- 『天空風歌 【完】』 作者:ゅぇ / ファンタジー 時代・歴史
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奈綺――『風の者』。戦いのなかで耀きを放つ血の女神よ。この誇りかな名のもとに、けして彼女は頭を垂れぬ。その存在の由、此処にあり。娘に別れを告げた奈綺は、桐へ向かう。息子を見つめるのは柳帝の炯眼である。奈綺と柳帝が視ているのは、けして揺るがぬ強靭な国。同じものを見据えながら、またふたりが動きだす。
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【風に生く】
――今年も夏がやってきた。
桐の夏風は、柳よりもほんのわずかばかり冷たいようだ。
「女の国か」
奈綺は小さくつぶやきを落とした。数日前に祖国舜に立ち寄って、娘の成長を目の当たりにした――しかしもはや彼女の胸うちに、娘の面影はない。その触れれば切れるような双眸は、まっすぐ桐の宮城を見つめていた。それほど大きな国ではないが、女帝の治める軍事国家であり、三師《およそ六万》の兵力を有している。
桐都は活気に満ちていた。七年前の敗戦を思わせるような名残りは何ひとつなく、この七年でみごとに復興を遂げているところを見ると――やはり侮れぬ国であろう。
「ぞうりをくださいな」
「あいよ」
(……ほう、根に持っている)
銅貨と引き換えに受け取ったぞうりの裏に、柳の護り神である龍が描かれている。なるほど柳を踏みつけにしてやろうと、そういうことか。ふん、と奈綺は鼻を鳴らした。
艶やかな街娘の形《なり》が、この女にはよく似合っている。いつもは無造作に纏めあげている黒髪を、今は椿油で上品に結うていた。見たところこの街では、男よりも女のほうが上位に立っているらしい。女が大きな顔をして堂々と闊歩している。
(勘違いもいいところよ)
心のなかで毒づいた。あくまで街娘としての顔を崩さぬ。なよやかな仕草で旅籠《はたご》の戸を開け、軽やかに中へ滑りこむ。穏やかな、どこまでも穏やかで柔らかな表情と仕草である。
「秋沙《あいさ》」
奈綺がこの名を偽りとして用いたのは、もう会わぬと決めた娘への愛ではむろんないが。
旅籠の女主人は、もう何年も前から桐に棲みついている舜の間諜であった。桐にやってきた際はここを拠り所にさせてくれ、と前々からわたりをつけてある。
「貴梨《きり》……ずいぶんと柳には恨みがあるようだ、桐の民は」
貴梨と呼ばれた女は、くいと指を上に向けた。上へあがって話そう、ということらしい。奈綺はゆっくりと階をのぼり、廊を渡って貴梨の室へすべりこんだ。この女は、なりきる。普段ならば無意識のうちにも気配を殺す女だったが、今は秋沙という街娘――軽やかな足音をたて、気配を消すことなく動く。
貴梨の室は頑強な鍵もかかる。四方もじゅうぶんに土で塗りかためており、ここで話すことはけして外には洩れない。
「とり憑かれているんだよ」
奈綺のそれよりも、もう少し柔らかな声色である。旅籠屋の女主人として切り盛りしてきた、その落ち着きが言葉の端々にあらわれていた。
「何に」
奈綺の声は、冷たい。双眸が、すい、といつもの色に戻った。
「女の妄執さ」
「ほう」
「奪おうにも奪えぬ隣国の地、しかもそれを治めているのが己よりも若く美しい男だときたもんだ。我々にはとうてい理解のできん嫉妬でも持ってしまったんだろうね」
四方を塗りかためられた密室だが、けして蒸し暑くはない。ごくごく小さな灯が、行灯のなかでひっそりと光っている。外は爽やかな青天だが、やはりここは幾分と暗かった。
「悪法があるか」
「そりゃああるとも」
男子は宮中の役職に就くべからず。
男子は家の長となるべからず。
男子は少なくとも女児ひとりを生すべし。
「何だ、それは」
「一家にひとりは必ず女児を、だと。妻人に女児を生ませられなかった男は、首くくりさ」
あきれたもんだね、と貴梨はつぶやいて嘲笑する。その冷たい嘲笑が、彼女がいまだ『風の者』であるということを窺わせた。
「この国ではね、男は種つけと兵力。それ以外では役立たずなのさ」
「勘違いもいいところよ」
水差しの水を飲み干して、奈綺はさきほども思ったことを今度ははっきりと口に出した。この女が口をひらくと、たとえひそめた声であっても不思議とよく通る。
「……どうした奈綺。あんたもそう考えている女のひとりだと思っていたけれど。あんたにとって男は種馬以外の何者でもないんじゃないのかい」
貴梨の言葉に、奈綺は鼻を鳴らす。ほんの少しばかり皮肉っぽい物言いだったのは、どうにも隠せない貴梨の羨みでもあろう。男でも女でもない、真の『風の者』に対する秘めやかな羨望。
「馬鹿をいえ。種つけと兵力で役に立つ、それ以上の働きがどこにある。攻め来る敵から国を守っているのは男だろうよ」
奈綺。
この女の双眸を見るにつけ――貴梨はいつも身震いを抑えられぬ。女らしい美しい容貌。ほそやかな肢体。見た目だけは隅々まで美しい女であるのに、これのどこに、人を一瞬で殺す力が宿っているのかがいまだに分からない。この双眸が見せる渇いた冷たさに、貴梨は慣れることができなかった。
この女もまた“女”であることを捨てられぬ『風の者』である。
「それに胡座をかいているだけの女なら、国には要らぬ」
「あんたならどうするんだい」
気高く澄んだふたつの眸《ひとみ》。この世でもっとも誇りかな生き物ではないかと、そう思わせる美しき間諜だ。奈綺は貴梨に微笑で答えた。
「決まっている。そんな女どもは、わたしなら皆殺しだ」
今までにも舜の『風の者』ならば、幾人か匿ってきた。
――どくん。
けれどけっしてここまで呼び覚まされはしなかった。己のなかに眠る『風の者』としての血なまぐさい力。
――どくん。
「物騒なことを……」
「男と女は本来対等であるべきなのさ。どちらかが驕れば国は滅びる。国を滅ぼす女なぞ要らぬわ。もしもここが柳ならば、全員ぶち殺して舜にくれてやる」
鮮やかな意志である。あまりにもまっすぐで邪なものが何もない。この女を遮るものが何もない。いつかは夢みた誇りかな風の使い――“力になってやらねば”。この誇りかな同志にもう一度すべてを預け、そうしてわたしも昔のように。貴梨に、はからずもそう思わせる。これもまた奈綺の強い、強い力である。
◆ ◆ ◆
「朱綺よ、つらい顔をけして見せるな」
父帝の声は冷たい。実子を甘やかす声色などは欠片もなかった。師匠と手合わせをする息子を見物にきた、柳帝である。自分の倍ほどもある師匠にこてんぱんにやられ、思わず顔をゆがめて座りこんだ朱綺を見て、柳帝はいつか奈綺を思い出していた。もう幾月も顔を見ていない。
「座るな」
はあっ、はあっ、という朱綺の息が獣じみてきた。柳帝が幼いころに教えを受けた、そのときと同じ剣の師である。柳帝ですら何年もの間打ち負かすことができなかった師であった。
たった七つばかりの少年に、まさかこの師が打たれるはずもない。この一刻ばかり、休む間もなく剣を交えている――それだけでも賞賛されるべきことである。わかっていながら、柳帝は労いの言葉をひとつとしてかけない。師もまた、黙って見ている。
「座るな。戦の途中で座ることがどういうことか、分からぬわけではあるまい」
なかなか立ち上がることができない。この数年で、柳帝の第一子朱綺は驚くほど力をつけてきた。文武すべてにおいて完璧な力を求められ、それを見事にこなしてきたのである。この剣術にしても、もはや師以外に敵などおらぬ。
――それでは許さぬ。
命を懸けても師を超えよ。母の言葉を、朱綺は一日たりとも忘れたことはない。師を超えるまでは、敵は師であると心得よ。母として、女として似つかわしくもないその訓えを、朱綺は忘れていない。
たとえ母が野に生きる獣のようであろうとも。たとえ母が定まらぬ風のようであろうとも。朱綺にとって母はやはり愛しき母であり、またその愛しき母は誰よりも頼もしい師に違いない。
この少年は、生まれつき頭がよかった。だからもう悟っている。
この剣の師を超えれば次は――きっと母が敵となる。それをこの世でもっとも喜ぶのは、他ならぬ母であろう。
「座るな、朱綺よ」
「…………はい」
「座るなよ」
「…………はい」
疲れたときに座ってはならぬ。疲れたときに座ってしまうと、次立とうと思っても不思議と立てぬ。母の訓えであり、父の訓えでもあった。このふたりは似ている。死ぬのではないかというほどの鍛錬のなかで、息子はたまにそんなことを思うのである。紅顔の美少年とみえて、意外と骨のある子どもであった。たしかに柳帝の血をひき、奈綺の血をひいている。
(……ふん)
柳帝は無表情のまま、衣の裾を翻した。無表情だが、奈綺ならば読みとったであろう――やや満足げな双眸の色を湛えている。地位も名誉も、金も後ろ盾もない女。地位どころか、本来ならば捨て駒にされても文句ひとつ言えぬ間諜の女である。ひとを殺すことに躊躇いもなく、いつ柳帝の寝首を掻くとも知れぬ女である。
一国の皇帝が間諜の女を妻《さい》にするなど、前代未聞の珍事であった。しかし大きな危険をはらみながら、そのぶんだけ彼は大きな宝を得たといえる。己のあとを継がせることのできる器量をもった男児を、その間諜の女が産んだのだ。おそらく朱綺の器量は鍛錬だけで生まれたものではなかろう。
(あれの血があってこそよ)
貴族の姫。いや奈綺以外の女が相手であれば、これだけの素質をもった子は生まれていなかったはずであった。
「柳は強くなるぞ」
傍らの文官――田閻《でんえん》というが――は、うやうやしく拱手をして主の言葉に同意を示した。
「これから柳は血で結ばれていく」
夫と妻が同じものを見据え、ともに歩く。あたらしい夫婦のかたちであるともいえよう。この時代、やはり女は男の一歩うしろにいる。
「……血脈でな」
今まで柳になかったものである。異国の民が集まってできたこの国に、足りなかったものである。血で繋がれた絆。ひとつ国の民としての結束であった。
橙色の灯があかあかと耀いている。うつくしく艶やかな女官が廊を行き来し、彼女たちのささめくような笑い声があたりを満たしていた。
「何?」
やや嘲りの色が濃い声色に、若い男はむっと眉をひそめた。柳帝はもともとこのような男だ――分かってはいるのだが。
「子ができた今、もうあなたに必要ないだろう」
支岐である。舜柳のあいだに取りかわされた友好の協定を確認する旨の文書を送ったところ、その返答が支岐とともにやってきたというわけであった。頼んでもおらんのに余計な小蝿《こばえ》を――と柳帝は口角をあげた。この男がどれほど舜に忠実であり、何やかやと文句を言いつつもどれほど奈綺の力になってきたかを知っているからこそ、室《へや》に通したのである。
何をいうかと思えば、と彼は己よりもひとつふたつ年若い青年を見つめた。
「もう舜に帰してやってはいただけまいか」
「正気か」
「むろん」
豪奢な織布のはしを指でもてあそびながら、柳帝はふたたび嘲笑を落とした。なんと奈綺の嗤い方に似ていることか。すぐにでも帰途につきたい思いを抑えながら、支岐はぐっとその場に足をとどめた。
「舜に帰して、あの女に何をさせる」
「……国を護る以外に何があろうか」
青い異国ものの酒器から、ゆっくりと酒で唇をしめらせる。明らかに反りは合わないはずなのに、どこか似かよったものがある。支岐は思って、柳帝の姿を見つめた。
「舜帝に嫁した女は元気にしているか、支岐よ」
「……健やかでおられる」
「睦まじいか」
「とても」
にやり、と柳帝は嗤った。
「舜に帰るということは、舜帝だけでなく彩妃の下で働くということになる。彩にその気がなくとも、また奈綺にその気がなくともよ」
今ここにおらぬ美しい女、あの誇りかな『風の者』の深い双眸を、支岐は眼裏に浮かべる。もはや彼女の居場所は、この柳なのか――。
これほど長きにわたって付きあい続けても、いまだ支岐は奈綺をつかみきれていない。支岐と柳帝と比べた場合、明らかに柳帝のほうが奈綺の姿を見極めていたといえよう。
「…………」
支岐が言葉に詰まった。
「しかも娘が舜に居ろうが」
「秋沙…………」
奈綺の娘であるということはつまり、柳帝の娘でもあろうのに、まるで他人事のような物言いをする。
「あれは柳で育てるわけにはいかん。柳のためにな」
「しかし……」
「奈綺の娘といえど、やはりまだ幼い。母が同じ国にいると知れれば心も揺れよう」
いや、分かっていたはず。確かにそうだ、と支岐は唇を噛んだ。確かに柳帝の言うとおりなのだが。
「そうなれば、奈綺は俺が止めたとしても舜を出るぞ。そう思わないかな?」
揶揄されていることに、支岐はすぐに気づいた。なぜ長いことともにいたのに、そんなことも分からぬのか。柳帝の双眸が、そう問うているような気がする。
「……柳帝よ」
苦々しい気持ちで、支岐は視線を落とした。
「柳帝よ。わたしは不安だ。柳にいると、あの女が早死にするような気がする」
「…………ほう、貴様」
分かっている。あの女は、早死にすることを怖れたり嘆いたりするような人間ではない。知りながら言った支岐に、柳帝がいくらか鋭い視線を投げて寄越した。
「奈綺に惚れたか」
「……戯れを」
「貴様は『風の者』には向かんな。優しすぎるわ」
すい、と立ち上がった柳帝が、その長身で支岐を軽く見下ろす。ゆるく歪めた高貴な瞳が、また嗤っていた。
「優しすぎる男は、いつまで経っても女をものに出来んぞ。ともかく奈綺は渡さぬ。あれは俺の駒だ」
粘るつもりはなかった。ただひとつだけ溜め息をつき、支岐は踵をかえす。踵をかえした彼の背に、追い討ちをかけるかのごとく柳帝が言葉を寄越した。
「……まあ、そうだな。舜帝からの要請があれば、考えんでもない」
やはり奈綺でないと、この男には太刀打ちできないのか。悔しさをぐっとこらえた。柳帝は見抜いていた。
――今回奈綺の帰国を請うたのは、支岐の独断である。
それを愛だと認めてしまえば自滅の道。支岐はそれをけして愛とは認めない。
【花の如き】
貴梨の旅籠には、もうひとり舜の間諜が匿われていた。琳《りん》と名乗るそれは、どこがどうというわけでもなく奈綺と波長の合わぬ女であった。奈綺と波長の合う女というものが、そもそもこの世にいるのかどうかが疑わしい。そうそう簡単に合うわけもないのだが。
物腰の柔らかな女である。間諜といっても、奈綺のように戦場を駆けまわり血みどろの殺し合いをするようなものではなく、ただ桐の様子を文にして飛ばす。ただそれだけのために寄越された間諜である。物言いもまた優しく上品な女であった。
「ちょっと奈綺!」
面倒そうに奈綺は貴梨のほうへと顔をめぐらせた。秋沙と偽りの名を使っても、正直なところあまり意味がないと奈綺は嘆息する。この女どもは――まったく間諜としての才を長い平穏のあいだに落としてきたのではないだろうか。もはや諦めに近い気持ちである。
「琳に山菜を取りに行ってもらうから、ついてってやっておくれよ」
「わたしが?」
確かにわたりをつけて貴梨の旅籠に世話になっているが、この女はもともと同業の者と行動をともにすることを好まない。女が寄ると、独特の匂いを発する――そう考えているからである。
(この女は――牝の匂いがする)
楽しそうに籠の用意をする琳を一瞥して、奈綺はその柳眉をひそかに寄せた。こういう女と行動をともにすると、ろくなことがない。女の匂いは往々にして、厄介なものを呼び寄せる力を持っている。
奈綺という女は、己の身にそうして厄介なことが降り注ぐのを徹底して避けてゆくきらいがある。己の価値をじゅうぶんに知っているからこそであった。自分が厄介に巻き込まれるということは、ひいては柳に、あるいは舜に波紋が及ぶかもしれぬということでもある。
「嫌かい」
「ああ、嫌だね」
吐き捨てるようにして、それでも奈綺は立ちあがった。街娘という身である以上、こうした機会がなければ山にはのぼることができない。その山というのが、宮城を見下ろせる裏の山のことであるからなおさらであった。
もう数日も桐に逗留したら、柳に帰るつもりでいる。
「そう言ったって結局は行ってくれるところ、あんたのいいところだね」
こうして人々は、奈綺の本来の姿を見失っていく。奈綺の行動が優しさからきたことなど、おそらく生涯にわたって皆無であったろう。貴梨の言葉を肯定も否定もせず、奈綺はただにやりと嗤って琳の傍らについた。
桐は柳よりもまだ気温が低いが、晴れの日が多い。紺碧の美しい空ではなく、少しばかりくすんだ穏やかな薄青色の空である。
「ね、綺麗な空でしょう」
(……この女……)
奈綺の瞳の真奥がちかりと光った。琳は、奈綺がよく知る昔からの同志ではない。奈綺が柳へ流れてから後に出てきた女であろう。
「いつもね、この宮城の裏の山へ行くんですよ」
迷うこともなく、軽やかな足どりで向かっていく。
「ここにはわらびがあって……」
もっと上までのぼるとね――とさらに山に踏み入っていく彼女の後ろ姿に、奈綺の勘がささやいた。
(この女)
ぴたり、と奈綺の足がとまった。気配もなく――いや、気配はしっかりととらえていたのだが――男たちがあたりを囲んでいた。前方に目をやると、すでに琳の姿はない。慣れた場所だからであろう、晴れた日に山菜採りに出かける浮き立った気持ちが先走ったか、先々と歩みを進めてしまっているらしい。
「……ふん」
「噂に聞くとおり、勘の冴えた女だな」
とっ、という軽やかな音とともに若い男たちが奈綺のまわりに降りたった。四人である。ともに髪の色は見慣れた色。廉妃と同じ、薄い美しい金色の髪であった。顔立ちはそれぞれ女のように美しかったが、眉はきつく引かれ、高い鼻梁が奈綺と同じ類の冷たい彩りを添えている。
北国には、美しい人間が多い。柳も桐もむろん、また舜も大陸全体からみると北方に位置するため例に洩れず、である。
「秋沙と名乗っているそうだな、奈綺嬢」
女の唇が笑みを湛えた。この女がそれなりに愉しんでいるときの笑みだったが、これが傍目にはひどく美しく艶やかに見える。
「なに、殺すつもりなどないさ」
四人のなかでも上位に立っているらしい若者が、にこりと笑った。
「血を流さずに平穏に済ませる方法を提案したくてね」
「ふん? 平穏を目指しておきながら、女を使ってわたしをわざわざここまで連れてくるのか」
「………………」
やはりその勘はみごと、と彼はつぶやきながらゆっくりと奈綺のほうへ歩み寄る。女は微動だにせず彼を迎えた。
「聞いてもらえるかな。われわれの提案を」
「それを受け入れるか否かは提案次第さ。聞くだけ聞こうとも」
奈綺は強靭である。美しいが、強靭である。強靭であるからこそ、無敵の余裕が他を圧する。男四人を相手にして、驚いたふうも怯えたふうもない。
「夷址《いし》と奈綺嬢をまずうちにいただきたい。それから柳の全軍六師を四師に減らしていただく――という提案だ」
「ほう、いい提案だ」
にこりと笑う若者に、奈綺もまたにこりと笑いかえした。普段であれば、実のない交渉になる前に無言の殺しに入ってゆく奈綺であったが、桐と柳が一触即発の状態であるために迂闊な行動に走ることができない。少なくともこの四人、桐帝に顔の知れた間諜であろうとみえる。己の行動がどれほど国に大きな影響を与えるか、この女はよく自覚していた。
(帰りどきだな)
「いい提案だ。そちらにとっては」
それから彼女の手指が、まるで風のようにふいと動いた。少しばかり距離をおいたところで、きゃあという小さな悲鳴が起こった。若者たちの表情がはじめて険しく張りつめ――さきほどから奈綺と言葉を交わしていた若者の唇が「りん」と動くのを奈綺は見つめる。慌てて奈綺のほうへ顔をめぐらせた彼に向けて、彼女はひどく優しげな笑顔を寄越した。とっておき厭味一番の、もっとも華やかな奈綺の笑顔である。
この笑顔に、ある者は惹かれ、ある者はしてやられたと歯噛みするのであった。
ひそやかな琳の声がした。
「…………気づいて、いたの?」
かさり、かさり。
気配を消すことを知らぬ気配。足音を消すことを知らぬ足音。間諜としてはあまりに似つかわしくない。奈綺はすっと糸刃扇の糸を引きもどした。
「そんな中途半端な祖国愛で、間諜がつとまるのかな」
「……わたしは桐を愛しているわ。そうでなければ舜の間諜だなんて偽るわけもありませんもの」
愛されている女である。この若者四人にとっても、どうやら琳は愛すべき対象らしい。たったひとつの言の端、たったひとつの他愛ない仕草や表情。それだけで奈綺は琳という女の位置を読んだ。この娘が持つ平穏な空気に、若者たちも浸されているようにみえた。殺すつもりはないという言葉どおり、彼らはあくまで言葉で奈綺と対峙しようとしている。
「桐を愛しているにしては、貧相な芝居だったが」
「……嬢よ。侮辱だ」
この男と愛しあっているのか。なるほど、と奈綺は背後の大木にゆっくりと背をもたせた。
「なぜ気づいたの?」
「桐を賞賛する言葉が多すぎたのさ。舜人を装うなら、徹底してやるべきだったな。舜人は驚くほど祖国愛が強い。そう簡単に桐に心を動かしたりしない。間諜であればなおさら」
「………………」
この後のやりとりを、若者たちはどうやら鮮やかに記憶していたらしい。よほど強烈な印象だったのであろう。
「ねえずっとわたし思っていたの」
妙に緩んだ空気を持っている。
「なぜあなたはそんなに殺伐としているの、奈綺」
「わたしに何を求めている?」
こういうときに、まったく躊躇いもせずに切り返せるのは奈綺の才と誇りでもある。自分の道を信じて揺るぐことがない。
「殺しあうことで、何が生まれるというの。柳はなぜそんなに好戦的なの」
「なぜ殺すのかを知りたいのか」
「………………」
ためらいがちに頷いた琳に、奈綺は嘲笑するでもなく微笑むでもなく唇を歪めて、あっさりと答えた。
「わたしの行く手を阻むからさ」
「…………そんな」
「そうでなければ、相手がわたしを殺そうとしているからとでも言うべきかな」
「あなたも女でしょう!」
心底から人の好い女なのかもしれぬ、と奈綺は今度は確かに嘲笑した。間諜には向かない。殺すでもなく逃げるでもなく、女の生き方を説くつもりか。この手の人間を、奈綺はもっとも忌んだ。
「それで?」
若い男たちは、ただ静かに見守っている。琳に危害を加えさえしなければ、確かに殺すつもりもないのだろう。
「何のために生まれてきたの」
なるほど、と奈綺はわずか興味深い思いで愛らしい女を見据えた。幾らかともに過ごした時間が、どうやら奈綺への友情とか好感といったものを芽生えさせたらしい。それがもっとも鬱陶しいのだよ、と奈綺は眉を寄せた。
「これはまた面倒なことを」
四人のなかで一番背の高い男が、じっと奈綺を見つめていた。琳と想いを交わしている男とは、また別の若者である。
「……面倒?」
「琳よ。あんたは毎日何のために生まれてきたのかなんてことを考えながら生きているのか」
「…………」
奈綺はけっして大柄な女ではない。背も飛びぬけて高いわけではないし、体格としては琳とそう変わらない細身である。しかし彼女を眼前にしたものは、なぜかひどい威圧感を覚えるのであった。
「わたしは……愛するために」
これは面白い綺麗ごとを聞いた、とばかりに奈綺の双眸が緩んだ。確かに新鮮な言葉であった。
「愛するひととの間に、子を生すために」
「それは美しい」
ぱちり、と奈綺は華やかに裾広がる裳を腰からはずした。もはや街娘である必要もなく、この何とも動きにくい衣を身に着けている必要もない。そのあまりにもさばさばとした脱ぎっぷりがおかしくなったのか、その長身の男がわずかに笑った。裳のなかに着ていた短い麻衣が姿をあらわした。
「……そうしたいと、思わないの?」
「思わないさ」
即答である。柳帝との間に子をふたりも生した、これがその女の言葉であった。
「ひとを愛したことがない?」
「ない」
「愛したいとも思わないの?」
ひどくあっさりと奈綺はうなずいてみせる。
「子を生みたいとも?」
「思わぬ」
ふたり生んでいる奈綺だったが、やはりそう即答した。何が楽しくて己の腹内にもうひとり抱えねばならないのか、と思っている女である。
「それで幸せなの……?」
琳のそれは、ある種の好意によるものであった。
「ねえ奈綺、幸せなの?」
「幸せでないように見えるなら、おまえの眼が曇っているのさ。磨いたほうがいい」
幸せというものが何か、奈綺という女には分からない。幸せになりたいという望みもなければ、かといって不幸でいたいという望みがあるわけでもない。
