- 『新たなる訪れ』 作者:vash / ショート*2 ショート*2
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原稿用紙約6.9枚
フィクションのショートショートです。疲れた心に、染みる作品ではないでしょうか。共感できる方がいれば、幸いです。
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天高く聳え立つ高層ビル群。空にはスモッグがかかり滅多に顔を出さない太陽だが。珍しく紅い空と輝く雲が見える。昼夜問わず聞こえる街の喧騒。無数の電信柱や張り巡らされた道路と人、人、人……。
――今年でここに来てもう五年も経つのか
宮崎の片田舎を出て、東京でPCの製造会社に就職してから相当な月日が過ぎようとしていた。 入社した当初は毎日余りに忙しく、仕事に追われるとはこういうことなんだなと実感したものだった。最初はまず仕事を覚える事だと思っていたが、それ以前に知識や勉強の日々だった。本当に覚えなきゃならない事が未だに多い。製品の特性、材質の強度や、化学、力学、電気など、自分の専門分野だけでは到底やっていけなかった。
一年目は工程の勉強の日々だった。二年目は仕事を精一杯するだけだった。三年目は仕事をある程度把握できた。 四年目は開発をする為にまた勉強だった。五年目は開発の苦悩と成功の喜びを知った。
今日は三ヶ月ぶりのの休日をやっと部長からもらい、品川のアパートのベランダでビール片手に一人酒だった。案外、いきなり休みになるとすることもなく一日中昼寝ばかりだったのが笑える。後した事と言えば、愛車の洗車ぐらいのものだ。趣味ぐらいあれば少しは違ったのかもしれない。しかしそんな精神的余裕など皆無に等しかった。
――はぁ、あっという間だったな
その間に俺は、一切の楽しみを捨て完全な仕事人間になっていた。ただただ毎日が必死で。苦労も多く。休む暇もなく。改めて指折り数えて、もう五年も経った事に今更気付いた。なんだか空しかった。そして良くやったなと珍しく自分を褒めたりした。
ふと子供達が網を片手に、アパート脇の道路を走っていくのが垣間見えた。男の子達の会話がなんとなく耳に入る。
「でっかい魚がいたってとこ、何処だよ〜」
「ここ曲がって、しばらく行った先のドブ川にさー」
――そうか今は夏休みなのか、子供達はと気付く
二人の笑い声と足音が遠くにゆっくり消えていく。普段仕事が終わるのは深夜でこの時間帯の近所の風景にも新鮮さを感じる。余りに会社に居すぎて、世間の流れに無頓着になっていた。さすがに社会人として、新聞のトップニュースぐらいには目を通すが、それはあくまで報道からの世間であって、実感は薄い。
――季節感も薄れてきてるんだな
と夕焼けがビルの隙間に僅かに見える景色を改めて眺め、グラスにビールを注ぐ。あー大変だったし、これからも大変だなと思う。
――○×設計書の依頼用のディテール設計して、発注するの溜まってたなそういえば
あっ、いかんいかん、また仕事の事を考えてる自分に気付く。 思わず苦笑いが口元に浮かぶ。
それにしても、休日に遊ぶ元気もないものなぁ。うちの部署は、電話――
「コンコン、宅急便でーす」
――っ!! 唐突すぎるんだよ
ったく、はて? 誰からだろう?
思い当たる節がまったくない。訪問販売の新手の手口か?
「はーい」
玄関に向かい訝しげに戸を開けると本当に宅急便だった。背が高くガタイの良い男が額に汗をかきながらダンボールを抱えている。少し大きめのダンボールの差出人を見ると
――母ちゃん?
手早く受け取りのサインを済ませ。ダンボールを貰い、居間までノシノシと抱え戻る。目を瞑り再び思考の世界へ戻る。
――完全に忘れていた
確か帰ったのは、四年前だったかなーうーん。それさえも忘れていた。とにかく相当連絡を取っていないはずだが、何だろうとガムテープを剥がす。ダンボールの中からは、ビール瓶に詰まった何かが10本ほど入っていた。クッション用に地元の新聞紙が隙間なく詰めてある。
「あ 手紙だ」
優治へ
お前の好きな梅酢送るから
これ飲んで、魂入れて
頑張んなさいよ
孫はいつ見せる気なの?
あんたは奥手だから、
彼女の一つも連れてこんでぇ
お見合い考えてるから、暇が
出来たら、帰ってきたら
手紙には母の字でそう書かれていた。結婚か。はっきり言って、工業系の仕事場ってのは女性が殆どいないのが常識。かわいい好みの子と出会えるかも! なんて淡い期待は唐に捨てていた。第一そんな暇は俺にはないしな。女っけなど微塵もない職場に慣れすぎて、しばらく考えもしなかった事だった。
ダンボールからビンを一本だけとりだし、ベランダに向かい柵に持たれ胡坐をかく。梅酢の入ったビンを片手で掴みながら。
――日常が。現実が。薄れてしまわないように
梅酢のビンのツルツルした手の感触を感じようと勤めながら栓を開ける。するとビンの注ぎ口から自然の瑞々しい香りが空気中に漂った。
――あー懐かしい匂いだなぁ
梅はうちではまだ青い内に採る。だから梅ちぎりは、結構痛い作業だった。それに木登りしながら採るのが一番早かったっけな。忘れていた子供の頃の田舎の風景が目に浮かぶ。焼酎で割ってしまおうか、と一瞬思ったがやめといた。そんな事をしていたら、味覚まで薄れてしまいそうな気がした。
台所まで真っ直ぐに行き冷蔵庫から、氷と水を取り出す。子供の頃夏バテの時飲んだ懐かしい梅ジュースを作る。洗い終わって乾かしていた、茶色い箸を取りマドラー代わりにグラスの中をかき混ぜると。
――カラン、カラン
と心地よい音がした。その音を聞いているだけで、心の中の張り詰めていた何かがゆっくりと溶けていくようだった。ベランダにグラスを持ち戻る。立ったまま、夕日にかざすとキラキラと七色に輝いたように見えた。鼻元までグラスを近づけ甘酸っぱい香りをかぎながら、グラスを両手で転がしてみる。休みを一片取って田舎に帰ってみるかなと思ったりした。
――了――
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2006/09/11(Mon)16:53:41 公開 / vash
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