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『雨の棲む街 〜ア・シンメトリー・アサシンズ〜 【完】』 作者:rathi / アクション リアル・現代
全角149463.5文字
容量298927 bytes
原稿用紙約457.85枚


――雨が、降っていた。

 ※

 レイニー・タウンという町がある。現在の人口はおよそ千人ほどであり、その数の割りには大きな町だ。建物多くは石や、砂と砂利の混ぜものを塗り固めて作られている。
 町の名前の由来は、『よく雨が降る町』という意味で名付けられた。その名の標す通り、このレイニー・タウンではよく雨が降る。また、当時の町長であるサウエル氏がここに就任した時にも雨が降っていたことも、要因の一つだろう。
 雨によって、この町が成り立っていると言っても過言ではなかった。
 小高い丘の上には貯水槽があり、そこから降(くだ)るように扇状に町が広がっていた。なだらかな下り坂となっている為、必然的にそういう形になった訳なのだが、それは理想的な形であり、枯れることのない貯水池は町の人々に多くの恵みをもたらしてくれた。
 この町にとって雨とは、恵みの雨であり、名前の由来でもあり、欠かすことの出来ない要素の一つなのだ。
 雨のお陰で町は大きく発展していき、また、干ばつなどで苦しんでいた人々は、まるで救いを求めるようにこの町に越してきた。そして実った豊作物を買い求めようと商人が集まり、飲食店が出来上がり、人口は増す一方だった。

 しかしそれも、四年前の殺人劇によって全て変わってしまった。

 それからレイニー・タウンの意味は、『血の雨が降る町』に変化し、降る雨は涙雨だと人々が口にした。
 雨が降る度に人が殺されていく。もしかしたら、次は自分かも知れない……人々はそんな恐怖に駆られていった。
 商人は一切近寄らなくなり、飲食店では血の味がすると虚仮(こけ)にされ、越してきた人々は救いを求めるようにまたどこかへと越していった。
 そうして、がらんどうの建物が多くある、『レイニー・タウン(血の雨が降る町)』と成り果てたのが、今のレイニー・タウンである。



 レイニー・タウンから馬車で半日程の距離に、オーフマンという富豪の屋敷があった。その金持ち振りを誇示するかのように、広い敷地と、まるで城のような高い塀が屋敷を囲んでいた。
 彼が富豪にのし上がれたのは、非人道的な手段を頻繁に用いて来たからに他ならない。
 人身売買、それが彼の職業だ。
 いわゆる『奴隷商』などではなく、町や道中から女を――時には男を拉致し、変わった趣向を持つ金持ちに売るのが、彼の生業である。
 当然、恨みを買うことは非常に多く、子供を攫(さら)われてしまった家族が、彼の家に直接乗り込んでくることは少なくない。
 だが、彼らが攫ったという確固たる証拠はなく、更に、軍にも彼の顧客が居り、そのお陰でオーフマンが処罰されることはなかった。
 地下世界に潜って出てこない男、或いは悪魔のような下卑な笑いを浮かべることから、彼を『オークマン』と呼ぶ者も多かった。

 ※

 夜、雨が降る中、一人の男がオーフマンの屋敷の中庭に立っている。男は黒のレインコートを頭からすっぽりと被っており、見えるのは足下だけだ。靴も黒く、まるで闇に溶け込んでいる――いや、同化しているようだった。
 中庭から中に入る扉の前には、白のレインコートを着た見張りの男が一人。黒のレインコートを着た男は辺りを見渡し、それから気配を探り始める。
 他に居ないと確信したのか、黒のレインコートを着た男は腰のベルトから投げナイフを一本取り出す。それから、まるで煙草の煙をはき出すかのように息をはく。
 そして――何の躊躇いも無しに投げた。そこには、殺意も、迷いもない。目の前にある障害物を退かすという考えだけだった。
 見張りの男が、その何かが迫ってくる気配と風切り音に気付いたときには、もう既に喉元にナイフが突き刺さっていた。およそ呼吸音には聞こえない奇妙な音を口から発しながら、前のめりに崩れていく。
 黒のレインコートの男は、倒れたのを確認してから歩き始める。普段なら草の擦れる音がする筈だが、雨によってそれは掻き消されていた。そして、気配も。

 ※

 オーフマンの寝室前には、まるで憲兵のような青い服を着た見張りが二人居る。まるで門を守る石像のように、扉の左右に立っていた。
 二人ともサーベルを帯刀しており、最後の砦を任されるだけの実力を伴っていた。左に居る男は町の剣技大会準優勝者であり、もう片方には箔が無いものの、勝るとも劣らない剣の腕前である。
 寝室前は長い廊下になっており、この中に入るためには必ずここを通らなければならない。侵入者に備え、寝室には窓を備え付けていない為だ。また、他と比べて分厚い壁となっている為、それでこそ爆薬の類を使わなければ、外壁を破壊しての侵入など不可能だった。
 それは、何の前触れもなしに訪れた。
 ゆらり、と影のようなものが廊下の曲がり角から現れた。二人は一瞬、それが何か理解出来なかった。化け物……そう思ったほどだった。
 しかしよく見れば、それは人の形を成している。その黒い影がまたゆらりと動く頃に、ようやく侵入者だという事に二人は気が付く。
 右の男が警笛を口に咥える。息を――吸う前に、いつの間にか放たれていたナイフが、男の喉元に突き刺さっていた。驚愕の表情を浮かべたまま、何とも頼りない笛の音と共に、崩れていった。
 その黒い影は――黒のレインコートを羽織った男は、そのナイフの命中率に尊敬と畏怖を込め、名付けられた名前がある。

 『ブルズアイ・ナイフ<目標(まと)の中心へ>』、それが、『三番目』の名前だった。

 左の男はそれを見て、酷く恐怖した。今すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られる。しかし、逃げ道などなかった。逃げ道はただ一つだけ。あの、黒い男の向こう側である。
 左の男はサーベルを抜刀する。左腕で喉を、右腕で顔を防御しながら、やや身体を丸めて黒い男に向かい、突進していく。こうすれば、例えナイフが放たれたとしても致命傷を避けられる可能性が高いからだ。苦肉の策ではあったが、それが幸を成し、黒い男はナイフを投げてこなかった。
――こちらの武器は近距離用で、相手の武器は遠距離用だ。距離を縮めなければこちらは何も出来ない。しかし、逆に言えば距離さえ縮めればこちらの勝ちだ。
 だからこそ男は、例え腕一本を犠牲にしたとしても、接近しなければならなかった。
 黒い男との距離が先程の半分まで縮まった時、黒い男は腰のベルトからナイフを取り出す。男はそれを見て、身を強張らせた。それと同時に、腕一本を失う覚悟を決めた。
 黒い男は、それを放り投げた。緩やかな円を描きながら、ナイフは男に近づいてくる。
 先程の速度……それでこそ、いつ放ったのか分からない程速かったというのに、今回は欠伸が出るほどに遅い。
――何を狙っている?
 何かを狙っているのは明らかだった。そのナイフに反応すること事態が、相手の罠だということも男は分かっていた。しかし、無視することは出来なかった。
 なぜなら、このままの速度を維持して相手に突っ込んでいけば、その軌道上から分かるように、ナイフは男の頭に――或いは喉に刺さってしまうからだ。かといって、立ち止まってそれをやり過ごそうとしても、黒い男は容赦なくナイフを放ってくるだろう。止まった的ほど、当て易いものはない。
 男が選んだ選択肢は……ナイフを打ち落とす事だった。
 掌ほどのナイフを打ち落とすことは、男にとってはそれほど難しい事ではない。問題は、足を弛めることなく打ち落とせるか、という事だった。
 飛んでいるナイフを見据る。どのタイミングでサーベルを振るえば打ち落とせるのかは、全て感覚に任せることに決めた。男は、自分の剣の腕を信じることにしたのだ。
 徐々に迫ってくるナイフに意識を集中し、そして――サーベルを振るう。小気味よい金属音が、耳とサーベル越しに伝わってくる。弾かれたナイフは、男の後方に飛んでいった。
――よし!
 喜びのあまり、男は手を握りしめる。そして男は、再び黒い男に眼を向けた。
 しかし、そこに黒い男の姿はなかった。
――消えた?
 次の瞬間、左半分の視界がぼやけた。やや遅れて、ぼやけた視界は赤く染まり、それとほぼ同時に狂いそうな程の激痛が男を襲う。
「ぐぁ……!」
 男が発することが出来た声は、それだけだった。次の言葉が出る前に、喉は掻っ切られ、後は血の泡とそれが泡立つような音が漏れるだけだった。
――いつ、いつこの距離を詰めてきたんだ……!
 まるで何かに引っ張られていくように、後方に倒れていく。男の赤に染まった視界に、見下ろしている黒い男が映った。その瞳には、怒りも、哀れみも、殺意も感じられない。ただ見ている。そんな感じだった。
 相手を見ることが出来なければ、防ぐ事など出来はしない。相手の死角に入り、あたかも消えるように見せる黒い男は、こうも名付けられていた。

 『インビシブル・エネミー(見えない敵)』、それが、『二番目』の名前だった。

 ※

 黒い男が扉を開けると、淫靡な匂いが部屋の中から溢れ出てきた。少し不快な気分になるが、構わず部屋の中に入り、後ろ手で扉を閉める。
 部屋の中は思ったよりも質素だったが、庶民から見ればそれは豪華の内に入るだろう。左手には純白のベットがあり、大きな布団が盛り上がっていた。誰かが寝ているのだろう。
「入ってくるな、この馬鹿が!」
 上半身裸になった男が、背もたれの高い椅子に座っている。事前に似顔絵で確認していたので、黒い男はそれがオーフマンだとすぐに分かった。
 職業が汚ければ、その姿も醜悪そのものだった。締まりのない身体に、見ているだけで吐き気がしそうな醜い顔。だがそれでも、黒い男に殺意は湧いてこなかった。
「依頼だ。お前を殺すように、ってな」 
 オーフマンはキョトンとした顔になる。何を言っているのか理解出来ていないようだった。それから見る見る青ざめていき、顔を引きつらせて言う。
「み、見張りは!? 部屋の前に居た見張りは!?」
 黒い男は黙ってナイフを取り出す。それが、答えの代わりだった。
「……え? ちょっと、何……?」
 黒い男はベットの方に眼を向ける。布団がもぞもぞと動き、髪の長い女が顔を出した。
「いいか、そこを動くな。動けば殺す。だが、動かなければ殺さない。いいな?」 
 ひぃ、と女は小さな悲鳴をあげ、身体を強張らせながらも微かに頷く。
「くそっ……! 誰か! 居ないのか!?」
 悲鳴に近い声で、オーフマンは助けを呼ぶ。しかしそれは、無駄だった。部屋の前に居た見張りはとうに息絶えており、更には雨によってその声はかき消されてしまうのだから。
 オーフマンは情けない悲鳴をあげながら立ち上がり、後ずさりながらもベットに近づいていく。
――女を盾にするつもりか。
 そうなる前に始末をつけようと、黒い男はナイフを取り出し、投げる構えをとった。そして――放った。
「あ……」
 女は、気の抜けた声を出しながら、オーフマンに向かって跳んだ。その凶器から、この醜い男を守ろうと。
 その信じられない行為に、黒い男は我が眼を疑った。無駄だと分かっていても、放たれたナイフを掴もうと手を伸ばす。しかし、虚空を掴んだだけだった。
 ナイフは速度を弛めることなく、真っ直ぐに飛んでいく。一度放たれた凶器は、その目的を終えるまで止まろうとはしなかった。
 女の胸に、ナイフが刺さる。深々と、丈の半分ほども。
 そのままの勢いで、女は地面に落ち、床を転がっていく。途中、血の付いたナイフが落ちたが、事を終えた後では何の意味も成さなかった。
「おい……嘘だ……!」
 黒い男は悲鳴に近い声をあげ、走るように女に近寄る。俯せになった女を抱き起こすと、胸には赤い模様が――それはまるで咲いていく薔薇のように、徐々に徐々に広がっていく。
 ふと、女は黒い男を見上げ、微笑んだ。だがそれは、黒い男に対してではなく、黒い男がオーフマンだと勘違いしての、微笑みなのだろう。
「ころ……殺すつもりなんてなかったのに……!」
 黒い男は怯えるように震えながら、後ずさっていく。両手で顔を覆う。呼吸はぜんそくのように不定期になっていく。

 『あの光景』が蘇る。『あの光景』が目の前で再生されていく。血と、男と、そして……。

「あぁ……ああぁぁぁー!」
 発作的に、黒い男は両手にナイフを――指と指の間に挟めるだけのナイフを取り出し、隅で命乞いをしているオーフマンに向かって投げつけた。
 計八本のナイフが突き刺さり、断末魔のような叫び声をあげ、オーフマンはさも痛そうに身をよじる。黒い男はそれでも飽きたらず、もう一度掴めるだけナイフを取り出し、そして投げつけた。
 まるで動物のようなうなり声をあげ、藻掻き苦しんだ後、オーフマンはぴくりとも動かなくなった。急所に当たったのではない。単に、多数の穴から血液が流れ出た為の、出血多量死だった。 
「ごめん……ごめんなさい……」
 土下座するように、黒い男は前屈みになって女の手を掴んだ。それが分かるのか、女はこちらを向いて再び微笑んだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
 黒い男は涙を流しながら、何度も何度も謝った。それから腰にぶら下げていた短銃を取り出す。短銃には、ギルドのマークが刻印されていた。そして、祈るように両手で銃を構え、女の心臓に照準を合わせる。
 黒い男が持っていたこの短銃は、戦う為のものではない。自分に科した誓約を破ったときにのみ使う、いわば戒めの為の銃なのだ。射程距離は短く、威力は低く、暴発率は高い。更には、発砲音までする。暗殺には――ナイフ投げを得意としている黒い男が仕事に使うには、あまりにも不向きな武器である。
 それでも尚、今銃を使うのは、誓約を破った為であり、自分を戒める為であり、そして彼にとって別れを告げる為の儀式でもあるだからだ。
 故に、彼はこれを『決別の銃』と呼んでいる。
「ごめんなさい……」
 引き金を引いた。雨音すら掻き消す発砲音が、辺りに響き渡る。

 女は、死体となった。

 ※

――雨が、降っていた。

 黒い男は、脇腹を押さえながら道を歩いていた。指の間からは、血が漏れだしている。

 あの発砲音でほとんどの見張りが侵入者に気付き、こぞってあの寝室に押し掛けてきた。何とか切り抜け、塀を跳び越えようとしたが、最後の最後でボーガンの矢が黒い男の脇腹をえぐったのだ。
 それから黒い男は、逃げるようにレイニー・タウンを目指して歩き続けた。歩く度に脇腹が痛んだが、雨の日に馬車などはなく、結局歩いて帰るほかになかった。

 行程の半分も行かないうちに、黒い男は酷い眩暈に襲われ、その場に倒れた。それが出血によるものなのか、雨に打たれてなのかは、黒い男には分からなかった。もっとも、その両方の可能性もあった訳だが。
 黒い男は死を覚悟した。――いや、覚悟だけなら、とうの昔に出来ていた。
 黒い男にとって、死は恐怖ではなかった。かといって、自殺願望者があるわけでもない。ただ漠然と訪れる事実。それが、今の黒い男にとっての死だった。
 だから、今ここで自分が死ぬのも、単なる事実の一つにしか過ぎないと、黒い男は本気で思っている。
――冷たいな。
 降りしきる雨が、容赦なく黒い男の身体を打ち付ける。徐々にではあるが、身体から力が抜けていくのを感じていた。
 眼を開けているのも億劫になり、黒い男は眼を閉じる。こんな状況に陥っても、黒い男には怒りも、悲しみも、未練すらも湧いてこなかった。
――死ぬと、どうなるのだろうか?
 そんな考えだけが、脳裏を過ぎる。

 ふと、黒い男は身体が軽くなった気がした。今まであった妙な重さが、綺麗さっぱり無くなっていたのだ。
  
――雨が止んだのだろうか?
 俯せのまま眼を開けてみるが、相変わらず雨は降り注いでいる。だが、黒い男には降り注いではいなかった。その奇妙な現象に、思わず首を傾げる。
「……生きているみたいですね」
 声がした。幼い声だ。黒い男は身をよじり、その方向に身体を向ける。
 そこには、傘を差した『白い少女』が立っていた。白髪で、髪は後ろで結わえてある。白いブラウスに白いスカートと、白一色で統一されていた。黒一色に染まっている男とは、まるで正反対である。
 奇妙な現象でもなんでもなかった。白い少女が、黒い男に傘を差しているだけだった。
「……助けは必要ですか?」
 聞くまでもなかった。
「あぁ……頼む」
 黒い男は、別に好んで死にたい訳ではない。目の前に救いがあるのなら、喜んで縋(すが)る。上半身を起こし、後ろ手に右手を支えにしたまま、
「レイニー・タウンまで頼む。礼は……そうだな、何か希望はあるか?」
 無茶な金額でなければ、言い値を払うつもりだった。他に悩みが――例えば誰を恨んでいるというのなら、それも叶えてやろうと思った。
 白い少女は、じっと黒い男を見つめる。何かを見定めているようだった。
「私を……」
 そして少女は、その望みを言った。

「私を殺してください」



第一章「暁通りに雨が降る」

 ※

 沢山の檻の中には、動物たちが居た。ライオン、犬、ヘビ……。いずれも見せ物として、この大きなテントの中に入れられている。
 テントは円形であり、中には少しの観客席と、その観客達を楽しませる小さな舞台があった。もっとも、雑草があちこちに生えている、単なる地面だったが。
 今そこの舞台では、団員の一人が馬を走らせている。そして、掛け声と共に鞍の上に逆立ちになった。他の団員達から、拍手が沸き起こる。観客席から見ていた少年もまた、惜しみない拍手を送った。
 少年は観客席から立ち上がり、テントを出る。それから少し離れた位置にある、小さなテントの中に入った。
 木のテーブルの上に置いてあるナイフを手に取り、掲げて見る。微かだが、刃こぼれのようなものがあった。少年は舌打ちをし、その近くに置いてある軽石にコップの水を掛け、研ぎ始める。
 一心不乱になって研いでいると、薄暗いテントの中に光りが差した。誰かが来たようだ。
「さぁ、出番だよ」
 逆行になっていて、顔はハッキリと見えない。しかし、そのシルエットと声ですぐに分かった。
「分かってるよ、」

 ※

「姉さん……」
 懐かしくも、出来れば思い出したくない記憶の夢から、男は眼を覚ました。嫌な夢を見たもんだと、顔を振るって気を持ち直す。
 ヒビの入った壁。色が変質した木の床。全く使った形跡のない台所。そして、必要最低限の家具――クローゼットとベットしかない質素な部屋。それが、男の住み処だった。
「……どうやら助かったみたいだな」
 助かった経緯を思い出そうとするが、出血などで意識がもうろうとしていた為、白い少女と会った時以降の事はほとんど覚えていなかった。辛うじて覚えていることは、このレイニー・タウンに着き、このアパートに行くよう指示したぐらいだった。
 部屋の中を見渡すと、白い少女は椅子に座ったままうたた寝をしていた。脇には水の入ったバケツがあり、布巾は真っ赤に染め上げられていた。恐らく、これで身体を拭いたのだろう。
 男がベットから上半身を起こすと、ずきりと脇腹が痛んだ。男がその部分を見ると、まるで腹巻きのように包帯が巻かれていることに気が付いた。思いの外丁寧に巻かれており、動いても解ける気配はなかった。
 男がベットから出ようと動くと、ぎしりと軋む音がした。その音で、白い少女は眼を覚ました。
「……生きているようですね」
 無感情な声で、白い少女は言った。
「あぁ、お陰様でな」
「それは良かったです」
 良かった。そう言っている割りには、白い少女に変化はなかった。仮面か何かを付けたように、その表情は凍ったままだ。
 ふと、男は自分が上半身裸で居ることに、微かな羞恥心を覚えた。
「その……悪いが服を取ってくれ。そこのクローゼットの中に入っている」
「見慣れているので、私は気にしませんよ」
「別にアンタを気遣っている訳じゃない。身体を冷やしたくないからだ」
 そうですか、と呟くように言い、白い少女はクローゼットに向かった。
「ちょっと待て、服は――」
 言い終える前に、白い少女はクローゼットを開けてしまう。
 そこには、黒いコートが一着だけぶら下がっていた。丈は長く、白い少女がすっぽりと入ってしまう程だった。
 何の変哲もないコート……のように見えたが、『何か』が他と決定的に違っていた。白い少女は、それを見極めようとじっと見つめる。
 よく眼を凝らすと、黒地の筈なのに赤い斑点のようなものが見られた。それも、上から下まで無数に。
 それが何なのか、白い少女にはすぐに分かった。血だ。男がこの黒いコートを着ているときに、多くの血を浴びたのだろう。洗っても落ちきらないそれが、まるで怨念のようにこの黒いコートに染み付いている。
 それが、普通の服とは決定的に違う部分だった。
「……悪いがその服を見たくない。閉めてくれ。下に違う服が入ってるから、それを頼む」
 白い少女は何も言わず、クローゼットを閉めた。それから下の引き出しを開け、その服を男に手渡す。
「アンタ、名前は?」
 男は上着を着ながら、白い少女に質問した。仮にも命の恩人なのだ。礼をする為にも、名前ぐらいはしっておきたかった。
「レイチェル。……下の名前はありません。貴方は?」
「仲間内からは『スリー・ネームズ』……まぁ、だいたいはネームズなんて呼ぶがな」
 レイチェルは微かに首を傾げる。
「三つの名前?」
「あぁ、『三つの名前を持つ男』って意味らしい」
 本当はそれで四つ目なんだがな。ネームズはそう心の中で呟いた。
「本名じゃないのですね。……まぁ、別にいいですけど」
 レイチェルは振り返り、台所に向かって歩き出す。
「朝食を作ろうと思いますが、食べますか?」
「そりゃ食べるが……。いいのか? 看病の上に朝飯まで作ってもらって」
 掛けてあったフライパンを手に取りながら、
「構いません。ここで済ませた方が早いと思うので」
 気遣って言っているようにも思えるが、レイチェルの性格からして――知り合ってまだ間もないのにそう思うのも変だが――言葉通りの意味なのだろう。
「……分かった。戴こう」

 ※

 ネームズはろくに料理しない為、買い置きの食材など無いに等しかった。あったのは、乾燥スパゲティーと塩漬けトマトの二つ。必然的に、朝食のメニューはナポリタンとなった。
 レイチェルは竃(かまど)に火を起こし、鍋に水を入れる。後はひたすら沸騰するのを待つしかなかった。竈は一つしかない為、作業を同時に進めることは出来ないのだ。
 ネームズはレイチェルの後ろ姿を見る。ふと、首筋辺りに――どちらかというと肩に近い位置に――何か小さな傷のようなものがあることに気が付く。よく見てみると、それは傷ではなく、刻印だった。
 一瞬同業者かと思ったが、それはないだろうとすぐに否定する。しかしネームズには、刻印である以上の事は分からなかった。
「……なぁ」
 レイチェルは無表情で鍋を見つめたまま、
「なんでしょうか?」
 刻印の事を質問しようかと思ったが、結局ネームズはそれを止めた。詮索する必要がないと判断したからだ。代わりに、
「どうして……『私を殺して』なんて言ったんだ? 会って間もないオレに、何でそんなことを言ったんだ?」
 今までずっと疑問に思っていたことを、そのままぶつけた。
 レイチェルはそれでも振り向かず、無感情な声で答える。
「貴方は殺し屋なのでしょう? だったら、私を殺すことも造作ないと思ったからです」
 ネームズは大きく動揺した。殺し屋だと名乗ってもいないし、ましてやそれに近いことも言っていない筈だからだ。気付かれる要素など……。
「なるほど。治療するときに仕事道具を見た訳か」
 レイチェルは治療の為にネームズの上着を脱がせ、その際にナイフを入れてあるベルトも外していたのだ。そのことを考えれば、ベルトにあるナイフが見えるのは寧ろ当然だろう。
「はい、見ました。そこに置いてあります」
 レイチェルが指さす方向を見ると、ベットの後ろに――枕が置いてある方の下に置いてあった。
「それでオレが……」
 いや、それだとおかしい。仮にそうだとしても、ナイフを見たのはこの部屋に着いてからという事になる。レイチェルが『私を殺して』と言ったのは、会って間もない時だった。
「……もしかして、会ってすぐに、オレが殺し屋だと分かったのか?」
「はい」
「なぜ……オレを殺し屋だと思ったんだ?」
 レイチェルは振り向き、少しだけ悲しそうな顔を……したような気がした。
「……人殺しの眼をしていたからです」
 ネームズは思わず、眼に手をやる。初めてそれを言われた。確かに沢山の人を殺してきた。でもまさか、自分までもが人殺しの眼になっているとは思ってもみなかったからだ。
「人殺しの……眼か」
――その人殺しの眼を殺しにここに来たというのに、ざまぁない話だ。
 ネームズは自嘲気味に笑う。
「じゃあ、何故オレに殺して欲しいんだ?」
「殺してくれないのですか?」
 少しだけ残念そうな顔になる。レイチェルの表情が変わるのを見たのは、これが初めてだった。
「生憎だが、オレは女を殺らない。そう……決めているんだ」
 それが、自分なりのルール。自分の自我を保つための誓約だった。
 鍋のお湯が沸騰したのか、レイチェルは乾燥スパゲティーをその中に入れる。それから、放射状に広げた。
「……母は」
 レイチェルは飛び出たスパゲティーが鍋の中に沈むのを見つめたまま、
「母はクリスチャンでした。自ら命を絶つことは、最大の罪だと常々私に言い聞かせていました。……私は死にたい。だから、私を殺してくれる誰かを探しているんです」
「それが……オレだったということか?」
 背中越しに、頷くのが見えた。
「殺してくれないのなら、他の人を探します。安心してください」
 何を安心していいのか、ネームズには理解出来なかった。寧ろ、不安になる一方だ。殺し屋が名前しか知らない少女を心配しているなんて、どうかしている。だがそれでも、放っておく訳にはいかなかった。
「他に……他に何か望みはないのか? 生活が苦しいんなら助けてくれた礼として、出来る限り金を出してやる」
 レイチェルは振り向かず、トングで鍋の中を掻き混ぜながら、
「私が欲しいのはそれだけです。他は何も要りません」
 それは、ハッキリとした拒絶だった。せっかく差し伸べた救いの手を、いとも簡単に振り払われてしまったのだ。そのことに、ネームズは言い様のない歯痒さを覚えた。
――死んで、どうなるというのだ?
 ふと脳裏を過ぎった疑問。しかし、答える者はいない。

 ※

 結局、作ったナポリタンを食べ終えるまで、会話らしい会話はなかった。
 レイチェルの作ったナポリタンは、お世辞にも美味しいとは言い難い味だった。熱しすぎた所為か、焦げた味が後味として口の中に残るのだ。
 しかしネームズは、残さずそれを平らげた。焦げた味がすると、文句を言いながら。
 ネームズは、その焦げたナポリタンに姉の姿を思い出していた。

 ※

 食べ終えたネームズは、傷む脇腹を押さえながら立ち上がる。
「仕事の報告に行ってくる。オレが殺し屋だということは黙っていろ。それと、レイチェル。お前はどこへも出掛けるな」
 レイチェルは椅子に座ったまま、微かに首を傾げた。
「どうしてですか? 私には出掛けなければならない用事があります」
「駄目だ。ここに居ろ」
 そう言いながらネームズはベルトを拾う。
「仕事です。行かなければ、私は怒られてしまいます」
 ベルトを付け、上に灰色の上着を羽織る。それからレイチェルの方に振り向き、
「駄目だ。出るなと言ったら出るな!」
 そうキツイ口調で言った。
 殺してくれる誰かを探している。そんな自殺志願者を外に出すわけにはいかなかった。――というよりも、ネームズはそれ以外の方法が思い浮かばなかったのだ。
 何となく後ろめたい気持ちに囚われながら、ネームズは扉を開けた。

 ※

 レイニー・タウンは、四本の大通りと、八本の脇道――もっとも、家々の隙間などは多くあるが――から成っている。
 大通りの名前は東から西に掛けて順に、暁通り、朝焼け通り、夕焼け通り、黄昏通り、となっており、一日の始まりから終わりまでを表現してある。これは、丁度太陽が昇る方向と下る方向が同じだった為に命名された。
 ネームズは家を出て、暁通りを歩いていく。貯水池から見て五本目の脇道を左折し、そのまま横一直線に大通りを通過していく。
 黄昏通りに出て、すぐに右折する。数メートル先に、そのお店は見えた。
 上からぶら下がっている看板には『RAINBOW(レインボー)』という文字が書かれており、虹の色を真似てか一文字一文字違う色で塗られてあった。しかし年月によってそれも剥げ、今では微かに分かる程度だった。
 中に入ると、扉の上に付けてあるベルが鳴り響いた。
 店内には丸い木のテーブルが三つと、縦に長いカウンターがある。壁には釣り竿と鹿の剥製、それと上手いのか下手なのか良く分からない絵が飾ってある。統一感など全くなかった。一見すると、何を扱っている店なのか全く分からないが、何て事はない。ここは、料理屋なのだ。
 中途半端な時間の所為か、客は誰一人として居なかった。そして、カウンターにも。
 ネームズはもう一度扉を開け、わざとベルを鳴らした。それでようやく気付いたのか、店の奥から足音が聞こえてくる。
 奥から出て来た細目の優男は、ネームズの姿を見て少し驚いた後、いつも通りの接客を始めた。
「いらっしゃい。ご注文は?」
 ネームズはメニューも見ずに、
「焼き魚を。焦げるまでじっくりと焼いてくれ」
 優男はそれを聞いて、苦虫を噛み潰したような顔になる。耳打ちするように顔を寄せ、こっそりと話す。
「ネームズさん……その暗号を使うのは止めて下さいよ。バレたら姐さんに何されるか……」
「こんな暗号で何が分かるっていうんだ、ウィル? オレですら未だに理解していないってのに」
「慎重すぎるくらいがいいんですよ。いいですね?」
 念を押すように、ウィルは言った。
「分かった分かった。食事はいいから通せ。VIPルームに、な」
「了解しました。では、念のために銃を」
 ネームズは腰にぶら下げていた短銃を取り出し、ウィルに手渡す。ウィルは柄の部分に刻まれている刻印を見て、満足そうに頷いた。しかし、違和感を感じたのか首を傾げながら顔を歪める。まるで重さを確かめるように銃を上下させ、それから銃身を覗き込んだ。
「……撃ったんですか?」
 ウィルは覗き込んだまま質問した。それは遠回しに、女を殺したのかと言っているように聞こえた。
「……あぁ」
 そうですか、と特に関心なさそうにウィルは呟き、火薬と弾丸を銃身に入れた。更に雷管を被せ、弾丸が落ちないようをロックを掛ける。
「確認できましたので、二階にどうぞ」
 ウィルから短銃を受け取り、ネームズはカウンターの横にある階段を昇っていく。
 二階は、中流から上流階級相手に作ったフロアだ。だからこそVIPルームなんて洒落た呼び方をしているが、こんな店に来る金持ちなどほとんど居らず、良くて月に一度来るか来ないか程度である。
 しかし、用があるのはその二階ではない。踊り場にある、隠し扉だ。普段は開かないようになっているが、ウィルが下から鍵を外すことによって、初めて入れるようになる。
 隠し扉を開けると、冷えた空気が溢れ出てきた。中には降りの階段があり、その先は地下室へと通じている。
 ネームズは備え付けてあるロウソクに火を点け、燭台を手に取った。それから扉を閉める。すると、カチリと鍵の閉まる音が聞こえた。扉を閉めると、自動的に鍵が掛かる仕組みとなっているのだ。
――良くできた仕掛けだな。
 そう思いながらも、ロウソクで足下を照らし、ネームズは階段を降り始めた。

 ※

 数分ほど降っていくと、ネームズが所属しているギルド――『プライド』の本拠地へと辿り着く。
 床と壁は板張りになっており、木のテーブルが二つと、幾つかの椅子があちこちに散らばっていた。天井にはランタンが吊されており、まるで物語に出てくる海賊の隠れ家のようだ。
「あら……? 随分と珍しいお客様ね」
 奥の部屋の隅に座っていた、長い黒髪の女がネームズに向かって歩いてくる。
「生活費を稼ぎに来たのかしら?」
 軽口をたたきながら目の前で立ち止まり、腕を組む。
「そんなところだ」
 ネームズはため息混じりにそう言った。
 女は紫の上着と、黒いタイトスカートを履いており、その美貌とスタイルは、この薄汚れた場所とはあまりにもアンバランスだった。
「もっと仕事をしなさい。腕が鈍りなんかしたら、私も困るのよ?」
「鈍りはしないさ。もっとも、これ以上磨く気もないがな」
 女は少し意地悪そうな笑顔を浮かべ、ネームズの脇腹を指さす。
「よく言うわ。ウチのボスにも恐れられてた貴方が、あんな雑魚達にそんな怪我を負っているんですもの」
「……何で知ってる?」
 外見からは包帯は見えない。ここに来てから、脇腹を押さえるような事もしていない筈だ。
「歩き方。脇腹を庇うようにしていたからね」
 ネームズはそれも出さないよう注意を払っていたつもりだったが、やはりどこかで脇腹を庇っていたのだろう。
「さすがだな、BS。隠せるかと思ったが、やはり無理だったか」
「お褒めいただき、ありがとう」
 ネームズの言葉に、BSと呼ばれた女は満更でもない顔をした。

 女は薬や医学に通じており、毒殺、自然死――医者からはそう見えるような殺し方――を得意としている。
 誰も知らぬ所に『網』を張り、誰も気付かない内に獲物を絡め取っていく。その美貌と暗殺の仕方に敬意を込め、女は 『ビューティフル・スパイダー<美しき蜘蛛>』と呼ばれている。
 ネームズがBSと呼ぶのは、フルネームで呼ぶのは面倒くさく、かといって蜘蛛と呼ぶのにも抵抗感があるので、頭文字だけを取って略した為である。

「それで、怪我は酷いの?」
「大したことはない」
 ネームズは別に虚勢を張っている訳ではなく、肉の一部がえぐれて無くなったといっても、そこは皮と脂肪の部分だけであり、今は大した痛みはなかった。恐らく、数週間の内に完治するだろう。しかし、軽傷という訳でもない。
「まぁ、大事を取って仕事は暫く休むさ」
「心配しなくても、貴方が次の仕事をやる前に治るわよ」
「確かに、な」
 BSの言うとおりだった。ネームズは生活費を稼ぐ程度にしかこの仕事をしていない。金が無くなったら仕事をする。その程度である。しかし、その一回一回で多くの収入を得るため、最低でも二〜三ヶ月は保ってしまう。そしてネームズは、その間は特に何もしない。だから、別に改めて大事を取る必要もないのだ。
「まぁ、積もる話は後だ。まずは報告をしてくる」
 BSの脇を通り、ネームズは奥の扉へと向かう。
「ついでだから、私も行くわ」
 ネームズは意外そうな顔で振り向き、
「報告は終わったんじゃないのか?」
「いいえ、まだよ。あんな陰気くさい場所に一人では嫌だったから、誰か来るのを待ってたの」
「そりゃごもっともだな」
 二人は少しだけ笑う。ネームズが扉を開けて先に入り、その後にBSが続いた。
 中は先程の部屋とほとんど一緒で、違うところといえばテーブルは一つしかなく、椅子も二つしかないという所ぐらいだ。奥には同じような場所に扉があり、その真ん前には椅子に座った短髪の男が、門番のように陣取っていた。 
「よぉ、蜘蛛に……てめぇは誰だっけか?」
 短髪の男は、挑発的な笑みをネームズに向けた。
「穴蔵に居すぎて、ついに頭にカビが生えたか、『狂人』?」
 狂人と呼ばれ、男はおかしそうに笑う。
「あぁ、その胸くそ悪い声で思い出したよ。あんまりにも見なかったんで、うっかり忘れちまった。で、『名前野郎』。親父に何の用だ?」
「仕事終了の報告だよ。それ以外に何がある?」
「そうか、そいつはご苦労様だ。俺はてっきり、またてめぇが親父を殺しに来たのかと思ったよ」
 狂人は肩を揺らせて笑う。しかし、ネームズを見据える眼には殺気が篭もっていた。
 それを遮るようにBSが一歩前に出て、うんざりしたように言う。
「仲が良いのは構わないけど、先にボスの部屋に入れてくれないかしら? ただ立っているだけっていうのも、意外と疲れるのよ?」
 BSの言葉に、狂人は鼻で笑う。
「叩き潰すぞ、蜘蛛。仲が良いように見えるなら、てめぇの眼は腐ってるな。絶対に」
 ネームズも狂人と同意見だった。仲が良い訳がない。しかし、同じ意見だと思われるのは嫌だったので、BSを睨むだけで黙っていた。
「俺も一緒に入る。不審な行動はするな。……あぁ、名前野郎はしてもいいぞ。ちゃんと殺すから」
 そう言いながら狂人は立ち上がる。奥にある扉に顔を向けようとしたが、ふと何かに気が付いたのか、顔をしかめた。それからしきりに鼻を鳴らし、ネームズに近づいていく。
「匂いがするな……。女の、それも――」
 ハッとなり、狂人は腹を抱えて笑い出した。
「なんだなんだ、役立たずで不能の持ち主かと思ったが、ちゃんとやれるんじゃねぇか」
 下卑な笑い方、人を馬鹿にした物言い、その全てが癪に障ったが、ネームズは冷静に、そして深いため息混じりに言う。
「何の話だ?」
「とぼけんなって。昨日世話になったんだろ? てめぇの身体からプンプン匂ってくるんだよ。淫売の匂いがなぁ」
――淫売。それは、誰のことを言っているのだろうか?
 思い当たるのはたった一人。成り行きとはいえ、一晩部屋を共にしたレイチェルだけだった。

 瞬間、頭が真っ白になった。フッと、意識はどこか遠くへと飛んでいった。

「ネームズ!」
 BSの叫ぶような声で、ネームズはようやく気が付いた。
 いつの間にか右手は、ベルトのナイフを掴んでいた。しかし、狂人がそれを掴んで阻止している。そして狂人は、もう片方の手でネームズの首筋にマチェット(藪刀)を押しあてていた。
「馬鹿が……! 今、ここで殺されたいのか?」
 狂人は何故か悔しそうに歯を噛んだ。
「ベルセルク(狂人)! ギルド内での殺し合いは禁止よ!」
「うるせぇ! 先に手を出そうとしたのはコイツだ!」 
 狂人の眼が据わった。人を殺す眼だ。
「遺言はあるか?」
「別に。言葉を残したって……聞いてもらいたい人が居なければ、意味がないだろ?」
「なら……死ね」
 首筋に当てられた刃越しに、力が込められていくのを感じる。後は、それを放つだけだった。
――随分と、くだらない死に方をするもんだな。
 ネームズは半ば諦めたように、身体の力を抜いた。

 瞬間、奥の扉からナイフが飛び出してきた。まるで生えてきたように飛び出しているそのナイフは、紛れもなく奥の部屋から――ギルドの長からの、絶対的な仲裁を表していた。
 
「……ふん」
 侮蔑するような視線をネームズに送った後、狂人はマチェットを収めた。
「また命を拾われたな。親父に感謝しておけよ」
 そう言い残し、狂人は奥の部屋に入っていく。そして、生えていたナイフは向こうから引っこ抜かれた。
「じゃあ行くか、BS」
 まるで何事も無かったかのように、ネームズはBSにそう促した。その態度が気に入らなかったのか、BSは酷く不機嫌な顔でネームズに近づいていく。 
「貴方……いったい何を考えてるの? あの距離でベルセルクに挑もうだなんて、自殺行為そのものよ!?」
 いつもは気丈なBSも、半ばヒステリック気味に大声を上げた。
「……なんでだろうな」
「はぁ?」
「なんでオレは、ナイフなんか抜こうとしたんだろうな……」
 あの狂人の憎まれ口など、ここに来る度に聞いている。確かにそれを聞く度にネームズは不快な思いになり、怒りに駆られることも多かった。だがそれでも、頭が真っ白になったことなど一度もなかった。それでこそ、無意識の内にナイフを抜こうと――殺そうとしたこともなかった。
――なら何故、そうなってしまったのだろうか?
 ネームズに思い当たる節は、一つしかなかった。レイチェルが、淫売だと言われたからだ。たったそれだけで、理性を失ってしまったのだ。
 それが、ネームズには良く分からなかった。
「知らないわよ!」
 BSはネームズの肩を掴み、もう片方の手で怪我をしている脇腹を殴った。
 痛みのあまり、ネームズは脇腹を押さえながら前屈みになる。それは、矢で脇腹をえぐられた時よりも痛く感じた。
「うぁ……! 馬鹿……怪我してるんだぞ……!」
 切れ切れな声で訴えるが、BSは軽蔑したような眼でそれを跳ね返す。 
「ふん、死にたがり屋には良い気付け薬よ」
 ざまぁみなさい、そう言い残してBSも奥の部屋へと消えていった。
「なんだっていうんだよ、全く……」
 BSの行動も良く分からず、疑問と激痛の二つがネームズを襲う。
「畜生。痛ぇ……」
 唐突に、よく分からない悔しさが込み上げてきて、ネームズは歯を噛んだ。だがそれも少しの間だけで、どちらも落ち着いた頃に、ネームズも奥の部屋に入っていく。結局、その悔しさが何なのかは分からず仕舞いだった。
 部屋の中は狭くて薄暗く、椅子、テーブル、ベットといった必要最低限の家具だけが置いてある。
 ネームズが部屋に入ると、他の部屋とは明らかに違う空気を感じた。それは重々しく、血と狂気が混じり合う戦場のような空気だ。無意識の内に、ネームズの眼は殺し屋の眼に変わっていく。
「久しぶりだな……『ナイフ』」
 部屋の奥には、壁に寄りかかり、床に据わっている初老の男が居た。その隣には、見張るようにして狂人が立っている。
「……お久しぶりです、」
 そう言って、ネームズは会釈する。
 顎から左目に向けて刀傷があり、頬は痩けて――寧ろ、身体全体が痩けており、眼には精力の欠片すら感じられない。しかし、紛れもなくこの男こそが『プライド』の長である。男は、二十歳過ぎからある称号を得て、今に至るまでそれを守り続けている。それがいつしか呼び名となり、男の存在を表している。その男の通り名は、

「『最強のトラ』よ」 

 ※

 ネームズはトラに短い報告を告げ、すぐに部屋を後にした。そして、自己嫌悪するような深いため息をはく。
――もう……オレは諦めたのか。
 殺したい相手がすぐ目の前にいる。にも関わらず、殺意は微塵も湧いてこなかった。一度や二度ではない。『あの日』以来、ずっとだ。それが、無性に悔しかった。
 BSを待とうと思ったが、複数の依頼を掛け持ちしている為、報告にはいつも時間が掛かっている。そこまで待つ気はなかったので、ネームズは結局帰ることにした。
 狂人が居た部屋を抜け、先程降りてきた階段とは違う階段を昇る。その途中には小さなガラス窓があり、下には掌ほどの隙間が空いていた。その中は小さな部屋となっており、木の箱やら紙の束やら所狭しと積んであった。
 ネームズは備え付けられているベルを鳴らす。
「……またか」
 ため息混じりに、そう愚痴た。今度は強めに、叩くようにしてベルを鳴らした。
「ウィル! 仕事だ!」
 それでも来る気配はなく、ネームズは痺れを切らして直接呼んだ。
 それでようやく聞こえたのか、向こうから走ってくるような音が聞こえてくる。
「はいはいはい、聞こえてますよ分かってますよ。相変わらずせっかちなんだから……」
 呟くように愚痴りながら、ウィルは椅子に座り、帳簿のようなものを取り出す。
「晩飯時だから、表の店が混んでいるんですよ」
 そう言って、ウィルは親指で後ろの方を指した。この場所と表の店のカウンターは繋がっており、直接行き来することが出来るようになっている。
「ここ、一人で切り盛りするのは大変なんですからね」
 帳簿を開き、ペラペラと捲っていく。
「そんなもん待たせておけ。お前の本業はこっちだろ」
 ウィルは羽ペンを取り出し、インクに付け、さらさらと何かを書いていく。
「分かってますよ。でも、こっちの方も結構な利益を上げてるんですよ? もうここじゃ、料理やってる店は少ないですからね」
 そう言いながら、足下にあった金庫の鍵を開け、中に入っている革袋を取り出した。
「はい、これ。今回の報酬です」
 それをカウンターに置くと、どさりと重そうな音がした。ネームズは窓の隙間に手を入れ、それを取る。ずしりと、確かな重みを感じられた。これで二〜三ヶ月暮らせるのだから、重いのは寧ろ当たり前だろう。
「ネームズさん、晩飯はどうします? ウチで食べるんだったら、VIPルームに案内しますけど?」
 ネームズはどうしようかと一瞬迷ったが、今朝の事を思い出し、首を横に振る。 
「……いや、遠慮しておく」
「そうですか。今日はいつもの店に行くんですね。それならしょうがないです」
 そう言う訳でもなかったのだが、まぁなと曖昧な返事をして濁した。
 奥の方からは、矢の催促のようにベルが鳴り響いている。その煩さは、まるで鳥の雛ようだ。
「あーもう、空腹ぐらい我慢しろっての!」
 ウィルは振り向き、表のカウンターに向かって怒鳴った。
「貰うもんは貰ったからな。帰るよ」
「ご苦労様でした。せっかく良い仕事するんですから、もう少しぐらい仕事を増やしてくださいね」
「BSにも言われたよ。気が向いたら、な」
 ため息混じりにそう言い残し、ネームズはその場を後にした。

