- 『ゼロの聖域 上』 作者:祠堂 崇 / リアル・現代 ファンタジー
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全角69165.5文字
容量138331 bytes
原稿用紙約215.3枚
Opening この世界に生きる総てに光と死と死と喜びと
夜の世界に異常音は容赦無く鳴り響いてゆく。
怒号に近い人の叫びと、銃声。
廃ビルの合間をすり抜けてゆく背中に銃を突きつける数人の人間達の手には、ソーコムピストルやピースメイカー、果てはデザートイーグルを所持している大男も居る。
彼等は一環して同じ服装をしている。サイズこそ違えど、黒い布をベースに胸元から白いラインの奔った、宵闇に浮かぶ荘厳なロングコート。
その服は教団、言い方を変えるなら聖職者の制服だ。
無論、聖職者が軍仕様の銃を所持するどころか年端もいかない少女を′bチていれば、神への冒涜であると思うかもしれない。
しかし本人達に言わせればそれは詭弁に近い。教団とは集団。集団故に統治する人間が居る。宗教の生命線である『信仰』に準えてしまえば、『他人』など道端の空き缶よりも不要なものと決め付けられる。
同時に、彼等は自分の信じる以外の神は塵芥にも思わない。そういう教育と、精錬と、束縛と、忠誠と、そして献身への見返りに彼等は信じる。
神のために、この血と肉と魂は、あの小さな背中を撃て――と。
「Don’t move!!」
一括と共に、大男のデザートイーグルが咆哮する。
ひらと舞う少女はぎりぎりでそれを裂け、肢体を包む宵闇色の布で顔を隠す。銃弾による破片への防護と、相手に次の移動を視線から読ませないためだ。
「いい眼ぇしてるねぇ……!!」
「無駄口を叩くな。見失うぞっ」
茶髪に染めた細身の男が横合いから牽制のデリンジャーを撃ち、少女が物陰に隠れた瞬間に彼等は音も無くビルの壁に身を移す。身に纏うものを別にすれば、それはまるで機動隊の如き動きだ。右目だけに装着した暗視ゴーグルから、仲間の片手によるサインを読みとる。
「おいおい……Aチームの連中、両側面からの同時攻撃(サイドアタック)のサイン寄越してんぞ」
「Aはさっきから後方支援と指示飛ばすだけだからな、今出てきたところだ」
「コキ使いやがって。真ん中空けたら小隊本部が無防備なんだろーが」
デリンジャーの弾を込め直し、茶髪は恐る恐る窓から顔を覘く。
「風上に居るせいで硝煙の匂いが届いている。横に回ったら気付かれるぞ」
「……それって暗に『命令無視していきましょうか』って聴こえっぞ」
ニヤニヤと笑う茶髪は、ショットガンの弾を確認してから視線を送る。
大男は少しだけ口の端を歪め、答える。
「今に始まったことじゃないだろう」
「始末書の書き方も大分慣れたもんなー♪」
「一応は戦闘中だぞハインス」
じろりと睨まれ、茶髪は片方の眉を吊り上げた。
大男は壁沿いに這い、服の袖で窓のガラス破片を一箇所に集める。
茶髪は暗視ゴーグルから熱感知式センサーに切り替え、暗い世界に移る幾つもの真紅色の姿を見渡す。
Cチームはそれなりに構成された人数が多いためか、素直にAチームの指示通り迂回して右手のビルの中に入る。
あーあ、と茶髪は呆れながら大男の傍に置いてあるデザートイーグルの弾を込めてやる。かれこれ六年になる腐れ縁の相方だ。ガタイに似合わず策士であることも理解していることだった。
「しかしどうする? あれじゃCの連中は落ちただろうし……かといってここ突破されたら町はすぐそこだぜ?」
「判っている。悪いがCチームには囮になってもらうしかないな」
「あーあ、Cに可愛いコが居たんだけどなぁ〜」
煙草代わりに自分の拳銃から香る硝煙を鼻先に掠め、デザートイーグルを大男に投げ渡す。
それをキャッチした大男は、茶髪を一瞥くれてから、頷いた。
「Ready…?」
「O.K.―――――――」
たん、と軽やかにステップを踏み、少女が小道に躍り出る。
瞬間、左方向からマシンガンの連射音。一気に右へと鉛玉が飛来する。
少女は一度身体をピタリと静止させ、直後に身体を前に倒す。
まさに倒れる寸前。鼻先数センチの所で華奢な体躯がコンクリートの地を奔る。肌を包み込む、粗雑だが宵闇色のボロ布は、月夜を遮る路地裏の道と同色のせいで、まるで銃弾が当たらない。
ズチュチュチュチュィィイン!! と地面を穴だらけにするが如く火花が散るが、右に左に蛇のように避ける少女は次の瞬間に左に九十度の屈折。
不意を衝かれて反応の遅れた数人の男女が潜むガレージの窓がけたたましい音を立てて破砕され、ぐるん! と半回転して布を翻す少女が入り込む。
一番手前にライフルを構えていた男が英語で何かを叫びながら銃口を向けようとした一歩前、少女は布の端を掴んで身体を捻転。
刹那、ボロ布から溜めに溜め込まれたガラスの散弾銃が弾け飛ぶ。
しかし人間の動作から生まれた勢いによるため、威力は大したこと無い上にほとんど途中で落ちてしまう。
が、虚空に散りばめられた破片を暗視ゴーグルが全て視認してしまい=A
「――!」
彼等の眼には、綺麗に舞い踊る白銀のダイヤモンドダスト。
銃声は鳴らなかった。
右手側からグシャリ! という音と共に短い悲鳴が聞こえ、右を向いた時には、足元に白銀色の髪の毛先が視えた。
背後から銃声と怒号が交差する大通り。
「あーあ、撃ちゃいいもんじゃないっしょ、まったく」
『Cは全滅、Bは内二人が独断行動。今頃指揮官はカンカンだな』
「始末書で済めばいいけど……無線拒否解除する勇気ねぇわ」
ははは、と笑いながら茶髪は右腰に携えるものを一度確認してから、大男にサインを送る。
直後、ガッシャーン!! という壮絶な音が鳴り響き、路地の向こうに銀色の姿が躍り出る。
「さぁて……仕事だ」
音も無い猛スピードで奔っていた少女は、茶髪に気付くとよりいっそう速度を増して向かってくる。後ろに見事な満月が浮かぶため、彼女の左手から三日月型の射光を目視する。
「子供が持つもんじゃねぇぜ!」
一つ間違えればあっさりと死ぬ戦慄に背筋をゾクゾクさせながら、茶髪はショットガンを構える。
少女は裸足を地面に落として急ブレーキするが、
「遅ぇ!」
ズバン!! と銃口が火を吹き、数百もの小さな弾丸が少女を襲う。
少女は手に持っていた刃渡り三十センチ程度のナイフを電柱に突き刺す。
いや、正確には――電柱に提げられている看板。
てこの原理で引っ掛けられたナイフを掌底が穿たれ、バガンッ! と看板が宙を吹き飛ぶ。散弾銃はその実、銃身の長さと銃口の大きさの影響でそこまで広範囲に向けて撃てない。少女の上半身を遮る看板に弾丸が突き刺さり、今一歩届かない。
グシャグシャに歪んだ看板の下を掻い潜り、少女の手に収まるナイフが茶髪を狙う。
「だ・け・ど――!」
ドン!
拳銃を遥かに凌ぐ轟音が少女の足元の地面を抉り取る。衝撃で身体がぐらついた。
咄嗟に視界を巡ると、月を背にした廃ビルの屋上から、こちらを狙っている体格の大きい男が見えた。
風は南西。茶髪に向けて走ったことで風下に位置が変わった狙撃手の方には気付けない。
だがこれぐらいは想定の範囲内だ。片足でも地面に着いていれば、体移動は可能――、
カチン、
金具の外れるような音が正面から聴こえた。
戻した視界の、眼と鼻の先に、黒い物体。
その向こうの茶髪がニヤニヤした顔で、遮光グラスを掛けようとしている。
「……っ!」
少女は着地した瞬間に腕を交差させ、爆発する光に強く眼を瞑った。
しかし、
爆発――しない。
「ざぁんねん♪」
何か英語で、しかし小馬鹿にされたと判る嘲りを込めた声が聴こえ、爆発は嘘だと気付いた。だが、
前に踏み込もうとした足の裏に、猛烈な痛みが奔った。
ガラスの破片を踏んでしまった少女の身体が完全に勢いを無くしてよろめく。
踏ん張ることすらできないまま後ろに倒れる少女の左胸に、
「Good by――」
銀の装飾の小振りの銃。デリンジャーが軽い発砲音を吐く。
しかし体重の軽い少女の体は後ろに吹き飛ぶ。
茶髪は銃を上に向けて瞼を閉じ、せめて子供を撃ったことを現実に思わないようにしようと、
ざくり、という嫌な音が確かに聴こえた。
「……え?」
同時にビリビリと右腕が痺れ、それが激痛に変わる頃には気付いた。
ナイフが、自分の右手首を貫通している――、
「がっ! ……っ、あっ!?」
突然のことに頭の中が白くなるが、見開いた視界に少女が両足をしっかりと地面に戻す姿が見えた。
「なん、で……! 今、手応え……っ」
黒い布一枚の少女の左胸には、微かに硝煙が昇っている。いくら小銃といえ、こんな年端もいかない子供の心臓に当たれば死ぬ。
ギシギシ、と鉄同士の擦れるような異音が少女の体から洩れる。
だらりと垂れた右手を押さえた瞬間、ずだん! と地面を蹴った少女の拳が茶髪の鳩尾に突き刺さる。子供の一撃とは言い難く、防弾スーツの上からの衝撃に呼吸が止まる。
しかし吐き出された息を吸う間すら与えてくれず、少女の足払いに体勢の狂わされた茶髪の体が、体当たりをされて壁に激突する。
二度の強烈な連撃を受けて、ずるずると倒れる茶髪を一瞥し、少女は先へ進もうとする。
「ハインス……!」
声と共に少女は少し振り返る。大袈裟なほど巨大な拳銃を構え、髪の短い大男が現れる。来るのが早いと思ったら、どうやらロープを使って豪快に降りてきたらしい。
「お前……撃たれたんじゃないのか!!」
相棒を攻撃されたことで怒り心頭の大男だが、英語が判らずに少女は小首を傾げる。
獰猛な銃口を向けた矢先に少女は敵と見做して走り出す。一発目は外れ、二発目も頬を掠めて外れるが、少女が思っていた以上に弾丸の威力が強く、加えてガラスの剣山を踏んだ足がぐらつく。
三発目を跳躍して避けるが、
「ダグラス――!」
後ろから銃弾が突き刺さる。意識を取り戻した茶髪のデリンジャー、残りの一発が背中に直撃した。
空中を錐もみしながら、大男の上を飛び越えて地面に倒れる。二度三度とバウンドし、
手を突いて、ガバッと立ち上がる。
Why!? という相棒の叫びが背後から聞こえる。
大男が少女を睨んだ瞬間、気付いた。
既にボロボロだった布に二発の弾丸が当たり、穴の開いたそこに、少女の肢体は無い。
「なっ……!」
正確には、少女の髪と同色に近い何かを腹部に巻いている。布を羽織っただけという体型を判らなくさせる格好のために、月を背後にして明るみに出たことでやっと気付いた。それは、
「蛇腹剣(スネイクエッジ)!?」
ギシギシと不快音を奏でる。月夜に照らされたそれは幾重にも繋がった小さな刃が蛇のように一本の剣になった、鞭のような代物。
しかし、あれは鞭なんてものじゃない。小柄とはいえ少女の胴回りを丸々と包み込んでいる。横の広がりだけでも五十センチ、まるで西洋大剣(クレイモア)だ。
何より、今まで気付かなかった少女の両眼に、大男は息を呑んだ。
紅い。
血や炎を連想させるには濁り無く、眼球や瞳と呼称するにはどこか違和感のある。そう、まさに水晶か宝石か硝子珠のように人間味の無い――真紅の双眸。
――ああ、と。大男は思い出した。
たん、と一歩を踏んで少女の体が捻転する。
脇腹から覘く取っ手を引き回転を受けた防具は武器へと変貌を遂げる。
ズギギギャギャギャギャ……ッ!! と心すら引き裂く音が宵に満ち、
相手は――――――――化け物だったか、と。
地を打つ踏み込みと共に、巨大な剣が鞭のように撓りながら襲い掛かった。
Chapter.@ 逢 −Boy meet’s the arms−
廊下を歩き、窓の外から聴こえるセミの鳴き声の豪雨を耳にする。
晴れた空は茜色に染まっていて、いくつも雲が渡る。きっとこの下では野球部だのサッカー部だのが頑張ってるんだろうな、と神代飛鳥(かみしろ あすか)は思った。
かくいう彼は帰宅部だ。もともと部活なんかに青春を感じるほど熱血でもない冷めた性格なので、たとえこの学園の九割が部活や同好会に所属していることで有名な場所だとしても、断固として残りの一割でいたかった。
大体、人生に三回しかこない高校生の夏休みを汗水ダラダラにして終わらせるというのもなんだかキャラじゃないのだ。無を求めるほど絶望人間じゃないが、人間としての『普通』が好きだった。
既に生徒の姿は無く、今日出された宿題のプリントを忘れていたことに気付いた飛鳥は渡り廊下の自動販売機で購入したパックコーヒーを口に含みながら、出来るだけ影の多い側を歩きながら教室へ向かっていた。
「あ、センパーイ!」
唐突に後ろから声が掛かった。
下手な声優よりもキーの高い声。聞き覚えはある。嫌と言うほどある。
「……百瀬(ももせ)」
振り向いたそこにいたのは、あちこちに跳ねている栗毛の髪を無理矢理ネコさんバッチ付の髪留めで結っている女子生徒が、こちらに手を振りながら小走りしていた。
小柄な体格で、着ている服はカッターシャツの上からサマーセーター。下はフリルが一回りしているチェックのスカート。付属生の夏服だ。
飛鳥にとっては今更だが、ここは本校生の校舎だ。それなりの理由が無い限り、付属生が来ることは滅多に無い。しかし目の前の生徒はなんら気にすることなく飛鳥の傍までやって来て、
「ニシシ〜、おいっすー♪」
何故か警察みたいな敬礼をしながらこちらを見上げていた。
百瀬菊璃(ももせ くくり)。目下、飛鳥にとっての『普通』ではない生徒。
悪魔っぽいコケティッシュの顔に、寝起きのように跳ねた髪を揺らして、百瀬菊璃は上目遣いをしてくる。自分のルックスとそれによる他人の反応を彼女は理解しているので、百パーセント判ってての上目遣いだ。慣れたわボケ、という意味を込めて顔を逸らした。
「セーンパイ。どうしたんですかぁ〜? こんな時間にぃ」
聴くも恐ろしい誘惑のミルキィボイス。化粧気の無い無垢な顔立ちでこんな声を出されたら、大概の男子はクラッとくるだろう。
しかし飛鳥は再び踵を返して、教室へ向かう。
「別に……つーかお前こそなんで本校生校舎に居んだよ」
「決まってるじゃないですかぁ、同好会活動ですよ、か・つ・ど・う」
指を振りながら菊璃は言ってくる。むしろ隣りを尾いてくる。
「……アレが活動する内容なんてあんのかよ」
「何言ってるんですかぁー! 酷い言い草ですぅ!」
わざと聴こえる愚痴を零すと、栗毛を揺らして抗議する。
「菊璃だって頑張ってるんですよぉ!? 部長に褒められるために!」
「……、私利私欲ごと打ち明けてくれて嬉しいよこのレズチビ」
「チビってなんですかぁ! 訂正よーきゅー!」
「否定すんのそっちかい!」
ぶーぶーレズでもないです男の子だって好きですよぉ〜、などと薄く誤解を生みかねない言い方で頬を膨らませる菊璃を尻目に、飛鳥はコーヒーを啜る。
「喉渇きました」
「そうだな、もう七月だもんな」
「菊璃大人だからぁ〜カカオも平気ですよぉ〜」
「そうだな、おとなおとな」
「……、ちょうだい!」
「素直に言いやがったことは及第点だが断る」
というか語るに落ちてるんだから遠回りしないで玉砕して欲しいところだが、ぶすっと頬を膨らませて、菊璃はジト目をしてくる。
「菊璃、今仕事中」
「ほぉ〜……人に纏わりついて飲み物要求する仕事か。内容は強奪ですかコラ」
「違うもん! 必死にセンパイを勧誘中ですもん!」
やっぱり、と飛鳥は溜息混じりにパックの中身を吸い上げる。ずぞぞーっ、という音が廊下に響き、本当に分けて貰えると思っていたらしい菊璃がショックに目を見開いた。
これが、飛鳥の今一番の問題だった。
百瀬菊璃を含む、ある同好会の存在。それがある意味飛鳥を苦しめていた。
「だぁかぁらぁ〜、入らないって言ったっしょー?」
「だぁかぁらぁ〜、諦めないって言ったっしょー?」
飛鳥の苛立ち声の逆をゆく猫撫で声で擦り寄ってくる菊璃。
それを振り払い、飛鳥は教室に入る。
すると菊璃は扉の前でビタッ! と立ち止まり、一向に入ってこない。
「……何してんの?」
入ってこなくてもいいんですけどね、と内心で思いつつ、足元のレールを見つめる菊璃に声を掛ける。
菊璃はどこか寂しげな、それでいて何かに怯えるようにして飛鳥を見る。
「……教室、嫌い」
「は?」
「……教室、人が集まる場所だから……居たくない」
唐突に訳の判らないことを言いだす菊璃に小首を傾げたが、だからといって『大丈夫か?』なんて言うキャラじゃないことを自覚している飛鳥はさっさと自分の机の中を覗き込む。
しかし、
「あれ?」
そこには何も入っていない。普段から机の中を空にしておく習慣をつけている飛鳥にとって、鞄の中に無ければあとは机の中しかないはずなのだ。
どこかに落としたかと上体を低めて机の周辺を見回す飛鳥に、廊下から菊璃の声がする。
「センパイ。同好会、入りませんか?」
猫撫で声もまるでない、本当に百瀬菊璃かと思うほど静かに届いてくる声。
「しつけぇ」
だからといって甘い顔をする道理もない飛鳥は、床を見回す。
だが一向に見つからない。そもそも、放課後の掃除で掃かれた可能性があるため、しょうがないから職員室に行って先生に代わりのプリントを――、
「ふーん……じゃあ、コレ、いらないんですね」
あん? と飛鳥が上体を起こしたついでに視線を向けた。
途端、飛鳥の眉がひそめられる。
何故なら教室と廊下を境界線にした扉に背中を預けながら立つ彼女の右手に、一枚の紙が四等分に折られて収まっていたからだ。
まさか、とは思う。飛鳥は条件反射で菊璃の表情を読んだ。
案の定、菊璃はどこか得体の知れない智略を孕んだ笑みを口元に浮かべて、まるで挑発するようにこちらを見据えていた。
間違いない、あれだ。
「……おい」
「ちなみに古文のセンセーはもう帰りましたよ、理由までは知らないけど」
ここにきて、どうして彼女が本校生校舎に居るのか飛鳥は理解した。
直後、菊璃は紙をスカートのポケットに入れて、アカンベー。
そのまま、脱兎した。
「な……っ!?」
思わず飛鳥は教室を飛び出す。足に自信はあるほうだが、いかんせん相手はすばしっこいという意味では足の速い奴だ。
「返しやがれクソガキ!!」
「ウチに入ってくれるなら返すどころか答案の情報も°ウえたげまーす!」
「こっちは正攻法でいきたい人なんだよくそったれ……!」
階段側へ走る背中を懸命に追う飛鳥。菊璃の体が道を曲がり、階段を上る。
飛鳥もそれを追うが、一年生である飛鳥は最上階である五階の教室の生徒だ。ということは――、
「あんのバカ……屋上は生徒立ち入り禁止じゃねぇのかよっ」
階段を二段飛ばしで駆け上り、踊り場に出る。律儀に閉められている扉のノブを回して出ると、視界は朱色に染まった。
「とーちゃーっく……でも――」
そこに立つ少女は、既に百瀬菊璃ではなかった。
ある同好会に属するこの女子生徒の、同好会メンバーとしての二つ名。
その、どこか人の境界線の上に立つような非日常な微笑みに、飛鳥はついその二つ名というやつを口にしてしまった。
「伝達未遂(シグナルエラー)=c…」
そう、これが、飛鳥にとっての問題。
この女子生徒を含むある同好会に、熱烈な勧誘を受けていること。
その同好会の名前は――、
「センパイ……菊璃、宿題のプリントなんて一言も言ってないですよぉ?」
天賦研究同好会。
学園でも指折りの変人が集まる、電波集団だった。
靴を履いて、飛鳥は鞄の中にあるプリントを確認する。
拳を落とされた頭頂部を擦りながら、百瀬菊璃は涙目に言った。曰く、また誘いにきますから絶対にどこにも入らないでくださいよ会長も待ってるんですからねぇそれからプリントですけどセンパイの鞄の中ですよーほら数学のノートの中に挟まってるはずですから後で確認してくださいそれじゃー、とのことらしい。まさぐってみると本当に数Tのノートの中に入り込んでいる古文のプリント。情報通ってかストーカーじゃん、というのが飛鳥の率直な一言だった。
「俺もトンデモナイ学園生活んなったよなぁ……」
真っ赤に染まる夕日を眺め、帰路にて飛鳥は溜息を吐く。
飛鳥が天賦研究同好会に出逢った、もとい捕まったのは実に三年前。彼がまだこの学園の付属生になって三ヶ月も経っていない頃だった。既に部長だった生徒に目を付けられたことで飛鳥の夢見たスクールライフはとんだ方向へと転落してしまった。
初めの内は、何だこの人等は、という疑心によるものであったが、それは日を重ねる毎に悪化してゆき、ついには『一生帰宅部でいたい』と思うようになった諸悪の根源になっていた。
そもそもの原因は連中にアプローチを受けることで賛否両論の噂が学園中に広がり、『神代も電波』だとか、『あの部長のお気に入り』だとか、しまいには『もう天究のメンバー入りしてる』などというデマまで流れ出し、イジメの類とはまた違う疎遠状態になっているのだ。
無論、電波ではないし普通で居たい飛鳥にとっては限りなく迷惑な話だ。
大体メンバーにしたって当時はたったの二人だったくせに、本校生に昇進する頃には六人。しかもパトロン気味の生徒が多数存在する学園でもある意味有名な集団に成り上がってしまったわけだが、そうなると余計に勧誘はより熾烈に、そして六人分の巧妙さが加わってさぁ大変。三年もこれが続くと、もはやクラスメイトの人間からは『え? 神代って天究のメンバーじゃないの?』、という空気を生んでいる始末。
とにかく、飛鳥にしてみればこれ以上引っ掻き回して欲しくない。
今抱いている夢は何ですかと訊かれたら、迷わず言うだろう。『普通』と。
「でも、ま……」
こうやってあしらえば諦めてくれる分だけまだマシなのだろう。勧誘といっても飛鳥が迷惑と感じていれば不自然なほどに距離を保つし、百瀬菊璃のアレは半分ぐらいは私情が入ったイタズラだ。そもそも天究のメンバーが六人というのも公認ではないため、確証は無い。ひょっとしたらクラスの誰かがそうかもという話で、本当だったらやだなぁ、と飛鳥は白い目で虚空を見るのだ。
