- 『☆クラウン・ドリーム★』 作者:Red Bull / 異世界 リアル・現代
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全角10308.5文字
容量20617 bytes
原稿用紙約30.4枚
主な登場人物:調教師見習いの青年 奇術師の男 ライオン
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「団長様、今日もオヤスミなのね」
「仕様が無いわよ、昨晩の団長様はいつも以上に素晴らしかったもの」
ゴウンゴウンと機械的な音を奏でながら船は揺れる。時折は砂面(すなも)に沿って進み、時折は硬い岩石に乗り上げて跳ね、ベンチに座った二人の少女はまるで団長が得意とするジャグリングのこん棒の様にベンチの上を跳ね回っては手を口元に当ててクスクスと笑いあう。甲板はまるで西欧の庭園の様に華やかに造られておりまるで船舶の甲板とは思えない。甲板をぐるりと囲う真紅の薔薇園、醜いガーゴイルが水を吐き出す円形の噴水、蔦が絡み合ったドーム状の小さな白いティールーム、特別な夜会を行える西洋式の民家、四季折々の花々が咲き乱れる花壇。残念ながら今は深夜の為小鳥の囀りは聴こえてこない。
漆黒の夜空に浮かぶ大きな月と小さな月、月明かりで白く輝く雲に影に隠れて黒く輝く雲、明るい星々と明るく無い星々、二人の少女が眺める先はその様な世界。船の外は黒い海では無く白い砂漠、昨晩に最終公演を終えた彼女達は次の国を求めて砂漠の海を航海している。船の先端には茨と薔薇に囲まれた小さな井戸があり、モニュメントが掲げられている。其処には銅版でこの【国】の詳細が記されていた。
国名:独立移動国家 【サーカス】
国王:【クラウン・ディオニュソス】 第71代目国王及び第71代目団長
国土:サーカス舞台、観覧席を搭載した大道芸船 【アルレッキーノ】
国民:アルレッキーノ搭乗員改め団員193名 動植物約300種
国政:国々を渡って船上公演を行う国民による演劇及び大道芸
「パム様、ポロム様、何か御飲み物でもお持ちしましょうか」
深紅色と深緑色のブランケットを携えた初老の男が二人の少女に笑いかけた。彼の着る深紫色の燕尾服が二人の頭上を揺れる太陽と月を象った電灯で鈍く光る。銀色の長髪をしたパムという名の少女はブランケットを貰うと隣の金色の短髪したポロムという名の少女に手渡した。
「私はホットミルクでいいわ」
「スイーツピアのホットチョコレートまだ残ってたよね? 私はそっち!」
「かしこまりました」
初老の男は笑いながら丁寧にお辞儀をすると船内に戻っていった。ポロムはブランケットをたくし上げ、口まで隠してから鼻でブランケットを嗅いだ。まだ前の国の香りが残っている。菓子造りが国政の国で常に何処でも甘い香りのするそれは楽しい国だった。
「流石エドワードさんは気がきくよね、私達の好きな色まで解ってる」
「ポロムが後夜祭を抜け出したいって言ったから迷惑をかけているんじゃない」
「だってすっっごくお酒臭いんだもん。まあ公演後はいつものコトだけど」
「貴方が大人になったら絶対大酒飲みになるわよ、団長様公認なんだから」
「えーヒドイ団長様ったら」
他愛も無い会話を続けていると遠くから多くの笑い声が聴こえた。無事に公演を終えたアルレッキーノは大道芸船から朝まで宴の続く大宴会船へと姿を変えるのだ。ポロムがブランケットの香りを嗅ぎ続けている事にポムはようやく気付き、ブランケットを下にズリ下げた。
「いやしい事は止めなさいよ」
「だってスイーツピアは二年振りの公演だったのよ。私、世界中の国の中であそこが一番好き。皆親切だし」