ただ戦の場に身をおき、駆け引きに心を使い、舜帝に命を尽くす。この血にまみれた穢らわしくも美しく、誇り高き世界。平穏な世界で生きていくには、この身体に流れる血の種類が違いすぎる。
これがいい。ここがいい。愛するでも愛されるでもなく、主君のために戦い、国のために命を懸ける。それがいい。
『風の者』――女でいたいとも思わぬ。人間でいたいとも思わぬ。ただ風のように誇り高く燃え尽きる。そんな生き方がよかった。心地よかった。
「そんなの、間違ってる」
なぜそんなにも琳よ。悲しそうな顔をするのか。それの相手をしている己が、少し自分でもめずらしく思われて奈綺はにやりと嗤った。
「……間違っている?」
長身の若者――彼の視線がまっすぐに奈綺を見つめていた。この男の名を斂《れん》という。
「琳」
まっすぐな透明感。奈綺の声はどこでも美しく響く。威圧する声色でもあり、誘うような声色でもある。
「ひとは生き方が違う。思いも違う。何が幸せかも違う」
空が薄青い。奈綺の眼は、どこにいても現実を見据え、それでいながら常に祖国を視ている。柳ではない。舜である。
「わたしは間違っていると思うことをわざわざしない。間違っていないと思うからわたしはこの道を生きている」
とん、と小太刀を大木に突きたてた。
「わたしは常に正しいと思うことをする。わたしにとって正しい生き方というのは」
ひょい、と飛びあがって大ぶりの枝に肢体を乗せる。五人の視線が集まったが、奈綺以外の誰ひとりとして動こうとしなかった。
「愛し愛されて、子を生むことではないのさ」
斂――彼はこのときの奈綺の笑顔を、一生涯忘れることはなかった。
◆
奈綺は怖れられる存在であり、また同時に憧れを抱かれる存在でもあった。
この女の異端さを越えてなお、彼女に想いを寄せる男も確かに存在したのである。
◆
奈綺は、愛とは無縁の世界で生涯を過ごした。縁があったとすれば、祖国愛以外にない。
「久々に見る顔だ」
こちらを見もせずに、柳国皇帝は背中でそう言った。
「おまえの腰巾着が、つい先だって押しかけてきたぞ」
汚れた麻衣のまま、奈綺はどさりと寝台に腰をおろす。傍らの棚上に置いてある果実酒を舌先でひと舐めし、それからそれを一気に飲み干した。この女は酒にもめっぽう強い。
「支岐か」
「そうとも。おまえを舜に帰してくれとな」
唇に残る酒をふたたびひと舐めしてから、奈綺は無遠慮に体を横たえた。
「独断だな。陛下がわたしの帰りを今望むはずがない」
「おう、読めているじゃないか奈綺よ」
ようやく柳帝がこちらに美貌をめぐらせる。体を交えても、幾年ともに暮らしても、子を生しても、相変わらずいけ好かない男であったが――それでも懐かしい顔であった。この男と初めて真っ向から対峙した十七の歳から、もう十年近くも時が経とうとしている。その間に、厭というほど傍らでこの男の顔を見続けてきた奈綺であった。
「あの男、わたしに惚れたかな」
もっとも哀れなのは支岐という男である。懸命に己を律しているつもりながら、柳帝にも見透かされ、奈綺にも見抜かれている。奈綺の言葉に、柳帝は何とも愉快そうに喉で嗤って彼女の横に腰をおろした。
「彩妃からも報せが来たわ」
「ふん?」
「おまえを舜に連れ戻せと、舜帝に刃向かってばかりらしいぞ。仕事にならぬ、と」
「………………明日からしばらく街におりる」
「ほう」
なぜ、と柳帝は問わない。不意に話題をそらした奈綺を咎めることもしない。ただし、その無言が最低限の説明を求めている。
「舜の間諜と偽った桐女《とうじょ》と出会った」
「…………」
「その取りまき四人のなかに、気がかりなのがいるのさ」
あの長身の若者である。
「気がかり?」
眸をみれば、その人間が何を考えているのかどういった人間なのか、たいてい察せられる。奈綺がもっとも強く感じていたのは、その若者の視線であった。双眸が違う、と感じた。あの野生的な、しかし美しい射るような双眸である。
あれは何かに似ている――柳帝だ。柳帝に似ているということは、奈綺に似ているということでもあった。あの眼をもつ人間は、何をしでかすか分からぬ。奈綺は己をよく知り、また柳帝のことをもよく知っていた。だからこそ、あの眼を警戒する。
「ふん? 好きにしろ。朱綺に会うか」
こともなげに、奈綺は首を横にふった。もうずいぶんと息子の顔を見ていない奈綺だったが、秋沙に対してと同じように、まるで会いたいという素振りも見せない。この女の場合、けっして会いたいと願う気持ちを我慢しているわけではなく、会いたいとも言葉を交わしたいとも思っていないというのが本心なのである。素振りを見せない、というのには語弊があるかもしれぬ。
「…………」
横たわる奈綺は、自分の上に覆いかぶさってきた帝の腹を軽く膝で小突きかえした。
「孕んだらどうしてくれる」
やはりか、と柳帝は片眉をあげてそのしなやかな軀を退ける。奈綺が拒むと分かっていながら、この男はこういったやりとりを愉しんだ。奈綺の強烈な気性と性格と、これらをすべて見事に受け入れた男は、この柳帝以外にいなかったといえよう。あえて他に挙げるならば、おそらく奈綺を幼いころから優しさで見守ってきた主君舜帝か。
「産めばいいさ、とは簡単には言えんな」
柳帝の笑顔も、奈綺の笑顔も、見るものが見ればうっとりする。見るものが見れば腹の底から小憎たらしく思う。
「共寝するなら廉妃がいるだろうに」
「孕んだらどうしてくれる」
先ほどの奈綺とまったく同じ言葉で切り返す。
「抱けばいいさ、とは簡単には言えんな」
先ほどの柳帝とまったく同じ言葉で切り返す。
「だろう。今孕ませると、後々厄介なことになるだろうからな。抱くに抱けんのさ――良い体をしているんだが」
こういった煽りが奈綺には通じないことを知りながら、柳帝はそれでも奈綺を煽るのが大好きなのであった。冷酷かつ暴君とうたわれる男だったが、もともと意外なほど遊び心のある人間だ。
それも頭がいいから、特に頭のいいやりとりと駆け引きを好む。彼が奈綺を好んだ理由は、そこにもあっただろう。
「朱綺に伝えておくことはあるか」
ひと呼吸もおかずに、奈綺は答えた。
「ひとを殺す練習をしておけ、と」
【斂氏之想】
桐の間諜、長身の若者の名を斂という。
実は生まれが舜である。ただし物心つくころには桐に棲んでいたため、舜での記憶はない。舜人だとひそやかに教えてくれたのは、師であった。
少し似ている。奈綺に、である。
けして性格が悪いわけでもなく、何かに憎悪を抱いているわけでもない。だがひとを殺すことに一瞬の躊躇もない男であった。与えられた仕事はすべて期待以上にこなしてみせる男であった。ただ奈綺のような祖国愛を持っていない。何をというわけではないが、何かを探していた。桐の間諜は強くなかった。琳という特別な女が間諜を仕切っており、誰もが彼女の平和主義に逆らえない。琳――桐帝が文官と姦通して生まれた子である。
ぬるま湯であった。
この微妙に弛《ゆる》んだ世界を、斂という男はずいぶんと前から疎んでいた。
◆ ◆ ◆
「……来たか」
そう呟かれたとき、斂の背筋に快感とも恐怖とも知れぬものが走った。まるで待ち伏せされていたかのような不気味さを感じ、斂はゆっくりと息を吐いた。息を吐いたことを感じさせないのが、この男と奈綺のよく似通ったところでもある。
「予期していたのか」
「していた。だがなぜ来るのかは予期していないとも」
平然とした物言いが、まるで女ではない。かといって男でもない。女と男と、人間と――そういったものをすべて超越した不思議な生き物が、斂を下からすくうように見据えていた。その双眸が美しい。 邪気のない、感情のない、だからこそ冷たく美しい双眸である。この女と初めて出会ったのは、つい先だっての桐でのことだったが、そういえばあのときも同じ眼をしていたと斂は思い返した。単純な話である。あの眼と迷いのない言葉に惹かれて、斂はここまでやってきた。先にも述べたとおり、この男には奈綺のような祖国愛がない。桐への強く深い愛がないうえに、己の祖国である舜にほのかな憧れを抱いていた。桐と舜には交流がなく、一方で舜と柳には深い交流が築かれている。
おのずと導かれたといって良い。
「桐を捨てたか」
なぜ来るのか予期していない、と言ったわりには飄々とした口ぶりで核心をついてきた。
「そう思うか、奈綺嬢」
桐では女に「嬢」という敬称をつける。ここは柳であったが、それでもあえて斂は奈綺に敬意を表してみせた。奈綺は無言でうなずいた。駆け引きで騙すときと、そのまま本音で流すときと、この女は的確にひとを選び、態度を使いわける。
みごとだ、と斂は微笑を唇に滲ませた。笑いかたは似ていない。この男の笑いかたは奈綺のそれと違って、ひどく爽やかである。持ってうまれたものだ。かといって、支岐のような根っからの人の好さがあるわけではない。
「あんたの眼」
奈綺の物言いは基本的に静かである。声は大きくない。時おり呟くように言葉を落とす。しかしよく聞こえた。
「俺の眼?」
「何をしでかすか分からない眼さ。いったい何を思ってわたしに視線を寄越していた」
水差しをひょいと手渡す。斂はそれの口をひと舐めして、水を含んだ。冷たい水が喉から胃の腑へ落ちてゆく感覚を愉しんでから、彼はゆっくりと水差しを棚のうえに置いた。
「……嬢は何を感じた。俺の視線に」
「羨み」
惹かれる。この迷いのない言葉――飾らぬ言葉。間髪いれずに返してくる鮮やかさ。見抜かれていることを、斂はけっして不快に思わぬ。羨み。たしかに羨みがあった。この誇り高き孤高の『風の者』への。奈綺という無遠慮な女の、その飾らぬまっすぐな言葉を爽快に思うだけの器が斂にはある。それが生涯を通じて彼を日々成長せしめ、また奈綺の生涯にも深く関わることになるのだったが、この時点ではまだその予感はない。
「羨みか」
「それから」
「それから?」
よく見ても、やはり美しい女であった。どこぞの皇族の姫にでも生まれたほうが、似つかわしいのではないかと思われる容姿である。
「ぬるい平穏を厭う眼をしていた」
桐とは合わぬ男よな。あの国は、男の耀きを消してしまう――奈綺はそうも言った。
「俺が桐を捨てるふりをして、柳に災いをなそうと入ってきたのだとすれば」
「災いをなそうとして入ってきたのか」
着替えかけていたところらしい。粗末な麻衣から、白く滑らかな胸元がのぞいている。隠そうともしない堂々たる仕草に、斂はやはり爽快感を覚えた。
「嬢には敵わぬ。あなたに惹かれてやってきたのさ。それでは受け入れられないか」
「何がしたい」
奈綺の瞳が、ほんのわずかに光を帯びる。静謐とした冷ややかな威圧感に、斂は腹を据えて対峙した。このとき、すでに奈綺は決めている。まずこの女がわざわざ宮城を離れてまで斂を待ったのは、桐で出会ったときから使えると踏んでいたからであった。
むろんこの女のことである。長年の付き合いである支岐が、己に想いを寄せはじめていることにはとうの昔に気づいていた。あれは元来のお人好しである。前々から『風の者』には向かぬと思っていた同志でもあった。
――支岐はもはや使いものにならぬ。
この時点で、奈綺は非情にも支岐を見放している。たとえ柳帝よりも長い、二十年来の仲間であっても奈綺は容赦がない。
斂が己を見つめる双眸に、強い憧れと一種の淡い恋情を奈綺は感じていた。しかしそれでもこの男を待ったのは、その双眸にもっとも強く浮かんでいた冷ややかな強さを見たからであった。ひとを躊躇なく殺せる双眸である。何かを求めている眼ではあったが、ひとつ何かを見つければそれに命を懸けられる双眸である。支岐より使える。奈綺はそう予感した。こういった彼女の予感は、ほぼ間違いなく当たる。
一種の賭けでもあった。ひとを使い誤ると、自滅の道をゆく他にない。だから奈綺は、ひとをけっして見誤らぬ。才である。
「何がしたい」
斂という男が何を望んでいるかわかっていて、奈綺はふたたび訊ねた。
「嬢。あなたのもとで生きてみたい気がする。だからやって来た」
にやり、と奈綺の唇に笑みが浮かんだ。
「訊いてみようか。おまえ、何に忠誠を?」
「斂という」
「斂、おまえは何に忠誠を?」
なかば気圧されそうになるのをこらえながら、しかし斂は奈綺の強い双眸に真向かった。そうして彼は、ゆっくりと奈綺の前に膝をつく。
「俺に愛する祖国はない」
舜に生まれながら、桐でゆらゆらとぬるま湯に浸かってきた。それはこの男にとって、生涯の汚点である。もっとも耐えられぬ屈辱的な生き方であった。何をというわけではなかったが、何かを探していた。己が命を懸けられるもの。
「だからあなたに」
「――確かに聞いた。覚えておくことだ。おまえの主君はふたりいる」
「は?」
たった一目でここまでの行動に出た斂の心情は、なるほど何も知らない人間からすれば唐突に過ぎたかもしれぬ。しかしこの男が確かに奈綺に似ているとすれば、それもまた自然なことであった。獣よりも獣じみた野生的な勘と、曇りなき眼《まなこ》を持っている。
「舜帝と柳帝さ」
「……ふたり?」
「そうとも」
気配はなかった――いや、かろうじて感じた。かろうじて感じたのは斂が斂であったがためで、けっして奈綺が気配を消していなかったわけではない。しかしそれでもなお、斂が奈綺を避けることはできなかった。ぴたり、と斂の喉もとに小太刀が添えられている。
「舜帝に弓ひいても」
小太刀をゆっくり手前に引く。まったく誰が相手であろうと容赦がなく、まるで血を厭わない。
「柳帝に弓ひいても」
奈綺が本気で喉を裂こうとしているわけではないと、そう分かってはいた。だから反撃に出ようと思えば出ることができたのだったが、まずその気にならない。ともかく反撃する気も失せさせるだけの空気を奈綺が持っており、また斂のほうも最初から反撃する気がないのであった。彼は黙って喉を奈綺に預けた。
「どちらに弓をひいても、そのときはわたしがおまえを殺すよ」
「覚えておく」
支岐よりもよほど冷ややかな猛禽の眼だ、と奈綺は思った。いい拾いものをしたかもしれぬ――血のついた小太刀でひたひたと斂の頬をうち、奈綺はふたたび美しい笑みを浮かべた。
◆ ◆ ◆
街なかで堂々と奈綺が斂を家に入れたのは、その事実を広めるためである。この女の怖ろしいところは、何も考えていないようでいながら緻密に計算して動いているところであった。計算というよりは、正確な予測に基づいて、といったほうが良いか。
奈綺が斂を入れて数日ののちに支岐がやってきたことも、当然奈綺の予想どおりである。
「…………奈綺、おまえは阿呆か」
木椅子に腰かけて豆の皮をむいている斂の姿を見るなり、支岐は小声で奈綺に詰め寄った。常に奈綺が支岐を威圧しているわけだが、かといって彼女から支岐に詰め寄ったり怒鳴りつけたりしたことはない。いつも支岐が奈綺に噛みつき、そしてそういうときにこの女は眼で嗤う。ゆるく双眸をすがめ、それからさらりと視線をよそへ流すのである。相手を嘲っているときも、嘲っていないときも、この女は時おりこういう嗤いかたをするのであった。
「阿呆に見えるか」
「ほかの何ものでもないわ。何のつもりだ――『風の者』がよその人間と馴れ合うなど」
時が経っても変わらない、たとえば奈綺という女がいる。しかし時が経つにつれて変化してゆく人間もいる。支岐がそのよい例であった。以前ならば単純に奈綺への敵愾心で噛みついていたのが、今ではその瞳にも表情にも心配の色があらわれている。それを隠せないのが致命的よな、と奈綺は腕を組んだまま思った。
「支岐よ」
「何だ」
支岐が、斂の存在を気にしている。素人にも分かるような気配であった。
(支岐よ。残念だ)
「貴様、仕事はどうした」
「………………」
「独断で柳へ飛んできたのだろう。どういうつもりか聞かせてもらおうよ」
「心配ない。そんなことより、おまえこそどういうつも、」
ぱしっ、と弾けるような音がした。支岐の首筋の皮膚が裂け、鮮血が溢れだしているのであった。本来この男の力は、確かに『風の者』としてふさわしいだけのものである。これほどまで無様に、無防備に首筋を狙われるなどあるはずのないことだった。そうしてまた、こんなふうに首を狙われたということだけで、奈綺はこの男を軽蔑した。
「奈綺……」
「阿呆は貴様だ。恥を知れ」
「俺はおまえを――」
この男、ほんとうに惚れたか。
(呆れてものも言えんわ)
鈍い音をたてて支岐の体が崩れ落ちる。奈綺の足が容赦なく彼の腹を蹴ったのであった。
「陛下直属の『風の者』ぞ。殺すわけにはいかないのさ。目が覚めるまで、わたしにかまうな」
声はやはり冷ややかである。愛を知らない女だが、その未知の愛を向けられてなお、けっして動揺することはない。奈綺にとって、知らないということは存在しないということに等しい。むろん、奈綺という女の世界のなかにおいて、である。このとき彼女が支岐を殺さなかったのは、だからむろん愛情でも憐憫でもないのである。舜帝直属の『風の者』――主君に無断で同志を殺すわけにはいかなかった。
ゆっくりと斂が椅子をたち、傍らに歩み寄ってきた。
「奈綺」
支岐の双眸に嫉妬が浮かんだのを認めた奈綺は、ふたたび男の腹に容赦ない蹴りを寄越す。
「目を覚ませ。色恋沙汰に走って己の仕事を忘れるくらいなら、陛下の眼前で自害しろ」
「しかし、」
「役に立たぬ同志なぞ要らぬわ。わたしのゆく道の妨げとなる」
斂がふたたび奈綺の名を呼んだ。
「奈綺」
男を惑わす己が悪いとは、奈綺はけっして思わない。この女にとっては、惑わされるものが忌み嫌うべきものであり、騙されるものが憎悪すべきものなのである。
「……宮城へ連れてゆけ。柳帝が舜へ送りかえしてくれる」
「道理で噂があっさり流れてきたと思ったら、奈綺よ……おまえ……これが狙いか」
首から大量の出血があるにも関わらず、それでも口が利けるのは支岐が『風の者』であるからこそである。
「今頃気づいているあたりが糞だと言っているのさ。これでもおまえがやって来ないことを、ひそやかに願っていたのだけれどね」
残念だ、と奈綺は血だまりを踏みしめて椅子に腰をおろした。
斂は、こういった奈綺のひとつひとつの言葉に。ひとつひとつの行動に釘づけになった。彼にとって、奈綺は確かに生涯のひとである。支岐とはまた異なった視線で、奈綺に想いを寄せた。
「心底思うが……奈綺嬢」
(いい女だ)
柳帝に対する態度と、斂に対する態度と、奈綺の場合それほど変わらない。
「怖ろしい女だ」
「褒め言葉か」
しゃあしゃあと言ってのけ、粗末な麻衣の胸元もはだけたままで、これもまた粗末な寝台に体を横たえる。無防備にみえるが、何をどうされても返り討ちにできる絶大な自信があるからこそであった。
「斂よ」
「何か」
「次にあの男が来るとすれば、わたしのいない時だ」
あの男――支岐のことである。
「分かっている」
水差しの水を飲み干して、斂は奈綺のためにふたたび水差しをいっぱいにする。掛け布の下で、その言葉に奈綺は小さく笑った。
「遠慮なく殺せということだろう。従うさ」
怖ろしい女だ。けれど今まで見たなかで、もっともいい女だ。もっとも美しい女だ。斂と奈綺は、背中を向けあいながらそれぞれの笑みを唇にたたえ、瞳を閉じ――そして浅い眠りに入ってゆく。
◆ ◆ ◆
柳帝が毒に倒れたのは、それからしばらく後のことであった。
【慧眼の士】
――真実を見極めねばならぬ。
柳帝が毒に倒れたといっても、重篤に陥ったわけではない。ごくごく軽症である。だがそれを知った奈綺は怒った。感情のない彼女にしては、激怒したといっても過言ではない。柳帝への怒りではなかった。
「なんと間抜けな」
激怒してはいるものの、けっして顔には出さない。
「俺はおまえほど毒に詳しくないぞ。ひとくちふたくち食ってすぐに気づいた、褒めてもらいたいものだな」
羹《あつもの》に入っていた茸の毒にあたったらしい。茸の量は少なく、したがって食してすぐに異変に気づくことができたのは、柳帝が柳帝であったからである。常に暗殺の危機に直面している一国の皇帝だからこそ。それを分かっていながら、奈綺はしかし容赦ない。
「心当たりは」
奈綺の無愛想な問いに柳帝はゆっくりと上体を起こし、水差しを手にとった。女のように美しい弓なりの眉をひそめ、唇を小さく歪める。
北国とはいえ、夏は暑い。湿気のない渇いた暑さであるため、柳帝の室の奥には小さな硝子台がしつらえられ、そこにこれもまた小さな氷が据えられている。むろん溶けてゆくので、この氷は一日にだいたい二度ほど新しいものと交換される。
「さてどうだか。桐人の仕業か、柳人の謀反か。それとも舜人かな――おまえのような」
「わたしのような」
訊ね返すふうでもなく呟き、美貌の女は気のない嘲笑を唇に浮かべた。
「おまえのような。舜帝に忠誠を誓い、隙あらばこの俺の国を奴に献上しようとしている。そんな舜人さ」
「……ふん。わたしが手を下したとは考えないのか」
きらきらと光りながら、氷が溶けていく。まるで宝石の数々が触れ合って音をたてているような煌めきが、目に美しい。ふたりの視線が何とはなしにそこへ向けられた。
「有り得ぬ」
男は断言する。ふたたびふんと鼻を鳴らし、奈綺は不機嫌な様子で寝台に腰を下ろした。
「おまえが、そんな温《ぬる》いことをするはずがない。ましてや人を殺すために、致死量にもいたらぬ茸を使うなぞ」
「確かにそうだ。茸などより鳥兜でも盛るだろうよ――だいたい茸ごときで簡単にくたばるような男ではあるまい」
よく言ってくれるわ、と柳帝はしなやかな指先で氷の水をぴしゃり弾いた。とはいえ、柳帝があたった茸というのは“わたり”と呼ばれるものである。大量に食せば死に至ることもある毒茸であった。
上方にある丸窓から陽光が入ってくる。それが奈綺の頬にかかった水を、ふたたび華やかに煌めかせた。
「おまえは俺を愛している」
「なに?」
柳帝の指がゆるく奈綺の濡れた頬を撫でた。女の快感を底からひきだすような触れ方をする。
「おまえは俺を愛している」
この男がもっとも愉しそうな顔をみせるのは、やはり奈綺と戯れているときである。今もひどく愉快そうな色を瞳に湛え、奈綺に顔を寄せてきていた。女を片端から腑抜けにさせるような男である。むろん奈綺は動じない。顔色ひとつ変えずに水を飲み、ゆったりと枕に背をもたせた。
「おまえは愛している男に対して――毒殺なんぞこすっからい真似はしないさ」
「おう、毒殺してやろうか帝よ」
茸では済まさないよ、と奈綺はわざと柳帝の耳に囁いた。
「その斂という男は」
この愉しそうな顔が、やはり憎らしい。
「俺を殺す男か」
どことなく漠然とした問い方をしてくる。柳帝にも似た、それでいて自分にも似た斂の双眸を思い出してにやりと嗤った。
「当然だ。そうでなければわたしが認めぬ」
◆ ◆ ◆
「所詮俺は――おまえと同じ穴の狢《むじな》だったらしい」
「……同じ?」
薄紫の高貴な襲《おすい》を羽織った美妃が、その美貌に似合わず激しく眉をひそめた。
「おまえ、陛下を殺せるか」
「支岐。己の主君に対して無礼ではないのかしら」
「無礼は承知だ。質問に答えろよ――彩妃」
舜帝正妃は再び支岐に対して、ひどく厭そうな顔をしてみせる。さんざ奈綺と比較され、いやけして奈綺に対して敵愾心を持っているわけではないが、この支岐に対しては良い気持ちを抱いていない。
斂と同じである。この女もまた、奈綺に憬れる心を奥底に潜めているのであった。もとは柳国の間諜である。しかし間諜を捨て駒にしない舜帝に惚れぬき、柳を捨てた女でもある。やや引け目があるため、いっそう奈綺と自分をすぐ比較する支岐のことが気に入らない。舜帝の愛情に包まれてゆるやかに暮らすのが幸せであるのに、支岐の顔を見るとどうしても昔の生業を思い出すのであった。
やむを得ぬ。
彼女の心真奥にはまだ、戦い、人を殺して生きる感覚が根付いている。それはけっして彩妃にとって、忌み嫌うだけの感覚ではなかった。懐かしくもあり、誇らしくもあった。
「殺せると思うか。殺せるはずがないでしょうよ、わたしは陛下を愛しているもの」
支岐は苦笑した。
宮城の敷地内。神泉のほとりである。
「愛した男は殺せぬか」
「殺せぬ。わたしは人間だから」
「俺もよ」
「愛した女は殺せぬか」
「殺せぬ。俺も人間だ――痛感したさ」
よどみないやりとりであった。
「俺は愚かぞ。おまえと同じだ」
「同じにしないで頂戴な」
神泉の水面が、きらきらと陽光を受けて耀いている。光が支岐をふちどり、彩妃をふちどり、柳へ繋がる北の白山の稜線をふちどった。
「おまえと違うのは、想い人が俺に想いを返すことがないところかな」
「…………」
「永遠に」
この男はとうとう奈綺を愛したのか。
