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『舌の上で転がして 第一章』 作者:オスタ / リアル・現代 ファンタジー
全角9921文字
容量19842 bytes
原稿用紙約27.35枚
故郷へ訪れた主人公と、突然現れた謎の少女。いつの間にか姿を変えてしまった自分の町で次々と起こる不思議な出来事。姉との思い出、急に力を持ち出す祖母、そして過去と現実が重なる時、新たな謎が発生する……読者の心をかき乱す、不思議な雰囲気をかもしだす純文学作品。





              一

 故郷の地に足を踏み下ろすと、指に伝わる感触が泣きたくなるくらい心地よかった。深く吸い込んだ空気は今の僕にはいくらあっても足りない。青あらしが優しく頬に触れて通り過ぎていく。目をつぶり、爽やかな夏風に身を寄せる。世界は常に騒がしい。唇から再び零れた溜め息が空へと広がる。浮かぶ雲が静かに流れていく。掴みたくなるような雲の峰に両手をぐっと伸ばしてみる。掴めずに下げた手をポケットに入れ、改めてその高さに憧れを抱く。僕をここへ導いてくれた熱海行きの快速電車は無言のまま、そそくさと二本のレールを辿って僕の横を走り去っていった。長く伸びたプラットホーム、人影はどこを探しても見当たらなかった。生まれ育った街は東京とは異なって、独特の香りを振り撒いていた。
 青々と茂った妻夫木山が駅の正面に聳え立っている。低い山ではあるが、そこには様々な種類の花が咲き乱れ、初宮市の貴重な観光場所にもなってい た。麓では木々の中に無理矢理押し込んだような古い一軒家がぽつぽつと建てられている。山のすぐ隣には初宮第一小学校があった。規模はそれほど大きくはないが、見た目からしてとても平和そうな学校だ。この駅に降り立ってから絶え間なくそこから子供達のはしゃぎ声が聞こえている。おそらく体育の授業か何かで盛り上がっているのだろう。僕は顔に他愛ない笑みを浮かべて駅のホームを後にした。
 改札口をくぐり抜け、質素な機械音が背中に響く。南口の階段を勢いよく下りると、あちらこちらで耳鳴りのように響くセミの鳴き声が僕を襲った。道に育つ樹木たちが風に揺られながら深い木漏れ日をアスファルトに映し出している。故郷の大きな太陽は僕の白い肌をじりじりと焦がした。麦藁帽子をかぶった無邪気な子供たちが海に向かって走り出す。日影を求めてさ迷う野良猫は疲れ果てた表情で、後ろからついてくる僕を一瞥した。道端に咲くひまわりたちが小さく手を振る。忙しく翔ぶ蜜蜂がアゲハ蝶と仲良く座って同じ櫁を飲んでいる。夏の小川は思ったよりも早く流れていた。
駅前の商店街を抜け、海とは逆の北の方向へ足を進めた。見上げれば小さな山がいくつか聳え、そこは住宅地となっている。その一つに僕の祖母の家がある。小学六年生の時に東京へ引っ越して以来、一度も訪れなかったこの町は幸いにもあまり変わった所はなかった。少し屋根の色が明るくなった稲村神社の横の道を生き生きとした足取りで歩く。山に挟まれたゆるいのぼり坂を行けば、急な斜面に上手い具合に建てられた家々が顔を出す。祖母の働く果実園を通り過ぎ、いくつも分かれた細道を進むと、雑草の生い茂る祖母の家に辿り着く。「萩原」と書かれた赤色の剥げかかったポストはやはり昔と変わらぬままだった。
 やや急な家の階段を、手すりを使って一生懸命に上りきると、ひまわりの植えられた花壇を前に玄関があった。インターホンを押すと、中でブーっという音が鳴った。……反応がない。一回鳴らしただけでは来ないことは心得ていた。祖母は不必要にも居留守を使ってくる人だった。もう一度、今度は長めに押してみた。しかし、またしても反応がない。良からぬ空想を頭の中で描く。僕は少し不安になって、インターホンを何度も連打した。やがて扉の向こうで音がした。少しだけ扉が開いて見覚えのある顔がこちらを覗いた。ほとんど目だけしか見えないので不気味だったが、それが誰だかすぐにわかった。間違いなく祖母だった。祖母は僕の姿を認めると、覚醒したかのように張りのある声を上げた。
「久しぶりい。あら、大きくなったわねえ。待ちわびてた所だったから、さ、入って入って」
