- 『距離』 作者:碧 / 未分類 未分類
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磨きこまれたガラスケースの中の宝飾品と、みすぼらしい身なりをした私の距離。
小さな値札にきちんと並んだゼロの行列と、店のライトに照らされて輝くその魅力にため息をついたことを思い出した。
それが、あなたと私の距離だった。
それでも、憧れるくらいは許されるはずだと、愚かな私は思った。
初めて出会った瞬間から、鍵の掛ったショーケースの宝石のような彼の瞳に、遠慮なく見惚れた。私が手に入れることなど、到底叶わないことは分かりきっているのだから、と。
女ざかりなどは随分昔に過ぎ、私の全てを知り尽くしているあなたと、あなたのことを何一つ知らない私が、お互いの距離を変えようと思ったのは何故だったのか。
私が分からないのだから、彼にも分からないのだろうし、そんなことは、どうでもいいことなのかもしれない。
大きな机の前で、革張りの黒い椅子に腰掛けているあなたと、いつも同じ服を着て、化粧一つしないみすぼらしい私の間には、常に私の娘がいた。
それは木曜日。娘が学校に行っている昼下がりのこと。
仕事を一日休んだ私と、仕事が休みだったあなたは、遠い町まで互いの車を走らせて、昼間を夜に変える場所で、互いに向かい合っていた。
白衣を脱いだあなたの瞳は、相変わらずとても澄んでいて、いつもより近い場所で眺めるその輝きは、いつもと同じように美しかった。
なのに私は、目を閉じた。
手に入れたいと願っていたときは鮮やかで美しかったものでも、やっとの思いで高価な代償を支払い、自宅の薄汚れた照明の下で眺め直したときには、すっかり色褪せて見えることがある。そんな気持ちになるのが嫌だったからだった。
そして、背伸びして手に入れたものが、やっぱり自分にはふさわしくないという現実を突きつけられる、あの瞬間が来るのが怖かったからだった。
眺めているだけで、良かった。
それが、あなたと私に一番相応しい距離だった。
地下の駐車場で、お互いを振り返ることなく、それぞれの車に乗り込んだ。
私は古ぼけた軽自動車に。彼はドイツ製の素敵な外車に。
薄暗い駐車場から、光の方へ向かって、滑り止めの模様がついた、コンクリートの急な斜面をゆっくりと登る。薄暗い照明に慣れた目には、まぶしすぎる光が差し込んできて、私は思わず目を細めた。
まだ日は高く、青空のてっぺんで輝いていた。時計は、午後2時を指している。
車を走らせながら、私は考えた。
私とあなたの距離が少しくらい変わったところで、世界は何も変わりはしない。
相変わらず空が青く、太陽は世界を照らしているではないか。
彼はまた白衣を着込んで先生に戻り、家に帰るときにはまた脱いで、夫や父に戻るのだろう。同じように、私は薄汚れた照明のある、小さなアパートに帰り、娘のお母さんに戻るだけのこと。
互いの場所に戻り、互いの距離を保ち、何事もなかったかのように、生きていく。
ただ一つ言えることは、一度色褪せてしまったものの魅力は、二度と戻らないということだけ。
私は確実に、美しいと思っていたものを一つ、完全に失ったのだと悟った。
そして、車のハンドルを握りながら、己の愚かさに愕然としたのだった。
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2006/11/03(Fri)15:57:46 公開 / 碧
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■作者からのメッセージ
読んでくださってありがとうございます。
しばらくPCに向かうことができないのですが、感想など頂ければ幸いです。