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『消える――その前に……』 作者:茂吉 / ミステリ リアル・現代
全角24632.5文字
容量49265 bytes
原稿用紙約69.35枚
廃校となった榊原小学校付近で立て続けに子供達が失踪する事件が起きた。始めの女子中学生の失踪から既に一ヶ月が経とうとしていたが、捜査は一向に進まない…。そんな折に失踪した家族からの依頼を受け一人の青年探偵がその地に訪れた。青年の名前は服部晶、ただの若い平凡な探偵と思われているが、彼には不思議なパートナーと不思議な力を持った人物だった。
プロローグ

 夏とはいえもうとっくに陽は落ち、辺りが星の瞬き以外すっぽりと闇に包みこまれた刻に、少女は行く宛てを無くしたかのようにとぼとぼと道を歩いていた。
時々、その少女の歩く道路に存在意義を思い出させるかのように車が通り掛かり、ヘッドライトで少女を照らして通過していくことがあったのだが、そのごくごく僅かな時間以外は道路のすぐ側にあるあぜ道と田んぼから蛙やら虫やらの大合唱が聞こえてくる位で、辺りには少女以外人の気配は全く無いようだった。

 ジジジ……

 少女が歩く先にある約40メートル間隔で道路を照らしている電灯には、この時間の貴重な光につられて蛾や蝉を始めとした昆虫が大量に群がっていた。彼らは我先にと何度も何度も電灯に体当たりを繰り返しては感電し、焼け焦げる音を出しては力無く電灯の麓に死骸として転げ落ちていく。
暗闇が辺りを支配してからずっと虫たちは本能のままにその行為を繰り返していたのだろう、電灯の下に彼らの本能の悲劇がもたらした死骸がうず高く積もっていた。
 しかし、少女は何かしら考え事をしていたのだろうか――その光の輪の中に入っても頭上で繰り広げられる本能の狂乱も、足元に転がる死骸の山にも全く意に介さない様子だった。
 電灯の光に照らされた少女の表情は、怒りを通り越した後の悲哀を浮かべており、一文字に結ばれた口が何かに対する悔しさの色を滲ませている。目じりが下がり気味で愛らしくおっとりとした可愛らしい顔立ちなのだろうが、右の頬は叩かれたように赤く、瞼は先ほどまで泣いていたのだろう、赤く腫れ上がっていた。
 そして少女のその瞳は、怒りと悲しみを秘めて遠くを見つめていた。
 豚の絵柄がワンポイントとして描かれた白を基調としたTシャツと赤いハーフパンツ。寝巻きとも、学校の体育の折に着る体操着ともとれるような服装に、つっかけのサンダル履き。少女の両の手は手ぶらで、ジャージのポケットには何か入っているような膨らみは見え無い。少女は、まさしく着の身着のままの格好で飛び出してきたようだった。

 ふと少女は自分の履くサンダルにまとわりつくグチャグチャとした異常な感触に気が付き、慌てて自分の足元を覗き込んだ。当然足元には本能との激闘で朽ち果てた大量の虫達の死骸が、一部少女に踏み散らされ潰され引きずられた様子で転がっている。
「――!!」
 そこで少女は、その事実に初めて気が付いたかのように鋭く息を呑み飛びずさると、慌てたように辺りを見回し、頭上で織り成す虫達の狂宴を発見するやいなや、その場から逃れるように足早で光の輪から再び暗闇の続く道へと抜け出した。