 僕が先刻抱いた一抹の不安はきれいに晴れ、安堵のため息を漏らした。僕と生活を共に居ていた頃以上に、今の祖母には生きた血が流れているようだった。すっかり大人びた僕に一瞬戸惑いを見せたが、それが僕だと分かると最高の笑顔で迎えてくれた。祖母を最後に見て以来、なんだかしわが増えたようだが、精神面では明らかに若返っていると感じた。
 祖母が家の中へと姿を消したため、僕はそれについていくように扉を開けた。が、扉は少ししか開かず、僕は乱暴に扉を何度も開けようとした。しかしただ無駄な体力を削るだけだと察知し、仕方なく扉の隙間から大声で祖母を呼んだ。祖母はわざとらしく驚いた後、ばたばたと扉の方へ走り寄ってきた。
「ジョーク、ジョーク。ゴメンね」
 祖母はそう言い訳して扉の鎖を外した。僕は既に疲れた表情で中に入っていった。僕はその時、祖母の身の上に異変のようなものを薄々感じているのだった。
 玄関を入ると正面には妻夫木山公園から撮った富士の雪景色の写真が壁に掛られている。かなり大きな写真で今の時期、季節外れではあるが迫力がそれを押していた。これは初宮の街をこよなく愛していた今は亡き祖父の最高作品だった。廊下を進むと突き当たりに居間がある。そこから食器の触れ合う音が聞こえ、祖母が昼食の片付けをしているのだと僕は悟った。二階へと続く階段を見上げる。僕は何となく人の気配を感じていた。
居間のソファーに腰を降ろす。テーブルには祖母が煎れてくれたアイスコーヒーがちょこんと置いてある。僕はそれを一口ずつ大切に飲み、ふと窓の外に目をやると、ベランダに暇そうな面持ちで床に寝そべっている犬のよしこがいた。彼女も相変わらずのワイルドな毛並みで、寝てる姿はモップさながらだった。祖母は自分の仕事をしていて話をする相手さえいなかったので僕はベランダに出てよしこを撫でてやった。久しぶりにも関わらず彼女は尻尾さえ振らず、反応は浅はかだった。可愛いくねぇなぁ、と呟くも僕は彼女の毛に絡みついたゴミをとってやるのだった。
 毛づくろいもほどほどに、僕は重いトランクを持って二階の元々の自分の部屋へと足を進めた。ドアノブを握るとそこに微かな温もりを感じとった。なぜかその時、僕が昔、何か怖いものを見た後の名残のようなぞくぞくとしたものが背中の筋を走った。しかし僕は特に気にすることもせず、握ったそれを手前に引いた。するとそこには思いもよらない光景があった。静物の溢れ返る中に一つだけ命の鼓動を持つ生物がぽつりと存在している。同じ熱を持ち、同じ空気を吸っている。人間のように見えてどこが違うような気がする、しかしそれは人間と呼ぶ他に言葉は見つからなかった。僕の部屋に見知らぬ少女がいたのだった。多くの書物と古い模型の散らばるかつての僕の部屋はそれはそれなりに均衡ではあったが、そこに少女がいることであたかも異世界にいるようだった。
 少女はまだ僕の存在には気づいていなく、今まさに夢中になっている作業を黙々とこなしていた。右手に大きなパレットを持ち、左には同じく大きな筆をもって白い画用紙に向かって何かを描いている。部屋は静かで、筆が画用紙を滑る微かな音だけがただ耳に届いた。彼女の描く絵はいったい何を表しているのか、瞬時の判断はしかねたが、雰囲気から推測するとそれは僕の机の上にある電気スタンドのようだった。芸術性を追求しているのか、それとも単に絵が下手なだけか、とにかく色と物体の調和が激しく、そこに繰り広げられた戦いの死傷者たちが何も敷かれていない床の上に無様にも横たわっていた。それを手で触れてみると確かにそれはほんのりと熱を帯び、僕は命の存在を認めざるをえなかった。
 少女に近づこうとして踏み出した足が軋んだ床を鳴らし、少女は大きな瞳を更に強調させた表情でこちらへ振り向いた。しばらくの間、僕らは無言で見つめ合った。しかし彼女のそれには理解の仕様のない複雑な暗号が刻まれていて解読は困難だった。
 少女の口からは一向に言葉の出る気配はなかった。僕もどう話しかけたらいいのか、戸惑って立ち尽くしていた。部屋は非常に静かだった。開け放たれた部屋の窓からほどよいそよ風が訪れる。どこかの家の風鈴の音色が夏の一時を涼しく思わせた。僕は彼女の指が宙に浮いたまま静止していることに気づいた。
