- 『天国を探しに 完』 作者:水芭蕉猫 / 異世界 ファンタジー
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全角63543文字
容量127086 bytes
原稿用紙約170.4枚
男二人と犬一匹が天国探しの珍道中。そんなSS連作異世界電波ファンタジー。
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空
突き抜けるように高く哀しいくらいに紅く染まった空は、どこまでも遠くへ広がっている。白いはずの筋雲は沈みかけた陽光に反射し見えないくらいに細く紅く、けれど向こうの山の頂上付近は既に夜が侵食しているかのように濃紺色に染まっている。
ざぁっと吹き抜ける風の音。
俺は白い柱に背をもたれさせ、木切れを拾って燃やした炎にあたっていた。時折パチリパチリとはぜる音が、妙に心地よい。
「ごらん犬。綺麗だね。見えるかい? 綺麗だろう?」
炎の向こう側に座っている深い鳶色の髪した俺と同じ歳くらいの二十三、四に見える男。メノスが、背負っていた犬を崩れかけた床に下ろし、くすんだ象牙色のマントで包むように抱き寄せて、朽ち果てた神殿の大理石の隅に座って山の下に広がる川や森や、夕焼けによって真っ赤に染まった空や向こうに見える平原を指差しては大した反応も返してこない犬に話しかけていた。
ここは太古の昔に作られた神殿で、直前に立ち寄った村では神の舞い降りた場所として伝えられてきたらしいが、実際来て見ればそこはもう神殿とはいえないくらいに何も無い丘だった。せめて廃墟として屋根付きの建物くらいは残っていればもう少し探しやすかったのだが、四方六メートル弱の白い大理石の床一部と、同じく大理石で出来た数本の白い柱以外何も無くなってしまっていたそこは、神殿跡地としか言い様の無い場所だった。しかも、その大理石とてきちんと残っているわけではなく、何かの彫刻が施されていたであろう柱の数本は真ん中より下からぼっきり折れてしまっていたし、床だってもうボロボロで蔦類の雑草が幾本ばかりか這っていた。大きい建物だからすぐ解るというよぼよぼの村の爺さんの言葉をメノスがうっかり鵜呑みにしたせいで、ここを探すのに半日もかかってしまった。いや、実際何度もここは通ったんだ。俺はここで間違いないといったのに、あの馬鹿はコレは屋根が無いから建物じゃないと言い張った。おかげで彼が納得するまで何度も何度もこの辺りをぐるぐるぐるぐる回るハメになってしまったのだ。この丘の周りには建物の跡も何も無いというのを何度も確認して、ようやくメノスはここがその神殿だということを理解した。理解したのは良かったが、その時点で既に夕方になっており、村に戻るには少々遅すぎる。だから俺たちはこの神殿跡地の大理石の上で野営をする事にした。さっさと理解してくれたら村に戻ってベッドで眠れたのに。
思い出してイライラしてきたので、八つ当たりみたいに木切れを一本炎の中に投げ入れた。パチリともう一度炎がはぜる。
「犬、あっちが今まで来た道だよ。あっちがさっきの村かな。あ、でも犬は天国じゃないところにはあんまり興味が無いかな。でも、ここはとても、綺麗だね。うん」
神殿跡地以外には何にも無い静かでなだらかな丘に、ゆったり犬に語りかけるメノスの低くも高くも無い声だけが風に乗って通り抜ける。
『犬』というのは、本当の犬ではない。
真っ白な絹のローブに宝石やら金属やらの装飾品をじゃらじゃら付けた十五か六くらいの少年で、耳に掛かる短いさらさら金髪で蒼い目をした、男にしておくのは勿体無いくらい物凄く綺麗な顔をしている人間だ。細い眉に薄い唇はどこか人形のようで、これで少し愛想がよかったら、少年好きの好事家にはとても高く売れそうだ。いつも怯えたような表情で、虚ろな目をして、どこを見ているのかも定かではないし喋らないし、本物の犬よりも何を考えているのかも解らない。彼のことを、メノスは「犬」と呼んでいる。何故そう呼んでいるのかは解らないが、メノスは犬のことを物凄く大事にしているのはつい最近から旅を共にし始めた俺でも解る。
「おい馬鹿、そろそろメシ食うぞ」
そろそろ本格的に日が暮れ始めたのを確認した俺は、まだ犬に一人ぐだぐだ喋りかけて一向に終りそうもないメノスの茶色い後ろ頭をぽかりと叩く。
メノスは振り向いてへにゃりと笑い、そうだね犬もそろそろお腹空いたみたいだからねと言って、そんなに軽くは無いであろう犬の脇腹に手を回し、その細腕のどこに力が隠されているのか片腕で軽々抱き上げると火の傍にまでずるずるつれて来た。犬の体が揺すられて、いくつも身につけているネックレスやらペンダントが互いにぶつかり合ってじゃりじゃり鳴る。相変わらず虚ろな目をした犬と呼ばれる美少年は、火の傍に連れてこられると、体を曲げていつもそうしているようにうずくまり、ぱちぱち跳ねる炎を氷みたいな蒼い目でぼんやりと眺めているように見えたが、多分やっぱりどこも見ていないんだろうと思う。
俺は食料品を入れた袋から、今朝方村で買ってきた黒パンと水を出すと、メノスに渡した。メノスはありがとうとかこれは美味しそうだね。パンなんて久しぶりだよいつもいつも干したものばかりで口の中がからからになるからねはははなんて長々話しながら受け取るから、俺は少し不機嫌に「も少し黙って受け取れよ」と言ってやる。
「そう言われてもね、人と話をしながら食事をするなんて前まで考えられなかったから何か嬉しくてね」
メノスは笑う。
彼がこういう風に俺に対して無駄に長く話して妙な具合に笑う時は、大抵「犬」と呼ばれる少年がメノスに対して何の反応も返してこなかったときだというのは大して長くない旅の中でなんとなく解っている。だから、長く話して笑う彼が俺はあんまり好きではなかった。何だか彼が無理しているようなのと、何より俺が喋らない犬の代わりにされているようなのが嫌だった。
メノスも最近それを少しはわかってくれたのか、俺が不機嫌そうな態度を取ると少し肩を竦めて無駄に長く話すのを止めてくれた。
「ほら、犬、餌だよ」
俺が黙々とパンを食べていると、メノスは自分のパンを半分千切って犬の傍の地面に置いた。メノスが「待て」と言うのにも関わらず、犬はもぞりもぞりと芋虫が這うようにゆっくり起き上がると、四つん這いになって酷くしんどそうにそれを食べる。上手く噛み千切れないのか、パンのカケラが涎と一緒に糸を引いて地面に落ちたのを見て、本当に頭の悪い犬みたいだなと思った。
「馬鹿だなお前」
と、まるで俺の気持ちを代弁するようにメノスは犬を見て苦笑気味に言った。
見目麗しい聡明そうな美少年が、犬の真似事をしているという時点で色々異常性はあるのだが、俺はその気狂いじみた光景には割と慣れたし、メノスと言えば何故かもうそれはもう人間ではなく犬としか見ていないらしいから、他人にこの光景を見られない限りはまぁなんとも無いだろうと思う。当の犬についてはその処遇についてはどう思っているのか解らないが、何も言わないところを見ると一応満足しているのだろう。
「昔は『待て』とか『お手』くらい出来たんだけれどなぁ」
そういう風にぼやきながら自分のパンを齧るメノスだけれど、犬を見る目はとても優しい。迷惑そうにしている食事中の犬の金色の頭をガシガシと撫でながら、「でもまぁ、俺のことを忘れなければまぁ良いか」と楽しそうに言うメノスは自分の飼い犬を溺愛する飼い主のようにも見えて、それは普通に見れば明らかに異常な光景なのに俺は不覚にもそんな光景が少し羨ましいと感じてしまった。
俺はそんな自分を振り払うように軽く首を振ってから、パンを食い終わって左頬から顎にかけて深い傷跡のあるメノスの顔をやる気なさげにへろへろ舐めている人間犬と、普段はキリっとしているはずが今はアホ面下げて犬を膝に抱いてべたべた戯れ始めたメノスに「手前ら食ったらさっさと寝ないと永遠に眠らせるぞボケ」とドスを利かせて言ってやった。
炎の番をしながら見上げた夜空が、とても綺麗だと思った。思ってから、何かを綺麗だと思える余裕が自分にあるのを知って驚いた。
帝都を逃げ出したばかりの頃は、こういう風に夜空を見上げたり何かを綺麗だとおもう余裕は無かったものだから、時間と言うのは凄いなと改めて思った。
揺らめく真っ赤な炎の向こう側では、メノスが荷物を枕に横になっており、その傍らには眠っているのか起きているのか知らないが、犬が小さくうずくまっている。
一緒に旅をしておいて何だが、俺は彼らをよく知らない。素性どころか、旅の目的だって聞いても何だかよく解らない。何か、天国を探しているというようなことだけは聞いたことがあるが、それだってどこにあるのかなんてのはさっぱり解らないし、それがどんな場所なのかということすら具体的には解らない。たぶん、メノス自身にもよく解ってないんだろうと思う。ただ、メノスの犬に対する溺愛っぷりをみていると、おそらく犬絡みなんだろうなということは何とはなしに察しはついた。じゃなければ、犬を背負って各地を旅をしてはこうやって美しい景色の場所を探して見せて語りかけるという所業につじつまが合わなくなる。
だとすれば、二人のラブラブ紀行にひっついて歩く俺はとんだお邪魔虫ということになるわけだ。
大して長くも無い旅の間に何度も考えたことを、もう一度しつこく考えて、自分はなんて女々しい奴だと一人嫌な気分になってうなだれると、ついぞ先ほどまで眠っていると思っていたメノスがいつの間にやら起きていて隣に座った。
「眠いのか? それなら火は俺が見てるから、リックは寝たほうが良いぞ」
炎に赤々とこちらを伺うような顔を照らされたメノスにそういう風に言われて、俺は即座に「別に眠くは無いさ。考え事をしてただけだ。お前こそさっさと寝たほうが良いぞ。明日ぶっ倒れても運んでやらんからな」と切り返す。
メノスは俺の言葉に苦笑して、大丈夫。三日くらいなら眠らんでも倒れやしないさなんて呟きながら、小枝を一本、二つに折って炎へ入れて別の小枝で掻き混ぜた。
その仕草と横顔が、何だか帝都に住んでいた時代によくつるんでいた親友に似ているような気がして、俺はほんの少しばかり懐かしく思った。俺はきっと、こうやって時折見せるメノスの表情に自分の親友を見ているから彼らの旅についているんだろうと思う。それから、自分を手酷く裏切った人間なんぞを未だに未練がましく思っている自分に気づいて少しだけ泣けそうになった。
「明日も良い天気になりそうだなぁ」
俺の気持ちなんてつゆ知らずのメノスがぼんやり言いながら夜空を仰いだので、つられて先ほどまで見ていたはずの空をもう一度見た。
雲ひとつ無い綺麗な夜空はなるほど、確かに明日も良い天気になりそうな星空だと俺は思った。
スキンシップ
大きな街に立ち寄ったものだから、俺は宿屋に犬を置いてリックと一緒に買い物に出た。町や村では、大型犬は人に怖がられるから犬は大抵部屋に置いて出てくる。心配かと言えば確かに心配だが、犬だって他人の好奇の目に晒されるよりかは多分部屋の中で眠っていた方が居心地良いはずだと思うから、大抵買い物をするときは部屋に置いてくる。もちろんただ待たせているわけじゃなくて、戻るときはちゃんと何かしらの土産を買って帰っているから、『待て』の練習にもなっているだろうと思う。多分。
今さっき出てきたとき、犬はベッドの横でグズグズとうずくまって眠りこけていたから、もしかしたら『待て』になっていないのかもしれないが。
一人の行動が好きなのか、宿屋を出た途端俺を追い越してすたすたさっさとどこかに歩いていってしまおうとするリックは、街に来れば何時ものことだし夜になればちゃんと部屋に戻ってくるから普段はさして気にも留めないが、今日はちょっと声を掛けてみた。
なんだよ。と不機嫌そうに振り返られると、ちょっと怯む。こういう風によく解らないのに不機嫌にされるのは自分が何か悪いことをしてしまったのではないかとかどうすれば機嫌を直してもらえるのかとか考えてしまうから苦手だが、少し前に何で不機嫌なのか聞いたら、俺は普段からこの調子だと怒られたからあんまり気にしなくても良いらしいが、それでもやっぱり俺は苦手だから、そのうちで良いからもう少しだけでも言葉の棘を減らしてもらえれば良いなぁと思っている。
「いや、今日は一緒に買い物しないか?」
意を決して今日はそうしようと考えていたことを口に出すと、リックは呆けたような表情を作ってなんでだよ。と問うてきた。普通ならそういう問いを口にされるのが当たり前なはずなのに、クセなのかどうかは知らないがそういう肝心な事がいつも考えたらずな俺は今回も何故かそれに対する口実を全く考えていなくて頭の中で一部パニックに陥りながらうぐとかむぅとか口を動かすだけしか出来なかった。
実は最近気づいたことなのだが、共に旅を始めて以来、時々リックの元気が無くなるような感じがするのだ。だから今日はちょっと一緒に出かけてスキンシップでも取ってみたらどうかという魂胆なのだが、そのままそれを口に出すのも何だか憚られてどう言うべきか今更考え始めて困ってしまうと、リックは鼻を鳴らしてさも詰まらなさそうに「まぁ良いけど」なんて言ってくれた。
そっけない返事だったけど、こういうのが彼の優しさというかそういう類の表現なのは何となく気づけたので素直に喜ばしく思った。
やっぱりというかこの街は大きくてどうやら商業で栄えた街らしい。レンガ造りの大通りには今までに見たことないくらい沢山の露天が両側にずらりと並んでいて面白い。美味しそうな食べ物だけでも珍しいのが色々あって、見ていて飽きなかったりする。俺の居た所も割合大きなところだったが、ここまで大きかったかと言うと実はそんなに覚えていなかったりするからとりあえずカウントはしないでおこうと思う。いや、それを言うと、道中に立ち寄った殆どの国や街のことは実はもうあんまり覚えていなかったりする。綺麗な景色や風景ならば沢山覚えているのだが、栄えている国や村や街のことはそこを出ると殆ど忘れてしまう。食べて美味しかったものや、買ったものなら覚えているが、そこがどういった場所でどういう名前のところだったかと聞かれると、恐らく俺は殆ど答えることが出来ないだろうと思う。多分、天国とは関係の無い場所だからかもしれない。
何を喋るでもなくリックと一緒にぶらぶら歩いていると、パンに肉やサラダを挟んで売っている屋台の隣に貴金属類の装飾品が紅色の布に敷かれて売られているのを見つけたものだから、即座にしゃがみ込んで犬の土産になるようなものはないかと探すと、思い切り後ろ頭を叩かれた。
別に痛くは無いが、振り返るとやっぱりというか怒ったような顔したリックがそこに居た。
「先に食料とか消耗品とか買うものはいっぱいあるだろうが頭使えボケ!」
思い切り怒鳴られてから胸倉を思い切り引っ張られて、何も言えぬ間にあれよあれよとそこから遠ざかってしまった。
ここで恨めしげな顔を一つでもしようものなら、多分リックは花火みたいにバチバチ怒ってどこかへ行ってしまうだろうから、極力申し訳なさそうな顔で「すまん」と呟くと、リックは呆れたと言わんばかりの溜息をついた。
「お前ね、別に犬に土産を買うのは構わんけどさ。これ以上犬にじゃらじゃら付けたらアイツそのうち土産の重みで潰れんぞ」
ずんずん歩きながら言うリックの後ろについて歩きながらそれはつまり、土産は装飾品じゃなくて香水とか食料にしなさいということなのかと考えると、俺の頭を読んだようにリックが「アホ」と言う。
「いくつか買ったら犬に付けてる奴いくつか売れば良いんだよ馬鹿」
あぁ、それは名案だと頷くと、リックは心底呆れたような顔をして、嫌味みたいに盛大な溜息をついた。
「あのな、もう一つ言っておくけど犬に付ける装飾品はもっと少なくした方が良いぞ。あのままにしといたらお前、山賊だの盗賊だのに狙ってくださいって言ってるようなもんだろ」
そういわれれば、リックの勧めで犬に上からローブを着せるようになるまでは結構盗賊やら山賊に襲われてきたような気がするが、旅というのはそれが普通だと思っていたのでまさかそれが犬のせいだったなんて気づきもしなかった。それが顔に出ていたのか、リックはまた盛大な溜息をつくともう一度「馬鹿」と呟いた。
そこからさしたる会話もせぬままに屋台や店屋を回ってリックがどこで習ったのか上手に品物を値切ったり俺がそれを見守ったりしながら旅に必要な買い物を済ませると、犬の土産にこの国特産の花から抽出したという大変良い香りの香油を一瓶購入した。そんなに安い物ではなかったからかリックからは無駄遣いだと咎められたが、じゃあどういうのが土産に良いんだと聞くとリックは好きにしろと答えたから、多分これからはあんまり金を使うんじゃないという警告だと捉えた。あまり自信は無いが、覚えている限りでは今後気をつけようと思う。
夕焼けに染まり、路地に出ていた露店が着々と店仕舞いし始めている中、二人して無言で宿屋への帰り道を歩きながら、俺は今日の反省として全然スキンシップにならなかったことを後悔していた。もう少し俺の頭に話題性があれば良かったのだけれど、俺が知っているようなことは大抵リックが知っていそうだったし、会話をふってもリックは一言でブツリと対話を途切れさせてしまう達人だった。店屋の人と世間話をするときは物凄く長くしかも笑顔で話す事も出来ていたから、恐らく会話は俺の馬鹿さ加減に嫌気が差したのだろうと思われる。
だから、馬鹿でごめんと言えれば良いのだけれども、それを言うと昔した自分で自分を馬鹿と言わない約束を破ってしまうことになるから、どう謝って良いものかと悩んで悶々と歩いていると、俺より少し前を歩いていたリックがぴたりと止まった。もう少しでぶつかるところだったけれど何とかギリギリぶつからずに俺も止まってようやく気がついた。
前を向くと、多分食べ物屋の前だと思うが、そこに人だかりが出来ていた。わーわーわーわーがちゃんがちゃんばきばきべきべきと酷くうるさい音がして、やれとかそこだとか聞こえてきたから、おそらくそれは喧嘩か乱闘なんじゃないかと思った。
近づいて見てみよう、そして出来れば止めようかと思って人だかりに近づくと、リックが俺の襟首を引っ張って「関わり合いになるな」と声を低くして言った。でもなぁと言いかけると、リックに「いいから!」とぴしゃりと言われて渋々人だかりの後ろをコソコソと通り抜けようとした。その時、すすり泣くような声がしたのでいてもたっても入れなくなって未だに襟首を掴んでいるリックの手を振りほどいて人だかりの中に割って入った。
リックの手を振りほどいたとき、彼が何か言ってるように聞こえたけれど、今はコチラの方が先だ。
