- 『真珠奇譚【マリキタン】』 作者:碧 / リアル・現代 未分類
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原稿用紙約18.6枚
高田和人19歳。二浪中の予備校生。頭にできたタンコブと、下心を抱えて病院に行く。目当ては美人の女医さん。しかし彼女は内科医だった。 訳も分からぬまま、男の身で妊娠、出産し、報われない子育てに翻弄される彼の運命は。そして生まれた我が子に、彼は――。
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「妊娠ですね」
「えーと、あの……」
高田和人は、女医の冷静な言葉にうろたえた。
彼の頭にできた大きなタンコブを診て、真顔で妊娠だと言う。
数日前、頭をひどく打った。その時はあまり痛みを感じなかったのだが、頭にできたタンコブの痛みは、次第に我慢できないものになっていった。ずっと痛みが続くわけではない。痛みと痛みには間がある。激しく痛みを感じた後は、嘘のように痛みを感じなくなる。その間隔が、徐々に短くなり、短くなるにつれて、痛みは増した。
最初は小さかったタンコブも、まるで成長しているかのように毎日少しづつ大きくなった。今ではその大きさが夏みかんほどになっている。
頭が重い。タンコブは左の側頭部にある。なんとなく体が左に傾いたままになるのを、意識的に体を右に傾けてバランスをとらなければならないほどである。そのせいか、肩こりがひどい。背中、腰にも痛みを感じるようになっていた。
そこで、近所の内科を受診することにした。何故内科なのかというと、女医が美人だからである。ちょっとセキをしても、食べ過ぎて胃がムカムカしても、彼はここへ通った。その美しい顔を拝むだけで、なんだか幸せな気持ちになるからであり、そしてあわよくばという不順な動機が、彼をそうさせるのであった。
彼は激しい頭痛にも負けず、妄想した。彼女がその美しい顔を、何しに来たんだと言わんばかりに嫌そうにしかめたとしても、大きなタンコブを「なでなで」ぐらいはしてくれるのではないか……と。しかし、診察の結果は、彼の予想とは大きく違っていたのであった。
「先生、順調ですか? 」
高田和人は、話を合わせることにした。それが無難であろう。先生はきっと、ひどく腹を立ててブラックなジョークを言っておられるのだ。頭を打撲して内科を受診するなんて、ストーカー行為以外の何ものでもない。叱責されずに済んだだけでも、先生の心の広さに感謝すべきだろう。そう判断したからである。
「ええ、とっても」
見目麗しき女医は、高田の目をまっすぐ見つめて微笑した。美しい人の笑顔の、さらに美しいことといったら、ない。高田は頭痛をも忘れて、うっとりとその顔を眺めた。
「ただ、赤ちゃんは順調に育っていますが、場所が場所なので自然分娩は難しいかと。今すぐにでも、手術で出産した方がいいと思います。」
高橋和人は、再びうろたえた。ここはどう答えるべきだろうか。意味なく周囲を見回すが、助けてくれそうな人は誰もいない。
女医は、高橋の顔をまっすぐ見つめながら言った。
「自然分娩にこだわりますか? 」
「いえ………特には」
「では、今から手術します。一度家に帰って、入院の用意をして戻ってきてください。自宅の方には、こちらから連絡を入れさせていただきます。初産で緊張するのは分かりますが、気楽に構えてくださいね」
「あ、ありがとうございました」
高田は何のことやら分からないまま、礼を言った。
玄関を開けると、母親が仁王立ちで待ち構えていた。昔、近所のスーパーで万引きして、家に帰ったときと同じ状況である。
「カズちゃん! ママ、びっくりしちゃったじゃないの! 一体誰の子なの! 」
自宅に電話で連絡を入れると言ったのは、脅しではなかったらしい。
(冗談をここまで徹底的にやるとは。先生美人だけど結構怖いなぁ……)高田和人は冷や汗を流した。
「誰って言われても……」
「分からない? 二浪中の予備校生の分際で、どこまで無責任なの!」
「無責任って言われても……」
「もう臨月なんでしょ。ママに一言相談してくれてもよかったのに」
母は涙声になっていた。そして、ハンカチで目頭を押さえながら、足元に置いてあった大きな鞄を息子に渡した。
「入院の用意しておいたから。頑張るのよ」
鞄に何が入っているのかは分からないが、持って歩くのもやっとの重さである。
高田和人は再び病院に戻った。とにかく先生に謝ろう。謝れば、許してもらえるかもしれない。万引きしたときでさえそうだった。何度も何度も泣きながら謝ったら、最後には許してもらえた。だから、謝るしかない。
目覚めると、高田和人はベッドの上だった。
(ここは………?)