彩妃は苦々しい思いで支岐を一瞥した。苦々しいという気持ちの裏で、わずか柔らかな優しい気持ちが浮かんでくるのをも彼女は感じていた。はるか昔から伝えられていたものである。
――『風の者』はひとに非《あら》ず。
ずっと怖れていた。怖れていないつもりでいながら、存分に怖れていた。奈綺のような『風の者』に出会っているからこそ、なおさらである。『風の者』といえばもはや彩にとっては奈綺なのであり、あの女はまた憧れと怖れの対象なのであった。
ひとり、同志を見つけたような思いがしたのかもしれぬ。支岐。この男は『風の者』といえど、ひとであったと。愛を知った同志であると。安堵したのかもしれぬ。
「俺は眼《まなこ》が曇ったよ。絶対的に信頼できるはずだった己の眼がな」
少しばかり悲しげな。
「奈綺はまだ恋もしないまま?」
ぱしゃり。彩妃はゆっくりと素足になり、神泉にそれを浸した。空は夕陽に色を染めている。舜の夏は暑いが、湿気のない爽やかな暑さであった。その爽やかな暑さに、冷たい神泉の水が心地よい。彩妃は鮮やかに件の女を思いよみがえらせていた。
――あの女が愛を知る。それはそれで見物だ。
そう思ったことが何度もある。
「奈綺の世界に、愛は存在しない。知るも知らぬもないさ」
俺は眼が曇ってしまったわ。ふたたび支岐が呟いた。奈綺を愛している、とは彼はけっして口にしない。それがかえって彼の愛情の深さをうかがわせた。こういうところが、おそらく人間らしすぎると奈綺に敬遠される原因なのだろう。
わたしもこの男も。間諜になるべき人間ではなかったのではないのか。彩妃は幾分あたたかく、幾分寂しい気持ちでそう思った。
間諜としての血生臭さ。あの目を瞠《みは》るほどの強さ。そういったものへの懐かしさと誇りは、いまだに残る。しかし時が経ち、舜帝に愛されれば愛されるほど、それが少しずつ――ほんのほんのわずかずつ薄れていっているのを彩妃は自覚していた。
それが切なかった。
「…………哀れな」
支岐の首もとに、大きな裂傷がある。奈綺の仕業だとすぐに知れた。心の底から哀れだと思った。哀れだと思ったがしかし、それもまたこの男にとってはけして不幸とは言い切れないのかもしれぬ、とも思った。
「俺は悲しい」
吐き出すような声色で男は言った。自嘲の笑みを口元に湛えながら、彼の双眸はどこか遠くを見つめている。
愛おしい。彩妃はふとそう思い――思いながらそんな己に幾らか驚きもした。
(戻りつつあるのかもしれない)
人の形《なり》をしていながら人ではないもの。間諜という生き物から、血の通う生温かい人間という生き物に、わたしたちは戻りつつあるのかもしれぬ。
「これからが俺の正念場だな」
愛おしい。
むろん舜帝に対する恋情や愛情とは種類の異なる感情ではあったが、やはり彩妃は今の支岐を愛おしいと思った。
(少しだけではあるけれど……)
初めて同調した瞬間は、この男と女がただの生身の人間に戻った瞬間であった。そのことを、彩妃は切なく思った。支岐もまた、彩妃には知れぬ心の奥底で彼女と同じように思っている。心行き着くのは、やはり奈綺という急峻のような女の美貌と生き様なのであった。
心と情を抑えることがどれほど難しいかを、支岐はすでに知った。恋も愛もするはずがないと思っていた男である――心と情を抑えることなど容易であると思っていた。
「心は容易に隠せない。俺たちは少なくともそうだった」
奈綺。
いったいあの女は、どういった要素から成り立っているというのか。
「けれど俺たちはおそらく間違ってはいない。異常な存在だったところから、ごく普通の存在に立ち戻った。それだけだろう」
「あなたの愛するひとが普通の存在なら、これからの生涯を幸せに過ごせたのに」
奈綺。
彼女は美しい。あの女が優しく家庭的で、それでいてなおただの街娘であったならば――むしろ支岐がごく普通の人間に立ち戻ることで万事がうまくいったはずだった。
だがしかし、それを分かっていても支岐は言う。己の愚かさ加減をじゅうぶんに悟った苦笑とともに、彼は彩妃を一瞥した。
「……だが、あいつが普通の女だったなら俺はこんなふうになったりしなかった」
奈綺は人に非ず。
奈綺を知るさまざまな人間が、口々にそう言う。しかし奈綺の常ならぬところに、みな惹かれている。それが事実だ。
「これからが俺の正念場だ」
ふたたび支岐はつぶやいた。
◆ ◆ ◆
あの女の、何をどういうふうに愛しているのかなど分からない。ただ愛している、と感じた。己の直感を絶対的に信じる、『風の者』らしい愛の自覚であった。
「知らんわ」
柳宮中の盤所《ばんどころ》の長とは、顔見知りである。支岐は今までに幾度も、薬師として柳に忍んできた。陰ながら奈綺を助け、結果的には柳帝をも助けてきた。盤所の長は、したがって支岐を疑わぬ。それを利用して毒茸を羹に入れたのだったが、おそらく奈綺はすでに気づいているだろう。その浅はかな行為が、奈綺の嫌悪の的になっているはずだった。ほんとうに浅はかであった。そうすれば奈綺がたとえ真実を察したとしても、ほかの誰かが斂というあの男を疑って殺すのではないだろうか、と。 落ち着いて考えれば、こんなにも簡単に己の浅はかさに気づくというのに。
「知らなかった」
しかし不思議と気持ちは落ち着いていた。
(愛というものが、これほどに人を乱すとは知らなかったぞ)
もはや舜の『風の者』ではなかった。支岐、というひとりの男であった。支岐が支岐というひとりの男に立ち戻ったということは、つまり舜帝をも舜国をも捨てたということに他ならぬ。それは今まで舜をすべてとして生きてきた彼にとって、相当の覚悟であった。
首にさげていた首飾りをはずす。舜の護り神である鳳凰をかたどった、玉の首飾りである。それをはずして、私室の卓子《つくえ》にことりと置いた。ことり。訣別の音であった。
ひとりの間諜にしては、ずいぶんと豪奢な室だ。何をするにも困らないように、と舜帝があつらえさせた『風の者』のための室。向かいにある奈綺の私室は、もう主がいなくなってから何年も経った。支岐も今夜、この室を出る。
いつかの夜、この舜をふりむかずに後にした奈綺の美しい姿。この目で見たわけではないというのに、なぜかその姿が眼裏《まなうら》に鮮やかに浮かびあがった。
――舜を捨てる。
「申し訳ございませぬ。陛下」
呟いた。おそらくあの賢帝ならば、支岐が首飾りを卓子に置いてゆくことですべてを悟るだろう。
「申し訳ございませぬ」
彼はひっそりと瞳を閉じた。わが主君よりも優先するものが現れるなど、考えたこともなかった。
「このお詫びはいつか必ず」
――生まれ変わったあかつきには、もうけっして主君以外を見たりはしない。
申し訳ございませぬ、ともう一度支岐はつぶやいた。
小太刀を腰帯に差し、柳で頻繁に使っていた糸刃扇を懐に入れる。毒瓶は邪魔になる、そう思ってすべて卓子に並べて置いた。
このときにはもう、支岐は自分を取り戻していた。
――舜を捨て、戦いにゆく。
それは、自分自身のための戦いであった。そこにはもう、舜も柳も、どんな国も存在しない。理想の己と、堕ちた己と、ただふたつの像しかなかった。
どちらかを、滅ぼさねばならなかった。
【兆し】
理想の己と、堕ちた己と。どちらを滅ぼさねばならないかということは、支岐という男自身がもっともよく理解していた。
自分にとっても、はからず愛してしまった女にとっても、理想の男でありたいと彼は思った。
いつか奈綺が舜を発ったとき、彼女は舜の宮城を一度たりとも振り向かなかった。
あのときの奈綺とまったく同じように、支岐は振り向かずに舜を去った。ひとつだけ異なるのは、奈綺のようにいつかここへ戻ってくる心が、支岐にはもうない。それだけである。
彼はまっすぐに栗毛の牡馬を走らせた。夏の夜風が、体にまとわりつく。支岐は柳に入らず、東の大回りで桐に入った。
◆ ◆
貴梨の旅籠には、足を向けない。支岐はまっすぐにある邸へと向かった。
やはり国風は異なる。舜はどちらかといえば暖かく人肌感ぜられる、賑やかな宮都をもつ。その南に位置する大国堯《ぎょう》もまた、舜とよく似ていた。この堯国が、歴史の表舞台に名乗りをあげるのはまだ先の話である。
柳はどことなく冷涼としている。しかし強靭な北国のたくましさを持った宮都であるといえよう。しかし桐は、そのどれとも違った。見てすぐに気づくことがある。一見してすぐに知れる、明らかに女の多い国であった。賑々しい。だが、ひどい不自然さを感じる。
支岐は、なんともいえない思いを抱えたまま邸の番兵に来意を伝えた。
驚くほど容易に、支岐は邸内に通された。廊は殺風景で、ただそれほど柔らかくない絨毯がずっと敷かれているだけである。女の眼を楽しませるには無粋、このような邸は、もはや桐には数少なくなった。この国は武の国ではない。
(女の国よな。強くもあるが、脆くもある)
華やかな衣裳をまとう女官に従い、支岐はそれにあわせてゆっくりと歩みを進めた。もう間諜の粗末な衣ではない。地味ではあるが、ごくごく品のよい貴族の衣裳である。けっして野蛮な風情の男ではない。こういう衣裳をつけるとむしろ、生まれたときから貴族として生きてきたのではないかというほど紳士的な空気を放つ。穏やかな――女に警戒心を抱かせない男であった。
「どうぞ」
つい、と女官が一歩退いた。絨毯とともに続いた廊の突き当たりに、大きな室《へや》がある。その両開きの扉が開けられており、支岐は丁寧に中へと導かれた。
「それでは」
後ろ姿を見せることなく、女官が静やかに外へにじり出てゆく。扉ががっちりと閉じられたのを確認して、支岐は豪奢な織布をそっともちあげた。織布の向こうに、人影が坐している。
「ご無沙汰しております」
「ようやっと来ましたか。支岐」
音をたてずに床に胡坐をかき、そうして支岐はその人間に拱手してみせた。なんともいえないほろ苦さが、男の心に滲んだ――本来拱手すべき相手を、もう彼は捨ててきた。
織布の向こう、その織布の豪奢さとは裏腹なほど素朴な主座から、ひとりの女性がゆっくりと降りてくる。そこに坐していたのは女性なのであった。
若くはない。目じりにも口許にも皺があるが、気品に溢れていた。すでに髪には白髪が混じっており、切れ長の双眸には厳めしい光が宿っている。この邸の女主人であった。
「お待ちしていましたよ――心から」
「ここに来ることがあるとは思いませんでしたが」
苦笑を返して、支岐は拱手を解いた。女があるじの邸にしては、殺風景かつ無粋であったが、これが彼女の桐国への思いなのであろう。女の手招きに従って、支岐は静かにその傍らへ歩み寄る。
「本当にしかし、突然来たものですね」
「少々予想外の出来事がございまして」
「どのような?」
「お聞かせするようなものではございませんよ」
このときの支岐の物腰は柔らかい。これは彼がもとからそういった物腰の持ち主であるからではなかった。常に奈綺という女の鮮やかさの影にいた男だったが、やはりこの男が孤高のまま駆け出すと見事といって良い。柔らかい物腰は、まさに幼いころからの鍛錬のたまものである。
「そうですか? ならば聞かずにおきましょうね」
女性は穏やかに微笑した。それから上品に支岐の頬に手を伸ばした。
「さて、支岐」
それにあわせて、従順に支岐は彼女に顔を寄せる。若くない女だったが、肌はけっして枯れてはいなかった。皺さえあるものの、おそらく四十過ぎの女にしては充分に張りのある美しい肌である。
良い香《こう》の匂いがふわりと漂った。
「はい」
男の双眸奥が、ひそやかに光をもった。
「覚悟はおありですか」
「むろん。あるからこそ、こうして伺いました」
「よろしい。それでは」
支岐の耳元に、女性は小さく囁いた。
さて、この女性を杼氏《ちょし》という。
桐国の先帝は、男であった。早世したが、美々しい男であった。杼氏は、この先帝の愛妾である。偶然にもこの先帝と、その愛妾だった女の話を、柳国の片隅で口の端にのせている者がいる――奈綺である。
「杼氏はいまだ、桐帝に恨みをもっているだろうな」
奈綺は卓子に水差しを置き、小さな灯皿の火を吹き消した。うなずいた斂は、寝台に腰かけたまま酒器を傾けている。育った国に未練がないから、もはや隠すことは何もない。憧憬――美しき孤高の女に、従ってゆこうと決めている。
柳都から北へ北へ、この国の北端に夷址という都市がある。七年前に、桐と鈷竹の連合軍が柳に大敗を喫した都市であった。奈綺と斂は、そこにいた。
香荻《こうてき》が死んだのち、柳帝の信頼を得てここに派遣されたものはいない。むろん香荻などは信頼されていないからこそ、柳都から遠い地に遣わされたのであったが、もはや夷址を治める豪族はいなかった。今、この夷址をこじんまりとまとめているのは、懐かしき柳の間諜彩の弟分、衛《えい》という男である。
彩のように華やかではない。斂のように冷涼でもない。支岐のように熱くもない。むろん、奈綺のように人間離れしてもいない。とにかく足の先から頭の先まで、純朴。まるで土着の民のような素朴さに溢れた男であった。そういった男が、夷址をまとめている。まとめているのがそういう男であるから、自然とこの七年のうちに、夷址は朴訥とした色合いを持ちはじめた。
さびれている――と、他国の目には映る。しかし、このなかには奈綺の見知った生え抜きの柳兵しか住んでいない。朴訥とした表情のずっと奥底に、いつでも戦う覚悟があることを見抜くものはいなかった。
理由。容易なことである。ひそりと入ってきた余所者は、奈綺が片端から殺して捨てている。七年前のあのとき、香荻に変わって支岐がおくりこんだ新風は、いまだ色褪せておらぬ。先頭にたって凛と戦場に向かった“将軍”としての支岐を、この夷址の人間すべてが色鮮やかに覚えている。
夷址は、要塞である。ここのところ、奈綺は斂をともなってしばしば夷址に滞在していた。そこでたまたま酒の肴に出たのが、杼氏の話であった。
「杼氏は隙をうかがっているよ」
杼氏は、先桐帝の愛妾である。この先帝は美しく、気立てのよい男であったが、唯一の難点は気弱だったということであろう。身分のけして高くないこの愛妾を、巧みに正妃の座に押し上げることもできず、隠すこともできず、結果として政争の表舞台へとのぼらせてしまったのであった。
桐帝は死んだ。
愛妾杼氏は、桐帝の死後すぐに、正妃である今の桐帝に追放された。このとき杼氏の腹うちには、子がある。しかし腹の子ごと追放された妾女に、何をどうする力があるはずもなく、失意のままに彼女は子を産んだのである――男児であった。
生まれた子が男児だったということは、桐帝が死んだ状況にあっては悲運に他ならなかった。正妃に男児がいなかったからである。
「当然殺されかけだんだが、杼氏は意外と芯が強くてね」
何としても子を守ろうとしたらしい。杼氏は、手下《てか》の者に命じた。子を舜・白山麓にある村落に捨てさせたのである。奈綺が生まれるよりも数年前の出来事であった。当然、斂もこのときはまだ生まれていない。
「女は執念深い」
斂は嘲笑まじりに呟いた。彼の嘲笑は、冷たかった。普段の爽やかな笑みとの落差がひどい。この冷たさを、奈綺は見込んでいるのである。常人が見れば血の気がひくような彼の嘲笑を、こうして愉しんで一瞥できる女はおそらく奈綺以外になかろう。
「杼氏は間違いなく――桐帝を憎んでいる」
本来は穏やかな性格をしているからなお怖ろしい、と斂は唇についた酒の雫をぺろりと舐めた。
(舜に捨てたか)
奈綺が黙りこんだ。彼女はひっそりと思いをめぐらせる。こういうとき、何も考えていないような表情でいながら彼女の頭はめまぐるしく働いている。
(なぜ舜を選んだ。杼氏よ)
「捨てたというと語弊があるかもしれない。舜の国風に期待を寄せたのであろうよ」
斂がつけくわえた。
舜という大国は、ここのところ賢帝続きであった。不思議なほど賢帝が続く。先々帝あたりから、大きな戦がない。国も栄えて限りない。舜人は、ともかく己の国を治める皇帝を心から慕っている。それがよりいっそう国を栄えさせ、人々の心を束ねてゆく。
「舜ならば、そう容易には殺されぬと踏んだのだろう。杼氏は」
「…………」
(なぜ舜を選んだ。杼氏よ――理由はそれだけか)
黙りこんだ奈綺に、斂はようやく酒器を置いて向きなおった。
「斂。ならばその子は、今……」
「二十六、七になるだろう」
「…………」
そうしてふたたび奈綺が黙りこむ。
『風の者』は、舜を血脈の祖とする。舜には、はるか昔から『風の者』を育てるための組織が存在していた。
たとえば親を亡くして行き場のない児。
たとえば親と不仲で家を飛び出してきた児。
たとえば――親に捨てられた児。
そういった幼い子ばかりを集めて、鍛錬に鍛錬を重ね『風の者』を育てあげるのである。数多くの子が、その鍛錬の過程で死んでゆく。ひとを殺すことの出来ぬ心優しい子は、師の手で殺された。
ともかく平穏を愛す舜国のなかといえど、この『風の者』を育てる組織のなかでは強いものだけが生き残る。
そのなかでも、史実に残るほどに強さを見せたのがこの奈綺という女であった。この女もまた生まれてすぐに両親に捨てられ、師に拾われている。
(杼氏よ。理由は舜が平和だというだけでないな)
親のない子は、『風の者』になる可能性を信じて拾われる。もしも杼氏がそれを知っていて、舜に――しかも白山麓に子を捨てさせたとすれば。
白山は急峻である。『風の者』が、鍛錬のためにしばしば足を運ぶ山であった。たとえば師がそこで杼氏の子を見つけたならば。
(おそらく拾う)
そうしてもしも、その子が強靭な『風の者』の資質を備えていたとすれば。
ふと、奈綺は斂に問いかけた。問いかけた、とはいっても斂の返答を予測している余裕の表情である。
「斂。支岐はわたしに惚れていると思うか」
「……思う」
「わたしを愛していると思うか」
「ああ、思う。愚かだが、人間らしい男だ」
奈綺はその言葉を聞いて、にやりと嗤った。この愉しそうな笑みを、斂はひどく頼もしく思う。この絶大な自信に溢れた、誇らしき女を頼もしく愛おしく思うのであった。その愛おしさは、けしてこの男の場合、妙なほうへはゆかぬ。支岐と異なるのは、そこである。言うなれば、柳帝に似ている。奈綺と同じ高さで、同じものを視ることのできる男であった。
「斂。覚悟はあるな」
(何か思い立ったか、嬢)
斂は酒器をことりと卓子に置いた。
解いた腰紐をふたたびきつく締めなおし、奈綺は寝台から立ちあがる。ひとつひとつの仕草がまるで風のように流麗で、しなやかであった。思いたつと、この女は速い。そして、そういうときの彼女の双眸は、普段にも増していっそう生きいきと耀いている。
「覚悟?」
奈綺が立ちあがるから、斂もまた立ちあがる。
「桐を滅ぼす覚悟だ」
「ある」
躊躇いのない返答であった。この躊躇いのなさを、奈綺は好んだ。小太刀を見えないように腰紐に挟みこみ、夷址の街娘とおなじ装いに身を変える。
「叩く。柳都にたどりつく前に、息の根をとめてやろうよ」
桐からやってきた斂を前にして、奈綺は本音を隠さなかった。これもまた、やはり己に対する彼女の絶対的な自信である。斂という男を見込んだ己に対する、自信である。
斂は、生涯を通して奈綺のそれに見事に応えた。
「自信は」
愚問と知りながら、斂は微笑とともに訊ねた。
「勝つ」
強い――奈綺は強い。天運は彼女に味方をし、彼女もまた見事に天運をつかむ。なるほど、と斂はうなずいた。確実な勝算を、たった今この女はつかんだのに違いない。
これから数か月の間に、斂は『風の者』の、まさに『風の者』たるべき姿を目の当たりにすることになる。
杼氏よ。
おまえの望みに、乗ってやろうぞ。
【風伝心】
桐軍が夷址へ向かったという報せを柳帝が受けたのは、それからまもなくであった。このとき、当然奈綺は斂とともに夷址にいる。
柳帝は廉妃の身体を抱きながら、ゆっくりと思考をめぐらせた。桐帝の娘――金髪に碧眼のなよやかな妃は、やはり美麗である。雪のような柔肌は、柳帝のしなやかな手指にぴたりと吸いつく。この女は、柳帝の虜であった。
柳帝。政の才に長けているだけではない。女は快感の底なし沼に容赦なく引きずりこまれ、そうして彼の虜になってゆく。廉妃もまた、そのうちのひとりである。柳にとって、廉妃が賢明であっては不都合。この妃が、祖国桐のために動く女であってはならぬ。ただひたすら柳帝に溺れ、いざというときに祖国ではなく、愛する男を選ぶ――愚かしく哀れな女でなくてはならぬ。廉妃はまさに、そういう女であった。
ことを終えて、男はゆっくりと女の上から身体を退けた。
「陛下……」
「眠ってかまわぬ」
耳もとで囁いた。この男は、声も美しい。この低く美しい声色に惹きこまれて、廉妃は柔らかな寝台の上でゆるりと惰眠をむさぼりはじめた。やがて聞こえてくる規則正しい寝息を後にして、柳帝は静かに室を出る。
「桐軍はどう向かっている」
「桐都から直属軍が南下、各地の豪族兵を集めて夷址を制圧するつもりのようです」
「女は執念深いな。夷址に執着するか」
七年前の大敗を、桐帝は忘れていないらしい。たとえさびれた都市であったとしても、夷址を制圧することが七年前の復讐だと考えているのであった。
「数は」
「夷址に着くころには、少なくともおそらく二師《四万》になっていようかと」
「思ったより多いな」
「夷址はどういたしましょう」
(今の夷址に――二師は多い。しかし……)
「くれてやれ」
「は……しかし」
自室に入り、側近を控えさせて柳帝は酒器を手にした。この国には、海からさまざまな舶来の品がやってくる。西の大陸からはるばる海を越えてやってくる、この独特な香りの果実酒を柳帝は好んで口にした。
酒に強い男である。浴びるように飲んでも、顔色ひとつ変わらない。
「海に備えろ。夷址には六旅を隠密に送るだけでかまわぬ」
柳都から、真北にゆくと海に出る。この北海の向こうは、桐であった。柳帝は、夷址よりもそちらを固めるつもりである。
「かしこまりました」
長いこと柳帝に付きあってきた側近であっても、やはり柳帝の思惑が分からないときがある。今がまさにそうであった。夷址を放置してもかまわないのか――思いながらも彼は主君に向けて拱手した。思惑が分からない。しかしこの主君の命に間違いはない、と側近は経験で知っている。だから彼はおとなしく拱手するのであった。
むろん、夷址を桐にくれてやるつもりなど柳帝にはまるでない。
(今の夷址に二師をぶつけられると、確かに痛い)
「ともかく、海で迎え撃て。全軍を投じて、桐を叩き潰せ」
よい機会だ、と柳帝は脚をゆっくり組みかえた。
これが朱綺の初陣になる――どこまで我が息子が本気でひとを殺せるか、柳帝はそれを見極めるつもりでいた。ひとを殺せるだけでは足らぬ。人心をつかみ、軍を統べ、それらを思いのままに動かせるか。己の跡を継ぐだけの器量があるか。
今の夷址に、大軍をぶつけられるのは痛手である。しかしそれでもなお六旅しか夷址に兵を向けなかったのは、柳帝の絶大な信頼であった。
理由はひとつ。
夷址には、奈綺がいる。
◆ ◆ ◆
たとえば、信頼もまた愛のひとつとするならば。
柳帝も奈綺も、誰より互いを愛していたのではなかったか。
◆ ◆ ◆
奈綺と斂は、夷址を固めている。夷址の人口は、七年前の小戦時からすると半師《一万》に減っていた。表向きの話である。
「しかし、明らかに半師には見えないな」
斂は笑った。半師というわりには、夷址に住む人間の数が明らかに多いからである。奈綺が徹底して余所者を片端から殺してまわっていたのは、このためであった。夷址が実はいまだ強固な軍事都市であることを、隠すためである。半師といいながら、夷址の人口は一師。そこからこのひと月近くで、奈綺は夷址の人口を一師からさらに二師に増やした。神業である。
「舜人《しゅんひと》がどれだけ混じっている?」
「今、夷址には二師の人間がいる」
井戸水を汲みあげながら、奈綺は静かに言った。
「二師四万のうち、一師は舜人さ」
桐杼氏の思惑に乗ろうと決断してから、奈綺はやはり風のように動いた。舜帝に文を飛ばし、彩妃と『風の者』たちの脈をも使い、この夷址に舜人を借りたのである。そのすべてが、桐と関わりのない生え抜きの舜人であった。
彼らは奈綺を知っている。いまだ奈綺に対する絶大な信頼と安心感が、彼らのあいだには根付いていた。
「舜人の強みだな。その絆は」
奈綺が汲みあげた水を、水差しと木桶にわけて注ぐ。撥ねあがった水を手で拭いながら、斂は卓子の上を丁寧にふいた。やや几帳面である。
「時期はいつとみる?」
