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『鉄馬〈改〉で天を翔けゆく夢を 』 作者:碧 / 異世界 ファンタジー
全角8930.5文字
容量17861 bytes
原稿用紙約25.9枚
1.黄曜日の蛇峠


 緑の国の蛇峠。緑の国の首都を見下ろす蛇山は、そう高い山ではない。この国のほとんどは平野部である。黒の国との国境には高い山々がそびえ、赤の国とは砂漠で隔てられている。
 蛇山の蛇峠は、その名の通り長く曲がりくねった道が、頂上の展望台まで延々と続く。

 自慢の鉄馬にもたれ、道の端でけだるそうに煙草をくわえてた鉄馬乗りの一人が、驚いたようにふと顔を上た。
 男の視線の先に、次々に駆け抜けていく鉄馬の群れの中、翡翠色の光が一筋浮かび上がった。
 風を引きちぎるように他を追い越し、轟音だけを残して、彼らの目の前を駆け去っていった一頭の鉄馬。
「あんなモンどこで手に入れやがったんだ」
「赤の国の最新式鉄馬? いくら金があっても買えねぇシロモノだろ」
 男たちは驚いて顔を見合わせた。

 砂漠を隔てた南にある赤の国で、何百年も前に発明されたという鉄馬は、発明当初、完全に馬の形を模して作られていたという。鉄製の体に、機械じかけの心臓を持ち、やはり鉄でできた四本の足で駆ける。砂漠に無尽蔵に湧き出ると信じられていた「黒の泉」の燃える水を飲ませ、その心臓に火を入れて走らせたのが、現在の鉄馬の前身である。
 今に至っては、跨って駆る以外、構造的に馬の原型はほとんど留めていない。その外見は、空気抵抗を少なくし、より速度を上げるために考え出された形状へと、常に進化し続けている。四本あった足も、現在は前後2本のみ。
 人々の予測に反して、「黒の泉」がほとんど枯渇してしまった数十年前からは、太陽や大地の力を得て走るものが主流になっていた。しかし、懐古趣味な鉄馬乗りの中には、旧馬と呼ばれる「黒の泉」が健在であった時代の鉄馬を、愛してやまないものも少なくない。

 緑の国の女王の一人娘、時には姫とも呼ばれるユウリは、16歳と1ヶ月の少女の体全部、自分の魂全部を、先月、思いがけず赤の国から贈られた16歳の誕生祝の品、「ヒスイ」に預け、その凄まじいまでの性能を、余すところなく体感していた。
 軽さと加速感。彼女は繊細な気遣いによって鉄馬を操ることよりも、ただ闇雲に駆けさせ、暴れるがままにさせるこをを好んだ。 
(なんだ……?)
 突然、ユウリは自分の背後に何者かが迫ってくるのを感じた。振り向くと、いつの間にやら黒い鉄馬が迫っていた。白色の光を放つ二つの瞳が、怖ろしい勢いで、ヒスイを追い抜かんと狙っている。
 ユウリの胸は高鳴った。ヒスイに容赦なく鞭を入れ、さらに速度を増す。すると、黒い鉄馬は次第に後方へ小さくなる……はずだった。しかし、それはヒスイのもつ加速の性能に頼ればの話であって、ユウリの予想に反し、黒馬はその乗り手の意志のままに、曲がりくねった道に差し掛かろうとも、乗り手の呼吸にぴたりと合わせたまま、全く速度を落とさない。曲がり道を一つ超える度に、確実に彼女との距離を縮めてくる。
 直線ではユウリが黒い馬を引き離し、曲がり道では、ヒスイの背後に黒馬が迫る。
 激しい攻防を続けながら、並ぶようにして頂上の展望台広場に入ると、彼らは互いににらみ合いながら停止した。
 ユウリは相手を見た。黒い鉄馬の主は、、黒い『竜のよろい』の衣に身を包んだ、意外にも小柄な少年であった。
(若いな。私と同じくらいか? )
 彼の衣のボタンが白く光っている。
(あれは、雫石…… )
 ユウリは雫石の輝きに思わず目を奪われた。