「あ、いいよ。続けて」
 我ながら発した言葉に驚くのはいうべきもない。僕自身まさかこんな言葉が出てくるとは微塵たりとも思っていなかった。何が僕をそう言わせたのか。頭の中をいくら絞ったとしても今の僕からはおそらく出てこないであろう。
 僕のその言葉を耳にすると、少し怯えた様子を表していた少女の顔に偽りのない、幼い子供がよく見せる、あの微笑ましい笑顔が広がった。唇の間から覗いた綺麗に並んだ白い歯は僕を吸い込むように魅惑の輝きをみせていた。僕を見つめていた澄んだ瞳は美しいアーチを築いた。生まれてこの方感じたことのない、異性という強い意識が僕を闘牛のように荒々しく駆り立てたのだった。
 少女は再び、その奇怪な電気スタンドに色を加えた。光も影も、白と黒だとは決めつけずに独創的に展開されていく。言葉の代わりに刻んでいく絵というものは、その原型を発展させていくことで一つの作品として形成されていくようだった。少女の絵にその原型は既に影さえも消えつつあった。作品は急ピッチに彼女色の濃厚なものへと形を変えていくのだった。
 行き場を無くした僕はとにかく祖母から事情を知らせてもらわなければ済まなかった。居間に下りると、祖母はちょうど片付けを終えた所だった。僕の存在には気づいたようだが、祖母はこちらを一瞥しただけで平然を振る舞っているようだった。いつまでそうしている気だろうか。なぜ隠す必要があるのだろうか。何も語ろうとしないその口は固く封をされたまま、開こうとしなかった。僕は疑問と混乱と憤慨で正気を失いかけていた。抑えきれない感情の爆発が声となって襲いかかろうとしたその時だった。
「私たちは一つの家族だ」
 祖母の支離滅裂な言葉に思わず僕の声は奪われた。祖母は作業を止め、うつ向いたまま自分の言葉に確信を持っていた。困惑して動けないでいる僕を前に祖母は再び口を開いた。
「あなた達がこの家を出て行ってから随分と状況が変わったの。私自身も変わった。過去の欠片は今は全くないに等しい。だから昔と比べてものを言うのはやめておくれ」
「でも……」
「言い訳は無用。それは何の意味もなさない」
 祖母の言葉に対応して出た逆説の言葉は一瞬にして書き消された。祖母は僕の話など一切受け付けない覚悟のようだ。
「逆らうようなら、悪いが出ていってくれ。不愉快な思いはしたくない……」
 ためらう僕に承認の拍車をかけるように脅しがかけられた。それよりもまず少女の存在の理解に困った。何も情報を得られない状況下でどう対処するのが最適なのか。この場から逃げ出したい衝動に駆られるも今、僕の居場所はここしかないのだった。僕は無言のまま、只々思考を巡らした。
 残りの半日を僕は祖父の書斎だった部屋から世界史や現代史の資料をいくつも読み漁って過ごした。とにかく少女の居座る僕の部屋に入ることは本能が堅く許さなかった。ただ字を追っているだけの読書が時間を安々と押し流していった。気づくと外は茜色に染まり、ヒグラシが夜の始まりをカナカナカナと、寂しそうに知らせていた。会話もなく、静かに交された三人による夕食は料理も何もかも苦いもののように思えた。明らかに祖母の様子がおかしい。恐ろしささえ僕は感じ始めていた。東京の都心の騒がしさと、母の作る料理が早々に恋しくなった。
 この家の全てがおかしかった。僕が小学六年生の時にこの家を出て以来、初めての帰郷なのだが、街の風景とは打って変わって家内はあまりにも状況が変わりすぎていた。居間にあったはずのワイドテレビや立派なレコーダーは姿を消し、壁に飾られていたはずの僕ら家族が写った写真は半分以下にまで数が減っていた。代わりに少女が絵を描く姿の写真が多く飾られていた。また、全ての部屋に鍵が取りつけられ、特に元々姉の部屋だった扉には十数個もの鍵が外側から取りつけられていた。居間にある柱には新たに傷が加えられ、僕の小学六年生の時の身長のラインの少し上に赤いラインが引かれ、「ほのか、小六★やっと宗太に勝てた!」と、利き手と逆の手で書かれたようなよれよれの力ない字で記されていた。