「十日前後か。必ずまもなく、桐でことが起きる」
懐から玉蜀黍《とうもろこし》の饅頭を取りだしてかじりながら、奈綺はやはり自信に満ちた美しい笑顔をみせた。玉蜀黍の饅頭はかたい。しかし日持ちがするため、間諜のあいだでは重宝されている。この玉蜀黍の饅頭と、干し魚。豆と丸薬は手放せぬ。
「ことが起きるか」
繰りかえして、斂はつぶやいた。ふたりは同じものを視ている。杼氏が桐に叛旗を掲げるであろうと、踏んでいるのであった。
「衛のところへゆく」
饅頭の残りをほおばりながら、奈綺は髪を結いあげ家外へ出た。斂はもう、何も言わずとも彼女の後ろに従うようになっている。
ふたりは夷址の宮城へ向かった。
いまだ強固の軍事都市だとはいえ、七年前と比べると夷址の宮城は確かに一見してさびれたようにみえた。贅沢好きであった香荻とは対照的に、まず衛という男が地味である。
すれ違うたび、人々が奈綺に頭をさげた。夷址の民はみな兵士である。鍛錬された男ばかりであった。しかし奈綺が柳帝の正妃であるということは、誰も知らぬ。
「どうぞ」
衛は、物腰が柔らかである。厭味でない礼儀正しさで、奈綺と斂を自室に通した。けして美貌ではないが、穏やかな端正さがある。芯の強い眼の色をしていた。
「柳と舜の結びつきは、知らず知らずのあいだに強まっていますね」
ことの始まりは、そういえばあなたと彩様の行き来であった――衛はそう言って微笑んだ。この朴訥とした人柄を、彩は信頼していたのであろう。
「さて、やはり杼氏が兵を集めています」
その数およそ半師、と彼はつけくわえた。
(杼氏軍が半師。夷址と加えれば、五万の兵になる)
桐軍の二師からその杼氏の半師をひけば、桐軍は三万に。
「衛。近いうちに必ず助力の要請がくる。そのときは迷わず杼氏の援護に」
「勝算がおありか。杼氏が叛旗を掲げる、その確信が?」
いや、と衛は言いなおす。
「違いますね。杼氏が叛旗を掲げるのはともかく、彼女の罠ではないという確信が?」
何をするわけでもなく、ただにやりと奈綺は口角をあげて衛に答えた。
「衛よ」
「ええ」
「こんなときに罠に嵌まりにゆくほど、わたしは阿呆ではない」
「…………」
なぜこんなにも堂々としているのだろう――と、衛はなかば感心の視線で奈綺を見つめていた。彩の言葉を、彼は思いかえしている。
“あの女は”
奈綺は続けた。
「わたしは桐を叩き潰す」
言いながら、首にさげていた龍の飾りをそっと窓辺に置いた。龍の眼に、紅い宝石がはまっている。この宝石をはめた飾りを持っているのは、柳帝と奈綺しかいない。柳帝が奈綺のために拵えさせたものであった。
“奈綺という女は、不思議な女よ。あまりにも我が道を進むがために、過ちを犯さない”
透きとおった人間なのよ、と彩は言っていたような気がする。衛は幾度かうなずいた。
「分かりました」
衛もまた、彩の傍らで奈綺を見てきた間諜である。柳帝と対等にやりあう人間を、衛ははじめて見たのであった――あのときの目も覚めるような衝撃と、鮮やかな残像はいまだ彼の眼裏に残っている。衛は、信じた。
「杼氏に与《くみ》しましょう」
◆ ◆ ◆
空が青い。空が抜けるように青い日は、けして悪い気もしない。支岐は、朝飯をとってからすぐに単身夷址へ向かった。
「いい朝だ」
夷址の長である衛は、あの彩妃の弟分だった。信用しているわけでもなく、していないわけでもない。しかしなぜだろう。ことは必ず滞りなく進む――そう感じていた。
(…………)
夷址は、さびれているはずだった。七年前と比べれば人口も減り、かつてのような軍事都市ではなくなっているはずであった。
しかし夷址に入った途端に、感じたのは活気である。地味ではあるが、確かに息づいている活気であった。ゆっくりと支岐は馬の足を進める。
(人が多いな)
ひとりの男と、すれ違いざまに一瞬目があった。ごく普通の若い男だったが、しかし支岐の視線がゆるりと揺れた。この男を知っている。懇意にしていたというわけではない。ただ『風の者』としての鮮やかな記憶に、その男の顔が残っていた。確か呉服屋の次男だ――いや、他にも何か違和感がある。
「…………」
気づいた。
この男、舜人ではなかったか。
(なぜここに舜人がいる……)
「分かりました。杼氏に与しましょう」
夷址のあるじ衛は、いとも簡単に支岐の申し出を受けた。衛とは、面識がある。むろん立場上けっして懇意にしていたわけではなかったが、薬師《くすし》として幾度か顔をあわせたことがあった。誠意あふれる素朴な男であり、また慎重な男でもあったと覚えている。その男がこうして要求を簡単にのんだということは、この要求が罠でないと確信しているからに違いない。
(俺が罠でないことを一から説明《ことわけ》するつもりだったのだが……)
なぜ俺が来る前から、この要求が罠でないと知れている。そのうえ――まるで俺が来るのを知っているかのような出迎えであった。
ふと視線を動かす。この男の視界に、あるものが映った。龍を象った首飾りである。その眼に、紅い宝石が綺麗にはまりこんでいた。
ことは滞りなく進む――あの予感の証が、そこにあった。
どうしても俺は、あの女を越えられぬらしい。思い出す。彼女と出会ったときから感じていた、切ないほどの憧れと、常に先を越される苛立ち。悔しくて悔しくてどうしようもなかった、複雑な思い。
もはや今では、それも爽快な思いであった。嬉しかったのである。
自分のためにも、愛してしまった女のためにも、理想の己でありたかった――恋情の相手でなくとも、もうよい。理想の己であり、そうして理想の同志に戻りたかった。この男はどこまでも『風の者』には向いていなかったにも関わらず、どこまでも『風の者』であろうとした。それが彼の、ひとつの愛の形であった。
(そうか。舜人が夷址にいるのは、奴のせいか)
「ことが容易に進むはずだな」
理由はひとつ。
なぜならここには、奈綺がいる。
◆ ◆ ◆
「桐が恋しければ、いつでも帰れよ」
夕陽にふちどられた宮城を見つめながら、奈綺はひっそりと家の扉に背をもたせた。長い睫毛が頬に影を落としている。堂々とした顔立ちに、斂は愛おしむような視線を向けた。憬れの視線でもある。
「嬢。分かっているだろう、俺は帰らない。俺はあなたとともに在る」
「…………」
支岐が、奈綺の予測どおりに夷址宮城へ入ったのは、今朝のことであった。奈綺は静かに家うちで酒をあおっており、支岐の姿を確認したのは彼女でなく斂である。
(みごとなものだ)
斂が見た支岐の姿は、あのとき無様に奈綺に傷つけられていた姿とはかけ離れていた。馬上の男はどこまでも堂々としており、昂然としており、それはまさに『風の者』の誇らしき姿であった。まるで別人のように感じられるほど。
そう奈綺に伝えると、彼女はにやりと笑って言った。
――そうやって『風の者』に立ち返るほど、奴はわたしに惚れているのさ。
みごとなものだ、と斂が思ったのは支岐のことだけではない。男にそこまで想われ、そして男をもっとも高いところまで引きずりあげるだけの力をもった、奈綺という女。みごとな女だと思った。
「いい女だ。奈綺嬢」
「そうとも。わたしには価値がある」
ゆっくりとふたりは家のなかへ入った。
「しかし海は? あなたが夷址に腰を据えていて良いのか。桐の主軍は海から柳へ向かうのでは?」
澄んだ音をたてて、酒器に果実酒を注ぐ。この女は、意外と酒を好むらしい。赤く美しい酒を斂にも差し出して、奈綺は木造りの粗末な椅子に腰をおろした。
麻の袴をずいぶんと細く絞ってはいている。脚はひどく細いが、その細さからは想像できないほど強靭でしなやかであった。この脚のひと蹴りで、男ひとりはわけなく殺せる。腕にしても同様である。
「柳帝は夷址に兵を寄越さぬ」
「……寄越さぬ?」
細く美しい指でくるりと器をまわしながら、奈綺は斂の問い返しにうなずいた。このどこまでも女らしい手指にさえも、男をしのぐ驚異的な力を持っている。男の骨の一本や二本、難なく折れるだけの術と力である。斂はその美しい指に一瞥を寄越しながら、言葉を続けた。
「確信は」
「ある。寄越したとしても、五旅程度の兵だろうよ」
五旅――二千五百。それではあまりに少ない、と斂は思った。少ないが、その五旅ほどをのぞく柳全軍を海に向けるとすれば、じゅうぶん余裕をもって桐をうちたおすことができるであろう。斂は一息に酒を飲み干して、奈綺と同じように椅子に腰をおろした。
柳帝の愛情を垣間見たような思いがしていた。
「柳の全軍を……海のほうへ投じるのか」
「ああ、あの男はそうするだろう」
あっさりと、奈綺は言ってのけた。
(柳帝は夷址を捨てた、と)
そう思われてもおかしくないにも関わらず、と斂は視線を伏せる。みごとだ。何をどうみても、みごとだ。柳帝は奈綺という女ひとりに、すべてを託しているのだった。
「柳帝ひとりにまかせても?」
「夷址はわたしが見る。海では奴が迎え撃つ。だから負けぬ」
奈綺は野菜と肉を無造作につっこんだ鍋を、木匙でかきまわした。
「もしも柳帝が役に立たぬ男であったなら?」
「桐に負けたなら、ということか」
うなずきながら、斂は器をふたつ卓子のうえに出す。
「そうなれば、わたしは舜人として桐を叩く。それだけのことさ」
「…………」
「柳が負けると思うか」
熱い汁を、器に注ぐ。よい香りが鼻腔をくすぐった。斂から器を受けとりながら、奈綺は微笑とともに彼に問うた。
ひとを見極める――それはもうすでに、奈綺にとっても斂にとってもごく自然な行為である。斂はこのとき、日ごとに心を強くしていた。この女についてゆく、という心である。この女がすべてであるという、愛とも憧れともとれぬ、不思議な、しかし強い心であった。
「ここで負けるような男が柳帝なら、とうの昔にあなたが寝首を掻いている」
桐との戦いが近づいていた。斂はすでに桐との訣別を心に決めている。
「柳は負けぬと、俺は思う。嬢と柳帝がいる限り」
このときの桐戦で、奈綺もまた斂の姿を眼裏に灼きつけることとなった。斂が舜の生まれ。つまり己と祖国を同じくすることを、奈綺は誇りに思った。
それほど――斂という静かな美貌の男、彼の魂は激烈だったのである。
柳帝即位十九載。夷址及北海於開戦。
夷址および北海にて、開戦す。
【闘】 壱
「杼氏は夷址軍と合流すれば、ただちに桐都にとってかえすだろう」
奈綺もまた、ここで賭けに――賭けといっても、この女の場合は勝つという自信に満ち満ちた賭けであったが――出ていた。
「夷址軍はあんたに任せるよ」
斂に、夷址軍の指揮を一任したのである。つい数か月前までは、桐の間諜として働いていた男に、夷址軍の指揮をまかせたのであった。何の躊躇もなくそれを告げた奈綺に、斂は思わず笑みをこぼした。
いっそ心地よいほどの思いきりの良さである。信頼というのか、それとも試されているというのか。奈綺という女の誇り高く、かつ何の不安げもない姿に何かひどく気持ちのよいものを感じた。
「わかった」
斂はうなずいた。
「嬢。俺は杼氏に顔を知られているが」
「かまわぬ。好きなようにおやりよ」
奈綺の美貌が、生きいきと耀いている。戦いの前の貌《かお》である。親もなく、地位も金も名誉もない、しかしどこまでも気高く美しい双眸はいつになく愉しそうだった。けっして殺すことを好んでいるわけではない。戦を好んでいるわけでもない。しかし平穏に閉ざされた弛《ゆる》い世界よりも、血に塗れた生死ぎりぎりの世界のほうがよかった。
血が騒ぐ。死と隣あわせの生き様に、誇りがもてる。
「愉しみだ」
斂もまた、生きいきとした美貌で奈綺にこたえた。この男もまた、奈綺と同じである。親もなく、地位も金も名誉もなく、くわえて忠誠を誓うべき祖国もいまだ決まらぬ。しかし彼にとっては、奈綺という女の存在が祖国も同然であった。突然、眼前にあらわれた女神《めのかみ》のような女であった――同じものを視ている。同じところに立っている。
平穏に閉ざされたぬるま湯に浸かっているよりも、生と死の境ぎりぎりの場所で血をかぶっているほうがよかった。生きている、と感じられた。これが俺の生き様だと、そう胸を張って言える。
奈綺。俺はあなたと出逢えて、ほんとうに良かった。
奈綺よ。ほんとうに良かったと、いつ思い返してもそう思うのだ。
◆ ◆ ◆
斂が率いる夷址軍は、まっすぐに夷址の北で杼氏軍と合流した。舜人にしても柳人にしても、奈綺への信頼度は驚くほど高い。その奈綺が連れてきた斂であるから、夷址兵も舜兵も、問題なく彼に従った。
「おまえが柳に寝返っていたとは知らなんだ」
杼氏軍の将軍を、崔《さい》という。代々杼氏に仕えてきた由緒正しい家柄で、この崔という男は頭がいい。杼氏に災いなさぬならば、いかなるものでも使ってやろう。そんな気概が、彼にはみえる。斂は、ひさびさに相まみえた顔に笑みを返した。
「食えぬ男よ」
静かな行軍である。
この桐国には、有能な間諜が少ない――有能な間諜を次々と柳へ送りこみ、そのたびに奈綺に殺されていったということもある。ことごとく敵にはできぬ女だ、とあらためて斂は思った。
ともかく間諜が少ないとはいえ、この行軍が桐帝に露見してはならぬ。神経を研ぎ澄ませ、間諜の気配あらばすべて叩き潰さねばならなかった。斂の意識は、冴えた。
(静かなのは良いが)
行軍が少しばかり速いな、と斂は思った。まるで桐の帝軍と合流しようと急いでいるかのように行軍が速かった。
(…………)
気は抜けぬ――どこまでも気は抜けぬ。しかし心地よい緊張感でもある。
「柳か。何に惹かれた」
斂はゆっくりと馬を歩ませた。斂という男はしごく分をわきまえており、けっして崔の前には出ない。ほんの草の葉ほども先には出ず、崔のわずか左後ろを歩く。男の自尊心は、巧みに使えば使うほどこちらの有利に運べる。
「斂よ。何に惹かれた」
「女ですよ。この世でもっとも誇らしく美しい女」
「……おまえが?」
無言で斂はうなずいた。
「奈綺です」
「何だと」
このときすでに、斂は予期している。かつて四人で生業をともにしていた同志たち。彼らが、斂をとめに――つまり夷址軍と杼氏軍を阻みにやってくることを予期している。己の戦いが、まずそこから始まると彼は理解していた。
「奈綺といったか」
「ええ。奈綺です。わたしは、奈綺に惹かれた」
「……おまえの後ろに奈綺がついているというのか」
草の匂いが四方八方から鼻腔をくすぐる。馬の蹄音と鎧の音が、ひっそりとあたりに響き、そのなかで斂と崔だけがひどく穏やかな声色で会話を交わしていた。
「まさかそんな――あの、伝説の女が」
生きているにも関わらず、もはや伝説とさえ謳われる。あの自信に満ちた美しい容貌を思い浮かべながら、斂はふたたびうなずいた。
「将軍。今回、夷址軍と杼氏軍があまりにもあっさりと合流できたことに不審は感ぜられませんでしたか」
「…………」
確かにそれは疑問であったが、と崔は斂に視線をくれた。崔は頭の良い男である。むろん夷址軍があっさりと杼氏の要請に応じたことを、彼は不審に思っていた。それでも崔がなお策を決行したのは、燃えるような杼氏への忠誠心があったからである。
「裏に奈綺がいたからか」
「将軍。杼氏の息子が舞い戻っては来ませんでしたか――支岐という男が」
「……なぜおまえが知っている」
崔の双眸が深く光った。
(やはり)
これでも間諜の端くれですから、と斂は言いながらぴたりと馬の脚をとめた。このとき彼の鋭い五感が、追ってくる静かな気配を感じとっている。つられて歩みをとめようとした崔を、斂はうながした。
「将軍、先に行かれませ。桐帝の間諜が、わたしを追ってきた」
「ひとりで戦うのか、無茶な」
熱い男である。微笑んで、斂はぱちりと腰もとから小太刀を、懐から糸刃扇をそっと取り出した。糸刃扇――桐を捨てて柳にはしったあの日に、奈綺から貰いうけたものであった。巧みに奈綺にあやつられている、そう分かっていながらけして不快ではなかった。
「間諜はここでわたしが止めます。将軍ははやく都へ」
まだ追っ手との距離はある。とにかくこんなところで滞ることなく、進軍させねばならぬ――斂はふたたび促した。
「…………」
無言で見つめ返してきた崔と斂のあいだに、ぴんと張りつめた空気が流れた。
緊張。覚悟。斂がこの世でもっとも美しいと思っている空気である。戦う男と男の空気であった。一呼吸おいて、崔は馬の腹を軽く蹴った。ひん、と軽く馬がいななき駆けだす。斂は軽く頭をさげて、彼と彼に従う先頭の小隊を見送った。
ひっそりと立ち尽くした斂の耳に声が聞こえたのは、大軍が斂の傍らを通りすぎて半刻ほど経ったころである。懐かしい声は、かつてともに働いた仲間であった。
「斂。健やかにしていたか」
「来たか」
斂は微笑みとともにゆっくりと馬をおりた。この男の微笑みは、優しく爽々としている。けして人をばかにしたところがなく、この男がこうして笑うと本当に善人にみえるのであった。
軽やかな音がして、斂の眼前に三人の若者がふわりと立った。彼らの双眸に非難の色があるかと思ってみてみると、そこには何の非難も責めの色もなかった。
「孔《こう》。おまえこそ健やかでいたか」
斂は男たちと対峙する。琳と愛しあっているというのが、この孔という男であった。黄金色の美しい髪と、桐人らしい深々とした碧眼をもっており、その双眸がひたと斂を見据えている。なぜだ――そう問うているのだと、斂には知れた。
「なぜだ」
非難ではない。責めでもない。ただ悲しげに彼は、そうあらためて言葉に出した。人間としては、良い人間であった。情に厚く、暴力を嫌う。しかも戦えば強い。この男の強さは、愛を知っている強さである。琳を守るための強さでもある。琳との愛がある限り、この男はけして強さを失わないだろう。
だが、と斂は孔を見返した。
(孔。おまえのその――情の厚さと愛のための強さが)
「俺は厭だった」
「厭?」
「厭だったのさ。この世界のすべてが」
何が厭だったのだ、と袁《えん》が訊ねた。孔の後ろに控えているふたりのうち、黒い布で双眸以外を隠しているのが袁である。少女のような顔を露にした小柄な少年のほうを、鵲《じゃく》という。ずいぶんと懇意にしてきた同志であった。
「説明《ことわけ》するのも難しい。簡単に言おう」
三人の視線が、斂を貫く。強い視線である。ほんのわずか申し訳ないと思いながら、斂は静かな微笑とともに告げた。
「奈綺に惹かれた」
それだけさ。
「すべてを懸けるだけの価値がある――俺にとってはそれが桐でなく、奈綺だったと」
そういうことだ。
絶句した三人を見つめ、斂は静かに息を吐いた。桐を捨てて柳に走ったわけではない。桐を捨てて舜に走ったわけでもない。ただこの男は、桐を捨てて奈綺という女に走った――それだけのことである。まさか同志を裏切って女のもとへゆくなどとは、と彼らはこのとき思ったろう。
「女ひとりのために、桐を捨てたのか」
「鵲、抑えよ」
鵲が頬を赤くして叫んだ。同志を愛する人間であるだけに、魂からの烈しい叫びである。この絶叫には明らかに非難の色がこめられており、斂はかえって安堵した。こういうところに安堵するだけ、わずかばかりは斂のほうが奈綺よりも人間らしいかもしれぬ。
そうさ、と彼はついでに鵲にうなずいてみせた。桐にいたころは、ずいぶんと斂に懐いていた少年である。裏切られたという衝撃が、おそらくは彼を激昂させていた。
「琳では価値がなかったか」
淋しげに孔がつぶやいた。
「……孔よ。俺はあの女を捨てることに、何の躊躇いもなかった」
何ということを、と袁が目を剥いた。
「袁。かまわない」
孔が悲しげにつぶやく。なぜそうやって容易に心のうちをさらけ出すのだ、と斂はいささか悲しい気持ちで彼らを見つめた。間諜の誇りはないのか。それで本当に国が守れるというのか――危うい。けしてこの男たちが嫌いなのではないが、どこまでも危うく、どこまでもぬるい。
俺はだから、それが厭なのだ。
「何の躊躇いも……?」
孔がしぼりだすように問い返した。
「孔。俺は桐帝に腹から忠誠を誓おうとは、ただの一度も思ったことがない。桐帝が男と姦通して子を産んだと、知ってからは特に」
「斂。慎めよ、暴言だ」
たしなめた孔を、斂は牽制しながら続ける。
「琳の、あの平和主義もまたいいさ。だが俺には合わぬ。俺にはきれいごとにしか聞こえない」
「…………斂」
おまえたちには分からないだろう。奈綺を見たときに感じた、あの衝撃。心の痺れ。この女しかいない、と思った――いや感じた。あのときの心もち。
おまえたちにはきっと分からないだろう。ぬるま湯に浸かってきた暖かい双眸ではない。言うなれば氷水に浸かり、締め上げられてきた冷涼な双眸である。己への絶対的な自信に満ちあふれ、体じゅうに『風の者』としての誇りがみなぎっていた。惚れた。一瞬で、この女しかいないと思った。
この女がいるところへ行こう、と思った。女に惚れたというよりは、奈綺という生き物に心底惚れたといったほうが良い。
「桐には戻らないのか」
「戻らぬ。俺は奈綺のいるところにいようと思う」
即座に答えた。
「奈綺の手下《てか》になるのか。駒として使い捨てられるぞ」
「……手下になるならそれも良かろうよ。だが俺は、駒にはなっても使い捨てにはならぬ。俺はな、孔」
鳥のさえずりがなくなった。おとずれた静寂に斂は時の経過を悟り、ゆっくりと地を踏みしめる。
「俺は、奈綺の駒になるならそれも良いと思う。現に今、俺は嬢の駒になって動いているしな。だが、俺は使える駒だ。使い捨てられるほどつまらぬ駒ではないよ」
斂が軽く馬の尻を叩いた。短いいななきとともに、馬が駆け去ってゆく。
「それならば斂。俺たちは戦わねば」
「むろん」
かぁ、と鴉の鳴き声がどこからか聞こえてくる――すでに夕暮れも近い。
孔は強い。体も強靭であり、戦う術にも長けている。斂とまっさきに戦いを交えたのは、その孔であった。三人で襲ってくることは、彼らはしなかった。卑怯さがない。
(おまえたちの強みだ)
しかし弱みでもあるぞ、と斂は思った。
「斂、おまえは」
風をきってくる毒針を避けながら、斂は孔の姿を一瞥する。何だ、と答えながら放った糸刃扇を孔はかろうじて避けつつ言葉を続けた。
「そんなにも情のない男だったか」
ざざざ、という音とともに糸刃扇でぱっくりと割られた木が落ちてくる。それを器用に避けながら、ふたりは立ち回った。
「俺にとって大切なものは、おまえたちとは違う」
風をきって舞う糸刃扇が、時おり夕暮れの光を浴びてきらきらと輝いた。幾度もその扇が空を切るほど、孔の動きは機敏である。このままでは夜になる、と斂は扇をくるり回しながら心を決めた。殺さねばならぬ。
「琳がいなくなれば、おまえたちはおそらく崩れる」
「それの何が悪い」
「悪くない。俺はそれが厭だっただけだ。俺は琳への愛では生きられぬ」
奈綺だ。もしも愛するとすれば、奈綺しかいない。そうしてその愛は、どちらをも輝かせる誇りかな愛でなければならぬ。奈綺と同じ世界で生きることが、おそらく俺にとってはもっとも輝かしくもっとも愉しいことなのだ。
ひとつ、静かに斂は息を吐いた。この男にはまだ、かすり傷ひとつない。しかし孔の頬には薄く血がつたい、上衣がわずかに破れている。桐の間諜四人衆のなかで、もっとも戦闘能力が高かったのは斂である。
強い――強いと謳われる孔よりも、まだ上に彼はいた。
「孔よ。俺はけして、おまえたちが嫌いなわけではないよ」
「分かっている。分かっているが、」
「孔、危な……!!」
傍らから鵲の叫び声が聞こえた瞬間であった。しゃっ、という鮮やかな音がした。
彼は強い。彼は強く、また人望があった。
「………………」
斂は無言で立ち尽くした。ほんの一刹那のみ瞳の奥を揺らせたが、それ以外に斂は表情を動かさなかった。ごろり、と鈍い音がして男の首が彼の足もとに転がってくる。転がってきたのは、まだ幼さの残る顔だちの鵲の首であった。
「……鵲」
孔が呟いた。
彼は人望があった――鵲が自ら盾になったのである。切り口は美しく、骨の肉も見事なほどすっぱりと絶たれていた。まるで大魚を真ん中からぶった切ったような風情であった。そうして首と離れた胴体のほうから、一定の律動を保って鮮血がふきだしている。
あまりにも短いあいだの出来事に、いまいち鵲が死んだという実感が湧かぬ。だが、軽やかに地面にとびおりてきた女の姿に、孔と袁の視線が釘付けになった。
斂は、ひっそりと糸刃扇を握りしめた。
「奈綺……」
血塗れた糸刃扇をくるりと指先でまわし、女はこともなげに笑う。孔と袁に対峙してなお、奈綺のほうが大きく見える。むろん体格はよほど奈綺のほうが小柄であり、体の線もまったく異なるのだが。すっ、と斂は糸刃扇をもつ手を動かした。
