- 『赤い足跡』 作者:草野那音 / ホラー ショート*2
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全角8938.5文字
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原稿用紙約27.65枚
最近、学校で不思議なことが起きている。
事の始まりは、ひとつの足跡。裏口にぽつんと一つ、裸足で踏んだような赤い足跡が残っていたのだ。その赤はどうも血を連想させる深い赤で、最初は誰もが気味悪がりもしくは面白がったが、結局それは誰かのいたずらということになって、先生達が消してしまった。
だけど、それだけでは終わらなかった。次の日も、その次の日も、そのまた次の日も、その赤い足跡は出現したのだ。毎日一つずつ、前日の足跡が右足のものだったら、その次の日は左足の足跡が、前日の足跡より一歩前進して。――つまりその足跡は一日一歩ずつ、前進している。どこかに、向かっている。
その足跡は十日もすれば階段の下までやってきた。そしてその次の日、足跡はついに階段を一段、登った。
先生達は相変わらずいたずらで済ませて、生徒達が登校してくる前にいつの間にかついている足跡を消してしまうが、 生徒達はそう思うはずもない。
どの教室でも毎日その話題で持ちきりだった。半ば本気で怖がっている生徒もいるが、ほとんどの生徒はこの奇怪な事件を楽しんでいる。生徒達は常に刺激を求めているのだ。退屈な日常を楽しくしてくれる何かを。そして今回の足跡事件は、その「何か」になりうる条件を完璧に満たしていた。
だけど、僕はそんな雰囲気に混じる気はなかった。
何か嫌な感じがするのだ。例の足跡は一度しか見たことがないが、その時、この足跡はいらずらとは違う、と思った。あの足跡からは、嫌な感じがする。
だから僕は、独自にそれを調べることにした。
僕は情報通の友達、水野洋介に頼んで、足跡についての情報を集めてもらうことにした。洋介は噂には敏感で、もしかしたらその噂の中に、足跡の正体についての重大な情報があるかもしれないと思ったからだ。
「情報収集? わかった。面白そうだからやってもいいぜ。その代わり報酬は森屋のラーメンな」
「あそこのラーメン高いんだよな……。やどかり亭にしろ」
「そう言うなって。その分働いてやるからよ」
情報収集を頼む際、そんな会話が交わされたことは秘密だ。
とにかく洋介のおかげで、少しずつ情報は集まってきた。そのうちの一つは、件の足跡のサイズが小さいということ。そして毎日一歩ずつ進んでいるその足跡の歩幅が短いということ。そのことから、僕はその足跡は女子のものだろうと仮定した。
僕は、仮にこれがいたずらだったとして、一人の女の子が裸の足に赤い絵の具を塗りつけて足跡を残している光景を思い描いた。ただそれだけなのに、僕は鳥肌が立つのを抑えられなかった。やっぱりいたずらにしては手が込んでいて、趣味が悪くて、異様だ。
僕が足跡について調べている間に、その足跡は一日一段順調に階段を登ってきて、ついにあと三段で二階にたどり着く、というところまで来た。二階――つまり三年の教室は、興奮だか好奇心だか恐怖だかよくわからない、でも明らかに高揚した雰囲気に満ちていた。
そんな中、洋介から、不可解な話が僕に流れこんできた。
「去年自主退学した、浅田雪乃って覚えてるか?」
面白い情報が入ったぞ、と言って僕に話しかけてきたのに、洋介は何故かそんなふうに話を切り出してきた。僕はそんな話が関係あるのだろうかと怪訝に思いながらも、「覚えてる」と返した。