「しかも王子様は格好良いしって? 呆れた、あれじゃ只の工場員じゃない」
「何よ、パムだって欲しがってたジャムが手に入らなくて駄々を捏ねてた癖に」
二人が再びクスクスと笑っていると、二つの象牙色のポットに二つの琥珀色のカップを載せた白銀の盆を抱えてエドワードが戻ってきた。丁寧な作業でポットから飲み物を注ぎ、二人に手渡す。パムはホットミルクの表面に息を吹きかけてからゆっくりと口をつけて啜った。暖かい液体が口の中で一周した後ゆったりと喉を通っていくのを確認した後、エドワードに声をかけた。
「ねえエドワードさん。団長様はまだ起こしにならないの?」
エドワードはシルクの布巾でポットの注ぎ口を拭きながら笑いかける。
「王様は前回の公演で結構魔力を消費なさいましたからねえ、あと一週間はあのままではないでしょうか」
ホットチョコレートがたっぷりと入ったカップを抱えたポロムは思わず吹き出した。
「私、次の公演までに仕上げたい演技があるのにっっ」
エドワードはポロムにも笑いかけたあと、片膝をついて手にした布巾でポロムのホットチョコレートの付いた口元を拭った。ポットの注ぎ口を拭った時の仄かなミルクの匂いをポロムは感じた。
「次の国まではまだ半月程掛かります。天才玉乗り師のポロム様なら残りの期間で大丈夫と私は思っておりますが」
「そうよポロム。団長様は次の公演の為の魔力を蓄えてるんだから前みたいに無理に起こしちゃ駄目よ」
パムがそう言うとポロムは膨れ面でホットチョコレートに口をつけた。パムも続けて一口ホットミルクを啜ってから空を眺めた。星は変わらず瞬き続け、冷たい風が頬を撫でる。
「今度はどんな方なのかな…」
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彼は悩んでいた。子供の頃に魅せられたサーカスでの調教師が忘れられなく、両親の反対を押し切って入門したサーカス団。二年の修行期間を経て調教師見習いになったはいいものを動物達は全く彼の命令を聞いてはくれない。今日の公演で初めて舞台に立った。村の友人や両親が彼の晴れ舞台を心待ちにしていたのに結果は散々に終わった。広い舞台の中、彼がいくら鞭を打っても声を荒げても動物は動かなかった。そればかりか担当の老雄ライオン【オクトロス】は彼に吼えつき、彼は無様にも尻餅をついて観客に笑われた。友人も観客と同じように笑い、両親は苦渋の顔で下を向いた。
客に笑われるのはピエロの仕事、客を笑わせるのは猛獣使いの仕事。彼は団長からきつくしごかれた後にオクトロスの檻の前に腰掛けた。手には安い赤ワインと薄いハムとパサパサの麦パンのサンドイッチ。上を向く事は出来なかった。もう村に帰ろうか、明日の朝一番の列車に両親と乗ればどれだけ楽だろうか。彼はそればかり考えていた。
「なあ、どうしてお前は俺のいう事をきいてくれないんだ…。おい、返事位しろよ…」
彼は独り呟いても返事は返ってこなかった。オクトロスは両手を組んで鼻を引くつかせて眠っている。がむしゃらにワインを飲み干すとそのまま檻の前で眠ってしまった。手にはまだかじり掛けのサンドイッチが残っていた。
「おい、お〜い、聴こえるか君? 聴こえてるか〜い?」
彼は誰かに体を揺さぶられていた。まだ身体がだるい、既に朝になったのだろうか妙に視界がまぶしい。彼はゆっくりと上半身を起こしてから掌で目を擦った。白い光が支配する中、目の前には人影が見える。
「やっと起きたね、さあ、自己紹介を始めよう」
彼の前に立っていたのは長身の男だった。190はあるだろうか、身体のラインに沿った黒いツナギのピエロ服に銀色のフリルが襟と袖に付いている。白い長髪で橙色と水色に襟と同じフリルの付いた二股帽を被り、顔は整っていてどこからみても美男子とわかる整った顔立ちだ。ただ右側に頬から眉にかえて薄く細い傷痕がついていた。
