- 『森の泉の守り神』 作者:碧 / ファンタジー 童話
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原稿用紙約15.3枚
ああ、珍しい。旅のお方かね。あの森を通って行く気かい?
森に入って少ししたところにある、澄んだ泉に気をつけなさいな。
まぁ、そんな顔をしてはいけませんよ。別にあんたから、何か取って食おうなんて、私にゃそんな気はないからね。
もしも旅を急いでいないのなら、ちょっと一休みして、この婆の昔話を聞いていけばいい。
何、短い話さ。たいした話じゃ、ないよ……。
突然どこからともなく現れた老婆に、旅人は少々面食らって思わず身構えた。しかし、相手は人懐こそうな小さな老婆である。そう警戒することもないだろうと、すぐに思い直した。
老婆は旅人の心を読んだかのように、木陰のやわらかい草の上に腰を下ろすと、隣に座るようにと手招く。
歩き疲れていた旅人は、素直に老婆の隣に腰を下ろすと、黙って話に耳を傾けることにした。
老婆は、どこか遠くを見つめたまま、ゆっくりと話始めた――。
昔から、あの森の少し入ったところに、とても澄んだ深い泉があるのです。
この先に見える村、あそこの住人たちは、この泉を深く信仰しております。泉には村の守り神いて、村を守っているのだと。
守り神の姿を見た者は誰もおりません。それなのに、誰も見ていない時に美しい娘が水浴びをしているとか、満月の夜にはすすり泣くような声が聞こえるとか、そういった噂は、昔から今に至るまで、あの村ではずっと語り継がれています。
ですから、森に入る村人たちは、必ず泉に立ち寄り、祈りを捧げることを忘れないのですよ。
木の実を集めに森に遊びに来る子どもたちも、もちろんです。
そして恋人たちは、誰もいないときを見計らってはこの泉の前に立ち、愛を誓います。そうすれば、二人の愛は永遠に泉の神に守られるという言い伝えがあるからです。
ある年、日照が続いたわけでもないのに、泉の水が突然涸れてしまったことがありました。
村人たちは不安になりました。このままでは村に災いが降りかかる。誰が言い出したのか、そんな噂で、村中大騒ぎになりました。
村で一番の年寄り、物知りばあさんが、言いました。
「私の祖母がこどもの頃にも、突然泉が涸れたことがあったが、村で一番美しい娘を泉に捧げると、元に戻ったらしい」
それは物知りばあさんが子どもなりし頃、まことしやかに流れた噂の一つでした。
しかし村人たちは、そうするより他に泉を元に戻す方法はないと頷き合いました。
ここで困ったことになりました。村で一番美しい娘が誰なのか、なかなか決めることができなかったのです。
皆、自分の娘や恋人が、守り神に捧げられる娘に選ばれませんようにと、そればかり考えていたからです。
そこで、誰かが言い出しました。
『村で一番美しい娘は誰か? 』
この質問を村中の男にしてみてはどうかと。
質問を受けた男は皆一様に、「分かりません」と答えました。自分の愛するものを犠牲にするのはもちろん嫌でしたし、だからといって、一番美しいと思う娘の名前を答えて、誰かに恨まれるのも嫌だったのです。
ここに、村一番優しくて、村一番働き者で、村一番正直な若者がおりました。
「この村で、一番美しい娘は誰か? 」
その呪われた質問に、若者は、胸を張って応えました。
「私の婚約者です」
彼は村で一番美しい娘が泉の神に捧げられるということは理解していましたが、自分の答えが、婚約者を不幸にするということまでは、考えが及ばなかったのでした。
そこで、この正直者の婚約者、村一番美しいとされた娘が、泉の守り神へ捧げられることになりました。
娘は、確かに村で一番と言って良いほど美しい姿をしていましたが、自分の名をあげた婚約者を心から許し、自ら守り神に捧げられることを喜ぶほど、心まで美しく澄んでいたわけではありませんでした。
娘は泣きました。うら若い乙女の身で、人生のうちで一番美しい時期に、守り神に捧げられることになった自分の運命を嘆きました。
なにもかも、あの男が悪いのです。そう思うと、涙がこぼれました。そして、彼を愛してしまった自分も、同じくらい悪いのだと思うと、さらに涙が溢れました。
村人たちは、美しい娘が逃げ出さないように、しっかりと縛り上げました。
そして満月の夜、枯れてしまった泉の底に向かって、可哀想な娘を投げ込みました。
泉は随分深かったらしく、娘の姿は一瞬で暗い泉の底に消えてしまいました。