案の定そこは何か食べ物を出す店の前で、三十路後半か四十路全般あたりのヒゲ面の男が二人喧嘩していた。二人とも筋肉隆々で、店の中から引っ張り出した椅子だのテーブルだのをぶつけ合ったのか知らないが、頭から血をだーだー流しながら取っ組み合いをしていて、そこらへんにはテーブルに乗っていたらしき料理の残りだとか皿の破片だとか木片だとかがが散らばっていて、店も通りに面した部分はおよそ半壊しているようだ。すすり泣いていた中年の女性はどうやらこの店の人のようで、喧嘩をしている二人を何とか止めさせようとして「止めてくださいお願いします」と割って入ろうとしては邪魔だと頭に血が上った二人に突き飛ばされていた。
眺めている人間に止める気は無いようで、しかも賭けなどやっていたから仕方なく、俺が割って入ると、案の定邪魔だと突き飛ばされそうになったが、踏みとどまって、互いに殴り合おうとした二人の手を両手で同時に掴んで捻りあげた。
「いや、喧嘩はよくないと思いますよ。店の人にも迷惑かかりますし」
出来る限り威圧しないように笑顔でね? ね? と二人の顔を見ながら言うと、喧嘩をしていた二人の男は呆けたような顔になってから邪魔するんじゃねぇとか言って掴んでいる俺の手を全力で振りほどこうとした。けれど、俺は二人が本当に喧嘩を止めるまで手を離すつもりは無かったから、少しばかり懲らしめるつもりでぎゅうと手を握った。めきめきという嫌な音が鳴った。
途端に、二人の男の口から物凄い悲鳴が上った。
周りにいた野次馬が驚いたような声を発したが、俺もビックリして手を離してしまった。反対の手で、俺が握った手を押さえて手がっ! 手がぁっ! と叫んでいる。よく見ると俺が掴んだ手があらぬ方向を向いてしまっているのであぁしまったと俺は思った。
二人とも割りと強そうだったから、これくらい力を入れても捻挫するくらいで大した問題はあるまいと思ったのだが、どうやら少しばかり手の骨を折ってしまったらしい。
「あぁ、済みません、済みません」
その場を取り繕おうとして頭を下げて謝るも、逆に何か怖いものを見るような目で見られてしまってどうしようかと思っていると、リックが野次馬の隙間からずかずか割り込んできて、弱いくせにこいつの言うことを聞かないからだ。これに懲りたら良い歳して喧嘩なんかもうすんなみたいなことを折れた手を押さえている二人の男に向かって偉そうに言った。それから、賭けをしてたのか野次馬のブーイングには何か文句あるかみたいな俺が今まで見た中でかなり怖いと思える絶対零度の目で見回して威圧し、すすり泣いていた中年の女性店員には俺には見せた事ないような笑顔で優しく喧嘩の掛け金で店を修理させるように薦めて周囲にもこの店が無ければ賭ける出来事すらなかったのだぞとかなり無理矢理な理由で納得させていた。
リックがあっと言う間にその場を治めてしまった。
二人の男は見物人の一人に病院へ連れて行かれ、その場にたむろしていた野次馬もクモの子を散らすように帰っていった。店の女性店員には何度もお礼を言われているリックを見て、俺は凄いなぁとぼんやりと思いながら眺めている。こういう風に事態を収拾することは、俺には出来ない。これまでにも幾度か旅の途中で喧嘩を仲裁したことはあったが、リックが居ないと何故か俺が悪いということにされてしまったり、化け物と呼ばれたり、そのせいで宿から叩き出されることさえあって、こういう風に丸く収まることはあまり無かったから、リックは凄いと思う。
ぼんやらりとしていると、いつの間にやら店員との話を終えたらしいリックが俺の額を叩いた。やっぱり痛くは無かったけど、ぼうっとした状態に居た俺ははっとしてリックを見ると、いきなり「この馬鹿!」と怒鳴られた。だから仲裁なんて止めろと言ってるだろこの馬鹿毎度毎度他人の喧嘩に首突っ込みやがってアホたれ! と物凄い剣幕で怒られた。俺は何でリックが人の喧嘩を止めることにこんなに怒るのかあんまり解らなかったりするけれど、恐らく普通で考えればリックが正しいのだろうと思ったのでとりあえずうんごめんねと謝った。するとリックは怒るのをぴたりと止めて眉間に指を置いて盛大に溜息をついた。
「お前ちっとも悪いと思ってないだろう」
確かにその通りなのだけれど、ここで「うん」とも「違う」とも言えばまた怒らせてしまう気がしたので何も言わないでいると、もう一度溜息を付かれた。もうお前みたいな馬鹿なんかと旅なんて出来ないと言われたらどうしようかと正直少し心配したが、リックは「あんまり面倒事には首を突っ込むなよ」と言ってから「怪我とかしてないか?」と聞いてきた。リックがまさか俺なんかの心配なんてしてくれると思ってなかったので少し驚いたけれど、それ以上に心配してくれるのが嬉しかったから、「俺のこと心配してくれてるの?」と聞いたらさっさと答えろ馬鹿と言われたので、素直にしてないよと答える。そしたらリックはそれならさっさと帰るぞと俺に背中を向けてずんずん歩いてしまったから、慌てて後を追って、歩いているリックの背中に「ありがとうね」というとリックは何も言わなくて、「また一緒に買い物とかしような」と言うと小さく「ああ」という返事が返ってきた。たったそれだけだったけど、それが何だか嬉しくて、俺はリックの隣に駆け足で歩み寄って、宿屋までの短い道のりを二人一緒に並んで歩いた。
歩きながら、少しくらいはスキンシップになったんじゃないかと思った。
傍観
俺はいつの間にか彼らの後ろについて歩いていた。
彼らの後ろについて、彼らを眺めていた。
それはまるで夢のように曖昧で、霧がかったように現実味の無いものであまり気味の良いものではないのだけれど、俺は彼らが嫌いではなかったからこの曖昧な心地でも我慢が出来た。
目の前には、汚れたなめし皮の胸甲と肩当その下には黒い服でベルトには長剣を下げた鳶色の髪の男と、短剣を二本腰に挿し、皮のベストの下に濃紺のセーターを着た漆黒の髪の男が歩いている。鳶色の髪をした男は、金髪のそれを背中に紐で括りつけて背負っている。三人とも髪は短い。
俺の記憶は少しするとすぐに変形してそれまであったものとはまったく別のものに捏造されてしまうから、あんまり断定は出来ないけれど、鳶色の髪の男は物凄く強いから、金髪のそれを長々背負っていても疲れないということを何故だか知っている。そして、その男は俺にとっては何だったかと言うと、恋人だったり親だったり兄弟だったり友達だったり頼れる従者だったり尊敬する上司だったりと随分バラエティに富んでいて、その一つずつにシチュエーションに合うように彩られた思い出のようなものも一緒に付属されて、結局どれが本当の記憶だったのかはもう解らない。けれど、どの記憶も彼はとても親しい者であったということに統一されているので、恐れることは何も無いだろうと思う。最も、彼が俺に話しかけることも、俺が彼に話しかけることも無いので何を恐れることは無いのかというのもよく解らないのだが。
逆に漆黒の髪のそれは、俺の中では敵だったりちょっとした知り合いだったり拾った存在だったりと派生するシチュエーションがかなり適当な分、それに付属する思い出も随分と適当だったりする。犬だか猫だかを拾ったら翌日人間に変身していたとか、敵だったのが何故だかいつの間にかこちらに寝返っていたとか、自分でも何が何だかよく解らないことになっていたりするので少し困るが、鳶色の髪の彼と時折なにやら親しげに話すものだから、恐らくこちらも怖がることは無いのだろうと思う。同じように話しかけることも話しかけられることも無いので何を怖がるのかと言うことは解らないのだけれども。
それから、金髪のそれは俺には時々見えなくなる。いや、見えているのだけれども、存在感が無くなってしまう。捏造の思い出すら空虚で、何故そこに居るのか考えると、妙な閉塞感を覚えて考えるのを止めてしまうことも多々ある。無理矢理考え付けば、俺が彼らの後ろについて居るのと同様いつの間にかそこに居たという存在なのだが、俺は妙にこの金髪の生き物が酷く憎らしく思えて仕方がない時がある。いっそ殺してしまおうかと考えないでもないのだけれど、それをすると鳶色の彼が酷く悲しむような気がしてならないので、殺さないことにしている。鳶色の彼が困る姿は好きだけど、悲しむ姿は好きではない。
どこかへ続く街道の途中、彼らの歩みはそこで止まり、鳶色の彼と漆黒の彼は荷物と金髪のそれを下ろして周りから木切れや乾燥した木の葉を拾い集め始めた。見れば空はまもなく夜になろうとしているから、恐らくそこで野宿をするのだろうと思われた。
この辺りには木があんまり生えていないからそれらを集めるのに少々苦労していたらしい二人が戻ってきて暫くすると、地面に集めた木切れから炎が上る。二人は何かを話しているが、俺には彼らが何を話しているのか解らない。すぐ傍に居るのだから言葉は聞こえてくるのだが、それを理解する事がどうしてか俺には出来なかった。いつから人の話す言語を理解する事が出来なくなったのかは全く覚えていないが、こうして自分の中では言葉を紡げるのだから恐らくずっとずっと昔は理解できていたんだと思う。別に俺は誰かと会話したいわけじゃないから言葉なんて理解出来なくても特に問題は無い上に、それに一日立てば俺の中ではいつの間にやら会話ができていたという思い出になってしまっているから寂しくはないが、今現在に鳶色の髪の彼の話が理解出来ないのは、ほんの少しだけ残念だと思った。
漆黒の彼は皮製の荷物袋の中から干した肉を取り出して、薪の炎であぶり始めた。鳶色の彼は水袋から小さな鉄の鍋に水を入れて、それを炎の上に立てた三脚の天辺に置いて火にくべた。恐らく茶を沸かしているのだろう。案の定水の中に茶葉を彼が入れると、どうしてそれを知っているのかは解らないが、それは彼が昔好きだった種類の茶だということが匂いで解ると共に、酷く懐かしいような苦いような気持ちがこみ上げてきた。
炎を挟んで向かい合う彼らの輪にそっと入るように座るが、彼らは俺に気が付かない。鳶色の彼と漆黒の彼は二人して少し喋った後、鳶色の彼は干し肉を俺とは炎を挟んで反対方向に居て、高価な絹のローブが汚れるのも構わずべたりと地に座り、一心不乱にガリガリと爪で穴を掘っている金髪のそれの鼻先に持っていった。金髪のそれは干し肉の匂いを少しばかり嗅いだだけで食いつきはせず、ふいと興味を無くしたように虚ろな目をまた地面に向けると、爪に土が入り込むのも構わずガリガリ穴を掘り始めたが、少しするとそれは霧が四散するように俺の視界からかき消されて認識できなくなってしまったが、よくあることなので気にしない。鳶色の彼は苦笑して漆黒の彼に何かを言うと、漆黒の彼は何か呆れたような顔をして何かを言う。
それを聞いて、鳶色の彼はまた苦笑したのが解かった。困っているわけでも悲しんでいるわけでも無いような感じだった。それを見ている俺は、何だか少し安心し、そして少しだけ哀しくそして更に少しだけ不安に思った。
けれど、彼らに話しかけようにも話す言葉を持たず、気づかれることも気づかせることも出来ない俺は、ただその場に黙って座って、恐らく明日にはまた違う思い出になっているであろう情景をぼんやりと眺めていた。
わんわん
今まで病気なんて殆どしたことがないのだが、何故だか一年に一度くらいは酷い風邪を引いてしまう俺は、運の悪いことに道中いきなり熱を出し、ばったりそこで倒れてしまった。
案の定メノスは見ていて面白いくらいおたおた慌て、俺は虫の息で「落ち着けこの糞馬鹿」と言って少しは黙らせたのだけれど、眩暈はするわ頭は痛いわ体はだるいわの力は出ないわのぐだぐだ状態では迸るほど無駄に体力溢るるこの馬鹿を言葉の一つで完全に落ち着かせることは出来なかったらしい。
リックどうした!! 具合が悪いのか!! どこが悪いんだ! 立てるか!! 大丈夫か!! なんて上半身抱き起こされた状態の耳元で叫ばれてもこちらの頭痛を悪化させる一方でちっとも大丈夫ではない。なので俺はなけなしの気力体力を振り絞り、メノスの鳶色前髪を握り締めてぐいと引っ張ると、顔の近づいたメノスの茶色い目玉を思い切り睨みつけて「うるせぇ馬鹿黙りやがれ」と言ってやった。それでようやっと落ち着いたメノスはどうすれば良いのか俺に聞いてきたので、とりあえずどこか家が見えたらそこにつれてけと指示を出す。ぶっ倒れたのが山岳地帯や森林地帯ではなく単なる街道だったのが不幸中の幸いで、どこかに農家の一つや二つは存在してもおかしくない。けれどどうにも一人で歩けそうには無かったので、メノスの肩を貸して貰おうかと思ったが、俺が何かを言うより先にメノスは俺の腰に腕を回してそのままひょいと肩に担ぎ上げた。目の前に紐で括られた犬の体が見えたから、つまり俺は進行方向に尻を向けているというわけかと頭の中でぼんやり考えるが、恥ずかしいだのみっともないだのメノスに文句をつける前に、どたどた動き出したメノスの振動と熱と眩暈と頭の痛みに目の前が真っ暗になってしまった。
気づけばそこはどこぞのベッドの上だった。
低くて染みだらけの木の天井と、そんなに柔らかくないベッドの感触から、金持ちの家でないことは確かなのは起きた瞬間すぐ解かった。どれくらいかは眠っていたのか、具合はまだ本調子ではないが道端でぶっ倒れた時よりかは幾分かマシになっていた。
そう言えば夢見心地でどこぞの農家っぽい所に文字通りかつぎ込まれたような記憶が俺の中に存在している。情景は思い出せないが、二人とも病人か? という問いに、止せば良いのにメノスが「こっちは犬です」などと答えだしたので、俺が病気は俺だけですとかなんとか代わりに言ってやったような覚えがある。もし玄関先で俺が尻を向けながら答えたのだとしたらきっとその言葉は届いてないだろうから、気味悪がられて追い出されるはずなので、多分ここに寝かされたときに聞かれたのだろうと思う。
メノスは見当たらず、かといって奴を探すために起き上がる気にはどうしてもなれず、横になったままあたりをぐるぐる見回すと、このベッドの他には右の壁際に簡素な木作りのクローゼットが一つとこちらも木作りの小さな机が一つだけ置いてあった。シンプルな作りだなと床にも目をやると、左の壁際に敷いた小汚い毛布の上に金髪の犬が小さくうずくまっていた。動きは無いが、一応起きてはいるらしく、偶然にもその虚ろな目と俺の目が合った。しかしそれだけで、犬はそこから動くなり目をそらすなりのリアクションは皆無だ。
俺はこの犬という奇妙な存在がどうにも苦手だった。
どう見ても人間の、しかも美少年にしか見えない彼が、べたべたと四つ足で地面を這いずり、気になったものは口にくわえてみたり舐めてみたりとまるで犬のように行動する異常な姿は確かに最初は少々怖かったが慣れればどうということもない。じゃあ何が苦手なんだと問われれば犬の持つ気質というか、雰囲気というか、そんな抽象的なものが苦手で仕方がなかった。だから俺はメノスのように犬を抱いたり撫でたりしてやりたいという気持ちにはどうしてもなれないし、偶にはメノスの代わりに犬を背負ってやろうという気持ちも全く起きなかった。
しばしぼんやり天井の染みなんぞを眺めていると、ずりずりじゃりじゃりと音が聞こえたのでそちらを見ると、犬が四つん這いでそんなに広くない部屋の中をぐるぐる這いずりまわっていた。犬の身につけられている装飾品がぶつかりあう音が響く。この装飾品は全てメノスが旅の途中で犬の土産とのたまいながら買い集めたものだ。他にも香油や香水や食べ物や、色んなものを買ってはこうして犬にプレゼントしているけれど、当の犬は何をされても無感動で、香水の匂いを嗅がされても食い物を食べさせられても美味いも不味いも嫌も良いも全く無い。だから俺は無感動な奴に何かを買ってやるのは金の無駄だから止めろと前までは言っていたのだが、奴は一歩でも国や街や村を出ると、自分に都合の悪そうな部分を含め、大体のことを忘れてしまうものだから、最近は奴が土産を買うこと自体は諦めている。けれどもやはり金は節約したいから、その代わりに一つ買ったら何か一つ売らせるようにさせた。メノスは物自体にはそこまで頓着していないらしく、これは簡単に実行させることが出来たし、あの阿呆に今現在も何かを続行させることが出来ているのは賞賛に値すると思っている。
しばらく見ている間にも、犬は飽きもせずにずるずるじゃらじゃらさせて這いずっているから、メノスが居ないから落ち着かないのだろうかと考えたのだが、ドアではなく先ほどまで居た位置とは反対側の部屋の隅っこにまで来ると、四つん這いのまま壁に額を預けるようにがつりとぶつけてじっと黙った。一体なにがしたいのか、俺にはさっぱり解らないけれど、普段メノスに担がれっぱなしで殆ど動いたことの無い犬が、小範囲とはいえこういう具合に動き回るのをあまり見たことが無いから少しばかり新鮮に思った。宿屋で一人留守番している間、犬はこういう風に動き回っているのかもしれない。そうして壁に額をくっつけたままでいるのもつかの間、今度は俺の寝ているベッドの方にずりずりずりと這ってきて、何をするのかと思えば突然膝で立ち上がり、ベッドの上にどたりと上半身を乗せてきて、そしてそのまま上に這い上がろうともがいている。ずるり、と犬の重みで毛布が落っこちそうになったので俺は慌てて落っこちそうになる毛布を引っ張り返すと、犬は上ろうとするのをぴたりと止めて、毛布を握ったままベッドに上半身を預けた形で、毛布を掴んだ俺の手の甲をへろりへろりと舐めてきた。
犬の生暖かくて柔らかい舌の感触が妙にくすぐったいのと気持ち悪いのとで手を退けると、犬は俺が手を退けたのが気づかなかったのかしばし毛布をへろへろ舐めて、唾液に濡れて茶色い毛布の色が更に濃くが変わり始めた頃に、突然こちらを覗き込むようにして顔を近づけてきた。透き通るように白い肌に、街の中で見かけたら、はっとして振り返ってしまうような整った顔。神話に出てくる金糸のように細いさらさらの髪の毛が、俺の頬にほわほわ当たってくすぐったい。虚ろな目はどこを見ているのかよく解らないのだが、なんとなく俺を見ているような気がして、俺は思わず「なんだよ」と犬に向かって言ってしまった。睨み合いに負けたみたいで少し悔しいけれど、どうせこちらの気持ちなんて犬には解らないだろうから、悔しく思うだけ無駄だと考え直した。無視してやろうと思ったら、犬がわんわん二度ばかりやる気の無い声で吼えた。そのままふんふん顔の匂いを嗅がれて頬をべろんと舐められたから、流石にこれには驚いて、ベッドから上半身を起こして体を引かせると、犬の虚無を見る目がまたこちらを向いていた。
「わんわん」
