- 『それでも、空は遠くて』 作者:龍姫 / 異世界 ファンタジー
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全角25031文字
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原稿用紙約76.1枚
正義なんて、関係ない。私は私の過去が知りたいだけ――主人公『ユフィ』を乗せた対外魔導試験に向かう途中の船が事故に遭い沈没して、見知らぬ孤島に流されてしまう。そこには、不思議な女性が住んでいて…。
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1
青く、蒼く、碧く、澄んだ空。そして、草樹の臭い。木の葉の間から漏れてくる幾本もの光の柱や川のせせらぎ。遠くのどこかの異郷の香りを運んでくる優しい風。
私の唯一の記憶らしい記憶。生まれて十数年経ち、要らない記憶(もの)は忘れてきたのにこの記憶だけは覚えている。父の顔も母の顔さえも知らない私が覚えているところ。
そこがどこだかなんて分からないけど、いつか行けたらいいな、と思う。
ゴーン、ゴーンと街の中心に建っている時計塔の鐘が朝の到来を人々に告げた。
がば、と私は跳ね起きた。いけない、寝過ごした。眠い目をこすりながらカーテンを開け、窓を開ける、すると潮風が優しく頬を撫でた。立ち並ぶ町並みの間から太陽が顔を出している。どうやら今日は晴れそうだ。
すぐに踵を返し、服を着替える。まだ頭がさえないが、急がないと遅刻してしまう。さっと鏡を見る。そこには寝癖を直す時間はどうやらなさそうだ。と、困った表情でのぞいている私がいた。
そして、『魔術読本』『魔法原子,呪式数とその反応』などと書いてある本がうずたかく積まれている机に向かった。龍皮の鞄に本を詰め込み、そして机の脇に置かれた首飾りを取る。きらきらと輝く水晶の中で小さな火が燃えているめずらしい首飾り。私の宝物だ。
椅子にかけてあったローブを肩に引っかけ、私は家を出た。
ドアを開けると、朝方のひんやりした空気が家の中に流れ込んでくる。その空気を味わいながら学校に行くことが出来なくて残念だ。素早く靴を履き、小走りで家を後にする。
時計塔を見ると、7:40分を少し過ぎたところだった。町はずれに建っている学校まで走っても15分はかかる。
「ギリギリかな」
弾む息の中、独り言が零れた。もちろん、周りに私と同じ制服を着た人は誰もいなかった。
大陸と離島を結ぶパイプ役として重要な役割を果たしている、ここノエル島。温暖な気候のこの島は、四季がはっきりしていて農作に最適な島でもある。そして、この島の近くで捕れる新鮮な魚介類もこの小さな町の経済を潤していた。此処や近くの島でとれた野菜や魚は、この街の港から全国へ運ばれる。大陸から離島へ、離島から大陸への交通手段もここからの船が一番ポピュラーだ。そして最近はこの綺麗な海や美味しい食べ物を求めて観光客も訪れるようになり、有名になりつつある。
翡翠の海に浮かぶ街『ヘンドンマイア』と。
時は、帝國歴0645年。かつて、この地『ルミアーナ大陸』を賭して50年間天使と悪魔が争い奪い合った創世記戦争から早500年が経った。天使は魔族の皇帝ディアヴロを討ち、そして天に最も近い山に封印した。勝利を手に入れた天使はこの地にシアロス皇国を建設したと言う伝説が残っている。
そして、悪魔皇帝を討ったとされる三賢者はそれぞれがこの国に都市を建設し後の三大都市として国の繁栄に大きく貢献されたと言われシアロスの英雄として讃えられている。
シアロス皇国は大小合わせておよそ40の都市から成っている。近くの国々と国交を行っているもののこの物資豊かな国を狙おうとしている国は少なからず居、国境付近での戦闘もしばしばあり、国境付近では常に緊張状態が続いているが皇帝のディオス一族は戦争を極力避ける方向で政治を行っていた。
しかし、前皇帝ディオス6世と現皇帝ディオス7世は一族の意向に反し軍隊強化策をとり軍事費の増大を強引に押し進め始める。税の負担が大きくなり、更に兵役が追加され農村の生活を圧迫した。革命運動も起こってはみたものの、ことごとく国軍によって鎮圧そして革命に関わった者はすべて処刑されてしまった。しかし、皮肉なことに軍事に力を入れたペンドラゴンの魔導工業は急成長し、強国の仲間入りを果たすことになった。
都市には、普通学校とは別に魔導・魔術学校が建てられ、素質のある者はどんどん軍に引き抜かれていった。
そしてここ、『カーミラ魔導・魔術学校』でも。
正門にたどり着いたのは遅刻3分前だった。が、もちろんどこにも生徒の姿はない。
「とりあえず…間に合った」
ふぅと深呼吸をして全力疾走で乱した息を整え、制服をきちんと直し、正面玄関に入る。いや、正確には入ろうと一歩足を踏み出した瞬間だった。
「おやおや、これはご機嫌麗しゅう。ユフィ・ルネセッサ?」
後から、気に障る猫なで声が私にかかった。背筋を寒気が駆け上ってくる。おそるおそる後を振り向くと、けばけばしい赤の飾り眼鏡を掛け、真っ赤なローブを身に纏い、目元口元に年齢皺が刻まれた白髪の婦人が立っていた。生徒指導部のミス・リアンダだ。
「あ…あら、ミス・リアンダ先生。おはようございます」
必死に作り笑いを浮かべてみるが自分でもよく分かるほど引きつっていた。まさかよりによってこいつに捕まるとは。
「『ミセス』よ。ユフィ・ルネセッサ?」
リアンダは無造作に赤い革張りの本を取り出した。題名には『遅刻者、及び校則違反者名簿』と金の文字で書いてある。
「さて、今回で遅刻は何度目ですか? ユフィ?」
わざとらしく名簿をめくりながら私を睨むリアンダ。
「え…あの、まだ時間はあったはずですけど」
「6回目です。ユフィ」
私の話など聞いてもいない。眼鏡の奥の目が鋭くなる。来た、説教タイムだ。
さっきまでの猫なで声とはうってかわってもうほとんど金切り声に近い声で怒鳴るリアンダ先生。はぁ…と心の中で大きなため息をつく。
「聞いているのですか! ユフィ!」
「はい。聞いています。すみません先生」
慣れた謝罪の言葉が口から滑り落ちる。
「まったく…。明日は対外魔導試験だと言うのに。気を抜いたらあなた痛い目に遭いますわよ」
対外…魔導試験?
「対外魔導試験は来週だったと思いますけど?」
対外魔導試合とは、魔導・魔術学校3年生が受ける試験だ。魔導軍隊の関係者が試験を視察し優秀な生徒を軍隊に引き抜いていくといういわば少し早い軍隊の入隊テストのようなものだ。
しかし、このテストは毎年危険な課題が出される。死者が出た年もあるという。
「日程が変更になった旨は文書で配ったはずですわよ?」
思い返してみるが、全く心当たりがない。この数日間に手紙や文書のたぐいは一通も来ていない。
「いえ、心当たりがありません」
リアンダは、何かを思い出したように懐中時計を取り出し、目を細める。
「試験説明まで、時間がありません。着いてきなさい」
さっと踵を返し、正門前広場に歩いていくリアンダ。あわてて私も後を追う。
リアンダはポケットから薄青い粉の入った透明な小瓶を取り出し、少量手に取った。
あの粉はおそらく『スダンの息吹』だろう。『スダンの息吹』とは、百年竜(スダン)と呼ばれる寿命が百歳を超える竜の翼爪を乾燥させて粉にしたもので、風位第1〜3界級呪界構築で使用される事の多い材料(マテリア)だ。
「時間がありません、会場まで私があなたを飛ばします。荷物を落とさないようにしっかり持っていなさい」
『スダンの息吹』を私の足下に振りまき、リアンダは自分で紡いだ呪式を展開していく。足下の粉が徐々に光を帯びてゆき、さらに足下を中心に風が渦を巻きはじめる。
これは、風位第3界級呪界『千里の風(ロイン・ヴェント)』だ。
「さぁ、行きなさい! 帰ってきたら、たっぷりと説教して差し上げますからね!」
リアンダの声とともに、うなりを上げて足下から風が吹き上がる。ローブの裾がめくり上がらないように押さえる。
次の瞬間には、私はすでに校舎より高いところに立っていた。風が凄い早さで私の横を駆け抜けていく。私の銀色の髪は、強風にあおられる旗のように風にきりもみにされていた。空からの景色を見ようとしたが、風が強すぎて目は開けることが出来なかった。
ユフィが飛んでいった方向をリアンダはずっと見つめていた。
試験が近づくと、あの日のことを思い出してしまう…。自分の生徒を失ってしまったあの日のことを。
「無事に…無事に帰ってきなさい」
リアンダは踵を返し、校舎へ戻っていった。
『スダンの息吹』が風に舞い、陽光を受けて幻想的に光っていた。
2
私の横を駆け抜ける風が、次第に弱くなっていく。目的地が近いのだろう。
目を開けると、目の前には大講堂が広がっていた。大講堂はイベントの中心地になることが多く、時計塔と並んでこの町のメインスポットでもある。
大講堂の門の前に人だかりが出来ているのが見えた。全員が校章の付いたローブを来ている、多分全員受験者だろう。
人数を見ると、少し不安になった。こんなに多くの人が受ける試験に果たして合格できるのか?