 裏口から夕焼け通りに出ると、日は既に傾き、夕暮れ時になっていた。この道では遮るものは何もなく、山間に沈んでいく夕日がはっきりと見える。太陽と空の境界線は滲(にじ)み、木々や家々すらもその色に染まっていく。
 アパートに着き、ネームズは自分の部屋の前に立つ。淡い期待を抱きながら、扉を開けた。
「居ない……か」
 そこには、当たり前の光景が広がっていた。夕日が部屋の中を照らしているが、ただいたずらに虚しさを強調しているようにしか見えなかった。 
――礼もしていないのにな……。
 ネームズはレイチェルが座っていた椅子を横目で見ながら、誰も居ない事を否定するかのように扉を閉めた。

 ※

 アパートを出て、朝焼け通りを降っていく。少し歩くと、『STRANGE(ストレンジ)』と書かれた錆びた看板が見えた。ネームズはその近くにある階段を降っていった。
 店内は狭く、カウンター席が五つとテーブルが一つしかない。カウンターの中には数え切れない程のワインが並んでおり、その前では黒いチョッキと白いYシャツを着た初老の男が、ワイングラスを丹念に磨いていた。
 相変わらず店内には客が誰一人として居らず、グラスの音だけがやけに響いて聞こえる。もっとも、騒がしいところを嫌うネームズにとっては好都合だが。
 初老の男はネームズが来たのを確認すると、軽く頷き、後ろのワイン置き場から『ピノ・ネロ』とラベルの貼られたワインボトルを取り出す。この店で、一番安い赤ワインだ。それを、一番奥の席にワイングラスと共に置く。
 ネームズはその席に座り、コルク栓を抜き取る。そしてそのまま、ラッパ飲みした。
 初老の男は何も言わず、何も聞かないまま、調理を始める。調理の間中も、初老の男は一言も喋らなかった。無論、ネームズも。
 しばらくして出来上がったのは、ナポリタンだった。
 ネームズはフォークでそれを絡ませ、口の中に入れる。懐かしい味と記憶が、ネームズの中で蘇っていく。
 浮かんで消えたのは、姉の姿と、何故かレイチェルだった。
――もう二人とも居ないんだ。
 沸き上がってくるため息を、ワインで流し込んだ。



 BSの報告は長い。――いや、どうしても長くなってしまうと言った方が正しいだろう。例え要所、要所をまとめて話したとしても、十分はざらに掛かってしまう。
 BSが担当しているのは、主に毒殺である。青酸カリやヒ素といった短絡的な毒殺ではなく、あたかも自然に発生した病気のように、徐々に『暗殺』していくのだ。
 それ故、時間が非常に掛かる。しかし、そういった仕事の方が依頼数が圧倒的に多かった。報酬が多い仕事、比較的短時間で終わる仕事、等々を考慮して選別してはいるが、それでも十個以上の依頼を掛け持ちしているのが現状である。
「……一人は自然死として認められ、来週にでも葬儀が行われるそうです。もう一人は毒殺の疑いが掛けられていましたが、未知の病として片付けられたそうです」
「あの老人は? まだ死んでねぇのか?」
 トラの脇に立っているベルセルクが、そう質問した。
 恐らく、ベルセルクが言っているのは七十を超えるあの老人の事だろう。漁業協同組合の大御所で、卸業者に太いパイプラインを持っている。それを分捕ろうとする輩が、老衰に見せかけて暗殺して欲しいというのが依頼である。
「えぇ、まだよ。もはや虫の息だけど、それでもぎりぎりの所で持っているみたい」
「ふん、しぶてぇ爺だな。とっとと死ねばいいものを」
 ベルセルクは、吐き捨てるように言った。嫌な気分ではあったが、BSも同じ意見だった。
「そうか……御苦労だった」
 長い長い報告を聞き終えた後、トラは呟くように労いの言葉を言った。
 BSには、一ヶ月程前に会った時よりも覇気がないように見えた。徐々に死が近づいている。そう、強く感じた。
「ボス、身体の調子は……?」
 BSの質問に、トラは少し嬉しそうに答える。
「ふむ、すこぶる悪い。身体の節々は痛み、食欲もあまり湧かない。身体も……今一つ思うように動かない。どれ一つとっても、病人の症状そのものだな」
 トラは、自分自身を嘲笑った。
「蜘蛛よ。私の病状は悪化しているか?」
 BSは眼を伏せ、
「……はい。徐々に、ですが確実に悪化の一途を辿っております」
「お前は医者より医学に通じている。だからこそ、敢えて聞きたい。私の病名は何だ?」
「……存じ上げません」
 別に、トラを心配して隠している訳ではない。どの医学書を見てみても、それに該当する病名がなかったのだ。
「そうか……名前も知らぬ病か……。私らしいといえば……私らしいのかも知れんな……」
 トラは、まるで誰かに語るように呟いた。
――酷く、弱々しいわね。
 その姿は、初めてここを訪れた時――六年前にトラと会った時とは、もはや別人である。
 初老が近いというのに身体は、それでこそ虎のようにしなやかで無駄のない筋肉だった。眼光は鋭く、獲物を狩る虎そのものだった。しかし、今となってはその欠片もない。その姿は、痩せた虎、老いた虎、病に冒された虎――。
 『最強のトラ』とは、程遠かった。
「それでは、私は失礼します」
 BSは踵を返し、部屋を出て行こうとする。
「蜘蛛よ」
 呼び止められたBSは、ゆっくりと振り向く。
「……何でしょうか?」
「今日の夕飯は何だろうか?」
 その質問に、BSは思わず苦笑してしまう。これではまるで、ボケ老人そのものだったからだ。
「ボスの好物、鮭のムニエルですよ。いつも通り、ウィルに持ってこさせますから」
 そう言い残し、BSは部屋を後にした。

 ※

 裏口に通じる階段を昇り、その途中にある窓ガラスの隙間から部屋の中を覗く。
 奥の方では、ウィルが忙しそうに料理をしている。聞こえてくる喧騒から、丁度夕食時なのだろう。
 額に汗をかき、嬉しそうにフライパンを返しているその姿を見て、BSは深いため息をはく。
――完全にコック気取りね。
 表の店はあくまで隠れ蓑の為に作ったというのに、その賑わい振りはこのレイニー・タウンで――数少ない店の中でだが――断トツだ。売り上げもそこそこ多く、本業にしたとしても食いっぱぐれる事はまずないだろう。
 ウィルは、このギルドで一番日が浅い。四年前、あの事件が起きた後にBSが、事務員兼金庫番、そして表の店――料理屋の為に連れてきたのだ。戦闘の技能は、一般人のそれと何ら変わりない。
 BSは隙間から手を入れ、紙と羽ペンを取る。

<今日のメニューは鮭のムニエルで。魚は焦げるまでじっくりと>
 
 そう書き置きし、BSは裏口に向かって昇りだした。

 ※

 朝焼け通りを下っていくと、『STRANGE』という看板が眼に入る。躊躇うことなく、その近くにある階段を下っていく。
 店内には、いつもの席に、いつもの客が一人。そして、いつも変わらぬメニューがそこにあった。
――これでよく経営が成り立っているわね。
 BSは、この店に通い始めてもう六年も経つ。それだけ長い期間通っているというのに、ネームズ以外の客を見たことがなかった。
 最低でも六年間閑古鳥が鳴きっぱなしなのにも関わらず、未だにこの店が潰れる気配はない。
 それは店名通り、『奇妙』な事実だった。
 階段を下りきり、迷うことなくテーブル席に座る。BSは六年間、ずっと同じ席に座り続けている。別にこだわりがある訳ではない。ただ何となく、一種の癖のようなものなのだ。この席でなければ、何となく締まりが悪い。その程度である。
「いつものをお願い」
 初老の男は頷き、食パンと包丁を取り出す。一定の厚さに切り、その上にトマト、チーズ、レタスを乗せ、挟む。耳を切り取ったサンドイッチを、ラベルに赤い制服を身に纏った兵士が描かれた『ビーフィーター』という種類のジンと一緒に、BSの前に置いた。
「もっと女らしいものを飲んだらどうだ?」
 離れた席にいるネームズが、ワイン瓶を片手に言った。
「貴方こそ、もっと男らしいものを飲んだら?」
 BSはビーフィーターの蓋を開けながら、返すように言った。
「このワインが好きなんだよ。それ以外、飲む気にもならん」
「私もよ。ワイン程度じゃ、もう酔えないもの」
 サンドイッチを頬張り、流し込むようにジンをラッパ飲みする。BSは喉と胃が熱くなっていくを感じ、少し艶の入った息を漏らす。
「それで?」
 唐突な質問に、ネームズは眉をしかめる。
「……何の話だ?」
「ベルセルクが言っていた話よ。貴方、本当に連れ込んだの?」
 苦虫を噛み潰したような顔になり、誤魔化すようにワインを呷る。
「なんでお前にそれを言わなくちゃならないんだ?」
「気になっているからよ。私のアプローチすらかわす貴方が、いったいどんな子を連れ込んだのか、ね」
 ばつが悪そうに、ネームズは俯いた。
「……命を助けてもらっただけさ。それに、相手は少女だ。手を出すなんてどうかしている」
「あぁ、そういうことね」
 それで合点がいったのか、BSは大きく頷いた。
 恐らく、前回の仕事――オーフマン暗殺の際に、何かしらのトラブルで脇腹に傷を負い、それが元で命の危険にさらされたのだろう。その時に、その少女に助けてもらった。BSは、そう推測した。
 だが、新しい疑問が生まれる。
 昨日、ネームズと同じ部屋で一夜を共にしたのはその少女である。なのに、ベルセルクはその少女を『淫売』と言った。
――多分、そのままの意味ね。そう珍しいことではないし。
 金持ちに限らず、そういった嗜好の持ち主は少なくない。その少女が自分の意思でやっているのか、はたまた売られてきたのかは分からないが、どちらにしろBSには関係のない話だった。
 会話は止み、食器の音だけが店内に響き渡る。しばらくして、
「……BS、一つ頼みがある」
 ネームズは、唐突にそう切り出した。
「え? 頼み? 貴方が?」
 思わず、声が上擦った。ネームズがBSに頼み事をするのは、これが初めてだったからだ。
「あぁ、人捜しをして欲しい。名前はレイチェル。首筋の辺りに、刻印みたいなのが彫られてあった」
 ネームズはその位置を指し標すように、首筋に手を乗せる。
「それは……さっき言ってた少女の事?」
「そうだ」
「捜してどうするの?」
 BSの質問に、ネームズは俯き、意味もなくナポリタンをフォークに絡ませる。
「まだ恩を返してないんだ。それに……」 
「それに?」
 顔を上げ、少し悩んだ後、
「オレの知らない所で、死なれても困る」
 意図が理解出来ず、BSは首を傾げた。
「……まぁいいわ。他ならぬ貴方からの頼み事だもの」
――首の辺りの刻印、ね。
 BSには、心当たりがあった。この辺でそんな悪趣味な事をしているのは、たった一人しか居ないからだ。それを今言っても良かったが、レイチェルという少女に興味が湧いたし、確証があるわけでもないので、黙っておくことにした。
「そうか、助かる」
 ネームズは席を立ち上がる。どうやら食事を終えたようだ。
 BSが座っているテーブル近くまで来て、
「叶うといいな、お前の願い」
 労うように、そう言った。
「そうね。その為にここへ来たんですもの。貴方と一緒でね」
「オレは……きっともう駄目だ。殺意が湧いてこないんだ。心の底で、諦めているのかも知れない」
 そう言って、ネームズは酷く悲しそうな顔になる。
「私の願いは、貴方の願いでもあるわ。最終的に叶えば、きっとそれでいいのよ」
「……そうだな。そうだといいな」
 BSの言葉に救われたのか、ネームズは少しだけ晴れた顔になる。
「ところで……」
 BSは頬に手をあて、ほんの少しだけしなり、艶っぽい視線をネームズに送る。
「もう一つの願いなら、今日中にでも叶えられそうなのだけど?」
 やや遠回しな言い方ではあるが、子供や余程鈍くなければその雰囲気で理解できるだろう。早い話が、誘っているのである。
 にも関わらず、ネームズは力無く笑い、
「遠慮しておくよ。お前は、オレには勿体ない」
 そう、いつもの台詞でかわす。
 確かにネームズの言うとおり、一介の暗殺者がBSを抱くのはあまりにも不相応だった。それでこそ、中流――いや、上流階級に位置する者が妻として迎えるのが、一番相応しいと言えよう。事実、他の町に居る名だたる実力者達が、BSにプロポーズをしたこともあった。
 しかし、BSにしてみれば地位や名誉など、どうでも良いことだった。今目の前にいるネームズと添い遂げられることの方が、よっぽど重要で、価値あるものだと思っている。
「そう……残念ね」
 本当に残念そうに、深いため息をはく。
「礼はいつか、別な形でするよ」
 そう言って、ネームズは階段を上っていく。その背中を、BSは何と無しに見つめていた。
――相変わらず、哀愁漂う背中ね。
 その所為か、ネームズの背中はどことなく小さく感じた。それは、さも弱そうで、哀れなものに見えた。
 しかし実際は、『最強のトラ』をも脅かす実力を持っているのだ。そして、BSが知る限りでは唯一、トラに一太刀を入れた男でもある。
 顎から左眼に向けてある刀傷。それが、その時に出来た傷である。
 そのアンバランスさに、BSは惹かれていた。
 サンドイッチを頬張り、ジンを呷る。身体は温まり、少しだけ意識が朦朧としてくる。酔いが回ってきたようだ。
「言い寄ってくるのは要らない男ばかりで、本当に欲しい男はなかなか手に入らないものね」
 誰に言うでもなく、愚痴るように言った。



第二章「朝焼け通りに陽は昇らない」


――赤い。

 目の前は、ただひたすら赤かった。
 観客席も、草の生えた舞台も、動物達の入っている檻も、テントの天井も、バラのように赤い斑点が散らばっていた。
 そして、テントの中に転がっているのは死体、死体、死体の山――。
「あ……あぁ……」
 上手く呼吸が吸えない。
 身体が小刻みに震える。
 自然と涙が溢れ出てくる。
 思考が止まって、何も理解出来なかった。
 ただただ目の前の光景に恐怖し、凍り付いているだけだった。
 動物たちは漂う血の匂いに興奮し、騒ぎ立てている。それは、もはや調教されてきた動物達の姿ではなかった。本能が剥き出しの、獣そのものだった。
 ジャリ、と後ろから足音が聞こえた。
 少年は、本能的にそれを悟った。それは、迫り来る死の足音だと。
 頭では分かっている。逃げろ、と。逃げなければ、絶対に殺されると。
 しかし、身体は動いてくれなかった。ただただ、まるで木偶のようにその場に凍り付いているだけだった。
 さながらそれは、蛇に睨まれた蛙のように。
 さながらそれは、死神に魅入られたように。

 本能が、死を覚悟していた。

「残っているのは、女と子供だけか……」
 死神は呟いた。それは、酷く悲しそうな声だった。
「許せよ、小僧。せめて、苦しまないよう一瞬で殺してやるから」
 無機質な音が聞こえる。少年はその音が何なのか、すぐに分かった。それは、日常茶飯事に聞いている音だった。
 柄から、ナイフが抜かれる音。
 死神の殺気に反応してか、動物達は更に騒ぎ立てる。まるで、これから始まる殺人を、心待ちにしているギャラリーのように。
――僕は、殺されるんだ。
 頭でも、そう理解してしまった。訪れる死を、受け入れてしまったのだ。
――姉さん。
 走馬燈のように、姉の姿が脳裏を過ぎる。
「助けて……助けてよ……姉さん……」

 ※

 夢から覚めたネームズは、うっすらと眼を開け、仰向けに寝たまま深いため息をはいた。
 既に日は落ち、暗闇がこの部屋を支配していた。うっすらと光はあるものの、自分の手の陰を確認できる程度だった。
 ふと、頬が濡れている事に気が付く。あの夢の所為で、泣いていたようだ。
――ちくしょう。
 夢の所為でなくとも、ネームズは泣きたい気持ちになった。
――なんだってオレは、姉さんを呼んでしまったんだ……。
 死にたくない一心で、そう言ってしまったのかも知れない。
 一番頼れる存在に、助けて欲しかったのかも知れない。
 しかし、それが原因でネームズの姉は――殺された。
――オレが……オレが姉さんを殺したんだ。
 殺したのは、あの死神だ。しかし、その原因を作ったのは――あの場に呼び寄せてしまったのは、他ならぬネームズだった。
――もしもあの時、オレが姉さんを呼ばなかったら……。
 そう思うと、後悔しても後悔しきれなかった。
 無論、呼ばなければネームズが殺されていただろう。しかし、姉は助かったかも知れない。そちらの方が良かったと、ネームズは本気でそう思った。
 助けに来た姉は死に、助けを呼んだ自分は生きている。皮肉としか言いようのないそれに、言い表す事の出来ない憤(いきどお)りを感じた。
 軋むベットから降り、暗闇に慣れるため眼を閉じる。そうでないと、ランプがどこにあるのか分からないからだ。
 ギシリ、と床が軋む音が聞こえる。それは、廊下側からだった。
――誰だ?
 暗闇に眼を慣らす行為から、それは神経を研ぎ澄ませる行為へと変わった。視覚を完全に閉じ、聴覚に全神経を集中させる。
 このアパートでは、二階には二部屋しかない。その中央に階段があり、左か右かによって隣人であるかどうかが分かる。
 こちらの部屋は左側だ。
 そして、足音の主は……左側に――こちらへ近づいてきている。しかも、ただ歩いてきているわけではない。音を殺すように、忍び足で歩いてきている。
 ベルトは外してテーブルの上に置いてあるため、枕下からナイフを取り出し、扉から直線上にギリギリまで離れ、身構える。そして再び眼を閉じ、足音に神経を集中させた。
 足音はゆっくりと、確実にこちらへ向かってきている。時折、それに金属が擦れ合うような無機質な音が混じっていた。
――鎧の音か?
 そう思ったが、それとも違うような気がした。どこかで聞いたことがある音なのだが、結局それが何なのかは思い出せなかった。
 扉の前で、足音は止んだ。
 その瞬間、気分は一気に静まった。静かに眼を開け、現れるであろう的に備える。そこには殺意などない。ただ、障害物を排除するという意識だけだ。
 ドアノブがゆっくりと回される。
 ネームズは、音を立てずに深いため息をはいた。まるで、煙草の煙でもはき出すかのように。
 扉が徐々に開いていき、隙間から淡い光が漏れだしてくる。やがて扉は開ききり、淡い光がその来訪者の姿を露わにする。
「レイ……チェル?」
 そこには、白い少女が――ランタンを持ったレイチェルが立っていた。
――なぜ、ここに?
 思ってもみなかった来客に、ネームズはそのままの態勢で凍る。
「私を……殺してくれるの?」
 抑揚のない声で、レイチェルは言った。
「女は殺さないと言っただろう。同業者かと思っただけだ」
 安堵のため息をはきながら、ネームズはナイフを降ろす。それから、テーブルの上にあるランプに火を点けた。
「全く、紛らわしい……。やましいことをやる訳じゃないんだから、来るならもう少し堂々と来い」
 今度は疲れたようにため息をはき、ベットの上にどっかりと座った。ナイフを枕下に戻り、レイチェルに視線を戻す。
「すいません。夜遅いので、寝ているだろうと思いまして」
 無表情のまま頭を下げる。これでは本当に謝っているのか、形だけなのか、判断が付かない。
 レイチェルはランタンを消し、テーブルの上に置く。キィ、と錆びた音がした。
――あぁ、なるほど。あれはランタンの音か。
 正体が分かれば、なんてことはない。ネームズは鎧か武器かと悩んだ自分が、馬鹿馬鹿しく感じた。
「それで、何の用だ? 金が欲しくなったんなら、遠慮無く言ってくれ」
「言ったはずです。私の願いは、殺してくれることだと」
 変わらないその返答を聞き、ネームズはまたしても言いようのない歯痒さを感じた。
「それと――」
 レイチェルはネームズと向かい合わせになるように、椅子に座りながら、
「仕事が終わったので、ここへ戻ってきました」
 言葉の意味が今一つ理解できず、ネームズは顔をしかめた。
「どういうことだ?」
 ネームズが何を疑問に思っているのか、それが理解できなかったレイチェルは首を微かに傾げる。
「どういうことですか?」
「いや、だから……どういうことなんだ?」
「どういうことって、どういうことなんですか?」
 埒が明かないと思ったネームズは、
「いいか? なぜ、お前はここへ戻ってきたんだ?」
 そう質問し直すことにした。
 それで理解したのか、レイチェルは納得したように微かに頷く。
「貴方がそう言ったからです。『ここに居ろ』、と。だから私は、戻ってきたんです」
 その言葉の意味を理解するのに、少し時間を要した。理解したにはしたが、それでもネームズにとっては理解不能な行動だった。
「えっと、つまりオレが『ここに居ろ』と言ったから戻ってきた、と」
 整理して言ったつもりだったが、オウム返しのようにしかならなかった。
「はい。そうです」
 どうしても今一つ理解出来なかったが、これ以上は不毛のような気がして、ネームズは考えるのを止めた。レイチェルはここへ戻ってきた。それで充分だと結論付けた。

『てめぇの身体からプンプン匂ってくるんだよ。淫売の匂いがなぁ』

 ふと、狂人に言われた言葉が脳裏を過ぎる。それと同時に、ネームズはとある疑問が浮かんだ。
――レイチェルの仕事とは、いったい何なのだろうか?
 他人の仕事を詮索する必要などない。そう思っていても、質問せずにはいられなかった。
「……なぁ、お前の仕事って何だ?」
 返ってくる答えは、何となく分かっていた。なぜなら、『淫売』と呼ばれる仕事が一つしか思い浮かばなかったからだ。
 分かっている。
 分かってはいるが、否定して欲しかった。
 そうではない、と。
 そんな汚れた仕事なんてしていない、と。
 本人の口からそれを否定して欲しかったのだ。
 レイチェルは、事も無げに言う。

「私の仕事は、領主様の相手をする事です」

 だがしかし、結局それは事実を再確認させられるだけだった。本人の口から、紛れもない事実だと。
「夜、決まった時間に部屋を訪ね、それから――」
「もういい! もう……止めてくれ……」
 ショックだった。しかし、何故自分がこんなにも大きなショックを受けているのか、ネームズには分からなかった。
 そういった嗜好を持つ奴等が居るのは知っている。
 幼い子供達がそういった仕事をやっているのも知っている。
 狂人に淫売と言われた時から、何となくだが予想もしていた。
 にも関わらず、ネームズは大きく動揺している。何故動揺しているのかさえ分からず、動揺はただ増すばかりだった。
――なんだって、こんな少女が……。
 やがて、その動揺は悲しみに変わっていった。
 ネームズは、当たり前だと思っていた『その事』が急に嫌になった。そしてそれが当たり前だと思っていた自分に、嫌気が差した。
「お前も……親に捨てられたのか?」
 年端もいかない少女が、生きるために身体を――プライドを切り売りするのはそれしかなかった。
 しかし、レイチェルは顔を横に振る。そして、少しだけ悲しそうな顔をして言う。
「両親は殺されました。私の、目の前で」
 レイチェルは無感動な声で、まるで他人事のように語り出した。



 レイチェルは元々、ここより三日ほど南東に下った港町に住んでいた。そこは漁業が盛んな町であり、また国内で唯一通商を行っていた町でもある。
 海に近い為、崩れないよう家は背が低く、極力繋ぎ目が無いように作られてある。これは、風によって薙ぎ倒されるのを防ぐのと、雨漏りを防ぐためだ。
 父親は漁師で、その温厚な性格の所為で船長になる事は出来なかったが、人望は厚かった。
 母親は専業主婦で、毎日教会に通う熱心なクリスチャンだった。
 子供はレイチェル一人だけ。二人目は、その当時流行った魚介類の中毒によって、死産してしまった。
 その事を、母親は酷く嘆いた。クリスチャンだったことが、それに拍車を掛けることとなった。
 何度か自殺しようともしていた。しかし、自ら命を絶つ事は最大の罪であるということを教えられていた母親は、すんでの所で踏み止まった。
 父親はそんな母親を慰め続け、時間と共にそれは回復していった。
 レイチェルが物心付く頃には心の病は完治しており、母親は死んでしまった子供の陰を引きずることなく、その分の愛情をレイチェルに注いでいった。
 厳しさを、そして時には優しさを。
 そうしてレイチェルは両親の愛を受け、質素ながらも幸せな日々を送っていた。

 ※

 それはレイチェルが十四歳の時。大雨が降っていたときだった。
 レイチェルの家の中は、トイレを抜かして全て繋がっており、ワンフロアとなっている。その中央には食事用の低いテーブルがあり、奥の角にはベットが三つ並んでいた。
 こんな大雨に出る漁師など居らず、父親は日々の疲れを癒すようにベットに寝転がっていた。
 母親も予定していた集会が中止となり、暇つぶしと実用を兼ね、床に座って編み物を編んでいた。
 レイチェルは、文字の勉強を兼ねて母親から貰った聖書を読んでいた。あまり面白いものではないが、他にやることもないため、母親同様暇つぶしと実用を兼ねての事だった。
 パラパラと捲っていると、何て事はない一文が眼に付いた。

『キリスト・イエスにあって、神様が私たちに望んでおられる三つのことがあります。それは、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について、感謝して生きていくことです』

――まるで私のお母さんそのものね。
 レイチェルは母親を横目で見ながら、含み笑った。
「なぁに、レイチェル?」
 その視線に気付いた母親が、編み物の手を止め、微笑みながら言った。
「ちょっとね。この聖書に、お母さんみたいな事が書いてあったから」
「あらあら、どんな事かしら。読んでくれる?」
 レイチェルは頷き、先程の一文を読み上げる。
 すると母親は、祈りを捧げるように手を組み、
「そうよ。神様はね、私達がいつも喜んでくれるように、いろいろな事をしてくれるの。例えばこの大雨だって、私達に飲み水を与えてくれるために降らせているのよ。だから、感謝しなくちゃね」
 静かに眼を閉じ、祈りを捧げる。
「……そして、祈り続けるの。私達が幸せで居続けられますように、ってね」
 茶目っ気のある顔で母親は言った。それを見て、レイチェルは自然と笑った。
 レイチェルも母親に倣い、手を組み、静かに眼を閉じる。

 コンコン、と扉がノックされた。
  
 唐突の事だったので、レイチェルは驚いて扉を見た。それから母親の方に視線を向ける。
「漁業組合の人かしら?」
 母親は立ち上がり、奥で寝ている父親に来客を知らせる。
 父親は気怠そうに身体を起こし、眠気を払うように顔を二〜三回横に振るった。
「明日の話かなぁ……」
 欠伸を噛み締め、そう呟きながら、父親は扉に向かって歩いていく。
 コンコン、と催促するようにもう一度ノックされた。
「はいはい、どちらさんで……?」
 父親は扉を開けた。
 そこに立っていたのは、白いレインコートを頭まですっぽりと被った男が――顔は見えないが、レイチェルは体格から男だと判断した――居た。
「どちらさんで……?」
 奇妙な来客に、父親は呆気にとられた様子だった。
 フードを降ろし、男は顔を露わにする。レイチェルは見たことが無い顔だった。しかし、父親は安心したようにため息を漏らす。
「なんだ、あんたか。どうしたんだい、こんな雨の中?」
「あぁ、ちょっとアンタに用があってな」
 男は頬に付いた水滴を、鬱陶しそうに拭う。
「雨の中大変だな」
「なぁに、これも仕事だ」
「上がるかい? 暖かいスープでもどうだ?」
「いや、ここで構わない。どうせすぐに済むさ」 
 男は懐から筒のようなものを取り出し、その中から一枚の紙を取り出す。それを見せつけるように差し出し、下卑な笑みを浮かべる。
「さて、借金を全額返してもらおうか。期日は今日までだったな?」
 父親は何を言われたのか理解できず、素っ頓狂な顔になる。母親とレイチェルは、思わず顔を見合わせた。
「ま、待て! 確かに私はあんたらから金を借りた。だが期日は、まだ三ヶ月も先の話だろ!?」
 借金のことは、母親もレイチェルも知っていた。

 それは三ヶ月ほど前、数週間に渡って魚が全く捕れない日が続いていた。その間は全く収入が無く、僅かにあった備蓄も尽き、近所の知り合いを頼ろうにもその相手もまた同じ境遇であり、麦の一粒でもいいから分けてくれと逆に相談されるほどだった。
 組合のほとんどの人間が貧困に陥り、ほとほと困り果てていた頃に、その醜い男は現れた。まるで、この機会を待っていたかのように。
『お困りのようですね、皆さん。宜しければ、お金をお貸しいたしましょうか?』
 醜い男の言葉は、まさに救いの言葉だった。ある者は飛び跳ねて喜び、またある者は涙を流して神に感謝をした。
 助かったんだと、救われたんだと、人々は口々に言った。
 嬉々として借用書に名と血判を押し、金袋を手にした人々は水を得た魚のように生き生きとしていた。
 しかし、誰も気付かなかった。誰一人として、男の正体に気付いていなかった。

 レイチェルがその醜い男の正体を知ったのは、ずっと後のこと。全てが終わり、暫く立ってからの事だった。

「期日は今日だ。嘘だと思うのなら、この借用書を見てみろよ」
 父親も母親も、そしてレイチェルもその借用書を見た。一番下に父親の名前があり、その上には――しっかりと今日の日付が書かれてあった。
「で、でたらめだ! 私はこの眼でしっかりと確認したぞ!」
 父親は生まれてからずっと漁師をしているが、文字の読み書きはちゃんと出来る。更に職業柄、安全面には気を使っており、今まで一度も不注意による事故は起こしていない。それは日常生活でも同じで、特に金銭トラブルについては過敏な程注意している。
 レイチェルは、そんな父親の性格を良く知っている。だから、その言葉は本当なのだと信じた。となれば――
「……まさか、書き換えたのか?」
 それしかないと、レイチェルも思った。しかし、何のために書類を書き換えたのかまでは考えつかなかった。――いや、考えたくもなかったのだろう。そんな愚行をする時は、決まって悪いことしか起きない。それを、レイチェルは本能的に察していたのかも知れない。  
「何を言ってる? 書類は絶対だ。神様だ。ここに今日返すと書かれてあったら、今日絶対に返すんだよ!」
――その『神様』を書き換えたのは、貴方でしょ。
 レイチェルは心の中で愚痴た。
「さぁ、全額返してもらおうか?」
 男は加虐的な笑みを浮かべ、紙をぴらぴらと揺らす。
「そんな金は……ない。三ヶ月とは言わない。せめて二ヶ月は待ってくれ」
「おいおい……。何度も言うが、期日は今日だ。せっかく雨の中こうして来てやったってのに、そりゃないだろ」
「頼む! 後二ヶ月でいいんだ!」
 そう言って、父親は頭を下げた。
――なんで、父さんが頭を下げなくちゃいけないのよ。あまりにも不条理だ。横暴だ。悪いのはあの男なのに、まるで私達が悪者みたいに扱われている。
 レイチェルは酷く不快な気持ちになった。馬鹿にしないでと、叫んでやりたかった。しかし、目の前で歯を食いしばり、世の中の不条理に耐えている父親の姿を見ると、自分も耐えなくちゃと思った。
 男は紙を丸め、筒の中に戻す。そして、
「そうか、金はないか。なら、契約書通り『物品』を押さえさせてもらう」
「物品……」
 母親は消えるような声で呟き、部屋の中を見渡す。レイチェルもそれにつられ、物色するように見回す。
 男が言っているのは、要は差し押さえのことなのだろうが、金目の物などこの部屋にはない。強いて言うならベットぐらいなものだが、今にも壊れそうなベットを欲しがる奇特な輩など居るわけもない。
 レイチェルは視線を戻す。ふと、男と眼が合った。
 男はこちらをジッと見ている。その眼は、まるで『品定め』しているようだった。
――もしかして、差し押さえられるのは……。 
 気付いた。気付いてしまった。金も無ければ物品もない。なら、借金のカタに持って行かれるのは相場が決まっている。
「……私?」
 父親はハッとなって顔を上げる。母親は信じられないといった様子で手で口を押さえた。
 男は、これ以上ないくらいに加虐的な笑みを浮かべ、
「当たり。お父さんの借金の代わりに、君が売られることになったんだよ。大丈夫。その内慣れるから」
――慣れる? 何に?
 理解は出来なかったが、男の邪悪な笑みから、それはとても怖いことなのだと思った。レイチェルは得体の知れないものに気圧され、座ったまま後ろにじりじりと下がっていく。
「おい、お前ら」
 レインコートの男が外に向かって言うと、同じ白いレインコートを着た男達が二人入ってきた。
「ご家族は了承した。連れてけ」
――父さんが私を売った? そんな訳がない。父さんは何も言っていない。ただ男が、勝手にそう言っただけなんだ。
 父親は、本当に何も言わなかった。娘に魔の手が迫っているというのに、何も言わず、ただ呆然とそれを見つめているだけだった。母親もまた、同じだった。
 片方の男がレイチェルの腕を強く掴んだ。
「痛い……! 離して……! 離してよ……!
 身をよじって抵抗するが、屈強な男の前では全くの無意味だった。ぎりぎりと万力のように腕は締め付けられ、痛みと共に恐怖が襲いかかってくる。
 これからいったい何をされるのか。
 これからいったいどこに売られるのか。
 そんな恐怖が身体を縛り付け、呼吸は不定期になり、涙が溢れ出てくる。
「父さん……! 母さん……!」
 
――言わなければ良かった。
 レイチェルは、数年経った今も、それを後悔している。 

「助けて……」
 たったその一言で、二人の呪縛は解かれた。
「娘を……返せ!」
 父親は走り、腕を掴んだ男にタックルをする。それで腕は離れ、父親はレイチェルと男達の間に入り込み、護るように立ちはだかった。
 それを見ていた母親も、レイチェルの元へ駆け寄る。そして、覆うように抱きかかえた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
 それは、今の状況に対してなのか、それともただ黙って見ていた事に対してなのか、レイチェルには判断が付かなかった。
「金は絶対に返す! だから、娘には手を出すな!」
 借用書を持ってきた男は、さも呆れたようにため息をはき、
「冗談を。娘に手を出さなきゃ、こっちの仕事が成り立たないんだ」
 それで、レイチェルは全てを理解した。
――最初から、私を狙っていた……?
 醜い男が父親に金を貸したのも、支払い期限を書き換えたのも、今日雨の中やってきたのも、全て――。
「時間が勿体ない」
 冷徹に、感情のない声で、
「殺せ」
 その一言で男達は腰にぶら下げていた短刀を抜き、父親を何の躊躇いもなく――刺した。
「がぁ……!」
 父親の声とは思えない奇妙な呻き声をあげる。
「フンッ!」
 父親を差した男はナイフに力を入れ、より深く差し込む。ナイフは父親の背中を貫通し、その時に出た血が母親とレイチェルに降り注ぐ。
 父親はそのまま前のめりに倒れ、床に大きな血溜まりを作っていく。
「おぉ……神よ……!」
 母親はレイチェルを強く抱き締め、涙声で祈った。
 しかしそれも、儚く、呆気なく、無慈悲に振り下ろされた凶刃によって、
「神よ……」
 散った。
「嘘、そんな……!」
 レイチェルの顔に、母親の血が降り注ぐ。
「母さん……母さん……!」
 呼びかけても、答えることはなかった。服越しに伝わってくる母親の体温は、急速に冷えていくような錯覚を感じる。溢れ出る血と共に、体温まで逃げていくようだった。
 その体温を逃がすまいと、レイチェルは母親をぎゅっと抱き締める。
 しかし、無駄だった。母親だったそれが、死体に変わっていく。
「死なないでよ……母さん……」
 母親の腕に力が入り、レイチェルをぎゅっと抱き締める。
『生きて……』
 最後に、そう言ったような気がした。
 残っていた微かな温もりがふっと消え去り、母親がレイチェルにずしりとのし掛かる。
「あぁ……ああ……」
――真っ赤だ。
 父親が、母親が、赤に染まっていく。
 十数年暮らしてきたこの家が、赤に染め上げられている。
 レイチェルもまた、赤色に染まった羊水に浸されている。
 世界が、赤に染まっていく。
――神様は、
 いつも喜びを。
――どうして、
 絶えず祈りを。
――私達を、
 すべての事について。
――助けてくれないんですか?
 感謝して生きていくことです。
――神様……。

 ※

 茫然自失となっているレイチェルを引きずり、白いレインコートを着た男達は、町の外で待機している荷馬車へと連れていった。
 降り注ぐ雨のお陰で、レイチェルについていた血はすっかり流れ落ちていた。彼女の感情もまた、その時に流れ落ちていってしまった。
 レイチェルは、後ろに備え付けられた木の牢屋に入れられた。
 そこには、レイチェルの友人や、見知った顔が五〜六人程居た。泣いている少女、何が起こったのか理解できず呆然としている少女、悔しそうにしている少女。いずれも彼女と同い年ぐらいである。
――私と同じく、売られていくのね。
 自分と同じで、騙されたのだろうと思った。
 鞭打つ音と共に、荷馬車は進み始める。
 住んでいた町は、どんどん遠くなっていく。
 しかしレイチェルは、特に何も感じなかった。
 もう何も、感じなくなった。



 レイチェルは、一呼吸置いてからまた話し出す。
「その後私は、ここの領主様の所へ売られてきました。――いえ、その時連れ去られた少女全員が、領主様の所へ来ました。奴隷のような身分ではありましたが、本当の奴隷よりは扱いが良かったと思います。彼らは一日の食事はパンとスープだけで、昼夜を問わずに働かされていました。それを考えれば、私はまだ運が良い方です。領主様に呼ばれたとき、その相手をするだけで暖かい寝床と服を、更に食事は三食貰える。そして、私はこうして生きている」
 『生きている』。その部分だけ、レイチェルはほんの少しだけ感情が混ざった声で言った。
 父親と母親が殺されて、レイチェルだけが生き残った。それは、母親が強く望んだ事。無論、父親もそれを望んでいるだろう。しかし、恥辱にまみれ、奴隷のそれと変わらぬ扱いを受け続け、それでようやく命を繋いでいる。
 ただ生き続けているだけ。間接的に、そう言っているように聞こえた。
「少し前から、私は外出することを許されました。奴隷のような身分の中では、破格の待遇です。それは、生き残っているのが私だけで、そして、このままの姿で居続けられるからだと思います」
「このままの姿……?」
 レイチェルは微かに頷く。
「そうです。私は攫われてから、ずっとこのままの姿なんです」
――どういうことだ?
 レイチェルは、確かに『このままの姿』と言った。それは、今の姿のことを指しているのだろう。身長、容姿、体型、どれをとっても年端のいかない少女のそれだ。
 つまり、レイチェルは攫われてから全く成長していないということになる。
 だが、歳を重ねても成長しない者は、そう珍しくない。たまたまレイチェルがそういう体質であり、それが領主の気に入る要因となり、捨てられることなく生き延びることが出来たのだろう。
 攫われた少女達の生死を分けたのは、たったそれだけ。少女であるが為に連れ去られ、少女であるが為に買われ、少女で居続けられた者だけが生き残ることが出来た。
 それは、皮肉という他になかった。
「今の生活が嫌だから、死にたいのか? 自分自身に絶望したから、オレに殺されたいのか?」
 レイチェルの過去を知って、ネームズにはその死にたくなる気持ちが、痛いほどに分かってしまった。掛け替えのないものを失う辛さ。それを、身を持って知っているからだ。
 全てに絶望し、全てを恨み、全てに怒りを覚え、全て壊したくなる。そんな気持ちが、微かだがネームズの中で蘇る。
――懐かしいな。
 二度と味わいたくないと思っていたにも関わらず、奇妙な望郷感を覚えた。
「そう……なのかも知れません」
 レイチェルにしては珍しく、曖昧な表情をしながら、曖昧な返事をした。
「だがな、オレは絶対にお前を殺さない」
 それは、ネームズが自分自身に科せた誓約だ。しかし、誓約とは関係無しに、ただ純粋にレイチェルを殺したくないと思った。
 それが、同情によるものなのか、好意によるものなのか、ネームズにはよく分からなかった。
「代わりに、領主か、その醜い男を殺してきてやるよ。少しぐらいは、心が晴れるだろ」
 両方ともさぞかし憎いだろうとネームズは思ったが、予想に反してレイチェルは首を横に振った。
「領主様には感謝こそすれど、恨むことなどありません」
 無感情な声で言っているため、本当に感謝しているのかどうか判断が付かなかった。
「それに――」
 レイチェルはネームズを真っ直ぐ見据え、微かに微笑む。
「醜い男は、もう既に貴方が殺してくれました」
「えっ?」
 思ってもみない言葉に、虚をつかれた。

「私の両親を殺し、私を攫って売り払ったのは、オーフマンです」

 ネームズの脳裏に、あの醜い男が浮かんで消えた。
――あいつが。
 つい先日暗殺依頼を受け、ネームズはそれを全うした。自ら手を下したのにも関わらず、もう既にこの世には居ないのにも関わらず、今更殺意が湧いてきたのだ。
「あの日、私は領主様の使いでオーフマンの屋敷を訪ねました」
「復讐するためにか?」
 レイチェルは首を横に振るう。心なしか、残念そうだった。
「いいえ。新しい少女を買い付けるためです。私と似た身長で、似たような体型をしている少女を探すために、見本として行ったのです」
 領主の筋金入りの児童性愛振りに、ネームズは反吐が出そうになる。
「そうして数人の少女を買い付け、馬車で帰ろうとした時に、騒ぎが起きました。オーフマンの寝室から発砲音がしたと、屋敷の人達が口々に言っていました。総動員となり、運転手までもがそちらへ借り出されました。やむなく、私は傘を借り、歩いて帰ることにしました」
――そして。
「そしてその帰り道に、貴方を見つけたのです。眼を見て、確信しました。貴方が、オーフマンを殺したんだと。私の……敵を討ったんだと」
 レイチェルの言葉を受け、ネームズは自分の手を見つめる。図らずも、レイチェルの代わりにこの手で仇討ちしたのだ。それに、奇妙な達成感を覚えた。
「貴方は私に聞きましたね? 何が望みかと」
「言ったよ。命を助けてもらったんだ。礼はして当然だろう」
 確かにネームズはそれを言った。意識が朦朧としていた時だったが、それでもハッキリと覚えている。
――だが、その望みは……。
「何が欲しいかと聞かれ、私は悩みました。どうしても、欲しいものが思い浮かばなかったんです。お金も、服も、何一つとして欲しいものがなかったんです。でも、貴方を見てふと思いました。殺されると――死ぬと、どうなるのだろうか? と」
 レイチェルは、ついとネームズの頭上を見るように視線を上げ、
「父さんと母さんは殺されました。死にました。もしかしたら、あの世で一緒に暮らしているのかも知れません。そこには、きっと苦しみなんてないんだと思います。お金の事で、悩む必要も、騙される事もありません。そんな所で、もう一度暮らせたのなら、きっと幸せだろうと……」
 視線を元に戻し、一呼吸置いてから、
「そう思った途端、私は死にたくなりました。でも、自殺は出来ません。母さんの、言いつけを破ってしまう事になる。だから――」
――私を殺して、か。
 あの日、雨の中、レイチェルが言った言葉が反芻される。
 自殺したくないから、他の誰かに殺される。矛盾しているようで、矛盾していないように思えた。だがしかし、結局それは死ぬことに変わりない。
「『生きて』……」 
「え?」
 ネームズがふと呟いた言葉に、レイチェルは過敏に反応した。
「お前の母親は、お前に生きていて欲しいんじゃないのか? それは、言いつけを破ることにはならないのか?」
「それは……」
 レイチェルは俯く。多分、自分でもその矛盾に気付いているのだろう。生きて欲しい。その両親の願いを――母親の言いつけを守るのならば、自殺も他殺も駄目なのだ。方法が違うだけで、結局は死ぬ。
「……分かりません。分からないんです。私はただ……ただ父さんと母さんと一緒に居たいだけ。私が死ななきゃ……二人に会えない……」
 レイチェルは項垂れ、泣くような声で言った。
 自分の過去を話しているときでさえ、悲しい顔一つしなかったレイチェルが、感情を露わにしている。ネームズはそれを、始めて見た。
――酷く、似ているな。
 過去も、今も、酷く似ているとネームズは感じた。
 大切な人を失い、感情が欠落し、今も尚過去に囚われ続けて生きている。だがしかし、その過去を想うときだけ、感情が蘇るのだ。
 ネームズも、心のどこかでは自殺願望があるのかも知れない。ただそれが、表に出ないだけ。
 レイチェルと同じように、誰かが自分を殺してくれる時を待っているのかも知れない。
――だが、しかし……。
 死んで、どうなるのか。それは、誰も知らないし、誰にも分からない。
 あの世があるだなんて、誰かが勝手に決めたことだ。だから、それが本当に存在しているのかどうかは、誰も知らない。
 仮にレイチェルが死んだとして、両親に会えるとは限らない。
 仮にネームズが死んだとしても……姉に会えるとは限らない。
 ネームズは、そうも思ってしまうのだ。
「……取り敢えず、今は死ぬな。生きていれば……何かあるかも知れないだろ」
――生きていれば、か。
 それは、レイチェルにというよりも、まるで自分に言い聞かせているようだった。こんなのは、気休めにしかならない。しかし、言わないよりは幾分マシだと思った。
「生きているのが、辛いんです」
 ネームズは大きなため息をはき、
「オレもだよ」
 自嘲気味に、笑った。

 ※

 結局、レイチェルはネームズの部屋に泊まることになった。色気のある理由ではない。単に、話し込んで陽が完全に暮れてしまったからだ。
 夕食はレイチェルが作ることになったが、食材は買い足しなどしていない。あるのは乾燥スパゲティーと塩漬けトマトだけ。考えるまでもなく、メニューはナポリタンに決定した。
 昼と全く同じように、レイチェルは料理を始めた。メニューは同じなのだがら、それも当然だろう。
 ふと、その料理している後ろ姿に姉の影を見る。容姿や体型、それに性格、何一つとして姉と似ていないのにも関わらず、まるで蜃気楼のようにぼんやりとした姉の姿が見えるような気がする。
――きっと、気のせいだろう。
 そう思うと、そこにあった蜃気楼は消え去り、後に残ったのは白い少女――レイチェルの後ろ姿だった。 
 その背中は、儚く、矮小で、気付かない内に消えてしまいそうだった。
――オレも、あんな背中をしているのだろうか。
 そんなことを、ふと思った。

