- 『ドールハウス』 作者:キイコ / 童話 未分類
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全角5162文字
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原稿用紙約15.75枚
私は人形です。ずっと前に、ある人の手で作られました。ある日突然意識が出来ました。視覚ができ、聴覚ができて、私はものを見ることができるようになりました。おとを聞くことができるようになりました。
初めに見たものは、人間の顔でした。男の人でした。ゆるくうねった黒髪の、かなしそうな顔をした人でした。私は人形ですから、自分で視線を動かすことはできません。私には腕がある脚がある、首があると意識のどこかで認識したものの、それを確認する術は持たず、それでその人の茶色い瞳を、ただ見つめていました。男の人は私の頬をひとつ撫でましたが、その手が暖かいのか冷たいのか、優しいのか乱暴なのか、私には何一つわかりませんでした。
「君のどこにも、こころなんてみつからないよ」
ほとんど絶望した、と言っていいほどの声音で男の人はつぶやき、大きな手のひらで額を拭いました。手のひらの触れたところに、白い塗料が付きました。
きみのどこにもこころなんてみつからないよ。
その言葉の意味を私が考えている間に、男の人は私から視線をそらし、どこかに向かって目礼しました。そして男の人は私の視界から消え、今度は別の、恰幅のいい、禿げ上がった頭の男の人が私を覗き込みました。
「いい出来じゃないか。これなら店に出せる」
本当ですか、とさっきの男の人のどこか沈んだ声がします。
「なんだよ。もっと喜べよ。一人前になったんだぞ」
そう言うと禿げた男の人は私を持ち上げたらしく、視界が上へと移動しました。黒髪の男の人が見えます。そしてそのまま、私はどこか暗いところに降ろされました。木目が延々と続いているところを見ると、どうやら木箱の中です。蓋が閉められたようで、何の光も私の目には入ってきません。暗闇の中で、
「人形にこころを求めるなんて、やっぱり間違ってるんだ」
かすかに聴こえた言葉だけが、私に鮮やかな痕を付けました。
次に視界が開けたとき、私の前にはガラスでできた壁がありました。その向こうには街灯があり、煉瓦でできた建物があり、大勢の人々が石畳の道を歩いていました。一人の小さな女の子が、私をじっと見ていました。
「こんにちは」
女の子は不意に口を開き、それから私に笑いかけました。なんて無駄なことをするのでしょう。人形である私が彼女に応えるとでも思っているのでしょうか。私がその子を見つめていると、彼女は横を向き、声を張り上げました。
「ママ、来て。あたし、これがほしい」
肥った女の人が女の子のそばにやってきて、肩を抱きました。それから私を見て、眉をしかめました。
「きれいだけど、ちょっと高いわ。別のお店に行きましょう」
女の子は目を見開いて彼女の母親をみつめ、それからたちまち大声で泣き出しました。母親は周りの目を気にしながら、女の子を抱きかかえるようにして歩き、やがて二人は私の視界から消えました。遠くから、女の子の叫ぶ声が聞こえます。
「ママ、よくみて! あたし、あれがほしいのよ!」
そんなことが何度かあり、綺麗だとか生きてるみたいだとか、私はいろいろなことを言われました。けれど、私は自分の姿を見たことはありませんでした。私の首は動かないので、顔はおろか手や服さえも、いいえそれが果たして本当に存在するのかさえも、私は知らなかったのです。
そしてそれを知りたいと思うことすらなく、それどころか感情と名のつくものは私の中には見つからず、ただただ通り過ぎる人々をじっと見つめていたのでした。
そんなある日のことです。私が相も変わらず通りを眺めていると、一人のお婆さんが私の前に立ちました。小柄で、白髪をきれいに撫でつけ、薄緑色のスカーフを首元に結んでいます。彼女はしばらく私を見つめ、それから視界から外れました。戻ってきたお婆さんは、女の人を連れていました。二人は少し話をし、それから私はいつかのように、暗い箱の中に降ろされました。
「あなたのような子がいると、きっと一人暮らしでも寂しくないわよね」