その後どうなってしまったのか、誰にも分かりませんでした。
一方娘は、体中をあちこちに打ちつけて、傷だらけにはなりましたが、泉の底に打ち付けられても、まだ生きていました。
娘が目を開けて、夜の空に向けると、銀色の満月が娘を心配そうに覗き込んでいました。
泉の底は、真っ暗で、あたりを見回しても、何も見えません。
娘は、しくしくと泣き出しました。
すると、娘のそばに、誰かが近寄ってくる気配がありました。娘は怯えて逃げようとしましたが、手足の自由を奪われているので、どうすることもできません。声を出すこともできずにもがいていると
「今日からは、おまえが私の代わりに泣くんだよ 」
しわがれた声が聞こえて、ぼんやりとした光が娘の視界を広げました。
小さな老婆が、縛られて横たわったまま泣いている、可哀想な娘のそばに立っていました。老婆の体は、弱い光にうっすらと包まれていて、その光があたりを照らしているのでした。
「私の涙は、もう一滴も残っていない。だから泉も涸れてしまった」
娘は、泣くのをやめて、恐る恐る老婆を見ました。その顔にはたくさんの皺が刻まれ、真っ赤に充血した小さな二つの瞳が、
彼女を見下ろしていました。
「泣いて泣いて涙が出なくなったら、次の娘と交替して、やっと楽になれるというわけさ」
老婆はそう言うと、娘を縛っていた縄を解きました。
「おまえさんは、泉の守り神になるんだよ」
「私は、帰りたいんです! 」
娘はそう言うと、激しく泣き出しました。娘の涙は、後から後から湧いてきて、次第に彼女の体をその涙で沈めていきました。
老婆は満足そうに頷くと、
「後は任せたよ」
そういい残し、泉の水に溶けるようにして、一瞬小さな髑髏に変わると、そのまま消えてしまいました。
泉は、娘が捧げられてから一晩で、元通りになりました。
村人たちは驚き、前よりもいっそう泉に敬意を払いました。子どもたちも、泉の前を通るときは、必ずそのほとりに立ち、
「いつも村を守ってくださってありがとうございます」
そう言うのを忘れませんでした。
そうしないと、泉の守り神が泉の底から手を伸ばし、子どもを深い泉の底に引きずりこんでしまう。そんな噂が流れたからでした。
泉の守り神にされてしまった娘は、毎日毎日、泣いて暮らしていました。
彼女のかつての婚約者は、彼女が泉に捧げられてからというもの、毎日やってきて、長い間泉のほとりで泣いていました。
その姿を見て、娘は泣きました。
そのうち、男はしばらくやってこなくなり、娘は寂しくて、また泣きました。
男は新しい恋人を見つけたのでした。
そして、かつての婚約者が毎日涙を流して守る泉のほとりで、新しい恋人と愛を誓い合いました。
その姿を見て、また娘は泣きました。
男の妻となった娘は、優しい心の持ち主でした。折にふれては、美しい花やもぎたての果物を持って、泉に捧げにやってきました。
「あの人と私を許してください。そして村をお守りください」
その祈りを聞く度に、娘はまた、静かに泣きました。
娘にできることは、泣くことだけでした。泣いて泉を守ることだけでした。
守り神だからといって、村を守れるわけではありません。本当に村を守っているのは、村を守りたいと願う人々の心だけ。その心を保つためだけに、泉の存在が必要なのでした。
今や、泣くことしかできない泉の守り神となった娘にだけは、よく分かっていました。
泉は、いつも澄んだ水をたたえて、静かにそこに在り続けました。娘の涙が、後から後から湧いて出るからでした。
ここを訪れた人々は、泉の美しさにため息を漏らし、その美しさを絵に描いたり、詩にしたり、音楽にして泉に捧げましたが、その美さの源が、一人の不幸な娘の涙だということには、誰も気づかないのでした。
かつての婚約者の子どもたちが、泉のそばで遊ぶようになると、娘はときどき、泉の底から、無邪気に戯れるこどもたちの一人を、
泉の底に引きずり込んでやりたいような気持ちになりました。
泉の底には、先代の守り神が、思い余って引きずり込んだらしい、小さな頭蓋骨がいくつか転がっていました。
でも、娘はそうすることができませんでした。彼女が手を伸ばそうとすると、子どもが笑顔で言うからでした。
「いつも村を守ってくださってありがとうございます」と。
子どもたちの母親が、泉のそばでは必ずそう言うようにと、毎日厳しく言い聞かせていたからでした。
その言葉を聞くと、娘は泉の底に戻って、また泣くのでした。
娘が愛した男の子どもたちは、彼女が静かに見守ったおかげで皆立派に成長し、それぞれ恋人を連れやってきては、泉のほとりに立って愛を誓いました。