 ※

 深夜、耳鳴りがするほど静かだった。寝静まっている時間帯だからではない。単に、住んでいる人が少ないからだ。四年前のあの事件以降、住民は減る一方だ。更には、暗殺が行われたのは文字通り暗くなった時――夜であった為、余程の物好きでなければ出歩く者など居ない。
 壁により掛かって寝ていたネームズは、ゆっくりと眼を開けた。眼を瞑ってはいたが、結局眠れなかった。
 レイチェルはベットを使っており、寝息が聞こえないほど静かに寝ていた。
 微かに差し込む月明かりが、レイチェルの寝顔を照らす。それを、何と無しに見る。
 そこには、生きているときの苦痛や、苦悩などない。とても安らかだった。
 寝ているときと、死んだときの状態は酷く似ていると、ネームズは思っている。
 それは、生きているときに降りかかる全ての不幸から逃れることが出来るからだ。
 例えばそれは、両親の死。
 例えばそれは、姉の死。
 起きているときには、それを思い出し、悔やみ、悩み、酷く嫌な気分になる。だがしかし、寝ればそれらは全て開放される。――いや、呪縛が解けるといった方が正しいだろう。
――そうでもないか。
 夢にも、姉の死は訪れる。それも定期的に、何度も何度も。
 だがそれでも、起きているときに思い出す姉の死よりも、寝ているときに見る姉の死の方が、幾分マシに感じられた。
 夢の中では、それ自体が希薄であり、現実味が今一つないからだ。
 一方起きているときは、本当にあった現実を思い出すのだから、現実味のクソもない。ただひたすらリアルなだけだ。
 眠るように暮らせたら、どんなに良いだろうとネームズは思う。
 そこに意識はなく、苦痛や苦悩もない。日々感じている鬱々としたこの気分も、きっと晴れることだろう。
 しかしそれは、死んでいるのと変わらない。ただ生きているだけ。本当にそれだけになってしまう。
――今も大して変わらないか。
 そう思い、自嘲気味に笑う。
 あの時に、本当は死ぬはずだった。死んで当然だった。だが、こうして生きている。だからネームズは、ただ生きているだけではない。
 ただ死んでいないだけなのだ。  
――オレは、死にたいのだろうか?
 自問自答する。肯定も否定も返ってきた。中途半端な答えだと、ため息をはく。
 夜風に当たろうと、ネームズは立ち上がり、音を立てないように扉を開ける。


 外に出ると、微かに冷たい風が――どちらかというと霧がネームズの肌を冷やす。レイニー・タウンと呼ばれるように、この町は雨が多い。また、それに伴う霧もまた多かった。最も、霧と思えないほど薄いが。
 暁通りを横切り、朝焼け通りに出る。微かに残る屍臭が――気のせいだとは思うが――漂ってきた。
 四年前、ここで沢山の人が死んだ。――いや、殺された。
 殺したのは――全てネームズだった。
 惨劇の場となったこの通りは、『レイニー・タウン(雨の降る町)』が『レイニー・タウン(血の雨が降る町)』と呼ばれるようになってしまったように、この通りもまた別名が付けられた。――いや、どちらかというとそれが発祥となり、それが町の名に繋がったのだ。
 『血の雨通り』。それが、この通りの別名である。
 比喩や例えではなく、ここでは本当に血の雨が降り注いでいた。降らせたのは無論、ネームズである。
 ネームズは天を仰ぐ。月は雲に隠れ、隙間から光が零れている。眼を閉じ、大きく深呼吸をした。
 この通りに染み込んだ、血の匂いがネームズの鼻孔をくすぐる。それは懐かしくもあり、酷く不快な匂いでもあった。
 それに触発されてか、ネームズはふと過去を思い出す。レイチェルの話の所為もあったのかも知れない。
 ネームズにとっては、遠い遠い記憶。二十年近くも前の話だ――。



 ネームズが生まれたのは、小さな農村だった。名前はもはや、忘れてしまった。――いや、覚える前にそこを離れてしまったと言った方が正しいだろう。
 ネームズが生まれた頃には、姉はもう六つを越していた。だから両親が畑に出ているときは、もっぱら姉が面倒を見ていた。微かではあるが、ネームズはそれを今も覚えている。小さな布団に寝かされ、姉が子守歌代わりの鼻歌を歌い、シミの多い天井を見上げていた。何て事はない日常なのにも関わらず、今も色あせることなく記憶していた。
 暮らしは非常に貧しかった。原因は、土地が痩せていた事だった。いくら両親が畑を耕しても、栄養が無ければ農作物は育たない。その当たり前の事が、一家を――村全体を苦しめていた。
 ある日、ネームズが四歳の時に――後日談として姉に聞かされた為、今も覚えているのだが――藁が沢山積まれた荷馬車に乗せられ、遠くへ行くことになった。
 目的地は分からない。ただ、遠くへ行くと両親に告げられたそうだ。
 陽が昇ると同時に出発し、空が赤々となった頃に、荷馬車は止まった。
 辺りには何も無かった。家も、人も、看板すらも。今にも地平線が見えそうな程平らな地面が、延々と続いていた。 
 そこでネームズと姉は降ろされ、父親から水の入った袋と、大きなパンを一つずつ手渡された。姉は、それに歓喜したそうだ。こんなに大きなパンは、お誕生日やお祭りの時以外に食べたことが無い。そう言っていた。
 そして母親は、泣きながらネームズと姉を抱き締めた。ただただ、ごめんなさいごめんなさいと謝りながら。
 父親は、そんな母親を引き摺るように荷馬車に乗せ、姉に目線を合わせるようにしゃがみ込んで、こう言ったそうだ。
『ここで父さんの友達と会う約束をしているんだ。でも、まだ来ていないんだ。だから、ここで待っていてくれないかな?』
 お父さん達は帰っちゃうの、そう姉は訪ねた。
『父さん達は畑の仕事があるんだ。だから、帰らなくちゃならない。それに、誰も居なかったら友達は帰ってしまうだろう? だから、ここで待ってて欲しいんだ。その、パンでも食べながらな』
 姉はパンに視線を落とす。恐怖よりも食欲が勝り、躊躇いがちに頷いた。
 父親は満足そうに頷き、荷馬車に乗る。そしてさめざめと泣いている母親の肩に手を掛け、父親もまた悲しそうな顔をした。
 そうして荷馬車は動き出す。ネームズと、姉をそこに残して。

 ※

 夜も更け、ネームズと姉は二人並んで大きな石の上に座っていた。
 遅いね、呟くように姉は言った。
 遅いね、返すようにネームズは言った。
 足をぶらぶらとさせながら、ネームズは残していたパンをちぎり、口の中に放り込む。姉もまた、同じように放り込んだ。
 空には真ん丸の月が浮かび、夜だというのにやけにハッキリと辺りを照らしていた。一本だけある枯れた木、朽ちた石垣、さわさわと音を立てている草むら。夜に外出したことのない二人にとっては、それらが新鮮に感じた。
 姉は聞き耳を立てる。馬車の音も、足音もない。ただ、風が草むらを撫でる音だけがする。
 来ないね、呟くように姉は言った。
 来ないね、返すようにネームズは言った。
 ここで待ち続けて、いったいどのくらいの時間が経っただろうか。三時間か、四時間か。暇になって二人で辺りを探索してみるが、ここで待っていろと言われたことを思いだし、戻ってきては律儀にも同じ場所で待ち続けていた。
 姉がパンをちぎって食べようと手を伸ばすが、そこには何も無かった。ネームズもまた、虚空を掴んだ。全て、食べてしまったのだ。
 パン無くなっちゃったね、残念そうに姉は言った。
 無くなっちゃったね、返すようにネームズは言った。
 お腹減ったね、へその辺りを押さえながら姉は言った。
 お腹減ったね、真似るようにお腹を押さえながらネームズは言った。
 来ないね、呟くように姉は言った。
 来ないね、返すようにネームズは言った。
 辺りが急に静かに感じられた。――いや、草を撫でる音はずっと聞こえている。それとは違った静かさが、この場に訪れたような気がした。
 ふと、姉は辺りを見渡す。何となく落ち着かない。妙にそわそわし、じっとしていられなくなってきた。
 言い知れぬ恐怖が、二人を蝕み始めた。それまでは、恐怖などなかった。――いや、パンを食べることによってそれを紛らわしていたに過ぎない。紛らわすものが無くなった今では、幼き姉弟ではどうにもならなかった。
 がさり、と草むらが揺れ動く。二人は思わず息を呑んだ。
 心拍数が一気に上がっていく。凝視するが、何も出てこない。出てこいと思う反面、出て来て欲しくないという願望と拒絶が入り混じる。

――怖い。

 一本だけある枯れた木が、幽霊のようで怖い。
 朽ちた石垣が、物悲しくて怖い。
 さわさわという音が、誰かの声のようで怖い。
 夜が、夜が怖い。
 怖い。怖い。怖い――。
 襲ってくる。恐怖が襲ってくる。
 力の無い姉弟では、それに刃向かうことなど出来ない。唯一出来ることといえば、泣くことだけ。ただわぁわぁと、助けを求めるように泣くだけだ。
 だがそれでも、姉は立ち向かった。ネームズを抱き締めて、それらから庇った。
 本当は自分が助けて欲しかった。誰でも良いから、救いの手を差し伸べて欲しかった。しかし、今ここに居るのはたった二人だけ。姉と、幼き弟だけだ。強い者が弱い者が守るのは当たり前の事。だから、姉はネームズを庇ったのだ。
 だが、だがそれでも――。
「お父さぁん! お母さぁん!」
 助けを求めるように、恐怖を振り払うように、泣きながら叫んだ。
 その声が、虚しく辺りに響き渡った。

 ※

 ガラガラと鳴る音で、姉は眼を覚ました。気付かぬ内に、寝てしまっていたようだ。
 辺りは既に明るく、日陰以外に暗闇はなかった。それに、姉は安堵のため息を漏らす。
 夜がこんなに怖いと思ったのは、初めてのことだった。それは、見知らぬ土地だった所為かも知れない。外だったからかも知れない。だがしかし、一番は側に頼るべき存在が居ないからだろう。
 姉にとって――子供にとって、親は最も身近に居る頼りになる存在だ。それは至極当然のこと。しかし、今はその当然が無い。頼れる存在が、何一つとしてない。
 隣にいるネームズをふと見る。昨夜のことなどすっかり忘れてしまったかのように、安らかな顔で眠っていた。それが、少しだけ羨ましかった。
 音の方向に眼を向けると、何か大きな物を引っ張っている馬が数頭見えた。それも、一つではない。列をなし、見たこともない大きな物を沢山運んでいた。
 姉はネームズを、文字通り頭を叩いて叩き起こした。
 来たよ来たよ、姉ははしゃぎながら言った。
 何が来たの、ネームズは寝ぼけ眼を擦りながら言った。
 お父さんの友達が来たよ、姉は馬を指しながら言った。
 お父さんの友達が来たの、ネームズはぼんやりとした様子で言った。
 姉は大きな石の上で飛び跳ねながら、両手を振ってそれらを歓迎した。ネームズは、迫り来るその巨大な荷物にただただ驚愕していた。
 徐々に荷馬車は速度を落とし、やがて完全に止まった。それから先頭に乗せてあった、白い布でくるまれた大きな荷物から若い男が降りてきた。
「どうした? 迷子にでもなったのか?」
 若い男は近寄りながら、そう言った。男の髪は短く、白いタンクトップを着ていた。作業でもしていたのか、所々が汚れている。
 姉は首を横に振ってから、ようこそいらっしゃいませ、と丁寧にお辞儀をした。ネームズもそれに倣い、いらっしゃいませと言いながら御辞儀をした。
「はっはっは、こりゃ歓迎ご苦労様」
 若い男は上機嫌に笑いながら言った。しかし、何かを考えるように眉を寄せ、それから首を傾げた。
「……ん? けどこの辺で公演の予定なんかあったかなぁ?」
 振り返り、後ろに向かって団長、団長と大声で呼んだ。
 ややあって、三つ後ろにあるカラフルな色の荷物から、顎髭の生えたガタイの良い男が降りてきた。
「何だ、どうした? 荷崩れでも起きたか?」
 少し不機嫌そうな顔をしながら、ガタイの良い男はこちらへ歩いてきた。
「この辺で公演なんてありましたっけ?」
 あぁ、といかにも不機嫌そうな語尾上がりの声を出し、若い男の頭を拳骨で殴った。
「てめぇはそれも覚えてねぇのか。このうすら馬鹿が! そんな事で止まるんじゃねぇ!!」
 怒鳴りつけるようにして言うガタイの良い男に怯えながらも、若い男はさも痛そうに頭を押さえて言う。
「違いますよ! それだけじゃないんです!」
 悲鳴に近い声でそう言うと、若い男は視線を促すように手を姉とネームズの方にやる。ガタイの良い男は、二人を見て更に不機嫌そうな顔になった。
「あぁ? 単なる迷子じゃねぇか。んなもん、放っておけ!」
 そう吐き捨てるように言った。
 違うよ、姉は首を横に振ってそれを否定した。
「ここで待っていたんだもん。お父さんの友達でしょう?」
 あぁ、と酷く顔を歪めながらガタイの良い男は語尾上がりに言った。
「人違いだ。ここで待ち合わせなんてしてねぇよ。第一、こんな何にもねぇ所で待ち合わせなんてするか、このちび馬鹿が」
 お父さんの友達じゃない、姉は今にも消えてしまいそうな声で呟いた。
「でも、ここで友達と会う約束をしてるって……。だからここで待ってろって……」
 姉は、嗚咽を漏らしながら説明した。言い終わった途端、涙が溢れ、わぁわぁと声を上げて泣き始めてしまった。ネームズもそれにつられ、わぁわぁと泣き始める。
 ようやく来たと思えば、それは人違いだった。良くある事ではあるが、空腹と疲れ、そして昨夜のこともあって感情が一気に爆発してしまったのだ。
 若い男とガタイの良い男はそれを見て、困ったように顔を見合わせる。
「いつからここで待っているんだい?」
 若い男の質問に、姉は昨日の夕方からと切れ切れに言った。
 ガタイの良い男はそれを聞いて、七面倒臭そうに頭を掻きながら、
「あのな、嬢ちゃん。可愛がっている子供を、こんな場所で待たせる親が居ると思うか? そりゃ捨てられたんだよ」
 その言葉に、若い男はギョッとなる。
「団長! 相手は子供ですよ!」
「子供だろうが何だろうが、捨てられた事には変わりねぇだろうが。事実は事実だ。言って何が悪い?」
 捨てられた。その言葉を聞いて、姉はただぽかんとなった。まだその意味が、理解出来ていなかったからだ。
 それから徐々に、昨夜味わった恐怖と同じように、じわじわとその言葉が染みてきた。
――捨てられた?
 言葉としての意味は知っている。捨てるというのは、要らなくなったものをどこかへと放り投げること。
――お父さんとお母さんが私を捨てた?
 要らなくなったから。まるで玩具か何かを捨てるように、姉も――ネームズと一緒に、ここへ捨てられたというのか。
「捨てられたの……?」
「そうだ。嬢ちゃん達は捨てられたんだよ」
「もう……お父さんとお母さんには会えないの?」
「そうだ。そうだよ」
――なんで?
「なんでなの……?」
「さぁな。見るからに貧乏そうだから、口減らしで捨てられたんだろうよ」
 口減らし。その意味は分からなかったが、貧乏だから捨てられたというのは分かった。
 毎日毎日少ない食料をみんなで分け合うよりも、二人を減らして取り分を増やせば、お腹いっぱい食べられる。計算の出来ない姉でも、それぐらいは分かった。
――私達がお父さんとお母さんのご飯を取っちゃったから、捨てられたんだ。
 ごめんなさい、ごめんなさいとまた声を上げて姉は泣き始めた。姉は何度も泣いてしまう自分に、少しだけ嫌気が差した。
「泣くな、泣くなよ、もう……」
 若い男もそれにつられたのか、それとも幼くして捨てられた姉弟に同情したのか、涙ぐんでいた。
「おら、行くぞ。いろいろと予定がつまってんだよ」
 ガタイの良い男は涙ぐむでもなく、悲しむ素振りすら見せず、ただ呆れ返ったようなため息を一つはいて、元居た場所に戻ろうと振り返った。
「だ、団長! こいつら見て何も思わないんですか!? こんな……こんな幼くして捨てられるなんて……!」
 歯を強く噛み、湧いてきた怒りを荷物にぶつけた。
「だったらてめぇが面倒見るか? 可哀想だから、って理由で拾って一生面倒見てられるのか?」
 ガタイの良い男は眼を細め、低い声でそう言った。若い男は何か言い返そうとしたが、結局はそれを飲み込み、俯いた。
「はっ、それみたことか。同情だけなら誰でも出来らぁ。てめぇの安い賃金じゃどのみち無理なんだよ。分かったら出発しろ。いいな!?」
 怒鳴るような声に、若い男は渋々といった様子で頷き、白い布でくるまれた荷物の所へ戻っていった。それは団長の命令だからというよりは、それに納得してしまったといった様子だった。
「嬢ちゃん達もいつまでも泣いてんじゃねぇ。泣いたって何にも解決しやしねぇ。それで解決するなら、誰も困りはしねぇんだよ」
 それだけを言い残し、ガタイの良い男は振り返る。
 姉とネームズはまだ泣いていた。涙でぼやけた視界に、ガタイの良い男が遠のいて行くのが見える。
――助けてよ。
 大人だったら、子供を助けるのが当たり前な筈。力が無いのだから、力がある人が助けるのが当たり前な筈。そう姉は思っていた。
――どうして、助けてくれないの?
 私達は力の無い子供達。両親に捨てられた、可哀想な子供達。このままでは、きっと野垂れ死んでしまうだろう。だから、
――助けてよ。
 泣いてそれを訴えているのに。泣いて助けを呼んでいるのに。あの大人は何もしてくれない。助けてくれない。
 お姉ちゃん、ネームズが嗚咽を漏らしながら姉に言った。
「お腹……減ったよう……」
 隣に居る、自分よりも幼い弟。自分よりも弱き存在。ネームズが今、頼れるのはただ一人。
 それで、姉は自分が何をすべきかが分かった。
「おねッ……お願いしまッ……します!」
 漏れる嗚咽を無理矢理抑え、姉は去り行く大人に言った。ガタイの良い男は、立ち止まる。
「おッ……お願いします! 何でもします! 働かせてください!」
 生きる道は、それしかなかった。幼い事など関係ない。例えパン一切れだとしても良い。それでも生きられるのなら、どんな過酷な労働にも耐えよう。自分が頼るべき存在は居ない。けれど、頼られる存在が――守らなくちゃいけない存在が隣に居る。そう心に誓っての、言葉だった。
 しかしガタイの良い男は、またしても七面倒臭そうに頭を掻きながら、
「馬鹿を言え。てめぇの非力な力で何が出来る」
「何でもします! お願いします!」
 姉は更に深々と頭を下げた。引き下がれば、それで終わりだ。終わってしまえば、ここで死ぬ事になってしまう。
 ネームズは何をしたらよいのか分からず、泣きながらも取り敢えず頭を下げた。
「……うちは大道芸の――まぁ、平たく言えばサーカスをやってるんだが、嬢ちゃんは何か芸があるのか?」
 何もなかった。そもそも、サーカスという言葉自体、よく分からなかった。
「ふー……。そっちの小僧ならまだ使い道はありそうなんだが、嬢ちゃんとなると微妙だなぁ。今余ってる仕事がな、餌やりぐれぇしかねぇんだ。これが結構危険な仕事でな。前のヤツはライオンに餌やろうとしたら、噛まれて死んだ。そんな仕事を嬢ちゃんに――」
「それでも良いんです。お願いします!」
 その言葉に偽りはなかった。ここで野垂れ死ぬぐらいなら、噛まれて死んだ方が幾分マシだと感じたからだ。
 ガタイの良い男――団長は腕を組み、呆れ返ったようにため息をはき、舌打ちをする。それから苛ついたように強く頭を掻き、
「……飯は三食出してやる。だが給料は無いものと思え。いいな!?」
 何故か悔しそうに、団長はそう言った。

 ※

 サーカス団『ダンデライオン』、それが姉とネームズが入ることになった団体名である。
 まるで遊牧民族のようにあちこちを周り、曲乗りやナイフ投げ、動物達を使ったショーなどを見せ物にして、生計をたてている。
 サーカス団が来るというのは、大きな街ではそう珍しいことではない。だがしかし、ネームズ達が住んでいた貧しい村などに訪ねることはまず無い。人も少ないだろうし、何よりも見せ物に金を払っている余裕などない筈だからだ。
 姉に与えられた仕事は、団長が事前に言っていたとおり動物の餌やりだった。
 犬などの動物なら何ら問題は無いのだが、問題はやはり大型動物――ライオンだった。ヘビも居たが、毒は持っていなかった。その毒々しい模様から、さぞかし猛毒を持っているように見えるが、攻撃はせいぜい噛みつく程度である。公演でそのヘビを紹介するときには、噛みつかれたら助からない……などと口上を述べるが、それも嘘っぱちだ。単なる演出に過ぎない。
 しかし、ライオンには嘘はない。噛みつかれたら、それだけで重傷となる。
 当たり前の話だが、公演中でない限りは檻――ネームズがそれを初めて見た時は、まるで牢獄のようだと思った――に入れてある。しかし、餌をやるときにはその中に入らなくてはならない。掃除もまたしかりだ。姉の前任者は、糞を踏んで滑り、倒れたところを襲われた。死体となったそれは、頭が半分無く、片腕もなくなっていたそうだ。どうしてそうなってしまったのか、聞くまでもなかった。ライオンが、喰らったのだ。
 しかしそれでも、姉はその仕事を選ぶほかに無かった。それしか、無かったのだ。

 ※

 姉とネームズが『ダンデライオン』に入り、一年と半年が経とうとしていた。
 最初は空いている檻で暮らしていたが、二ヶ月ほどして、その境遇をあまりにも不憫に思った若い男――後で聞いたのだが、ハックという名前らしい――が、二人に小さなテントを作ってくれた。
 それ以来、そのテントで暮らすこととなり、小さい――本当に小さいながらも、自分達の家を手に入れたことに、二人は大きな喜びを感じていた。もっとも、ネームズは喜んでいる姉が嬉しかっただけだが。
 小さな怪我はあったものの、姉は特に大きな怪我はなく、順調に仕事をこなしていた。
 怖くないの、そうネームズは訪ねたことがあった。しかし姉は、大きな大きな犬だと考えれば怖くはないよ、と笑って答えた。笑う直前、一瞬恐怖で引きつった顔をしたことが、酷く印象に残っていた。
 姉が仕事をしている間、ネームズは何もしない。――いや、何も出来なかった。
 何も仕事がないのだ。出来るのはせいぜいゴミ拾いぐらいなものだが、それも公演後だけで、一月に数回、酷いときでは三月で一回程度の時もあった。
 ネームズは幼いながらも、姉がどれだけ危険な仕事をしているのかは知っていた。それなのに、自分は何もしていない。ただここで姉を待っているだけ。そのおんぶに抱っこな状況に、ネームズは歯痒さを感じていた。
 ある日、その状況に耐えかねてネームズは団長に相談した。自分に出来る仕事はないか、と。
 団長は顔を歪め、複雑な表情をして言った。
「いずれてめぇにも仕事を頼もうとは思ってたんだがな。だがなぁ……まだ早ぇだろ」
 早い。それはつまり、まだネームズが幼いからという事だろう。しかし、そんなものは関係ない。幼いから仕事をしなくて良いというのなら、姉は何故あんな危険な仕事をしなければならないのだろうか。ネームズは、そう思った。
 だから、あの時の姉と同じように、深々と頭を下げて何度も何度もお願いをした。少しでも、その危険から遠ざけたいと心に決めて。
 最初は断として断っていた団長も、その姿勢にたじろぎ、やがて渋々といった様子で頷いた。
「てめぇに頼むのは<おつかい>だ。それなら、てめぇにでも――いや、てめぇしか出来ねぇ仕事だ。ただし、一回でも失敗したら姉弟揃って放り投げるからな。いいな!?」
 ネームズは嬉しそうに、そして強く、はい、と言った。

 ※

 ネームズに任された『おつかい』は、至ってシンプルなものだった。
 団長から手渡された荷物を指定された時間、場所に持って行く。たった、それだけである。
 姉の危険性と比べたら、天と地ぐらいの差があるように感じたが、他に仕事が出来るわけでもないし、それに仕事を与えられたという喜びもあった。だから、特に不満を漏らすこともなく、その仕事に従事することを決めた。
 団長から手渡された荷物は、麻で編まれた手提げバック一つだった。中を見ると、何かを布でくるんだ塊が見えた。それに触れようとすると、団長がこれ以上無いぐらいにネームズを怒鳴りつけた。
「いいか、それを開けるな! てめぇはただそれを届ければいいんだ! いいな!?」
 萎縮しながらも、ネームズは頷いた。

 指定された時間の三十分前になり、ネームズは小さなテントから出る。そして、街に向かって出発した。
 『ダンデライオン』は今、とある大きな街――僅かな期間しか留まらなかった為、ネームズはその街の名前を覚えていないのだが――で公演する事になっていた。その為、近くの空き地を借り、そこにテントを立てて準備をしていた。
 おつかいに行く場所は、その大きな街の中心街より少し外れた場所だった。スラム街という訳ではないが、それでも中心街と比べて貧相な建物が並んでいたことは今でも覚えている。
 渡された手書きの地図を頼りに、ネームズはその路地を歩いていく。路地は狭く、二人並べばもうそれで限界だった。あちこちに木屑やらゴミやらが散らばっており、見るからに汚らしかった。
 途中、ボロを纏った老人が地面に寝そべっていた。顔は髭だらけで良く見えない。近くを通ると、ろくに身体を洗っていないのか犬のような臭いがした。
 その浮浪者を見て、ネームズは言い知れない恐怖に駆られた。それと同時に、酷く悲しい思いに包まれた。視界が涙でぼやけていく。何故こんなにも悲しいのか、ネームズには良く分からなかった。
――なぜ、あんな所で寝ているんだろうか。
 そこには様々な理由があるのだろう。働きもしないからああしているのか、事業に失敗して落ちぶれてしまったのか、はたまた誰かに騙されて多額の借金を負わされてしまったのか。
――親に、捨てられてしまったのか。
 その可能性も否定出来なかった。親に捨てられ、ああして育ってきたのかも知れない。そう思うと、ネームズは更に悲しい気持ちになった。嗚咽が、漏れるほどに。
――あれは。
 あれは、もしかしたらそうなったかも知れないネームズ達の姿だ。もしもあの時、運良く『ダンデライオン』が通らなければ、ああなっていたかも知れないのだ。
 だからきっと、悲しいのだろう。見ていて、辛いのだろう。その可能性を、拒絶したいのだろう。
 そこから歩き始める。それは次第に早足となり、逃げるようにその場を去っていく。
「あっ!」
 足下を見ていなかった所為で、小さな段差に躓(つまず)いてしまう。その拍子に、麻のバックは宙を飛んだ。
 すぐに起きあがってそれを追おうとしたが、右足に鋭い痛みが走った。見ると、膝から血が出ていた。大きな怪我ではないが、走ることは出来なかった。
 やや片足を引き摺るような格好で麻のバックを拾いに行く。手に持ってみると、やけに軽かった。中身を見ると、あの塊が無かった。
 ネームズは慌てて辺りを見渡す。心臓が止まりそうだった。それが無くなってしまえば、おつかいは失敗だ。
 つまりそれは――。
 最悪の事態を想像し始めた頃、少し離れた場所にそれを見つけた。心の底から、安堵のため息を漏らした。
 布でくるんだ塊からは、白い粉のような物が溢れ出ていた。
 ネームズは砂糖か何かだと思い、興味津々に舐めてみる。しかし、何の味もしない。不味くはなかったのだが、あちこちにツバを吐いてその粉を口の中から出した。
 分量が減っていたら怒られると思ったネームズは、ばれないように、土と混ざらないように慎重に戻していく。一つまみ分ぐらいは地面に残ってしまったが、足で散らし、その証拠を消した。
 麻のバックにその塊を戻し、地図を確認しては空を見上げた。懐中時計なんて高価な物は持っていないので、丁度なのか、過ぎてしまったのか、それすらも分からない。
 とにかく早く辿り着こうと、足の痛みを誤魔化すために下唇を噛みつつ、その場所に向かって走り出した。

 その家の窓ガラスは全て割られ、その窓から見える室内に人の気配はなく、家具やら何やらまるで戦争でもあったかのように散らばっていた。
 思わず地図を見直す。二〜三度見直したが、ここで間違いないようだ。
 団長に言われていた通り、ノックをした後、
「雑貨屋です。荷物をお届けに参りました」
 そうネームズが言うと、ギィと蝶つがいの軋む音を立てて、扉が僅かに開いた。その隙間から、男が覗き見る。顔は陰で良く見えないが、鋭い眼だけが浮かんで見えた。
 思わず、息を呑んで驚いた。てっきり、人など居ないものだと思っていたからだ。
「荷物は?」
 低い、腹に響くような声だった。
 怖々と、麻のバックを掲げてみせる。隙間から腕が生えるように伸びてきて、それを奪っていった。
「……本物か。しかし、餓鬼使うとはあの野郎も考えたものだな」
 感心した風に、扉の向こうの男は言った。
「駄賃だ。とっとけ」
 そう言って、隙間からお札を一枚渡してくる。ネームズは怖ず怖ずと、それを受け取った。
「アメでも買って帰りな」
 その言葉を最後に、扉は閉められた。
 ネームズはお札を握りしめたまま、ただ呆然とその扉を見つめていた。帰れ、ということはこれでおつかいは終わりなのだろう。じわじわと、成功したという充実感が沸き上がってくる。しかし、たったこれだけなのかという物足りなさも感じていた。
 汗水垂らし、常に命の危険にさらされている姉と比べたら……。そう思うと、素直には喜べなかった。
 だがしかし、団長が言ったとおり、自分に出来る仕事はこれぐらいしかないのだ。出来る仕事があり、給料が貰えるだけマシと思わなければならないのだ。
 我が侭を言って、追い出されたら元も子も無い。そうなってしまったら、
――あの浮浪者のようになってしまうんだろうか。
 充実感と物足りなさが、そして奇妙な喪失感が入り混じった気持ちのまま、ネームズは帰路に就いた。

 ネームズはテントに戻り、団長におつかいが終わったことを報告する。
 何か言ってきたか、と団長が質問してきたので、アメでも買えと言われて駄賃を貰った、と素直に答えた。
 そうか、と団長は呟くように言い、満足そうに頷く。
「給料はてめぇの姉に渡してある。たまにはそいつで美味いもんでも食え」
 そう言って、団長はネームズの頭を軽く撫でた。嬉しいやら、気恥ずかしいやら、複雑な気持ちになる。
「……御苦労だったな」
 その労いの一言が、妙に心に残った。

 小さなテント――ネームズ達の家に戻ると、姉が心配そうな顔をして待っていた。
 良かった、と姉は安堵のため息を漏らしながら言った。
「お帰りなさい。心配していたのよ」
 そう言って、姉はネームズを抱き締めた。張りつめていたものから解き放たれたように、姉の激しく波打つ心音が伝わってきた。
――おつかい程度で、そんなに心配しなくても。
 街外れに行かされたとはいえ、姉に比べれば、怖さなど無いに等しい。そうネームズは思っていた。
 ずっと握りしめていたお札を姉に手渡すと、貰った給料とこれで美味しいものでも食べようか、と微笑みながら言った。
 そうしてネームズ達は、手を繋ぎながら大きな街の中心街へ向かった。
 手の中にあるのは僅かなお金。お店で食べるには、少し足りなかった。だから、普段食べないような食材を買うことにした。
 乾燥スパゲティーと、塩漬けトマト。そして、一番安かったワイン――。
 それから大きなテントの厨房を借り、姉とネームズは一緒に料理をした。姉もネームズも初めてスパゲティーを料理した所為か、勝手が分からず少し焦がしてしまう。
 しかしそれでも、そのナポリタンは美味しかった。焦げた味も、それはそれでまた独特な風味が出来て美味しかった。今まで生きてきて、一番美味しかったと、今でも思う。
「本当は駄目なんだけどね。今回は特別だよ」
 姉はワインをコップに注ぎ、それをネームズに渡す。それがお酒だということを知らず、ジュースか何かだと思ったネームズは嬉しそうに一気に飲み干してしまう。
 その瞬間、くらりと世界が歪んだ。
 顔が火照っていく。何故だが、何の理由もないがやけに楽しくなってきた。
 ただ笑う。何の屈託も無く、ただ純粋に、笑う。姉もまた、つられるように笑う。

 幸せとは、こういう事を言うんだろうか。ふと、そう思った。
 
 ※

 姉が十四歳の時、動物の餌やりから会計に仕事が変わった。
 学のない姉だったが、ハックや他の団員から計算の仕方や文字を教えてもらったのだ。その結果、誰よりも計算が速くなり、また文字も小難しい小説を読める程度にまでなった。
 また、四年間仕事をサボらず真面目に従事し続けたその業績が認められ、そしてハックからの強い後押しがあり、金銭を扱うという重要な役割を担うこととなったのだ。
 団員は元より、団長もそれには一切の異論を唱えなかった。四年も同じ日々を過ごせば、情が湧くのは当然である。
 そして動物の餌やりには、姉の前任者同様、浮浪者を就ける事になった。
 その事を誰よりも嬉しく思ったのは、恐らくネームズだろう。命の危険晒される事が、無くなったからだ。
 ネームズは相変わらず、『おつかい』を続けていた。もう八歳。まだ八歳なのだ。とはいえ、荷物の整理や掃除など、細々した仕事は任されることが多かった。おつかい分しか給料は出なかったが、それでも嬉しかった。

 ※

 ネームズが十歳の時、団長がそろそろ芸を仕込んでやると言ってきた。
 その芸とは、ナイフ投げである。
 ネームズは、それに酷く驚いた。ナイフ投げは、『ダンデライオン』の中でも花形の見せ物だからだ。
 胸躍る反面、大きな不安に駆られる。包丁すらろくに握ったことのない自分が、そんな大層な事が出来るのだろうか。
 しかし、世話になってきた団長の期待を裏切る訳にはいかなかった。だからそれは、やる、やらないの問題ではない。
 やらなければならないのだ。
 舞台となる大きなテントを挟んで、ネームズ達のテントとは反対側に位置する場所に連れて行かれる。そこには、ネームズ達のテントと大して変わらない大きさのテントがあった。
「ダージ、邪魔するぞ」
 団長が垂れ幕を捲り、その小さなテントに入る。ネームズはその後に続いた。
 入った瞬間、思わず顔をしかめた。臭い。鼻を摘みたくなるほど臭い。あまり嗅いだことのない匂いが、この部屋に充満していた。
 内装は至って質素なもので、テントを支える中央の柱と、その奥に傷だらけになった板があった。そしてベットと、傍らには寝酒用の酒が――いや、その本数は寝酒用というのはあまりに多かった。空になった瓶、飲みかけの瓶、まだ封すら開けていない瓶、大中小と様々にあるが、ゆうに数十本はある。まるで酒の展覧会だ。
 ベットには、蓑虫(みのむし)のように白い布団にくるまって誰かが寝ていた。恐らく、これがダージなのだろう。
「また昼間っから呑みやがって……。起きろ、このへべれけが!」
 団長は酷く不機嫌そうな声を出し、ベット本体を強く蹴った。その拍子で、地面に転がっていた酒が数本程倒れた。
「あぁー……もう、頭に響くから大声出さないでよ。五月蠅くてかなァないわ」
 甘ったるい声を出しながら、その蓑虫が姿を現した。
 ウェーブの掛かった、肩胛骨まで伸びた髪。いつも睡そうに見えるタレ眼。呑んだ酒がどこに消えるのかが分からない、スレンダーな身体。
 『ダンデライオン』の花形こと、『ナイフ投げのダージリング』である。
「あー……で、何?」
 今一つ焦点の合わない眼で、こちらを見る。ネームズと視線が合い、何故ここにネームズが居るのか分からない、といった様子で首を傾げた。
「あ、初めまして……」
 団員である以上、ダージを見かけたことは当然のようにあるのだが、ネームズがこうして話したのは初めてだった。別に近寄りがたいとかそういうのではない。何となく、話す機会を逃していただけだ。
「あー……はいはい。初めまして。で、この子がどうかしたって? って、あのねェ、団長。何度も言うけど、乙女の寝室に入って来ないでよ」
「何が『乙女』だ、この酒馬鹿が。てめぇが起きてこねぇから、いつもこうして来てやってんだろうが。あと、今日はコイツの指導しろって昨日言ったろ! 脳にまで酒が回って忘れたか!?」
 怒鳴るようにして言う団長に対し、ダージはのらりくらりとした様子で答える。
「あー……そうかもね。昨日新酒手に入って、思わず一気に呑んじゃったからねェ」
 ゴメンゴメン、とダージは対して悪びれた様子もなく謝ってみせる。
「酒を飲むな、とは言わん。だが、俺の言ったことまで忘れるまで呑むな! いいな!?」
 言われているのはダージなのにも関わらず、その迫力にネームズが竦んでしまう。しかし、ダージは、
「いやねェ、そこまで呑んじゃいけないってェのは分かってるのよ。でも止められない、止まらないって訳で」
 ゴメンゴメン、とダージはまた謝ってみせる。悪びれた様子はおろか、たじろぐ気配すらない。暖簾に腕押しとは、まさにこのことだろう。
 団長はついに、酷く苛ついたように頭を掻き、
「とにかくコイツにナイフの投げ方を教えてやれ! いいな!?」
 悔しそうに言い捨て、出口に向かって歩き出す。そして去り際に、
「くそっ、どうにも苦手だ……」
 そう呟きながら、垂れ幕の向こうに消えていった。
「あららァ、怒っちゃったか。相変わらず怒ってばかりだねェ、団長は」
 ダージはくすくすと笑いながら言った。先程までは二十代後半のように思えたその顔も、まるで少女のように幼く見えた。
 怒鳴り声は皆を萎縮させ、その存在感は鬼よりも怖い。そんな泣く子も黙る団長を、いとも簡単にかわしてしまった。もしかしたら影の団長はダージなのかも知れないと、ネームズは本気で思った。
「それで? ナイフを習いたいんだって?」
 ダージはベットの上で座ったまま、布団を腰巻きのように巻き付けたまま聞いた。
 はい、ネームズは頷きながら答えた。その返事と共に、覚悟は決まった。
「……ん〜、良い眼だ。どれ、まずはアンタが投げてみなさい。見本はその後」
 そう言って、ダージは奥にあった傷だらけの板を指さす。その手前に、腰ほどの高さがある小さな台に乗せられたナイフが数本見えた。
 ネームズはナイフを手に取ってみる。思っていた以上にそれは小さく、掌から僅かにはみ出す程度だった。柄は無く、刺さることに特化していることを強調するかのように、中腹から先端にかけて徐々に細くなっている。
 ダージが公演でやっていた投げ方を思い出しながら、構える。ナイフは眼より高い位置に構え、右足を後ろに下げる。
「あらまァ」
 後ろで見ていたダージは、感嘆の混じった声を出した。
 そして身体を前に突き出すように前足だけを運び、振り下ろすように投げた。
 放たれたナイフはくるくると縦に周りながら、傷だらけの板に当たった。そう、当たっただけだ。コン、と気の抜けた音が響き渡り、続いて落ちたナイフが無機質な音を立てた。
 ネームズはそれを見て、苦い顔になる。簡単な事ではないことぐらい分かっていたが、それでもやはり悔しかった。
「あっはっは、上出来上出来。初めてでそれなら、筋があるねェ」
 振り向くと、ダージはいつの間にか酒瓶を片手に持っていた。そして上機嫌に笑いながら、それを口に運ぶ。
 とどのつまり、ネームズのナイフ投げを肴にしていた訳である。
 それを見て、ネームズは更に苦い顔になる。
「あー……ごめんごめん。他のヤツのナイフ投げを見るなんて、滅多にない事だからねェ。つい、ね。つい」
 酒瓶を下に降ろし、ダージは立ち上がる。その際に、腰に巻いていた布団も落ちた。短いズボンが姿を現す。
「どれ、師匠になった以上はお手本を見せてやらないとねェ」
 ダージはこちらに向かって歩きながら、首を左右に振って骨を鳴らしたり、手を振ったりして軽い準備体操を行う。そして、ナイフを手に取った。
「形は悪くないのよ、形は。多分アタシのを見よう見真似で投げたんだと思うけどねェ。足りない所はいろいろあるけど、まァ見てなさいって」
 そう言って、ダージは先程のネームズと同じように構えた。テント内にあるのんびりとした空気が、一瞬にして張りつめた空気になった。
 形だけなら同じように見える。しかし、ネームズはその決定的な違いをひしひしと肌で感じ取っていた。
 ダージにから発せられるもの。それは、殺気に酷く似ていた。
 見据えているのは単なる板だ。しかし、一瞬ではあるがそれが人であるような錯覚がした。
 ダージは身体を突き出し、前足を運び、手を振り下ろすようにして投げた。その一連の動作は、滞りなく流れる水のようで、美しく感じられた。
 放たれたナイフを見て、ネームズは何故か『刺さった』と思った。実際に刺さったのは、それよりほんの少しだけ後である。名手であるダージが投げたとか、そういうのではない。直感的に、そう思ったのだ。
 タン、と小気味よい音がして板に突き刺さる。固い木にも関わらず、刃は半分以上埋め込まれていた。
「まァ、こんなもんかねェ」
 それを見て、ダージは戯けたように肩をすくめる。そして、ネームズの方に振り返った。
「百聞は一見に如かず。されど、見ただけでは知識に成らず、ってね。言葉でも説明しとくから、頭の片隅にでも留めて置きなさい」
 ダージはベットの方に向かって歩き出し、そしてどっかりと座った。酒瓶を手に取り、口の中を潤すように少しだけ呑む。
「まず、意識の違い。いいかい? ナイフを『投げる』んじゃァない。ナイフを『放つ』んだ。まァ、『当てる』んじゃァなくて『刺す』って言った方が分かり易いかねェ。ボールを『投げて』、『当てる』んならどんな馬鹿にだって出来る。そんなんじゃ、誰も銭はくれはしないよ。ナイフを『放って』、『刺す』ことは出来る人が少ない。だから、ご飯も食えるしこうして酒だって飲める」
 酒瓶を軽く掲げ、左右に振ってみせる。ちゃぽちゃぽと水音が聞こえた。
「そして、刺さった映像を思い浮かべること。言い方を変えれば、結果を想像しろってことよ。イメージトレーニングって訳じゃないけど、これはかなり重要だからねェ。まァ、想像する暇もなく投げても刺さる時は刺さるけど」
 ダージはぐいっと酒を呷る。こうして話している事自体が肴になっているようだった。
「最後に、これはもう当たり前のお話し。ひたすら練習よ。飽くなき反復練習を行うことによって、身体がそれを覚えて、さながら脊髄反射のようにナイフを放たれるようになるわ。どの角度で投げれば刺さるか。どのくらいの距離まで届くか。頭で考えなくても身体でそれを判断出来るようになれば、免許皆伝かしらねェ」
 もう一度ぐいっと呷ると、酒瓶は空になった。ダージはため息をはき、拗ねたような顔でそれを床に投げ捨てた。そして、また新しい酒瓶を手に取った。
 だいぶ呑んだのにも関わらず、顔色は全く変わっていなかった。恐らく、ザルなのだろう。大の酒好きで全く酔わない体質とは、燃費が悪いことこの上ない。
「新しいナイフと板は後でハックに準備させるよ。教えることは教えたから、あとは自己練習。じゃ、お休みねェー」
 喋るだけ喋って、ダージは言葉通りに寝てしまった。白い蓑虫は、数分もしないうちに静かな寝息を立て始めた。
 凄い人ではある。影の団長であり、ナイフ投げも名手と呼ぶに相応しい。しかし、
――変な人だ。
 そう、思わずにはいられなかった。