悪い連中ではない。どころか一人は学園の生徒会長だし、一人は学園のアイドルだし、なんで入らないのか不思議なものだが、
「天賦だもんなぁ……」
普通と、真逆の言葉。
問題児の集まり、天賦研究同好会。
それに纏わりつかれる生徒、神代飛鳥。
はぁ、と溜息が零れる。卒業してもOBとして勧誘されそうで恐いからだ。
思わずタイムロスを被ったが、神代飛鳥にはそんな暇は無い。
両親が居ない飛鳥には、一人暮らしのためのやらなければならないことは多く、切らしていた卵と野菜っ気を買うためにスーパーに寄っていた。
買い物袋を提げて、飛鳥は商店街を出る。ふと道にある電化製品店の窓越しのテレビが視界に入って、足を止める。
生憎と音はほとんど聴こえてこないがニュースらしく、先日起きた女児殺害についてのレポートをアナウンサーが読んでいるところだった。
物騒だな、と飛鳥は内心で思う。この辺りでも最近通り魔が多発していたり、空き巣に入られたりする家々も多いと教員から聞かされていたので、およそ家族というものと無縁といえる飛鳥は戸締りと帰宅は注意を払わなければと携帯の液晶を見て時刻を確認する。現在夕方の六時半前。空は茜色から徐々に群青色へと染まり始めている。
飛鳥が小走りで帰ろうと前に出た時、背後から声が掛かった。
「あ……神代君?」
百瀬菊璃とは打って変わった、可憐で大人しそうな声色に振り返る。
そこに居たのは同じ学園の生徒、雪乃詠美(ゆきの えいみ)だった。
本校生一年の彼女は飛鳥とはクラスが違うが、以前クラスメイトであり、同じスーパーを利用しているためにタイムセールなどでよく会う仲になっていた。髪をショートカットで切り揃えて清楚を地で行く女の子で、飛鳥が知る中では随一と言っても過言ではない平凡な子だ。
両手に提げているのは鞄とビニール袋。どうやら彼女も買い物だったらしい。
「よぉ雪乃、お前も買い物?」
「うん。行き違いになっちゃったんだね」
詠美は柔らかい笑みを浮かべながら飛鳥の隣りを歩く。
「へぇ、何買ったん?」
「えっと……ジャガイモとニンジンが安かったから、今晩は肉じゃがかな」
「げ、ジャガイモ安かった? うわ買っときゃよかった」
「今度肉じゃがお裾分けする?」
「あん? いいよ別に、家近くねぇし。最近物騒だからやめとけ」
談笑しながら大通りに出たところで、本来なら道が分かれるところで飛鳥は詠美の隣りを歩き続ける。
「ん、送ってく」
きょとんとした顔をしていた詠美は、理解するや否や顔を紅潮させる。
「そ、そんないいよ! 家すぐだしっ」
「つってももうじき暗くなるし、通り魔とか多いからほっとけねぇって」
「でも……」
「いいって」
彼女の家を知っているわけではないが、こっちの方面は住宅が密集しているので一度進んだら曲がりようもない。観念したのか、詠美は苦笑混じりに歩き始めた。
「神代君、毎日大変だね……」
「何が?」
「え、っと……天賦、の……」
どこか言いにくそうに飛鳥の悩みの種を口にする。
ああ、と飛鳥は納得し、しかし詠美に愚痴を言うわけにもいかない飛鳥は空を仰いでから視線を戻した。
「あいつらは全員欲の塊だからな、適当にスルーしときゃ大丈夫だ」
「そうなんだ。ウチのクラスでもちょっとした有名人だもんね、『天究が一目置く生徒』って……」
「いっそ問題になってくれればいいんだけどな……まさか生徒会長を兼任する部長が相手ではそれも無理っぽいし」
それどころか教師を差し置いて理事長並に学園を掌握しているに近い地位の持ち主だ。成績、体技、性格、どこを取ってしても生徒総勢約一六〇〇余名の頂点に君臨する才女。平均点付近を行ったり来たりしている飛鳥には到底成し得ない所業の数々を果たした、まさに天賦を齎された者なのである。
ところが、隣りを歩く詠美を含むその一六〇〇名の内数人を除いて、皆騙されているのだ。数々の栄光を携えた生徒会長は、天究部長になった瞬間、才女から悪女へと一変する。ようするに知る人のみ知る危険極まりない悪行も色々やってきたらしい。無論、才女も担う彼女が捕まるようなヘマはしない。常に犯罪ギリギリ手前で、しかし最大限に悪知恵を働かせてきた。
とはいえ知ってるから勧誘されたというわけではない。飛鳥を勧誘し始めた理由は正真正銘の気紛れらしく、口封じというよりとばっちりに近かった。
(まあ、せめて『普通』に生きている雪乃までは巻き込まないでやらんと……)
気遣われている分には嬉しいが、これはあくまで飛鳥の問題だ。諦めないからこそ、飛鳥の力で諦めさせるか卒業するまで清いままで(比喩ではない)いるしかない。
飛鳥は一人暮らしだ。文字通り、親はおろか家族など一人も居ない。残った通帳の金はなんとか高校生までは楽できる金額があったため、さしたる問題はなかった。
そういった境遇を持つからこそ普通とは程遠い飛鳥だが、しかし、護りたいモノは護りたいのだ。
飛鳥はニカッと笑いかけて、詠美の『普通』を護った。
疎遠、という力を使って。
「大丈夫だから気にすんなって、俺は俺のやるようにやるさ」
「……、」
思わず詠美は言いよどんだ。一線を引いたことに感づかれたか、と飛鳥は思うが、詠美は次には笑みを浮かべていた。
「うん、わかった……」
飛鳥は頷いて前を向く。
苦しむ、というわけじゃない。
哀しい、でもないのだ。
ただこれは、飛鳥にとっての戦い。
えらく日常的な、非日常への戦い。
だから、飛鳥は疎遠になろうとも負けたりなんかしたくない。
たとえ……友達と呼べる人間が居ないこの境遇の中でも。
「さすがにやばいかもなぁ……」
雪乃詠美を家の前まで送り終えた頃には、もうすっかり夜が訪れてしまっていた。通り魔以前に料理してくれる人間が家に居ない飛鳥は、あまり時間配分に差異を創りたくない性分なため、小走りで家路を急いでいた。
地元民の飛鳥の家は一軒家で、それなりに大きい。親族から手渡された通帳に並んでいたゼロの数からして親が大富豪だったのかと思っていたが、無論顔も覚えていない人間のことなんか知る由も無い。
塀が続く住宅からちょっと離れた通りに一角を置く家が目に入り、飛鳥はようやく足並みを遅らせる。
ポケットから家の鍵を取り出し、鍵を回して玄関を開ける。
ただいま、という言葉はなかった。言ったところで返事が返ってくるわけでじゃない。そんなものを期待も憧憬も抱きたくなかった。
何考えてんだか、と自嘲気味にドアを閉め、玄関口の電気を付けた。
途端、飛鳥は最初、怪訝な顔をした。
暗がりに急な明かりのせいで、見間違えたのかと思った。
次に訪れた兆候は、絶句でしかなかった。
それはどう見ても――惨劇だった。
玄関を上がると、T字に廊下が続き、正面に二階へ続く階段がある。横に伸びる廊下は右に行けばキッチンと居間、左には風呂場やトイレに物置部屋など。
どうといったこともない、見慣れた景色。
しかし、それはあくまで荒らされてなければ≠フ話だ。
玄関口の下駄箱の上にはなけなしの芳香剤を置いていたのだが、それが床に落ち、あげく踏み壊されて中のプルプルとしたものがぶちまけられている。
カーペットは捲れ上がり、二階へ続く階段の床が踏み抜かれている。家中土足特有の土や靴の汚れがあちこちに続き、そこら中が泥だらけ。
ただ、それだけなら良かった。まだ、マシだっただろう。
血。
血が、爆ぜていた。
文字通り、白い壁や床、天井に至るまで真っ赤な液体がこびり付いている。ペンキの類と思い込む何かが頭のどこかにあったが、鼻腔を掠める生々しい悪臭が芳香剤のそれと混ざって気持ちが悪い。
しかも、泥と血の爆発に伴うが如くして、あちこちがズタズタにされている。ナイフか何かで突き刺したり、あるいは引き裂いたりしたのか。
(……ょっと、待……っ!)
うぷ、と喉までせり上がりかけたものを咄嗟に手で口を押さえ留める。
しかし頭の中は白に黒を混ぜたようにぐらぐらと揺れた。
動揺した何かが、空き巣、という思案を生んだ。なまじ変な集団に勧誘を受け続けているがために場を正当化しなければならないと脳は悲鳴を上げる。
次に冷静な何かが、違う、という回答を出した。空き巣とは金品を盗むために家に忍び込むことだ。これでは、空き巣でさえ尋常だと脳は結論を挙げる。
そう、これは、『普通』ではない。
これではまるで――、
ドサ! という音が耳に入り、意識が呼び戻される。
どうやら持っていた買い物袋を取り落としたらしいと気付き、飛鳥は惨劇の風景を呆然と見つめていた。
まるで、戦闘が起きたかのような風景を。
あれから、あまり上手く回ってくれない頭を叩いて飛鳥がしたのは、携帯から警察を呼ぶことだった。
事情とここの住所を教えると、三人の警官服を着た大人が玄関にやってくる。
彼等も家の惨状を見て瞠目していたが、そこはやはり場数が違うだけあって、一人はすぐに車へ戻って連絡、もう一人の体格の良い男性は壊れて砕け散っているものを慎重に確認している。外の段差のところに座って風を浴びていた飛鳥に、茶に髪を染めた若い男性が危惧するように言い寄ってきた。
「災難だったね、もう大丈夫だから」
その優しさに救われた気分になった飛鳥は、曖昧に笑みを返して顔を上げる。
「あれ……なんなんすか? どう見たって、あれ……争った跡……」
「うん、僕も長い事こういう仕事をしてるけど、これは空き巣なんかじゃないね、殺人の可能性があるのかも知れない」
殺人。その言葉を聴いて途端に不快感がこみ上げてきた。
「おい……」
傍に寄ってきた大男が声を掛けると、茶髪は申し訳なさそうに苦笑いを浮かべる。
「あーごめんごめんっ、悪気は無かったんだけどね……」
ここに来て大分落ち着いてきた飛鳥は、軽く頷いて返した。第三者特有の傍観欲は誰にだってある。
「ところで、家族の人は居ないのかな。出かけてるとか」
「あ……俺、一人暮らしです。親居ません」
「え? あ、そうなの……?」
飛鳥は何事も無い風に答えたが、気まずそうに大男と目を合わせている。
しょうがないか、と飛鳥は思ったが、動く気にはなれなかった。
同刻。
夜が訪れる前の何とも言えない群青色の空の下。
人通りの少ない道を進む場違いなリムジンの中。
車を運転する執事と、傍らに座る妙齢の侍女。
後部座席に腰を据える少女は、西洋風と言うべき真紅のゴシックドレス。フリルがふんだんにあしらわれ、背中まで伸びる艶やかな髪を後頭部で布地のカチューシャを飾っている。一見すれば秋葉系とも言えるかもしれないが、彼女自身の持つ圧倒的な気品が一切の文句を言わせなかった。内面に限らず、事実として彼女は一国に関与出来得る富豪なのだ。
車が大通りに差し掛かった辺りで、ピピピ、という携帯のシンプルな音が車内に鳴る。黒髪の侍女が懐から黒い携帯を取り出し、通話ボタンを押した。
「はい、京極院(きょうごくいん)です」
静かに応答する侍女は数秒後、こちらに携帯を差し出してきた。
「誰からですの?」
「斎条(さいじょう)様です」
その名前にぴくりと反応し、少女は侍女に小さく礼を言いつつ携帯を耳元に寄せた。
「何ですの?」
『うわー不機嫌さねぃ、一応マジ話ってことで掛けさせてもらったのだけさぁ』
女性の、しかし酒でも飲んでるのかと思うほど酔っ払いみたいに呂律の回らない声。慣れたつもりであったが、いかんせん聞き取りにくい。通る声でなければ通話を切ってやりたいところだ。
「御託は嫌いだと知っているでしょう、疾く唱えなさい」
『んー、じゃ率直に言わせてもらうけどねぃ……朗報と飛報が一個ずつよん』
「……前者はあれ≠ナすわね」
少女の一言に、受話器の向こうで一息だけ遅れて声が返ってくる。
『察しが早いねぃ、おねえさん話の分かる子好きー』
「それぐらいの考慮は範疇の内ですわ、教団の連中がこの町に侵入するのを防衛出来なかったということも」
『うーん……自分もそれなりに策士でいってるつもりだけどねぃ、やっぱ敵わないもんなんだとプチショック』
「曲りなりにも将たる者が部下に知恵を借りるようでは、教団のひひじい共と変わらなくなってしまいましてよ」
『祭司はそうはいかない思うんだよさねぃ。防衛に当たったのも下っ端の下っ端、まともな能力もない自衛隊みたいなチーム編成だったらしくよさー』
「まるでワタクシ達と戦いた気ですわね、あの男」
ヴェルザーク=クロイツェフ。件の教団の祭司を務める男を少女はある因縁として知る。
教団は表向きは英国宗教の派閥だが、クロイツェフという姓は本来ドイツのものだ。異端は弾かれ易い集団で祭司などという地位に上り詰めているのは、真の姿の教団内での能力が関与しているためだと少女は推論を立てている。
まあ、その能力というものを行使してこの集団を取り持っている少女にとっては、フェアな話である。問題はその祭司がかなりの切れ者であるということ。これまでに潰されて断念せざるを得なかった計画は少なくない。こちらは少数精鋭派ではあるが、向こうは何千万という人数を一手に指揮する智将だ。こと数に物を言わせる戦法は元より、効率を重視したものさえ立案する。ある意味ではライバルと言うべき勢力だ。
「ただ、そうなると腑に落ちませんわ。連中にワタクシ達の居場所がバレているということはないはずですから、あれ≠ェこの町に来たのは明らかな偶然」
『にしたって、祭司の直轄命令が下りたなら普通は十字遠征軍(クルセイダリス)が動く思うねぃ』
「あの直属部下集団が来ないということは、赴かせることが出来ない理由があったから、ということになりますわね」
教団が誇るエリート集団。その動きが見えないのが、少女を深く考え込ませる要因になっていた。
「……ふん、だとしても、せっかくこの町に誘い込んだあれ≠、みすみす教団に潰させるわけにはいかなくてよ。必ず手中に収めなければ……」
『ま、そのへんはそこに居るメイドさんとしっかり考えてヨロ〜。自分らは命令待ってるから、いつも通りにさしてもらうよん』
「よろしくてよ、報告御苦労様」
話に区切りがついたと少女はそう口火を切ったが、受話する向こうで何か気まずそうな空笑いが聴こえた。
どうしたのかと訊くと、
『いやね〜……飛報のほうがまだなんだよねん』
「? ……朗報というのがあれ≠ェこの町に侵入したことで、飛報というのが教団の行動が妙だという話ではなかったのですの?」
そうだとばかり思っていた少女に、女性は一度だけ唸ってから口を開く。
『華音(かのん)っちさぁ……最近、通り魔と空き巣が多発してるって知ってるよねぃ』
「ええ、恐らく空き巣のほうは教団が追い詰める際の術式を隠蔽して回ったと思いますけれど……それが何か?」
『それがねぇ……』
また唸りながら、怪訝に眉をひそめだす少女に、
『第三者が聖痕(スティグマータ)≠狙ってる可能性が出たの……通り魔のほうさね』
その一言から、女性の声が一変して戦慄を伴う非日常の口調へと変わった。
何人もの警察官が処理をしてくれた後、飛鳥の了承を呑んで家中を片付けて貰った。修理ではなく清掃なので、血痕や多少の備品を捨てて貰っただけで、さして荒んだ感じは拭えていなかった。
まあどうしてくれと頼むのも迷惑だろうし、専門の業者に頼んで修理のほうは何とかするつもりだった。金だけは有り余っている現状なのだし。
警察の人が帰っていった時には、もう十時を過ぎていた。明日は土曜だが、それにしたって災難な一日だった。
溜息をついて玄関口を見つめ、買った中に下味を付けなければならない物もあるため袋を持ってキッチンに向かう。
どうやら惨事となっていたのは玄関口だけだったらしく、キッチンや居間は全くそのままだった。飛鳥はキッチンに袋を置き、一息入れようと戸棚からコップを取り出した。
冷蔵庫の中の牛乳を注ぎ、並々と注がれたそれを半分ほど飲み干す。
やっとのことでほっと胸に痞えた感触が抜け、残りを空にして一度玄関の有り様を確認しようと部屋を出た。
鑑識とやらが写真や血液の検査をしたあと出来るだけ綺麗にしてくれたため、ズタズタに引き裂かれた跡以外はそれほど気にならなくはなっている。とはいえ、あれだけの血が散乱するような戦いの割りに、妙なことを考えていた。
「……、これ。俺の頭より上切ってるぞ」
壁に穿たれている傷痕は、飛鳥の頭一つは上に着いている。
飛鳥の身長は一七〇そこらだ。それを軽々と超える高さを切るということは、刃物を振るった人間が大きかったか、刃物そのものがナイフじゃなかったということを思い当たる。
そもそも、空き巣じゃないとしたら、何故こんな惨劇を起こしたのだろう。家の鍵は掛かっていたし、他の部屋に入った形跡や盗まれた金品は一切無い。初めから戦うことが前提でこの家に忍び込んだようにしか、考えられないのだ。
「……何か、」
おかしい、と呟きかけた。
飛鳥は得体の知れない何かを感じつつ、馬鹿馬鹿しい、単に不幸だっただけじゃないかと頭を振って玄関の電気を消した。
ピシ、
耳元で、何か亀裂が入る音が聴こえた気がした。
踏み抜かれている床が軋んだ音だと思っていた飛鳥が振り向いたとき、
言葉を失った。
「――、」
玄関口。刃物の痕跡が荒れ狂う床板に、
何か、白い光の軌跡が出来ていた。
よく見るとそれは円の形をしていて、十センチ程度の白い円の中には、何か象形文字のようなものがびっしりと書き込まれている。夜光トリオで描かれたように、暗闇の中でぼぅと浮かんでいる。
「何だ、これ……」
強張った顔で円を見ると、おかしなことに気付いた。
あの円の周りだけ、妙に綺麗だ。刃物や血の汚れに至るものは総て、反発する磁石のように避けられている。
思わず、しかし慎重に円に近づいて、煌々と淡く燈る円を触ってみた。
その瞬間、日常はあまりに唐突なほど簡単に壊れた。
バギ――ガ、ガン!!
硝子が砕け散るような音と共に、円が消える。
飛鳥に見えた景色は、
「え、」
何の変哲も無い玄関口。
そう、刃物の跡も、血痕も、カーペットも、踏み抜かれた床板も、芳香剤に至る、破壊された総てが元通りになっていた。何も起こる前の玄関に=B
「な、え――」
何が起きたのか分からない飛鳥が、目に入った物を見ようと左を向いた。
人が居た。
全身を覆いフードを目深に被ることで姿の一切を隠した、人。
その右手には、二階廊下の窓から覘く月明かりを受けた、分厚いナイフ。
「――あ、……!!」
喉から引き攣った声が洩れ、体を起こそうとする。
その人間は飛鳥の三歩手前という近さに居たのだ。無論、その近さに近づかれても飛鳥は気付かなかったというのに。
反射に近い動きで後ろに下がろうとしたが、
「っ……!?」
体が、動かない。
まるで石になったように、指先一本もビクともしてくれない。
それだけじゃない。声さえ出ない。恐くて、という心理的なものじゃなく、喉に力を込めることさえ上手く出来ない。
突如現れた人間は、包丁のようなナイフを逆手に持ち替え、振り上げる。
断頭台(ギロチン)と化した刃の先は、飛鳥が居る。
(なんで……なんで声っ……動け、動かないと、これ……殺っ)
ず、ず、と床に置いている右手が数ミリだけ動くが、全身まではまるで動かない。月光を纏う兇刃を見つめる眼だけが揺れ、訳も判らず、ただひたすらに、逃げなければと脳が叫び続ける。
『普通』でいたいと願う飛鳥に、未来は無いのか。
両親は揃って蒸発し、
電波集団に目をつけられ、
まともな友達一人すら作れず、
空き巣に入られ、家を壊され、御飯の準備さえ出来てないというのに、
(俺……死――)
振り落とされるナイフ。
情緒も容赦も何一つない、冷徹な一撃が、
床板から貫かれた刃によって弾かれた。
「―――――――!」
奇襲者と飛鳥との合間。床から長細い剣が生えていた。刀というには真っ直ぐで、両刃だが刀のように細い。切っ先の部分で刀身が二又に別れていて、奇襲者のナイフの刃を鋏のように捕らえていた。
直後、背後からメキメキ! というもの凄い音が轟く。
飛鳥は咄嗟に、動けなかったことが嘘のように勢いよく振り返る。
飛鳥と奇襲者の視線の交わる先、階段の床を破壊して現れたのは、
少女だった。
銀糸の髪と人形のように白い肌。背に負うような月明かりがさらに白く際立たせる陶器のような素肌を、黒いボロボロの布で覆う小柄な子。
ぱらぱらと破片を舞わせて二人を見下ろす瞳は、感情無く獲物を射抜く真紅。色素の薄い髪と肌と真紅色の瞳、アルビノ持ちのような外見だが、月光を浴びるその姿が神秘的で、妥協無き美しさがひしひしと伝わっていた。
「……捜索魔術。先に予測した因果を再現して術式を完成させるタイプ」
小さな唇からソプラノの、しかし流暢な日本語が紡がれる。
「教団じゃ見なかったやり方だ……流れかな?」
少女が問いかけてくる。飛鳥は別の意味で言葉を失っていたが、奇襲者が後退するのに気付いて右手を床から離した。
「ボクの力を狙ってこんなことしたみたいだけど、無関係の餌に食いつく獣は捕まるのが定石じゃないのかな」
階段から降り、少女は飛鳥を一瞥もくれることなく奇襲者を見つめる。
睥睨の類すらない。ただ、見つめる。そもそも瞳に感情が感じられなかった。
奇襲者は一言も返すことなく、逆手に持っていたナイフを持ち替える。
「いいの? 再現しないまま刻限が過ぎれば反動(リカバリィ)を受けるはずだけど」
抑揚が無い、ともすれば気力の感じられない声と共に少女が飛鳥の脇をすり抜ける。裸足を爪先立ちにして、右手を差し出した。
「どうでもいいけど、ボクのせいで人死ぬの気分悪いかな」
その瞬間、少女の姿が消えた。
直後、少女の体が床ギリギリを走りながら奇襲者の懐まで入っていることに気付いた。奇襲者はナイフを持つ右腕を振るったが、体に届く前に少女の蹴りで阻まれる。次の時には体重を乗せた肘が鳩尾に突き刺さり、奇襲者の体が玄関口まで吹き飛ぶ。ドアに背を預け、奇襲者は左腕を口元に持ってゆき、
ぶちっ……!
