オリジナル小説 投稿掲示板『登竜門』へようこそ! ... 創作小説投稿/小説掲示板

 誤動作・不具合に気付いた際には管理板『バグ報告スレッド』へご一報お願い致します。

 システム拡張変更予定(感想書き込みできませんが、作品探したり読むのは早いかと)。
 全作品から原稿枚数順表示や、 評価(ポイント)合計順コメント数順ができます。
 利用者の方々に支えられて開設から10年、これまでで5400件以上の作品。作品の為にもシステムメンテ等して参ります。

 縦書きビューワがNoto Serif JP対応になりました(Androidスマホ対応)。是非「[縦] 」から読んでください。by 運営者:紅堂幹人(@MikitoKudow) Facebook

-20031231 -20040229 -20040430 -20040530 -20040731
-20040930 -20041130 -20050115 -20050315 -20050430
-20050615 -20050731 -20050915 -20051115 -20060120
-20060331 -20060430 -20060630 -20061231 -20070615
-20071031 -20080130 -20080730 -20081130 -20091031
-20100301 -20100831 -20110331 -20120331 -girls_compilation
-completed_01 -completed_02 -completed_03 -completed_04 -incomp_01
-incomp_02 -現行ログ
メニュー
お知らせ・概要など
必読【利用規約】
クッキー環境設定
RSS 1.0 feed
Atom 1.0 feed
リレー小説板β
雑談掲示板
討論・管理掲示板
サポートツール

『ゼロの聖域  下』 作者:祠堂 崇 / リアル・現代 アクション
全角68303.5文字
容量136607 bytes
原稿用紙約227.7枚






 Chapter.C     真 −To prove this desire−





 神代飛鳥には拒否権が無かった。
 単に実銃を向けられていて要望を呑まざるを得なかったというのもある。
 だが本心は、ゼロを護らなければならないのは自分だと思ったからだ。
「……綺麗に片付いてるんだな」
 流暢な日本語で、大男――ダグラス=ヴィードがお世辞めいて言う。
 恐らく本音なのだろう。寡黙ではあるが言うことは言うらしい風格なのだが、嬉しい気はしなかった。家宅侵入で通報してやってもいいが、通報して彼等が遣ってきた以上、何かしらの操作が加えられていることは考えられた。
「ま、一人暮らしなんてこんなもんじゃないのかね、俺には想像つかないけど」
 ハインス=コルステイアンは若干楽しげに言う。
 それも嬉しくなかった。むしろ怒りが滲みそうになる。
 一発殴ってやりたい衝動に駆られるが、彼は動けない状態にある。
 何故なら、彼等は銃を所持している上に、腕力勝負でも勝ち目があるわけがなかった。それに、ゼロが二階で眠っている。

 飛鳥と教団の二人は、飛鳥の家に居た。
 時刻は昼下がりの三時前。

 他の教団メンバーは外に居るらしい。どかどかと上がってくるなと言うと、思いのほか素直に二人だけしか入ってこなかったのだ。
「一応は神父だぞ? 強盗じゃあるまいし……話し合いで解決するなら越したことは無い」
 ダグラスは言うが、それは飛鳥にとっては多少の不安を拭うことになった。強引に殺そうと思えば、明らかにそれを可能にしそうだからだ。
「交渉、というのは少し妙だが……単刀直入に言う」

 その言葉は、重い空気を引き裂く何かの力となって、飛鳥を襲った。
「聖痕(スティグマータ)≠明け渡してもらおう。アレは我々教団が奪還しに来たモノだ」

 リビングに居た。
 相対するようにして据わる二人に、向かい合う飛鳥は生唾を呑む。
「……まず、一つだけ訊かせろ」
「何だ?」
「ゼロを、殺そうとしたのはアンタらか?」
 飛鳥の、どこか恐怖を含んだその問に、一瞬二人は目を合わせた。
「……ちょっと待て、こっちも一個訊くけどよ」今度はハインスが口を開いた。「その……ゼロって、誰?」
 そこで飛鳥ははっとした。
 彼女は元々名前が無い。聖痕(スティグマータ)≠ニいう能力名だけで、ゼロという名前はごく最近付けられたものだ。
「……アイツの名前だよ。俺が、付けた……」
 まさか気に入らなくて殺されるんじゃないかと警戒気味に答える飛鳥を数秒凝視し、唐突にハインスのほうが弾けた。
「あ、っはははははははははっ!! ははっ、はーっはははははは!!」
 テーブルをバシバシと叩いて大笑いする。一瞬きょとんとした飛鳥だったが、すぐに眉をひそめ剣呑な表情に変えると、さすがに見かねたダグラスが相棒を肘で小突く。涙目のハインスはまだ引き攣った頬を手で隠しながら言う。
「いや、悪い悪い……あんな戦闘兵器に愛称付けてる奴が居ると思わなくって」
「な……っ」
 悠長な会話の一部のように、さらりとハインスが言った言葉に絶句する。
 戦闘兵器?
 あの、シャワーの温度を間違えたままはしゃぐ無邪気な子供が?
 精一杯に、飛鳥を護ることが総てのように言うか弱げな子供が?
 兵器……!?
「テメェ!!」
 思わず飛鳥は立ち上がった。椅子が勢い良く後ろに倒れ、腕を伸ばせば今もニヤニヤとした笑いを噛みしめる男の胸倉を掴めるまでにテーブルへ乗り出す。
 それでも、立ち上がると同時に二人は懐から各々の銃を突き出していた。
 双方から銃口を向けられたまま、それでも飛鳥は噛み付いた。
「なんでアイツをそこまで引っ掻き回すんだよ……アイツは、子供だぞ」
「違う、兵器だ。生きた兵器なんだ、我々の世界≠ナはな」
 今度はダグラスのほうが言った。務めて冷静な声音だが、サングラスを外した今の、その蒼い眼が真っ直ぐと飛鳥を見据えることに、畏怖を覚える。
 ぐっと腹に力を入れる。ここで負けてはいけない。二階で眠っているゼロは、いつ連れ去られてもおかしくない状況なのだ。
「……俺にはただのガキにしか見えないぜ? 剣やら槍やら出す魔法使い的な手品以外はな。少なくとも命を奪うこたぁねぇんじゃねぇのか」
「別に連れ去る前提に殺傷の有無は無かった。正直言うなら子供を撃つなんてあまり好きなわけじゃない」溜息混じりにダグラスは返す。「だがそれでも危険なモノは危険なんだ。『聖域』持ちほどの危険物は外部には持ち出したくない」
「おい、せめて危険人&ィにしろ」銃口の向こうの男を睨む飛鳥。「どの道アイツは俺の居候だ。勝手に手ぇ出すんじゃねぇよこのロリコン集団」
 ドン! と壮絶に重い音が耳朶を叩いた。
 半秒と待たずに背後で何かが強く壁に当たる音が聴こえた。
 ダグラスの隣りでデリンジャーを構えていたハインスが、今にも殺そうとするように飛鳥を睨み返していた。
「調子乗んなよクソガキ。テメェの命ブン獲らねぇで話一つで手を打とうとしてるコッチの配慮が判んねぇのかこの小便垂れが……!」
 腹からの罵声と共に、背筋が凍るほど睨んでくる。飛鳥は銃弾がすぐ横を通過したのと同時にその睨みを受け、思わず椅子に座り込んでしまった。
「……交渉で済むなら、とこっちは思っているんだ。善処しろ」
 ダグラスは先にハインスの腕を下ろさせてから自分も銃口を下げた。
 それでも、飛鳥の恐怖は未だ震えとして残ってはいたが。
「俺達も結局は上に従って動いてる雑兵に過ぎない。これも正直に言うとだ、とにかく聖痕(ステゥグマータ)£D還の任務以外の情報は渡されていないんだ」
 振り返って、軽く何かのジェスチャーを窓へ送っている。恐らく、外で待機している仲間に今の銃声は誤射だと伝えているのだろう。
 顔をこちらに戻し、再び落ち着いた口調で言う。
「我々は何も殺しに来た訳じゃない。大人しく聖痕(スティグマータ)≠渡してもらおう」
 椅子の端を掴み、飛鳥は恐る恐ると答えた。首を、少しだけ横に振る。
「ゼロは、……嫌がってたぞ」
 無理矢理肺から息を抜くのと同じように声を出すせいで、やや震えてしまう。
「アイツは、お前らに殺されるから逃げてたんじゃねぇのか? だったら悪いのはそっちじゃねぇのか? ただひっそりと暮らしたいだけの子供でも神父は許してくれないっていうのかよ……それじゃアイツはあんまりじゃねぇか」
「……」
 ダグラスは言葉を返さなかった。飛鳥は頭の中で生まれた言葉を根掘り葉掘りに吐いてゆく。自然と、腰が浮き始めていた。
「第一、アイツの情報が漏れたら危険? だったらなんだよ、アイツと外を歩いたことはあった。でも俺以外の奴にはあの力は見せてねぇ。そうだよ、何も連れ去りに来なくたってアイツがじっとしてればいいんじゃねぇのか? そうすりゃお前らが来ることだって意味ねぇだろ!? それなら――」
「おい……」
 遮ったのは、ハインスのほうだった。まるで毛虫でも見つけたかのように眉間に皺を寄せて、飛鳥を見上げている。
「お前さぁ……自分が何言ってんのか解ってんのか?」
「何、って……」
「それってよ、つまりは知ってる奴が一人も居ない時の話してね?」
「……、あ」
 そう。
 熱くなるあまりに、忘れていた。
「お前は一般人に入るんじゃねぇのかよ=Aお前が知っちまってるだろが」
 他でもないゼロの足枷が、自分であることを。
「……で、でもっ」
「でももクソもねぇんだよクソガキ。そういう理屈で言うと秘密を知った奴は皆殺しなんじゃねぇの? いいけどな、一人ぐらい死んでも支障はねぇし」
 ぞくりとした恐怖が、今度は明確に感じた。
「だから言っただろうが、お前には話一つで手を打つってよ。まさか熱烈スピーチかませば諦めてくれると思ったわけ? おい聞いてんのかよ素人」
 そうだ、返せ。言葉を。何か言い返せ。
 そうしないとゼロは何の抵抗も無く連れ去られる。何をするか判らないのに。
 なのに、
「初めから拒否権なんてねぇんだよ、赤の他人クン。黙ってねぇでなんか言え」
 言葉は、見つからない。
 自分のせいで犠牲になったゼロのために、何を言うつもりだ?
 ゼロは俺が護るとでも言えばいいのか? 何も出来ないのに?
 そんなの、最低だ。それこそ最悪じゃないか。
「……黙ってんなら連れてくぞ、時間とらせやがって」
「っちょ――!」
 反射で、立ち上がろうとしたハインスの肩を掴んでしまった。
 何でこんなことしたのか、判らない。
 だが次の瞬間、ハインスの上目遣いの視線と合った時にはもう遅かった。
「何も言えねぇくせに、ヒーロー気取りか偽善者野郎」
 抑揚も無い声。嵐の前の静けさと悟るのも、一瞬だった。
 突然胸倉を掴まれ引っ張られる。目の前では、憤怒が炸裂していた。
「テメェ!! 聖痕(スティグマータ)≠フ何なんだよっ!! 保護者か!? 守護者か!? 何の関係も無いくせに! 何の力も無いくせに! 何も無いくせによぉ!!」
 硬直した表情が癇に障るのか、さらに語調は強まる。
「あぁそうだよこっちだって嫌々だよくそったれ!! それでもなぁ、俺達は生きるために何だってしなきゃいけないんだよ! そうしなきゃ許されないんだよ=I! 敵の命一個がたったの金貨一枚とイコールで結ばれてる戦場でも、俺達は銃を捨てるわけにゃいかねぇんだよ!! 何なんだよお前! 勝手に救世主にでもなった気でいやがって、邪魔なんだよクソガキがよぉおおお!!」
 嵐はあまりにも怒涛としていて、終わるのも一瞬のようだった。
「俺達の仕事は聖痕(スティグマータ)£D還って決まってるんだよ。他の理由なんか知らないし知る気もねぇ。判ったらそこ退け」
 言葉はいらなかった。
 これほど単純なことはない。
 殺したくないのだ=Bゼロも飛鳥も、関わりを持った不幸な者、全員を=B
 目の前の戦士は、傷つけるのが怖いのだ。
 だからいつ殺されてもおかしくないはずの飛鳥はまだ生きている。顔の横を外れる軌道で銃を撃ったのも、当てたくなかったとしたら。
「……護れる、のか?」ゆっくりと飛鳥は開口する。「ゼロは、そっちに行けば助かるのか? 救われるのか……?」
 答えは返ってこない。それもきっと知らされてないのだろう。
 掴んだ胸倉を掴んだ手を放し、ハインスはリビングを出ようとする。
 どうすればいいのかなんて、もう飛鳥には分からなかった。
 護りたかったゼロは、飛鳥を護るために魔術師に狙われた。
 教団はゼロを連れ戻すためだけに飛鳥を生かすことにした。
 ここで飛鳥が『YES』と答えれば、総ての問題が終わる。
 どうすればいいのかなんて、飛鳥には選べるわけなかった。
 他でもない飛鳥だけが、何の力も権利も無く、関係も無い。
 哀しいまでにあっけない、終焉。
「二階の左の部屋だったな?」
 確認のつもりで聞いてくるハインス。
 返事が無い。それでも迷わず彼はすぐに踵を返した。
「――っ」
 飛鳥は、返事もせず、振り向いて駆けていた。
「待ってくれ!」
 部屋を出ようとしたハインスの前に立ちはだかる飛鳥。
 ハインスが何かを言おうとするより先に、肩に手を掛けて言い寄る。
「なんで! なんでゼロは逃げたんだ!? 護ってくれるなら、むしろ外よりも危険が無くていいはずだ! それぐらいは知ってんだろ!?」
 保護よりも自由を選んだ理由。それは保護ではなく拘留や監禁のような束縛なのだと思っていた。だがそれにしては、彼等の彼女に対する扱いが、優しい。
 案の定、ハインスは咄嗟に視線を泳がせた。
「何か、知ってるんだな!? なんでなんだ! それだけでいいっ! 頼む!」
「しつこいぞテメェ……放せっ」
 無理矢理腕で払われる。魔術の世界にも関わらず銃器を扱うだけあって、飛鳥は軽々と壁に払われて床に尻餅を突く。
 それを苦々しい顔で一瞥し、逡巡の後にドアに手を伸ばす。
「待っ、てくれ……!」
 ハインスの足首を掴んで、飛鳥は引き下がらなかった。
「しつけえっつってんだろ! マジで蹴んぞ!」
 ぐいぐいと足を動かすが、今度は脚を丸ごと抱え込んで離さなくする。
 なんて見苦しく、滑稽なことだろう。
 自分でもそう思った。
 それでも飛鳥は、ゼロの繋がりを感じていたかったのだ。
 あの笑顔が、本物であると信じたいから。
「……分かった、教えてやる」
 彼に希望を与えたのは、今まで椅子に腰を下ろしていたダグラスだった。
 立ち上がってこちらを見下ろしているのを見返し、飛鳥は少し這いずる。
「本当か!」
「お、おいっ……それは絶対機密ってことに!」
「それでは彼は納得しない。本当のことを話せば嫌でも彼女を忌むだろう」
(……え?)
 そこで、飛鳥は小首を傾げたくなった。
 今、なんて言ったのだろうか。
『本当のことを話せば嫌でも彼女を忌む=x?
 嫌な、予感を感じた。
「そもそも聖痕(スティグマータ)≠ヘ今から数ヶ月前までは奪還ではなく文字通り殺害の対象になっていたんだ……何故なら――」
 その時、
 カチャリ、と軽い音が鳴る。
 ふと、視界の端に見えたのは、リビングのドアの開く景色。
 視界に映るゼロの姿と、視界から消えた神父の声が重なり、

「二年前に『聖域』を不明に暴走させ……何百という数の命を奪ったのだから」

 飛鳥が求めた救済は、どこにも無かった。


 視界に入ったままの姿が、あまりにも恐ろしかった。
 いや、ゼロ自体は大した事ではなかった。学園での戦闘のままの少し荒んだティーシャツにハーフパンツのぶかぶかな格好。髪はぼさぼさで、多分今までベッドで寝ていたからだろう。
 ただ、
 神父の言った言葉と、その元凶が目の前の少女だということが、
 恐ろしかった。信じたくなどなかった。
「ゼ、ロ……?」
 思わず呼びかける。
 聖痕(スティグマータ)≠使うことで一切の感情が無かった時とは違う、寝ぼけ眼の顔。
 それを、期待していたというのに。信じていたというのに。
 目の前の顔は一切の感情が無く=A返答はおろか言動も無かった。
 ただじっと立ち尽くしている。雪のように真っ白な髪がだらりと垂れ、断片的に表情を覗かせる。それでも、無表情の顔は見て取れる。
 異質の世界に生きるというだけで、
 周りよりも特別な能力者なだけで、
「本当、なのか……」
 他人を護ることの出来得る救世主(ヒーロー)だと信じていた少女が、
「人を……大勢、殺したって……いうのは……」
 ゼロは、答えない。返答したのは違う声だった。
「正確には殺したのではなく、消したに近いな」
 冷静に答える神父へ、精一杯に視線を向ける。
 ゼロの硝子のような透明感とは違う、苦さを噛み締めるような渋面がある。
「『聖域』は一旦開放されてしまうと、まず箱としての密閉性を保つために外部情報を読み込み、それとリンクしてしまう。つまり大気と一体化し、重力と一体化し、気流と一体化し、物体と一体化し、果ては人間とも一体化して巨大な質量を押し込めるレベルにまで拡大し、それを圧縮することで箱を再び修復、保管することが可能とされている」
 あらゆるモノの存在を消すことさえ可能な力も有する。
 それは、ゼロから聞いていた。
「言ってしまえば『聖域』の正体とは機械的な意思を持つエネルギー体だ……無論、同化(リンク)した事物事象を取り込んで修復した箱に変える≠ニいうことになる」
「じゃあ……ゼロ、は」
「……何らかの原因で暴走、小さくも綺麗だった街を一つ、分解し、吸収した」
 それが、二年前。
 ゼロが今まで逃げていた理由。
 教団がゼロを利用していたのではない。
 ゼロが教団から逃げていたのは、ゼロが――、
「嘘だ!!」
 かぶりを振って否定を叫ぶ。
 髪を掻き毟り、強く眼を瞑り、歯を食い縛って、ゆっくりと視線を上げる。
 ゼロは、まるで石になったかのようにまだそこに立っている。
「嘘だろ? なぁ……そんなことないよな? ゼロ」
「……アスカ」
 ぽつりと、ゼロが口にする。それは自分の名前。
 歓喜が湧いた。ほら見ろ、ゼロはやっぱりそんなことをする悪なんかじゃ

「ごめんね、だまして」

 力なく答える、たどたどしい声。
 飛鳥の希望を容赦無く奪い取って。
「……ぜ、ろ」
「こんなことを言うのはおかしいけれど、キミにそう思われたくなかったの」
 なんで、とゼロを見上げる飛鳥に、彼女は、眉根を小さく寄せた。
「家がね、ほしかったの……家族、かな。せめて誰かとの絆がほしかったかな」
 言うその口調も内容も、ひどく子供らしい。
 なのに、本質は酷く、醜く、最低なものだと、ゼロは続ける。
「たまたまアスカだったっていうわけじゃなけどね。でも――」
 そうして、ゼロは答える。
 飛鳥の心を引き裂くと判っていても、もう、言わざるを得なかったのだから。
「ボクは罪人、誰かを救って許されたかったけれど……ダメだったみたいだね」
 白い足が、一歩前に出る。
 即座に二人の神父は銃を抜こうと姿勢を数センチ下げるが、ゼロの無感情の声は静かにそれを制する。
「無理しなくていいかな、もう……逃げる理由がなくなっちゃったから」
 ゆっくりと、二人の手が銃把から離れる。
 二人の合間を縫うように歩くゼロの背を、飛鳥が叫んだ。
「ゼロ!!」
「……、」
 足が止まる。
 今だ。何かを言わなければ、ゼロは行ってしまう。
 それなのに、今までで一番と言っていいほど、喉の奥が乾く。
 言葉を探している最中に、ゼロのほうが振り返った。
(止めるんだっ。家族が欲しいなら俺がなってやればいい! 俺だって両親は居ねぇし、友達だって居ねぇけど……でもきっと、綺麗な世界はたくさんある。お前が知るべき世界も、知っていい世界も、全部っ! 俺が、見せて……っ!)
「……、……っ!」
 音は、虚しいほどに無い。
「……アスカ、名前ありがとね……大事に使うから」
 ゼロの諭す声が、飛鳥の思考を止める。
 そして、

「さよなら……ボクは、ちゃんと、終わり(ゼロ)にならないといけないのかもね」

 笑っていた。
 ゼロが、笑っていた。
 それは笑顔と呼ぶには曖昧で、眉根の寄った、困ったような微笑だけど。
 『来ないで』『気取らないで』『関わらないで』『逢わないで』『想わないで』
 ない交ぜになった中で、切なる一言が最後に添えられていた。
 『キミは生きて』と、願うような微笑みで。


 気が付けば、家は静謐なまでの静けさに包まれていた。
 まるで眠りから醒めたように壁に身を投げうったままの飛鳥。
 ゆっくりと、身や心に残る確かな感触を求めようとする。
 呆然としたまま、飛鳥はそれが夢のようだったように視線を巡らした。
 少し離れたところで、神父の撃った小銃で破損した木片が散っている。
 払われたことで壁に激突し、強く打った背中はジンジンと痛んでいる。
 何度も何度も何度も口にした事で慣れてしまった、少女の名前の感触。
「ぜろ……」
 呼んでみる。
 返答は無い。
 彼女はここには、居ない。
 届かない世界へ、行った。
 まもれなかったのか、と朧気な意識がそれを確認した後、
「ぅあああああああああああぁぁぁぁぁぁああああああああああ――っ!!」
 後悔と焦燥と悲哀と、湧き上がる総てを認識する前に吐露してゆく。