「なぜ、斂を奪った」
毅然としている孔が、哀れにみえた。奈綺がまるで本気に取り合っていない様子が、誰の目にも明らかだったからである。己の哀れを、孔も感じていたろう。
「奪ったとは人聞きの悪いことを。おまえたちにはきっと分からないだろうよ」
斂と時間差で桐都に向かっていた奈綺であった。だが進むうちに、斂とかつての仲間との戦いに遭遇するだろうと彼女は予測していた。
さきほど斂が心うちで思ったことを、奈綺がはっきりと言葉に出していた。
「分からない……?」
そうさ、と奈綺はうなずく。
「おまえたちと斂と、立っている世界が違うのさ」
この前に琳にも言っただろうに、と彼女は堂々と立ち姿を見せたまま続けた。
「何が幸せかは、人によって異なる。おまえたちの幸せと、斂の幸せとが異なっていた。それだけのことよ」
斂の糸刃扇がちょうどそのとき華やかに舞い上がり、それを認めた奈綺が小さく満足げに笑みを浮かべた。
「わたしと斂の立つ世界が、たまたま同じだったのさ。魂が呼びあったといえば美しいかな、孔――もはや」
誇りかな姿。誇りかな言葉。その物言いには一点の曇りもなく、双眸もまた堂々と輝いている。彼女の言葉に耳を傾けていた孔と袁は、だからまるで何の反撃もすることができずに斃れた。だからおまえたちは、と斂は少しばかり情けなく思った。
「もはや聞こえないかもしれないが」
斂の糸刃扇が、無防備なふたりを背から襲っていた。ふたつの首胴体がすっぱりと離れてゆくのにそう時間はかからない。夕闇のなかで、血しぶきが黒い影となって飛び散った。
立ち位置が悪い。返り血をぞんぶんに浴びて、斂はいささか厭そうな顔でいやいやをするように首をふる。それを尻目に、奈綺は草笛を吹いた。狼寄せである。
「己の手で殺したかったろうに、わたしが鵲を殺してしまったわ。悪かったな、斂」
(どこからいたのか……)
鵲の名を、教えたことはない。
「孔がもっとも物分りが良かったか。袁と鵲はまだ子供よな」
孔と袁の名を教えたこともない。この女はいったいどこまで不気味なのだろう、斂は思いながら小さく笑った。斂と孔たちが対峙した、おそらくそのときから彼女は傍らに潜んでいたのだろう。気づかなかった己への自嘲の笑みでもある。気配を消すことに関して、斂はおそらく奈綺には劣っていた。不思議だ、と彼は思いながら糸刃扇の血を拭った。
これほどにも強烈な、冷たく神々しい空気を持っているというのに、気配はなぜかまるでない。人間であって人間でない――『風の者』は人に非ず。確かにそのとおりぞ、と斂は転がったかつての同志たちの死体を見下ろした。
何とも思わない、といえば偽りになろう。ただこの男も奈綺と同じである。何とも思わないといえば偽りになるが、しかしこれといって何か思うのかといえば何も思わぬ。その感情はどこまでも無に近い。
(残念だった、孔)
しかしけっして道をともにできる同志ではなかった。遅かれ早かれ、結末はこうなっていたことだろう。一瞬ばかり合掌をして、斂は視線をあげた。
「嬢。あなたが来ることは予想していたが」
「こんなにはやく来るとは思っていなかったかな」
「ああ、意外とはやかった」
奈綺がにやりと嘲笑した。
「……久々に不覚をしたよ。裏切り者がいる」
【闘】 弐
裏切り者、と斂はつぶやいた。なるほど奈綺――この女もまた行軍の速さに不審感を抱いていたらしい。
「どこに」
世には、裏切りがつきものである。それは平穏な世であれ戦乱の世であれ、何ら変わらぬ。少なくとも今まで接してきた杼氏軍にも、柳の夷址軍にもそれらしい者は見当たらなかった。斂もまた奈綺と同じ、間諜である。人を信ずるよりも、まず疑う。その炯眼は、ほぼ過たずに疑わしいものを見つける力を持っているのだった。
しかし。
「杼氏軍にはいなかっただろう」
「ああ」
「夷址軍にも見当たらなかったろう」
「ああ」
「……杼氏軍にも夷址軍にもいないとすれば、」
「舜人か」
桐を滅ぼせば、この場合必然的に桐は柳のものになる。舜人がそれを阻もうと思ったとしても、それはけっして滑稽な話ではない。
舜と柳。両帝が賢君であったために、現在このふたつの大国は平穏な状況にあるが、これでもかつて表あるいは裏で争いつづけてきた。柳を嫌う舜人もけして少なくはなく、むろん奈綺も例外ではなかったのである。
「舜人だな」
奈綺はうなずいた。
「まあ、裏切りとはいっても――我々舜人からすれば、けして不自然な行為ではないのだけれどもね」
しかし、今の目的はひとつであった。舜と柳が争うことではない。舜柳桐の三国乱戦でもない。ともかく桐という国を、徹底的につぶすということである。本来の目的を見失うと、すべてを失う。奈綺という女はそれを本能的に知っていた。
今、舜人に下手に動かれると困る。柳が混乱すれば、舜にもまた波紋がくる――今このときに下手に動く舜人は、もはや奈綺の敵に等しい。
「支岐は桐都にいるだろうな」
奈綺のつぶやきに、斂は同意した。支岐は奈綺にとって愚かな男であったが、しかしけっして役に立たぬ同志ではなかった。『風の者』である。そのうえ理想の己を取りもどすがために、ようやく恋を捨てて動きだした男である。
己を捨て『風の者』として駆けまわる場合、支岐は奈綺にとって最高の相棒であった。かつて柳帝の叔父湯庸を暗殺するときにも、奈綺が柳帝に嫁してからも、影で支岐の暗躍があった。色恋に溺れることなく駆ける『風の者』としての支岐は、確かに奈綺と心通ずるものがあったのである。支岐はもうすでに桐都に潜み、杼氏軍・夷址軍が都に入ると同時に帝の首を取ろうと待ち構えているだろう。
「あたりがついているんだな、嬢」
「……女よ」
奈綺の美しい片眉が、くいと動いた。顔立ちがきわめて美しいため、この女は眉ひとつ動かしても凄絶なまでの異彩を放つ。
「女?」
「恋に溺れた女だ」
◆ ◆ ◆
「杼氏が」
桐帝は不機嫌に唇を動かした。
「杼氏に夷址軍が与したというのですか」
目じりに皺のめだつ――しかし往時は美しかったろうと思われるやや派手な顔立ちである。丁寧に描いた眉をひそめて、帝は心底から厭そうな表情をつくってみせた。
黎《れい》という粗末な形《なり》の女が、桐帝のまえに拱手している。
「柳に復讐したいとはお思いになりませぬか」
拱手こそしているものの、合わせぬ視線が慇懃無礼であった。舜の人間が舜帝に誓う忠誠心には、並々ならぬものがある。奈綺には裏切り者と称されたこの女も、けして舜を裏切ろうとしているわけではない。
「…………いったいおまえ、何の企みかしら」
「柳にこれ以上、力をつけてもらうと困るのです」
奈綺が冴えた冬の月だとして、それから彩妃を朧な春の月だとしたならば――この黎という女はまさにその名のとおり、暗く耀く不穏な月とでもいえようか。彼女は支岐に恋をしている。
(わたしは彼を愛している)
奈綺――奈綺などに、支岐をわたすわけにはいかぬ。奈綺が嫁した柳などに、国力をつけさせるわけにはいかぬ。愛した男は、奈綺のために舜を捨てて桐を滅ぼすために動きはじめてしまった。それだけはならぬ、と黎は唇をぎりぎりと噛みしめた。
「桐帝陛下よ、柳に一泡ふかせてやりませんか」
「………………」
「夷址軍に舜人をまじえているのは内密のこと。全滅させたとて舜は動けませぬからご安心いただいて結構。桐と舜が戦になることはありませぬ」
「……では全軍を都に残しておくべきか」
海ではおそらく柳帝軍が待ち構えているだろう。それに向けて兵を遣るつもりであった。だが、黎の言葉に桐帝は揺れた。
これは黎にとっても賭けであり、桐にとっても国の存亡をかけた賭けである。また奈綺にとっても賭けであり、支岐にとっても賭けであった。
だれもがこの戦に、全力を注ごうとしていた。
「全軍を残しておきさえすれば、杼氏軍と夷址軍をあわせても勝てるでしょう。数が圧倒的に違う」
七年前とは異なる。総兵数は五師にのぼり、杼氏軍をのぞいても全軍残しておけば四師半で戦える算段になる。およそ十万に届こうかという兵数であり、おそらく杼氏夷址軍を圧倒することができるだろう。
「……ともかく杼氏たちはこちらに向かっているのだね」
「ええ」
「……われわれはもはや負けられぬ。柳のあの若造を見返し、わが娘を取り戻して国を栄えさせる」
「ええ」
「全軍を残しましょう。何とかしなさい」
にやり、と黎は唇をゆがめた。
己が恋に溺れているとは、かけらも思っていない。己のすることは間違いなく愛する支岐のためであり、舜のためであると彼女は信じてやまなかった。彼女にとっては、この行為すべてが彼女なりの愛である。
◆ ◆ ◆
柳では例年になく晴天が続いていた。
「まだ兆しはないか」
柳帝は瞳を閉じたまま静かに訊ねた。海は例年にない晴天で凪いでおり、進軍には最高の日和である。
(おかしい)
どうした奈綺よ、と彼は心の中で妃に呼びかけた。夷址が落ちたという報せもなければ、夷址で桐軍を食い止めたという報せもない。あげく海を渡るであろうとふんでいた桐帝軍の影も形もないというのである。柳帝の頭でなされていた算よりも、時間が経ちすぎていた。
むろん、この男の場合は取り乱すということがない。側近が心配すればするほど、この主君はどっかと玉座に腰を据えて動かぬ。
「海には何の変化もございませぬ」
「……夷址が落ちたという報せもないのだな」
「は、それもございませぬ」
うなずいて側近を遠ざけ、柳帝は手にしていた酒器を卓子の上に置いた。
――ただし、お命を落とされます。
――ほう、わたしがか。
七年前の占師の言葉が、このとき柳帝の脳裏によみがえっている。
――何の骨か。
――風のままに生きゆく鳥の皇帝、犬鷲のものにございます。
『――お命を落とされると申しましたのは、陛下のご正妃のことでございます』
柳帝は無表情である。ゆっくりと長い脚を組みかえ、何も考えていない風情でふたたび瞳を閉じた。
(朱綺を行かせれば早いが)
『風の者』奈綺の血をひいた息子である。この子を奈綺のもとへ行かせれば、それなりに力になるだろうと男は思案した。
(だが、奴はやれぬ)
柳の帝位を継ぐ子であった。奈綺の力になると知っていて寄越さぬのは、やはり柳帝が国を一に考えているからに違いない。こういう点における彼の冷徹さは、奈綺に負けずとも劣らぬ。
恋をし、愛をはぐくんで結ばれた夫婦ではなかった。
秋沙を呼ぶか、と彼は卓子の上に無造作に置かれた紙を一瞥する。国を一に考えれば朱綺はやれぬ。しかし、奈綺を放っておくわけにもゆかぬ――奈綺を失うということは、柳の繁栄になくてはならぬものを失うに等しい。
奈綺と秋沙を天秤にかけたとき、この男は奈綺をとる。舜にいて生きているかも分からぬ娘など、彼にとってけして重要な存在ではなかった。
ふと気配を感じて、柳帝は瞳を開けた。織布の向こうに何かがいる、と感じとることができたのは柳帝が常人ではないからである。
「……間諜か」
「陛下、ご無沙汰しております」
気配はふたつあった。
してやられた――と、柳帝は苦笑して予期せぬ来客を迎えた。
美しい貌がふたつ、並んでいる。ひとつはかつて見慣れた懐かしく穏やかな美貌であり、もうひとつは己が妻(さい)によく似た、鋭い美貌であった。しかしまだ幼さの残る貌である。
「秋沙か」
柳帝はやはりいつもの冷ややかな嘲笑を唇にたたえて、そう呼びかけた。少女は黙ってその場にひざまずき、拱手の礼をとる。
「彩よ。いや、彩妃とお呼びしたほうが良いかな」
「陛下」
「舜帝にいわれたか――連れてゆけと」
「柳帝陛下がそれを望まれるだろう、と」
ふん、と彼は鼻で嗤った。気に入らぬ。舜帝に先を越されたということが、気に入らぬ。が、手間は省けた。
「母を助けにゆくかという問いに、即座にうなずかれました」
彩にとってはかつての主君である。立場上、秋沙に対しての敬意を忘れない。
「…………即座に」
「は」
先ほどぶつかった双眸には、感情はなかった。が、どうやらまだ子どもなのか――それとも奈綺に似ているとはいえやはりわずか性質に相違があるのか。母を慕う心が消えていないらしい。人を殺せる眼をしているが、母だけはけして殺さないだろう。奈綺と異なるのはそこか、と柳帝は静かに娘を観察した。
奈綺の娘――という目で見ているが、奈綺の娘である以上に自身の実の娘である。
「なるほど。母を助けたいか、秋沙よ」
「どうか行かせてくださいませ」
ただし母上には内密に、と少女は懇願した。
母を母と呼べば叱られます――母を助けるために来たと知ればなおさら。
「よしならば行け。母の助けにならぬなら、喉でも裂いて死ね」
「御意。ありがとうございます、父上――陛下」
彩の非難するような、驚愕したような、なんともいえない視線を感じながら柳帝は娘に言葉をかけた。初めてまともにかけた言葉は、彼女の存在価値を決定づける残酷かつ明確なものであった。
母の役にたつ。
国の役にたつためだけに、生きよ。
それだけである。
◆ ◆ ◆
なぜ母という生き物が己を産み落としたのかを、知らぬ。
母の愛や、父の愛といった肉親の情を知らぬ。
自分を不幸だと思ったこともなければ、哀れと思ったこともない。他の人間からみれば不幸であろう生き様が、己にとってはもっとも誇り高いものだった。
考えをめぐらせ、これと決めた主君と祖国のために戦うことは愉快であった。浴びる返り血もいっそ爽快であり、山野を駆ける心はどこまでも明るかった。化け物と謳われる言葉も、人にあらずと怖れられる言葉も、すべてはむしろ賛辞に等しかった。
淋しいと思ったことはない。孤独だと知っていたが、それを悲しいと思ったこともない。奈綺の心には、変わらず懐かしき舜帝と祖国の姿がある。その心のなかでは、舜帝も舜国も――不滅であった。
信ずるもののためならば、戦う。どこまでも戦う。
この体じゅうの血、最後の一滴をしぼりだしてでも。
奈綺は駆けた。
斂もまた、ともに駆けた。
桐都が一望できる小高い丘にたどりついたとき、奈綺は小さく嗤った。
「……間に合わなかったか」
【闘】 参
奈綺は、斂と支岐に杼氏夷址軍の指揮を一任した。ひさびさに見る支岐の頬をであいがしらに一発殴った奈綺であった。
「貴様、わたし以外に何も目に入らなくなったか。己の尻にひっついてくる女くらい始末しておけ」
「…………何、」
「おそらく黎という女だ。桐帝と通じた」
ただし、斂と支岐にすべてを預けたのは信頼である。桐帝相手ならば、彼らの指揮する少数の兵で事足りると判断したのであった。
(桐帝と黎は、おそらく宮城にいる)
圧倒的な大軍を頼みに、宮城で勝報を待っているだろう。
「嬢、あなたは」
「桐帝を殺す」
「ひとりでゆくのか」
「ふたりで行って何になる。軍を動かす者がいなくなる」
無表情であればあるほど、この女の美しさは凄みを増す。斂は変わらず清々しい心もちで彼女を見つめ、支岐は不安な気持ちでもって彼女を一瞥した。
「斂は杼氏軍を、支岐は夷址軍を動かすにうってつけだろうよ。夷址兵にとっては支岐、あんたは将軍だ」
覚えているだろう、と奈綺は小さく唇を歪めた。七年前の夷址戦のとき、兵士を鼓舞し、先頭にたって駆けたのは間違いなくこの男であった。よどみきった香荻の支配のなかに、爽やかな新風を巻き込んだ将軍として駆けたのであった。
「しかし……」
言いかけて支岐はいやいやをするように頭をふり、それからひとつ嘆息した。奈綺の美しい双眸に射抜かれたからだった。
おまえはいったい何のために舜を捨て、桐の実母のもとへやってきたのだ――。
奈綺の目が、まっすぐにそう問うている。
(失ったものを取り戻すためだ――おまえとの……)
己がすべきことはわかっていた。夷址軍を動かし、斂と連なって桐帝軍を撃破するだけである。だが、と支岐はその場に立ち尽くした。
「しばらく潜む。あんたたちが戦に出たら、その騒ぎに乗じてわたしは宮城へ入ろう」
「本気か」
冗談に聞こえるのかその耳には、と奈綺は相変わらずの美貌で嘲笑してみせた。
(じゅうぶん本気に聞こえるわ、この阿呆め)
視線をそらして溜め息をひとつ落とし、支岐は空を見上げる。夕暮れであった。
「嬢」
斂は冷静である。
「もう俺たちは軍に合流したほうが良いだろう。勝算ありとはいえ、桐帝全軍を相手にするのであれば」
余計な口を挟みやがって、と支岐は思った。思ったが、頭のなかでは斂と同じことを考えているため何も言えぬ。
「俺と支岐殿のあいだにも、会話が必要だ」
「………………」
「ゆきましょう。支岐殿――いや、将軍」
支岐はそれに答えず、ふたたび奈綺に視線を寄越した。
「奈綺、ほんとうにひとりでゆくか。俺たちとともに戦ったほうが良くはないか」
次は奈綺が黙った。
「持ちこたえれば柳の援軍も来るだろう」
杼氏と夷址軍をあわせたくらいでは勝てぬわ、と奈綺は心の中で毒づいた。実のところ、この女にとって、斂と支岐による戦は時間稼ぎにすぎなかった。柳軍が助けにくることなどないと、知っているからである。
(あの男は援軍など寄越さないさ、支岐よ)
けして己の根城を空けぬ男ぞ、と奈綺はただ口角をあげて支岐を見た。だいたい黎の出現で算がすでに狂っている。独力で切り開かねばならぬ。
(わたしの不覚よな。そこまでの度胸があるとは思わなんだ――黎という女)
「あの女」
東の空に月が浮いた。太陽と見まごうばかりの赤い月である。月に背をむけていた支岐と斂は、奈綺の澄んだ双眸のなかにその月を見つめた。
「……土着の民を与させたかもしれぬ」
桐軍だけが相手ではないかもしれないのさ、と奈綺はあっさり言ってのけた。
「ここまで進軍してくるのに、あたりの族《うから》から問いはあったか」
はっ、と男ふたりの顔色が変わった――大軍の進軍があれば、道すがらの族から問いがあるはずなのであった。何のためにここをまかり通るのか、という問いである。そういった問いがあるのが普通だった。
「……なかった」
夷址に力を注ぎすぎたのかもしれぬ。とはいえ一度は、いざというときには夷址軍に与するという契りを得ている。
奈綺、この女はぬかりない。確実にわたりをつけ、しかし怪しまれぬように問いは行えという要求も飲ませた。
「黎がそれを覆したというのか……それほど力のある女では」
「あれは舜人であろうよ。今回の戦、本来は舜には関係のないことではなかったか」
黎にとっては、どう転んでも害のない戦である。柳と桐を掻き乱すために、どんな大言壮語を吐いて豪族たちの気を引いても責任はとらずにすむ。
領土を与える――何でもよかろう。条件をつけて豪族が桐に与し、柳が敗れる。
豪族たちが桐に約束を突きつける。もしも黎がそのことを桐に伝えなければ、桐は彼らを突き放すであろう。そうすれば、桐はあたりの豪族たちすべてを敵にまわす。
桐が荒れる、乱れる。内戦が起こるだろう。
衰えた柳。荒れてゆく桐。そうなれば、舜は間違いなく大陸の覇者になれる――。
(柳帝の気性を知らなければなおさら、そう考える)
「…………」
男たちは絶句した。斂でさえも、今の今まで考えていなかった予測である。むろん支岐にいたっては、いまだ信じられぬような表情で奈綺を見つめていた。
「黎がそんな力を……」
「だから言ったろうよ。尻についてくる女の始末くらいしておけ、と――女はやる。女ならやる」
己が愛と信ずるもののためなら、女はどこまでも執拗《しゅうね》く事を起こしてまわるだろう。情が濃い。
「俺のせいか」
支岐は愕然として呟いた。
「そうさ、だが」
嘲るように吐き捨ててから、奈綺は続けた。
「気がまわらなかったわたしも阿呆よ」
夜の賑々しさがにじみでてくる頃合いである。奈綺はゆっくりと砂を踏みにじって月を仰いだ。
◆ ◆ ◆
黎と奈綺のあいだに面識はない。直接面と向かって言葉を交わしたことはない、という意である。ただし舜の間諜内では奈綺はもっとも名の知れた一の『風の者』であり、だれもがその姿を知っていた。だからあえて言うなれば、黎のほうが一方的に奈綺の姿を見ていたということになる。奈綺と支岐は、彼らの本意でなかったものの動きをともにすることも多かった――支岐を見つめてきた黎は、必然的に奈綺をも見つめてきたことになる。
正攻法では奈綺を落とせぬと、黎は知っていた。どんな卑怯な手でも使うつもりであった。
桐まわりの豪族に、黎は低姿勢で交渉しつづけた。時間はかかったが、この女は己の身体をも巧みに使って交渉を成功させた。
奈綺のように多忙でなかったことが、彼女を成功させたといえる。
むろん奈綺の憶測はあたっていた。
身体と時間を使って無責任な条件を提示し――つまり桐に加担すれば領土の一部を譲渡するという条件を提示し、杼氏夷址軍が桐都にとって返すぎりぎりの直前に、奈綺との契約を覆させたのであった。
黎は、宮城に滞在したまま勝報を待っていた。
(あの女には渡さない)
けっしてあの女には渡さない。奈綺――あの女には、と黎は瞳を閉じた。件の女の姿は、容易に思い浮かべることができる。黎には太刀打ちできぬほど凛然と美しく、また堂々としていた。 支岐を足蹴にできる唯一の女であった。それがまた、黎には憎らしかった。
わたしの愛するあの男を、と幾夜も歯噛みして過ごした。
「…………殺してやる」
桐帝から与えられた室《へや》は、宮城の東宮にある客室である。そう目を瞠るほどの広さはなかったが、女向けに小奇麗に整えられた室だ。細やかな調度品も備えられており、女が過ごすには退屈しない場所だった。その室の窓辺にたち、黎は眼下に広がる桐の都を見晴るかす。
(息の根をとめてやる)
どんな卑怯な手を使ってでも、あの女だけは生かしておきたくない。
ともかくこの女は、すでに冷静さを失っている。己の感情で走りだしていることを、これぞ支岐のため――ひいては国のためと盲信していた。その陰には、実のところ奈綺に対する羨望のようなものが潜んでいるのだったが、むろん黎が自身で認められようはずもない。支岐の愛を受けられぬと心で知っているからこそ、彼女の憎悪ははげしく燃えた。逆恨みである。が、愛に溺れた女は逆恨みをまっとうな愛ゆえと誤解する。
奈綺のもっとも嫌う型の女であった。
こん、と控えめな音に黎はゆっくりと窓辺を離れた。
「どうぞ」
黎は化粧をしている。この時代、化粧するという行為は呪術的な色合いが濃かった。眼のまわりに黒々と線をひき、白粉《はくふん》を塗って唇には紅をひく。顔を美しく彩ることによって、神々の力を借りようというのである。美しいには美しかったが、どことなく冥《くら》い美しさであった。不気味な巫女《ふじょ》に雰囲気が似通っている。
「黎嬢。桐都の西端で開戦いたしました」
はじまった――。
ざわり、と鳥肌たつのを黎は抑え、報せにやってきた女官に眼でうなずいてみせる。高揚感は隠せない。『風の者』としての高揚感でもあり、また憎々しい女を殺す機会であることへの期待感でもある。この女もまた、人間の性を隠しきれぬ『風の者』であった。
桐帝軍の中枢、第二師、第三師の将軍が夜のあいだに首をとられたという報せが入ったのは、開戦したその日の翌夕のこと。
聞いた瞬間に全身から血の気がひいてゆくのを感じながら、しかし黎は桐帝から幾らかの兵を借りて宮城を出た。奈綺がくる――この女はこの女なりに、今すべてを懸けて奈綺の息の根をとめようとしていたのである。奈綺のことを今まで遠くから見てきたからこそ、一対一で戦おうなどという無謀な考えは持たぬ。
「支岐は渡さない」
ふたたび黎はつぶやいた。
渡すもなにも、支岐など要らぬわ。黎のつぶやきを奈綺が聞いていれば、嘲笑とともにそう吐き捨てたに違いない。黎という女は、彩とも琳とも異なった。それぞれが“女”を秘めていたが、黎はそのなかでももっとも冥い女であった。思えば、名に支配された哀れな女だったといえるのかもしれぬ。
奈綺と黎が対峙する、前夜である。
◆ ◆ ◆
――『けっして母に惑わされるな、秋沙よ。ひとを殺すことを厭わず、血縁はいないものと思うことだ』
夜通し、秋沙は馬を走らせていた。ただひたすらに、その細く華奢な体は桐都を目指している。明日には桐都に入れるだろう――体は華奢だが、魂は母に似て限りなく強靭であった。外見《そとみ》はやや父帝に似ている。
少女は馬を走らせながら、母の言葉を思い出していた。
母を母と思うな――無茶な話であった。奈綺と秋沙は違う。奈綺は物心ついたときには天涯孤独の身であったが、秋沙の心にはもはや奈綺が絶対的な母親として生きていた。
初めから親などいないのを知っていて生きていくのと、親がいることを知っていながらその存在を消して生きていくのとではわけが違う。
(母上)