あろうことか、迷うことなく左手首――脈のある部分を噛み千切った。見る見るうちに鮮血が左手を彩り床に滴り落ちるが、奇襲者はその血をナイフの柄に塗りつけた。
「……!」
少女が一歩引くと、奇襲者のナイフが横一閃する。距離からして届かないはずだったが、ビッ! と少女の羽織るボロ布に掠った。
闇の中、何とか見えたナイフの刀身が、伸びている。サーベルほどの長さに伸び、奇襲者が一歩ずつ歩き寄ってくる。
たん、と少女の裸足の一歩が床を踏み、奇襲者のさらなる一撃を避ける。だがナイフのときよりも圧倒的にリーチが伸び、少女の動きギリギリを刃が掠めてゆく。素人の飛鳥にも、少女がいつ斬られるかと声が出なかった。
途端、少女の一歩を踏む床の上に奇襲者の足が差し込まれる。少女の足が奇襲者の足を踏んでしまった瞬間、奇襲者が足を引いて少女の体が宙でぐらつく。
渇いた音と共に、サーベルがナイフに戻る。
逆手に持ち替えた切っ先が少女の眉間に流れる速度で滑り、
どすん!
鈍い音が、奇襲者のほうから聴こえた。
フードに隠れた視線を落とすと、胸元に小さな、キーホルダー大のナイフが刺さっていた。ただ、それだけならまるで大したこともなかったのだが、
ごふっ、と鮮血がフードの中から散った。
ナイフの数は優に二十本近く、胸元にびっしりと突き刺さっている。じわり、と血が滲み、顔を上げた時にはもう遅かった。
キィィィン――
ピアノの高音キーをまとめて叩いたような高い音。
一秒前。少女の手に、透明な何かが浮かび、月明かりを受け硝子細工の様に。
一秒後。紋は美しく、五尺はあろうという抜き身の大太刀に変貌を遂げる。
固化無き虚空。
対価無き武装。
より一層、少女の瞳が真紅に煌く。
炎よりも繊細に、血よりも高貴に、月よりも戦慄に、
握られた大太刀を肩に掛け、体を捻転させる。
奇襲者に視えたのは、身を翻す少女の背中から覘く、刻印。
ズドン!!
床を踏み抜きかけない踏み込みと共にナイフを超える兇刃が奇襲者の体躯を断ち切った。斬るではない、腹部から真っ二つだった。
ずるりと床に落ちる上半身。
次の瞬間、嵐が起きた。
床へ落ちる上半身を、アッパーのように刀が斬り上げる。
ぐわん、と宙に投げ出された右腕を根元から斬り払い、血で染まっていた左手首をすっぱり斬り落とす。四方から荒れ狂う斬撃にくるくると舞う上半身から有り得ないくらいの血飛沫が玄関口を汚し、回転する上半身めがけて刀が飛ぶ。首を綺麗に切り落として腕も頭も無くなった肉の塊が地面に降ると同時、まだ立っている下半身を容赦なく薪割りのように斬り捨てた。
僅か三秒足らず。
血が、飛鳥の顔に降りかかる。生臭い鮮血が霞のように漂い、呆然としたまま背中を見つめていた。
ふと、ごろごろと足元に転がってくるものに目を向ける。
それは、髪の毛のへばり付いた――、
抑えきれるものではなかった。後で謝り合うような喧嘩しか知らない飛鳥にとって、こんな戦闘を、殺し合い……ただでさえこれだけの血を見るのも初めてなのに、こんな……頭が、転
「う、げぇ……っ!」
喉を焼く熱さと共に、床に嘔吐する。吐寫物が溜まる血と混じり、異臭を放つ戦場で、飛鳥は茫々と顔だけを上げた。
「……」
なけなしの黒衣に身を包み、身の丈を超える大剣を床に放り捨てて振り返る。
真紅の瞳の鬼神が、異常がそこに居た。こちらを寝ぼけ眼みたいな視線で捉え、何も言わず、立っている。
俺も殺されるんだろうか、と飛鳥はここに来てやっと恐怖を覚えた。
「あ、えっと……なんかどうでもいいけど大丈夫かな?」
ずるずるとボロ布を引きずって少女が声を掛けてくる。すると少女はいきなり飛鳥の近くで転がっているそれを髪から掴んで覗き込む。
ぎょっとしたまま硬直する飛鳥を尻目に、少女はじっとそれを見つめ、
「……やっぱり替え玉か……適当な人を使ったみたいかな」
そのままぽいっと地面に捨てると、床に跳ねた頭が、サラサラと音を立てて灰のように溶ける。
「写し身だね、人を殺して操り人形(マリオネット)にしたのかな。術式消したから、ほら」
振り向くと、四散されている肉塊が、白い灰のように散ってゆく。
「巧いこと逃げられたかな。まあボクは追跡の魔術なんて知らないけど」
理解できない言葉を耳にしながら、飛鳥は両手が震えるのに気付く。
床についている手が震え、体が動かない。
恐い。自分も殺されるかもしれないという恐怖ではなく、畏怖だった。
死の乱雑する場所で、『普通』の自分が生きていることが、恐かった。
「大丈夫――」
屈んだ少女の手が、そっと触れた。ひんやりと冷たく、すべすべとした感触に右手が覆われ、飛鳥は顔をもう一度上げる。
少女の整った顔が至近距離で、ただ大して興味もなさそうな無表情で言う。
「キミは狙われてる。それはボクのせいだから、だからボクが護る」
諭すように言われた飛鳥は、触れている手が繋がりと覚え、ふと思う。
「キミを、必ず護るから」
この言葉は救済なのか。
それとも、惨劇なのか。
少なくとも異常であることだけは確かだと、頭のどこかで警告だけ鳴った。
Chapter.A 説 −It lost it beautiful days−
執務を終え、執務室で自分で淹れた紅茶を飲むといういつもの日課の最中。
今回は思いのほか仕事量が多く、昨今の情勢も慌ただしいものになったものだと男はすっかり暗くなり、十五分毎に鐘が鳴る時計塔を窓から眺めていた。
すると、廊下からパタパタと走る音が近づいてくる。またかと溜息を紅茶の湯気で混じらせて、否応無く開け放たれる扉に視線を戻す。
現れたのは、とても小さな子供だった。孤児院の子供並に小柄で童顔の少年は、しかし豪奢にも程があるほどの金の刺繍がされた真紅のマントと、サラサラの金髪の上に童話に出てくるような王冠がずれたまま。しかもマントの下は白地のブラウスはいいのだが、穿いているのは短パンだ。白い太腿が顕わで、どうしても幼児の背伸びにしか見えない。
少年は碧眼を煌かせ、満面の笑顔で入ってくる。
「Ven!! Is it true that her whereabouts turned out…!?」
「……王子、英語で話されると御答えかねます……」
きょとんとする王子と呼ばれた少年は、すぐに理解して笑う。
「ごめんごめん、ヴェンは英語喋れないんだったっけ」
「多少は喋れますが……純粋な英語圏出身者が相手ではさすがに……」
「むぅ……スラングは出来るだけないように喋ったんだぞ」
二人揃って、流れるような日本語で話し出す。
元々は彼が英語を話せないため、少年のほうが『じゃあ二人の時は日本語で喋ろう。え? なんで日本かって? いいじゃないか、二人とも外来語のほうが公平でしょ? 国民を抱える王子と信者を抱える祭司は共通的じゃないか。ていうかこれ王子からの命令ね、拒否したら信者の前で公開処刑するから』と言ってきたので頷いたのだ。拒否以前に教皇の子息の命令を無視したら処刑どころか公開拷問に発展しかねない。たとえそれが教皇よりも位がある祭司でも、王子の命令は神の命令と同義なほど絶対なのだ。
「ところでヴェン、彼女が日本で確認できたというのは本当の話かい?」
「もう御耳に入られましたか……誰に聞いたのです?」
「プリムラだよ。廊下で会ったから訊いたら、跪きながら必死に教えてくれた」
ずれる王冠を直しながらけらけらと笑い少年が名乗ったのは、自分が直轄している部隊のリーダーではないか、と男は自分の部下に同情した。祭司級の者や賢老会以外は王子との私情での会話で顔を上げてはいけない規則なのだ。
「ついに姿を現せたんだね、君が二年以上も費やしてやっと追い詰める相手なんて……あの小国の小娘が創った機関と次いで手こずってるね」
本人は嬉しそうに他人事で話すが、機関という名を聞いた男は渋面になった。
「その件については御控え頂けると助かります。特に奴の名は」
京極院華音。件の機関の総帥を務める少女を男はある因縁として知る。
表向きは日本はおろか世界でも企業界で知らぬ者は居ないほどの電子機器製造会社、京極院財閥の現社長だ。僅か十二歳という若さを裏切るその智謀によって軍法会議にすら出席しているという噂まで流れる実力者である。
ただその実、裏では我々と同じ能力者であり、そういった能力を色濃く持つ者達による機関を用いて教団に反抗していることも事実。
初めの内は教皇がヒィヒィと慌てすぎなだけだと思っていたが、これが厄介に感じるようになって彼の命令で裏を知る信者≠赴かせたところ、逆にこちらの本拠地が割れそうになって危なかったことを思い出す。
とにかく、首謀者であるその少女が切れるという点だけなら良かったのだ。勢力においては教団を超える組織など居ないと言える。それにも関わらず教団が手こずる理由は、こちらが質より量で向かうのに対し、機関の連中は量より質で立ち向かってくるのだ。それこそ俄かな凡才ではなく、一人で二百三百を超える戦力になるほどの、天才達をだ。教団は敵対し得る組織を数多く持つが、こと男にとってはこれほど面倒な少数精鋭派の集団は二番目に危険だった。
「まぁ、記録が残る飛行機じゃなくて取引用の船で日本に逃亡されたら難儀もするね。ホテルやコンビニも使わないから一切のセキュリティも無意味」
「仮にも宗教派閥最高峰の権威がコンビニなどと口にされるのは……」
「堅苦しいことを言わないでよヴェン。本当なら僕だって追い掛け回したかったんだよ? 聖痕≠フ刻印者が現実に存在するなんて魅力的じゃないか」
「私としては致命的と評するべきですな。『聖域』の持ち主が外部……それもよりによって日本などという科学志向国家に紛れるとあっては困ります」
「機関の本拠地はバリバリの日本だしね」
「それを言ってしまわれては教団の居るここもバリバリのロンドンです」
窓の外に見える時計塔が、十五分経って鐘を鳴らす。
「そもそも王子は何故ここに居るのですか?」
「うわ、王子を相手に普通に指摘したね」
勿論許容されると男も解かっているし、少年も許容する以前に子供のように笑いながらずれる王冠を直す。
「でも現実問題、どうするんだい? さっき廊下でプリムラに会ったってことは、十字遠征軍(クルセイダリス)は征かないんだね」
「ええ、一つ気になる情報が入りましてね」
机に置かれている、まだ未処理のままの紙。
「術式傾向からイタリアの魔術を用いていると思われますが……第三者です」
「へぇ……それで距離を置いたのか=Aドイツ人の割に慎重だね」
「堅実と称して頂きたいですな」
口の端を吊り上げ、男はもう冷めてしまっている紅茶を見てから、
「王子。お越し頂いたのです、美味しい紅茶を淹れましょうか」
「あ、いらない。そういう貴族っぽい趣味って嫌いなんだよね」
「……、」
色んな意味で生粋の王族は、無邪気に頭の上の王冠を手で直す。
目が覚めた時、まだ部屋は薄く暗かった。窓の外はもう大部空が白んでいたため、五時か六時頃だと飛鳥は深い眠りから瞼を開く。
見える天井は、まるでいつもと変わらない。自室のベッドの上で仰向けになる神代飛鳥は、昨日の記憶を思い出し、固く目を瞑る。
網膜に焼きついた、鮮烈な真紅。血と、瞳。それが放れない。
悪夢の戦闘と、守護という言葉。
夢であって欲しい、と思う反面。
飛鳥は再び目を開き、ゆっくりと右へ首を向けた。
案の定、そこに少女が居た。
飛鳥の隣りで、ベッドに背を預けて座る形で寝入っている。三角座りで全身をボロ布で覆い、それに映えるような白銀の髪が夜に降る雪のようだった。
ぼんやりとしたまま、飛鳥は上体を起こす。ギシ、とベッドが軋む音がして、白銀の頭が揺れた。
振り向いたそこに、雪のように儚げに整う顔と、夜色の瞳があった。
少し身構えていたのだが、少女の大きな瞳は真紅じゃない。だがこの眼も吸い込まれそうな蟲惑性を感じた。
「起きたんだ、意外と早起きだね」
「今……何時、」
「体感時刻六時二十分ってところかな」
「……ずっと、そこに居て起きてたのか」
「襲われたときに部屋が違うと護れないから。それにいつもより仮眠できたし」
伸びをして頭を振り、こちらをじっと見上げてくる。初めて見た数時間前から、あまり変わらず、寝ぼけてそうに据わった視線が妙に言葉を発しづらい。
だが、彼女を含む決定的に日常から離反した力を忘れることなど出来ず、飛鳥はぽつりと呟く。
「俺は……殺される、のか……」
「ボクがそんなことさせない」少女が即答する。「巻き込んじゃったことを謝っても、嬉しくないと思う。でも、まだキミは生きてる。ボクがどんな手を使ってでも、絶対に死なせない。だから大丈夫」
根拠の無い話だと、本人も自覚しているのだろう。ほとんど判別がつかないほど、すまなさそうに眉根を寄せていた。
しかし、飛鳥にとってはなんら理解も許容も出来ない話だ。
この少女は、教団といわれる魔術や兵器を武装する組織に追われている。
なんて。
信じられるわけがない。普通なら。
ただ、否応無しにあの昨夜の戦闘を見せられたからには、頷かざるを得ない。
「……人殺したやつが、よく言うよ」
頭が回らないついでで勢いに乗せて言ってしまう。薄く自己嫌悪したが、本心に近い冷酷さが出てしまった。
少女は少し、ほんの少しだけ微笑んだ。
思わず、心臓が跳ねた。
「ごめん。でもあれは殺人じゃないよ、すでに死んでる肉体を使ったの」
「死んでる……?」
「うん。昨日も言ったけど、死んで魂を失った器にいくつもの思念を込めて操る魔術かな。術者の命令だけ守り抜き、説得も聴かずに多少の傷でも怯まない。物理的に細切れにしてから術式を消さないといけないなんて、高等レベルだよ」
そうか、と生返事だけ答える。飛鳥は寝ぼけるほうではないが、それでも覚醒しきらない頭はどうでもよくなった風にベッドから起き上がる。うわ、と小さく声を出しながら少女が退く。
顔を洗ってから、まずは朝の御飯を作らなければならないと飛鳥は部屋の戸を開ける。すると、背後から布の擦る音が耳に入り、飛鳥は顔を振り向く。
「……なんだよ」
「え、あ、いや……急にどこ行くのかなって」
「……飯、つくらなきゃ」
「あ、――」
こきゅぅぅぅ……、
同時に腹から鳴った可愛らしい音に遮られた。
「――、そうなんだ」
「……」
ほんの二秒の空白に、飛鳥はちょっとした殺意を覚える。
ふと、彼女の言った体感時刻とは腹時計のことだと理解した。
仕方が無いと言えば、そうだろう。
昨日の戦闘とやらのせいで、なんの不幸かスーパーの袋が踏み潰されたのだ。
補給のつもりで買ったものだったので、冷蔵庫には長持ちするものだけしか入っていなかったものの、以前に買っておいた食パンでサンドイッチにした。
「はむ……」
ただ、食パンというのも二斤まるまるあったため、一般サイズのサンドイッチにすると二十個三十個になってしまう。
「もふ、……むぐ」
しかも卵が切らしていたので、中身は総てレタスとハム、きゅうりぐらいだ。
「ん、……はむ」
普段は使うことのない大きな中華皿に盛られた大量のサンドイッチの数々は、見た目十二歳の少女の腹の中に見事に収まってしまった。
ちなみに、飛鳥は二個しか食べていない。あまりの食いっぷりに明け渡さない空気にはなれなかった。
「アスカ、このさんどいっち≠ニいう食べ物は美味しいね」
しかも呼び捨てが定着していた。
表情は相変わらず寝ぼけ眼だが、テーブルの下では彼女の足がパタパタと揺れているのが分かる。分かるだけに、すっごくムカつく。
飛鳥は食後のコーヒーを啜りながら、少女をじっと見つめていた。
「お前、一体何者なんだよ……魔術だか何だか知らねぇけどさ」
「んむ? ボクはボクだよ、襲われてばかりでそのこと考えてなかったかな」
少女は最後のサンドイッチに手を伸ばしながら頷く。
「教団はね、さっきみたいな人にない力を集めた組織なんだよ。魔術というよりも、天賦の才ってところかな」
天賦、という単語に一瞬飛鳥は嫌気が差したが黙って聞くことにする。機嫌を損ねて殺されたなんて強ち有り得ないとはいえない。事実数時間前に飛鳥は命を救われたし、殺されかけもされたのだ。
「まあ機関も厄介と言えば厄介かな。あそこの人達、攻撃してこないんだけどしつこく近寄ってくるんだよね」
溜息混じりのサンドイッチに喰らいつく。また訳の判らない単語が増えた気がしたが、まずは耳に古い単語から処理してゆくことが飛鳥の精一杯だった。
「教団、っていうのが……わかった、そういうマトモじゃない集団で、お前が狙われ……お前……、おま……」
そこで、飛鳥は聞いておいてもいい点を訊き忘れていた。
「お前、名前なんていうんだ? お前お前じゃ呼びにくい」
「ひゃいお」
「よしわかった、とりあえずサンドイッチを飲み下せバカ」
コーヒーを差し出し、こくこくと頷きながら少女は胃腑へと押し流す。
ぷぅ、と小さく吐息を洩らしてから何の気もなしに答えた。
「ないよ」
「あん?」
「自分で訊いといて失礼な返事だよね」軽く眉をひそめて少女は言う。「だから無いよ、名前なんて持ってるわけないじゃないか。必要ではないし」
え……、と飛鳥は言葉を失った。
異質の世界に詳しいわけではないが、だからといってこんな年端もいかない子供が名乗る名前もないなんて、少し酷くはないだろうか。
「真名は魔術界じゃ他言無用って話だけど、ほんとに流行りだしね。本当に名前だけで人が殺せたら今頃世界中の死因第一位に『呪詛』って載っちゃうよ」
コーヒーを飲み干し、ぷぃ〜とか言いながらオヤジ臭く椅子に背を預ける。
「どの道、能力者としての名前が凄すぎて本名なんて研究マニアの何人かがついでに覚えようぐらいにしか扱われないしね。名乗るときは普段もそっちかな」
「能力者としての名前?」
「うん、二つ名って言えば分かるかな。もしくは通り名だね」
少女は律儀に自分の使った食器を重ね、両手で持ってキッチンの流しへと持ってゆく。
「なんていうんだ?」
「聞かないほうがいいっていうのが本音だけど、信用してもらわなくちゃ護れないから教えるよ。ただしそれが何を意味するかは聞かないで、外部に情報が洩れるのを恐がってる教団に刺激がいかないようにしたいから」
飛鳥は無言で頷いた。何となく分かっていることは、その教団という連中は少女のとある物を狙っているようだが、昨夜の奇襲してきた流れの魔術師のように、飛鳥に彼女との関わりがあると思われたら先に潰される可能性がある。人一人を瞬殺できる少女でも、荷物持ちで一対二は辛すぎるだろう。
しかし、知らないというのも限度がある。殺されかけた身としても、彼女が追われている原因となったものぐらいは知る権利があった。中身なんて知りたくはないし、聞いても絶対に理解できないだろう。
「ボクはね、魔術師にも血界士にも当てはまらない力の持ち主――」
その時、流しへ向かう少女の背中がボロ布からちらと見えた。
そこには、刺青というには荘厳な刻印が覘いていた。
「現世に堕ちた『聖域』……ボクの場合は聖痕(スティグマータ)≠ニ呼ばれてるよ」
すてぃぐまーた。
その聞きなれない名前に、何故か飛鳥は閉口した。
「血界士というのは魔術師の対になる能力者だよ」
反射した声がくぐもって戸を渡る。戸に背を預けて飛鳥は頷いた。
「つまり、自然の法則や因果の流れを汲んでその力を捻じ曲げるのが魔術で、……ケッカイシ? っていうのが、重ね続けた血族の力に目覚めた人間か」
「一般的に言えば超能力とかに似てるけどちょっと違うかな、言ってしまえば血界士は突然変異に近いから。ある日ポンと自分の力に気付いて、血から引き出した力場で自分や周囲を支配して力を吸収する。だから魔術師に血界士の力は引き出せないし、血界士に魔術は組めない」
きゅきっ、と捻る際に金属の擦れる甲高い音が木霊する。
「『聖域』っていうのはどっちにもない力だから、それを狙われてる……と」
「うん。魔術師と血界士の共通点は、発現の経由する方向が違っても発生する力場は常に『自分から相手へ』と『別所から自身へ』という流れを創ること」
魔術師は事象という土台を基に結果を搾り出す外へのベクトル。
だから相手に善も悪も押し付けるため魔手の術を記す力となる。
血界士は血脈という素質を基に結果を取り込む内へのベクトル。
だから自分という世界を創り出して支配の領域を生む力となる。
「でも、『聖域』は違う」再び、サァー、という音が部屋に響く。「言うなれば『聖域』は箱だね。創り出した箱の中だけで力を構築して、箱を収納出来得る器の持ち主にだけ力を与える」