 ※

 以来、ネームズはおつかいと雑用、そしてナイフ投げの練習を並列して行っていった。
 初めの一ヶ月は、ろくに刺さりもしなかった。
 二ヶ月目でたまに刺さるようになったが、それでも刺さりが浅く、数秒も経たない内に抜けて下に落ちてしまった。
 四ヶ月目で、かなりの確率で刺さるようになった。しかし、刺さるだけであって、狙った通りの場所に刺さることは少なかった。
 七ヶ月目にして、百発百中とまではいかないにしろ、かなりの確率で狙った通りの場所に刺さるようになった。それを見ていたダージも、感嘆の息を漏らすほどだった。
 一年目になると、もはや師匠であるダージと甲乙付けがたい実力となっていた。これならいつ舞台に立てても大丈夫だと、ハックは嬉しそうに言った。
 しかし、ネームズには分かっていた。ダージは、『ナイフ投げのダージリング』と呼ばれ、今でも『ダンデライオン』の一番人気である。そして彼女の人気の秘密は、単にナイフ投げが巧いだけではないのだ。
 それは、ネームズに決定的に足りないもの。
 ナイフ投げの時に放たれる、あの殺気に良く似たものである。
 ただナイフ投げを見るのはつまらない。そこに緊張と恐怖があるからこそ、面白いのだ。
 人を的に仕立てたとしても、やはりダージが投げるときは他と完全に違っていた。
 その殺気が最高の緊張と恐怖を与えてくれ、そして成功したときには心の底から安堵のため息と歓喜が訪れるのだ。
 それは、殺されそうになり、そして助かったときの感情と酷く似ていた。
 本当に殺されそうになるのは誰だって嫌だろう。なにせ、本当に殺される確率だってあるのだから。
 だから観客は、この『ナイフ投げのダージリング』を見に来るのだろう。擬似的な、生と死の狭間を味わうために。
――それが、自分には無い。
 何をどうすればいいのか、ダージに一度聞いたことがあった。どうしたら、そんな風に出来るのかと。
 ダージにしては珍しく、苦虫を噛み潰したような顔をして答えた。
「相手を恨むのさ。瞬間的で良い。的となったそいつを、殺したいぐらいに恨むのさ。殺してやるぞ、殺してやるぞ、ってねェ。だから観客が感じるのは、殺気らしいものじゃなくて本当の殺気なのよ。……オススメはしない方法だけどねェ」
――相手を恨む。
 十一歳になるネームズには、それがまだ良く分からなかった。ただ、相手を恨めと言われて思い浮かんだのは、両親の顔だった。
 幼いときに見た所為か、それとも遠い記憶の所為か、或いは思い出したくもないだけか、顔は酷くぼやけて輪郭ぐらいしか思い出せなかった。
 恨むべき顔である。口減らしの為に、ネームズ達を捨てたのだから。
 しかしそれでも、両親を殺したいだとか、捨てられた恨み言だとかは、浮かんでこなかった。
 そもそも、その人らを両親だとは今一つ思えなかった。どこかで見た、赤の他人程度にしか感じられなかった。
 だから、赤の他人に捨てられたと感じているネームズにとっては、恨むどころか寧ろ当然のような気がしているのだ。赤の他人が、赤の他人の子供を育てる義務など存在しないのだから。
 ネームズにとっての親とは、姉ただ一人。唯一の肉親。頼るべき父親の代わりであり、慈しんでくれる母親の代わりでもある。多分その所為で、両親の存在がより一層希薄に感じられるのだろう。
 生活も安定している。姉には危険性の欠片もない。団員は皆快い人達で、不平や不満も特にない。
 恨むべき対象がないのだ。だからネームズには、相手を殺すほど恨むということが良く分からなかった。

 だが、だがもしも――。

 ※
 
 それから更に一年経ち、ネームズが十二歳の時、ダージが突然『ダンデライオン』を抜けることになった。
 勿論、ネームズのみならず皆がその理由を聞いた。しかし茶を濁すような答えしか貰えず、結局それは分からず仕舞いだった。
 だがダージは、小さなテントでネームズと二人っきりの時に、ふと疲れたような顔をして呟いた。
「ナイフをねェ、投げるのが怖くなったのよ。ナイフを投げれば投げるほど、どんどんアタシが磨がれるような気がするのよ。より鋭く、より鋭く、ってねェ。鋭くなりすぎたナイフは、どうすれば良いんだろうねェ……?」
 その問いに、ネームズは答えることが出来なかった。
 ダージは自嘲的に笑い、ネームズが練習用に使っていたナイフを左手に二本、右手に二本――計四本のナイフを手に取った。
「アタシがこの数年で得てしまった技を、アンタにあげるよ。置き土産ってヤツさ。ここの経営が傾いたら、使おうと思っていたんだけどねェ」
 そう言って、ダージはナイフを親指と人差し指の間に、そして人差し指と中指の間に一本ずつ挟んだ。
――まさか。
 そのまさかだった。ダージは、ナイフを四本同時に投げようとしている。
 ダージは構える。しかし、それはいつもと違った構えだった。
 左手を右肩の上に、そして右手はだらりと下げたままだ。右足を下げ、身体を斜に向け、上体を反らし――そして『放った』。
 最初に放たれたのは左手で、間髪入れずに右手のナイフが放たれた。
 放たれたナイフは、見事全て板に突き刺さった。
 ネームズは、ただ呆然とそれを見つめていた。言葉が出なかった。ネームズは、自分とダージに差があるのは重々承知の上ではあった。だがこれは、もはや見せ物の領域ではない。
 これは、これは――。
「これを覚えるのも覚えないのも、使うのも使わないのも、全てはアンタ次第。アンタだけに授ける、一子相伝の技よ」
 ダージは誤魔化すように笑い、
「なァんてねェ」

 そうして、ダージは『ダンデライオン』を去っていった。

 ※
 
 沢山の檻の中には、動物たちが居た。ライオン、犬、ヘビ……。いずれも見せ物として、この大きなテントの中に入れられている。
 テントは円形であり、中には少しの観客席と、その観客達を楽しませる小さな舞台があった。もっとも、雑草があちこちに生えている、単なる地面だったが。
 今そこの舞台では、団員の一人が――ハックが馬を走らせている。そして、掛け声と共に鞍の上に逆立ちになった。他の団員達から、拍手が沸き起こる。観客席から見ていた少年――ネームズもまた、惜しみない拍手を送った。
 ネームズは観客席から立ち上がり、テントを出る。それから少し離れた位置にある、小さなテントの中に入った。
 木のテーブルの上に置いてあるナイフを手に取り、掲げて見る。微かだが、刃こぼれのようなものがあった。ネームズは舌打ちをし、その近くに置いてある軽石にコップの水を掛け、研ぎ始める。
 一心不乱になって研いでいると、薄暗いテントの中に光りが差した。誰かが来たようだ。
「さぁ、出番だよ」
 逆行になっていて、顔はハッキリと見えない。しかし、そのシルエットと声ですぐに分かった。
「分かってるよ」
 それが、分からないわけがない。ただ一人の親。唯一の肉親。そして、大切な、大切な――。

「姉さん」

 ※



――そして、それは訪れた。



 ※

――赤い。

 目の前は、ただひたすら赤かった。
 観客席も、草の生えた舞台も、動物達の入っている檻も、テントの天井も、バラのように赤い斑点が散らばっていた。
 そして、テントの中に転がっているのは死体、死体、死体の山――。
 いつものようにおつかいへ出掛け、いつものように帰ってくれば、そこは地獄だった。
「あ……あぁ……」
 上手く呼吸が吸えない。
 身体が小刻みに震える。
 自然と涙が溢れ出てくる。
 思考が止まって、何も理解出来なかった。
 ただただ目の前の光景に恐怖し、凍り付いているだけだった。
 動物たちは漂う血の匂いに興奮し、騒ぎ立てている。それは、もはや調教されてきた動物達の姿ではなかった。本能が剥き出しの、獣そのものだった。
――嘘だ。
 信じたくなかった。
――夢だ。
 否定したかった。
――こんな、こんなことって……!
 これを現実だと、受け入れたくはなかった。
 これは現実ではないと、否定したかった。
 目の前に広がる光景が、あまりにも凄惨すぎたから。
 ハックが喉をかっ切られて死んでいる。
 団長は激しく抵抗したのか、あちこちに大きな傷を作っていたが、やはり喉を切られて死んでいる。
 死んでいる。誰もかもが、夥しい血の海に沈み、死んでいる。
「みんな……死んだ……?」
 呆然とした様子で、ネームズは言った。
 死んだのだ。皆死んだのだ。
 良くしてくれていたハックも、気難しいが実は優しい団長も、優しかった団員達も、全て……死んだのだ。

 ジャリ、と後ろから足音が聞こえた。

 少年は、本能的にそれを悟った。それは、迫り来る死の足音だと。
 頭では分かっている。逃げろ、と。逃げなければ、絶対に殺されると。
 しかし、身体は動いてくれなかった。ただただ、まるで木偶のようにその場に凍り付いているだけだった。
 さながらそれは、蛇に睨まれた蛙のように。
 さながらそれは、死神に魅入られたように。
――きっと僕もまた、殺されてしまうんだろう。

 本能が、死を覚悟していた。

「残っているのは、女と子供だけか……」
 死神は呟いた。それは、酷く悲しそうな声だった。
「許せよ、小僧。せめて、苦しまないよう一瞬で殺してやるから」
 無機質な音が聞こえる。少年はその音が何なのか、すぐに分かった。それは、日常茶飯事に聞いている音だった。
 柄から、ナイフが抜かれる音。
 死神の殺気に反応してか、動物達は更に騒ぎ立てる。まるで、これから始まる殺人を、心待ちにしているギャラリーのように。
――僕は、殺されるんだ。
 頭でも、そう理解してしまった。訪れる死を、受け入れてしまったのだ。
――姉さん。
 走馬燈のように、姉の姿が脳裏を過ぎる。
 心配掛けまいと、健気に笑いかける姉の笑顔。
 悲しいときに、懸命に励ましてくれた姉の言葉。 
 笑い、泣き、一緒に喜んでくれた姉の姿。
 そして、そしていつでも守っていてくれた姉の背中――。
――姉さんは、まだ生きているのだろうか。
 だとしたら、だとしたら、
――この僕を、また助けてよ。
「助けて……助けてよ……姉さん……」
 死神は鎌を振り上げ、そして――。

「待って!」

 テント内に響き渡る、姉の声。
――生きていた。姉さんは、生きていたんだ。
 そして物語に出てくる勇者のように、
――僕を助けに来てくれたんだ。
 鎌がまだ首に掛かっている状態なのにも関わらず、ネームズは安堵のため息を漏らした。
 もう大丈夫だと、もう心配ないと、そうネームズは思った。
 檻の一つがキィと錆びた音を立てて開く。それはライオンを入れていた檻で、姉はその中からゆっくりと出て来た。
 後ろにいた死神は、何故か残念そうに深いため息をはいた。
「弟を……私の弟を殺さないで! たった一人の……大切な弟なの……」
 姉は、死神に訴えるように言った。
「……姉弟か。弟の為に出てくるとは、立派な事だな」
 ネームズに向けられていた殺気が、ふと消えた気がした。思わず、後ろを振り返った。
 そこには、赤い男が居た。――いや、それは返り血で赤に染まったのだろう。少しではあるが、地の茶色が隙間から見えた。
 死神は鎌を――短刀と視線を姉の方に向けていた。
 そして横顔から見える、その眼にネームズは恐怖した。
――あれは、普通の眼じゃない。あれは、あれは――。

 人殺しの眼だ。

「出て来てどうするつもりだ? この私を殺そうとでも言うのか? それとも逃げるか? 姉弟仲良く手を繋いで、逃げてみせるか?」
 赤い男は、何故か怒ったように言った。
「何故……出て来たんだ? あのまま、隠れていれば……」
 そして、哀れむように深いため息をはく。
 姉は向けられている短刀に、恐怖しか感じられないその殺気に立ち向かうように、
「弟を……助ける為よ!」
 その死神を、睨み付けた。
 赤い男は、一瞬呆気にとられた様子を見せ、それから微かに微笑んだ。
「では……どうする? どうやって弟を助ける?」 
 姉はその問いには答えず、ゆっくりとネームズを見た。一瞬、姉は何故か申し訳なさそうな顔をした。それから、いつものように頼りになる笑顔を見せた。
 姉は跪く。そして、眼前で祈るように手を組んだ。

「私の命と代わりに……弟は見逃して」

 ネームズは思わず息を呑んだ。赤い男は、驚いたように大きく眼を見開いた。
「そんなの駄目だ! 駄目だ! 違う! そんなの……違う!」
 姉はちゃんと助けに来てくれた。だけど……だけどそれは違う。それでは意味がない。
 二人助からなければ、意味はないのだ。姉が死んでしまっては、何の意味もないのだ。
 やがて赤い男は諦めたような顔をして、姉に一歩近づく。
 それと同時に、ネームズは赤い男に襲いかかった。先程の恐怖など、もはやどこにも無かった。今はただ、姉を助けるという事で頭が一杯だった。
 ネームズは短刀を持っている腕を掴み、 
「姉さん!」
 赤い男を睨み付けたまま、後ろにいる姉に叫んだ。
 しかし、赤い男は蚊でも追い払うかのように腕を振り、ネームズを払い除けた。
「ぐぅ!」
 後方に弾き飛ばされ、頬が地面を擦る。その拍子で、腰のベルトに仕舞ってあった投げナイフが、無機質な音を立てて落ちた。
――これで。
 ネームズは起きあがりながらそれを拾う。そして、構えた。
――これで、殺してやる。
「……良い眼をしてるな」
 赤い男は身体の向きを変え、姉に向けていた殺気をネームズに戻した。
 息がつまるほどの殺気。身体が凍り付くような思いだった。
 しかしそれでも、姉を助けるためには動かなければならない。このナイフを、あの死神に当てなければならない。
 どんな公演の時よりも、それは酷く緊張した。元々、失敗が即的の死に繋がる演目ではある。しかし、的になるのは赤の他人。失敗したとしても、失うのは己の地位と尊厳だけだ。

 だが、今回は――。

 当てなければ、待っているのは姉の死。笑顔が、言葉が、背中が、全て失われてしまう。
――それだけは、それだけは……嫌だ。
 柄をぎゅうと握りしめる。全ての想いを、力を、この一刀に託し、

 そしてネームズはナイフを――放った。

 赤い男はそれを――難なくかわす。あまりにも簡単に、まるでボールでも避けるかのように。
 呆気なく終わった。ネームズの想いと力は、あの赤い男の前では無力に等しかった。
 それから赤い男は、ネームズに向かって歩き始めた。徐々に徐々に、一歩一歩踏みしめるように。
 呼吸が荒くなってくる。
 手が震えてくる。
――殺される。
 ネームズは急いでベルトに仕舞ってあった投げナイフを取り出そうとする。しかし、手が震えて巧く取れない。それどころか、地面に落としてしまう。
 慌ててそれを拾い上げようとしゃがむが、赤い男はもう既に――ネームズの目の前に立っていた。
 しゃがんでいたネームズに、赤い男は容赦なく蹴り上げた。身体は宙を浮き、そして右腕から地面に落ちていった。
 ポキリと、骨が折れる音が身体全体に伝わる。続いて襲いかかってきたのは、呻き声をあげずにはいられない激しい痛み。ネームズはまるで虫のように、地面をのたうち回った。
「大人しくしていろ。そうすれば……殺しはしない」
 そう言って、赤い男は身体の向きを姉に向けた。
――駄目だ。
 一歩、また一歩と近づいていく。
――やめてくれ。
 やがて赤い男は、姉の眼前に立った。
――それだけは、それだけは……。
「お前は死んで、弟は助かる。……それで、本当にいいのか?」
 姉は頷く。
「えぇ……ありがとう」
 赤い男は、それを鼻で笑った。
「殺される相手に、感謝をするとはな……」
 そうして死神は鎌を――銃を取りだし、

「私のために、殺さないだけだ」

 鼓膜に響く発砲音と共に、死神の鎌は姉に振り下ろされた。
 姉の胸から溢れ出てくる、夥しい血。そこには小さな穴がぽっかりと、空いていた。
 姉は静かに眼を閉じ、ゆっくりと、ゆっくりと前に傾いていった。
 そして音もなく倒れ、徐々に出来上がっていく血の海の中に、沈んでいく。
「あぁ……」
――姉さんが、姉さんが……。
 死んでいく。
「あぁ……あぁ……」
 死んでいく。ハックや、団長や、皆と同じように、死んでいく。
「姉さん……姉さん……」
 姉に近づこうと、ネームズは立ち上がる。しかし、足は言うことを聞いてくれなかった。匍匐前進でもするように、左腕を支えにし、身体を引き摺りながら姉に近づいていく。
 やがてネームズも血の海に浸り、俯せになっている姉をその海から救い出す。
 仰向けになった姉の胸から、小さな穴から血は止まりもせずに溢れ出ていた。ネームズはそれを両手で押さえるが、指の隙間からそれらは溢れていく。零れていく。
「姉さん……姉さん……」
 嗚咽の混じる声で姉を呼ぶ。しかし、反応は無い。
「姉さん……違うよ……駄目だよ……」
――死んじゃ駄目なんだ。これは……違うんだ。
 いつものように、笑いかけて欲しかった。
 いつものように、助けて欲しかった。
 だが、だがそれはもう――。
「…………」
 ふと、ネームズは姉が何かを呟いていることに気が付く。慌ててネームズは、耳を近づけた。
「ごめん……ごめんなさい……ごめんなさい……」
――何故、何故謝る必要があるんだ。
 こうしてネームズは生きている。姉のお陰で、ネームズは生きている。だから、だから謝るのは寧ろ、
――僕の方なのに。
 ネームズが呼んだから、姉は死んだのだ。
 助けを求めなければ、姉は死なずに済んだのだろう。
 あのまま、あの檻に隠れていれば。
 あのまま、ネームズを見捨てていれば。
 死なずに、済んだのだ。 
 姉は弱々と、天に向かって手を伸ばした。ネームズはそれを、強く、強く掴んだ。
 返すように姉はネームズの手を握った。満足そうに微笑み、

「ごめんなさい……アシュレイ」

 そうして、姉は事切れた。
「姉さん……!」
 手を握りしめたまま、ネームズは天に向かって咆えた。咆えずには、居られなかった。
 姉は、死んだ。皆と同じように、死んだ。生き残ったのは、ネームズだけ。しかし生き残れたのは、姉を犠牲にしての事だった。
――僕が死ねば……姉さんに助けを呼ばなければ……!
 何故あの時、呼んでしまったのかと悔やんだ。悔やんでも悔やみきれなかった。
 辺りを見渡すが、あの赤い男はとうに姿を消していた。
――あの時、当てることが出来れば。
 あの赤い男に当てることが出来れば、姉は死なずに済んだのだ。
 ダージのように、見せ物ではない『あの技』があったのなら、あの赤い男を殺すことが出来たのかも知れないのだ。
――力があったのなら。
 姉は、死なずに済んだのかも知れない。
――力があれば。
 あの赤い男を殺すことが出来るのかも知れない。
 そう、あの赤い男を殺すことが出来るのかも知れない。姉を奪った、あの赤い男を。
――力が、あの力が欲しい。
 ダージが置きみやげにしていった、『あの技』があれば赤い男を殺すことが出来るのかも知れない。
――恨めば。
 ダージがそうであったように、相手を恨むことによって技術が上がるというのであれば、
――いくらでも恨んでやる。
 恨みが、沸々と湧いてくる。
 殺してやるぞという恨みがあれば、あの赤い男を殺せるのだろう。
 殺してやるぞという恨みがあれば、姉の恨みを晴らすことが出来るのだろう。
 だったら、恨む。あの赤い男を、殺すほど恨んでやる。
――殺してやる。
 絶対に。
 何年掛かってでも、あの赤い男を捜し出して殺してやる。
 絶対に。絶対にだ。
 ネームズから全てを奪い去ったように、あの赤い男からも全てを奪ってやる。
――だから、姉さん。僕に、僕に、

 力を。


――あいつを、殺すだけの力を。





それから、五年が過ぎた。




――雨が降っていた。

 その街では、その名が記すとおり、よく雨が降っていた。一昨日も、昨日も、そして今日もだ。朝から降り続いているその雨は、結局夜になっても止みはしなかった。
 深い青色のレインコートを羽織った男は、晴れない鬱蒼としたその空を見上げ、軽いため息をはいた。
 男は、別に雨が嫌いな訳ではない。だがしかし、三日も日の光を浴びていないものだから、何と無しに憂鬱な気分になっていたのだ。
 男は、暗殺ギルドである『プライド』に属していた。通り名は『猟犬(ブラッド・ハウンド)』と呼ばれ、ギルド内でも高い地位を持っている。具体的に言えば、猟犬はギルド内でNo.4という実力者だった。基本的には仕事の成功数でナンバーが決まるが、それでも猟犬はそれに相応しい実力を兼ね備えていた。
 猟犬は、先週から続いていた仕事が終わり、つい先程この街へ着いたばかりだった。仕事自体は至って簡単だった。しかし、如何に実力を持っていようと行程距離を縮める事は出来ない。しかも、殺すのは太った中年を一人。猟犬は、まるでつまらないピクニックにでも出掛けたような気分だった。
 別に大量殺人を行いたい訳ではない。これが仕事だと思えば、我慢も出来よう。しかし、その歯ごたえの無さには大きなストレスを感じた。
 実力のあるボディーガードでも居れば、こんなにもストレスを感じることは無かっただろう。――いや、実力は無くとも、見張りの一人も居ればまだマシだったのかも知れない。
 殺したのは、太った中年を一人。ボディーガードも、見張りも居なかったのだ。肩すかしもいい所だった。
――面白くない。
 ここ数ヶ月、猟犬は歯ごたえのある仕事をしていない。また、実力者とも闘っていなかった。
 ギルド内では、裏切り者でない限り闘うことを禁じられているし、また仕事と関係のない殺しもしてはならないのだ。ただし、相手が殺しに掛かってきた時はこれの限りではないが。
――つまらない。
 スリルが足りなかった。命と命を奪い合う、あの緊張感が足りなかった。歯ごたえのない連中を殺しているだけなんて、まるで屠殺場に勤めているようだった。
 闘って、命を奪う。それが、猟犬にとっての一番の甘美なのだ。己の実力を持って、相手を屈服させる。その征服感こそ、彼が暗殺者となった理由である。
 そんな憂鬱な想いを抱きながら、猟犬は朝焼け通りをぶらついていた。辺りは既に暗く、店はとうに閉まっており、家々の明かりもぽつぽつと疎らである。雨の所為もあってか、出歩く人は皆無だった。
 本来ならばこの後、真っ直ぐギルドへ向かわなければならないのだが、何となく行きたくなかった。特に理由など無い。本当に、単なる気まぐれだった。

 その何となくが、猟犬と『彼』を引き寄せることとなった。

 ゆらりと、『影』が動いた。一瞬、猟犬は我が眼を疑った。それはまるで、陰から生まれ出でたように見えたからだ。
 しかし、よく目をこらしてみれば何て事はない。凹凸が、影と陰との境界線がハッキリと見えてくる。それは単に、頭の天辺からつま先まで真っ黒な衣服を纏っているだけだったのだ。
 そのシルエットから、猟犬はその影を男だと判断した。男は、黒いズボンに、黒い靴。そして、丈の長い黒コートを羽織っていた。
――同業者か?
 猟犬はそう思った。纏っている空気が、一般人のそれとは明らかに異なっていたからだ。
 他の暗殺ギルドと、こうして鉢合う事は少なくない。横の繋がりも無いし、仲良くし合う通りも無いのだが、無用な殺し合いをしないというのは暗黙の了解となっている。
 だから猟犬は、自分達のギルドが『プライド』であることを誇示する為に、腰に仕舞ってあった銃を取りだした。
 様々にある暗殺ギルドでも、銃をその証として所持しているのは『プライド』のみである。そして『プライド』は、トップに位置するギルドであり、つまりそれを見せるということは、手を出せば一族郎党噛み殺すぞと脅しているようなものなのだ。
 猟犬はすぐに引いてくれると思っていた。尻尾巻いて、逃げるだろうと思っていた。
 しかし、黒い男は笑った。――いや、実際には顔が影で覆われて見えないのだが、そう感じたのだ。
 それは、何かを確信したような笑いだった。
「ようやく……ようやくこれで……」
 黒い男はそう言ってから、心底疲れたようなため息をはき、
「あいつから、全てを奪える。あいつを……殺せる」

 瞬間、場が凍り付いた。

 黒い男から放たれた殺気が、空気を、そして猟犬を凍り付かせた。生きとし生けるもの全てを殺してしまいそうな、鋭すぎる殺気だった。
 猟犬はほんの数秒ほど、息が出来なかった。心臓が動いていないように感じた。今まで感じたどの殺気よりも、鋭く、おぞましく感じられた。
 死んだと思った。殺気を当てられただけで、脳が、身体が、心が、死んだと判断していた。
 それが、猟犬の癪に障った。
――出やがった。
 絶対に敵対してはいけない存在。絶対に対峙してはならない存在。
 それが、今目の前にいる。
――二人目の、死神だ。
 猟犬が見た死神は、これで二人目。一人は、今目の前にいるこの黒い男。そしてもう一人は――。
 引かなければならないのは、己だった。尻尾巻いて逃げなければならなくなったのは、自分だった。
 しかしそれでも、猟犬は逃げなかった。彼のプライドが、それを許さなかったのだ。
 猟犬は胸に左膝が当たるほどに屈み、右足を下げ、左手を地面に付け、右手でサーベルを抜刀した。その姿勢は、彼が『猟犬』と呼ばれるように、まるで獲物を狙う犬のようだった。
 黒い男もまた、既に構えていた。手にはナイフが――四本のナイフが握られていた。それも、両手である。
――遠距離か。投げナイフをかわす他に無いか。しかし……。
 『プライド』にも、投げナイフの使い手は居る。しかし、投げられるのはせいぜい両手二本であり、八本同時に投げる使い手など聞いたことも見たこともなかった。
 そもそもこの猟犬の姿勢は、相手との距離を詰める瞬発力を得る為のものであり、また投げナイフやボウガンといった遠距離からの攻撃に備えたものでもあるのだ。殺し合いの時、頭を狙ってくる者はあまり居ない。余程の自信があるか、或いはド素人のどちらかだ。なぜなら、的が小さいからだ。そして屈むという行為は、相手の直前上から見れば的が小さくなったのと同じなのである。
――数撃ちゃ当たる……か。
 八本全てが正確無比に猟犬を捕らえられるとは思わない。しかし、八本全てがある程度のコントロールが出来るのなら、それは厄介な事この上ない。それは、直線的な攻撃ではなく、面的な攻撃になるからだ。
 一本のナイフを容易にかわせるのは、左右に空間があるからだ。
 二本のナイフもまた、上下に、そしてやや遠くなってしまうが、やはり左右にまだ空間がある。 
 しかし八本のナイフとなれば、かわせる空間が極端に狭い。要は、隙間がないのだ。
――腕一本覚悟しての特攻……なんて事をすれば、確実に殺されるか。
 相手も馬鹿ではないだろう。遠距離であるのなら、その遠距離を維持するために、投げた直後に後ろに下がるだろう。いくら瞬発力があるとはいえ、二投目までの距離を稼がれたらそこでお終いだ。
――となれば、やはり一つしかないか。
 それは、最もシンプルな方法。そして、猟犬が最も得意とする方法。
――ナイフをかいくぐって、喉笛をかっ切る。

 覚悟を決めたと同時に、猟犬は地を蹴った。そしてそれと同時に放たれる、八本のナイフ。

 辺りは依然として暗く、微かに漏れる月明かりに照らされ、その八本の凶器は妖しく光り、そして八個の狂気となって猟犬に襲いかかってくる。
 雨が降っているのが逆に幸いか。光るそのナイフが背景から浮いて見えるため、位置、そして軌道が容易に分かった。
 猟犬が想像していたよりも、その面攻撃は不規則な配置で、それでいて実にかわしづらい配置となっていた。
 だがしかし、猟犬が屈んでいる所為か、ナイフは全体的にやや下を狙っていた。
 隙間が、上にあった。
――詰めが甘かったな。
 猟犬は犬のような態勢のまま、上に高く飛んだ。ギルド内でも一、二を争う身体能力を持ち備えていたからこそ出来た回避である。
 飛んできた八本の凶器を、八個の狂気を猟犬はかわしきった。

 だがしかし、猟犬の眼前には――『九本目』のナイフが、妖しく光っていた。 



「眼んたまに一撃、心臓に一撃、おまけに切り傷ねぇ……」
 短髪の男――狂人は死体となった猟犬を覗き込むようにしゃがみ、感心したような呆れたようなため息をはいた。
 久しぶりにお天道様が顔を出したが、照らし出されたのは、朝焼け通りに横たわる死体。片眼が潰れ、胸には刺された痕があり、そして腹には何か文字が書かれてある変死体である。
 猟犬が殺されたという第一報を受けた『プライド』は、偶々予定の無かった二人――狂人とBSの二人を視察、兼死体処理に向かわせた。
 朝焼け通りはさぞ大騒ぎになっていることだろうと思っていたBSだったが、全くの逆で、人っ子一人居らず、左右にある大通りの話し声が聞こえてくる程静かだった。その死体を『プライド』のメンバーと知ってか知らずか、朝焼け通りの人々は家から一歩も出ず、見てみない振りをし、カーテンの隙間からその様子を伺っていたのだった。
「蜘蛛、てめぇはどう思う?」
 狂人は振り返り、後ろに立っていた長い黒髪の女――BSに意見を求めた。
「どうって?」
「何でもいい。分かった事を全部言え」
「もう少しぐらい、限定して言って欲しいものね。……まぁいいわ」
 肩をすくめ、心底呆れ返ったようなため息をはいた後、
「まず、猟犬が殺されたのは昨日の夜でまず間違いないでしょうね。馬車の業者には裏がとれてるわ。血溜まりが出来ていないのも理由の一つ」
 そう言って、BSは猟犬の死体に眼を向ける。狂人もつられるように視線を戻した。
 BSの言うとおり、胸を刺されたのにも関わらず、また腹が切り刻まれているというのに、血はほとんど出ていなかった。――いや、洗い流されたのだろう。
「次に、多分最初に眼をやられたんでしょうね。それから、胸を――心臓を刺された、と」
「根拠は?」
 狂人は死体を見つめたまま言った。
「逆はまずないからよ。腹の傷は無論殺した後に傷つけたものでしょうし。心臓を刺した後に、目玉を刺す?」
「ふん、全くだな。で、この文字の意味は? 癖字が酷くて読めやしねぇ」
 狂人は腹の傷文字を指差す。
「あぁ、それね」
 BSは二歩程前に出て、狂人の肩越しにそれを覗き込むようにして傷文字を凝視した。
「『姉……痛み……』? もう、読みづらいわね」
 完全に解読できたBSは、思わず首を傾げた。

「『姉の痛みを思い知れ』?」

 何と無しに狂人の方を見ると、眼が合った。
「ふん、まるで恨み言だな。復讐でもしたってのか?」
「かも……知れないわね」
 狂人は冗談で言ったのかも知れないが、BSにはそれしか考えられなかった。
 他のギルドは元より、『プライド』に手を出す輩など皆無に等しい。それは、警察も、軍隊も同じである。

 今から二年程前、BSがまだ『プライド』に入って間もない頃に、軍隊が二個中隊を引き連れて潰しに掛かってきた事があった。
 原因は、その指示を出した中佐の親友を暗殺したことにあった。暗殺したのは、『プライド』の長であるトラである。
 多勢に無勢、三十人――出払っていた者も居たのでその時は二十人も居なかったが――では、総勢百名を越える軍隊に敵うわけもない。
 結局、アジトは焼き払われ、逃げ遅れた六人の仲間は処刑された。
 トラは、それに悪鬼の如く怒った。そして、『プライド』を総員して往復することを決めたのだ。
 それから一週間後、指示を行った中佐はおろか、現場に居た大尉二人、中尉五人、他多数が文字通り首が飛んだ。飛ばされた首は、その中佐が居た支部に置き土産としてプレゼントされたという。
 団体戦では絶対に敵わないだろう。しかし、常に団体で居る事など有り得ないのだ。
 例えばそれは、トイレ。
 例えばそれは、寝室。
 四六時中見張り、個人になった瞬間を狙えば、絶対に勝てる。団体戦で強い者ほど、個人では弱いものだ。
 その事件があってから、『プライド』が手を出すことはあっても、『プライド』に手を出す輩は居なくなった。

 そう、昨日の夜までは。

「で、ベルセルク(狂人)。弟か妹に復讐される覚えは?」
 狂人は、その質問を鼻で笑う。
「数え切れないほど、な」
 しゃがんでいた狂人は立ち上がり、
「しかし……猟犬を殺るとは、また面白そうなアウトロー(無法者)が来たもんだな」
 そう言って、酷く上機嫌な様子で笑った。
 面白いかどうかはさておき、BSもその辺りが気になっていた。
 この『レイニー・タウン』に於いて、『プライド』というギルドは半ば公然の秘密となっている。――いや、暗黙の了解と言ってもいい。皆、その存在に見て見ぬ振りをしているのだ。
 尽きることのない水を与えてくれるこの街は、干ばつに苦しんだ人達にとっては理想郷に等しい存在であり、また農業を営む者にとってもこれほど立地条件の良い土地は無い。
 『プライド』という暗殺ギルドがありながらも人口が増える一方なのは、彼らは依頼を受けない内は全くの人畜無害であるからだ。しかしその反面、手を出せば一族郎党の死を意味する。逆を言えば、何もしなければ何もしないのだ。故に、皆黙認しているのである。
 だから、例えどんな恨みを持っていようと、ここの住民は『プライド』に手を出すことは一切無い。だからこれは、流れ者の犯行と思うのが至極当然だろう。
 しかし、気になる点が残る。
 一つは、胸に刻まれた文章である。『姉の痛みを思い知れ』と書かれてあったのだが、これはまだ復讐が終わっていないという事だ。この文字は殺した後に刻まれたものであり、つまりは猟犬以外に向けての恨みのメッセージなのだ。
 もう一つが、そのメッセージは誰に向けてのものなのか、という事だ。BSは真っ先に狂人を思い浮かべたが――今もその可能性が一番強いと思っているが――他の人の可能性もあるのだ。無論、BS本人もである。
 更に――いや、これが一番重要であろう。暗殺ギルドでもトップを誇る『プライド』の、No.4である猟犬が実質一太刀で殺られているのだ。不意をつかれたとか、何か卑怯な手で絡め取られたという可能性もある。だがそれは、寧ろ暗殺者の十八番の筈だ。それを上回ったというのであれば、それだけでも相当な実力者ということになる。
 しかし、如何に相当な実力者であろうと、狂人の言うとおりそれはあまりにも無謀で、無法者過ぎる。
 何もここの街に限った事ではない。それは暗殺ギルト全てに通ずる道理である。

――『プライド』には手を出すな。手を出せば、一族郎党噛み殺されるぞ――。

 ※

 それからBSは『掃除屋』に死体処理を依頼し、報告するためにアジトに戻ることにした。
 狂人は一足先にアジトへと戻っていた。その間も終始上機嫌で、まるでやって来た復讐者を歓迎しているようだった。――いや、恐らくそうなのだろう。狂人は、そういう輩なのだ。
 『プライド』は、黄昏通りの中程に店を構えている。以前の襲撃で焼き払われたが、同じ場所に立て直したのだ。店の看板も『プライド』と書かれており、何も隠すことなく、大通りにさも当然のようにそれはあった。BSもまた、他のメンバー同様臆することなくその店に入っていく。
 店に入ると、すぐにまた扉が現れ、左手には小さなカウンターがある。カウンターの中には、さも面白く無さそうな顔をしたタレ眼の女が座っていた。美しいというよりは愛らしいという部類に入る顔であり、身長もまた動物的な可愛らしさを秘めた小ささだった。
 入店したのがBSだと気付くと、タレ眼の女はすぐに表情を取り繕った。
「お帰りなさいませ、ビューティフル・スパイダー<美しき蜘蛛>」
「フェシカ。えぇ、ただいま」
 そう言いながら、BSはギルドの証である銃を取り出す。それをカウンターに置こうとすると、フェシカは不安そうな声で問う。
「やっぱり……猟犬さんは死んでましたか?」
「完膚無きまで、ね」
 BSは冗談めいた口調で言った後、
「……もしかすると、これからここは大きく荒れるかも知れないわ。その時は、さっさと逃げなさい」
 フェシカは、単なる受付嬢であり、殺しのスキルなど何も持っていない。フェシカはここの出身であり、単に計算と文字が書けるという理由で雇われた。――いや、もしかすると出迎えてくれる犬や猫のような存在も兼ね備えてなのかも知れない。現に、BSはそれに近いものを感じていた。
 だからこそ、死なせたくなかった。この街が荒れる前に、出て行って欲しいと願っていた。復讐者が、『プライド』に関わる人物全てを殺そうとしている可能性は、否定出来ないのだから。
「逃げるって……どこにですか?」
「それは自分で考えなさい。死にたくなかったら……ね」
 BSがそう答えると、フェシカは不安そうな顔になり、縋るような眼でBSを見つめた。冷たく言い払ったのにも関わらず、それを見た瞬間、どことなく放っておけなくなってしまった。その瞳はやはり、餌をねだる犬や猫を連想させた。
「……出る時には一言言いなさい。少しぐらいは手助けしてあげるわ」
 カウンターに銃を置きながら、BSは何故か疲れた様子で言った。
 フェシカはその不安そうな顔から、花開くように笑い、嬉しそうに感謝の言葉を述べた。

 ※

 扉を開けると、その中では阿鼻叫喚が響き渡る戦場と同じように、血と乾いた空気が、そしてまとわりついてくる殺気が漂っていた。多少慣れたとはいえ、BSはそれに気圧されずにはいられなかった。
 部屋の中は広く、多数のテーブルと椅子があった。他にといえば、メンバーが置いていった酒やら武器やらがあるだけで、暗殺者の溜まり場らしいといえば溜まり場らしかった。
 BSは軽く視線を漂わす。多少疎らとはいえ、いつもと比べればほとんど席が埋まっている状態だった。二十数人居る『プライド』のメンバーが、ほぼ全員緊急召集されたようだ。
 その一番奥には、片腕としての沽券を表すかのように狂人が座っていた。そしてその隣には――。
「さて、蜘蛛よ。現状報告をしてもらおうか」
 果たして、誰がこの男を初老を迎えた年齢だと思うだろうか。
 その、生気に満ちあふれた顔。
 その、無駄のないしなやかな筋肉。
 通り名に『最強』の称号を得ている、暗殺ギルドの王。
 名だたる暗殺者達を統べるに相応しく、悠々とした様子で壁に寄り掛かっていた。

「分かりました。……『最強のトラ』よ」 

 ※

 BSは、猟犬がどのように殺されたのか、それから胸に刻まれてあった文字、そしてこれは『プライド』に居るメンバーの誰かに対する宣戦布告、または復讐の予告であることを説明した。
 それを聞いたメンバーの反応は様々だった。怯える者。怒る者。猟犬と親しかったのか、悲しむ者。そして、喜ぶ者――。
 それからBSは、これは個人の犯行だということを告げた。二人以上の実力者がこの街に来たのなら、まずBSの耳に入る筈だし、個人的な復讐なら個人でやるはずだと思ったからだ。
 トラはこれに対し、犯人の――復讐者の調査、そして夜道は二人以上で歩くようにと言った。それは、対策という対策ではなかった。子供や婦女が身を守る術と何ら変わらない。
 しかし、相手が個人である以上、或いは特定出来ない以上、有効な策はそのぐらいしかない。そして敵が個人であるのなら、こちらが団体となって襲えば良いだけだ。それが、一番の良策だと言えよう。
 短い会合は終わり、各々のタイミングで席を立ち上がっていく。BSもまた、その復讐者の情報を集めるためにその場を後にしようとした。
 ふと、BSはトラに質問したくなった。狂人にもした、あの質問を。
「『最強のトラ』よ。貴方に心当たりは?」
 トラは天井しかない宙を見上げ、まるで何かを懐かしむかのように眼を細める。
「あぁ……何人かはな」
 そう言って、片頬に深い皺を寄せて笑った。
 BSがその笑い顔を見たのは、二年程前、彼女がこの『プライド』に入ることをトラ本人に告げた以来の事だった。



 雨の降る中、黒い衣服を纏った男が道端で膝をつき、しゃがみ込んでいた。
 黒い男の眼下にあるのは、死体。つい今し方、黒い男が殺した死体である。
 ほんの数分前まで生きていたそれは、人間としての生涯を終え、物言わぬ『物体』に成り果てていた。
 黒い男は腰に付けてあるベルトからナイフを取り出し、死体となったそれの腹に、文字を刻み始める。
 ありったけの、恨みを込めて。
「見てよ姉さん……。今日も殺したよ。姉さんを奪ったように、今日も奪ってやったよ」
 一文字一文字刻む度に、それからは血が滲み出る。しかしそれも、雨によって洗い流されていく。
「ちゃんと見ててよ姉さん……。アイツを殺すんだ。全部奪ってから、俺にしたように、それから殺してやるんだ……」
 全ての文字を刻み終え、黒い男は雨雲に覆われた天を見上げる。
「姉さん……まだ笑ってくれないのかい? アイツを殺すまで……笑いかけてはくれないのかい……?」
 見えない誰かに、黒い男はそう説いた。答えは、帰ってくる筈もない。
「まだ……ちくしょう……」
 雨に打たれている事も気にもせず、黒い男はふらふらと立ち上がり、細い小道へと消えていった。



 誰もがそれを、すぐに終わると思っていた。
 復讐者が企てた復讐劇は、未完のままに、冒頭の口上を述べている内に幕が下りるだろうと思っていた。かくいうBSも――もう一人ぐらいは殺すかと思っていたが――皆と同じように思っていた。
 しかし、猟犬が殺されてから三週間、その惨劇は今尚続いていた。
 惨劇の最大の理由は、トラの言った対策をとっていなかった事だ。つまり、殺されたメンバー全てが夜道を一人で歩いていた事にある。
 怯えていた者は、当然のように二人以上で肩寄せ合い、おっかなびっくりで歩いていたそうだ。だから、その対策をとっていた者は一部例外を除いて、皆助かっていた。例外で死んでいった者は、夜道をきちんと集団で歩いてはいたが、ふらりと一人で人気のない路地に行ってしまったことにある。路地に行ったのは、立ち小便をする為という漫談にもならない嘲笑ものの理由だった。
 そして怒る者、悲しんでいた者、そして喜んでいた者達は全て、朝焼け通りを一人で歩いていたそうだ。
 無論それは、突如として現れた復讐者を誘い出すため。そして、自分自身の手で殺すためだ。
 皆『プライド』の為に死んでいったと、フェシカは泣きながら言っていた。しかしBSは、そうは思わなかった。
 結局、彼らは殺し合いが好きなのだ。三度の飯よりとまではいかないが、それでも人生に於ける必要不可欠なスパイスであることには間違いない。殺しが嫌いであれば、暗殺者などやる筈もないからだ。好きだからこそ、仕事として暗殺者を選んだのだ。
 だから、『プライド』の為などという大義名分など無い筈だ。口ではそう言うかも知れないが、結局は自分の快楽の為であり、己の趣味を全うするために復讐者に殺し合いを挑み、そして散っていったのだ。
 自業自得というほかに無い。――いや、それはもしかしたら暗殺者としての本能なのかも知れない。
 復讐者という遠火に惹かれ、蛾の如くに集まり、そして焼かれて死んでいくのだ。
 焼かれて死んだ仲間を見ても尚、火に近づくことを止めず、そして数を重ねていくのだ。
 そうして、死んでいった。二十人は居たメンバーの約半数が、その遠火に身を焼かれた。
 No.4の猟犬を始め、5〜8、そしてNo.10が復讐者に殺られた。それより下の者も、何人か殺られた。
 文字通り暗殺は全て暗闇で――夜に行われた。更に、犯行をばれにくくするためか、これも全て雨の日に行われた。偶然か意図してか、場所は全て朝焼け通りにて惨殺劇が繰り広げられていた。そして、どの死体にもあのメッセージが刻まれていた。
 『姉の痛みを思い知れ』
 このメッセージを見る度、その姉はいったいどのような痛みを受けたのだろうかと、BSはふと考えてしまう。そしてそれを刻んでいる復讐者は、いったいどのような気持ちでこのメッセージを残しているのか、少し気になった。
 復讐したいという気持ちは、BSにも痛いほど分かるからだ。
 約束通り、BSは恐らく関係のないと思われるフェシカを遠くの街へとやった。事務仕事も、斡旋してあげた。
 まるでそれがきっかけのように、『プライド』を脱退していく者が次々に現れた。ナンバー外の者が一人減り、二人減り、終いにはNo.3とNo.9が『プライド』を去っていた。
 残ったのはNo.1――長である『最強のトラ』と、No.2――その片腕である狂人。そしてランク外だったメンバーが数人残るだけとなった。その時にはもう、遠くへ出払っている者を入れたとしても十名にも満たないという、小さな暗殺ギルドへと格下げされていた。
 そして、朝焼け通りには血の雨が降り注ぐと真(まこと)しやかに囁かれ始め、いつしか朝焼け通りは『血の雨通り』と呼ばれるようになっていた。誰かが怪談調にそれを語り、雨の日には誰かが殺される――実際に殺されていた訳だが――と口を伝って伝染病のように広がり、そして恐怖という病を生んだ。殺されるという恐怖は、例え今住んでいる街が理想郷だったとしても、立ち去るには充分すぎる理由だった。
 誰もがその復讐者に恐怖した。しかし、誰一人としてその復讐者を見た者は居なかった。
 『蜘蛛』の名に相応しく、BSには蜘蛛の網のように張り巡らされた情報網がある。しかしそれをもっても、有力な情報は何一つとして得られなかった。
 他の暗殺ギルドでもない。
 この街の者の犯行でもない。
 名だたる暗殺者を狩り、街全体を恐怖に陥れた張本人――復讐者は、いったいどこから流れてきたのか。
 そしていったい、誰に復讐しようとしているのか。
 それは、誰も知らなかった。