『千里の風』の効力が切れ、私の足が地面に着く。しかし、足に力が入らなくなり、膝をついてしまった。空を飛ぶとこうなってしまうのだろうか。
ガクガクと軋む足を引きずり私は大講堂の外周を囲ってある煉瓦に手をつきながら、人だかりの方へ歩いていった。
「やっときましたか」
人だかりでも目を引くブロンドの髪に、碧眼。男なら(私は女だが)誰でも振り向くであろう色気を纏った身体にうす桃色のローブを纏った女性、イザベル・リプナリッツ先生だ。
「すみません、遅れてしまって」
私は、慣れた台詞をさらっと言った。リアンダといい、本当に慣れてしまった。心の中でため息をつく。
「あら、反省の色全くなしね」
困ったような笑みを浮かべて他人の心を読んだかのように的確に痛いところをついてくるイザベル。しかし、良家のお嬢様を思わせる上品な笑み絶やすことはなかった。
「いえ、あの…」
「言い訳は聞きたくありません。さ、クラスの所へ行きましょう」
にっこりと微笑みスタスタと先を行くイザベル。人をかき分けずとも、彼女が歩くところは人が退いた。私はあわてて後を追う。
自分のクラスの集団を見つけたところで、少し安心した。とりあえず、試験の説明には間に合ったと安堵のため息をつく。
しかし、クラス全体がピリピリとした空気に包まれていた。みんなどこかよそよそしい態度を取っている。仕方ないだろうもしかすると明日、隣にいる友人とつぶし合いをしなくてはいけなくなるのかもしれないのだから。
すると、ギギ…と木の軋むような音とともに大講堂の扉が開いた。生徒の間にどよめきが走る。私の背丈の3倍ほどはあろうかという大きな扉だ。
扉をくぐると、目の前に創世記戦争をかたどったステンドグラスが私たちを迎える。左右に沿ってステンドグラスは張られていて、左が天使軍右が悪魔軍をかたどっている…という話を聞いた。私にはどこをどう見ても白い人形の群れが飛び跳ねているようにしか見えないが。
そして、中央の巨大なステンドグラスの下に演説台が設置されている。
続々と受験生達が大講堂内に置かれた椅子に掛けていく。すると前方の演説台に軍のローブを着、茶色の口ひげをたっぷりと蓄えた男が現れた。一斉に講堂内が水を打ったように静まりかえる。
「ようこそ! 我が国の剣となり盾とならんとする勇敢な神徒たちよ。我が名はグラマン。今回の試験監督者だ」
良く響く声で、説明を続けるグラマン。
「試験は至ってシンプル。三日以内で山頂に着けば合格だ」
ほっと胸をなで下ろす。なんだ、簡単じゃないか。
「そして、今回の試験会場は…」
グラマンは一旦言葉を切り会場を見渡す。
「天に最も近い山、『天険エルブ山』だ」
会場がざわめき出す。エルブ山はこの世でもっとも危険な場所と呼ばれている。山頂付近には常に暗雲が漂い、異形の生物が住み着いている。そしてあの創世記戦争で敗れた、悪魔皇帝『ルシファ』もそこに封印されている。
騒然とした雰囲気のまま、彼は壇上から降りた。
不安げに顔をこわばらせたまま、会場を後にする生徒達。私もあんな顔をしているのだろうか。気が付くと、講堂の中には私とイザベル先生だけが残っていた。
「ユフィ、あなたは明日の為の用意はしなくて良いの?」
ステンドグラスを見上げたままイザベル先生は言う。いつもは素敵だと思うその笑みもどこか悲しそうに見えた。
「…そうですね。今からマテリアを買いに行かなければ」
そう、とイザベルは言う。私は一礼して、踵を返した。その時、
「あなたは、この試験合格するつもり?」
私の口からくす、と笑いが零れる。
「変なことを聞きますね」
イザベルも、うふふとわらった。でもやっぱりどこか悲しそうだった。
「私はね、毎年この試験に生徒を送り出してるけど…。こんな事を話すのは今回が初めてかもしれない」
ゆっくりとこっちを向きながら先生は言う。
「実は、今回の試験には誰にも出て欲しくなかったの」
胸に詰まった物をはき出すように、ゆっくりとゆっくりとイザベルは話し始めた。
「今回も多分…いや、絶対と言っていいかもしれない。『名誉の不帰者』が出るでしょう」
癖からなのか、イザベルは左手の甲をさすっている。何かの痛みに耐えているようにも見える。
「あなた、いえあなただけでも無事に帰ってきてね」
にっこりと、天使のような笑みを浮かべてイザベルは言った。
「ええ。頑張ります」
はっと思い出したように、イザベルはローブの胸元に手を入れ、真っ赤な粉の入った小瓶を取り出した。
「マテリア屋さんに行くのを邪魔しちゃったみたいだから」
真っ赤な粉の入った小瓶を私の方に差し出す。
「『炎帝の逆鱗』よ。あなたなら使いこなせるでしょう」
炎帝の逆鱗。凶暴を極める火竜族の千年竜(ヴラド)級の鱗と牙を千年竜の血とともに精製したとても貴重なマテリア。
「こんな貴重な物を…。いいんですか? 私遠慮しませんよ?」
イザベルはいいのよ、と言って大講堂を出て行った。その顔にはいつもの魅惑的な笑顔が戻っていた。
何故か、私の心の蟠りも解けたような気がする。一生懸命背負っていた心配事がいくつか減ったような、そんな気がした。
そうだ、今日は久しぶりにじいちゃんに会いに行こう。
軽い足取りで私は大講堂を後にした。ステンドグラスから洩れる七色の光が私を見送ってくれた。
街の中心部。珍しい物をたくさん仕入れてきた商人や、忙しそうに行き来する役人や、名物の「竜眼まんじゅう」を片手に歩いていく学生。
常に人がとぎれることのない歓楽街の喧噪を抜け、人気のない裏路地に入るとそこは歓楽街とは一変して鉄や油のにおいが立ちこめ、鋼を打つ音やマテリアの製造音が鳴り響く所通称『狩人の巣穴』に着く。
私は、ここへは数えるほどしか来たことがないが、広くはないので迷うことはない。目当ての場所にはすぐに着いた。『ガヴァナ武工店』。
カランコロンとベルの鳴るドアを開けると、薄暗い店内にはじいちゃんが打った鈍い光を放つ武器が所狭しと並べられている。左には軽重量マテリア弾を発射する自動小銃やハンド・カルヴァリン砲など。右には、刀剣類や槍、戦斧(せんふ)、果てには手投げナイフまで。ここに置いてある武器だけで一国と戦争が出来そうだ。
「じいちゃん、いる?」
店の奥に向かって声を掛けてみる。すると、すぐに奥から足音が近づいてきた。
武器の山の奥から小柄なじいちゃんが顔を出した。白髪に白髭で、眉も真っ白。目が細く、私が見えているのかさえ分からない。
「来るなら連絡を入れれば良かろうに。ひさしぶりじゃの、ユフィ」
よちよちと今にも倒れそうに奥に案内するじいちゃん。その後に続いて私が行く。
奥のテーブルに案内され、促されるまま椅子に座る。
「今日はどうしたかの?」
キッチンで、湯を沸かしながらじいちゃんが訊く。
「今日はちょっと頼みたいことがあって。明日、対外魔導試験があるんだけどその事でね」
ほう、と言いながら2つのカップに注がれたカモミールティをじいちゃんが配る。リンゴのような甘い香りが私の鼻をくすぐる。向かいの椅子に掛けた爺ちゃんに今回のテストの内容を話す。
「剣を一本、持っていこうかなと思って」
カップに口に寄せ、カモミールティを静かに啜る。じいちゃんの淹れるカモミールティは久しぶりだ。
「エルブ山か…」