ん? と飛鳥は首を傾げる。
「でもそれって血界士じゃん、周りのものを意識して力を出すんだろ?」
「普通の血界ならね」くぐもった声が否定する。「『聖域』はただ意識した力に応じて発現するんじゃなくて、単に箱の箱役であるボク自身を染めてるだけ。だからボクの能力の聖痕≠ヘボクの中にある『聖域』の副産物なだけなんだ。『聖域』は一度でも箱の箱役であるボクが壊れれば一気に溢れ出し、周囲のものを上書きして呑み込み侵食する……こんなのはもう魔術でも血界でもない。ただの残留思念が凝り固まったエネルギー体だよ」
ところどころ聞き逃した部分もあったが、とりあえず要所は理解した。
「そんな危ねぇモノを、なんで教団は狙ってるんだ?」
「『聖域』の恐ろしいところはね。発露したとき、ただ人に被害を与える爆弾みたいな危険性だけじゃないんだ。上書きがもし削除だった場合、文字通りその人は居なかったことになる。初めからこの世界に存在しなかったことに=c…」
飛鳥はぎょっとした。初めから居なかったことになるということは、その人間が生きた事実が消えるということなのか。誰にさえ忘れられたまま。
ここにきて、飛鳥はとんでもない核爆弾を家に入れたんだなと冷や汗を拭う。
「でも安心していいかな。『聖域』が開くことはまずない、箱の箱役をしているボク自身が『聖域』の名前も知らないしね。発露してる力もごく僅かで、聖痕≠燒「完成。特殊な方法を使わない限り、殺されたって絶対に開かないよ」
幼い少女の口から簡単に生き死にが唱えられることには、薄い抵抗を感じる。
しかも、それが飛鳥を安心させるための言葉だとすれば余計に。
「でもさ……その『聖域』を狙ってるっていう昨日の魔術師は、どうやって『聖域』を手に入れるつもりだったんだ? ただ開けるための箱とは違うんだろ?」
「うーん、それが一番のネックかな。魔術師は血界士と違って方法の多彩さがあるからね。撹乱や操作はもちろん、もしかしたら物理的な魔術効果を引き起こす法具を使ってくる可能性だってあるかもしれない」
きゅききゅっ、とまた金属音がエコーを奏でる。
「……なぁ、どうでもいい話なんだけどさぁ」
「んー?」
「……ちゃんとシャワー使えてんのか?」
「ばっちりだよー。さっきからなんでか水しか出てこないけど、ひやっこぉ〜」
またかい……っ! と思いつつも飛鳥は風呂場の戸を慎重に開けた。
つまり少女は風呂場に居て、飛鳥は脱衣所に居た。境界を隔する戸はガラス張りで、仄かに見える肌色のシルエットがちょっぴり扇情的だったりする。
要約するのがバカらしいが、妙に酸っぱい臭いに気付いた飛鳥がまさかと思って尋ねてみたところ、『お風呂? 四六時中気を張らなきゃいけないのに入れるわけないじゃないか』と平然と言ってきた。勿論、そんなサバイバルにだって聖痕≠ノまつわる血塗られた事情云々があるのだと察したいところだが、齢にして中学生を称するのも疑わしい幼女がホームレスとイコールでは洒落になってないと思う。いや確かに帰る場所(ホーム)は失く(レス)してるらしいのだが。
出来るだけ視線をあっちやこっちに逸らしたまま、お湯の栓を調節してやる。「そんなに顔逸らさなくたって裸のひとつやふたつ見られても平気だよ?」ととんでもないことをほざいているが、それはもっと洒落になってない。唯一の救いは裸を見られたことは一度もないという、ややデンジャーな返答だけだ。
風呂場に湯気が昇り、「うん。やっぱりこっちのほうがいいかな、ほこほこ〜」などと再度ほざく少女を残して戸を閉める。
視線を落とすと、洗濯籠の中に黒いボロ布が突っ込まれている。しかしまた随分とボロボロの布だ。よく見ると焦げた跡や煤けた部分もあるので、明らかな異常の匂いを感じる。
「まぁ言う必要は全くないんだけどさぁ、服着替えたほうがいいんじゃね? むしろ布だけっていうのも凄い勇気だよ」
下着を穿くくらいの恥じらいは持ってると思った飛鳥が、子供を風呂に入れるような勢いで布を剥いで後悔した。少女も全裸になっといて赤面どころか微動だにしない寝ぼけフェイスを横に傾けてるんだから心臓に悪い。幼いというわけではなさそうだが、どうも一般知識が激しく疎いようなのだ。
「人と接触したことなんてなかったよ、むしろ寝食はおろか風呂まで強要する人に逢ったのは初めてかもしれない。あ、全体的に褒めてるからね」
「勝手に寝て勝手に喰らって勝手に腐臭撒いたくせに勝手に回避すんなっ!」
サー、というシャワーの音を耳に、飛鳥はふと口を開く。
「じゃあ、お前も殺されそうになってんのか? その教団の連中に」
「そうみたい、かれこれ二年になるかな……『聖域』持ちなんて邪魔だろうし」
何気ない言葉に、鼓動が痛んだ。
何も無い虚空から武器を取り出し、血風の惨劇を引き起こし、身勝手に押し寄せて護るだの決め付けて冷蔵庫の中身を空にする。考えるほど頭にくる。
でも、子供だ。子供なんだ。
教団がどれほど恐ろしい連中かは知らないが、これは、酷すぎる。
必死に逃げる子供に、こんな銃や刃物でボロボロになった&zを着させる。
そんな集団、許せるわけがない。
しかしそれ以上に、そんなバカを殴ることさえ自信の無い自分にイラついた。
戸一枚向こうから、「アスカ、また冷たくなった」と呼ぶ声に恐怖することに。
飛鳥は、胸の鼓動が酷く痛んだ。
風呂を上がった少女は、とりあえず飛鳥の服を着て濡れた髪を拭いていた。
ただ、やはり飛鳥のシャツではダボダボだし、ズボンはベルトを巻かないといけない。だが「洗濯したてのお日様の匂い」とか言いながらくんくんと服を引っ張って嗅いでいるのを見た日にゃグーで殴るしかないのだが。
「キミは暴力的な作法が多すぎる気がするのだけどね、風呂でも二回叩かれた」
「また水だとか言うから風呂に入ると急に熱湯ぶっかけられたら叩きますよ」
む、と短く唸りながら、少女はバスタオルで頭をわしゃわしゃと拭く。
水気を帯びて艶やかに彩られる細雪の白髪が綺麗で、飛鳥はつい見惚れた。
「ふぃ〜……、ん? どうかした?」
「え? あ、いや……髪、凄いなって思って……アルビノってやつ?」
少女はきょとんとして、すぐに理解して首を横に振る。
「体質じゃなくて単なる遺伝のようなものかな、日光に弱いわけじゃないし。純粋に色素が薄いだけだと思う」
日焼けはしない体質みたいだけどね、と言いながら髪の毛を一房摘む。
「ボクは好きだよ? 教団の誰かに片言の日本語で『お前には何も無い』って詰られたことがあるけど……雪みたいな色、好きだよ」
その言葉にドキリと心臓が跳ねる。実際に名前が無い、記憶が無い、色素が無い、帰る場所も、仲間も友達も平穏も無い。不穏当だが、無い尽くしだ。
「――ゼロ、だな……まるで」
ぽつりと呟いてから気付いた飛鳥が後悔する。
視線を向けると、少女ははたと止まり、少しだけ首を傾げた。
「ぜろ?」
「あ、い、いや違うっ……別に何も無いってわけじゃなくてだな……!」
柄にも無く墓穴を掘る飛鳥に、しかし少女はぱーっと顔を輝かせる。
「それ、いいかな」
「……は?」
「名前」少女は据わる瞼の奥を輝かせて、「ゼロ、ってボクにしてはカッコいい感じがしていいかなって。さっき呼びにくいって言ってたし、それでいいよ」
「なま、え……」
「あれ、変かな……日本人には見えないだろうから、普通だと思ったけど」
目を瞬かせる少女に、飛鳥は口元に無理矢理笑みを作って頷いてみせる。
「ああ……いいんじゃねぇ? ゼロ、か……」
何も判ってない彼女にレッテルを貼り付けたような罪悪感を胸に押し込め、今は道化に笑う飛鳥に、
「?」
少女――ゼロはバスタオルを頭に乗せたまま可愛らしく小首を傾げる。
飛鳥にとって、今自分は命を狙われているわけなのだが。
考えてみれば、今自分は名実共に食糧難に陥ってもいた。
「キミも随分と命知らずなんだね、それとも女の子の前では格好つけたいタイプの人かな? いや、狙われる原因になったボクが言うのも変なんだけどね」
「……冷蔵庫の中身を空にされたのが一番の致命傷なんだよバカ」
というわけで飛鳥とゼロはスーパーに赴いていた。
最近徐々に暑くなりはじめているので、青魚より白魚のほうがいいかもしれない。そういえばさっき春菊が安かった気がしたな、あと南瓜と人参と胡瓜、弁当のおかずに唐揚げ用の鶏肉買わないと、あと牛乳も切れてたんだっけ、とあれやこれや考えながら飛鳥は品物の重さをチェックしたり賞味期限を見比べたりしながら買い物籠に入れてカートを押してゆく。
ゼロはというとスーパーが珍しいのか人が珍しいのか、やたらきょろきょろ見回しながら飛鳥の後ろをピッタリ尾いてくる。正直、ただでさえ目立つ頭なんだから挙動をめいっぱい不審にしないで欲しいが、あえて黙秘する。
「凄いね……色々いっぱい」
飛鳥にしてみれば見慣れた風景の一部(学生が言うのも哀しいが)になっているが、ゼロは飛鳥に大して感動してるようには見えない寝ぼけ顔を向けてくる。どう答えればいいか分からない飛鳥は、自分が思った感想で返す。
「あんま好きじゃないんだけどな」
「ここが?」
ああ、と飛鳥は感傷に浸るような声を出す。
「生きるのに必要なものなんて、さしてねぇよ。工夫によってはここに置いてある物全部で一年二年は生きていける量があるけど、それはあくまで俺一人を生かすレベルだろ?」
妙に饒舌になる飛鳥に、ゼロは神妙に聞き入る。
「そりゃあ食わなきゃ死ぬし、俺だっていつまでも遊んで暮らす訳じゃねぇ。でもさ、南米だとかアメリカに居る、俺ぐらいの歳の奴らは、このスーパーにある物全部で、どれだけ救えるんだろって思うとさ……嫌いだな、ここは」
「それは、キミのせいじゃないと思う」
「わかってんよ……」自嘲する溜息を吐く。「綺麗事言ってるのは分かってる。でも、偽善でもいいから誰かが幸福になることで不幸になるヤツが居ることを忘れないっての……要るだろ、一人でもいいから」
「――キミは、」
幸福なの? 不幸なの? という質問を、ゼロは呑み込んだ。
カートを押す背中に、ただ何も言わずに尾いてゆく。
そうして無言に品定めをする飛鳥の手が、籠へトマトを入れる瞬間――、
「待ーち待ち待ち、それよりもその左のトマトのほうが日持ちするねぃ」
ぎくり、と飛鳥の肩が跳ねた。
三年間聴くに聴いた。百瀬菊璃のミルキィボイス、柊朔夜(ひいらぎ さよ)の誘惑ボイス、それに続く飛鳥にとって『聞きたくない声』ベスト3入りしている、その声。
間違いない、公衆の面前でさえ酔っ払った口調は一人しかいない。
ゆっくりと振り向くと、そこの彼女は立っていた。
薄く碧に染まる髪を天を衝くが如く簪で留めている。整った顔立ちにシャープなフォルムの眼鏡が凛々しく、化粧も仄かに口紅を塗っただけなのに充分大人に見える。胸も豊満で背もあり、ハイヒールを履いているせいで飛鳥とほぼ同じ身長だ。
しかも、何故か晴稟学園の制服を着ている。しかもブレザーはいいが下はスカートが踝まで長く、右側に大胆なスリットが奔っている。ちらと覘く太腿が黒いことからニーソックスかパンストを穿いているようだが、それにしたって青少年の教育に悪い姉御肌全開風体だ。これが学園トップだというから頭が痛い。
そんな清楚とは限りなく遠い人物は、喉の奥から『ヒック』という音を出しながら飛鳥に近づく。酒を飲んでいるわけではないのだが、初めて見る人間にはどうしても二次会帰りに友達の家で泊まる澱酔半ばの人としか見えない。
しかしこれでも本科生一年の時に生徒会長になった、文字通りの天才だ。
家が金持ちという話は聞かないが、博士号も持っているという噂は自他共の事実だ。以前、なんで飛び級しないのかと訊いてみたことがあるが、普通にはぐらかされた。そういう意味では謎の多い人間で厄介この上ない。
そして、生徒会長と兼任で受け持っている同好会の部長でもある。
「斎条、先輩……」
「うんうん、ちゃぁんと先輩を付けてくれて自分はとても嬉しいわぁ♪」
にこにこしながら言ってくる。
ついでに、飛鳥にとって『日常生活で遭いたくない人』トップでもあった。
何故なら、彼女こそが一番、飛鳥の日常を掻き回す張本人だからだ。
「これは天啓と言うべきかねぃ、庶民っ気満載の場所で買い食い巡りしてたところを見られたのはちょぃと恥ずかしいのだけど、これが奇遇ってやつ――」
斎条伊月(さいじょう いつき)は飛鳥の元に辿り着くと、ふと飛鳥の後ろに隠れてこちらを見上げてくる白髪の可憐な少女に気付く。
「……飛鳥っちってば、一人っ子だったよねぃ。あら? 妹? 彼女って言われた日にゃ生徒会長として執行委員会を導入せなにゃらんわけでったぃ」
「ざけんな、俺にそんな趣味へ走る気はない。ついでに天究にも」
「いやはやさらっと勧誘拒否されたら痛恨のダメージなのねぃ」
斎条伊月は苦笑いする。今更それで懲りるとは飛鳥も思っていない。
「でも友達、って縁があるってこたぁないけれど……片仮名でトモダチとか?」
「けっこー危ない響きだからやめろ」
当人は不思議そうに首を傾げて飛鳥を見るが、確かに考えてみれば周りの人間からすればこの二人は『血的な関係のある間柄』には限りなく遠く見える。それこそ、外見はおろか年齢によるものさえ。
親戚という回避も無理だ。飛鳥が親族連中と絶縁状態であることを彼女は知っているため、このままだと本当に友達と答えるほかないのだが、
不意に、チャラチャラと着メロが流れ出す。音色からして演歌だった。
「おぅ、なんだよ飛鳥っちの趣味について徹底解明して同好会に無理強いしてやろうだなんて思ってないよ? ほんとさねやー」
言った事は百パーセント実行出来るくせに、と飛鳥は思うが、斎条伊月は開いた液晶を覘いて数秒、閉じて顔を上げる。
「んー、ちょっち生徒のトラブルがあったらしいからおねぃさんは行くわいな」
晴稟学園の生徒会長はイベント脚本作成等の一般的な仕事から、理事長との周辺学業関連との情勢調整、執行委員含む学園内の組織を大小関わらず視察し、必要とあらば処置するという普通の人間からは想像もつかない仕事量をこなす。成績がどうの友達がどうのと、結局は自分のことで精一杯の生徒とは比較にもならない崇高な生徒、それが現生徒会長の斎条伊月だ。
(まぁ買い食いは素敵に校則違反だけど、こいつが校則改変したらしいしな)
飛鳥にとっては天賦研究同好会部長という印象のほうが強烈すぎて、羨望も尊敬もあったもんじゃない。むしろさっさと行ってくれて全然構わない。
「なんかダークな思考をキャッチしましたがねぃ、まぁいいよねん」
斎条伊月はやっぱり酔っ払いじみた口調で踵を返す。
「ほいじゃ、自分等は飛鳥っちに天究に入ってもらうためなら諦めないさね。それと買い食いしてたことは出来たら内緒にしてよねん」
ウィンクをしてから、一度だけゼロをちらと見てからその場を後にする。
「あ――」
はたと立ち止まり、斎条伊月は振り向く。
何かと思ったら、
「大根は根元の緑の部分が色濃いほうが瑞々しくて栄養価が高いねぃ」
「なんだそりゃ、常識じゃねぇか。つーか暑いと傷みやすいから買わないし」
主婦スキルも無いゼロだけが理解できずに眉をひそめた。
「女に気をつけろ?」
唐突にそう言い出したことに思わずオウム返しをする飛鳥へ、ゼロは頷く。
ある程度の買い物が済み、とりあえず昼も近いということでバーガーショップに寄ってハンバーガーを食べていた。
ちなみにかなりどうでもいいが今二人は相当目立っている。片や白銀の髪をなびかせる美少女がもふもふとハンバーガーに齧りつく様が周囲の(主に男の好奇の)視線を釘付けにし、片やそんな異国の少女と普通に仲良く食べてるあの男はなんだと周囲の(主に女の疑心な)視線を浴び、窓際のテーブル一席は軽い過疎化が起きていた。
初めはハンバーガーに興味津々でそんな気配に気付いていなかったゼロが、やっとそれに気付いて丁度いいと言いながら口にしたのが、
「うん。女の人に気をつけて。特にキミよりやや背の低いぐらいの人」
飛鳥はついフィレオフィッシュバーガーを口へ運ぶ手を止め、眉をひそめる。
確かに飛鳥の身長からすれば大概の女性は当てはまるが、公衆の面前でいきなり口火を切ったその内容に主語が抜けてることを指摘すると、ゼロは答えた。
「昨日の魔術師だよ」
不意を衝かれた飛鳥の口からレタスが少し飛ぶ。いくら客と距離があるとはいえ、日常会話に魔術や血界という単語が混ざることはまず無い。
何となくツッコむとゼロは声音を少しだけ小さくする。理解しての行動だと判る分、配慮は出来ているが情緒は無いなと飛鳥は思った。
「魔術師がもし襲ってくるとすれば、さっき言ったように一六〇センチ前後の女の人だと思う」
「なんで?」
色々とツッコみたいが、本人は(声音だけ)真面目そうなので訊き返す。
「魔術には因果や情報とかによる『土台』が必要なものが多いんだ。あの魔術師の操り人形(マリオネット)も自分の血を代価にナイフの刀身を伸ばしたよね、あれも血から鉄分と赤い色から炎の属性を創り出して、錬金術の応用をしたんだ」
血界士を除く大概の人は必ず魔力を保有してるものだから、とゼロは言う。
「捜索の魔術にも色々あるらしいけど、あれは多分予め仮想しておいた因果を再現して、未来に起す予定だった出来事に酷似させることで魔術として完成する方法なんだと思う」
「……どういう意味だ?」
「『ボクは今からアスカのハンバーガーを掠め取る。勿論アスカは怒るから反撃してアスカを戦闘不能にして満腹満腹』、といった具合の、既に予測した内容を創っておいて、あとはそれから生じたイメージの誤差を探知してそれを修正してゆくのさ。実はアスカが怒らなかった、ってなると、イメージの誤差を修正できないまま矛盾の反動を受けるボクは困るってわけ」
昨日の夕方、ぐちゃぐちゃに起きていた戦闘の痕跡が、夜一瞬にして消えた。その直後にまた戦闘が起きたことを飛鳥は思い出す。
つまり、あの魔術師が飛鳥を虐殺するイメージが夕方の惨状だったわけで、ゼロが割って入らなければあの惨状通りに飛鳥は虐殺されていたということだ。
「ボクはこういう建物には入らないからね、どこに居るか判らないボクを探そうと遭遇しそうな人物の家をつきとめるために、その分固めるイメージは結構詳細にしたんだと思う。それこそ秒単位に近い精密なスケジュールを組んで、一秒の狂いも無くアスカを襲撃した。でもボクがアスカを放って逃げると思っていたんだろうね、油断してたところにボクが乱入したからイメージに大きな誤差が生じた、もちろんイメージに無いボクを殺せば反動は増加する。なのに、アスカを殺さなきゃいけないのに、イメージの根本に関係のないボクに殺されてしまったなんて、それはかなりの矛盾だね。結果、術者は今頃反動を受けてる。それに操り人形とだって結局は自分の魂の一部を憑依させたようなものだから、細切れにされた反動もプラスして受けてるはず。当分の間は襲ってこないと思うけど、念のため女の人に注意してね」
「それはいいけど、なんで女だってわかったんだ?」
「斬った時の感触がやけに軽かった、戦闘慣れしてない上に日常的にも鍛えていない肉体の持ち主を操り人形にしたんだ。操り人形だって性別や背格好も似せないと、自分自身が捜索魔術のイメージから離反する対象になっちゃうから」
オレンジジュースを飲もうとストローを銜えるゼロに、飛鳥は背筋の凍る思いをする。殺した感触なんて忘れたいと思うが、彼女はそれを知識に換えるだけの『戦闘』をこなしてきたということだろう。
「まぁ、男の人という可能性も低いとはいえないけどね……多少は警戒対象を削っておかないと、眼に映る人全員を疑うなんてキミも辛いでしょう?」
そこまで言ってゼロはストローを吸う。コップの中の氷が崩れ、カラカラと乾いた音を立てる。
飛鳥は周囲を一瞥した。
もしかすると、この中に魔術師が居るのかもしれない。そう思うだけでも、飛鳥はゼロが今まで受けてきた『息つく暇もない戦闘の世界』に関わっているという事実に恐怖を憶える。
「うーん……多分反動から復帰できるのは二日か三日は掛かるから少なくとも魔術師のほうは大丈夫だよ。問題は教団だね、数だけは自慢できるだろうし」
視線を戻した飛鳥にゼロは殊更に声を低める。
(本当は家に居てくれたほうがいいんだからね、これ食べ終わったら帰ろ)
(え? 今から服も買わなきゃいけないだろ、お前の)
(ちょっ……三秒前のボクの発言はスルーなのかな)
(お前が着てるそれ、誰の服だっけ?)