 熱い湯気の立ち上る湯に肩まで浸り、カビの生えた天井を見上げながら物思いに浸る。僕のいない間に祖母と少女とでどんな生活が送られていたのか、想像さえ思い浮かばなかった。確かに言えることは祖母が少女を実の孫のように可愛いがり、愛していることだった。祖母は僕に何も語らず、また何も言わせようとせずに少女を守っているのだ。共に暮らしていた頃は僕にも姉にもありったけの愛を注いでいたはずの祖母は大きな変化を遂げてしまい、謎に包まれた生活を送っている。これからの日々、僕はこの謎を解き明かし、この家でいったい何が起きたのかを暴かなければならなかった。もはやそれは僕の使命である。握った拳で水面を叩くと、飛び跳ねた雫がそれぞれ形を変えながら重なり、やがて一つとなって静かに収まった。
 濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながら部屋に戻ると、まだ少女が同じ姿でそこにいた。今度は溢れ返った本棚を描いているようだった。絵は終盤に差し掛かっていて、細かい影の加減をしている所だった。画用紙にだけ視線を送り、彼女の感覚で影が刻まれていく。僕はベッドに腰を下ろし、その様子を見守った。すると、ようやく完成したようで少女は大きな伸びをしてちょこんと僕の横に座った。僕は少女から離れるように少し横へずれた。少女は満足気な表情で絵をまじまじと見ていた。
「いい」
 僕は少女が初めて呟いた言葉をしっかりと聞き取った。僕と似た、少しハスキーな声だった。呟いた言葉はいわゆる自画自賛の意だが、そこに不自然さは皆目なかった。
「うん。斬新でいいねえ」
 彼女の絵に対し、僕は素直な感想を口にした。すると少女は再び目を大きく見開き、今まさに僕の存在に気づいたような様子だった。僕は思わず吹き出してしまった。
「良いリアクションだ」
 笑い転げる僕を前に少女は唇をぎゅっと結び、少し不思議そうな顔をしていた。一通り笑って気が済むと僕は部屋の外を見回し、耳をそば立てて、祖母が風呂に入っていることを確認した。それから扉を閉めて元の位置に戻った。少女は相変わらず無言のまま不思議そうな表情でこちらを見ていた。
「君の名前は?」
 少女はぴくりとも動かずに僕の瞳の中を探った。反応のない少女に困惑して僕は言葉を言い換えた。
「ごめん。普通は自分から名乗るもんだよね。僕は萩原宗太。ここのお祖母ちゃんの孫で、今は東京に住んでるんだ。ちなみに高校三年の受験生。こんな所にいて良いのかとか思うかもしれないけど、東京だとなんか落ち着かなくてね」
 自分一人で話を進めている内に少女はもの言いたげに口を少し開いてパクパクしていた。僕は少女の愛らしい行動にまた吹き出しそうになるのを堪え、その口から言葉が出てくるのを待った。
「宗太? 孫?」
 どうやら少女は僕を知らなかったようだった。おそらく柱の文字は祖母によるものだろう。それにしても少女が全く僕のことを話を聞いていないとなると、ますます祖母の意図が読めなかった。
「そうだよ。君とは初対面だね。よろしく」
少女は応答に困ったのか、戸惑った様子で軽く頷いた。
「ほのか」
「ほのかっていうのか。どういう字?」
「稲穂の穂に歌でほのか」
「穂歌。なんかいい名前だね。僕は好きだな。優しい感じで。なんだか温かそうだしね。何年生?」
「初宮中学一年」
「初中か。僕もここから引っ越さなければそこに通ってる予定だった」
 くだらないことを言いながら、僕は穂歌との隔たりを無くそうと一歩一歩、懸命に努めた。
「君の親は?」
「ハルさん」
「ハル……さん」
 僕の思考回路の中を一筋の閃光が走る。あっさりと返ってきた答えは紛れもない祖母の名だった。穂歌の目には偽りのない正直な火が灯り、それ以上のことは言わずと知れたような顔をしていた。僕はその言葉を認めたくなかったが、穂歌は本気で言ったつもりだろう。真実のあやふやなまま、その差異による穂歌との距離の遠さに僕は落胆するのだった。
「そっか……あ、そうなんだ。へぇ、僕と一緒だ。じゃあ、穂歌と僕は兄弟みたいなもんだね」
 僕は答えの一致を求めたつもりだったが、穂歌はまた軽く頷くだけの軽い応答だった。
「いつからここに住んでるの?」
「六歳の時から」
「じゃあ小学一年生の時だね」