じいちゃんは腕組みをしてうーんとうなっている。私はカップを持ち上げ、もう一度カモミールティを啜る。ひょい、とじいちゃんは椅子を降り奥の部屋へと消えていった。しばらくがさごそやっていたようだが何かが見つかったようで布に巻かれた棒を持って奥の部屋から出てきた。
「エルブ山に行くなら、そこらの剣ではただの鉄屑とかわらん。これを持っていけ」
抱えていた布包みを取り払い、私に手渡す。
それは、一振りの長剣だった。呪制強化堅銀(ミスリル)製の鞘に収められたそれは、美しい美術品のようにも見えた。呪文字が彫られた両手持ちの細い柄を握り、剣を引き抜く。金属のこすれる小気味の良い音とともに、その刀身が姿を現した。
「わしが打った最高傑作じゃ。しかし、前の持ち主が居なくなってしまってのぉ。まさかおぬしが使うことになるとはの」
一片の曇りもない刀身には、不思議な闘気が宿っていた。まるで、剣の使い手を守るような、持ち主に牙を向く者だけを切り伏せるような。
「名をよんでやれ。『アルストロ』と」
じいちゃんに言われるまま、口に出す。
「アル…ストロ…」
散漫だった剣の闘気が、私の手に巻き付いてくる。
(契約を…)
頭の中に直接響いてくる言葉。もちろんじいちゃんの声ではない。
「誰?」
問いかけてみる。
(我が名は、アルストロ…主無き守護者)
重々しい声で響いてくる声。頭がおかしくなりそうだ。
「契約って?」
(我が刃へ貴公の血での署名を…)
私の、血。言われるがまま、刃を親指に押しつける。鋭い痛みが指先に走る。指先から深紅の血の粒がが盛り上がり、手を伝って流れる。痛みを我慢し傷口を刃の平たい部分に押しつけ、名前を書く。
Yuffy-Lunecessa
(承諾した。死ぬまで貴公の手足となろう…)
気が付くと、私は床の上に倒れていた。
「おぉ、きがついたかの」
じいちゃんが椅子の上からのぞき込んでくる。
「さっきのは?」
いつの間にか鞘に収まっている剣を取り、無造作に抜いてみる。すると、さっきまで銀色に輝いていた刀身が、まるで私の血を吸ったかのように深紅に染まっていた。
「契約は、済んだようじゃの」
うれしそうにじいちゃんはつぶやく。私の親指に気づき、薬箱を取りに行った。改めて剣を見る。長さ、握りやすさは申し分ないが、重量がある。学校の剣術の授業で使っていた剣の3本分はありそうだ。
薬箱をもったじいちゃんが現れた。血止めの軟膏を塗り、布を当てる。
「エルブ山までは、どうやって行くんじゃ? 船か? 飛空挺か?」
天険エルブ山は、海を渡った孤島の群集の真ん中にある。飛空挺でも船でも行けるのだが、あの辺りには魔獣が住み着き危険な為滅多に船や飛空挺はエルブ山を経由するルートは使用しない。しかし、今回は試験の為渋々請け負っているようだ
「船だよ」
アルストロに、布を巻きながら答える。そう言えば、ここからエルブ山まで飛空挺でも丸一日はかかる。他にも何か用意しなければいけない物がありそうだ。剣を取り上げ、丁寧に布を巻き、小脇に抱える。
「ありがとじいちゃん」
そういえば、じいちゃんと話すのも大分久しぶりのような気がする。血の繋がっていない私を引き取り育ててくれたじいちゃん。困ったときにはいつも協力してくれ、呪式を教えてくれたのもじいちゃんだった。
空になったカップを片づけ、椅子から立ち上がる。
「もう行くのか。もうちょっとゆっくりしていかんのか?」
ドアまで見送りに来てくれたじいちゃんは言う。
「そうしたいけど、まだ買い物全部終わった訳じゃないから」
ドアノブを回しドアを開ける。またね、とじいちゃんに別れを告げ店を出る。
駆け足で『狩人の巣穴』を後にする。歓楽街に出たらポケットからメモを出し買わなければいけない物をチェックする。全部回ると家に帰り着くのは日が暮れてしまうかもしれない。落とさないように剣を抱え直し、近くの薬屋から回ることにした。時計塔の鐘が、2時を告げる鐘を打った。
3
荷造りを終えたのは、夜の10時少し回った位だった。荷造りといっても、持っていく物はそう多くはないのだが。
相変わらず本で埋まっている机の脇に荷物を置き、そのままベッドに倒れ込む。明後日の今頃もちゃんとこうして生きているのだろうか…。
ふと思ったことが激しく心を揺さぶる。
ため息を一つついて、起きあがる。
(起きていても良いことはない…か)
枕元の明かりを消して、ベッドに入る。薄くあいたカーテンから青白い月の光が差し込んでくる。差し込んできた光が、じいちゃんから貰った剣をぼうっと照らす。まるで、剣が月の光を吸って光っているように見える。
ゆっくりと瞼を閉じて、呼吸を整える。世界が沈んでいくような錯覚に陥り、段々と意識が無くなっていく。
今日は、月が明るいな…。
―――−…
がば、と私は跳ね起きた。勢いよくカーテンを開ける。カーテンを開けた窓からは太陽がまだ出ていない薄明るい優しい光が部屋に入ってきた。
ふぅ…。とベッドに倒れ込む。とりあえず遅刻は免れたかな、と少し安心する。カーテンの開いた窓に目をやり、まだ薄暗い時計塔を見る。時間は4:50を指していた。今日は寝癖も直せそうだ。
そうだ、今日は久しぶりに朝食でも作ろうか。ベッドからゆっくりと起きあがり、その足で台所へ向かう。
灰の溜まった調理場に薪をくべ、メタアルデヒドというマテリアを薪の中に置く。呪式を組み立て、同時に展開する。ボッという音とともに、一瞬で薪に火がつく。同時に、下のオーブンにクロワッサンを2つ入れる。
その火の上にフライパンを載せ、バターを落とす。バターが溶け出すのを見計らい、厚く切ったハムをフライパンに乗せる。ジュッという音とともにハムの焼ける良い香りとバターの香りが立ち上ってくる。
頭の中でたっぷり60秒数えた後ハムをひっくり返す。塩こしょうを振った後ハムをフライパンの脇に避け、真ん中に卵を落とす。透明だった白身が、フライパンにふれた瞬間白く変化する。卵固くならないうちに、皿に取り分ける。
オーブンを開け、こんがりと焼けたクロワッサンを取り出し、バターを皿に取る。
レタスとタマネギとトマトとキャベツで簡単なサラダを作り、テーブルに彩りを添えた。
テーブルに着き、ナイフとフォークをとる。久しぶりの朝食だ。
「いただきます」
最近、学校に遅刻気味だったから朝食はほとんど抜いていた。それもこれも、ミス…ミセス・リアンダのせいなのだが。実際、こんなに早く起きたのは生まれて初めてだろう、日の出を見たのが初めてなのだから。これも、今日明日から始まる試験のプレッシャーからだろうか。
試験…と思うと、何故か心にのしかかってくる重量感。私は何か気負っているのだろうか。別にそうまでして魔導軍に入りたいわけでもない、ただ勧められたから受けたのに。
気が付くと、目が剣に行っていた。実戦がもうすぐそこに迫っていることを改めて思い知らされるような気がした。
はぁとため息を一つつき、食べ終わった食器を流しに持っていく。蛇口をひねると、山の水脈から引いている冷たい水がしぶきを上げた。
気が付くと、窓から日の光が部屋に降り注いでいた。もうこんな時間か。
洗い物を素早くすませ、服を着替える。昨日買ってきた動きやすいレザーアーマーだ。後腰に剣を差し、その上から黒いマントを羽織る。そして、あの首飾りを巻く。白い服に赤い炎は良く映えた。
時計塔を見る。陽光を反射している針は8:04を指していた。ここから集合場所の港までは15分掛からないだろう。十分間に合う。