全く感情のこもっていない声だ。それなのに、それがどうにも俺を心配しているみたいに聞こえたのは、俺が風邪引きで気力体力両方が落ち気味なせいだけではあるまいと思うのだが、それは、俺の勝手な願望だろうか。しかし、感情が無さそうに見えるこいつにも、本当は感情と言うものがあるのだとしたら、犬は俺をどう思っているんだろうかなんて妙な事をじりじり痛む頭で考えてしまった。馬鹿馬鹿しい。とそんな妙な考えを振り払うように呟いたら、もう一度、わん。と一声犬が鳴いた。時々気が向いたときにこうして犬が鳴くこと自体はそんなに珍しいことではないけれど、こういう状況で俺に反応を示すということは今まで殆ど無かったから、何だか不思議な気持ちになった。
こいつは、一体何を考えているんだろう。
しっしっと追い払っても良かったのだけれど、ベッドのすぐ向かいにあるドアの向こうにメノスや他の人間の気配が無いことを確認してから「お前は一体何を考えてるんだね?」と犬に聞いてみた。
そう聞いても犬は何も意味のある言葉を発しないで濁った蒼い目をこちらに向けているものだから、俺は一つ苦笑して、犬の頭に手を置いて、久方ぶりに手触りだけは良い犬の頭をぐりぐりとかいぐってやった。やっぱり犬はぼうっと眠そうな目を揺ら揺らさせるだけで、されるがままにぐりぐり撫でられるだけだったが、新しいハッケンとして、俺は犬のことは苦手だが、犬のことをそう嫌ってはいないらしいというのを、自分でも今日初めて知った。
数時間後の話になる。メノスは一体どこに行ったのかと言えば、俺にベッドを貸してくれた農家の老夫婦の手伝いで畑を耕していたらしいのだが、いくら畑を耕すのでもそこまで汚れないだろうというくらいの勢いの泥だらけで戻ってきた。
そこはやっぱりというか、おつむは弱いが力だけはめっぽう強いメノスが手伝ったものだから「仕事が十日分もはかどった」とベッドを提供してくれた老夫婦は大層感謝してくれて、美味しい野菜スープをご馳走してくれると言う。それはそれでとても嬉しいのだけれども、戻って来て早々我慢できなかったのか泥だらけの手で犬の頭をかいぐりまわすメノスと、付いた泥ごとメノスの服をへろへろ舐めている犬を見て、ごく近い将来にこの自分には無頓着な馬鹿をひん剥いて丸洗いしなければと思いつつ、「泥くらい落としてから来いこの馬鹿野郎!」と怒鳴ったら、頭痛が更に増して、俺まで馬鹿になりそうな気がした。
滝
天国ってのはやっぱり綺麗な場所だと思うから、綺麗な場所を探すと、そこは大抵いつも大体はどこか高いところになってしまうのはどうしてだろうと思ってリックにそのまま聞いたら「天国ってのは『天』って言うくらいだから上にあるものなんじゃないのか」と大層どうでも良さそうな投げやりの口調で答えられた。はぁなるほどと一人頷いて見せるけれど、リックはそれきり何の反応も寄越さなかったのがちょっぴり寂しい。
天国という場所がどういう場所なのかは、俺にはよく解らないけれど、そこはとても素晴らしい場所だというのは何となくわかる。だけど、その素晴らしい場所がどういうふうに素晴らしい場所なのか、具体的な事は何一つ解らないから、こうやって探しているのだけれど、それは中々見つからない。
こうして来て見たのは良いけれど、今回もそこは天国ではなく単なる景色が良いだけの場所だった。どんな美しい場所に行っても、天国が近くにあるような感じはするのだけれど、そこはどこも天国ではない。
とある山間の小さな集落から、よく解らない樹木が生い茂る獣道を伝って山の奥へ奥へと登っていくと、木々が突然切れてごつごつした灰白色の岩場に出る、その少し先には同じ色の岩が重なり合って出来た、王宮ぐらい高い崖が現れる。そこには空色をそのまま圧縮して封じ込めたような透き通った河が流れていて、そこから巨大な滝となって、突き出た岩にぶつかりながらどざあどざあと崖下に向かって落ちて行き、上から見ると、滝の途中に小さな虹をいくつも作り出している様子は確かに壮大ではあったけれど、それは俺の求めている天国とはやっぱり少し違うように感じた。けれど、もしかしたらもしかするかもしれないということもきちんと考えて、俺は滝のすぐ傍にある上が平たい巨石の上に登ると、体に縛った紐を解いて、犬を背中からゆっくり下ろした。
見下ろせば滝の斜面と、細かな水しぶきと虹、それから崖下に続く河の続きの回りにまた広がる森の続きが見えた。寒くは無いけど、風が少しあるからマントを被せるようにしてそっと犬を抱き寄せる。それから、犬は犬だから人間の言葉なんて解らないとは思うけれど、俺は何時もそうしているように犬に話しかけてみる。
「ここもとても綺麗だけれど、天国ではあるのかな? 俺には良く解らないけれど、犬はどう思うかい?」
そういう風に話しかけても、犬は崖の上から下に広がる森の続きをぼんやり見ているだけで何の返事も返してこないのは、いつものことだからあんまり気にはしないけど、リックに無視される時とは少し違って、ぽっかり穴の開いたような寂しさがこみ上げて来てしまうのは、多分俺が犬の中にレイトを見ているせいなのかもしれない。
日に日に馬鹿になる犬は、頭の良かったレイトとは全く違うはずなのに、犬とレイトを重ねてしまうのは、レイトにとても失礼な気がするから、普段はなるべく考えないようにしているのだけれど、犬はレイトと外見だけはほんの少し似ていると言ったらやっぱりレイトに怒られそうだけれど、でも少しでも気を抜くとそんなふうに見えてしまうから困ったものだ。
そういえばリックは今何をしているんだろうと後ろを見ると、リックはとっくに焚き火を起こしていて、滝へと続く河の岩場に座って、枝と糸とで作った釣竿を垂らしていた。糸の先端は既に河の中へ沈んでいるから見えないけれど、多分針もきちんとついているんだろうと思う。ここも天国じゃなかったよと話しかけようと思ったけれど、話しかけたら魚が逃げると怒られそうなので、俺はもう暫く犬と一緒にこの風景を眺めてから今日中にこの下へ回って近くから滝を眺めてみようとぼんやりとした計画を立てながら、少し自分の体から離れかけた犬をもう一度抱き寄せた。
「お前ね、地獄ってのは天国がどこかにあると仮定して初めて在るものなんだよ」
ぼうっとしていると、少し笑っているような怒っているようなそんな風な聞き覚えのあるセリフと声が聞こえてきたので隣を見ると、そこには犬ではなくて、彼の背丈と同じくらいの長さの銀色の杖を持ったレイトが座っていた。
「それにね、もし天国があってもそこに人がいたら地獄と一緒さね。人が居て感情があって死ぬのが怖いと思って自分の幸せを求めたいと思う限り、皆虫に食われて何度でも戦うし悲しいも沢山あるんだよ。そういうのが悲しいのか、悲しくないのかは個人の違いだけれども、少なくとも俺はそういうのは幸福とはいえないんじゃないかと思うんだ」
あたりを見回すと、そこは俺の住んでいた国のすぐ傍にある林の中で、俺の背丈の二倍くらいしかない小さい崖の上から滝が目の前でどざあどざあと流れていた。ここは、レイトが何時も魔術の修練をしている場所だったのは覚えているのだけれど、俺は大分前に国を出たはずだし、レイトはとっくの昔に犬を置いてどこかに行ってしまったはずから、そんな場所に俺もレイトもいるはずも無いから、おそらくこれは夢なんだろうと思ったけれど、まぁ夢でも良いかとそこから深くは考えなかった。夢でもレイトに会うのは凄く久しぶりだし、何より折角レイトに会えたのにまたすぐ俺の目の前からいなくなってしまうのは、とても寂しかったから。
「幸福なんてものはね、人の不幸の上に成り立っているから幸福を求め続ける限り本当の幸福なんてものは絶対ありはしないんだよ。そんなの酷く虚しいだけじゃないかと思うのだけれども、誰もそんな事無いなんて言い張るのは多分虫に洗脳されたか、ありもしない夢ばかり見ている証拠だろうね」
そこまで続けてレイトが小さく溜息をついた。レイトは昔からこんなことばかり言っていた。天国とか、地獄とか、皆が幸福になる方法とか、魔術とか虫とか。俺のよく理解できないこととか。
昔から馬鹿だ馬鹿だと周りに言われ続けていた俺にとって、頭の良いレイトが語る難しい事はよく解らかった。解らないくせに何かを言っては馬鹿と怒られたりしたけれど、レイトの声と楽しそうに語り続ける彼の姿が好きだった俺は、暇な日は大抵こうやって彼の話に耳を傾けていたのは頭の悪い俺でもよく覚えている。
「えぇと、それなら同じ幸福を共有する人が集まって暮らせばいいんじゃないかな」
そんなどこかで言った事のあるようなセリフが口からさらりと出てくると、レイトに「同じ幸福と言ってもどこの誰のどういう幸福を基準にするんだい?」とこれも聞いたことがあるセリフを返された。つまり俺は、昔見た光景をそのまま夢で再現しているということなのかな。そういえばずっと昔にレイトが、夢は起きているときに見たことや考えたことを頭の中にいる虫が要らないはみ出たものを食いつぶしながら整頓させている過程で起こっているのだとか、そんなことを教えてくれたような気がする。もしかしたら違ったかもしれないが、物覚えの悪いに俺に知識的なそういうことを教えてくれたのは大抵レイトだったから、おそらくレイトだと思う。俺の頭の中に居る虫に食いつぶされて、この記憶も消えるのだとしたらそれは嫌だなぁ。できれば食われたくないけれどもどうすれば食われないで居られるのかな。頭の中の虫に頼めば食わないでくれるかな。
「聞いてる?」
そんなことをぼんやり考えていると、すこし膨れたレイトが身を乗り出して俺の顔を覗きこんできた。レイトの言葉を上手く理解出来ない俺が考え込んでしまうと、そうして顔を覗き込んでくるのはレイトの癖みたいなものだったから、久しぶりにそれをされて妙に懐かしく感じた。
「聞いてるよ」
そういう風に笑いながら返して、レイトの手触りの良い金髪をわしわし撫でると、レイトは杖を持ってない手で俺の手を払って「子ども扱いするな!」と怒る。俺は別に子ども扱いしているわけでなく、単にレイトの髪の手触りがいいからついつい撫でてしまうのだけなのだけれど、それをそのまま伝えてもどの道怒られそうなだけだから、うんごめんねとその場でだけはそう言って、次回にはまた撫でるつもりでいる。
「けれど良かったよ。虫に食われ始めたのかと思った」
先端に赤い宝石の埋まった長い銀の杖を座った膝の間に挟ませながらレイトが寂しげに笑った。虫というのは俺には全く見えないけれど、レイトにはありとあらゆるところに付着したり埋まったり人の頭に寄生したり人の頭を喰らってそのまま取って代わったりする虫が見えているらしい。それはいつもじっとこちらを常に監視していて陰謀を企てていて人に寄生しては暴動や戦争や喧嘩を巻き起こすらしいのだが、そんな遠くの事よりも時折、近くから罵詈雑言を浴びせかけてくるのが一番怖いのだとレイトは言っていた。レイトの魔術の師匠もそれらしきものが見えていたらしいけれど、結局そんなものから逃げ切れずに、食われるくらいならと自殺してしまったらしいから、レイトの周りで食われていないのは俺だけだというのを、いつだか聞いたような覚えがある。「だから寂しい」のだと、かなり昔にレイトが一度だけぼやいたその言葉を、俺は何故か鮮明に覚えている。
「大丈夫だよ。食われないように気をつけるし、もし食われてもレイトのことだけは忘れないから」
レイトの言葉に、俺は昔言ったはずのセリフをもう一度繰り返した。
ざぁざぁ音を立てる林の滝の傍。ちょろちょろ流れる川の周りにゴロゴロと転がっている濃い鼠色に、緑色の苔がちょこちょこと生えた大岩の上に、レイトと二人座ってる。空がそろそろ赤くなり始めているのを見て、そういえば、この場面もどこかで見た覚えがある気がすると思ったら、「そろそろ帰るよ」とやっぱりあの時と同じセリフがレイトの口から出てきて、それと同時に岩の上からぴょんと彼は飛び降りた。先端に赤い宝石の埋まった銀の杖をくるりと半回転させてとんっと地面に付いて、俺を振り返ったのを見て、俺は岩の上から「もう返ってしまうのかい?」と記憶どおりにそう尋ねていた。
「ああ。帰らないとまた虫がうるさいからね」
レイトは虫に食われた人間も虫と呼ぶ。虫に食われて虫に洗脳された人は、もう人とは言えないから虫で良いんだと言っていた。レイトは虫とこの世から逃げるために、もうずっと昔から魔術を学んでいるということを俺は知っている。虫と居ることが、レイトにとって酷く苦痛であることも俺は知っている。だから本当は、俺が虫のいないところにレイトを連れて行ってやりたいのだけれど、俺にはそれがどんな場所か解らないから、いつもレイトの帰り道を黙って見送るしか出来なかった。それから、早くレイトが虫のいないところに逃げることが出来るように祈るしか出来なかった。
帰り際に見せた、「ばいばい」と言うレイトの笑みが何時も酷く悲しかった。
頭に衝撃が走って後ろを振り向くと、そこにはリックが立っていて、キョロキョロあたりを見回すと、そこは巨大な滝の上で、隣には犬がぼんやりと下を見下ろしていた。
「何時まで寝てんだボケっ! 魚焼けたぞ。食わないなら俺が全部食うからな」
早口でリックがそう言うと、さっと踵を返して焚き火の元へ言ってしまった。焚き火には、リックが釣ったらしい木に刺さった魚が四匹、火にくべられて美味しそうにこんがりと焼けていたのを見て、あぁ俺も食う。と言いながら、ぐんにゃりしている犬を抱えて火の傍に歩み寄り、炎を挟んでリックの向かいに座って魚を一本火から取った。丸々した魚の背中からむしゃりと噛むと、うま味がじわりと口に広がった。今まで食べた魚で一番美味いんじゃないかというくらいで、多分、味にうるさいレイトに食わせても美味いと思っただろうなぁと思いながら、犬にも後で食わせてやろうと俺の膝を枕代わりにぐでんと横たわっている犬の頭を魚を持つ手とは反対の手で撫でてやると、リックが呆れたような声を出した。
「お前、泣くほど美味いのかよ」
手で拭ってみると透明な液体が目からほろほろ流れていたのに気づいたから、自分でも大層驚いた。けれど、おそらくそれはリックが言うとおり魚が美味すぎるせいなのだろうから、泣くほど美味いよと笑いつつ、犬の金色頭をかいぐった。
虫
歩いている途中、妙に足元が柔らかくなったと思って下を向くと、大抵細長いグズグズしたものが密集して蠢いているか、もしくは真っ赤に充血した目玉をぶちゅぶちゅ踏み潰しながら歩いているので、なるべく下を見ないように前だけ向いて歩いていると、時折躓いて転んでしまいそうになる。転んでしまうと黄色い粘液みたいなものが顔や手や服にこびりついて嫌な気分になるのだが、そうなるたびに、頭の斜め上の方角や壁にへばりついている目や天井裏に居る虫からゲタゲタという笑い声と俺を中傷する声が聞こえてくることの方がたまらなく嫌だったけど、それは小さいころからずっと俺の身に起きていることなので、流石に十年以上も続いて慣れっこになってきているつもりだったのだが、師匠が死んでからと言うもの更に悪化してきたような気がする。最初は靴底が少しばかりへこむ程度だったのが、今は一歩歩くたびに足首までずっぽりと床に見えるものにはまりこむので、えらく歩きづらいのだが、やつらがそのまま俺を転ばせてゲタゲタ笑いながら悪口を言おうとしている魂胆が見え見えすぎて、簡単に転んでやるのは大変気分が悪いので、何時しか俺は一歩歩くのでも酷く慎重になっていった。ところがそうやって転ばないよう慎重に踏みしめるように一歩ずつ歩くと、何が面白いのかメノス以外の例えば両親や使用人の頭の中に寄生している虫どもが奴らの顔と声を使って俺を酷く馬鹿にしたから、転ぶにしても歩くにしても酷く気分が悪くなる。だからさっさと虫だらけのこの世から逃げたいと思っていたのだけれど、そういう風に思っている俺の思考ですら、実は知らないうちにこっそり俺の中に忍び込んだ虫の子分みたいなのにそう思わさせられているらしいと気付いたのは、たしかというか、やはりというか師匠が死んで間もない頃だったような気がする。それどころか、俺の考える事や発する言葉の一言一句まで実は俺が虫に教えられているのだそうな。最初は頭の中で二重に音声が聞こえて、頭に入り込んだ虫が俺の言葉の真似をしているのだろうと思っていたけれど、どんどんその二重音声がずれてくると、実はその逆で、俺の方こそがその虫に言うべき言葉や考えるべき思考を教えられているのがわかってきた。頭の中から降ってわく様々な誹謗中傷の言葉と馬鹿笑いに「嘘をつくな」と一人言ってみても、その言葉すらが虫に先回りされて教えられて発しているのに気付いたら、いつの間にか自分がどうしようもない馬鹿になっているのにもついでに気付いた。
当たり前だろう。今まで積み重ねてきた言葉や文字や考えや勉学は、全て俺の中にある虫が記憶して、そいつが俺にこっそり教えてくれていたのだから、『俺自身』はまったくの空っぽなのだとそういう風に虫に思わせられたから、反論しようとするとその反論すら虫が先回りをして教えたからもう手も足も出ない状態だ。
「全く、酷い話だね」
それに気付いた夜に唐突に怖くなって、床に年がら年中気分が悪いらしい天井が吐いた真っ黒いゲロに毎晩集まっているべたくた虫を何時ものように足で払ってからベッドに潜り込んで、毛布を頭まで被って丸まりながら、俺は言ったつもりが無いのに、虫が頭の中で言った言葉がそのまま口から漏れ出した。天井はきっと木目の一つ一つが口みたいにくぱくぱと開きながら青い粘液を吐き出すミミズみたいなものを垂れ下がらせているだろうから絶対に見てやらないのだねお前はと馬鹿にするような口調が頭の中で、父親の皮を被った虫が金に物を言わせて呼んだ合唱団の合唱みたいに二重三重と反射して、俺が居なければお前は何にも解らないんだよ相当な馬鹿だねお前はと言われた。頭がいいなんて言われてたけどそれはおれのお陰なんだよおれが居なければお前は馬鹿のままなんだよそれなのに相手を馬鹿にしているお前は自分の事なんて全く解っていないくらいの馬鹿なんだよねぎゃたぎゃたけけけけええぇええええええぇぇぇぇぇと最後に笑い声みたいな悲鳴みたいなものが響いて頭が痛くなってうるさいうるさいと虫に教えられるままに呟きながら髪の毛を掻き毟ってようやく響きが消える。
それだけでもかなり参っていたのだが、虫が頭の中で物事を教えてくれる間は日常生活にはさして支障が無いからまだマシだったのだけれども、虫にいろんな事を教えられているにも関わらず、師匠が死んでからも虫から逃げる為の魔術を勉強し続けたのが仇になったのかどうかはしらないが、とうとうその虫が日常生活もままらなぬほどにおかしくなってしまったのはついぞ最近のことで、それがどんどん不可逆的になっていくのは随分戸惑ったが、俺が虫に感謝もせず反抗していたのが原因だろうから多分必然なんだろうと心のどこかではそんな状態を許容していたような気がする。