(……、)
ちらと自分の着ている服を見下ろすゼロ。
再度見つめてくる瞳には、やはり夜色が映えていた。
結局、ゼロがどうしてもというのでそのまま家に帰ることにした飛鳥は、自宅に入ってまず買ってきた食材を冷蔵庫に入れることから始めた。
ゼロはリビングのテーブルに腰を下ろして、テレビを観ている。ガン見だ。よほどテレビを観るのは初めてだったのだろうか。
「うっし」
水気の多い野菜はタッパに入れ、大蒜はラッピングして保存。入れ終えてやっと冷蔵庫の戸を閉め、飛鳥はコップを二つテーブルに置き、麦茶を注ぐ。
ゼロはそれをおずおずと口に運び、ふと時計を見てから気付いたことを訊く。
「そういえば、アスカのお父さんとお母さんはどうしたの? 昨日からずっとアスカ一人しか見てないけど、共働きなのかな」
「……っ」
椅子に座った途端に胸を抉られたような不快感に襲われた。
何も知らないゼロに対して失礼でもあるが、飛鳥は軽い憎悪を感じる。
「……いねぇよ」
「を?」
「いねぇ……帰ってこないんじゃなくて、」
テーブルの上の麦茶に映る顔に、吐き気がする。
自分の、今更飽いてしまうほど浮かべた、辛苦の表情。
「俺は……『おかえり』も『ただいま』も言ったことなんて無ぇんだ」
しん、とゼロの言葉が途切れる。
同情されたところで嬉しくはない飛鳥は、表面に揺らぐ自分の顔を見つめ続ける。
「……そうなんだ」
ゼロの少しの間が、痛い。
苦笑を浮かべようとした飛鳥に、しかしゼロはこう答えた。
「じゃあ、一緒だね」
「――、え?」
「ボクも一度も言ったことないかな。『おかえり』も、『ただいま』も」
飛鳥は呆然とした。
一緒?
自分と、ゼロが?
境遇が悪いことをひけらかしている自分に嫌気がさしているというのに。
言葉を失っている飛鳥の瞠目に、ゼロは首を少し傾けて返す。
その表情には、寂しげな笑顔がちらと浮かんでいるように、飛鳥は見えた。
魔術師は一人、自室にて沈黙に徹していた。
今はもう昼下がりだが雨戸の上にカーテンをぴしっと閉め、五畳の畳部屋は流し台の上にある遮光のしようがない小さな窓からだけの薄暗い部屋だった。
木材になけなしの金属加工だけ施している安っぽい玄関の郵便受け口には、昨日――つまり金曜日の夕刊が挿さったままになっている。僅か五歩足らずの距離だけに本来ならなんの苦もなく簡単に取り出せるのだが、生憎、その魔術師には五歩の距離を歩くことさえ不可能な状態にあった。
ぐ、という呻きにも近い声が漏れる。しかしそれが精一杯。
何故なら、その魔術師の首は切断されたのを無理矢理縫い繋げたような、火傷じみた傷痕が酷く浮かび上がっていたからだ。首だけではない、右肩口、左手首、下半身には臍の辺りから右太腿にかけて袈裟斬りのような傷が奔っていて、Tシャツと短パンなだけに見る側が居たらどれほど痛々しく映ることか。声どころか、身じろぎ一つするたびに激痛の呻きだけ漏らす。
しかも、魔術師にはもう一つ動けない理由があった。
それは、足元にでかでかと描かれた魔方陣。六芒星を基本とした数字や象形文字の羅列によって黒く塗りつぶされたような魔方陣は、部屋の床いっぱいに描かれている。魔術師は、その中心に伏していた。
念のために部屋を包むように結界を創っておいて正解だったと、魔術師は暗闇に夜光仕掛けの壁時計を一瞥して思った。
昨晩のこと。
一人の少女をこの町から捜すために家々に塗布した魔術印『レグバの扉印(ひいん)』によって、ある男子高校生の家宅に押印されていた魔方陣が反応した。
『レグバの扉印』は本来、魔術というよりも呪術に近い。
レグバとは扉や街道、果ては運命を司るトリックスターと呼ばれた『神格とされた奇術師』である。源流はブゥードゥー教、つまりアフリカの体系だが、この魔術師はそれをさらに翻訳し、イタリア含む西部本流の魔方陣として発動させた。発動から発露までの過程で、経由する地点を多分に用意するほうがいいからだ。馬鹿正直に源流のまま組み込み、もしも術式を跳ね返された日には決してこの程度では済まされない。指先も動かないこの状態でさえ、魔術的な『反動』なのだ。呪術的な『反動』なんて、どうなるか判ったものではない。
厄介なことになった、と脳裏で浮かぶ大太刀を振るう少女を思い出す。
聖痕≠ェ町に入り込んだことで、教団の連中が二の足を踏みかねている現状を利用して、聖痕≠フ可動範囲を狭めるために『レグバの扉印』を使ったまではいいが、まさか自分がしっぺ返しの原因になるとは予想していなかった。そもそも、聖痕≠ェ人を助けるために魔方陣の内側に突っ込んでくるとは計算外もいいところだ。不完全な魔方陣展開に先日手に入れた体格の近い少女の死体を身代わりにしなければ、今頃体躯を細切れにされて終わっていた。
(情報不足もここまでくると笑えない……第一聖痕≠フあの能力はなんだ)
忌々しげに電源の入っていないテレビに映る、畳の上で蠢く奇妙な人影に嫌悪じみた視線を向ける。
聖痕≠フ能力、もとい『聖域』の効果は多少齧っているつもりであったが、魔術師は根本的な過小評価を改める。
虚空、まさに何も無い空間に突如現れた二又細剣とナイフ、そして大太刀。
勿論血を媒介にした金属練成は考えたが、聖痕≠ヘ一度も出血を起していない。それどころか魔力の有無は血界士と同質に近い『聖域』持ちに、魔術は使えない。
う、と短い呻きが漏れる。魔術師は畳の饐えたような香りを鼻腔に、もしも思いたくない推測と、次の作戦の布石の準備を動けない状態なりに練る。
今しかないのだ。
教団の宿敵、機関と呼ばれている血界士だけの小さな戦闘集団が、日本の西方側に血界士を数人配置させ、教団の進行ルートを大幅に削っているという情報を得た。初めの内は教団が日本に来る理由も、それを阻む機関の考えも首を傾げていたが、それはすぐに瓦解した。
『聖域』。
神の領域より、人の魂と等価にまで堕ちた実在する逸話≠フ一つ。
本来、在るはずがない力。
何が原因でそんな下手な核爆弾よりも危険な代物が小国に転がり込んだのか知らないが、これは、もしかすると二度と訪れない好機だった。血界士による防衛によって、日付変更線を跨げない¥\字遠征軍(クルセイダリス)は正規ルートを潰され日本に来れない状態。本格的に教団と機関を敵に回してしまわぬ内に、なんとしても聖痕≠追い詰めなければならない。
魔術師はある理由のために、『聖域』を求む。
証明しなければならない、その絶対性。『聖域』を必ず手にすることで、その長年の悲願を成就出来る。
(聖痕=Aか……だけどある程度の方向が判れば、勢いを殺ぐのは容易い)
自分は、魔術師だ。わざわざゴリ押しで行く必要はない。
純粋な破壊力を自負する魔術師もいるが、それは血界士のように優劣のはっきりした世界での話しだ。
魔術師の恐ろしいところは?
(一方通行(グー)しか出せない血界士(ジャンケン)とは違うこと)
僅かに身じろぎし、魔術師は口元に笑みを浮かべる。
『レグバの扉印』による魔術の効果は、まだ切れていない。
まだ、あの青年には利用価値がある。
必ず手に入れてみせる。
(もう少しで、フィネルさん……『聖域』を手に入れて、……必ず、貴方を)
閉じた瞼の裏に焼き付いているのは、あの日見た優しい笑顔。
既に夜も深まり、作った回鍋肉をむぐむぐと喰らいつくゼロを飛鳥はテーブルに頬杖を突いてじっと見つめていた。頬杖を突きながら見つめていたのは、単に飛鳥のほうが先に食べ終えて暇だったからだ。ちなみに余談だが 二人が食べ始めたのは同じでペースも同じ。しかし飛鳥の分が少なかったわけではない、現にゼロの傍らには積まれた皿が三枚ほどある。
「ひふはんへほんおいひはひふいはあ、おいひい」
「……最後の『おいしい』だけ判ったから食いながら喋んな」
突如咀嚼された回鍋肉ごと口の中を見せられたらビックリするでしょうが。
理解しているのかあまり分からない寝ぼけ顔のまま、もぐもぐと肉を御飯に絡めて口に運ぶ。
白い頭の向こうの速報ニュースでは、先日から話題になっている少女通り魔事件についての警察の動きを述べているキャスターがいる。幸いというべきか、こことは違う県でのことだった。
ただ、死体を操り人形にする魔術師を思い出し、飛鳥はとんでもない奴と相手してるんだなと、ぼんやりとした意識で思考していた。
ふと飛鳥は考え付いたことを口にしてみた。
「なぁ……」
「を?」
「……お前が追われるようになったのは、いつの頃からなんだ?」
ゼロは少しきょとんとしてから、小さく首を横に振る。
「わからない。あ、でも最短では二年ぐらいになるかな」
「最短?」
どういう意味なのかと眉をひそめた飛鳥に、ゼロは頷く。
そして答えた。
「記憶が無いんだ、二年前から」
「え――」
「もしかするとボクは罪人なのかもしれない、気がついたときにはもう教団に追われる身だったから」
なんだそれ、と飛鳥は思わず身を乗り出す。
「じゃあお前、追われる理由も分からないのに、襲われてるっつぅのかよっ」
「うん……」躊躇いがちにゼロは頷く。「ボクも初めのうちはビックリしたよ。でもね、聖痕≠フ力の本質だけは理解してる自分が居て、ふとボクは思ったんだ――」
ふいっ、とゼロの手が飛鳥のコップの上を通過する。
瞬間、キィィィン、という高い音色と共にコップの中に何かが入り込む。麦茶に使ってコップに入っているのは、やけに長細いバターナイフのようなもの。
手品のように、しかし明確な異質としてゼロが薄く微笑してるように映る。
「――ボクの能力はね、人の本質から外れてるんだよ。いや、外れてるというより、根本的に回路が違うんだろうね。だから教団にとっては異端なんだ」
「回路……?」
「人としてやっていいことという回路」
ゼロの白い手が長細いバターナイフに触れ、飛鳥の麦茶がかき混ぜられる。
「今ボクが触れているこの『刃物』はね、『刃物という形状を持つ』物ならなんでも聖痕≠ェ創り出してくれる。だけどこの力は恐ろしく感覚的なんだよ」
『聖域』は、魔術師と血界士の両者にすら当てはまらない。
何故なら『聖域』は、ゼロは今、何もないところから<iイフを出した。
「恐いでしょう? 魔術師としての『伝承』が無いから何の代価さえ要らずに発現する。血界士としての『演算』が無いから何の概念さえ使わずに発露する。今アスカが飲もうとしている麦茶をかき混ぜている物体は、『無』なんだよ……材質も起源も所用も突発的すぎる、わけが解からない&ィ体」
ただ唐突に作られた唐突な物体を、平気で使える?
テーブルに身を乗り上げて麦茶をかき混ぜている、ゼロの至近距離の瞳が、薄く真紅に染まる。
ぞくり、と背筋が凍った。
「魔術師と血界士に限らないこの世界中の人間には、決して崩壊させることの出来ないことがあるんだよ……有から有への現象だよ。だけどボクはそれをグチャグチャにしてしまえる『法則に無い流れ』を創ってしまった。聖痕≠ヘ何も無いところから刃物を呼び出してしまう。無から有へという、最もやってはいけない行動をしてるんだ」
心なしか、ゼロの瞳が薄い真紅に染まったとともに、どこか饒舌になったような気がする。顔も、寝ぼけたようなものが完全な無表情になる。
「恐い? 気持ち悪い? 人間は本能的に窺知しがたいモノは嫌うものね」
「ッ、俺は……!」
顔を上げるが、同時にゼロの手が引く。
そこにはいつもの寝ぼけ顔と、硝子細工のような夜色の瞳。
何となく、どこか微笑が見えるような錯覚を覚えさせる、曖昧な表情。
飛鳥は開けた口をゆっくり閉じる。
『一般人には窺知されたくない』
『背負っているのは自分だ』
『関わって欲しくない』
『だから、あまり気安い詮索をするな』
そう、ゼロの言葉の副音声に滲んでいた。
飛鳥はテーブルの下の右手を、ぎゅっと強く握って耐えた。
怒れるわけがなかった。
どうしても自分は無力だという夢見れない現実と、
『人間は*{能的に窺知しがたいモノは嫌うものね』
自分が化け物という前提で話していることに気付くのが、遅すぎたからだ。
同刻。日本海沿岸。
ガゴッ! ドン! という巨大な鉄の拉げるような轟音が夜の海岸に響く。
それもそのはず、せいぜい五人程度しか乗れなさそうとはいえ、クルーザーが砂浜を通り越して思い切り岸のコンクリートで舗装された防波堤区域にまで乗り出しているのだ。おかげで船底はおろかエンジンプロペラが地面に凄まじく接触し、モーターがベキベキと嫌な音を撒き散らして強引にクルーザーは停まる。
それに乗っていた連中は誰一人としてそれを気にも留めず、各自の武装を確認してからクルーザーから飛び降りる。
「整列は省略! 迂回して駐屯している第二小隊と合流する……!」
英語で、しかし自衛隊じみた早口の小声に、無言だが流れるような動きで面子は防波堤を飛び越えて車道に躍り出る。
一環した修道院のロングコート。それとはかけ離れた武装とも言える火器を手に、暗視ゴーグルをつけた五人の教徒達は車道を越えて茂みに入り込む。
五分もしない内にテントの張られた場所に出た。キャンプ用の施しが見られ、そこだけ草が生えていないゾーンになっていた。
その中の一人がリーダーらしく、暗視ゴーグルを頭まで上げて声を出す。
「グラン分隊長ッ。聞いたぞ、また第一小隊の例の二人組が勝手な行動をしてるらしいな……これでヴィーゴの奴の昇進はまた一歩遠のいたわけだ」
HAHAHA…と笑いながらテントの前まで歩いてゆくが、返事がない。明かりも着いているのだし、居ないというわけではないのだが。
「グラン? おい、第三小隊のありがた〜い補給だぞ、居ないのか!?」
男がテントの入り口の布を引く。
そこには――、
「……なっ」
絶句した。
そこには、首、腕、足、腹、背中、ありとあらゆる場所をズタズタに切り刻まれた白髪の中年がテントの布に背を預けて虚空を見つめている。吊るされたランタンから差す橙の淡い光が、鮮血に塗れる同僚をゆらゆらと照らしていた。
「これ、は……っ」
血の気が引いた男が身を引いた瞬間、
「――一体どこがありがたい補給なのでしょうか。二分と十三秒の遅刻です」
カツン、と乾いた音と共にゆっくりとした足取りで拓けた場所に現れた影に、小隊長は肩に提げていたライフルを向ける。
月下に姿を現したのは、女性だった。
黒い髪を腰元まで伸ばし、整った顔立ちに一切の冗談が通じなさそうな無表情を湛える妙齢の美女。
着ている服は実に現代の日本的。なんせ黒い簡素なワンピースの上から白いエプロンドレス、頭にはヘッドドレスが飾ってある。西洋侍女(メイド)の風体だった。
きちんとした背筋に落ち着いた足取りで、侍女は伏せていた視線を小隊長に向ける。それだけで、背負う月の明かりが助長してとても戦慄的に見えた。
「教団というのもいささか無用心すぎますね。いえ、大変申し訳ありません。敵として見るにはあまりにも拍子抜けなので、つい失言を……御容赦の程」
と言ってスカートの両端を摘んで足で会釈する。
あまりに突然で、あまりに場違いで、しかし本人は理解も了承もしている風に振舞うその遠慮の無さに、小隊長は顔をしかめる。
「……お前が、やったのか」
「……、何でしょうか」
「グランを……よくも!」
それを聞いた侍女はしばし時を刻み、それから静かに口を開いた。
「本当に……教団も堕ちたものですね、『聖域』とはいえたかが一つの命を奪う為に日本へ乗り込むとは無礼だと思いませんか? 礼儀がどうのを口にする分際なら郷に入ればそれに従うでしょう。日本家宅でも靴は脱がないのですか?」
流暢な日本語で語る侍女に、青筋を立てて小隊長は叫ぶ。
「機関の奴か……ッ! ふざけやがって、女だからって――」
「ああ、それと大変に失礼を承知で口を挟ませて頂きますが」
銃口を向けられていてもまるで動じない侍女は、変わらぬ表情で言った。
「英語は解かるのですが、宜しければ他国語で御話しを御願い出来ますか? そちらに合わせて会話するような気を、貴方風情に使いたくはありませんので」
無論、日本語が解かっている小隊長は完全に歯止めを瓦解した。
ライフルの銃爪に指を掛けようとした直前、声は、背後から聞こえた。
「……、む? 何じゃ笙子(しょうこ)か、来ておったのかえ」
子供の高い声と、ズルズルと地面を擦る音。
教徒達が振り向くと、暗闇からやって来たのは小学生ぐらいの少女だった。栗毛の短い髪を無理矢理後ろで束ね、蒼いバレッタで留めている可憐な少女。
こちらの少女もやはり格好は異常だ。白い医療用スモッグに便所サンダル、首にドッグダグを提げた少女のか細い肢体には、金属の鎖がじゃらじゃらと巻き付いている。その鎖の延長――彼女の背後には二メートル大はある棺桶へと連結されており、ズルズルと引き摺る音はその棺桶からだった。
「御苦労様です、黛(まゆずみ)様。御嬢様の命により定期視察に参りました」
「うむ、良きに計らえ」
はにかんで、少女は言う。二人は日本語だが、侍女の敬語とは違って少女の老獪な口調は小隊長含む教徒達に混乱を生ませ動きを止めさせた。
二人だけの会話が続く。
「他の方々はどうされましたか? 御見えなさらないようですが……」
少女は腰に手を当てて軽く溜息をつく。
「どうもこうもないわ。右京(うきょう)は女子をナンパしに行きおって杏露(シンルー)が奴を連れ戻しに向かっておるが、半刻程前のこと故にミイラ取りがミイラになりおったに違いない。それに呆れた千尋の坊主もそこらで血界の修練でもしてくるなどと吹いてからに……儂一人で防衛しておるようなものじゃ」
「……結束の欠片もありませんね、特に陣内様は」
「雑魚掃除以外は待機してくれておるだけ、マシなんだがのぅ。それでは儂がつまらんではないか、まったく年寄りは鄭重に扱うものと学ばんかったのかえ」
「……年功序列にしたら貴女が一番最後なのではないかと」
「おいッ……!!」
二人の会話に小隊長の怒号が割り込む。
尚も叫び続ける中年を目敏そうに見て、少女は一度頭を傾ける。
「ところで、この者共はなんぞや。教団の下っ端共か? 英語は解からぬ……」
「そのようですね、同僚を殺したのは誰だと叫んでおります」
「ふむ……ここの連中は大体は千尋の坊主が殺ったんでな、怒鳴られても困る」
少女は自己を封縛する鎖の一本を掴んで、横に引く。
途端、鎖になんらかの細工があったらしく、背後に横たわっていた棺桶が勢い良くその身を起す。
教徒が驚きに体ごと振り返るのを見て、少女は暗い笑みを浮かべ、
「肩慣らしにも成らぬが、為さぬ手腕など廃るだけだからのぅ……」
「加勢致しましょうか?」
「要らぬわ、たかが素人五人程度にこの儂が負けると思うてか」
「――、御拝見の程」
頭を軽く下げた侍女の動作と共に、少女の動きは激化した。
ズ、ドン――!!
強烈な音を立てて棺桶が少女の背中に巻き取られる。
獰猛な笑みを口元に、少女は撫で回すように標的を一瞥。
「高尚を謳わずともそれに近き歴戦の血界士、忌み名は葬送回帰(パペットメイカー)=\―参る」
ぐおん! と風を殴る音が闇夜に届く。
何かと理解しあぐねた一人の教徒が、横に吹き飛んだ。
暗闇から現れたのは、棺桶。なんと鎖を支点にしてハンマーのように振り回したのだ。身の丈の倍はある、棺桶をだ。
「くそっ……撃て!!」
小隊長の声に弾かれた教徒達は銃口を向け、引き金を絞る。
その一歩手前で少女は片手で鎖を引き、棺桶が宙を舞う。
刹那、少女の前に戻ってきた棺桶が地面に突き刺さり、遮る盾の如く銃弾を弾く。しかも棺桶は木製ではなく、火花を散らして傷一つ付かない。
「温いわ、小癪とも思えぬ」
少女は呟くと、棺桶を肩に背負って前へ跳躍。不意を衝かれた男の前で棺桶を置いて懐に飛び込む。
華奢な腕を折り曲げ、鈍器と化した肘が鳩尾に刺さる。呼吸を奪われた男の襟を掴んだ少女は、めいっぱいに引っ張る。
体勢を崩され、前につんのめった男の先には――開かれた棺桶。
「忌み名なれど我が真意の礎と成り、傀儡と化せ」
棺桶に入った直後、扉が閉められる。
次の瞬間、壮絶な悲鳴が棺桶から爆発した。
棺桶の中で何かが潰れ、液体の滴る音が漏れ、内側から叩いていた悲壮な音色は徐々に弱まってゆく。
中で何が起きているかなど知る由もなく、生理的な恐怖を覚えた残る教徒が銃口を向けるが、少女が棺桶の裏を叩く。
ばかん、と棺桶が開き、現れた姿に教徒の呼吸は殺された。
死体が、立っていたのだがら。
血塗れで、首が無くなった体躯。鮮血で教団服が見る見るうちに染まる。
「――征け」
棺桶の裏から、紡ぎ手の冷酷な命令が下される。
首を失った死体は、その言葉に従い、かつての仲間へ猛ダッシュした。
「ひ、ひぃぃぃぃいいいいい……!!」
部下達が虐殺を受ける光景を見ていた小隊長は、恐怖のあまりに振り返る。
こんなの、人間の戦闘じゃない。
いやだ。いやだ!!