「立てるかい?」
新しいピエロだろうか、彼はそう思うと男の差し出す手を握り返して立ち上がった。光でよくは見えないが思ったとおりの長身だ、思わず見上げてしまう。彼は身体の埃を払ってから男に言った。
「あの、今何時ですか?」
「何時? さあ、まだ夜中だと思うけど」
「嘘でしょ、もうこんなに明るいのに」
「そりゃ明るいさ、此処はステージの上なのだから」
男はそう言うと指をパチンと鳴らした。白く眩しい光はゆっくりと穏やかになり、彼は細めを開けていくと其処は確かに舞台の上だった。人気の無い観客席は灰色に染まってまるで絵画の様にも思える。彼は急に身震いをしだしてから膝を曲げ、頭を両手で抱えてため息をもらした。
「うわ、こんな所で寝てたらまた団長に怒られる…」
「怒らないよ僕は」
「彼方じゃない、団長って言ったでしょ」
「だから僕は怒らないって」
彼は苛立ちながら立ち上がり、抱えていた掌で今度は頭をかきむしりながら男の顎先を睨みつけて声を荒げた。団員も観客も誰もいないステージ上では声が大きくサーカスのテント内に響き渡る。
「だからお前じゃないって言ってるだろ!? 誰なんだよお前は!?」
男は細い眉と薄い唇を八の字に曲げてから答えた。
「何ともお粗末な自己紹介だな、まずは自らを名乗るのが礼儀では無いのかな」
「うるさいな、一体何様なんだよ」
男は罵る彼にうなだれてため息をつくと両手を腰にやった。そしてまたゆっくりと顔を上げてからニヤリと笑って彼を上目で見つめる。
「仕方が無い、僕から自己紹介をしようか、僕の名前はクラウン。クラウン・ディオニュソスという奇術師だ」
彼は男の名前を聴いて鼻で笑った。クラウンとはフランス語の発音で道化師、ディオニュソスとはギリシャ神話における演劇の神の名だ。たまにいるのだ、大層な名前を語ったピエロもどきが。彼はそう思いながら口を開いた。
「俺の名前はツェペロン・ロロルだ。で、その神様が一体何の用だよ」
クラウンは白い手袋をはめた掌を合わせた。パンッという乾いた破裂音が静かな舞台の上で木霊していた。
「ツェぺロン君。僕は、君を一人前にしにきたんだ」
ツェペロンはクラウンの言葉に耳を疑った。見た事も聴いた事も無い男がいきなり自分の前に現れて自分を一人前にしにきたと言っていることに。クラウンは屈託の無い笑顔のままツェペロンの驚きの表情を伺っていた。再度クラウンが口を開こうとしたその時、
「ふざけるな!!?」
ツェぺロンは拳を振り上げて男の頬を殴った。男はそのまま吹き飛んで舞台袖に消えた。肩を弾ませ、息を荒げながらツェペロンは胸元に掲げた拳を見下ろした。拳は全く赤くない、殴った感覚が無いのだ。
「君は君の動物にも拳を振るうのか? それなら君の命令を聴かないライオンの気持ちが解るなあ」
吹き飛んだ方向と逆の方向から声がした。ツェペロンは驚いて振り返ると其処には左腕に丸箱のクッキー缶を抱えたクラウンが姿勢良く立っていたのだ。一つのクッキーを頬張るとクラウンは開いたクッキー缶をツェペロンに向け直した。中には五色程に色分けされたクッキーが入ってある。ただし、一種類だけ残り僅かなのだが。
「僕のお気に入りの国のクッキーなんだ。食べるかい?残念だけどこの虹色のマーブルが埋め込まれたクッキーは僕専用だからあげられないよ」
「今、あっちに飛んでいったじゃないか!? 一体、どうやって…?」
「【一体どうやって】。今、君はそういったねツェペロン」