 小さく、彼の悲鳴のような声が聴こえた気がした。
 歩いて五分も経つのだから、いくら叫んでも届くはずが無い。
 それでも、彼が自分の名前を呼んだのだと、確信が持てた。
 相変わらすの寝ぼけ眼を擦りながら=Aゼロは空の一点を見上げていた。
「おい……」
 声を掛けられる。
 教団の一人なのだろう。えらく大柄な男が軍用トラックの荷台の口を開けてこちらを見ていた。
「……ごめんね」
「何?」
「この街に入る時に戦ったひと達かな? 二人ですごい連携とってた」
「……、」
「ごめんね、追ってきて欲しくなかったからお腹に軽い傷つくっちゃって」
 言うと、大男は少し視線を俯かせた。サングラスのせいであまり表情は判らないが、きっとゼロに言われるのが厭だったに違いない。
「……入れ」
「うん」
 すぐに荷台に入り込むゼロ。布を下ろそうとした時、大男の手を添えるようにして止めた。
「お願いがあるの、アスカのこと」
「何をだ?」
「別の魔術師に狙われてる可能性があるから」
「!」
 サングラスの奥で瞠目した。
「相手はたぶん外れた音色(ディメイシア・スカーレ)=A音響の魔術を得意とする凄腕かな。彼女もボクの『聖域』を欲しがってるようなことを言ってた」
「三年前に突然消息を絶ったという、あの?」
 こくりと頷く。
「何度もアスカを殺そうとした、もしかしたらアスカが危ないかもしれない。だからお願い、少しの間でいいからアスカを護ってあげて」
 抑揚の無い、しかし一つの意思を込めた漆黒の瞳が見上げてくる。
 大男は少しだけ言葉を探し、口を開いた。
「……信用しろ、と?」
「お願い。ボクのせいで死ぬ人はもう終わりにしたいから」
「っ――」
 ぎり、と。
 大男は歯を強く食い縛る。そうしなければ大声で怒鳴りそうだったから。
「お前は……それで他人を救った気か?」
「……」
「お前が……お前が消したあの♀Xにはな……俺の……俺の、家族がっ……」
 やっぱり、とゼロは確信に至った。
 彼のような軍隊扱いが、最高機密の聖痕(スティグマータ)£D還に関与できるはずがない。
 だが、教団は信仰を重んじる組織だ。それだけ関係性というものを重視し、尊重し、優先する節がある。
 彼が、関係者だったか。ゼロは思う。
 それでも、
 ゼロの表情は、少しも揺らがなかった。
 内面的な感情でさえ、傾いだりしない。
 そんなことよりも#゙の身を護りたいと案じていると、大男は気付いていた。
「今にでも……お前を今すぐにでも、殺してやりたいっ……任務なんていい。拷問の果てに殺されたって構わない……妻と、娘を消した、お前なんか……っ」
 大男の顔は、とても戦士とは言えないほどに、哀しかった。
 そうした自分が、どれほどの大罪なのかは判らない。そもそもその原因すら故意のものではないのだから、怨まれる由縁などゼロにはないのだ。
 でも、
 それでも、
「……なら、全てが終わったら、ボクを殺すのはキミでいい」
「……っ?」
「そう審問官に頼んでみる。ボクはもう、背負うことしかしたくない」
「そっ」それは、あまりにも大男にとって残酷な返答だった。「それで逃げたつもりか!? 背負う!? 人殺しの分際で!! 俺の家族を返せ!! 化け物のくせに! 兵器のくせに! 俺の、幸せが……! そこにあるんだぞぉ!!」
 爆発したように、ゼロの胸元を指差し怒号をぶちまける。
 ああ、そうだね。ゼロは思った。
 この小さな胸の奥。彼女の中で箱を形成する汚物(せかい)は、この目の前の人の大切なモノを薙ぎ払うようにして奪い、犯し、潰し、自分のためだけに利用した。
 ならばゼロは悪くないのに、ゼロはすっと眼を閉じた。
「それでも、ボクには何も出来ない。キミにも何も出来ない。今やれること、それは……ボクは罰せられることで、キミはアスカを護ることだから」
「……っ」
「キミたちの世界をね、ボクの世界が♂したんだ。キミは犠牲者であり、復讐者であり、そして……ボクの命を選べる唯一(かみさま)」
 両手を伸ばし、まるで神に祈りを捧げるようにして大男の顔を両手で触れる。
「お願い、ボクはどうなってもいいから。ボクを奪い、犯し、潰し、利用するだけ利用して壊れるその日まで、アスカを護ってあげて」
「どうしてあんな子供に固執する……? 信じていた偶像を壊されたというだけで、お前を止め切れなかった奴だぞ……」
 眼を開け、もう一度眼を閉じる。
「それでも、アスカはボクに人間としての何かを与えてくれたから。寝床と、ご飯と、それから名前。みんなみんな好きだった。嬉しかった。だからボクは彼に優しさを与えたい。神を嘲る為のようにして産み落とされた世界の子、そんなボクでも誰かに何かを与えられることを知っておきたい。確信したい。だから、だから……ボクの終わり(ゼロ)はアスカでいてほしい」
「……」
「おい、さっきなんか大声出してたけど、どうした?」
 周囲の状況を軽く見て回っていた茶髪の神父が戻ってくると、大男はゼロを突き飛ばし、乱雑に布を下ろした。
「どうしたんだよ、ダグラス」
「……何でもない。そんなことよりも=Aさっきの少年の身柄を保護することになったぞ」
「ああ。やっぱあの魔術は通達の着てた第三者か」
「それもかなりの凄腕だ。ハインス、お前に頼みたい」
「はぁ!? ちょ、冗談じゃねぇよ! なんで俺があんなガキのお守りを!?」
「別に顔を合わせなくたっていい。一週間見て、彼に何か変化が無ければすぐに帰ってきていいらしい。俺達もまだ本隊に合流するまでこの街に潜伏することになるだろうしな。俺達は神に仕える身だぞ? 命を捨てても祈りを適えろ」
「ったく……へーへー解かりましたよ、煙草だけは補充頼むぜ?」
「……俺の給料からしょっ引くつもりか?」
「神に仕える上司が経費から煙草代なんか下ろしてくれるかよ」
「まったく……一週間か、給料の半分はなくなりそうだな」
「いいだろ? 俺もお前も自分以外に給料使う奴がいないんだからな」
「お前は一度もそういう結婚話が無いだけだがな」
「うるせーよ」
 英語で何かを話した折、茶髪のほうが歩いてゆく気配を感じ、闇の中でゼロはじっと垂れ布を見つめる。
「……なら俺は、」布の向こうから、大男の声が聴こえる。「容赦無くお前を奪い、犯し、潰し、利用するだけ利用して壊してやる」
 だから、と。大男は続けた。
「せめて俺の家族は最後まで幸せだったんだと……確信させてくれ」
「……うん」
 ありがとう、とまでは言わなかった。
 自分は……罪人なのだから。





 目覚めのときは、悪夢に思えた。
 何度も何度も、現実に彼女の名を呟いて目が覚めるのだ。
 彼女の言う、終わりの名を。
 起きて、まるで数日間引きこもる準備を蓄えたように食材で溢れた冷蔵庫を開ける。牛乳をコップに注いで飲み干し、一息を洩らす。
 のろのろとした動きで制服を着て、時計を見た。時間的にまだ余裕がある。
 それでも、飛鳥はすぐに家を出た。
 ろくすっぽガスの元栓確認も戸締りも確かめず、油が沈んだ液体のような意識を、日常へと引っ張り出す。
 玄関を開けたとき、ふと思い出したことがあった。
 彼女が居たときに、彼女も一緒に外に出たため、言えなかった言葉。
 きっと、二度と言うことのない言葉。
「……」
 今も、言えなかった。


「……あれ、神代君」
 呼ばれて、やっとドロドロとした意識が浮上する。
 気が付けば学園の廊下で、もうすぐ自分の教室に入ろうという最中だった。
 通り過ぎる隣りの教室の中で、少しだけ驚いた顔の知り合いが居た。
 雪乃詠美。嫌われ者の飛鳥を心配してくれる、数少ない知り合いだ。
「おっす、早いなお前……そして勉強してる具合も優等だ、百点」
「私はいつもこの時間には来てるから。神代君こそ早いね、まだ七時前なのに」
「いやー、天究と正門で鉢合わせたら何言われるか分かったもんじゃねぇしな」
「……神代君?」
 席を立ち、こちらに歩み寄ってくる詠美が、怪訝な顔をした。
 どうした? と返そうとしたら、
「どうしたの?」
 唐突に、詠美がそう言い出した。
「顔色、凄いけど……体調でも悪いの?」
「え……」
 何を言ってるんだろう、と思った。
 そんな心配そうな顔をしなくたって、俺は何も変なことはなかった、と。
 そう、無かった=B
「ちょっとした用事があってさ。昨日終わったんだけど」
「用事、って……もしかして誰かの、その、……葬儀、とか?」
 バツの悪そうな顔で窺い見てくる詠美に、飛鳥は頬を緩ませた。
「うんにゃ、でもそれに近いかな……終わってしまったことだから」
「……?」
 不思議そうな顔をする詠美に、何でもないと言い聞かせた。
 あれはもう、飛鳥には関係の無いことなのだ。
 彼女が決めたことであり、飛鳥が決められることは何一つ無い。
 だから、終わり。非日常の終わり。
「そういうお前だってどうしたんだよ、そんな厚着して。風邪か?」
 詠美の格好は冬服のワイシャツの上から薄地のセーターを着込んだ、少し暑い格好だ。それを指摘された詠美は少し頬を膨らませた。
「女の子は冷え性になりがちなものなの、マナー違反だぞ?」
「とかいって、本当はクーラーにあたり過ぎたクチなんだろ」
「うっ……お母さんとおんなじこと言う……」
「ははっ」
 談笑に華を咲かせる二人。
 ああ、これが俺の世界か、と飛鳥は思った。
 一日一日があまりにも平凡で、天究のような変人集団に追い回されて、周りの人間には避けられて、でも詠美は分け隔てなく優しい。
 そんな、世界。
 忘れよう。
 そう飛鳥は思い至った。
 もう彼女の居ない自分に、魔術師が襲ってくることはない。
 だから、彼女のためにも忘れてやるべきなんだ。
 そう、思い至ることにした。





 魔術師は、人々の程よい雑踏の中を歩いている。
 時刻は三時過ぎ、道行く面々は笑いながら擦れ違う。
 遊ぶ約束、寄り道誘い、少し先のこと、話す内容は様々。
 反吐が出るほど、最悪な情景。
 こんなものを、見ていかなければなないないことが、最悪。
 早く、『聖域』を手に入れなければならない。
 教団によって保護状態になっている彼女を攫うためには、まずは拠点から突き止めなければならない。今はまだ探索が続くが、今日中には探し当てられそうだった。
 こんな仮初の日常なんかに生きるのは、もう疲れた。
 そんな時、ふと視界に入った見知った姿。
 用済みになったその青年は、一人の少女に付き纏われていた。
 これもまた、酷くどうでもよかった。





 やがて相変わらずの一日(ルーチンワーク)が終わる。
 懲りずに本科生校舎までずけずけとやって来る百瀬菊璃をあしらい、頭の中が空っぽになった感覚のまま家路へ向かう。
 今日はもう雪乃詠美や斎条伊月と遭遇することはなかった。
 それもそうだ。今日は商店街へ行かずに家路を真っ直ぐ歩いている。
 買い物をする必要がないぐらいに、冷蔵庫がぎっしりなのだ。
(……なんでだっけ?)
 ふと、飛鳥は小首を傾げた。
 ああ、と思い出す。
 彼女か。
 しょうがないとか思いながら、彼女の胃袋に合わせて多めに買い込んだ食材。
 また、彼女か。
 忘れてやるべきなのに。
 その名前が、離れない。
 呼んではいけないと、頭を弱く振った。
 誰も『おかえり』などと言ってくれない家の門に手を掛ける。
 小さな軋みと共に閉じ、振り返った時、
 異質がそこに居た。
「よぉ」
 異質は気軽というには疲れたような声で言う。
 玄関前の階段のところで座り込んで、煙草を吹かしていた。茶髪のすらりとした長身の男。以前は白い神父の服装だったが、今はカジュアルな服装だ。
 薄い紗の掛かったサングラスの奥から、蒼い瞳を向ける。
 足元に、吸殻が山のように積もる灰皿がある。相当の量を、時間を掛けて吸ったのだろうか。
 飛鳥にとっては、どうでもよかった。
 関係が、ないのだから。
 彼が居るのも、きっとそれほど些細なことなのだろう。こんな命を優先するという、あまりの些事。
 飛鳥は何も言うことなく、彼の脇を通って玄関に鍵を差し込む。
 ノブを引き、開けた時だった。
「ダグラスさぁ……」
 まるで世間話をするように、まだ陽が朱色に染まる前の空を眺めて、言う。
「あいつ……ホントは魔術師だったんだよ」
「……!」
「つっても下の上程度の凡才だったらしいんだけどなぁ……まぁそれでも魔術なんてこれっぽっちも使えない俺から比べりゃ、憧れだったな……」
 立ち尽くしたまま、その背中を見つめる飛鳥は、ゆっくりと口を開いた。
「……なんで、軍隊みたいなところに?」
「言ったろ、下の上程度って。そのレベルはな、炎なんてガソリンぶちまけてライター投げたほうが楽だし、銃の引き金を引くほうが簡単に命を奪える」
 遠い場所を見つめる神父は、煙草を灰皿にねじ込んで新しい煙草を銜える。
「エリート集団んところの大僧正様じゃあるまいし、そんな奇跡みたいな天才なんてそうそう居ないもんさ。それにあいつの家族は普通の人間だったしな」
「普通の人間?」ますます訳が分からなかった。「じゃあ何でアイツは戦うような場所に居るんだよ……もっと他にも仕事なんて」
「その家族を二年前の聖痕(スティグマータ)*\走の時に失ったからだよ」
「――、」
 思考が、止まった。
「俺は実際、まぁ軍隊みたいなとこから来たからな……正直よくわかんねぇんだけどな……『聖域』ってのは、旅客機のブラックボックスみたいに開閉の存在しない箱なんだとよ、つまりそれが開いたってことは、箱そのものに何かの破損が起きたってことらしい」
「それって……」
「聖痕(スティグマータ)℃ゥ身に罪は何も無いってこと。むしろ勝手に箱を開けられた以上聖痕(スティグマータ)≠熹害者。あいつが聖痕(スティグマータ)≠恨むのはお門違いってヤツなのさ」
 なんで、という言葉は出せなかった。
 怒るでもなく、寂しそうな声で、神父は答える。
「それでも、家族を失った事があいつの人生の分かれ目になっちまったのさ。たとえ恨むことが間違っていても、ダグラスは一生あの兵器を恨み続ける……そうしないと、聖痕(スティグマータ)≠悪者扱いしないとあいつは人間であることを見失うって、判ってたんだろうな……」
 誰が悪いかなんて、どうでもいいのかもしれない。
 誰が救われるかなんて、曖昧なものに囚われて。飛鳥は、忘れていた。
 俺は、ゼロを、どうしたかったんだ?
 そうして、袋小路に迷い込んだ。
「……だけどさぁ、聖痕(スティグマータ)≠焜oカだぜ」煙草に火を着ける。「ホントは誰にも死んで欲しくないくせにさ……俺達生き残して、今度はお前のこと護ってくれ護ってくれってうるせぇしさ……」
 え? と、飛鳥は瞠目した。
「ダグラスもバカだバカ。なーにが上からの通達だよ、嘘バレバレだっつーの」
 一息、煙を吐いて、神父は空笑いを噛んだ。
「結局、どいつもこいつも誰にも死んで欲しくないだけなんだよ。聖痕(スティグマータ)≠焜_グラスも、俺も……お前だってそうだろ?」
「俺、は……」
「……ま、俺は一週間お前の無事を見てから、さっさと帰らせてもらうぜ……どうせ本隊と合流するまでこの街にいるわけだし」
 煙草をねじ込み、それを小さな袋に入れる。
「……これさぁ、他の奴には言うなよ? ホントはさ、俺だって軍隊に居た頃は後方支援の医療班だったんだ。人を助けることが夢でさ、殺しは悪夢だった」
 立ち上がり、腰に手を当てて伸びをしてから、門へ歩き出す。
「俺もダグラスも、命令一つで子供を殺せる非常じゃねえ……だけどそれでも俺達は上からの命令に従わなきゃいけない立場だ……」
 門に手を掛けて、ぽつりと、しかし聴こえるように言って去った。
「だから俺達は、そのゼロ≠チて名前は呼べそうにねぇんだわ……」


 神父が帰って、リビングに入った飛鳥はまず、テーブルに手を触れた。
(ここで、あいつは嬉しそうに飯食ってた)
 テレビをまじまじと観て、
 不思議そうにシャワーを浴びて、
 嫌だとごねるのを無理矢理ベッドで寝かせ、
 そんな、当たり前の日常のような、世界。
 戻る記憶と共に、飛鳥の瞳に光が燈る。
 呼んではいけない名前を、言う。
「ゼロ」
 誰が決めたわけでもないのに、いけないと思い込んだ枷を剥ぎ落として。
「ゼロ」
 自分勝手な考えで崇高なモノのように決めつけ、縛り付けられた者の名を。
「ゼロ」
 強く、強く、口の端に乗せてゆく。
「……ハッ、上等じゃねぇか……」
 獰猛に、
 確実に、
 強烈に、
 鮮明に、
 笑みを噛み締める、彼女を救けるために再び非日常へ足を踏み入れる。
 理由なんて、簡単だった。

『……ま、俺は一週間お前の無事を見てから、さっさと帰らせてもらうぜ……どうせ本隊と合流するまでこの街にいるわけだし=x

 わざわざそれを教えてくれたのも、

『人を助けることが夢でさ=A殺しは悪夢だった』

 諦めたことで束縛された自分の代わりに、
 言外に『救ってやれるのはお前だけかもしれない』と言いたげに、
 ただの一般人に、それを期待しているようで、

「判り難い言い方しやがって……確かにどいつもこいつも<oカばかりだ」
 強く、強く、握り締めた手に力を込め続け、

『だから俺達≠ヘ、そのゼロ≠チて名前は呼べそうにねぇんだわ……』

「当たり前だ、テメェらにその名前は呼ばせねぇ……」
 護れない奴に、ゼロは呼ばせない。
 護らない奴に、ゼロは呼ばせない。

 だから自分だけがゼロを呼ぶ。
 『護ってみたい』ではなく、『護りたい』なのだから。

 だから、
 ただ一人の光になるために、
 笑う。

『さよなら……ボクは、ちゃんと、終わり(ゼロ)にならないといけないのかもね』

「上等だ。下らねぇ笑顔振り撒いて終焉を謳うバカを、俺が救ってやるよ!!」

 咆哮が、
 今、神代飛鳥(ヒーロー)を非日常へと導く。
 悪者(ヒール)気取りの、たった一人の少女のために。










 Chapter.D     決 −Black or White's−





『んー、そかそか……いやまさかかの有名な外れた音色(ディメイシア・スカーレ)≠ェ絡んでるとはね』
 えらく懐古的(レトロ)な遠隔無線機の前で、ダグラス=ヴィードは小さく返事した。
「校舎を丸ごと封印する魔術師となれば、本来は貴女や十字遠征軍(クルセイダリス)の面々方の御役柄と心得ておりますが」
 懇切丁寧な受け答えをするダグラスの言葉は日本語だ。通話している相手は一応純イタリア人だが彼女がお互いの国の言葉は使わないほうがいいと言い出したのだ。当然それは正論であるし、何より生半可な軍隊紛いのような自分がそれに首を横に振るような無礼は出来ない。
『んー、王室特務のレベルなんて世界規模に近いからねぇ〜。それにアタシがそっちに行った頃には、恐らく収拾付かなくなってるはずだし』
「……」
『別にアナタを信じてないわけじゃないのよ? ダグラス=ヴィード。能力名なんてなくたってアナタの力は信頼してるもの』
「御言葉、大変嬉しゅう御座います」
『あ、そんなに期待してないわね?』
「いえ、そういうわけでは……」
 むしろ雑兵扱いの自分とこうして普通に会話していいのかどうかも疑わしい。ただでさえこの無線での会話も完全な無断使用によるものだ。本隊が着たら上司に大目玉を喰らうこと間違いなしのダグラスは、相手に少し恐縮する。
 無線の向こうから、溜息によるノイズが短く響く。
『でも、悪いねぇ〜』たはは、と申し訳なさそうに空笑いする。『頑固娘達が来れない以上正規の魔術師が行かきゃならないのに、アナタ達に頼んでばかりで』
 心配する母親のような言い分に、ダグラスは少しだけ頬を緩めた。心配してくれている相手は、自分にとって娘と言ってもいいほどの若さなのだから。
「リンバー諜報員」
『こーら、二人の時ぐらい歳相応の呼び合い方があるでしょう。敬語も却下』
「……ああ」
 人のことを頑固呼ばわりしているが、彼女も存外融通が利かない。
「聖痕(スティグマータ)≠フことなんだが、」
 視線を外に向ける。少し離れたところに停まっているトラックの荷台には、『聖域』と呼ばれる人間の知識や崇拝の根源にもなる神話≠竍伝説≠現実に発露させるために生み堕とされた力だ。本来あんな、なんら魔術的封印も施していないただのトラックに乗せているだけでは不安がる隊員も数人居る。最悪の場合、世界そのものを消滅してもおかしくない破滅を引き起こすことも強ち幻想ではないからだ。少なからずも魔術に精通するダグラスも正直、まだ核弾頭を運ばされたほうがマシな気分である。
 『聖域』の暴走、その危険性は『破壊(ブレイク)』ではなく『抹消(デリート)』なのだから。
 二年前の事件の場合にしても、実際は町ごと消滅しえども記録として残り、ダグラスの記憶にも残っている以上、不幸中の幸い≠フ部類に入る。
 もっとも、その物言いをした偉人は一人の大男に顔を殴り飛ばされているが。
「本隊が来るのはまだ先になるのか?」
 一方入電(メールフォーム)から既に半日、日がどっぷり暮れても返答は一切も無く、挙句に無線を掛けてきた一番最初の人物が今話している彼女では、怠慢と言うほか無い。
『んー、』申し訳無さそうに唸る少女。『ごめんねぇ〜、ほんと。先日にあった機関の日本沿岸ラインの防衛以来、ちょっと格下連中は尻込みしちゃってるみたいなのよね。仕方が無いとは思うけど、なんせ葬送回帰(パペットメイカー)≠竍鴉(ブラックバード)≠ェ出てきたんだもの、それこそ王室特務の本格戦闘に発展しかねない。一応は噂しか知らないけれど、その外れた音色(ディメイシア・スカーレ)≠セって確か魔導書級の魔術師のはずだったわけだし……油断は禁物よ、ダグラスさん』
「ああ、わかった」
 くすり、と愛想の良さが窺える笑みがノイズ混じりに返ってくる。
『何かあったらまた教えるわ。教えるだけなら怒られる程度で済むしね』
 実際に彼女と自分との立場には関係が皆無に等しい。この無線も私情だし、情報を教えているのも諜報部側の仕事として彼等に逐一の情報提供を与えているに過ぎないのだ。神に仕える身は知り得るモノは隠してはならないものだと。
 まあ、何気に向こうは機密漏洩で減俸も有り得なくは無いらしいのだが。
『そろそろ切るわね。じゃあ、気を付けてね=x
「――、ああ」
 助けられないのをいいことに、先読みだけして言い残した小娘に、既に沈黙を徹する無線を一瞥しながら溜息を吐いた。
 小型トラックを降りるダグラス。
 聖痕(スティグマータ)≠ェ居る大型トラックには、周囲にライフルを携えた教団員達が囲むように立っている。
「おい」
「おぉダグラス。本隊からの入電だったか?」
「いや、違った……もうじき来るようなことは言っていたがな」
 こちらに気付いた相棒にダグラスは渋面を浮かべる。
「はぁー……ホントに大丈夫なんだろぉなぁ?」
「仕方が無い、機関の防衛があって向こうはゴタゴタしてるみたいだしな」
「いっそのこと機関みたいに横社会でやってくれりゃあ、いちいち申請出してとかしないで済むのによぉ」
「そう言うな。何千何万という信者を抱える組織だ、それは禁物だろう」
「わぁってるよ、ったく……カタいなぁお前は」
「……」
 面倒そうに爪を噛む相棒に一瞥をくれつつ、歩き出す。
「んあ? ダグラス、どうした?」
「いや、……」ちらりと、トラックを含む景色全てを一度見回してから、「……風に当たってくる」
 ガラガラと大きな音を立てて扉が開き、閉まる。
 さぁー、と涼気を孕んだ風が吹きぬけ、ダグラスはふと嫌な予感を思い浮かべた。
 彼等が居るのは、郊外に建てられた廃工場だ。溶接か何かの工場だったのか、辺りには放り捨てられたような鉄材やガラス機材がぞんざいに積まれている。
 誰も来なくなったこの場所で、彼等は今、本隊を待っている。
 だが、
(……)
 まさか、とは思う。
 不安に駆られて見上げた空で、雲に紛れた月が照明と暗転を繰り返していた。