 ※

「クソッ、馬鹿にしてやがる! 巫山戯てんのか!?」
 誰に言うでもなく、狂人は罵声をあげながら椅子を蹴り飛ばした。飛んでいった椅子は違う椅子にぶつかり、両方とも足が折れ、椅子としての役目を失った。
「止めなさいよ。これ以上椅子を壊したら、座る場所が無くなるわよ」
 BSは、呆れた顔でそれを見ていた。狂人が壊した椅子はこれで二十個目であり、机も五つほど単なる木屑に変えてしまった。
 ギルド内は今、二つの意味で荒れていた。
 一つは、雰囲気が荒れていた。メンバー内に不穏な空気が漂い、一部では次は自分の番ではないかと肩を抱いて震え、怯えていた。終いには、身内の――トラの仕業ではないかと言う輩まで現れた。だが、その発言をした数分後には、狂人の手によって死体に変えられていた。
 二つめは、建物が荒れていた。壁には穴が空き、壊れた椅子と机があちこちに散らばり、割れた瓶の欠片もまた散乱していた。最も、その多くの原因は狂人だが。
「潰すぞ蜘蛛。腹が立つんだ。散々殺しておきながら、いざって時に出て来やしねぇ!」
 狂人が腹を立てているのは、メンバーが殺された事ではない。そんな感情など、彼には微塵もないだろう。
 何故か、あの復讐者が出てこないのだ。狂人が夜、雨の日にあの『血の雨通り』を歩いていても。
 一部では、狂人に恐れをなして出てこないのだと囁かれていた。しかし、BSにはそうは思えなかった。寧ろ、敢えて殺さないでいるように思えた。
 あのメッセージが、何よりの証拠である。
 『姉の痛みを思い知れ』というメッセージを残し続けているのは、復讐者が復讐相手に向けての怨言(えんげん)であり、宣戦布告でもある。しかし、未だにそれが実現されていない。
 殺す度にそのメッセージが刻まれているのは、復讐相手に対する怨言であると同時に、殺しに行くぞ殺しに行くぞという脅しでもあるのだ。それは、誰かが怪談調に語った事と何ら変わりない。とどのつまり、恐怖を煽っているのだ。――いや、味わわせていると言った方が正しいのだろう。だからそれは、怨言というよりは、呪言(じゅげん)に等しい。
 死という絶対的な恐怖を味わわせてやる為に、復讐者は『プライド』のメンバーを殺し続けているのだ。
――なんて。
 なんて復讐劇だろうと、BSは感銘を受けた。
 国の為ではない。
 誰かのためではあるが、それも少し違う。
 自分自身の復讐のために、誰がどうなろうと構わずに、ただただ己を貫くその意思に尊敬すら覚える。
――狂っている。
 人間として、狂っている。だがしかし、狂わなければ、望む復讐を果たせないのだろう。狂っているからこそ、このような復讐劇をするのだろう。
――そうね。きっと、そうあるべきなのね。
 復讐とは、酷い目に遭わされた者がその相手を酷い目に遭わせ返す事。ならば復讐者は、そのような酷い目に遭わされたのだろう。だからこそ、こうした復讐劇を繰り広げているのだろう。
――もしも、もしもこの復讐劇に幕が降りてしまったのなら……。

 再び復讐劇の幕を上げようと、BSは心に誓った。

 ※

 その夜、BSは二週間振りに『STRANGE(ストレンジ)』で食事をすることにした。
 黄昏通りにあるアジトから出て、夕焼け通りに通ずる脇道を通っていく。上を見上げると灯火はなく、皮肉なことに星空がより綺麗に見えた。
 BSはこの街に来てからずっと、ほぼ毎日『ストレンジ』に通っていたのだが、二週間も行っていないというのは初めての事だった。
 理由は特にない。ただ何となく、気乗りがしなかっただけである。
 にも関わらず、今日行こうとBSが決めたのは、別に一段落した訳でもなく、かといって大層な理由がある訳でもない。行かなかった時と同じで、ただ何となく、無性に行きたくなっただけだ。
 『ストレンジ』は、『血の雨通り』――朝焼け通りの下の方にある。それもまた、皮肉としか言い様がなかった。
 カツカツと、静まった街にBSの靴音が響く。同行者は誰も居ない。BS一人だ。
 雨は降っていないが、復讐者が気まぐれでBSを殺しに来る可能性もある。誰がどう見ても、愚かとしか言いようのない行為――自殺行為だった。
 しかしBSには、復讐者は出てこないという自信があった。――いや、殺しに来ないという確証があった。
 不思議な事に、復讐者は街の住人を含め、女を誰一人として殺していないのだ。
 『プライド』のメンバーには、BSの他にもう一人の女の暗殺者が居た。もう既に、街を去って行ってしまったが。
 通り名は『夜具(ナイト・ベット)』と呼ばれ、娼婦の振りをして暗殺をする。低俗ではあるが、侵入不可能と思われる建物でも、色艶ごとに弱い大将などには大いに有効だった。
 その彼女が――去る直前に聞いたのだが――実は猟犬が朝焼け通りを訪れる少し前に、一人でぶらぶらと歩いていたそうなのだ。にも関わらず、殺されなかった。
 単に偶然かも知れない。殺すに値しないと判断したのかも知れない。しかしBSには、女は敢えて殺さないでいるように思えて仕方がないのだ。
 もしも予想に反し、BSの前に姿を現したのなら――その時は、話し合ってみたいとBSは思った。あわよくば、仲間に――復讐者の復讐の手伝いと、自分自身の復讐のために協力しても良いかとも思った。
――甘い考えね。
 事が思い通りに運ぶのなら、苦労はしない。もしも思い通りに運んでいたのなら、とっくの昔にBSの復讐は終わっているからだ。
――本当に欲しいものは、いつだって手に入らないもの。
 疲れたように、ため息をはいた。
 BSは夕焼け通りを横切り、そして朝焼け通りに通じる脇道に入っていく。身体が勝手に、まるで気合いでも入れるように大きく深呼吸をしていた。
 復讐者が殺しに来ないという確証はある。しかし、それと緊張するのは別物である。どれだけ頭で安全だと思っていても、制御できない深層意識では危険だという警鐘が激しく鳴らされていた。
――私が正しいか、或いは間違っているか。
 論より証拠。BSが朝焼け通りを歩けばすぐに分かることである。しかし、間違えば――それは死に繋がる。
 『血の雨通り』は、より一層赤に染まる事だろう。
――もしも間違っていたとしても、いずれ殺されるに違いないわ。
 この復讐劇は、復讐相手本人ではなく、その周りの人物を殺しまくることにある。それでこそ、一人残らずの勢いでだ。だから、BSの持論が間違っていたのなら、今ここで復讐者が出てこなかったとしても、大した実力を持たないBSではいずれ殺されてしまうだろう。
 決意と諦めが入り混じる。そしてBSは――『血の雨通り』に足を踏み入れた。
 心なしか、空気が違っているように感じた。――いや、それは単に気のせいだろう。ここに復讐者が息を潜めて獲物を待っているかも知れないという恐怖が、そう感じさせているだけなのだろう。ほとんど表の暗殺をしないBSでも、そうであるのかそうでないのかぐらいは分かる。
――これは違う。今は――居ない。
 頭でも、本能でもそれを分かったのか、心の底から安堵のため息を漏らした。


 『STRENGE』と書かれた看板を見上げ、それから入り口にある階段を降っていく。
 四、五段ほど降ると、黒いチョッキと白いYシャツを着た初老の男がいつものようにグラスを丹念に磨いているのが見えた。
 もう一段降りた所で、一番奥の席に誰かが居るのが眼に入る。
――あら、珍しいわね。
 この『ストレンジ』では、BS以外の客は滅多に来ない。――いや、BSは自分以外の客を見たことがなかった。
 果たしてそれで経営が成り立てるのかどうかはほとほと疑問ではあるが、現実こうして店を開いているのだから、どうにかこうにか成り立っているのだろう。店名通り、『奇妙』という他にない。
 階段を降りきり、迷うことなくいつものテーブルに座る。
「いつものをお願い」
 BSのいつもの、というのはサンドイッチと『ビーフィーター』というジンのセットである。時折メニューを変えたりするが、基本的にはこれしか頼まない。
 初老の男は頷き、手慣れた手つきでサンドイッチを作り始めた。それを見届けてから、BSは奥に居る『誰か』に眼を移した。
 生気のない顔をした男だった。カーキ色の長袖を着ており、ズボンは黒い。髪も黒く、肩に掛かるほど長かった。
 男はナポリタンを食べているのだが、時折深いため息をはいたり、疲れたように項垂れたりと、酷くくたびれているようだった
――これが件の復讐者だったりね。
 自嘲混じりに、BSはそう思った。
 未だに復讐者の姿を見た者は居ない。だからこそ、自分以外の人物全てにその疑いを掛ける必要がある。あるにはあるのだが、いくらなんでもこの男を復讐者と疑うのは馬鹿げている、とBSは思った。
 人を殺すどころか、まず男自身が死んでいるのだ。眼が、顔が、死人のそれとほぼ同じだった。触れただけで粉々となり、灰となって何処かへと飛んでいきそうだった。
――疲れているのかしら。
 毛筋ほどとはいえ、この男を復讐者ではないかと思ったことに嫌気が差した。全員を疑って掛かる必要があるとはいっても、疑心暗鬼になっては見えるものも見えなくなり、見えないもの――存在しないものが見えるようになってしまう。終いには、夜道に悪魔の姿を見てしまうかも知れない。
 疲れと嫌気が混じったため息をはくのと同時に、無機質な金属音が静かな店内に響いた。そして、生気のない男はゆっくりと立ち上がった。どうやら食べ終わったようだ。
 ポケットに手を入れ、無言で飯代分の金をカウンターに置く。それから幽鬼のように上体をゆらゆらと揺らしながら、出口に向かって歩き出した。
 その途中、帽子掛けの所に掛けてあった黒いコートを手に取り、ゆっくりと羽織る。
 その時、懐かしい臭いがBSの鼻孔をくすぐった。嗅いだことのある匂いである。しかし、思い出せない。遠い昔に――つい最近も何度か――その匂いを嗅いだことがある筈だというのに、何故か思い出すことが出来なかった。
 香水とも違う。料理の匂いとも違う。花でも、果物でも、表現することの出来ない生活臭でもない。だが絶対に、この匂いを嗅いだことはある。それだけは確かだった。
 黒ずくめとなった男は階段を昇っていく。それを、BSは何となしに見ていた。
――恋人にでも振られたのかしらね。
 その背中は酷く矮小で、哀愁が漂っていた。愛していた人を失ってしまったような、そんな哀れで惨めな背中だとBSは思った。
 コトリと、テーブルに注文していたサンドイッチと『ビーフィーター』が置かれる。
「マスター、今の客は?」
 BSは正面に視線を戻しながら聞いた。
 しかし、初老の男は答えない。微かに横に首を振り、返答を拒絶していた。
「客のプライバシーは守るってわけかしら?」
 食器を片付けながら、初老の男は頷く。
「……まぁいいわ。別に聞いたってしょうがないし」
 全くもってそうだった。復讐者ではないと断定したのにも関わらず、何故詮索するような事を聞いたのだろうか。生きているのか死んでいるのか分からないあの男など、興味の対象外だというのに。
 ただ、何かが引っかかる。
 言葉では言い表すことの出来ない、胡乱で靄(もや)掛かった酷く曖昧なものだが、それでも何かがあるとどこかで確信している。それは、『勘』以外のなにものでもない。
 サンドイッチを一囓りし、『ビーフィーター』を一飲みする。それからあの男と同じように、無言でポケットから金を置いて立ち上がった。
 何かがあるかも知れない。しかし、何もないかも知れない。だがそれでも、追いかけようと思った。
 あの、儚く、今にも砕け散ってしまいそうな背中を。


 階段を駆け上がり、店を出て朝焼け通りに出る。左右を見渡すと、あの男は右の離れた場所に居た。
 頬に降り注ぐ雫。雨が、雨が降り始まろうとしている。この『血の雨通り』に、雨が降ろうとしている。降るのは恵みの雨か、それとも――。
 追いかけようと一歩踏み出した。しかし、奥に居るもう一人の男を見て、思わず立ち止まってしまう。
 『最強のトラ』が、そこに悠然と立っていた。
――何故、そこにトラが居るの?
 当然のように沸き上がる疑問。そして、当然のように沸き上がってくる新たな疑問。

――何故、あの男の前に立っているの?

 トラとあの男が対峙している。それが何を意味しているのか、あまりにも突然の出来事過ぎて理解できなかった。 
「あぁ……覚えてる。今でもハッキリと、鮮明に覚えている。姉さんも、覚えているだろう?」
 男は天を仰ぎ、酷く懐かしそうに、そして酷く悲しそうに言った。
「その、人殺しの眼を」  

 瞬間、場が凍り付いた。

 放たれるおぞましい殺気。生きているもの全てを殺してしまいそうな、鋭すぎる殺気だった。
 一瞬、BSは呆気にとられた。恐怖も、驚きも、何もない空っぽの状態になった。
 そして次の瞬間には、完全に恐怖の虜となっていた。
――怖い。あれは、怖い。あれには、近づいてはいけない。近づくだけで、きっと殺されてしまう。
 浴びているだけで死んでしまいそうな殺気が、BSの身体を蝕んでいく。
 身体が震える。歯が鳴る。呼吸が荒くなっていく。逃げることはおろか、立っているのがやっとだった。
――本当に、先程の男なの?
 あの生気のない顔はどこに行ったのか。
 あの死んだ眼はどこに行ったのか。
 今ではさも嬉しそうに満面の笑みを浮かべ、野生動物のそれと変わらないぎらぎらとした瞳がトラを睨み付けていた。
 ただ、ただ背中だけは変わらなかった。儚く、今にも散ってしまいそうだった。
「そうか……お前だったのだな。私も覚えているぞ」
 トラもまた、酷く懐かしそうに言った。この殺気にたじろぐことなく、いつものように悠然としている。
「良い……眼になったものだな。復讐心が、お前をそうさせてくれたのだな。そうだ、それで良い」
 トラは、何故か嬉しそうに言った。まるで、こうなることを望んでいたように。
「この五年間……ずっと貴様を殺すことだけを考え続けてきた。貴様を殺すために、ナイフを投げ続けてきた。全てを奪ってから貴様を殺すつもりだった。でも……もう我慢出来ない。姉さんの痛みを思い知れ。藻掻き苦しめ。苦しめ。死ね。死ね。死ね! それが、姉さんの望んでいることなんだからなぁ!」
 手前にいたあの男が咆え、そして抜刀する。――いや、指と指の間に挟めるだけ挟んでいる。その数、八本。
――それが。
 それが、数多の暗殺者を殺した技か。それが、『姉の痛み』を思い知らせるための技か。
――なんて。
 恐ろしい技なんだろうか。そして、
――なんて、美しい姿だろうか。
 それは、酷くちぐはぐだった。顔には狂気の笑みを浮かべ、瞳は人殺しの眼をし、両手には『最強のトラ』を――復讐相手を仕留めようと八本の凶器を今にも放たんとしている。にも関わらず、背中だけが、背中だけは何故か小さく感じられた。儚く、今にも散ってしまいそうだった。
 それに、BSは見取れていた。絶対的な恐怖の他に、淡い恋心を感じながら。
「それが……この五年間で生み出した技か。そうだ、それで良い。それでこそ、待ち続けた甲斐があるというものだ」
 トラもまた、腰に下げていた二本の短刀を抜き放った。そして、右手を順手――内側に構え、左手を逆手――外側に構える。胸の前で腕を交差させ、柄を合わせる。二本の短刀は、まるで一枚の刃のようになった。
 一瞬の静寂が訪れた。雨はいつの間にか強くなっており、ざあざあと雨音だけが響いていた。
 微かに漏れる月明かりが、二人の姿を、そして凶器を照らし出す。片や八本。片や二本。どちらの狂気が勝り、そして凶器が血に染まるのか。どちらの血が――この『血の雨通り』に降り注ぐのか。
「さぁ、闘おう。さぁ、殺し合おうではないか。お前の姉にしたように、私を殺してみるがいい。復讐心を、全てぶつけてみるがいい」
 手前の男――復讐者が動いた。それと同時に、奥の男――『最強のトラ』が地を蹴った。

「そうだろう? 阿片の少年よ」
 
 復讐者から放たれる、八本の凶器。八個の狂気。復讐を果たさんと、トラに向かって飛んでいく。
 そこでBSは、思わず眼を閉じてしまった。
 ついさっき、それでこそ一言も会話を交わしていないのにも関わらず、惚れてしまったあの男が死ぬのを見たくはなかった。あの技でトラを射殺す事が出来るかどうかは分からない。ただ、結果としてどうなろうと、見たくなかったのだ。
 愛する人が目の前で死んでいくのは、もう二度と見たくなかったから。
 ほんの数秒だったと思う。何かが弾かれる音の後で、何かが激しく壊れる音がし、驚いてBSは眼を開けた。
 たった数秒の交戦。しかし、勝者は一目瞭然だった。

 勝ったのは――『最強のトラ』だった。

 敗者となったあの男は、左方にある壊れた木箱の中で仰向けになって倒れていた。血は流していない。どうやら接近されたトラにそこまで殴り飛ばされたか、蹴り飛ばされたかしたらしい。
 勝者となったトラは、あの男を見下しながら、肩で息をしていた。そして、顎からは――血を流していた。あの『最強のトラ』が、名も知らぬ復讐者に切られたのだ。
 BSは、初めてトラが血を流しているのを見た。――いや、初めて切られたのを見た。通り名である『最強』が指し標すように、トラは紛れもなく最強であり、負けたことはおろか、誰かに切られたことすらないと思っていた。
 トラは『最強』ではある。しかし、決して無敵ではないのだ。
「貴様が……貴様が死ぬまで!」
 あの男は木箱の中から起きあがろうとする。しかし、跳ぶようにして接近してきたトラに腕を踏まれ、それは阻まれた。
「殺す……殺してやる……!」
 身を捩ってそれを振り払おうとするが、無駄だった。勝敗は既に決しているのだ。藻掻けば藻掻くほど、滑稽で哀れさが増すに過ぎない。
「殺す……殺す殺す殺す!」
 だがしかし、それでもあの男は藻掻いた。藻掻き続けた。
 トラは大人しくさせるために、腹を思いっきり踏みつけた。あの男は苦しそうに嗚咽を漏らしたが、それでも尚藻掻くことは止めなかった。
 トラは疲れたような、呆れたような深いため息をはき、今度は右手を思いっきり踏みつけた。そして、もう一度。
 傍目に見ても分かる。あれは、腕を折っているのだ。腕を折って、大人しくさせようとしているのだ。
――なぜ、殺さないの?
 そう思わずにはいられなかった。それとも、散々痛めつけた後で殺そうというのか。それは――あまりにも残酷すぎる。
 トラは左腕も折る。あの男は、声にならない呻き声をあげた。BSは、思わず眼を背ける。
「もう一手……もしもお前にもう一手あったのなら、私を殺すことが出来ただろうに」
 切られた顎を撫でながら、トラは言った。
「だが、お前はこうして負けた。姉の弔いに失敗した。私を殺すことは出来なかった。それで、満足か? 姉の仇すら討てなくて、それで満足か?」
 両腕を折られ、満身創痍になったあの男は、それでも尚復讐心に満ちた眼でトラを睨み付ける。
「貴様を殺すまで満足するものか……! 貴様を殺すまで、姉さんは満足しないんだ……! 貴様から、全部奪うまで!!」
 それを聞いたトラは、何故か微かに笑った。それは、望み通りの反応だったからか。
「そうだ、それでいい。お前を、『プライド』に入れてやろう。暗殺者として更に腕を磨け。研磨しろ。そうしたら、もう一度だけチャンスをくれてやる。私を、殺すチャンスをな」
 そう言って、トラは振り返った。
「待て……待てよ! 何故殺さない! 貴様の仲間達を殺したんだぞ!? 悔しくはないのか!? 俺を恨まないのか!? 姉さんを殺したように俺も殺せ! じゃなきゃいつか貴様を殺すぞ! 絶対に殺すぞ! 死にたくなきゃ、今すぐ俺を殺せ! 殺せェ!」
 こちらに向かって歩いてくるトラに向かって、あの男は咆え続けた。聞こえているのかいないのか、トラは振り返ることなく歩を進める。
 トラがBSの横を通り過ぎるとき、
「あいつの治療を頼む」
 そう、肩を叩きながら囁くように言った。BSはその理由を問いただそうと振り返るが、トラは既に姿を消していた。すぐそこにある脇道に入ってしまったらしい。
「ちくしょう! ちくしょう!!」
 折れた両腕に構うことなく、あの男は立ち上がった。しかし、それで限界だった。一歩も進まないうちにあの男は、前のめりになって倒れる。
「姉さんが……! 姉さんが……!」
 俯せになったまま、あの男は折れた右手で何かを掴もうとする。しかし、そこには何もない。あるのは、虚空か落ち行く雫だけだ。
「あぁ……姉さんが……待って……消えないで……」
 まるで虫のように身体をくねらせ、見えない何かに向かって地面を這っていく。
「あぁ……」
 その呻き声を最後に、救いを求めるように上げていた手が力無く地面に落ちた。傍目に見ていても分かる。目の前にあった何かが、消えてしまったのだろう。彼にとって、大事な何かが。
 目の前にいるのは、もはや『血の雨通り』の復讐者ではない。生気のない顔、死んだ眼をした哀れな被害者だった。
 音の無くなった『血の雨通り』では、雨がより一層強く感じられた。ざあざあと、止めどなく雨は降り続ける。今宵は、血の雨は降らなかった。代わりに降り注ぐのは、あの男の、涙雨――。

 両腕と共に、男の心もまた、折れてしまった。

 ※

 それから数ヶ月、腕が治るまで男は診療所で死んだように大人しくしていた。
 腕が治った後は、『プライド』のメンバーとなり、本当の暗殺者として活躍することとなった。トラに一太刀を浴びせたとして、晴れてNo.3の称号を得ることとなった。BSもまた、No.5の地位を得た。とは言っても、単に人数が少なくなり、繰り上げになっただけだが。
 『血の雨通り』には、それ以降血の雨が降らなくなった。しかし、去っていった住人や、『プライド』のメンバー達が戻ってくることはなかった。
 BSには、如何にして男が『プライド』に入ることを了承し、あまつさえ人殺しを生業とする事を決めたのか、その心情を知らない。興味はあったが、結局一度も質問をしたことはない。
 狂人は、男が『プライド』のメンバーになったことを酷く怒っていた。恐らく、同じギルド同士での殺し合いが出来ないからだろう。更に、トラに一太刀浴びせたという事実を知った狂人は、今までにないぐらいに上機嫌な顔を見せた。しかしそれも、復帰した男を見るまでだった。
 もはや死人と何ら変わらない様子の男を見て、狂人はさもくだらなさそうな深いため息をはいた。完全に興味を失ったようだった。
 そう、男はBSが初めてあったときのように、生気のない顔をし、死んだ眼のままだった。
 数ヶ月ぶりにトラと対面しても、それは変わらなかった。怒りも、悲しみも、憎しみも、その表情からは何も感じ取れなかった。
 折れた両腕は治っても、一度折れた心はもう――二度と戻らない。
 BSはそれが悔しくもあり、そして嬉しくもあった。
 男の――後に『三つの名前を持つ男(スリー・ネームズ)』と呼ばれるようになった男の復讐劇は、ここで幕を閉じた。

 だがそれは、BSにとっての新しい復讐劇の幕開けでもあった。



第三章「夕焼け通りに赤い空の落日が」

 ※

 あれから四年、ネームズはただ生きてきた。気ままな時間に起き、空腹を満たすためだけに飯を喰らい、時折過去のことを思い出しては後悔し、ごくたまに生活のために人を殺し続けてきた。
 復讐を誓ってからの五年間は、良くも悪くも充実はしていた。投げられるナイフが一つ増えるごとに、これで復讐が出来るんだと喜びを感じていた。しかし、トラに負けてからの四年、何をしてきたのか、良く覚えていない。全てが胡乱で、曖昧で、誰かを殺そうが誰かに殺されそうになろうが、現実感はほとんど湧いてこなかった。
 殺すのも殺されるのも、本当は嫌いだ。しかし、ネームズは暗殺を稼業としている。矛盾している。酷く、ちぐはぐだ。
 それでも殺し続けるのは、そこに姉の幻影を求め続けているのだからかも知れない。
 死だけが、もはや姉との繋がりとなっている。
 血の匂いだけが、あの日の姉を思い出させてくれる。
 誰かの死を見る度に、姉の影を感じることが出来る。
 病気だ。病んでいる。それだけの為に、暗殺業を続けているのだ。それだけの為に、誰かを殺し続けているのだ。
 それに、酷く嫌気が差している。もうこんな事は止めようと、何度も思った。
 しかし、それを変えようという心は無かった。――いや、四年前までにはあったが、もう既に折れて壊れてしまっている。
――そう、オレはもうとっくの昔に壊れているのだろう。
 感情の起伏が薄く、感覚もどこか鈍い。何かをしたいという意思も無く、欲求もただ何となく満たしているに過ぎない。人間として、もはや壊れている。
 壊れてしまったのなら、後は消えて無くなるしかない。ただ――死ぬだけだ。
――ある意味、レイチェルは正しいのかもな。
 レイチェルは、自分を殺してくれる誰かを探していた。それはある意味、合っているのかも知れない。
 両親を殺され、その殺された張本人に売り払われ、強制的に恥辱にまみれさせられ――。
 それでも尚、生きていたいと思うだろうか?
 そうしても尚、生に縋りたいのだろうか?
――オレなら、死を選ぶだろうな。
 そう、思った。
 レイチェルもまた、感情の起伏が薄い。それは、両親が殺された時か、或いは時によって擦れて無くなったのかは分からないが、ネームズ同様壊れているのだろう。
 壊れているから、死を望んでいるのかも知れない。
 壊れていると自覚しているから、死を望んでいるのかも知れない。
 正しい。それは、寧ろ当然だと思った。
 死だけが、レイチェルをその苦しみから開放してくれるのだろう。
 死だけが、レイチェルをその苦しみから救ってやれるのだろう。
 死だけが――。
――だけど、死なせたくない。
 間違っているのは、自分だと自覚している。他人の事情に――自分の生き死にを決めるのに、首を突っ込むなんてどうかしている。
 所詮、他人は他人なのだ。他人は、どこまで行っても他人なのだ。家族でさえ、最も近い他人に過ぎない。
 己の人生を決めるのは自分であり、自らの死を選ぶのも自分である。他人がどうこういう問題ではない。
 だが……だがしかし、それでもネームズは、
――死なせてたまるか。
 何故死なせたくないのか、ネームズは自分でも分からなかった。
 命を助けられ、飯を二度御馳走になった。その程度の仲である。
 姉に似ているわけでもないし、好みのタイプというわけでもない。
 散々殺してきたくせに、今更誰かを死なせたくないと思うのはおかしいと自分でも分かっている。
 だがそれでも、レイチェルが死ぬのを――誰かに殺されるのは嫌だった。
 どれだけ否定的な意見を思っても。
 どれだけ死を望むのは正しいと思っても。

 レイチェルが死ぬのを、見たくはなかった。

 随分と長く郷愁に浸っていたらしく、山間から雲で滲んだ光りが溢れ始めていた。全てが暗闇に染まっていた朝焼け通りにも光りが差し込み、陰と陽を作っていく。
 やがて太陽が出始め、眩しいほどの光が――朝陽がネームズを照らす。その眩しさに、思わず眼を細める。
 それを、美しいと思った。自然が見せるどうだこうだというのではなく、直観的に、ただ美しいと思った。
 しかし、右手の小道から現れた誰かによって、それは遮られた。逆光の所為で、顔はおろか全体が黒いシルエットにしか見えない。
「朝日でも拝みに来たのか? それとも誰も居ない教会の代わりに、ここで懺悔しようってか? なぁ、『名前野郎』」
 名前野郎……そう呼ぶのは一人しか居なかった。
「狂人……か。何の用だ? 貴様こそ、ここで懺悔するべきだろうよ」
「ハッ、そんなもんするかよ。懺悔なんぞ弱い奴がするもんだ。貧相な神父が発行した免罪符なんぞ要るか」
 そう、狂人は吐き捨てるように言った。
「それよりも……」
 狂人は鼻で大きく息を吸い、そして口で息をはいた。
「血の雨が降ったのは四年前だってのに、まだ血の匂いがするなぁ、ここは。それだけ大量に殺したってわけか。『プライド』メンバー達の血が、地面に染みてるのかも知れねぇなぁ」
「あぁ、殺したよ。何人もな。だから、どうした? 貴様が仲間の敵討ちでもしようってのか?」
「ハッ、馬鹿馬鹿しい。あいつらを仲間だと思ったことなんぞ一度もねぇさ」
 狂人の言ったことは、恐らく本当だろうとネームズは思った。
 アジトで会う時の狂人は、仲間を見る眼をしていない。敵を見定めるときのそれと、酷く酷似していた。
「だったら何の用だ? トラの――老人の介護はしなくて良いのか?」
 舌打ちが聞こえた。顔は見えないが、恐らく怒りの形相をしていることだろう。大概の軽口など効きはしないのだが、トラのこととなると別である。
「てめぇこそあの淫売の所に行かなくていいのか? 今日の朝まで世話になってたんだろ? 身体中に臭いが染みついてるぜ?」
 それを聞いて、無意識の内に歯を噛んでいた。
 狂人と同じだ。大概の軽口は流せるが、レイチェルの事となるとどうにもならない。怒りは湧いてこないが、身体が勝手に反応している。
「人がどこでナニをしてようと、貴様には関係の無いことだろうが。用がないなら穴倉に帰れ」
 それを、狂人はさも可笑しそうに嘲笑う。
「本当に? 行って、確かめなくていいのか?」
 意味深な物言いだった。それは、遠回しに何かが起きていることを示唆しているようだった。
「……何をした?」
 顔は黒いシルエットになっていて見えない。しかし、恐らく――いや、絶対に人を馬鹿にした笑みを浮かべているに違いなかった。
「何をしたって聞いてんだ!」 
 抜刀しようと、腰に手をやる。しかし、迂闊にも投げナイフを差し込んでいるベルトは、テーブルの上に置いたままだった。仕方がなく、予備として装着していた投げナイフを懐から取り出す。だがしかし、その本数はたった二本だけ。トラの片腕である狂人と闘うには、あまりにも心許なかった。
「逸るなよ。その内分かるさ。これからオレが何をしようとしてるのかが、な」
「その内?」
 ネームズは左手を右肩の上に、そして右手はだらりと下げたままにする。右足を下げ、身体を斜に向ける。
「安心しろ。今、ここで殺す」
 その言葉に、狂人は肩を揺らしながら、とても嬉しそうに笑った。
「そうだ。それだ。やはりてめぇは、そうでなくてはなぁ。そうだろう? 『復讐者』よ」
 狂人が喋り終えたその刹那。ネームズは両手のナイフを放った。
 逆光になっているとはいえ、相手はハッキリと補足できている。ナイフも、狙った通りの位置に飛んでいく。
 しかし、狂人はそれを難無くかわした。その場から一歩も動くことなく、身体を斜に傾けるだけでそれをかわしてしまった。
――やはり、無理か。
 こうなることは、予想できていた。かつてネームズが殺した猟犬よりも、その身体能力は上なのだ。たかだか二本のナイフを投げただけで、仕留められるわけもない。
「逸るなっつってんだろうが。せっかくお膳立てしてやったのに、ここで殺り合ったら全部パーだ。勿体ねぇ」
 牽制か威嚇のつもりで投げたのだが、どうやらそれにも値しないようだった。
「悪いが残り時間が少ねぇんだ。出来るだけ早くオレの所に来い。準備万端にしてな。そこで……」
 何かを言いかけて、狂人はそれを止めた。そして、嬉しそうに肩を揺らして笑う。
「じゃあな。ちゃんとお姫様を助けに来いよ、勇者様」
 短い別れの言葉を告げると、黒いシルエットは元来た道――右手の小道に消えていった。

 ※

 部屋に戻ると、そこはがらんどうだった。
 いつものように、質素で味気がなく、そして誰も居ない空間がネームズを出迎えた。
 予想していた何パターンかの内の、最も最悪なパターンが外れ、ほんの少しだけ胸を撫で下ろす。
 何の解決にもなっていない。しかし、この部屋が血に――レイチェルの血で染まっているのは見たくなかった。
 九年前に――愛する姉を失ったときのように、近しい人が死に逝く姿など、もう二度と見たくなかった。
――攫われたのか? それとも、単に帰っただけなのか……?
 前者の可能性が一番強いだろう。しかし、後者の可能性も否定出来なかった。前と同じように、何の脈絡も無しに仕事に帰り、ここへ戻ってくる可能性もあった。
 だがしかし、狂人の言動から考えても、攫われたと断定すべきだろう。お膳立てと言っている以上、何もしていないわけがないのだ。
――狂人は、何がしたいんだ?
 それが、理解出来なかった。
 わざわざレイチェルを攫い、どこかにおびき寄せるような真似をして、何をしたいのか?
 殺すだけなら、狂人の腕ならいつ何時でも出来よう。つい数日前にも、殺されかけたのだから。
 動きが全く見えない。思考が全く理解出来ない。レイチェルがどこに攫われたのか……分からない。
――BSを、頼るか。
 それしか方法が思い浮かばなかった。あれだけ目立つ存在なのだ。BSなら、その動きを把握しているかも知れない。
――恐らく、これも。
 狂人の予想通りなのだろうと思った。情報戦となれば、BSを頼らざるを得ない。狂人は馬鹿ではない。そのぐらい、予想しているだろう。
 しかし、BSが狂人の仲間になったとは思えない。自惚れた言い方をすれば、あれだけネームズに惚れた素振りを見せておきながらだ。だから、ネームズの仲間になることはあっても狂人の仲間になることは絶対にない筈である。
――俺に、何をさせようというんだ?
 分からない。しかし、狂人が言ったように、その内分かることなのだろうか。
 だがしかし、レイチェルを助けるためにはそれに乗っかる他ない。狂人が描いた、構図通りに。

 ※

 ネームズはアジトである『レインボー』を目指し、小道を通って夕焼け通りに出る。
 夕焼け通りを下っていくと、『RAINBOW』と書かれた看板が眼に入った。そしてその下には、紫の上着と黒いタイトスカートを着た長い黒髪の女――BSが立っていた。まるで、ネームズが来るのを待ちかまえているようである。
――もう既に分かってるのか?
 そうとしか考えられなかった。
「BS!」
 少し離れた位置から、ネームズは大声で呼んだ。
「来た……のね」
 BSは振り向きながら、ため息混じり言った。
「事態は把握しているか?」
 そう言っている間に、ネームズはBSの所に辿り着いた。
「えぇ……狂人がついに動いたわ」
「どこへ行った? 場所は? レイチェルはまだ生きているのか?」
「落ち着きなさい。そんなの……貴方らしくないわ」
 BSは伏し目がちに言った。
――らしくない、か。
 BSの言うとおり、ネームズは自分自身でも、らしくないと思った。
――柄にもなく、動揺している。
 レイチェルが攫われて、動揺している。それは、紛れもない事実だった。
「……狂人の居る場所を言う前に、質問させて」
「質問? 何故今?」
「いいから。それが貴方に情報を提供する条件よ」
「分かった。答えられるのなら、な」
「答えてもらわなくちゃ、困るのよ。それによって、私の動きは大きく変わるのだから」
 BSはネームズの眼を見た後、口元辺りに視線を下げる。それから一拍子置き、
「前に、貴方から依頼を受けていたわね? 首筋辺りに刻印がある少女――レイチェルを捜して欲しいって」
「あぁ、でも今はそんなことは関係ない――」
「関係あるのよ。大いに、ね」
 そう返されることを予想してか、BSはすぐにネームズの言葉を遮った。
「首筋に刻印を付けられてるのは、奴隷の証拠。そしてそんな刻印の付け方をするのは、この辺じゃたった一人しか居ないのよ」
 BSは貯水池の方――丘の方を見上げた。ネームズもつられるようにその方向を見る。
 貯水池から少し離れた位置に、その城のような屋敷は建っていた。屋敷の周りには柵があり、侵入者に備えて棘のついた金網が張られてある。
 あの建物を、この街で知らぬものは居ない。その地位を誇示するかのように、まるで下々の者達を見下すかのように、そびえ立っていた。
「『丘の上の領主』……彼はそう呼ばれているわ。無論、知っているでしょう? この『レイニー・タウン』の持ち主よ」
「生粋の児童性愛者が領主とはな……。腐ってやがる」
 吐き捨てるように、ネームズは言った。そして、気が付いた。
「……まさか、その話は繋がっているのか?」
「えぇ、そうよ。そうじゃなきゃ、今話さないわ。狂人は、ここ数日間その『丘の上の領主』の所に通っている。そしてついさっき、その中に入っていくのを確認できたわ。その少し前に、レイチェルと思われる白い少女もその中に入っていったわ。数人の男達と一緒にね」
――だから、どうしたというのだ?
「ここ最近、あの建物内では妙な噂が流れ始めたわ。『誰かが領主の首を狙っている』、と。その誰かとは誰か? トラ? 狂人? いいえ……」
 BSは音もなく腕を上げ、ネームズを指差す。
「貴方よ、ネームズ。貴方が、『丘の上の領主』の首を狙っていると噂されているの」
「馬鹿な。どうやったらそんな噂が流れるっていうんだ。荒唐無稽もいいところだ。だいたい、それが狂人とどう繋がって……」
 また吐き捨てるように言って、ネームズはまた気が付いた。
「狂人か。狂人が、その噂を流したのか?」
「そうよ。狂人が、領主に直接言ったのよ。貴方が、首を狙っているとね」
――なるほど。それなら、真実みがある。
 どこの馬の骨とも知らない者なら信じないだろう。しかし、同じ『プライド』のメンバーであり、しかもそのNo.2である人物の言葉であるのなら、限りなく黒に近い噂話に聞こえるだろう。
 しかし、当然のように浮き上がってくる疑問。
「何のために? 何のメリットがあってそんなことをしたんだ? あまりにも、回りくどすぎる」
 ネームズの言葉に、BSは少し呆れたようなため息をはく。
「まだ分からないの? 貴方を殺す為よ。全ては貴方を殺すための、お膳立てよ」
 BSはついと視線を上げ、まるで昔を思い出すかのように眼を細める。
 
「あの時の貴方を殺すための、ね」

「あの時……」
――つまり、それは。
「貴方がここに訪れた時の貴方……。四年前、名だたる暗殺者を殺し、レイニー・タウンを恐怖に陥れた、あの時の貴方を殺す為よ」
「それだけの為に……? それだけの為にレイチェルを攫ったっていうのか?」
「それだけ? いいえ、それだからこそ攫ったのよ。貴方の、怒りを買うために。あの時の貴方に、戻すために」
 BSは自分の眼を指差す。
「その眼……。今の貴方は、あの時の貴方と似てきているわ。死んでいる眼ではない。何かを成し遂げようとしている、生を帯びた眼をしているわ……」
 嬉しいような、悲しいような、BSは酷く曖昧な表情をした。
「……あの白い少女を攫った理由は、もう一つあるわ。――いえ、正確に言えば、攫ったのではなく、『丘の上の領主』が呼び戻したのよ。貴方との繋がりを追及する為に、ね」 
「繋がり? 会っているだけだぞ?」
「それよ。貴方達は、ここ数日何度か会っていたという事実があるわ。奴隷である少女と、『最強のトラ』に一太刀入れた暗殺者が会う理由は何?」
「だから、倒れていたところを助けてもらったんだよ。それ以上も、それ以下もない」
 『助けは必要ですか?』
 あの日の光景――傘を差した白い少女の姿と共に、レイチェルの言葉が脳裏を過ぎる。
「そうね。それがきっと事実なんでしょうね。でも、『丘の上の領主』が考えている『事実』は違うわ。彼の考えている『事実』とは、少女が貴方を使って復讐することではないか、という事よ」
――復讐。
 あの日の姉が――血の海に沈む姉の姿が、フラッシュバックのように目の前で瞬く。
 何となしに、己の手を見る。
――結局、この手で復讐は成し遂げ事は叶わなかった。
 悔しいはずなのに、悔しいという感情は湧いてこなかった。四年という歳月が、それを磨り減らしてしまったのかも知れない。
「聞いてるの?」
 少し怒ったBSの声。ネームズは下げていた視線を元に戻す。
「あぁ、悪い。それで、レイチェルが――少女が復讐する理由は? ――いや、復讐するのかも知れないと思う理由は?」
「そういった妄信に囚われるのは、疚しい事があると相場が決まってるわ。そして、そういう結論に至るのも、それ相応の罪を犯していると自覚しているからよ」
 BSは疲れたような、悲しいような、自分自身に積もったものを吐き出すようにしてため息をはく。そして、

「少女の両親を殺したのは、その『丘の上の領主』だからよ。無論、間接的によ。私達と同じように、ね」

 そう、同情するような眼で言った。
 『両親は殺されました。私の、目の前で』
 レイチェルの言葉が、また蘇る。それに引き摺られるように、レイチェルが話した過去を思い出す。
――レイチェルの両親を殺したのは。
 弱みに付け込むようにして借金を負わせ、騙して殺してレイチェルを攫っていったのは。
――『丘の上の領主』だというのか。
 ゆっくりと、ネームズはそびえ立つ屋敷に視線を向ける。
――分かる。今殺意が、沸き上がってきている。そいつを殺してやりたいと、望んでいる。
「落ち着いて……話はまだ、続くわ……」
 BSの声で、ネームズは我に返る。見ると、BSは寒そうに両肩を掴んで小刻みに震えていた。――いや、違う。寒いのではない。ネームズから発せられた殺気に、悪寒を感じているのだ。
「……悪い」
「別にいいわ。弱い私が悪いんですもの」
 肩を掴んでいた手を離し、軽いため息をはく。それからネームズから視線を外し、
「少し……羨ましいわ」
 そう、誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。
「羨ましい?」
「何でもない。気にしないで。それより、続きよ」
 誤魔化すように、BSは姿勢を少し変えた。
「少女から――その、レイチェルから何が起こったのかは聞いたの?」
「あぁ、全部聞いた」
「そう……なら、早いわね。その事件が起きたのは、今から六年も前の話よ」
「六年……? ちょっと待て、おかしい。六年も前の筈がない。レイチェルは、攫われてから姿が変わっていないと言ったんだぞ? それじゃ、まるで――」
「待って。順を追って話すわ。順を追って……謝らせてちょうだい」
「謝る?」
――何をだ?
「……六年前、『丘の上の領主』は自分のコレクションを増やしたい為に、奴隷商の――いえ、それは正しくないわね。『人攫いのオーフマン』に命じたのよ。そして、目標とされてしまったのが……レイチェルが住んでいたという港町。不作で金のない漁師を――尚かつ娘を持つ漁師達を狙い、良心的な金貸しを装った。そして――事の顛末は、恐らくレイチェルが言った通りよ」
「あぁ、支払い期限を書き換えて、両親を殺して連れ去った。そう言っていたよ」
「そうよ。抵抗した家は、軒並みそうなったわ。そして、少女達は全員『丘の上の領主』の所に連れて行かれたわ。それでも、逮捕されることも、処罰を受けることもなかった。それは彼が領主という権力者であり、また他の権力者達との繋がりが――自分達のコレクションの自慢や交換を行っていたのよ」
「どいつもこいつも……腐ってる」
 胸くそが悪い。反吐が出る思いだった。
「そして、その事件が起きてから数ヶ月後。私がこの街に来て二ヶ月も経っていない頃に、その『丘の上の領主』から依頼が来たわ」
 BSはネームズの顔をちらりと見た後、ばつが悪そうに言う。
「『成長を止める薬を作って欲しい。少女が成長しない薬を、だ』。そう彼は言ったわ」
「だから……作ったのか?」
「そうよ。依頼されたらそれを実行するのが当たり前でしょう。……例え、その少女達を殺すことになっても」
「……何?」
「成長を止める薬なんて物はないわ。あるのは、成長を壊す薬よ。これ以上成長しないように、成長を促す細胞を殺すのよ」
――だから。
「それだけを殺す何て事は不可能だわ。だから、それらしい物を全て殺してしまうのよ」
――だから、それがどうしたというのだ。
「それは身体全体に影響を及ぼすの。手、足、腸、肺、心臓に至るまで、必要な細胞や臓器すら殺してしまうのよ。つまり――」
 言い終える前に、ネームズは突発的にBSの襟を掴んで締め上げた。何故そんなことをしたのか、自分ですら分からなかった。もしかしたら、聞きたくなかったのかも知れない。――いや、きっとそうなのだろう。
――今も尚不幸だというのに、まだ更に不幸があるのか。両親を殺され、奴隷に成り果て、あらぬ嫌疑を掛けられ――。それでもまだ、不幸が降りかかろうとしているというのか。そんなに、そんなにも――。