しかしこの娘は賢かった。怜悧な頭の良さは、父ゆずりでもあり母ゆずりでもある。母の生き様も考えかたも、もう娘はすでに理解していた。
(母上)
どれほど心のなかで母を呼んだであろうか。思えば他にないだろうと思うほど残酷な母であったが、なぜかこの娘が母を厭うたり恨んだりすることは生涯なかった。母よりも長生きしたその生涯で、ただの一度も母を疑ったり恨んだりすることはなかった。
「母上……」
母らしからぬ母だが、やはり秋沙にとっては母であった。あるいはまた、誰よりも尊敬すべき師でもあった。
――母の助けにならぬなら、喉でも裂いて死ね。
残酷なのは母だけではない。父もまた。
(それでもかまわない、母上にお会いしたい)
母が危ういならば、力になりたい。そう思うところにまだ幾らかの幼さが残っていたが、しかし母を想うがゆえにこの娘は強い。愛欲が絡んでいないから、それはなおさら純粋な強さになった。
柳への橋渡しをしてくれた彩妃には感謝している。が、男の庇護のもとで生きる彼女のようにはなりたくないと秋沙は思った。母のように――奈綺のようになりたい、と彼女はただひたすら強く切望している。
娘は、母を想いながら駆けていた。娘を娘とも思わぬ冷たい姿を思い出しながら駆けていた。しかしあの美しい姿が、秋沙は子どもなりに好きだった。
――奈綺という女は、獣に似ている。しなやかに風の中を駆けてゆく美しい獣に似ている。
美しいがゆえに騙されるが、獰猛な獣ぞ。
(奈綺よ……)
おまえを失うわけにはゆかぬ。片腕を失うようなものだ、と柳帝は神泉の傍らに静かに佇んだ。とはいえ、この男は援軍として柳帝軍を出すつもりは毛頭ない。あの美しく気性の荒い正妃も――正妃の皮をかぶったあの『風の者』も、それをじゅうぶん承知しているはずだった。
(必ず桐を滅ぼして帰ってこい)
奈綺を妃として迎えたときは、心底愉快に思ったものだ。あろうことか舜の間諜であった――けして相容れることのないはずの関係である。月並みな言い方をすれば、まさに柳帝が奈綺の才《さえ》に惚れたといって良い。この夫婦は、互いのあいだに独特の絆をつくりあげていた。つくりあげたというよりは、このふたりの本質が呼びあって絆がひとりでに出来上がったといったほうが良いかもしれぬ。もっとも通じあった同志というべきか。
皇帝は、妃の涼しげな美貌を思い浮かべながら瞠目していた。死ぬ間際に、愛した女をあえてひとり挙げろといわれれば――おそらく奈綺の名をあげるだろうと思って、彼はにやりと唇を歪めた。
いつ己の寝首を掻くともしれぬ危うい妃であった。だがこの男はこの男なりに、そんな妃を愉しく思い、また寵愛していた。
悠々と睡眠をとったのはおそらく奈綺だけである。
それぞれがまんじりともせぬまま、夜明けを迎えた。
月が沈んでゆく。
【母よ妻よ、そして娘よ】
その日は、桐も柳も、そして舜も快晴だった。
空はぬけるように青く、美しく晴れわたっていた。
(今日じゅうに終わらせる)
目指すのは桐帝と黎の首のみ、と奈綺は腰紐をきつく締めなおした。この女には、まったく恨みも憎しみも、殺意もない。殺したいから殺すのではなく、わが道を阻むから殺すだけのことである。この殺意のなさが、彼女をなおさら強くしていた。感情に揺さぶられることがない――だから強い。
勝たねばならなかった。桐国皇帝と裏切りものの首をとるだけでなく、杼氏軍・夷址軍を勝たせねばならなかった。
“奈綺参る”
奈綺は、己がどういう目で見られているかを自覚している。『風の者』――奈綺は人に非ず。常人ではとうてい有り得ぬことを、奈綺という女は平然とやってのけると。彼女の殺しは無言であり、それでいてなお爽々としていると畏怖されてきた。
自身が囮になるつもりであった。少しでも杼氏・夷址軍に相対する兵数を拡散させようと、奈綺は闇夜にしのび、宮城に文を投げこんだのであった。
(あれを思い出すわ、あの祭り)
柳帝と初に相まみえた直後、奈綺が放り込まれたのは一年に一度行われる柳の祭りだった。柳帝の叔父湯庸が率先して催していた、あの祭りである。
集められた賤民が獅子をけしかけられ、虎をけしかけられ、日々大勢の柳兵になぶり殺しにされる――間諜にとってはあまりにも不利な開けた広場で、観衆の貴族どもに見守られながら奈綺はひとり最後まで生き抜いたのであった。
おそらく黎に、同じ目に遭わされるだろう。奈綺は予測していた。奈綺が来ることを知れば、残っているすべての戦力を奈綺に向けるだろうと分かっていた。
「だが負けられぬ」
茂みのなかでゆっくりと長針に蛙毒を塗ってゆく。たとえあのときの祭りよりもはるか危うい状況に立たされるとしても――懐の小瓶をとりだし、ぐいと飲み干した。火酒である。強い酒を少量飲めば、たとえ傷を負っても痛みが麻痺する。おそらく戦う場所は、奈綺に有利な森のなかではない。宮城のまわりに番兵が敷き詰められている――まさに敷き詰められているという表現がふさわしいほどびっしりと兵が警備している以上、ひそやかに中へしのぶことは奈綺をもってしても不可能である。そうなると、奈綺はさまざまのことを覚悟で正面から入ってゆくしかないのであった。むろん、そうなると知っていて文を投げこんだ奈綺である。
奈綺の読みどおり、黎はすでに豪族兵を慌てて宮城に引きとめていた。それらをすべて奈綺というたったひとりの女にぶつけるつもりでいる。卑怯であるとか、間諜としての自尊心が許さないとか、そういった気持ちはこの女にない。いや卑怯であると思いながら、奈綺に勝つにはこれしかないと考えている。
(黎か。おそらく豪族たちをすべて宮城内に残しているだろうな)
黎が卑怯であると思っている一方で、不利なはずの奈綺はそれをまるで卑怯とは思っていなかった。奈綺に“卑怯”という念は存在せぬ。どんなに汚い手であろうとも、必要とあらばそれを敢行する――それは奈綺にとってはけして卑怯でなく、むしろ当然のことなのであった。
さて、と奈綺は静かにたちあがった。野生の獣のように静かな気配である。葉擦れの音もほとんどたてずに、彼女は明けた空を仰いだ。
(黎よ。おまえの予想は夜だろう――今夜わたしがくるとふんでいる)
だが、わたしは今からゆく。夜ではもったいなかろう――この晴れわたった美しい空のもとで、かならずや血祭りにあげてくれようよ。
奈綺は一歩をふみだした。
遠い祖国で、柳で。娘が、息子が、夫が、あるいは真の主君が奈綺に思いを馳せていた。が、このときも奈綺の頭には敵のことしかない。腹を痛めて産んだ子どもたちの姿を思い浮かべることもなく、幾度となく体を重ねあった夫の冷たい美貌を思い浮かべることもなく、美しい女は己の戦いへと赴いた。
◆ ◆ ◆
奈綺の双眸が意図的に黎を見据えたのは、はじめてのことであった。表情がないゆえに、その双眸はやはり凄絶な冷たさを放っていた。
「黎か」
豪奢な大広間に通された奈綺は、まるでどうでもいいことを呟くようにそう言った。訊ねるといったふうでもなく、ただあっさりと黎の名を確認しただけのようであった。
「…………」
この怖れのなさは何事であろうか、と黎は思った。頭では知っていたつもりである。奈綺の不遜さ、神をも畏れぬ傲慢さ――強靭さ。だが、それでもなお得体の知れぬ不安が黎を襲っていた。
豪族兵に、奈綺を囲ませていた。しかし大勢の兵を見ても奈綺の双眸はぴくりとも揺れず、ただ一度だけ嘲笑に似たものを唇に浮かべただけだったのである。
「……いかにも」
こくり、と己の喉が動くのを黎は感じた。けして愚かなわけではない、すでに自分が圧倒されているのが分かって黎は苛だった。
「なるほど冥い目をしている」
「……なに?」
「黎という名のとおり、冥い目をしているといったのさ」
しんとした大広間に、奈綺の声だけが涼々と響いた。時おり兵士たちの刀剣や槍が触れ合う金属音も混じったが、彼女の声は不思議なほどひどくよく通った。
声はひとをあらわすという。奈綺の声はけっして大きくはないが、どこまでも美しく耳に心地よく響く。大きな声を出すわけでもないのに、なぜかひとの耳に巧みに沁みこんでゆくのであった。時には底冷えのするような冷たい声でもあった。
「奈綺」
一瞬、黎の声が小さく震えた。
「今日が“ひとに非ず”とうたわれたあなたの、」
黎の双眸の奥が、ほんのわずかに奈綺からずれたのを奈綺はけっして見逃さない。
「最期の日だとお思いください」
無数の剣先が奈綺に突きつけられたと思ったときには、もうすでにあたりの十人ほどは奈綺の糸刃扇によって屍となっていた。それがはじまりの合図であった。
武具《もののぐ》には不自由がない、と奈綺は唇を歪めた。殺しざまに相手の武具を奪えば、それらは無尽蔵に奈綺の手にはいった。
彼女はほとんど動かない。己が今立っているところを軸にして、不必要な力を使わずに屈強な男たちを相手にする――細い腕でありながら、この女の腕力には目を瞠るものがあった。兵士たちが怖気づき、距離をおいて獲物を仕留められる長槍を繰りだしてくる。女は、細腕でその槍を力任せに引き寄せ奪いとり、あげくその槍で男たちをなぎ倒してゆくのであった。とんでもない力である。
がふっ、という奇妙な悲鳴をあげて口のなかに槍を突きこまれた男が倒れかかってくる。血泡をふいて落ちてくる男の頭を手のひらで弾きとばし、奈綺は巧みに壁を背にした。宮城の大広間は、まさに大広間であり賤民には想像もつかぬほど広大である。その開けた場所で戦うには、奈綺の生業はあまりに不利だといえた。
黎は待った。
奈綺に真っ向から対峙するのが怖ろしい――ともかく消耗させようと彼女はひたすら待った。待ちながら恐怖心を新たにしている。これが奈綺の殺しか、と黎はそっと己の腕を抱きしめるようにして小さく足踏みをした。
奈綺のそれは無言である。これといった声ひとつあげず、しかし奈綺が動いたその次の瞬間には必ずふたつかみっつか、あるいはそれ以上の屍が転がっているのであった。
黎は待った。
いつか必ず奈綺にも隙ができると、彼女は信じて疑わなかった。己の行為が支岐にどう思われるか、黎の頭にはない。ともかくこのときの黎は――すでに緊張と興奮が限界に達しており、まさに何かに憑かれているような状態に陥っている。『風の者』でもあった。飛び散る血しぶきに、やはり彼女もまたぞくりと鳥肌たった。
(いくらでも数はいる)
黎にとってみればとるに足らぬ無関係の豪族兵であり、奈綺にとってみれば己との契約を破って黎に与した邪魔な砂粒どもである。奈綺はいつもと変わらず躊躇なく殺しつづけ、黎は目を血走らせながら幾度も兵士たちを大広間に呼びこんだ。この奥に桐帝がひそんでいることは黎しか知らぬ。この騒ぎに桐帝が巻き込まれることのないよう気を配りながら、黎は奈綺の様子を注意深く見守った。
奈綺の糸刃扇は、次々と兵士たちの肉を断ってゆく。磨く暇もない――時間が経つにつれて切れ味は悪くなっていった。切れ味の悪さを、奈綺は力で補った。己の力と、大広間の少ない風を利用して彼女は力任せに男たちを殺していく。
糸刃扇を使うようになって、初めての長期戦であった。かつてのあの祭りのときよりも、相手にすべき兵士の数は多く、考慮すべき状況も多く、また場所も悪い。風を味方につけるのが何より巧みな『風の者』にとって、風のない宮城の大広間はあまりにも分が悪すぎた。
(どこまでも湧いてきやがるわ)
そのあまりにも分が悪いこの場所で、ここまで戦っている奈綺はやはり尋常ではなかった。(この女、わたしが消耗するのを待っている)
わかっていながら、さすがに奈綺も術がない。ここで戦い、隙をみて黎のもとへ飛ぶしか術はない。半刻が過ぎ、一刻が過ぎる。
「いったいいつまで……」
歯噛みしながら、小さく黎は呟きをおとした。奈綺の顔色がまるで変わらない。顔色ひとつ変えずに次から次へと、まるでちょっとした遊びででもあるかのように兵士を倒していくのである。
このときすでに、奈綺はずいぶんと体力を消耗していた。当然である――あの祭りのときには一日に長くても半刻ほどしか戦いに出されることはなかった。過酷な戦いながら、じゅうぶんに休息をとって翌日に備えることができたものである。今は違った。かつてよりもはるかに酷な戦いが、もう一刻も続いている。男でも半刻もてば良いような状況で、奈綺はいまだ平然として糸刃扇を繰り、毒針をまき、強烈な殴蹴《おうしゅう》で無数の兵に立ち向かっているのであった。
無傷だったわけではない。体じゅうに擦り傷と切り傷ができ、そこらから鮮やかな血が流れでていた。脚は狙われていた。脚の傷がもっとも深い――奈綺自身、それをひどく気にかけた。脚はもはや命に等しい。脚がなければ駆けられず、跳躍もかなわず、それはもう死に等しいことでもあった。
幾度も確かめるように足踏みをしながら、奈綺はそれでも動きつづけた。傷が深いといっても、動けぬ傷ではない。
(斂よ――勝て。叩き潰せよ)
杼氏夷址軍が勝てば、それだけで形勢は明らかに変わる。帝軍敗北の報せがここにもたらされるのを待つのだ、と奈綺は唇に滲んだ血泡を吐き捨てた。
ただ戦っているわけではない。黎の視線の動きを注視していた奈綺には、すでに桐帝がどこにひそんでいるかの予測がついていた。
ともかくまず黎の息を、と彼女は狙った。毒針はまだ懐にある――隙をみてあの女を殺さねば、と奈綺もまた思っていた。
惨めな女だ――男にうつつを抜かして己を見失うなど。
支岐は今、斂とともに戦っている。ここに支岐がいるはずなどないのを知りながら、奈綺は珍しくあたりの騒がしさを押しのけるような怒鳴り声をあげた。
「支岐――――!!!」
黎もここに支岐がいるはずなどないことを知っていた。が、支岐に溺れていたことが災いした。動かすまいとしていた視線を、黎は思わず大広間の入り口のほうへと動かし、それを見た奈綺の手が風のように動き――奈綺の動体視力が人間離れしていたことが、今度は奈綺にとっての災いとなった。
入り口にほんとうに人間がいた。
わずかなわずかな、ほんとうにわずかな動揺が奈綺の手元を狂わせ、しかし彼女の放った毒針は黎の心臓をはずれたものの、みごとに喉もとを貫いた。
まったくの想定外であった。ぐぐ、と奈綺はうめき声をこらえた。
(なぜおまえが来る)
このとき彼女が動揺したのは、やはり疲れが蓄積されていたからだったのだろう。娘でないと言いきったはずの秋沙の姿を目にして手元をかすかに狂わせた己の醜態を、奈綺はどこまでも憎悪した。
手元が狂っただけならばよかった。黎もその場で毒の痺れに堪えきれず膝をつき、だが奈綺もまたよろりと壁にもたれかかった。奈綺が黎を狙った隙に、物陰にひそんだ兵士が武具を繰りだしたのであった。
(なぜおまえが)
ほんとうならば、その武具は奈綺の腰をすっぱりと断つはずだった。飛んでくる武具を目の端でとらえ、それを避けたのはむろん奈綺が奈綺であったからである。が、状況と疲れと動揺が、その武具のもとに奈綺の脚を残した。
体じゅうから血の気がひいてゆくのを感じながら、奈綺は怒鳴った。
「秋沙、すべて殺せ――――!!!」
物陰では、奈綺に武具を飛ばした男が屍をさらしていた。どこからか糸刃扇を手に入れたらしい、桐の間諜であった。命を懸けて奈綺に一太刀浴びせようとしたのだろうが、己を襲ってきた相手を生かしておくほど、生ぬるい女ではない――奈綺というのは。
(孔どもの敵討ちか、それとも斂がわたしに与した怨みか)
「すべて殺せ――――!!!」
母の大声に、娘の体はただちに反応した。母を助くるために駆けてきた娘であった。むろん己があらわれたことで母に何が起こったか、まだ彼女は知らぬ。
秋沙が不意にあらわれたことと、黎が体勢を崩したことで、兵士たちのあいだの焦りが増した。秋沙が踊るように殺しをはじめた――その様子があまりにも奈綺と似ていたからでもある。
奈綺はゆっくりと自分の麻衣を破った。
(……糞が)
左足の膝から下が、糸刃扇によって奪われていた。
◆ ◆ ◆
「陛下、ご正気であられますか!」
「俺が正気でなかったことがあるか」
例年ならばそろそろ曇り空が増えてくるこの時期に、晴天続きなのが気に食わぬ。不吉な予感に、柳帝は決断した。海をわたり、桐に攻め入る決断である。
(奈綺からいまだ報せが来ぬはおかしい)
あの女が怪我をしたか、あるいは死んだか――少なくともそれに近い何かが起こったのだと男は判断した。
「殺すぞ、つべこべ言わずにはやくゆけ」
この男が殺すといえば、ほんとうに殺す。側近はそれ以上反駁せずに、しかし困惑しきった表情で拱手した。
(奈綺よ)
ひとり残った柳帝は、晴れわたった空を静かに仰いだ。
(奈綺よ、やはり何をおいてもおまえを失うわけにはゆかぬわ。軍を送るぞ)
軍を送る。軍を送ればあとは桐で奈綺がうまくやるだろう――という柳帝の信頼の証でもあった。やはり柳帝と妃のあいだには、確かな絆があったらしい。
母よ――あなたを助けたくて。
妻よ――おまえを失うわけにはゆかぬ。
――――――――――
柳帝よ、と奈綺は止まらぬ血に舌打ちしながら呼びかけた。戦場で柳帝を思い出したのは初めてのことであった。
「柳帝よ……血は争えぬわ。なんと愉しそうにひとを殺すことか」
暴れまわる娘を目の当たりにして、むしろ奈綺は愉快であった。
(秋沙――娘よ。それでいい、それこそ『風の者』の殺しぞ)
一度だけ胸うちで娘に語りかけ、奈綺は小さく笑みを洩らした。
それはやはり、いつもと変わらぬ嘲笑であった。
【風導】
奈綺と秋沙の。師と弟子の――母と娘の、視線が刹那交錯した。
ぐらり、と美しくしなやかな女の体が傾いた。ほんとうに静かに静かに、奈綺はその場に倒れたのであった。きつく傷口を締めた布を、飽くことなく鮮血が染めあげている。広間から秋沙の姿がいつのまにか消え、それに気づいた兵士たちがこぞって崩れおちた奈綺のもとへと集まってきていた。
女の美貌からは、血の気が失せていた。集まってきた屈強な兵士たちの多くが、間近に見る『風の者』に一瞬息を飲んだものである。決死の攻防の際には見られなかった女の素顔を、男たちはなかば安堵と感心と懼れの眼《まなこ》で見つめた。血の気が失せてやや青ざめた貌は、おそらく男たちが思っていたよりもはるかに美しく整っていたようで――このときこの場に居合わせ、かつ長く生き残ることのできた数少ない兵士のひとりなどは、奈綺という女を間近に見た鮮やかな驚愕を日記に書き残していたというのだからよほどである。
敵ならばともかく、敵ではない者でさえも間近には寄せつけぬ空気を纏う奈綺であった。成人したこの女の美貌を日常的に間近で見つめてきたのは、こう考えると柳帝だけだったといってよい。
「……陛下のもとへ引き出すぞ!」
「陛下はどこにおられるか」
奈綺の体を、男がひょいと担ぎあげた。脚の切り口から、男が歩くときの揺れにあわせて律動的に血が滴っていく。
唇に血泡をためて、黎がその屍をさらしている。奈綺の放った針の毒は、思いがけぬほど速やかに体にまわり、秋沙がそこにとどめをさしたのであった。黎だけが桐帝の居場所を知っていたのだったが、かといって兵士たちが主君の居場所を突き止めるのにそう時間はかからなかった。ものの半刻もしないうちに、幾人かの兵士たちが叫ぶ声が響いた。
「おられた、ここぞ!」
やや蒼白になっていた桐帝の表情が、ぴくりとも動かなくなった奈綺の姿を認めて威厳を取り戻していく。そして黎が死んだことを聞いた際には、その双眸の奥に隠しようのない安堵がちらついた。桐帝にとっては、奈綺が死に黎が死んでくれるというのはそれなりに都合のよい展開である。これで杼氏も消えてくれれば言うことなど何ひとつとしてない。
「……死にましたか、黎も――この奈綺という間諜も」
どさり、と男が乱暴に奈綺の体を床におろした。
「いやこれは、おそらく気を失っているだけかもしれませぬが」
将らしき兵士が、硬い靴先で奈綺の体を幾度か小突く。鬼神のような戦いぶりとは裏腹に、男が小突けば簡単に体が動いてしまうほど、奈綺の体躯はしなやかであり細やかであった。
「そこまでで良いでしょうか、皆々様」
まるで鈴のように澄みわたった声が響いたのは、そのときである。秋沙であった。
「…………貴様……!」
がむしゃらに飛びかかっていけるほど愚かな兵士は、幸か不幸かこの場にはいなかった。さきほどの秋沙の戦いぶりが、眼裏《まなうら》に厭というほど残っているのである。間をとり、ただひたすらに兵士たちは剣先を、槍先を秋沙に向けて佇んだ。
「申し訳ございませんが、これ以上待てませぬ。そろそろ片をつけさせていただきたいのですが」
奈綺の不遜な――傲慢な物言いとは正反対である。物静かで可愛らしい、ふと愛おしむ気持ちを呼び起こさせるような不思議な色を含んでいる。敵と知りながら、男たちはそれでもなお、わずかばかり躊躇した。
「よろしいでしょうか」
兵士たちは皆、扉傍に立つ少女を見つめている。奈綺は桐帝の足元に放り出されたまま、その細く美しい脚から絶え間なく鮮血を溢れさせていた。
「……何と厄介なこと……」
桐帝は心底厭そうにつぶやきを落とし、椅子から立ち上がった。
「いったい娘ひとりにどこまでふりまわされるつも、」
帝が、横たわった女を避けて騒ぎの起こっている扉のほうまで行こうと一歩踏み出した、そのときであった。
「…………何と」
というつぶやきは、確かに桐帝の唇から発せられたものである。しかしその唇がついているのは、胴体から美しく切り離された首なのであった。
初老の桐帝の唇は、胴体から離れてなおぱくぱくと幾度か動いた。
◆ ◆ ◆
生まれてきたことに、意味などなかった。生まれてきたから、生きるだけであった。
『風の者』――と、そう誇りかな名をつけたのは舜帝である。舜帝への忠誠心は、いわば受け継がれてきた血といえよう。間諜をけっして捨て駒にしない皇帝など、舜帝以外におそらく居らぬ。奈綺が唯一、その生涯でまさにただひとり慕った人間である。恋慕ではない、純粋な忠誠心であった。
風のように動き、風のように生きる。風のように人を殺し、風のように主君と祖国を守る。奈綺はそうして生きてきた。死と背中あわせの冷酷な世界で生きる己に、彼女はまた誇りを持っていた。
血が騒ぐ。
命を懸けて日々過ごしているから、いつ死んだとしても悔いはない。
己のしていることが正しいとは限らない。
だが、己が正しいと思うこと以外はけしてしない。
だからわたしはこれでいい。
幾度か斂と言葉を交わしたことがある。
「嬢。死ぬことが怖くはないか」
冗談まじりに斂が訊ねたときのことである。彼女の双眸はいつでも爽々と耀いている――見据える先が澄んでいるからであった。奈綺は答えた。
「生きることも死ぬことも怖くないさ」
彼女の返答は、いつまでも斂の心を満たすことになる。
生きることも死ぬことも怖くない――怖いものは何もないさ。厭なものなら、そりゃああるとも。己を見失い、腐らせることだけはごめんだな。わたしは見失わない。腐らない。そうして今まで命を懸けて生きてきた。
――だからいつ死んだとしても悔いはない。笑って死ねるさ。
◆ ◆ ◆
桐帝を殺したのは秋沙ではなかった。背後の気配に兵士たちがふりむいたとき、彼らは信じられないものを見た――左足を失って瀕死だったはずの女の、堂々たる立ち姿であった。右足だけで巧みに体勢をととのえている奈綺の、その足元には桐帝の首と胴体が無造作に捨て置いてあった。
「貴様、なぜ」
唇も顔色も青ざめているものの、表情はいたって普段と変わらぬ。にやりと彼女が嗤ったその直後に、兵士たちの首もまた主君と同じように胴体から次々と離れていった。あたりが血の海と化すまでに、時間はかからなかった。
母が見つめるその眼前で、秋沙が背後からすべてを片付けたのである。
(おまえに助けられたのか――このわたしが)
わずか皮肉な笑みを浮かべて、奈綺は娘を見つめた。どれだけ突き放そうとも、この少女が己の血を継いでいることは間違いない。しかしこのようなところで、その事実を痛感するとは思ってもみなかった奈綺であった。ちょっとした自嘲の心もちを抱きながら、けして不快ではない。
「………………」
窓辺に背をもたせ、奈綺は美しい双眸で秋沙を見つめていた。やはり愛しい娘を見つめる視線ではなく、弟子の出来を吟味するようなそれである。
「奈綺さま」
ぱちん、と糸刃扇を懐におさめ、秋沙はゆっくりと奈綺に拱手してみせた。奈綺さまと呼ぶことに、彼女はもう欠片の躊躇いをも見せぬ。柳帝や彩妃の前でみせたような、母を慕う瞳はけして見せなかった。
(秋沙よ。そんなに母が好きか)
