- 『優しい腕』 作者:間宮渡 / リアル・現代 未分類
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全角6251.5文字
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原稿用紙約21.85枚
そうでなければ陽炎か、と思った。
うららかな春の昼下がり。
心地良い風に靡くカーテンの隙間から、古めいた時計塔が見え隠れしている。
はっきりと見えないものほど、もどかしいものはない。頬杖をつきながら、俺は創立時からある唯一の建物だというその時計塔を、ぼんやりと眺めていた。
そうしたら、見えたのだ。……人影のようなものが。
「高木」
すぐ横から、声が降ってきた。頬杖を外して首をめぐらせると、呆れ顔の先生と目が合った。
「さっきから、何を熱心に見ているんだ?」
「ああ、授業中にすみません。……時計塔の上に、人影のようなものが見えたものですから」
「人影?」
「ええ。陽炎かもしれませんが」
「……どうせ篠山あたりだろう」
怪訝そうにカーテンを開けて時計塔に目を向けた先生が、苦々しく吐き捨てた。
篠山――このクラスに在籍している篠山怜の存在は、今やタブー視されている。
名家の血縁者で、その財力をもって――つまり無試験で入学したのだという噂があちこちで囁かれているのを、耳にしたことがある。それはあくまでも噂だが、しかしそうでもなければ、いくら私立高といえども、一度も授業を受けずに進級などできないだろう。
そんな奴とは係わり合いになりたくない、というのが皆の本音に違いない。まさしく、触らぬ神に祟りなしの精神だ。
俺はちらりと、隣の机を見た。その机の主である彼は今日も、姿を見せてはいない。……しかし、ここは全寮制なのだ。たとえ授業から逃げ出せても、学校という檻の中からは逃れられないという事実を、彼は知っているのだろうか……。
「ああ……本当に、人だったのか」
時計塔の最上部へと続く、狭く埃っぽい階段の途中。開けられたままらしい扉の向こうに人影を認めて、俺は呟いた。逆光だが、間違いはないだろう。
「篠山怜さん、ですね?」
階段を上りきったところで、尋ねる。すぐに、まるでテレビドラマに出てくる刑事のような言い方ではないかと後悔したが、彼がそれを気にした様子はまったくなかった。
だらしなく、けれども一応は制服を纏って手摺りに腰掛けている彼は、俺を見て数回瞬いた。そして首をわずかに傾けてから、唇の端を歪めた。幼いのか、それともふてぶてしいのか、よくわからない態度だ。
「……だれ?」
「きみのクラスメートだよ」
「ふぅん」
大して興味もなさそうに、その視線が逸らされる。
――言葉はすべて、意味をなさない。
瞬時に、そう判断した。
どうしてここにきたのだとか、どうして自分の名前を知っているのだとか。そんなことは一切、彼は訊かなかった。俺もまた、何も言わなかった。
ただ、グラウンドで部活動に励んでいるらしい生徒たちの声だけが、どこか遠くで聞こえていた。
それは、なにも不思議なことではなかったのだ。
それから自然と、俺は毎日のように時計塔へ足を運ぶようになった。
もしかしたらそれしか服を持っていないのかもしれない。いつもくたびれた制服を着ている彼は、必ずそこにいるとは限らなかったが、いてもいなくても大差はない。俺たちは、一切干渉をし合わなかった。
彼は大抵手摺りに座ったまま、あるときには適当なメロディーを口ずさみ、またあるときには空を見上げながら怪獣の絵を描いていた。
いつから切っていないのか、肩口まである髪を、風に靡かせながら。
彼は――自由だ。
少なくとも俺には、そう見えた。
何に翻弄されることもなく。
誰も、何も受け入れず……かといって拒まず。