 風に当たるついでに、周囲に不審な影が無いか巡回を兼ねて戻ってきたダグラスは、トラックを見る。
 工場内の開けた場所に停まっている二台のトラックは変わらず沈黙を保ったままだ。過去に起きた事件以来、気付かぬ内に人が死ぬことを恐れる節のある彼は、人知れず息をついた。
「どうだった?」
「いや……特に何も無か――」
 言葉を紡ぐ口が、停まった。
 暗闇に浮かぶトラック。
 銃を携帯して立つ仲間達。
 月明かりによる光の斜線。
 静かな、騒音など起こることさえ躊躇われるほどの静寂な景色。
 怪訝そうな顔の相棒が、仲間達が、こちらを向いている。
 目の前の現状にすら気付かず、こちらを。
「どうし――」
「どうした、これは……っ」
 遮ったダグラスには、それが視えていた。
 ほんの、五分。
 思えば彼がこの場所を離れたのは、最大の失敗だった。
 何故なら、ダグラスが視ているモノが、彼等には視えていないからだ。

 雑然とした工場内。
 至るところに魔力の流れが充満している、この状態が。

「よっ――」
 反応でもなく、
 判断でもなく、
 脊髄による反射に近い経験則が、
 ダグラスに最低限にして最大限の言葉を『救済』を叫ばせた。
「避けろぉぉぉおおおおおおおおおおお―――――――っ!!」

 言葉に気付いた相棒が、しゃがんだ。
 咆哮に戸惑った仲間が、立っていた。

 その差によって、

 トラックを傾けかける程の膨大な轟音が横合いから殴りかかってきた。

 ズ、――ドン!!
 何かが爆発したような轟音と共に、破砕された窓ガラスの破片が飛んでくる。
 全身を伏せても紙切れのように転がってゆく相棒。轟音による衝撃からは軌道がずれているにも関わらず鼓膜を破りかねない一撃にダグラスが両耳を塞ぐ。
 無論、
 前述の二人のような行動を何一つしていない$柏lの教団員には、強烈だった。
 まるで車に轢かれたかのように垂直に横へ飛んでゆく体。時折、「ごはぁ!」だの「い、ぎぃあ!?」だのと悲鳴が聴こえた錯覚に囚われるのだが、数秒後それはキィィィィイイインン!! という甲高い音の余韻によって遮られる。
 小型トラックはついには横倒しになり、大型トラック――聖痕(スティグマータ)≠フ居るトラックはさすがに一瞬傾いたがすぐに戻った。
 一撃が過ぎ去り、ダグラスはまず左を向いた。
 突然の奇襲を直撃した仲間達は、壁にぶち当たって昏倒している。耳から赤い一筋が見え、ダグラスは歯を強く食い縛った。
「そんなに気にする必要はない。人殺しなんてしたことないし、したくもない」
 声は、視線の反対から聴こえる。弾かれたように右を向くと、

「貴、様……っ」
「御機嫌よう、教団の雑兵。戦場にするには少し惜しい静けさね」
 そこに、魔術師が立っていた。

 魔術師は月を背にして積み上げられたコンテナの上からこちらを見下ろしていた。麻の外套を全身まで羽織り、見えているのは口元だけ。
 淡い月明かりを背負い、神秘的な印象を神父へと与える魔に活きせし者に、ダグラスは目を細めた。
「外れた音色(ディメイシア・スカーレ)=c…!!」
 肩に掛けていたショットガンを向ける。
 魔術師はそれを意に介したこともなく、くすりと笑みを零した。
「焦らないで欲しいわね。何の準備もせずに待っててくれた貴方達のために、こっちは死ぬ気でやってきたのだから」
 こちらの英語に対し、向こうは日本語で返してくる。ダグラスは逡巡したが、日本語で答えた。
「……どうしてここが判った?」
「わざわざ日本語でありがとう。魔術、『レグバの扉印』よ、覚えておきなさい」
 すっと手に持っている物を月明かりに照らす。四角い長方形のシルエットに、ダグラスの目が見開かれた。
 間違いの無い、代物。
「魔導、書……だと?」
「複製(レプリカ)よ、本物なんか一行読んだだけで廃人確定よ」
 魔導書。
 本来、知識を蒐集した物体は珍しい。対血界士用に発案・作成のされた物の大半は魔力の増加や加速、変化といった『持ち主を強くする』ための魔術を封じ込めた物が一般的とされている。
 その中でも、こと魔導書は宝具や神器の中でも必要とするもの自体が別経由(ルート)であることが前提となっている。何故なら魔導書の本領は『魔術を残す』ためなのだから。
 実質、魔術とはそれに必要とされる自然の流れや因果の仕組みを構築し、それを理解することで反復された魔力をエネルギーとして魔術を発動させる。なまじ魔力が有っても知識が無ければ意味がなく、知識が有っても魔力が無ければ意味がない。
 しかし、魔力とは素質であり、知識は残すことができる。
 そういった魔術における概念を文書に記した宝具、それが魔導書だ。
 彼女の言う通り、原書(オリジナル)を読むには正常な精神では読みきれない=B大概の魔術概念は人の魂を簡単に穢せるほどに闇の深いものばかりなのだ。
 しかしそれ故に、その力は半端が無い。
「魔導書を、読んだのか……」
 ダグラスのどこか哀れみを込めた言葉に、魔術師は少し言葉を失った。
 極限まで純度を薄めた(レプリカ)とはいえ、その効果と代償は相当のものだ。
「そんな禁忌を冒してまで……聖痕(スティグマータ)≠何故狙う!?」
「別に彼女の本質が何かなんて興味は無いわ。欲しいのは『聖域』であること」
 魔術師は視線をずらす。
 視線の先の、右側面に窓ガラスが突き刺さった大型トラックを見ている。
「ゼロはそこね……恐らく『教会の絶対契約(アブソリュート・プロミス)』を張り動きを封じてるのかしら」
 その呟きに、ダグラスは少し瞠目した。
「その名前は……」
「ええ、ある素人が彼女を詠んだ愛称ってところね、何も無い(ゼロ)とは上手いこと」
 魔術師は嘲笑も憤慨も無く、感情を捨て去り懐中時計を懐から出す。
「お喋りの時間は終わりよ教団の犬め」
 ほんの十数ページで作られた薄い本が開かれる。
 その瞬間、ぼんやりとした魔力が、ゴオゥ! とうねりを上げる。
「能力名、外れた音色(ディメイシア・スカーレ)=\―己が得るべき光の為に、糧と生り屍と成れ」

 人の居ない工場跡地。
 静かに、戦場は始まる。


 敷地そのものを放棄したためにゴーストタウンのように静かな廃屋の屋根を、一撃が強引に吹き飛ばす。プラスチック製の簡単なトタン屋根が、バキバキと嫌な音を立てて地面に落ちた。
「奔れ、旋律よ」
 魔術師の一声が、膨張と同時に弾丸のように集約し、神父へと飛来する。
 神父は全身で地面を転がり、それを避ける。甲高い余韻が残った場所ですぐさま体勢を整え、ショットガンの銃爪を引き絞る。
 銃口から火花が弾け、広範囲に小さな鉄の飛礫が突き刺さるが、魔術師が外套を翻した瞬間空気が震え、弾が逸れる。
(やはり魔術師相手に一人は無理か……!)
 神父はその巨体を鉄筋の柱に隠して歯軋りする。
 元々が、魔導書を使用している魔術師を相手に自分が敵うはずがないのだ。いわば向こうはドーピングをしているに近い。代償を省みない魔術師ほど危険な敵は居ない。何故なら魔術師の戦いの定石は相手の魔術におけるアイデンティティの欠点を追及する戦闘を模範とする。純粋な理念や信念の下に魔術を使われると、極端に劣勢を強いられるのだ。
「ハイィィィンス!!」
 神父は一喝を夜の廃工場に轟かせる。攻撃を受けたとはいえある程度は軽減させられたはずだ。いつまで寝ているつもりなのか。
(くそっ! 少なくとも聖痕(スティグマータ)≠ヘトラックから動けないようにしているだけ、マシなんだがな……っ)
 神父は日本出立の際に魔術の使用を一度分申請していて正解だったと思う。
 別にあのトラックに魔術的な代物が施されているわけではない。しかし今、あのトラックからは決して出られない状態にある。
 『教会の絶対契約(アブソリュート・プロミス)』。それが聖痕(スティグマータ)≠封印している魔術の名だ。
 実際には魔術でもなんでもない、ただの口約束である。
 ただし、このような厳かな名称が付いたのは、教団という組織力が要だ。
 つまりただの口上での約束事でさえ、強大なる秩序と絶対なる信仰によって形成された教団との場合によって、脅迫という副音声を相手に刻むのだ。
 聖痕(スティグマータ)≠ノ刻まれているのは『収容されている車内から出る事を禁ず』と、『刻印の押印者以外の人間との接触を禁ず』。
 別にこれを破った途端に死ぬといったものではない。だが、破ることはそれを遥かに凌駕する次元には陥るのだが。
 なんせ、これを破ると、聖痕(スティグマータ)≠ノ対する生命的意識が排除されるのだ。平たく言えば、何の予備準備を無視して完殺の対象と化す。魔術という世界そのものにとっての絶対悪のレッテルを貼られてしまい、最早魔術の世界では生きることさえ出来なくなってしまう。
 当然、それが出来るからこそただの口約束が魔術と同等にされている≠フだ。
 魔力も術式も理念も概念も必要とせず、唯一押印者が一度破棄すると簡単に解除される他は欠点が無い教団が誇る束縛魔術、それが『教会の絶対契約(アブソリュート・プロミス)』だ。
 神父は内心で焦る。解除法の理屈としては、押印者である自分が死んでしまえば同じく破棄と見做される。
(いい加減に魔術を齧るもんじゃないな……!)
 不意に音が遠のく。力の集約を予期した神父は飛び込むようにして柱から離れる。直後、凄まじい轟音による衝撃が鉄柱を突き抜ける。
 ビィィィン! と鉄柱が震える。音の恐ろしいところは、衝撃と余韻という二連撃を伴うことである。なまじ攻撃に持続時間があるため相手の攻撃の隙を突こうにも、迂闊に前に出ることが出来ない。
「ハインス! 軍隊上がりがいつまで寝てるつもりだ!? 起きろぉ!」
 ジャカ、とバレルを引いて空の薬莢を吐き出す銃身に、銃弾(ショットシェル)を詰め込む。
 急いで前に走ると、今まで立っていた場所に振動が叩きつけられた。
(しかし……妙だな)
 神父は頭を低くして移動しながら思う。
 外れた音色(ディメイシア・スカーレ)=B噂だけでしか知らないことで有名な音響効果の魔術師だが、実際は科学も取り入れた学者だったらしい。つまり音などの波状の動きだけでなく、多数の国の魔術を研究していることも噂になっている。要はそれだけ幅の広い魔術を使えるということだ。イギリスの魔術流派に属している神父にも『レグバの何とか』とかいう魔術は聞いたことはないし、より多い魔術体系を知るということは確かに魔導書の着手もある程度緩和が出来るだろう。
 だが、
(なんだ? こいつは……)
 神父は、戦闘中にも関わらず首を傾げたくなった。
 そう。
 魔術師の攻撃が、単調すぎるのだ=B
 音波による空気のたわみで移動範囲を縮めるか、創った音を集約して砲弾のように射出するか、たったの二つしかしてこない。
 それに、事実上トラックを護っている人間が居ないにも関わらず、魔術師は神父への攻撃のみに集中している節がある。
(何だっ? 何を狙ってる……!?)
 コンテナの後ろに回り、魔術師の姿を探す神父。
 激しいほどの爆音と痛いほどの静寂を繰り返す戦場。トラックは工場の真ん中に停まっており、積み上げられたコンテナで狭く感じる。
 実際は廃工場群なので、場所を変えることも別に支障がないが、魔術師に『教会の絶対契約(アブソリュート・プロミス)』を承知で聖痕(スティグマータ)≠連れ出されたら追撃が不可能になりかねない。
 何故なら車ごと移動されたら教団との約束事を破らずに逃走できる上に、『教会の絶対契約(アブソリュート・プロミス)』がある以上聖痕(スティグマータ)≠フ現在の立場は庇護にあたるからだ。何の考えも無く押印を施したわけではなかったのだが、まさかたったの一日で場所を割られるとは思いもしなかったのだ。
 息を潜めて闇に目を凝らす神父の視界にふと人影が映る。撃とうかと思ったが、物影に隠れないどころかトラックの隣りに立たれたため、仲間の可能性があり、神父は少し躊躇った。
 だが、その躊躇が災いした。
 チーン、
 拍子抜けするほど陳腐な音色が宵闇の工場内に染み渡った。
 神父は、眉根をひそめる。
 ふと光沢が三角形を模って刹那に照らされる。楽器の、トライアングルだ。
 チーン、
 甲高い音色が再び木霊する。静寂に不気味に反映するその音を聴き、神父は何をしているのか一瞬解からなかった。
 そして、悟る。
 相手が、何の魔術を得意とする敵だったかを。

 ギィィイイイイイイィィィィイイイイイイイイイイ―――――――!!

「ぐあぅ……!?」
 思わず神父は両耳を塞いだ。不快な音などというレベルではない、超音波の一歩手前にも近い強烈な音が、工場内に溢れ出る。
(あぶ、り出す気……かっ!)
 視界がぐらぐらと揺れるほどの音が響き渡り続ける。堪らず神父は銃を片手にコンテナの影から飛び出し、銃口を向けた。
 瞬間、
「遅い!!」
 鋭い一喝と共にその音の余波が引き、次の瞬間には狙い済まされた一撃となって神父を襲っていた。
「っが……!」
 ズドン! と殴るような衝撃に右肩が後ろに吹き飛び、大柄な体格などお構いなしに壁に叩きつけられる。酸素を奪われた上に、ビリビリと全身が麻痺したように力が入らなかった。
 トラックの前で燐と立つ魔術師は外套を翻し、魔導書を閉じた。
 ふぅ、と小さく吐息を洩らす音が攻撃の余韻に掻き消される。
「なかなか楽しめたわね、まあ抵抗する人間が居るぐらい範疇内だったけれど」
 少し高揚に声が緊張したような、しかし勝利を目前に余裕も孕んだ声がする。
 魔術師はトラックを一瞥して具合を確かめた。でかい一撃をお見舞いしてしまったが、強度自体は改良がされているのか、トラックは走れないほどダメージを負ってはいなかったようだ。
「やっと……やっと手に入った……」
 ほっと胸を撫で=A魔術師は鍵が付いたままかを確かめようとドアへ向かう。
 がちゃり、と音を立てて開いた先に、魔術師が見たのは、

 銃口だった。

「――、」
 一瞬の間すら置かず、理解する。
 茶髪の神父が運転席に座った体勢でこちらに小銃(デリンジャー)を向けていた。
 眉間を数センチ手前で睨む銃口。
 神父が引き金を引こうとした直前、
『―――――――ダッ!!』
 腹からの声を絞り上げるように魔術師が叫んでいた。
 それはスピーカーのように拡張され、小さな衝撃となって銃口をずらす。ギリギリのところで銃が発砲するも、魔術師のフードを引き裂いて捲り上げただけだった。
 銃の軽い反動で持ち上がった腕を、茶髪の神父はめいっぱいに振り落とす。ハンマーのように落ちてくる銃把の底を、交差させた腕で魔術師は受け止めた。
 だが、そこは肉弾戦に有利な神父だ。受け止められることを先読みして既に車内にしまっていた右足を外に出し、がら空きの腹部に突き刺した。
「ご、っは!」
 半ば吹き飛ばされるようにして地面を転がる魔術師。
「ざっけんなよ? いつまでも寝てるわけねぇだろうが、このクソ相棒が」
 英語で、神父が言った。
 魔術師は即座に立ち上がるが、背後からの殺気を首筋に感じて、横に跳んだ。案の定、単発型の弾丸が地面を抉る。大柄の神父だ。
「まったく……お前は演出を懲り過ぎだ」
 相棒の苦々しい言い方に、茶髪の神父は心から楽しそうな顔で返す。
 大柄の神父が視線を向けるが、そこに魔術師の姿は無かった。
 多分一度距離を置いて再び攻めてくるだろう、退いたのも恐らく、
「……ハインス、見たのか?」
「ばっちり」
 煙草に火を付ける相棒。
 だろうな、と大柄の神父は頷いた。顔を見られたことで、ここに居る全員を殺すつもりになったのだろう。相手は素性を隠していることで追っ手を封殺している類の魔術師なのだから。
「第二級魔術戦闘の展開、及び庇護管下対象中の人物の奪取……」
 大柄の神父は銃を仕舞い、右の袖を捲くった。そこには、腕びっしりに黒い刺青のようなものが彫られている。
「もう使う気はなかったのだがな……護ってばかりは性に合わん」
 元魔術師はそう呟く。確かにこれ以上は正当防衛も仕方が無いとは思うが、ふと、茶髪の神父の表情が妙に気になった。
 彼は煙草を吹かしながら、何かを考えるように眉間に皺を寄せている。
「どうした?」
「……なあ、俺ぁ魔術師なんて詳しくないけどさ。そのなんとかスカーレって奴は、どのくらいの歳なんだ?」
 魔術にはてんで興味を示さなかった相棒の唐突な質問に、怪訝な顔をしながらも答える。
「知らん。だがその噂自体三年前に姿を消してからのものだからな、せいぜい俺達と同じぐらいだと思うが……それが?」
 それを聴いた相棒は、肺に煙を吸い、一気に吐いてから口を開いた。
「……今戦ってた奴は、本当にその魔術師なんか?」
「どういう、ことだ?」
 相棒は、自分で見た光景を疑わしそうに答えた。

「顔は見た……でも、……子供、だったぞ? 今の魔術師」


「はぁ……はぁ、はぁ……っ、ぐ、はぁ……!」
 魔術師は一人、廃工場群の闇の道を歩く。
 度重なる慣れない*opの使用、初めて読んだ*sア書からの反動、それにより魔力は底を付き、しかも蹴りを受けて腹がズキズキと痛む。
 フードがもぎ取られたまま、魔術師はとにかく隠れられる場所を探し巡る。
 なまじ周りと一緒に♀にかじり付いているせいで、戦闘は鈍っていることは覚悟していた。しかし、彼女にはそれを遥か遠く忘れさせるほど焦らせているものがある。そう、索敵用の呪術、『レグバの扉印』だ。これによって教団の潜んでいる場所を強引に特定できたのだが、それに必要な因果の再実演に失敗しかけていた。軍隊みたいな部隊のくせに、魔術にあそこまで精通した者が居るなんてとんだ誤算だった。本当に、『レグバの扉印』のほうは魔導書に頼らないで正解だった。敵前で昏倒するわけにもいかない。
「はぁ……げほ、げほ……ぐっ、……はぁ……はぁ」
 壁に手を突いて弱々しく、進む。
 魔力も体力も一気に限界に近づき、立派な魔術戦闘を起こしたことで本隊に狙われかねない上、神父の一人に顔を見られてしまった。
「……もう、少しだったのに!」
 歯を食いしばり、懐中時計を取り出す。
 時刻は午後十一時一二分。零時までに聖痕(スティグマータ)≠ノあることをしなければ、『レグバの扉印』の失敗で今度は二日動けないだけでは済まされないはずだ。
「もう少しなんだ! あと、少しで……『聖域』が手に入る!」
 壁を殴り、目ぼしい建物に入り込む。比較的機材の多い建物で、屋根からの小さな窓から月の斜線が差し込む静かな場所。
 余計な魔術の使用は『レグバの扉印』に悪影響を及ぼす可能性がある。どこか隠れられる場所が無いか探している魔術師は、ふと人影が立っていることに気付いた。それも、たった一人。
 一瞬驚いたが、一人しかいないことにふっと失笑に近い笑みを浮かべた。
「まったく……思いのほか教団も用意周到ね。いいわよ、倒してやるわ!」
 叫び、脚を一度掴んで力を込めなおしてから魔導書を開こうとする。
「魔術の本懐が一つ所だと思ったら大間違いなのよ! 私は、あなた達を殺してでも『聖域』を手に入れなければならないの! 邪魔はさせない!!」
 叫び、一歩一歩で体調を確かめるように近づく魔術師。
「フィネルさんが……! あの人が帰ってくるのなら、何だって――」
 魔術師が十メートルの距離で立ち止まったとき、その人影が振り向いた。