あたりを見回す。個室のようである。隣にしつらえられた台の上に、昔金魚を飼っていた時に使っていた、大きな水槽が見える。鞄の中身はこれだったのか?
水のない水槽に、マリモのような、ふさふさした緑色の球体が浮かんでいる。メロンほどの大きさをしたそれは、意志を持っているかのように、水槽のなかをゆっくり動き続けていた。
頭が痛い。タンコブがあったところに手をやると、そこにタンコブはなく、大き目のガーゼが当てられて、ネットで固定されていた。
軽いノックの後、ドアが開いて、女医が入ってきた。
「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」
先生は水槽の中のマリモをそっと手に取ると、その物体に優しく微笑みかけ、ベッドの上の彼に手渡した。戸惑いながら受け取ると、マリモは突然、奇妙な音をたて始めた。動物か何かのうなり声のようである。彼はぎょっとして、マリモを投げ出しそうになった。
「ママのおっぱいが欲しいのよ」
「おっぱい? 」
「要するに、血液よ。母乳は血液から作られるけど、あなたは男性だから」
「えっ? 」
「大丈夫。出産後はちゃんと余分に血液を作って、それを赤ちゃんにあげるから、体には影響ないの」
マリモは、何かを探すように彼の体を探り始めた。そして、この物体の本能がそうさせているのか、彼の鼻の頭に吸い付くと、そこから血を吸い取り始めた。
痛くはないが、今までに味わったことのない感触である。
マリモはふさふさして、肌にくすぐったく、人と同じくらいの体温を持っていた。
「泣いたら好きなだけ飲ませてあげてね。もし、母乳用の血が足りなかったら、輸血用の血液を回すから。その時は遠慮なく言って下さい」
女医はそう言うと、呆然としている彼を病室に残し、颯爽と去っていった。
これは、どこまでジョークなのだろうか?
得体の知れない物体と、現実から切り取られたような空間の中で、高田和人は途方に暮れた。
マリモは和人の鼻の頭から血液を吸い、満足するとふわふわと浮く。浮いたままにしておくと、壁や天井にぶつかって泣くような音を出す。危ないので、水槽に戻す。そうすると、ゆらゆら揺れながら、眠りにつく。その姿を眺めていると、彼はなんだか穏やかな気持ちになった。この緑色をした物体が、この世で一番愛らしいもののように見えた。
病室ですごす時間は、単調そのものだった。何日も何日も、高田和人は、マリモに鼻先から血を与え、子守唄を歌って眠りにつかせ、泣き止まないと根気良く抱き続けてあやしてやった。それだけで一日が過ぎていく。
病室には、一日に3回、7時、12時、6時と、同じ時間に食事が運ばれる。一日一回、10時に先生の往診がある。そして、9時半消灯。
何日経っても、家族も誰も、見舞いには訪れなかった。電話はあるが、外部とはつながらない。
窓の外には見慣れた町が広がっている。しかし、自分のいる部屋が病院のどのあたりなのかを考えようとしても、全く分からなかった。眼下に見下ろす町は随分下の方にあるようだ。病室は何十階もあるビルの一室なのかもしれない。そうだとすると、ここは何階なのだろうか。
いつ退院できるのだろうかと思いながらも、彼はそのことについて、自分からは尋ねようとはしなかった。頭のガーゼはとっくに外され、手術の際にそり落とされたらしい頭髪も、いつしか生え揃った。
退院すれば、このマリモを家に連れて帰り、自分一人で育てなければならなくなる。自分が出産したわが子、わが娘であるのだから当然である。この人の形とは明らかにかけ離れた、物体じみた赤ん坊と、その親である自分は、周囲からどんな目で見られるだろうか。母は、やはり怒り出すに違いない。