 うえー……気持ち悪い……。なんで私あんな虫の群れに気が付かなかったんだろう。

 少女の瞳が意思を持って先ほど居た電灯に向けられ、それに伴ってやっと現状を確認したのだろう。少女はサンダルの裏側をアスファルトに何度も擦り付けながら、不快感と後悔をふんだんに盛り込んだため息をたっぷりと洩らした。
 暫くしてようやく落ち着いた少女は、サンダルの裏についた虫の死骸を全てなんとか削ぎ落とすと、自分が歩くアスファルトでしっかり舗装された道路とその周辺に広がる田んぼをゆっくりと見回した。家を飛び出してからゆっくりと周りを振り返るのは今が初めてだった。
 ここからだと目をこらしても自分の住む家の明かりは見えなくなっていたが、地区としてはぎりぎり同じである山川おばあちゃんの家の明かりが灯っていることが確認できた。田舎の特権で一軒一軒の土地が広く、家屋のほとんどが密集する事無くまばらに建っている為、視界に映る中でその明かりが無ければ全てが暗闇に飲み込まれてしまいそうだった。
 山川おばあちゃんが起きているって事はまだ時間はそんなに経ってないのかな?確かいつも21時位には寝ているっておばあちゃん言っていたし――少女はそう思いながら何も入ってないように見えるポケットから何かを取り出そうとごそごそと手を入れた。しかし、やはりそこに彼女にとって馴染みの有る大切な物が無かったらしく「あっ」と短く声を洩らした。
 しまった……携帯、家に置いてきちゃった……
 少女は、「自分が携帯を持っていない理由が何故だかわからない」というような表情をしていたのだが、よくよく自分が家を飛び出す前の行動を思い出すと、携帯の在り処も思い出し、がっくりと肩を落とした。
 それにしても、暇な時で有ろうと無かろうと気が付けば携帯を取り出してはいじっている少女にとって、携帯電話を家のテーブルに置き忘れてきたのは最大の誤算だった。常に肌身離さず持っているからと、有って当然の気分になって油断していたのだろうか。
 少女の瞳が先ほどせっかく落ち着きを取り戻したように思えたのに、再びせわしなくキョロキョロと動き出した。
 しばらく外で頭冷やして、そのあと明日香の家に連絡して泊めてもらおうと思ったのに。やっちゃったー。お金も全く持って無いし。どうしよう……
 少女は10円ぐらい入っていないものかとポケットをまさぐったのだが、出てくるのは布切れのカスだけで希望のものは何も出て来なかった。
 ならばせめて、と道端に硬貨が落ちていることを期待して暗闇のなかを数歩凝視してみたのだが、暗闇の中赤褐色の銅貨を探すのは言うまでも無く難しく、少女の一生懸命の捜索は草むらと砂利の中に空き缶を4つ、パチンコ玉を2個発見しただで、目当てのものは発見されること無く徒労に終わってしまった。