 そこで、魔術師の咆哮に近い声が、出なかった。

 立っているのは、一人の人間。
 なんの変哲も無い、一般人。
 そこに、魔術師の計画の全てを破壊する人物が立っていた。


「まったく……思いのほか教団も用意周到ね。いいわよ、倒してやるわ!」
 意を決した風に叫び、こちらへ歩いてくる凛とした声。
 どうしてこんなことになったんだろうか、と青年はふと思った。
 家族もいない。友達もいない。変な同好会には付き纏われるわ、家が荒されてるわ、情緒も無く殺されかけるわ、授業中に襲われるわ、アブない集団には脅されるわで、身も心も疲れることばかりだ。
「魔術の本懐が一つ所だと思ったら大間違いなのよ! 私は、あなた達を殺してでも『聖域』を手に入れなければならないの! 邪魔はさせない!!」
 でも、護りたいものが出来た。
 その少女は兵器と呼ばれ追われていた。
 その少女は家族が欲しいと言っていた。
 その少女は微笑を浮かべ自分を護った。
 何一つ救われなかった、何も無い少女。
 生まれて初めて、関わりたいと願った。
 なのに、どうしてこんなことになったのだろうか。
「フィネルさんが……! あの人が帰ってくるのなら、何だって――」
 こちらに向かって歩いていた魔術師が立ち止まる。
 言葉を失い、息を呑み、思考が停まる。その間、怖いほどの静寂が訪れる。
「う、そ……」魔術師が、やがて震えた声を出す。「どうして……」
 青年は振り返らず、しかし聞き慣れた声に思わず息を零した。
「別に。お前の後を尾けてって、この辺りで見失ったと思ったら、ばかでかい音がしたから走って探してただけだろ」
「違っ、なんで……!」
 判ってはいた。魔術師の混乱しながらの言葉の意味が。
「……初めにおかしいと思ったのは、今日の昼に襲われたとき」
 ふぅぅ、と。震えるようにか細い吐息を一度ついて、青年は口を開いた。
「ふと気になったんだ。あんだけすげぇ魔術使える割に、殴り合いが素人みたいだった。どう戦えばいいか知らない風な≠、ろたえ方してたからな」
 あの時、落としたナイフを拾おうか逡巡していた姿を思い出し、
「もし、と考えた……もしかしてコイツは、戦い慣れてないんじゃないかって」
「……っ」
「ゼロが言ってた。外れた音色(ディメイシア・スカーレ)≠ェ姿を消したのは三年前。そう、三年だ」
 後ろを振り向いたまま、虚空に話しかけるように青年は言う。
「中高一貫の学園の本科生一年なら、入学したのは今から三年前だ=v
 魔術師の呼吸が消えたのが、背中に感じられた。
「相手が大人だと思っていたら、確かに見落としちまうもんな。でもそれなら合点がいくんだよ。ゼロがこの街に入ったのは一週間も前なのに、なんで金曜日まで先延ばしにしたのか……答えは簡単だ、失敗したときに魔術の反動で動けなくなったとき、間に休日を挟まなきゃ怪しまれる立場にいるからだ」
 青年が狙われたのは魔術に呼応し、『ゼロと遭遇するはずだった人間』である青年をキャッチした魔術が反応して魔術師が襲撃してきたことになる。
 同時に、わざわざマリオネットを送り込んでまで二重三重に安全重視にしたのも、失敗しても土日を挟めば快復できるよう日程をずらす必要があった。
「本当ならゼロだけを捕獲すればいいだけだった。だけどそこで変なことに気付いたんだ」
 青年は自分の手の平を見下ろす。
 何の変哲もない手を見つめ、口を開く。
「快復してから、ゼロだけを狙えば恐らくいくらでも機会はあるはずなのに、わざわざゼロが俺を助けにくるよう俺だけを結界に封印して襲った=v
 教団にも狙われる以上、学園に登校しなければならない青年を遠ざけて、もっと緻密な魔術を仕掛ければいいのに、何故焦ったように青年を狙ったのか。
「そこでピンときたよ。魔術師が俺を狙うのはゼロの足手纏いになってる俺を狙えばゼロは迂闊に攻撃できない、じゃなくて」
 吐き捨てるように、青年は魔術師の本当の狙いを当てた。
「俺も殺しておかなくちゃならなかったんだろ? まさかゼロと遭うはずだったのが知り合いだったんじゃ、俺も狙わなきゃいけないもんな」
 そこまで言い切って、青年は一度深呼吸をした。
 まだ背後で立ち尽くしている魔術師の正体を知り。
「……本当はお前だなんて思ってもみなかった。でもお前は俺の前で致命的なミスをした」
 何気ないはずの、日常のはずの会話。

『そういうお前だってどうしたんだよ、そんな厚着して。風邪か?』
『女の子は冷え性になりがちなものなの、マナー違反だぞ?』
『とかいって、本当はクーラーにあたり過ぎたクチなんだろ』
『うっ……お母さんとおんなじこと言う……』

「まさか……」
 魔術師の、掠れたような声が届く。
 青年は、ぐっと拳を握って顔を上げた。
「聞いたよ。学園一の変人集団で、学園一の情報通に」
 百瀬菊璃、という少女が居る。
 魔術師は思い出した。
 今日の放課後、彼が百瀬菊璃と接触している。
 青年は、どこか辛そうに口を開く。
「……お前、一人暮らしなんだってな。両親が他界したせいで」
 青年は振り返る。
 天井の小窓から四角く切り取られた月明かりの下に立つ魔術師を見る。
 そう、青年は思う。
 目の前に居る魔術師が、本物の外れた音色≠カゃないとしたら。
 自分は友達もいない弾かれ者だ。それ故に青年は彼女と距離を保っていた。
 友達がいない飛鳥に、唯一曖昧な距離まで近づける人物。
 そんな人物は、天究メンバーと、たった一人しかいない。
「……本当は、お前だなんて信じたくなかった」
 青年は唇を噛み切りそうな程歯を食いしばり、それでも魔術師を見る。
「お前の優しさは本物なんだって信じたかった」
 月明かりを仄かに浴びる魔術師の頭には、フードが被さっていない。
「なんで、……俺こそなんでだよ」
 何も言わず佇んでいる魔術師と視線を合わせ、青年は沈痛な面持ちをした。

「なんでお前も非日常(そっち)なんだよ……雪乃」

 そこには、所々傷んだ外套を羽織り、本を片手に持つ知り合いが立っていた。


 しん、とした静けさが、辺りに舞い落ちる。
 制服のままこちらを見る神代飛鳥に、雪乃詠美は少し俯き、笑みを浮かべた。
「あーあ、素人にバレちゃったか……ま、私も三年前までは素人だったけどね」
 開き直ったように、眉をひそめて苦笑した顔を飛鳥に向ける。
 飛鳥はその表情と言葉に、哀しげな顔をする。
「そんな顔しないでくれるかしら? 今の私は魔術師よ、貴方が私を知る前から、私は魔術の世界をこの目で見ているんだもの」
 静かに、先ほどまでの焦った声とは違い落ち着きを保った声で続ける。
「確かに、貴方の言う通りよ。魔術師外れた音色(ディメイシア・スカーレ)≠ヘ元々違う人の能力名。そんな大それた力なんて私にはまだ無いもの」
「じゃあ、なんで……」飛鳥は、真剣味を帯びた顔のまま訊く「なんで『聖域』なんて狙ってるんだ? 力が欲しいのか? それとも」
「冗談言わないで、神代飛鳥。そんな国王気質な野望抱く気はこれっぽっちも無い」悪意無くせせら笑う詠美。「私の目的は単純に『聖域』が欲しいだけ」
「だから――」
 そこでふと、彼女の言葉の最後に違和感を覚えた。
「……欲しい、だけ=H」
 『聖域』の力は計り知れない。開かれればその周辺の因果や事物事象も総て呑み込み初期化し、自分の一部として取り込んでしまう。
 だから、それが危険なことを知っている教団は連れ戻しに掛かったわけだ。
 だが、妙だ。
 彼女の言い分を聞いても、『聖域』を求めることだけで、肝心の『聖域』をどうするのかが不明瞭なままだ。
「そう、欲しいだけよ」
 詠美は目を閉じて、表情に影を落とす。
「私は……そんなもの興味なんて無い。でも、必要なものは必要なのよ」
「どういう、ことなんだ……?」
 飛鳥が訊くと、詠美はゆっくりと瞼を開いて頷く。
「貴方になら話してもいいわよ、どうせ貴方とあの神父は殺さなければならないしね」
 本気で言うと、飛鳥はそれを承知でいるように、神妙な顔のままだ。
 割と結構な覚悟のつもりで言ったのだけれど、と詠美は少しがっかりした。
「……さっき言ったよね、外れた音色(ディメイシア・スカーレ)≠ヘ元々私の能力名じゃないって」
 小さく頷く飛鳥。
「フィネル=ディオニージ、彼が本当の外れた音色(ディメイシア・スカーレ)≠諱Bイタリアの旅先で両親を魔術師に殺され身寄りを失った私を保護し、育ててくれた人」
 孤児の部分は貴方と同じね、と曖昧に哀しげな顔を向ける詠美。
「彼は魔術による影響を調べる学者だったの、日本風に言うなら科学者ね」
 その魔術師は高い魔力資質と豊富な術式資料を利用して様々な魔術の研究をしていた。といっても魔術そのものの研究というよりもそれに伴う人間や動植物への変化を研究しており、副職はまるで医者のようだった。神秘を象徴とする魔術の世界において科学とは真逆に位置するモノだ。そのため彼に賛同する魔術師はまるでおらず、故に当時の音響魔術の腕と相まって名を付けられた。『彼の音色は他人とは決して合わさらない』、という中傷めいた能力名を。
「でも、私の知る彼はそんな人間では決してなかったわ。知性的で、思慮が深く、だけどちょっとおっちょこちょいで……優しい。そんな人」
 まるで思い出した顔を愛しむように、詠美は微笑む。
「当時拾われたときから私は魔術師や血界士の世界を知らされていた。そういう血みどろな貌を持つ世界だということも」
 しかし、彼女にとってその魔術師は光だったんだそうだ。
 あの時手を差し伸べてくれなければ、今頃自分は教団や魔術結社のいい駒として捕まっていた。
 それ以前にも、彼はなんの嫌気もなく彼女を育ててくれた。
「あの人は私にとって義父であり、師匠であり、大切な……家族だった」
 飛鳥が、また怪訝な顔をする。
「家族……だった?」
 くすり、と詠美は笑う。その笑みはどこか哀しそうで、辛そう。
「ある日ね、突然彼は変わったの。変わり始めたのかしらね」
 詠美は天井の小窓を見上げて続ける。
「彼が研究室(ラボ)に篭りだしてね、初めの内はまた学者気質が出ただけだと思ってたけれど、三日も経てば少しはおかしいと思った。部屋に入るといつも真っ暗で、ランプの前でブツブツと呟きながら知らない文字の資料を読み漁ってたの」
 今度は思い出すのも怖気が走るような顔をする。
 飛鳥には想像を絶するほどの、畏怖の顔だった。
「五日目にはね、もう見るのも悲惨な姿がそこにあったわ。休ませようと近づいた私を突き飛ばして、まるで夢遊病患者のように何かを書いたり、読んだり、何語かでブツブツ呟いたと思えば爪の齧りすぎで指先から血が滴ってるのに、それでも何かの研究を続けてるのよ」
 飛鳥はふと気付いた。
 詠美の外套に包まれた細い肩が、小さく震えていた。
「そして一週間経ったとき、あの人は突然姿を消した……なんの脈略も無く、私に何の声も掛けず、朝……眼が醒めるとそこには居なかった」
 ついにはもう、泣きそうな顔をして詠美は俯く。
「ショックだった……あの優しかった人が、置き去りにされることが怖かった私を誰よりも理解してくれてたあの人が、私を置いて姿を消したなんて……」
 どこか涙を堪えるような、嗚咽とも取れる震えた吐息。
「私はあの人が消えた理由を探したわ。あの人が、私がいつか学問を学べるように置いていてくれていたお金を殆ど使い果たし、研究室(ラボ)にある全ての資料を調べつくした。長かったわよ……あの人は多国籍の魔術に手をつけてる人だったから、英語やドイツ語、果ては中国語や何かも判らない象形文字の資料まであるんだもの……二年間、来る日も来る日も解読に没頭した」
 そして、と。詠美は顔を上げる。
 そこには、魔術師としての表情を殺した顔がある。
「そして見つけた。失踪する一週間の合間、あの人が何を調べていたのかを」
 その先の答えを、飛鳥は気付いた。
「もしかして……」
 詠美は、今度は強く笑みを浮かべる。
「そう、『聖域』よ。あの人が着手していたのは『聖域』の仕組み。『聖域』が何故この現世に堕とされるのか、それをあの人は調べていたのよっ」
 まるで、魔導書によって人格が壊れたように。
 外れた音色(ディメイシア・スカーレ)≠フ魂を穢した根源。
 『聖域』。
「……一体、『聖域』ってのは何なんだよ」
 詠美に言っているようで虚空に向けるような飛鳥に、詠美は無表情で答える。
「私にも分からない。あの人の置いていった資料には『聖域』が齎す副産物と、それが他人への力になるのか否かを調べるものだった」
「あん?」飛鳥は首を傾げる。「ちょっと待てよ……『聖域』の能力は魔術師や血界士と違って持ち主に自分を護らせるために与える力なんだろ? んなの、研究するまでもねぇじゃねえか」
「意外と察しが早いのね。そう、単体に力を与えるだけでしかない『聖域』の他者への能力付与なんておかしいと思うでしょ? そう思って彼が今まで調べていたものが何であるかを思い出し、気付いた」
 詠美は一度息を吸い、言った。
「あの人は副産物ではなく、『聖域』そのものを他人に付与することが出来るか£イべていたのよ」
「なっ……」
 『聖域』は、反射を起こすだけの意思を持ったエネルギー体だ。
 魔力や知識という燃料を必要とする魔術師や、血脈や演算という燃料を必要とする血界士と違う。ゼロは言っていた。『聖域』持ちが能力を行使することは、『使用』というよりも『反応』の部類に入る。
 それは、技術ではなく、武器・武装を意味する。
「何故あの人が『聖域』付与転移の成否を調べるなんて危険極まりない研究に手を伸ばそうとしたのかは判らず仕舞いだったっ。だけど、あの人を助けるためには『聖域』が必要なんだってことは判った! 他でもない、私には……!」
 強く、叫ぶ。
 はっと飛鳥が顔を上げた瞬間、詠美は手に持っている本を開いていた。
 ゴゥ! と空気が荒れる音が外套を羽織る華奢な体躯を覆う。
「『聖域』を手に入れれば、あの人はきっと戻ってきてくれる! そう信じてるの!! そのために、三年間もただの人間の振りをして、ずっとずっと『聖域』が来るのを待っていたのよ!! だから! だから……!!」
 邪魔しないで。
 最後、飛鳥にはそう叫ぼうとしている詠美の表情に、心が痛んだ。
「……ひとつだけ、教えてくれ」
「……、」
「お前……ほんとに人を殺したのか?」
 あの金曜、死体を操ったという事実に、飛鳥が言葉を紡ぐ。
 詠美は、本へ落とそうとした視線を一度、向け直す。
「……正直言うわ。今、貴方を殺すのが私にとって初めての命を奪う行為なの」
「あの、マリオネットっていうのは?」
「近くの病院に安置されていた目ぼしい遺体を拝借……軽蔑したかしら?」
 嘲笑というよりも、自嘲するような顔の詠美。
 飛鳥は、納得したように微笑み返した。
「やっぱりお前は……いい奴だよ」
 きょとんと、詠美は目を瞬かせた。
「……私は、今から人殺しになるのよ? どこがいいのよ」
 それでもだよ、と飛鳥は苦そうに笑う。
「殺すのが非日常に足突っ込むようなバカでよかった。自分(てめぇ)のために俺を殺すつもりなら、俺も全力で戦える」
「貴方が私を倒せるとでも思ってるの?」
「思ってねぇよ」飛鳥は一度つま先で地面をトントンと叩き、「お前が俺を殺すのは、お前の意思だろ? 俺は殺しに来たんじゃねぇ」
 ぐ、っと拳を握り、瞼の裏に焼きついた一人の少女の曖昧な微笑を思い出す。
「俺は……救いに来ただけだ」
 詠美は、それ以上言わなかった。
 何も言わず、半開きの本を一気に開こうとした。

 刹那、だった。
 手に持っていた本が落ちる。

 飛鳥が唖然とし、詠美は一瞬何が起きたか解からなかった。
 気付いたのは、自分の体中を縛り付ける細い鎖が視界に入ってからだった。
「主の為に悪を拘束せよ(Restrain evil to main doing)」
 背後から男の声が聴こえる。詠美が腕を上げようとしたが、ジャラジャラと音を立てて巻きつく鎖は磁石のように体を圧迫する。
(拘束霊装!? しまっ……!)
 振り向いた時にはもう、遅かった。
 視界の端に映る、大柄な神父の影。
「我が一撃はその悪に木の杭を打ち込む(Convict it)!!」
 神父の、袖が捲くられた丸太のように太い右腕。
 黒く刻まれた刺青が、ボゥと赤く燈る。
 次の瞬間、
 ――ドゥン!!
 拳が詠美の体に触れる直前、その拳から強烈な衝撃が爆発した。
「っが―――――――!」
 背中を吹き飛ばす一撃に、詠美の体が一気に飛んで行く。木材加工の積荷の山に、拘束されたまま突っ込んでいった。
「雪乃っ!!」
 飛鳥が駆け寄ろうとしたが、闇の中から飛んできた鎖が足元を叩いた。
「……アンタは」
「何故お前がここに居るのか知らないが……」
 神父は、左腕に巻きつけた細い鎖を一度振り回し、
「ここに居る以上、お前も聖痕(スティグマータ)≠ノは手は出させん!!」
 神父が右腕を構えた。


 ドゥン!!
 宵闇の廃工場に再び響く別種の轟音。まるで大砲が炸裂したような音と共に、飛鳥がガラス窓を破って外へ出る。
 ごろごろと転がり、露出している腕を容赦なくガラスの破片が切る。
「が、あ……ぁ!」
 狭い通路に押し出された飛鳥は、急いで立ち上がると体を低くする。
 その直後、上半身のあった場所を細い鎖がヒュン! と空気を裂いて飛んできた。だが鎖は詠美のように纏わりつくのではなく、鞭のように飛鳥の足首に絡み掬い上げた。
「おっわぁ……!」
 ふわりと宙を舞い、整然と詰まれたダンボールの壁に頭から突っ込む。
 ふらふらと立ち上がると、視界の端から白い礼服の男が飛び出してきた。
「……っ!」
「むん!!」
 踏み込み豪腕を振り上げてくる。咄嗟に両腕をクロスさせて防ごうとしたが、はっとして地を蹴り、後ろへ下がる。
 次の瞬間、
 ドゥン!!
 熱の無い爆風が襲い掛かってきた。至近距離を空振りする腕の刺青が赤く光ったと思うと、腕がまるで爆弾が暴発したように前方のものを吹き飛ばす。
 運良く顔をかばっていたため上体ごと吹き飛んで行く飛鳥。
 だがその一撃はあまりの衝撃を伴い、向かいの工場の窓へ突っ込んでゆく。
 甲高い音と共に、地面を転がろうとした飛鳥は、直後、
「ぃ、ぎぁ!?」
 ずぐん、という鈍い音と同時に、右の二の腕に燃えるような痛みが奔った。
 ぐらりと目の焦点が揺れる。
 詰まれた荷物の影に隠れ、近くに立てかけてあった大きな姿見に月明かりを反射させ、自分の右腕を見下ろした。
「――」
 言葉を失った。
 二の腕に、ガラスの破片が突き刺さっていた。
 しかも小さなものではなく、握ればナイフに使えるほどの大きな破片がシャツの上から潜り、反対側から貫通していた。尖った先から、どす黒い紅が滴る。
 体温が、二度は下がる感覚を首筋に感じた。
 ずきずきと、脈を打つたびに右腕に激痛が浮上する。
 苦悶の表情を浮かべ、そっとガラスに触れる、
「ぅあ、ぐ!」
 少し触り破片がずれただけで、悪寒にも似た感覚が背筋を駆け抜け、痛みが脳に刻み込まれる。
 思わず手を離し、脂汗の垂れる額を左手で拭う。
 足元に落ちてる埃塗れのビニールシートを引っ張り、それを奥歯まで噛んだ。
 鼻で息を吐き、吸い、躊躇する前にと流れるような速さで破片に手を掛ける。
「ふっ……ぐ、ぅぅううううううう!!」
 ぐじゅり、と果実の潰れるような音が耳に入る。
 歯が砕けるんじゃないかと思うほど食いしばり、突き刺さるガラスを垂直に、一気に引き抜いた。
 どっと全身から嫌な汗が吹き出て、ガラスの破片と噛んでいたビニールシートが同時に落ちる。酸素を取り込むと、右腕が脈動と共に痛みを呼び起こす。あまりの痛みを受けると脳は本能的にその箇所の感覚を麻痺させるというが、所詮は一般論。呼吸と連動するような激痛に、麻痺もへったくれもなかった。
 ふらり、と狭い物置部屋のドアを回す。細い廊下を歩いていると、横合いの壁が吹き飛んだ。
「はっ! ……ぐ、っふ!」
 衝撃というよりも、粉々になって飛来してくる木製の飛礫に押され、壁に激突する。
 ずるずると倒れそうになったと思いきや、勢いよく突っ込んできた白い影に、飛鳥は体を跳ね上げさせる。途端、顔を思い切り殴り飛ばされた。拳ではなく振り回された手首の部分がこめかみに当たっただけだったのが幸いした。
 がはっ、と廊下に置かれているポリバケツを巻き込んで倒れる。
「子供とて容赦はしないぞ、素人」
 英語ではなく、流暢な日本語が頭から降りかかる。
 影が近づいたと気付いた直後、かぶりを振って上体を起こした。
 不意を衝かれた神父の腹に、左拳を打ち込む。全体重を拳に集約したが、利き腕じゃない上に機材の残骸が撒かれたせいで足場が悪い。
 いや、その二つがなかったとしても、それは全く意味を成さなかった。
 相手が、雪乃詠美のような純粋な魔術師だったなら@ヌかったのに。
 どずん、と。
 鈍い音を立てて飛鳥の拳が神父の腹に突き刺さる。
 なのに、
「痛っ……!?」
 苦悶の表情を浮かべたのは飛鳥だった。
 いくら分厚そうな服を着ているとはいえ、人の腹部とは思えない。
(こいっ……何かっ、下に着て……!)
 飛鳥は思い出す。彼等の戦闘方法は本来、銃撃戦だ。衣服の下に防弾チョッキを着ていてもおかしくなどない。目の前の大男のように、魔術を使って戦うこと自体が例外に違いない。
 その空白の瞬間、神父の視線が、ぎろりと飛鳥へ向く。
 すっと神父の左手が上がった。
(や)
 ばいっ、と。腹に当てたままの腕を引こうとして、脳裏に疑問が浮かんだ。
 神父が上げたのは、左腕=H
 直後、正解と共に、今自分が居る世界を物語るかのような行動が起こされた。