荷物を詰め込んだバックを持ち、ドアを開けた。私の心とは正反対の雲一つ無い真っ青な空が私を迎えてくれた。
ドアに鍵を掛け、ずっと住んでいた家にしばしの別れを小さくつぶやいた。
「いってきます」
私は踵を返し、港へと足を踏み出した。後から吹いてくる心地よい風が私の旅立ちを後押ししてくれていた。
朝の活気にあふれる街を抜けると、どこまでも広がる澄んだ海が目前に現れた。潮のにおいが私の鼻をくすぐる。
停泊所には、魔導軍の軍章である龍と天使と剣の紋章の入った旗を掲げた大型の船が停泊し搭乗口にはすでに人だかりが出来ていた。試験の申し込みはすでに始まっているようだ。
急いで行かなくては。走り出そうとした瞬間、背後からドンッという何かがぶつかるような衝撃がきた。しかし、あまり強い衝撃ではなく数歩よろめく程度で済んだが、後ろではどさっと人が倒れたような音がした。
あわてて振り向くと、倒れているのは身の丈より大きい戦斧を背負った私より少し背の低い女の子だった。
「す…す、すいません」
おどおどと抜けるように白い顔を真っ赤にして立ち上がろうとする。
私はいいのよ、と言って手を差し出す。私の手を取って立ちあがるときれいに切りそろえてある肩までの黒髪を何度も上下に下げて私に礼を言って彼女は人だかりの方に走っていった。彼女も受験者か。名前くらい聞いておけば良かったな…。と、少し思った。
気を取り直して搭乗口へ向かい、最後尾に並ぶ。延々と続くような行列が出来ていたが搭乗口に近づくにつれ、段々と緊張が高まる。
私の受付が回ってきた。軍の制服を着た女性が私に書類と羽ペンを渡す。無言でサインをして書類を手渡した。
「これで受付は終わりです。どうぞ奥へ進んでください」
船に乗り込むと絨毯の敷かれた廊下を進み、甲板に出る階段の一つ手前の206号室に通された。待遇がいいわけではない、同室でのトラブルを避ける為の策なのだろう。部屋の中には、バスルームがありベッドと、そして飾り机が置かれていただけの以外と質素な部屋だった。
部屋に鍵を掛け、荷物を飾り机に置く。マントを脱ぎ、ハンガーに掛ける。剣は荷物と一緒に飾り机に置いた。持ってきた懐中時計を見るとまだ昼前だった。
ふぅ…。とため息をつきベットに腰掛ける。枕元の窓から陽光を反射してきらきら光る海が見える。目をこらすと、遠くの丘の上に魔法学校が見えた。
窓ははめ殺しになっていて開かなかったが、十分景色は楽しめた。甲板に出なくて済んだのはうれしかった。甲板に出ると嫌でも他の受験生と顔を合わせることになるかもしれないからだ。
そんなことを考えている時、コンコンというノックの音が聞こえた。
ドアを開けると、目の前に巨大な戦斧が現れた。私は驚いて剣をとった。
「あ、あのぅ…道に迷ってしまって、205号室はどこにあるか…」
声が聞こえたが、今はそれどころではない。しかし、いっこうに動きのない斧から視線をおろしていくと、見覚えのある黒髪に行き当たった。
「あなた…今朝の?」
声を掛けると、うつむいていた少女がゆっくりと顔を上げた。間違いない、この抜けるように白い顔は今朝私にぶつかった子だった。
「あ…あのあの、今朝はすみませんでした!」
勢いよく頭を下げる。本当に恐縮しきっているようだ。肩がぶるぶると震えている。
「別にそんなに謝らなくても。もういいよ、怪我もしなかったし。それで、道に迷ったって?」
また顔を真っ赤にしてその子はうつむく。
「はい、あの205号室なんですけど…」
「205号室?」
ここは206号室なのに…。どこをどう道に迷ったのだろう。
「ここ、206号室よ?」
彼女はばっと顔を上げ、ドアの番号を確認した。更に顔の赤さが増していき、とうとう目も潤んでいる。
しばしの沈黙の後、彼女はこうつぶやいた。
「すいません、あの…私昔っからバカで…」
グスグスと鼻をならす彼女に私は苦笑いしかできなかった。よくこの試験を受ける気になったものだ。
「じゃ、ご迷惑をおかけしました…」
いそいそと去ろうとする彼女の後ろ姿に声を掛けた。いや、無意識のうちに声を掛けていた。
「私はユフィ。ユフィ・ルネセッサ。あなたのお名前は?」
驚いたように振り向く彼女。泣きはらしたような真っ赤な目を瞬いたあと、少し笑って名前を告げた。
「キノです。キノ・フランベルジュです。よろしくお願いします」
キノの笑顔はとても素敵だった。イザベルとはまた違う美しさがあった。
一礼をして、隣の部屋に入ったキノを見送った後で私は部屋のドアを閉めた。妙な達成感が私を包んでいた。
私はいつもクラスで孤立していた。呪式学を専攻していた私は入学してすぐに呪式学にのめり込んだ。より高度な呪式を、より強力な呪式を。とそうする内に、私の成績は上がっていった。もっとも成績などに私は興味が無かったが。それがまた孤立させる原因の一つにもなった。成績優秀、学習意欲満点、おまけに剣術も出来る『天才』と。
一つ、また一つと呪式を覚えるたびに私の周りから人が離れていく。正直私にはどうでも良かった。見下してさえいたのかもしれない。
振り返ると苦い思い出ばかりだ。苦々しさに奥歯をかみしめる。
すると、ボォーっという汽笛とともに船が動き出した。受験者の夢と希望を乗せて。
そして、
悪夢の海路へと向かって…
4
出発して6時間ほど過ぎただろうか。窓の外は出発の時とはうって変わって激しい雨が降り、時折稲光が空を走った。
でも、私は嵐の日は好きだ。風が強く吹いたり、雷が鳴ったりするのは何故か分からないけどわくわくした。自分でもよく分からないけれど嵐の日に外を見ながら飲み物を飲むのがとても好きだ。
懐中時計を確認すると、午後4時を指していた。何もすることがないのは本当に退屈だ。
もう一度窓から外の景色をのぞく。鉛色の海は激しくうねりを上げ、波を船にたたきつけていた。
お昼は食べなかったけど…。少しおなか空いたな。食堂は…今の時間なら誰もいないかな。
マントを羽織り、剣をとる。一応、念のために。扉を開けて、外へ出る。カギを掛けたのを確認して甲板へ出た。
相変わらず雨がひどく振っている。風にあおられている旗のポールは今にも折れそうだ。急いで向こう側にある食堂に走っていこうとしたその時。
ズズン!と大きな衝撃が足下からはい上がってきた。私は閉めたばかりのドアにたたきつけられた。激しい痛みに息が苦しくなり、目の前がぼやける。何とかドアに手をつき立ち上がる。猛烈な痛みと吐き気が津波のように押し寄せてくる。
霞む目で衝撃の方向を見つめる。そこには、海にぽっかりと出来た巨大な渦の中央から上半身だけ露出させている龍が見えた。
真紅の双眸は怒りをたぎらせ、狂ったように船を攻撃している。龍が怒りの咆吼を上げるたびに船が軋み、そして破壊されていった。船の前方甲板から兵士が龍を迎撃しているようだが、距離があるうえ大した呪式や銃弾では龍の鋼のような甲殻は貫けなどしない。
龍が真っ赤な口腔を露わにし、灼熱の吐息をはき出す。海面が泡立ち、瞬時に大量の高温蒸気が発生する。高温の蒸気は前方甲板を取り巻く。まるで温度の上がり続けるサウナのようだろう。
更に龍はためらいもなく灼熱の業火を高温の霧が舞う前方甲板へと叩きつける。その瞬間、耳も塞ぎたくなるような兵士達の叫び声が私の耳を掻きむしった。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