浅田雪乃。二年の春辺りまでは同じクラスだったが、もうすぐ夏っぽくなるという時期に唐突に自主退学してしまった女の子だ。どちらかというと暗い感じの子で、あまり印象には残っていない。
「そいつ、実は自主退学じゃなくて、自殺だったらしいぜ」
予想外の話に、思わず瞠目する。クラスメイトが自殺していたというのは、驚くべきことで、同時に気味が悪いものだ。
「俺は全然気付かなかったけど、何か裏でいじめられてたらしい。相当辛かったんじゃないかな」
いじめ。そんなもの全く気付かなかった。
「で、あの足跡が最初に現れた日。それが、丁度自殺した日らしい」
思わず眉をしかめる。なるほど、そういう形で関わってくるか。そういえばこの騒動が始まったのは夏の初め頃で、浅田雪乃が自主退学――ではなく自殺したのも、一年前のこの時期だ。
黙って考え込んでいると、洋介は「ま、噂だから」と僕の肩を叩いて行ってしまった。
「噂だから」。こういう説明の出来ない奇妙なことが起きると、不安を和らげるために説明のつくような作り話が広まることがある。洋介が言いたいのはそういうことだろう。噂はあくまでも噂だ。信憑性は薄い。
でも僕はその噂は真実だろうと思った。もしそれが作り話なら浅田雪乃という実在する人物を持ち出すわけがないし、ましてや自主退学だと思っていた彼女が自殺したなんていう話になるわけがない。
――あの足跡は、浅田雪乃のものなのだろうか。
知らず首筋に寒気が走る。もしそうなら、僕の嫌な感じは当たっていたわけだ。そして足跡は、自分達に近づいてくる。ゆっくりと一歩ずつ、確実に。
そんなふうに近づいてくる浅田雪乃の姿を想像すると、僕は体が震えるのを止められなかった。
足跡は二階まで登りきり、そしてそのまま三階へは上がらずに二階の廊下に進んできた。
三年の教室はもう、色んな意味で大騒ぎだ。
本気で怯えた人々の中から欠席者が増え、その一方では足跡の行方を見届けようと色めきたっていた。僕はどちらかというと、色めきたってはいないが足跡の行方を見届ける側だった。足跡は確かに怖いが、どこに行くのか気になった。それにあの足跡が浅田雪乃のものだとしたら、僕は彼女がどこへ向かおうとしているのか知りたかった。
だけどそんな前とは少し違う雰囲気の中、僕はふと、彼女に気付いた。
クラスの中でそれほど目立つというわけではない、おとなしめの女の子――井上麻奈。
井上麻奈は足跡が現れた頃から怯えた様子を見せていた一人だ。だから僕はてっきり欠席する生徒の一人になると思っていたが、彼女は足跡がいよいよやってくるという今も、学校に来ている。
だけど怯えた様子が消えたわけではなく、井上麻奈は今も微かに肩を震わせて怯えている。
そんなに怖いなら学校に来なければ良いのに、と思いつつ、だけど僕は彼女の怯え方は異常ではないかとも思った。
よく見れば肩の震えだけでなく、足も唇も細かく震えていて、顔色も悪い。立てば歩き方さえおぼつかなくて、友達に心配されては青い顔で大丈夫、と返していた。
ただ単純に奇怪な出来事に怯えているというのにしては、怯えすぎている。それに本当に怖いなら学校に来なければいいのだ。
……もしかして、何か知っているのだろうか。ふとそんなことを思った。もしくは、浅田雪乃のことを。あの足跡の正体を知っているのなら、あんなふうに怯えたりもするだろう。
少し悩んで僕は、井上麻奈に話しかけてみることにした。とにかく聞いてみないことには始まらない。
「井上さん」
彼女はびくっと体を震わせて振り向いた。まあただでさえ怯えているし、僕はあまり彼女と話したことがないので、当然といえば当然の反応だ。