 誰がやっても計算上、それは正しいはずだった。しかし穂歌は首を横に振り、二年生、と呟いた。そこに特別な方程式でもあったのか、僕は答えの不一致に計算式を真っ黒に塗り潰してしまい、頭の中が空っぽになった。勝手な方向に飛ばされた電気信号によって僕は考えることを諦めてしまった。穂歌に詳細を尋ねようかと考えたあげく、結局僕の口からそれは出てこなかった。
「ということは、今十二歳なの?」
「うん」
「へぇ。元々どこに住んでたの?」
 流れに乗ってきたと思いきや、今度は穂歌の口が固い錠で閉ざされてしまった。それに合う鍵を頭の中で探るも、あまりにも数が多すぎて僕は茫然と立ち尽くすしか術はなかった。
「言えない……かな?いいよ。ちょっと興味があって聞いただけだから」
「冷たくて……」
 突然、発っせられた言葉に上手くついていけず、僕は黙っていた。
「湿っぽくて、音もない孤独な森」
「森?そうか。それは大変だったね」
もうこれ以上、何を聞いてもまともなものは返ってこないような気がしてきた。僕は未だに湿った髪を、取り付かれた悪霊を追い払うように荒く拭いた。しかし、結局それを全て拭き取ることはできなかった。頭の上でまだ何かがうずいている。
「部屋にお帰り。もう遅いから寝なさい」
 親のように振る舞うも、その言い方には虫を殺すような冷酷さが籠もっていた。穂歌は画用紙を丸めて肩をすぼめるようにして部屋を出ていった。僕は彼女のいなくなった部屋をしばらくぼんやりと眺めた。やはりその部屋の調和は彼女がいないことで安定がとれた。網戸を通って部屋を吹きぬける涼しげなそよ風に僕はようやく気づいたのだった。風に押され、それを全身に感じながら、僕はそのままベッドに横になって物思いに更けった。穂歌とはいったい何者なのか。僕のいない間にこの家の中でいったい何が起きたのか。全ての謎はすぐ隣にちょこんと置いてあるものの、なかなか手が届かないでいる。幻想と現状の狭間は僕の思考を苦しいものとした。
 電気をつけたまま、何となくまどろみ始めた頃、部屋の扉の外からペタペタと裸足で歩み寄る足音が聞こえた。彼の意識は薄かったが、扉の前で確かにその音が止まるとさすがに体の感覚が覚めた。僕は生唾を飲み込み、力の入らない足をゆっくりと動かして扉に近づいた。外から聞こえる金属の触れ合う音だけが部屋の中に響く。それは刃物の触れ合う音に近かった。やがてそれが止むと、訪れた静寂が僕の不安を一層際立てた。ドアノブに手を触れようとしたその瞬間、錠の閉まる音が確かに聞こえ、足音が遠くへと去っていくのを認めた。震える手はすかさず扉を開けようと力が込められた。しかしそれは全く動かず、僕はこの密室に閉じ込められた。何もできず、佇んでいると、やがてブレーカーも落とされ、闇が部屋中を覆った。
 虚空の隅で飛べなくなった鳥が一匹、暗闇に脅えて鳴き出した。傷ついた羽は羽ばたくほどに抜け落ち、緑色の血が細い首筋からどくどくと元気よく溢れ出る。体は血まみれに、心は闇だらけになり、自分の存在を見失いかけた。しかしあるはずのない現実にただ鳴き続け、否定によってそれを書き消そうとした。やがて羽は人体の記憶を蘇らせ、醜い姿は忘れさられた。激しい震えを手で抑えると、僕は覚束ぬ足取りで自然と窓の方へと歩み寄っていた。そこから溢れる月明りだけを頼りに、僕は今夜を生き抜こうと月に誓った。



 僕はその夜、不思議な夢を見た。姉が他界する前の記憶が夢というスクリーンに鮮明に映された。
 それはある日の昼下がり。外では長引く梅雨の一時の青空が僕らの町を包んでいる。にわか雨の名残が一滴の雫として、大樹の葉から静かに零れた。その雫は陽の光を受けてきらきらと輝きながら、小さな水溜まりに向かって落ちていく。音のない山の木々がその様子を見守る。やがて雫は水の中へと溶け込み、きれいな波紋を残して姿を消した。
 僕は縁側に座ってぼんやりと庭を眺めていた。雫の経緯を見て何となく詩を描こうと考えていた。時間を忘れ、自分の世界に入り込むと、目の前は空想でいっぱいになった。
 そんな物思いに更ける僕の横に、姉はそっと寄り添って僕に話しかけてくる。
「何しているの?」
 僕は姉の瞳をちらりと覗いた後、恥ずかしそうに視線を庭の花たちに移した。
「思い出を掘り起こしているんだ」