私はあまりの惨さに顔を背けた。私も、あんな風に死ぬのだろうか。高温の蒸気と灼熱の業火に焼かれて。
龍は巨大な両手を振り上げ、トドメとばかりに前方甲板を殴りつける。ケシ炭になってしまった前方甲板は簡単に崩れ、濁流の中に飲み込まれていく。
すると、バン!と音がして後の扉が乱暴に開かれた。中から受験生の集団が雪崩れこんできた。
うわぁ、キャーという悲鳴が上がる。その中にキノも居た。キノは私に気づくと走ってきた。
しかし、悲鳴が上がるこの中で彼女の目には怯えの色がなかった。
「あの大きさ…。千年龍クラスですね」
尚も業火を吐き続ける龍を睨めつけたまま彼女は言う。その顔にはあの弱々しさは無かった。いや、彼女は『笑っていた』。獲物を見つけた獅子のように。
彼女は素早く手に持っていたトランクを開いた。中には銃器のパーツがぎっしりと詰まっていた。その中から迷わずパーツを取り、組み立てていく。カチャカチャと小気味の良い音とともに銃の全貌が明らかになっていく。
黒光りする銃口から細くのびる銃身。その銃は狙撃用ライフルだった。しかし、私が知っているライフルとは比べ物にならないほど大きかった。スカートが捲れるのも構わず、片足を船の手すりに掛けライフルのスコープをのぞく。
「20…6、7って所かしら」
ブツブツとキノは呟く。素早くトランクを近くに引き寄せ、ライフルの弾を手探りで選ぶ。素早くマガジンを取り出し装填する。
その様子に気づいた他の受験生がキノの肩をつかんで怒鳴り始めた。
「おい! まさかあの龍を撃つのか? やめろ、止められる訳がない! あいつがこっちに来たらどうするんだよ!」
キノはさも汚い物を見るような目で彼に吐き捨てた。
「止められない? それは『あなた』がでしょう? 私なら止められます。いや、止めてみせます」
ねらいを引き絞る。彼女は狙いを定めたまま銃弾の呪式を展開する。
「…炎位第2階位呪式『怒りの弩弓(ラ・ヴァレステラ)』」
呪式を展開すると同時に引き金を引く。ガォォン!と言う強烈な破裂音が甲板に響き渡る。
ほぼ同時に龍の右目が破裂し、爆炎を上げた。キノのライフルが命中したのだ。受験生の中にどよめきが走る。
ジャコッと空になった薬莢を排出したライフルを更に構える。
続けざまに呪式を展開しながら引き金を引く。顔を押さえてのたうち回っている龍の今度は左目が破裂した。完全に視力を失った龍は見当違いの所に炎をまき散らす。
おぉ!と後方甲板に歓声が走る。
すると、一人の受験生が扉を開けながらこう叫んだ。
「この船はもうダメだろう。でもこんなにでかい船だどこかに救命ボートがあるはずだ、それを探しに行ってくる」
俺も、私もと半数以上の輩がボートを探しに船内に戻り、どやどやとした喧噪が船内に消えていく。
龍は顔を押さえたまま、海の中に飛び込み姿が見えなくなってしまった。舵を失った船は、段々と前方甲板の方から海に沈み始めている。
龍が完全に見えなくなってから、キノは手早くライフルを分解し始めた。どうしてだろう、どう声を掛けて良いのか分からない。
私は心のどこかで彼女を侮っていたのかもしれない。いや、どこかで私より下だと思っていた。
「お怪我はありませんか? ユフィさん」
いつの間にかライフルを仕舞ってしまっていたキノが私をのぞき込んでいた。さっきの鋭い眼光はどこにもなかった。
すると、忘れていた頭痛が戻ってきた。でも先ほどより幾分痛みは引いていた。
「あ、うん大丈夫」
膝に反動をつけて立ち上がる。フラフラするが走れないこともなさそうだ。改めて船の前方を見ると、すでに船の半分近くが海に沈んでいた。私たちもうかうかしていられない。
「ボートを探さなきゃね。キノ」
はい。とキノは沈んでいく船の前方部分を見ながら言った。
ドアノブに手を掛け、ドアを開ける。船内に戻ろうとする私の手をキノがつかんだ。
きゃっ、といってすぐに私の手を離す。
「あ、あのあの…」
キノは顔を真っ赤にしてうつむいている。
「どうしたの?」
「あのその、ボートは船の外に鎖で括り付けてあると思いますけど…」
もじもじとキノは言う。なるほど、そうだったのか。
急いで船の手すりから船の船腹を見る。目をこらすと、甲板を半分ほど行ったところに白いボートが見えた。
キノを呼び、甲板を走る。ガクンと船が揺れ、水に沈んでいくスピードが速まる。
ボートのそばに駆け寄るが、ボートは鎖で固く縛られてあった。
迷わず剣の柄を握り、一気に引き抜く。ジャインと小気味のいい音を立てて真紅の刀身が銀の鞘から解き放たれる。剣の闘気が私の手を取り巻き、私の手に不思議な力がみなぎってくる。私はそのまま剣を大上段に構え、そのまま鎖めがけて振り下ろす。
バキンと鎖が切れ、吊す物の無くなったボートは重力に身を任せ海に落ちた。
「キノ、乗って!」
がっと手すりに黒いブーツをかけ、ボートめがけて飛び移る。戦斧にからみついている鎖がジャラジャラと音を立ててボートに着地する。
キノはボートのオールを持ち、船にボートを寄せて飛び降りて良いというサインを送った。私も手すりを飛び越える。髪がふわりと風に乗り、スカートの上に巻いた腰布が風でまくれあがる。
皮肉なことに、船が沈み始めていたおかげで高さはあまり無く着地の衝撃は無かった。
船の沈没に巻き込まれないように船と少し距離を取ることにした。オールを握り、慣れない手つきでボートを漕ぐ。
キノはさっきからずっと周りをきょろきょろと見回していた。私が見ていることに気づくと、また顔を真っ赤にして喋り出した。
「あ、あのあの…し、ち、近く…」
「はい、深呼吸」
すぅと桜の花びらような唇を開けて、深呼吸を繰り返すキノ。私はクスリと笑みをこぼしていた。
「えとえと、近くに島か何か無いかなと思って探してたんですけど」
また、辺りを見回しながらキノは言った。しかし、辺りに降る雨と立ちこめる海霧で視界は最悪だった。キノはあきらめて自分の膝を抱いて顔を埋めた。
ふぅとため息をつき空を見上げる。
いつの間にか弱まった雨が私の顔を打った。鉛色の空が流す涙は、天が今苦悩に立ち止まっている私たちを哀れんでいるのだろうか。
それとも、これから訪れる苦悩を知って哀れんでいるのだろうか。
それとも、―――苦悩に苦しんでいる私たちを滑稽だと涙を流すほどあざ笑っているのだろうか。
しっとりと私の身体を濡らしていく雨はとても、とても、冷たかった。
気づくと、船はもう半分近くが沈んでしまっていた。私の居た部屋ももう海の中だ。
視線を巡らすと、キノの黒いトランクに行き着いた。
見たこと無い型のスナイパーライフル。―――スナイパーライフル?
「キノ、スナイパーライフルについているスコープで島影は見つけられないかしら?」
ばっとキノは顔を上げトランクを開きスコープを取り出す。
スコープを覗き、辺りを見回す。注意深く辺りを見渡すとばっとスコープから目を上げる。
「ありました! 島がいくつか固まっています。エルブ山では…なさそうですが」
安心感で、思わずため息が出る。
「距離はどのくらい? 海の上で野宿しなきゃいけない?」
冗談めかして言うと、キノはまた顔を真っ赤にする。
「あ、いえその…。わかりません」
ちょっとうれしそうに見える。何故だろう? 野宿好きな人なのか?