私はお婆さんの家に連れてこられました。小さな椅子の上に座らされて、正面にあるベッドでここが彼女の寝室だと知れました。ベッドに座って、お婆さんは私に微笑みかけていました。私はベッドの脚を見つめていました。
「まるで娘が帰ってきたようだわ」
私はベッドの脚をみつめていました。
私のような人形に、感覚などというものがあるはずもないのですが、
「おやすみなさい」
そう言って私の頬を撫でたお婆さんの手は、暖かく優しいように思いました。
早朝に、お婆さんは目を覚まします。私を抱いて居間に行き、朝食をとり、お茶を淹れ、そして私は一日中お婆さんの話を聞くのです。
庭に咲いたデイジーのこと。
名前のわからない、けれど毎日遊びに来る、よその家の黒猫のこと。
町を歩いていて見つけた、感じのいい雑貨屋のこと。
毎日の小さな出来事を話すお婆さんは、嬉しそうで、楽しそうで、いつも微笑んでいました。
亡くなってしまったご主人のこと。
亡くなってしまった娘さんのこと。
都会に暮らす、息子さんたちのこと。
族のことを話すお婆さんは、嬉しそうで、楽しそうで、そしていつも、とても寂しそうでした。
お婆さんは私が大切なようでした。
例えばある日、お婆さんは写真を私に見せました。男の人が一人、女の人が一人、小さな女の子が一人、男の子が二人、写っていました。女の人は、薄緑色のスカーフを首に巻いていました。彼女は彼女の家族を紹介してくれました。私はじっとその写真を見つめていました。答えることも応えることも出来ない私を、お婆さんは笑って見つめていました。
例えばある日、お茶を飲んでいたお婆さんは、ふと思いついたように台所に立ち、ティー・カップをもうひとつ出してきました。そしてそれに紅茶を注ぎ、私の前に置きました。
「うっかりしてたわね。いつも私を慰めてくれるあなたに、お茶の一杯も淹れていなかったなんて」
そう言ってお婆さんは笑いました。私は、私のために注がれた琥珀色の液体を、黙ってじっと見つめていました。
きっとこんな生活がずっと続くのだろうと、私は考えました。お婆さんの話を聞き、彼女を慰め、呑むことの出来ない紅茶がなみなみと入ったティー・カップを目の前に置かれ、眠る前にはひとつ頬を撫でてもらって。
実際、それは心地よいことのように思えました。
実際、それは心地よいことでした。
そんな暮らしを続けて何年が経ったでしょうか。
私はその夜、いつもの椅子の上ではなく、ベッドのすぐ脇にある小机の上に座らされました。
「今日はなんとなく、そこにいてほしいの。おやすみなさい、エイミー」
そう言って、お婆さんはいつものように頬をひとつ撫でてくれ、そしていつものように眠りにつきました。眠ることのできない私は、お婆さんの寝顔を見つめていました。私に自分の娘の名で呼びかけて幸せそうに眠りについた、彼女の寝顔を。
朝が来ました。お婆さんはまだ眠っています。
私はお婆さんの寝顔をじっと見つめていました。
また朝が来ました。お婆さんはまだ眠っています。
私はお婆さんの寝顔をじっと見つめていました。
また朝が来ました。お婆さんはまだ眠っています。
私はお婆さんの寝顔をじっと見つめていました。
そうして四日目の朝、お婆さんはまだ眠っています。
私がじっとお婆さんの寝顔を見つめていると、背後でかちゃりとドアの開く音がしました。私には入ってくるのが誰かはわかりません。じっとお婆さんの寝顔を見つめていました。
入ってきたのは男の人らしく、重い足音が急いでベッドに近づく気配がしました。
「酷いな、こりゃ」
低い声が聞こえ、私の視界にちらりと大きな手が映りました。その手は軽々とお婆さんを持ち上げ、彼女はベッドから離れました。
ドアが閉まり、かけそく鍵を掛ける音が聞こえます。私はお婆さんの頭があった、白い枕の上を見つめ続けました。もうあの人には会えないのだろうと、そんなことをぼんやりと考えながら。
その部屋にはもう誰も入ってはきません。私は何年も何年も枕を見つめ続けました。そしていつしか、自分の姿を知りたいと思うようになりました。あのお婆さんがあんなにも大切にしてくれた、私の姿を知りたいと。
それは不思議な感覚でした。私は人形なのです。人形にこころを求めるなんて間違っていると、あの日私を作った男の人がそう言ったのです。それにも関わらず、私は人の概念に動かされ、切実な欲求を感じているのです。そして、それを感じている私の目の前にあのお婆さんがいないことに、なぜだか釈然としないのです。もともと空っぽであるはずの身体の中に、冷え冷えとした風が吹き抜けるように感じるのです。