ある日の休み時間、廊下で、ばったり彼と出会った。さすがに、呼び出されでもしたのだろうか? だとしても彼がおとなしく参上するとは思えないのだが……。
「やあ」
片手を挙げて声をかけると、彼はきょとんと瞬いた。俺が誰なのか、わからなかったようだ。
「今日は時計塔に来る?」
そう尋ねると、ようやくわかったらしい。今度はにこりと笑った。
「気が向いたらね」
「そう」
俺もにやりと笑い返す。彼が俺の顔を覚えていなかったことが、ショックではなかったと言えば嘘になる。しかしそれ以上に、あくまでも自由な彼が羨ましいと思った。
「……ああ、そうだ」
ふいに、彼は尋ねた。
「二年一組の教室って、どこ?」
それは、俺と――彼の在籍するクラスだ。
「どうかしたの?」
「一度授業を受けろって言われた」
「で、受けるんだ」
「一応」
「ふぅん。……教室ならこっちだよ」
妙な感じだ。
彼が授業を受けている。教科書も、ペンの一本すら持たず、話を聞いているのかさえ怪しいが……こうして座席に座っているだけでも奇跡的なことだろう。
黒板の公式をノートに写しながら、どうしても隣の彼に目を向けてしまう。
……それは他のクラスメートたちも同様らしい。さっきから、何度クラスメートたちと意図せずに目を合わせていることか。
当の彼は、無表情のまま頬杖をついていた。時折、だるそうに欠伸をしながら。
「では……」
問題を黒板に書き終えた先生――彼はこのクラスの担任だ――が、こちらに向き直った。
「この問題を篠山」
――え?
一瞬のうちに、教室中がざわめきに包まれた。よりによって……彼を指名するとは。
視線が一層、彼に集まる。みんな、彼がどう反応するのかを、期待しているのだ。
それを知ってか知らずか、彼は目を細めた。
「やだ。面倒臭い」
取り付く島がない、とはまさにこのことだ。
幾人かが失笑をもらしたが、しかし、先生は引き下がらなかった。引き下がるわけにはいかなかったのだろう。
「いいから、解いてみろ」
問答は、しばらく続いた。
――勝ったのは先生だった。
「しょうがないな……」
言い合うのも面倒になったのか、肩を竦めて、彼が立ち上がる。ところが、すぐ黒板には向かわず、何故か問題を解き終わってペンを置いた俺を――正確には、俺のノートを見た。
「な、何?」
「ありがと」
にこりと笑って、ようやく黒板に向かった彼は、お世辞にも上手いとは言えない字で答えを書きなぐった。
「これでいい?」
「あ、ああ。正解だ」
まさか正解するとは思っていなかったらしい先生やクラスメートたちは、一様に驚きを隠せない様子で、座席に戻る彼を目で追った。……しかし、俺にはわかっていた。
彼は俺のノートに書いてあった答えを覚えて、写しただけなのだと。
「きみも暇なんだね」
その放課後。いつものように時計塔の上。
欠伸をしたために目じりに浮かんだ涙を拭いつつ、彼は今更そんなことを言った。
「そうだね。奨学生としてはこんなところで油を売ってちゃいけないんだろうけど、俺には早く帰ってせっせと勉学に勤しむ趣味も、必要もないからね」
俺が嘯くと、彼は首を傾げた。
「しょうがくせい?」
「ああ。この学校では、成績がいい生徒にはお金を出してくれるんだよ。……上位5人、だったかな?」
「ふぅん。頭いいんだ」
きみもその気になればできるのだろうに。そう思ったが、口には出さなかった。やる気のない者には何を言っても無駄だ。きっと、苦痛にしかならないだろう。
(もしかしたら、過去に何かあったのかもしれないな……)
ふと、そんな予感がした。
担任から彼についての情報を聞き出すのは簡単だった。
担任も、この問題生徒を持て余していたのだろう。……もしかしたら、責任を誰かに押し付けたかったのかもしれない。
俺はただ、篠山の力になりたいんですと言えばよかった。
それだけで、担任はまるで引継ぎをするかのように、彼に関することを色々と教えてくれた。
――そう、色々と。