 ぐっ、と。
 飛鳥の腕が捕まった。
 飛鳥の――右の二の腕≠ェ。

「ぎ―――――――」
 赤く染まった半袖口。
 魔術師以上に傷の付け合いに長けた者の手。その太い親指が、
 ぎちゅり、
 潜り込む蟲のように、入ってゆく光景が視界の端で見える。
「ぁああああぁぁぁああああああああああぁぁあああああああっっ――!!」
 視界が、ホワイトアウトした。
 びくん! と電撃を受けたように、飛鳥の体が跳ねる。
 酸素が減衰し浅黒く染まった血が、滝のようにだらだらと右手へ流れる。
 目を剥き、絶叫を上げて、抵抗など吹っ飛んだ頭の中が、ぐちゃぐちゃに掻き乱される。もう、叫ぶ己の声も耳朶に入らない。
 じゅぐ、と親指が引き抜かれた。痛覚の上昇が止まったことで安堵しかけた飛鳥の腹部に、お返しとばかりに拳が突き刺さる。
「ぉ、ぐぇ……っ!」
 叫んだ直後の打撃によって、呼吸が殺される。吐き気が喉まできた瞬間、そのまま後ろへ投げ飛ばされた。
 床を転がる。飛鳥はふらりと立ち上がると、急いで傍らの扉を開けて中に入った。さっきの物置部屋よりは大きな、しかし雑然と棚の並んだ部屋。
「逃がさん!」
 神父が叫ぶが、飛鳥は入るや否や扉を閉じて施錠し、一気に後退。
 五秒と保つことなく、金具ごと破壊された扉が宙を飛ぶ。


 凄まじい音を立てて鉄製の扉は壁にぶち当たる。
 溶接を行う工場だったらしく、辺り一体の骨組みだけの棚や鏡、ガラスが砕けてゆく。
 中心からひしゃげた扉が地面を転がり、篭るような音がやがて静かになった。
 ダグラス=ヴィードは床に散らばる破片をブーツで踏み潰し、中に入る。
 むわっと鼻腔を掠める埃っぽい臭い。ダグラスは自分で埃を舞わせたくせに、思わず渋面を作った。
「そういえば、お前の名前を聞いていなかったな、素人」
 どことも知れない青年へ、ダグラスは言う。
 恐らくは物陰に隠れ忍んでいるのだろう。
 息遣いも、全く聴こえない。
「……思えば、何故ただの人間のお前がこの血腥い戦場にやって来たのか……お前の気が俺には分からんな」
 返ってくる言葉は無い。
 ダグラスは足元に転がっている金属製の工具を蹴り飛ばした。
 血痕が続く、棚の行き止まりに向けて。
「そこに居るのは分かってるんだ。無駄に体力を使う気なら、まず出て来い」
 声音を低めたダグラスの脅迫に、観念したように棚から姿を現す影。
 距離はほんの数メートル。
 左手で血塗れの右腕を押さえ、暗闇の中でも判るほど凄惨な姿をしている。青ざめた顔には、しかしどこか光を持ったままの瞳がこちらを見ていた。
 どこからどう見ても、強さを失った風体。
 なのに、浮き彫りにされたようなその瞳と、右手に握られている物を見て、ダグラスは目を細めて鼻を鳴らした。
「そんなもので……我々に楯突けると思っていたのか?」
 彼の右手には、一メートル程の鉄の棒が握られている。棚の骨組みを外して武器にしたらしいが、力もまともに入らない右手で握るせいで、先端が床に付いていて、振り回せるのか甚だ疑問に思った。
「……べつ、に……俺の勝手だろ」
 声まで弱々しい。いや、傷口を狙うという近接戦闘の定石≠平然とやってのけたことに、もしかしたら恐れを抱いているのかも知れない。
「そうか……」それでもダグラスは、腑に落ちなかった。「なら……何故そんな眼をする? 勝てる見込みも無く、まさかあわよくば外れた音色(ディメイシア・スカーレ)≠名乗る魔術師との相打ちの最中に連れ去るつもりだったとは言うまいな」
「はっ……ホントならそのつもりでいたけど、な……こっちにも確かめなきゃいけない用事があったんでね……ていうか、アイツ殺してねぇよな?」
「当たり前だ。俺は聖職者だぞ? 無差別に殺生など出来るか」
「へぇ……やっさしーなぁ……」
 よろけて、ふらふらと頭を揺らしながら口腔に溜まった血を吐く青年。
 そんなボロボロにされておきながら、気に掛けるのはあの二人(たにん)か。
 かつて、ある魔術師がそうであったように。
 ダグラスは拳を握る。
「何故だ……」
 ただの素人のくせに。何の力も無いくせに。
 自分の日常に帰ることが出来たくせに、何故、
「何故また、のこのことやって来た……! 畏れは無いのか? ほんの些細な命令のために簡単に命を奪い合う世界で、畏怖は無いのか!!」
 知らずの内に、声が荒くなってゆく。
「帰れ! 在るべき日常に……!」
 ダグラスは右袖を捲って、それを青年に見せる。
「さっきお前が防ごうとして避けたのは、勘が鋭いと感嘆したぞ。この魔術は血中から出る熱を瞬間的に膨張させ空気圧の違う断層を作り出す風の術式だ。空気が戻ろうとした際の力を魔力で増幅……あの爆風が出来上がる」
「……なぁ、言いてぇことだけすっぱり頼むわ。腕が痛ぇ」
「ならばあえて率直に言おう。この技、空気圧の変動の段階までは魔力でのセーブが利かないんだ」
「つまり……拳が触れた時に使ったら生身の人間は破裂するな……」
 加圧の原理に比べ、減圧の原理は人間の体内――特に内臓に影響を与えてしまう。なんの装備もないまま宇宙に放り出されれば、気圧ゼロの空間に気圧を保有する内臓が変動を来し……早い話が文字通り破裂する。
「やっべぇかなー……んだよそれ、一撃必殺にも程があんだろ」
「そうもない。人体を破裂させる程の減圧は俺の腕も吹き飛ばしかねないし、一発における魔力の消費に比べて単体、それも近接のみ。実際は下級の魔術だ」
「っへ……、それで? 脅迫ってか」
「いいや、尋問だ。教団らしく≠ネ」
 気温が低まるのを、青年も感じ取ったらしい。すぐさま閉口した。
「何故、遭ったばかりの者を救けようとする? それに、もう一人はお前を殺すつもりの奴だぞ?」
「……答えなきゃ殺すって眼だな」
「ああ」
 強く、意思を持って答える。
 青年は少し俯いて考え、視線を上げた。
「……俺ってさ、親が居なくて物心ついた頃にはもう孤児院育ちだったんだ」
 血を流しすぎて足元が覚束無いのか、青年は傍らの棚に体を寄りかからせる。
 尋問への脱線を指摘するか迷ったが、ダグラスは何故か手の力を緩めた。
「だけど、そん時の俺がまたムカつく奴でさ……あんまりにも人間嫌いなもんだから今の先生やってる人以外だぁれも近寄ってこないんだ」
 遠い眼をして、しかし抑揚の無い声は失血のせいかも知れない風に見える。
「気付いた時には遅かった。クソ親共が残すだけ残した金で瑞皇町(こっち)来てさ……学園に入ったらアウト」

『へいへいそこの君さぁ、部活とか同好会入る気はナッシングだったりぃ?』
『……、は?』

「妙な奴に捉っちまってさぁ……よりにもよって学園一疎遠な非公式同好会の部長に声掛けられちまったもんだから、だぁれも俺に近寄ってこないでやんの」
 はは……、と青年は空笑いを洩らす。
「親族は居ない。友達は居ない。信じてた知り合いは魔術師。せっかくの家宅訪問者はみーんな普通じゃねぇってどういうこったよクソ野郎」
 だけどだ、と青年は表情を硬くする。
「こんなに不幸な不幸な神代君がさ、一個だけ許してやれることがあったんだ」
「何、だ……?」
 知らずに、ダグラスは聞き返してしまった。
 絶対に負けない状況なのに。
 追い詰めているはずなのに。
「家族がさぁ……ダメなんだ、俺」青年は、言う。「嫌いとか苦手っていうのは違うな……俺、元から家族なんて知らないし」
 それは、たった一人の少女だった。
 彼女も、無いモノばかりを押し付けられていた。
「ただ、俺は一生家族ってものを知らないまんま死ぬって、なんかさ……確信してたんだよ。信賞必罰、だっけ? あんま宗教とか信じるほうじゃねぇけど」
 善の魂を光へ導き、悪の魂を闇に葬る。
 つまりそれは、過程を伴う未来の選定。
 だが、この二人には信賞必罰という過程が存在しない。
 何もしてないのに、何も許されない。何もしていないのに、何も赦されない=B
 必要だから存在されたのに、後は勝手に疎まれる。憎まれる。それだけ。
 そう、この青年とあの兵器の共通点。繋がり。
「俺もアイツも何も無いから……だからアイツは何も無い俺だけは認める事で俺を救おうとしたんだ……何も気づいていない俺は、アイツに護られて」
 本当は、判っていた。
 何もしない自分と比べて、自分を犠牲にしてでも彼から無を失くそうとした。
 それは酷く歪んだ形で終わってしまったけれど、
「絆をさ……くれたわけだよ」
 繋がりがそこに出来たから、

『凄いね……色々いっぱい』

「バッカじゃねぇのかっ? 何が珍しいだよくそったれ!!」
 本当は、判っていた。
 スーパーでの買い物。
 彼女が興味津々に見ていたのは売品じゃない。子連れの家族を見ていたんだ。
 無意識に、彼女はSOSを叫んでいたのだ。
「無いモノ強請りのバカに自分のモン押し付けて、自分が苦労してんのは決まって隠すんかよ! それでテメェはいいのかよ!!」
 叫ぶ。
 血が、見る見るうちに足元を濡らす。
 それでも、彼は叫ばずに居られなかった。
「だったら俺はテメェの何を聴こうがっ、その絆を守り通して見せる!!」
 鉄パイプを握り締め、
 想うのは、一人の少女。
 何の一つも無い、少女。
 間が抜けてるし、何気に大食漢だし、天然ボケはかますし、純粋に宣言し、純粋に信頼し、それでも……純粋な心さえ押し付けやがった少女。
「テメェだってそうだろ! ダグラス=ヴィードぉ!!」
 咆哮と共に、こちらを睨んでくる。
 何かを察するよりも先に、青年は叫ぶように言う。
「家族を奪われた!? ならなんでテメェはゼロを殺さねぇ!? 許さないってだけなら、いっそのこと教団なんざ関係ねぇだろうが!!」
「――!!」
「答えろ、ダグラス=ヴィード! テメェは何のために戦ってる!? 教団のためか? 家族のためか? 本当はゼロを殺したくなんてねぇんだろっ!? 傷つけられたのはゼロも同じだから、それでも捌け口を探さねぇと他人を傷つけてしまうから! 闇雲にその腕を振り回してただけじゃねぇのか!!」
「……、ハインスか……あいつっ」
 目の奥で、チリ、と熱い感覚が生まれる。憎しみとは違う、怒りだ。
「……お前には関係ない」
「あーあーそうかよそうだな関係無ねぇなぁ俺にはよぉ!!」
 青年もまた、怒りを顕わにした。
 この子供は、何故ここまでして他人を優先できるのか。
 ダグラスには、理解出来なかった。
「俺だってホントは恐ぇよ! 痛ぇし、辛ぇし、だけどな! だけどアイツが死ぬ気で確保してくれた居場所(にちじょう)にはな! あの時出来た絆は無いんだよ!!」
 温もりが欲しいだけじゃなかった。
 優しさが欲しいだけじゃなかった。
 ただ単純なまでに、誰かに言って欲しかったんだ。
 『おかえり』、って。
 言いたかったんだ。『ただいま』、って。
 そんな、ありふれた絆で良かったんだ。
「たとえ理由がどうあれ、自分(てめぇ)が信じた答え(みち)だけを選び続けるのが、本当の強さじゃねぇのかよ!!」
 だから、青年は咆える。
 路を違えたことに気付いておきながら、それでも過去を引き摺る魔術師に。
「他人なんか関係ねぇ! 必要もねぇ! くっだらねぇことなんざ考えなくていいからテメェの信じる戦いだけを貫けよ! ダグラぁぁぁス――っ!!」
 何を、護るのか。
 それを選ぶ権利が、自分にも在ると――、
「……黙れ、っ」
 血が滲みそうなまでに、拳を握る。
 あの日の温かい記憶には無いほどの、強さで。
「黙れぇぇぇぇえええええええええ!!」
 ボゥ、と右腕に刻まれる刺青が赤く燈る。
 感情の沸点を超えた、血走った眼で。
 ダグラス=ヴィードの一撃が、青年の腹に突き刺さった。

 青年の腹部に、亀裂が奔る=B

「―――――――っは?」
 一瞬、あまりに予想外な青年の死の末路に、ダグラスは言葉を失った。
 直撃に加え、自分の腕も吹き飛びかねないほどの魔力を練った。
 だから、直撃すれば青年の肉体など内側から盛大に破裂するはずなのに。
 ビキビキ! と乾いた音を立てて、それが砕け散る。
(――待て、砕け散る?)
 ぎょっとした視界の右側。首だけが急いで振り返る。
 棚と壁の間。人が二人分はある隙間から、鉄パイプを振り上げて飛び出す姿。
 破片。
 右から。
 避ける、違う!
(しまっ……鏡をっ―――――――)
 ここは、溶接工場だ。ガラス細工なんて腐るほど落ちている。
 鏡を姿見として九十度にして立てて、今までずっと話していたとしたら=H
 戦慄の紅を舞わせる右腕など忘れるかのように、
 両手で握り締めた鉄パイプが、水平に振られる。
 迎撃は――不可能だった。
 渾身の一撃に魔力を込めすぎた上に、右腕でガラスを殴ったのだ。右側から来る攻撃に対処できるはずが無い。
「がぁああぁぁああああぁぁぁあああぁぁぁぁあぁあぁぁあああっっ!!」
 いや、違う。ダグラスはふと考えた。
 捨て去ることの出来ない想いの強さ。
 もしかすると、その差こそが勝敗だったんだと。

 ド、――ガンッ!!

 殴打される寸前、これでは勝てるはずがないな、と神父は小さく微笑った。










 Chapter.E     零 −The zero−





 ただでさえ夜なのに、暗い建物の下で明かりもないトラックの中。大分眼も慣れたとはいえ、光を総て遮断されては漆黒が続く。
 ――これが何年も続けば、壊れるかな。
 少女は、思う。
 その表情が自嘲や絶望ではなく完全な虚無なのは、きっとその少女の感情が乏しいのではなく皆無なのが原因であろう。
 何故なら彼女の存在意義は、兵器なのだから。
 闇の中で三角座りのまま、折った脚を抱いて空ろに少女は考える。
 さっきの轟音の嵐、恐らくは外れた音色(ディメイシア・スカーレ)≠ノ襲撃されたのだろう。わずか半日で消費した魔力を回復するのは困難だ。間違いなく正攻法ではない方法を執らなければならない。魔導書然り、魔力ではない代償を利用とする魔術をだ。
 ――あげられるものなら、あげたいよ。
 少女は、思う。
 たとえ暴走とはいえ兵器としての本懐を行っても憎悪しかされない自分を、利用だとしても必要としてくれるなら、それでも構わない。
 使われるか使われないか、その前提がどうかなどどうだっていい。
 どちらかを選ぶ他に赦されず、ならば後者を選ぶなど考えられなかった。
 それは、人の役に立ちたいなどという暖かいモノではなかった。
 存在自体が認められるような、力を保有するという冷たいモノ。
 まさに、兵器。
 斬れなければ刃物に意味が無いように、
 穿てなければ銃器の意味が無いように、
 砕けなければ爆弾の意味が無いように、
 今の少女に、誰からもその本懐を否定されている少女に、意味が無いように。
 ――……ねぇ、これで良かったんだよ?
 少女は、思う。
 想うのは、一人の青年。
 何てことの無い、青年。
 よく怒鳴るし、頭を叩くし、そのくせ買い物は値段にうるさく、純粋に驚き、純粋に恐れ、それでも……純粋に自分を心配してくれた青年。
「――、」
 今はもう、その名前を呼ぶことさえ赦されない。
 誰一人として、赦してくれない。
 少女は脚を抱き、顔を埋める。
 ――ねぇ、ボクはね……終わりにならなくちゃ、いけないんだよ?
 待っているのは、処分という名の終焉。
 使用概念を剥奪された兵器は涙を流すことさえ知らない瞳を、闇に向けた。





 六本目になる煙草に火を付けて、ハインス=コルステイアンはトラックに背もたれたまま、相棒の帰りを待っていた。
 ハインスの他の教団員は皆意識を失っている。思いの他後々までダメージの残る攻撃を受けているのか、今は壁に一列になって寄りかかって並んでいた。
 彼が言うには、あの長細い鎖は魔力を保有する人間、つまり魔術師に反応して相手の動きを封縛する特殊な道具――霊装というものらしいが、
(……あいつがそんなモンに頼る姿なんぞ、始めて見たな)
 ライターの明かりが小さく工場内を燈し、再び暗転する。
 彼にとって魔術とは、最早遠い日の傷痕でしかないのに。
 そう思い大きく息を吸おうとした時、ガラガラと音を立てて引き戸が開かれ、一人の影が入ってくるのが見えた。
「ダグラスか?」
 念のため懐から小銃(デリンジャー)を抜いて近づく。
 そして、鼻腔を掠める血の臭いに眉を寄せた時、その影が見慣れた体格より小さいことに気付き、唖然とした。
 月明かりの下に現れたのは、血塗れの見知った青年だった。
「お、前……」
 口元から、煙草が落ちる。
 その青年は右腕からとんでもない出血をしたまま、危うい足取りでここまで歩いてくる。顔が青ざめてるが、間違いなく失血の量が尋常じゃないせいだ。後ろに続く血が、まるで彼が歩んできた道のようになっている。
 とても、日常に生きる者の姿には見えなかった。
 今にも倒れそうなのに、ここまで一人で来たというのか。
「……そこに、……ゼロが居んのか」
 掠れた声で青年は訊いてくる。
 どう考えても、あと一撃殴るだけで倒れそうなのに。
「……、そこに居るんだな」
 無言のままのハインスを見て、さっさと歩き出してしまう。
 ハインスは銃を突きつけ、一喝に止めた。
「答えろよ、ダグラスをやったのか……!」
「……だったらどうだってんだ。俺がここに居ることが、何よりの理由だろ」
 一点、ただ瞳だけが強く光る青年は、まるでそれが確定だと言わんばかりに答える。嘘を吐いてる可能性など、絶対に無いと言いたげに。
「退けよ、テメェも倒すぞ」
 嘘だ。
 本当は策なんてもう無い。
 だけど、負ける気はしなかった。そんなつもりだって無い。
 たとえ何を敵に回しても、
 たとえ何を犠牲にしても、
「ゼロは俺の信じた家族を、本気で求めてくれたバカなんだよ。返せよ……!」
 その言葉は小さく、一人の神父にだけ染み渡る。
 銃を突きつけたままのハインスは、やがて左腕を下ろした。
「通れよ……」
「……、いいのかよ」
「ダグラスが負けた時点で、聖痕≠縛るモノは壊れちまってるし……一応俺も怪我人でな。それに、」
 ハインスは、今まで一度もしたことはなかった銃を地に放りながら、
「お前がここに来たことで、俺にはお前を止める理由が無くなっちまった」


 誰かの話し声が、終わる。
 その後すぐ、トラックの布が上げられ、淡い光がゼロに口を開かせた。
「本隊が来たのかな? 急いだほうがいいね。魔導書を使っているとしたら、多分こっちもあっちもアブないとわかってるから」
 すると、向こうは押し黙った風にこちらを見つめている。
 ……? とゼロは振り向いた。返答が無いというよりも、気配が妙だ。
 まさか外れた音色(ディメイシア・スカーレ)≠ェ来たのかと首を振り向かせ、
「……えっ?」
「ったく……手間ぁかけさせんなよドチビ」
 ありえない人物が立っていた。
 来てはいけないはずの人物が。
「……な、んで」
 言葉が漏れた。
 飛鳥は一度だけ背後を見る。そこには茶髪の神父が、煙草を吹かそうとしているところだった。
 振り返り、飛鳥は構わずトラックに乗り込んだ。
「帰んぞ」
 一言呟き、手を差し出す飛鳥。
 その手があまりにも無遠慮に鼻先まで近づいたため、ゼロは眠たげな目を見開いて即座に後ずさった。
「だ、ダメっ!!」
 飛鳥の表情が、強張る。それでもゼロは俯いて、吐き捨てた。
「キミだけで帰って!」
 酷いことを言っていると、自分でも判っていても、混乱した頭でゼロは叫ぶ。
 拒絶を。彼のための救済として、叫ぶ。
「どうして! どうしてキミはこんなところに来たの!? そんなっ、腕っ、血が……!」
 その表情は相変わらず変わらないけど。
 どこか、悲痛に彩られている気がした。
「もういいよっ! ボクはただキミを救けたかっただけなんだ! だからっ、もう……キミが傷つかなくていいのに! なんでっ!?」
 これでは、自分が惨めではないか。
 兵器として使われるべき彼女を、なんの掛け値も無く接してくれるなんて。
 そんなの、存在意義の剥奪としか見られない。
 そうだと、思ってたのに。
「帰って! もうっ……もう、帰っていいんだ! キミは帰

「なあ、お前さぁ――いつまでくっだらねぇことほざいてんだよっ!!」

 怒りが、トラックに充ちた。
 ゼロの言葉が途切れ、口が、動かなくなる。
「よりにもよって『もういい』だと!? あ!? 何様のつもりだテメェは! 俺はそんな言葉を聴かされるためにこんなズタボロにされてまでやって来たっつーのかよ!! ざけんな! ふざけんなよっ!?」
 この青年には、彼の死を嘆く者など限りなく居ないに等しい。
 でもそれ以上に彼は死にも似た日常に生かされていたのだ。
 孤独、という日常。
 たとえその出遭いが彼の人生を悪意的に貶めるものだったとしても、
 辛いとか、
 苦しいとか、
 もう嫌だとか、
 そんなこと、一言も言っていないのに。
 いつだって心配してたのに。
 この想いを知っていて、それでも自分を犠牲にして護ってくれて――、

『家がね、ほしかったの……家族、かな。せめて誰かとの絆がほしかったかな』

 嬉しいなんて、思うはずがないのに……、

『ごめんね、だまして』

 嬉しいなんて、思うはずがないのに!