 その時、広場でのんびり歓談していた鉄馬乗りたちが急に殺気立ち、皆一斉に愛馬に飛び乗ると、轟くような音をさせて一斉に走り出した。

「玉虫隊だっ! 」
 誰かが叫んだ。
 七色に光る国家警察の鉄馬の一隊が、峠を駆け上がってくる。彼らは二人一組で一頭の鉄馬に乗り、違法に走り回る鉄馬乗りたちを、片っ端から捕らえることでで有名である。
 信じられないことに、一頭の鉄馬に跨る二人のうち、武術に長けたものが違法に走る鉄馬に飛び移り、鉄馬の主を押さえつけて拘束するのである。
 峠に真夜中集い、暴走する鉄馬乗りたちを取り締まるために組織された「玉虫隊」。違法改造鉄馬乗りたちも恐れる、国家警察の鉄馬隊の中でもえりすぐりの一隊である。
 ユウリと黒い鉄馬の主も、急いでその場を立ち去らねばならなかった。彼らに捕まれば、国家認定の占い師の前に立たされ、名前も年齢も住所も身分も、偽ることは不可能である。いくら沈黙を貫こうと、心を見抜く占い師の力によって、たちどころに知られてしまう。
「また女王陛下の説教くらっちまう! 」
ユウリは眉間に皺を寄せた怖ろしい母の形相を思い浮かべて背筋を寒くした。

「こら、ユウリ! この俺から逃げられるとでも思ってるのか!? 」
聞き覚えのある声と同時に、ヒスイを駆るユウリの背後に屈強な体格の大男が飛んで来た。
「オ、オヤジ!? 」
「せっかく警察の仕事にありついたってのに、娘がこれじゃ、またクビじゃねぇか」

 何百年も昔、100年も続いた三国戦争の後、緑の国の王家は没落の一途を辿った。現在では万民は平等であるという法律が制定され、王家であろうとも、何らかの収入を得なければ生活できない。しかし、王家は王家であることには変わりなく、その素性を聞けば、皆が恐れおののく。従って、身分を偽らなければ、定職に就くことは難しかった。
「警察相手に身分隠せたのか? 」
驚く娘に、父は余裕の笑顔を見せた。
「ははは、当たり前だろ、バレてねぇよ。そのまんまじゃ雇ってもらえねぇからな。知り合いの強力な呪術師に細工してもらったってわけさ。国家認定程度の占い師なら間違いなく騙せる。しかしお前が捕まっちまったらアレだな」
「だったら、見逃してくれよ」
ユウリは父を恨んだ。
「バカヤロウ、この俺の娘なら、捕まらないようにキッチリ逃げろってんだよ。それに他の奴に捕まった日にゃ、余計後が面倒だろうが」
そう言うと、彼は娘を抱き締めながら、筋骨逞しいその体を震わせて笑った。
「ま、俺もこの仕事にそろそろ飽きてきたしな」
「気持ち悪い! 離れろオヤジ! 」
 ユウリがもがいていると、玉虫色に輝く鉄馬が近づいてきた。
「師匠、次は? 」
 姿勢の良い、長身の青年が降り立つ。
「おお、ミュウゴ、仕事は終わりだ。多分、今日限り俺たちは解雇だからな」
「なんでミュウゴまで一緒に働いてるわけ? 国家警察って異国の人は雇わないんじゃなかった? 」
 ユウリの疑問に、父はいちいち答えるのは面倒だと言いたげな顔をした。
「ああ、だから強力な呪術士に頼んで、二人まとめて細工してもらったってわけ」
 ミュウゴは、感情をあまり表さない静かな黒い瞳で、ユウリを見つめた。
 ユウリは、ふてくされたような顔でミュウゴの視線から目を逸らした。
 彼女はこの青年を、女王陛下の次に苦手としていた。
 ユウリの父は、18歳のときに伝説の火を吐くドラゴンを倒して国家に認定された勇者である。黒の国からやってきたミュウゴは、その名に憧れてユウリの父に弟子入りした。ユウリはそう説明されたのを覚えている。
 それ以来、彼とは王家の宮殿で同じ釜の飯を食う仲であるが、一緒に暮らしてはいるものの、兄妹のような仲ではない。ユウリにとって、彼はどこか謎めいていて、いつまで経ってもとっつきにくい存在であった。