「レイトサマソロソロオベンキョウノオジカンデスノデチュウショクゴオヘヤニキテクダダダササササササ」
よく晴れた日に食卓にて一人昼食を取っている最中、傍に控えた使用人の皮を被った虫の口から俺の聞きなれている理解出来るはずの言葉が紡がれたはずなのに、べんきょうのおじかん、なのか、きょうのおじかん、なのか、それともか、きょうのおじ、なのか、俺はその言葉の一句一句を区切る場所とその意味が何故だか全く汲み取れなくて、今何と言ったか聞き返そうと口を開きかけた瞬間に、俺の中から言葉と言うものがぽっかりと抜け落ちているのに気が付いて、一瞬パニックに陥ったのだけれども、それから数秒するとようやく目の前に居る使用人が今さっき何と言ったかの意味を虫が教えてくれてから、俺が何を言うべきかも教えてくれた。そういう忘れたり思い出したりがぼちぼち半年以上も続いた中で、メノスにそのことを言うと、あいつは「言葉なんか忘れても俺のこと忘れなきゃいいよ」なんてアホみたいなことをクソ真面目な顔で言ったから、心の底から呆れたけれど、それよりもなによりもメノスの言葉がまだ解って酷く安心した。メノスは俺と違うタイプでおんなじくらい馬鹿だけれども、虫のことを言っても父親の皮を被った虫みたいに俺を怒ったり殴ったり暗い部屋に閉じ込めたりしないから好きだと思ったら、力がある分お前よりも馬鹿じゃないよねぇええぇえぇぇと妙に間延びした虫の声が聞こえたのだけれど、メノスにいつもやってくるみたいに手のひらで頭を撫でられたら、何時もは子ども扱いされてるみたいでイヤなそれのおかげで、一瞬だけ何だか色んなことがどうでも良くなった。
しかし、それから段々加速するみたいに虫はどんどんおかしくなりはじめて、一日十個以上の単語と言葉と一緒に人の名前までいっぺんに忘れるようになり始めた。人の名前と顔が一致しないで間違うと、あっちに寄生している虫は酷く怒るから、怒られるのは嫌だから忘れないために紙に書き留めてそれを肌身外さず持ち歩いたりしていたのだけれど、ついに文字まで忘れ始めたらしい頭虫のせいで、俺は自分自身が書いたはずのその紙片の記号が冠する意味を読み取れなくなってきて、ついでにちょっと前まで読んでいたはずの本まで読めなくなった。それどころかどこから沸いたのか部屋や世の中や人に寄生している虫が大発生しはじめた。部屋の中がグズグズと糸を引く虫で溢れかえっているのは、嫌だけれどもまだ我慢が出来るが、部屋を一歩でて他人と出会うと口だの耳だの鼻だのから黒くて太いウジムシみたいな人に寄生する虫が、怒ったり泣いたりしたときだけでなく、常時太い体を半分出させてたり、血みたいに真っ赤なゲル状の虫が汗みたいに皮膚にべったりとくっついて毛穴から出たりひっこんだりしながら体をぶるぶると蠕動させているのはどうしても我慢ならなくて、外では雨の中には小さなアリみたいなものが混ざっててかかれば体に潜り込んでこようとして小さな顎で皮膚に噛み付くし、木の幹は皮の一筋一筋が家の木目みたいにパクパク開いたり閉じたりして充血した赤い目が中から周囲を監視しているし、地面だって誰かを転ばせてあわよくば寄生して中から食らって乗っ取ってしまおうと狙っているのでどうしても外に出るのが嫌になった。自室のベッドに潜り込んで目を瞑って、一歩も出ないようにしても中に潜んでいる虫のべたべたする感触と壁を引っ掻くみたいな鳴き声がひっきりなしに聞こえる。メノスが家に来ても、もし彼が乗っ取られてしまっていたらと思うと怖くなって体調不良を理由に追い返すことが多くなって、ドアを叩いてこちらを呼びかけてくる使用人の声が時折虫の発するギジギジという鳴き声に聞こえたりして、それを振り払うように発せられる己の声の意味が自分でも意味の良く解らぬものになり始めたとき、師匠の死に際を思い出した。俺の記憶の中の師匠は顔を黒塗りにされてもう思いだせないけれど、師匠は死ぬ前に、「もう、耐えられない、からね。あれらに、食べられるのも、嫌、だからね」と酷くぎこちない言葉を紡いで、俺が目を放した間に首を吊ってしまった。俺の見ていた風景と、師匠の見ていた風景は少し違ったみたいだから、もしかしたら、師匠が見ていたのはこんな光景だったのだろうか。だとしたら、俺も今すぐ楽になりたいのだけれども、自殺をしたら地獄に行くらしいから、それが嫌だからこそずっと虫から逃げる術を探していたのに、死にたくないからずっと探していたのに、死なずに虫から逃げたいから頑張ったのに、食われたら楽になるのかな、食われたらどうなるんだろうわかんないけど、オマエよりも不幸なニンゲンは沢山居るのにオマエはなんて酷いニンゲンナンダロウネ。オマエなんて忘れられちまうよ。オマエが忘れたみたいにね。オマエが忘れたコトバもヒトも全部オマエを忘れるよ。
俺の思考みたいのと虫の声みたいなものがぐちゃぐちゃに混ざり合ったものが頭の中でぐわんぐわんと響いたら、虫が思わせていたらしい辛いのや悲しいのや憎いのやそんな感情がゴチャゴチャになってしまって、ふっと、一瞬意識が遠のいて、もう顔もつい先ほどまで覚えていたはずの声も思い出せない師匠が大昔に言ってたことをまた思い出した。言葉ではなく、そんなニュアンスで、完全にあれに食われたら体を乗っ取られて心と感情と記憶が分離して、逆にあれからは逃げれるかもしれないね。でも、言葉も記憶も心もばらばらになったら、それは人間とは言えないのかもしれないね。だから、私はやっぱり食われたくは無いね。
だとしたら、言葉を忘れてきている俺はもう人間でなくなってきているのかもしれないけれど、別にいいかもしれないと思った。どうせ周りなんて虫だらけで人間なんて一人も居ないんだし、多分もう数日くらいしたら言葉も記憶も虫に食われて全部忘れてしまうだろうし、この家には優しくしてくれる虫なんて一匹もいないんだし、それなら人間じゃなくなってもあれが見えない分逃げれた方が良いのだろうと思ったときに、とある顔がぽっと頭に浮かんだら、口から「メノス」という言葉が出てきた。殆どのコトバと人の顔と名前は忘れてしまったのに、まだコイツのことは顔と名前が一致するくらいに忘れてなかったんだなぁとぼんやり思ったら、こいつだけは例えあいつ自身が虫に食われていてもどうしても忘れたくないという気持ちに駆られて、どうしたら忘れないで居られるかと虫がグジグジ鳴いている頭で精一杯考えさせたら、体で覚えてあっちまで持ってけば良いんだとようやく虫の一匹が回答してくれた。
おおそれは名案だ。
あっちはどこだか解らないけれど、人間じゃなくなるなら人間であった俺はどこかへ行ってしまうんだろう。久しぶりにベッドから起きると、膝下までズブズブと床に埋まって、しばらく掃除しない間に虫が随分とたまったなぁと思った。ふらふらして力が出ないのは、食事に虫が入っているから殆ど食べなかったからなのか、それとも体の筋肉まで虫が巣食い始めているのかは解らなかったけれど、とりあえず動くからまぁ良いかと思った。虫に乗っ取られたり分離したりして人間じゃなくなるなら、一つくらいは乗っ取られても人間じゃなくなってもあっちに行っても忘れないくらいしっかり覚えておこうと思った。
門出
寝ているときに真夜中の部屋のドアをガンガン叩いてくる人間が居るから誰だろうと思ってベッドから起き上がってドアを開くと、そこには肩で息をするレイトが立っていて酷く驚いた。
彼とはここ暫く会いに行っても体調不良だからと出てきた使用人の人に追い返されたりして全く会えなくてとても心配していたのだけれど、ここに来たということは体調は少しくらい良くなったんだろうかと思ったから、もう体は大丈夫なのか? と尋ねると、レイトは「会いに、きたよ」とつっかえながら一言言った。それから、「良かった、解る。お、俺の、言ってること、解る?」と俺と会うのを拒むようになる少し前から頻繁に聞くようになってたことを、また一言ずつ確かめるように聞いてきたから、いつもみたいにうん解るよ。と頷いてから、「そこじゃあ寒いから入れよ」と言って部屋の中へ招き入れた。
騎士団の隊舎の部屋はとても狭いけれども、ベッドが一つと小さな机が一つ置けるくらいのスペースはあったから、レイトをベッドに座らせて、食堂でコーヒーを一杯くらい注いでこようと背中を向けると、俺の服の裾をレイトが掴んで引き止めたから、コーヒーを注いでくるだけだよ。と振り返りながら言うと、レイトは時間が無いからどこにも行かないでと途切れ途切れながら酷く切迫した様子で言った。
これはただ事ではないと思って「どうしたの?」と聞いた。そうしたらレイトはどこかゆらゆらと空中を少し眺めてから、ベッドから腰を持ち上げるとそこを指差して「寝て」とまた一言言った。どうして? と聞こうとすると「いいから」とぴしゃりと言われたので仕方なく、ごろりとまだ自分の温もりが残っているベッドに仰向けに寝転がると、俺より体の小さいレイトが覆いかぶさるように上に乗っかって顔を見下ろしてきた。
レイトの眼の下には深いクマが出来ていて、頬も少し痩せたように感じて心配したけれど、こうして会いに来てくれたのが何より嬉しかったから、いつかのように馬鹿な事を言って彼が気分を害して帰ってしまったら嫌だから、俺は何も言わないでされるがままになっていた。ただ、細い金髪が額にふわふわ当たるのがくすぐったかったから、「くすぐったいよ」と少しばかり笑いながら言うと、レイトはいつか見たようなとても寂しそうな顔をして「お、俺、メノスのこと、わすっ、忘れたく……ない、かっ、から。今から、嫌いになっ、なるかもしれない、けどっ、お、終ったら、嫌いになっても良いから」と、そう言った。
俺はレイトに会いたいと言われれば何時でも会うつもりだったし、嫌いになるつもりもないし、しかも俺がレイトを忘れることはあっても頭のいいレイトが俺を忘れるようなことも無いはずだから、何だかいつも以上によく解らないけれど、とりあえず震えるみたいな彼の口調は真剣そのものだった。何をするのか知らないけれど、今からしようとしていることはよほど重要な事みたいだから、腕を伸ばして普段みたいにレイトの手触りの良い頭をかいぐりながら「うん。嫌いにならないから大丈夫だよ」と言ってやった。そうしてもレイトは普段みたいに怒ったりしないで、ありがとうありがとうと、うわ言みたいに呟きながら俺の服を捲るように引っ張ったので「脱いでほしいのかい」と聞くとこくこくと頷かれた。
体をもぞもぞ動かして寝転がったまま服を脱いでやると、一応は剣士の勲章らしい演習やら遠征やらでこさえた胸やら腹やらにある細かい傷に、レイトが一つ一つ確かめるみたいに指を這わせたり舐めてみたりして少しばかり驚いたけれども、身じろぎすると睨まれたので黙った。しかしそれがどうにもくすぐったくて、何をしているのかだけでも尋ねようとしたら、いきなり「喋って」と言われた。
「何を?」
そう尋ねると、レイトは俺の腹と胸の筋肉を確かめるみたいに触ったり口付けたりを続けがら「何でもいい」と言ったから、少しばかり困ってしまった。喋るといっても何でもかんでも大抵のことはその場でぽんぽん忘れてしまう俺は、レイトが知ってる以上の大した話題を持っていないので困っていると、「ほんと、な、なんでもいいから、声、聞かせて」と絞るようにレイトが紡いだから、それじゃあつい最近会ったことから思い出せる順番にゆっくり話していこうと思ったら真っ先にくだらないことを思い出した。
つい最近まだ童貞だと言うことが周りにバレて、仲間数人に無理矢理連どこぞの色町にれて行かれたことを話した。そこで、周りに合わせるようにして女の人を一人買って、その人に教が教えてくれるままにやろうとして、胸を言われるがままに触ったら酷く気分が悪くなったのだ。
「えぇっとね、女の人の胸って、ぐにゃっとして柔らかいからどこからが皮膚で、どこからが中身なのかが解らないだろう。あと潰したら虫の中身みたいなものがブチュっと飛び出そうな気がして気持ちが悪くなったんだ。腹の辺りがグルグルしてその場で吐いちゃったら、その人に泣かれて物凄い怒られて殴られた。あんまり痛くなかったけど、申し訳なかったと思った。でも、俺は男の人も嫌いじゃないけどゲイではないと思う。だって俺はただ女の子みたいに柔らかいものが苦手なだけで、筋肉質でサバサバした女の人は嫌いではないからって何度言っても誰も信用してくれなくて困ったものだよ」
レイトは聞いているのかいないのか解らない。腕を指でなぞったり、俺の手から指先にかけてを丹念に舐めてみたり匂いを嗅いだりというのを一心不乱にやっている。くすぐったいけれども、そこまで嫌だとはやっぱり思わなかったから、次の話を考える。思い出せない。考える。思い出せない。
「えぇと、大分昔にレイトが言ってた、なんだっけ。そうだ。辛いや悲しいという感情が起きると、レイトは虫が寄生して怒ったり傷つけたくなったりするって言ってたからそういうの無くするためにはどうしたら良いか隊長に聞いたら、俺たちが戦ってそういう風に思わせないような世の中を作れば良いって聞いたんだ。でも俺はそれは違うんじゃないかと思うんだよね。俺たちが戦えば戦うほどそういうのは少なくもなるけれど、同じ分増えると思うんだよ。それでずっと考えてたら熱だして笑われたよ。馬鹿が難しいことを考えるからだって言われたんだけれど、俺はレイトに言われたように自分で馬鹿って表面上は認めないつもりだから、俺はそこまで馬鹿じゃないと言い返したけれど、あんまり説得力なかったかもしれないね」
レイトが今度は俺のズボンを脱がせようとする。流石に恥ずかしくなって、「どうしても脱がなきゃダメかい?」と聞くと、レイトは切羽詰ったようにダメと何度も繰り返した。
「じゃなきゃ、意味が無いから。それより、しゃべ、しゃべって」
俺はかなり迷ったけれど、レイトがどうしても脱げじゃなきゃ意味が無いと泣きそうな声で何度も言うから、仕方なくそれを脱いだらパンツも脱げと言われて脱いだ。大人になってから人前で素っ裸になるというのは、多分風呂場以外では初めてなんじゃないかなぁと頭のどこかでぼんやり思ったら、太腿から足先にかけても上半身にやったようにべたべたと触ったり舐めたりされる。汚いからというのもあるけど、そうしているうちに何か自分が酷く不謹慎な事をさせているような気がしたから止めようとすると、また、ダメだそれでは意味が無い。と今度は怒ったような口調で逆に制止されてしまった。
俺はレイトに怒られるのは慣れっこだけれども、こういう風に泣いたように怒るレイトはあんまり見たくなかったから黙った。黙ってされるがままになって、何を言おうか考えいたら、最近のいろんな事をすっ飛ばしてレイトと初めてあったときの事を思い出したからそれを口に出した。レイトのお父さんが流行に乗りたいからと形だけでも剣を習わせたのだけれども、レイトのやる気は全くゼロで、騎士団から派遣された隊長を初めとする手馴れの騎士や剣士をことごとく追い返したせいで、俺みたいなただ力が強いだけの末端が行くことになったらしいということをレイトの家に通いだした数日後に噂に聞いた。
「レイトは初めてあったときとても綺麗だと思ったんだよね。女の子じゃなくて男の子なんだけれども、いい匂いがしたし、色白だし、でも、突然虫の事をはなされてびっくりしたかな。頭の中には虫が居て、皆寄生されてるなんて始めて聞いたし、俺には見えなかったし、でも、それは俺も虫に寄生されてるせいだってのも教えてくれたのはレイトだったね。虫に完全に寄生されたら虫が見えなくなるって。そういえば、『メノスは馬鹿だけれども自分の事を馬鹿って言ったら、調子に乗った馬鹿の虫が増殖するから思っても言ったらダメだ』って言ってくれたのもレイトだったけれど、俺を馬鹿って言う人は沢山居てもそれまでそんなことを言ってくれる人は居なかったから正直嬉しかったよ。うん」
そこまで言ったら、レイトが初めてのそりと顔を上げて、
「嬉しかったな、なら、何より」
と片言めいた言葉を言って頷いた。
結局のところそれ以降はどうしたのかと言うと、それは俺から言うには忍びない上に、たぶんレイトにとっては俺を覚えるためだけの行為だと思うから、俺がどう思ったかとかそういうことは何も言わないでおこうとおもう。
なにより最初からレイトはこうするつもりだったみたいだし、だからこそ俺に「嫌いになってもいいから」なんてことを最初に言ったんだと思うから、俺は一生死ぬまでこのことは誰にも言わないでおこうと思った。
「ありがとう。も、もう良いよ。もう、全部覚えたから、じゃあねばいばい」
レイトは俺が服を着ている最中に突然立ち上がって、ぷいと背中を向けて出て行こうとしたから、待て待てと言いながら慌ててレイトの肩を掴んで引き止めた。普段なら引き止めるなんてことはしなかったんだと思うけれど、もう覚えたから良いなんてのは、一生さよならみたいな感じで、実際のところどういう意味なのかどうしても知りたかった。
「もう良いってなんだよ。今生のさよならみたいだぞ」
そう聞くと、レイトはゆっくりと振り返って、少し虚ろな目をこちらにむけて、多分さよならになると思うということを告げてきた。
「なんだよそれ。どういう意味だよ」
とすんとベッドの上にレイトを座らせて隣に俺が座る。レイトはレイトじゃないみたいに、暫く首を捻ったりして少し考えているみたいだった。それから、酷く言い辛そうに所々でつっかえながら、要するにもうすぐ人間じゃなくなるからその前に俺のことなるべく沢山覚えて行ければ良いみたいなことを言った。それから、そこは多分虫が見えない場所なんじゃないかと思っているということも言った。だから、俺とはさよならになるらしい。
だけれども、友達は俺しかいないから、俺とさよならになると、とても寂しいから体で覚えて向こうに持っていこうとしたとか、要約すると大体そんな意味のことをレイトは言った。
「ひ、引き止めない?」
と聞かれたので、俺は引き止めて欲しいのかな? と思ったけれども、レイトに限ってそんなことはあるまいと思いなおして首を振った。
ずっとずっと、俺と出会うよりも前からレイトは虫から逃げたくて勉強していたというのを俺は知っていたし、歳は少しだけ離れていても、レイトは俺にとってもかけがえのない親友だし、親友の門出を祝うのは友として当然だと聞かされていたし俺自身もそう思うから、俺は「止めないよ」と言った。
