密になっていたのだろうか。
「私は一人で帰るわ」
安藤が駅の方向へ雑踏をかき分けて早足で歩きながら言った。『私に構わないで』的なオーラが滲み出ていたので誰も彼女に近づこうとはしなかった。
「祐二、もう一軒行かないか?」
私の隣で大輔が言った。この後、私は家に帰っても風呂に入って寝るくらいしかしないだろうから「行こうか」と言って了承した。
「それで、どこに飲みに行くんだ?」
「俺の行きつけの店が駅前にあるからそこで飲もう」大輔はスタジャンのポケットに手を突っ込みながら言った。
「怪しい店じゃないだろうな?」
「当たり前だろ」
私は大輔の返事に少し苦笑した。笑ったときに白い息が口から漏れて、改めて冬の到来を感じられた。
私と大輔が店を目指すべく歩いているときに、雑踏の向こうからハスキーな女の声がした。そう、その声は間違いなく榊原恵美のものだった。
私が振り返るとそこには榊原恵美が立っていた。彼女は少し照れくさそうな表情を浮かべて言った。
「室井さん。今から私に少し付き合ってもらえますか?」
彼女の言葉を理解するのには多少の時間がかかった。それほど私にとっては予想外の出来事だったからである。横にいる大輔の顔を見る。祐二は無言で私の肩をぽんと叩くと雑踏の向こう側へと去っていった。大輔の背中からは『がんばれよ』という言葉が伝わってきた。
私は振り返り、彼女の目を見て答えた。
「こちらこそお願いできますか?」
彼女は寒そうにロングコートのポケットに手を突っ込み、首をすぼめて「はい」と返事をした。
この瞬間、私の心の中の「恋をしない」という名のブレーキが壊れ始めたような気がした。
【第三章 築く。そして崩れる】
街から少し離れた所に榊原恵美が付き合って欲しいという喫茶店はあった。その喫茶店は『深海』から歩いて十分ほどの距離にある、閑静な住宅街の中にひっそりと佇むいわゆる『隠れ家的な店』である。喫茶店の外観は普通の民家を改築したような造りになっていて、壁には変わった形のプランターが幾つも掛かっている。
入り口の傍にはじんわりとした淡いオレンジ色の光を出すランプが吊り下げてあった。そのランプの光からはこの寒空ですっかり冷えてしまった心を包み込んでくれるような、そんな温かい光だった。
私たちはここまでやって来るまでの十分間、殆ど会話らしい会話はしなかった。というより出来なかったと言ったほうが正しいだろう。そして、その根本的な理由は私の会話力の無さであることは分かっていた。分かっていたのに直そうとしなかった自分が情けなかった。
「入りましょうか」彼女はポケットに突っ込んだ手はそのままに、すぼめていた首を出して私を見て言う。
「そうですね、それより寒くありませんか?」
「今は寒いですけど、中に入れば暖炉があってすぐに体は温まるので大丈夫ですよ」
暖炉という物が都会の中で使われているとはにわかに信じがたかった。私のイメージする暖炉はヨーロッパの街から離れた、周りを雪で囲まれた小屋の中に置いてあり、暖炉の傍ではおじいさんがパイプをふかしている。そんなイメージだった。
「暖炉があるのですか、珍しいですね」
「そうでしょ、偶然この店に入って暖炉が置いてあるのを見てから、この店の虜になっちゃったんです」
彼女は私が暖炉の話を持ち出すと、嬉しそうな表情を浮かべた。私はやはり彼女は俯き気味の表情よりも嬉しそうな表情のほうが断然かわいいと思った。
「じゃあその暖炉に当たるとしましょうか」
私は本当のことを言うとこの寒さに耐えかねていた。だから早く中にある暖炉に当たりたいのだ。
「もしかして、室井さんも寒がりですか?」彼女は笑いながら言う。その笑顔は私の心をどんな暖炉やストーブよりも暖かくさせた。
「少し寒がりなのかもしれません」
「それなら早く入りましょ」
私たちは並んで歩き出し、ランプで照らされた光の道を通り、扉を開ける。扉を開けた瞬間、ぼわぁっとした温かい風が体を包んだ。店の奥には彼女の言うとおりレンガ造りの暖炉が赤々と燃えていた。
店の右側に広がるカウンターからエプロン姿の少し太った中年の女性店員がやって来て、「いらっしゃい。おや恵美ちゃん、今日は彼氏と一緒かい?」と冷やかすような口調で彼女に言った。
「違いますよー、冷やかさないでください」彼女は顔を赤くして、もう店の中だというのに首をすぼめて黙り込んでしまった。
「でも恵美ちゃんとこの男、お似合いだと思うけどネ」
店員はそう言うと、私に何かアイコンタクトを送ってカウンターへ戻っていく。初めはその意味が理解できなかったが、私がカウンターに視線を送ると、店員は店の一番奥、暖炉のすぐ傍の席を指差した。どうやらそこまで連れて行けということのようだ。
「行きましょうか、ここで立っていても仕方ないので」
「はい」相変わらず彼女の顔は赤く、首をすぼめたままである。
私は改めて店内を見回す。店内にはジャズが流れて、壁にはアンティーク物の壁掛時計がたくさん掛けてある、どこかレトロな雰囲気の店である。私たち以外に客は、カウンター席にスーツ姿の男性が一人居て、コーヒーを飲んでいる。
私は店員が指図するがままに暖炉のすぐ傍のテーブル席に腰掛けた。
「ご注文は?」
いつの間にかテーブルの横に店員がいた。その目はにやにやと、そしていやらしく私たちを眺めている。
「じゃあ、コーヒーを」私はメニューを見ずに答えた。喫茶店なのだからコーヒーは当然置いてあるだろう。
「コーヒーだけじゃ分からないでしょ、何コーヒーなの?」店員は何故か苛立った口調で言った。
「タンザニア産キリマンジャロで」私が言うと、店員は無言で頷いた。
「私はいつものでお願いします」彼女もメニューを見ずに答えた。このことから彼女がいかにこの店の常連客かが分かった。
「いつものね、あいよ」店員は彼女に微笑みカウンターへ戻っていった。
メニューを頼み終えたころには彼女の顔は元の純白の肌に戻っていて、コートもいつの間にか脱いで横に畳んで置いてあった。
「すいません、牧村さんはいつもあんな人なんです」彼女は頭を下げて言った。牧村というのはあの店員の苗字のようだ。
「あなたが誤ることはありません。それより、よく来るのですねここに」
「はい、オケの練習の後やコンサートの後によく来ます。何せ疲れがたまる役職ですから、ここに来ると落ち着きますね」
彼女は軽く頷きながら話す、その時に揺れる黒髪が何とも綺麗だった。
「榊原さんは第何奏者ですか?」
この疑問は私が彼女がオーケストラに勤めていると知ったときからの疑問であった。
自慢になってしまうが、私は昔、クラシックにのめりこんでいた時期があった。だからオーケストラについての多少の知識は持ち合わせているのである。
「一応、第一奏者をさせていただいてます」
「第一奏者ですか!?」
私はとても驚いた。無理も無い、第一奏者といえばバイオリンの首席奏者であり、またの名をコンサートマスター。女性ならばコンサートミストレス略してコンミスと呼ばれる演奏を取りまとめる役職なのである。
「クラシック、お好きなんですか?」彼女は目を輝かせながら聞いた。
「一時期、のめりこんでいました」
私が答えると、彼女は目を一層輝かせて言った。こんな彼女を見たのは初めてである。
「私がバイオリンを始めたのは、クラシック好きの父の影響でした。初めはバイオリンが嫌で嫌で、泣きながら教室に通ってました。でも小学生のときの発表会ででお客さんからたくさんの拍手をもらってから、バイオリンが好きになったんです。それから、音楽科のある高校に進んで、両親は私を音大にまで通わせてくれました。大学二年のときだったかな、初めてオーケストラと出会ったのは。そこで一人で演奏するよりも大勢でやることに楽しさを覚えました。大学を出てからは、今のオケから声が掛かってそこに入団させていただきました。最初のほうはコンサートに出られるかも心配だと先輩に怒られっぱなしで毎日泣いていました。でもそれがバネになって毎日狂いそうなほど練習しました。そうしたら、今年からコンミスをさせていただけるようになりました。先輩からも褒めていただいて、あぁバイオリンやってて良かったなと実感しました」
彼女の目にうっすらと涙が浮かんでいた。彼女は相当な努力家なのだということがこの話と表情から分かった。カウンターのほうからは、オムライスを焼くジューッという音と、おいしそうでどこか懐かしい匂いが漂ってきた。
「すいません、何かしんみりさせちゃって。それに、私何で泣いてるんだろう」
「誤ることはありません。あなたは努力してここまで登りつめたのですから」
私は彼女を諭すように言った。すると、彼女は人差し指で目に溜まった涙を拭ってこの気持ちを紛らわすようににっこりと微笑んだ。私はもう榊原恵美のことが愛おしくてたまらなくなっていた。心の中では必死でブレーキを掛けているのだが、まるで急な坂道で自転車のブレーキが全く利かないときのように、そのブレーキの性能を超える私の思いが突き走っているのである。しかし、私の心の蟠り≪わだかまり≫はいまだ私の恋に自然とブレーキを掛け続けている。
「私、『他人に二度と涙は見せない』って心に決めていたのに……。やっぱり駄目でした」
「誰しも心の中にブレーキを持っているものですよ」
私は『誰しも』とは言ったものの、今まで自分以外に心の中にブレーキを隠し持っている人間などいないと考えていた。たとえ持っていたとしてもそれは大変な境遇に置かれてこそ手に入る物であると考えていた。
私は決意した。彼女の『泣かない』理由を聞こう、不謹慎なのは承知の上である。そして、もしも聞くことができたならその時は私の『恋をしない』理由も彼女に教えよう。何故教えるのかはよく分からない。ただ、彼女に教えることによって自分の何かが変わるような気がする。そして、彼女の何かを変えてあげられるような気がするのだ。
「榊原さんは何で『泣かない』と決めているのですか? 差支えが無ければ教えて下さい」
私の口の中の水分が一瞬のうちに蒸発した。コーヒーを飲もうと思ったが、まだ来ていないのでグラスに注がれた水を一気に飲み干した。
彼女は私の目を一瞬見た後、少し俯いてから重たそうに口を動かした。
「私がオケに入りたてのころ、私は一人の男性と付き合っていました。私がオケで辛いことがあったときは彼の胸の中で泣きました。そして、嬉しいことがあったときは一緒に喜びを分かち合いました。そして、私がある程度オケの中で居場所が出来始めたときに、私たちは同棲するようになりました。暮らしもそこそこいい暮らしをさせてもらっていたのですけど、同棲するようになってから彼は私が泣くたびに嫌な顔をするようになったのです。ある日、私の体調が悪くてオケの練習を早退し家に帰ったとき、彼は家に別の女性を連れ込んで浮気しているようにしか見えない行動をとっていました。私が『何で?』って聞くと、彼は『いつも泣いてばかりいる女は嫌いなんだよ』と答えました。その一言に私は涙も出ませんでした。ただその場から逃げ出したくなって荷物を急いでまとめて出て行きました。それからその一言がトラウマになって、『私が泣くとみんなが嫌な顔をする』と思い、もう泣かないことにしたのです。でもまさか、枯れていたと思った涙腺からまた涙が出てくるとは思っていませんでした」
「あなたは強い人です。でも、本当に泣きたいときは泣いて下さい」私は張り裂けそうな気持ちを抑えながら言った。
私の言葉を聞くと、彼女はその場で顔に手を当てて泣き崩れた。それはまるで今まで心のダムに溜め込んできたものが一気に溢れ出したような泣き方だった。
私はどうすることも出来ずに、ただ泣き崩れる彼女を見ていることしか出来なかった。ここで彼女を慰めるのが当然であることは分かっている。しかし、彼女の悲しく染まった過去を不謹慎にも掘り起こし、泣かせてしまった罪悪感から私は手が出ないでいたのである。
どうしようもなく、戸惑っていた私の横に人の気配がした。ふと横を見ると、複雑そうな顔をして、注文した品を持ってきた牧村の姿があった。
「はい、注文していたオムライスとコーヒーだよ」牧村はやさしい口調で言ったかと思うと、私にまるでガキ大将のような口調で「あんた! 恵美ちゃんをよくも泣かしたわね!」と怒鳴った。
私は否定しようと思ったが、否定せずに「すいません」と誤った。なぜ私は牧村に謝っているのか分からなかった。おそらく、その剣幕に押されてその言葉が出たのだろう。
牧村の怒りは収まらないらしく「あんたが謝るのは私じゃなくて恵美ちゃんでしょ! 男なら泣いている女の子を慰めるのが道理ってもんじゃないのっ?」と続けて怒鳴った。カウンターに腰掛けている男性はこの場から逃げるようにお勘定を置いて出て行った。
牧村は私が返事を考えている間にオムライスとコーヒーを乱暴にテーブルの上に置いて、カウンターの方へと鼻息を荒くしながら帰っていった。
牧村が運んできたオムライスは、大きさこそは普通なのだが卵が見事に半熟になっていて、卵の隙間から真っ赤に染まったチキンライスが見え隠れしている。シンプルだが実に美味しそうだ。
しかし、私はオムライスに気をとられている場合ではなかった。彼女はずっと泣き崩れたままなのである。
「思い出したくないことを聞いてしまいすいません」
私が謝ると、彼女は顔を覆ったまま答えた。