男もその妻も、年老いてこの世を去り、その子どもたちもまた、その後に続きました。その子どもたちの子どもたちが、泉にやってきて、祈りを捧げましたが、もう、その頃には、誰が誰なのか、泉の守り神である娘にも分からなくなりました。
そうこうするうちに、娘が知っている村人は、一人もいなくなりました。
そして、娘の涙は、ある日突然枯れてしまったのでした。
娘の涙が枯れると、美しい乙女のままの守り神の姿が、醜く縮んだ老婆の姿に変わりました。
娘は思いました。これでやっと、楽になれると。
泉の水が涸れてしまうと、村人たちは大騒ぎをしました。
その後、泉の底に美しい娘が投げ込まれるまで、そう待つ必要はありませんでした。
泣き続ける美しい娘を、泉の守り神は、気の毒に思い、いろいろと慰めの言葉をかけてやりました。
今度泉の守り神となる娘は誰かによって投げ込まれたのではありませんでした。婚約者の裏切りによって、自ら枯れた泉に身を投げたのでした。
銀色の満月が、心配そうに泉の底を覗き込んでいました。
かつて自分が老婆に言われた言葉を娘に繰り返し、役目を終えた泉の守り神は、静かにこの世を去りました。
その代わりに、自ら身を投げたうら若き娘が、そこで泣き続けました。
そして、一晩で泉はまた元通りの美しい姿をそこに現し、再び尽きることない悲しい涙を、その泉にたたえ続けたのでした。
こうして、昔々の時代から、どこかにあるというその泉は、今でも美しい娘の涙に代々守られながら、あの森の中にあるというわけなのです。
老婆は、旅人が聞いているのかそうではないのかを、気にもしないで話し続けました。
悲しい涙でできていて、誰にもその悲しみを気づいてもらえない泉に、旅人は気をつけなければいけないよ。
もしも、一すくいでも、そこから喉を潤す水を得たのなら、感謝の祈りを捧げ忘れてはいけない。泉の守り神を怒らせてしまうかもしれないから。
それは、見る人にはただの湧き水でも、守り神の悲しい涙。
彼女を怒らせてしまったら最後、深い泉の底に引きずりこまれてしまうのさ。
そして二度と、この世界には浮かび上がって来ることはできないからね。
でもこれも、泉のそばのあの村に、まことしやかに流れている噂に過ぎないのかもしれないねぇ。
信じるか信じないかは、あなた自身にお任せしましますよ。
あら、旅のお方、疲れて眠ってしまったのかね? ちゃんと私の話を最後まで聞いていてくれたかい?
間違っても、次の泉の守り神にされないように、気をつけてお行きよ、若くて綺麗な、旅の娘さん……。
老婆はどっこらしょ、と腰を上げると、すーっと太陽に引き込まれるようにして消えた。
青い草の上に寝転がり、旅姿の若い娘は、気持ち良さそうに眠っている。悲しい夢を見ているのか、その目から、涙が一筋。
彼女はまだ知らない。
これから向かう森の中の、美しい泉がたった今から涸れ始めたことを。
そして、恋人に裏切られ、心傷つき旅に出た彼女を飲み込もうと、今か今かとその口を開けて、伝説の泉が、彼女の到来を待っていることにも。
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2006/10/13(Fri)16:37:48 公開 / 碧
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■作者からのメッセージ
最後まで読んでくださった方にお礼申し上げます。
皇室ってリアルおとぎ話みたいだなぁ、ふとそんなことを思いました。40年も男の子が生まれなかったり、ナイスタイミングで次男の嫁がお世継ぎを出産したり、こうなりゃ、側室制度復活を!なんて言い出す外野がいたり。
泉は皇室。守り神にされる美しい娘は、長男の嫁、村は国、娘の元婚約者は、多分いたであろう元恋人。旅人の娘は次世代の長男の嫁候補。そんな風にも読めなくもないかも。
でも、皇室批判しようとか、打倒皇室とか、そういう気持ちはありません。単純に、おとぎ話みたいだなと感じただけです。
これを書く前に、皇室のことを思い浮かべていたのか、書いた後にそう思ったのか、どっちだったのか、自分でも分からなくなってしまいました。
ああいうところに嫁に行くと、本当に大変だろうと思います。今までに何人もの娘が、ど辛い思いをして、陰で涙を流してきたに違いありません。それは、皇室じゃなくても、「嫁」という立場になれば、多かれ少なかれ、あるのかもしれませんが……。