 まぁ、待て。落ち着いて考えよう――少女は、普段あるものが無い違和感からか落ち着きを無くしたようにせわしなく動き出した右手を左手でしっかり抱きかかえて、ゆっくりと深呼吸し気持ちを落ち着かせようとした。
 しかし、一呼吸置いても自らが考えていた予定の変更を余儀なくされた少女の表情は、あきらかに落胆していた。あれだけ啖呵を切って勢いよく飛び出してきたのも、昔の気心の知れた友人に迎えにきてもらって一泊させてもらい、絶対今日一日は家に帰ってやるものかと親に当て付けるつもりだったからだ。しかし、このままだとその「絶対一日は帰らない」と絶対まで付けた誓いをいともあっさり崩し、すごすごと家に帰らなければいけない事になってしまう。
 嫌だ。あんなわからず屋の父親の居る家なんて携帯取りに行くだけでも戻りたくない。
 いつものように毎日迎える、夕食時の家族での団欒のはずだった。そのいつものルーチンワークのはずが……何故今自分がこんなことになって、何故こんな苦労させられているのか――少女はその原因となった出来事を思い、改めて怒りがふつふつと沸いてきた。
「そうよ、全部お父さんが悪いんだ。人の気持ちのわからない最低人間」
 少女の怒りを押し殺した声が、誰にも聞かれること無く暗闇に吸い込まれた。
「なんで、私だけじゃなくて私の友達を会った事も無いのに非難するのさ……ちょっと、四日市の方にみんなで服とか見に行くのに必要だったからなのに……あのわからずや! 私が悪い事したからって勝手にみんなの性格まで決め付けて、勝手に悪い子だと思い込んで、これ以上付き合ったら駄目だって……何様のつもりよ!」
 溜まりに溜まっていたのだろう――怒りの感情が一気に喉までせり上がるのを感じた少女は、抑える事など必要が無いとばかりにまるで火山の噴火のように勢い良く、一気に父親への不満をまくしたてた。
「そりゃ、中学に入ってからお小遣い全然足りなくなってお母さんのお財布からちょっと貰っちゃったかもしれないけど、仕方が無いじゃない。私だって悪いとは思っているわよ。でも、うちらのグループはみんなで仲良くお出かけしているのに、自分だけ「お金が無い」って理由で行かなかったら、どれだけ恥ずかしいか、どれだけ情けないか、どれだけ惨めな気持ちになるか……。それにみんなに遠慮させちゃったり、迷惑だってかけるかも知れないじゃない! 本当に何も解ってないんだ。お父さんは……自分は人付き合いが大変とか言ってるくせに、私の気持ちも人付き合いもまるで理解してないじゃない! みんな凄くいい子で、凄く優しくて凄く楽しいのに……何も、何も解ってないくせに悪いように揚げ足とって否定するな! 私たちの事何も知らないくせに偉そうなことばっかり言って信じられない!」
 少女は今日の夕食の折、父親に友人との遊びの為に犯した行動を厳しく諭され口論になったのだった。
 事の発端は母親の財布から少女がお金を抜き取って、昨日四日市に遊びに行ったことが両親に発覚してしまったからである。
 小遣い3000円で毎月をすごしている少女は、新しく出来た友人達との付き合いを始めてから、ここ最近毎週のようにお金を使ってしまい完全に遣り繰りが出来なくなっていた。そして、遊ぶ金欲しさからだろうか、苦し紛れのこの行為を何度も繰り返してしまっていたのだが、遂に気付いた両親に泳がされ、問い詰められて発覚したのだった。
 父親の説教に少女も始めは冷や汗を流し、萎縮し反省し素直に聞いていたのだが、少女の父親が交友関係にも口を出すようになってきたところで少女の態度が一変した。
 先程まで大人しく、ちゃんと言うことを聞いていたはずの娘の豹変に父親は一時唖然としたのだが、突如反抗的になった娘の態度により一層逆上し厳しい言葉を投げつけ激しく叱った。少女も友人の事では譲るわけには行かないとばかりに激しく言い返し、父親の事を激しく罵り返した。すると父親は鬼の形相で椅子から立ち上がると娘の側に近づき、娘の頬を平手で激しく「パン」と、一発叩いたのだった。
 一瞬の沈黙の後、叩かれた少女は食事の場から立ち上がると涙目のまま、振り向きもせず家を飛び出したのだ。

「――大人ってのはみんなそう。偉そうに私たちのこと何も知らないのに勝手に決め付けて説教ばかり。そんな人たちのこと誰が信じられるものか! 腹立つ」
 夜の闇はひたすら続く少女の怒りの言葉全てを吸い込んでいる。
 すぅっと夏場の熱気とは違う冷ややかな風が、少女の肩までかかった髪の毛を軽く撫でたが、少女は暗闇という自分の主張を一方的に聞き流してくれる空間に怒りをぶつけることに夢中で気が付かなかった。