「謝らないでください。私が泣いているのはあなたのせいではありませんから」
「でもきっかけを作ったのは私です」
彼女は少し間を置いた後、「ちょっとお化粧……直してきます……」と言って、化粧室まで走っていった。
扉の閉まる音だけが店内に響く。いつしかジャズは止まっていて、カウンターから牧村がじっと私を睨んでいる。私はその視線から逃避するようにコーヒーを一口、口に運んだ。
彼女が化粧を直すために化粧室に行ったのではないことは、椅子に鞄が置きっぱなしにしていることから連想できた。
彼女が帰ってきたらなんと言おうか私は悩んだ。やはりもう一度謝るべきだろうか、それとも慰めてあげるべきだろうか。どちらにしても、悲しむ彼女の顔は見たくなかった。
彼女が化粧室に入ってから二十分が経とうとしていた。未だに化粧室から出てくる気配は無い。そして、カウンターからは相変わらず鋭い目線を感じる。彼女が頼んだオムライスは半熟の卵が余熱によって完熟になってしまい、運ばれてきたときには立っていた湯気はもう立ってはいなかった。
私は彼女に言うセリフに未だ悩んでいた。考えるたびにコーヒーを一口、また一口と運ぶ。口に運ぶ度に口の中に広がっていく苦い味は、今の私の気持ちを表しているかのようであった。
彼女が帰ってきたのはそれからさらに十分後のことだった。
彼女は無言で席に座った。表情は沈んでいて、目は充血していて真っ赤になり、目の下も同じように真っ赤に腫れ上がっていた。三十分間ずっと泣いていたのだろうか、そして彼女は立ち直れたのだろうか、私は心配になった。
「オムライス、冷めちゃいましたね……」彼女はオムライスをじっと見つめて呟いた。彼女の声は枯れていた。よっぽど泣いたのだろう。そして、よっぽど昔のことが悲しかったのだろう。
私はそんな彼女を見ていると彼女の全てを抱きしめ、包み込んであげたくなった。しかし、今の私にこのようなことが出来る筈も無かった。
「そうですね、温め直してもらいましょうか?」
私が言うと、彼女は顔を上げて「大丈夫です、冷めてもオムライスはオムライスですから……」と言った。彼女が顔を上げたとき、頬にできた涙の跡がライトに反射してキラキラと光った。
彼女はまた少し俯くと、すっかり冷めてしまったオムライスにかかったケチャップをスプーンで丁寧に伸ばし口に運んだ。
店内には再びジャズが溢れだす。ジャズが私の心を静かに揺らし、久しぶりにゆったりとした心地になれた。
「室井さんの一言……嬉しかったです」彼女はオムライスを半分ほど食べ終えたところで、少し照れくさそうに言った。その照れくさそうな表情からは、彼女は立ち直ったように感じられた。
「私が何か言いましたっけ」私にはさっぱり見当がつかなかった。というのも先ほどからのことで自分が何を言ったのかさえ分からなくなっていた。もしかしたらかなり恥ずかしいことを言ったのかもしれない。
「『泣きたいときは泣いて下さい』って言ったの忘れましたか?」彼女は私の目をじっと、問いかけるような目で見た。その瞬間に私の心拍数は上がっていく。
「確かそんなことも言いましたね」私はあくまで冷静に答えた。しかし、私の心拍数はさらに上がり、全身が火照ってきた。今、改めて思い出すとかなり恥ずかしい一言である。
「あの一言で、もう昔のことは涙と一緒に綺麗に流れていきました。これも室井さんのお陰です」と言って彼女は軽く頭を下げた。
「大したことはしていませんよ」
「室井さんにもトラウマがあったりしますか?」
彼女はあまりにも自然な形で聞いてきた。この瞬間、私は自分の知られたくない過去に触れられようとすることがどんなに苦しいものか実感した。そして、改めて彼女への罪悪感を抱いた。
私はふと考える。
もし、自分の作り出したブレーキを外したらどうなる? 自分で止めるブレーキがないと誰が止める? 私は「恋をしない」と決める以前の自分に戻ってしまうかと思うと急に、首を締め付けられるような感覚に陥り恐くなった。
私は彼女の瞳を見る。黒く澄んだ瞳は今にも私を飲み込みそうだった。私は気づく。そうだ、彼女は辛く、悲しい過去を私に打ち明けてくれたのだ。次は私が彼女に打ち明ける番だ。
ブレーキはそれを支えているネジが外れ、今にも崩れ落ちようとしている。
私は重く乾いた口を開いた。
「私が大学二年のころ、私は三宅麗子という女性と付き合っていました。麗子は高校時代の同級生で、私の大学の近くの製薬会社でOLをしている人でした。麗子との出会いはある夏の暑い日に私が大学の近くのファミレスで昼食を食べているときに、偶然再会しました。高校時代に麗子と私は心から話せる友達という関係でしたが、卒業後は疎遠となっていました。初めはその日のファミレスで話した程度だったのですが、それから一緒に遊びに行ったりしているうちに自然と恋愛関係になりました。麗子と再会して半年が経ったころ、私は麗子に『私が大学を卒業して就職して生活が安定したら結婚しよう』とプロポーズをしました。麗子は目に涙を浮かべながら頷きました。しかし、プロポーズから二年後、卒業を間近に控えたころ私は、大学のいわゆるマドンナである笹岡から付き合って欲しいと告白されました。私は当然の事ながら断りましたが、笹岡は引き下がらず私に告白し続けました。何度か告白を受けるうちに私は笹岡に考えてはならない感情を芽生えさせてしまいました――」
ここまで言ったところで私は「恋をしない」と誓った日の情景がフラッシュバックした。私はもう息が詰まりそうで、胸が抉られるような気持ちになった。
私の正面では、榊原恵美が言葉に詰まった私を見て心配そうな表情を浮かべている。
私は張り裂けそうな感情をぐっと胸の奥に押し込んで話を再開させた。
「笹岡から告白され続けたある日、私はその願いを受け入れてしまいました。でも、私の二股という愚行が許されるはずなどありませんでした。ある日、笹岡とデートしているところを麗子に見つかりました。麗子はその場をただ無言で走り去っていきました。それから数日後、笹岡との関係も終わりました。それから私は気まずくなって、会いに行けていなかった麗子の家に謝りに行きました。私は麗子の部屋の合鍵を持っていたので、それを使って中に入りました。家の中で……麗子は倒れていました。彼女の傍には薬の入った小さなビンが転がっていました。私が駆け寄っても……もう麗子は冷たくなっていました……。麗子の手には『さようなら』と書いたメモが握ってありました……。私は……最悪の人間です。麗子の父親からは『人殺しは麗子の葬式に来るな』と怒鳴られ、お墓の場所すら教えてもらえませんでした……。確かに私は……自分勝手な行動で麗子を死に追いやってしまった人殺しです…………。そして私は、自分の心に『二度と恋はしない』とブレーキを掛けました。私はそうもしないと……また恋をして、そうしたらまた麗子にしてしまったことを他の女性にしてしまいそうで……」
自分でも途中から何を言っているのか分からなくなった。ただ、麗子が死んでから誰にも打ち明けられなくて溜め込んでいた苦しみや不安を一気に吐き出すように、必死で訴えた。
「室井さん、あなたが麗子さんにしてしまったことは麗子さんの家族にとっては許しがたいことです。でも自分の心にブレーキを掛けることが、本当にあなたのためになっているのでしょうか?」彼女は強めの口調で言った。彼女の瞳はじっと、苦しみや不安で淀んでいる私の瞳に光を差し込むかのように見ている。
「はい、私のためになっています」
「でも、あなたのためになっていても、天国の麗子さんは、『自分のせいで愛した人が苦しんでいる』と心配しているかもしれません」
「麗子は私を心配なんかしていません。むしろ私を恨んでいると思います」
「恨んでない! その……麗子さんは死ぬ直前に少しはあなたを恨んだでしょう。でも、一度は愛した人です、ずっと恨み続けているはずがありません」
「もしそうだったとしても、私は彼女を死に追いやったことへの十字架を一生背負っていかなければなりません」
「何故そこまであなたは自分を追い詰めるのですか? 麗子さんを失ったことは悲しいことでしょう。でも、それで『恋をしない』と決めるのはおかしいです。天国の麗子さんも浮かばれません。だからその……現実から逃げないで下さい」彼女は目に薄く涙の膜を張り巡らせながら言った。
私の心に彼女の言葉の一つ一つが響いた。そしてその言葉の一つ一つが私の心のブレーキを少しずつ叩き壊していく。
私はふと、自分の左手だけが温かくなっていることに気づく。私はその左手を見る。そこにあったのは、私の左手をぎゅっと握る彼女の手だった。
私はあまりに突然な出来事に頭が真っ白になり、声も出なくなった。彼女の顔を見ると、私の頭の中とは対照的に、真っ赤になっていて目線を私から逸らしていた。
彼女の手に目をやる。バイオリン奏者である彼女の手は陶器のように白く、細く長い指が私の手をぎゅっと包み込んでいる。
この瞬間、私は彼女が私の言葉で嬉しくなった理由が何となく分かったような気がした。しかし、それを言葉にしようと思うと喉の辺りで引っ掛かってどうも出なかった。
――麗子、すまない。私は天国の麗子に誓った約束を破ってしまいそうだ。そう、私は間違いなく榊原恵美に恋をしている。今は彼女が愛おしくてたまらない。麗子はこんな簡単に約束を破る私を許してくれるだろうか――。
私は彼女に声を掛けようと思ったが、声が出なかった。そこで私は、余った右手で私の左手を握っている榊原恵美の手をそっと包み込んだ。
ブレーキはもう無い。
彼女の手を握った瞬間、『私はなんということをしてしまったんだ』と一瞬思った。しかし、彼女の手の温もりはそんなことを忘れさせてくれるような優しい温もりだった。
ふと、私の頭の中に『告白』の二文字が浮かぶ。しかし、言うとなるとどのタイミングで言えばいいのか分からなかった。彼女は未だ顔を赤く染めたまま私と目線をあわそうとしなかった。
私はなんと言えばいいのか分からない。ただ、彼女に私の本当の気持ちを伝えようという気持ちに変わりは無かった。しかし、いざ告白しようかと考えた瞬間から私の真っ白だった頭の中が一気に色々な色に染まった。その色は言葉で言い表せないほどのたくさんの色を含んでいて、私の頭の中を猛スピードで駆け巡っている。
「あの、お話があります」私は頭の中を駆け巡るいくつもの色を振り払うように言った。振り払った瞬間、また頭の中が真っ白になった。
彼女は一瞬ではあるが私の顔を見た後、私の両手に挟まれている手を思いっきり引き抜いて、少し躊躇うような表情を浮かべて、また視線をそらした。
私の手にはしばらくの間は彼女の体温の余熱が残っていたが、しばらくしてその温もりは脆くも消え去ってしまい、私の手には後悔と寂しさだけが残った。
彼女は鞄からメモ帳のようなものを取り出して、必死で何かを書いているようだった。書き終わると彼女はその紙を私の目の前に押し出すように差し出して言った。
「これ、私の携帯電話のアドレスと電話番号です。暇があったらメールなり電話なりしてください」彼女は私の言葉を振り払うように言った。彼女の表情はあわてているようだった。
私の目の前にある紙には確かにアドレスと電話番号が書いてあった。紙に書いてある文字からは彼女の必死さが伺えた。
「また、メールさせていただきます」私はそう言ってその紙を財布の中にしまいこんだ。
「そろそろ、出ましょうか。長居させると室井さんにも悪いので」
彼女はそう言うと、あたふたとしながら荷物をまとめ立ち上がった。手にはお勘定が握ってある。
私はふと時計を見ると時計は十一時を回っていた。そして私は「そうですね」と言い、立ち上がった。私が立ち上がったときには彼女はすでにレジの前にいた。
彼女に払わせるわけにはいかない。私は急いでレジに駆け寄った。
「榊原さんに払ってもらうわけにはいきません」
「でも、誘ったのは私のほうなんで……」彼女は少し躊躇った表情を浮かべている。
「これは私が払います。いや、払わせてください」
私の口調はいつの間にか強くなっていた。彼女はそれに驚いたのか一歩後退して下を向いていた。
「もめるんだったら割り勘にすれば?」私たちが振り向くと、そこにはお勘定の札を持ち、じれったそうな表情を浮かべている牧村の姿があった。
「じゃあ、割り勘でいいですか?」彼女は顔を上げて私に言った。それでも私は気が済まなかったが、私は「はい」と返事をした。
私たちは自分達の分の代金を払い、店を出た。さらに夜は更けていて、寒さがさらに身に凍みた。彼女はやはりコートに首をすっぽりとすぼめて歩き始めた。私もそれに続いて歩き始める。店の中からは牧村の「ありがとうございました」という言葉と、妙な視線が届いた。
喫茶店のある住宅街を抜けて、街中に出る。街には人の数はさらに少なくなっていた。
私たちは会話の無いままイルミネーションに彩られた道を歩いた。彼女の顔を見ると、この寒さに参ったのか耳を真っ赤にさせながら歩いていた。
そのまま会話も無く、しばらくすると駅の前まで到着した。ここでようやく彼女はすぼめていた顔を出して言った。
「今日はお付き合いいただきありがとうございました。楽しかったです。私はタクシーで帰りますので……それではおやすみなさい」
そう言うと彼女は黙々とタクシー乗り場へと歩いていった。