謝っても、今度は許してもらえないかもしれない。
誰の子かも分からない上に、頭部で妊娠し、男が出産し、血を飲んで成長する赤ん坊である。人々の好奇の目にさらされて生きていかねばならないだろう。その恐怖に、彼は一人怯えた。そんな世界に戻るのは怖かった。
彼はマリモに名前をつけた。真珠と書いて、「まり」真珠のように美しく、健やかに育つようにという心を込めて。
「お前は、高田真珠だぞ。真珠と書いて、まり」
和人は、言葉を発しないマリモに話しかけた。
「俺は、お前のママで、パパだぞ」
真珠はやはり何も反応しなかった。真珠の体は完全に球体であり、ふさふさの緑色の体毛に覆われていて、相変わらず、どこが目で、どこが口だかも分からない。
最近は、離乳食もすこしづつ口にしている。離乳食は高田和人の肉である。ある日、いつものように母乳代わりの血液を吸っていた真珠は、その鼻先を、ガブリと齧り落としたのであった。
和人の鼻先は、その後ほどなくして再生した。女医によると、彼の体は、真珠に血液を吸われることによって体質が変わり、真珠に食われた部分は、組織を失っても痛みもなく、すぐに再生するのだそうだ。
真珠の食欲は日増しに旺盛になっていった。彼は、ほとんど骨だけにされてしまうこともあった。それでも、自分の肉を食らい、内臓を引きちぎって大きくなっていく真珠を、彼は心から愛しく感じた。
「一杯食べて、大きくなるんだぞ、真珠」
今や真珠は部屋一杯の大きさまでに成長していた。
高田和人は、ただ、真珠の成長を望んだ。自分はどうなってもいい。真珠さえ幸せになってくれたら、それでいい。
一方真珠の方はというと、いつまで経っても感情を外に表すこともなく、言葉を発することもなく、球体を大きくしていくだけであった。
ある日、何の前触れもなく、突然真珠は変化した。何も食べなくなった。緑色の体毛はみるみる縮れて茶色く変色した。そして、次第に小さくなっていった。部屋一杯まで成長した真珠が、スイカほどの大きさまで縮んで固くなった。
高田和人は、必死の形相で女医に詰め寄った。
「真珠は、真珠はどうなってしまうんですか!? 」
入院してから、地球上の時間に換算すると、20年の月日が経過していた。カレンダーとテレビと鏡のない病室から一歩も出ることなく、出たいとも出ようとも思わずに、真珠とここで過ごした日々が、高田和人の全てだった。
「あの子は、大人になるのよ」
20年経っても、20年前の美貌のままの女医は、そう宣告した。
茶色く変色した球体は、何日かすると、音を立ててひび割れた。
「今までお世話になりました。お父さん、ありがとう。真珠は幸せだったよ」
目の前で、美しく輝く光が煙のように立ち上った。その光はきらめくだけだったが、彼には、真珠がそう言っているような気がした。
茶色い物体は、穴の開いた風船のように、しゅうしゅうと音を立てて小さくなった。そして、光と皮だけになった真珠は、そのまま跡形もなく消えてしまった。
「真珠、真珠! 」
高田和人は泣きながら両手を伸ばした。その手を誰かが握った。女医だった。
「真珠は、どうなったんですか!? 」
女医は黙って首を振った。
「あの子はもう、行かなくちゃいけないの」
彼は絶望した。真珠のいない病室は、空虚そのものだった。真珠がいたから、ここにいたのだ。真珠がいない今、この病室にいる意味はない。ここに今までいた意味もない。
高田和人は、泣きながら謝った。誰に何を謝っているのか分からなかった。とにかく、ごめん、ごめん、俺が悪かった、本当にごめん。それだけを繰り返した。泣きながら、眠った。
目覚めると、高田和人は、病室のベッドの上だった。
(ここは………?)