見せなかったからといって、奈綺をだませていたわけではない。母を思うあまりでなければ、わざわざ舜からこんなところまで彼女がやってくるわけがなかった――そんなにもわたしを慕うのか、と奈綺は静かに瞳をすがめた。しかし成長した『風の者』の姿に、やや満足もしている。
「柳帝陛下に許しをいただきまして、まいりました――おそらく陛下が、もう帝軍を桐に向けて出兵させておられるはずでございます」
「……なに?」
このとき、柳帝が兵を出したと言ったのは秋沙のはったりである。むろん根拠のないはったりではなく、この幼い娘なりに出した根拠あるはったりであった。
秋沙は父の双眸のずっとずっと奥底に、母を愛するかすかな光を見出した――彼は母を救うために兵を出すだろう、と彼女は思った。
現にすでに柳帝は兵を出している。娘の予感は当たった。
「奈綺さま、勝敗は見えておりますからご安心ください。わたしが柳へお連れいたしますゆえ」
「柳帝が兵を出しただと」
秋沙が神妙な面持ちでうなずいてみせる。奈綺は思わず天を仰いで舌打ちした。してやられた、と思ったのは柳帝にたいしてである。
(勝負師め――わたしを救うために秋沙を仕向けたか)
しかし、これで勝ちが見えた。あとは支岐と斂に任せて問題なかろう。小さく嗤って奈綺はゆっくりと先を失った脚をふった。ぼたぼたぼた、と血が床に滴りおちる。
「奈綺さま、手当てなさらなければ」
「かまわぬ、火だけ熾しておくれよ」
「……は」
秋沙はけっして奈綺に逆らわぬ。包帯と薬草で手当てしたい気持ちを、彼女は必死で押し隠して母の望みをかなえた。
「不本意ながら秋沙よ。おまえが来たことは力になったな」
叩き壊した椅子の木片に、火をうつす。その火を、奈綺は躊躇いもなく己の傷口に押しつけた――秋沙は一瞬ばかり瞳の奥を揺らせたが、じっとその様子を見据えていた。
肉の焼ける臭いが、外からの風にのって漂った。
ほんのわずか、低く微かに獣じみたうめきをあげた後、奈綺はやや痛みをこらえる表情で木片を投げ捨てる。常人ならば、とうてい耐え切れる痛みではない。すぐに爆ぜる音とともに、火が床に燃えうつった。
「とんでもない不覚よ」
秋沙の肩につかまろうともせず、片足で軽く跳躍しながら進んでいく様子は尋常でない。どこか滑稽にも見える姿だったが、秋沙は己の脳裏に淡雪のような不吉な予感がかすめるのを覚えた。
奈綺は奈綺で、このときいいようのない不快感を覚えている。思うように動かぬ体に、今までになく苛立っていた。動きながら戦えぬということは、『風の者』にとって致命的な痛手である。脚がなければ木々をも駆けわたれず、敵を蹴り殺すこともできず、戦うときには一点にとどまって戦わねばならぬ。
秋沙を背後にして、母の双眸は燃えていた。己への怒りと悔しさであり、その感情が奈綺に痛みを忘れさせていた。
――――――――――――
柳帝軍は勝利した。桐帝が死んだことにより、事実上、桐国は“桐”という国名を失い、かつての国土の七割を柳に明け渡したのであった。のこりの三割を、杼氏が治めることとなる。
支岐と斂は見事な連携をとって大軍を巧みに操り、傷ひとつなく帰国。脚を失って帰国した奈綺を、支岐と斂と、そして夫である柳帝もまた驚愕の表情で迎えたのであった。
◆ ◆ ◆
「申し訳ない――不覚をとった」
申し訳ないとはまるで思ってもいない風情で、奈綺は飄々と言ってのけた。顔色は悪かったが、やはりその双眸は清々しく耀いている。
「その、脚はおまえ……」
支岐がまっさきに顔色を変えた。阿呆めが、と思いながら奈綺は彼を一瞥し、ふたたび柳帝に視線を戻す。動揺こそなかったが、柳帝の眉間には機嫌悪くしわが寄っていた。
「さがれ」
一言、柳帝は吐き捨てるように命じた。奈綺は何も言わずにその場に佇み、わずかな間をおいて支岐たちは扉へ向かう。彼らの気配が消えたのを認めて、柳帝は力まかせに奈綺を寝台に座らせた。
「よくもそんなへまをしたな」
「何とでもお言いよ。自分でも反吐が出るわ」
ふんと鼻を鳴らし、奈綺は布を巻きつけた役に立たぬ脚を見下ろした。
「……奈綺」
懐かしい室である。豪奢な寝台は変わらず柔らかく、清潔に整えられている。真夏の候に設えられていた小さな氷室はもうなく、龍の護り珠《だま》がおごそかに据えられていた。柳帝の呼びかけに、奈綺は黙ったまま彼を見上げた。美しく凛とした顔は、不機嫌であるゆえになおさら凄絶なほど美しい。
「もう、やめろ」
「なに?」
「もう、おとなしく宮城内で暮らせ」
このとき柳帝の瞳奥を見つめた奈綺は、ふと思った。この男は――ひょっとするとわたしの生涯のうちで、もっともわたしを理解している人間であるかもしれぬ。もっともわたしの行動を読んでいる人間であるかもしれぬ。
「……『風の者』として生きることをやめろと」
「そうだ」
「なぜ」
「そのほうが役に立つ――柳の、つまり俺の役に立つということよ」
奈綺はゆっくりと手を支えにして腰をあげ、寝台に横たわった。ぶざまな脚ぞ、と女は目を逸らし天井をじっと見つめる。なるほど確かに、このざまで『風の者』として無理にはたらこうとするならば、役に立たぬどころか足手まといにもなりかねぬ。
「…………息子に会おう」
呼べ、とばかりに奈綺はつぶやいた。
――所詮はわたしも人間か。
雨が降らぬ。
柳国ではやはり晴天が続いていた。
【佳花深淵】
――風の如き。
奈綺はゆっくりと視線を窓の外へ向けた。晴天続きの柳ではいつになく暖かな日々が続き、やはり北国であるゆえに人心もやや浮かれがちである。この時期になってもまだ暖かな青空が広がっているのは珍しい。
宮廷内の自室である。奈綺は、まるで独りごちるかのように静かに、笑みをたたえてつぶやいた。
「朱綺よ。それがおまえの妹ぞ」
朱綺の美しい喉が、こくりと動いた。物心ついてからはじめて、今この少年は己の妹を目にしたのである。
「そして秋沙、これがおまえの兄さ。柳の皇太子よ」
「はい」
朱綺ほどには表情を動かさず、秋沙は即座にうなずいた。並べてみると、確かに似た美貌である。ふたりともに彫りの深い清冽な美しさを湛えているが、澄んだ双眸はやはり両親に似て強く冷涼な色をふくんでいた。
「ふたり同じ場で、いつか話をせねばと思っていたよ」
この母親は、どうしたことだろう――物言いも気性も荒く、ひとを殺すにまるで躊躇いを見せぬ女であったにも関わらず、ひとを惹きつける天賦の力があったらしい。母と思うにはあまりにも冷たく無情な女だったが、ふたりの子は生涯にわたり心底から彼女を慕いつづけた。
奈綺の口調には、このときもやはり肉親の情はない。ただ淡々と言葉を繋いでいく。
「朱綺。おまえは柳帝の跡継ぎとして生きてゆく覚悟はあるか」
「むろんございます――母上」
柳帝と奈綺のあいだに生まれた子にしては心優しい面をもつ。しかし朱綺は、父に憧れ母にもまた憧れを抱いており、また賢明な彼は己のすべきことをすでに理解していた。
奈綺は、そうして次に娘に視線をあたえた。
「秋沙よ。おまえは影で生きてゆかねばならぬよ、兄と国の支えとなって。その覚悟は」
「ございます」
「優しさと情は捨てねばならぬ。捨てられるか」
「はい」
母に似ている、と朱綺は驚きと頼もしさを感じつつ妹を見つめた。
「朱綺は次の柳国皇帝であり、秋沙は生涯『風の者』だということをけして忘れるな」
北国の秋にしてはあたたかい風の音が、窓辺から母子の髪をゆるくさらってゆく。ぬるい風音《かざおと》だ、と奈綺はほんのわずかに眉を寄せた。身も凍るような、冷たい冬風が好きだった。
「おまえは何としてでも柳国を護り、けして舜と争うことのないよう」
「わかりました」
「皇帝の誇りを失うな。父を見習え――あれほど憎らしいのも考えものだが、ああでなければ国など治められぬ」
にやり、と奈綺は嘲笑してみせた。自分のことをまったく棚にあげ、言いたい放題いってもなぜかおかしくないのがこの女である。
朱綺は母に拱手し、力強くうなずいた。
「そしておまえは何としてでも兄を護り、国のために命を懸けよ」
おまえに母はない。父もない。天涯孤独の『風の者』だ――けして他を頼ってどうにか事をおさめようと思うなよ。母も父も死んだと思え。おまえの主君は舜帝と柳帝のふたり、主君と祖国のためならば命を惜しむな。
娘にかける言葉としては、あまりにも残酷なものだった。だが秋沙は負けぬ。
「はい」
心のなかで奈綺を母と呼ぶぶんにはかまわぬ、と娘はそう決めている。母の言葉に揺らがず凛とした正気を保てるのは、この娘が母に似た強靭な精神力を持っているからに違いない。
奈綺と秋沙の視線が、強く絡んだ。奈綺と朱綺のあいだにはない、ある種の絆が潜んでいた。不本意とはいえ戦いをともにした絆でもあり、同じ血をもつ女どうしの絆でもあったかもしれぬ。
朱綺は、柳帝にまかせて良いだろう――頭もよく、必要なときには冷酷にもなれるだけの器の大きな息子である。かといって今の柳帝ほど性格が悪いわけでもない。どことなく舜帝にも似ているかもしれぬ、と奈綺は思った。息子は父にまかせよう。必要なことをは、すべて教えた。
娘よ。おまえにかかっているのだ――すべては。
「朱綺、行ってかまわぬ。父上が稽古に立ち会ってくれようよ」
「……はい」
今度は、兄と妹の視線が交わった。兄がうなずき、妹がそれに答えるように微笑んで頭をさげ――それを奈綺は黙って見つめた。
「それでは」
兄と妹の時間が終わった。
朱綺が静かに室を出ていくのを見送り、奈綺は水差しの水を口にふくむ。ゆっくりとそれを飲みくだし、奈綺はふたたび秋沙に真向かった。この娘の、母への強い慕情は利用できる――奈綺は口をひらいた。
「秋沙」
母としての情は、わずかながらあったかもしれぬ。なかったかもしれぬ。
「はい」
けして負けぬ、と秋沙は愛おしき母をまっすぐに見つめた。どんなことがあっても、わたしの拠りどころは母上、あなたしかいない。母の言葉を胸にすれば、どこまででも強く冷たく生きてゆける自信があった。
秋沙は、その生涯けして母の言葉を忘れることはなかった。どれほど危うい目に立ち遭っても、どれほど苦しい波乱に身を投げようとも、常に奈綺の言葉が秋沙を生かした。
「秋沙よ、忘れるな」
「はい」
「己を信じ、己を頼り、けして己を疑うな」
脚を失った姿すら美しく、誇らしい――と、秋沙は奈綺を見つめた。
「成すか成さぬかで迷えば、必ずし損ねる。成すと決めたことを、どう巧みに成し遂げるかだけに頭を使え」
「はい」
奈綺の背後に広がる青空が、いつになく美しい。暖かな陽射しを背に感じながら、彼女は続けた。
「おまえは『風の者』よ。風のように駆け、風のように戦い、風のように生く――血に濡れることを恥に思うな。それが『風の者』だ。けして誇りを失うんではないよ」
「はい」
涙が出そうだ、と秋沙は思った。遠のいていく母の後ろ姿を見送るような、不思議な感覚を彼女は感じている。
「いいかい、秋沙。『風の者』は人にあらず――それで良いのだ、化け物といわれてけして怯むな。怯んだり、もはや戦っては生きてゆけぬと思ったときには自害することだ」
国を護り、戦い、主君に尽くす。それがおまえの存在価値だ、と奈綺は言ってのけた。そんな母を誇らしく美しい、と思わせるのが奈綺の力であり――そんな母を誇らしく美しい、と思うのが秋沙の尋常でないところである。
秋沙はうなずいた。
己を信じ、己を頼り、けして己を疑うな。
己というのはつまり、ひとつの国に他ならぬ。
おまえは、秋沙という名の王国の――たったひとりの皇帝ぞ。
怯むな。誇りをもて。
風のように駆け、風のように戦い、風のように生け。
秋沙――秋沙よ。
誇りかなる『風の者』よ。
◆ ◆ ◆
まだまだおまえは強くなる――奈綺は心のなかでつぶやいて、静かに瞳を閉じた。
◆ ◆ ◆
舜帝と彩妃に会う、と奈綺は舜行きを決めた。酷い傷にも関わらず、遠慮もなく動きまわるため奈綺の傷はなかなか癒えぬ。秋沙が奈綺とともにゆくことになった。白山越えが必要である――秋沙のよい鍛錬にもなるか、と奈綺が秋沙の同行を認めたのであった。
柳を発つのは明日の夜と決めた。
「嬢、その脚で白山を越えるのか」
そうさ、と奈綺は至極あっさりと答える。まるで小さな切り株でも飛び越えるかのような、重みのない答え方をする女であった。白山の怖ろしさを知らぬ女ではない――これからすぐに冬を迎える白山が、どれほどの脅威をもって牙を剥いてくるか。むしろ最強の『風の者』である奈綺こそが、その怖ろしさをもっとも知っているといってよい。
「無茶だ、阿呆が」
支岐が吐き捨てた。この男が不機嫌なのには理由がある。奈綺が舜への同行を認めたのは、秋沙だけではない。斂の同行をも認めた。片足で白山を越える己の命惜しさ、奈綺は、そのためにひとを同行させるような人間らしい女ではない。
ただひとり同行を認められなかった支岐は、それが分かるからこそ腹をたてているのである。
柳帝の傍に控え、朱綺についておけ。それが奈綺から支岐への傲慢にもほどがある頼みであり、断りきれぬ支岐は、断りきれぬがゆえになおさら腹をたてているのだった。やはり人間臭さを捨てきれぬ男よ、と奈綺はなかば諦め半分で嗤った。
「無茶か」
「どう考えても無茶だろう、おまえは無茶だと思わんのか」
「思わぬ。だから行く。自分で無茶だと思えば行くわけがなかろうよ」
「………………」
斂が思わず吹きだし、支岐は呆れたように頭をふった。そうだった――この女。どんなにまわりの者が無茶だと思っていても、この女が行為を強行するのはなぜだったか。この女自身がまるで無茶だと思っていないからではなかったか。止めても聞かぬとわかっていて、支岐という男は懲りぬ。どうしても奈綺の前では、人間の匂いを抑えきれない男であった。
「……おまえはやはり……やはりどこかおかしいわ」
奈綺が諦め半分ならば、こちらも諦め半分である。
「わたしがおかしいか」
「おかしいわ」
「さて、どうかな」
格子窓に背をもたせながら、奈綺は酒を舐めつつ微笑した。
「……ひょっとすると支岐よ。この世の中すべてのものがおかしくて、わたしだけがまともなのかもしれないだろうに」
「馬鹿をいえ……おまえ」
さて、と奈綺はゆっくり腰をあげる。苛々と眉をつりあげる支岐を尻目に、奈綺は傍らの松葉杖を手にとって歩きはじめた。松葉杖の両端には、刃が仕込んである。それをついて軽がると歩く奈綺の姿は、大怪我をした細身の女というよりは、まるで新しい武具を手に入れて喜んでいる悪餓鬼のようでもあった。
支岐と斂を捨ておき、奈綺は柳帝の室へ向かった。いまだ晴天は続いている。生ぬるい厭な風だ、と普通の人間ならば思わないことを思いつつ奈綺は松葉杖をぐんと振りまわした。それでなくとも先端が尖ったものを設えさせているから、このうえなく危ない。
廊の灯り皿を割る寸前のところで松葉杖をとめ、奈綺はいつもと変わりない様子で柳帝の室へと消えた。
「舜へ行くか」
柳帝の寝台に腰をおろし、奈綺は彼の問いかけに小さく肯定の答えを返した。
「どうしても行くか」
「………………」
奈綺の行く先に、柳帝がこのような念押しをしたのは初めてのことである。それゆえに奈綺は一瞬口を閉ざしたのであったが、こうして奈綺が返答に詰まったのも初めてのことであった。柳帝の念押しが、ただの念押しでないことを彼女は理解した。
「行くなといっても」
珍しく男は粘った。
「………………」
珍しく女は沈黙した。
(この男は――この男こそが)
やはりわたしのことを理解しているのかもしれぬ。奈綺は瞠目した。滑稽な話だった。この憎らしい男こそが、わたしを解している。厭なことだ、と奈綺は嘲笑気味に唇を歪めた。
この女は、いまだに記憶していた。もう十年近くも前になる、例の祭りのことである。あのとき怪我を負った奈綺が逃走するのを黙認したのは、まぎれもない柳帝だった。借りは返す、なぜ奈綺という女はそういうところでどことなく律儀であり、言葉のとおり彼女は柳国の反乱分子であった叔父湯庸を排している。そのときだけのつもりが、舜帝の意向もあっていつのまにか十数年――所詮はわたしも人間か、と奈綺は佇む柳帝をそっと一瞥した。
(柳人になったつもりなどないというのに)
柳人としてものを考えている己を感じてしまうときが、確かにある。
(柳帝よ。借りは返しすぎるほど返したな)
「どうしても行くか」
ふたたび柳帝が問うた。
「行く」
今度は躊躇いなく、奈綺も答えた。
「………………」
そうして柳帝が黙り、奈綺も黙る。居心地が悪いわけでもない、どことなく不思議な沈黙がふたりのあいだに流れた。
「奈綺よ」
つ、と柳帝の美しい手指が奈綺の顎にかけられる。ゆっくりと引き寄せられた唇が、柳帝の唇と重なった。愛おしそうな顔もせず、かといって厭そうな顔もせず、奈綺は夫である皇帝の深い接吻を受けた。そっと体が横たえられる。淡々とした、冷たい美貌がちかづく。
「なぜとどまらぬ」
「わたしは」
舜へ行くという奈綺のこのたびの決心が、いったいどのようなものなのか。柳帝には分かっているのであった。
「わたしは『風の者』よ――しかし脚を失った。『風の者』としてはもうゆけぬ」
動きながら戦えぬということは、『風の者』にとって致命的な痛手である。脚がなければ木々をも駆けわたれず、敵を蹴り殺すこともできず、戦うときには一点にとどまって戦わねばならぬ。それではもうゆけぬ、と奈綺はすでに強く感じていた。
柳帝の愛撫に顔色ひとつ変えないまま、奈綺は続けた。
「宮城で日々なにごともなく、平穏に過ごすのもよかろうよ。だがそれはごく常なる妃君たちにしてみればの話。わたしは違う」
「………………」
すぐにも触れあいそうな距離で、柳帝と奈綺の視線が絡まりあう。奈綺がそうやって宮のなかにおさまる女ではないことを、柳帝は誰よりもよく知っている。むしろ、だからこそ我が正妃と定めたのだ。
「柳帝よ」
「無理に引きとどめはしないさ」
「違う」
「何だ」
体を重ねた。どこまでも愛情と優しさでは交わらなかったふたつの体である。柳帝の首に腕をまわしながら、奈綺はにやりと嗤った。
「まあ、愉しかったさ――柳で生きるのも」
柳帝もまた嗤った。どこかひとを見下ろすように傲慢な、しかしそれがどこまでも自然な、そんなふたりの笑みはやはり似ている。皇帝の双眸の奥に、ほんのわずかの慈しみが灯った。
「同感ぞ」
子をつくることが目的ではない、最初で最後の共寝であった。柳での奈綺の時が、ここで終わった。
◆ ◆ ◆
奈綺たちが柳都を出たのは、翌夜である。斂と秋沙が幾度か宮城をふりかえったが、奈綺は彼らの後ろについてふりかえらぬまま馬の腹を蹴った。
夜の闇に、斂と秋沙の馬が駆けてゆく。
(それなりに愉しんだよ、柳帝。長い付き合いだったわ)
小さく鼻を鳴らし、斂と秋沙に続く。彼らの馬が先に闇に消えてゆくのを認めてから、奈綺は珍しいことをした。
「……柳帝陛下」
冗談まじりにつぶやく。
「多幸を祈る」
そして、一度だけ宮城をふりかえった。もう柳帝と会うことはないだろうと思う一方で、ふたたびここへ還ってくる予感がしていた。
【愛しき祖国】
白山はすでに雪化粧の艶姿をみせている。遠めにみるその姿は、神々しくしなやかで美しいが、しかし実際にのぼってみるとこれほど厳しい急峻はない。
間諜は白山にとどまることはないので、そういった輩を出くわすことは滅多にない。だが、白山には山賊がでる。
「小嬢は飯をつくるのがうまいな」
奈綺とよく似た心、性質をもっていながら、斂が秋沙にかける言葉は優しい。この男は秋沙のふたりめの兄となり得るかもしれぬ。奈綺はそっと岩に腰をおろした。
「ありがとうございます……どうぞ、斂さま」
もう寒い。味噌で煮込んだ熱い汁を椀にそそぎ、秋沙は丁寧なしぐさで斂に差し出した。夕暮れどきに、奈綺が素手でひっつかんで皮をはいだ野うさぎの肉が入っている。間諜というのはたくましい。野でひとり生き抜く術を知っている。
「ありがとう」
「おかわりございますから。どうぞ、奈綺さま」
うなずいて、奈綺も椀を受けとった。汁の熱さが、喉をとおって胃の腑に落ちてゆく。
寒い。寒いが、三人ともまるで寒そうな顔もみせずに黙々と己の椀を空にした。奈綺はよく食う。体が細いので食も細いように思われるが、体に似合わず景気よく飯をかきこむ女であった。
「……奈綺さま」
三人のなかでもっともはやく食事を終えた奈綺に、秋沙が小さく言葉をかけた。
「もうすぐ傍まで。わたしが片付けてよろしいですか」
斂が、汁を飲み干しながら静かに彼女の言葉を聞いている。奈綺も斂も、山賊の一団が尾けてきていることにずいぶん前から気づいていた。奈綺が何もいわなかったのは、彼女が常に秋沙の力を試しているからであり、斂が何もいわなかったのは、奈綺が何もいわなかったからである。どうやら秋沙も、しっかりと察していたらしい。
奈綺はゆっくりとうなずいた。岩に腰をおろしたまま動く気配はなく、また斂もその傍らに腰を据えたまま愛する女の娘を見つめる。
月がのぼりはじめていた。奈綺がひょい、と何かを避けるように首を傾け、その頭を越えて一本の矢が三人の傍らの地面に音をたてて突き刺さった。斂が手を伸ばし、それを引き抜く。
鏃《やじり》がぬらぬらと光を帯びていた――毒である。まもなく草木を揺らす騒がしい音がした。間諜と違って、山賊たちはまず動きが騒がしい。むろん彼らなりにひそやかに動いているのだが、間諜の静けさに慣れた耳には彼らのそれはひどく騒がしく聞こえるのであった。
「……おや」
戦の宣戦布告でもあるかのように堂々とあらわれた山賊の将は、まだ若い。この時代、山賊といってもそれほど卑怯だとか下劣だとかいった印象は持たれていない。国に受け入れられなかった思想家や、身分はないが志の高い若者たちが寄りあってできた集まりであることが多いからである。下劣だという印象を持たれていないかわりに、そのぶん怖れられた。
「たったそれだけの人数で白山をゆかれるのか」
奈綺は焚き火の光が届かぬ暗闇で、ただ静かに岩に坐っていた。山賊たちからは、よく見えない場所に彼女はいる。
「はい」
秋沙は笑顔で答えた。純真無垢な笑顔は、性質が悪い――奈綺のように不敵かつ不遜な嘲笑でもあれば見たとおり気性をも想像できるのだが。
「それは厳しい。心配だな、お嬢さん」
山賊のかしらともなれば、知恵もあり武力にも長けている。ただ力で押してくる連中ではなかった。質の悪い兵士よりも、よほど能力をもっているといって良い。
「ご心配いただいてありがとうございます。あなたがたは山賊ですか」
「ああ、そうとも」
「わたしたちを襲いますか」
「そのつもりでやってきた」
「それでは応戦してよろしいですか――あなたがた、すべてお命をいただくことになりますが」
「おまえは強いのか」
「ごらんになりますか」
「わざわざ見せていただかなくても、」
ふとかしらの視線が奈綺を認めた。秋沙がまだ手を出さぬのは、この男に爽やかな強さと統率力を感じとっているからである。山賊は使いようによっては大きな武器となることを、秋沙は知っていた。母からの訓えでもある。
「……奈綺か」
かしらが呟いた。斂が静かに視線を動かし、奈綺の様子を見つめる。もうすでに、斂は奈綺が何を考えているか柳帝と同様に察していた。
「奈綺さま、お知り合いですか」
「まあ、そうだな。名は知らないが」
しゃあしゃあと奈綺は言ってのけた。知り合いならば最初から娘にそう言ってやればいいものを、彼女は言わぬ。にやり、と嗤った母親を見て、秋沙も静かに笑った。
殺すものと殺さないものと、見分ける力があるか否か。それもまた間諜の力となる。今ここで、この山賊のかしらを殺すことはあまりにも惜しい。秋沙はしっかりとそれを見分けてみせたのであった。
はじめて奈綺が白山を越えるときに、襲ってきた山賊の男がこれである。奈綺に戦いを仕掛けてきた山賊の団のなかで、もっとも飄々と仲間の戦いぶりを見物していた男であった。奈綺には勝てぬと真っ先に悟ったからだ。たったひとり生き残った彼は、奈綺と対峙して堂々と宣言した。
――俺がかしらになった暁には、手を組むのもよいな。
「さて、時がない。そろそろゆかせてもらおう」
奈綺はゆっくりと岩から立ち上がった。ゆっくりとはいえ、隙のある緩慢さではない。少しでも相手が危うい動きをすれば、この女はどのような体勢からでも殺しに入ることが出来る。脚を失っていてなお。色めきたつ数人の若者を、かしらは視線で牽制した。
「逃しますか」
「逃すのではないさ。同志だ、覚えておけ」
すべて――奈綺の行動のすべてが、秋沙に吸収されるべき知識であった。殺すことの重要さと、賊に人脈をつくることの利と、奈綺はその短い生涯のあいだにすべてを娘に与えた。