「ようやく虫から逃げられるんだね。よかった。よかった」
頷いたら、レイトがまた「寂しくない?」と聞いてきたから、これには少し考えて正直に「確かに少し寂しいけれど、レイトがようやく安心できるところに行けるなら、とても嬉しいよ」と答えた。そしたらレイトは少しだけ考えて、どこかに行っちゃったら、抜け殻が残るからそれをあげるからそのうち取りに来て。というようなことを言われた。
「た、多分、俺とそっくりだと思うから、寂しく、ないよ。寂しくなくなったら、捨てて良いよ」
俺は、解った。絶対取りに行くからと笑顔で言うと、レイトは「今までありがとうね。絶対忘れないからね」ということを言ってから、ふらふら立ち上がってドアから出て行った。
出て行く間際に何か一言どうしても声を掛けたい気持ちになって、急いで頭の中を探るのだけれど、中々出てこなくて、ようやく搾り出した言葉が、「レイトの行く場所は天国みたいな場所なのかい」だった。レイトは一瞬だけ真っ直ぐこっちを見て「多分」と一言言って、見間違いかもしれないけれど、笑ったような気がした。
ばたんとドアが閉まっても、出て行って送っていくことはしなかった。そんなことをしたら、何だかレイトを泣いて引き止めそうな気がしたから。
体温
宿屋どころか村を追い出されたのは丁度ニワトリが起きだすであろう時間よりも少々前のことで、空もまだ星月を農紺色の夜に抱えていたころだ。
俺自身何が何だかよく解らなかった。一瞬のうちに理解できたことと言えば、犬がかんしゃくを起こして、多分それからメノスが発狂したという見た事実そのままだろうか。
森の傍にある小さな村の、お世辞にも綺麗とはいえない宿で、料金節約のために、狭い一人部屋にメノスと俺と犬の三人もしくは二人と一匹で泊まった。メノスとのなんとも張り合いの無い話し合いの結果、俺がベッドで眠り、メノスは宿屋の主人に布団を一枚ベッドの隣に敷いてもらってそこで寝た。犬は、まぁいつもどおり部屋の隅っこに毛布か何かを敷いてやれば勝手に丸まって眠るだろうし、気に入らなければメノスの布団にでも潜り込むんだろうから放っておけば良い。
別に俺は旅の目的なんて無いのだけれど、メノスがあんまりにも何も考えてないから、眠る前に明日はどちらの方角へ進むかどうかだけ適当に話し合って眠った。いくらあての無い旅だと言っても、適当に進んで何十日も野宿生活なんてされたらかなわない上に、もし回りに回って逆戻りして帝都になんて行ってしまった日には、俺がどうなるか解らないからな。
「リックが居ると、次にどこに行くべきか解りやすくてとてもありがたいよ」
そんなメノスの言葉に「いつも言ってることだがもう少し考えて行動しろよ馬鹿」と言って、ベッド脇に揺れるランプの炎を消すと、メノスの苦笑がほんの少しだけ闇に聞こえた気がした。
本当に何時もと同じ宿屋の夜のはずだったのに、それから眠って数時間もたったころ、俺は突然の絶叫に飛び起きた。小さい村にありがちな夜盗が襲撃してきたか、もしくはメノスが何かやったのかという検討は飛び起き直後の半ば寝ぼけの頭でも考え付いたのだけれども、その絶叫の原因は夜盗でもメノスでも無く、普段はメノスに担がれている何を考えているのか解らないどころか、生きているのか死んでいるのかすらよく解らない犬が、部屋の隅から何も無い闇の虚空に向かって、悲鳴に近い絶叫を発して鳴いていていたのには酷く驚いた。わんわんという短い声は何時も聞いているのだが、ぎゃいいいぎゃあああという声を聞くのは初めてで、その声はさながら断末魔の叫びにも近いのではないかと、慣れない状況にパニックを起こしたはずの頭が、やけに冷静に分析しているところに、もう一つの影が犬に負けず劣らずの何か大声を出しながら暗くてもわかる銀色の軌道を残しつつ、長い剣をぶんぶん振り回して大暴れの、音だけでも一体何をしているのか検討のつくような大音量で部屋をがつんがつんぶち壊している最中ということに気が付いた。もちろんそれは言わずもがなメノスであって、犬の断末魔の如き悲鳴の中で、こちらも必死に見えない何かを切り払うように大きく剣を振って何も居ない木造りの天井や壁をどかんどかんと力任せに切りつけながら、ここかあぁぁぁ!! ここにいるのかあぁぁぁ!!! 出てけぇぇぇ!! どこかにいっちまええぇぇ!!! と奇妙に間延びしたような絶叫を発している。
「何してんだこの馬鹿!!」と慌ててベッドから飛び出して止めに入ろうとすると、銀色の剣の切っ先がブンッと空を切る音を響かせながらすぐ目の前を横切った。剣の衝撃に断裂した前髪の毛数本が、はらはらと自分の鼻の頭を掠めながら落ちていくのを感じながら、暗い部屋に、先ほどまではよく見えなかったメノスの顔を、窓辺から差し込んだ月明かりに照らし出された今、はっきりと見た。
俺は、初めてメノスを『怖い』と感じた。
へたり、と腰が抜けてベッドの上に座り込んだ俺を、近寄ってきたメノスが見下ろしている。普段は見下ろされてもどうとも無いはずなのに、それどころか逆に頭の一つも叩いて「落ち着け馬鹿」と声を掛けることが出来るはずなのに、頭の中ではひっきりなしに警鐘が鳴り響き、必死に逃げなくては逃げなくてはとがなり立てていて、けれども俺は腰が抜けて指一本動かすことすら出来ないどころか呼吸さえも止まったような気がした。
メノスの剣を持った手がゆらりと動き、何故か俺は本気で殺されると思っている。しかし、その剣が俺を切りつけることはついぞ無く、剣はあるべき鞘に収められた。何時の間にやら犬は鳴き止み、その虚空を映す蒼い瞳で、何時ものようにどこか違う場所を見つめていて、開いたドアには騒ぎに駆けつけた宿の主人と宿泊客とご近所に住んでいるらしき村の皆様がご丁寧にも集まっていた。
「驚かせたね。ごめんね。虫がね、居たみたいだから、追い払ってたんだよ。俺には見えないけれど、犬が凄く怖がるからね。リックに会ってからは犬が怖がらないから、もう出ないものだと思ってたし、俺ももう出なければ良いなと思ってたけれど、違ったみたいだね。ごめんね。びっくりさせた」
暗い森の中、歩き回って薪を探すことも出来ず、夜鳴く鳥すら眠りについたであろう静かな闇で、隣に座ったもう怖いともなんとも思えないメノスの口から飽きるほど発せられる謝罪の言葉を半ば聞き流しながら、ほんの少し肌寒い気がするが、まだ暖かい時期で本当に良かったと俺は思った。
あの直後、部屋を半壊させた俺とメノスと犬は「弁償しなくて良いから早く出て行って下さい」とやけに丁寧な物言いで宿を追い出され、村もついでに追い出されて、村から程近い森の中で夜が開けるのを静かに待っている。もしかしたら、メノスが部屋の中で『見えない何か』を相手に絶叫しながら大暴れしているのを目撃したんだろうか。そうしたらあの丁寧な物言いも弁償しなくていいなんて普通ではありえない言葉も辻褄が合う気がする。単に力が強いだけなら、あの手の宿屋は慣れているだろうが、発狂した人間なんぞは慣れている、慣れてないに関わらず普通に関わり合いになりたくないだろうしな。その証拠にあの宿屋の主人も村の人間も、話しかけたのはメノスでも犬でもなく傍から見れば一番まともそうに見える俺だったから、多分間違い無いだろう。
「久しぶりの宿屋も追い出されてしまって、本当にごめんね。謝っても、許してくれないかもしれないね。でも、言い訳になってしまうけれど、俺は虫を追い払う方法がわからないから、ああいう方法しか思いつかないんだよ」
良いよ。もう怒ってないからと先ほどからメノスに言っているのだけれど、彼は納得しないのかそれでも何度も何度も馬鹿みたいに俺に謝ってくる。犬は先ほどの絶叫が嘘のように大人しくなっていて、大木の根元に座っているメノスの傍にぐんにゃりうずくまって、どこかよく解らぬ場所をぼんやりと見つめていた。メノスが言うには、犬は俺に会う前からこんなことがよくあったらしい。彼の言葉は要領が悪すぎて聞いてもなんだかよく解らないのだけれど、犬には俺やメノスや他の人には見えない『虫』という精霊でも幽霊でも魔物でも無い何だかとても怖いものが見えているらしいから、それをメノスが剣を振り回して追い払っていたらしい。本当はメノス自身もきちんと追い払えているのかは知らないけれど、何もしないよりはそうして追い払うフリをしている方が気持ち的に楽なんだそうだ。けれど、月明かりに俺が見たメノスの表情は、明らかに憎しみを通り越し、いっぺんの呼吸すら出来ないくらいに狂おしいほどの殺意であって、決して自分を沈静させようという目的ではなかったように感じた。多分、メノス自身は自分がそんな顔をしていたなんてことは解っていないのだろうけれど。
「本当にごめんね。今度は驚かせないようにするからね」
未だに謝ってくるメノスの不安げな顔を見ていると、少しでも怖いと思った自分が馬鹿らしくなってきて俺はメノスの額を指でぴんっと弾いたら、メノスは「はうっ」と情けない声を漏らして弾かれた額を抑えた。この程度では彼は痛いなんて感じないだろうけれど、それでも落ち着かせるには十分効果があったらしく、「うるさいからもう謝るな。謝るくらいならもう暴れんな。何かあったら俺にも言え」そう言ってやると、メノスはようやくにへらと笑って子供みたいに頷いた。それから、傍にぐんにゃりしていた犬を抱き寄せて、「犬もごめんね。また、怖い思いさせたね。でも、もう大丈夫だからね」と言いながら、犬の頭をいつものようにかいぐった。そうやって犬の頭をかいぐる彼の姿は、俺と居るときの何十倍も楽しそうな顔をしていて、そういえば、メノスは犬のためなら何でもしているのを思い出した。道中ずっと背負って歩いたり、街に寄れば必ず、どんなに無感動でもプレゼントを買ったり、身の回りの世話をしたり、必死に剣を振るったりしていて、そう思うと、何だか妙な気持ちになった。少しの疎外感と、犬への羨ましさがない交ぜになったような、そんな気持ちで、どう頑張ってもこの二人もしくは一人と一匹の絆の中に俺は入れないような、そんな気がした。俺がこいつらにくっついているのは、多分、力は強いのに何故か危なっかしくて見ていられないというなんとも不思議な状況や、自分もメノスの言うところの天国とやらをほんの少し見てみたいというのもあるだろうが、一番はやっぱり、メノスが昔の親友に少しだけ似ているから。というのもあるのだから、これは犬に対するやきもちなんだろうかと思った。俺は、信じていた親友から、文字通り売られるという形で裏切られ、しかもそれが未だに信じられないでいる。だから、ほんの少しでも彼に似ているメノスに可愛がられている犬がとても羨ましく思っているのではなかろうか。そう考えたら急に恥ずかしくなって、八つ当たりみたいにメノスに周りの見張りを押し付けて寝てやろうとメノスに背を向けて、背もたれ代わりにしていた木に横半身を寄りかからせて目を瞑ると、ぐいと体を引き寄せられたのを感じて、気付いたらメノスの顔が頭のすぐ上にあった。
メノスが、俺と犬を両腕に抱えていた。メノスから逃れようとじたばた暴れても、多分誰よりも強いメノスの腕力を外すことは出来なくて、恨みがましげに睨むと、メノスはへらりと笑って、いけしゃあしゃあと「火が無いから、三人くっついた方が暖かいからね」なんて言いやがった。
「俺はお前の暖房じゃねぇぞ!」
がぁっ! と唸るように言ったら、メノスはうんうん解ってるよ。なんて言いながら、やっぱり俺を放してくれるような気配は無かったので、仕方なく黙ったら俺の体温とメノスの体温と犬の体温とで段々暖かくなってきて、ほんの少しばかりうとうとしてしまった。
そのせいで、メノスに犬みたいに頭を撫でられても、文句を言うタイミングを見逃してしまったので、後で仕返しにコキ使ってやろうと、メノスの腕の中で不本意にもやけに満たされた心の中ぼんやり考えた。
睡眠
最近どうにも、眠くて仕方がないような気がする。
最近と言っても、俺の記憶はあってないようなものだから、感覚的にしか解らないのだけれども、どうにも意識がふつりと途切れたり、また繋がったり、そんな感覚が体のどこかに残っていたりして気分が悪い。
目の前を歩いている鳶色の彼が、ことあるごとに漆黒の彼をよく撫でようとしている。それを見るたびに、どうにも昔感じたような感覚が呼び覚まされるような気がして、そしてふつりと途切れて、あれ、今まで俺は何を見ていたのだろう?
目の前に居る漆黒の彼が、鳶色の彼に対して怒っているけれども、何故怒っているのか、俺にはもう解らない。言葉が解ればどうして怒っているのか解るのだろうけれども、俺にはその言葉が聞こえていても理解する事が出来ないから、やっぱり解らない。前はもう少しくらいは目の前で起きたことを覚えていたような気がするけれど、最近の俺はほんの十分ばかりで記憶が無くなったり変形したり捏造されたりしているような気がする。そして、記憶が変わってしまった後は、必ずと言って良いほど、心の中にほかりと穴の開いたような感覚があるのは、多分気のせいではないのかもしれない。どうしてこんな風になったかは解らないのだけれども、そうして心にほかりと穴が開くような気がするたびに、そろそろ俺はこの二人から離れなければならないんじゃないかという気がしてきたりもするのはどうしてだろう。そういえば、もっと前は鳶色の髪の彼と漆黒の髪の彼のほかに、もう一人誰かが居たような気がするのだけれど、それはいったいどんな人間だったっけ? もしかしたら、それすらも俺の記憶違いかもしれないけれど。それに、歩いている道や景色も、前はこんなに真っ白じゃなくてもっと色が会ったような気がする。たとえばそれは地面の色だったり空の色だったり、なのに、俺の目の前には鳶色の髪の彼と、漆黒の髪の彼以外に色は白しか見えない。彼らが白い中をてくてく歩いていて、たまに座ったり横になったり笑ったり怒ったり話したりしていて、俺はその後ろにくっついていって真っ白な中で意味の解らない言葉に耳を傾けたり傍に座ったりしている。例え雪だったとしてもそれはとても冷たいもののはずで、こんなに何の寒さも暖かさも感じないのはとてもおかしいはずなのに、俺は何の違和感も感じていないのは、一体どういうことなのか。そういうことも前にちゃんと考えていたはずだから、これは一体何度目の疑問なんだろうということもついでに考えたけれど、多分、疑問に思ったこともすぐに忘れてしまうのだろうから意味などないのかもしれない。
それにしても、眠たいなぁ。何度目を擦っても、眠気が治まらない。前まではこんなことは無かったような気がするのに、変な話だけれども、歩きどおしでも、眠気どころか疲れすらも感じなかったような気がするのに、今は何故かとても疲れて眠たくて仕方がない。そういえば、もう随分とこの目の前に居る二人にくっついてきたような気がするけれども、二人ともどこに行こうとしているんだろう? 昔は、彼らがどこへ向かっているのか、ほんの少しだけわかっていたような気がするけれど、今はそれすら忘れてしまって、何だか少し寂しい気がする。たしか、鳶色の彼と忘れてしまった何かに関係する何かだったような気がするけれど、最近なんだかとても懐かしい笑顔を浮かべる彼を見ていると、そろそろ自分という存在が必要ではなくなってきたのではないかと漠然と感じてしまうときがある気がするから、もしかしたら俺はどこかの『場所』に関係するために居るのではなく、『鳶色の彼』に関係するために居るのかもしれないと考えたら、また眠気が一層酷くなったような気がした。
目の前を歩く彼らに、聞こえているはずがないだろうと言うことを解っていながら、眠いから少しだけ休まないかい。という意味の言葉をなんとかかんとか発してみようとしたけれど、口を開けたところでやっぱりそれをどういう風に発音して良いのか解らなくて仕方が無く断念したのだけれども、やはり眠くて眠くて、少し立ち止まってしまうと、いつの間にかもう鳶色の彼も、漆黒の彼も遠くの方を歩いていて、慌てて追いかけようとしたけれどどうにも追いつきそうに無い。前なら何が何でも追いかけていたような気がするのだけれど、何だか今はそんな気持ちにはなれなくて、俺はその白一色しかないくせに、やけに暖かな中でごろりと横になって目を瞑った。目を瞑って、何故かはよく解らないけれど、心の奥底の方でほんの少し自分の居場所を取られたみたいな寂しさと、彼ならもう大丈夫だろうというような漠然とした安心感を感じていた。
だけど、彼って誰だっけ? 解らないけれど、多分大丈夫だろう。
忘却
ここが生前師匠が閉じ込められていた部屋だと虫に教えられてようやく気付くのに丸三日かかった俺は、やっぱり虫に食われて馬鹿になっているんだろうと思ったけれど、床も壁も天井も、備え付けの家具も部屋の隅っこにあるむき出しの便所にもすべて、細かったりふと短かったり赤かったり黒かったりする虫がびっちりと密集してぐじゅぐじゅと蠢いているから気付かなくても仕方がないだろうと虫に頭の中で慰められるように言われた気がした。
窓とドアには鉄格子がはめられていて、部屋からあふれ出した虫は鉄格子の外にも出て行ってるけれど、あの虫は一体どこまで密集して溢れているんだろうとあまり意味の無いことを考えたら虫がわんわん鳴いて頭が痛くなったから考えるのをやめたのだけれど、自分の口からは自分でも意味がよく解らぬ単語なんだか言語なんだか鳴き声なんだかが、メノスとさよならを済ませて家に帰ってここに放り込まれた時からずっとだだ漏れになっているらしいのは漠然と気付いていたが、どうやってその自分の口からあふれ出す音をとめれば良いのか、俺はすっかり忘れていた。ただ、口が渇いたら俺を転ばせようと企んでいる虫の中を転ばない体制つまるところの四つん這いで冷たくて虫で柔らかい石床をずりずり這っていって、虫に何か誹謗中傷めいたことを言われながら何かの獣のように水を飲もうとするのだけれど、その水の中にも何千匹もの細かい虫が浮いていて飲むのを躊躇するとまた虫が誹謗中傷を始めるから虫ごとその小汚い水をじゅるじゅる飲み下すのだけれども、その飲み下した虫がまた体の中でぐりゅぐりゅと虫が蠢いているように感じるからそれが気持ち悪くて黄色い胃液のようなものと一緒に水を吐くと喉が焼けてさらに一層喉が渇くという悪循環が繰り返されて、そしてそのゲロの中のボウフラみたいな虫が一つに固まって唇のような真っ赤な器官を作り出すとパクパクと開いたり閉じたりしてぎちゃぎちゃと笑ってそのまま俺を飲み込まんばかりに穴が広がるのがあまりにも恐ろしくて、俺はまた自分でも抑えられない悲鳴をぎゃあぎゃあ上げて泣いてしまうのだけれど、恥ずかしいという気持ちはどこかにふっとんでしまったのか虫に食われてしまったのかそういうことは毛ほども思わなかった。けれど、そうやってぎゃあぎゃあやっていると鉄格子の向こうから虫の皮を被った暫定父親らしき人物とその手下の虫がやってきて何度も何度も鉄格子越しに俺を怒鳴りつけるけれど、その声もまた虫と同じくらい怖くて俺はまた半ば半狂乱にぎゃあぎゃあやってしまうと「お前もまたお前の兄と同じか」という言葉を投げかけられて彼らは半ば虫に食われた俺でも解るくらいの落胆と諦めの表情を浮かべると逃げるようにすぐ何処かへ行ってしまった。