「ゼロ」
 飛鳥が呼ぶ。
 日常と非日常を隔てる壁を、一切無視して。
 手を伸ばせば、一歩近づけば、届く位置へ。
 たった一人の少女だけを見つめて。
 ゼロは、顔を俯かせる。
「そんなことしたらダメだよ……キミが、傷つく」
「構わない」
「教団だけじゃない。機関や……ほかの組織にもねらわれる」
「構わない」
「……ボクでは、きっと護りきれない」
「その時は俺が護る」
 キッと、顔を上げるゼロ。その表情にはその場凌ぎにしか聴こえない言葉に対する、怒りを孕んだ無表情が湛えられている。
「言葉だけじゃ、ムリなのっ……」
「ならどうすりゃいい? 生憎今の俺には言葉以外は何も持ってねぇ」
 まるで他人事のように、どうして無鉄砲すぎる。
「いいかゼロ、『もう一度だけ』とか出し惜しみする気はさらさら無いんだよ。もしお前に非難されて、悪だと思われようが、俺は知ったこっちゃねぇ」
 たとえ、彼女にとってそれが最悪になったとしても。
 彼女の『一人だけでも護りたい』という願いを引き裂いたとしても。
 絶対悪なんかにはならない。
「何度だって言うぞ、ゼロ。お前が納得するまで何度だって言ってやる」
 彼女の絆を護るために、
 彼女の家族を演じることになっても、
 この身と心を犠牲にしてでも、この哀しみを選びたがる少女のための、

「腹減ってるだろ……ほら、家に帰るぞ――ゼロ」
 必要悪(ヒーロー)になってみせる。

 くしゃり、と。初めてゼロの表情が歪んだ。
 飛鳥は構うことなく前に歩く。
 しゃがみ、すっと両腕を差し伸ばす。
 彼女の体を通り越し、
 そっと、ゼロの小さな頭を抱こうとする。
 彼女を縛る総てを剥ぎ取る、柔らかな優しさと共に。
 ゆっくりと近づいてくる飛鳥の胸元に顔を埋めようと頭を前に傾け、
「――ア

 ゴォウ!!

 それはあまりにも突然すぎるほどの、静寂の破壊だった。
「が……!?」
「あぅ……!」
 暗闇の中で急に足元が揺れたかと思うと、そのまま一気に傾斜が増す。左に重力が向き、やっとトラックが横に薙ぎ倒されたのだと理解した飛鳥はゼロを力いっぱいに抱きとめた。
 車体の横転は止まらず、そのまま今度はトラックの天井に叩きつけられる。
 直後、
 ィィィィイイイイイギギギギギギギギャギャギャギャギャギャ――!!
 車内にとんでもない音の乱反射が木霊する。
 空気を震わせて飛鳥とゼロを襲いながら、車はさらに倒れ、車体の右側面が倒れた状態でやっと停まる。
 耳に嫌な余韻が残ったまま、飛鳥はゼロの軽い体を左腕に抱えて外に出る。
 埃が舞い上がる工場内に出ると、視界の端で倒れ伏す茶髪の神父が見えた。
 一気に、視界を左に回す。
 居た。
 麻の外套を脱ぎ去り、晴稟学園の制服のままの、ショートカットの髪の少女。
 手には一冊の本が握られている。しかし外装(カバー)は殆ど捲れあがり、所々千切れたページの紙から、青白い火の粉が散っている。
 両腕をだらりと垂らし、口の端から鮮血を吐いて美貌を苦悶に歪ませる、宵闇の奇襲者。
「雪乃ぉ……っ!」
 飛鳥は咆える。
 肩で息をしながら、雪乃詠美は血走った眼を一瞬ゼロに向け、飛鳥を睨んだ。
「邪魔するなっ、神代飛鳥! 『聖域』さえあれば! 私は……!!」
 詠美の細い手が、掻き毟るように本のページを破り取る。
 火の粉を吐く紙切れをグシャッ! と握り潰し、その腕を天にかざす。
「私のっ! 私のたった一人の家族を……! 奪わないでよぉぉおおお!!」
 ゴォウ!!
 砂塵が吹き荒れ、津波のように逃げる場所ごと埋め尽くしてきた。





 少女の魔術が、崩れ始めた。
 今までの音撃は共通して『衝撃』による直接的なダメージと、『余韻』によるその場の撹乱の二重攻撃を基本にしていた。いや、元々はこの二つが重なった魔術を行使していたのかもしれない。
 だが、これはもう、その少女による魔術とはかけ離れた姿をしていた。
 ゴォウ!!
 うねる様な衝撃が、地面をなぞるようにして鉄骨を殴り倒してゆく。吹き飛ばされた角材や何かの小さなパーツを巻き込んで嵐のように襲い掛かってくる。
 敵も味方も、戦場すら考慮に入れない、魔力の垂れ流し。
 魔術としての美的価値の欠片さえない、想いの垂れ流し。
 もう、彼女に感情を止めることは出来ない。





「は、ぅあぐ……!」
 横へステップを踏もうとしたが、全面を撫ぜる衝撃を避けきれずに吹き飛ばされ、ゼロは地面を転がる。
 もはや飛鳥など眼中に無くなった詠美に追われ、二人は別の工場内に入り込んでいた。
 ゼロはよろよろと立ち上がり、容赦なく再び襲い掛かる衝撃に飛ばされる。
 コンテナに激突し、全身の力が抜けかけるところを無理矢理立った。
「……う、」
 闇から、詠美が現れる。
 その姿は凄惨としていて、表情はその上をいっていた。
 泣いて、いるのだ。
 しとどに涙を流しながら、唇を噛み締め、本のページを掻き毟る。
 ゼロは痛む体に鞭打って止めようとした。
「ダメだよ! これ以上ソレをつかったら、壊れる……!」
 魔導書はただの書物ではない。これは魔術師にとっては教科書の初めに載っているような常識だ。
 魔導書は魔術における概念を文字的知識として蒐集した代物だ。したがって、違い概念の持ち主が読むということは、その魔術師の(アイデンティティ)を悉く鏖す事に他ならない。
 だが、それでも止められなくなるのが魔導書の危険性だ。
 それはまるで、薬物のようにその者の精神にこびり付く。そうなったら後の一生を使い果たして毒素を除いてゆくような……植物人間と変わらない未来を送ることになる。
 いくら複製して大元の毒を薄めても、もう彼女の感情が乱れだしている今、崩壊は間近に迫っている。
 止めるなら、今しかない。
「止まって……! 『聖域』はそんなキレイなモノじゃない! そんなに心を汚してまで、手に入れる価値のあるモノじゃない!」
 両腕を伸ばし、抵抗しないという意思を伝える。
 詠美は一瞬動きを止め、本を下ろした。
 ゼロは少し安堵して矢継ぎ早に言う。
「さっき言ってたね? 家族を奪わないでって……もし『聖域』がどうしても必要だって言うのなら、それでもいい。大人しく身柄を明け渡してもいい……だから、もうその本を離して――」
 そこで、ふとゼロは気付いた。
「――て……、……ぜ…………きを……入れ…、……を……」
 詠美が、何かをブツブツと呟いていた。
 ゼロの言葉に耳を貸す気もなく、聞き取れない声で繰り返している。
 こちらが押し黙って怪訝な顔をした時、静寂の中でその言葉が明かされる。
「待っててフィネルさん……絶対に、『聖域』を手に入れて、貴方を……」
 その声音に、人の感情はもうない。
 しまった。
 ゼロは瞬時に理解する。
 もう、捩れかけている=B
 ガクン! と、詠美の上体が崩れた。腰から折った体勢で奇妙な動きをし、顔だけをこちらに無理矢理向けてくる。
 ぎょろり、
 そんな気色の悪い動きで、詠美の充血気味の瞳がこちらを見る。
「あと少し。あと少し、あと少しあと少し少し少し少し少しぃいイイイッ!!」
 奇声にも似た声を甲高く叫ばせ、詠美は本のページを引き千切る。
 ブゥゥゥウウン!! と周囲の鉄柱が振動し、反復して詠美の右腕に纏わりついた音波の塊を、一気にゼロに振り被る。
 ゴォウ!!
 埃も砂塵も巻き込んで押し寄せる。
 ゼロは先を読んで鉄柱と鉄柱の合間に飛び込んだ。
 三メートル間隔に立つ鉄柱同士を音叉に見立て、音の波状を狂わせたのだ。いくら強烈な衝撃と化していても、空気から空気へと伝わる音波の動きだけは無視出来ない。案の定、鉄柱同士にぶつかった音の余波がさらにぶつかり合い、ゼロの前で緩やかな音が掠めていくだけだった。
 ふわり、と風がゼロの白銀の髪を撫ぜた。
「っ!?」
「……いいよ、わかった」
 ゼロは、ほんの数秒前までとは別人のように表情を殺した。
 すっと立ち上がり、両腕を前に翳す。
「話し合いで解決する気がないなら、付き合うつもりはないかな……」
 キィィィン――
 幾度となく工場内で繰り返されてきた音の中でも、最も清涼な音色が染みた。
「全力で……倒す。あの家に帰ってもいいと、ボクは許されたのだから……!」
 瞳が、真紅に染まる。
 深淵を越えた禁忌の色。
 透明な硝子細工の造形から、爆発的に鋼に色づく。
 兵器の手に握られし、巨大な両刃剣。その名は――雷硬鞘剣(カラドボルグ)。
 ケルト神話でのアルスター伝説の英雄が手にし、王の頭に代わり三つの丘の頂を切り落としたという『実在性の無い武装(ノン・アーティスト・ウェポン)』だ。
 存在しない寓話ですら、それが武装であれば一切無視して構築する能力。
 『聖域』、聖痕(スティグマータ)=B
「今までは素人の手前だったからある程度抑えていたけど、今回はボクだって本領を発揮させて貰うよ」
 たん、と軽やかなステップの音が詠美の耳朶を叩いた直後、
 風を叩き割るような轟音が降り注ぐ。
 詠美は本能的に一歩下がった。それが何かを理解するよりも先にまず避けようとしたのが幸いし、
 ズドン!!
 上から袈裟斬りの要領で大剣が降ってきた。
「ヒッ……」
 喉の奥から悲鳴が漏れる。
 ゼロはその小さな体を軽く宙に浮かせ、大剣を体ごとの回転に巻き込むようにして巨大な鉄の塊を振り回してくる。音の衝撃なんて目じゃない。まるで、暴風雨だ。
 次の瞬間、ゼロの猛烈な踏み込みと同時に雷硬鞘剣(カラドボルグ)が真上に振り上げられる。
 しかし、ゼロのような華奢な体格の少女が振り回せたのはあくまで全体重を大剣の端へ端へと当て、勢いだけで振り回していたからだ。
 その実、振り上げた大剣を握り続けられる筋力はゼロには無い。
 結果、振り上げきったまま大剣が宙に投げ飛ばされる。
 それでも攻撃は停まらない。
 詠美の視線が上に向いた途端、清涼な音色が再び鳴る。
 見れば、片手に一振りの短刀が視界に入る。
 さらに一歩進み、流れるように横一閃に軌跡が奔った。
 ぴしゅっ! と布が斬れる音と、腹に鋭い熱が生まれる。腹を掠られたと理解した詠美は奇声を上げる暇もない程魔力を練り、火の粉の散るページを一枚破ってゼロへ向ける。
 だがゼロは後ろへ下がると共に、何もせず立ち尽くしているではないか。
 好機、と詠美は思った。なんの捻りもないまま音の流れを凝縮し、ゼロへ放った。
 だが、
 ――ガン!
 重い音がゼロの前で炸裂した。
 雷硬鞘剣(カラドボルグ)だ。投げ出された大剣が垂直に床に突き立つ。
 音の衝撃が大剣を呑み込む。なのに、
「……っ!?」
 大剣に直撃した瞬間、音波に乱れが生じた。
 背後に立つゼロには一切届かない。
 まるで――盾のように。
「これは本来、敵の粉砕と攻撃を正面から防ぐ目的で創られたモノだよ」
 ゼロの声が、詠美にも聴こえる。
「キミの攻撃性はよぉく判ったよ……キミ、魔力の流れがワンパターンだよ」
 真紅の眼が、
 大剣の向こうに居る魔術師を捉える。
「みえた」
 キィィィン――
 音色が奔る。同時、雷硬鞘剣(カラドボルグ)の左右から銀色の何かが飛来する。
 詠美は何かを理解すると共に、反射で頭を下げた。
 全面が刃物で出来たブーメランが、首のあった場所を過ぎ去ったのだ。
 途端に、詠美の瞳に正気の色が戻った。一呼吸遅れれば死んでいた恐怖に、無意識から激しく交錯していた意識が跳ね起きたのだ。
 だが、体を低めた体勢で顔を上げた瞬間、雷硬鞘剣(カラドボルグ)から白い影が跳躍する。
 ページを破りそれを向け、ぎょっとした。
 ゼロの両手には、身の丈の数倍はある武装が視える。
 片側に大きく刃の取り付けられた、ポールウェポン。
(三日月斧(バルディッシュ)……!?)
 思わず硬直した体を叱責し、衝撃を放つ。
 だが、もう遅かった。上から振り落とされた時点で、衝撃などという生易しい攻撃では押し返せるはずがない。
 その重量によって破壊力を発揮している武装が相手なのだから。
 体の回転を限界まで利用して弧を描き、衝撃波など竹を割るような勢いで、綺麗な垂直に戦斧が降る。
 ゴッ――、ォォオオン!!
 半秒は遅れて地を抉るような振動が足元で起こり、目鼻先を通過していった強大な一撃に、詠美は動けなくなった。
 その僅かな空白の内に、
 ゼロの攻撃はまだ終わってなどいなかった。
「!」
 一気に間合いを奪い取り、ゼロの手に握る短刀が、
 ザクン! と、
 詠美の持つ本を斜めに切り落とした。
「ぁ――」
 言葉よりも先に、

 魔力が破裂した。

 ゴォウ!! と大気を焦がす力の奔流が、二つにされた残骸から弾け出る。
 爆発的に集約されていた『知識による魔力』という回路を焼き切り、魔導書そのものを回路暴走(オーバーロード)させているのだ。
 バチバチと眩い火花を散らせ、魔導書が蒼い炎が舞い詠美の左手を焼く。
 ばさり、と魔導書が落ちる。魔導書と経由していた魔力の総てが垂れ流しになり、詠美はぺたんとそこに膝を折って座り込んだ。
 いや、立てないのだ。
 ただでさえ自らの傷を治癒する為に魔力を空にした状態だったのに、頼みの魔導書を破壊されては、もう、
「終わり、かな」
 一時的に精神を侵され、意識も半ばの詠美にゼロは言った。
 茫然自失に俯く詠美は、呟く。力無く、小さな声で。
「……ねぇ、……どうすればいいの? ……わたし、は…………」
 魔導書による精神汚染は、コップに油を垂らした感覚に似ている。重い油としてコップの底に沈んでいたさっきの状態も危険だが、その危険を脱しても、今度は軽くなった油がコップの上辺で纏わりついてしまう。埃塗れの床に手を突き、上の空のように呟き続ける詠美を見つめ、ゼロは口を開いた。
「……たとえ『聖域』が手に入っても、きっとその人はキミの元へは帰っては来ないよ」
 瞳は既に夜色で、眠たげに伏せた表情は、少し哀しげだった。
「他人を傷つけて、そんな禁忌を冒してまで手に入れてほしいなんて、思ってなんかいない。犠牲を出してしてまで、『聖域』は手にいれるものじゃない」
 眼を閉じ、
「ボクももう、犠牲犠牲で誰かを護れるなんて思わないことにした」
 ゆっくりと振り返り、出口を目指した。
 それでも、罪悪感や後悔は微塵もなかった。
 確かに厄介な路を選んだと不安は隠せない。
 教団に楯突いて、魔術師の大半を敵に回し、彼女は再び罪人に戻った。
 いや、一人の青年も巻き込んでいる。
(でも、)
 それでも、
 それはちっとも、不幸なんかじゃないのだから。
(さて、これからどうしようかな――)
 いよいよ眠たくなってきた。
 とりあえずは眠りたいな、と目元を擦りながら、求めた世界(いえ)へ向かった。

 どん、と。
 後ろから寄りかかられる重圧感に、その光すら壊されながら。

「え?」
 なんとはなしに、振り返る。
 視界の端に映るのは、ぼさぼさになってしまったショートカットの黒髪。
 蒼い炎に焼かれて痛々しい火傷を負った左手でゼロの肩を掴んでいる。
 ありえない、という意識から、ゼロの反応が一瞬鈍ってしまった。
 何故なら彼女は自分の容量(キャパシティ)を超えた魔力の消費で指一本動かすのも出来るか分からない状態にあるはずなのだ。たった数歩の距離を歩くだけでも、それはゼロを無意識に振り向かせるだけしかさせなかった。
 その僅かな空白の内に、

 とす……、

 胸に、何かを突き立てられた。
 痛みは無い。刺されたという感触は無かった。
 ただ、何かが胸に押し付けられる。
 何を、とゼロは視線だけを下に向ける。
 彼女の右手。そこから伸びているのは、一回りは大きい古めかしい金細工の装飾鍵。御伽噺にありそうな、中心にルビーのあしらわれた骨董品だ。
 鍵の先端、少し出っ張った部分が微かな光と一緒にダボダボのシャツごと、ゼロの胸に入り込んでいた。
(か、ぎ……? 宝具?)
 これが何を意味するかを、ゼロは少しだけ理解に遅れる。
(何かを開ける鍵……何の? 扉? 箱の)
 それでも、半秒の内に違和感に戸惑い、
(……開ける=H)
 また半秒の内に、まさかと気付き、
(箱を開ける宝具!!)
 もう、
 遅かった。

 カチン、

 確かにそんな音がした。
 やたら鮮明に聴こえたのは、もしかすると内側からの音だからかも知れない。
 詠美の手が右に少しだけ傾いて、鍵が回される。
 ゼロの奥にある箱を。
「―――――――、ぁ」
 小さく、声が漏れた。
 ヒュイン、とゼロの胸元で白い光が脈のように一瞬広がり消える。
 ゼロは後ろへよろめく。
 詠美は、あは、と笑みを浮かべた。
「や、った……これで、いいんだ……これで、『聖域』が、開く」
 恐る恐る、瞠目したままのゼロが顔を上げる。
「ひら、く……? せいいき、を?」
「そう……! フィネルさんが研究室(ラボ)に残していた魔術資料の中に、『聖域』に刺激を与えることで起こる影響を調べるものがあったっ」
 詠美の表情は酷く歪んだ愉悦の顔。
「あはっ、やった。わざわざ『レグバの扉印』の最終条件をその宝具の発動にした甲斐があったわっ!」
 立てるはずもないはずなのに、泥まみれの足を震わせ、歓喜に叫ぶ。
「二年前! 貴女の『聖域』が暴走した原因は、無理矢理『聖域』を護る箱を破壊してしまったから! だから私は考えたっ! 調べに調べ、三年もかけて創り上げた私のっ! フィネルさんの意思を継いだ最後の宝具魔術――」
 やめ、
 ゼロが口を開いた。
 もう、間に合うこともなく。
「――『理想の為だけに穢れ無き彼の地へ(キー・オブ・ザ・ホーリーゾーン)』!!」
 どくん、
「……、かっは……!?」
 ゼロは胸元を押さえて背を折った。
 猛烈な熱さが、鍵の差されている箇所を中心に広がってゆく。
 抜かなければと鍵を引っ張っても、ビクともしない。
「ぐ、ぅぅぅうううう……っ!」
「さぁ……開け! 『聖域』の真意を手に入れれば、フィネルさんに逢える! 私の為に、開きなさい!!」
 高らかに笑う詠美。よろよろと頭をふらつかせるゼロを嘲笑し、その世界の再臨を目の当たりにする喜びと、最愛の人の帰還を確信して。

 その時、
「……、――あ?」

 ゼロが、唐突に奇妙な動きをしだした。
 ビクン! と電流を流されたように体を伸ばし、天を仰ぐ。
 どうしたのかと詠美は眉をひそめた。
 まさか宝具に不備があったのか。いや、あの宝具は完璧だったはずだ。
 かつて聖痕(スティグマータ)≠フ『聖域』が暴走したのは、破損した箱の修復のために周囲の因果を呑み込んで欠損部分を補おうとしたからだ。つまり箱に開閉機能を創り、箱へのダメージを与えなければ暴走はしない。
 それは、数少ない『聖域』の暴走の真実を知る者達だけが発想できることだ。
 だからこそ詠美は、絶対の確信を持って、あの鍵の宝具を使用したのだ。
 不備は無い。ありえない。
 なのに、
「……ぁ、……あっ!?」
 さらにビクン! と体が跳ね、眼を剥く。
 夜色の瞳が見る見るうちに、禁忌に染まる。
「がっ……!? あ、ぐ……! だ、め……とめ、て……!」
 毟るように胸を掻き、ゼロが悲鳴を叫ぶ。
「こ、れ……ちがっ……だめ……あ、……ちがぅ……だ、……だめぇえ!」
 詠美が、咄嗟に魔術を止めようとした。
 止めるわけにいかないはずなのに、彼女の叫びに従わざるを得ない気がした。
 だから、魔術の発動を破棄しようと、口を開いた。