「さ、じゃ行きましょうか! ゆっくりと」
何でゆっくりと? と聞こうとしたとき、ものすごい轟音と衝撃ともに凄い力で私たちの身体とボートは空中に投げ出されていた。運良くキノはボートごと飛ばされたようだが、私の身体はボートとは正反対の方向へ飛んで行っていた。
すべてがスローモーションのようだ。キノが私に何か叫んでる―。ごめんね、よく聞こえないみたい。悲しそうな顔をしないで、あなたが悲しそうな顔をすると私も悲しい。
どんどんと荒い波が口を開いている海面が近くなっていく。
私の意識が無くなる直前、私は見た。
船上で撃退したはずの龍がまた咆吼を上げているのを。
私は、濁流に呑み込まれながら小さく小さくキノに『ごめんね』と言った。
5
懐かしい、匂いがする。どこだろう、ここは。
この甘い匂いは、草原に咲く花の匂い。森になる果実の匂い。あ、ここは『あの場所』か。澄み切った蒼い空。あの眩しい太陽に手を伸ばせば届きそうだけど、やっぱり遠くて。
私の小さな手では雲すらつかむことは出来なかった。でも、悲しくなんかなかった。優しい風が遠くの、そうずっと遠くの場所から私の知らないものを運んできてくれる。
それだけで、私は満ち足りていた。日が暮れそうになると、いつものように森の奥から私を呼ぶ声が聞こえる。
―――目を覚ませ
あれ、いつもの優しい声じゃない。いつもの声はもっと柔らかくて、あったかくて
―――おい、目を覚ませ
瞼を開けると、柔らかな日差しが私の顔を射していた。ゆっくりと二、三度瞬きをする。
どこだろう、ここは。
白いレースのカーテンが、開け放たれた窓からそよぐ夕暮れの風と共にふわりふわりとダンスを踊っている。
ゆっくりと顔を左に向けると、ぎっしりと本が詰まった本棚と見たことがない美しい花が生けられた花瓶が乗っているちいさなテーブルが見えた。
私は…。そう、私はボートから投げ出されて――。
ゆっくりと身体を起こす。私は寝ていたのか。
花瓶が乗っていたテーブルにはレーヴァテインとマテリアを入れているポーチ、そして服が丁寧に畳んで置いてあった。
そう言えば私が着ている寝具も私の物ではない。いったい此処はどこなのだろう。
色々考えを巡らせていると、カチャと言う音と共に部屋のノブが回った。
ドアを開けて入ってきたのは、10歳ほどの少年だった。深緑色の目をした黒いおかっぱ頭の少年で手には花瓶に差すためのものなのか、黄色い花束が握られていた。
私に気づいて、ベッドの脇に歩み寄ってくる。
「お気づきになられましたか? 少々お待ち下さい。シルヴァナ様を呼んで来ますので」
背格好に似合わない上品な言葉遣いで、彼はペコリと頭を下げ部屋を出て行った。
パタン、とドアが閉まる。起きようかと思って背中に力を入れる――が全く力が入らず逆に痛みが走る。
あれから何日経ったのだろう…。
真っ白な天井を見上げるとしんしんと降る雪のように不安が心に降り積もる。
辛うじて動く手に巻かれた包帯を見ると、あれは現実だと嫌でも思い知らされた。それが更に私の心を重くする。
すると、先ほど少年が出て行った樫のドアがキィと開いた。
顔を横に向け、ドアの方を精一杯見る。そこには、背の高い女性の姿があった。
豊かな黒い髪を後で結い上げ、流れる髪の中からピンと出ているとがった耳が印象的だった。縁なし眼鏡が知的な雰囲気を漂わせている。
服装がまともであれば…だが。細い手には煙のくねる長い煙管が握られ肩紐の乱れたドレスを着ている彼女は、小麦色の素肌と胸元を大胆にさらしていた。まるで朝までパーティで騒いだような格好だ。
「気がついたか」
赤いヒールを鳴らしながら私のベッドの側により、寝ている私の顔をのぞき込む。
「まだ全快とはいかんか、しかし一時はどうなることかと思ったが。子供の生命力は本当に大した物だ」
長い足を窮屈そうに組んでベッドの脇の椅子に座る。そよそよと吹いてくる風が煙管の煙を靡かせて通り抜けていく。
「あの、あなたは…」
ゆっくりと甘い煙を吐き出し、彼女は答えた。
「私か? 私はシルヴァナ。ディオナ・シルヴァナ。名前で呼ばれるのは嫌いだからシルヴァナと呼ばせている。おまえは?」
めんどくさそうに頭をかきながら尚も煙管を口に運ぶ。
「私は、ユフィです。ユフィ・ルネセッサ」
そうか、と言いまたゆっくりと煙を吐き出す。すると、コンコンとノックの音がしてドアが開いた。そこにはティーポットと二つのカップと砂糖瓶の乗ったトレイを持ったさっきの少年が立っていた。
シルヴァナの姿を見て顔を真っ白にした後、すぐに真っ赤にしながら彼は口を開いた。
「シ…シ…シルヴァナ様! ちゃんとしたものをお召しになって下さい!」
「あーあー、私の身体など見慣れてるだろうに。 もしかしてスィズ…照れてるのか?」
ほれほれとボールのような胸をはだけてみせるシルヴァナ。からかわれている彼、スィズが可哀想になってきた。
彼は真っ赤な顔を更に赤くし、そう言うことではありません! と言った――いやむしろ叫んだ。
彼は真っ直ぐテーブルにいき、トレイを置くとそのまま部屋の隅にある茶色い箪笥へ向かった。
赤いショールを取り出しシルヴァナにかけた後、失礼します! とトレイを持ってスィズは出て行った。
本当に良くできた子なのに…。いたたまれない。
当のシルヴァナはクスクス笑っている。あぁ、本当にいたたまれない。 ――と私が自分の顔を見つめられているのに気づきシルヴァナは笑いながら口を開いた。
「くっくっ、悪いな。紹介が遅れた、あの子は私の屋敷で執事をさせているスィズだ」
テーブルに置かれたティーカップを引き寄せ角砂糖を入れるシルヴァナ。こんな時でも煙管は口元にあった。
起きあがれるか? と訊かれ首を横に振る。シルヴァナはカップをテーブルに置き私の背中に手を回し起きあがらせ、壁に寄りかかるようにして背中を壁に預けカップを渡された。
「この辺に自生しているハーブを私が育てた物だ。薬効が高くてな、少し苦いかもしれんが慣れれば美味い」
高価そうなカップを静かに口に運ぶ。確かに私が飲んだ事のあるハーブティとは違う風味が口に広がる。暖かいハーブティはのどを滑り落ちて身体に染み渡った。
眼鏡の位置を中指で直して、シルヴァナもカップを口に運ぶ。静かな部屋に聞こえるのは、いつの間にか薄暗い窓から流れてくる遠い波の音と木の葉の揺れる音だけだった。
カップも空になった頃、シルヴァナはドレスのポケットからある物を取り出し、私に見せた。
それは、私が大切にしていたあのペンダントだった。
「おまえ、これをどこで手に入れた?」
シルヴァナの鋭い目は私の心の底まで見透かされそうだった。そしてまた、煙管を口に運ぶ。
「私が赤ちゃんの頃に貰われてきたときから持っていたそうです」
ほぅ…と言ってシルヴァナは窓の外に視線を巡らせる。
「あの、そのペンダントが何か?」
ふぅと煙と共にため息をつくシルヴァナ。その目には微かに憂いが移っているように思えた。
二、三度煙管を口にしてからシルヴァナはゆっくりと話し始めた。
「お前、創世記戦争は知っているか? いや、知っているだろう?」
学校でずいぶん前に習った。帝國歴初頭、このルミアーナ大陸の覇権を争って私たちの先祖、天使族と悪魔族が行った戦争だったと思う。
「はい、私たちの先祖の天使族側が勝利を収めたと言われている戦争ですね」
微かにシルヴァナの憂いの表情が濃くなったような気がした。