言葉の意味は汲み取ることが出来なかったけれども、俺が何か物凄く失望されていることは何となくわかったけれど、虫なんかに失望されてもちっとも嫌だとは感じなかったのは不幸中の幸いなのかどうかは解らないが少なくとも恐ろしいものが一つ何処かへ行ってしまったのは良いことなのではないかと頭の虫が囁いた。しかし目の前にある現実もとい虫が俺の中から居なくなることはなく、そういう時は必ずしっかり覚えたつもりでいるメノスの顔や声や味や体つきや抱きしめられたときの感覚や撫でられたときの感触なんかを思い出してあぁ、まだ覚えていると思うと安心することが出来た。もしかしたら俺の中のメノスは既に変わってしまっているのだけれど俺がそれに気付かずに居るのかもしれないが、そういうことは怖いのでなるべく考えないようにしている。
ゲロを吐くくらい虫にぎゃーぎゃー叫んで思い出せるときにメノスを思い出して、そういうことがどれくらいたったか解らぬ程になったころ、不意に何か脱皮でもするみたいにズルリとずれたような気がしたら、とたんに虫が見えなくなった。変わりに見えたのは、垢や排泄物や胃液の付着した大層汚い服を着て、ぼさぼさの金髪に死んだような目をした少年が一人何事かを呟きながら冷たい石床を這いずっているという何とも不思議な光景で、はてこれは一体なんだろうと思った途端自分の頭が偉くスッキリしているということに気が付いた。辺りを見回すと、確かにそこは今現在俺がいて昔師匠が発狂して自殺するまで閉じ込められていた独房で、先ほどまで虫に溢れかえっていたはずなのに、今は薄汚い少年が一人暗い部屋の石床を這いずってるだけで、あの頃見た家具もベッドもそのままの、一つ違うのが虫の居ないだけというただの独房だった。
ということはと、その床をぐずぐずと這いずっているその少年に近寄ってよく見れば、それは確かに俺なのだった。けれども別段驚くことも無く、あぁ俺こんなに汚くなってたんだなぁと冷静に観察してから何故自分が分裂したかということを考えると、理由はよく解らないが、おそらく大昔に師匠が言ってた気がする私を構成する心と記憶と感情の集合体、いわゆる『魂』という奴が出てきてしまったんだろうと思ったら『私とは何だろう。私の感情、私の記憶、私の心、私の頭、私の腕。記憶喪失になっても記憶喪失になった私は続いていく。ならば私は何だろう?』という師匠の言葉を久しぶりに思い出した。なるほどつまり今ここに居る虫の見えない俺は『虫の見える俺』で、こっちにいるのは『虫の見えない俺』なんだな。
そうまんまのことを思って一人納得していると、目の前の俺が何かをぶつぶつと呟いている。め、めの? めのす? それは一体誰だったっけ。確か物凄く大事な事のような気がするけれど、思い出せない。多分、俺の中から俺が持って来れなかったんだろうと思うと、突然頭の中がまたざわざわと混線しはじめて目の前に俺がいなくなる代わりに周りが虫に溢れかえっていた。俺は一体今まで何を見ていたんだっけと考えるまもなくそれは虫のざわめきと恐怖に包まれて、忘れまいとしていたメノスを思い出した。
そうやって出たり引っ込んだりを繰り返しているうちに最後にずるりと俺から飛び出たときは今まで以上に頭はスッキリしていたのだけれど、虫が見えないのが嬉しいということが解るだけで何か肝心な事がすっぽりと抜けているようなそんなスッキリ具合で、目の前で俺がぶつぶつと発している言葉の意味もよく汲み取れなかったのは、おそらく出たり戻ったりしているうちに肝心な事はあっちの汚い俺の中にある虫に食われてしまったんだろうと思ったのだが、今覚えている事も手のひらから砂が溢れるみたいにもしくは編んだセーターを物凄い勢いで解くみたいに記憶という記憶が無くなっていくのを感じていたから、恐らく、それは俺というものを構成する記憶と心と感情のが分離し崩壊し始めているということなのだろう。だけれども、言葉も喋り方も目の前でぐずぐずやっている薄汚い少年が俺だということもどんどん早回しに忘れていっても、一つだけどうしても忘れたくない奴が居て、今ここにこうして飛び出ている『魂のかけら』たる俺が本格的にいなくなったら、そいつが凄く寂しがるということだけは何となく解ったから、俺はどうしてこんな場所に居てこんな薄汚い少年を見て居るんだろうということを思いながらも、その薄暗い独房を一人で勝手に出て行きたいとは思わなかった。
寿命
犬が体調を崩したのは、ついぞ最近のことで、そろそろ冬も近づいてきた短い秋の頃だった。
この辺りの土地は冬がとても厳しいらしいから、どこかの村か街で冬を過ごさなければならないかもしれないなぁなんてことをメノスとぼんやり話しながらのんびりと街道を歩いているとき、少し後ろを歩いていたメノスが手を伸ばして俺の頭を撫でようとしてきたので、俺はそれを横に避けてから睨みつけると、メノスは少しばかり残念そうに肩を落とした。近頃のメノスは何が楽しいのかことあるごとに俺の頭を撫でようとして、休んでいるときどころか歩いているときでも実行しようとするので俺は常に頭上には警戒を払っていた。撫でられてたまるか。
向こうの方に寒そうな雲が頂きにかかった空を分断しそうなほどに高い山脈が見えるけれど、まだしばらくはなだらかであろう街道にぽつりぽつりと生えている木々はすっかり葉が黄色くなり、北風がひゅうと頬を掠めて行った時、メノスが「あ」と声を出して立ち止まった。どうした? と声を掛けると、メノスは背中に括っている紐を外して犬を背中から短い枯れかけた草が生えた地面にそっと下ろした。
どうしたのだろうと見てみると、相変わらず虚ろな目をしているけれど、それでも普段は用足しの合図くらいはくんくん鳴いて送ってくる犬が小便を漏らしていて、自身の下半身とメノスのくすんだ象牙色をしたマントをしとどに濡らしていた。
「あぁ、お前、ついに便所のしつけも忘れてしまったのかい」
自分に小便をかけられたことを怒るより、トイレのしつけを忘れられたことに、メノスは珍しく落胆したような溜息を漏らしてから、ぼんやりしている犬の頭をかいぐって、濡れた服を随分器用に脱がせてやってから、殆ど犬のための荷物に占められているメノスの荷物入れである麻袋から今着ていたものと似たような感じの犬の着替えを出して、まるで自分で着ているかのように上手く着せながら、「次の町か村ではおむつも買わなきゃいかんかもしれないね。もう一度しつけてみるけど、ダメかもしれないから、その時は少し迷惑をかけてしまうかもしれないけれど、良かったら許してね」と、俺に言ってるんだか犬に言ってるんだか解らないような妙な塩梅で呟いたから、「許すも許さないも、もう放っておけないだろう」と口から出てくるままに返してやると、メノスはあぁ、ともうん。ともつかない声を発してから、「ありがとう」なんて言ってきた。
山脈付近の小さい割に潤っている町に着いたのはそれから二日ほどで、道具やら食料やらを買いながらさりげなくカウンターの向こうでせわしなく俺の買い物の金額を計算している店主に聞いてみると、どうやらこの町から次の町に行くには絶対に山越えをしなければいけないらしいが、この時期に山を越えるなんてことは無謀極まりないらしく、どうやら冬が終るまではこの町に留まらなければならなくなりそうだ。それならどこに泊まれば良いかと少し太り気味で髭をたくわえた店主に聞いてみれば、冬越えだけしたいなら、町外れに誰も住んでない小さい空き家があるから、役場に言ってからそこを使えば良いと教えてもらった。とりあえず、三日ほど今の宿屋に泊まってからその間に空き家を見てどうするか決めようと思い、宿屋で犬と待っているであろうメノスに伝えようと、店主に必要な料金よりも少々大目の金額を支払って店を後にした。
犬はあれから、食事を一切受け付けなくなった。鼻先にパンを持って言ってやっても、少しばかり匂いを嗅いだだけで、ふいと向こうを向いてそのまま目を瞑って寝てしまう。犬は食べたり食べなかったりする日があるので、最初はただの気まぐれだと思ったのだけれども、三日も全く食べないのは初めてで、心なしか弱っていってるようだったから、心配したメノスはこの町についてからずっと犬の傍についている。俺としても、少々心配になってきたから、こうして買い物に出て、ついでに何か犬の好きそうな食べ物を探してみるのだけれど、メノスと違って俺は犬の好みがさっぱり解らなかったから、俺の好きな乾燥させた果物を先ほどの店で一緒に買ってみたのだけれども、食べてくれるだろうか?
そう思った時、通りに並ぶ茶色いレンガ造りの家と家の隙間から、ひゅうと冷たい風が吹いてきて、本当に冬が近いんだなぁと、今にも雪が降り出しそうな空を見上げてから、俺は少し首を竦めて早足に宿屋に戻った。
ドアを開くと、部屋の隅で毛布にまみれてうずくまっている犬の頭を一定の間隔でかいぐっているメノスが、ゆらり、とこちらを向いた。その顔からはどんな感情も読み取れず、ただ「犬が死ぬ」の一言をぽつり、と普段だらだらと喋り続けるメノスらしからぬ短い言葉が発せられた瞬間、俺は手に持っていた荷物の入った紙袋を取り落とし、散らばる荷物をそのままに走るように犬の傍に駆け寄って鼻先に手のひらをかざすと、犬が苦しげにきゅぅんと鳴いて、へろ、へろ、と俺の手のひらを二、三度ばかり薄白くなった舌でもって舐めた。まだ生きている。俺が部屋から出て行く時は、具合が悪そうにしていたけれども、まだここまで弱ってはいなかったはずだから、急激にこうなったんだろうかと思ったら、メノスは犬の手を握って、何も感慨をも写さぬ瞳でぼんやりと犬を眺めて一言、「寿命だ」とまた呟いた。
何事かと思ってメノスのほうを向くと、彼はいつものメノスらしからぬ、どちらかと言えば普段の犬に近いようなどことも知れぬ場所を見ているような目をして犬をじっと見てまた言った。
「犬は人間より、長生きできないから。竜とか、亀にすれば良かったのかもしれないけれど、俺より長生きするのは可哀想だし、それに犬ならちゃんと主人に懐くし、ずっと忘れないから、そうしたいと思ったけれど、やっぱり、我侭かもしれないけれど、俺のことなんか忘れても良いから、ずっと一緒が良かった。もう少し、一緒にいられると思ったけれど、犬は良い子だから、もしかしたら、解らなかったけど、ずっとしんどい目にあわせていたせいかもしれないね。ごめんね、犬。天国は誰も戻ってこないくらい良い所らしいから、そこで待っててね。今までありがとうね」
メノスの言ってる意味はよく解らないが、何か最後の言葉を犬に聞かせているらしいことは何とは無しに解ったので、全力で、思い切り上から手を振り落としてメノスの頭を叩いた。恐らく彼にはこの程度では痛みなんぞ毛ほども感じないのだろうけれど、それでも縁起でもない話を止めるだけの効力はあったらしく、メノスはびっくりしたようなきょとんとしたような顔になった。
「早く行くぞ」
一言短く言うと、メノスは馬鹿みたいにぽかんと口を開けたので「早く医者に連れて行くから背負え馬鹿!」と怒鳴りながらぐでんとなった犬を抱き上げると、普段のじゃらじゃらした装飾品を全て外しているとはいえその軽さにびっくりしたが、そんなことで一々立ち止まっていられないので、何か言いたそうな顔をしているメノスを無視して無理矢理メノスの背中に乗せた俺は彼の尻を叩いて羊飼いのようにメノスを部屋から追い出すとそのまま町の病院に向かわせた。
町の隅のほうにある比較的大きめの病院に犬を連れて行くと、初老の医者が犬を見てくれたのだけれども、八つほどのベッドが置かれた診療室兼入院用の白い大部屋のうちの一つのベッドの上でぐったりしている犬に何かの薬品を嗅がせて、ある種の呪文を聞かせ、いくつか俺たちに質問のやりとりをした後、何らかの魔術でも病気でもあるわけで無く、どうしてこうなっているのかさっぱり分らないのだと言うのを聞いて、メノスはさも当たり前のように「犬は寿命だし、人間の医者が犬の病気を治せないのは当たり前なのですから、仕方ないことなんですよ」なんてことを言い出した。
メノスがこういうことを言うのは別段いつものことなのだけれど、医者の前や犬が死にそうであるのにまだこういう言い方をするのは、もしかしたらメノスも何らかの病気なのかもしれないと心の隅で思うと、医者も同じことを思ったのかは知らないが、今日は患者も少ないし、犬に付き添うという形で病院に泊まっていくのを強く勧められた。
確かに見渡す限り、この八人部屋のベッドには誰も入院していないが、俺はあまり病院という場所は好きでないから泊まりたくなかったのだけれども、メノスがどうしても犬と一緒に居たいというので、一人で宿に帰れば良いものを一緒に泊まってしまうことを決めてた俺は、既にメノスと犬という存在を放っておけないくらい入れ込んでいるのだなぁと一人ずれたようなことを考えていた。
犬はその翌日の朝、まるで眠るように息を引き取っていた。
わん
初めて外で夜を過ごしてから見た朝の空は、レイトの目みたいな青い色をしていて太陽の色はレイトの髪みたいだと思った、白い雲がその中をぼんやりと流れていて、柔らかな草ともあいまって、ごろんと寝転がっていてなんだかとても気持ちが良いなぁと思ったら、あまり痛みを感じない俺には珍しく手のひらがずきんずきんと痛んだので空にかざすようにして見てみると、太い紫色の線がついていたのは、多分鉄格子を無理矢理に曲げたせいだと思った。
ふと横を見ると、前はレイトだったものがぐでんと横に寝そべっていた。顔はぱっと見レイトにそっくりの癖に、潔癖症気味のレイトとは違って何かの染みのついた小汚い服を着ていて、しかも何日も風呂に入ってないようで野良犬みたいに臭ったし、なにより俺を見ても名前を呼んでくれなかったから、これはレイトじゃない抜け殻なんだと鉄格子越し出会った瞬間に一目見て解ったうえに見れば見るほどレイトとはかけ離れているように感じる。
レイトとさよならをして、数日後にレイトを迎えにいってもレイトの家にいれてもらえなかった俺は、考えて考えて、夜にレイトの家にこっそり忍び込んでこれをつれて来たわけだけれども、あちこち家探ししているうち、自分では知らぬうちに大きな音でも立てていたのか、入ってものの五分のうちにバレた。雇われ兵士とやや交戦しつつもレイトの抜け殻を見つけて帰ろうとしたら囲まれてしまって、その中にレイトのお父さんも居たものだから、家に入れてもらいに出向いたとき同様、きちんとこれはレイトではなく抜け殻で、俺はレイトに抜け殻を貰う約束をしているからと説明したにも関わらず、何やら家の恥を外に出すわけには行かないとかどうしても返さないなら殺すとかやけに物騒な事を言われて迫られた。多分、自分の息子が中身だけどこかの天国に行ってしまったのが信じられないのだろうから少々哀れに思いつつも俺の言葉での説得はどうにも無理そうだったので、こうして国から出てきた。多分、森二つ抜けたここまで来れば、レイトのお父さんの私兵でもついて来れないと思う。多分。
よいしょと起き上がり、俺に触発されたのか草の上でうずくまっている状態から上半身をもそりと上げて両手を着いて座っている薄汚いレイトの抜け殻を見下ろすと、何やら人間語めいたものをもごもご喋っている割に何を言っているのかよく解らない。汚れているせいでごわごわになってしまった金髪をいつもレイトにしているように撫でて指で梳かすようにしてみると、細い髪が指に絡み付いて思うように撫でられなかったし、いつもレイトがやるように怒られもしなかったのがほんの少し寂しかった。
本当に抜け殻なんだなぁと思っていたら、顔をもそりと動かした抜け殻と目が合った気がしたから、笑いかけてやった。
「これからどうしようかねぇ」
そんなことを呟きながら、ごわごわの髪を抜かないように注意して撫でながら、そういえばレイトは虫の見えない天国みたいな場所に行ったんだということを思い出した。体はここにあって、死んだわけではないから、多分隊舎で言われているような「死んだら行ける天国」ではないのだろうと思った。だとしたら、その天国はどこにあるんだろう。もしかしたら、世界のどこかにあるのかもしれない。どうせ行くあてが無いなら、そこを探してみるのも良いかもしれないと思った。何よりも、もう一度だけレイトに会いたかった。
「あのね、俺はお前さんの中に昔居た奴にもう一度会いたいと思ってるんだ。そこは虫が見えない天国なんだそうだから、お前さんさえよければ、どこにあるかは知らないけれど、俺はその天国に行きたいと思うんだ。そこで、お前さんの中身だったのを撫でたり抱きしめたりもう一度一緒に遊んだりしたいと思っているのだけれども、それでも良いかい? もっとも、もうあの国には戻らないから、進むしかないのだけれども、お前が嫌だって言うなら、次の国か町か村に行って移住するのも考えるよ」
どうだろう? と抜け殻ということは多分人間ではないであろうから、俺の人間語がよく解らんであろうことを承知の上で尋ねながら首元を猫だの犬だのにやるみたいに撫でてやると、それが数回首を捻って撫でていた俺の指をへろりと舐めた。それが了承の合図にも見えたから、俺は一人「それじゃあ決まりだね」と言ってから、そういえば彼にまだ名前をつけていないのを思い出したのだけれども、とっさに良い名前が思い浮かばなかったのと、指を舐めた動作が何やら犬を彷彿させたので、暫定『犬』と名づけた。名前なら、歩いている最中にでも考えれば問題あるまい。
「よろしくね。犬。お前さんは今日から犬だよ。良い名前が思いついたら変わるかもしれないけれど、とりあえず今は犬で良いよ。解りやすいし、人で居るよりしんどくないから」
その時、犬と呼んだそれが、また何か人間語めいたものを発しようとしたから、「犬はワンだよ」と教えてやると、青い空の真下の広い草原の真ん中で、犬は初めて小さく「わん」と鳴いた。
なんだか酷く珍しい夢を見た気がした。
最初は何となく決めた犬の名前は、いつの間にか名前が存在そのものを作っていたのを、後悔はしていないが本当に今更に思い出した気がした。