 ブチン――ッ!
 壮絶な結果が、そこに起きた。

「ひっ……!」
 喉から悲鳴が出る。
 ゼロの両眼が、突然、弾けた=B
 果肉を素手で握り潰すような背筋を凍らせる音が漏れ、天を見上げたままのゼロの両眼から血が吹き上がる光景を見てしまったのだ。
 何かが内側から溢れ、彼女を破壊するかのように。
「――がっ、」
 両眼を押さえ、ゼロの見えている鮮血塗れの顔の下半分が痛みに歪む。
 悲痛の叫びは、激変に消された。
 ズドン!
 ゼロの足元に突然現れた長剣が突き刺さる=B
 詠美が混乱した思考を立て直す、暇さえない。
 ズガン!
 また足元に日本刀が穿たれ、
 ドカン!
 近くの木箱に円曲刀(ショテール)が噛み付き、
 ギュギン!
 鉄柱に鋼糸が絡みつき、
 もしかしたら、と。詠美が一歩下がった直後、
 武装の嵐が爆発した。
 ゼロを中心とした周囲へ広がるように、聖痕(スティグマータ)≠ノよって創られた武器が次々と四方八方に突き刺さり迫ってくる。
 縺れそうになりながら避けようとしたが、創造が速すぎる。結果、
「は――、がぁうっ!?」
 縫い止めるようにしてナイフが左肩に、槍が右脚を貫通する。
「ぁ、……あ、があ……! ぅあ……あ、あ……ぁ」
 呻きにも似た声を繰り返し、ゼロは破壊された眼を覆い歩き出した。
 壁伝いに、この場を去るように。一刻も早く逃げるように。
 精神的にも肉体的に動きを封じられた詠美を残し、闇の中をゼロは彷徨う。
 所詮、望んではいけない夢を魅入った罰を受け。
 崩壊の刻を間近に迫らせる、悪夢の鍵を胸に刻んだまま。





「―――――――い……!」
 ゆっくりと、意識が浮上してゆく。
 闇の中でズキズキと痛む頭を抑えようとしたところで、誰かに呼び起こされていることに気付いて瞼を開ける。
 視界に入ってきたのは、額に真っ赤に染まる汚らしい布を荒く巻いただけの大男が、こちらを見下ろしていた。
「……ダグ……、?」
「いつまで寝てるんだ! これは一体っ、何が起きた!?」
 肩を強引に揺らすせいで、余計頭痛に響く。
 そっちこそアンタさっき俺が気絶させただろが、と飛鳥がボーっとした頭で考えた後すぐ、それが数分か十分近く自分が気絶していたことに思い至った。
 体中の軋む痛みも忘れるように、上体を跳ね起こす。
「ゼロは!? 雪乃に襲われて、ゼロはどこにっ?」
「ユキノ……?」
「テメェが拘束プレイのまんま背中からぶっ飛ばした奴だろーが!」
 ダグラスの体を押し退けて、飛鳥は状況把握に痛む頭を無理矢理稼動させる。
 彼女の手には、何か本のようなものがあった。それを使っていたからかは判らないが、二人で話していた時よりも異常な状態に見えた。
「雪乃が持ってた本はなんだ!?」
 ダグラスは一瞬逡巡したが、すぐに答えた。
「魔導書と呼ばれる魔術師の禁忌(タブー)だ。魔力や条件に呼応する霊装宝具と違い、魔術における歴史や概念、記し手の知識を保管する代物」
「タブー? やっぱ雪乃の様子がおかしかったのはそれのせいか……」
「恐らくは原書ではないようだが、複製だとしても精神を破壊するには充分すぎる! 奴と聖痕(スティグマータ)≠ェどこに行ったか、見当はつくか!?」
「んなもん、こっちが訊いてるぐらい――」

 直後、
 夜の世界に眩い光が湧き起った。

 二人が弾かれるように顔を向ける。
 少し離れたところで、ここからも見える程巨大なドーム状の光が夜天の星を掻き消すように煌いている。
「なんだよっ……あれ!」
 飛鳥が呆然と眺めていると、「そんな……」とダグラスが小さく呟いた。
 視線を向けると、飛鳥とは違う種の驚愕を表情に浮かべている。
 未知に対する畏怖ではなく、知っているからこその°ー怖。
「馬鹿な……っ」
 嫌な予感が、飛鳥の首筋を奔る。
「『聖域』が、暴走している……!」
 その言葉を耳にした時には、飛鳥は一気に光の爆心地に向け走りだしていた。





 黒い、世界。
 ゼロにとっては見慣れた景色。
 だが今の暗さは間接的な何かとは異なった、視界そのものが潰れた暗闇だ。
 もう、体のどこが痛いのか分からない。
 全身が、バラバラになってしまいそう。
 でも、
 たった一つだけ明確な感触が胸に突き刺さったままだ。
 実質、ゼロが歩けた距離は、ほんの二,三十メートル程度だ。
 工場から出て、ふらふらと覚束無い足取りで、ゼロは逃げる。
(何から?)
 ふと、そんな疑問に思い当たる。
 気付いていた。
 いつかこんなときが、また来ると。
 『聖域』の暴走を起こして以来、記憶を失くした頭の隅に残っていた違和感。
 こんな力さえなければ、平穏の中に居られたのだろうか。
 もう何もかもが遅いゼロは、一抹の希望をまだ夢見ていた。
「い、たい……よぉ……」
 その声を聴けば、彼はきっと助けてくれるかもと、図々しいまでに想い。
 二年前から始まった彼女の記憶の中で、初めて口にされた言葉。
「……ぃ、た……い……」
 助けてほしい、と。
 初めて、希った。
「た、すけ……て」

 それでも、彼女の願いは殺される。
 兵器として許された自分を、放棄した時点で。

 ヒュイン、という音を、彼女は聞き逃した。
 目が見えない彼女の胸元で、小さな魔方陣が展開される。
 鍵の周りでくるくると回るそれが、鍵に最後の命令を出させる。
 解禁(ほうかい)。

「アス

 これは、神罰なのだろうか。
 悲しい哀しい、罪を―――――――

 カチン、

 水平に刺されていた鍵が、完全に半回転する。
 少女が、その名を呼ぶことは出来なかった。
 溢れ出てくる白い世界が、彼女の魂ごと総てを薙ぎ倒してゆく。
 優しさも、
 温もりも、
 愛しさも、
 理想も、
 悲哀も、
 絶望も、
 躯も、
 夢も、
 涙も、

 幸せすら、己の為だけに在りし世界は破壊する。

 一人の青年を呼ぶことさえ、もう――出来ないまま。





 目の前まで着いた時には、それは圧倒されるほどの眩さだった。
 白い、嵐。
 形容するならそんなところだろうか。
 直径にして十メートルぐらいで、ドームのように形成された白い光の粒子が、吹雪のように宙を舞い、竜巻のようにドームの内側を荒れ狂っている。
 唖然とした顔で飛鳥がそれを見ていると、急に後ろから首根っこを掴まれ、引っ張られた。
「馬鹿野郎っ! 近づくな……!」
 ダグラスの太い腕だ。切羽詰っているとはいえ容赦無い力加減に朦朧としていた意識が遠のきかける。あまつさえ尻餅を突いて座り込んでしまった。
「ってぇ……っ、何すん――」
 振り返ると、何時の間に拾ってきたのかダグラスは何に使うのか判らない工具を握っている。
 ダグラスはそれを無造作に白い嵐の内側に投げ上げた。
 思わず、飛鳥もその工具を目で追う。
 放物線を描いて白い嵐の中に入り込んだ工具。
 その時、粉雪のように踊る光の粒子の影から現れた、バスケットボールぐらいの大きさの白い球体に工具がぶつかる。球体は地球の周りを回る月のように横切ってゆくが、ダグラスが丁度そこに合わせたのだ。
 見事に球体の上から降ってくる工具。触れた途端、

 工具が、消えた。

「、え?」
 一瞬、何が起きたのか理解できなかった飛鳥は変な声を出してしまう。
 溶けた、風には見えたが、焼ける音もしない。何より触れた箇所から工具が透けて、ゆっくりと粉々にされながら虚空に消えていったのだ=B
「何だよ……あ、れ」
「『聖域』の干渉体だ」ダグラスが恐ろしげに呟く。「『聖域』はエネルギー体。さらに言ってしまえばこことは違う別の世界そのもの≠セ。現世に現れた途端、因果の急激な変化によって事象が捩れて、『聖域』の方が先に飽和してしまう。だから彼女(ハード)を媒介にすることで『聖域』自身(ソフト)のままこちらに情報だけを送り、因果律を極限まで壊さないまま発露することが出来るんだ」
 だが、と続けるダグラスの口調には、どこか諦めが感じられた。
「そうなる為には外面(ハード)と内面(ソフト)の合間にある箱が破壊された時しかない。どうやってあれを破壊したというんだ……っ」
 光の激流の中に、小さな少女が立っている。
「……! ゼロ!?」
 いや、立っているのではなく、数センチ浮いた状態で少し胸元を仰け反らせ、人形のように両腕は垂らしたままだ。
「無駄だ、『聖域』が直接情報を送っている今の状態は、肉体ごと乗っ取られているんだ。今、彼女は生きていない」
 その言い方に頭の隅で怒りが湧いた飛鳥が勢いよく振り返ると、ダグラスの向こうに人影が見えた。
「……っ、雪乃!」
 彼女は工場の出入り口のところで座り込んでいる。肩と脚に見るからに痛そうな傷があるが、詠美はそんなことを気にも留めずに青ざめた顔で呟いている。
 飛鳥は痛む右腕を押さえて猛烈な勢いで走り、詠美の胸倉に掴みかかった。
「テメェ……ゼロに何をした!? おい、雪乃っ! ゼロに何したんだよ!!」
 大声で怒鳴りつけると、はっとした顔で詠美はこちらを見、血の気の引いた顔で口を開いた。
「……神代、く……ん。これ、……どうしよ、う……」
 今にも泣きそうなほど体を震わせ、飛鳥を見上げてくる。
「こんなハズじゃ、なかったのに……箱にダメージを与えずに開閉機能を付与すれば……暴走、しないはず……なのにっ……何でこんな、ことに……っ」
 怯えきった顔の詠美の言葉に、近くまで来ていたダグラスが絶句した。
「馬鹿な……『聖域』を開けようとしたのか!?」
「開ける?」飛鳥は怪訝な顔をした。「確か『聖域』って、旅客機のブラックボックスみたいに、初めから開くつもりで創られた箱じゃないんだろ?」
 とある神父はそう言っていた。『聖域』は空気中に浮く気体と違い、意思、つまり記憶や想像といった形の無いものだ。当然それが現世に現れることを防ぐために全面が壁で出来ている内側の物を出し入れさせない創りになっている。
「そんなものに……開く力を与えたというのか……!」
 ダグラスは憎しみとは違う怒りで額に青筋を浮かせて、詠美を睨んだ。
「そ、そんなにやばいのか?」
「当たり前だっ! まさか『聖域』が外に出る自体が絶対に禁止と知らずに=Aそんなことをする奴が居るとは思わなかった!!」
 え? と詠美が顔を上げる。
「なに、それ……『聖域』が暴走したのは、箱の」
「箱自体は実際関係無い!」ダグラスが遮るように咆える。「知らないのか! 『聖域』が持ち主に能力を与えるのは『使用』ではなく『反応』、要は外界の状況に応じて内側でそれを思考思案した『聖域』そのものが力を行使しているに過ぎない! だから使い過ぎれば『聖域』と同質化してしまうこと≠恐れて、彼女は能力の加減を無視して倒れただろう!」
 飛鳥が思い出す。
 学園で武装の創造のし過ぎで高熱を出したあの状況。
「一度『聖域』そのものが外界と接触してしまったら、彼女自体は関係無い=I むしろ彼女の躯を乗っ取った『聖域』が好き勝手に周囲の事物事象と干渉し、総てを思うがままに書き換えて消滅させてしまう!!」
 そこで真実を知った詠美が、後悔の色を明確に顔に出した。
「じゃあ……フィネルさんが残したあの資料は……失敗した資料……?」
 信じられない、と呟く詠美。
「信じられないのはこっちだ! 『聖域』暴走以来、『聖域』と『聖域』持ちを同化(リンク)させる作法禁止の厳守は、大抵の能力者達には流布されている事だぞ=I?」
 そこで、完全に目測を見誤ったことに気付いた詠美は、視線を俯かせた。
 それを見て、飛鳥は顔を上げる。
「どうにかなんないのか!?」
「……、『聖域』の開放自体が何千年に一度の大事件だ。対処法なんて有るわけ無いだろう」
 力無く白い嵐を見つめ、
「こうなっては、ここら一帯を呑み込んで吸収しきるまでは止まらん。急いで逃げなければ俺達もさっきの工具のように連れて行かれる≠シ」
 その返答に飛鳥は瞠目する。
「ゼロを……見捨てるっていうのかよ!」
 言葉に、ダグラスは顔を歪ませて同じようにして飛鳥の胸倉を掴む。
「ここに居れば俺達も巻き添えを喰うぞっ……消滅だぞ!? この世から居なかったことになるんだぞ!? 逃げずに何をする気だ!!」
「決まってんだろっ、ゼロを助けるんだよ! このままだったらゼロはどうなっちまう!? 奪って、壊して……! なのに自分はそれを覚えてねぇ……! 失くしちゃいけない記憶も失くしたくない想い出も全部無かった事にされて! またアイツは何もかも無くしたまま生きるのかよっ!」
 またも大切な何かを探して彷徨う生き方をさせられて、
 知りもしない連中には『お前が悪いから』と狙われて、
 そんな、重荷を背負わされて生きるなんて、
「させねぇ……! 俺は絶対にそんな結末にはさせたくねぇんだ!!」
「だったらどうする!? 何の手も無いくせに、言うだけなら簡単

「あるよ……一つだけ方法が」

 その疲れたような一言に、二人の激しい口論がピタリと止まった。
 言ったのは、足元で呆然と白い嵐を見つめていた詠美だった。
「……なん、だって?」
「あるって言ったの、アレを……止める方法が」
「どんな!?」
 繰り返す詠美に、飛鳥が飛びついた。未だに白い嵐を見つめたままの詠美に、地面に手をついて顔を近づける。
「今回の『聖域』の発露は、二年前のそれとは違う点がある」
 そこで、飛鳥もふと理解する。
「気が付いた? 二年前は立派な破損だったから、『聖域』は箱を修復する為に已む無く発露し、周囲の事物を吸収した……でも、今回は=H」

 そう、箱が開いただけでどこも壊れていない。そもそも修復の必要がない=B

「開いたのなら閉じればいい。あの宝具の効果は『聖域』の到達を防いでいる箱への開閉°@能の付与。現にこうして開いたのだから、閉める事も出来るはず」
「本当か……!?」
「ええ、でも……」
 すっと、指を差す。それだけでも精一杯といった風に差された先にあるのは、
「あの中に入って、鍵を左に回さなければならないけれど、ね……」
 触れた総てをこの世界から排除する、白い嵐。
 中心で今も光の拡大を推し量ろうとしている、少女の躯を借りた世界の意思。
 その、胸元。莫大な光量に照らされて時折反射させる、赤い色。
「発動権限は私が持ってる」詠美は飛鳥を見て、「どっちにしろ『聖域』が手に入らないのならもう諦めるわ。ここで死のうが万が一助かろうが、好きにして」
 そこまで言って、詠美は自嘲したくなった。
 失敗する行動を知らずに続け、挙句の果てには他人に助けを請うなど。
 魔術師も何もない。人間として、自分がどれほど最低に見えることか。
 何も言わない飛鳥とダグラス。きっと二人とも、自分が消滅するような所に行くなんて断念するに決まって――、
「わかったっ、その発動権限ってのは俺には移せないのか?」
 信じられない声が降りかかってきた。
 思わず目を見開いて顔を起こす。座り込んでいる自分と視線の高さを合わせた青年が、真剣な面持ちでこちらを見据えていた。
 誰もが思うだろう答えを考えていたダグラスのほうが、驚いて口を開く。
「お、お前っ……自分が何を言っているのか判ってるのか!?」
「うるせぇ黙ってくれ! でっ? どうなんだ!? 権限は移せないのか? こうなりゃお前を護りながら突っ込めばいいって寸法なのか!?」
 口をぱくぱくと動かし言葉を探していた詠美は、ついつい訊いてしまう。
「し、消滅よ!? もしかしたら神代飛鳥という人物なんて居なかったことになるのよっ!? なんでそんな躊躇いもなく……!」
「あのなぁっ!!」飛鳥が――、怒る。「テメェら俺よか魔術師やってるくせにほんと答えが遅ぇなぁ! いいか!? 俺は出来るか出来ないか訊いてんだ! するかしないかなんてもうとっくに終わった話だろーが=I!」
 ぽかん、と。魔術師二人は思考が止まった。
 この、今この戦場に居る中で誰よりも素人で、戦場を知らない青年は、
(なんで……)
 この極限なまでに最悪の状況でさえ、彼女(たにん)のことを考えているのだ。
(なんでそこまでして……)
 そう思い至った時、同じ理由の為に動いている魔術師を、詠美は思い出した。
 他でもない、自分が。
「……ねぇ、どうして貴方はあの子を救けたいの?」
 目の前の青年は、自分に殺されかけた。教団には狙われ、今も救おうとしている少女のためとはいえ、消滅されるかもしれない死地へ向かうというのに。
 なんでそこまでして、この青年はこんなにも戦えるのだろう。
 答えは、思った以上に早く、
「当たり前だろ。アイツは一緒に帰るって約束した――俺の家族なんだからな」
 そう言って、彼は微笑った。
 何一つ、曇りの無いものだった。
 護りたい日常を渇望するその姿は、かつて自分も求めていた姿だった。
 唯一つ、違うのは、きっと信じる力の差なのかも知れない。
(フィネルさん。貴方への信念を今一度だけ裏切ること、どうか許して下さい)
 胸に蟠る温もりに似た冷たさは、気付けば無くなっていた。
「……鍵の前に到達したら、こう唱えてから回して」
 瞼を上げ、飛鳥を真っ直ぐ見つめ返す。
「術式ごと貴方が消滅したら、もう止めれないわ。失敗は許されないからね」
 詠美は顔を前に動かし、飛鳥の耳元で囁く。
 自分が生きていた中で唯一、最愛の人の残したあの宝具に付け加えた仕掛け。
「――、」
 本来は無かった、この悲劇を止めたいとどこかで願っていた術式(ことば)と、
「神代君……お願い、どうかあの子を救けてあげて……」
 そっと、飛鳥の右手に自分の手を重ね、

「『たとえ届かなくとも、私は貴方を愛しています(プレゼント・フォア・ユー)』」
 この悲劇を幕間から引き裂いてくれる勇者へと託したかった想い(ことば)を、

 そうして、薄く蒼い光の燈った自分の右手を一瞥して、
「――ああ!」
 受け取った一人の青年は、瞳に光を宿して頷いてくれた。


 少女から託された力を拳に握り、飛鳥は振り返る。
 目指すは白い嵐の向こう。
 今の話し合いの内にも肥大化は進んでおり、既に直径は三十メートル近くになっている。
 飛鳥はゆっくりとした足取りに、自分の今までの想いを瞼の裏に奔らせた。
 思えば、災難なことばっかりだった。
 こんな戦場に放り出されて、
 そしたら戦場から追い出されて、
 でも、今度は、自分の意志で、こうして戦場に立っている。
 とっくに気付いていた。
 左腕が、震えている。
 怖い。本当は、消滅なんて死ぬほど怖い。
 でも、
 ここで諦めたら、彼女はどうなる?
 生きている心地など否定されて生きてきた彼女は、
「……ゼロ」
 飛鳥は呼ぶ。
 呼ぶことを運命的に赦されない彼女の為に、呼ぶ。
 たとえ神が許してくれなくとも、そんなものは関係ない。
 俺が、彼女を繋ぎとめる。と――、
 震える左手を開き、そのままドームのように煌く光の向こう側へ、伸ばす。
 ふわり、と。
 それは確かに、温かい感触がした。
「ゼロ!」
 飛鳥は握った拳に力を込める。
 初めから、一度だって恐怖に震えてなどいない右手を。
 抉られた傷口からの血に塗れた右腕を。
 そして、飛鳥はその哀しみが生み出した白い温もりの先へ飛び込んだ。


 ゴオォ――!
 まるで台風のように吹き荒れる音に耳朶を叩かれ、飛鳥は躍り出た。
 外から見るのも綺麗だったが、内側はまるで別世界だ。
 白銀色に煌く光の粒子が散り逝く桜の花びらのように舞い飛び、純白に埋め尽くしてゆくその情景は、この世では見られないほどの美しさだ。
 それでも、飛鳥は足を停めない。
 それは――この世界では『消滅』を意味しているのだから。
 不意に、粒子の色に紛れたバスケットボール大のサイズの白い球体が、速くもなければ遅くもない奇妙に緩やかな速度でこちらに迫っていた。
「っく……!」
 飛鳥は背筋を凍らせて体ごと姿勢を低める。触れたら防御も無視して因果を喰い千切る球体は、一個や二個どころじゃない。ドームの拡大に比例して、ますます数を増やしている。存在の否定、それがこの世界の実態だ。
 飛鳥はテストでもしたことが無いほどの集中を総て眼と脚に集約させる。
 途端、今度は左側から逆時計回りに過ぎる球体を、急ブレーキして避ける。
 ゼロとの距離は一向に狭まらない。こんな回避を繰り返していては、果ては疲れて球体の餌食だ。
 ――ゼロ……、
 ギリ、と。
 飛鳥は無意識に唇を噛み切って、ゼロを捉える。
 ――家に、帰るぞ!!
 意を決した飛鳥の一歩が、

「ダメぇ!!」
 背後から見守っていた詠美にそれを叫ばせた。

 気付いたときにはもう遅く、
 宙を浮遊していた球体にぶつかるように、腹を突っ込ませていた。
「――あ、」
 音も無く、左の腹筋辺りが、ぽっかりと消えた。
 痛みも無ければ、なんの感触もない。
 ただ、腹の左側が、無くなった。
 それを見てしまった飛鳥の思考が停まる。
 その、一瞬の気の緩みが、事態をさらに最悪へ追い詰める。
 後ろで、英語で何かが叫ばれた気がしたが、それも耳には入らない。
 直後、棒立ちの飛鳥の左手が、別の球体に掠る。
 親指だけを残して、手の平の上半分が消える。
 傷口は無い。まるで透明な硝子細工が粉々に風化するようにして、左手が白い世界に消えてゆく。
 同時に、足元を流れてゆく球体に右足の接触を許してしまう。
 途端に重力が奪われた。なんとか前に倒れたものの、膝から下をごっそり消滅された。
 あと少しなのに。
 十五歩程度なのに。
 なのに!
「く、っそぉぉ……!」
 体で庇うようにした右手には、気持ちの悪い汗が握られる。
 もう……駄目なのか。
 絶望が脳裏に浮かんだ最中、球体が地面すれすれを流れて飛鳥の頭部を狙う。
 咄嗟に眼を瞑った。
 次の瞬間、体の重力が一瞬無くなった。
「――え!?」
「何してるんだ! しっかりしろぉ!」
 英語で叫び、飛鳥を肩に担いだダグラスがドームの内側で走っていた。
「護るんだろう!? 救われていいはずの人間が犠牲になるのは、絶対に赦せないんじゃなかったのか!」
 光の激流に畏怖も無く、ただ英語で叫ぶ。
 スラングだらけの英語は、殆ど飛鳥には伝わらなかったけれど、
「なら彼女を救うことで、俺の家族も一緒に護ってやってくれ……!!」
「ダ、グラス……?」
 その声が、優しさに滲んだ涙混じりに聴こえて、飛鳥は彼の心を理解した。
 右腕を庇い走っていた飛鳥と違い、ダグラスは躊躇しなかった。
 ただ、前に真っ直ぐ突き進む。
 球体の接触などお構い無しに。
 腰に当たり、腰が消滅しても、右胸に直撃し、肺ごと削れ、
 飛鳥を護るために振るった右腕が、ごっそりと無くなっても、
 彼もまたこの青年に総てを託し、死力の尽きぬ限りに走る。
 残り、三メートル。
 がくん! と飛鳥の視界が崩れた。
 見ると、ダグラスの両脚が消えている。
 何とか左脚だけで着地すると、倒れ付したままダグラスが日本語で叫んだ。
「行けぇ!!」
「……っ」
 振り向き、右手と左脚だけで這いずるようにして、ゼロへ辿り着く。
 光の中心で、一糸纏わぬ姿の胸元に鍵が刺さったままのゼロ。
 飛鳥はゼロの体に掴まって何とか立ち上がると、丁度鍵の刺さった胸元の前に立った。
「……ゼロっ!」
 閉じた瞼からおびただしい血を流す、白い少女。
 それはまるで、痛みに血の涙を流しているようだ。
「ゼロ!!」
 飛鳥は、託された右手で鍵を摘む。このまま左に回せば、総て――、
「……! 避けてっ、神代君!!」
 背後から、詠美の声がする。
 理解した時にはもう、遅かった。
 鍵に触れた途端に、光の粒子の流れが乱れ、ぐしゃりとずれる。
 同時に、円を守って動いていた球体も崩れ、結果、

 視界を覆うほどの球体が、ゼロの周囲を回ろうとする。
 眼前に居る飛鳥には、今しか避けることは出来ない。
 だが避ければ、もうチャンスはやってこない。そんな気がした。
 手を回すか、
 手を離すか、
 二つに、一つ。
 どちらを選んでも、どちらか一方の心が死ぬ。
 それでも、
(約束、したもんな……)
 飛鳥は、どうしても優しく微笑む自分の表情を変えることは出来なかった。
(一緒に、帰ろうってさぁ!!)