ツェペロンはクラウンがクッキーを口に放り込んでゆっくりと噛み砕いてから喉に飲み込む姿を見ていた。すると、いつの間にかクラウンはあの大きな丸箱のクッキー缶を抱えてはおらず、代わりに二つの鞭を左腕に掛けていた。一つは細い黒革が編み込まれ、銀の粉飾が施された立派な代物。もう一つはいつもツェペロンが調教練習で使っている使いこなされた古びた革の鞭だった。
「【一体どうやって】。これ程我々が御客様に思って頂けて光栄な感情は無いだろうツェペロン。君も子供の頃、そう思い、それに憧れて、この世界に入ってきたんじゃないのかな」
クラウンは白い手袋をしたその細い指をピッと延ばしてツェペロンを指した。思わず後ずさってしまう。
「僕は、君を、一人前にする為に来たんだよ。ツェペロン」
クラウンは笑った。えくぼの外側には乾いた涙の後の様な傷痕が薄らと光ったように見えた。
「違う! それじゃただ鞭を振るっているだけだ! もう一度だ!」
ツェペロンは先程の恍けたクラウンと指導時のクラウンとの雰囲気の違いに戸惑いを感じていた。
古びた革の鞭を必死に振るって目の前にいる宿敵、オクトロスに調教練習を続けている。無理矢理起こされたオクトロスはただでさえ機嫌が悪い、オクトロスは上目でツェペロンを睨みつけながらやる気なく後ずさりを繰り返していた。クラウンはその様子を見ながら後ろで腕を組み、靴のヒールを鳴らしてツェペロンを怒鳴りつける。
「何度言えばわかるんだ!?」
ツェペロンは堪らず鞭を床に投げつけ、隅の柱に座り込んだ。ポケットからくしゃくしゃに折れ曲がったタバコを取り出して火をつける。クラウンは黙って彼の投げ出した鞭を拾った。
「やってられるかよ! 俺は才能が無いんだ! 明朝の列車で俺は母さん達と一緒に村に帰ってやる!」
クラウンは何度も毒つくツェペロンの前に立ち、鞭を彼に差し出した。タバコの煙が顔を掠め、クラウンは微かに目を細める。
「それで、オクトロスはどうするんだ?」
ツェペロンは鞭を差し出されたクラウンの右手を払いのけ、声を荒げた。こんな優男にまで…と彼は思っていた。オクトロスは二人の光景を眺めていた。笑っている様に見えた。どいつも俺を馬鹿にしやがって…と、彼は思ってしまった。
「知るか、そんな爺ライオンなん…」
ツェペロンがオクトロスを罵しろうとした次の瞬間、彼の口と鼻を何かが塞いだ。驚きと恐怖で顔を赤く染めながらツェペロンは転がり、両手で口に張り付いた何かを掴み上げ、必死に引き剥がそうとする。皮膚の様にへばりつく何かは全く剥がれる気配を見せない。ツェペロンは必死に助けを求めた。クラウンは両手をポケットに忍ばせ、なにくわない表情で眺めていた。
「苦しいか?」
そう告げるクラウンの声は夜の闇の様に暗かった。だが、彼の瞳はまるで自分の猜疑心や恐怖心さえも覗かれているかのように鋭く尖ってみえた。そう感じながらも呼吸が出来ないツェペロンは汗を噴出しながら涙目で頷く。その時、クラウンは微かに笑いながら左手をポケットから出して鞭を握り、ツェペロンの顔の直ぐ傍に振るい叩きつけた。子供の頃、嵐の日に母親にしがみつきながら聴いた落雷音の如き轟音が静かなステージの上で木霊し、ツェペロンの瞼は鉛の様に重くなって彼の視界は闇の中に消えた。
「気がついたかい? さあゆっくりと飲むんだ」
ツェペロンが目を覚まし、顔を上げるとそこはオクトロスの檻の前だった。オクトロスは檻の中で体を揺さぶりながら寝息をたて、隣には積み上げた藁に座って右手をポケットに入れたクラウンがカップを手渡してきた。中にはミルクがたっぷりと入っている。
「これも僕が好きな国の代物なんだ。凄く美味しいんだよ」