「今から私がする話は、お前の常識をすべて覆す――いや、ぶち壊すような話だ。この話をきけば、後悔するかもしれない。聞きたくないなら聞かなくても良い、早くその傷治して故郷に帰りな。でも、聞くなら責任を持って最後まで聞け」
どうする? とシルヴァナは目で私に問いかけた。煙管の甘い煙をくゆらせながら。
常識を覆すような話――か。後悔するのならば聞きたくはない、でもそのペンダントの事に関する事というのも気に掛かる。
ペンダントの事が分かれば、私の出生の事も分かるかもしれない…。
「――聞かせてください」
シルヴァナは静かに煙を吐き出し、テーブルの灰皿に煙管の灰を落とす。そして新しい刻み煙草を雁首の火皿に乗せて火を付ける。薄暗い部屋の中で煙管の火が蛍のようにゆっくりと光っていた。
「わかった」
シルヴァナは吸い始めの煙を天井に向かってゆっくりと吐きだした。
「創世記戦争のことから話そうか」
6
「本当は創世記戦争は起きるはずの無かった戦争だった」
ユフィという名の子供は目を見開く。仕方あるまい、歴史の闇の部分というものが明るみに出る事なんて無いのだからしかし…大人びてはいるがまだあどけなさの残る表情をするこの子にこんな話をする事になるとは。出したくなくてもため息が出てしまう。
「どうしたのですか? シルヴァナさん」
「あ、ああ。すまない」
簡単に説明すると、元々講和を望んでいた魔皇帝は使族側にこう持ちかけた。『使族側の皇女を我が后として迎える』と。もちろん最初は国内の魔族達からも使族達からも受け入れられなかった。
しかし数ヶ月後、使族は掌を返したように『ある条件』を提示することでその条件を呑む。
その条件は、定期的に皇女を天使族の国へ帰還させるというものだった。もちろん魔族側は皇帝に大反対をした。
「何故か分かるか? ユフィ」
ユフィは間をおかずすぐに返事をよこした。
「魔族内の情報が筒抜けになるからですか?」
「あぁ。それともう一つある」
火の消えそうな煙管を慌てて口に運ぶ。そして深く吸い込み甘い煙を肺にたっぷり入れる。
「それは、魔族と使族の間に子供が生まれるかどうか分からなかったからだ」
ユフィは、なるほどといった顔をして私に話の続きを表情で促す。
兄弟が居なかった魔皇帝は跡を継ぐ皇子が必ず必要だった。しかし皇帝の意志は固かった。世継ぎよりも魔族の情報よりも何よりも両国の平安を望んだのだ。それに、こちらに使族側の皇女が居るとなればいくら情報が筒抜けだからとはいえ使族も迂闊に手を出しては来れないという思惑が在ったからだ。
そして、その提案が受け入れられた翌年魔族の地に使族の皇女が降り立ち皇女は后となった。初め心を閉ざしていた皇女も、心優しき魔皇帝にだけは少しずつ心を開くようになり魔皇帝も美しく健気な皇女を深く愛した。
天使が決めた帰還の周期は半年(30日を一月としたときの6ヶ月)とし、魔皇帝もそれを守り彼女を送り届けていた。
天使族は恐らく根掘り葉掘り皇女に情報を聞き出した事だろう。しかし、ここで天使側に不測の事態が起き始める。段々魔皇帝に惹かれていく皇女は天使族側に有力な情報を流さなくなったのだ。
愛する魔皇帝閣下の為――。と言って皇女は使族の国へ帰国しても魔族の国へ帰るのを心待ちにしていた。それをみた使族民は段々と皇女に反感を覚えるようになる。『蛮族と契りを結んだ反族者』――と。
そしてあの日、皇女は魔皇帝の子供をその身に宿した。これには魔族すべての民が喜び、ほっと胸をなで下ろした。これで世継ぎは決まったと。魔族は男女の差が無く皇帝でも女帝でも全く構わない国であったので後は世継ぎが元気に産まれてくるのを祈るばかりとなった。
日に日に大きくなるお腹を抱えた皇女を労り、魔皇帝は一層彼女を愛でた。そしておよそ3ヶ月後皇女は元気な男の子を出産する。母親譲りの銀髪と父親譲りの深く紅い瞳が特徴的なその乳飲み子は『ディアヴロ』と名付けられた。
産後の調子が良好だった皇女は天使と悪魔の間に産まれた乳飲み子を抱え自国へ帰国する。しかし、温かい歓迎は待ってはいなかった。族民からは侮蔑の目で見られ彼女の父――使皇帝も冷たかった自国に居場所を無くした皇女は逃げるように魔族国へ帰った。 泣きじゃくる皇女を魔皇帝は優しく慰める事しか出来なかった。
そのような状態で11年の歳月が流れる。すっかりと成長したディアヴロは剣術に政治に呪式にと多彩な才能を発揮し始めた年にそれは起こった。
ディアヴロの14歳の誕生日の日、盛大なパーティを魔族国で執り行われる事になった。14歳は魔族にとって子供から大人へと変わる節目の年として、背中に特殊な印――今で言う呪式を彫る事になっている。
10年経ち、今では皇女も后として魔皇帝に任せきりだった政治に立派に参加していた。城の門を開放し、貴族農民関係なく城に招き宴を催す。その日は皇帝も后も城の広大な庭に出て共に宴を楽しんでいた。
長い銀髪を腰で束ね腰に剣を携えたディアヴロは、誰にでも強く優しく礼儀正しい青年となって民の前に姿を現した。
すばらしい一日に成るとその時誰もが思っていただろう。皇女がその口からワインのように赤い血を吐いて倒れるまでは。
皇女は鮮血を口から滴らせ崩れるように倒れた。その白いドレスを赤に染めた皇女はゆっくりと芝生の上に倒れた。
魔皇帝が駆け寄ったときにはもう皇女の息は弱々しかった。力のない声で夫の顔に手を伸ばし愛おしい彼の頬にそっと触れたあと息を引き取った。
彼女は数年前から肺に患いを持っていたらしい。疲れをため込んでしまったのだろう、普段感染しないような病気にも感染し二重の病に罹ってしまったらしい。そのことに気づいてやれなかったと魔皇帝は自分を責め抜いて数日後床に伏せってしまう。
皇女の好きだった白いシクラメンの花と共に彼女の棺桶は城がよく見える草原の丘の上に埋葬させられた。魔皇帝も皇女も政治に参加できない今、ディアヴロが玉座に座るのは時間の問題だった。
ディアヴロは悲しみに苛まれながら次期皇帝の玉座に座る。彼が若干14歳の時だった。
―――そこで一度話を切り私は煙管を口に運ぶ。
もう辺りは日が沈み、月が細々とこの屋敷を照らしていた。マッチを擦り、ランプに灯をともしベッドの脇に置く。
「続きはまた今度にしよう、腹が減った。飯は食えるか?」
ユフィは軽く目を伏せ、「いえ、お腹は空いていませんので…」と言った。
そうか、と言い椅子から立ち上がる。灰皿の縁で煙管を軽くたたき中の灰を落とす。
「今日はゆっくりと休め。明日になれば起きあがれるようになるだろう」
窓を閉めてカーテンを引く。カーテンを空かしてぼんやりと金色の満月が伺えた。
窓を閉めてカーテンを引く。カーテンを空かしてぼんやりと金色の満月が伺えた。
踵を返し、数時間前入ってきたドアへ足を向かわせる。すると、後からユフィが私の名を呼んだ。
「シルヴァナさん、一つ聴きたい事があるのですが…」
ユフィはその整った顔をこちらに向け、そう呟いた。
「何だ?」
ユフィは少し考えた後でゆっくりと切り出した。
「何故シルヴァナさんは創世記戦争前、しかも記録に残っていない魔族の事をご存じなのですか?」
ゆっくりとため息を吐く。私は馬鹿か、この話をすれば誰もがその結論に行き着くだろう。
一旦ドアへ向かわせた足をとめ、ユフィの方を向き直る。私はどんな顔をしているのだろうか――
ユフィは不思議そうな目で私を見つめている。
「これを見れば……わかるだろう」
私はそう言い、ランプの側に行きドレスに包まれた背中をはだけさせた。
シルヴァナさんは、毅然としているもののどこか寂しそうな顔で私の寝ているベッドの脇に立った。