目の前には真っ白な天井があって、そういえば自分は病院に泊まったんだということを今更に思い出してもそりと体を布団から上げると、隣のベッドで眠っているリックを起こさないようにそっと自分のベッドから出ると、眠っている犬をそっと覗き込んで、ゆっくり鼻先に手のひらをかざしてみると、犬は息をしていなかった。なるほどもう行ってしまったのか。寂しくなるなぁなんて思いつつ、あの国を出たばかりの頃よりはずっとサラサラだけれども、生きているときよりは幾分かツヤの無くなった犬の頭をさらさらとかいぐりながら、そういえばレイトも一人ぼっちで行ってしまったということを思い出して、何もそんなところを昔の中身と合わせなくてもよかったのにと思って苦笑した。
結局、犬にはちゃんとした名前をつけてやることはなかったけれども、犬という名前は犬にはとてもぴったりだったんじゃないかと今はそう思っている。犬のお陰で今までとても楽しかった。世の愛犬家が、犬と暮らすのはとても楽しいというのが、今は心の底から頷ける。天国は一緒に行けなかったけれども、死んで行く天国には犬はいけたのだろうから、暫くそこで待っていてもらって、いつか自分がそこへ行ったら、また犬と暮らしたいと思った。
「お疲れさんね。犬」
もしかしたら、震えていたかもしれない言葉は、何だかリックに笑われそうだなぁと思った。
兄の独白
塗り固められた灰色の石壁の一面には鉄格子が嵌められた一室にて、私は読んでいた本を膝の上に置き、ここに閉じ込められた当初からそこにあった木製の揺り椅子に座りながら、鉄格子の向こうで自分を『師匠』と呼ぶ弟が話すさまを、虫に邪魔されぬよう目を閉じながらのんびりと聞いていた。
私がこの狭い地下牢へ入れられたのは、この弟がちょうどまだ母の腹の中だった頃だから、彼と初めて対面したときは酷く驚いたのだけれども、母に似た質感の細い金色の髪と、父に似たほんの少しばかり鋭い感じのする蒼い眼は、昔々に鏡で見た私の姿と随分似ていたから、一目見て自分の弟だということが解った。そして、この弟も私と同じ、穢れきった一族の、病んだ血を受け継いでしまっているのだということも。
この地下牢への入り口は、屋敷の中でも確か随分とわかり辛い場所に設置してあったはずだから、幼かった弟が、一人で冒険して見つけてしまったというにはあまりにも不自然だから、どうしてここが解ったのか問い尋ねてみると、彼はきょとんとした顔をして「あんまり気味悪いのが出てくるから、入り口をふさいでやろうとして後を追いかけてたらここに来た」と言って壁を指示した時は、大層驚いたけれど、自分の弟であるということに思いあたれば、あまり不思議に思うことも無かった。それから、その時、彼の指差した場所は、私には何も見えなかったから、多分私の足元でうごめいているものとよく似た別の何かを見ているんだろうということも解った。
確か、その日はそれだけで、「ここに居るとお父さんに怒られてしまうから今日は早く帰りなさい」と言ったような気がする。父は、私のような、今までにもこの一族に代々ぽつぽつと現れた、有りもしないものが見えてしまう狂人が身内に居るのを酷く恥じているのを私は知っているから、もし、私と長く居たせいで彼が怒られてしまうのはとても忍びなかったから、私は、あなたは誰かと訪ねる彼の問いには答えずに、すぐにその弟を元の地上へと返そうとした。けれどその時、彼は少し嫌がったようだったから「また明日にでも、見つからないようにおいで。私はどこにも行かないから」と声をかけると、彼は随分素直に帰って行ったのを覚えている。
その日を初めにして、彼は三日に一度、二日に一度と何度もここへ通うようになっていき、最終的には毎日、一日一度は必ずここへ来るようになった。多分、彼の見える、おそらく私と同じであろう暫定『虫』と呼んでいるあれらが、誰に言っても信じてもらえないから、話の合う私の元へ来るのだと思う。私にはあれが見えたし、あれがどういう状況でよく発生するのかというのも経験上で知っていたから、私は揺り椅子に座ったまま、膝の上に読みかけの本を置いて、出来うる限りのことを彼に教えた。例えば、争いごとを見た瞬間にあれは増殖して見えるだとか。隙間を少なくすればほんの少しは少なく見えるだとか。あまり虫のことを人に言うと、あれが見えない人には気味悪がられたり怒られたりするからなるべく言わない方が無難だとか。
けれど、あれが見えるのは実は権力に縋りつき近親婚を重ねた末の一族も末路であり、自分に流れる血のせいだと最後まで教えなかったのは、あの『虫』が見える限りは確実に自分の精神が『虫』に蝕まれ、最後にはどうしようもなくなってしまうということを知っていたから。例えそれを知り、自らに流れる穢れた血と自分の頭の責任だと頭で理解していても、代々そうだったように、いつかは発狂してこうして閉じ込められてしまうのだとしたら、自分の見えるものを自分で否定せずに生きることが、自分と他人の見えるものを比べて苦悩するよりもずっと楽なのではと思ったから。ほんの少しだけでも、自分がまともだと思える時間を長く、そうすれば、少しでも長く自分がまとも居るという自覚を持ってで地上に居られるかもしれないから。そうして、一人でも地上に理解者が出来てくれれば良いと思ったから。
だからこそ、私は彼がそのことに気付かぬよう、『まとも』に育ったものに改ざんされたりしていない、さしたる量の無い『真実の書かれた家系』に纏わる全ての本を、日に二度食事や体を拭く蒸し布を持ってくる、父の側近の使用人に言いつけて、他の本と一緒に私の居る牢に運ばせた。
そして、ある時弟に虫が見えないようにするにはどうすれば良いかと訪ねられたとき、私は地下に閉じ込められる前からも後からも、膨大な量の時間を費やして溜め込んだ書物からの知識の一つである、簡単な小さな炎の魔法をぽっと指から出して見せた。
「魔法だよ。極めれば、この世を虫の見えない天国に逃げられるかもしれない」
もちろん嘘である。魔法を使えば逃げられるなんてはずがない。けれど、希望が無いということを教えるより、魔法に興味や希望を持たせるほうがずっとマシだと、私は自分に言い聞かせながら、瞳をきらきらと輝かせながら鉄格子越しに見ている弟に、簡単な魔法を教え続けた。そして彼は、いつの間にか私を『師匠』と呼ぶようになっていた。
そうして私は、ここを訪れる弟の成長と、運ばれてくる食事だけが時間の流れを教えてくれるほの暗い地下牢の時間を過ごしていた。もちろん、その間にも私の精神はどんどん『虫』に蝕まれ、日に日に自分の視界や思考や記憶がおかしくなっていくのを自覚していた。読んでいたはずの本も、いつの間にか文字を忘れて読めなくなった。少し寂しくもあるけれど、それは自分がどうしてそんなものが見えてしまうのか調べて、そして理解した当初から覚悟していたから良いのだけれどね。けれど、『理解してしまったからこそ』私は発狂してしまった。私は、半ば半狂乱に頭の中で虫が喚くがままに行動し、この血のせいで良く解らぬものが見えてしまう者が出ることを知りつつ、未だに権力に取り付かれてこの悪習を続けているという一族に対する怒りのままに、人前で父を問い詰め、自分の姪を妻として迎えた父を詰り、この気狂いの血を絶えさせるべく父と、母と母の腹の子を、人が沢山居るその場で殺そうとした。地上に居た頃の殆どを忘れても、あの時のことだけは忘れない。私は、あの時完全に発狂したんだと思う。虫が見える以外には正気を保っているのではないかと思っている今も、多分、私は狂っている。ここへ入れられた当初はそれこそ喉が枯れるまで叫び訴えたけれど、今、私は弟が狂気に気付かぬことばかりを祈っている。そして、真実を伝えぬことを申し訳なく思いつつも、私の心が痛まないのもまた、狂気の一つなのであろう。
とっとっと。と、石造りの階段を出会った頃よりは随分と大きくなった弟が、表情を輝かせながら鉄格子の前にちょこんと虫がひしめいている床に座り込んだ。弟は、まだこの密集した大量のこれは見えていないようで、私は酷く安心している。私は、揺り椅子の上で余計なものが視界に入り込んでこないように、そっと目を瞑って弟の話に耳を傾ける。最近、弟は初めて友達と呼べる人物が出来て、いつもその話ばかりしているらしいことは何となく解った。馬鹿だけれど、虫のことを決して否定しない、そんな、私には作れなかった友達。私は人間語の殆ども、地上に居た頃の大部分の思い出も、弟に教えたはずの沢山の魔法のことも随分忘れてしまっていたけれど、虫の発する雑音から拾い出す、一度は自分が手に掛けようとした弟の楽しそうな声を聞くのは決して嫌いでは無かった。そして、ふと虫が囁いた。それは、私が考えたことなのかもしれない。いつか私は、弟のことも忘れてしまうだろう。
また来るね。と、話を終えて行ってしまおうとする弟の背中に、声をかけ、立ち止まった彼に、私はまるで、自分に言い聞かせるように、忘れてしまった人間語をそのまま無理矢理に紡いだ。
「友達、忘れないようになさい。忘れてもいいけれど、大事なら、忘れないことだけ、忘れないでおきなさい。ずっと、忘れないようにって思いなさい。私の言葉を忘れても、このことだけは忘れないでいなさい」
弟は少し黙ってから、うん。と一つ頷くと、地上へと戻っていった。
私は、そして私の弟も私と同じなら、いずれ全てをこの虫に食われて忘れるだろう。言葉も、思い出も、全部忘れてしまうだろう。そうなっても、一つだけでも覚えていたいものを覚えていれば良い。忘れてしまっても、覚えていたいということだけを覚えていれば、それで良いだろう。私はそう自分や耳の奥で鳴き喚く虫どもに言い聞かせた。
どんどんと視界に巣食う虫が増殖し続けていくのが目に見えて解るようになったのは、一体どれ程前からなのかは既に忘れたけれど、自分の中がすっかり虫に食われてしまっているらしいということは明らかで、私はその頃、日々部屋一面にぎちぎちと蠢いている虫から離れるにはどうすれば良いかということばかりを考えていた。
私はこの光景が自分の頭が見せている幻覚だと理解はしていても、このぎちぎちと蠢く感覚や食料や水にまでぴちりぴちりとはねる虫のリアルさを拭うことは出来ずにいた。昔は存分に発揮できた気がする魔法もとうの昔に忘れ、無理矢理に呪文をひねり出しても制御できずに失敗して、自分の指を焼いてしまうことが何度も続き、ついには弟のことも断片的に忘れだしたあたりから、次第に私は死んだら楽になるんだろうかというようなことばかりを考えていた。私は何も無い、兄の存在すら弟は知らないから、おそらく地上では私が居たことは消されてしまったのだろうから、これと言って問題など無い上に、恐らく私のような気狂いのごく潰しは死んだ方が、父には丁度良いのかもしれないが、それでもすぐに実行できなかったのは、おそらく――。
「それじゃあ、師匠、また明日ね」
そして彼が、今日も語り終えて地上へ戻ろうとしたとき、長い間ほぼ欠かさず会いに来てくれた彼と、私は、会話はしても一度も触れ合ったことが無いのだとようやく思い出した。弟に触れて、虫のぬるぬるした感触だったらどうしようかと思うと、私は怖くて弟に触れることが出来なかったから。私は意を決し、既に忘れ去ったはずの言葉を紡いで立ち上がる。膝下近くまで増殖したぬるぬるとした感触を伝えてくる幻覚の虫を踏みつけ、足を取られそうになりながら、鉄格子の間から両手を伸ばした。
「れ、レイト。おい、おいで」
私はその時、初めて弟の名前を呼んだような気持ちになった。昔々、魔法を教えるときも、会話をするときも、随分と呼んだはずなのに、不思議な感じだった。私の呼びかけに近くへ寄ってくれた弟を、鉄格子越しに抱きながら、私は忘れかけた言葉をこう、きょとんとした顔をする弟へ向けて紡いだ。
「もう、耐えられない、からね。あれらに、食べられるのも、嫌、だからね」
私は、弟を忘れたくは無かった。しかしそれ以上に、私の頭の中から発生する、この奇怪な虫どもに、これ以上私の記憶を食われることがどうしても嫌だった。
私が死ねないのはおそらく、弟を忘れたくないから。死んで、弟のことを忘れてしまうのが怖いから。けれど、そうして生きていても忘れるくらいなら、私は弟を覚えているうちに死にたい。腕の中の温もりを、死んだ後も決して忘れたりしないよう、私は弟を抱きしめる。
「師匠、どこか具合が悪いの?」
弟が、私の顔を覗き込んでいた。その時、私は始めて自分がほろほろと泣いていることに気が付いて、慌てて腕を放すと、袖で目元を拭った。
「だい、大丈夫。平気。もう、戻りなさい、それで、友達、大切にしなさい」
彼は不安そうな目をこちらに向けたが、地上へ戻っていくのを見送ると、私はベッドのシーツを剥ぎ取り、端を噛んで力の限り引き裂き、鉄格子の入り口のなるべく高い横棒に幾重も細く裂いたシーツを巻いた。手のひらに虫がまとわりつき、気持ちの悪い粘液を滴らせるから何度も滑る感触がするが、それらを無視して私の全体重をかけても千切れないように巻いてから、ぐらぐらと揺れる揺り椅子に登り首をかけた。
結局、私は最後まで自分が兄であるということを弟に教えることは無かった。
そんなことは、彼にとってはきっと知ろうが知るまいがどうでも良い事だし、何より私のような気狂いが兄であるということを彼に知られるのが、私はとても嫌だったからね。
きちきちと目の前で虫がハサミムシのような口を動かしている。こいつらが全ての元凶で、今でも憎らしいことこの上ないが、これのお陰で弟に出会えたことだけは感謝している。私はその虫を片手で握りつぶした。赤だか青だかよく解らぬ粘液が指の間を滴り落ちるのを確認し、
とんっ、と空を飛ぶように椅子を蹴る。
私は、いつの間にかそこに居て、空中で鉄格子に張り付いているように見える自分の体を見ていた。
虫が一匹も見えないのが不思議だったが、おそらくそれは、虫は自分の頭が見せていたものだからだろうと結論付けた。要するに、あれは自分の血が見せていた幻覚だから、魂になれば見えない、ということだろう。よく解らないが、多分そうだ。
私は、自分がまだ生きているのかどうかを確認しようとして近づこうとするが、どうにも近づけない。近づこうとすると、妙な力に押し返されてしまうような感触を受けるのは、多分『私』がもう完全に死んでしまっているからだろう。半端に死んでいない分、喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか。
それが解った途端、私は私の体から弾き飛ばされるように感じ、気が付けば私は外にいて、小さな滝の流れる傍の、木漏れ日の光の中で楽しそうにしているレイトの姿を見ていた。まるで擦りガラスを隔てているような曖昧な心地だが、あれはレイトなんだろう。そしてそのレイトの隣には、鳶色の髪の青年が居て、おそらくあれがレイトの友達なのだろう。
二人は何処かへ向かって歩き出すが、私はついていこうとしても、二人の速度に決してついていけなかった。彼らの姿が小さくなり、遠くに見えなくなってしまったけれど、私は酷く安心していた。自分がレイトを覚えていて、彼が私と居る以外での幸せそうな顔を見ることが出来たから。良かった、と安心して気を抜いた時、全ての風景は白に染められ、私は牢に居たことや打ち込んでいた魔法のこと、空の色や地面の色、父の顔、母のこと、大切な弟のことまで、全てのことを忘れていた。けれど、それでも私は安心していることだけを覚えている。
まっさらな中で、私の人生は、随分身勝手なものだったような気がすると思った。それに、これも随分と身勝手な願いだし、誰に向けてだかはもう解らないが、ただ幸福になってくれれば良い、と、最後にそう思った。
天国
犬が死んでからも、メノスはいつものメノスのままだった。
流石に犬を町の公共墓地に埋葬するとき、人前で「良かった」を連発したのにはハラハラしたが、町の人間は大方優しくて、メノスの言動は仲間が死んだことによる一種の錯乱だと思ってくれたらしく、よく眠れるようになる薬草だとか、食べると心が落ち着く果物だとか、そんなものを持ってきてくれただけで「出てけ」だのということは言われなかったし、逆に心配してもらったりした。もちろん、俺はメノスが錯乱して「良かった」と言ったわけでは無く、『天国はとても良い場所らしいから、犬がそんなところへ行けて良かった』という意味だというのは理解していたが、面倒な事になると困るので町の人には教えずに曖昧な笑みを浮かべて誤魔化した。
町から見える山脈が全体的に真っ白に変わり、この町にも雪がはらはらと舞い降りてきた頃、俺とメノスはあの時の店主が教えてくれた町外れにある空き家を借りて生活していた。家具は既にいくつか揃ってあり、少し掃除するだけですぐに使えるようになったのはとてもありがたいことだ。
俺は、赤々と燃える暖炉の傍に置かれた冷え切ったシチューの皿を回収しながら、曇り空にはらりはらりと雪の降る中で薪割りをしているメノスを窓越しに眺めた。シチューの皿には、『犬』と書かれ、暖炉の傍には毛布をぐるぐるに巻いて生前の犬が着ていたローブを被せた『犬』が置いてある。
犬が死んで三日くらいしたころに、俺が日雇いの仕事から帰ると何時の間にやらメノスがこれを制作していた。暖炉横の一番暖かい所に置いて、毎日食事時に皿に飯を盛ってこれの前に置いたり、広げずこのぐるぐるに巻いた状態のままに湯につけて、さして汚れてもいない表面を洗ったり、暇があれば背負ったり撫でたり、「犬犬」と楽しそうに話しかけたり、そんなことを始めた当初はついに本気で狂ったかと俺も不安になり、何度か犬の「死」を確認させるべくメノスを公共墓地に連れて行ったり、無理矢理病院へ連れて行って医者から少しでも落ち着く薬草を処方してもらったりしたのだが一向に良くなる気配は無く途方にくれたが、しかしかなり理解し辛い彼の話をよくよく聞いてみればどうにもこういうことらしい。
曰く「犬がもういないのは知ってるよ。知ってるけれど、今までやってたことをやらないと、どうにも落ち着かないんだよ。だから、慣れるまでの練習みたいなものだから、そう心配せんでも大丈夫だよ」
そんなわけだから、俺もこの犬がいないことに慣れるまでの遊びに付き合っているのだけれど、喋らないのは元の犬も毛布もさして変わらないとは思いつつ、毛布の塊に向かって楽しそうに話しかけるメノスを見ているのは正直居た堪れずに、病院にだけは今も通わせている。
この冬が終ったら、彼はどうするのだろう。
まだ天国探しの旅をするのだろうか?