「そんなにさ、あの足跡怖いの?」
「……え?」
「いや、あんまり怯えてるみたいだから、何か知ってるのかと思って」
その一言に、彼女の目がゆっくりと見開かれた。それで僕は確信を得る。井上麻奈は絶対に何かを知っている。だから僕はかまをかけてみることにした。
「……浅田雪乃のこと、知ってるよね」
その名前が出た瞬間、彼女の顔がさらに青くなった。これはもう、確定だ。
「僕ちょっと、足跡と浅田雪乃の関係について調べてるんだ。……知ってるなら、教えてくれるかな」
一人で抱え込んでいるよりは僕に話したほうが楽になるのではと思っての言葉だったが、彼女は意外にも唇を震わせて「知らない」と言った。
「え?」
「知らない。浅田雪乃なんて知らない。私は何も、知らないからっ」
半ば吐き捨てるように叫んだ彼女は、唐突に立ち上がって教室を出て行ってしまった。それに驚いたクラスメイトがざわつき、その視線が僕にも向けられたが、呆然と立ち尽くした僕にはどうでもいいものだった。
その日、朝の教室はいつもよりざわつき、落ち着きがなかった。落ち着きが無いというよりはむしろ、興奮している。そしてそれと同時に、恐怖している。そこは興奮と恐怖が同居した、なんとも奇妙な空間だった。
「凄いぜ、拓海」
そして朝一番に話しかけてきた洋介は、興奮している側の人間だった。
「止まったんだよ」
「止まったって、何が?」
興奮している洋介の言葉は端的で困る。頬が上気しているところを見ると、かなり興奮しているらしい。
「決まってるだろ。足跡がだよ!」
足跡。その単語に眉根を寄せる。足跡が止まった。どういうことだろう。
「……詳しく頼む」
「おう。今日足跡が消される前に登校した奴の話だとな、今日の足跡はこの教室の前に二つ残ってたそうだ」
「二つ?」
「ああ。二つだ。まるで立ち止まったみたいに、両足を揃えて二つ。それがこの教室の扉の前に残ってたんだぜ! どうだ、興奮するだろ!」
僕はどちらかというと恐怖する側だった。こっちに向かっているとは思っていたが、まさかここが足跡の――おそらくは浅田雪乃の――目的地だったなんて。
だけどこれで井上麻奈が怯える理由が、憶測だが、わかった。
もし足跡の、浅田雪乃の目的が井上麻奈だとしたら?
そして井上麻奈が、それを知っているとしたら?
浅田雪乃が自分のところに向かっていると知っているなら、人事ではないから以上に怯えもするだろう。そしてそれでも浅田雪乃を迎えるために、怯えながらも、学校に来るだろう。
僕は井上麻奈を見た。今日も登校している。ひときわ怯えながら。
足跡はもうこの教室の前まで来てしまっている。浅田雪乃はすぐそこまで来ている。僕は井上麻奈が倒れてしまわないか心配だったが、この間の件から彼女には避けられてしまって、僕から話しかけるのははばかれた。
井上麻奈は小さく震えながら、耳を両手で覆っていた。
教室の興奮と恐怖を内包した奇妙な雰囲気が最高潮に達し、入学以来最高の欠席者を記録した――次の日。
足跡は、現れなかった。
教室の中に入ってくるわけでもなく、昨日と同じように両足を揃えて立ち止まっているわけでもなく、足跡それ自体が、現れなかったのだ。
足跡が現れてから数ヶ月。毎日少しずつ確実に進んできた足跡が消えるのは、初めてのことだった。
教室には拍子抜けしたような、ほっとしたような雰囲気になっていた。僕はどちらかというとほっとした側だ。足跡が消えたのには驚いたが、正直あの足跡は本気で怖い。
そして足跡は次の日も、その次の日も、一週間が経っても現れなかった。二週間もすれば教室のどこか緊迫した雰囲気は完全に緩み、誰もがあの足跡はいたずらだったんだと思うようになった。