だが、真後ろへ振り返ったのが失敗だった。
そこには侍女が一人涼しい顔で見ていた。
小隊長は、反射でライフルを構える。大口径の一撃が火を吹
「大変失礼ですが、安全装置が外れておりません」
「えっ―――――――」
小隊長が手元に視線を落とした、まさに一瞬の出来事だった。
安全装置を外して顔を上げた先に侍女の姿は無く、
「―――――――、あ?」
次の瞬間、視界に少女の戦闘を背にした℃女が立っていた。
あれ、と小隊長は首を傾げたくなった。
自分は今、逃げようとしていたのに、なんでまた惨劇の起こっているその戦場を見ているのだろう。そもそも、この侍女はいつの間にその位置へ――、
突発的な疑念に首を傾げようとした時、景色が揺らいだ。一気にピントがぼやけてゆき、最後に聴こえた侍女の言葉で、
「部下の命すら背負えないのですか? やはり貴方風情に生など気安い」
首だけ、百八十度捻じ曲がっていることを理解した。
戦闘は僅か三分足らずだった。
再び静かになった場所で、侍女は横たわる棺桶に腰を下ろして月見を愉しんでいる少女に向く。
「では、私は御嬢様の館へ戻ります」
「うむ、しかし儂等は何時までここに居れば良い?」
「そう長い期間ではないとのことです。陣内様は学生ですし」
「そうか、判った」
「それと、御嬢様から伝言を承っております」
何かと少女は視線だけ寄越すと、大真面目な表情のまま侍女は口を開いた。
「『御土産を買ってきて下さいまし、その辺りは海老が美味しいはずですわ』、とのことで御座います」
「……わざわざ取り寄せるのが面倒だからといって儂をパシるな莫迦者」
「そのための御小遣いを持参しております、必ず買ってきて欲しいそうです」
と言いながらセンスを疑うガマ口財布を渡し、侍女は少しだけ距離を取る。
「翌々、よぉここまで来れたものじゃの。距離が如何程か判っておるのか?」
「そのための私の忌み名です」
端的に、機械めいた返事のまま、侍女はスカートの両端を摘んで脚で会釈し、踵を返した。
――ザンッ!!
地を蹴る音だけ残し、侍女の姿は一瞬にして掻き消える。
それを見送ってから、少女はもう一度月を見上げる。
「……『聖域』、か。儂はお眼に掛かりたいとは思わなんだな」
ぽつりと呟いて、ガマ口財布の中身をちらと確認した。
「って、通りで軽いと思えばっ! 千円で海老なんぞ買えるか莫迦者……!!」
真実子供の御小遣いという小ボケを、ツッコまれるべき侍女はもう居ない。
Chapter.B 絶 −The goodbye to you who believes−
「おはよーございまーす」
「ねーねーよっちゃん、昨日のアレ観た?」
「ていうか健二のヤツ友達とカラオケいったらしいぜ」
「んー、昨日はずっと彼氏来ててそれどころじゃなかった」
「はい、おはよう。こら斉藤、シャツの裾をしまえ」
「うわっ、すいません……」
「はぁ? あいつこないだ金ねぇ金ねぇ言ってたぞ?」
耳に入る生徒達の声を聴き、神代飛鳥は登校していた。
月曜日。
彼にとっての、危険な一日の始まりであった。
『え? 明日?』
思い返される昨夜の夕飯時。
炒飯をかっ喰らいながらゼロはこくこくと頷く。
『魔術師が動き出すとしたら明日以降だと思う。それに教団の動きが活発になるのも平日のほうが楽だしね』
『なんで』
空になった皿に、余分に作っていた炒飯を鍋からよそって、ゼロに渡す。
『人の動きが一定化するからだよ。魔術というのは条件が難しいものだから、休日のように思い思いの動きをする人間が周囲に居ると魔力の流れが掴めないんだ。特にアスカが学校に通っている人間ならなおさらかな。決まった人数が決まった時間に決まった動作を行うっていうのはね、儀式的にかなりの魔力の渦が起こるものなんだ。しかもアスカのとこは他の学校よりも生徒の数が多い。使いようによっては魔導書クラスの魔術が組み込める「土台」が相手になる』
『おいおいマジかよ……だったら休んだほうがいいんじゃねぇのか?』
『そうしたほうがいいかもしれないんだけど、ボクが町に入ってから教団の動きが全くないのがすごく気になるんだよ。だからアスカは出来るだけ学校に出席して欲しい。周りに人が居れば教団は手が出せない。どちらをとっても危険な橋を渡ることになるけど、魔術師が一人ならそれほど大きな魔術は使えないはず。少しでもアスカの身の安全を考えるなら、明日からの学校も普通に出て』
そしてまた炒飯に突入するゼロに、飛鳥は返答が思いつかなかった。
(念のために遠くから見てるから、っつってたけど……大丈夫なんかな)
助けてくれる分にはありがたいのだが、魔術だの血界だの、それ以前に戦闘なんて縁遠い日常を送っていた飛鳥には、どうしてもこの登校途中の風景にギャップを感じることが出来ない。
正門を潜ってからまだ見慣れぬ本科生校舎へ向かいながら、飛鳥はこれから先が見当も付かず、大きく溜息をついた。
ただ、その溜息のリアクションに気付いた女子生徒が、ちらちらと指を差しながら小声で喋りだした。
「ねぇ、あれ噂の神代って人じゃない?」
「え? どれ?」
「ほらアレ、最近天究に目を付けられてるっていう有名人」
「ホントだ……やだなぁ、アタシ彼は真人間だと思ってたけど」
「人は見かけによらないってことでしょ、裏で何やってるんだか」
「……」
同じ方向へ向かっているのだから聴こえればずっと聴こえっぱなしの陰口を尻目に、飛鳥は内心で軽く自嘲した。
そう。これが、飛鳥の日常だ。
ゼロが来なくたって結局は変わらない。学園に来れば生徒には避けられるし、教員連中には問題児扱いされて白い目をする奴も居る。否定すればいいと思う人間も居ると思うが、それはあくまで立証してくれる仲間が居る奴のすることだ。天究のせいで入学当初から一度も親友を作ったことの無い飛鳥には、助けてくれる人間自体がゼロが初めて――、
……初めて?
ふとそこで飛鳥は自分の考えに瞠目を覚えた。
不審に思う女子生徒達の目など忘れた風に、飛鳥はただ無言で登校した。
飛鳥の日常を保ってくれたのは、飛鳥にとっての非日常の住人だった。
教室に向かうとき、控えめな呼び声が背中に届いた。
「神代君、おはよう」
雪乃詠美だった。
よぅ、飛鳥もと小さく返答する。天究のせいで長い疎遠が続く飛鳥にとって、隣りのクラスの詠美は付かず離れず接してくれるのが嬉しい。
「こないだの金曜日に肉じゃが作るって言ってたんだけど、ちょっと作りすぎたから今度持って行ってもいいかな?」
「んあ? いいよ別に」
正直言うと最近食糧消費が三倍(内、飛鳥は〇.五倍)になったため、貰えるに越したことは無い。詠美の料理の腕は知っているが、しかし飛鳥は気が引ける。
別に、詠美は教室から弾かれている人間ではないから。
「うん……」詠美の表情が僅かに曇る。「神代君、私は別に大丈夫なんだよ……遠慮しなくたって」
危惧するような彼女の表情に、飛鳥は手を振る。
「いや、そういう訳じゃなくってだな……」
飛鳥は廊下を歩きながら、少し俯いて遠い目をする。
「……俺と関わっても、友達が居なくなるだけだぞ」
ぽつりと落としたような呟きに、詠美は形の良い眉を寄せる。
「神代君……」
「あーいいっていいって、ほんとマジで……俺のことは大丈夫だ」
ただでさえ飛鳥はいつ狙われるとも思えない状況にある。せめてこの疎遠な状態を有効に使わないと、気が気じゃなかった。
たとえ異質の戦闘に巻き込まれていなかったとしても、飛鳥が立っている場所はいつのときだってラインの上。境界線のギリギリ日常側だ。
授業が展開されて、特に変わらない時間が過ぎてゆく。
相も変わらず昼下がりまで続く四時間の授業を繰り返し、昼休みが訪れる。
チャイムと共に学食に行く生徒達や、グループを作って弁当箱を開けるのを尻目に、飛鳥はいつも通りに教室を出た。
それも当然だ。飛鳥には学食で食べるような大盤振る舞いなんてしなければ、互いの弁当の中身を見せ合うようなグループもいない。
昨夜作り置きしておいた小さな弁当が入った鞄を手に、飛鳥は廊下を歩いてゆく。今となっては慣れたが、擦れ違う生徒達は皆飛鳥の顔を見るなり囁いている。あえて感情を捨て去った表情で屋上へと向かう。
実際に屋上は出入り禁止である。本来は南京錠がされていて、この間のように百瀬菊璃が屋上に行けたのは何故なんだろうかと飛鳥も不思議なぐらいだ。
飛鳥の昼食はいつもそこだ。繰り返し言うが飛鳥の向かっている所は屋上。正確に言うならば屋上へ出る扉の前の踊り場の場所だった。屋上前の踊り場はある意味飛鳥にとっての聖地となっていた。暗くはないし、俄かにだが静かで心が休まる場所だ。勿論、本科生になってまだ一ヶ月も経っていない飛鳥が、いつもここで食べてることは誰も知らない。飛鳥自身ここを発見したのはつい最近だし、雪乃詠美ぐらいなら教えてもいいかもしれないが、どうしてもここだけは誰にも知らせたくないという感覚を覚えていた。
飛鳥は階段を上ってゆく。徐々に擦れ違う人々は少なくなってゆく。五階までは教室があるのだが、これも不思議なことに、五階から屋上への階段を上ってゆくところをあまり気にされたことがない。教師が居れば制止されるだろうが、妙な感じだ。
中点の踊り場を折り返し、屋上前に辿り着く。
ふと、そこで、知っている香水の匂いが鼻腔を掠めた。
「――っ、」
はっとして顔を上げると、踊り場には誰も居ない。ほっと胸を撫で下ろしかけたその時、扉のドアノブ横に掛かっているはずの南京錠が外れてぶら下がっていた。
嫌な、予感が止まらない。
「お、いおい……。あのチビといい生徒会長といい、なんでどいつもこいつも校則とか平気でブッチしてくれるわけよ」
一人愚痴りながら、飛鳥は踊り場の床に鞄を置いて、ゆっくりとドアノブを回す。
かちゃりと開く扉と共に、仄かに大気を彩る芳香が少し強まり、飛鳥は鼻の奥、脳髄の芯に甘い痺れのようなものを感じた――。
「――百瀬さんの情報は本当に信頼出来るわ。そう思わないかしら、神代君?」
少し曇っていても、室内から急に明るい場所に出たことで目を細める飛鳥の視線の先に立っている女子生徒は、薄っすらと口元に笑みを浮かべた。
純日本人の如き艶やかな漆黒の髪を背中まで伸ばし、切り揃えるやや長身で全体の体つきがほっそりとしている。飾り気の無い風体に化粧もしていない相貌は百瀬菊璃のような子供っぽさも無く、斎条伊月のような堂々さも無い。かといって雪乃詠美のような控えめな空気もまるで無い。
そう、それはまるで、妖艶という言葉が似合う微笑。
振り返らずには居られない顔立ちと、口よりも鼻を利かせたくなる香水のような仄かに甘い匂い、ピシッとした背筋も相まって、大人の女という色気と子供の女という純粋さを合わせた危うい雰囲気を発して、飛鳥を見据える。
本科生二年、学園で一,二を争うアイドル。そして、天究の副部長。
柊朔夜。
名前を呼ぶことさえ躊躇われた。今や飛鳥は百瀬菊璃や斎条伊月よりも群を抜いて、彼女が嫌いだった。
「どうしたの? アナタのために先生を懐柔してここを貸し切ったのだから、遠慮せずにこっちまで来なさいな」
凛とした声に、吸い込まれるような感覚を覚える。それを振り払い、自分の意思で行くんだという思考のもと、扉を潜る。
くすり、と柊朔夜の口元が歪む。女性を相手に歪むとは失礼だが、微笑むと表現するにはその笑みはあまりにも策略的すぎるのだ。
「こんにちは、いつもここで食べてるの?」
「……」
飛鳥は反射で右腕を顔の前に持ってきて精神を落ち着かせる。
その動作が回避≠セと判っている柊朔夜は心外そうに眉をひそめた。
「そう邪険にしなくたって、今日は天究とは別でお話ししたかっただけよ」
「……だからって人の聖地に足踏み入れるたぁ、充分強引じゃないすか」
腕を下ろして、一度口で呼吸を置いてから口火を切る。
あくまで挑発的な表情で相対する飛鳥。いや、そうしなければならなかった。
知らずの内に理性を奪われそうな、意識の内に靄を生み出すような、香水の薫り。日和って画した線を越えたら、あっさりと取られそう≠セった。
「それは御免なさいね、ここで食べてる理由も強ち無関係でもないものね」
くすくすと控えめに笑い声を出す柊朔夜に、飛鳥は憎悪にも似た感覚を腹の奥から沸かせた。
天賦研究同好会副部長、彼女のメンバー内での通り名。天究の部外者で唯一飛鳥だけが知っている名。百瀬菊璃同様、本人から聞かされた名。
「ざっけんな。結局は勧誘してんじゃねぇか。えぇ? 茨の君(チャーム・チャーム)≠ウんよぉ」
その名に、まるで呼ばれることを期待していたかのように彼女は笑う。
これが、飛鳥が天究のメンバーの『本気さ』を認識する原因となったものだ。彼女の天賦とは他でもないフェロモンという体質だ。それも老若男女を問わずに誘惑し、一挙一動で簡単に惹き付けてしまう程の超常現象じみた能力を有している。さらりと自覚しているが、信じているのは飛鳥だけだ。何故ならそれを知った天究メンバー以外の全員が全員、既に彼女の虜になってしまっている。性的な虜になるということは、多少の異常さえ許容してしまうことに繋がる。彼女の誘惑に拒絶を示している唯一の存在である飛鳥だからこそ彼女の異常をはっきりと見て取れるのだ。
「これでも弱めているつもりなのよ?」
またも心外みたいな顔をする柊朔夜。多分、本当のことだろう。本気で誘惑なんか掛けたら、元から気がある男子生徒が襲い掛かってくることだって有り得なくは無い。それほど彼女のこの萌芽めく香水のような匂いは強烈なのだ。普段から落ち着いている彼女だが、炎天下に立って待っていたことで軽く汗を掻いて、飛鳥の鼻腔を芳香がくすぐってしまっている。
絶対に意思を奪われないように務めながら、しかし視線を逸らして俯く。
「で、どっちの意味でも@pが無い柊先輩がなんの用なんですか? ったく……どいつもこいつも勝手に関わりやがって、どチビも会長様も物好きだなぁおい」
「あら、部長に会ったの? あの人が他人と対面するなんて珍しい事なのにね」
だったら野郎と対面するのが珍しいアンタはなんだと、飛鳥は思う。
しかしその視線に気付かずか解かってかわしたのか、話の方向を変える。
「それよりもね、神代君。今日は貴方に訊きたいことがあって来たの」
そう言い柊朔夜は鉄柵フェンスの近くまで歩いてゆく。飛鳥は少し信用して、「どうぞ」と小さく返す。信用する気になったのは、わざわざ彼女がフェンス前まで歩いたのが、芳香が飛鳥に届かないように風下に移動したからだ。
昼も始まりということもあって、まだ若干四時間目の体育の授業の片付けをしている生徒数名以外はまるでいないグラウンドを見下ろし、柊朔夜は顔をこちらに向けた。
「最近、この辺りで通り魔とか空き巣が多発してるのは、知ってるわね?」
「――っ」
どくり、と心臓が早鐘を打った。
まさか彼女の口からそれが出てくるとは思っていなかった飛鳥は、取り繕うように声を出す。
「知、ってるよ……でもそれがどうしたよ」
「ああ別に貴方を疑ってるわけじゃないのよ? 少し気になっただけよ」
「当たり前だ、俺を犯人だと思ってんのか」
「まさか。私は……いいえ、天究の皆が貴方のことを信じてるわ」
「いらねぇ」
短い拒絶の一言に苦笑を浮かべる。こう見えて、飛鳥が知っている天究メンバーの中で一番まともな性格をしているのは彼女だ。というか知ってるメンバーとは百瀬菊璃と斎条伊月、後はあのフライパン男と鉄血の風紀委員ぐらいだ。あまりにもシュールすぎる面子なだけに、正常のナナメ上をゆく柊朔夜ですら落ち着いてる人種にしか見えないのだ。
「冗談はさておき、ね。最近貴方の家の近くで何か騒ぎとかなかったかしら」
一気に核心へと近づく質問に、しかし飛鳥は平常を保ったまま首を横に振る。
「そう……」一瞬憂いを帯びたような表情をしながら、「実は知り合いが貴方の家の近くを通ったらしくてね、どうにも心配だから訊いておきたくて」
だったら直接逢えばいいと言いそうになったが、彼女はその体質故に男女が関係ない。わざわざ友達ではなく知り合いという言い方にしたのも、多分、飛鳥には聞かれたくない、というか飛鳥が聞きたくない種類の話なんだなと思い、軽く頷いてみせた。
「そいつぁ残念だったな。で? 用ってそれだけか?」
「実は、もう一つ聞いておいて欲しいことが……」
すると柊朔夜が唐突に神妙な面持ちで、声音を落としてこちらを向く。
人を嘲ることしか知らないような人間のくせに、初めて見せるその表情に、飛鳥は図らずにちょっとだけ腹の奥で気持ちを据わらせた。
「神代君――」まるで初めて他人に口外するかのような顔で、「……天究への入会手続きはいつ申請してくれるの? 今日も貴方の机に紙入れておいたわよ」
「ふざけんなこのド淫乱」
「あら、私まだ処女よ?」
「さらっというなバカ……っ!」
百瀬菊璃ほどじゃないが、正直という意味ではこいつもいい根性してやがる。
彼女の言葉通り、昼休みから帰って早々に机の中をチェックすると、あった。
部活や同好会の入部申請書をねめつけ、腹いせに飛鳥はその裏を自由紙代わりにしてやろうと思って、五時限目の最中にシャーペンをカチカチと鳴らす。
(えーっと、まずはなんだっけな……ゼロが追われる原因となった『聖域』は、本来人間が所持できるモンでもなく、それで教団のバカに追われてる、と)
ゼロと教団の名前を書き、続いて魔術師と書いて矢印を引く。
(教団がゼロを殺すつもりで、魔術師はゼロに何かしらの理由があって俺を殺すつもりであった。大方ゼロ絡みで俺を餌にしようと……)
矢印の途中にその関係を簡潔に書き込んで、ゼロ→俺へと続く合間に『守護』と書く。これで大体の立ち位置を再確認した飛鳥は、ふと思いつく疑問に首を捻った。
(ん? にしてもおかしいな……ゼロは教団にだけしか追われてないって言ってたんなら、この魔術師はごく最近ゼロの居場所を知ったってことか?)
だからといって、魔術師が個人で来るのは変だ。教団のように組織だったものでもなく、ゼロのように何も考えずに日本に来たわけでもない。教団がゼロを追ってゼロが教団から逃げるという関係に、この魔術師は無理矢理間に割って入るような行動をしている。他でもない、赤の他人のはずの飛鳥を餌にしようとしたのだから。
(魔術師がゼロの存在に気付いたのはごく最近……?)
飛鳥は魔術師からゼロへ伸びる矢印をシャーペンで塗り潰す。
そもそもの魔術師の狙いはなんだったのだろうか。教団は知られる前に潰そうという明確な目的があるが、聖痕(スティグマータ)≠ェ世に出回る事に対してこの魔術師になんらメリットもデメリットも無い。
(個人的な理由で聖痕(スティグマータ)≠狙ったとか?)
その線が有り得る。ゼロの記憶が二年前までと短いことからしても、魔術師とゼロが関係しているという可能性も捨てきれない。
(……まあ、それは一番距離の遠い俺がとやかく言うことじゃねぇか)
「おい、神代」
ふと声を掛けられた飛鳥は頭を上げた。
机の脇に立っている数学の教師が見下ろしてきている。
「何を書いてるのか知らんが、あの問2と3の答え解かる――」
「問3は2分の4×(3+5)=√4」
嫌味ったらしく誰も答えていない問題を答えさせようとした教師の口が止まる。飛鳥はさらりと答えた後、さらに指摘する。
「公式読解なのにあそこだけ因数分解無視じゃないすか、イジメですよあれ。あと問2の式、教科書のと間違えてますよ。あれじゃ解けないのは当然です」
机の上に描かれてゆく『飛鳥だけが理解し得る問題』を解こうと考えるあまり、黒板に視線一つ寄越さず素っ気無く言ってしまう飛鳥。
面食らった数学教師は、やっと気付いたと言いたげな生徒のくすくすという忍び笑いに顔を紅潮させ、咳払いの後に黒板へ向かう。
「と、とりあえず問3だが、確かにこれだけ公式では解けないようにしてあったのに気付いた奴は居るか? これはだな……」
(そういうやらしいことすっから嫌われてるんだよ)
軽く軽蔑するような視線をスーツ姿に送り、意味は違えど嫌われてるのは同じか、とこれが同属嫌悪というやつであることに自嘲するように頭を下ろした。
(それにしても……問題は俺って敵の姿がどんなのか知らねぇんだよなぁ)
ゼロが言うには宗教至上主義の集団と考えればいいとのことらしいのだが、だからって銃だのナイフだの持ち出す神父様は世間体にもイタい人が出来上がるんじゃないかと飛鳥は目を細める。そもそも教団という割にやってることは幼女の追い回しだ。まさか街中でまで目立つような格好をするほど馬鹿ではないと思いたい。いや信じたい。
さらに言うなら魔術師なんてもっと不明瞭だ。なんせ身体的特徴として一六〇センチ前後で女性(しかも断定ではない)としか情報が無い。最悪の場合、この学園内だけでもそれが当てはまる人間は山ほど居るのだが。
(……まさかなぁ)
まかさ子供が人殺しを平然とするなんて考えるのもおぞましい。
飛鳥は色々と書き込んだ紙を綺麗に折り畳んで、授業が先に進んだらしいのでノートを開いて顔を上げた。
ばぎん……!!