木造の簡素な椅子に座り、テーブルに頬杖をつきながら、俺は窓の外の寒空の下元気に薪割りをしているメノスを眺めていた。
しかしメノスの狂行は町がすっかり雪に閉ざされてもなんら変わることは無く、一度など日々犬犬連発する彼に痺れを切らして「そんなに犬が忘れられんならまた新しい犬でも飼えばいいだろう」と言ってしまい、大喧嘩になったことがある。あの時は、お互い翌日誰が誰だか解らぬくらい酷く顔を腫らしていたのだけれど、メノスが本気を出せば俺の頭など拳の一撃で吹き飛んでいるはずだから、かなり手加減されていたのだろうと今では思う。
あの喧嘩の直後、メノスはまるでどこぞの女房に浮気の許しを請う旦那の如く土下座で「春までに慣れるからもう少し待ってくれ」と何度も床に頭をこすりつけたのを見て、俺は自分でも馬鹿だ馬鹿だと思いながらもメノスを見捨てることが出来ずに、このままごとにも似た期限付きの遊びにずるずる付き合っているのである。
そしてあの馬鹿はまた馬鹿を言い出す。
空も山も真っ黒な雲に閉ざされ、地上でさえも猛吹雪に近い強風と雪で荒れ狂う天気の日、メノスは何を思ったのか、ひっそりとした朝食を終えた直後に突然「山へ登る」と言い始めた。まるで正気の沙汰とは思えないその言動に、もちろん俺は止めに入るのだが、どうにもメノスは『今、山の上に天国がある』気がするらしい。あれだけ高い山なら、天国へ通じているかもしれない。しかも、丁度雲で全体的に隠れているから、今登ればもしかしたら行けるかもしれないと言って、俺の「そりゃ天国つっても死ぬ天国だぞ馬鹿! お前が行きたいのは違うとこだろ!!」という言葉なんて全く聞きやしない。次の旅に備えて一応俺が洗っておいた象牙色のマントを装着し、毛布の塊を昔の犬のように背中に縛り付けて背負うと、「リックは待ってて。ちょっと見てくるだけだから、すぐ帰ってくるね」なんてこれっぽっちも信憑性の無い事を笑顔で言い捨てて出て行こうとするものだから、俺は慌てて冬用の外套を引っ張り出して羽織ると、メノスの後を追いかけた。
心配過ぎて待ってられるか馬鹿タレが。
やっぱりというか、山は大変な事になっている。
町を抜けるだけでも随分大変だったのに、山の麓付近ですでに頂上から吹きすさぶ吹雪は尋常ではなく、メノスの後ろを、しかもマントの端っこを掴んで一歩歩くだけでもやっとという感じだった。周りはどこを見ても白白白で、薄目以上に目を開くと吹き付ける雪結晶が眼に入って、その度に突き刺すようにちくちく痛んだし、手も足も、凍りついたように麻痺してジンジンした痺れしか感じない。強風に飛ばされぬよう猫のように身を丸めながら、俺はただ一心にメノスの後ろをくっついて歩く。
メノスは、よく平気だな。薄目で、前を歩く近いのに雪にぼんやりと霞んだメノスを見ながら思ったとき、彼の手が俺の腕を引っ張って体を引き寄せられ、いつも彼が犬にやっていたみたいに、マントで俺の体を包むと、俺を前に抱えあげた。突然暖かな中に包まれ、少々驚きながらも何すんだ馬鹿と言えば、奴は「風強いから、俺が吹き飛ばされたら困るだろう」なんてことを言った。要するに俺は重石かよ。多分、今自分で歩くと言っても俺はメノスの足手まといになるだろうから、殴る代わりに彼の前髪についた雪をはらってやると、メノスはにへらと笑った。もっと気の利いた理由を言えよ馬鹿が。
メノスは、俺を抱えながら歩く。この猛吹雪の雪山を歩けるのは、メノスの尋常じゃない体力と、脚力と腕力だからこそなせる業かもしれないと思った。抱えられた俺が今出来ることと言えば、精々周りで雪崩が起きないように祈るくらいで、後は、メノスに抱きついて彼が吹き飛ばされないように重石の役目と、暖かさを共有するくらいだ。
寒くないか? と突然メノスが凍った髪の毛をしながら俺に尋ねてきたから、お前さんのがずっと寒そうだよと答えてやった。
「お前は、どうして天国なんて行きたいんだ?」
そう聞いたのは、時間的に山の中腹辺りの頃だったろうか。吹雪は一層強くなり、メノスのへらりとしたアホ面もすっかり消えてしまっていて、時々雪や風に足を取られるのか、何度もガクンと滑り落ちそうになる振動が伝わってくるけれど、背中には『犬』前には俺を抱えて、メノスはそれでも着実に前へと進んでいた。髪も、睫毛も、雪と風によってかなり凍り付き、普段は何事にも鈍感な彼の顔も今はかなり青ざめている。そのくせ、何度も俺に寒くないか? だのと聞いて俺に雪がかからないようにマントを覆い直す彼を見て、俺はもう何度も聞いたはずのことを聞いた。
多分、メノスは犬のために天国を目指していたんだろうと思うから、犬が彼の目指すべきでは無い場所に行ってしまった今、何故まだ天国なんて目指すのだろう。
メノスは少しだけ考える。俺は、また良くわからぬ答えが返ってくるんだろうと思っていたが、それでも良いと思って、彼の答えを待っていた。
「最初はね」
メノスが考えながら口を開く。
「大切な人が、死ぬわけじゃないけど天国みたいな場所へ行くと言ったから。俺が迎えに行ったときは、もうそいつは犬を置いて出て行ってしまった後だったから、もう一度だけ会いたいと思ったんだ。天国に行けば会えるんじゃないかって思ったから、目指した」
普段よりは幾分解りやすい言葉。疑問もいくつかあったけど、俺は「最初?」と尋ねると、メノス楽しそうに笑った。
「うん。でもね、今はそいつにも会いたいけど、リックと一緒に天国みたいなところで一緒に暮らしたいって思ってるよ。あ、結婚とかの意味じゃなくてね。うん、えぇとね。あと、何の怖いものも辛いものも無い天国みたいな所があれば、もう誰も悲しい思いとか、怖い思いはしなくて良いんじゃないかって思ってる」
最後の方は自分に言ってるみたいに呟いたメノス。
こいつにも、辛いとか、怖いとか、そういうものがあるんだろうか。こんなに強いくせに。俺よりもずっと強いくせに。馬鹿のくせに。そう思ったとき、俺はちょっとした憤りを感じていた。それが何だかは自分でも良くわからないけれど。だから俺はメノスの腕の中で暴れて、降りた。吹き飛ばされそうな強風とすべてを凍てつかせる雪の中、メノスの手を強引に取って、膝まで雪に埋まる足を無理矢理に動かして、歩く。
「お前は、重石なんぞ無くても飛ばされずに歩けるだろう」
何も見えない前を見ているから、メノスがどんな顔をしているのかは解らないし、もしかしたら声だって届いてないかもしれない。けれど、それでも良いと思う。
俺は、メノスに担がれなければ歩けない訳じゃない。
頂上へ向かって、二人で歩く。
突然、吹雪が止んだ。
頂上へつく前だったが、どうやら雲を抜けてしまったらしい。道中、何度も足を取られて転んで、滑り落ちそうになって、その度にメノスに引っ張り起こされたわけだけれど、それでも俺はもう一度メノスに抱き上げられるのだけは拒否し続けた。転倒しそうになるたび何度も俺を担ぎ上げようとしたメノスも、仕舞いには諦めてくれて、俺は自分の足で歩いて来た。
空は既に夕方を迎えており、雲を抜け晴れ渡った空を赤く染めていた。
俺は来た道を振り返って、息を呑んだ。
地平線の彼方まで、見渡す限りの雲海が足下に広がっていた。
向こう側へ沈んでいこうとする歪んだ太陽は、穴一つ開いて無い一面の白雲を橙色に染め上げ、その陰影すらも、さながら神のしつらえた絨毯にも等しい美しさを誇っていた。
天の向こうの向こうまで透き通る朱の空には飛ぶ鳥もおらず、一片の雲も無く、目の前に静かに横たわっている赤く柔らかに見える土地には、獣も人も、何も無い。踏み出すことも戸惑われる、ただただ、どこまでも広い朱の海原。
風の音も、自分の呼吸の音すらも、何一つ聞こえない、ひたすらなる無音の光景。
そこは、それこそが『天国』に最も近い場所のように俺は思えた。
あまりに美しい光景に、俺は何故か泣けそうになり、その場所から目をそらし、代わりにメノスを見た。
メノスも、この光景を眺めていた。
無表情に、ただ、静かにこの光景を眺めていた。
「メノス?」
俺は声を掛ける。しかし、メノスからは何の反応も無い。ただ、呆然と空の彼方まで続く雲海を眺めている。
どさ。
メノスが雪の上に座りこんだ。膝まである雪に、メノスの半身が埋まる。
そして、呟いた。
「天国は、どこにも無いんだね」
空虚
天国は、どこにも無い。
こんなに天国みたいな場所なのに、天国じゃない。
ここは天国じゃない。
今まで見てきた場所が比べ物にならないほどに美しい光景なのに、ここは天国じゃない。ここが天国じゃないなら、どこに行っても天国なんて、きっと無い。
本当は、知っていたのかもしれない。
レイトは、ただ頭がおかしくなっただけで、犬を置いて天国に行ってしまったわけじゃないんだって。ただ、俺がそれを認めたくなくて、自分よりもずっと頭の良かったレイトが、自分以上に壊れてしまったのを認めるのが嫌で、自分の中で勝手に『犬』という役柄を作り出していただけなのかもしれない。
沈み行く朱の絨毯が、悲しい。こんなに美しいのに、酷く悲しいのは、心のどこかで目を向けないように、自分でも意図的に気付かないようにしていた虚しさをはっきりと見つけてしまったせいかもしれない。
もし天国があったら、多分皆そこへ行くんだろうと思う。大事な人を連れて、そこで楽しく暮らすんだろう。たとえどんなに遠い場所でも。それなのに、誰もそこに行かないし誰も迎えに来てくれないのは、多分、天国が素晴らしい所だから誰も帰ってこないわけじゃなくて、天国が無いからなんだろう。だからレイトはきっと、ずっと昔に天国に行ったわけじゃなくて、壊れて無くなってしまったんだろうと思った。『犬』というレイトの抜け殻だけを残して、綺麗に俺の前から消えてしまったんだろう。そして、今は『犬』も消えてしまった。最初から居なかったみたいに。昔、隊長は死んだ戦士は皆の思い出になると言っていたけれど、思い出はいつか虫に食われてしまうらしいから、やっぱり消えてしまうのが正しいんだろう。
そう考えたら、今まで何とも無かったはずの足が突然凍えた。体の中から気力が突然消し飛ばされたように力が抜けて、俺は雪の中に倒れるようにして後ろに座り込むと、数歩前に居たリックが驚いたようにして歩み寄ってきた。
「天国は、どこにも無いんだね」
不意にそんな言葉が口を付いて出てきたのは、多分自分に言い聞かせるためかもしれなかった。
「お前、何言ってるんだよ」
リックが酷く心配そうにして聞いてきたが、俺はこの気持ちをどういう風にまとめて伝えて良いか解らなくて、少しだけ考えてからただ「どこにも天国が無いのに気づいただけだよ」と言って、無理矢理足に力を入れてまた立ち上がった。今から下山すれば、多分今晩のうちには帰れる。リックは納得行かないような顔をして何か言っていたけれど、俺はこれ以上、抉られるような寂しさを感じてしまうここには居たくなかったから、リックに背を向けて歩いた。
その時、やけに背中がずしりと重いような感覚に気付き、そういえば背中に毛布の塊を背負っているのを思い出して、先ほどまで大切に思えていた『犬』が、単なる毛布の塊でしかなく思えている自分に気が付いた。捨ててやろうか、と思ったけれど、リックが寒いと言ったときに体に巻いてやれると思ったから外さずにおいた。
不服そうな顔をしているリックが後ろから追いついてきて横に並んだので、半ば無理矢理に手を繋いだら、リックは一瞬だけ放そうとしたけれど、すぐに諦めたように溜息をついて握り返してくれた。
リックには散々迷惑をかけてしまったから、今晩の夜食もしくは明日の朝食は俺が作ろうと思った。
レイトの見ている虫が、俺にも見えたら良いなぁと考えたことがある。そうしたら、少しはレイトの見えているものが解るんじゃないかと思っていた。一度だけそんなようなことを言ったら、虫に食われてこれ以上馬鹿になったらお前は絶対やっていけないだろうから、そういうことは言うもんじゃないと酷く怒られたのだけれど、どうしてもレイトの言う頭の中にいる虫が見たくて、探したことがある。レイトは人死にが出たりするのを酷く嫌がっていたけれど、隊長の命令に従って敵を殺すのが俺の役目だったから、もしかしたら死んだ虫くらいなら俺でも見えるかもしれないと思って戦場で殺した相手の頭をこっそり割った。手のひらで、クルミを割るみたいにすれば、中身を壊さずに綺麗に割ることが出来て、そこには確かに虫みたいなのがすっぽりと入っていて、これが虫なのかとその場では素直に感動したのだけれど、後からレイトに聞いてみたらそれは脳味噌という誰でも見えるものらしかった。虫はもっと違う。脳味噌なんかよりも細くて、ぐちゃぐちゃしてて、鼻や耳から頭だけ外に出てきてぎちゃぎちゃと動くらしい。
結局、そんなレイトにしか見えない虫は俺には見えなかったわけだけれど、もし見えていたら俺はレイトと同じ場所に行けたんだろうかと、そんなことを犬を連れて旅していた当初に考えていたことを思い出したのは、山から帰って来て以来、視界の隅にチラチラと何かが映るような感じがするからだ。
吹雪の山から帰って来てから、何故だか知らないけれど俺は、犬の居ないことを犬の居なくなった当初よりもずっとはっきりと感じるようになっていた。どんなに代わりのものを撫でてみても、犬のつけていた装飾品を見ても一人で思い出話をしてみても、前のようにほんの少しの安心感も得られることは出来ず、ただ山の上での光景を見たときのような酷い虚しさを感じるだけだった。このまま行けば、虫と虚しさに犬の記憶を食われてしまいそうな気がしたから、今度は犬の痕跡を消してしまおうと思って、取っておいた犬の装飾品を全て売り払い、丸めていた毛布を解いた。犬の着ていたローブもついでに焼いてしまおうと思ったが、それはリックが取っておいた方が良いと言ったから、リックに頼んで俺が普段見ないような衣装棚の奥へ放り込んでもらった。
犬の痕跡が全く無くなった場所は、酷く空っぽな気がしたのだけれど、これで俺の中の記憶までは食われまいとほんの少しだけ安心したにも関わらず、今度は空っぽの空気がまた酷く虚しく感じた。その空っぽの中に虫が沸いたのかはしらないけれど、『犬』に喋りかける代わりに一人でぼうっとする事が多くなった頃、何だか視界の隅っこに映る暖炉の中にうねうねと何かが蠢いているような感じがしたのに調べても何も居ない。そんなことを初めにして、それから何やら視界の端っこや隅っこに変なものが見えるような感じになることが多くなったものだから、リックはそれが見えるのかどうか聞いてみると、リックはそんなものは見えないと言った後で、「お前それ以上馬鹿になったりおかしくなったりしたら面倒見切れないぞ」と怒鳴らないで、反対に笑いながら言ったから、そう言うものかとそれから聞かないことにした。リックは自分でも気付いてないと思うけれど、凄く凄く俺を心配してくれているから、ただでさえ心配かけてしまうのに、これ以上迷惑かけたらいけないだろう。けれど、もしこれがレイトと同じ虫だったりして、俺がリックのことを忘れてしまったら、リックは俺のことを怒るんだろうか。リックが俺を忘れても、それは仕方がない事だから俺は怒らない自信があるけれど、俺がリックを忘れたらきっと怒るだろう。何も解らないのに、怒られるのは嫌いだから、犬のかわりにリックの事を考えて、なるべく忘れないようにしようと思ったら、あの日、俺の部屋にさよならを言いに来たレイトはこんな気持ちだったんだろうかなんてことぼんやり考えた。
天国を探しに
天国。
もしあるとしたら、そこはどんな世界なんだろう。
「天国は無い」と断言した後、メノスがおかしくなった。
あいつは最初からおかしい奴だけれど、更におかしくなった。
おかしいやつが更におかしくなったら巡り巡ってまともになったら嬉しかったのだけれども、奴は器用にも捻った形でおかしくなりやがった。
自分勝手に山に登って山から下りて、ようやっと家についたと思ったら何を思ったのかあれほどまでに可愛がっていたはずの毛布の塊通称『犬』を解いてただの毛布に戻して、その翌々日には俺が山登りの疲弊が残っていたため昼近くまでぐっすり寝ている間に、奴が大事に取っておいていたはずの犬のつけていた装飾品を綺麗サッパリ売り払っていた。それどころか形見であるはずの絹のローブまで暖炉に放って焼き捨てようとしたときは酷く驚いて、これぐらい取っておけ馬鹿!! と怒鳴りつけると、「それじゃあそれ、悪いけど俺の見えない場所にしまって欲しいんだ」なんて抜かしてきやがった。自分で仕舞えとつき返すと、捨てられた大型犬みたいに困った顔をして「頼む」なんて力なく言われたから、仕方なく衣装棚の奥へ俺がしまいこんでやった。
確かに死んだ犬から離れることが出来たのは俺としても少し嬉しかったが、何で突然こうも極端な事をし始めたかは、いつも通りでよく解らん。曰く、「居なくなっても居たような犬が突然居なくなったような感じがして、忘れるといけないから全部無くしてみた。こうすればもしかしたら忘れないでいられるかもしれない」らしい。ただ、メノスの言わんとしている意味は、こいつと暮らしている間に何となくだけ解るようになっていたから、それ以上は追求しなかったのだけれども、問題はそこからで、ある日、俺が破れた手袋を繕っている最中、同じテーブルに座ったメノスが暫くぼーっと窓の外を眺めていると思ったら、突然暖炉の傍へずかずかと歩み寄って赤々と燃える炎の中に素手を突っ込んで引っ掻き回し始めたものだから、慌てて止めると、何か居たような気がしたとか抜かしやがった。見ると幸いメノスの手は軽い火傷を数箇所負っただけで全く問題なかったのだけれど、奇行やら妄言は多くとも、こう言う自傷紛いのようなあからさまに危ないことをするのは初めての事態で、直後はあまりの衝撃に暫く何も話す事が出来ずに居て、メノスの手と引っ掻き回されたせいで少し消えかけた暖炉の火を見比べるばかりの俺に、メノスはいつもどおりににへらと笑って、気のせいだったみたいだから心配しなくて良いよ、大丈夫。と言いながら俺の頭を犬にしてたみたいに撫でやがった。お陰でいつも通り大声で「心配かけんな馬鹿野郎!!」と怒鳴りながらメノスの頭を叩くことが出来た。
それからはまぁ暖炉に手を突っ込むなんてことは無くなったが、そんな奇妙なものが見えるような気がすると言いはじめた後から、メノスは自分では隠しているつもりなのだろうが何かをするたびにきょろきょろと辺りを見回しているものだから、その度に何か居るのかと問い尋ねれば、彼は何でもないよと誤魔化すように笑ったのが酷く癪に障ったのではっきり言えと問いただすと、メノスは暫く考えたような行動を取った後に、変なものが見えるような感じはしないかとクソ真面目な顔で逆に尋ねられたら問いただしたのは俺のはずなのに何故だか急に怖くなって「お前それ以上馬鹿になったりおかしくなったりしたら面倒見切れないぞ」と笑ってやったら、メノスも「そうだよね」と言ってぎこちなく笑った。
もしかしたら、もうメノスは旅なんてしないのかもしれない。と、なんとなく思った。
春に近づくにつれ、メノスが何も話さずにぼんやりと窓を眺める回数が増えた。
あいつらしくない。思い詰めるようにして、何も話さずにじっと窓の外を眺めているとき、俺はメノスの傍に居た。あの一件以来、暖炉の火に手を突っ込むなんて所業はしなかったが、放っておくとどこかに行ってしまいそうな危うさを、俺は感じていたから、出来る限りは傍に居ようと思っていた。だから夕食用のスープを暖炉で煮ている最中に、メノスが突然「俺、リックのこと忘れるかも」なんてことをぽつりと呟いたのには驚いたけれど、怒鳴って問いただす気には不思議となれなかったから、一言「何故そう思う?」と聞くと、少し考える気配がして「昔の友達がそうだったから」という答えが返ってきた。
昔の友達。多分、天国に行ってしまったと言っていた犬の中身のことだろうから、そのまま「それは、犬の中身のことか?」と聞くと、メノスが頷いた。
「うん。そいつと同じ虫みたいのが見えるような気がするから、もしかしたら俺も食われて忘れるかもしれない。犬になるかは知らないけどな。出来るだけ忘れないようにするけれど、今のうちにことわっておくよ」
そうやって申し訳無さそうに言うメノスに、俺は「忘れるのも食われるのも一人でどっか行っても絶対許さないからな。犬みたいになったら殴ってでも全部思い出させるから」と言ってやったら、メノスが酷いなぁと言いながら少し笑った。最近メノスが笑っているところを見ていなかった気がするから、少しだけほっとしたかもしれない。
メノスが椅子から立ち上がってこちらへ歩み寄り、俺の頭を撫でたから、スープを混ぜていた木製スプーンを鍋の縁に引っ掛けてから大人しく撫でられた。撫でられながら、もし、メノスが目指していた天国に行けることが出来たら、メノスは俺のことを忘れないでいられるのかということを考えていた。
天国に行ければ、きっと死んでしまった人間にも会えるんだろう。争いも無ければ、怖いことも悲しいこともきっと無いんだろうけれど、俺が本当に望んでいるのはそんなことなんだろうかと考えれば、決してそうではない。多分、本当は天国なんて無くても構わないんだ。だけど、春になったら、また旅に出よう。天国を探しに行こうと思った。天国が無くても、思い出になる。たとえ忘れてしまっても、天国に居るみたいに楽しい思い出をどんどん作っていけば、きっと忘れないだろうから。だから俺はメノスに言った。有無を言わせぬように強く。きっと、俺の天国は俺を覚えているメノスの傍に居ることだろうと思うから。
雪もすっかり溶けた暖かな春、俺は一冬を越した家を出た。
犬の着ていたローブを忘れずに荷物に入れた、メノスの手を引いて、天国を探しに。
了
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2009/06/08(Mon)21:33:23 公開 / 水芭蕉猫
■この作品の著作権は水芭蕉猫さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
ご無沙汰しております。始めましての方始めまして。水芭蕉猫と申します。
長い文があまりかけなくなってはや半年程度。連載途中のものがどうしても書けず、前々からちょっかいを出していた電波に手をだしてしまいました。
ジャンルおそらく電波です。一度、昔から是非とも自分でも書いてみたかった犬電波です。しかも大好きなファンタジーです。割と取り返しが付かないことになってますね。
SS連作という形なので読みやすければ良いなぁと思ってます。
こんな電波に付き合っていただき、今までありがとう御座いました。
ようやっと完結です。
ちっとも解決になってませんが、完結です。無いのが解ってて探す電波らしい結末です。
以下ネタバレです。
沢山疑問があると思いますが、その中でリックの過去、親友との事件が全く書かれてないのは、私が初期段階で全年齢対象ということをすっかり失念して設定したためだったりします。いくつか埋め合わせパターンを考えたものの、そうすると食い違いが生じるのでカットしました。細かい設定も色々考えていたのですがあまり出せなかった己の力不足が憎いです。
あと、メノスの見た虫は半分以上が「気のせい」だったりもします。あとは「自分も見れれば良かった」という思いが妄想化した電波のせいです。
犬はレイトの魂が傍に居たお陰で最低限の生命維持装置と記憶装置を保有していただけですが、脳味噌がレイトなので虫が見えます。
白い世界は暫定天国です。安らかになれますが、色々綺麗に忘れます。
最後に、リックのメノスに対する思いは友愛です。ご安心を。
長くなりましたが、こんなところまで読んでくださった方、本当にありがとう御座いました。
これから読む方もありがとう御座います。
後書きだけ読んだ方は是非とも全文パラ見していただければ嬉しいです。
十月十日:登場人物年齢修正
十一月七日:「門出」の修正
Arcadia様でぽちぽち手直し版&電波再布教中。