 ユウリは父と連れ立って、違法鉄馬乗りたちの身分を鑑定している占い師の元に行かねばならなかった。ミュウゴは父娘の三歩ほど後ろを下がって歩く。
 ああ、この男のこういうところが嫌なんだと、ユウリは思う。
 白い布が張り巡らされた、簡易式のテントの中に入ると、一網打尽にされたむさくるしい鉄馬乗りたちでごったがえしていた。ユウリはその中に、あの黒い鉄馬の主の姿を見つけた。顔をよく覚えていたわけではないが、その衣の白く輝く雫石のきらめきで、すぐに彼であることが分かった。
 彼もまた、玉虫隊からは逃げ切れなかったらしい。占い師の前に立ち、おとなしく頭を垂れている。先ほどの勇ましい走りからは想像もつかないような、小柄で気弱そうな、優しい顔立ちの少年である。年はユウリとそう変わらない15、6歳ほどといったところか。なんとなく育ちのようさそうな品の良い風貌である。それは、彼の衣にちりばめられた白く輝く高価な雫石以外からも、間違いなく感じ取られるようなものだった。
「困りましたね……」
 国家認定占い師が、顔をしかめている。
「その呪術、解いてもらわないと、見えないんですよ。さ、悪あがきはよしてください。じゃないと、公務執行妨害の罪に問われて、家に帰ることができなくなりますよ」
「かまいません」
 蚊の泣くような声であったが、少年は俯いたままそう言った。なにやら呪文を唱え続けている。
「あいつ、なかなかやるな」
 ユウリの父が唸った。
「さすがに騙すところまではできないらしいが、あの若さで国家認定占い師相手に何も読ませないとはな。なかなかの集中力……んーっ!? 」
 ユウリの父は何かに驚いたように目を丸くした。そして、丸太のように太く逞しい腕を組んで、しばし考え込んだかと思うと、ニンマリしながらユウリを物のようにむんずと掴み、困り果てた顔をしている占い師の前に、彼女を突き出した。
「お取り込み中失礼。こいつ先に見てもらえますかい? 」
 占い師は、言われるがままに、何のことやら分からぬ顔のユウリに手をかざし、驚いて目を見開いた。
「こ、この方は、姫君では? そして、あなたは……! 」
 ユウリの父は慌てて占い師の背後に回ると、その口を大きな手のひらでふさいであたりを見回した。怯えた顔の占い師に、彼は絶対に嫌とは言わせないような怖ろしい顔を近づけた。
「越権行為であることを承知でお願いしたいのだが、この少年、私の顔に免じて見逃してやってもらえないだろうか? 」
 驚いたのは呪文を唱えていた少年の方であった。彼は慌てたように言った。
「あの、それは困ります。どこのどなたかは存じませんが、助けて頂く理由がありません」
 ユウリの父は、もがきながら頷いている占い師を解放すると、今度は少年の耳元に小声でささやいた。
「俺がお前の爺さんの知り合いでもか? セシル君 」
「……おじいさまの! 」
 セシル少年は見ていて可哀想なほど、憔悴しきった表情になった。