「待って!!」
それは私の口からとっさに出た言葉だった。そう、私は彼女に言わなければならないことがあるのだ。
すると彼女は私の数メートル先でピタリと足を止めてその場で私のほうを振り向いた。
私は彼女を目指して駆け出した。思い切り吐く息は白かった。十秒も立たないうちに私の脚は彼女のところまで到着していた。
「何ですか?」彼女は首をすぼめながら言った。
「あなたに、言わなければならないことがあります。聞いてもらえますか?」
先ほどまで冷たく、凍えていた体が一気に火照った。自分の体温の上昇が目に見えるようだった。
「はい」彼女はさらに首をすぼめた。そして、彼女の顔も火照って赤くなっていた。
私は今から榊原恵美に告白するのだ。言おうとした瞬間、頭の中で考えていたセリフが一気に忘却のかなたへ飛んでいった。彼女は果たして私を受け入れてくれるだろうか。そう思うと私は急に心配になった。しかし、私は彼女に言わなければならないのだ、告白のセリフを。冬の冷たい風が温かく私を後押しするように吹いた。
私はもう一度自分の心に問いただす。心臓は高鳴っているが、ブレーキはもう無かった。
「私は、あなたのことが好きです。私の彼女になってもらえますか?」
体中が熱かった。こんな感情になったのはいつ以来だろうか。彼女を見ると彼女は周りをきょろきょろと見回しながら落ち着かない様子だった。
私にはこの時間が永遠に感じられた。それはまるで時が止まったかのようだった。
そして永遠の時間は破られた、彼女の口が静かに動く。
「今日は色々なことがありすぎて……気持ちの整理が着いていません。しばらく時間をください」彼女は申し訳そうな表情をしていた。そして、私に背を向けタクシー乗り場へ駆けていった。
私はただ小さくなっていく彼女を眺めることしかできなかった。心に隙間風が吹いたような気がした。
【第四章 曇る。そして晴れる】
帰りの電車の中でも私の心の隙間風が止むはずは無かった。私はただ、曇った窓ガラスの合間から流れていく町並みを、電車のモーター音と合わせながら呆然と眺めていた。
はたして、私はここまでどのようにやってきたのだろうか。そして、駅の構内では私は何を見ていたのだろうか。全く思い出せなかった。
「私は告白したんだよな」私はふと声を漏らした。
私の心のブレーキは崩れた。そして、今まで坂道で立ち往生していた私の心は、ブレーキが無くなったことにより一気にその坂道を駆け下りるかのように彼女に自分の思いを伝えた。
確かに彼女にしてみれば今日は色々なことがありすぎたと思う。自分の過去を明かしたこと、久しぶりに泣いたこと、そして私に告白されたこと。彼女の心の中で色々な感情が巡りに巡っていた中で出した結論が『保留する』なのだろう。
一体今、彼女は帰路につく中で何を考えているのだろうか。あまりに唐突に告白してきた男のことを嫌がっているのだろうか、それとも今日あったことを回想しているのだろうか。私には結局分からずじまいである。
私は明日から彼女の返事を待ちながら生活していく自分を思い浮かべた。仕事は捗るだろうか、そしてぽっかりと開いてしまった心の穴をどう埋めるのだろうか。いや、もしかしたら彼女はもう私の前に現れないかもしれない。そう思うと真っ白だった頭の中がブルーで染まった。それも晴れた日の青空のような綺麗なブルーではなく、不穏な群青色のようなブルーである。
やがて、車内のアナウンスは私の降りる駅の名前を告げた。私はそれを聞くとドアの前まで移動し、ドアが開くのを待つ。そして、ドアが開くとドアから出る。階段を上がると正面には改札口が広がっている。それに財布から取り出した定期を通し、駅の外に出る。
私はここまでの作業を何も考えないまま、まるでマシーンのように行っていた。気が付くと財布に定期を仕舞おうとする自分がいたのである。
私は財布の中にある一枚のメモに気づく。そう、無地の真っ白な雑に破かれている紙には榊原恵美の字で彼女の携帯電話の番号とメールアドレスが書いてあった。
彼女は無事に家に帰ったのだろうか。この疑問が真っ白だった頭に浮かぶ。タクシーで帰ったのだから無事だとは思うがやはり心配である。今にでも電話をして真相を確かめたかった。しかしそれには壁が、あまりに大きな壁があった。
私が彼女に告白し、彼女はそれを保留している。という現在の状況である。
もし、私が今彼女に電話をしたとする。その時彼女は、電話越しにどんなことを思うだろうか。きっと無神経で不謹慎な男だと思うだろう。だがしかし、こうして電話番号とメールアドレスをもらったので電話はしたい。さらに、電話をしなければ彼女は私の電話番号を知ることもないことも事実である。
私はしばらくの間、この二つを脳内で天秤に掛ける。そして、出した結論は「電話する」ということである。
左手にメモ用紙、右手に携帯電話を持って目を交互に運びながら番号を押す。番号を押す手は震え、なかなか押せなかった。
そして、電話はメモ用紙に書いてある番号につながる。私は携帯電話をそっと耳に当てて応答を待つ。
プルル。という電子音がいつもよりスローテンポに感じられた。二度、三度と鳴って四度目のコールでガチャリという音がする。私はつばをごくりと呑み込んだ。
「はい、もしもし」電話越しに聞こえたのは紛れもなく彼女の声だった。
「室井です。もう家に着きましたか」
「そのために電話をくださったのですか、ありがとうございます。えっと私のほうは大丈夫です、今は歩いて家に向かっているところです」
彼女の声は少しこもっていた。恐らく寒さで首をすぼめているのだろう。
「えっ、タクシーで帰ったんじゃないんですか」私はてっきりそうだと信じ込んでいた。私は確かにタクシーに乗る彼女を見た。ならば何故、彼女は歩いて帰っているのだろうか。
「ただ、途中で無性に歩きたくなったんです。今夜は月が綺麗ですから……つい」
私は彼女に促されるように月を見上げた。明るく綺麗に光る月が空にはあった。でも今日は満月でもなんでもないただの半月である。そこに魅力を感じるのも演奏者である彼女の感性なのだろうか。
「綺麗……ですね」私は携帯電話を片手に歩き出した。そうもしないと体が凍えそうである。ホットコーヒーが急に恋しくなった。
「室井さんへの返事……まだ整理ができていません……」
「こちらこそすいません。こんな時に電話してしまって」
「いえ、大丈夫です。それより寒いですね」彼女は私の言葉をそっと包み込むように言った。
彼女の寒そうな様子は電話越しにでもよく分かるほどであった。
「ええ、寒がり同士としては辛いですね」
「私、こういう時にこそオムライスが食べたくなるのですが。変ですか?」彼女は恥ずかしそうに細々と言った。その声は小さく、今にも聞こえなくなりそうな程だった。
「変ではありません。私もコーヒーを飲みたいと思っているところです」
「室井さんはコーヒーが好きなんですね」彼女はくすくすと笑いながら言った。
彼女の笑い声を聞いたのはいつ以来だろうか、かなり久しいものになっていた。
「榊原さんもよっぽどオムライスが好きなんですね」私も笑いながら答えた。先ほどまで冷たく凍えていた体が彼女との会話を進めることでぽかぽかと暖かくなった。
しばらくの間、電話にはお互いの笑い声だけが響きあっていた。私は新しい話を切り出そうとしたが思い浮かばなかった。私はこの時間が永遠に続いたらなぁ、なんてことも思ったりした。
「室井さんも忙しいと思うので今日はこの辺で。また気持ちの整理がついたらお知らせしますね」
「榊原さんもお気をつけて帰ってください。お返事待ってます」
「はい、お休みなさい」
「お休みなさい」
電話の切れる音がする。私はそれを確認すると携帯電話を折りたたみ、ポケットにしまいこんだ。
彼女との電話により、心の隙間風は弱まった。だが体の方は急に寒くなったので早く帰らねばと思い、前を見るとそこは私の住むマンションの前だった。
どうやら私は彼女との会話中、無意識にマシーンのように歩いていたようだった。途中には信号もあるというのに、そこでも事故を起こさなかった。
私は自分の無意識さに半信半疑だったが特にそのことを心に留めることもなく、マンションに入り、自分の部屋に戻った。
照明をつけ、そこに当然のように広がっている我が家を見た瞬間、何年ぶりかに旅から戻ってきたような気分になった。そんなことはないのだが、確かに色々なことがあって今日という一日が長く感じられた。今日は早く寝て明日に備えようと思ったが、帰り道で急にコーヒーが恋しくなったのでコーヒーを飲むことにした。
台所の棚からタンザニア産のキリマンジャロのコーヒー豆を取り出し、豆挽き機で挽く。ガリガリという音と共にいい香りが私の嗅覚と脳を刺激する。挽き終わるとその豆をペーパードリップ式の機材にセットし、上から沸騰したお湯を少しだけかけて少々蒸らしておく。しばらくしてから、お湯をさらに満遍なくかけて、コーヒーが下にある容器に滴り落ちるのを待つ。
コーヒーが出来上がるまでの時間にシャワーを浴びることにした。
シャワーを浴び終り、着替え終わったころにはコーヒーは見事に完成していた。そのコーヒーをお気に入りのマグカップに注ぎ、リビングにある椅子に腰掛けた。
私はブラックで飲むのでそのまま口に運ぶ。ほのかな苦味と共に、キリマンジャロ独特の風味を醸し出せている。
コーヒーを飲んだ私は寝ることを諦め、本棚の文庫本を一冊取り出し読み始めた。
今夜、コーヒーと今日あったことの記憶は私を眠らせてくれないようだ――
結局、私は朝まで寝ることは無かった。このような経験は高校生のときの修学旅行以来である。しかし、全く眠気というのを感じなかった。
あの後私は、そのまま朝日が昇るまでコーヒーを飲みながら、読まないで積んであった文庫本を三冊読破した。そして、朝日が昇るのを確認するといつも通り朝食を食べて会社へ向かった。
私がいつも通りの時間に会社に着くと、私の机の前には待ち伏せるようにして大輔が立っていた。そして、私が近寄った瞬間、
「おい、祐二。昨日恵美ちゃんとどうだったんだよ?」と目を可愛らしいスピッツのようにきらきらと輝かせながら言った。たとえ目がスピッツでも、心の奥底までスピッツとは限らない。私にははっきりと分かることが二つある。一つ目は大輔は昨日の私たちにあったことを妄想混じりに考えていること。そしてもう一つは大輔にだけは榊原恵美を『ちゃん』付けで呼んで欲しくないと私が思っていることである。
私がわざと無視をして、やり過ごそうとしても大輔は猟犬のように噛み付いたまま離れようとはしなかった。私は渋々大輔の質問に答える。
「あの後、喫茶店に行って二人でいろんなことを話したよ」
私のその言葉に大輔は「それだけか?」と疑い深そうな表情を浮かべて言う。
実際はそれだけではないことは確かである。彼女を泣かしてしまったし、手も握った。そして私は彼女に告白した。だが、それをまじまじと打ち明けるほど私は口が軽い人間ではない。
もし、昨日の出来事を言ったところで大輔のしそうな行動は想像がつく。おそらく大輔は色々な人、それも老若男女、会社での身分も関係無しにバラし明かすだろう。死んでも絶対にそれだけは避けたい。
「ああ、それだけさ」私は大輔の言葉に答えた。ああ、この舞い降りた難儀な出来事を早くやり過ごしたい。
「本当か?」大輔は私の瞳にぎらっと焦点を合わせながら言う。
「ああ、そうさ」私は大輔に悟られぬよう最小限の返事を返す。
次の瞬間、大輔はにっと笑みを浮かべて私の返事を跳ね返した。
「祐二は何か隠している。俺にはわかる。祐二は嘘をつくと目線を少し右にずらすからな」大輔は自信たっぷりに言う。私は降参の白旗を掲げるしか方法はないようだ。
「すまない、喫茶店では二人で笑いながら楽しく話をした。それから店を出て一緒に電車で帰った。と言えば納得するか?」この言葉の両方は嘘。少しは当たっているかもしれないが半分は嘘である。
すると大輔は半分納得、半分残念そうな表情を浮かべる。
「なぁんだぁ、たったそれだけ? 恵美ちゃんは絶対祐二に気があるって、何でそこで告白をしないんだ。で、メアドぐらいは交換しただろう?」
私は『告白』の二文字が大輔の口から出たところで少しどきりとした。心を読まれたと思ったからである。だが、大輔はまんまと私の嘘に引っかかってくれているようだ。これでひとまず安心である。
「まぁ、アドレスは交換したよ」これは半分本当で半分嘘である。
「よし、そうとなれば次の約束を取り付けようぜ。次は祐二が恵美ちゃんにおごれ」
「そのうちな」大輔の命令口調にいらっとしながらもあくまで平常心で答える。しかし何故次の約束を大輔の謀略によって決めなければならないのだろうか。絶対にこの命令は破棄してやる。
「で、大輔はどうだったんだよ」私は続けて言う。今度は私の反撃の番である。
私の奇襲攻撃に大輔はどぎまぎしながら「一人で飲みに行った……」と言う。先ほどまでの自信はどこへ行ったことだろうか。私がしばらく呆れていると、突然大輔は息を吹き返して「話は変わるけど」と切り出した。
しまった。私は大輔から言葉のカウンターパンチをまともに受けてしまったようだ。大輔の話の切り替えは天下一品である。この『話は変わるけど』という言葉の裏には私に対する恐ろしい報復の影が見え隠れしている。私はあえて何も言わず、ただ頷いて大輔の話を聞くことにする。