もしかしたらこれが感情というものではないかと、こころがあるという感覚ではないかと、そう何度も思いました。けれど、その度に私に残された鮮やかな痕が警告するのです。
君のどこにも、こころなんてみつからないよ。
思い上がるな、と、痕はひそやかに警鐘を鳴らします。その度に、わたしのどこかがすらりと冷え渡ります。私の一部は、生まれて初めて聞いたその言葉に、滑稽なほど縛られているのです。それでも、しばらくするとまたあの不思議な衝動が沸き起こってくるのでした。
何年も、何年も枕を見つめ続け、私には埃が降り積もりました。手の動かない私はそれをどうすることも出来ず、もちろん払ってくれる人などもなく、ただ自分の姿を知りたいと、そればかり思っていました。
長い時間が経ち、私は人の声を忘れかけました。そんなとき、ドアの向こうから声が聞こえたのです。
「ここがぼくの部屋?」
楽しげな、高い声でした。何人かの笑い声も聞こえます。
「自分の部屋がほしいと言ってきかなくて」
「ならここがいいでしょう。小さな、手ごろな寝室ですよ」
「新居に乾杯!」
ドアの開く音が聞こえて、ぱたぱたと、軽い足音が駆け込んできます。
「なんだあれ」
明るい疑問符。栗色の髪をした、かわいらしい男の子の顔が私を覗き込みます。そしてたちまち顔をしかめました。
「……きもちわるい」
背後で声が聞こえます。ああ、きっと前の住人の持ち物でしょう、一人暮らしのお婆さんだったんですよ、ご家族には坊ちゃんだけですし、古いものですから捨ててしまいましょう――。
私は頭をわしづかみにされ、どこかに投げ捨てられました。しばらくすると自動車がやってきて、私は荷台に投げ込まれました。うつぶせになったので、周りの様子はまったくわかりませんでした。
次に周りが見えるようになったとき、目の前はすべて灰色でした。
壊れた戸棚や椅子が累々と積み重なり、私は暗い穴の底にいました。でも、私にとって、そんなことはどうでもいいことなのでした。
目の前には欠けた鏡がありました。
私はずっと見たかったのです、自分の姿を。
私は食い入るようにして鏡に見入りました。そこに映っているのは私であり、そして紛れもない人形でした。
赤い服は色褪せ、肌は無機質な陶器の色、眼は瞳のない青い作り物、それを縁取る睫と眉は絵の具で描かれ、黒い髪だけが本物らしく。
頭の大きな、人間とはとても呼べないものでした。
あのお婆さんはこんなにも人間らしからぬ私を、娘と呼び、大切にしてくれたのかと、ああ、そんなにも寂しかったのかと、そう思うと何か不思議なものが私の体を満たしました。
これが感情というものなのでしょうか。
鏡の中の私は、頬に雫をこぼしているのです。
けれどよくよくみてみれば、それは涙などではなく、私にはめ込まれた青い眼の表面が、溶けて滴っているだけなのでした。
人形が、私のような人形が、涙を流すなどという奇跡は起りえないものであり、熱いという感覚を持たない私が、今まで周りの変化に気付かなかっただけで。
(間違ってるんだ)
(やっぱり)
(思イ上ガルナ)
今、私の周りでは次々に火柱が上がっているのです。
ほら、目の前にあった鏡が、熱に耐え切れず割れました。
私の眼は溶け続け、私はほんの僅か残った視力で、頬に水滴を滴らせながら、迫り来る炎をまっすぐ見つめています。
(君のどこにも、こころなんてみつからないよ)
痕が疼きます。どうやら私は永遠に、思い上がることを許されないようです。
どこか甘やかな諦めに身を浸し、迫り来る炎をまっすぐ見つめながら、この大きな大きな火の塊よりも、あの日私の頬をそっと撫でてくれたあのお婆さんの皺の寄った手のひらのほうが何倍も暖かかったと、私はぼんやりと考えるのでした。
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2006/08/25(Fri)09:54:10 公開 / キイコ
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■作者からのメッセージ
アドバイスをいただき、書き換えました。……なんだかあまり変わっていないような気が……。起伏をつける、という作業は苦手です。展開の速度やウェイトの持っていき方も練習しなければ。精進します。