硝子細工の砕ける音と、闇の来訪は突如だった。
「……なっ!」
あまりの異変に飛鳥は絶句した。
教室の輪郭だけを残した、宵闇の空間。夜中の教室に一人取り残されたような静寂の下で、言葉が出ない。
黒板に書かれていたはずの数式は、いつのまにかチョーク字による魔方陣。
咄嗟に飛鳥は外を見た。唯一の光源が視界の左端に見えたからだ。
同じくして誰も居ないグラウンド。その上に昇る月。ただ、普通の景色ではなかった。ビー玉ぐらいにしか見えないはずの月は眼前まで近づいているかのように巨大で、しかもその地表に真っ黒な紋章が浮かび上がっている。
(魔術――)
その時、思わず席を立ったのは幸運だった。
ふと背後から感じた気配に、飛鳥は思い切り机と机の合間の床へと倒れる。
結果、首筋を何かが掠める感触を残して床に伏した飛鳥は、すぐさま体を翻した。
ナイフを片手に空振りした直後の体勢の、全身を麻の外套で覆い隠す人間が立っていた。素人を相手に当て損ねたことに苛立つように、小さく舌打ちする。
「魔術、師……っ!」
急いで体を起こす。それでも体勢は極力低くして、逆手に兇刃を握る異常者との距離を慎重に測ることに徹した。
互いの距離は数歩程度。格闘経験は無いわけではないが、それはあくまでも路上での殴り合いを意味するレベルだ。仮にこの魔術師のナイフ捌きが熟練したものだったら勝ち目なんて無い。ましてや、あのナイフがただの金属で出来た刃物であるという保障さえないのだ。もしかしたら掠り傷を受けただけでも致命傷に匹敵するかもしれない。すでに戦場は、飛鳥の未知なるものなのだ。
すっと魔術師の足が一歩前に出る。それに対して飛鳥が一歩退く。
途端、顔を小さく上げた魔術師の身体が前に飛んだ。
突然の猛進に不意を衝かれた飛鳥の首を斬ろうとナイフが横に薙がれる。
「っく……!?」
飛鳥は咄嗟の判断で、体を目一杯低めた。後ろに下がるには、机や教卓等の障害物が多い。
(掠んな……掠んなっ!)
ほぼ完全に真下を向くように頭を下げた瞬間、後頭部の数センチ上を空気を裂く音が通過する。
その直後、飛鳥は顔を上げて一気に足に力を込めた。無防備になっている魔術師の腹部にありったけの体重を込めて体当たりをぶちかます。
反撃されると思っていなかったらしい魔術師は見事に吹き飛ばされ、机を巻き込んで倒れこむ。床にナイフが転がる。
その時、違和感を覚えた。
(こいつ……?)
ばっと起き上がった魔術師は、目配せで落ちたナイフの位置を確認する。
うろたえているような、そんな動き。
(……もしかして)
だが、飛鳥が一歩前に出た瞬間には、魔術師から焦燥の気配は掻き消えた。
外套の懐に手を忍ばせ、一枚の紙切れを取り出す。
長方形に綺麗に模られた紙には、理解不能な文字がびっしりと書き込まれている。指と指の間に挟んだをそれに、フードの奥からふっと吐息を吹き掛け、
「――、」
短く、囁くように、飛鳥からは聞こえない小声で何かを唱えた。
刹那、紙切れが青白い炎に包まれて灰に変わる。
警戒する暇もなかった。何かと飛鳥が止めようとした足を中心に、白い紋章が浮かび飛鳥の立っている床に広がる。
本能的に危機を察知した飛鳥は急いで円から出ようとしたが、遅かった。
(足が……!? 金曜日ん時の――)
少しずつ足が床を擦るが、貼りついたように動かない。
さらに新しい紙切れを蒼い炎で灰燼にし、さらさらと落ちた灰が魔術師の足元で大きな姿を形成してゆく。
その姿は――蒼白な肢体をなびかせる狼。
蒼い瞳が獰猛に飛鳥を捉え、魔術師の下から駆け出す。
「くっそ……動け、っ!」
力無く立ち尽くす自分の脚を掴んで動かそうとするが、ずずっ、と少しだけずれるだけで円から出るには間に合わない。
前に向いたそこに、狼が跳躍する。がばりと開けた口が的確に飛鳥の喉元を狙って跳びつき、
どずん! と鈍い音を立てて狼が横に吹きとんでいった。
首に一直線に長剣を突き刺したまま。
横合いから飛んできた白い姿が、飛鳥と魔術師の合間に現れる。
白い髪と肌を黒いシャツとハーフパンツで包んだ、白と黒のコントラストの綺麗な小柄な姿。同じ白黒の世界でも、教室のよりも生気に満ち、同時に美しさが淡く燈っている。まるで本物の満月のように。
「ゼロっ……」
「ごめんねアスカ。校舎を丸ごと封印するなんて思わなかったから、苦戦した」
言いながら、飛鳥を束縛する床の紋章の円の一部に、握っている歪曲した巨大包丁のような剣を突き刺す。途端に紋章が消え去り、飛鳥の足を縫い止めていた圧迫も消滅する。
振り返ったゼロに詫びの言葉を言おうと口を開き、同時に噤んだ。
既にゼロの瞳が、ルビーのように紅く煌いていたからだ。
眠たそうな表情はどこにもない。人形のように一切の感情を失った相貌をすぐさま魔術師に向ける。心なしか、その声も別人のようだった。
「今回は本人なんだね。病み上がりで随分と無茶してるんじゃないかな?」
詮索というよりも仄かに尋問めいた探りを入れるゼロ。手ぶらの左腕を横に突き出すと、虚空に右手に握っている大剣と対になる形状の大剣が浮かび上がってくる。
「一度ならず二度までもなんてね……ボクが狙いの割には、アスカばかり攻撃するなんて遣り方が陰湿すぎるよ。引くの通り越してちょっと頭にきてるかな」
言うが早いかゼロは両手に持つ剣を中ほどから重ねる。がこん、と何かがはまる音が響き、固定される。その武器は――巨大な鋏だった。
「投降してくれるなら手荒なことはしない。いやしたくない、かな……」
でも、と続けるゼロの言葉には、容赦など無かった。
「アスカを狙い続ける限り、ボクはキミを全力で赦さないけどね」
ジャキンッ!! と鋏特有の甲高く小気味の良い音が弾ける。しかし一般的サイズの鋏のそれに比べ、教室の窓を震わせる程の音が、戦慄を生む。
ぐ、とゼロの足に力が込められる手前。魔術師の動きも俊敏だった。数枚の札を燃やし、灰から生まれた数羽の蒼い鳥が教室中を舞う。
「アスカ、そこを動かないでね」
穏やかとは程遠い、ぞっとするほどの冷徹な声が耳に入る。
直後に、飛鳥の後頭部付近から鋭い滑空を伴って襲い掛かる鳥を、ゼロは挟みを開いて横に薙ぐ。開いたことで垂直十字の形状を持つ一撃が、飛鳥の後頭部すれすれで鳥を貫く。そのままの体勢からゼロは鋏を引き戻し、机の脚に鋏を甘噛みさせる。
「――!」
「アスカを狙うなって、三度目なんだけど?」
明確な怒りが孕んだ真紅の瞳が、魔術師を射抜いた。
次の瞬間、体を巻き込んで振り払う鋏に引っ掛かっていた机が魔術師へ飛ぶ。
中に納められていた教科書やノートを盛大にぶちまけて飛来してくる机に、魔術師は横に跳躍してそれを避けるが、ゼロがそれを見逃すはずがなかった。一気に駆け出すのに気付いた魔術師が指を指揮棒のように動かし、他の鳥をゼロへ向ける。
残る鳥は三羽。内一匹は魔術師の周囲を飛んでいる、あれは非常用だろう。となれば、攻撃してくるのは――、
(上と、――左!)
流れるように視線を滑らせ、先に飛来する頭上の鳥に鋏を振り回す。掻い潜ろうと身を捻る鳥だが、バグン、と開いた鋏の先端に見事に突き刺さり、勢い良く閉じた刃によって胴体から真っ二つにされた。炎の残滓は一瞬で火の粉を撒き散らして虚空に消える。
「危ねぇ……!」
だが真上の敵に攻撃したことで後頭部をさらけ出しているそこへ、もう一羽の鳥が滑空する。
飛鳥の叫びに反応したゼロの体が、一気に横へ飛んだ。振り上げていた鋏を豪快に床へ殴りつけ、その反動で軽い体躯が浮いたのだ。
耳元をすり抜ける鳥に視線一つ寄越さず、それをおもむろに掴んだ。ゼロの左手には既に、指先が鋭く尖った鈍色の手甲が嵌められている。
鳥の飛行する勢いをまるで殺さず、円を描く軌道の果てに横に倒れている机の面へ、一気に突き刺した。ずどん!! という音と共に頭部がひしゃげた鳥は、そのまま火の粉を散らして掻き消える。
だんっ! と床を蹴って二人は距離を取る。
拮抗した両者だけの世界。
純白の達人は巨大な鋏と手甲を捨て、逆手に両手持ち短剣(ダブルハンドダガー)を。
外套の狂人は己が身を護らせていた蒼い鳥(ブルーフェザー)を、伸ばした腕に。
(すげぇ……)
怒涛の一連を呆然と見つめる飛鳥は、身震いを起こした。
ブラウン管に映っているだけの演技とは次元が違う。
少しでも気を抜いたら、波紋の無い水面の如き一閃が身を裂くだろう。
少しでも気を許したら、どれほどの巨大な一撃がこの身を焼くだろう。
双方は微動だにせずに『静』から『動』へと切り替える機会を窺う。
唯一浮きだっている飛鳥の呼吸が、痛いほど教室に溢れていた。
(これが、ゼロ達の居る世界)
呼吸一つ間違えた瞬間、この命など終わってしまうような張り詰めきったその光景に、飛鳥はなんの魔術も掛かっていないにもかかわらず、動けなかった。
(俺の入りようが無い、世界)
不意に、動き出したのはゼロだった。
小柄な体からは想像も付かない力を溜め込んだ一歩と共に、右手に握っていたナイフを投擲する。放物線という原理を無視したかのように一直線に飛んでくるナイフを、魔術師は目一杯に避ける。紙一重どころか、体全体を低くしてそれをやり過ごした。
(――?)
飛鳥は、ほんの一瞬、またその魔術師の行動に違和感を覚えた。
それが何か、などと深く思慮に入り込もうとした直後、
「ごぶふっ……!?」
脇腹にとんでもないG抵抗が掛かった。ゼロが横合いからタックルをかましてきたのだ。プロ選手も驚きの突進に、飛鳥の視界が綺麗な真横に流れる。
「ちょっと逃げるよ」
そんな強烈な一撃を加えた本人の声とは思えないほど澄んだ冷静な一言。
上体を起こした魔術師が右腕をこちらへかざす。手の甲に羽を休めていた蒼い鳥が、勢いをつけることさえなく弾丸のように飛ぶ。
腹から抱えたようなまま教室の扉へ向かっていたゼロは、飛鳥へ掛けていた力の向きを横から、
「ぐぉう!?」
斜め下に切り替えた。レスリングから柔道のように体が倒れる飛鳥の頭部が有った場所を、弾丸と化した蒼い鳥が通過してゆくのを飛鳥は視界に捉えた。
のは束の間と呼ぶ以上の一瞬。二人して重なるようにして倒れる。
黒板脇の時間割票の『地理』のところにダーツよろしく突き刺さっていた蒼い鳥は羽ばたきとともに廊下で倒れこんでいる二人へ――、
「だからアスカを狙うなって四! 回! 目っ!」
思いっきり足で扉を蹴ってスライドさせるゼロ。
今まさに突撃していた途中の蒼い鳥がその扉に見事に挟まれて、首と胴体がもげて落ちる。申し訳程度に重力のまま落下している頭部に、左手に握っていたナイフを突き立て、火の粉すら残さなかった。
「立ってアスカ、はやくっ」
怖いと感じる存在が二つに増えた飛鳥の腕を、ゼロが精一杯に持ち上げる。基本的に腕力そのものは子供なのか、「ん〜……!」と唸りながら飛鳥を起き上がらせようとする様はちょっと……、
「次が来る!」
その一喝に飛鳥が教室の後ろの扉を向いた。来るって何が――
ドガン! と扉の上部が外れてドミノのように倒れる。そこに現れたのは、
「っい゛ぃ……!?」
思わず飛鳥は顔を強張らせた。出てきたのは蒼い体毛を揺らめかせる、猪。
ブルルル、と一啼きし、真っ直ぐと二人を発見。
「早くっ……なんだか見るからに足が速そう!」
「正解、真っ直ぐ走りゃあ上位は期待できる!」
変なトコで知識が無いせいか直感で当てるゼロに飛鳥は及第点を与えていた。
飛鳥は本科生一年、すなわち校舎の最上階に居る。
ゼロの後ろを走りながら、飛鳥は階段を転びそうになるほどの速度で降りていった。
「な、なんだって逃げんだよ……っ」
ドタドタと滑り落ちるような飛鳥とは比べるまでもないほど、軽快に階段を三段飛ばしで降りてゆくゼロの背に叫ぶ。
帰ってくる声は落ち着いているのに、鈴のように良く届いてくる。
「実際に無理矢理捻じ伏せるにはボクの場合不利な部分が多すぎるからかな。ここは今やあの魔術師の領域、活かすも殺すも向こう次第。しかもこっちは荷物持ちだしね、とりあえずここから出ないことには均衡とは言えないかな」
「……一瞬けなされた感のある台詞があった気がしたけどよ」
引き離されまいとする荷物は小さくぼやくが、ゼロの耳には届かなかった。
「でも、出るったってどうやって!?」
「まだボクが入り込んだ時の亀裂が残ってればいいんだけどね、無理かな……立派な次元断層だから、魔術師関係無しに修復しちゃってるかも知れない」
「ジゲン、ダンソウ……?」
「うん、空間跳躍かな。武器いっぱい創った時の『聖域』の余波でこじ開けて突っ込んできたんだ。正直、武器創る時って結構疲れるんだけどね」
「……、」
何気にトンデモナイことしてるけどなにこの生物、と飛鳥は白く棚引くカーテンのような彼女の後ろ髪を遠い目で見た。相も変わらず、凄い世界に来たもんだと体裁的に驚くべきか素直に鬱になるべきか迷う飛鳥だった。
「ま、入り方が有るなら出方も同じだと思う。一度外に出てしまえば不利な状況だけは回避できるよ。封印を解除した瞬間、一気に魔力を消費するだろうし」
「わかった」
一階の廊下に出た二人はすぐに下駄箱へ向かう。ふと思ったが、ゼロはまた裸足であることに気付いた。
「お前は野生児か……」
「を? ああ、だってあの靴かっぱかっぱしてて動き辛いかな」
どうも途中でサンダルは脱ぎ捨ててきたらしい。そりゃ確かにあれは飛鳥の御下がりなのでサイズはぶかぶかだが、要らない=履かないというのはどうなのだろうか。というか捨てるってどうなのだろうか。
などと考えていると、突然ゼロが急ブレーキする。何かと飛鳥も止まって、ゼロの小さな頭の向こうに魔術師が立っていることに気付いた。
麻の外套を羽織る魔術師の足元では、先ほどから追い掛け回された青白い体躯の猪が前足で床を蹴っている。
「先回りされたっ……!?」
「アスカ、さっき言ったかな。ここはあの魔術師の独壇場。多分、こないだのアスカの家に跳んだ時のと似た追跡魔術だと思う。顔を合わさない時は随分と豪快な魔術使ってくれるんだね」
嘲りも嫌味も無い、感情が入っていない率直なゼロの言葉に、しかし魔術師は何も答えずにナイフを胸元に構える。
「何も言わないっていうのは非人道的かな。というか名前ぐらいあるんだろうからしっかり喋れ」
少しむっとしたように頬を膨らませてゼロが言う。しかし魔術師は無言に徹する。
「……そう」小さく溜息を混じらせ、「ま、いいけどね。とりあえず退いてね」
両腕を大きく広げる。
キィィィン――、
涼やかな音色と共に、透明な硝子細工の武器が一瞬でゼロの両手に浮き上がる。ゼロの身の丈の倍はありそうなその形状に極彩色が吹き込まれ、重量より荒々しい気性を感じさせる青龍偃月刀が現れた。
ブォン! と小さな体の周囲を風ごと薙いで、切っ先が魔術師を向く。
(アスカ、)ゼロはその体勢のまま、飛鳥にだけ聴こえる声で囁く。(どこかの部屋に入って、いつでも窓を割れる状態でいてくれないかな)
(どういうことだ……?)
(無理矢理臭いけど、空間を破砕して強引に出るしかなさそうかもしれない。呑まれてるのは校舎だけみたいだしね、ボクが時間を稼ぐから、割ってもよさそうな部屋に入って準備しててよ)
(そんな……だったらお前がっ)
「ボクは大丈夫」
ゼロは、声音を小さくするのをやめて答える。
表情は今もぞっとするほど冷たいモノを放っているが、どこかに優しさのようなものを感じてしまった飛鳥は、二の句を継げなかった。
「大丈夫……ボクが、護るから」
だから、無闇矢鱈に関わるな。
その副音声は、ひょっとしたら飛鳥の錯覚ではなかったかもしれない。
「……っ」
ぐ、と拳を握り、飛鳥は踵を返して走りだした。
一瞬それを見た魔術師が視線だけを飛鳥へ追わせたが、視界の左端で空を裂く音が振るわれる。
「……、」
「行かせないってば。アスカを狙うなってこれで五回目、しつこすぎ」
対峙し合う二人だけとなり、白黒の世界にはより重い空気が張り詰める。
「仮契約式の召喚魔、かな」ふとゼロは魔術師の足元でいつでも駆け出せる意思を表す異形に視線を向ける。「ますます教団じゃ見なかったタイプだと思うけど、遣り方がちょっと玉砕覚悟(バンザイアタック)じみてるあたり、集団じゃなさそうなんだ」
追及というよりも、まるで決定付けたような物言いに魔術師は押し黙るまま。
「そろそろ無言っていうのにも飽きたんじゃないかな……教えてくれない? なんでボクに付き纏うの? 『聖域』が狙いなのかな?」
喋りながらも、しかし切っ先は常に隙無く魔術師を捉え続ける。
奇襲する、という思考が消えたのか、魔術師は溜息混じりにナイフを握る腕を提げた。
「意外と饒舌なのね、喋りの煩い人間は長生きしないわよ?」
静かに、ともすれば脱力気味のように魔術師が口を開いた。
「いきなり話すんだね、ちょっとビックリ」
「貴女の言う通り、病み上がりだからね。斬り落とされた首の修復がまだ不完全で、喋るだけで喉の奥がチクチクするのよ。まったくね……」
忌々しそうに吐息を零す。
やっぱり女性だったか、とゼロは内心思うも、訊かなければならない本題を流されるわけにはいかない。
「どうして『聖域』が欲しいの? それとも二年前以前のボクの知人か何か?」
その言葉に、魔術師は小さく笑う気配も一緒に零した。
「前者は貴女には関係のないこと……それに後者もハズレ、ゼロっていう名前なのね、正直あまり似合ってないわよ?」
軽く飛鳥を貶された感じがしてゼロはむっとしたが、どうやら彼女の言っていることは本当のようだ。つい先日ついたばかりのゼロという名前のほうで記憶する人間は、飛鳥を除いたら一人としていないのだから。
「でもね、それなりに私も情報は集めてるのよ? 聖痕(スティグマータ)≠ウん」
ぴくり、とゼロの眉が片方上がった。
「聞けば聞くほど夢みたいな話だったけれど、実際に見ても信じられないわ。魔術師や血界士の常識など根底から覆す、人間としての理をぶち壊す神懸りの能力、『聖域』。その両手に握ってる武器は、一体何を基に創ったのかしらね=v
薄い邪険や厭味を含めた物言いに、今度はゼロが押し黙った。
「魔術師も血界士も必ず護らなくては……いいえ、護らざるを得ないルールが有る。それを踏み越えてモノを創ることなど実行することは出来ず、ましてや何の代価練金も契約召喚もせず、何も無い場所にモノを創り出せるなんて御伽噺もいいとこ」
「けっこー疲れるんだけどね、特に眼が疲れるのはなんでかな」
ゼロも軽くお茶らけた風に答えるが、魔術師はそれには返しはしなかった。
「無から有は生まれないという物理的な大原則もあっさり無視し、ここに無いモノを創り出せる究極の武装創造能力、聖痕(スティグマータ)=B魔術寄りの『聖域』である世界の持ち主となれば、教団の連中に追われるのも無理はないわね」
「人前じゃ出さないかな」
「人前で出したじゃない」
「もしかしてアスカのこと? それはそれだよ、キミがいけない」
「いいえ、私の場合は次善処理と言うべきものよ。邪魔しなければかえって貴女のことを知られることもなかった」
小さく、ゼロには聴こえない声で、魔術師は付け足す。
「……私も言っておくけど、断腸の思いってやつだったのにね」
「え?」
「聴こえなくて結構。私の目的は貴女の『聖域』、邪魔はさせない」
言うと同時に魔術師はナイフをかざす。
ゼロは、何を言うでもなく、一度だけ哀しげな表情を見せた。
「『聖域』は、ただの宝具や神器の類とは違う」
「なんですって?」
「ボクも詳しくは知らないんだけどね。でも憶えてる=A体の奥の根深いとこで」
下ろしている切っ先を、再び魔術師へ。
「『聖域』は開けちゃいけない。踏み入れてはいけない世界なんだ。とてもじゃないけど、その水面は酷く澱んでいて……きっと人には理解の出来ない世界。触れちゃダメだ。おかしいかも知れないけど、キミのために言ってるかな」
説得、というよりも、まるで自分に言い聞かせるようなゼロの説きに、魔術師は一瞬言葉を失い、すぐに失笑した。
「そう……その心配に返答を」
ぎゅ、とナイフの柄を握る手に、必要以上の力が篭るのをゼロは訝しんだ。
「悪いけど、私は貴女の命を奪ってでも『聖域』が欲しいの。交渉で済む話なら何だってしてあげたい。でも『聖域』がそういう貸し借りの次元をとうに超えていることなんて百も承知よ……だから、力ずくで奪わなくちゃいけないの」
「どうして、そこまでしてこんなモノが欲しいの?」
思わず再びの質問になるその言葉に、もう魔術師は笑みなど浮かべなかった。
「私はいらない。単にそれを利用しなければならない理由があるだけ」
オォン、と漆黒の世界に青白い光が燈る。
六芒星の紋章が魔術師の足元を照らし、魔術師の身を包んでゆく。
「接近戦で分が悪いのは前に味わった。魔術師が魔術師なりの戦いをするのは卑怯かしら?」
「……ううん」ゼロは首を小さく横に振る。「ボクも充分に卑怯な能力だよ」
戦闘は開始された。
タン! と軽快な音と共にゼロが一跳躍。全身を低くし、体重の倍の勢いをつけて切っ先で突いた。
狙うは――左腹部。
「甘い……っ」
魔術師は一度振り被った腕をそのまま横になぎ払う。彼女の周囲を煙のように取り巻いていた蒼い風が、流れるようにして偃月刀の角度をずらす。
(やっぱり、防御よりも回避でこられたかな)
反射の速度でゼロは切っ先よりも棒の部分で吹き飛ばすしかないと一歩前に出ようとする。
だが、そこで魔術師が一歩横に跳ぶ。
何かと判断するのは早かった。
青白い猪。炎の精霊を媒介にした形状だけの召喚魔が、一直線にゼロへ走りこんでいた。
(なんの……!)