大輔は私が頷いたのを確認すると、笑みを復活させて言った。
「今、俺は二つのネタを持っている。一つは祐二が見習うべき話だ。そしてもう一つは祐二にとって気になる話だ。あなたのご注文はどっち?」と某テレビ番組の司会者のような口調で私に問いかけてきた。
おそらく大輔は私に片方を教えて片方を教えずに私を困惑させる作戦なのだろう。作戦に乗ってたまるか、と心構えをする。そして、「気になる話」を私は選択した。
「そっちだな。恵美ちゃんがオーケストラのメンバーということは知っているよな。いや、知っていないとは言わせない。そんでもって、谷村……正確に言えばみゆきちゃんから貰ったんだよ」
そこで大輔はわざと話を中断させた。私を少しでもイライラさせるつもりなのだろう。
「で、何を貰ったんだ?」私は平常心を保ちながら聞き返す。
「チケットだよ。コンサートのチケット」
「ほぅ。それはなかなかですな」私は表面上は冷静に答えた。だが、実際は喉から手が出るほど欲しい。一度でいいから彼女が演奏する姿を見ておきたかったからである。
「欲しいだろ、欲しいなら交換条件を出す。それに応じたらこれをあげよう」
してやられた。大輔の交換条件とは『昨日あったことの真実を教える』なのだろう。前線で突撃していったが実は周りは敵だらけだった。ということをまじまじと思い知らされた。
「交換条件を聞く前に一つ、何で谷村さんがチケットを?」
「祐二は鈍いな。恵美ちゃんの気持ちには気付かない、谷村がチケットを手に入れた理由も思いつかない。鈍さなら人類一かもな」と大輔はあざけ笑うかのように私を見ながら言った。そして大輔の話は続く。
「あの後、谷村はみゆきちゃんと飲みに行っただろう。その時にチケットを二枚貰ったんだよ。それで、一枚持て余して困っているチケットを俺が貰ったわけ。で、それをクラシックが好きそうな祐二にあげようってこと。それにしても谷村は一晩でみゆきちゃんを彼女にしたんだぜ。祐二も見習えよな」
全く大輔は嫌味な奴だ。こいつの約八割は嫌味でできているとしか思えない。私はいらだつ気持ちを抑えて大輔に質問をぶつける。
「でも谷村さんって彼女がいたんじゃ……」
「まっ、二股ってことだな」
『二股』この二文字を耳にした途端、私は自分の過去についてフラッシュバックした。二股をしたことによって私は一人の女性の命を奪ったことは、榊原恵美以外の誰にも言っていない。勿論大輔には言うはずが無い。たとえブレーキが壊れたとしても私の過去は変わらない訳だし、これからもその十字架を背負って生きていかなければならない。改めて申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
私はふと、榊原恵美の言葉を思い出す。
『現実から逃げないで下さい』
これは重い十字架を背負っている私の背中を軽くしてくれた一言だった。おかげで私は現実から逃げないことを決心し、彼女に自分の思いを打ち明けることができたのである。
「おーい、祐二。生きてるか?」
私がふと我に帰るとそこには不思議そうな顔をする大輔の姿があった。
「おかげさまでちゃんと生きてるよ。でもさ、今大輔は『見習う』って言葉を使ったよな。それって大輔が用意していたネタの『祐二が見習うべき話』のことじゃないのか? つまり、そのネタの内容は『谷村さんが一晩で彼女を作ったのだから、同じチャンスがあった祐二にもできるだろう』だろ」
「ああ、当たりだよ。俺としたことが二つとも話しちまった。まっ今日はサービスと思って受け取ってくれよ」大輔は片足をぶらぶらさせながら半ばやけくそな口調と表情を浮かべていた。
「で、交換条件とは何だ?」
私はつまらなさそうな表情の大輔に聞く。私の心の中もやけくそだった。昨日のことを深入りされる展開は想定済みである。それを隠すためのセリフもきっちりと用意した。
「え、あぁ。それね。『俺に昼飯をおごる。』でどうだ? チケットを買うよりもはるかに安いぞ」
「え!? あぁ。お安い御用だ。じゃあ、チケットを頂戴するよ」
私が想定していた展開とはまったく別の展開だった。これで私はチケットを貰えるわけだが、大輔は谷村さんから貰ったチケットを私に昼飯と交換に渡すとは腹黒い奴だ。まるで誰かが狩った獲物を陰で盗もうと企んでいるハイエナのようである。
「チケットはちゃんとおごるのを見届けてからのお駄賃さ。それまではお預け」
そう言うと大輔は鼻歌を歌いながら軽快なステップで自分の机へと戻っていった。
午前の仕事を終えると共に、大輔はチーターのような速さで私の元へ駆け寄ってきた。私はそれを従えるかのようにして部屋を後にする。大輔が言うに行き先は社内食堂のようだ。
食堂は屋上の一つ下の階。つまりこの会社の最上階に当たる十二階に位置している。私たちの部署が六階なのだがそこまではエレベーター一つで直行できる。
エレベーターの中で大輔のテンションは最高潮に達しようとしていた。子供のようにエレベーターで鼻歌を歌いながらはしゃぎまくっていた。
この会社のエレベーターは十一階を無視して通る。その十一階には社長室があって、社長には直接社長室に行けるエレベーターが存在している。社員はうすうす感じ取っているのだがこれは会社の陰謀である。社員は社長室に行く際、通行書を提出してからでしか入ることを許されていない。きっと十一階では極秘の何かをしているに違いないが、それがさっぱり分からなかった。巷では『極秘の会議をしている』とか『社長は遊んでいる』という噂が散乱しているが、どれも証拠は無い。つまり、十一階は社長のみぞ知る亜空間なのである。
そんなことを気にかけている間に、エレベーターはプログラミングされた通り十二階にたどり着く。鉄の扉が開くとそこでは何人かの社員が昼食をとっていた。
私たちは食堂に足を踏み入れる。入って右手には券売機があって、そこでお食事券を購入してから注文するシステムになっている。
我が社の食堂の味ははっきりと言って美味しくない。ただ、弁当を作ってもらう相手がいない私たちのような人間には必要な場所なのである。
大輔は券売機の前で品定めをする。そして私の方を振り返り、どれを食べるか決まったと伝えた。
「で、どれを私におごらせるんだ?」
「これです」
大輔は私の目を見ながら一つのボタンを指差した。その指の先のボタンには『超特大定食 二千百円(税込)』と書かれていた。
私は腹黒い大輔ならこれを選ぶことは承知していた。なのでそこまで特別には驚かなかったが、やはり高い。私はやむを得ず『超特大定食』と一番安価なオムそばのお食事券を自分の分として購入した。
私はその二枚のお食事券をカウンターに差し出した。食堂の調理員は少し目を見開いてからその券を受け取った。
私はそれを確認すると、大輔が座っている壁際の四人座りの席に腰掛けた。
『超特大定食』が運ばれてきたのは注文してから十五分後のことだった。
運びこまれてきたお盆の上にはカツ丼、肉うどん、天ぷら、カレーライスが並べられてあった。しかしこれは定食というより、『高カロリーフルコース』と呼ぶべきではなかろうか。
大輔は全てが机に並べられたのを確認すると私の目の前で、それに物凄い勢いでかぶりついていった。決してそれは上品とはいえない食べ方だった。言い方を悪くすれば下品な食べ方である。
さらに五分後、『高カロリーフルコース』の陰に隠れて私のオムそばが運ばれてきた。
オムそばは想像していたよりも小さく、カチカチの薄焼き卵の合間からこってりとした真っ黒な焼きそばがはみ出している。
私がオムそばを食べようとしたとき、ピロピロリと私のポケット内の携帯電話に着信が入る音がした。ポケットからそれを取り出して背面街受け画面を確認する。そこには『着信 榊原恵美』と映し出されていた。
私の心臓は蘇生したかのように高鳴り始める。私は携帯電話片手に食堂を飛び出した。大輔はそんな私の姿を気にも留めず黙々とカレーライスに舌鼓を打っていた。
食堂から出て、正面にあるエレベーターの前で私は電話に出た。
「もしもし」
「あっ、どうも榊原です。お仕事中じゃなかったですか?」
彼女の声はこもっていなかった。おそらく暖房の効いた部屋にいるのだろう。
「いえ、いま昼休み中です。榊原さんこそ大丈夫ですか」
「私も昼休み中なので大丈夫ですよ」
か細い声で彼女は続ける。
「えっと、その、室井さんからの告白の答えが出せました。それで……今夜会えますか?」
彼女の声はクレッシェンドした後に、デクレッシェンドしていく、落ち着かない様子だった。
「いいですよ。それではどこで会いますか?」
私は返事こそは言えたものの、今夜会うというのがあまりに突然で驚き、今にも口から心臓が出てきそうな勢いだった。
「では、あの喫茶店で。何時ごろがいいですか?」
彼女の声は元のトーンに戻り、落ち着いた感じになる。
「会社が終わるのが五時なので、五時半くらいがベストですね」
「分かりました。では待ってます」
「はい。で、榊原さんは昼ごはんに何を食べていますか?」
私は少しでも長く話したいという思いから話の内容を変えた。本当はここで終わらせておくのがベストだったのかもしれない。
「今日はオムライスですね」彼女はあっけらかんとした声で言った。
「榊原さんはオムライスしか食べないんですか?」私は試しに聞いてみた。確かにそうである、彼女がオムライス以外の食べ物を食べている姿を見ていない。
この質問に彼女は笑いながら「ちがいますよー。他の食べ物もきっちり食べてます」と言った。彼女の話は続く。
「でも、オムライスは一番好きですね。それとオムレツは許容範囲ですけど、オムそばは私にとっては邪道です」彼女はトーンを上げ下げしながら喋る。よっぽどオムライスが好きなのだろう。
「あの、今日の私の昼ごはんはその『オムそば』なのですが……」
「えっ! あっすいません。こんなこと聞いたら食欲なくしちゃいますよね……」彼女のトーンは最も低くなり、そこから申し訳ないという気持ちがひしと伝わってきた。
「いえ、大丈夫です。気になさらないで下さい」
「本当にごめんなさい。それでは今夜待ってます」
「それでは、また」
私は電話が切れるのを待ってから携帯電話を閉じてポケットに仕舞いこんだ。
私が席に戻ったころには、大輔は『高カロリーフルコース』を完食しきっていた。
「大輔、お前よくも全部食えたもんだな」私は皮肉混じりに言った。
「ご馳走様でした。で、誰と電話してたんだ? 見当はつくけどな」大輔は自信ありげに言う。
「当ててみろよ」私は大輔に挑戦状を叩きつけた。しかし大輔のことだから当てるに違いない。
「恵美ちゃん」
「…………大正解」
「じゃ、これがチケット。置いておくぞ」
大輔はチケットをテーブルに置くと、足早に去っていった。
私は冷めてしまったオムそばを口に運んだ。ねっとりとしたソースの味だけが口の中に広がった。確かにオムそばは邪道かもしれない、そう思った。
私は仕事が終わる五時を迎えると、真っ先に彼女と待ち合わせしている喫茶店へと向かった。
会社から一歩外に出ると、昨日よりも寒さが厳しくなっていた。こんなとき手をポケットに入れ、首をすぼめながら歩いている彼女の姿を想像するとどこか微笑ましくなった。
早く彼女に会いたい一心からだろうか、私の足取りは速くなっていた。人混みを掻き分けながら、信号を渡り、駅の前に出た。昨日、私はここで彼女に思いを伝えたのか。そう思うとまるで昨日のことが甘酸っぱい遠い昔の思い出のように思えた。
駅からさらに歩いて十分ほど経ったころだろうか、私の足は彼女と待ち合わせしている喫茶店の前にあった。
ここに来て急に緊張してきたことが自分でも分かった。無理もない、告白の返事を聞くためにこの喫茶店の前にいるのだ。
右手で左手首を押さえてみる。右手の親指にはドクンドクンと血が早く流れる感覚があった。
そして、私は喫茶店のドアを開けた。扉を開けた瞬間、あの暖炉の温かさが私を包みこんだ。
暖炉の温かさは現代の電気ストーブや電気カーペットには無い、少し懐かしいような温かさだった。無論、私はこの喫茶店を訪れるまで一度も暖炉にはあたったことがなかったのだから不思議でしかたがなかった。
相変わらずこの店には客らしい客は居なく、牧村はカウンターでなにやら作業をしていた。
店の一番奥、暖炉からの距離が最も近い席に彼女はいた。ここからでは後姿しか見えないが、確かにあの黒で統一されたファッションと、長くて綺麗な黒髪は彼女のものであると確認できた。
私は彼女のいる席へと向かう。その途中でカウンターのほうから「おい、青年」と話しかけられた。カウンターのほうを向くと勿論そこには牧村がいて、作業をしている手を止めて腕を組み、仁王立ちしていた。
「何ですか?」私は少し強めの口調で言った。
「ふーん、ほほぅ」牧村は私をじっと見て、理解不能な言葉を口ずさみながら、首を縦に振った。そして、「無理も無いわねぇ」と言ってまた作業をするために手を動かし始めた。
私は牧村の言動に疑問を抱いたが、忘れることにした。それよりも今はもっと大事なことがあるのだ。
私は再び歩き始めた。そして、数歩歩いたところで彼女の待つ席に着いた。私は彼女の向かい側に腰掛けた。