だけど僕はそうじゃない。足跡はいたずらだったなんて思えない。これで終わりだなんて――どうしても、思えない。
だけどなかなか有益な情報が集まらず、調査が進まない僕に――ずっと僕を避けていた井上麻奈が、話しかけてきた。
「斉藤くん」
それは放課後のことだった。か細い声に振り返ると、そこには井上麻奈がいた。彼女から話しかけてきたことには驚いたが、やたら真剣な顔で「話したいことがあるの」と言われて、全て納得した。
浅田雪乃のことを、話してくれるのだろう。
僕は教室から人がいなくなるのを待って、教室の隅の机に井上麻奈と向かい合って座った。
「話したいことっていうのは、浅田雪乃のことだよね」
そう言うと、俯いていた井上麻奈は小さくこくんと頷いた。彼女は肩も唇も震わせていたが、膝の上に置いた手は強く握り締められている。
「浅田雪乃は自殺した、って聞いたんだけど……」
井上麻奈はもう一度頷き、顔を上げた。彼女の目は相変わらず恐怖が滲んでいたけれど、僕はそこに確固とした覚悟があるような気がした。例えば浅田雪乃がいつやってきても構わない、という類の決意が。
「……うん、そう。雪乃は自殺した。私が、雪乃のこと見捨てたから……」
「見捨てた?」
「うん……。私、雪乃の親友だったの」
それから井上麻奈は、ぽつりぽつりと話し始めた。雪乃とは幼なじみで、親友だったこと。高校に入ってから雪乃がいじめられ始めたこと。でも自分には助ける勇気がなく、結果雪乃を見捨ててしまったこと。そして、雪乃が自殺してしまったこと。
「あの足跡が現れたとき、すぐにあれは雪乃のだって、わかった。足跡が最初に現れた日は、雪乃が自殺した日と同じだったから……」
洋介が話してくれた噂と全く同じだ。やっぱり僕の予想通り、あの噂は真実だったわけだ。
「あの足跡が私に向かってるってことも、すぐわかった。雪乃は私のこと憎んでるもの。私が見捨てたこと、恨んでるもの……!」
井上麻奈は涙目になって、半ば血を吐くように言った。
「でも君は、浅田雪乃が来るのを、待ってたんだろ?」
井上麻奈は怯えながらも、それでも学校に来た。その理由は浅田雪乃が来るのを待っていたから、としか思えない。
「……うん。雪乃が私の所に来るなら、会いに来るなら、逃げちゃいけないと思って……」
そして浅田雪乃は来た。井上麻奈に、会いに来た。
「それで……、君は浅田雪乃に会ったのか?」
井上麻奈は、首を振った。
「教室の前に来た日からずっと覚悟してたけど、二週間経っても何も起こらなくて……私もう、気が狂いそうで……」
なるほど。それで、耐えられなくなって僕に話をしたということか。
「ただね、声が聞こえるの。この二週間、雪乃の声がずっと……」
「声? なんて?」
「……返して、って」
ゾクリ、と背筋に寒気が走った。霊に返せ、返せと囁かれるのは、気味が悪い。
「返せって、何を?」
「わからないの。私、雪乃のこと見捨てたけど、見殺しにしたけど……! 雪乃から奪ったものなんて、何も……」
――返して。
ヒュッ、と。僕の喉が鳴いた。
井上麻奈の顔が驚愕と恐怖で凍る。僕も同じようなものだ。恐怖に凍り付いて、動けない。
聞こえた。確かに聞こえた。記憶の片隅に確かに覚えている、浅田雪乃の声。今、確かに、「返して」と。
二人して凍りつき動けないでいる僕らの耳に、ひた、と微かな音が届いた。
それはひた、ひた、ひた、と、連続して、しかも近づいてくる――足音。
井上麻奈が震えている。きっと僕も震えているだろう。
来る――浅田雪乃が、井上麻奈に、復讐をするために、やってくる。近づいてくる!