クラウンは星の模様が入った紺色のカップを左手に持ち、ミルクを啜っていた。ツェペロンは手渡されたカップに口をつけてみた。濃厚な液体が喉から胃へ絡み付き、胃から体の中に染み込んでいく。ツェペロンはあわてて残りのミルクを一息で飲み干すとクラウンは次にタバコを手渡した。クラウンがタバコの先で指を擦るとタバコは既に火が点り、ツェペロンは驚きを隠してタバコを吸い、声を発した。
「俺は、…一体…」
「口に張り付いていた【何か】の正体はこれさ」
クラウンはそう答えてカップを逆さまに持ち替えた。ツェペロンがあっと叫ぶと同時にカップ中からは白いミルクの変わりに白い手袋が落下してきたのだ。ツェペロンは皺くちゃの白手袋を呆然と眺めていると、頭の奥で沸々と怒りが湧き上がるのを感じた。全てはこの奇術師のトリックだと思ったのだ。タバコを落として立ち上がり、震える腕でクラウンの襟を乱暴に掴んだ。
「…このやろ…!!」
「調教師に必要な理(ことわり)が何かわかったかい?」
突然のクラウンの問いにツェペロンの怒気は一瞬にして消え去った。クラウンはツェペロンの腕を優しく払いのけて言葉を続ける。
「【雷の目】【炎の身体】【氷の鞭】【風の心】。これが僕の父であり、師である先代から受け継いだ言葉だ」
クラウンは立ち上がって指を鳴らした。するとオクトロスの檻に付く施錠が独りでに外れ、中にいたオクトロスはゆっくりと立ち上がり檻の外に抜け出た。立っているクラウンの足に身体をなすりつけながらまた横になり、静かに寝息をたて始めた。
「君は、オクトロスに暴力をふるっているね」
クラウンがそう告げながらオクトロスの鬣(たてがみ)を撫でているとツェペロンは動きを止めた。先程と同様に汗が噴き出る。動悸も激しくなる。彼はこう思っていた。何故、この男が知っている…と。
「それもかなり陰湿だ。他の団員が寝静まり、オクトロスを檻の中に入れ、自分が安全と確信してから柵の間から長棒やこん棒で刺したり殴りつけるなんてね。肌の露出が少ない鬣部を狙えば担当の君以外に気づく団員もいない。調教師長さえ気付かない理由はオクトロスは君以外の調教師にはいつも通り素晴らしい演技をするからだ」
クラウンがオクトロスの鬣をそっと上げると肌にはいくつかの傷や紫色になった打撲点が見えた。オクトロスは天気の良い昼間に屋根で寝そべる猫の様に静かに目を閉じている。ツェペロンは糸の切れた操り人形の様にへたりこんだ。口から大きく息を吐き出す。まるで生気が一緒に抜け出ている気分を感じた。
「僕は生まれながらにして奇術、道化学、調教、人形術、音楽、軽業、役者学、等々の様々な訓練をこなしてきた」
クラウンがポケットから抜いた右手を見てツェペロンは更に言葉まで失った。あの綺麗な白手袋の中身は無数の傷や打撲痕、火傷跡が広がっていた。
「掌だけじゃない、僕の身体は何処もこんな感じだ。傷一つ無い部位は…無いね、顔にもあるし」
クラウンははにかみながら指で目を縦に横切る傷を追った後、白手袋を拾い上げて右手にはめこんだ。装着した手袋は皺一つ無く、遠目では肌としか思えない。
「君にはそれを実践した。心をも折る雷の目、手袋をテープの様に貼り付けさせる炎の身体、失神させる程の恐怖を与える氷の鞭、そして…今の君が最も忘れているものが、自分の不甲斐なさを受け入れ、相手の失態を全てを許し風の様に受け流してあげる風の心」
クラウンは優しくオクトロスの頭をポンポンと叩いた。するとオクトロスはゆっくりと起き上がり、へたり込むツェペロンの眼前に立塞がった。オクトロスの瞳は悲しそうな、何かを訴えたそうな強い光を帯びていた。
オクトロスの瞳にはツェペロンが映っており、彼はそれを見て初めて自分が涙を流している事に気付いた。
「初めてオクトロスを出会った日を思い出すんだ。それは担当になった日? それとも調教師見習いを始めた日? それともこのサーカスの団員になった日? それとも…」