「どうも、待たせてしまいましたか?」私は今にも口から出てきそうな心臓をぐっと押し込むように尋ねた。
「いえ、お腹がすいていたので少し早めに来ただけです」彼女は前髪を掻き分けながら答えた。顔が少し赤いのは暑さのせいだろうか。彼女の傍らには置き去りにされたかのように白いお皿がちょこんと置いてあった。
「もしかして、またオムライスですか?」私は笑みを浮かべながら言った。しかし、この笑みは彼女から見たら、ただ頬を引きつらせているだけにしか見えないのかもしれない。
「よく分かりましたね」彼女は照れくさそうに微笑みながら言った。
「私はオムライスを食べる榊原さんしか知りませんから、半分賭けのようなものでした」私も微笑み返すようにして答えた。これは賭けでオムライスに辿り着いたというよりも、皿に付いたケチャップからオムライスを連想したことは彼女には言わないことにした。
「だから、私は他の食べ物も食べますって。ただオムライスが大好きで、それがしばらく続いているだけです」
彼女の目の色がオムライスの話一つで変わったのを私は確認できた。ただ、『しばらく』というのがどれ程なのかはさっぱり見当もつかなかった。
彼女は俯きふぅーっと大きく息を吐いて、続けた。
「私がオムライスが好きになったのは幼稚園のころのことでした。毎日バイオリンのレッスンで疲れてしまったときに、母がある日、『ここに寄っていこうか』といって一軒の洋食屋さんに入ったのがきっかけでした。そこで食べるオムライスがとても美味しくて。その前からもオムライスは好きでしたけど、その洋食屋さんに寄ってからは一番好きな食べ物になりましたね。それからレッスンが終わるたびに連れて行ってもらって、それが楽しみでバイオリンをやっていたこともあります。それで、今ここで食べるオムライスは、あの洋食屋さんのオムライスの味に一番近いんです」
彼女は言い終えると、はっと目を見開いて私を見た。
「あっ、関係のない話をしてしまいました。すいません。室井さんはオムライスの話を聞くために来たのではないのですよね」彼女は小さく頭を下げた。その時にさらりと揺れる黒髪が綺麗だった。
「いえ、大丈夫です。それよりも私の方こそ嫌味なことを言ってしまったのかもしれません。すいません」私も小さく頭を下げた。私はこのオムライスの話によって、緊張のボルテージは少し下がったような気がして、ちょうど良かった。
しかしボルテージが下がったのは一瞬のうちだけだった。
「えっと、じゃあ本題に入りましょうか。そのために来てくださったのですよね」彼女の顔はさらに赤く染まった。もしかしたら先ほどまでは暑さで顔が赤くなっていると思ったが、本当は緊張から顔が赤くなってしまったのではないだろうか。
「ええ、じゃあ本題に入りましょうか」私の緊張のボルテージは上がる。
「それじゃあ、言わせてもらいますね」
彼女の口が開く。私はビデオのスロー再生を見るかのように、彼女の顔をじっと見ていた。今、彼女の本意が語られようとしているのだ。私はいい結果であることを願うことしかできなかった。
「私は……室井さんのことが好きです。本当は昨日にも返事をしたかったのですが、少し気が動転してしまって……。あの時に素直に受け止められなくてごめんなさい。こちらこそ、お付き合いしてもらえませんか?」彼女の声は所々裏返っていて、決して私と目を合わそうとせず、テーブルに置かれたグラスをじっと見つめていた。
私は当然の事ながらこの返事が嬉しかった。今にでも店中を走り回ってアクロバティックな動きをしながら、この喜びを表現したかった。しかし、そんなことはできるはずはない。
彼女に改まって『好き』と言われると、急に気恥ずかしくなった。私もこの言葉に気が動転してしまい、返事の言葉を考え出すのに少々時間がかかってしまった。あのときの彼女もこんな気分だったのだろうか。今の彼女はグラスをじっと見ていた。その姿は不安そうなオーラをまとっているように見えた。
時計の針の音が静かに聞こえる――。
それに合わせて私の心臓も高く鼓動する――。
体の回りをぽぉーっとした温かい雰囲気が包む――。
私は心のトビラを開けるように、乾いた口の感覚を抑えながら、言った――。
「はい」
返事の一言はあまりにシンプルだった。頭の中ではもっと違う言葉を言おうとしていた気もしたが、それでも『はい』という自分の気持ちに誤りはない。
不思議な気分だった。つい数日前までは『恋をしない』と言いきっていた私が、榊原恵美のことを駅のホームで見かけて、倒れた私を彼女に病院まで運んでもらって、合コンで再開して、喫茶店で話し合って、告白して――。この数日間の中で間違いなく自分の中の何かが変わった。いや、彼女に変えてもらったというべきだろうか。彼女の心には私の持っていない何かを持っているような気がして、又、彼女が持っていないものを私が持っている気がして止まない。麗子の時にはなかった気分だ。だが、その何かが分からない。だが、ゆっくりとしていて、温かいものだということは分かる。
次の瞬間、私の心の中にびゅんと風が吹いたような気がした。その風は、火照ってきた私の体温を表しているかのような温かさと、これから彼女のことを守る立場にあるのだ、という使命感を含んだ風だった。この風はどこからやってきたのだろう――。
彼女は目をはっと見開いて、私の顔を見た。そして、彼女の頬には銀色に輝く一粒の涙があった。
私にはこの涙の理由について考えた。もしかしたら、私の飾り気のない返事に失望してしまって流した涙なのかもしれないと考えると、不安な衝動に駆られた。『どうしたのですか』と声をかける前に、彼女の口が開いた。
「あっ、すいません。私が返事を待たせてしまったから、もしかしたら室井さんに嫌われたかもしれないと思うと不安で、怖かったんです。でも、今、室井さんから返事を聞いたら嬉しくなって、急に緊張の糸が切れてしまって泣いてしまいました」彼女は人差し指で目に溜まった涙を拭い、微笑みながら言った。
「よかった。私が何か悪いことを言ったのかもしれないと思ってました」
私が言うと、彼女は「そんなことないですよ」と右手を左右に振った。
「あらあら、楽しそうなことしてるじゃないのっ」テーブルの横から声がした。私はこの声の主が誰かはすぐにわかった。この口調、少ししゃがれた声。間違いなく牧村だ。
私が牧村のほうを見ると、牧村は両手に皿を抱えていて、それにはオムライスが盛り付けてあった。相変わらず卵の加減が良く、とてもおいしそうだ。
「何か?」私は牧村に聞いてみた。
すると牧村は、オムライスが盛り付けられた二つの皿をテーブルに置くと、「二人への私からのささやかなお祝いよ」と言った。オムライスにはケチャップでハートが描かれていて、そこに牧村のささやかなお祝いの気持ちが溢れているような気がした。牧村は結構いい人なのかもしれない、と思った。
牧村は「よいしょっと」と言うと、踵(きびす)を返してカウンターのほうへと戻っていった。コンコンと歩く音がした後、ギィという牧村が椅子にかけるときの独特な音がすると思いきや、コンコンとこちらに足音が近づいてくる。そして、何故かもう一つ皿を持ってくるとそれをテーブルの上に置き、榊原さんの隣にずかずかと割り込むようにして座った。
私にはこの状況が理解できず、ただ「へっ?」と首を傾げるしか出来なかった。
それに対して牧村はへらへらと笑いながら「二人の思い出の場所、つまりこの喫茶店の持ち主は私なんだから、二人の話を聞く権利ぐらいはあるわよね。そうよねっ、恵美ちゃん」と言い、隣に座る榊原さんの肩をぽんと叩いた。
肩を叩かれた彼女は、渋々といった表現が似合うような表情を浮かべながら、「えっ、まぁ……」と頷いた。
そうなるともうここは牧村の縄張りと化してしまった。私はさっきの言葉を撤回して、こちらも渋々話を聞くことにした。この様子は、テレビドラマとかでよく見る、警察署の取調室のようだった。配役は私が犯人で、牧村が荒々しい取調べをするベテラン刑事、そして榊原さんはその刑事に無理やり引っ張られる若手の刑事といったところだろうか。
ここから牧村の一方的な尋問が始まった――。
「二人が知り合ったのは、いつ? どこで?」まずは小手調べといった具合に、冷ややかながらも興味に満ち溢れた口調で尋ねてきた。目線が私に向けられていることから私に質問をしているのだろう。
私は出来れば言いたくなかった、言ってしまったら彼女が迷惑すると思ったからだ。先ほどまで心の中で吹いていた温かい風は、明らかに風向きが変わってしまっていた。彼女に目線で合図を送った。『言ってもいい?』という意味でだ。彼女は牧村に見つからないように首を小さく縦にこくこくと動かしてみせた。どうやらオッケーのようだ。
私はふぅーっと大きく息を一つ出した。
「お恥ずかしい話なんですが、一週間ほど前に、私は駅で急性アルコール中毒で倒れたこんです。その時に駆け寄って助けてくれたのが彼女でした。その後、同僚から誘われた合コンで偶然再会したのが昨日のことです。でも、それ以前に私は榊原さんの姿は駅で何度か見かけたことがあったんです」
私がそう言うと、オムライスを食べていた榊原さんはその手を止め、私のほうを見た。
「そんなことは初耳です。私は室井さんのことは病院で知ったので、室井さんについてもそうかと思ってました」彼女の表情は驚きを隠せないでいた。
「ふーん。じゃあじゃあ、室井は恵美ちゃんのどこに惚れたの?」牧村の目の色が一瞬にして変わった。その目は先ほど例えた刑事の目ではなく、面白いものでも見つけた犬のようだった。
私はさすがにこのことは他人である牧村には言えないと思った。いや、言ってはいけないと思った。彼女のほうを見たが、彼女は俯いてしまって動かなくなっていた。
私が何も言わないでいると、牧村は諦めたような表情を浮かべて、「さすがにこういうことを聞いちゃいけなかったわね」と言った。私はほっと胸をなでおろした。もしも言うことになったら、私は緊張してしまっていただろう。そしてもし、私が答えると牧村は彼女にその話題を飛び火させたであろう。
彼女も牧村の言葉を受けて、ほっとしたような様子で顔を上げた。顔が少し赤く火照っていた。
「私が聞きたかったのはここまで、じゃあごゆっくりね」そう言うと牧村は空になった皿を持ちながら軽快なステップで席を立った。いつ牧村にオムライスを食べる時間があったのだろうかと不思議でしょうがなかった。
私はここでようやくオムライスを食べ始めた。確かに牧村の作ったオムライスは美味しかった。卵の甘みと、ケチャップとチキンライスの酸味がお互いに邪魔をしない程度にマッチしていて良かった。一言で言えば家庭的といえる味だ。
「美味しいですか?」私がオムライスに舌鼓を打っているとき、彼女は微笑みながら尋ねてきた。彼女のオムライスの皿は見事に空っぽになっていた。
「ええ。卵の加減が何とも……」
「やっぱり、私もこの卵が大好きです。それに、このケチャップは牧村さんの手作りなんですって」やはり、彼女の目の色はオムライスの話になると変わった。
「そうなんですか。榊原さんは自分でオムライスを作ったりしますか?」私はここでオムライスをもう一口、口に運ぶ。確かにこのケチャップは市販のものとは違うようだ。
「料理全般は作ろうと思えば作れますけど、両親と暮らしてますんで、ほとんど作る機会はありません。しかも作ることは出来ても味はいまいちだって母からよく言われます」彼女は照れくさそうに笑った。
彼女の端正な顔立ちから作られる表情はどれも綺麗だった。そして、彼女の嬉しそうな表情を見るとこちらも嬉しくなるし、照れくさそうな表情だと私もなんだか照れくさくなる。そんなことを考えると、再び彼女を守るという使命感に駆られた。私は二度と麗子のときのような真似はしない、そして、彼女の全てを受け入れよう。喜びや悲しみを一緒に分かち合いたい。そうすることで私は、まだ心に残る過去からの傷を、引きずるでもなく、忘れるでもなく『今、目の前にいる大事な人を守る』という使命感に繋げていこうと誓った。
【第五章 奏でる。そして響く】
私たちはオムライスを食べ終わると、店を後にした。代金を支払っているときも、牧村はニヤニヤしながら私たちのほうを見ていた。牧村はおせっかいにもレシートの裏に何かを書いて私たちに手渡した。
『がんばってネ、二人とも。 おせっかいおばさんより。イヒ』
レシートには急いで書いたからなのか、それとも元々こんな字なのか汚い字でそう書いてあった。私は心の中で深くため息をついて、レシートをポケットにしまいこんだ。彼女にもその内容が見えたらしく、やれやれといった表情を浮かべていた。
店の外に出ると、店内の気温と、外の気温との差に心臓麻痺を起こしそうだった。それほど気温差が激しかったのだ。彼女はいつものように黒のロングコートを羽織って、ポケットに手を突っ込み、首をすぼめて歩き始めた。髪の毛の間から覗く、彼女の耳の赤さが実に痛々しかった。
こんな都会の町の空に星はなく、ただ真っ黒な空に黄色い絵の具を一滴落としたような月が存在しているだけだった。そして、その月も雲に隠れて見えなくなりかけている。
私は寒そうな彼女の手を自分のコートのポケットの中で手をつなぐ、というかなりベタなことを考えてみたりしたが、やめた。もし、そんなことをしてしまったら彼女が引いてしまうかもしれないと思ったからだ。