「これを見れば……わかるだろう」
そう言うとシルヴァナはきめ細かい彼女の肌を包んだドレスをはだけさせた。
私ははっと息を呑んだ。
なぜなら見たこともない高度で複雑な呪式が彫り込んであったからだ。
「これは……?」
はっと私はさっきのシルヴァナの話を思い出した。
―――14歳は魔族にとって子供から大人へと変わる節目の年として、背中に特殊な印――今で言う呪式を彫る事になっている。
と、言う事はシルヴァナさんは………。
「私は、魔族の生き残りだ」
ドレスを元に戻し、そのまま部屋を出ようとするシルヴァナ。
「待ってください! シルヴァ――」
「質問なら明日聴いてやる。今日はゆっくり休め」
優しい口調だったが、その背中はその後の問答を許さなかった。
キィ、とドアが開き彼女の姿は闇に溶けていった。ドアが閉まり、部屋にまた静寂が訪れる。枕元のランプを消すと煌々とした月の光が窓から差し込んできたのが分かった。
ゆっくりと瞼が重くなっていく。私の意識は深淵の奥へと吸い込まれていった。
7
小鳥のさえずる声が私を眠りから目覚めさせた。ゆっくりと目を開けると、朝の眩しい日差しが窓から燦々と降り注いでいた。
ゆっくりと上半身に力を入れてみる。すると、昨日の激痛が嘘のようにすんなりと起きあがる事が出来た。白いベッドからゆっくりと降りて歩いてみる。痛みが無いどころか、普通に歩けるようになるまでに回復していた。
んん、と凝った筋をほぐすように背伸びをした。背中からゴキゴキと小気味の良い音がする。サイドテーブルの向こうにある鏡台に向かい、置いてあった象牙色の櫛で丹念に髪をとかし、軽くウェーブのかかったいつも通りの髪型に戻す。
コンコン、と聞き覚えのあるノックが私を呼んだ。はいと返事をするとうやうやしくドアが開き、今日もその幼い風貌には似合わない礼服に身を包んだスィズが水を入れ替えた花瓶を持って入ってきた。
「おはようございます、ユフィ様。お身体はもう良いのですか?」
にこと笑みを顔に浮かべ、ベッドのサイドテーブルに蒼く透き通った花瓶を置く。
「ええ。お陰様で、ありがとう」
「滅相もありません、私より処置を施してくださったシルヴァナ様にそのお言葉をかけてあげてください」
スィズは掛布(シーツ)をベッドから剥ぎ、テーブルに置いてある『洗濯物カゴ』と書いてあるカゴに入れた。
「あ、ユフィ様。朝食がまだでしょう、食堂へご案内します」
洗濯物カゴを両手で抱え、私を外へ促す。梳かし終わった櫛を鏡台に置き、スィズについて部屋を出る。
部屋を出ると、長い廊下が私達を迎えた。まるで魔術学校の廊下のようだ。真っ赤な絨毯が敷かれた廊下をスィズは左に歩みを進める。廊下の突き当たりには、ガラスケースに長剣がずらりと飾られていた。素人の私が見ても分かる程の業物で、それぞれの剣が威圧感をもって鎮座していた。
突き当たりの廊下には、両開きの飾り彫りが施された扉がありそこが食堂の扉だった。
鈍い金色のノブを回し、扉を開くスィズ。私の背丈の二倍ほどの扉は軋むことなくなめらかに開いた。そこには体育館のような大きな空間が広がっていた。
ヘンドンマイアにある講堂のステンドグラスとほぼ同じ大きさの窓が壁に等間隔に備え付けられ、窓の中心の十字型のサッシが差し込む光を十字に割いていた。真ん中には大きな長テーブルが置かれ、上座には相変わらずドレス(今日はワインレッド)を気崩したシルヴァナが腰掛けていた。知的な縁なし眼鏡を掛け、ブランデーを片手に今日の新聞に目を通している。
「おはようございます、シルヴァナさん」
私はシルヴァナに向けて、軽く会釈をした。
「ああ。起きあがれるようになったか、良かったな」
新聞から顔を上げ、ルージュが眩しい唇で魅惑的に笑った。そして、ブランデーを口に寄せながら新聞に顔を埋める。
スィズが私を席に促した。言われるまま席に着き、目の前の窓の外に目をやる。
並木が植えられ、花壇には様々な花が一斉に花を咲かせていた。これもスィズが一人でやったのだろうか……。
スィズは朝食を乗せたカートを押し、厨房の扉から出てきた。シルヴァナの前に美味しそうな料理を乗せた皿を置き、私の席に置く。竈から出したばかりのようなこうばしい香りのクロワッサンは、真ん中のバスケットに盛られた。
「今日の朝食は何だ? スィズ」
はい、と言ってスィズは朝食を読み上げる。
「今日の朝食はリドムの尾肉を使った香味ソテーとミネストローネ、それと今朝採れた野菜を使ったサラダです」
ぺこりと頭を下げ、スィズは厨房へカートを押して戻っていった。
シルヴァナは新聞を畳み、テーブルの端に置いた。
シルヴァナは細くて長い中指で縁なし眼鏡のズレを直し、手を合わせる。
「では、いただこうか」
磨き上げられた銀のフォークとナイフを取り、リドム(幼竜)の尾肉にそっと切れ目を入れる。皮は少し焦げ目の付いたきつね色で見た目通りカリカリに焼き上げてある。ナイフで肉に切れ目を入れると、リドムの肉の特徴である濃厚な肉汁が切れ目からあふれ出した。
そっと切り分け、肉汁の滴るソテーを優雅に口に運ぶシルヴァナ。と、そこでシルヴァナは口元のフォークをおろした。
「お前、食べないのか?」
はっと、我に返る。なぜ私はシルヴァナの食事に見とれていたのだろう。恐らく顔を真っ赤にしているだろう私はナイフとフォークを取り上げ、香ばしい匂いを漂わせているソテーにナイフを入れた。クスっとシルヴァナは笑い、止めたフォークを口へ運ぶ。
静かな食卓には、食器の触れあうカチャカチャという音がとても大きく聞こえた。だが、気の重さなどは全くなくむしろ静かな食事は心地よかった。
マーガリンを塗ったクロワッサンの最後の一口を口の中に納めたシルヴァナは、ナプキンで口を軽く拭った。ほんの少しルージュが付く。
「そういえば……」
シルヴァナは食後ハーブティの入ったカップを置き、私の方を向く。
「お前、何で海難事故にあったんだ?」
私は手に持ったナイフをゆっくりと下ろし、その手を閉じた膝の上に置く。
「対外魔導試験に向かう船が龍におそわれて、乗っていた船は沈没し、気が付いたら此処のベッドの上でした」
なるほど、とシルヴァナは視線を外へ巡らせる。彼方まで澄み切った晴天を見上げて彼女は何を思うのだろう―――。
「すこし――」
シルヴァナは私に視線を戻し軽く微笑んだ。
「すこし、この辺を歩いてきたらどうだ。気晴らしくらいにはなるだろう」
空になったカップをスィズが下げ、代わりにシルヴァナはあの長い煙管を口に運ぶ。
「でもあの私、昨日の話の続きを――」
「今夜話そう。それにこんな良い天気だ、屋敷に籠もるのはもったいないだろう」
そう言うと、シルヴァナは優雅な足取りで食堂を後にした。
私も、食器をスィズに渡し先ほどの客間に戻る。長い廊下にある窓からは真っ青な海が一望できた。うっすらと、巨大な山陰が見える。あれがエルブ山だろうか……。
部屋に戻ると、早速私は着替えを始める事にした。
続く。。。
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2007/01/16(Tue)10:28:58 公開 /
龍姫
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龍姫さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
初めて書きました。拙いところもあるかと思いますが、ご指導のほどよろしくお願いします。