「…村で、サーカスを見た時…俺は調教師に憧れた…オクトロスが火の輪をくぐって…オクトロスが小さなボールの上に立って…オクトロスが立ち上がって…」
オクトロスはゆっくりとツェペロンの顔に近づいていく。
「そう、君は、オクトロスの調教師になりたかったんだろう。彼は沢山いる子供達の中でも最も自分の演技に目を輝かせて見ていた少年を覚えていたんだよ」
オクトロスは鼻をツェペロンの額に当てた。ツェペロンは人目も気にせずオクトロスに抱きつき、大声をあげて涙を流した。
「風は意地悪だ。全く吹かない時もあれば今の様に激しく吹き荒れる時もある。だけどね、僕達はその風をコントロールしなくてはいけない。僕達は皆で一人なのだから」
ツェペロンが流す大粒の涙はオクトロスの鬣を濡らしていく、オクトロスはその涙が今迄の傷を癒す良薬の様に思えて成らなかった。
「うん、良くなったんじゃないかな。ツェペロンは筋が良いよ」
あれから一週間が経過した。ツェペロンは休まずにクラウンの調教指導を続け、何処からともなくクラウンが持ってくる料理を頬張り、夜はオクトロスと共に死んだ様に眠った。彼が不思議に感じた事はこの一週間、クラウン以外の誰とも会わなかったことだ。クラウン曰く、皆揃って休暇中らしい。
「公演は明日らしい、今日は早目に寝ておくんだよ」
「クラウン、本当に有難う。あんたがいなければ俺は俺の夢を殺していたかもしれない」
ツェペロンは汗を拭きながら答えると、クラウンは笑い返す。
「さあ、これを受け取りたまえ」
クラウンは何も持っていない右腕を後ろに反り、鞭を振るう様に前に突き出すとバチィィという音が床から鳴り響いた。右手には出会った日にクラウンが持っていた銀飾の鞭が握られていた。ツェペロンは驚いて手を振るう。
「それはあんたの鞭だろう、受け取れないよ」
「僕の鞭だ、だから君以外に振るってほしくないんだよツェペロン、僕が指導出来るのは今日迄なのだから」
「えっ…」
ツェペロンが目を覚ますとそこはまたオクトロスの檻の前だった。テントの開いた部分から日光が差し掛かり、ワインの空ボトルが光を反射しながら床に転がり、手にはかじり掛けのサンドイッチが握られていた。当然、オクトロスは未だ寝息をたてている。ツェペロンはサンドイッチを手放して頭を振るった。背筋に悪寒が走る。
「嘘だろ…夢…?」
堪らず起き上がった時、一際光を反射する物が藁の上で光り輝き、ツェペロンの目を照らした。擦りながらその何かに目をやるとそこには丸められたあの銀飾の鞭の一枚のカードが置かれていた。
『Just one, I was cast a magic on you. Good bless thuperon』
その日、ツェペロンは駆け足で駅に向かい、朝一番の列車を待っていた両親を引き止め、今夜の公演だけは見ていってほしいと懇願した。ホテルに泊まっていた友人達にも今夜は必ず成功させると説得し、サーカス団長にもし今夜の公演を失敗すれば自分は団員を辞めるとまで言い切った。ツェペロンは未だ半信半疑だった。だが体中についた訓練痣、今朝からのオクトロスの表情、なによりもベルトに下げたクラウンの鞭がツェペロンの背中を支えていた。
公演間際、衣装を着こなし、落ち着き無く舞台袖を歩き回っている。
「ああ、駄目だ、身体が動かない」
少量の酒を飲み、身体は少しばかり熱く滾っていた。だが、前回の様な事になればという不安と恐怖感が頭の中から抜け出せずにいたのだ。先輩の大道芸人が演目を終え、大きな歓声が聴こえた。いよいよ、ツェペロンの出番が来たのだ。
頭が白くなり、軽い吐き気を感じたその時だった。
『シッカリシロ、ツェペロン』