私たちは寒い夜道を並んで歩き始めた。
「ますます寒くなりましたね」私は話しかけた。この話しかけ方も不自然で、ベタ過ぎる。こんな話でしか切り出せない自分が情けない。
「顔は寒いですね。こうやってすぼめていないと厳しいです。でも、手は温かいんですよ」
私がなぜ、といった顔をすると、彼女はおもむろにコートの両ポケットから小さな袋のようなものを取り出した。そう、それは紛れもなく使い捨てカイロだった。
彼女の白くて大きな手の中に小さくて四角いカイロ。あぁそういうことだったのか。だからいつも彼女はポケットに手を突っ込んでいたのか。カイロにプリントされているうさぎのキャラクターは微笑んでいた。
「これが無いと冬は大変なんですよ。それも二つ。両手に持っていないと心配なんです。心配なら一つ貸しますよ」彼女はカイロを一つ私に差し出した。
「そうですね、それじゃあ一つお借りします」
手に取った瞬間、どこかほっとなれた。何故だかは分からないが、熱過ぎず、冷たすぎず、そう、人の体温のようだった。ポケットに入れていたのならもっと熱いはずなのだが……何故だろう、効果が消えかけているのだろうか。
私はカイロを握った手を自分のコートのポケットに入れた。ポケットの中に入れると温かさはポケットの中に広がった。それはまるで誰かが自分のポケットの中に手を入れているような心地だった。
生命線であるカイロを一つ失った彼女はもう一つのカイロを大事そうに両手で持ち、寒さを紛らわそうとしていた。彼女には申し訳ないことをしてしまったかもしれない。
「あの、一つ聞いていいですか?」
彼女は両手にカイロを持ったまま、寒そうに少し震えた声でたずねた。
「いいですよ」なんだろう、聞きたいことって。
「えっと……さっき喫茶店で牧村さんに『恵美ちゃんのどこに惚れたの?』って聞かれましたよね。その……厚かましいですけど、その答えを聞かせてもらいたいなぁ、なんて思ってみたりして……」
言った瞬間、彼女はとっさに目を伏せてそそくさと歩き始めた。
私もそれに追いつくように早足で歩く。そして、追いついたころ、彼女はこっちを見て、
「やっぱり、こういうものって個人の胸の奥にしまっておくものでしたね。すいません。忘れて下さい」
「いえ、大丈夫です……」
やはり相手の好きなところを言うのは恥ずかしかった。そんなことを言うのは久しぶり……いやむしろ初めてかもしれない。しかも今目の前にいるのは私が守っていくと誓った大切な人、ごくりとつばを飲み込んで続けた。
「はじめ、榊原さんを駅で見かけたときに、私はあなたに惚れていました。要するに一目惚れです。そして、偶然会うことになって、お互いの話をするうちに榊原さんの内面的な部分も好きになって……。あなたがいたから、私は過去のジレンマから抜け出すことができて、今の自分があるのです。そうです、私は榊原さんの全てに惚れたんです」
その時、私には恥ずかしさは無かった。目の前にいる大事な人に本当のことを素直に伝えたのだ。この言葉……私が彼女に言った言葉の中に偽りは無い。
「そんな……。自分から聞いたことなのに、やっぱり恥ずかしいですよ」
彼女は再び首をすぼめて、早足で歩き始めた。私は自分達が立ち止まっていたことに気付いた。私も彼女の影を追うように歩き進める。
あの会話を境に、私たちはすっかり黙り込んでしまった。ただ、駅までの道のりを黙々と歩いた。
牧村の喫茶店のある住宅街は、恐ろしいぐらいの静けさで、まるで家の明かりだけが存在しているだけのようだった。だが、そんなことはありえないことであり、実際は立ち並ぶ一軒家の窓のカーテンには人影がちゃんと映っていて、その幸せそうな影に微笑ましくなる。
私の横にもきっちりと影を従わせながら歩く彼女がいる。両手には一つのカイロ、首はすぼんでいる。
私も両手に一つのカイロを持ちながら、彼女のまねをして首をすぼめようとしたが、やめた。首をすぼめたところで、私のコートでは何の意味も持たないからだ。
寒そうに歩く彼女ははじめて見かけたときと姿は一緒である。だが、その彼女の周りを取り巻くオーラのようなものはまるきり違うと言い切れた。初めて見かけたときは、どこか落ち込んでいるような『影』のオーラをまとっていたが、今はちがう。彼女を取り巻いているのは『影』などとは似ても似つかない『光』のようなオーラである。
『光』といっても、眩しくて目を細めたくなるような明るい光ではなく、どこかほんわかとした、言い表しようの無い――いや、言い表すのならあの喫茶店の暖炉の淡く放つ光のようだ。
それでは、私からはどんなオーラが出ているだろうか。そんなことは自分では全く分からない、当たり前である。『影』だろうか『光』だろうか、それとも一切何も放っていないのか。もし放っていないと言い切るのなら、オーラというのは彼女のようなある種のプロフェッショナルが放つものなのだろうか。そういえば、著名な作家やスポーツ選手からは語らなくても威厳のようなものを感じる。オーラはプロフェッショナルが出すもの、と自己解釈する。
だがもしそれでは、私が感じる彼女のオーラが変化して見えたのはどう位置づけるのだろうか。やはり、オーラというものは誰もが持っていて、自分では分かりにくい、もしくは分からないものなのだろうか。
結局、分からなくなったのでこの辺でこのことに関する思考を閉ざそう――。
それからしばらく歩くと、駅の前まで出た。駅の前は先ほどの住宅街とは一変、静けさなどどこにも無く、ただ広がるのは雑踏、雑踏、雑踏……。どこかの酔っ払いの叫び声に、それを無視する冷たい視線。駅のショーウインドウを鏡にするストリートパフォーマー。見ると嫌になるようなものもあれば、どこか寂しげなものもちらほら。そんな雑踏から目をそらすようにして彼女は歩いていた。
「私、こういううるさい感じが苦手なんです」雑踏をかき分けるように彼女は言った。
不思議なことに彼女が話し出すと、私の世界の耳に入ってくる雑踏は耳に入らなくなる。大輔や谷村と話すときはこんなことないのに。
「私も嫌いですね。私がぶっ倒れたときはあのおじさんみたいでしたか?」私は酔っ払って街路樹にもたれかかるようにして、寝ているか気を失っているかよく分からない男性のほうを見ながら言った。
「あんな感じでしたね。何で室井さんは倒れたのですか?」彼女は顔を伏せるようにして笑いながら答えた。
「あれは、隣に座っていた人のウイスキーを間違って飲んでしまったからなんです」
すると彼女は何も言わず笑い始めた。私もそれにつられて笑う。
「あ、そうだ。あのときの御礼をしてませんでした」
「いいですよ、気を使ってもらわなくても」彼女は顔の前で手を左右に振りながら答える。
「いや、是非。食事でも奢らせてください」あの日のことを思い出した途端、御礼をしなければならない使命感にとらわれる。昔から私は頑固者だと呼ばれてきた、これと決めたら引き下がれないのだ。
彼女は顔の前に持ってきた手を下ろして、「じゃあ、お願いできますか」と小さく頭を下げた。「でも……」彼女は少し含んでから、「一方的に奢ってもらうのは悪いので、私からプレゼントしたいものがあります。いいですか?」
プレゼント? 何だろうか。カイロだろうか、それとも……。全く想像がつかなかった。
私が返事をする前に、彼女は鞄の中をがさごそと探って、一枚の紙切れを取り出した。
「これなんですが……」
彼女が差し出したのは、コンサートのチケットだった。そう、今日、私が必死で大輔から手に入れたそれである。しかも、書いてある席は大輔から貰ったのより上等なものだった。
「今度……といっても二週間後の日曜日、私のオケのコンサートがあるんですけど、大丈夫でしょうか」
私は少し迷った挙句、それを受け取った。彼女の好意を水に流すわけにはいかない。今、私が持っているチケットは大輔に返すことにしよう。
「ありがとうございます。でも、これってすごく高いんじゃないですか?」確かにそうだ、高価だと分かると、少し気が引けてしまう。
「いえ、これはほとんどタダのようなものですから」
「それでは、ありがたくいただきます」小さく頭を下げて財布にチケットをしまった。
「お食事は、できればコンサートが終わってからでいいですか? 厚かましくてすいません、オケの練習とかでどうしても来週は無理そうなので」
忙しいんだ。やっぱり大変なんだろうな、こういうプロの仕事は。そう考えると、サラリーマンは仕事が終わって、残業があり、それでも十分大変だが、仕事が終わるとフリーである。オケってどんなものだろう、やっぱり会えなくなるくらい大変なのだろう。いろんな人に注意されて、他の人のことを気遣いながら、自分のパートにも集中し続けるのだろう。そして、へとへとに疲れて寝てしまうのだろう。
これからもできるだけ毎日連絡は取りたいけれど、彼女のことを考えるとそれは難しいようだ。
「大丈夫ですよ。やっぱり大変なんですね、オケって」
「本当にありがとうございます。お食事、楽しみにしてますね」彼女は目を細めながら言った。
「こちらこそ。コンサート、楽しみにしてますよ」
私が言うと、彼女は少し照れくさそうに微笑んだ。彼女の手は、カイロをこねて温めようとしていた。私もそれに反応するかのようにポケットに手を突っ込む。やはり少し効果が切れてきているようだ、だんだんぬるくなってきた。
「それじゃ、私はタクシーですので。この辺で、今日は楽しかったです」彼女は踵を返して歩き始めようとした。
「待って!」
気が付くと私はその一言を放ちながら、去ろうとする彼女の腕を掴んでいた。女性を、ましてや自分の彼女を一人で帰らせるわけには行かない、その意思からとっさに出たのだろう。
「榊原さんを一人で帰らせるのは心配なんです。それがタクシーであっても。だから、送らせてください」
「いいんですか?」
彼女は決して私の腕を振り払おうとしなかった。私の手にはロングコートのふかふかとした感覚が伝わる。そこから熱が、彼女の体温が伝わってくるようだった。
「はい」私の決意は固かった。
タクシーに乗り込んだ瞬間、その独特のにおいに複雑な気持ちになった。運転手は低くしゃがれた声で「いらっしゃい」と言った。真っ黒に日焼けした、がたいのいい運転手だった。
彼女は自分の家の住所を告げる。どうやら私の家とさほど遠くはないようだ。運転手のため息と共にタクシーは走り出した。
走り出してすぐに信号に引っかかった。信号待ちの間、運転手はベテランの演歌歌手の代表曲を口ずさんでいた。先ほどまでの低い声から一変して、裏声を出して歌う姿は滑稽だった。
「あの、榊原さんは……」私が彼女のほうを見ると、彼女はすやすやと寝息を立てて眠っていた。彼女の寝顔もまた綺麗で、その長いまつげに一瞬どきっとした。あれ、何を聞こうとしてたんだっけ。忘れてしまった。それより、やっぱり疲れてるんだな、彼女。そっとしておいてあげよう。
私はしばし彼女の寝顔に見入っていた。そしてしばらくすると窓の外の景色に目をやった。
私たちのタクシーの横を通り過ぎていくたくさんの車。流れていく街灯の明かり。それに照らされてオレンジ色に染まる街路樹たちが、いまだに電気のつく都会のビル群に圧倒されている。
私は運転手の歌に耳を傾けながら、ゆっくりと目を閉じた――。
――――お客さん、お客さん、着きましたよ。起きてください。
私は運転手のらしき声で目を覚ます。どうやら、うとうとしてしまっていたようだ。気が付けばそこは五階建てくらいのマンションの前だった。ここは一体どこだろうか。
ふと横に目をやると彼女はまだすやすやと寝ていた。運転手は困ったような顔をしている。私は少し気が引けたが、彼女を起こすことにした。
肩をぽんぽんと二、三度叩くと彼女は目を覚ました。目を擦りながら「もう着きましたか?」と眠たそうな声で尋ねる。
「ええ、着きましたよ」私が答える。
「えっと、料金は……」彼女はバッグから財布を取り出そうとする。私はそれを止めるように言う。
「いいですよ、私が払っておきますから。それより、早く家に帰ってお休みになってはどうですか」
彼女は一瞬、じっと私の眼を見たあと、「ごめんなさい」と言って荷物をまとめ、タクシーの扉を開けた。
扉が閉まる間際に「バイバイ」と彼女は手を振ってくれた。表情は実に眠たそうだけれども、意識ははっきりしてきたようだ。
タクシーの扉が閉まる。私は自分の家の住所を言う。タクシー代が高くつきそうだ。私の財布はもつだろうか。まあいい、足らなかったらその時考えよう。
彼女の姿が見えなくなってから急に眠気が差してきた。私も疲れているみたいだ。
帰り際に言った彼女の言葉を反芻(はんすう)する。
「バイバイ」
今までの彼女なら「さようなら」だった。そして麗子からの最期のメッセージも「さようなら」だった。私は「さようなら」という言葉を聞くと、急に寂しくなってしまう。もしかしたら今別れた人が私の前からいなくなってしまうのではないか、と。だから私は意識的に「さようなら」を避けてきた。無論、使うことだってある。その時は心が痛んでしまうのだ。
だが、今の私にはちっとも寂しい気持ちなどなかった。それが「バイバイ」という言葉の効力なのかは分からない。それよりも深く関わっているのは彼女の存在だろう。彼女は私にとって大事な人である、その彼女を思う気持ちが寂しさをやわらげてくれたのかもしれない。いや、きっとそうだとも。