 警察から罪を問われずに解放されたユウリとセシルは、鉄馬を停めてある場所へ向かう間、黙って一緒に歩いた。少年は、特別身長が高いほうでもないユウリよりも、少しばかり背が低い。
 セシルは雫石のボタンのついた胸のポケットから煙草を取り出すと、黙ってユウリに一本すすめた。ユウリが同じく無言で受け取ると、彼女が今まで見たこともないような優雅な手つきで、彼は火を差し出した。
 二人で黙って、紫色の煙を吐き出しながら歩いた。少年は、何も話そうとしなかった。
 沈黙に耐えられなくなったユウリが先に口を開いた。
「そういえば、オヤジが言ってたけど、あんた、ええと、セシル君って、なかなかの呪術士なんだって? 」
「呪術士の卵かも、かな」
セシルは、自信なさそうにつぶやいた。
「へぇ。やるね。呪術って勉強がものすごく大変なんでしょ? 」
ユウリは目を輝かせてセシルの顔を覗き込んだが、
「うん……」
彼は小さく頷くと、また黙り込んでしまった。会話はそこで途切れた。
 これが、ユウリとセシルが初めて出会ってたときに、初めて交わした会話であった。

 後日、酒の入ったグラスを片手に寛いでいた父に、ユウリは尋ねずにはいられなかった。セシルを見逃したのは何故か、と。
「呪術をかけてもらった、お礼だよ。セシルの爺さんへのさ」
 呪術で身分や履歴を偽ることは罪である。それは、ユウリでも知っている。国で最強の呪術者が、いくら国家認定勇者の頼みとはいえ、犯罪になるようなことをするだろうか?ユウリは首をかしげた。
「……とういうのは建前で、本当の目的は先行投資って奴さ。あの少年、今に爺さん以上の呪術士になるかもしれないだろ? 恩売って得を取れ、って言うじゃないか」
そう言うとユウリの父、かつて火を吐くドラゴンを倒した勇者は、グラスになみなみと注いだお気に入りの酒、「竜の雫」をぐいっと飲み干して、腹の底から可笑しいというように、笑った。
(オヤジ、それを言うなら、『損して得を取れ』じゃないか?)
ユウリはそう思ったが、父には言わなかった。


2.金曜日の蛇峠

「1965.4.17 1982.11.26」

 円盤状に磨かれたコインほどの大きさの黒水晶。それは凝った形に細工された金の鎖に繋がれている。お守りのようにいつも彼の首にかけられ、誰にも気づかれずに、衣の中で変わりなく輝いている。
 その表面には、二つの日付が刻まれていた。黒の国を出る際に、腕のいい宝石職人に頼んで作らせたものである。注文を受けた職人は、異世界の見慣れない文字に首をかしげたが、彼の希望通りに彫り上げてくれた。しかし、もう一つの注文、「三井有吾」という文字は、勘弁してくれと断られてしまった。それが今でも少し残念である。
 ミュウゴは時々、黒水晶の表面の日付を眺める。そこに刻まれているのは、彼の二つの誕生日。時々そうして眺めてやらなければ、そう遠くない将来、自分の誕生日も、三井有吾という名前も、かつていた世界も、何もかも忘れてしまうような気がしていた。
 そんなことは、今更構わないはずだった。元の世界の三井有吾は、峠で事故を起こし、既に肉体は滅びている。もう、戻れる場所は無い。
 それでも、自分だけは自分の過去を、覚えておいてやりたかった。
 この世界にやってきてから、ここの時間で六年の月日が流れていた。高専の生徒で十七歳だった三井有吾は今、緑の国の国立高等専門学校の、剣術武術科の講師である。異世界の人間であった過去の記憶を心の奥に隠し、この世界で、二十三歳のミュウゴとして生きている。

(真琴、元気か……? )

 ミュウゴは、三井有吾だった頃に、自分を心を照らすようだと感じた、真琴の明るい笑顔を思い浮かべた。彼女もまた、彼がいた世界では二十三歳になっているはずだ。好きな人はできただろうか。アイツのことだから、自分を責めて、泣いてばかりいたんじゃないだろうか。それでも、もう、三井有吾を思い出して、泣くこともなくなっているかもしれない。泣いていて欲しくはないが、自分のことをすっかり忘れて誰かに笑いかけている真琴の姿を思い浮かべると、心の奥底を何かで引っかかれているような、かすかな痛みを感じた。