(あとはひとりでやれ。秋沙よ)
言わずとも、この娘はきっとわたしと同じ道をゆく。不思議な予感である。
――――――――
白山はすでに、この山賊の団しか生き残っていない。そのかしらと秋沙の顔をあわせることは、奈綺の思惑のままであった。麓をまわらずに中腹から白山越えすることを選んだのは、このためである。
奈綺の強靭な体力は、残りの道中をみごとに乗りきった。健全な斂と秋沙とまったく同じ速さで馬を走らせ、同じように食い、同じように眠り、舜に入ったのは月が中天にかかる夜半であった。
「…………秋沙。おまえは居るべき場所に戻れ」
白山を越え、舜の国境を越えたすぐにところで奈綺は娘に命じた。
「…………」
一瞬、秋沙の双眸が揺れる――瞳の真奥に、母を案ずる色がわずかに滲んでいた。
「何をしている」
「申し訳ございません、戻ります。奈綺さま、要らぬとは思いますが一言お別れを――お気をつけて」
「……秋沙。強くおなり。おまえはまだゆける」
秋沙がうやうやしく拱手する。たとえ短いあいだでも、母と道をともにできた嬉しさが彼女にあった。おまえはまだゆける、というその言葉も、秋沙を励ました。
斂は何ともいえぬ顔で、少女を静かに見つめた。
(哀れ)
奈綺の娘にさえ生まれていなければ――と、斂はしかし何も言わずに奈綺の傍らにたつ。(しかし小嬢)
奈綺の娘に生まれたからこそ。
(……誰よりも誇り高き生き方ができよう。俺も力になる)
「それでは奈綺さま。わたしはこれでゆきます」
「秋沙」
「はい」
「己を信じ、己を頼め。忘れるな、おまえは『風の者』ぞ」
最初で最後であった。ごく自然なしぐさで奈綺は娘をそっとひきよせ、ほんとうに初めて――少女の頭をひと撫でしたのである。秋沙はこのとき、ぐっと涙をこらえた。
母よ、あなたの言いつけならば。
母よ、あなたのためならば。
母よ――母よ、母上よ……どこまでもわたしは強くなる。
娘よ。おまえはわたしのためならば、きっとどこまでも強くなる。
(そのためならば、頭のひと撫でくらいしてやろうよ)
たとえ愛情がなくとも。
◆ ◆ ◆
「陛下」
美しく豪奢な皇帝の室で、奈綺はまだ若々しい男にむかって拱手した。この女が心から頭を垂れるのは、彼に対してだけである――舜帝。
柳帝の室よりも、人間味のある室であった。あの殺風景な室とは違い、微かに女の匂いがする。彩妃と仲むつまじくしているのであろう、と奈綺は笑んだ。
「おまえが脚を失うなど……」
舜は総じて情が厚い。皇帝がそのもっとも良い例で、間諜の脚一本に痛々しそうに眉をひそめてみせる。
「それでは生業も思うままにはゆくまい」
「陛下」
もはや何かを決めているのか、と舜帝は優しい声で奈綺に問いかけた。
「……舜と柳の架け橋は出来ました。わたくしの娘どもも尽力いたしましょう。わたしはそろそろ『風の者』を退こうと」
「………………」
慈しみの深い双眸は、あたたかく奈綺を包む。そのような可愛いものではないが――しかし思えば初めて見るものにひたすら従う、かるがもの子のような奈綺であった。もしも捨てられた先が柳であれば、ひょっとすると奈綺が生涯忠誠を誓ったのは柳帝であったかもしれぬ。
(だが)
この方でよかった、と奈綺は拱手しつつそう思った。間諜のひとりをも捨て駒にはしない、このあたたかさがあったからこそ、わたしはすべてを懸けることができたのであろう。他の人間のあたたかさには、まるで惹かれたことなどない女であった。
奈綺にとって――舜帝は肉親であったのかもしれぬ。
「決めたのか」
「はい。お許しいただけましょうか」
奈綺の表情は、さっぱりとしている。
「……奈綺、おまえの人生だ。おまえが決めたことに、わたしは異を唱えないよ」
「ありがたいお言葉を」
そっと舜帝は、女の細い肩に手をかけた。彩妃よりも強靭で、彩妃よりも細い肩であった。
「おまえの好きなようにすべきぞ」
拱手したまま、奈綺は瞠目した。この男と、この男の治める国のためだけを想って駆けてきた女である。
天よ――と奈綺は心のなかでつぶやいた。
(天よ…………)
「陛下。ご恩はけして忘れませぬ」
(陛下と舜に永遠の繁栄を――――)
奈綺にとって、たったひとりの主君である。すべては彼のためであった。この男の主命で、柳帝のもとへも嫁した。
理由はない。彼が主君であるからという、それだけのことである。
舜帝は、もはや何も言わなかった。奈綺の心中を読めなかったわけではない。ただここで黙って見送ることが、今、主君として彼女に与えられる最高の褒美だと考えた。
もう帰ってこないだろう、と彼は知りながら微笑んだ――おまえは風だ。わたしにさえも、完全には御しきれぬ。
「ご多幸とご武運を、お祈りいたしております」
深く深い拱手であった。ここで舜での奈綺の時も、終わった。
◆ ◆ ◆
やはり空は澄み、美しく青かった。冬を目前にして澄んだ空気が、大地の上をゆっくりと漂っていく。時おり鹿の声が甲高く響きわたった。
舜都から少しばかり離れた小高い丘に、奈綺は斂とともにいた。よく似た冷たさをふくむふたりの双眸は、同じ高さで丘から一望できる街を見晴るかしている。
「……ここが俺の祖国」
生まれは舜なのだ、と幼いころに師から真実を聞かされてから、ずっと心の奥底で描いていた祖国である。斂はまっすぐに美しい祖国の街を見つめた。
「見つけたな」
涼しげな瞳をすがめながら、奈綺がつぶやいた。
「ああ――見つけた。俺がずっと探していた、たった“ひとつ”だ」
「………………」
心地よい沈黙がうまれる。風音を聴きながら、ふたりはやはり遠く街を見晴るかす。麗しき国であった。もはやこのふたりは同じ間諜というだけではない。舜を祖国にもち、血脈のもとをともにする国人《くにびと》である。
「もう、あんたには知れていようね。わたしの行く先」
「………………」
ふたりとも視線を遠くに向けているばかりであった。斂は黙ったまま、視線を天へ向けた。奈綺の問いへの、無言の肯定でもある。
「あんたは舜人ぞ。もうこれで紛れもなく、『風の者』となる」
「……ああ」
「秋沙を」
初めてそこで、斂は奈綺に視線を移した。
「それからできれば、あのどうにもならぬほど高慢ちきな柳帝を」
舜帝には彩妃がおり、秋沙がいる。朱綺には柳帝がいる。だがもう、秋沙には――柳帝には、誰もいない。奈綺は、己の価値を知っていた。己の不在が、少なからずあたりの人間に影響を及ぼすことを誰よりも奈綺自身が知っていた。
「……支えよう。嬢。あなたの存在にはなりきれぬが、俺があなたの存在を継ぐ」
奈綺にその先を言わせずに、斂ははっきりとそう言った。
「あとの始末も、俺が何とかしよう」
「ああ……すべて斂、あんたに頼もう。もうひとつ、ついでに」
風にあおられた横髪をはらいながら、奈綺はゆっくりと微笑をたたえた。
嗚呼――奈綺嬢。
悲しい。悲しいが、あなたの生き様ほど美しいものを見たことがない。
あなたほど美しく、誇り高きものを見たことがない。
奈綺嬢よ。
もはや他の誰にも渡さぬ。わたしがあなたの心を継ぐ。
「嬢。いつ……」
「今宵の月が沈むころ――白山の麓へ」
「心得た」
それではわたしはもうゆく、と奈綺はひらりと手をふった。今から散歩にでも行くかのような軽やかさであった。絶大な存在感を誇る、しなやかな姿。
「奈綺」
斂はその名を呼んだ。奈綺嬢、とは呼ばなかった。
「次生まれるときは、もう生まれたときからともに戦う同志ぞ――きっと、愉しい」
ぴたり、とすでに背を向けていた奈綺の足がとまる。一瞬――斂のほうに顔をめぐらせた奈綺の唇が、愉快そうに歪んだ。
空気が冷え、風が哭く。
月が満ちている。
【天空風歌】
――風が哭いている。
(ひとは死ぬときに……己の人生を思いかえすというが)
白山の麓は、寒い。身をきるほどに凍える風が、奈綺を包むようにして幾度もごうごうと吹きあがった。
「まあ、まさかわたしが子を産むとは思っていなかったな」
それだけは予想外だった、と奈綺は独りごちる。ひとりの男とのあいだに、ふたりも子をなすなど――そればかりは。
脚を失った己に対していまだ幾らか自嘲の念はあったが、女の美貌はどこまでも爽々としている。悲しみも愁いもなく、やはり変わらず感情のない美貌であった。
沢のささめきが静かに耳をうつ。冷たい岩のうえに胡坐をかきながら、奈綺はひょいと懐から小太刀をとりだした。青みを帯びた暗い空に、まるく月が耀いている。強い風が雲を押し流し、空はいつになく澄んでいた。
きゃんっ、という鹿の甲高い声が冷たい空気を裂いて幾度か響きわたった。
(美しき国ぞ)
舜という、この麗しき和の国。国人が血脈をともにし、強く結ばれて生きてきた力強い国である。しかし、けして柳も悪くはなかった――人生の三分の一は、柳で過ごしたことになる。悪い国ではなかった、と奈綺は瞳を閉じて思った。国人の絆は、舜に比べればやや弱いとはいえ、ひとりの強靭な皇帝によってみごとに治められた冷涼な大国である。あの強靭さと冷たさは、けして居心地の悪いものではなかった。
所詮はわたしも人間か、と奈綺は瞳を閉じたまま軽く唇をつりあげた。
(例に洩れず、わたしも己の人生を思いかえしている)
それもよかろう、と奈綺は微笑した。
「……雪か」
頬に冷たいものを感じて、彼女は天を仰ぐ。月明かりの夜空から、白い雪片が降りそそいでいた。二刻もすれば、夜が明ける。夜が明ければ、斂が探しにくるだろう――奈綺はゆっくりと髪を結うていた紐をほどいた。乾いた癖のない髪が、はらはらと胸元にふりかかる。女の姿でありながら、双眸はやはり女ではなかった。『風の者』というひとりの不思議な生き物である。
彼女の双眸は、ただ美しい国の姿を見晴るかしている。この美しき山河を、木々を、月を、空を。体いっぱいに風を感じながら、奈綺は己の幸福をふと感じた。
「愉しい人生だったとも」
柳帝の顔も、秋沙と朱綺の顔も、支岐や斂の顔も、もはや奈綺の胸には浮かばなかった。ただ愉しかった、と思った。いつの日も死と隣りあった世界で、どこまでも満ちたりた生であった。
片足を失っては、もう『風の者』としてはゆけぬ。『風の者』としてゆけぬのならば、命を絶つ以外に術はなかった。
むろん、死なずにすむ法はいくらでもある。宮城のなかで柳帝に守られて頭を働かせることも、片足ながらに戦うことも、しようと思えばいくらでもできたろう。だが、それにはもはや奈綺ひとりの力では足りぬ。柳帝の庇護があり、まわりの助力があっての話で、奈綺にとってそれは死に等しい。
(そうして生き永らえるくらいならば)
『風の者』としてゆけぬと思ったときには、迷わずに己が手で命を絶て。それは師に教えられたことでもあり、己のなかではるか昔から決めていた掟のようなものでもあった。片足を奪われたあの瞬間から、自害することはもう決めていた。
迷いはなかった。
「次生まれるときはもう生まれたときからともに戦う同志、か…………」
それも良い、と奈綺はふたたび微笑した。冷たく、しかし優しい笑みであった。優しい笑みを浮かべた美貌は、どこまでも美しく神々しい。その顔は、天だけが視ている。
「さて。ゆこうか」
彼女は、麻衣の前をぐいとひらいた。
「……わが祖国に幸多からんことを」
――奈綺、享年二十五。
◆ ◆ ◆
雪の降る夜空を仰ぎながら、斂は柳宮城の神泉の傍らにじっと佇んだ。数日間の葛藤が、まだこの男の心のなかにくすぶっている。奈綺が自害しようとしていることを、彼は早くに察してしまっていた。止めたかった――己でも驚くほどに止めたかった斂であった。しかし惹かれたのは『風の者』としての奈綺であり、己はその彼女を遮る存在であってはならなかったのである。足を失った奈綺が命を絶つのは当然のことであった。
足を失う『風の者』がいないわけではない。しかし彼らは足を失っても、戦いとは別のところで国に仕えることを選ぶ。頭脳明晰であることもまた、彼らの特徴だからである。
「……奈綺嬢」
奈綺の死を知って、まるで狼のように吼え泣いた支岐のことを彼は思い返した。ほんとうに不思議なほど、ひとを惹きつける力をもった女であった。ああまでも冷酷な母ならば、子から恨まれてもけしておかしくはなかろう。にも関わらず、彼女のふたりの子どもはひたむきに母を慕い信じている。不思議なほど魅力のある女であった、と斂は微笑んだ。
悲しくもあり、切なくもある――だが、彼女の死を止めなかったことに後悔はなかった。そこで躊躇いもなく、美しいほどさっぱりと死を選んだ奈綺という女を斂は愛し、尊敬した。そんな女を愛した己が誇らしくさえもあった。
舜の宮城ちかくで別れた晩、まんじりともせずに刻を過ごした。明け方を前にして風が吹き荒れ、空気が凍り――もうそのときには体が勝手に動いていた。間諜、いやもうこのとき斂は『風の者』であったのだが、『風の者』としての動物的な勘が、奈綺の死を教えた。
魂が呼びあう、というのは確かにある。魂が共鳴りする、というのは確かにある。白山の麓だ、としか教えられていなかった斂であったが、まるでひきよせられるかのように彼は奈綺の骸《むくろ》へと導かれた。
「奈綺」
思わず呟いた。沢の傍らの岩で心臓を一突きしたらしい女の骸は、まるで居眠りでもしているかのような軽やかさで後ろの岩肌に背をもたせていた。
赤々とした血だけが飽くこともなく流れ、あの冷たい双眸は静かに閉じられている。閉じられているというのに、なぜか今もその双眸が月光のように耀いているかのような錯覚をうけた。
(……これがさだめか)
感じたのは軽い眩暈である。
何ともいえぬ恍惚のような誇りかさと、何ともいえぬ寂寞と、それからさらに何ともいえない溢れだすような感情と、さまざまのものが一挙に斂の胸に押し寄せた。誇りかさがもっとも勝っていたかもしれぬ。嗚呼――このひとはやはり紛れもない真の『風の者』だったのだ、と。己のことではないにも関わらず、なぜかひどく誇らしい気持ちを覚えた。
(死んでほしくは、なかった)
できることならば、もっと長くともに戦いたかった。ともに風のように駆け、風のように戦い、そんな生き方をしてみたかった。
初めて桐の山中で奈綺を見たときの、爽やかな衝撃をこの男は忘れていない。
――ひとは生き方が違う。思いも違う。何が幸せかも違う。
ああ、この女こそが運命のひとだと思った。大仰か、いや大仰でもかまわぬ。この女しかいない、と本能が斂に教えたのだった。
――わたしは間違っていると思うことをわざわざしない。間違っていないと思うからわたしはこの道を生きている。わたしは常に正しいと思うことをする。わたしにとって正しい生き方というのは。
わたしは正しい、という愚かな思い込みとはまた違う。何といえば良いのか、濁った余計なものをまったく眼に入れていないがゆえに、美しく崇高な姿である。しかもこの女にとって濁っているというのは、けして血に汚れ人を殺すことではない。生ぬるい平穏に浸かって、細々と生を得ることである。あまりにも、あまりにもまっすぐで疑うものがない。
確かにあれは爽やかな、心地よい衝撃であった。心の真奥から情が地揺れのように動いた、そんな心もちであった。
――わたしにとって正しい生き方というのは、愛し愛されて、子を生むことではないのさ。
すべてを奈綺に捧げようと思った――己のために、である。冷たく凍えるような、美しい居場所であった。
「生まれて初めてだった」
月明かりに照らされた女の死骸を見下ろしながら、ふたたび斂はつぶやく。
「誰かについてゆこう、と思ったのは」
静かで、無表情で、それなのにどこまでも烈しい女であった。
(首は柳帝のもとへ。胴体は舜へ、だな。嬢よ)
厭な仕事である。愛し尊敬する女の骸を目の当たりにし、そのうえ首と胴体を切り離す役目まで仰せつかったのだった。斂は、愛ゆえにそれを引き受けた。奈綺が望むことならば何でも叶えようという、男女の愛とも友の愛ともやや異なる不思議な気持ちである。
腰から太刀をひきぬき、斂はゆっくりとそれを岩に置いた。首を刎ねやすいように、余裕のある体勢に女の体を整える。抱える手つきが優しく、それは確かに女を愛する男の手であった。
(なんと軽い)
初めてまともに触れる肢体に、斂は軽い驚きを覚えた。あまりにも軽かった。
「奈綺嬢。あなたを柳帝のもとへお連れする」
太刀を手に握る。ひとの首を刎ねるのに、こんな躊躇いを感じたことはついぞない。
月の光が冷たかった。冷たい光が、しかし奈綺という女にはひどくよく似合った。なんと美しい死に顔であることか。
後悔も未練もなく死ぬとき、ひとはこのような顔をするのだと斂は思わず微笑んだ。ああもう、これだけでじゅうぶんだ。いつか俺もこうして最期を迎える。そうだ――俺もこうして最期を迎えるのだろう。
太刀をふりおろす手に、もはや躊躇はなかった。まるで舞を舞うかのごとく美しい仕草で斂は太刀をふりおろし、仕草と裏腹に驚くほど強い力でふりおろされた太刀は、みごとに奈綺の首を刎ねた。
ごろり、と転がった首はそのまま岩から沢へ落ちた。
冷たい水に濡れた死に顔が、やはりひどく美しかった。
奈綺よ。
斂は心のなかで彼女の名を呼んだ――ひとつの凄絶な女の生涯が終わったがしかし、まだ星はふたつ残っている、と斂は天を仰いだのであった。
◆ ◆ ◆
その日、柳は荒天となった。
「雪か……」
昨日までは晴れて暖かかったというのに、と柳帝は静かに窓の外を一瞥した。明け方からひどい寒さが国を覆っている。雪がはらはらと舞っていた。
斂がはいってきたのは、その日の暮れ方のことである。斂をひとめ見て、柳帝は心の真奥ですべてを理解した。薄汚れた麻衣に包まれたものが何なのか、すぐに分かったのであった。
「……………………」
柳帝の喉がかすかに動いた。
(……この阿呆が)
いまだかつて人前で表情を動かしたことのない男が、はじめてその美貌を歪めた瞬間であった。それはまた、斂がはじめてこの男に愛情があることを感じた瞬間でもある。
片足を失った妻が――奈綺が死を選ぶことは、もうずいぶんと前から分かっていた。きっとこの女は死ぬだろうと心の底では思っていたし、そしてあの七年前の占師の予言もどこかで信じていた。
だが、麻衣で包まれたそれを眼前にして柳帝は思わず身震いをした。
「それは阿呆の首か」
つぶやくように、柳帝が斂に問う。うなずいて斂は、それをうやうやしく柳帝に差し出した。薄汚い麻衣は、間違いなく首の主が身に着けていたものである。何ともいえない思いが、胸の奥から激流のようにこみあげてくるのを彼は感じた。
「……お改めください。当人が、首は柳帝陛下のもとへと」
「当人が」
「は」
「要らぬわ、こんな薄汚れた女の首など」
乱暴な言葉とは裏腹に、男は静かな手つきで麻衣をはらりとほどいた。
「体は舜へ埋めろとでもぬかしたのであろう、この阿呆は」
「お察しのとおりでございます。白山の麓へ埋めてまいりました」
斂は数歩さがって拱手する。そしてそのまま、柳帝の室から静かに退出した。柳帝もそれを止めることはない。
扉が閉まる音を耳に、柳帝はそっと妻の白い額にはりついた髪を退けた。『風の者』という同志であるとともにまた、そう、妻人でもあったのだった。
(……この、阿呆が)
なんの表情もない首であった。苦渋の色もなければ、悔恨の色もなかった――あえて読むとすれば、どことなく満足げな色があったかもしれぬ。
ともかくひたすら美しく、白く、そしてやはり不遜で堂々としていた。彫像のような首である。
「奈綺よ」
低く柳帝はつぶやいた。
「……奈綺よ」
彼のしなやかな手指があたたかく奈綺の死に顔をなぞる。もはや体温をなくした冷たい顔であったが、柳帝には女の生前の表情をまざまざと思い描くことができた。
死んでなお、あたりの空気を凛と凍りつかせるような冷涼な色をまとっている。これが真の『風の者』よな、と柳帝は二度と言葉を発することのない妻人の美貌と見つめあった。
昨夜から不意に空気が冷えた。例年になく晴天が続いていた空は寒さで澄みかえり、凍えるほどに張りつめた。
なるほどあれは――奈綺よ。
(……おまえが天に辿りついたからか)
阿呆め――奈綺よ、おまえはほんとうに阿呆だな。
おまえほど美しく聡明ならば、たとえ片足を失おうとも生きてゆく術はあるはずだった。むろん俺もおまえを捨てる気はなかったし、必要とあらばおまえを宮中へ囲って生涯守ることも可能であったのだ。
嗤っているか、俺の矛盾を。
おまえを失ったことを惜しく思うと同時に、ここで自害せぬような女ならば正妃になどしていなかった――おまえがこのような女だったからこそ、俺はともに先を見据える正妃の座におまえを選んだのだ。間諜を妻《さい》にするという、前代未聞の珍事ぞな。
しかし奈綺よ。俺はどこまでもおまえが小憎たらしく可愛げのない女に思われたが、しかし奈綺よ。やはり俺にはそんなおまえがもっとも頼もしかったのさ。
柳帝は、そっと奈綺の首を窓辺に置いた。
開け放した窓から、幾度も冷たく凍りつくような突風が吹きぬけてゆく。この女の魂を天へ送るには、またとない夜であった。
奈綺よ、とふたたび柳帝は心のなかで呼びかけた。表情はすでにいつもの酷薄なものに戻っており、表面からは何の感情も読みとることはできぬ。
二十五で生涯を終えた妃の首と並んで、柳帝は天を仰いだ。怒涛の生涯であったな――と、柳帝は物いわぬ首と言葉を交わす。生前の彼女を見る双眸と、まるで変わらぬ。
そのみごとなおまえだからこそ、俺は選んだ。おまえが死ぬことなどよりも、もっと愉快な未来を見ていたのだぞ。柳の繁栄よ。俺ひとりだけでは成しえぬことを、俺はおまえを使って成すつもりだった。
ゆっくりと柳帝は椅子を引き寄せ、窓辺に腰をおろした。玉枠に肘をつき、閉じられた女の双眸と見つめあう――閉じられていても、甦る。
あの飄々とした美しい獣の双眸。きらきらと常に耀いていた誇り高き瞳。柳国正妃にもっともふさわしいと、俺が感じた唯一無二の双眸だった。
(おまえほど)
おまえほど。おまえほど魂を揺さぶられた女は初めてだったぞ、奈綺よ。
「満足か」
肌が痛みを覚えるほど、風は冷たい。ひゅうひゅうと風が哭いている。けしてそれは悲しげではなく、むしろ人を凍らせて愉しんでいるような風情にも思われた。
「満足か、奈綺」
無表情な美貌である。柳帝はその炯眼をそっと閉じた。天だけが視ている。閉じた瞳から、一筋だけ涙が頬を伝った。
――阿呆め。もう少し長いこと、おまえと未来をみつめて過ごしてみたかったぞ。
奈綺。
時代は、奈綺というひとつの大きな風の流れを喪った。だがしかし、これはつまり奈綺がはからずも奈綺の使命を終えたということでもあろう。この強烈な魂を、天がふたたび呼びかえしたのだといえる。
奈綺の死は、さまざまの人間に衝撃を与えた。彼らはそれぞれに生前の彼女に思いを馳せたが、奈綺をよく理解した数少ない男たちはけっして嘆き慟哭することはなかった。悲しみを抱えつつそれでもなお、不思議に穏やかな気持ちでその死を受け入れた。
生まるるべくして生まれ、生きるべくして生き、死ぬべくして死んでいった女であった。
――――――――――――――
奈綺は死んだ。
だが、秋沙がいる。柳帝の手元にはまた、朱綺がいる。
時代はすでに新たな風を求めていた。
国はまだ終わらぬ。
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2006/11/16(Thu)21:18:26 公開 /
ゅぇ
■この作品の著作権は
ゅぇさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
読者様は減り、作者自身が話の内容を思い出すのに必死こき、そうしてようやく再開した『天空風歌』です。遅くなりました。
※氏名や氏族名、軍の編成などはすべて創作です。ご了承ください。
最終回になりました。何度か奈綺の死なないケースを考えて考えて考えこんでみたのですが、やはり奈綺はこうでしかありえないと、この結末に落ち着きました。
最後の最後であっさりとしすぎたかな、とも思ったのですが、それでもこの女はあっさりと死ぬ――そんな感じで。わたしの気持ちと読んでくださった方の気持ちと、気持ちよく一致していればとても嬉しく思います。この結末につまらなさや、不満を感じさせてしまったならば申し訳ありませんー!!けれど作者のわたしとしては、めいっぱいの気持ちで書いたひとつの物語でございますー★楽しんでいただけたなら幸いです。
それでは今後ともがんばりますので、どうぞよろしくお願いいたします♪