私は窓の外に目を向ける。彼女の家の周りもあの喫茶店の周辺のように静かである。
タクシーは私を家まで運んでくれる、振動が心地よい。
私はゆっくりと目を閉じる――。
ポケットの中では、ぬるくなってしまったかと思ったカイロが再び熱を発していた。
榊原恵美との交際が始まって一週間が経った。
彼女はオーケストラの練習の合間や帰宅後の時間を割いて、私に連絡をしてくれていた。あるときは電話、あるときはメールといった具合でだ。
私は当然、彼女からの連絡は嬉しく、たとえそれが仕事中であってもそれを中断するようになった。携帯に噛り付き状態である。
彼女と電話をするとき、決まって彼女は「今日も疲れました」と眠たそうな口調で言う。私はそれに「お疲れさま」と答える。すると彼女は少し笑って「室井さんもお疲れさま」と返してくる。この言葉を聞く度に、私の一日の疲れや鬱憤は木っ端微塵に消え去る。
はたまたメールのときにも彼女は「今日も疲れました」とメッセージをくれる。私たちは電話であったようなやり取りをメールでも繰り返す。
彼女に会いたい。
電話やメールも良いのだが、会いたい。今は忙しいので会えそうにないが、彼女のほうが一段落ついたら食事にでも誘おう。
彼女はオムライス以外にどんな食べ物が好きなのだろう。考えてみたが分からなかった。そうだ、オムライスの食べ歩きでもしよう。きっと彼女も喜んでくれるだろう。
しかし、コンサートの前にやり忘れたことが一つある。そう、まだ大輔にチケットを返せていないのだ。返そうとしても返せないのだ。そう、大輔は風邪をこじらせて今週はずっと職場に顔を出していない。渡すのは来週になるだろう。
そして今、私は社員食堂で昼食をとっている。今日の昼ごはんはラーメンである。この食堂では、ラーメンといったら醤油味しかなく、しかもそのスープはインスタントラーメンを三倍に薄めたくらいに薄いのだ。しかし、麺にはなかなかのコシがあってこれはこれで美味しかったりもするのである。
「祐二、昼飯を食い終わったら俺のとこに来い。話がある」
のんびりとした声がラーメンをすする私の耳に届く。
いきなりだったので、その声の主が誰か分からなかった。振り向くとそこには谷村が眠たそうな表情で頭を掻きながら立っていた。
顔は眠たそうでも、服装はきっちりとしていた。谷村のスーツは確かイタリア製だったはずだ。
谷村はこの前の合コンで、榊原恵美と同じオーケストラでホルン奏者の瀬戸みゆきと交際している。谷村には別に一人彼女がいる。そう、谷村は二股をかけているのだ。
「おい、話って何――」
私が話しかけた途端、谷村は後ろ髪を掻きながら食堂を去ろうとしていた。
どうやら私の声は聞こえなかったようだ。いや、聞こえないふりをしたのかもしれない。それより、用事って何だろうか……。
私は谷村を追いかけるように、ラーメンを食べるスピードを上げた。
私がラーメンを食べ終わり、谷村のデスクに向かうと、谷村は椅子でぐるぐると回って待っていた。そして、私の存在を確認した後、その回転を止めた。
谷村のデスクにはゲームセンターの景品のようなぬいぐるみやキーホルダーが数多く並べられている。一見するとまるで女性社員のデスクのようである。谷村が言うには彼女と手に入れた物を並べているのだそうだ。
このぬいぐるみたちを見て、谷村は何を思うのだろうか。このぬいぐるみの中には別れた彼女との物もあるだろう。そのぬいぐるみを手に入れたときの思い出等が詰め込まれていて、それを思い出しているのだろうか。いや、股をかける谷村に限ってそんなことはあるのだろうか。谷村にも心のブレーキがあって、その象徴がこのぬいぐるみだったりするのだろうか……。
「まあ、座れよ」
そういって谷村は横のデスクから椅子を引っ張り出してきた。私が座ると椅子はギィときしむような音を立てた。さすがに自分の椅子ではないので、座り心地は良くなかった。
「で、話って何だよ」
そうだ、私は谷村に呼び出されたから来たのだ。ぬいぐるみのことなど考えている場合ではない。
「単刀直入に聞く。祐二、榊原さんと付き合ってるだろ」
私には谷村の言葉をすんなりと受け止められなかった。
何故、谷村は私が榊原さんと付き合っていることを知っているのだ。私は誰にも話していないはずだ。ここ最近の記憶を辿っても全く覚えが無い。悟られるような言動もしてないはずだ。では、何故?
私は返すべき言葉が見当たらなかった。ただ黙り込んでいるだけだった。
「祐二、お前は気付いてないだろうが、最近妙に上機嫌だろ。はたから見たら気持ち悪いくらいだぞ」
全く気付かなかった。私は谷村に指摘されるまで、気持ち悪いくらい上機嫌な生活を営んでいたのだ。ニコニコした様子で仕事をする自分を想像するだけで顔が引きつってしまった。
それならもう隠しても無駄だ。正直に白状しよう。谷村になら言っても大丈夫だろう。
「ああ、そうだよ。私は榊原さんと付き合ってる」
「やっぱりな」谷村はうんうんと頷いた。そして、谷村は椅子でぐるりと回り始めた。
谷村はくるりくるりと回りながら「榊原さんは綺麗だよなぁ」と呟いた。その声は私の耳にもしっかりと届いた。私は少し誇らしくなった。
「で、谷村のほうはどうなんだよ。二股なんかかけて大丈夫なのかよ」
私は二股ということには敏感だった。過去に二股という行動によって人を一人亡くしている。いや、殺してしまったというべきだろうか。
「ばれなかったらいいんだよ。うん、そういうもんなんだよ……」
谷村は言葉を濁した。何か癪に障ることでも言ってしまっただろうか。二股はやめておけ、相手を傷つけてしまうからな。と心の中で語りかけた。どうしてだか言葉にはできなかった。出そうとしたところで喉の辺りで突っかかってしまい、声にならない。
「そうか」
結局私が出した返事はこんなちっぽけなものだった。その結果、私が谷村の二股を肯定してしまったことになる。ということは私は谷村に私と同じ道を歩ませてしまったかもしれないのだ。私は友人の二股を止めることができない意気地無しだ。
「もう少し祐二の話を聞かせてもらうよ。彼女のことは当然名前、もしくはあだ名みたいなもので呼んでいるよな」谷村の口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。『当然』の発音が異様に強調されていた。
「いや、『榊原さん』と呼んでいるが……。もしかして、それってマズいか?」
「マズいね。そんな呼び方だと彼女と親近感が無いだろ。苗字じゃなくて名前。あと、改まったような口調をしているようなら止めたほうがいいな」きっぱりと言いきると、椅子に乗った谷村がくるりと回った。表情には相当な自信が浮かび上がっていた。
「でも私はやっぱり『榊原さん』という呼び方がいいな、何となくだが」私は強がってみせた。心のどこかでは彼女のことを名前で呼びたい気持ちがあるかもしれないのに、強がってみせた。
「まぁ、お前に任せるよ」そういうと谷村はまたくるりくるりと回ってみせた。
彼女から電話が来たのはそれから五分後のことだった。谷村の半ノロケ話にうんざりしてきたところに彼女からの電話である。これぞまさしく天から舞い降りた幸運というべきだろう。私は谷村の話から逃げ出すように廊下へと出た。
しかし困ったことに、このことを瞬時に嗅ぎつけた谷村がひっそりと私たちの会話を盗み聞きしようとしていたのだ。
電話に出る寸前、谷村は「名前で呼びたいならそう伝えればいい」と耳打ちした。私はそれに頷いた。
「もしもし」
「榊原です。仕事中じゃなかったですか? 仕事中であればまた電話しますけど」
「いえ、ちょうど昼休みなので大丈夫ですよ」
私がそう言うと、電話の向こうからふぅーと安心したような声が聞こえた。
「良かった。今日も疲れました」
「お疲れさま」
「ありがとう。室井さんもお疲れ様です」
このいつものやり取りを繰り返したところで、私も安心できた。今日も彼女は元気なんだな、と。私の安堵の声も彼女に届いただろうか。
私に届くのはきっと声だけではないのだ。テレビ電話でなくても彼女の表情が頭に浮かぶような時もあるし、彼女の気持ちも言葉から伝わってくる。彼女にも私と同じことが起こっていて欲しかった。お互いにもっと分かり合いたいのだ。
「それなら元気そうですね。榊原さんも昼休みですか?」
「ええ。でも、今日の昼休みは短いのでそんなに長く電話ができないんです。残念です」
私の頭の中で残念そうな彼女の表情が浮かんだような気がした。
「昼食は食べましたか?」
「お弁当を作ってきて、それを食べました」
彼女、何を作ったのだろう。やっぱりオムライスだろうか。
「やっぱりオムライスですか?」私は冗談交じりに言う。
「何で分かったんですか?」
まさかとは思った。しかし、その『まさか』が当たるとは思ってもみなかった。
「だって食べ物の話をすると決まってオムライスが出てくるじゃないですか」
私はこの『まさか』という気持ちを抑えるように答えた。彼女がオムライス好きだということは十分に承知しているが、ここまで好きだとなるとさすがに動揺してしまう。
電話の向こうで『恵美、ちょっと来てぇ!』という女の声が聞こえた。
「室井さん、ごめんなさい。行かなくちゃだめなので……」
「いえいえ、結構ですよ。それより、頑張ってくださいね」
「室井さんも頑張ってくださいね。それでは、失礼します」
「それでは」
電話は彼女のほうから切れた。耳にツーツーという音を確認すると携帯を閉じた。
三日ぶりの彼女からの電話は言葉では言い表せないほど嬉しかった。彼女が元気だということが確認できただけで良かった。そして、彼女の言った言葉の一つ一つが、嬉しかった。
しかし、彼女を名前で呼んでいいかということは聞けなかった。それは、今のままでいいという保守的な考えから生まれてしまったのかもしれない。いや、一番怖かったのは彼女に断られることなのかもしれない。実際、断るかどうかは彼女が決めることであって私が決めることではない。断られるかもしれない、というのは一方的な被害妄想に過ぎないのだ。でも、言えなかった。私はやはり意気地なしだ。
谷村は壁にもたれかかっていた体を起こし、私のところにやってきた。
「祐二、言えなかったか」谷村は残念そうな顔をしながら、私の肩をぽんと叩いた。
「ああ」
「しょうがないさ、戻ろうぜ」
そういうと谷村は踵を返して自分のデスクへと戻っていった。私も後に続く。
椅子に座るとやはり椅子はギィという音を立てた。
ふと、ぬいぐるみが大量に置かれた谷村のデスクを見る。溢れかえるようなぬいぐるみの山の中に一際目を引くぬいぐるみがあった。
そのぬいぐるみはお世辞にも綺麗とは言えないほどに色褪せた、犬のぬいぐるみだった。しかし、その犬のぬいぐるみには色褪せてないものが一つだけあった。
『目』だった。
その目は私に何かを訴えるような雰囲気を醸し出していた。そして、その訴えるような目は決して私の勘違い等ではないのだ。
私は電話をする前に言った谷村の言葉を思い出す。
――ばれなかったらいいんだよ。うん、そういうもんなんだよ……。
あの時、谷村は確かに言葉を濁した。何か、遠くを見つめるような声で言っていたのだ。
私には、谷村が何かを隠しているとしか思えなかったのだ。
コンサートが明後日に迫っていた。
大輔の風邪は見事に完治したので、私はチケットを渡すことができた。急な願いだったので大輔は、「えーっ」と驚き、そして、「まぁいいか。クラシックコンサートっていうのも良い経験になりそうだし。それに俺は祐二とは違って彼女もいないから暇だし」と皮肉を込めながらもチケットを受け取ってくれた。
これで、私のコンサートまでの問題は解決したように思われた。しかし、まだ問題がある。そう、谷村の一件だ。
私はあの日から、谷村は何を隠しているのかを考えるようになった。あの一際目を引く犬のぬいぐるみと、谷村の濁した言葉は切り離しては考えられなかった。それが何故だかは、分からない。私は色々な予測を立てた。例えば、『谷村は過去に傷を持っていて、その象徴がぬいぐるみである』説と、『少年時代の淡い思い出』説など考えたのだが、その予測はあくまで私の想像に過ぎないわけで、本当のことは谷村本人に確かめるしかなかった。しかし、私にはそれを本人に聞くための術がないためにどうしようもなかった。
それにしても、生きていると問題は山積みになるわけであって、仕事での些細な問題など、小さなものから数えたら数え切れないほど多い。大抵、そういう些細な問題はすんなりと解決したり、もしくは忘れてしまうものだ。
だが、それが大きな問題とあれば話は別だ。大きな問題だと、考えすぎてストレスが溜まったり、一人ではどうしようもなくて立ちすくんだり。抱え方は人それぞれである。
今回の谷村の問題は一見、どうでもよくなって投げ出して、忘れてしまいそうな問題なのだが、何故か忘れられなくなっていた。
そもそも、このこと自体が私の妄想に過ぎないのではないか? あのぬいぐるみだって、たまたま古いぬいぐるみを取ってしまっただけかもしれないし、言葉を濁したことも私の勘違いなのかもしれない。やはり、本人に確かめる以外に方法はないようだ。