 そして、青年は選んだ。
「―――――――『されど悲劇の姫君は救われた(スリーピング・ビューティ)』!!」

 カチン、

 鍵が左に逆回りする。
 少女の自由と引き換えに、
「神代君っ!!」
 球体に頭を、肩を、左脚を、次々と喰われ、
 最後に残った右手が、ゆっくりと白い世界に飽和された。










 白い、世界。
 飛鳥はその中を一人歩いていた。
 本当に、白い世界。
 一面が真っ白で、影も無いのに眩く照らされたように白い。
 地平線もないから遠近感覚が無く、立っている自覚もなかった。
 それは、果てしなく白い世界。
「……これ、が……『聖域』?」
 呟く飛鳥の声さえ、まったく届かないように。
 ぽつりと一人存在する飛鳥を出迎えるには、あまりにも、虚無。
「ゼロの、聖域……」
 こうして、何故自分は歩いているのだろう。
 いや、そもそも何処へ向かって歩いているのだろう。
 空白に埋めつくされ、感慨に耽ることも無いまま、飛鳥はただ歩いていた。
 そんな中、白いだけの視界に、自分以外の色が見える。
 小さな点でしかないそれに近づくと、それは形を情報として飛鳥に送る。
 ベッドだった。
 白いシーツとレースのカーテンに包まれた、油の行き届く重厚な木材で建つ、天蓋付きのベッド。
 そこには、一人の少女が眠っていた。
 簡素な白いワンピースを白すぎる身に纏い、まるで血が流れた痕のように、真紅の薔薇が散りばめられたシーツの上に、両手を組んで眠っている。
 まるで、死んでいるように、寝息も立てず。
 飛鳥は急ぐことを知らない足取りでそのままベッドの脇に辿り着く。
 静か、という次元はとうに過ぎていた。完全な無音の中、飛鳥は音を創る。
「……ぜ、ろ」
 そっと、無表情で眠り続ける少女の額にかかる前髪を払うように、撫でた。
 柔肌が生み出した確かな温もりと、体温が失せている残酷な冷たさ。
 頭を撫でた拍子に、少女の頭が力も無く、かくんとこちらに傾く。

 つぅ、と。
 傾いた少女の閉じられた瞼から、紅い一筋が流れた。

「ゼロっ……」
 飛鳥は、泣きそうな顔をした。
 ベッドに腰掛けて、羽毛のように軽い少女の体を起こして、抱きしめる。
「ゼロ……お前は言った。ゼロ≠ヘ終わりを意味してるんだと」
 強く、
 強く、
 抱きしめる。
「だけど……それは違うぞ、ゼロ」
 抱きしめたその感触が、飛鳥との絆を繋ぐ。
「何も無い(ゼロ)ということは、始まりでもあるんだ……これから、始めよう」
 紡ぐ。
 言葉を。
「生きろ」
 深遠に届かなくても、いい。
 永遠に届かなくても、いい。
「生きろ」
 ただ、信じているから。
 奇跡を、信じているから。
「生きろ」
 だから――生きろ!

「ゼロぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおお―――――――っっ!!」










 カッ! と。

 少女の瞳が開かれる。

 紅い。
 血や炎を連想させるには濁り無く、眼球や瞳と呼称するにはどこか違和感のある。そう、まさに水晶か宝石か硝子珠のように人間味の無い――真紅の双眸。

 そこに、何にも代え難い光を宿し、

 今、兵器は、一人の少女として、

 叫ぶ。

 一人の青年の名を。

 刹那、
 光のドームが収束し、そして――一瞬にして光の大爆発を起こした。

 天を焦がす光を放ち、

 魂の灯火のように燃え上がり、

 小さな願いを叶えたいと叫ぶように、

 やがて、
 瑞皇町郊外に残された廃工場郡は、跡形も無く消滅した。










 Ending     悲しむ貴女に花束を、哀しむ貴方に銃弾を





 いつもの通りに、カーテンの隙間から覗く曙光に眼を醒ます。
 たっぷり一分の間天井を見つめ、それからベッドから降りた。
 壁に掛けてある、着だした生徒も増え始める夏服に袖を通す。
 顔を洗い、歯を磨きながら、今日は手軽なトーストに決めた。
 うがいまで済ませた時に、計算されたようにパンが吐かれる。
 作り置きしておいたゆで卵と、メーカーから淹れたコーヒー。
 トーストにマーガリンとジャムを塗り、質素な朝食を食べる。
 一日が、始まった。
 変わらずいつも通りの、予定調和な毎日の一つ。
 テレビの電源を入れる。
 動物園にペンギンの赤ちゃんが生まれたとかいう話題が出ている。
 神代飛鳥は、朝食の間にはテレビはつけない主義である。
 朝の食事の瞬間に流れる、独りの為生まれる独特な喪失的沈黙が、今となっては儀式にも似た飛鳥の日課になっていた。
 こうして時たまつけることもあるが、天気予報や運勢占いだけ見てさっさと切ってしまう。
 ブラウン管に映る女性レポーターは、慣れたように流れる口調で続ける。
 続いて報道される、都心の窓ガラスが破り回されているという事件に変わったのを機に、飛鳥は電源を切った。
 今日も何一つ、日常の限りだ。


「うっし……ガス良し、戸締り良し、宿題もやった、えーっともうないな」
 玄関口に腰掛け、靴紐を結びながらこれもまた儀式化したように述べる。
 とん、と踵を地面に一度当て、飛鳥は立ち上がると玄関のノブに手を掛け、
「――、」
 思わず、振り向いてしまった。
 何の変哲もない、自分の家。玄関口。綺麗に掃除の行き届いた見慣れた景色。
 なのに、彼には言うべき言葉が無い。
「……」
 言われるべき言葉も無い。
 カタン、と扉が閉まり、数秒後に鍵の回る音が木霊した。





 学園での生活も、特に変わらない。
 相変わらず教室に入っても声を掛けられることもなく、次々と繰り返されてゆく五十分間の授業と十分間の小休憩。
 昼休み。
 何も変わらぬ日々の中で、飛鳥の昼食の場所が変わることは無い。
 今日は珍しくコンビニの弁当だ。生憎と昨日は弁当を拵える暇が無かった。
 料理を覚えるまでに食べていた数年ぶりのコンビニ弁当は、微妙な味だった。
 食事の前後に誰もが言う恒例は、飛鳥にはやっぱり在り得なかった。





 五時限目が終わった時だった。
「なぁ……」
 六時限目が体育である飛鳥は外への移動中、不意にその教室で立ち止まり、出入り口付近で話し込んでいた女子生徒に声を掛けた。
「はい?」
 声を掛けられた女子生徒が気軽な返事と共にこちらを振り返ったが、
「……、あっと……」
 咄嗟に頬を引き攣らせた。
 気持ちは分からないでもない。学園きっての問題児が集まる同好会に公的に認められている噂の生徒に突然声を掛けられたのだ。しかも隣りのクラスなのによりにもよって何故話しかけてくるのか、と。そんな表情だった。露骨に嫌そうな顔じゃなかったのは、きっと噂は充分に聞いているが、良心に駆られて愛想良くなってしまっているのだろう。言っておくがこちらには非は全く無い。
「何、かな……?」
「雪乃居ねぇ?」
「え?」
 女子生徒は思わず瞠目した。
「雪乃だよ、雪乃詠美。居る?」
 言うと、女子生徒は一瞬不思議そうに迷い、話していた友達に向いた。
「ねぇねぇちょっと」
 声を掛けられた相手に女子生徒が何を言おうとしているのかを、
 飛鳥は、もう確信していた。

「ユキノエイミなんて生徒……ウチのクラスに居たっけ?」





「セーンーパーイっ♪」
 放課後。
 思わず寝過ごしてしまった飛鳥を起こそうとする勇者は居ない。
 誰も居ない教室の時計は既に四時過ぎ、空は朱に染まりきっていた。
 相変わらず本科生校舎にズケズケとやってくる付属生。
 あちこちに跳ねてる栗毛をネコさんバッチで留めた可愛らしい女子生徒は、珍しく振り向かない飛鳥の傍らまで小走りで近寄り、顔を覗き込んだ。
「センパぁイ? おっ元っ気でっすかー?」
「お陰様でな」
「む〜……の割りには、お顔がポケーっとしてますよぉ?」
 ゆっくりとした足取りに、少し忙しなくくっ付いてくる百瀬菊璃。
 無言で廊下を歩く飛鳥に、何となく菊璃は無言で尾いてくる。
「……なぁ、百瀬」
 飛鳥は、階段が見え始めたところで口を開いた。
「はぁい?」
「……もし。もし、の話なんだけどさ」
 ゆっくりと、足取りに合わせて、ゆっくりと、紡ぐ。
「もし、自分と引き換えに相手を助ける道と、相手を引き換えに自分が助かる道があったら……お前なら、どっち取る?」
 こんなこと、日常に生きてる自分が同じく日常に生きてる彼女に言った所で、さしたる答えなど得られない。
 それでも、訊いてみたくなったのだ。
 今、こうして自分が日常に生きている。訊かずにはいられなかった。
「んーっと、ですねぇ……それってぇ、つまりはどっちか選んじゃったらぁ、どっちかは助からないってことでいいんですかぁ?」
 飛鳥の内心に気付かぬ菊璃は意に介した風もなく、口元に指を当て考える。
「そう……自分か、相手か。どちらか一方しか幸せに出来ないのなら、お前はどっちを……選べる?」
「んーっと、ですねぇ……それってぇ、どっちかしか選べないんですかぁ?」
 小さく、飛鳥は頷いた。

「そんなの、選ぶわけないじゃないですかぁ」

 カラカラと笑う少女の声に、飛鳥はやっと視線を向けた。
「……、選べない、じゃなくて?」
「はい。選べない、じゃなくて。選ばない、です。ていうかぁ、なんで勝手に選択肢を押し付けられなくちゃいけないんですかぁ? そんなのお互いが決めればいいでしょぉ? 第三者ってヤツですかぁ? そんなの無関係ですよぉ」
 意外な人物の意外な発言に、飛鳥は心なしか面食らった。
「もし、生き残って欲しいって思えたんならぁ、相手を選べばいいじゃないですかぁ、センパイったらムズかしく考えすぎですよぉ〜♪」
 たっと駆け出し、飛鳥の前で振り返った菊璃は、眩しい笑顔でウィンクした。
「それに、どっちかなんて決め付けちゃダメですよ。ヒトっていうのはぁ……目に視えない選択肢なんて一杯持ってるんです」
 もし、という仮定の話なのに、どこか確定めいた答えがそこに在った。

「そういうのを――『天命の徴(うんめい)』って言うんですよ、セーンパイっ♪」





 プルルルルルルル……、
 帰ってきてから二時間、既に夜は深まっている自宅に、電話が鳴る。
 受話器を取って耳に当て、
「はい、神し――」
『やっ―――――――ほーっおおおおおおおおおおおおおおおおおっっ!!』
「〜〜っ……とりあえずうるっせぇええええええええええええええっっ!!」
 どっちもどっちの咆哮が応酬された。夜の七時過ぎである。
「つーかっ、何で俺ん家の電話番号知ってんだよテメェ!」
『晴稟生徒会長、権・力・行・使(はあと)』
「商店街で遭ったら殴り倒してやるっ……!」
 受話器の向こうで、斎条伊月は『あっはっは♪』と笑っていやがる。
「……てか、何の用だよ」
『おんやまぁ敬語云々も無視かい、いやまーいいんだけどねぃ〜ひっく』
 酔っ払ったような口調に耳朶を叩かれ、飛鳥は指で眉間を揉む。
『用件は大したことじゃないんだけどなぁ〜んっとね……今日さぁ、教師陣にある生徒の住所録を訊いたらしいんでないかぃ。飛鳥っち』
「! ……おいおいそれも生徒会長権力か? 今から三時間前の話だぞそれ」
『うんにゃ、そっちは斎条財閥社長、権・力・行・使(はあと)』
「テメェそろそろ訴えようかぁ!? 俺勝つぞ! 勝てるぞ!」
『その前に揉み消しちゃうのが斎条財閥ぅ〜♪』
 汚っ! と飛鳥が叫んだところで、伊月は何か資料を捲るような音と共に続ける。何の資料か、当然訊くのは躊躇われる。
『だけどさぁ……誰? そのユキノって人。ウチの学園にそんなコ居ないよん』
「……、だろうな」
 飛鳥は少し、俯いた。
「……なぁ、斎条さぁ」
『そしてついには呼び捨て上等って感じですかぃ? まぁいいけど、なに?』
「……もし、もしの話なんだけどさ」
『晴稟学園最高の優等生に仮定の話持ちかけますか、いや続けて』
「最良の夢と最悪の現実、お前ならどっち取る?」
『菊璃っちん時と同じよなこと訊いてんね』
「今度は天賦研究同好会部長としての権力行使か」
『質問してるのはどっち?』
「悪い。で、どちらを取れる?」
『……菊璃っちとは違う答えを期待してるから、訊いたね?』
 ふと、伊月の声音が落ち着いた気がした。
「別に。なんなら一言一句丸々同じでも構わねぇよ」
『え、いや、さすがに斎条伊月があの口調はこっ恥ずかしいって……』
 でもね、と。
 笑ってやろうとした直前、伊月にそう遮られて意表を衝かれた。
『飛鳥っちがどちらを選ぶかで、答えるか答えないかが決まる、とだけ』
「どういう――」
『一応言っとくねぃ。「どちらを選ぶかは、どっちでもいいですけど。――』
 突然、口調が変わった。
 それはまるで、別の人間の言葉のように、
『――でもワタシは、彼女の言う天命の徴≠ネんて信じてませんけど」……それじゃね、神代飛鳥君』
「だから、どういうことだよっ!」
 上ずった声に、返事が来る。『ツー、ツー、ツー、』などとほざいていた。










 それから、神代飛鳥に天賦研究同好会からの接触は、ぱったり無くなった。
 百瀬菊璃は全然やってこなくなり、
 柊朔夜は擦れ違い様に小さく微笑むだけ、
 斎条伊月に至っては普段から学園で逢わないのに商店街でさえ遭わなくなり、
 いや、他の同好会メンバーも全員の顔は知らないが、徐々にその存在は霞み、

 いつしか神代飛鳥に、非日常はどこにも無くなっていた。










「―――――――ん、」
 飛鳥は、ゆっくりと眼を醒ます。
 時刻は朝六時きっかり。
 休日を問わず、馴染んだ躯はこの時間に起きてしまう。
 あの日≠ゥら、五日が経った土曜日。
 日常の世界に、飛鳥は眼を醒ます。
 朝食を作ろうと階下へ向かい、気付とばかりに牛乳を飲む。
 コップを置いて、飛鳥は壁に寄りかかって息を吐いた。
 そういえば、と。思い出す。
 あの日≠ノここで、突き飛ばされたんだっけな。
 飛鳥は壁をなぞり、リビングを出る。
 玄関口に辿り着き、眼を閉じた。
 そこでは、延々と繰り返されていた日常と非日常との狭間めいた一生を、唐突に鏖し、一瞬にして非日常に連れて行った世界だ。
 飛鳥は、そこで出遭い、触れ、拒絶を受け、それでも戦った。
 そして結果として、ここに戻ってきている。
 総てがあまりにも日常的な、神代飛鳥の見える世界。
「……そう、なのか?」
 あの日≠ニいうのは夢で、このいつもの玄関口が現実。
 飛鳥が見ていたあの日≠熹゙女も何もかも、嘘だったんじゃないか。
 ただ、悪夢を見せられていただけだったんじゃないか。
 疑念は次々と生まれ、飛鳥を縛り付ける。

 でも、
 それでも、

 飛鳥は、そっと、玄関口から二階へ続く階段の柵に触れる。
 ニスによって綺麗な光沢を持つその木の材質を指に感じ、
「ぜ、ろ……」
 いつだって、答えは同じだ。
 もしそれが一瞬の夢だったとしても、それで彼女を救えたのなら、それでもいい。

 そんなの、嘘だ。

 願った世界に、自分は居ない。
 もう、帰れない。
 あの見ていた世界が夢なのなら、飛鳥は見たくなどない。
 常温のまま殺されてゆく魂がここに在る。
 その世界には、彼女が居ない。
 あの世界には、自分が居ない。
 それで、彼女は救えたのか?
「俺は、たとえそれが夢でも……お前を救えたことが幸せだったんだぞ……っ」
 声が、震えた。
 閉じた瞼から、涙は止まってくれない。
 願ってしまったのだ。
 逢いたい。そう、願ってしまったのだ。
「ゼロ……!」
 こんなにも呼んでいるのに、
 もう、届かない。もう、逢えない。
 こんな日常と引き換えに、彼女ともう逢えない。
「ゼロ、ぉ……」
 淋しい、
 悔しい、
 哀しい、
 理由は今更のように溢れかえって、
「ゼロぉ……っ!」
 何度も、
 何度も、
 何度も、
 呼ぶ。
 今はもう、呼んではいけない名前を。
 異常。そんな堅苦しいモノなど無い、純粋な最後の非日常。
 飛鳥はただ一人、永遠に逢えない名前を紡ぎ、現実に涙を落とした。





 玄関の扉が、

 盛大に開く音が耳朶を劈(つんざ)いた。

 飛鳥は、泣き濡らした目を向ける。

 遅めの曙光が入り込んでくるせいで、一瞬手で覆い、

「アスカっ! 遅れてごめんねっ!」

 それは、夢だったはずの声。

 嘘だ。そう、飛鳥はとっさに思ってしまう。

 だって、あれはもう、終わったことなんだ。

 日常を願う青年の創り出した、妄想(ゆめ)だったんだ。

 なのに、

「大変だったんだよ、気がついたら日本の左側まで積荷あつかいでさ、」

 その夢は、現実のように息を切らして談笑なんかしてる。

「何とか振り切ったんだけど……ごめんなんか、また泥だらけ」

 光に慣れた瞼を開く。

 白い世界に現れた、白い髪の少女。

 何故かまた汚らしい布を着て、確かに泥まみれの少女がそこに居る。

 それは、確かに―――――――在った。

「――?」
 寝ぼけ眼の少女は不思議そうに小首を傾げる。
「アスカ、どうしたのかな?」
 青年は、はっ、と笑って返してやった。
 絆。
 何よりも忌み憎んでいた繋ぐモノ。
 初めて望み、
 初めて、手に入れて、
「ゼロ……」
 それでも、思ってしまった。
 嬉しい、と。
「おかえり……」
 だから、言えたのだ。
 家族に捧げる、神代飛鳥の優しい優しい非日常(ことば)。
「おかえり……ゼロっ」
 涙に濡れても、笑顔でそれが言えた青年に、一抹程度の小さな幸せが訪れる。
 うん、と。
 そう答える、感情が無いはずの少女の表情(かお)は、

 どこか、微笑っている気がした。





「―――――――、ただいま」





 FIN

2006/10/29(Sun)06:34:40 公開 / 祠堂 崇
■この作品の著作権は祠堂 崇さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
祠堂です。ゼロ域、これにて完です。

もし良ければ続き書きたいな、とか思うのですが、遠慮なく殴っていただいても構いません。新しいのとか普通に考えてますし(←さらりと爆弾発言)。

度重なりますが、最後まで読んでいただいて、有り難う御座いました。
言葉少なですが、これにて失礼致します。
それでは。
この作品に対する感想 - 昇順
感想記事の投稿は現在ありません。
名前 E-Mail 文章感想 簡易感想
簡易感想をラジオボタンで選択した場合、コメント欄の本文は無視され、選んだ定型文(0pt)が投稿されます。

この作品の投稿者 及び 運営スタッフ用編集口
スタッフ用:
投稿者用: 編集 削除