返してよ。
足音と共に、全ての音が消え去ったこの空間を支配する、浅田雪乃の声。
ねえ、返して。
井上麻奈がゆっくりと振り返る。表情を恐怖に凍らせながら、それでも。
井上麻奈の背後にあるのは、教室の扉だ。開け放ったままの、浅田雪乃が近づいてくる、扉だ。
そして井上麻奈が振り返ったその瞬間、僕は見た。さっきまでなかったはずの赤い足跡が、扉から井上麻奈の背後まで続いているのを。
そして。
井上麻奈の肩にばさりとかかった、長い黒髪。
昔の優しい親友を、返してよ!!
井上麻奈の肩を指が食い込まんばかりに掴み、長い黒髪を振り乱し憎悪で歪んだ顔で井上麻奈を覗き込む、浅田雪乃の姿――。
井上麻奈の絶叫が、響き渡った。
そして僕の意識はブツン、と途絶える。
気付けばセピア色の世界にいた。
微かな笑い声が聞こえる。目を上げれば二人の女の子が並んで歩いていた。学校の帰り道なのだろう。手を繋いで、楽しそうに。
その二人は、少し幼かったが確かに井上麻奈と浅田雪乃だった。
幼なじみで親友だったというのは本当だったんだな、とぼんやり思う。
――私が、雪乃のこと守ってあげるから。
ふと、井上麻奈がそんなことを言った。それに浅田雪乃は泣き笑いのような顔をして、うん、と頷いた。
嗚呼、と思った。浅田雪乃はその言葉を信じたのだろう。だから、井上麻奈に見捨てられて、裏切られて、いじめよりもそれが辛くて、自殺した。
そして霊となって、井上麻奈に復讐をするため、やってきた。自分があんな発言をしたことすら忘れてしまっている、親友に。あんな傲慢で身勝手な言葉のせいで今恐怖しているということを知らない、親友に。
不意に二人の姿が掻き消え、場面が変わる。
相変わらずセピア色の、教室だ。その中心に浅田雪乃が倒れこんでいて、それを数人の男女が囲んでいる。すでに暴力を振るわれたのか、頬には殴られたあとがあり、唇は切れて血を流していた。その様子があまりに痛々しく、僕は思わず目を逸らした。
ふとその時、教室の前を横切ろうとする人影があった。すぐにわかった。井上麻奈だ。
彼女は顔を俯かせて足早に去ろうとしていた。でもどうしても気になってしまったのか、一瞬教室の中に目を向ける。その時、その一瞬、浅田雪乃と目が合った。一瞬だったが、それでも確かに井上麻奈と浅田雪乃の目が合った。井上麻奈は浅田雪乃の助けを求める目を見て――、それでも彼女は目を逸らせて、去ってしまった。
その時の雪乃の絶望的な瞳を、僕は忘れられそうにない。去ってしまった井上麻奈は見ていないのだろう。知らないのだろう。浅田雪乃の絶望を。
でも僕は見てしまった。浅田雪乃の絶望を、見てしまった。井上麻奈は裏切ったのだ。浅田雪乃との友情を、浅田雪乃が寄せていた信頼を。
それは、酷い絶望だった。
また、場面が変わる。今度は外だった。女子のリーダー格が、その手下と共に浅田雪乃をどこかの倉庫に閉じ込めている所だった。
汚い倉庫に放り込まれて、外から鍵と閉められ閉じ込められる。浅田雪乃はすぐに扉を叩いて助けを求めるが、外にはもう誰もいない。
鉄扉を叩く音と、出して、出して、と叫ぶ声が暗い倉庫に響く。その絶望に染まった声に、僕は思わず目を硬く瞑り、両手で耳を覆った。
僕は浅田雪乃の記憶を見ている。見せられている。怖い。酷く、怖い。
耳を覆っていても音は微かに聞こえてくる。叫びは徐々に弱々しくなり、すすり泣きも混じっていたが、それでも小さく、聞こえてくる。
出して、ここから出して、助けて、誰か助けて、誰か、誰か、助けてよ、助けて、麻奈、麻奈、助けて、麻奈……。
ハッと気付くと、僕は教室に戻っていた。もうセピア色ではない、現実の教室だ。
だけど目の前に座っていたはずの井上麻奈の姿がなかった。扉から井上麻奈の背後まで続いていた足跡も、ない。
だけどそこで夢だったのかと思うほど、僕は馬鹿じゃない。井上麻奈は浅田雪乃に恨まれていた。そして僕が記憶の世界に飛ばされる前に、井上麻奈は浅田雪乃に、捕まった。
井上麻奈が、危ない。
「井上さん」
僕は駆け出した。
思い出した?
