- 『「あかしあ」の夜』 作者:碧 / ショート*2 恋愛小説
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原稿用紙約7.8枚
「言わなくても分かるだろ」そう言われ続けた少女。彼女は言葉のない世界を理解しようとした。「言わないと分からないでしょ」?そういわれ続けた少年。彼は自分を言葉にしようとした。でも、彼は何も言えなかった。そんな二人が、小さな街の小さな居酒屋で出会った。 見詰め合うこともなく触れ合うことなく、時だけが過ぎて。
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小さな街の小さな駅の裏に、寂れた商店街がありました。
そこにひしめき合うように、小さな店が並んでいます。
中学校を卒業したばかりの少年が、一つ年上の少女と出会ったのは、そんな場所にある、小さな居酒屋でした。
軒先に下げられた赤提灯の上、トタンの壁に白いペンキで書かれていた店の名は、随分昔にに剥がれ落ちてそのままです。
少年はこの店の調理師の見習いで、少女は女将を手伝って、注文を受けて酒や料理を運んだり、皿を洗う仕事をしていました。
ここで三十年も夫婦二人で居酒屋を営んで来た大将と女将は、客商売をよく心得ておりました。どんな客にも愛想よく接し、無礼な客の我儘にも、決して笑顔を忘れません。ですから、店はとびきり繁盛しているとまではいきませんでしたが、会社帰りの常連客だけを相手にしていても、客に困ることはありませんでした。
毎晩、最後の客が帰ってしまうと、夫婦はふっつり黙り込みます。金にならない笑顔は無駄だと言わんばかりの表情で、店の後片付けをし、売り上げを数えるのです。
彼らは、少年と少女に辛く当たることがありました。辛くあたってやろうと思ってそうしていたわけではありません。金を払って雇っている従業員に対して、金を置いていく客と同じようするつもりがないだけでした。
二人の仕事振りに少しでも落ち度があった日は、情け容赦ない仕打ちが待っていました。しかし、幼い頃からそういったことには慣れていた二人は、文句も言わずに毎日黙って働き続けていました。
少年も少女も、無口で臆病でした。二人は、会話を交わすことはありませんでした。その必要を感じなかったからではありません。そうしたくても、何を話していいのか分からなかったからでした。
二人の毎日は単調に過ぎていきました。客が来て、客が帰り、雇い主夫婦に罵られ、疲れた体を布団に横たえて眠り、また朝が来る。それだけ、でした。
秋も深まりつつあった晩のこと。少年は客の使いで店を出ました。少し先にある自動販売機で、煙草を買ってきて欲しいと頼まれたのでした。ガタガタと音を立てる店の引き戸を閉めて、彼は客から預かった千円札を、少し強く吹き始めた、夜の秋風にさらわれないようにと、しっかりと握り絞めました。
そうして彼はふと、何かの気配を感じて、店と隣の店の間の、細く薄暗い空間に目をやりました。
薄汚れた街灯の光が、不規則に点滅していました。それは彼がその光を最初に見上げた日から、ずっとそのままでした。弱弱しい光は、暗闇の奥までをはっきりと照らしはしませんでしたが、彼を立ち止まらせるような光景を、ぼんやりと照らし出すには十分でした。
先ほど、しこたま酒を飲み、奥さんの悪口と幼い娘の自慢話をして、上機嫌で店を出て行った常連客の一人と、その後すぐに、女将になにやら用事を頼まれて店の裏に出た少女が、暗闇の中に妙な形に絡み合うのが見えました。
少年の目には、巣から落ちて動けなくなった瀕死の雛鳥を、大きな野良猫が面白半分にいたぶっている、そんな様子に見えました。
少女は無抵抗でした。嫌がっているような素振りもなく、助けを求めているようでもありませんでした。それでも何故かその時、彼は見てみぬ振りをして、その場を通り過ぎることができませんでした。
少年は、少女のそばに駆け寄ると、千円札を握りしめた手を、彼女の目の前に突き出しました。
スーツ姿の常連客は、おや、というように少年を見ました。
「煙草、買ってきて欲しいって。ミウラさんが」
少女はしわくちゃになった千円札を受け取り、はだけた胸元を素早く直しながら、こくりと頷きました。そして、彼だけに聞こえるように小さく、ありがとう、と言いました。でもそれは、彼の空耳だったのかもしれません。
手ぶらで店に戻った少年を、大将と常連客のミウラさんが、不審そうな顔で出迎えました。そのすぐ後に、煙草を買って帰ってきた少女を見ると、女将は少年の顔を、意味ありげな視線で睨み付けました。
「変な気回して野暮なことするんじゃないわよ! 」女将は少年の耳元で、吐き捨てるように言いました。
少女は、しばらくしてから店を辞めてしまいました。あの常連客も二度と現れませんでした。
スーツ姿の男と、二人連れ立って歩いていたのを見たとか、結婚したけれど、旦那によく殴られているとか、離婚した後、隣町のあまりいい話を聞かない店で働いているらしいとか、店の常連が噂をするのを、彼はたまに耳にすることがありました。
毎日は、相変わらず単調に過ぎていきました。少年は、いつしか少年ではなくなっていました。
何年かして、大将が病に倒れて働けなくなった頃には、、彼は一人前に店を切り盛りできるようになっていました。それから何年かして、女将もこの世の人でなくなると、子どものいない叔母夫婦の店を、養子の彼が引き継ぎました。
彼は、調理師としての腕は悪くありませんでしたが、客相手に笑顔の仮面をつける方法を知りませんでした。店の常連客も次第に現れなくなり、ついには、客が一人も来なくなりました。
それからは、商売用の酒を飲みながら、たった一人で店に座るだけの毎日でした。
誰も来ないのは分かっていましたが、他に何をしていいのか分からなかったのです。
ある日、ガタガタと音をさせながら店の引き戸が開いて、でっぷりと太った、けばけばしい中年女が入ってきました。ぐるりと店を見回し、たった一人所在無く酒をあおっていた彼を見ると、彼女は狡猾そうな目に、少しだけ優しい光を灯して言いました。
「良かったら、うちの店で働かない? 」
かつて少年だった男は、首を横に振りました。
「そう……」
かつて少女だった女は、そう言うと、黙り込みました。
随分昔に、二人の間にいつもあった沈黙が、そこにありました。
「じゃあ、お酒と、何かおつまみを」
女はカウンターの椅子に座り、男は無言で女の注文を受けました。
「この店の名前って、「あかしあ」って言うんだよね」
かつて少女だった女は、はがれたままの白いペンキを思い浮かべながら言いました。
「女将の好きな花だったそうですよ。似合いませんね。この店にも、あの女将にも」
男は、少し酔っていたようで、普段よりも少しだけ長い返事をしました。
二人は、心の奥底でずっと望んでいたのでした。
二人だけの空間で、二人きりで会話をしたいと。
でも、実際にその機会が訪れた今、これが二人にとって精一杯の、最初で最後の会話でした。
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2006/10/07(Sat)21:19:43 公開 / 碧
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■作者からのメッセージ
アカシアの花言葉は、「プラトニックな愛」なんですって。
プラトニックって私はなんとなく、悲しいものに思えてしまうんです。相手に何も望まない愛なんて、不自然。
無理。私には絶対に無理。
そんな気持ちから書きました。
読んでくださった方に感謝します。