 自分の両手の中には古いアルバムが収められている。そこには何ページにも亘り、セピア色の写真と細かな文章が羅列され、一つの絵本のようだった。時の経過によって色褪せてしまった表紙は何だかいい雰囲気を漂わせていた。
「ああ、それ。最近、毎日読んでいるよね」
 そう言われてみれば、そうだったかもしれない。無意識のうちに僕は何度もこの本を読んでいた。読んでいる間は、あたかも本の中の世界に自分が立っているかのように夢中になってなかなか抜け出せないでいた。僕は危うく過去と今との境界線を見失ってしまうところであった。それに気づかせてくれたのはやはり姉だった。
「そうだね。なぜだろう。最近、不思議とこの本に引き込まれてしまう」
 すると姉は白くてやわらかな手を僕の手と重ね合わせて、瞳の奥を探るようにはっきりと僕を見つめた。僕も透かさず彼女の瞳を見つめ返した。
「思い出に浸りすぎるのはよくないよ。今が幸せならそれでいいんじゃない?」
「そうだね……そうかもしれないね」
 僕はまた庭の花に目を移しながらそう言った。彼女は僕の横目をじっと見つめた後、微笑みながらそっと肩を寄せてきた。彼女の黒髪から甘い香りが漂い、僕はその香りに刺激されて一瞬体の力が和らいだ。僕は彼女の肩を優しく抱いてゆっくりと頭を寄せた。今、僕は彼女と一つになっている。お互いの温もりを肌で感じることができる。このまま、姉とこうして肩を寄せ合ってずっと一緒にいられればいい。これが世界で一番の幸せの形なんだ。僕は強くそう思った。
「幸せ……」
「えっ?」
 彼女の呟いた言葉ははっきりと耳に入ってはいたが、その意味が知りたくて僕は聞き返してみた。姉は少し戸惑った後、口を開いた。
「何でもない。今のは流して」
 姉はそう言うと身を起こして、顔を僕の目の前に近づけた。鼓動が徐々に早さを増していく。彼女は僕のくせ毛の髪を子供と接する時のように優しく撫でて、じっと顔を見つめた。
「愛しい人は、大切にするものよ」
 姉のやわらかな手は僕の頭から顔を伝って頬に触れて止まった。しばらくの間、僕らはお互いの瞳の中を探り合い、そしてはにかんで笑い合った。姉は僕の頬を軽くつねって立ち上がり、キッチンへと足を運んだ。僕も本の続きを読もうとページを開いた。早くなった鼓動はなかなか治まらないでいる。
 何だか不思議な心地だ。夢の中だと確信しているのに、なぜかそれを認めようとしない。この世界では姉は生きていて、僕と姉は恋をして、僕らは互いに優しい愛に包まれている。揺れる心がすごく苦しくて切なくて、そして何よりも嬉しい。本当の幸せというものを改めて感じる。このままでいたい。もう少し、ほんの少しだけでも長く恋をしていたい。姉を好きでいたい。そんな風に思える自分がそこにはいた。
 庭に目を向ける。はぐれ離れになってしまった野良の仔猫が不安げな様子で庭を横切った。音もなく、雫がまた一つ零れ落ちる。波紋の広がった水溜まりが風に吹かれて小さく揺れる。水面に映る白い雲が奇妙な形を帯びる。高く聳える桜の木の葉がざわざわとなびく。舞い上がった葉は未知なる空へと向かう。まるでそれは生きているかのように高いところを目指してゆっくりと上っていく。とうとう遠くの山とほぼ互角の高さに達した。太陽が近い。光をいっぱい吸って眩しい光を放つ。風は未だに止むことはない。山から街へと、それは僕らの愛のようにずっとずっと吹き抜けていく。
2006/09/03(Sun)15:21:53 公開 / オスタ
■この作品の著作権はオスタさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
何年かぶりの投稿です。非常に緊張しています。実は半年前に完成している作品なんですけど、今になってやっと投稿する気になりました。次回更新は未定です。皆さんの感想しだいです……ですので、思ったことをそのまま書いていただいで結構です。ボクも書いていてだんだんと感覚が狂ってきた作品なので、読者の方々も混乱注意です。覚悟して読んでください(笑)。どうぞよろしくお願いします。
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