「あの子の身体はもう、ボロボロよ。髪が白くなったのも、薬の所為。数年も……保たないかも知れない」

「あぁ……」
 掴んでいた手が、力無く落ちる。
――レイチェルが望む不幸が、足早に訪れるというのか。それは、それはあまりにも、
「……不幸過ぎる」
 死は誰にでも、平等に訪れる。けれども、不幸に不幸が重なり、不幸のままに死んでいくなんて、あまりにも悲しすぎる。
「治療は……出来ないのか?」
 BSは静かに首を横に振った。
「無理よ。医学は万能じゃない。殺したものは……元には戻らないわ」
 BSの言うことは至極当たり前で、あまりにも悲しい言葉だった。元に戻らないのは、既に痛感している。殺したもの、殺されたものは、もう二度とその姿に返ることはない。もう二度と、だ。
「……ごめんなさい」
 身を縮込ませ、しゅんとした様子でBSは謝った。
 それが、ネームズの癪に障った。再びBSの襟を掴み上げる。
「謝るな……! 謝るくらいなら、何でそんな薬を作ったんだ! これ以上、これ以上レイチェルを不幸にして、楽しいか……!?」
 掴み上げられたBSは、先程の様子とは打って変わって、睨むようにしてネームズを見た。
「貴方にそれを言う資格があるの? 貴方も依頼を受けて、沢山の人達を殺してきた。不幸にしてきた!」
 脳裏を過ぎったのは、あの日――オーフマンを殺そうとして、誤って殺してしまったあの女だった。
「知っていた人に危害が加わっていたからって、今更被害者面しないで。私がこういう仕事をしているのは、知っている筈よ。私の作った薬がどれだけ沢山の人を不幸にしたかなんて、分かり切っていた事の筈よ!」
 BSの言っている事は正しい。作られた毒薬でどれだけの人が不幸になろうと、ネームズは特に何の関心の示さなかった。寧ろ、なんて効率の悪い殺し方だろうかと思った事もある。
――本当に、今更の話だ。いつの間にかそれが当たり前の事になっていた。分かり切っていた事なのに、今更になってそれは酷い事なんだと感じる。
 思い出されるのは、今まで殺してきた人達の死に顔。己の願いを叶えるために殺した『プライド』のメンバー達。己の生活を支える為に――姉と通じていたいが為に殺してきた人達。それらが、まざまざと目の前に現れる。
――同じなのか。
 これでは、己の欲望を満たすために両親を殺してまで少女を攫っていく、あの変態共と同じではないか。
 やっていることが違うだけで、根本的には何一つ変わらない。自分の欲望を叶える為に、沢山の人達を不幸にしているのだから。自分の願いを叶えるために、沢山の人達を殺してきたのだから。
 BSの襟をぎゅっと強く掴み、ネームズは項垂れる。
「ごめ……ごめんなさい……」
 誰に謝りたかったのか、分からなかった。ただ、謝りたかった。謝らずには居られなかった。
「貴方こそ謝らないで!」
 BSの怒鳴るような声に、ネームズは思わず身を竦めて顔を上げた。襟を掴まれているにも関わらず、BSはネームズの襟を掴み返す。
「そんなの、貴方らしくないわ。あの時の貴方は本当に消えてしまったの? トラに復讐するためだけに、『プライド』のメンバーを皆殺しにしていった貴方はもう死んでしまったの?」
 BSは歯を食いしばり、怒りの形相を浮かべていた。
――なぜ、怒っているんだ?
「反省しないで。後悔しないで。許しを請わないで。そんなことしたって誰も許しはしないし、何も解決しないわ!」
 BSは何故か、悔しそうに言った。
「あの時の貴方は、全てを犠牲にしてでも復讐を果たそうとしていた。誰がどうなろうと構わずに、ただそれだけを目指していたわ。貴方は、そうあるべきなのよ。――いえ、そうでなければいけないのよ。誰が不幸になろうとも、形振り構わずに進まなければならない。そうしなければ、望みなんて到底叶う筈もないわ!」
 BSは襟をぐいっと捻り上げるが、怒りの形相は泣きそうな顔に変わり、掴んでいた手は力無くだらりと落ちた。
「それを……それを貴方から学んだのよ。お願いだから……貴方だけはそうであって」
――そうあるべき、か。
 姉が殺されてからの四年間。トラに敗れるまでの四年間。ただ復讐したいという思いだけで、ネームズは多くの者を不幸にしてきた。ただ復讐する為だけに、多くの者を殺してきた。
 到底許される事ではない。自分自身ですら、間違った事をしてきたと思っている。
――にも関わらず、BSはそうあるべきだと言う。正しい事なのだと言う。
 ネームズは、いつの間にかBSから手を離していた。
 BSはネームズから一歩離れ、『レインボー』の入り口に顔を向ける。 
「私は……私はこれから、貴方から学んだそれを実行しようと思うわ。ずっとこの時を待っていた。狂人が、トラから離れてくれるこの瞬間を」
 再びネームズの方を見て、BSは決意の秘められた顔でそう言った。
「私はこれからトラに復讐をする。この四年間で、その下準備は済んであるわ。出来れば……貴方にもそれを手伝って欲しいの」
 BSは音もなく手を上げる。それは、握手を求める手だった。
「私と一緒に、復讐を果たしましょう? 私達の復讐劇の幕は……もうすぐそこよ」
――……俺は。
 復讐したいか否かと聞かれれば、恐らく考えるまでもなく、はいと答えるだろう。もはやトラには、憎しみも、怒りも湧いてこない。しかし、復讐心は未だに心の底で燻っている。復讐できるのなら、復讐したいと思っている筈だ。
――だけど、今は。
 頭に浮かんでくるのは、あの日の――スパゲッティーを作っている時のレイチェルの背中。その背中は、儚く、矮小で、気付かない内に消えてしまいそうだった。
――誰かが。
 誰かが助けてあげなければ、それは本当に消えてしまう。後に残るのは、血にまみれた――死体のみ。
――それは。
 それだけは、見たくなかった。もう二度と、近しい人が死ぬのは見たくなかった。

 例え、姉を殺した復讐相手を――トラを殺せるのだとしても。

「……俺はレイチェルを助けに行こうと思う」
「狂人が居るのよ? わざわざ殺されに行くようなものだわ。それに、助けたとしてもそのレイチェルは……」
――数年、生きられるかどうか分からない。
「それでも……助けに行きたいんだ。両親を殺されて、奴隷にされて、それで信頼している人に殺されるなんて……あんまり過ぎる。誰も手を差し伸べてくれない辛さは……よく知っているから」
 思い出すのは、幼きあの頃。姉が居たからこそ、ネームズはここに居る。姉が居なければ、あの場所で野垂れ死んでいただろう。けれど、今のレイチェルには手を差し伸べる者は誰も居ない。助けてくれる人は――誰も居ない。
――だから、せめて俺だけでも。
 手を、差し伸べてやりたい。
「そう……」
 BSは悲しそうに笑い、既に陽が昇った晴れた空を見上げる。それから至極残念そうにため息をはき、
「これだけ私の願いを断り続けるなんて、我が侭な人ね。――いえ、それこそが貴方らしいのかも知れないわね」
 そう言って、困ったように笑った。
「悪い……」
 ばつが悪そうな顔をすると、BSは微かに声を上げて笑う。
「……脇腹は、まだ痛むかしら?」
 BSは視線を落とし、ネームズの脇腹を見ながら言った。
「少しだけ……な」
 その言葉に偽りはなかった。疼くような痛みがあるだけだ。
「念のため、痛み止めを打っておいてあげるわ。貴方には、万全な態勢で挑んで欲しいから」
 ネームズの返事を聞かぬまま、BSは腰のベルトに付けてある小さなポーチから注射器と小さな瓶を取り出す。瓶から透明な液体を注射器で吸い上げ、それをネームズの脇腹に包帯越しに刺した。僅かではあるが、疼く痛みが和らいでいくような気がした。
「時期に痛みは完全に消えるわ。私がしてあげられるのは、ここまで」
 BSは再び手を差し出す。
「共に頑張りましょう。そして共に……生き残りましょう」
 ネームズは、それを握りしめる。
「じゃな……死ぬなよ」
 『レインボー』を――トラが居る店を横目に見ながら、ネームズは元来た道を戻り始めた。向かう場所は、あのアパートである。
 空は、この『レイニー・タウン』では珍しく青々としていた。遠くに雨雲が見えるとはいえ、ネームズは久方振りに――本当に久方振りに、青い空を見たような気がした。
 晴れの門出という言葉が、脳裏を過ぎった。
――いや、寧ろこれは。
 暗雲が立ち込めているのがこの街の日常であり、このような晴れの日は逆に非日常的なのだ。普通であれば晴れ晴れとした気分で出立出来るのだろうが、酷く嫌な予感がして止まない。
 いっそ雨が降ってくれた方が、まだマシに思えた。その方が、四年前に近づけるからだ。そうすれば、
――より、レイチェルを助けられる可能性が上がる。
 
 数分もしない内にアパートに辿り着き、ネームズは部屋に入ってすぐにナイフを付けたベルトを腰に付け、足りない分を補充した。
 そして、もう一生使うまいと思っていたそのタンスの一番上を、開け放った。
 そこにあるのは、黒いコート。眼を凝らすと、うっすらと血の斑点が見える。それは、まるで怨念のようにこびり付いて取れない。
 引き寄せられるようにそれを手に取り、羽織る。
 一瞬だけ、意識があの日に――四年前に戻ったような気がした。それは妙に新鮮であり、そして酷く懐かしくあった。
 沸き上がってくる、殺意。復讐心。トラを殺すことだけに執着していた、あの時のネームズが心の奥底にある闇から這い出てくる。
――違う。
 欲しいのは、それではない。欲しいのは、力だけ。狂人を殺すだけの――レイチェルを助けられるだけの力が欲しいだけだ。
 復讐心によって培われた力ではある。だが、
――今度は、復讐のためじゃない。今度は、

 大切な人を助けるための、『力』だ。



 BSが生まれたのは、その国を代表する大きな街である。そしてBSを生んだ母親は薬学の学者であり、父親もまた薬学の学者であると同時に、医学の学者でもあり、また医者でもあった。
 母親は先祖代々学者であり、父親は先祖代々医者だった。二人とも、なるべくしてなったと呟いていたのをBSは良く覚えている。
 父親は優秀な医者だった。この国にこの医者ありと言わしめるほどの権威であり、またそれ相応の実力を持っていた。
 そんな両親を持って生まれたBSは、当然というべきか、僅か五歳で医学書を読めるほどの頭の良さを誇っていた。八歳になる頃には父親と医学について辿々しくとはいえ話すことが出来、十歳になる頃には対等に話せるようになっていた。それは、薬学も同じだった。
 六歳の頃、BSは学校に入ったが、結局は行くのを止めた。理由は、つまらないからである。もう既に分かり切ったことを、何度も何度も言い聞かせられるのに嫌気が差したのもあった。だから、BSは父親の蔵書に篭もって本を読み散らした。薬学、医学、科学、変わったところでは疫学の本まで読んだ。
 BSにとっては、本が先生だった。偉そうにふんぞり返ることもなく、BSの頭の良さに嫉妬して嫌みを言うこともない。ただ黙して、書かれてある知識をBSに提供してくれる。それが、楽しく思えた。
 父親は、そんなBSを天才だと言った。母親もまた、その頭の良さに驚愕していた。
 自分の子供だから、という訳ではない。十歳にして父親であり医者の権威でもある人と対等に話せるのだ。親でなくとも、それは紛れもない天才だと認めたことだろう。
 やがて、BSはまた学校に通うことになる。今度は年相応の勉強をさせられる場所ではない。国の名だたる学者が集められた、アカデミーである。
 十歳がそこに入校するというのは、非常に希な事だった。父親のコネだ、親の七光りだと陰口を叩かれたが、無論そんなことはない。テストをした上で、正式に認められたのだ。
 BSにとってそこは、非常に刺激的だった。本には載っていない病例。本には載っていない新薬。本には載っていない知識が、そこには溢れかえっていた。
 新しい玩具を与えられた子供のように――もっとも、子供なのだが――無邪気に、その知識を貪欲に吸収していった。
 国の全ての知識が集まる場所とだけあって、流石のBSも多少ながらも苦戦していた。それでも十二歳の頃には、新薬を開発するにまで至っていた。その所為もあってか、一部を除いて、彼女は紛れもない天才だと学者達は認めていた。
 天才。一年の内に、何人にも付けられる安っぽい称号ではある。しかし、最も分かり易く、最も敬意を込めた愛称で呼ぶのだとすれば、やはり天才という名が一番相応しいのだろう。BSは、そう呼ばれるのは嫌いではなかった。
 医者の権威である父親、そしてその娘であるBS。共に医療に携わる天才だと人々は口にし、やがては全てを治療してくれるだろうと人々は夢見た。

 しかし、所詮それは夢であったのだと、二人の訃報(ふほう)を以て知ることとなる。

 ※

 それは、十四歳の誕生日を迎えて間もない頃だった。
 いつものように朝起き、アカデミーに行く準備をしていると、突然母親が血相を変えてBSの部屋に入ってきた。
 BSはどうしたのと理由を尋ねるが、喋らないでと母親に口を塞がれる。そして、何があったのかも説明されず、クローゼットの中に入るよう強く言われた。何一つ理解できぬまま、無精無精BSはそのクローゼットの中に隠れた。
 母親の去っていく足音が聞こえた。いつもの踏みしめるようにゆっくりした歩調ではなく、どたどたと荒々しく階段を降りていった。
 クローゼットの中は真っ暗だった。心細くなったのと、何が起こったのかという好奇心から、ほんの少しだけ扉を開けて見る。
 しばしの静寂。やがて聞こえてきたのは、扉を開ける音と、嗄れた声。耳を澄ましてみるが、治療がどうだ、このままだとどうだとか、途切れ途切れにしか聞こえなかった。その後に聞こえてきたのは、父親の怒鳴るような声。ハッキリと、断ると言っていた。
 何かのトラブルがあったんだと、容易に想像できた。しかし、情報が少なすぎてそれ以上の推測は不可能だった。
 再び嗄れた声が聞こえてくる。何かを喋っているが、財団がどうだというキーワードしか拾えなかった。
 そして、風切り音が聞こえた。それだけ、何故かやけにハッキリと。他の音を全て掻き消して。
 続いて聞こえてきたのが、花瓶が割れた音。それを乗せていた台か机が倒れる音。誰かが倒れるような音。
――何か、起きた?
 何かが起こったのは確かだった。しかし、音だけではそれを判別することなど出来ない。下に行って今すぐにでも確かめたい衝動に駆られたが、身体は動かなかった。
 だんだんだんと、誰かがこちらに向かって階段を駆け上がっていく音が聞こえる。思わず、息を呑んだ。心臓が止まりそうだった。身体が凍り付いて、瞬き一つすら出来なかった。
 BSの部屋の扉が開け放たれる。この小さな隙間からでも、それを確認できた。昇ってきたのは――母親だった。
――ママ!
 そう言ったつもりだったが、声にはならなかった。
 母親は足がもつれ、俯せになって転んだ。起きあがろうと顔を上げたときに、BSと眼が合った。恐怖に満ちた眼。絶望に満ちた眼。そして――慈愛に満ちた眼。何があっても守ってあげると、そう言っているように見えた。
 母親の後を追うように現れたのは、茶色い服を着た男だった。手には、血にまみれたを短刀握っている。その短刀から、血がぽたりぽたりと雫となって絨毯に置いていく。
 母親は振り返り、BSに背を向けて茶色い男を見た。引きつった呼吸をしながら、こちらに向かって後ずさってくる。

「許せよ。せめて苦しまないよう、一瞬で殺してやるからな」

 男は母親に向かってそう言った。その声は、何故か悲しみに満ちていたように思えた。
 母親は更に後ずさってくる。やがてクローゼットに背が接触し、僅かな隙間が閉じてしまった。
 クローゼットの中は、再び暗闇に染まった。
 母親の引きつった呼吸が嫌という程聞こえてくる。密室となったクローゼットの中で反響し、まるで違う誰かのように聞こえてくる。
 続いて聞こえてきたのは、耳を覆いたくなるような爆発音。残響の合間に、何かが倒れるような音が聞こえた。
 再びクローゼットの中に光が差し込む。支えが無くなったからだ。
 僅かな隙間から見えたのは――より鮮血に染まった短刀を握りしめた男だった。悲しそうな、感慨深そうな顔をして、血にまみれた短刀を見ていた。
 ふと、男が顔を上げた。

 眼が、合った。
 
 身動きはおろか、心臓すら止まったように思えた。母親があれだけ必死になって隠そうとしたのにも関わらず、気付いてしまったのだ。
 男の眼は、
――人殺しの眼だ。
 走馬燈も、恐怖も湧いてこなかった。ただ、死にたくないなぁと思っただけだった。
 しかし、茶色い男はふいと視線をそらし、そのまま身を翻して去って行ってしまった。
 男が去っていたと理解するのに、少し時間が掛かった。
 両親が殺されたと理解するのに、随分と時間が掛かった。
 狂ったように騒ぎ立て始めたのは、それよりもっと後だった。
 悲しみが湧いてきたのはそれよりもっともっと後で、それが怒りに変わったのはずっとずっと後のことだった。

 そして復讐を誓ったのは、それより二年も後の事だった。

 ※

 復讐を誓ってからは、BSは医学とは真っ向に対立する学問――毒の生成について学んでいった。すなわち、人を殺すための学問である。殺したいのはただ一人、両親を殺したあの男のみ。
 何故毒について調べ始めたのかというと、あの男の正体を知ったからである。
 最強の称号を持つ、最強の暗殺者。
 『最強のトラ』、それが両親を殺していった男の通り名だった。
 思えば、医学の権威の父親と母親が殺されたというのに、警察はおろか国は大きな動きをとらなかった。――いや、とれなかったと言った方が正しいのだろう。皆、トラに恐れていたのだ。結局事件はうやむやにされ、金を狙った強盗殺人という事で世間は落ち着いてしまった。
 それに、BSは大きな疑問を持っていた。復讐を誓ってからは、金とコネを使ってまずその男の素性を調べ上げた。そして、正体を知ったのだ。
 それから芋づる式に、両親が殺されてしまった原因を知ることとなった。
 当時、BSの父親は『オーリン財団』の社長の手術をすることになっていた。『オーリン財団』は国内でもトップクラスの財団であり、社長の後釜を狙う者は多かった。そういう輩にとっては社長は邪魔であり、すぐにでも死んで欲しい存在なのである。つまり、手術されては困るのだ。
 暗殺を依頼したのは、最も社長の座に近いと言われていた『ベルグ』という男だった。そしてその後、どういった経緯で『プライド』に依頼され、トラが直々に暗殺することなったのかは知らない。しかしそれは実行され、そしてBSの両親は殺された。
 その原因と理由を知ったとき、BSはまず、馬鹿馬鹿しいと思った。
 そのベルグという男も調べてみたが、別に金に困っている訳でもなく、特別な事情があった訳でもない。ただ社長になりたいという野心だけで、暗殺を依頼したらしい。
 たったそれだけだ。たったそれだけの理由で、両親は殺された。
 直接手をくだしたのはトラである。しかし、それを指示したベルグも同罪であり、また復讐すべき存在なのだろうとBSは強く思った。
 その復讐のために、BSは毒を選んだのである。理由は幾つかある。
 一つは、最強の暗殺者であるトラに闇討ちが通じる訳もないし、また直接手をくだすにはあまりにも危険すぎるからである。
 一つは、どうやって復讐しようかと思ったときに、真っ先に毒が思い浮かんだ為でもある。何故毒が思い浮かんだのかは分からない。昔読んだ本に、最も人を殺したのは毒であると書かれてあった所為かも知れない。
 そして最後の一つは、毒は使い方によっては一瞬で殺せるし、また何十年も延々と苦しませてから殺すことも出来るからだ。自分の犯した罪の重さを知るには、一番適しているのだろう。
 毒。それは非力なBSにとっては、唯一の武器であり、最も適した武器なのかも知れない。己の知恵によって、その強さも弱さも変わる。そして、
――恨みと悲しみと復讐心を込め、作り上げたその毒で、藻掻き苦しみさせ、殺してやる。
 そう、心に誓った。
 
 ※

 BSが初めて人を殺したのは――『オーリン財団』の社長となっていたベルグを毒殺したのは、十九歳の時だった。――いや、正確に言えば毒を盛り始めたのが十七歳の時であり、死んだのが十九の時だったのである。
 毒を盛ったのは、BS本人ではない。ベルグの専門コックの助手の一人に大金を渡し、それを盛り続けるように指示したのだ。
 BSが作る毒は、青酸カリやヒ素といった直接的な毒物ではない。もっと遠回しで、さながら本当の病気のようにじわじわと身体を蝕んでいく。故に、毒殺だとは気付かれない。そして、死体からは毒物は一切検出されない。
 ベルグの葬式に紛れ込み、BSはこっそりと死体となったベルグを見た。皮膚が、身体が、みすぼらしいほどに痩せ衰えていた。それは、三十代後半の死体ではなかった。まるで、六十か七十の老人のそれだ。
 それを見て、BSは酷く悲しい気持ちになった。
 復讐を果たしたという充実感はある。死んで当然だとも思っている。にも関わらず、悲しかった。
 涙が出そうになるが、ぐっと堪えた。こんな奴に泣くのは勿体ない。泣くのは、全てが終わってからだ。
 この復讐劇に幕が降りるまで、泣いてはいけないのだ。

 ※

 それから一年後――二十歳の時、BSは『レイニー・タウン』を初めて訪れた。そしてすぐさま、暗殺ギルドである『プライド』に入った。無論、トラに近づく為である。
 毒を専門に扱う暗殺者が居なかった所為か、すんなりと許可された。その時のトラが、何とも言えない不思議な笑みを浮かべていたのを、随分と印象に残っていた。
 それから半年ほどは、真面目に仕事に従事していた。つまりは、毒殺し続けていた。勿論、抵抗感は強かった。しかし、ベルグを殺した時点でもう後戻りは出来ないと分かっていた。一人でも人を殺せば、それは人殺しなのである。毒を食らわば皿まで。トラを殺すまで、BSは堕ちるところまで堕ちようと覚悟していた。
 その頃だっただろうか。BSが、『ビューティフル・スパイダー<美しき蜘蛛>』と呼ばれるようになっていたのは。
 ここで本名を名乗ったことはない。しかし皆、女だとか黒髪の女だとか、好き勝手に呼んでいたから困りはしなかったが。
 ある日、トラはBSに飯を作れと命じてきた。試されているのかとも思ったが、ただ単純にその場に居たBSに炊事を頼んだだけなのかも知れない。
 絶好のチャンスではある。しかし、BSは敢えて毒は入れなかった。獲物は自ら近づいてきたが、まだ仕掛け時ではない。焦れば、獲物としての立場が逆転してしまう。それが、自分よりも遙かに大きいトラとなれば尚更だ。
 二度、三度と炊事をこなしたが、BSは毒を入れなかった。まだその時ではないと、自分の中にいる『自分』が言っていた。
 四度目の時に、BSは毒を入れることを決意した。毒を入れるといっても、ベルグの時に使っていたものを更に改良した物である。つまりは、徐々に弱ってはいくが、すぐには死なない。
 今すぐにでも殺してやりたい衝動に駆られるが、それでは駄目なのだ。長く苦しまさせなければ、復讐とは呼べない。この毒を選んだ意味がなくなってしまう。
 そうして、BSは毒の入れたコーンスープをトラに差し出した。無味無臭は勿論の事、症状が出るまでにやや時間が掛かるため、何が原因なのか気付かれにくい。
 復讐を誓ってから四年間、BSはこの為だけに毒について学び、生成してきた。天才と呼ばれた彼女の、四年間の集大成だった。あらゆる毒の種類を知っていて尚、それでもこの毒は――『最強』だと言える。
 トラは、それをスプーンで掬(すく)い、そして――。

「蜘蛛よ、お前はこのスープを毒味したか?」

 口元まで運んだスプーンを下に下ろしながら、トラは嗄れた声で言った。
――気付かれた?
 何故気付いたのか、皆目見当がつかなかった。一度も、二度目も、三度目も、毒が入っているかも知れないという疑いの素振りすら見せていなかった。ましてや、毒を入れた瞬間を見られている訳もない。しかもその毒は、無味無臭なのだ。気付かれる要素など、何一つとしてない。
 なのに、なのにも関わらず――。
 トラは、これには毒が入っていると一発で見抜いた。
――これが……これが、最強と呼ばれる由縁なの?
 単に実力のみで最強なのだと思っていた。しかし、それは間違いなのだと身を持って知ることになってしまった。
――『最強』のスケールが……違いすぎる。
 唐突に、トラはそのスープが入っている皿をBS目掛けて投げつけてきた。とても、不機嫌そうな顔をして。
 BSはそれを上体を反らしてかわした。飛んできた液体が口の中に入りそうになり、思わず強く唇を閉めた。
――しまった。
 同時に、そう思った。これでは、毒が入っていることを証明しているようなものではないか。
――失敗した。
 すなわち、それは。
――殺される。
 反逆に失敗した者の末路は、往々にして殺されている。そしてこれもまた、その例外に漏れず、両親を殺されたように――殺されてしまうのだろう。
 トラはゆっくりと立ち上がる。そして眼を細め、何かを見定めるようにBSを見た。
 今すぐにでもこの場を逃げたかった。しかし、蛇に睨まれた蛙のように、身動ぎはおろか、呼吸すら吸えないでいた。
 ふと、トラは視線を落とし、
「お前は貴重な人材だ。……次はないと思え」
 そう言って、BSの前から立ち去っていった。
 BSは、砕けるように床にへたり込んだ。恐怖のあまり、立っていられなくなったのだ。
――あれは。
 あれは絶対殺せないと、BSは思った。故に最強なのだと、襲いかかってくる恐怖と共に強く感じた。
 その恐怖は、BSの骨の髄まで染み込んでいくようだった。もはや逃げることも、逆らうことも出来ない。ただ、犬のように従事する他に道はなくなってしまった。
 BSはこの数年で培ってきた知識や経験、そして年々強くなっていく復讐心が、粉々に砕け散ったのを感じた。 
 もはや復讐は出来ないと、復讐なんか最初から無理だったんだと、トラを思い出す度にその思いは強くなっていた。
 数ヶ月後には、復讐することはおろか何の為にこの街に来たのかさえも忘れ、BSはその毒を使ってただ淡々と暗殺を続けていた。
 そこには、憂いも悲しみもない。ただ、虚しかった。
 何の為に毒を作り、何の為に暗殺を続けるのか。そもそもどうして復讐なんて考えたのか、何もかもが分からなくなってきていた。

 そう、あの黒い男が現れるまでは。

 ※

 BSは、遠ざかっていくネームズの背中を見つめていた。
 あの時とは違って、頼りがいのある、とても大きな背中に感じた。
 レイチェルという奴隷の少女の為に、ネームズは今、新しい道を行こうとしている。それが嬉しくもあり、悲しくもあり、妬ましくもあった。
 この四年間、折れたネームズの心を戻そうとBSは頑張ってみたが、結局は無駄だった。それが、つい数日前にあったばかりの少女にその座を奪われたのだ。悔しくない筈がない。
――でも、やっぱり私じゃ無理だったでしょうね。 
 そう、BSは思った。
 ネームズは、レイチェルに自分を重ね見ている。それは、自分との過去が酷く似ているからだろう。しかし、それを言えばBSの方が酷似していた。両親を殺され、復讐するために力を手に入れ、この街に来た。そして一度敗れ去っている所まで、同じなのだ。
 しかし、BSとレイチェルでは大きく異なる点が一つある。それは、『力』を持っているかどうかという点だ。
 強い女だと、ネームズによく言われていた。それは、暗殺技術云々の話ではない。精神的に、という意味だ。
 強いのではない。強くなければいけなかったのだ。復讐を果たすためには、傲慢で、傍若無人で、他人を利用してでもそれを成す覚悟がなければ、到底あのトラに敵う筈もない。
 だからこそ、強くなければならなかった。あの時のネームズを見たときに、それを強く感じた。
――もし私が弱ければ、お姫様は私だったかも知れないわね。
 まるでおとぎ話のように、城に捕らえられたBSをネームズが助けに来る。そんな想像をして、ほんの少しだけ笑った。
 しかし、そうはならなかった。今ネームズが助けに行っているのはレイチェルであり、BSはそのおとぎ話には参加できていない。
 代わりに開かれるのは、おどろおどろしい復讐劇。沢山の人が死んでいく、復讐劇だ――。
「BSの姐さん!」
 ネームズが去っていた反対の道から走ってきたのは、ウィルだった。BSの元に辿り着くと、屈んで荒くなった呼吸を整え、それから話し出した。
「今この街に来ている奴等は全員集めました。何人かはまだ街に辿り着いてませんが……いいんですか?」
「いいのよ、それで。出来れば全員集まってからが良かったけど、時間がないわ」
 何人か来られなくなるのは、予想済みだった。それを踏まえた上で、余分に人を雇ってある。
「それと、ウィル。私をBSと呼ばないでと言ったでしょう。そう呼んでいいのは、ネームズだけよ」
 今更そんな些細な事にこだわる必要などないと、言ってからBSは思った。どうせもう、振られた身分なのだから。だがそれでも、ネームズ以外にそう呼ばれるのはどうにも釈然としなかった。
「……それでも、僕は姐さんのことをBSと呼ばせてもらいます」
 頑とした態度で、ウィルは言った。その様子に、BSは呆れたようにため息をはく。
「勝手にしなさい」
「勝手にします。……BSの姐さん、絶対に生き残ってくださいよ」
「えぇ、貴方もちゃんと逃げるのよ」 
 これから始まる復讐劇に、ウィルの出番はない。コックであり金庫番なだけで、戦闘能力は皆無だからだ。
「……頑張ってください。また、会いましょう」
 それに、BSは微かに笑って答えるだけだった。
 ネームズが去っていた道から、ウィルが来た道から、そして斜め正面にある小道から、ぞろぞろと男達が歩いてくる。
 それを見たウィルは、BSに一礼し、それからネームズが去っていった方向と同じ方に走っていった。
 歩いてきた男達は、BSを中心にして集まり、立ち止まった。その数、二十人余り。
 顔に歴戦の傷がある者。下卑た視線をBSに送る者。屈強な肉体を持つ者。鎧で身体を固めてきた者。幾つもの修羅場をかいくぐってきた眼をした者。四年前、あの時の騒動で去っていた元『プライド』のメンバーも居た。
 ここに居る男達は全て、BSが召集したのだった。理由は一つ。トラを、殺すためである。
 最強の座を狙う者。復讐するためにやって来た者。報奨金目当ての者。BSの身体を狙っての者。集まった理由は様々だが、BSにとってそれはどうでも良い事だった。
 所詮、ここに集まったのは駒にしか過ぎない。復讐が果たせるのなら――BSが最後にトドメを刺せるのなら、何人死のうが知ったことではないのだ。
 トラは最強である。しかし、団体で襲えば話は別だ。しかも、弱っているのなら尚更である。
――長かった。
 このチャンスを得るために、実に四年間掛かった。この四年間で、トラを弱らせることに成功したのだ。
 再び復讐をしようと決めたあの日から、BSはずっと考え続けていた。それは、どうやったらトラに毒を盛ることが出来るか、ということだった。
 自信作だったあの毒以上の毒など、BSは知らない。無味無臭でさえ気付かれてしまうのだ。それが毒である以上、どう足掻いてもトラに気付かれる可能性が強かった。
 だから、BSは考え方を変えた。
 毒であって毒ではないもの。――いや、毒でありながら毒とは認知されない毒。それを考えることにしたのだ。
 そんな毒などありはしないと思っていた。しかし、思いの外簡単に、そしてあまりにも身近な場所にその毒はあった。
 思い起こしてみれば、トラはその毒を何の躊躇いもなく口に入れていた。躊躇う筈もない。なぜなら、毒でありながら毒としてはあまりにも弱すぎるからである。BSが今知る毒物の中でも、それは『最弱』の部類に入る。

 魚の焦げである。

 あまりにも馬鹿馬鹿しいと思う毒だ。そもそも、これが毒であると誰が思うだろうか。医学を熟知しているBSでさえ、それが毒だなどと聞いたこともなかった。
 しかし、実際は違った。魚の焦げは、紛れもない毒だったのだ。
 とある不治の病がある。不思議な事に、これは海に近い村や町にはほとんど居らず、それより少し離れた場所にある街などに多かった。
 BSが独自に調査してみると、どうやら不治の病に掛かっている病人の何人かは、焼き魚がとても好きなのだそうだ。それも、焦げるほどにじっくりと焼いた魚が。
 単なる偶然か、或いは寄生虫が元になって発生した病気なのか、はたまた全く関係ないのか。BSは、判断に苦しんだ。
 悩んだ末に、BSはその毒を――魚の焦げをトラに盛り続けることを決めた。――いや、他に選択肢がなかったと言った方が正しいだろう。
 しかし、今となってはそれが正しかったんだと強く思う。
 以来、BSはトラに魚の焦げを盛り続けた。魚料理は勿論のこと、米料理、肉料理、スープ、果てには酒にまで粉末状にした魚の焦げを入れてきた。料理屋を隠れ蓑にしたのも、ウィルを雇ったのも、その為である。
 約二年半掛かって、その成果が形となった。トラが、その不治の病に冒されたのだ。
 トラは見る見るうちに弱っていき、生気に満ちた顔も、しなやかな筋肉も、死に近づいていく病人のそれのように枯れていった。
 『最強』と呼ばれたトラが、『最弱』の毒によって弱っていく様は、見ていて滑稽で、哀れで、BSは復讐心が満たされていくのを感じた。
 トラには知らないと言ったが、BSはその不治の病の事を良く知っている。勿論、病名もだ。
 大昔から発見されているのにも関わらず、その治療法は未だに不明であり、また如何にしてその病気に掛かってしまうのかも今一つ解明されていなかった。医学に於ける、最大の謎の一つである。
 その一つを、BSは見つけた。単純な理由ながらも、毛筋ほどの根拠でそれを実践し、約二年半掛かってそれを成した。
 その病名とは――癌(がん)である。
 魚の焦げが癌を引き起こすと証明されたのは、もっとずっと後の話。もしもBSが復讐に走らずに、医学を学び続ければ、父親と同じように――いや、それ以上の権威となったことだろう。今ある医学が、何段階も先に進んだかも知れない。
 しかし、それはならなかった。ましてや、BSが復讐に走らなければこの発見もなかっただろう。皮肉と言うほかにない。
――けれど。
 BSはそれを、後悔はしていなかった。今この瞬間のために、復讐を誓ったあの日から――再び復讐を誓ったあの日から、耐え続けてきたのだ。
 集まった男達をぐるりと見渡し、BSは腕を高々と上げた。
「さぁ……虎狩りの時間よ!」
 男達もまた腕を上げ、荒々しく吼えた。 



 純白のシーツが敷かれた、さも高そうな装飾を施されたベット。床には、よく分からない模様が描かれた絨毯。壁は茶色で、宝石が埋め込まれた剣が幾つか飾られてあり、金持ちの象徴であるかのように牝鹿と牡鹿の剥製が並んでいた。
 狂人は背もたれの高い椅子に寄り掛かったまま、それらを見渡した。そして、さもつまらなさそうにため息をはく。
――くだらねぇ部屋だな。ここには現実感がない。
 まるで絵のような部屋だと、狂人は思った。安宿にも劣る『プライド』の地下部屋で寝ていた方が、まだ幾分マシのように感じた。
 この部屋には生活臭が無い。清潔で、塵一つ無くて、汚れもシミも無い。それが狂人にとっては、堪らなく嫌だった。更に、何も臭いがないのが鼻に付く。
 もっと嫌だったのが、飾られた鹿の剥製だった。しかも、夫婦で二つもある。
――死んだ眼で、俺を見るな。
 剥製なのだから、死んでいるのは当然なのだが、それでも眼は付いている。そしてその眼は、ランプの灯りで黒光りしており、何も見ていないようで何かを見ているようだった。その何かが、狂人のように思えてならなかった。
 壊してしまおうかと思った。両眼をくり抜いて、潰してしまえば何も問題はない。
 しかし、思っただけで、破壊衝動は湧いてこなかった。湧いてきて欲しかったが、湧いてこないものは湧いてこないのだからしょうがない。
 狂人はネームズとの戦いに備えて出来るだけ動かないようにと思っていたが、ここに篭もっている方が体力を消費するような気がして、結局部屋を出ることにした。
「おぉ、ベルセルクさん。ここに居ましたか」
 部屋を出てすぐに、左手の方からやけに耳障りな声がした。
 偉さを誇示するかのように生やした顎髭。全体的にほっそりとしており、身長は狂人よりもやや低い。髪はオールバックにしているが、額の広さを強調しているようで笑える。眼は――卑怯者の眼をしていた。強者には終始低頭で、弱者にはツバを吐きかけ、己の鬱憤を散らすかのようにいたぶる、そんな眼をしていた。
「なんか用か?」
 内心舌打ちをしながら、狂人は答えた。
「えぇ、私の暗殺を企んでいた奴隷を捕まえてきました。こちらに連れてくるという形で良かったんですよね?」
 オールバックの男――『丘の上の領主』は軽く頭を下げ、媚びるように上目で見た。
 真っ正面からそれを見ていると殺したくなってくるので、狂人は領主から身体ごと視線をそらし、部屋の前にある茶色い壁を見ながら言う。
「あぁ、それで良い。殺さずにこの部屋にでも入れておいてくれ。後で俺が殺しておくから」
「ベルセルクさんが始末なさるんですか……? 出来れば、見せしめとして私が始末したいんですが……」
 戸惑いと怯えが混ざった声で領主は言った。
「駄目だ。俺が殺す」
 その少女を殺すのまた、構図の一部なのだから。
「はぁ……分かりました」
 不承不承といった様子で領主は頷いた。その態度もまた、狂人の癪に障った。殺したい衝動が沸き上がってくるが、今ここで殺してしまってはせっかくのお膳立てが無意味になる。
 その衝動を誤魔化すために、狂人は領主を見ないようにして脇を通った。気分転換に、外の空気でも吸おうと思ったのだ。
「わ、私は一番奥の部屋に居ますから……ちゃんと守ってくださいよ? あの殺人鬼を始末出来るのは、アンタらぐらいしか居ないんですから。私は、まだ死にたくないんだ」
 そう言って、領主は突き当たりにある一番奥の部屋に消えていった。
 この建物の構造上、領主が立て籠もる部屋は狂人よりも奥の部屋となっている。また三階にある為、直接外からの襲撃は不可能に近いだろう。つまりは、狂人が殺されない限り領主の部屋には辿り着けないようになっているのだ。
 何とも卑怯者らしい策だと、狂人は思った。要は、狂人を盾に使っているのだ。普段ならそのようなことなど絶対に許しはしないが、これから起こることを考えればそんな些細なことどうでもよくなってくる。
 狂人は長い廊下を見つめる。感触を確かめるように、板張りの廊下を二〜三度力を入れて踏みしめる。悪くない感触だった。ここが絨毯で無くて、良かったと思う。
――恐らく、この廊下で。
 この十数年間で、何百人と殺してきた中で、数え切れない死線を潜ってきた中で、最高の殺し合いが始まるのだろう。
 嬉しさのあまり、狂人は含み笑い、やがて堪えきれなくなって声を上げて笑い出した。

 ※

 外の空気を吸い、幾分気分がマシになり、狂人は部屋に戻ることにした。
 階段を上がり、あの長い廊下に差し掛かると、狂人の部屋の前に誰かが立っているのが見えた。
「やっと帰ってきたか、ベルセルク。もうすぐネームズの野郎が来るんだ。その辺をぶらついてんじゃねぇよ」
 短い髪に、痩けた頬。眼は細く切れ長く、鋭い眼光が狂人を睨む。元『プライド』のNo.9、『ビック・キラー(のっぽな殺し屋)』だった。名前の通り、暗殺者にしては珍しい長身である。比較的身長の高い狂人よりも、頭一つ分高い。
 動きの速度は猟犬や狂人に劣るものの、力に関して言えば彼が一番だった。
「うるせぇよ、のっぽ。でかい図体で俺の部屋の前に立つな。置物みてぇで邪魔だ。入れん」
 歩きながら狂人はそう言った。のっぽと呼ばれたビックは、その言葉に特に反応することなく、対応に慣れた様子で返す。
「そうか、そりゃすまない。ご注文通り例の奴隷は部屋の中につっこんどいたから、後は煮るなり焼くなりしてくれ。どんな風に楽しむのかは、お任せするよ」
 そう言って、ビックはのっそりとした動作で歩き出し、狂人の脇を通っていった。
 その後ろ姿を、狂人はつまらないものでも見るような眼で見る。
――滑稽という他にないな。
 四年前、ビックはこの街を去っていった。理由はただ一つ。復讐者に殺されたくなかったからである。
 しかしまたここへ戻ってきたのは、狂人にとある計画を吹き込まれたからだ。それは、ネームズをここにおびき寄せて殺すこと。弱体化しているということもあり、ビックはそれに乗った。
 ビックもまた、ネームズを殺したがっていた。それは、復讐者に最初に殺された人――猟犬の復讐をする為に他ならない。
 詳しいことは知らないが――もっとも、狂人は興味すら無かったが――ビックと猟犬は仲が良く、よく一緒に連んでいたらしい。
 最初はビックも復讐に燃えていたが、その実力を知るや否や、尻尾を巻いて逃げていったのだ。
――せいぜい役立ってくれ。
 狂人がビックをここに呼んだのは、無論復讐させるためなどではない。暗殺者としての勘を取り戻させる、当て馬に過ぎない。
 ふと、狂人はビックに大事なことを伝え忘れたことに気が付く。
「あぁ、そうだ。のっぽ、名前野郎が来たら伝えてくれ」
 階段を一歩降りたままの姿勢で、ビックは狂人の方を振り向いた。
「何だ? 冥土の土産の言葉でも伝授してくれるのか?」
「そうだ。とびっきりのヤツを、な」
 狂人は自分の部屋を横目で見ながら、
「レイチェルは俺が殺した。復讐したかったら、ここまで来い」
「レイチェル……? 誰だ、そいつは?」
「さっき連れてきた奴隷の名前だよ。……いや、名前野郎の愛人と言った方が良いか」
 ビックは意外そうな顔をし、それから片頬を歪めて笑った。
「そいつは面白い。寝取られた気持ちを味わいながら、死んでいくのか。傑作だ。いただこう」
 上機嫌に笑いながら、ビックは階段を降りていった。
 ビックの姿が完全に消えてから、狂人は自分の部屋の扉を見た。
――これで、お膳立ては。
 あと、一つ。
 そしてそれは、最後の仕上げに相応しいと狂人は思った。
 込み上げてくる笑みを殺しながら、狂人は扉を開けた。そこには、純白のシーツを敷かれたベットの上に、白い少女が座っていた。
 白い少女は狂人に気が付き、振り向く。
「貴方は……?」
 僅かに戸惑いが混じった声。冷静なのか、未だに察していないのか、思っていたよりも反応は薄い。
 狂人は答えることなく、柄からマチェットをゆっくりと引き抜く。
――さぁ、差し出せ。
 お前が持っているそれを。
 お前が大事にしているそれを。
――俺の糧として、貰ってやるよ。
 一歩、また一歩と狂人はレイチェルに近づいていく。 
「そう……私を殺してくれるのね」
 白い少女は怯えることなく、ランプの光で淡く光るその凶器の刃を、何故か愛おしそうに見つめた。
「ようやく……死ねるのね」
 

 
――これは、夢か。

 雲一つ無い、晴れた空。見渡す限りに広がる、背の低い草。風がそよぎ、葉が擦れ合う音が聞こえる。
 それらは全て胡乱で、曖昧で、どこにでもありそうで、どこにもなさそうな風景だった。しかし、この風景を見たことはある。この場面を見たことがある。
 だからこそ、これは夢だと判断したのだった。
 広がる草むらの中には、女が大の字になって倒れていた。長い髪の毛は放射状に散らばり、そして腹部からは――夥しい量の血が溢れていた。だというのに、その顔は何故か安らかそうだった。
 その隣には、懺悔でもするように地面に両膝を付いて項垂れている男が居た。嗚咽を漏らし、垂れる涙を拭おうともせず、自分がした行いを悔やみ、そして悲しんでいた。
「泣くな……。私の称号を受け継いだ男が、このぐらいで泣くんじゃない……」
 天を見たまま、女は優しい声で言った。
「強くなったものだな……。子供だ子供だと思っていたが、月日というのは思っていたよりも早く流れるものなのだな……。そうか、お前をあの人から預けられて、もう二十年近くも経っているのだな……。早いものだ。私も、歳をとるはずだ。……あぁ、勘違いはするな。実力は衰えていない。落ち目に差し掛かりそうだったからこそ、こうしてお前と闘ったのだ。その結果としてお前に負けたのだ。悔いはない……」
 男は女の手を握りしめ、何度何度も呼び掛けた。そして、首を横に振った。
 女は困ったように笑い、撫でるように優しく頭に手を置いた。
「泣くな……。お前は間違ってなどいない。ただ、私がお前より弱かった。……それだけなんだ。お前は……お前はもう……」
 女は笑った。まるで我が子を自慢する、母親のように。

「最強に、なったのだよ……」

 女の言葉に、男はただ首を横に振るだけだった。それを見ていた女は困ったようにまた笑うが、やがて苦痛で顔が歪んだ。苦しそうに呼吸をし、痛みのあまりに声を漏らす。
「最後のお願いだ……。あの人が残していったこの銃で、私を楽にしてくれ……。この銃なら、楽に逝けると思うから……」 
 男は嗚咽を漏らしながら、女の腰に備えてあった銃を取る。そして、構えた。
「その銃は持っていけ……。昔からそいつを、欲しがっていただろう? 最後の……最後の餞別だよ……。誰にも負けるなよ……お前は……最強なんだ……。負けるときは……それが……相応しいヤツに負けろよ……」
 女は眼を閉じ、苦痛で歪んだ顔が徐々に安らかになっていく。
「あぁ……やっと死ねる。やっと……あの人に会える。約束は……ちゃんと……守ったよ……」
 男は大粒の涙を流しながら、空に向かって雄叫びを上げながら、女に向かってその引き金を引いた。