はじめは、純粋な興味だった。
ただ、彼の人格が自然と形成されたのかどうかを、知りたかっただけなのだ。
だから――決して彼が幼いころ、両親の死亡した現場に立ち会ったなどという事実を知りたかったわけでは、なかった。
夢を見た。
その中で、俺はまだ小さな子供だった。
薄暗い室内――おそらくダイニングルームで、わずかにかがみこんだ母が、片手で俺の手を取る。もう片方の手には――ぎらりと光る包丁が。
『さあ、行きましょう』
『どこへ?』
『とってもいいところよ』
『おかあさんも一緒?』
『もちろんよ。だから行きましょうね』
『うん。行く』
こくりと、俺が頷いた時だった。
『馬鹿な真似はよせ!』
怒鳴りながら部屋に飛び込んできた父が、母の手から包丁を奪おうとした。
母は抗い、その包丁の先が、父の身体に吸い込まれて。
甲高い悲鳴をあげながら、母はすぐに包丁を引き抜いた。
俺の視界が、赤く染まる。
……すべては、ほんの一瞬の出来事だった。
(違う。夢じゃ……ない)
上体を起こし、俺はせわしない鼓動をなんとか抑えようと、胸に手を当てて深呼吸を繰り返した。
冷えた汗が気持ち悪い。
「くっ……」
あの日、父は母に殺された。
そして母もまた、父に殺された。
精神の崩壊した母は、罪には問われなかった。……けれど、一切の思考を放棄した。
今もまるで人形のように、ただそこに存在し続けているだけ。それは、死と何が違うというのだろう。
この世に脳死というものがあるのなら、心の死があってもいいはずだ。
少なくとも俺はそう、思う。
……彼の両親は、今から十年前、彼の目の前で飛び降り自殺をしたのだという。
原因は、知りたくなかったし、担任も何も言わなかったから知らない。
元から活発なタイプではなかったらしい彼は心神喪失状態で、両親の遺体と共に発見された。そうでなければ、いくら両親とはいえ、血で全身を汚しながら死体の側にうずくまっていることなどできないに違いない。
しばらく経って――名家だという噂の、父方の家に引き取られたときには、彼はすでに地に足のついていない、今のような状態だったのだと聞いた。
置き去りにされた子供。
きっと彼の心はその日に、両親と共に死んでしまったのだ。けれど、肉体はまだ生きている。――いや、生かされている、と言うべきか。
母と、同じように。
「ねぇ……リストカットってしたことある?」
雲ひとつない空の下。
およそそんな爽やかさには不似合いなことを、唐突に訊いてみた。
手摺りに腰掛けて足をぶらぶらとさせながら不思議な歌を歌っていた彼が、旋律を途切れさせて首を傾げる。
「なにそれ」
「手首をこう、切っちゃうんだよ。カッターとかで」
「痛そう……。死ぬの?」
「そんなに簡単には死なないよ。余程深く切らないと、ちょっと血が出るくらいかな」
「ふぅん。……したことなんてないよ」
そんなことをして、何が面白いのだろう、という表情だ。
「俺もしたことないけど、あれって死にたいからするんじゃないんだよね、きっと」
「…………」
「自分を傷つけて傷つけて……自分が生きていることを、自分や周りの人に教えたいからするんだよ」
本当に死にたい人間は、もっと確実な方法を選ぶ。他に方法を知らない子供ならともかく、まずそんなことはしないだろう。
「変なの」
眉を不快げに寄せて、彼は吐き捨てた。
俺は少し笑った。
「人間は馬鹿なんだよ」
そう言うと、彼は首を横に振った。
「違う。きみがだよ」
「俺? ……ああ、こんな話をするから?」
今度はこっくりと頷く。
「よくわからない」
「そう? 俺は結構、きみのことがわかってきたけど」
「ふぅん」
「――きみはもう、死んでいるんだね」
あえて彼の目は見ずに言った。
彼はぶらぶらさせていた足の動きをぴたりと止めた。
「…………」
「ごめんね。勝手に少し、調べさせてもらったよ。……十年前、きみは両親が死ぬのを目撃している」