  金曜日の夜は、蛇峠に集まることになっていた。蛇峠というのは、本当の名称ではなく、誰かが勝手に言い出したに過ぎなかったが、その名の通り、曲がりくねった道が、頂上の展望台の広場まで続いていた。
 中学校を卒業して、それぞれ別の高校に進学した仲間が、各々の愛車に乗って集まる。ほとんどは原付を違法改造したものだった。
 有吾が以前に乗っていたのは、機械科の先輩たちがそのまた先輩に譲り受け、勝手に手を入れては乗り継がれているものだった。エンジンも載せ替えられて、元は何だったのか全く分からなくなっていたが、それはそれで、よく走った。
 彼には、そこに集う少年たちが、羨望の眼差しで眺めるような、自分の愛車があった。一年前、真琴の兄から譲り受けた、水冷二気筒エンジンを積んだ単車である。
 周囲の嫉妬と羨望の眼差しをかわすように、ひらりひらりと、峠を機嫌よく走る。
 彼は、蛇峠の蛇が棲むという、何人もの若者の命を飲み込んだカーブに差し掛かるまで、全身を単車に預けきる感覚を楽しんでいた。自分の中に渦巻く黒い感情が、風に吹き飛ばされていくような、何物にも変えがたい心地よさに身を任せながら。
 
「まだあのちっちゃい彼女と付き合ってるの? 」
 茶色く染めた長い髪を揺らしながら、誘うような言葉を投げかけてくる少女たちに、有吾は冷たい微笑を向けることさえしなかった。造花のように鮮やかな濃い色の口紅。そんなものには吐き気を感じるといった素振りで、彼女たちの前を通り過ぎる。そのすらりと背の高い彼の後ろ姿に、少女たちは見惚れた。
 誰かの彼女の友達や、その先輩から紹介されなくても、峠に集う少女たちは皆、有吾のことを知っていた。名前も、年齢も、通っている学校も、中学校時代の噂も、彼のことなら、彼女たちは皆、興味を持たずにはいられなかった。彼がさらさらと音を立てそうな、黒い前髪をかきあげるたび、盗見ていた少女たちから、ため息が漏れる。涼しげな目元がいいとか、横顔の耳からあごにかけての曲線が美しいとか、冷たい雰囲気をさらに強調するような、にきびやほくろ一つない、滑らかな肌が羨ましいとか、その他全部が良いとか、少女たちは飽きもせずにそんな話で盛り上がった。
 中学時代の彼は、屋上で友人たちと戯れに煙草をふかしたり、授業を抜け出したりもしたが、どちらかというと、見た目は真面目そうで、勉強では学年でも一、二を争う優等生であった。そこがまた、彼に恋する少女たちには魅力であった。
 自分が望んだわけでもないのに、少女たちの心を片っ端から虜にする彼にも、まだ見ぬ世界への好奇心は当然あった。何人かの少女の、軽い誘いに応えたこともあった。しかし、そこで彼が見た世界は、想像していた通りでもあり、また全然違うものでもあった。
 少女たちは、彼が与えるものだけでは満足しなかった。あれも欲しい、これも欲しい。優しくしろだの、思いやりがないだの。自分からは何も与えようとはしないくせに、散々求めておきながら、ある日突然、がっかりしたように彼を突き放す。
 相手もまた、有吾に突き放されるのが怖かっただけなのかもしれない。今の彼、三井有吾ではなく、ミュウゴなら、そう思うこともできる。しかし、当時の彼には、占い師のように相手の心を読み解く力はなかった。
 そんなことを何度か繰り返した後、少女たちが自分に向けてくる熱い視線に、彼は何の意味も感じなくなっていた。
 彼が普通高校ではなく、女子の絶対数が少ない工業高等専門学校への進学を決めたのは、単車での通学が許されていたという以外に理由を挙げるなら、女子生徒たちからもてはやされることに嫌気がさしていたからでもあった。