後ろを振り向いた。後ろには背筋を伸ばし誇らし気にツェペロンの目を見据えるオクトロスがいた。
「…お前、今…、返事を…」
『魔法ガ効クノハ公演中ダケダ。アノ時の笑顔ヲコノ老イボレ二見セテオクレヨ、少年』
オクトロスは、笑いながらそう呟いて先にステージに上がった。割れる様な歓声が聴こえる。
ツェペロンは、笑いながら溢れ出そうになる涙を袖で拭った。右手にはしっかりとあの鞭を握っていた。
こうして、少年とライオンは光と歓声の中に姿を消した。
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「…というわけだ」
玉座に座り、147杯目のワインを飲み終えた時、団長の話は終局を迎えた。
その時迄団長の話に着いて来れたのは延べ13人。残りの団員は皆酔い潰れてしまっていた。エドワードは148杯目のワインを注ぎながら笑顔で質問をした。
「その時の魔力は相当なモノだってしょうな」
「ああ、【サーカスによる増幅された人間の夢や歓喜が僕の魔力になる】っていうのは最高の美味さだよ。今回の子は本当に良く頑張っていた、彼はきっと大物になるよ」
「いいなー、団長様。私も人間界に行きたいです」
パムは玉座の肘掛に跨りながら団長のお土産という花柄の鏡で自分を写していた。その鏡に団長がもう少し大きくなったらねと口を動かしながら笑いかけ、自分の頭を撫でる姿を見て思わず赤面させる。
「う゛う゛う゛…」
「ポロム、まだ泣いているの?」
「だっで、だっで…」
エドワードがポロムの涙を拭うが大きな瞳からは未だ涙が枯れることは無かった。
「ぼん゛どう゛に゛よ゛がっ゛だん゛でずも゛ん゛」
「王様…申し訳御座いません!!」
団員の一人が立ち上がり、広間を一気に駆け抜けていった。遠くからは嗚咽の音が微かに聴こえ始める。
残り12人は皆が皆、サーカスの各演目の長ばかりであった。
「あいつ結構頑張ったな、次の給料を多少アップさせてやろう」
「というかもう団長に付き合うの止めようぜ、あの人化け物じゃねえか」
「ボルドー、失礼。否、化物。御方、神」
「演劇の神ディオニュソスっちゅうのは酒の神バッカスと同一視やからな」
「さて…」
団長は148杯目のワインを一気に飲み干してから立ち上がった。満面の笑みでワイングラスを振るとワイングラスは光を反射させて透き通った輝かしい鞭に姿を変えた。その鞭を見たボルドーは一瞬にして表情を強張らせる。
「ボルドー調教長、今宵は気分が良い、威勢のいい奴を何匹か連れてきてくれ」
ボルドーはため息をついて立ち上がり、調教動物室に続く廊下へと姿を消した。他の演目長達も笑いながら立ち上がって酔い潰れて寝ている団員を起こして回る。
「さあ、次の公演まで時間が無いぞ」
白い砂漠をひたすら走るアルレッキーノ。大道芸船は大宴会船に姿を変えた後、大訓練船へと変貌するのだった。
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2006/11/21(Tue)12:42:31 公開 / Red Bull
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■作者からのメッセージ
初めましてRed Bullです。
何とか完結しました、風の心、今の人間ってあまり持ってないですよね。
虐待、自殺、etc
少しでも何かに気づいていくれる事を願っています。
なんてこんな↑格好良い事を言ってみたり(笑)
クラウンの旅はここで終える筈だったんですけど細かな設定が
どんどん考えちゃったんでとりあえずもうちょっと続けようかなと。
小説を書いたのは初めてですが感想、宜しくお願いします。