「うん」
他人事のように、彼は頷いた。
「その日のことを、覚えている?」
「……おかあさんは、一緒に来なさいって言った。おとうさんは、来るなって言った。まだお前の番じゃないって。僕はどうしたらいいかわからなくなって……だから、じっとしてた」
「そしてきみは今も、ずっとこの手摺りに座って待っているんだね? 誰かがきみの番だよって言って、押してくれるのを」
彼は一瞬、きょとんとした。けれどすぐに、小さく頷いた。
「僕の番は……まだなのかな」
呟いた彼の声は、あまりにも幼くて痛々しかった。
置いていかれた者の痛みは、置いていかれた者にしかわからない。
「俺はね、きみはこの学校っていう檻の中でだけ自由だと思っていたんだ。……でも、違ったんだね。きみは最初から檻の外にいたんだ。なのにこんなところにいたのは、もう、すべてがどうでもよかったからだろう?」
彼にとっては、世界すら、もはやなんの意味もなかったのだ。つまりは授業を受けようが受けまいが、息をしようがすまいが、すべて同じことだったのだ。
「……もう、いいんだよ」
無意識のうちに、俺はそう口走っていた。
「え?」
わずかに見開かれた彼の目に、一瞬、希望にも似た光が宿った。
「待っていなくったっていいんだ。……きみの番かどうかを決めるのはきみだよ。両親のもとへ行きたいのなら、そこから飛び降りればいい」
「行っても……いい?」
「俺は死にたがっている人間を無理やり生かすほど優しくも、残酷でもないよ。――俺の手を、貸そうか?」
その行為が殺人と呼ばれるものだとわかっていながら、俺は言った。もしここで彼を突き落としたことが発覚すれば罰されて、俺の経歴には傷がつくだろう。
――だけどそれが、なんだというのだ。
生きている限り、人はあらゆる束縛を受ける。
常識、法律……そんなものに縛られているのは人間だけだ。
しかし誰も、そんなことには気づかずに通り過ぎていってしまうのだろう――きっと。
「ありがとう……」
ゆっくりと首を横に振って、俺に向けられた硝子玉のような目が、柔らかく細められた。
「きみはやっぱりよくわからない。……でも、優しい」
それは俺がはじめて見る、彼の人間らしい姿であり、しかし彼らしくない姿であった。
きっとそれは、彼の心の、最後のひとかけらだったのだろう。
「ばいばい」
迷いは微塵も感じられなかった。
ゆっくりと、まるでスローモーション映像のように、彼の体が後ろへと倒れていく。
両手が、空を包み込むように大きく広げられる。……まるで十字架を象るように。
そうして、夕焼けに染まりゆく空だけを見つめる彼の目は、どこまでも穏やかで。
――綺麗だった。
彼の体は明らかに落ちていくのに、俺には彼が、昇っていくように見えた。
空へ。
――空へ。
この世界に繋ぎ止められていた身体が解放されて、離れていた心と身体が、ようやくひとつになる。
そして彼は、本当にあるべき姿を手に入れた。
彼と俺は、とてもよく似ていた。
けれど、違った。
心を手放した彼と、手放さなかった俺。
どちらが正しかったのかなど、わからない。――ましてや、どちらが幸せなのか、など。
鐘が鳴る。
家へ帰ることをすすめるその鐘を意識して聞いたことはなかったが、なぜか今は、それがひどく重苦しく聞こえた。
狭くて暗い階段を下りる。その途中で、俺は自分が泣いていることに気がついた。
薄闇に吸い込まれていくその涙は、しかし彼の死を悼むものではなく、置いていかれた自分を悲しんでの涙なのだった。
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■作者からのメッセージ
はじめまして。間宮渡です。
この作品を書いたのは、実は3、4年前……。
少しでも、何か心に残るものを書きたい、と思っています。
どうぞよろしくお願いいたします。