 先輩たちに借りて乗る原付ではすぐに物足りなくなり、単車を手に入れたくて、彼は菓子工場でアルバイトを始めた。
 そこで有吾は初めて、受身になる辛さではなく 恋焦がれる辛さを感じる相手に出会った。それが、真琴だった。
 真琴は、ころころとよく笑う女の子だった。小学生のように小柄で、可愛らしい感じだった。彼女は、誰に対してもいつも同じ笑顔を向けて、人を試したり、疑うようなところが全くなかった。
 「バイク好きなの? 」
 彼女がアルバイト先の駐輪場で話しかけてきたとき、有吾はぶっきらぼうに、ああ、だとか、うん、だとか、そんな返事をしたような記憶がある。女の子に興味を持たれることは、面倒でしかなかった。
 それに、その時、彼は自分の自転車の隣に停めてある、側車つきの大型外車に目を奪われていたのだった。
「それ、お父さんのだよ。でも、お兄ちゃんは買っても、全然乗らないんだ。すぐに車の免許取ってさ。もったいないよねぇ 」
 一人でしゃべり続けている真琴に、有吾は素っ気無く言った。
「兄ちゃんの代わりに乗ってやれば? 」
 「私が? 全然足、つかないよ? 一回やってみたけど、無理だったもん。」
 そう言われて初めて、有吾は彼女の方を向いて、頭の先からつま先まで、真琴をじろじろと眺めたのだった。
 彼の目の前にいたのは、本当に小柄で、足がつかないというのも頷けるような、まるで小学生のような女の子だった。
「おまえって、何歳? 」
 有吾は真面目に尋ねたつもりだったが、真琴は思いっきり噴出した。
「16歳。戸谷真琴っていう名前なの。桜ヶ丘高校の二年生。そういうアナタのお名前は? 」
「三井、有吾。高専の一年。」

 戸谷真琴が、アルバイト先のトタニ製菓の社長の娘だということは、後で知った。お兄ちゃんというのは、
彼がアルバイトをしている現場の監督兼、専務だった。真琴の兄は、真面目な働きぶりの有吾を日頃から高く評価していた。
 それ故にかどうかは分からなかったが、ほとんど乗っていない「RZ250」を、格安で彼に譲ってくれた。
 「せっかく買ったんだけど、なかなか乗れなくて。乗ってくれるなら、ありがたいよ」
 真琴の兄は、おっとりとした人柄で、のんびりとそう言った。
 「若者よ、気を付けて乗れよ! 」
 職人気質の社長は、そう言って笑った。
 「良かったね」
 真琴も笑顔でそう言った。
「でも、安全運転するって約束してよ? 」
 彼女は、何度も何度も、有吾に念を押した。三井君、という呼び方が、有吾君に代わり、ユウゴ、となって、
最後には、彼女だけがそう呼ぶことを喜ぶように、ミュウゴ、と甘えた声で彼を呼ぶようになっても。

――ごめんな、真琴。すみません、専務、社長。俺が悪いんです。

 急なカーブでアクセルを開け過ぎたと感じ、慌ててブレーキを掛けても、間に合わなかった。いや、それ自体がよくなかった。
 次の瞬間、彼の体は、加速することも止まることもできず、悲鳴を上げるようにして制御不能となった単車と共に、蛇峠の蛇が棲むという、切り立った壁面に叩きつけられていた。
 自分の魂が、自分の肉体から切り離されて行くのを感じながら、彼は、真琴のことを考えていた。真琴が泣く。いつも笑っている真琴が泣く。今までにも何度か泣かせたことがあったが、今度はもう、笑顔に戻してやることはできない。
 
 「死ぬ」
 三井有吾は覚悟した。二度と目覚めることの無い場所が、彼を待っているはずだった。
 しかし、彼を待ち受けていたのは、三井有吾の死であることには間違いなかったが、それは彼が想像していた世界ではなかった。
2006/10/17(Tue)22:00:30 公開 /
■この作品の著作権は碧さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
頂いた感想を参考に、最初から全部書き直しています。
なかなか納得がいかず、冒頭部分のみしか書けていません。
これを書きたくて、日々格闘しているのですが、行き詰るたびに別のものを書いてしまいます。ファンタジーって想像するのは面白いのに、書くとなると、説明ばかりになってしまって難しいですね。

10.17  2.金曜日の蛇峠
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