暗闇の中に、すすり泣く声が染みていく。
麻奈はあのとき、私のこと守ってくれるって、言ったじゃない。
「……ごめんなさい」
私、その言葉をずっと信じてたのよ。どれだけいじめられても、麻奈がきっと気付いてくれる、最後には助けてくれるって、ずっと信じてたのよ。
「ごめんなさい」
それなのに麻奈は、私のこと見捨てたよね。私のこと、裏切ったよね。
「ごめんなさい」
麻奈、私の絶望を知らないでしょ。私の絶望を、見て見ぬふりしたでしょ。私にはもう、麻奈しかいなかったのに……。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
どうして謝るのよ。私が死んでせいせいしたんでしょ。いじめられっこの親友なんて嫌だものね。私を助ける気なんてなかったんでしょ。うわべだけの言葉で親友面してただけなんでしょ。ねえ、そうなんでしょ。
「ごめんなさい……雪乃……」
どうしてよ。私に悪いなんて思ってないんでしょ。そうじゃないの? どうして、どうしてよ。どうして謝るのよ。
「雪乃……私……」
何でよ。何で謝るのよ。何で……
「私は……」
何で最後まで憎み切らせてくれないのよ!!
学校中を走り回って探したが、井上麻奈はどこにもいなかった。
焦る思考の中、ふと浅田雪乃の記憶を思い出す。最後に閉じ込められていた、あの倉庫。あの倉庫は確か校庭の隅にある、今はもうほとんど使われていない、ほぼ物置と化した倉庫だ。あそこかもしれない。
僕は校庭に飛び出し、倉庫に向かった。その倉庫は物置と化しているため、もう鍵はかかっていない。僕は走った勢いをそのままに、倉庫の扉を開いた。
最初に感じたのは、倉庫のかび臭い匂いだった。そして僕は、床に倒れている井上麻奈に気づいた。その床はほとんど隙間無いほどの赤い足跡に埋まり、真っ赤になっていた。
「井上さん!」
慌てて駆け寄り抱き起こす。見たところ目立った外傷はない。息もしている。頬を軽く叩くと、彼女はすぐに目を開けた。
「井上さん、大丈夫?」
井上麻奈はしばし僕をぼぉっと見つめたあと、唐突に涙を溢れさせて泣き出した。ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返して、ずっと。
それを見ても僕は。彼女が狂ったとは思わなかった。
浅田雪乃は、井上麻奈を殺さなかった。いつでも殺すことができたのにも関わらず、だ。
憎んでいても、恨んでいても、かつては親友だったのだ。それに井上麻奈は、浅田雪乃を思っていなかったわけではないのだから。浅田雪乃を見捨てたことを、裏切ったことを後悔し、心の底から申し訳ないと思っていたのだから。
――そうじゃなかったら、近づいて来る浅田雪乃に怯えながらも、それを待っていることなんて、出来ない。
そんな井上麻奈の苦悩に触れた浅田雪乃は、殺せなかったんだろうと、僕はそう思った。
そして井上麻奈は泣いている。浅田雪乃が自分を殺さなかった――つまり許してくれたことを知り、泣いている。
僕は泣き続ける井上麻奈の背をそっと撫でてやった。
ごめんなさい、の言葉が胸に染みた。
end
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■作者からのメッセージ
学校祭で作ることになった映画の脚本ネタです。
元は友達が作った話なので、怖がりの私はビビリながら書いてました。