ゼロは横に振り回そうとしていた偃月刀を地面に突っ返させる。当然曲がることなく突っ込んでくる猪はその棒の部分に突っかかり、斜め上を向く。
「はっ!」
掛け声と放ちゼロは偃月刀を前に押す。前足が浮いていた猪はそのまま後ろへ仰向けに倒れるが、起き上がろうと身じろぎする猪の首に、握りの部分が断頭台(ギロチン)のように振り落とされた。重量に偽りの無い一撃で、昇降口廊下に『ボギンっ!』というあまり聞きたくない類の音が残響する。
(――囮!)
目一杯に上体を捻って、視界内に魔術師を入れる。
五歩は離れた場所に新しい六芒星を描き、その中心で片膝を突いてしゃがみ込んでいる。小声で、しかも日本語ではない何かを唱えていると悟った直後、フードの下に覘く口元が薄く笑みを創り、同時に――
大きく、長く、悲鳴に近い声を上げた。
「――っ!?」
だが、それがゼロの耳に届いた時には理解が遅かった。
なんせ、ゼロの耳朶を叩くはずの彼女の声が、『ィィィイイイイイン!!』と人外の声となって衝撃を創りだし、ゼロを吹き飛ばしたからだ。
軽い体は紙切れのように窓を破砕し、四角型になっている校舎中央の平地へ押し出される。
ゼロは一度肩から地面に激突するが、地面に手を突いてその反動を全て受け流す。グルン! と一回転して綺麗に着地したと思った途端、
ぐらり、と。視界が一瞬揺らいだ。
「っく……!」
無表情の中に、若干の痛みから伴う焦燥の渋面が浮かぶ。
なるほど、とゼロは思った。確かに分が悪すぎる。
「超音波……?」
『正解よ。初撃を、それも直撃しておきながら良く気付けたわね』
「ぃ……っ!?」
校舎内から出てきた魔術師の声が二重に聴こえる。鼓膜をやられたらしい。破損ではなく損傷で済んだのは本当に運が良かったのだろう。
『残念、なまじ攻撃向きの能力が仇になったわね。魔術の増強自体は組み込んでいないの、この護封結界も実際は詠唱の部分破棄だけ。それだけでも充分に命中する魔術が得意なのだから。わざわざ封印を施したのも、人に見られたくないというよりも、人を巻き込みやすい魔術だからというだけよ』
くわんくわん、と揺れるせせら笑いに、ゼロははっとする。
「……もしかして、外れた音色(ディメイシア・スカーレ)=I?」
『あら、知ってるの?』
「音響を操れる魔術師なんてそうそういないしね……流れならなおさらかな」
『……、大人しく「聖域」を渡しなさい。命を取ることは前提じゃないの』
一度、ゼロは膝に手を突いて立ち上がる。
すぅ……、と息を吸い、ゆっくりと吐いてから、
「やだ」
無表情のままアカンベーをしてみせた。
『……まったく、聞き分けのない子は優しくしてもらえないものなのにね=v
「――!」
その時、溜息混じりに腕をかざす魔術師の声が鮮明に戻る。
(踏ん張って、ボクの足。待たれてるんだから……!!)
「殺したくはないけど、私には私の目的があるの。一応謝っておく」
瞬間、視えない衝撃が地を抉りながら奔った。
ゼロは反射的に、本能の奥でどうすればいいかを引き出し、両腕を開いた。
ズドン!! とゼロの小柄な体躯は後ろへ飛んでゆく。
僅かに怪訝な顔をした魔術師が、彼女の取った行動を推察している最中、
「いったぁ……!」
「なん、ですって?」
魔術師の声に緊張が滲んだ。数メートル空中を投げ出されたゼロは今度は見事に足から着地する。そのまま、真紅の瞳を魔術師に向け、すぐに振り返って駆け出した。
「……っ、待ちなさい!」
叫び追おうとした魔術師の足元で、白黒のアスファルトにキラリと光る物が目に入った。
地面に薄く長く仄かに光沢を持つそれは、ワイヤーのようなもの。
ふと気付いた魔術師は、ふん、と鼻を鳴らした。
「衝撃は防げなくても、空を裂けば音程から生じる超音波の流れを崩して脳が揺さぶられるのを防げるというわけね……やられた」
怒りを孕んだ言葉と共に鋼糸を踏み、すぐさま駆けた。
ガラガラ、と音を立てて扉が開かれる。あまりに唐突で、あまりに勢い良く開くものだから、この状況を受け止めることに必死な飛鳥は反射で振り向いた。
つい最近見慣れ始めた白い姿が現れる。しかしその姿は十数分前とは打って変わり、白地のシャツもハーフパンツも、所々ボロボロに解れたり汚れたりで、明らかに異常を宣告していた。心なしか、息も少し弾んでいる気がする。
「ゼ、ロ……大丈夫か!?」
「ごめん、ちょっと撒こうとしたらとんでもない鬼ごっこを展開しちゃった」
無表情で鼻から息をして部屋へ入ってくるゼロ。
飛鳥の知らないところで、ゼロと魔術師の壮絶な攻防戦があったことは予想できる。ただ、その衣服の乱れ具合やらさっきから聴こえていた爆音のようなものやら、何をしてたのかまでは想像できなかった。
「よいしょっと」
そんな懸念の最中も、声と一緒にズガンッ! と引き戸と壁を縫い付けるように大鎌を振るう姿は一体何なんだとツッコミたい。
「よし、じゃあ結界から出る準備をしなくてはね」
軽い物置部屋と化している一室に入り込んだ飛鳥とゼロは視線を合わせる。小物の入ったダンボールから埃を被った机まで、細部に至るまで黒塗りに白い輪郭だけのモノクロームの世界が視覚的に錯覚を見そうだ。正直、ゼロと別れてからずっと壁に手をつけながら移動していたのは内緒である。
「参ったね、まさか外れた音色(ディメイシア・スカーレ)≠ェ相手だなんて思わなかった……」
「ディメ……なんだって?」
小さく息をつきながら愚痴るゼロに、飛鳥は眉をひそめる。
「魔術師側の世界では結構有名な流れの魔術師かな。扱いの難しい魔術を好む、変わってるけど強力なことで噂がされてたからボクも覚えてる。でも、噂じゃ三年ぐらい前に消息を絶って以来姿を見た人が居ないって話だから、半信半疑だったんだけどね。あれだけバカスカと魔術使われたら、いやー参ったね」
軽口を叩く風に、しかし緊張のせいかどこか抑揚のない声に、飛鳥は言葉に詰まった。
ゼロがその気配に気付いて見上げると、飛鳥は俯いて口を開く。
「俺の、せいだよな……」
力無く、言う。ゼロがすぐには答えられなかった。
「俺が居るせいで、お前、逃げられないんだよな。だって……」
「それは違うかな」すぐに我に返ったゼロが遮る。「違うよアスカ、ボクは厭でキミと関わってるわけじゃない。ボクは、ボク自身に犠牲を出させない様にしてるだけ。だからキミがボクを犠牲だと思う必要なんて、無いよ」
諭すように、しかし真紅の瞳はあまりにも感情を映さない。本心からの言葉だと信じたい反面、その硝子のような空ろさが、飛鳥の脳裏に疑念を孕ませる。
ゼロは両手を開いて、窓をぺたぺたと触りながら何かを確認している。
(それでも――)
きゅ、と。
飛鳥の拳が強く握られる。
(――俺が居なければ、お前のその怪我は負わなかったはずだろ)
何も出来ない自分に、嫌悪する。
小さな背中は一身腐乱に虚空から武器を創り出す。それを放り、また新たな大剣を創り捨て、また短刀を創り捨て、繰り返すと二色だけの世界に蜃気楼のように揺らめいて大きくなる。
唇を噛みしめて、背負うことに慣れたその背中を見つめる。
(俺が弱いせいだってことを庇ってくれても……俺が、)
その直後、突然にゼロの頭が揺れ、膝から崩れ落ちた。
「っな……!」
慌てて飛鳥がゼロの体躯を支える。ぞっとするほど、軽かった。
「どうしたんだ!? ゼロ、大丈夫かよっ」
「――あ、うん」一瞬、返答に間があった。「ごめん、ちょっと聖痕(スティグマータ)≠フ使いすぎみたいかな」
どこか呂律が回っていない声。空ろな硝子の水晶が、よりいっそう紅く燈る。
身を削る力。命を削る力。『聖域』とは、そういうものなのかも知れない。
なのに飛鳥はそれを使うゼロを止められなかった。謝って、すぐに制止させればいいのに、先にゼロが言ってしまうからだ。『ごめん』も、『大丈夫』も。
飛鳥は気付き、思い知る。
鼻先十数センチのところに居る彼女との距離は、あまりにも遠すぎた。
「大丈夫」ゼロは控えめに飛鳥の胸元を押して、一歩退かせる「ボクは、必ず護るから」
「でも、お前……!」
「そうしたいと、ボクが決めたんだ。他でもないボクが」
弱々しく、視線を合わせる。
なんでだろう。
視線を合わせてるはずなのに、ゼロがこちらを見ている気がしない=B
ゼロは再び窓の前に立ち、目を閉じて両腕をかざす。
キィィィン――
清涼な音色と重なり、空間が波紋のように揺れる。
巨大な戦斧を創り出し、しかしゼロは立ち続ける。
後ろに立っている、ただ一人のためだけに……。
刹那、
ばぎん!! と破砕音が耳に染みる。
窓が一気に亀裂によって埋め尽くされ、ビシビシと乾いた音を立てて割れてゆく。徐々に極彩色が溢れ出し、それを見たゼロは青ざめた顔を振り向かせる。
小さく頷くその素振りに、歯を食いしばって飛鳥は頷き返す。
胸のうちの悲壮なものなど、あまりにも些細な祈りにもならなかった。
ゼロを抱えて窓に頭から突っ込むと、光が一気に溢れ、色が芽吹く。
あまりの光の量に瞼を強く閉じた飛鳥は、すぐに目を開ける。
ざっと見渡すと、校舎裏に出ていた。物置部屋とを隔てる窓の下に、小さな紙切れが一枚、ひらひらと風に仰がれていた。
「出てきた……ゼロ、出て――」
腕を放しながら視線を落とそうとしたとき、重力に従って落ちようとするゼロを咄嗟に抱きとめた。
「お、おいっ! ゼロ!?」
思わず声を荒げる。腕の中にすっぽりと納まってしまうゼロは、額に珠のような汗を浮かべて高熱にうなされるように荒い息をしていた。ぐったりとしたまま、震える手で飛鳥の夏服の裾を精一杯に掴んでいる。
(嘘だろ……? ゼロが、俺のせいで……俺のせいでっ!)
半ば錯乱気味にうろたえる飛鳥の背後から、足音が届く。
振り返ると、外套の魔術師がナイフを片手に立っていた。
だが、魔術師もまた、いやゼロ以上にぜぇぜぇと肩で息をしている。体勢をふらりと崩して、壁に手を突いて支える。
「っく……」
(あいつも疲れてる? そうか、術が解けたら魔力を消費するって……)
頭のどこかで冷静な何かがそう告げる。
でも、そんなことはどうだっていい。
彼女が、ゼロが、死に掛けている。
「なん、なんだよお前……」
心の底から湧いたのは、紛れもない怒りと憎しみ。
「お前のせいで……ちくしょう……ちくしょう!!」
ゼロを地面に横たわらせ、立ち上がる。
魔術師はまだ大きく息を荒げているが、気のせいか「……ふん」と鼻で笑った気がした。
それを見た飛鳥は、かっと頭に血が上る。
魔術師だの、殺しの世界だの、彼我の力量さえも、
ぱんっ、と真っ白になった頭から掻き消えた。
何の思考も思慮も無く、およそ反応という反応さえ無く、飛鳥は駆け出す。
それに気付いた魔術師は、右手に握っていたナイフを飛鳥の頭部へ向ける。
キィン! という音と共に小さな魔方陣が浮かび上がり、空気がたわむ。
次の瞬間、それが何かに気付くことに遅れた飛鳥の眉間にめがけて、ナイフが弾丸のように射出された。
「当たった?」
ビルの屋上、横からの緩やかな東風に制服をはためかせる女子高生は、同じ制服を着込む少女に視線を寄越さずに尋ねる。
「いえ、かけてきた突進に対し迎撃を起こしたので、攻撃を叩き落としました。知ってしまったとはいえ一般人ですから、命の方を優先しましたが?」
「うんうん、ありがとねぃ杏露っち。さすがに今回ばかりは手を出さざるを得ない状況になっちまぃやがったんだよさぁ」
「構いません。出席日数に響かないよう手配して頂けるのなら、不問とします」
酔っ払ったような変な口調の女性は、目を細めて視線の延長上に居るらしい′盾フ三人を探す。確かに視力が良いわけではないが、だからといって二キロ離れた場所に居る二人の間を飛ぶ、銃弾と同速に近い武器を撃ち抜けるなんて尋常ではない所業だ。そもそも建物自体が見えないのだから、双眼鏡を持ち合わせていない女性はサイトスコープを覗く彼女にどうなったかを訊くほか無い。
「しかし何時見ても凄いねぃ。何が凄いって視えることもそうだけど寸分違わず撃ち抜けるってことがギネス級」
「それが私の血界ですから」
短く、硬い口調で少女は答える。
屋上に佇む少女の両腕には全長にして一メートルを超える巨大な漆黒の塊が抱えられている。アメリカの軍用スナイパーライフルだが、彼女のそれはさらに距離を伸ばすため一発式の銃身が長いものに改造されている。常人が撃てば間違いなく添えている右の肩関節が破壊される怪物を、彼女は碌な固定をしていない。少女は右脚を膝から折り、左脚は前に投げ出して体勢を極力低めて踏ん張れる状態にしている。女の子がするには若干スカートが気になる体勢だが、サイトスコープに右眼をあてがうその表情は、機械のように一切の乱れが無い。
初撃によって銃口から熱を吐くライフルの銃身から空の薬莢を取ると、それを素早くポケットに入れて新たな銃弾を接続型マガジンカートリッジに宛がう。その白く細い指先には、彼女のどの指よりも太い銃弾が覗いている。
「第二弾、装填します。イレギュラーを撃ちますか?」
いや、と女性は首を横に振った。
「多分もう向こうも気付いてるかもん」
「機関が関与していると勘付かれるなら、尚のこと殺した方が良いのでは?」
確かに標準の真ん中に入れようとした途端、相手は姿勢を低めて警戒する。その程度でかわせると思われている辺りは頭に来るが。
「ダ・メ・よん♪」
ふっ、と左耳に吐息を吹き掛けられる。背筋がぞわぞわっときた。
「〜〜っ……な、何をするのですかっ!?」
耳まで真っ赤にしていきり立つ少女はやっとサイトスコープから顔を剥がす。ぼやけた視界の中心でその姿はけたけたと笑う。
「無茶すれば教団との波風も立てるかもよんってことねぃ、魔術師の目的は教団や自分達と同じ、聖痕(スティグマータ)≠ネんだからぁん」
ふざけた口調だが本質を貫いた物言いに、少女は胸元に掛けていた眼鏡を着けて視界をクリアにする。トマトのようだった紅潮も咳払い一つで元に戻して、弾丸をポケットに入れ直す。
そのまま、彼女はライフルの銃身を解体して細かくしてゆく。
ボルトを外し、大きい物から順に次々とサブバックに入れるその手際は、プロも顔負けだった。ついでにその入れる際の細かさもさすがだ。
「任務は終了で宜しいのですか?」
「ん〜、あとは華音っちの仕事さねー。学生は学生の本分をこなさなくちゃね」
「同感です。一刻も早く教室に戻らなければ、また彼が騒いでいるでしょうし」
「右京っちは静かに事を運ぶことが出来るいいコよん?」
「いいコは静かに隣りの席の女子を口説いたりしません」
典型的な委員長スタイルを貫く一房三つ編みの少女の袖には、『風紀』という文字がプリントされた腕章が付けられている。名実共に堅いのだ。外も中も。
「何か失礼なことを思考なされた気がしましたが?」
「い、いいえぇそんなこたぁないのことでございますよぉん……っ」
ギロリと睨む風紀委員から逃げるようにして階下への扉に向かう生徒会長。
ノブを回して、後ろに着いてきていないことに気が付いた女性は振り向く。
「杏露っち? どったん?」
全ての部品をサブバックに収めそれを肩に掛けた彼女は、あまり来たことのない町の景色の一点を眺めて立ち尽くしていた。
既に異質の能力を解除した彼女の視力は自分のそれよりも低い、極々普通の一般人レベルに低下した眼では、もう学園の景色など見えないはずだが。
「……斎条先輩」不意に、少女は呟く。「何故、彼が巻き込まれたのですか?」
含みを率直に質問してくる少女に、女性は「さぁ」と答える。
「ただの偶然さね。それこそ華音っちの言う『天命の徴』とやらでしょん」
そう言って先に階段を下りる姿を見送り、少女はもう一度視線を向ける。
「私は、そんな確率に表せないものは信じていないと言ったはずですが?」
そう、呟く。
女性にはもう届かない。
現に自分も、誰かに聴かせるつもりで言った気が、何故かしなかった。
ドガン!! と、宙を奔るナイフは横合いからの一撃に粉々に砕け散った。
「――っな!?」
「チッ……」
突然のことで不意を衝かれた飛鳥が尻餅を突き、魔術師は視界を巡る。
一撃を放った者は遥か彼方、恐らくこちらから視認することは不可能な距離。
狙撃。少なくとも魔術の類じゃない物理的なものだと瞬時に悟った魔術師はすぐさま体を低くする。
飛鳥に至っては何が起きたのかさえ解からなかった。視界の中心で真っ直ぐ飛んでくる銀色のナイフが、千切られるかのように粉砕されたのだ。
「なっ!?」
中ほどから真っ二つにされた金属の残骸を見ていた飛鳥は、はっと前を向く。
魔術師は既に次の行動に移している。今度は飛鳥ではなく背後に倒れるゼロめがけて、新しい札を出している。
「て、め……っ!」
急いで体を起こそうとした刹那、ふ、っと視界に影が差した。
魔術か何かが作動したのかと顔を上げた時、予想外のモノがこちらを向いていた。それは――、
「動くな!!」
銃口だった。
二つの穴が横に連なる、ショットガン。それは迷い無く飛鳥を向いていて、飛鳥は動きはおろか呼吸さえ止まった。
突きつけているのは、純白の上に幾何本の黒いラインが奔った変わった礼服を着ている集団だった。
つまり、飛鳥とゼロを数人の連中が銃を突きつけているのだ。
「……、え?」
何が起きたのか解からない飛鳥は、咄嗟に視線だけを横に流す。
先ほどまで居た外套の魔術師はそこには居ない。地面に落ちている札が、緩やかな風に攫われて飛んでゆく。
「おい、こいつ……」
「ああ、前に遭ったな。確か家に血痕と荒らした跡が有って通報してきた……」
茶髪の男と大柄な男が、英語で何かを話している。ふと気付いた飛鳥は言葉を洩らした。
「警、官……?」
それは、金曜。異質の始まりの時。
通報からすぐに駆けつけた警官も、
(――教、団!)
異質であることに今更後悔した。
第三幕 終
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2006/09/30(Sat)15:49:07 公開 / 祠堂 崇
■この作品の著作権は祠堂 崇さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
第三幕終了です。重いです(文字量が)。
なので上下で編分けします。重いですので(文字量が)。
Q.核心に向かう割に展開がちょこまかしてますがどういうことですか?
A.仕様です(強いて言うなら全体の文字量が)。
第四幕に行くにつれて、今回の事件の発端が少しずつ見えていくはずです。『はず』なのも仕様です。御免なさい。
何故ゼロは追われる身なのか?
これから飛鳥はどうなるのか?
魔術師は一体誰なのだろうか?
そして思わせぶりで出てきた面子で一人だけ登場しあぐねたフライパン男(神代飛鳥呼称)はどうなるのか?
以下・後半に続く!!
ちなみに更新速度については別に仕様ではありません。御免なさい。