 辺りには、その銃声だけが、虚しく響いた。

 ※
 
 薄暗い部屋の中で、眼を覚ました。感覚は現実に戻り、背に壁の感触を感じる。
 辺りにはもう、草原など無い。女の死体も、無い。
 板張りの床に、板張りの壁。古びたベットに、燐で煤けたランプ。穴蔵と言うに相応しい内装だった。
――今頃になって、見るとはな。
 いつの間にか頬に垂れていた涙を拭いながら、男は感慨深くそう思った。
 ここ数十年、あの日の事を思い出すことなどなかった。――いや、思い出さないようにしていた。思い出したところで、ただ感傷に浸ってしまうだけで、何の解決にもならないし、蓋をしたはずの後悔の念が溢れ出てきてしまうからだ。
 最強の称号を得てから、男は――トラはただひたすらにこの称号を守り続けてきた。女の言いつけを守り、最強の称号に相応しい奴が現れる、その日まで。
 何となしに、顎に付けられた傷を撫でる。四年前に、復讐者に――ネームズにやられた痕である。
 当時、未だに実力は衰えていなかったものの、トラは既に初老を迎えていた。だからこそ、四年前に現れたネームズにそれを期待したのだ。最強の称号に相応しい、暗殺者なのだと。
 しかし結果は、一太刀浴びせただけに終わった。この称号得てから初めて傷を付けられたとはいえ、結局はそれだけであり、負けは負けに過ぎない。最強の称号を明け渡すには、まだまだだと思った。
 だがしかし、ネームズが放った一撃はまさに芸術的だった。殺しの技術の、頂点の一つだと言えよう。しかし、今一歩頂には届いていない。そう、あと一手。あと一手さえあれば、トラを殺すことが出来、最強の称号を得ることが出来ただろう。
 殺さなかったのは、それが惜しいと思ったからである。もう少し熟せば、恐らく名実ともに最強に相応しい人物となっただろう。
――だがしかし、そうはならなかった。
 敗北によってネームズの心は折れ、熟すどころか見る見る内に腐っていった。それを、トラは非常に無念に感じた。
 更に、無念な事は続いた。
 二年半前から、医者もさじを投げる病に掛かってしまったのだ。その病はトラの身体を蝕み、身体機能を衰えさせ、見る見るうちに劣っていった。やがて外敵から身を守るようにこの穴蔵に篭もり、最も信頼できる狂人を見張り役として部屋の前に立たせることとなってしまった。
――最強といえども、病と歳には勝てない、か……。
 死に恐れなどない。恐いのは、このまま弱って死んでいく事である。女から受け継いだこの称号を、ただこの場で腐らせてしまうのが非常に悔しかった。戦って殺されてこそ、初めて最強の称号を受け継がす事が出来るのだ。
――もう、長くはないというのに。
 迫り来る死の足音を、トラは感じていた。自分の身体のことは、自分が一番知っている。もはやこの病が治る見込みもないし、余命も僅かだろう。長くて半年、短くて――一ヶ月持つかどうか。
――夢を見たのは、その所為か。
 あれは、夢ではなく、もしかしたら走馬燈なのかも知れない。人は、死の直前に過去のことを思い出すという。ならば、この身体は紛れもなく死に近づいているという事である。
 このまま死ねば、現時点でNo.2である狂人にその称号が行くだろう。確かに狂人は強い。トラを抜かせば、現段階で最強と言えよう。だから、その称号が行き渡るのには抵抗感はない。
 悔しいのは、戦わずしてその称号が移ってしまう事だ。しかし、狂人はトラと戦うことはないだろう。トラに一太刀負わせた、あの日のネームズを殺すまでは。だがしかし、それはもはや叶わぬ願い。
 もはや、八方塞がりだった。もう、どうにもならない。
 この穴蔵で、静かに、惰性的に、最強の称号と共に朽ち果てていくのだろう。
「すまない……約束は、守れそうにもないよ……」
 女の――師匠の――母親の死に顔が脳裏を過ぎり、その間際に残した言葉を思い出す。
『負けるなら、最強の称号に相応しいヤツに負けろ』
 他の脆弱な輩と同じように、病に、歳に負けるのでは、絶対に納得してくれないだろうなとトラは思った。
「すまない……」
 あの日受け継いだ銃を握りしめ、薄暗い天井を見上げて謝った。

「懺悔の言葉は、終わったかしら?」

 突如として、薄暗い穴蔵に光が差した。――いや、それはランタンの灯りだった。思わず、トラは眼を細めた。
「蜘蛛……か?」
 徐々に眼は慣れていき、光の向こうにいるBSの姿が見えた。
「何の用だ? それに……」
 多くの足音が聞こえる。ばたばたとおよそ暗殺者には似つかわしくない音ばかりで、中には鉄同士が擦れる音――鎧の音まで混じっていた。
「外に居る連中は何だ? まさか、またここを潰しに来たという訳ではあるまいに」
「いいえ、そのまさかよ」
 BSは事も無げに答えた。
「正確には……ここを潰すために来たんじゃないわ。貴方を……貴方だけを殺すために、私が集めたのよ」
「復讐するために……か?」
 トラの言葉に、BSは大きく動揺した。ランタンの光もまた、大きく揺れた。
「どうして知っているの……?」
「知っている訳ではない。ただ……ただ何となく、そう思っただけだ」
「またお得意の『それ』かしら? だから嫌になるのよ、貴方には」
 BSはため息混じりに、呆れ返ったように言った。
「ベルセルクは……居ないのか? 殺された……訳はないか。ちゃんと守っておけと言ったのに、仕方がない奴だ」
 鼻先でせせら笑いながら、トラは誰に言うでもなく愚痴た。
「そうよ。貴方の最後の砦は、自分の欲望を満たすために外出中よ。残念だったわね」
 徐々に近づいてくる足音に、BSは僅かに後ろを向いた。数秒ほど見た後、またトラに視線を戻す。
「……ずっと、ずっとこの時を待っていた。貴方に復讐できる日を。貴方を殺せる日を」
 やがてBSの両脇から、溢れ出てくるように見知らぬ男達が雪崩れ込んできた。 
「この時の為だけに、私はずっと準備をしてきたのよ。……如何に貴方といえども、これには気が付かなかったでしょう?」
 部屋に入ってきた男達は全部で五人。トラを囲むようにして立っている。部屋の外にも、まだ気配を感じた。正確には把握できなかったが、恐らく十人以上は居るだろう。
――あぁ、そうか。
 ならば、この病は恐らくBSが仕込んだ事なのだろう。トラには感知できない毒を使って、私を不治の病にしたのだろう。
 しかし、毒らしい毒をBSから盛られた覚えはない。――いや、毒かどうか迷ったが、結局は毒ではないと判断した物が一つあった。
 魚の焦げだ。
 食べる瞬間、トラの中にあるそれが告げていた。これは毒ではないのかと。
 しかし、トラ自身がそれを否定した。たかが魚の焦げ程度が、毒な筈がないだろうと。
 魚料理がやけに多かったのも、トラは納得がいった。BSがトラの好みに合わせていてくれた訳ではなかったのだ。
――そして。
 BSの算段通り、トラは病に冒された。治る見込みのない、絶対的な病に。仮に治るのだとしても、もう遅い。身体機能は地の底に落ち、ましてや――今から復讐をされそうになっているというのに。
 だがトラは、嬉しそうに笑みを浮かべた。
――なるほど、これもまた。
 一つの強さだと言うことか。
――油断していた訳ではないが、よもやそのような方法をとってくるとは、流石の私でも気が付くことは出来なかった。
 つまり、それは。
――私より、強いと言うことか。
 ならば、相応しいと言えよう。
――最強の称号に。
 トラは床に手を付きながら、酷くゆっくりとした動作で立ち上がった。両手を何度か握りしめ、感触を確かめる。
――握力は相当落ちたが、短刀ぐらいは握られそうだ。
 周りに立っている男達は、その様子を下卑な笑みを浮かべながら見ていた。弱った最強が、滑稽に見えて仕方がないのだろう。見飽きたのか、周りに居る男達は次々と抜刀していく。
 そしてトラもまた、腰に下げている二本の短刀を抜き放った。
――感謝する。
 このままここで朽ちていくと思っていた。
 このままここで腐っていくのだと思っていた。
 しかし、今こうして最強の称号に相応しい暗殺者が目の前にいる。そして、戦いを挑んできている。
 それが、堪らなく嬉しかった。
 これこそが、トラが望んでいたこと。これこそが、最強の称号を受け渡す儀式に相応しい。
――そして、終幕を飾るには一番良い。
 恐らく、これが最後になるだろう。勝とうが死のうが、この身体ではこの戦いが限界だろう。
 そして、右手を順手――内側に構え、左手を逆手――外側に構える。胸の前で腕を交差させ、柄を合わせる。二本の短刀は、まるで一枚の刃のようになった。
 周りの男達の眼に殺気が宿る。BSは一歩後退し、カンテラの光は鎧を着た男に遮られた。肩越しに見えるBSの眼には、僅かな怯えと、復讐を果たさんとする殺気で満ちていた。
 その眼には、見覚えがあった。
――やはり、あの時の子供か……。
 思い出される、あの日の光景。思えば、あの母親は我が子を守るためにあそこへ逃げたのだろう。決して、恐くなって逃げたのではない。見逃すべきかどうか迷ったが、結局は殺してしまった。そして、子供だけを見逃した。何故、そうしたのかは自分でも分からない。単なる気まぐれだったのかも知れない。
 しかし、今ではそうしておいて良かったと強く思う。
 トラを殺すために、あらゆる策を巡らし、そして今こうして殺しに来てくれているのだから。
――もしかしたら、それも。
 トラの中にあるそれが、殺してはいけないと告げていたのかも知れない。こうなることを、予想して。
――昔から師匠にも言われていたな。お前は、それが人より優れていると。
 それがあったからこそ、今がある。
 それがあったからこそ、最強の称号を手にした。
 そして今は、頼れるのはそれしかなかった。
「さぁ、闘おうか……。さぁ、殺し合おうではないか……」
 周りの男達は各々の格好で剣を構え、そしてトラに向かって振り下ろした。

「そうだろう? 医者の娘よ」 



 観音開きの扉を開け、ネームズは臆することなく中に入っていく。
 開けた瞬間に矢が飛んでくるかも知れないと危惧していたが、特にこれといった歓迎はなく、それどころか誰一人見当たらなかった。もっとも、見当たらないだけで、気配や殺気は感じていたが。
 左右には白い柱が等間隔で並んでおり、頂上辺りには鳥なのか天使なのか分からない彫刻があった。床は絨毯で、よく分からない模様が幾つも描かれている。二階――と呼ぶのが正しいかどうかは分からないが、細い柱に支えられ、宙に浮くようにして二階の部分が円形状にはみ出ていた。そしてその左右には、緩やかな螺旋階段があった。
 よく見てみると、どうやらこれは左右対称に作られているようだった。
「狂人! 貴様の望み通り来てやったぞ!」
 部屋が広い所為か、ネームズの声が木霊する。
 その木霊が消えるかどうかの間際、左の柱の影から男が顔を出し、それと同時にボウガンを構えた。それをきっかけに、左右の柱から、左右にある二階の手すりの隙間から、奥の廊下から、一斉に男達が顔を出し、全てネームズに向けてボウガンを構える。
 正確な数は把握出来ないが、少なくとも二十の凶器がネームズを射ようと狙っている。残りは全てサーベルを構えており、計四十は越える殺気がネームズに浴びせかけられていた。
 ネームズはそれらをかわそうと身構えたが、狙っているだけで、放ってくる気配は感じられなかった。
――いつでも殺せるぞというアピールか?
 ただ殺すだけなら、入ってきた瞬間に矢を放っていただろう。狂人は、まだ殺すつもりではないのだ。つまりは、狂人が描いた構図がまだあるということに他ならない。
 ぎしりと、床が軋む音が上から聞こえてくる。それは、明らかにこちらに近付いてきていた。ゆっくりと、まるで焦らすかのように。
「アンタが『名前野郎』か。そういや、顔を見るのは初めてだったな」
 円形状にはみ出ている二階に現れたのは、やけに身長の高い男だった。知らない顔だったが、その物腰から実力はあるように見えた。
「誰だ? 貴様に用はない。狂人を出せ」
 身長の高い男は、二つの意味でネームズを見下し、そして鼻で笑った。
「よくこんな状況でそんなことが言えるな。もうすぐ死ぬってのに。虚勢か、それとも空元気か? まぁどっちでもいいが」
 身長の高い男は手すりに手を付いて寄り掛かり、
「あのな、自分も『プライド』のメンバーだったんだよ。『元』が付くし、ちょっと前までここに居なかったがな。で、だ。四年前にアンタが一番最初に殺した奴――『猟犬』って呼ばれていた奴を覚えているか?」
 猟犬、その名前にネームズは聞き覚えがあった。もっとも、『プライド』に加入してからBSにその名前を聞かされたのだが。
「あぁ、覚えている。俺が殺した。それがどうした? 貴様がそいつの弔い合戦でもやろうってのか?」
 歯を噛み締め、身長の高い男は憎々しい顔でネームズを睨んだ。
「そうだよ。アンタがこの街に来た理由と同じだよ。復讐だ。アンタを殺すためだけに、この街に自分もまた戻ってきたんだからな!」
 身を乗り出すようにして怒鳴るが、身長の高い男は疲れたようにため息をはき、表情は元に戻った。寄り掛かるのも止め、腕を組む。
 不意に、ネームズから視線をそらす。
 瞬間、張りつめた糸が弾かれた音がした。それは、左前方からだった。ついと視線をそちらに移すと、ボウガンの矢が放たれているのが視覚的にも分かった。唐突な事に反応が遅れ、辛うじてかわすことが出来たが、黒いコートの裾が削られた。
 次の矢に備えて身構えるが、放たれたのは結局その一本だけだった。ネームズの実力を試したのか、挑発なのか、そのどちらかなのだろう。
「馬鹿げているな。こんなに馬鹿で弱いのなら、逃げずにさっさと復讐すれば良かったよ」
 自分よりも実力が下と見たのだろう。先程の実力を様子見る眼ではなく、もはや三流の暗殺者を見る眼に変わっていた。
「まぁいいさ。だいぶ遅れちまったが、猟犬の復讐は出来るんだ。それで良しとするか」
 身長の高い男は、更に高い位置に手を上げた。それで、周りの空気はより濃く――より強い殺気へと変わっていった。
――かわせるか?
 一本一本であれば余裕でかわせる。しかし、二十本同時となれば話は別だ。ネームズが放つ八本のナイフと同じように、かわせるスペースが極端に狭い。それでいて発射のタイミングが若干ばらついているのだから、至難の業と言えよう。
 周りの殺気がより強く、矢のように細く鋭くなっていくのを感じる。
「そうだ、忘れていたな」
 手を上げたままの身長の高い男が、ふと思い出したように言う。
「ベルセルクからの伝言だ。冥土の土産に持っていけとさ」
 そして、ネームズが見た中でも最高に下卑な笑みを浮かべ、

「『レイチェルは俺が殺した。復讐したかったら、ここまで来い』、だとよ」
 
――……殺した?
「ま、待て。レイチェルは単なる人質だろう? 何故、何故殺す必要がある?」 
 二十のボウガンに狙われているにも関わらず、ネームズは力無く一歩進んだ。
「ちょっと待て、殺したのか? ベルセルクが殺したのか? もう……死んだのか?」
 視界が白に染まっていく。酷い耳鳴りがして、頭痛がしそうだった。
「あぁ、死んでいたよ。自分が、この眼で確かめた」
――レイチェルが……死んだ?
「待て……そんな……頼む、待ってくれ……」
 予想はしていた。最悪、レイチェルは殺されているのではないだろうかと。
 しかし、否定した。否定するほかになかった。
 救いが、消えることが怖かったから。
 希望が、消えるのが怖かったから。
 それだけは絶対に無いと、根拠のない確信をしていた。
 視界が白と赤に点滅する。
 酷い頭痛がする。
 吐き気もする。
 呼吸が荒い。
――ここは、どこだ?
 今自分がどこにいるのか、分からなくなってくる。
――俺は、何をしにここへ来たんだ?
 レイチェルを助けに来た。その筈だ。なのに、もうそのレイチェルは――居ない。 
 あの日の姉が脳裏を過ぎる。心臓を撃たれ、血の海に沈む、死体となった姉の姿が。
――レイチェルもまた。
 このような姿になってしまったのだろうか。
 誰からも救われず、全てのものから裏切られ、無念のままに、死んでいってしまったのだろうか。
 切り裂かれ、血の海に沈み、死体となってしまったのだろうか。
 スパゲッティーを煮る、レイチェルの後ろ姿が脳裏を過ぎる。
 安らかに眠る、レイチェルの顔が脳裏を過ぎる。
 雨の日に傘を差し、救いの手を差し伸べてくれたレイチェルの姿が脳裏を過ぎる――。

 あの日見た姉の死体が、レイチェルと重なった。
 
「姉さん……」
 ネームズは天を見上げ、
「僕はもう……大切な人を失いたくなかったのに……」 
 頬に、一粒の涙が零れた。

 瞬間、場が凍り付いた。 



 死んだと思った。

 心臓が鼓動することを止めた気がした。
 腕も、手も、指も、足も、呼吸することはおろか、瞬きすることも出来ない。たった一人の男に、四十人は居よう男達が、釘付けになっていた。
――アレは。
 ビックは、あの日感じた本能が間違っていなかったことに気付いた。その本能のままに、復讐することをやめ、逃げ出した事が間違っていないことに気が付いた。
 その本能とは――恐怖。死に対面したときと同じような、抗うことの出来ない、圧倒的な恐怖。
 そしてそれが、またここにある。
 またここに、
――死神だ。
 現れてしまった。 

 奇妙な静寂が、この場に訪れた。

 黒い死神が――真っ黒なコートを羽織ったネームズが、回転力を失ったコマのようにゆっくりと回る。黒いコートは広がり、さながら咲く花のようだった。布の擦れる音、絨毯と靴が擦れる音が妙にハッキリと聞こえる。皆、視線を外すことなくそれに魅入った。
 ヒュンと、風切り音が――とてもとても澄んだ風切り音が耳に届いた。
 奇妙な音――いや、驚いたように息を吸う音が四方から聞こえた。ビックは、その音に聞き覚えがあった。人が殺されたときにする呼吸音。半ば条件反射のように、左に視線だけを向けた。
 ボウガンを構え、柱の陰に隠れていた男二人に、ナイフが刺さっていた。一人は額に、もう一人は喉に。二人とも、素っ頓狂な顔をしていた。何が起こったのか分かっていないようだった。
――いつ、いつナイフを投げた?
 風切り音が聞こえたということは、その前に投げていたのだろう。しかし、広がった黒いコートで手が隠されていた為、ビックにはその瞬間が見えなかった。――いや、その瞬間はおろか、飛んでいくナイフすら見えなかった。
 視線を再びネームズに戻す。
――居ない?
 消えていた。時間にすれば僅か一〜二秒程視線を外していただけだというのに、ネームズはビックの視界から完全に消え去っていた。
――どこへ行った?
 右に視線を向ける。ネームズは見えない。居るのは、左と同じようにナイフを刺され、溢れ出る血を呆然と眺めている男二人が居るだけだった。
 たった数秒。たった一つの動作。それだけで、ネームズは四人を殺していた。
 再び聞こえる風切り音。今度は今視線を向けている右からであり、微かではあるが飛んでいくナイフを確認することが出来た。
 ビックから見て一番奥の柱の陰。ナイフの発射地点はそこからだった。
 ゆらりと、黒い影がそこから姿を現す。しかし、それと同時に聞こえる風切り音。それは、徐々にこちらへ近付いてくる。
「クソッ!」
 言うのが先か、動くのが先だったかは分からない。倒れるようにしゃがみ込む。勢い余って尻餅をつくが、そんなのを気にしている余裕などなかった。
 しかし、ナイフはビックの上空を通過しなかった。ビックが先程寄り掛かっていた、柵に突き刺さっていた。
――そうか。
 ネームズが居る場所――一階からでは、この柵が邪魔で直接ビックを狙うことは出来ないのだろう。恐らく、柵があることによって角度が足りなくなっているのかも知れない。
――馬鹿げている。
 ナイフ投げの狙いは正確無比。動きの速さは猟犬と同等か、或いはそれ以上。投げたナイフによって殺すのと同時に、視線誘導まで行うその殺しの技術。
 『ブルズアイ・ナイフ<目標(まと)の中心へ>』とも、『インビシブル・エネミー<見えない敵>』とも呼ばれるのを、ビックは我が身を以て知ることとなってしまった。
 ビックが勝っている点といえば、力だけ。たったそれだけでは、敵うどころかその辺の雑魚と同じように殺されるのがオチである。
 未だに聞こえてくる風切り音。断末魔にも似た呼吸音。悲鳴。雄叫び。尻餅をついているビックからは一階の様子は見えない。しかし、その音だけでも下がどのような地獄絵図になっているのかが分かる。
 狂っている。あのベルセルクと同じように、その一番最初に付けられた通り名の通り、狂っている。狂人だ。同じベルセルクだ。
――復讐など、もうどうでもいい。
 アレと戦いたくはなかった。死神と等しいそれと戦っても、敵う筈もない。――いや、それ以上に、怖い。アレは、恐ろしすぎる。
――猟犬の弔いなど知ったことか。死んで咲く花などない。死んで、死んでたまるか。
 ビックは身を翻し、背にあった廊下の方に身体を向けた。床に手を付け、立ち上がろうとする。
 ふと、風切り音が止んだ。声一つしない静寂が、またこの場に訪れた。
――まさか。
 全員、死んだのか。全員、
――殺されたのか。
 四十人以上居て、逃げる時間すら稼げなかったというのか。
――馬鹿げている。こんなのは、酷く馬鹿げている!
 疾走する音。階段を三段抜かしで駆け上がってくる音。そして――。

 死神が――ネームズが、姿を現した。そのコートは、返り血で赤黒く変色している。

「う、うぁわぁぁーー!」
 ビックは絶叫し、腰に帯刀していたロングソードの柄を掴む。戦おうと思った訳ではない。圧倒的な恐怖が、ビックにそうさせた。
 しかし、ビックがとれた動作はそれだけだった。
 次にはもう、瞬間的に間合いを詰めたネームズのナイフが、ビックの首にあてられていた。
 ひんやりとした、金属の冷たさを感じた。
――嫌だ。
 やがてその冷たさは無くなり、喉元を押されるような感覚の後に、鋭い痛みが襲ってきた。
――死にたくない。死にたくない。死にたくない。
 血と共に、それがビックから溢れていく。命が、零れていく。
――血が、血が。
 まるで雨のように、降り注いでいる。
――嫌だ。
 馬鹿げている。
――自分が死ぬなんて、馬鹿げている。
 ロングソードは柄から引き抜かれたが、ビックの手からするりと落ち、鈍い金属音を鳴らし、絨毯の中に埋まった。
 身体がぐらりと揺らぎ、まるで石像のように硬直した状態で倒れていく。しかし、ネームズは倒れていくビックに、トドメといわんばかりにナイフで胸を勢いよく刺した。
 ネームズはそのまま乗りかかるように体重を乗せ、ビックはその重みによって激しく床に叩き付けられる。刺したナイフはより深く身体に侵入していき、それは心臓まで達していた。
 ほんの少しだけ残っていた意識は、それで消し飛んだ。
 浴びせかけられた血の雨を気にもせず、ネームズはゆっくりと立ち上がる。
 そして、狂ったように叫んだ。その叫び声は、悲壮と哀れみに満ちていた。 

 それは、復讐に狂い、『レイニー・タウン(雨が降る街)』を『レイニー・タウン(血の雨が降る街)』に変え、数多の暗殺者を殺し、街を恐怖に陥れた張本人――。

 『ベルセルク・リベンジャー<狂った復讐者>』の、再来だった。



 狩られる立場なのは、いったいどちらなのだろうかと、BSは疑問に思った。

 トラを囲んだ五人の男達は、ほぼ同時に剣を振り下ろした――かのように見えた。その中央に居る屈強な男の、剣を振り下ろす動作は何故か途中で止まっていた。
 BSの位置からでは、何が起こったのかは見えない。しかし、トラが何らかの行動を起こしているのだけは分かった。
 少しだけ場所を移動して見ると、トラがその屈強な男に寄り掛かっているのが見えた。脇の下に潜るような、振り下ろす剣が絶対に当たらない位置にだ。
 そして、屈強な男のみぞおちには短刀が深々と突き刺さっていた。骨と骨の間を通すように、斜に。
 それを見て、BSは背筋が寒くなるのを感じた。
 倒れ込むようにして寄り掛かり、その勢いを利用して短刀を刺したのだ。これなら力は最小限で――いや、全く要らない。ただ、短刀を支える手と骨の間を通す技術さえあればいい。それなら、今にも死にそうな老人にだって出来る。
――これが。
 中央にいた屈強な男は、素っ頓狂な顔と素っ頓狂な声を出しながら、後ろに倒れていく。短刀は身体からするりと抜け、それと同時に、トラは身体を捻った。すると、だらりと伸びた両腕が円を描くように動き、順手に持った短刀が右手の男の喉笛を、逆手に持った短刀が左手の男の喉笛をかっ切った。二人の喉からは勢いよく血が吹き出、この部屋に血の雨を降らせた。
 しかし、握力が保たなかったのか、血で滑ったのか、トラの右手から短刀がすっぽ抜ける。右隅の壁にぶつかり、やけに澄んだ金属音を鳴らしながら床に落ちた。
「はは……、本当にもう……握るだけで精一杯か……」
 トラは力無く笑い、短刀を拾いに行こうとする。その背中は、無防備そのものだった。
 呆気にとられていた男達だったが、その背中を見て、残った二人で同時に襲いかかる。一人はけさ斬りに振り下ろし、続いてもう一人が横一文字に薙ぎ払った。
 トラは依然背中を見せたままだ。にも関わらず、身体を傾けてけさ斬りをかわし、しゃがんで横一文字をかわした。まるで、そうなることを分かっていたかのように。
 そして、そのまま短刀を拾い上げ、横一文字に薙ぎ払った男のアキレツ腱を切り、絶叫をしながら倒れたところを、トラは額を刺してトドメを刺した。
 残った一人は、驚愕の表情を浮かべながら、勢いよく後ずさった。
――これが、『最強のトラ』。
 まるで申し合わせたように動くトラに、皆驚きを隠せなかった。『ソレ』を知っていた、BSさえも。
 今目の前に居るのは、老いたトラ、罠に嵌ったトラ、そして病に冒され今にも死にそうなトラである。だが、だがしかし――。
 ナイフ投げはネームズに劣り、身体機能は猟犬にも――もっとも、今ではBSにすら劣っているだろうが――劣り、知識もBSに劣る。勝っているのは、たった一つだけ。だがそれが、トラを最強にさせた。

 ソレとは、勘である。

 それが無ければ、恐らくトラは二流の暗殺者程度の実力しかないだろう。しかし、トラにはそれがある。誰よりも勝っている、勘が備わっている。そしてそれは、歳を重ねようが、病に冒されようが、決して劣ることはない。
――甘く見ていたというの?
 BSは、決して甘く見ていた訳ではない。だからこそ、この四年間で治る見込みのない病を患わせ、身体機能と気力を削ぎ落としてきた。加えて、トラを殺すためだけに二十人を超える同志を集めたのだ。
 しかし、しかしそれでも――。
「なかなか感覚が戻らないな……。やはり、四年のブランクは長いか……」
 トラの声は、喜びを帯びていた。病に冒されてから、初めて聞いた気がする。
「どうした……? こないのか……? お前らが望んだ殺し合いだろう……? さぁ、どちらかが死ぬまで続けようじゃないか……?」
 トラは牛歩の如く一歩、一歩と残った一人にゆっくり近付いていく。
 悲鳴に近い声を上げ、残った一人――顔に歴戦の傷がある男は、先程トラが座っていた場所まで後退していった。
「や、やめろ……来るなぁ!」
 傷がある男の背はやがて壁につき、酷く怯えた形相で剣を構えた。
 トラは変わらぬ歩調で男に近付いていき、やがてBSに対して背を向けた。
 瞬間、一陣の風がBSの脇を通過していった。手に持っていた、ランタンの火が揺れる。
 元『プライド』のメンバーが、トラの背に向けて剣を振り下ろす。
 怯えた形相の男が、打って変わって険しい顔になり、それに合わせるように剣を振り下ろした。
 これが、彼らの狙いなのだろう。完全なる、挟み撃ち。その枯れ木のような身体では、今更左右に跳んでも手遅れだ。
 しかし、トラはそれを難無くかわした。僅かに軸を移動し、身体を縦にし、剣と剣の隙間に入って。
 後は、先程の再現だった。身体を捻り、両手は円を描き、二人の喉笛は何とも呆気なくかっ切られた。止もうとしていた血の雨が、再び降り注ぐ。
「そうだ、それで良い……。そこのBSのように、あらゆる手を尽くして私を殺しにかかってこい……。私を……殺してみろ!」
 枯れ木から発せられたとは思えない、強い声。BSは驚き、思わず身体を揺らす。それと同時に沸き上がってくる、恐怖。あの日――毒殺に失敗した時に感じたあの恐怖が、蘇ってくる。
 トラの腕は柳のように細く、顔は死人のように土気色をしている。満足に短刀を振るうことも出来なくなり、ろくに動くことも出来ない。にも関わらず、殺せない。逆に、殺されていく。狩られていく。
 トラは、やはり『トラ』なのだ。老いても朽ちても、それは変わらない。『最強のトラ』は、依然として『最強のトラ』のままだった。
「下がって! もっと広い場所で、多人数で戦うのよ!」
 一つ部屋を抜ければ、広い部屋へと出る。勘で剣筋を読み切っているというのなら、読んでもかわせない状況を作ればいい。八方から囲んで攻撃すれば、さすがのトラもかわせないだろう。
 BSは鎧を着た男を盾にしながら、じりじりと後退していく。後ろに居た男達は、BSの指示通り広い部屋に集まっていった。
 トラは、相変わらずの歩調で近付いてくる。まるで、散歩でもしているようだ。
 BSは狂人がいつも見張っている部屋を抜け、広い部屋に出る。戦いやすいように、テーブルや椅子などは壁際に寄せられていた。入口の両脇には既に、男二人が剣を振り上げてトラを待っている。
 普通の暗殺者になら、その方法はある程度有効だろう。非常に分かり易い罠ではあるが、出口はその一つしかない。つまりは、どう足掻いてもその罠に掛からなければならないのだ。巧くかわしたとしても、出口を塞がれ、囲まれてしまう。
――でも、多分その罠は。
 無駄に終わる。相手は、普通の暗殺者ではないのだから。
 分かっていても、どうすることも出来なかった。もしかしたら、という思いが喉元まで出掛かった制止の言葉を塞き止める。しかし、仮に止めたとしても、他に良い方法が全く思いつかないのも事実だった。
 トラが入口のすぐ手前まで来た。あと数歩歩けば、両脇の二人はギロチンのように剣を振り下ろすだろう。
 つま先が部屋に侵入する。両脇の二人が剣を握る手に力を込める。

 トラの頭が、その境界線を越えた。

 獣のような雄叫び。両脇の二人が、ほぼ同時に剣を振り下ろす。
 境界線を越えた筈のトラの頭が、後ろに下がっていく。ギロチンはトラのどこも擦ることなく、虚しく空を切り、床板に刺さった。
 両脇の二人は、茫然自失とした様子でその床板に刺さった剣を見つめた。追い打ちを掛けるように、トラは、その剣の上にゆったりとした動作で乗った。まるで、台座にでも乗るかのように。
「もう少し工夫を凝らさねば……私を殺すことは出来んぞ……」
 いつの間にか順手に持っていた短刀が逆手になっており、そしてその二本の短刀で両脇の二人の喉元を刺した。左手の男は、喉元を押さえながら床をのたうち回り、右手の男は剣を握りしめたまま膝から崩れ落ち、正座したまま静かに死んでいった。
 異常という他になかった。誰一人トラに一太刀負わせることも出来ず、既に八人も死んでいる。あまりの異常さに、殺し合いに慣れている筈の男達が皆トラを凝視したまま、動けないでいた。
 勝てると思っていた。これだけ手段を尽くして、勝てない方がどうかしていると思っていた。しかし、しかし――。
 相手は、科学や理論では説明できない勘だけを頼りに戦ってきたのだ。普通の戦略など、役に立つはずもない。それを、BSは失念していた。――いや、考えないようにしていた。勘に対抗する術など、無かったからだ。
「囲んで!」
 BSの指示で、凍り付いていた男達が一斉に動き出す。盾となっていた鎧の男も、囲む為に前に出た。
 唯一思いついた術が、集団で囲んで逃げ道を無くすというだけ。子供のイジメと何ら変わりない、低俗な方法だった。
 しかし、皆浮き足立っている。普通とは全く異なるこの暗殺者に、恐怖を覚えているようだった。BSもまた、蘇ってきた恐怖を抑えきれないでいた。
 トラが台座と化した剣から降り、輪の中心に向かって一歩歩き出すと、何人かが小さな悲鳴をあげて後ずさっていく。もう一歩踏み出すと、それで限界だったのか、小さな悲鳴をあげた男達が蜘蛛の子を散らすように逃げていく。その数、五人。
 囲んでいた男達に大きな動揺が走る。数人、逃げていく男達の背中を眼で追った。
 それを、見逃すトラではなかった。ゆらりと幽鬼のように近寄り、それに気が付いたときにはもう、みぞおちに深々と短刀が刺さっていた。
 もはや、勘がどうだこうだという問題では無くなっていた。完全に、統率が崩壊している。
「こっちへ! 態勢を立て直すわ!」
 BSは、先程逃げていった男達とは反対の方向に駆けだした。なぜなら、こちらからしか出られないからだ。
 入口と出口が同じと勘違いして、あちらに逃げたのだろう。しかし、あちらの扉はカウンターから解除しなければ開かない仕組みとなっているのだ。つまりは、完全な行き止まりになっている。逃げた先が袋小路とは、悲惨という他にない。
 BSを含めた八人が、出口を目指して階段を駆け上がっていく。鎧を着た男は、その重みで素早い動きがとれず、逃げ遅れていた。
 行き止まりに逃げた五人。そして、鎧を着た男を合わせて六人。数分もしない内に、トラに殺されてしまうだろう。
 二十人以上居た同志達は、いつの間にか八人まで減っていた。
――たった数分で。
 今まで築き上げてきた作戦が、音を立てて崩れていく。BSは、悔しさに歯を噛んだ。
 相手が悪かった。そうとしか言い様がなかった。
 しかし、復讐したい相手はトラなのだ。トラを殺すために、医学の道を止め、血で汚れることを決めたのだ。相手が悪かったの一言で済ませられるほど、簡単なものではない。
 このまま遠くへ逃げてしまうかとも思った。どのみち、トラは老い先短い。放っておいても、その内死ぬだろう。
 しかし、それでは復讐が完成しない。緩やかな死ではなく、自分自身の手で死を与えることに意義があるのだ。復讐劇の幕は、己自身の手でしか下ろせない。
 金の受け渡しをする小窓を過ぎ、出口が見えてきた。
 ひんやりと湿った空気を肌で感じる。
 夕焼け通りには、いつの間にか、雨が降っていた。



 狂人の最も古い記憶は、九歳の時のある日。母親に、売られた日である。

 その日は、今にも雨が降りそうな曇り空だったのを覚えている。どうしてその日を選んだのかは、狂人は知らない。偶々だったのか、それとも取引先にそう指定されたのか、しかしもはやどうでも良い事だった。
 いつもは遠くで見ているだけの大きな洋館が、すぐ目の前にある。鉄の柵で囲まれ、中では花が咲き乱れ、大きな噴水が水飛沫を上げていた。
 薄暗い空を背景にして見る洋館を、狂人は美しい彫刻を見た時のそれと同じように、感嘆のため息をはきながら見蕩れていた。
 横にいる母親の裾を掴み、狂人は嬉しそうにはしゃぐ。しかし母親は、鋭い目つきで狂人を睨み、黙らせた。
 この時、狂人はすごく嬉しかった。何故嬉しかったのかは、明確には覚えていない。パン屑のような記憶を掻き集めてはみたが、久しぶりに母親と一緒に出掛けられたのが嬉しかったという意外、覚えていなかった。
 一台の馬車が、狂人達の前で止まった。反対側の方で扉が開く音がし、ねずみ色の服を着た若い男がこちらに向かって走ってくる。そして、若い男は狂人達の正面にある扉を、恭しく頭を下げながら開けた。
 中から現れたのは、髭を蓄えた初老の男。紺色のスーツに、紺色のシルクハット。若い男に手を引かれ、ゆっくりと降りてきた。
 横にいた母親が凄い勢いで何度も何度も頭を下げるので、狂人も何となく頭を下げた。
 初老の男は片頬を歪ませ、笑っているのか怒っているのか分からない顔で狂人を見つめる。
「幾らかね?」
 低い声で、初老の男は呟いた。
「わ、私にはそういった値段が分からないので……。お任せ致します。ただ、手心を加えていただけたのならと……」
 そう言って、母親はまた何度も頭を下げた。
「ふぅむ……」
 初老の男は髭を撫でながら、低い声で唸った。
 少しして、初老の男は若い男に何かを耳打ちする。それを聞いた若い男は少し驚いたように頷き、懐から黒い塊のような物を取り出した。それは、財布だった。
 そこから半分ほど取り出し、それを母親に手渡した。見たこともない多額の現金に、狂人は思わず眼で追った。
「こんなにも……! ありがとうございます! ありがとうございます!」
 母親はその札束を強く握りしめながら、また勢いよく頭を下げた。
「ほら! あんたも!」
 そう言われ、何が何だかよく分からないまま、狂人は感謝の言葉を言いながら頭を下げた。
「久々に良いのが来たものだ……。今夜は、楽しめそうだな」
 片頬を歪ませ、笑っているのか怒っているのか分からない顔で初老の男は言った。
「一つ、聞いておきたい。どうして、この少年を売る気なったのだね? 身なりからして、貧困民には見えないが……」
 全く事態を把握できない狂人は、縋るような眼で母親を見た。何を言っているのか、説明して欲しかった。
 母親は、狂人に顔を向けた。思わず、息を呑んだ。
 いつもの厳めしい表情ではなく、泣いているような笑っているような顔で涙を流していた。
「私を捨てていった、あの糞野郎の子供だから……あの糞野郎の血をひいているからですよ」
「ほぅ」
 初老の男は愉快そうに声をあげた。
「もう……もう我慢できない。あの糞野郎の子供なんて……要らない!」
 それは、初老の男に説明しているというよりは、独白に近かった。堪りに堪ったヘドロのようなそれを、吐き出していた。
 九歳といえども、無知ではない。母親に捨てられ、ここに貰われてしまうぐらいは把握していた。何よりも、母親の眼がそれを一番物語っていた。狂人を、拒否していた。
「母さん……?」
 狂人は、怖ず怖ずと手を伸ばして母親に触れようとする。しかし、その手は撥ね除けられた。
「触らないで! ……穢わらしい!」
 それが、決定的となった。
 ショックのあまりに凍り付いている狂人とは対照的に、母親は笑みを浮かべていた。清々したといった笑顔だった。先程の泣きそうな顔も、涙も、もはや無い。
 狂人がハッキリと覚えているのは、ここまでだった。後は、夢のようにぼんやりとした記憶しか残っていない。それが事実なのか、記憶の前後を繋ぎ合わせるための妄想なのか、判断は付かない。
 若い男に手をひかれ、いつか暮らしてみたいと思っていた洋館に向かって歩き出す。振り向くと、母親は既に居なかった。空は、相変わらず雨が降りそうな曇り空だった。
 雲の切れ目から、一筋の光が射していた。

 ここから先は、完全に覚えていない。掃除してしまったかのように、欠片一つなかった。――いや、もしかしたら覚えていたくないだけなのかも知れない。そして、掃除してしまったのは狂人自身なのかも知れない。
 母親に手を撥ね除けられた瞬間に、狂人は死んでしまった。精神が、正常でいられなくなってしまった。母親が狂人を拒否してしまったように、狂人もまた現実を拒否しなければ、狂ってしまっていただろう。その、現実の辛さに。
 だから狂人は、無意識の内に、己を守るために自ら死ぬことを選んだ。精神が死んでしまえば、何も感じることはない。何も、辛くはない。
 これ以上、辛いことを味わう事など無い――。
 


 狂人が持つ次の記憶は――自我が戻ったのは、それから四年後。十三歳の時だった。

 いつものように長い廊下を掃除していると(記憶がないからそうだったとは言えないが、何の疑問も持たずに仕事をこなしている事から、多分これがいつもの仕事だったのだろう)、警護の人達が急ぎ足で狂人の脇を通っていく。方向からして、この館の主の部屋――あの初老の男の部屋に向かっているのだろう。
 次いでメイド達が逆方向に走っていく。その顔は恐怖に満ちていた。
 狂人は、何かが起こっているのには気が付いていた。しかし、それを全く気にせず、掃除を再開した。
 遠くで激しい物音が聞こえる。時折、悲鳴が混じっているような気がした。しかしそれでも、狂人は掃除を続けた。あちらに行って手伝うという気も無ければ、逃げるという考えも無かった。掃除をすること以外、何も考えていなかった。
 悲鳴が徐々に近付いてくる。どたどたと荒々しい足音も近付いてくる。誰かが、こちらに向かって逃げてきているようだった。
 やがて、今までくぐもっていた悲鳴がハッキリと聞こえるようになった。ついと視線をそちらに向けると、先程ここを通っていった警護の一人が廊下の角に居た。恐怖に引きつった顔で、まるで狂人に助けでも求めるように、前のめりになって走ってくる。
 しかし、唐突に男は身を捩り、恐怖に満ちた顔は激痛で歪む顔に変わり、そのまま倒れていった。
 やがて現れたのは、赤い服を着た男。――いや、返り血で赤に染まった服を着た男だった。
 倒れている男は声にならない声をあげ、狂人を見た。その眼は、助けを求めていた。しかし、すぐさま赤い男に止めを刺され、その眼は死人の眼へと様変わりしていく。
 赤い男はこちらを向き、ゆっくりと歩いてくる。それを、狂人はただ見ていた。そこには恐怖も怒りも、感情らしい感情は何一つとしてなかった。本当にただ、見ているだけだった。
「潔いな……」
 赤い男はそう呟き、刀身も赤に染まった短刀を振り下ろした。

 それを、狂人はかわした。

 かわしていた、というべきなのだろうか。全く意識していないのにも関わらず、身体が動いていた。
「ほぅ……」
 赤い男は、驚きと喜びが混ざった感嘆の息を漏らす。よもや、かわされるとは思っていなかったのだろう。しかし、今改めて考えれば当然の反応だった。なにせ、赤い男とは『最強のトラ』なのだ。そのトラの一撃を、まだあどけない少年がかわしたとなれば、驚かない方がどうかしている。
 そして、トラの目的を考えれば、次の行動も何ら不思議では無かった。
「面白い子供だ……。仕込んでやれば、もしかしたらお前も……」
 トラは何かに気付いたようにハッとなり、そして笑った。
「そうか……。師匠も、こんな気持ちだったのかも知れんな」
 微かに微笑みながら手を差し出す。沢山の人を殺し、沢山の血を浴び、それでも尚笑っているトラが、何故か神々しく見えた。

「さぁ……来るか? 血と狂気に塗れた、この世界に」 

 ※

 それから狂人は、人を殺し続けた。トラから学んだ、その殺しの技術で。
 老若男女問わず、貴族だろうが奴隷だろうが、病人だろうが虫の息だろうが、生きとし生けるもの全てを殺してきた。
 それが、狂人にとっての強くなる方法だった。
 トラを知れば知るほど、その強さにただ感服するばかりだった。四方八方からの剣をかわし、一つも傷を負わずに数多の敵を殺すその姿は、まさに神憑りだった。
 そして狂人は、疑問に思った。どうやったら、そこまで強くなれるのだろうかと。
 きっと、沢山の人を殺してきたからだろう。
 きっと、沢山の生を奪ってきたからだろう。
 きっと、殺せば殺すほど強くなっていくのだろう。
 それが、狂人の結論だった。
 狂人にとっての殺しとは、生を譲り受けるための儀式であり、決闘なのだ。勝った者が敗者の命を貰うという、至って単純なルール。相手が無抵抗だろうが必死の抵抗を続けようが、生を持っている以上は狂人の儀式の対象であり、決闘の相手となる。
 しかし、それが狂人を強くさせた。誰よりも人を殺し、誰よりも人の死に際を見てきた。死神とも言われる、トラよりも。
 その狂った方法に、皆が恐怖した。そしていつしか、それが通り名となっていた。

 『ホミサイダー・ベルセルク<強さの為に殺し続ける狂人>』

 名は体を表すというように、その通り名を付けられた後でも狂人は皆殺しを続けた。『プライド』のNo.2に登り詰めた後でも、それは変わらなかった。目標を叶えるまでは、きっと皆殺しを続けるだろう。
 その目標とは、トラを殺すこと。儀式を行い、最強の称号と共にその生を譲り受ける為である。それが狂人の目標であり、そしてトラの悲願であった。最強であるにも関わらずトラが『プライド』を作ったのも、それが理由である。いつか自分を殺してくれる誰かを育てるために、そのギルドを作ったのだ。
 最強の称号を引き継ぐこと。それは狂人にとっての夢や野望ではなく、トラに対する恩返しなのだ。拾ってくれた恩。そして、生を与えてくれた恩。それを返すためだけに、狂人は強くなることを決めた。人を、殺し続けた。
 二十歳をとうに過ぎた頃には、狂人は名実共に最も最強に近い位置に来ていた。トラから聞いた話では、この歳ぐらいにその称号を受け継いだのだという。ならば、そろそろ挑む頃合いなのだろうと思っていた。