心配そうに彼をを見つめている母と目が合った。。そのそばに、女医がいた。緑色の、ふさふさした球体を抱いていた。
「真珠! 」
高田和人が、手を伸ばすと、女医は彼にその物体を渡した。それは、動物じみたうなりごえをあげた。
「よしよし、おっぱいだな」
赤ん坊に微笑みかける彼を見て、二人の女は、顔を見合わせた。
その時、彼の頭に、鈍い痛みが走った。思わず頭に手をやる。
女医が高田の腕から、真珠を抱き取った。
「無理しないで。ゆっくり休むのよ」
母が言った。彼は、再び眠りについた。
それから後は、目覚めるたびに、彼は少しづつ入院前のことを思い出していった。
美しい女医だと思っていた人は、彼の通っていた予備校の講師だった。7歳年上のその人から妊娠を告げられたとき、彼は言い様のない衝撃を受けた。美しい彼女に付きまとい、執拗に交際を迫ったことなどは忘れて、自分のことしか考えられなかった。誰にも言わずに、産まない選択をして欲しいと懇願した。
母に知られたら、きっと怒られる。万引きをした子どものように、彼は母に叱られるのを恐れた。
彼女は、真っ赤に泣きはらした目で彼を見つめ、言った。
「家に、電話するから」
高田和人は、彼女から逃げた。あてもなく自転車を走らせて街をさまよった。家に帰れば、仁王立ちの母が玄関で待ち構えているような気がした。
いつしかあたりは薄暗くなり、そして夜になったが、彼はぼんやり走り続けていた。走りながら、決心した。とにかく、謝ろうと。彼女にも、母にも、謝ろう。謝れば、許してもらえるかもしれない。そう思うと、心が少し軽くなった。彼は、勢い、ペダルをこぐ足に力が入った。自転車はどんどん加速した。
加速しながら緩やかな坂を上る。しかし、反対側が急な斜面になっていることには気が付かなかった。彼はそのまま急な坂道を駆け下りて、暗闇の中で気配もなく立っていた、歩道橋を支える柱に激突した。頭をひどく打ちつけて、意識を失った。
命に別状はなかった。しかし、彼はその目を開いても、元にはなかなか戻らなかった。
食事を自分で取ることができようになり、身の回りのことも自分でできるようになった。それでも、眠りからは覚めていない様子であった。話しかけると答えることもあったが、意味の分からない言葉を、宙に向かってうわ言のようにしゃべっていることの方が多かった。
彼の瞳に光はなく、何か違うものを見て、違う世界に生きているようだった。
予備校の講師は、毎日見舞いにやってきて、少しづつせり出していく腹に、彼の手を当ててやった。月満ちて無事に女児を出産すると、「真珠と書いてまり」と繰り返す彼の言葉どおり、娘にその名前を与えた。
完全に現実への生還を果たした高田和人は、その後しばらくして退院した。退院後も、時折激しい頭痛に苦しめられ、手足に少し不自由が残った。
大学進学は諦めることにして、狭いアパートで、彼は家事や真珠の世話をして過ごすことにした。彼の美しい妻が予備校で働き、生計を立てている。
人の形をした真珠が泣くと、血の代わりにミルクを与えた。家中を這いずり回るようになると、真珠は生えてきた小さな歯を父の鼻先に立て、笑った。人間用の離乳食を食べさせてやりながら、彼は娘に何度も優しく言い聞かせる。
「いっぱい食べて大きくなるんだぞ、真珠」
真珠の笑い声が、部屋いっぱいに広がる。輝く光のように幸せな笑顔を残し、いつか自分のところから旅立つであろう娘。父はそっと、自分の心が一度は見た未来を振り払い、丁寧にしまい込んだ。
そして、さあもう一匙お食べと、柔らかくした飯を掬う。そして、ゆっくりゆっくり、娘の口に運んでやった。
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2006/09/25(Mon)18:12:04 公開 / 碧
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■作者からのメッセージ
登場人物に感情移入せず、客観的に書くことに努めてみました。
もっと短くまとめたかったのですが、思ったよりも長くなってしまいました。
読んで下さった方に感謝します。
感想、ご指摘など、お待ちしております。