午前中から午後にかけて、そういうことをぼんやりと考えながら仕事に打ち込んでいると、私の携帯電話が着信を知らせた。相手は、榊原恵美だった。
(こんな時間に電話してくるなんて珍しいな……)
私はオフィスから出て、電話が出来そうな場所を探す。廊下も喫煙所も人で溢れかえっていたので、落ち着いて話せそうな場所といったらトイレの個室くらいしかなかった。
私は個室に入り、電話に出た。
「もしもし」
「あっ、室井さん?」いつもとは感じの違う、明るめの声で彼女は言った。どうやら疲れているわけではなさそうだ。
「私の携帯なんだから私が出るのは当然でしょ」私は彼女の明るさが伝染したように明るくなった。こうしていると、いくらでもジョークが言えそうだ。
「それもそうですね。室井さん、今日飲みに行きませんか?」
「明後日がコンサートですけど、大丈夫なの?」
確かにそうだ。明後日がコンサートで、疲れているのに、飲みに行く時間、そして元気はあるのだろうか。
「あの……室井さん?」
「何?」
少しの沈黙。そして、ふぅーっという息の音と共に彼女が沈黙を破る。
「大丈夫だから誘ってるんですよ」
ひどく優しい声だった。この優しい声はお互いの過去について話したときと似た声だった。その口調に私の心臓の鼓動は早くなる。
「ははは、確かにそうですね」
「それじゃ、七時に駅に来てくださいね!」
私が返事をしようとした途端、向こうから電話を切られた。しかも、最後の一言はすごく張り切っていたようだった。綺麗に言えばそうだが実際には、力んでいた、というほうが正しいかもしれない。
(榊原さん、どうしたんだろ)
私は不思議に思いながら携帯電話を閉じ、トイレから出た。そして、自分のデスクに着くと、もう一度、彼女の言葉の一つを反芻してみた。
――それじゃ、七時に来てくださいね!――
(何であんなに、はつらつとしてたんだろう)
いつもはおとなしい雰囲気の彼女が、今の会話を聞く限りではその片鱗も見せなかった。そこには何か裏があるように思えた。しかし、私は『彼女はテンションが高くなっていた』ということで結論付けることにした。なぜなら必要以上に彼女を疑いたくなかったからだ。
「七時……か」
待ち合わせの時間まであと五時間もある。仕事が終わる時間まではあと四時間だ。仕事が終わってから待ち合わせまでの一時間をどう使おう。考えた結果、私は時間をつぶせそうな場所が一箇所あることに気付く。一人ではあまり行きたくないところだが、そこしか行くところは無いようだ。
午後のオフィスはせわしない。しきりに電話が鳴る音。それに受け答えする声。部長の無駄に大きい声。パソコンのキーを打つ音。どうやらこの中で私は一人だけぼんやりしていたようだ。ぼんやりとしていても、時間は気付かないうちに流れていってしまう。
考えないようにしても、どうしてもあの電話のことを考えてしまう。
私は残り四時間、ぼんやりとしないように、せわしないオフィスに溶け込むことにした。
予定通り六時に仕事が終わったので、七時までの一時間を潰すために私は牧村の店に入った。
牧村の店までたどり着くまでの間、やはりぼんやりとしてしまっていた。いつもとは様子が違う彼女のことが気がかりでならなかった。
私がドアを開けると、目を向けずに「いらっしゃいませぇ」としゃがれた声が飛んできた。客に目を向けないとはどういうことだ、と思いかけた途端、牧村がこちらの方を見た。
牧村は私の姿を確認すると、にっと笑って見せた。笑ったときに出来る皺には割り箸が挟めそうなほどだった。
「よぉ! 青年。……おや? 恵美ちゃんはどうしたんだね? あっ、ついにふられちまったか。いやぁ、若いねぇ」
牧村は自分の考えを正しいととらえ、そこからすさまじい想像力(妄想力)をはたらかせた。この能力は毎日、昼ドラによって鍛えられているに違いない。
いや、待てよ。もしかして私の考えも牧村と同じなのではないか? ……そんなことはどうでもいい。ひとまず座ろう。
私はカウンター席に腰掛け、『いつもの』コーヒーを注文した。途中、牧村に「オムライスは?」と聞かれたが、断っておいた。夕食を食べに来たわけではないからだ。
「あの……。私、ふられてませんからね」私は牧村の背中に話しかけた。
牧村はくるりと体を半回転させながら、
「分かってるわよ。さっきのはジョークよ、ジョーク。あんたも突っかかりにくい男だねぇ」と言った。突っかかりにくいのはこっちの台詞だ、と心の中で呟く。
しばらくすると、コーヒーが出来上がって私の前へと運ばれた。
運ばれてきたコーヒーの匂いを嗅ぎ、そして口に流し込む。うん、いい味と香りだ。牧村の話はいいかげんだが、コーヒーを入れる腕前はいいかげんではないようだ。
「おいしいでしょ? うちのコーヒー」
「ええ、まぁ」
「もう少し気の利いたことが言えないのかね。『すごく美味しいです』とか『味も香りもいいけど、牧村さんもいいね』とかさ」
二つ目は余計だ。一つ目は別に言っても良い。しかし、二つ目は口が裂けようと、死のうとも絶対に言わない。コーヒーをもう一口含む。やはり美味しい。
「すごく美味しいですよ」
「あとは?」期待するように牧村は目を見開く。
「言いたくないです……」
勘弁して欲しい。時間つぶしのためにこの店に入ったのに、ちっとも時間つぶしにならないじゃないか。
「まっ、言いたくなかったら強制はしないけどね」
牧村は踵を返して再び私に背を向けた。どうやら皿洗いをはじめるようだ。水が勢いよく流れる音が聞こえる。
「ねぇ、恵美ちゃんとどう? あの子、ちょっと変わってるでしょ」牧村は背を向けたまま言った。
「はぁ。大人しいというべきなのか、不思議な人ですよね。カイロを二つ持ち歩いたり、オムライスばかり食べたり」
彼女の姿を思い浮かべると、少し可笑しくなってきた。表情に自然と笑みが表れてくるようだ。
牧村には聞こえていなかったのだろうか、返事が返ってこない。私は話を続ける。
「そういえば、彼女みたいに長くて、綺麗に整っている黒髪の女性って珍しいですよね」
途端、シンクのほうからガチャンと食器と食器がぶつかり合う音がした。牧村はどたどたと足音を立てながら、私の前に来た。手には泡がついたままだ。
「室井、髪の毛のこと恵美ちゃんに聞くんじゃないよ! 理由は……言えないけど、じきに分かるだろうから。分かった? 絶対に髪の毛のことは聞かないこと!」
ものすごい剣幕だった。鼻息がカバのように荒く、眼光も鷹のように鋭かった。牧村はなかなか返事をしない私をかっと睨みつける。私は首を縦に振って返事をした。牧村はそれを確認すると、シンクへと戻っていった。私には質問する隙すらなかった。
彼女の髪の毛に、一体何が?
あのストレートの綺麗な黒の長髪。確かに他の女性とは異なる魅力を持っている。魅力というのは褒め言葉で、それを口にしてもなんら問題は無いだろう。しかし、牧村はそれに対してものすごい剣幕で怒った。ということは彼女の髪には何か、言えない秘密があるのだろう。そう、心の傷のような何かが。
同時に、私の心は自分自身に対する情けなさを生み出した。『彼女の全てを受け入れる』や『喜びや悲しみを共にする』とか散々いっておきながら、結局何も出来ていないことからの情けなさだ。
現に、今も彼女は秘密という名の傷を一人で抱えて生きている。そりゃ、誰にだって秘密はあるだろう。無い方がどうにかしている。でも、私は秘密を漏らさなくてもどこかで必ず弱みを見せてしまう。だが、彼女にはそれが無いのだ。弱みを一切見せない。もしかしたら、私はいつの間にか彼女の負担を増やしてしまっているのかもしれない。
さらに「私は信用されてないのではないか?」という、くだらない発想まで思い浮かべるようになった。そんなことを思い浮かべてしまい、くよくよしている自分がさらに情けなくなって、涙が出そうになる。
私はもう考えること自体が辛くなって、思考を閉ざし、黙り込むことにした。
腕時計の秒針を何も考えずに目で追いかけていたとき、水道の蛇口を閉める音がした。顔を上げてみると、そこには牧村が複雑そうな表情を浮かべて立っていた。
「室井、すまなかったよ。さっきは怒鳴ってさ」
「いえいえ、私も髪のことは言及しないことにします」
コーヒーカップを傾け、コーヒーを飲む。まだ半分以上も残っているのに、ぬるくなってしまったようだ。ぬるいと飲みにくいので少し困った。
「それがいいよ。恵美ちゃんの傷はね、あんたが考えているよりもずっと深いものなんだよ」
「それは分かりました。でも私、『信用されてないんじゃないか?』と少し不安になりました。こんなこと考えてはいけませんよね」口からは自然と笑い声が出た。それは、湿ったような笑い声だった。
「そういうのは恋人同士じゃよくあることだよ。でもね、室井。あんたも知らず知らずのうちに恵美ちゃんに不安を与えているかもしれないよ」
牧村はコーヒーの注ぎ足しを勧めたが、私はそれを断った。
この店の時間感覚は少し変わっている。一人でぼんやりしていると、時間は永遠のように長い。でも、誰かと話すとものすごく速く時間が流れていく。こういうことは、日常生活では普通かもしれないが、私はその感覚を忘れてしまっていたようだ。このごろ、ぼんやりとしていても時間の流れが速く感じるのも、そのせいだろう。
「それはあるかもしれないですね」
「あんたは信用されてないわけじゃないんだ。あんたのことは心から信用していると思うよ。でも、やっぱり異性と付き合うということにまだ慣れていないんだ」
牧村は私の前に腰掛ける。そして、自分用にコーヒーを注ぎ、それを飲み始めた。
「でも、それって結局完全に信用されてないわけですよね?」
牧村がコーヒーをすする音が店内に響く。私はぬるくなったコーヒーを一気に飲み干して、一時は要らないと言ったおかわりをもらうことにした。
「室井、うぬぼれるんじゃないよ。信用されていないと思うなら、向こうから信用されるまで待つんじゃなくて、自分から信用を勝ち取らなきゃ。仕事だってそうだろ? あんたも男なんだからガツンとアタックするのも手だよ」そう言いながら牧村は握り拳を私に差し出してきた。お互いの拳を合わせよう、ということだろうか。
私は恋愛において、自分からアタックしたことなどほとんど無かったのではないか。告白のときは自分からアタックするのだけれど、付き合ってからは相手の様子を伺ってばかりだ。麗子のときも、そして今も。でも、麗子はどちらかというと私を牽引するタイプだった。私は知らないうちに、榊原恵美と麗子を照らし合わせて、彼女も私を牽引するタイプだと思い込んでいたのではないか。
私は何も変われていなかったんだ。
そんなことでは駄目だ。今は私が彼女を牽引する立場なのだ。なんと大事なことを忘れていたのだろう。
今のように彼女の様子がおかしいときに、彼女の支えにならなければならないんだ。
「アタック、ですね」私は差し出された拳に自分の拳を合わせた。そして、にっと笑ってみせた。
「その意気だ。恵美ちゃんは本当はかなり明るい子。完全に打ち解けられれば一緒に居てて、もっと楽しくなるはず」
時計を確認すると、六時五十分だった。そろそろ待ち合わせの時刻だ。まだたくさん残っているコーヒーを一気に胃に流し込む。舌に伝わる苦味と共に、体の中がほっこりと温かくなった。
「それでは、アタックしてきます」
「おや、今からデートだったのかい。頑張ってきなよ」
私はコーヒー代の二五〇円をカウンターに置いて、立ち上がった。
以前まで持っていた牧村への嫌な気持ちは、この一件ですっきりと消え去った。「嫌味な人」というより「嫌味だけど、憎めない人」と思えるようになった。
彼女の様子がおかしいこと、彼女の髪に隠された秘密。問題は山積みになる一方だ。でも、もうぼんやりすることは無い。どんな真実が待っていようと、全てを受け入れる体勢にようやくなれた。
私は店を出る際に、牧村に小さく、「ありがとう」と呟いた。
<続く>
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■作者からのメッセージ
恋愛小説は初めてですし、どちらかというと苦手な分野でもあります。その苦手を克服するために書いたのがこの作品です。かなりベタであるのは作者自身、承知しております(泣) 感想などいただけたら大変ありがたいです。
四月二日 どうもです。久々の更新です。会話部分の冗長性はまだまだ懸念材料ですが、これからじっくりと直していきたいです。牧村はもう出ない、と言っておきながら出してしまいました(笑)。もっと新しい可能性を探していきます。最後に読んでいただいた皆さんに感謝をいたします。
十月十三日 目黒小夜子さんの指摘により書き出しを修正しました。
甘木さんの指摘によりエンジン音→モーター音。バイオリンのケースについてを修正しました。
十二月二日 タイトルに章の数を付け加えました。
十二月十日 甘木さんのアドバイスにより、告白前にブレーキの描写を付け加えました。
一月十三日 Jさん、甘木さんの指摘により「私」を少なくし、序盤、中盤に地の文の肉付けを少し施しました。
一月十四日 目黒小夜子さんのアドバイスにより、告白シーンを肉付けして、情景描写を増やしました。
三月七日 Jさんのアドバイスによりタクシー運転手のセリフを訂正しました。