 そんな時だった。復讐者が――ネームズが、この街にやって来たのは。

 ※

「……気に入らねぇな」
 上等な部屋に、純白のシーツを敷かれた上等なベット。そこにこぢんまりとした様子で座っている、白い少女――奴隷であるレイチェルが居る。
 最後の仕上げをするために、このレイチェルを殺すために、狂人はマチェットを振り上げていた。しかし、その眼を見た途端、振り下ろせなくなってしまった。
――眼が、死んでやがる。
 この白い少女はもはや死んでいると、狂人は思った。
 狂人が殺すのは、生を持っている人だけ。それが儀式を行う為の絶対条件であり、決闘をするためのルールだからだ。逆に言えば、それが無ければ儀式は行えない。決闘の対象にもなりえない。つまりは、殺せないのだ。
 いや、殺そうと思えば殺せる。殺す気も何も湧いてこない状態でも、相手に向かって剣を振り下ろせば良いだけなのだから。過去に一度、狂人はそれを実践した。強くなるために、人を殺さなければならないのだからと自分に言い聞かせて。
 しかし、得られたのは何も無かった。寧ろ、様々なものが磨り減っていった。言葉では言い表せない気持ち悪さが沸き上がり、吐瀉するほどの酷い吐き気が込み上げてきた。
 以来、狂人は生を持っていない人――眼が死んでいる人を殺すのを止めた。狂人にとっての殺人とは、強くなるための方法であり、人を殺すのが目的ではないからだ。
「……クソ」
 酷い脱力感に襲われ、狂人は舌打ちをしながらマチェットを下ろし、鞘に収めた。
 こうなってしまうともはや、この少女を殺すことが出来ない。無理に殺せば、あの意味不明な気持ち悪さが襲いかかってくる。ましてや、今からネームズと戦うのだ。これから始まる最高の殺し合いに、水を差すような真似だけはしたくなかった。
――最後の最後でこれか……。
 狂人が考えていた最後のお膳立てとは、レイチェルを殺し、その死体をネームズに見せつけてやる事だった。しかし、殺せない今となっては変更せざるをえない。酷く苛つき、強く歯を噛んだ。
「私を……殺してはくれないのですか?」
 命が助かったというのに、目の前で座っている白い少女は無感情な声で、しかしどことなく残念そうな声で言った。――いや、死を望んでいるのだから、レイチェルにとってこれは残念な結果になるのだろう。
「そうだよ。殺されなくて残念だったな」
「どうして、私を殺してくれないのですか?」
 奇妙な質問だった。殺す理由は何度か尋ねられたが、殺されない理由など聞かれたこともない。
「知るか。死にたきゃ勝手に死ね。そこの窓から飛び降りれば、すぐにでも死ねるぜ?」
 親指で後方にある窓を指差す。もっとも、三階から飛び降りても運が悪ければ生き残ってしまうが。
 運が悪ければ生き残るという奇妙な言葉に、狂人は心の中で笑った。
「それは……出来ません」
 レイチェルは項垂れながら言った。これまた奇妙な話だと狂人は思った。死を望んでいるのに、自殺は出来ないというのだから。
「何で? 死にたいんだろう? 他殺も自殺も同じだろうに」
「違います」
 思いの外強い声でレイチェルは否定した。
「だから、何でだ?」
「それは……お母さんがそう言ったからです」
「はぁ?」
 予想だにしなかった答えに、狂人は素っ頓狂な声をあげた。
「ママの言いつけを守って自殺しないってか? ここに売られて、奴隷になったっていうのに?」
 母親の顔が浮かび、すぐに消えていった。今となっては、どうでも良い事だ。
「違います。私のお母さんは……絶対にそんなことはしません。私に生きてくれと言っていました。だから……自殺は出来ません」
 レイチェルは無感情な声ではなく、初めて感情が混じった声で言った。死んだ眼にも、微かに生が宿る。しかし、やはりその程度では殺す気は湧いてこなかった。
――訳が分からんな。
 レイチェルは明らかに死を望んでいる。しかしそれは、自殺ではなく誰かの手によって死にたいらしい。生を譲り渡したいという訳でもないだろう。
 死とは、全てを終わらせる現象であると同時に、何かを引き継ぐ事象なのだと狂人は思っている。例えばそれは、生。例えばそれは、称号。だからレイチェルが死にたがる理由が、今一つ理解出来なかった。
 何かを残すという訳でもない。
 何かの為に死ぬという訳でもない。
 だというのに、この白い少女は死を望んでいる。奴隷のままで、ゴミ屑と何ら変わらない存在のままで、死んでしまいたいのだという。
 何故か、酷く苛ついた。
「おい、てめぇは俺を殺したいとは思わないのか?」
「……え?」
「そうか、知らんか。あのな、俺はてめぇを勝手に悪人に仕上げて、てめぇのお相手を今から殺そうとしてんだ。どうだ、憎いか?」
 そうだ、憎めばいい。憎めば、きっと生を得られる筈だ。あのネームズのように、あの蜘蛛のように、復讐を果たすために死に物狂いで生きるはずだ。
「どうして、憎いんですか……?」
 しかし、狂人の予想に反し、レイチェルは相変わらず死んだ眼でそう問うた。
「嘘付け。俺が憎いはずだ。殺したいほどに」
 苛ついた様子で狂人は言った。だが、対照的にレイチェルは静かに首を横に振るう。
「貴方が殺してくれなくても、領主様は私を殺してくれると言ってくれました。だから……感謝こそすれど、憎む筈がありません」
 狂人は、酷い眩暈を感じた。こうまで価値観が違う人種が居るとは、思ってもみなかったからだ。
「あぁ、そうか……。そこまで死にたいなら、後であの変態野郎に殺されるといい。名前野郎と一緒に、地面に埋めてやるよ」
「名前……野郎?」
「ネームズだよ。……あぁそうか、知らんか。ネームズがこの館に来てるんだよ。てめぇを助けるために、な」
 狂人の言葉に、レイチェルは何故か大きな戸惑いを見せた。
「どうして……? 何で、私を助けに……?」
 先程の様子とは打って変わって、視線は落ち着きを無くし、忙しなく身体を動かす。見るからに動揺していた。
「駄目よ……助けなんか、呼んでないのに……」
 思っても見なかった反応だった。しかし、感情らしい感情が垣間見え、狂人は思わずほくそ笑む。
――やはり、こうでなくてはな。
 王子様が助けようとしているのが亡者ではつまらない。か弱いお姫様を助けに来る方が、物語として面白味が増すというものだ。真の力に目覚めた王子が雑魚を蹴散らし、そして魔王との一騎打ち。それが、狂人が描いた構図だった。
 しかし、それ以上は描いていない。王子が勝つか、魔王が勝つか、それは勝負次第――己の実力次第である。
 ふと感じる、独特の寒気。過去一度だけ、それを感じたことがある。それは遠くから、徐々にこちら向かってやってくる。
――来たな。
 嬉しさのあまり、狂人は笑みを隠しきれなかった。
 これから始まるのは、狂人にとって最高の殺し合い。最高の決闘。そして、最高の生を譲り受けることが出来る最高の儀式。
 本当はあのネームズを殺した後に、トラと戦い、最強の称号を受け取る予定だった。しかし、今となってはそれは叶わない。だからこれが、事実上の最強を決めるための勝負だった。
 未だに動揺しているレイチェルを尻目に、狂人は扉に向かって歩き出す。
「待って!」
 よもや止められるとは思わず、狂人は驚いた顔で振り向く。
「私を殺して……! そうすれば、あの人は死なずに済む。だから……お願い」
 この期に及んでまだ死にたがるレイチェルに、狂人は酷く苛ついた。
「馬鹿か? てめぇが死んだ所で、この戦いは止まらねぇよ。邪魔をするな」
 いい加減レイチェルの態度にもうんざりし、無視して扉に手を掛ける。
「私の為になんて来ないでよ……。私の為に死のうとなんてしないでよ……。死んでしまいたいんだから、放っておいてよ……」
 レイチェルは深く項垂れ、そう呟いた。
 もはや構ってなど要られない。何を言っても無駄なのだ。こういう手合いは、無視するに限る。
 しかし、最後に一言だけ言ってやりたくなった。
 狂人は振り向き、
「名前野郎は、今からてめぇの為に命張って戦おうとしてるんだ。てめぇも命を掛けろ。次に扉を開けるのが、誰かをな」
 らしくないと思った。ましてや、ネームズを庇うような真似事までする始末だ。本当に、どうにかしている。
 単なる気の迷いだと思い込む事にして、狂人は扉を開けた。
 扉を開けると、寒気が強くなるのを感じた。まだ目視が出来ないというのに、張りつめた空気がここまで漂ってきている。
――さすがだ。
 数多の暗殺者を殺しただけはある。
――親父に、一太刀入れただけはある。
 遠くに聞こえる悲鳴、物音。それらの音が近付いてくると共に、鳥肌が立つような殺気もまた強くなっていく。
 少しして、館内は物音一つ無くなった。微かに聞こえてくるのは、粘着質の高い音。
――ひとっ風呂浴びてきたようだな。
 『血の風呂』を作り上げてきた者は、赤色の足跡を付けながら、独特の足音を立てる。それは、皆殺しの足音だった。
 階段を昇る音と、その足音。それは、廊下の先から聞こえてくる。

 やがて姿を現したのは、赤黒いコートを着たネームズ。手は血に染まり、頬にも返り血が見られた。

 それに、狂人は息を呑んで見蕩れた。
――なるほど。親父が惚れ込むのも分かる。
 見た瞬間にそれを感じた。トラとは異なった最強の形を、ネームズは持っている。復讐に狂って手に入れたその力を、遺憾なく発揮している。
 狂人に浴びせかけられる殺気が、一気に強くなった。鳥肌どころの話ではない。本当に死んだと思わせるほど、鋭く、狂気に満ちていた。
――そうだ。これだ。
 狂人は、嬉しさのあまりに笑みを零す。
 最高の儀式を、最高の決闘を、最高の殺し合いをするに相応しい。そして、
――最強を決めるのに、相応しい。
 ネームズは腰のベルトから両手に持てるだけのナイフ――八本のナイフを抜き取り、左手を右肩の上に、そして右手はだらりと下げる。右足を下げ、身体を斜に向けた。
 狂人もマチェットを引き抜く。狂人には構えらしい構えはない。マチェットを持った右手は下がったままで、身体には力は入れず、自然体な様子で身構えた。
 言葉など要らない。開始の合図は、ネームズがナイフを放った瞬間。殺し合いに必要なのは、それだけで充分だった。
 狂人はネームズの眼を見た。

――違う。



 雨は降り続けている。殺された者達の涙雨なのか、それとも四年前に降り注いだ同じ血の雨なのか、或いはその両方なのかも知れないとBSは思った。
 空は雨雲が隙間無く覆い、夕暮れ時だというのに薄暗い。左右には人気(ひとけ)のない家々が立ち並び、石畳には幾つかの水溜まりが出来ていた。そして、地面に転がっている死体が三つ。
 BSは、朝焼け通り――『血の雨通り』で、トラと一対一で対峙していた。
 ある者はまた出口で待ち伏せし、ある者は死を覚悟して真剣勝負をし、ある者はBSを庇うようにして、皆死んでいった。
――また、一人で生き残ったのね。
 脳裏を過ぎるのは、父親と母親が殺されたあの日。未だに耳に残る、あの銃声。
「はぁ……はぁ……あとは……お前だけだ……」
 肩で息をしながらトラは言った。顔も、疲労の色が濃い。
 それもその筈だった。病に冒されきったその身体は、もはや立つことすらままならない状態なのである。ましてや、人を殺す力などある筈もない。しかし、現にこうしてトラは立っている。二十もの人を殺している。
「剣を取れ……蜘蛛よ……。はぁ……これが……最後だ……」
 トラは力を振り絞って身構える。恐らく、自身がそう言ったように、これが最後となるだろう。例え、この場でBSに勝ったとしても。
 人生の大半を捧げた策は破れ、トラを殺すためだけに集めた同志は皆殺され、あるのはこの身一つ。例え相手が満身創痍で、強風に煽られただけで散ってしまうような枯れ葉だとしても、勝っているものが知恵だけというのは、あまりにも厳しい勝負である。
――それでも。
 復讐心は、未だに絶えなかった。心が、諦めてくれなかった。逃げても、トラはいずれ死ぬ。しかし、今この場で、己の手で最後の幕を下ろさねば、復讐の意味がなくなってしまう。倫理も道理も超えたその考えに、BSは思わず苦笑した。
 生き残ろうなど、そんな生ぬるい考えは捨てることにした。腕をもがれようと、脚をもがれようと、首を切られようと、
――私は、トラを殺す。
 全ての覚悟は決まった。BSは腰に水平に着けていたダガーを抜き取る。肘から掌程の長さがあり、鍔はない。
――ごめんなさい、ネームズ。貴方との約束は、守れそうにもないわ。
 それだけが、唯一の心残りだった。
 BSはトラの眼を直視する。恐れなど、もはや何もない。
「良い……眼だ」
 トラは一度大きく息を吸い、肩で息をするのを止めた。
――来る!
 そして、BSに向かって走り出した。
 今までのゆったりとした動作ではない。走って間合いを詰めてくるそれは、トラ本来の戦い方である。残りある全てを、燃やしているようだった。
 BSもまた、トラに向かって走り出した。しかし、目標はトラではない。その途中にある、水溜まりに沈んだ死体である。
 BSはその死体を蹴り上げ、トラの視界から自分を完全に隠す。
 トラはそれに一瞬怯み、走る勢いが落ちる。しかし、これが単なる目眩ましである事は分かっていた。そして、左右のどちらからか現れるBSを警戒する。
 勘がトラに告げる。BSは、右から出てくると。
 身体の軸を右に向け、右から現れるであろうBSに備えた。
 だが、BSは左から現れた。手だけが見え、トラは悲鳴を上げる身体を無理矢理左に曲げた。
 勘が外れたとトラは思った。戦闘中に於いて、勘が外れたのはこれが初めてだった。
 しかし、左から現れたのはBSの左手だけ。二の腕から先は、存在していなかった。
 そして右から、口にダガーをくわえたBSが現れた。切った左手を左に投げるために、口にくわえたのだった。そしてそれを、右手で取った。
 その一太刀に全てを託すように、BSは吼えながら跳んだ。
 トラは再び右に戻そうとする。しかし、身体は動かなかった。もはや、限界を超えていた。

 それが、BSが最も欲しかったもの。人生の大半を費やしてようやく手にした、一瞬の隙――。 

 トラの脇腹にダガーが突き刺さる。深々と、柄本まで。
 BSは勢い余って前のめりに倒れた。切った左腕に気を失いそうな激痛が走るが、歯を食いしばって立ち上がる。まだ、反撃してくるかも知れない。
 しかし、トラは仰向けになって地面に倒れていた。突き刺さったダガーの根本に手を添えている。もはや、先程までの覇気はなかった。BSが何度も見てきた、病魔に冒され、死の床に眠る老人と何ら変わりなかった。
「はぁ……はぁ……」
 トラを見下す。確かに、倒れている。ダガーが脇腹に突き刺さっている。それは、BSが突き刺したもの。思わず、自分の手を見る。この手で、自らの手で、復讐相手にとどめを刺したのだ。
 左腕の傷口からは、どくどくと血が溢れている。それで我に返り、BSは急いで服を切って、きつく縛って止血した。小さなポーチから注射器と痛み止めを取り出し、肩に注射する。これは、単なる応急処置に過ぎない。止血したとはいえ、今も血は溢れ出ている。急いで点滴をしなければ、命が危うい。
 だが、まだやらねばならないことが残っている。
「トラよ……貴方に最後の質問があるわ……。どうして……パパとママを殺したの? どうして……私だけを殺さなかったの?」
 父親と母親を殺した理由は分かっている。しかし、本人の口からそれを聞きたかった。そして、BSだけが生き残った理由も。
「それが……私の存在意義だからだ。人を殺さなかったら……私は……暗殺者ではなくなってしまう……」
 言い終わった後、トラは咳き込む。吐血をして顔に掛かるが、雨によってすぐ洗い流された。
「お前を……殺さなかったのは……」
 トラの口元が釣り上がる。
「単なる……気まぐれだ……」
 トラは微かに身体を揺らして笑った。死が近いというのに、何が可笑しいのか、BSには理解出来なかった。単なる空笑いか、或いは己を嘲笑っているのか。
「もうすぐ……貴方は死ぬわ。私がそれを見届けてあげる。苦しむ姿を、見続けてやるわ……」
――ずっと、この瞬間を待っていた。
 一度は諦めかけたこの復讐が、もうすぐ終わる。復讐劇に幕が、降りようとしている。
「はは……それが……お前にとっての復讐か……。いいだろう。思う存分……見ていけ……」
 息を吸う回数が多いが、一回一回がやけに短い。呼吸音もおかしい。苦痛で顔が歪み、トラはうめき声をあげる。
――あと、少しで。
 トラは、死ぬだろう。全ての幸せを捨ててまで果たそうとした復讐が、今成就されようとしている。
 嬉しい。
 嬉しい筈だった。
 だが、だが沸き上がってくるこの感情は――。
 トラは視線だけを動かし、BSを見た。そして、苦痛で歪んだ顔が徐々に綻んでいく。やがて、安らかな笑みに変わっていった。
――何故、笑うの?
 口が動いている。何かを呟いているようだったが、雨の音で掻き消えてしまって、何も聞こえない。
 BSは気が付いた。
――見ているのは、私じゃない?
 視線はこちらを向いている。しかし、その瞳は違う誰かを見ているようだった。
 トラは、BSに――瞳に映る誰かに向かって、救いを求めるように、ゆっくりと手を伸ばした。

「約束は守ったよ……母さん」

 雨音をかいくぐり、そうはっきりと聞こえた。
 唐突に、BSは怖くなった。全身に微弱な電流のようなものが流れ、血の気が潮のように引いていく。
 BSは、脇腹に突き刺さっていたダガーを一気に抜き取る。蓋をしていた栓が外れたように、血が溢れ出てくる。
 そしてそのダガーで、BSはトラの心臓目掛け、体重を乗せて突き刺した。
 それでも尚、トラの顔には安らかな笑みが浮かんでいた。心臓を突き刺す前に、死んでいたのかも知れない。
 それに、BSは何故かホッとしていた。
――違う。
 安らかな笑みを浮かべて死んでいった事が、悔しい筈だ。
 もっと苦痛で顔が歪み、あらゆる事に後悔し、懺悔し、藻掻き苦しんで死んでいって欲しかった。
 長年夢見てきた復讐が叶って、飛び跳ねたいぐらいに嬉しい筈だ。
 父親と母親の復讐が出来て、満足感で満ち足りている筈だ。
 なのに、なのに――。
――何故、こんなにも悲しいの?
 涙がこぼれ初め、嗚咽を漏らし、やがてBSは声を上げて泣き始めた。


 いつまでも降り続ける雨の中、子供のように、ただただ泣きじゃくっていた――。




 部屋に取り残されたレイチェルは、どうしたら良いのか分からなくなっていた。
――あの人が、私を助けに来ている……?
 不幸に不幸が重なり、いつの間にか不幸を不幸と感じなくなるほど磨り減った感情が、微かに蘇ってくるのを感じていた。
 その感情とは、強い戸惑い。
 もう誰も、救ってくれないと思っていた。
 もう誰にも、助けを求めてはいけないと思っていた。
 こうして不幸のどん底に沈み、そして死を望み続けることだけが、いつしかレイチェルの日常と化しており、そして当たり前の事だと思っていた。
 しかしそれが今、崩れようとしている。
 レイチェルはベットから立ち上がり、窓を見た。外では、いつの間にか雨が降っている。
 夕暮れ時だというのに、既に暗い。庭に植えられている青いアジサイが、やけに栄えて見えた。
 それはいつの日だったか。領主が、事を終えた後に自慢げに話していたのを思い出す。
 庭に植えているのはアジサイで、海外で買ってきたものだと自慢げに言っていた。非常に不思議な特性を持っており、植えた場所によって色が変わるそうだ。
 その話を聞いたレイチェルは、アジサイに奇妙な共感を覚えた。
 植えられた場所――つまりは住んでいる場所によって何色にでも染まるそれは、まるで私のようだとレイチェルは思った。
 時には青くなり、時には赤くなり、時には白くなる。臨機応変にというよりは、勝手にその場所に染め上げられているような印象を持った。
 花にはその花本来の色がある。しかし、アジサイの本来の色などレイチェルは知らない。本を読んでみても、載ってはいなかった。
 もしかしたら、アジサイには本来の色がないのかも知れない。或いは、様々色に染まりすぎて自分本来の色を忘れてしまったのかも知れない。
 だからこそ、その場所の色に染まるのだろう。染まらなければ、アジサイはアジサイとして存在することが出来ない。
 今の環境に染まることで、微かに残る自我を繋ぎ止めているレイチェルとよく似ていた。
 ふと、一緒につられてこられた少女達を思い出す。十人近く居た少女達も、今ではレイチェル一人となっていた。
 庭に植えられているアジサイと同じように、違う場所からつられてこられ、無理矢理この箱庭に植えられ、そしてその色に染め上げられていった。
 やがて、勝手な都合で花をむしり取られ、時には陽の目も見てないつぼみのままで、時には根から引っこ抜かれ、枯らされてしまった。 
 所詮花は花だと、嘲笑い、枯らしたことに罪悪感も覚えず、群生していたアジサイは減り続け、残り一輪となったが、それも時期に枯らされてしまうだろう。
 それが、ここに植えられたアジサイの役目。自分の意志など全て無視され、ただ領主の眼を満たすためだけに存在している。そして、勝手な都合で散らされてしまう。しかし、いつしかそれを望むようになっていた。

 それでも、そのアジサイを守る人は居る――。

 レイチェルは、狂人が残していった言葉を思い出す。『てめぇも命を掛けろ。次に扉を開けるのが、誰なのか』、と。
 もしも狂人が扉を開けたのなら、その時はこのまま死を受け入れよう。

――でも、もしも……。もしも、次に扉を開けるのがネームズだったら、その時は――。
 


――違う。

 板張りの長い廊下。左には部屋の扉が等間隔に並び、右手には小窓が同じように並んでいる。
 そこに対峙する、二人のベルセルク。復讐者と狂人。共に、最も最強に近い位置に居る暗殺者だった。
 最強の称号を得る為に、狂人はあの日のネームズを蘇らせた。トラに一太刀負わせた、あのネームズを。
 そのネームズを殺すことが、狂人にとって最強の称号を受け継ぐ為の儀式であり、自らに負わせた試練だった。
 そして、そのネームズが今目の前にいる。狂気を当たり散らし、全身に血の雨を浴びて。
 この対決こそが、狂人が望んだもの。四年前に、ネームズがこの街に来てからずっと願っていたこと。
 しかし、その眼は、
――俺を、『敵』として見ていない。
 狂人は、見てすぐにそれに気づいた。
 目の前にあるのは、単なる狂気の塊に過ぎない。大切な人をまた失ったと思い込んで、自暴自棄になっているだけだった。
 だからこそ、館の人達を殺してきたのだろう。全ての事に絶望し、選んだ道が――単なる殺戮者に成り下がることだった。
 そこには意図も意志もない。目の前にある人を、障害物を除けるのと同じように殺すだけ。
 ネームズが狂人を見る眼は、まさにそれだった。まるで何の変哲もない椅子か机を見るかのように、無感情な眼で見ていた。
――俺を、そんな眼で見るな。
 求めている眼は、それではなかった。
――俺は、てめぇの敵なんだ。敵として、俺を見ろ。
 目の前にいるのは、望んだ『最強の敵』。これを殺せば、狂人は自他共に認める最強となるだろう。
 しかし、敵として見られていないのが酷く癪に障った。
 狂人は改めて今ここで、自分がレイチェルを殺したことを言おうと考えた。
 そうすることで、ネームズが狂人を敵(かたき)として見る筈だからだ。
 元々の構図でも、ここでレイチェルの死体を見せて、更に怒りを駆り立てる予定だった。だが、その死体はない。
 言葉だけでは少し弱いかも知れないが、やむ終えないと狂人は思った。
「あの奴隷はこの部屋の中に居る」
 少しだけ顔を動かして、横にある部屋を指す。それに、ネームズは僅かながら反応した。
「この部屋の中で……」
――死んでいる。
 ふと、脳裏を過ぎる新しい構図。何の脈絡も無しに、それが思い浮かんだ。

「てめぇを待ってる」

 そして、狂人はいつの間にかそれを口にしていた。
 ネームズの眼が大きく開く。酷く、驚いているようだった。しかし、一番驚いているのは他の誰でもない。その発言をした、狂人だった。
――何故、俺はこんな事を言った?
 自分自身、それが分からなかった。突然湧いてきたその構図の所為で、そう言ってしまったのは分かる。しかし、救いを与えるような真似事をするだなんて、思ってもみなかった事だった。
 新しい構図。それは、絶望に淵を漂っていた勇者が、実はお姫様が生きていると知り、全力で取り戻しに来るというもの。
 しかし、その逆もある。ネームズは復讐心があったからこそ、今の力があるのだ。知った途端に、また再び腑抜けに戻るという可能性もあった。
 だが、もう遅い。もう、狂人はそれを言ってしまった。
 言葉は力を得て、言霊となってネームズに染み渡っていく。
「生きて……いるのか? まだ……死んで……いないんだな……?」
 何かを確かめるように、ネームズはぽつりぽつりと呟いた。
「あぁ……生きてるよ。殺そうと思ったが、止めた。てめぇが勝ったときのご褒美を、用意するのを忘れていたからな。その代わり、てめぇが死んだら……てめぇの目の前であの奴隷を殺す」
 もはや、一か八かだった。望む最強の敵になるのか、望まない最弱の敵になるのか。
「そうか……まだ……生きているんだな……」
 心底安心したようなため息をはき、身が凍るような殺気は霧散していく。身構えたその腕も、だらりと力無く垂れた。眼も、もはや狂気は消え去り、見たくなかったあの眼――死んだ眼によく似た腐った眼に様変わりしていった。
――失敗、したか……?
 どこまでも巧くいかない構図に、狂人は酷く苛ついた。
 これでは、最高の殺し合いが出来ない。最強になるための儀式が出来ない。
 最強に、なることが出来ない。
「今度こそ……今度こそ、大切な人を守るんだ」
 ネームズの眼に、生が宿っていく。そして再び、身構える。足を引きずるように、数歩後退していった。どうやら、靴に付いた血を拭っているようだった。
 先程とは異なった殺気が、狂人を襲う。当たり散らすように広がっていた狂気が、真っ直ぐ狂人を向いている。
 その眼が、狂人を『敵』として捉えていた。
――そうだ。
 狂人は、その殺気に恐怖を覚えた。純粋な殺気。狂人を殺すこと以外、何も考えていないようだった。
――それでいい。それでこそ、『敵』に相応しい!
 口端を歪め、狂人は笑った。
 これこそ、望んだこと。切に願い続けた、『最強の敵』。それが今、目の前にいる。
 片や、最強の称号を得るためだけに、人を殺し続けてきた狂人。
 片や、復讐をする為だけに、そして今は大切な人を取り戻すために力を得たネームズ。
 たった一つの事を目指し、たった一つの事を成すためだけに、互いの命を掛け合い、そして奪い合おうとしている。
――なんだ。
 狂人は、今になって気づいた。ネームズは、自分とよく似ていると。だが、今更どうでも良い事だった。
「思えば、てめぇと本気で殺し合うのは、これが初めてか……」
 分かりきった事を呟いてしまい、狂人は思わず苦笑した。元より、殺し合いとはそういうもの。勝者だけが生き残り、敗者は死ぬ。
「そうだな……。死んでも、化けてでるなよ。鬱陶しいから」
「てめぇもな。あの奴隷も一緒に殺してやるから、あの世で仲良くしてろ」
 狂人は再び身構える。
「さぁ、始めようか。さぁ、殺し合おうか。お姫様を助けたきゃ、全力で俺を殺しに来い」
 ネームズの手に力が入っていくのが見える。微かに震えていた腕が、波一つない水面のように静かになっていった。
「そうだろう? 『スリー・ネームズ(三つの名前を持つ男)』よ」
 緩やかに、流れる川のようにネームズが動く。

 放たれる、八本の凶器。それが、開始の合図となった。

 迫り来るナイフの群れ。狂人はその場から動かず、僅かに残る隙間を見極める。
 それらは実にかわしづらい配置となっており、隙間などほとんどなかった。
 上に跳べば余裕でかわせるが、空中では体勢を立て直すことが出来ない。恐らく、それが第一の狙い。敢えて上に隙間を作り、そこに誘っているのだろう。
 ナイフを叩き落とすという手もある。しかし、恐らくそれすらも読んでいるだろう。無論、腕一本犠牲にして防ぐことも。
 狂人が恐れているのは、迫り来る八本のナイフではない。その次の手だ。
 たかだか八本のナイフを同時に投げられただけで、猟犬を始めとした名だたる暗殺者を殺せるはずもない。ましてや、トラに一太刀負わせることなど、夢のまた夢である。
 次の手、或いは次の次の手。それらを全て読み切らなければ、狂人に勝ち目はない。
 狂人が選んだ選択肢は――僅かに残る隙間をくぐる事。それならば、次の手にも備えられる。
 身体の軸を縦にし、僅かに左にずれ、仰け反る。
 八本のナイフは予想通りの軌道を描き、狂人のどこも擦ることなく過ぎ去っていく。
――次は。
 ビィン、とバネが弾かれた音が微かに聞こえた。
 ランプに照らされ、細長い何かが光って見えた。そのナイフは、先程よりも薄く、小さい。そしてそのナイフは、『二本』あった。
――どこから放たれた?
 ネームズはまだ、投げ終わった手を元に戻していない。となれば、何らかの仕掛けであの二本のナイフを放ったのだろう。
 バネが弾かれた音。こちらを向いたままの手。考えられるのは一つ。袖口から、バネ仕掛けでナイフを発射したのだ。
――黒コートは、その為か。
 手に直接、或いはその黒コートにその仕掛けが装着してあるのだろう。
 八本のナイフで体勢を崩し、この二本のナイフで仕留める。何とも狡猾な策だった。
――しかし。
 狂人の体勢は整っていない。しかし、二本のナイフは的確に頭と心臓を狙ってきている。
「くっ……!」
 身体を無理矢理捻り、その場で半回転してナイフをかわす。だが、僅かにタイミングがずれ、左肩を掠っていく。
 ほんの一瞬。狂人はネームズから眼を離してしまった。時間にして、一秒足らず。
 視線を元に戻したときにはもう、ネームズは視界から消えていた。
――これも。
 単なる囮。本命に等しい囮だ。隠しナイフに気を取られ、視線を外させる事が、第二の狙い。
――本当の本命は……!
 迫り来る気配。襲いかかる殺気。見えない敵が、狂人に向かって駆けていく。
 視界から外れ、あたかも消えたように見せる。八本のナイフも、二本の隠しナイフも、全てはこの為の伏線。全ては、トラを殺すためだけに編み出した、最強の技――。
 眼の動きがネームズに追いつく。地を這うような低い姿勢。しかし既に、攻撃範囲内に入っていた。
 ナイフを逆手に構え、立ち上がるようにして狂人を襲う。ネームズの狙いは、
――予想通り。
 先程のナイフを無理矢理かわした所為で、バランスが大きく崩れ、狂人はこれ以上体勢を変えることは出来そうもなかった。しかし、そんな必要などなかった。必要なのは、膝の力を抜くだけ。
 身体全体が後方に倒れていく。これこそが、狂人の狙い。最強の技を破る為に考えた策。
――親父の顎の傷がなかったら、勝てなかったかも知れない。
 トラが最強の称号を得てから唯一負った傷――顎の傷は、ネームズが負わせたもの。そして、ネームズはこの技をもってトラに傷を負わせた筈だ。ナイフをかわして出来た傷としては、不自然すぎる。考えられるのは、接近して下からの切り上げ。
 ネームズの狙いは、顎。
――これさえかわせば……!
 ネームズのナイフが迫る。予定通り後方に倒れていけば、かわせる筈……だった。
 反応が遅かったのか、ネームズの速度が予想以上に速かったのか、僅かに時間が足りない。このままでは、顎を切り上げられ、左眼か右眼をやられてしまうだろう。
 ナイフが顎にあたる。ちくりと痛みが走った。全身が寒気で痺れていくような感覚を覚える。初めて味わう感覚。しかし、直感的にそれを理解した。
――死が、今目の前に居る。
「おおおぉぉーーー!」
 訪れようとしている死を振り払うように、狂人は叫んだ。膝に力を入れ、より強く仰け反る。ネームズのナイフは狂人の顎を掠り、天に昇っていく。
 それは、猟犬に勝る身体機能を持っているからこそ出来た回避だった。
――これで。
 後は、地面に倒れる前にこのマチェットを振るうだけ。リーチ差は見るまでもなく、こちらの方が長い。
――俺の、勝ちだ。
 天を見上げていたネームズの眼が、ぎょろりと動き、狂人を見下す。ナイフの角度も変わり、狂人にその矛先を向けた。
 そこで、狂人は気が付いた。
――親父も、俺と同じようにかわしたのか。
 だからこそ、顎に傷が付いていたのだ。
――あと一手あれば、最強になれると愚痴ていた。その、一手とは……。
 恐らく、顎への切り上げをかわした後の、追撃。四年前に足りなかった、最強への一手。
 それが今、完成された。
 ネームズはそのナイフを勢いよく振り下ろす。もはや、回避することなど不可能だった。

 雌雄を決する一撃が、狂人の心臓に深々と刺された。
 
――負けた……のか?
 振り払った筈の死が、再び狂人を襲う。全身が痺れ、急速に意識が遠のいていくのを感じる。
――これが……これが死か?
 何とも漠然としていて、胡乱な存在――まるで夢のような感覚だった。
 確かなのは、激しい痛みと、このまま自分は消えていくのだろうという直感。走馬燈も、花畑も、見えはしなかった。
――だが、ただでは死なん。
 残った力を全て右手に込め、マチェットをネームズの顔目掛けて振るう。
 仕留めたと思って気を抜いていたのか、ネームズはその斬撃に気づくのに遅れる。狂人と同じように仰け反ってかわすが、運悪く左眼だけを掠っていく。
 ネームズが狂人の視界から消える。勢い余って、後ろに転んだのだろう。
――左眼だけ……か。冥途の土産にしちゃあ、しけてんな……。相打ちか、腕一本でも持って行けば、まだ格好が付いただろうに……。
 地面に激しく打ち付けられ、心臓に刺さっていたナイフが抜け落ちる。どくどくと、空いた穴から血が溢れていくのを感じる。それと一緒に、失っていく意識。
 儀式は全て終了した。決着も、完全に着いた。最強が、今この場で決まった。
――ちくしょう……ちくしょう……。
 負けた事が悔しいのではない。トラに、恩を報いることが出来なかったことが悔しかった。最強の称号を、受け継ぐことが出来なかった。
 起きあがってきたネームズが、狂人を見下している。肩で息をしていた。全力を尽くして戦った証拠だった。
 悲しそうな顔をして、左眼からは血が――まるで涙のように頬を伝っていく。
「なんて……顔をしていやがるんだ」
 それは、最強を勝ち取った者の顔ではなかった。
「笑えよ……。勝者には、その権利がある……」
 もはや最強となったネームズには、全てを見下し、全てを嘲笑う権利がある。だから、
「そんな悲しいそうな顔をするな。笑え……。俺を嘲笑え。俺を見下せ。俺は……」
――最強になり損ねた、敗者なのだから。
 視界が暗くなっていく。酷く眠い。何もかもがぼやけ、何もかもが溶けていくようだった。
「俺より弱いヤツに負けるなよ。てめぇは……」
 未練はある。しかし、真っ向勝負で負けた以上、それを託すほかになかった。それには、何の後悔もない。
 強烈な閃光。暗くなった筈の視界が、光に満たされる。白い。何もかもが白い。
 ふと、トラが見えたような気がした。幻影か、それとも同じく死んだのか。今から消えゆく者が、そんなことを考えてもどうしようもなかった。でももしも、あの世でトラに会えたのなら、謝っておこうと狂人は思った。

「最強……なんだから……な」

 全てが、消え去っていった。 



 扉を開けると、一際きらびやかな調度品が部屋の中に鎮座していた。部屋自体が他の部屋よりも広く、ベットもまた二回りほど大きい。
 金の燭台が置かれているテーブルに、この部屋の主が座っていた。俯せ、酷く怯えているようだった。
 扉が開けられた事に気が付き、顔を上げてこちらを見る。薄ら笑いが、一瞬にして恐怖の満ちた顔に変わった。
「ひぃ……! ど、どうして……!? どうしてお前らがここに来る!?」
 『丘の上の領主』は、椅子に座ったまま後ずさる。もう既に殺されたと思った人物が、今、目の前に立っているからだ。
「すいません……領主様。私は……まだ生きています」
 レイチェルは微かに頭を下げながら、ゆっくりと部屋の中に入っていく。続いて、ネームズが左眼を押さえながら、疲れた様子で歩いてくる。
「……負けたのか? アイツは殺されたのか?」
「あぁ……オレが殺したよ。他も……全部な」
 ネームズは肩で息をしながら言った。もはや体力の限界だったのか、扉のすぐ脇の壁に寄り掛かる。
「あれだけでかい口を叩いておきながら……! くそっ!!」
 悔しそうにテーブルを強く叩く。
「……強いなぁ、アンタ。いや、まさかあのベルセルクを倒せるとは思わなかったよ。いやいや、私の負けだ」
 領主は薄ら笑いを浮かべ、戯けたように両手を挙げた。降参を身体全体で表しているのだろう。
「この屋敷丸ごとを、アンタに差し上げるよ。無論、そこのど……レイチェルも一緒にだ。だから……だから見逃してもらえんだろうか? 私は……死にたくないんだ……」
 挙げた両手を、今度は顔の前で組み、祈るように助けを乞うた。
 無表情のまま、レイチェルは一歩前へ進み、
「すいません、領主様。私は……生きることを選びました。せっかく殺してくれると約束してくださったのに、申し訳ございません。私は……もう……死ぬことは止めました」
 まるで会話が噛み合っていなかった。領主は、思いもよらぬ返答に呆気にとられた顔になる。
「生きるために、私は領主様を殺します。すいません、領主様。それが……私にとっての……過去との『決別』なのです」
 レイチェルはゆっくりと右手を挙げる。その手には、銃が握られていた。
 それは、ネームズの銃。別れを告げるための、『決別の銃』だった。
「待て! くそっ! やめろ!」
 領主はテーブルにあった金の燭台を右手で掴んだ。その行動を読んでいたネームズは、すぐさま領主の右腕目掛けてナイフを投げる。
 うめき声をあげ、領主は燭台を床に落とす。
「せっかくの門出を、邪魔すんな……。ようやく、生きることを選んだんだ……。邪魔は、させねぇよ……」
 大きなため息をはき、ネームズは再び壁に寄り掛かる。
「レイチェル……」
 ネームズの呼びかけに、レイチェルは振り向かずに頷いた。
「やめろ……頼む……あれだけ愛し合ったじゃないか……? あんなにも……可愛がってやったじゃないか……!?」
 領主は流血している右手を押さえ、苦痛に歪んだ顔で叫んだ。しかし、レイチェルはその声に何の反応も示さず、銃を掲げたまま領主に近づいていく。
「やめろ……やめてくれ……死にたくない……死にたくない……!」
 あと一歩という距離でレイチェルは止まり、
「父さんと母さんも……死にたくなかったんですよ……?」
 眉間辺りに、照準を合わせ直した。

「さようなら」



最終章「黄昏通りに暁鐘が鳴り響く」

 ※

「本当に……行くの?」
 BSの問いに、ネームズは頷きながら答える。
「あぁ……。これ以上、ここに居てもしょうがないからな。いろんな踏ん切り付けるためにも、どこか違う場所で暮らすよ」
 アジトの前――黄昏通りで、ネームズはBSに別れを告げた。
 あれから数日経ち、街の騒ぎは早々に収まりつつあった。しかし、『丘の上の領主』が殺されたこと、暗殺ギルド『プライド』が壊滅した――トラと狂人が死に、BSがそう噂を流した為――ことなどで、未だに人々の話題は尽きていない。
「そういうBSはどうするんだ? まだここに暮らすつもりか?」
 ネームズの問いに、BSは笑って答える。憑きものが落ちたような、良い笑顔だった。
「えぇ、しばらくはウィルに厄介になるつもりよ。店の売り上げは上々だからね。怪我人一人ぐらいは、余裕で食わせられるって」
 ウィルは一度はこの街を離れたが、結局すぐに戻ってきた。結果を見届けるためというのもあったが、一番の理由は心配だったからだそうだ。BSの左腕が無くなっていた事には気絶しそうなぐらいに驚いていたが、逆に今では養っていくのは自分だと張り切っている程である。
「そうか。なら、心配はないか」
「私は、ね。心配なのは、貴方の方よ。あの子の寿命は短い。それを、忘れないでね」
 BSに言われなくとも、ネームズはそれを嫌というほど分かっていた。
 領主の欲望を満たすためだけに作られた薬――成長を止める薬の副作用によって、レイチェルの命はもう長くはない。だが、それでも尚――。
――レイチェルは、生きることを選択した。
「分かってる。もう……覚悟は出来ているさ」
 全てに絶望することを止め、死ぬのを止めたレイチェルに、ネームズは出来る限りのことをしようと決めていた。
 例えそれが、僅かな期間であったとしても。
「妬けるわね……もう」
 BSは再び笑う。陰のないその笑顔は、どこか幼さを感じた。――いや、純真さと言った方が正しいのかも知れない。
「餞別よ」
 そう言って、BSは腰にあるポーチから薬瓶のようなものを取り出し、ネームズに手渡した。
「あの子に使いなさい。これで……少しぐらいは寿命が延びると思うわ」
「悪いな。助かるよ」
「せめてもの贖罪よ。あの子には……本当に悪いことをしたと思ってるから」
 ネームズはその薬瓶を、新しく買った服のポケットに入れた。
 あの黒いコートは、その日の内に燃やして捨てた。使う必要もないし、二度と使う気もないからだ。
 多くの血を浴びたそれは、灰になって風に飛ばされ、どこかへと流れていった。
「でも、定期的にここへ戻ってきなさいね。薬と、検診をしてあげるわ。医者として、ね」
「そうだな。そうしてもらえると有り難い。普通の医者じゃあ……多分、どうにも出来ないしな」
 ネームズは、ふいと視線を街の出口に向ける。この位置からでは、それは見えなかった。
「……じゃあな。そろそろ行くよ」
 ネームズは右手を挙げて握手を求める。BSは苦笑しながら、それを受諾した。
「色気がないわね。こういう時ぐらい、キスでお別れじゃないのかしら?」
 BSは艶っぽい視線をネームズに送る。ネームズは苦笑しながら、
「勘弁してくれ」
 それを拒否した。
「全く。しょうがないから、我慢してあげるわ。最強の称号を受け継いでも、相変わらずね」
 BSは、中身のない服の左腕部分を掴んだ。傷が疼いたわけではないようだ。なぜなら、懐かしそうな顔をしているからだ。

「そうでしょう? 『最強の名前を持つ男(ザ・ストロングスト・ネーム)』? それとも、『四つの名前を持つ男(フォー・ネームズ)』と呼んだ方が良いかしら?」

「それも勘弁してくれ。前と同じ、ネームズで良いさ」
「そうね。私もその方が良いわ。長ったらしいし、言いづらいしね」
「全くだ」
 二人は微かに声を出して笑う。長年付き添った親友のように、言葉にせずとも様々な事が通じ合った気がした。
「いつでも帰っていらっしゃい。私はここで待っているわ。じゃあ……またね」

 ※

 黄昏通りを下っていくと、家々から少し離れた場所に、『レイニー・タウン』と書かれた大きな看板があった。そしてその下に、待ち人は居た。かつては屋台や出店で最も賑わっていたこの場所も、今では使われることのない木箱や、雨水が溜まった樽が転がっているだけの場所となっていた。
「さぁ……行こうか?」
 髪が白い少女に――いや、女性に呼びかける。真っ白だったその姿には色が付き、髪が白いという以外、他と何ら変わりなくなっていた。
「本当に……私で良いんでしょうか? BSさんから聞きました。私も、それを実感しています。もう……私は長くないのでしょう?」
 レイチェルは憂いを帯びた表情で、ネームズに言った。
「……あぁ」
「だったら何故……?」
 何故、という問いに、ネームズは何故だろうと自問した。自分自身、その答えが未だに出せないでいる。明確な答えを出そうとすると、何かが邪魔して固まらず、結局何とも曖昧な答えだけしか残らなかった。
――一緒に居たいと思っているのだろうか?
 もしかしたらそうかも知れないし、そうでないのかも知れない。或いは、もっと理由があるのかも知れない。
――命を掛けて助け出したのに、明確な理由がないなんておかしな話だ。
 思わず、苦笑してしまう。
「どうして笑うの? おかしな理由だったの?」
「あ、いや、何でもない。そうだな……」
 結局、それは考えつかなかった。だが、それでも良いかとネームズは思った。
――いずれ、明確な理由が分かるだろう。
 レイチェルと旅する内に、その答えが固まってくるかも知れない。
「その内教えるよ。時間はまだまだあるんだから、な」
 その時にまた改めて答えようと、ネームズは決めた。
――復讐の次は、答え探しの旅か。
 随分と方向性が変わったものだと、今度は心の中で苦笑した。だが、それも悪くはない。
「つまりは……秘密ですか?」
「そんなところだ」
「いつ頃教えてくれるんですか? 私が……死ぬ前には教えてくれるのでしょうか?」
「あぁ、そりゃそうだ。約束するよ。死ぬ前には、ちゃんと教えてやるよ」
「分かりました。約束ですよ」
 レイチェルは少し無理して笑ってみせる。まだぎこちないが、笑顔が――感情が戻ったようだった。
 ついと視線を上げ、レイチェルはネームズの頭上を見る。つられるように、ネームズは振り向いた。
 レイチェルの視線の先にあるのは、丘の上の大きな屋敷。全ての元凶となったそれも、今は遠い。
「さぁ……行こうか?」
 ネームズはレイチェルに手を差し伸べる。
 レイチェルはじっとそれを見つめた後、微かに頷き、しっかりと握りしめた。

 そして、頬には――。





――雨が、降っていた。





                     【了】

2007/03/09(Fri)04:18:38 公開 / rathi
■この作品の著作権はrathiさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 ども、rathiです。

 よ〜〜〜やく完結出来ました。
 疲れました。えぇ、疲れました。
 今まで為にため込んだ「あとがき」があるので、長文になりそうです。
 ……と、ずっと思っていたのですが、なんだか作品を崩してしまいそうなので、止めときます。
 「rathiはクールに去るぜ!」なんてどこぞのオッサン風に言うのも有りかと。

 多くは語りません。この作品を読んでくれて、楽しんでくれたのならそれで本望ですわ。
 今まで応援してくださった方々、感謝です。

 特に、甘木さん、水芭蕉猫さんには、より多く感謝です。
 ほぼ毎回読んでくださり、感想をいただけたのは、お世辞でも何でもなしに励ましになりました。
 よくよくカウントしてみると、約七ヶ月間掛かってました。
 それだけ長く付き添って頂き、感謝感激です。

 追伸、今更副題が発表されていますが、タイトルが長すぎるのはちょっとなぁと思って最後に付け加えました。
 【ア・シンメトリー=非対称】
 作品を読んでいただけたのなら、意味も理解していただけるかと。そうでなかったら、まだまだ腕不足ですなぁ私は。

 しばらくはこれの修正に掛かりっきりとなってしまいますが、またいつか帰ってきた時に、また新しい作品を読んでもらえると幸いです。
 それでは最後に。

 ではでは〜
 
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