 オ  イ デ ……

「え…?」
 突然、声が聞こえたような気がして、少女は怒りの言葉を止め慌てて辺りを見回した。
 ザワリと一瞬で体感温度が低くなり全身に鳥肌が立つ。
 しかし何も無いことが分かると体は熱を取り戻し、逆に夏の纏わりつく湿気と生ぬるい風でじわじわと汗ばんできた。
 暫くの間、カエルや虫の鳴き声がやたらと大きく聞こえる中、少女は何度か耳を澄ましたり辺りを見回してみたりしたが、結局それ以降は声らしいものが何も聞こえ無い事を確認しほっと肩を下ろした。自分自身のどくん、どくんと激しく波打つ心臓の音だけが異様に大きく聞こえてきただけだった。
「げ、幻聴よねー、さすがに。なに私? 怒りすぎて神経過敏になったのかなー?」
 少女は急に暗闇に居ることに対する恐怖を覚えたのか、わざと自分以外にも聞こえるように空々しく大きな声をだした――が、その声もまた先程までと同じように等しく闇の中に吸い込まれていくだけだった。
 ……何故自分は今まで平気でこんな電灯も殆ど無い夜道を歩けていたのだろう?
 わからなくなった。急速に一度感じた恐怖感がジワジワと少女の心を蝕んできた。
 どこか明かりのついている場所に行かなきゃ。
 近くにある民家の光でもいいし、自動販売機の光でもいいから何か明るい場所を見つけてそこに行かなければいけない――と半ば脅迫めいた観念を持った少女が助けを求めるように辺りを見回すと、榊原町で唯一営業している商店「地蔵屋」(現時刻は閉店して店前の自動販売機だけが煌々と光を灯している)から少し離れ見上げた場所に、照明で明るく照らされた大きな白い建造物がある事に気が付いた。
「あれ?……小学校?」
 少女の目に飛び込んできた明かりの灯いているその建物は、少女が歩く県道143号線から小道に入り3区の集落を抜けた先の急な坂道を登った場所に在る、少女の卒業の時に隣町にある栗葉小学校との合併が決まり廃校となった三重県津市立榊原小学校だった。
 その2年前に廃校になったはずの榊原小学校の校庭にあるライトが一際明るく点灯しており、消灯を済まし眠りについた民家が多い中、一種異様な感じでそびえ立っていたのだ。
 間違いないあれは榊原小学校だ!……でもなんで明かりが?
 見間違いでは無い確信と、疑問とが少女の身体の中を駆け抜けた。
 しかし、少女にとって今は疑問より明かりがついていることが重要だった。まだ何かしらの行事で小学校を使っているのかもしれないと軽く考えられもしたからだ。
「もし知り合いのおじさんとかに見つかったら厄介だけど、小学校でちょっと頭冷やしてから……というか父さんが寝そうな時間まで潰してひっそりと家に戻ればいいよね」
 明かりがあるという安堵感が恐怖感を駆逐していく。
 少女は軽くなった足取りで煌々と明かりが灯る小学校に足を向ける事にした。

 マ ッテ ルヨ……

 冷たい風に紛れて、またあの声のようなものが少女の近くに流れ込んだが、少女の耳には届かずそのまま闇に流れていき……吸い込まれていった。



 あれ?こんなに小学校って綺麗だったかな?
 少女は小学校の近くの坂を登っていると、目の前に映るコンクリート造りの建物がなんだか妙なことに気が付いた。
 視覚に入ってきた榊原小学校は少女の記憶にある古いコンクリート造りの白というには汚れた建物――では無く、まるで建て直したかのような真新しさや清潔さを感じる白さを持った綺麗な姿を見せていたのだった。
 校庭に入ると眩しいほどの照明で照らされたグラウンドに人影は何も無かった。
 校舎とは反対側にある遊具施設にも人影は無かった……が、2年間で随分と茂っているだろうと思っていた草花は綺麗に刈られており、見た感じ今でも十分遊具で遊べるだろうという気がした。
 そして改めて正面から小学校を見直すと……職員室であろう場所に明かりが点いており、そのまま視線を右にずらしていくと見える駐車場の方には数台の車が停まっていた。どうやら何かしら人は居るのであろう。
 それを確認した少女は安心したように大きく頷くと、あまり人にも発見はされたくなかったので遊具施設の方へと足早に向かうと、二つ並んだ鉄棒とうんていの間にある半分地面に埋まった形をしているタイヤ遊具にゆっくりと腰を降ろした。
 ここなら正面玄関から人が出てきてもすぐ後ろに生えているイチョウの木の後ろに隠れることができるしね。
 少女はそう思いながら一人ニコニコ顔で久しぶりに見る廃校となった母校を見回した。
 校庭の運動場は田舎の小学校だけあって土で出来ている上に大きい。榊原町民全てが参加していた町民運動会等のイベントもこのグラウンドで進行されていたくらいだから自慢のグラウンドであったに違いない。
 校舎側の斜面は綺麗に芝生が植えてあり、見る目も緑で温かった。芝生は、隅々まで手入れが行き届いているのが良くわかった。多くの生徒がこの芝生の上を斜め走りしては職員室の窓から先生に怒鳴られたものだった。
 少女の座るタイヤ遊具辺りにはイチョウの木が5本植えてあり、幹も太く堂々と育っている。秋にはこれらの木が与えてくれる銀杏を拾って茶碗蒸の具にしてもらうのが楽しみだった。
 体育の授業中に、銀杏を取りに来ていた近くの家のおばちゃんが飛んでいったボールを拾って投げ返してくれた事もあったっけ。その投げ返してくれたボールがあまりにもアグレッシブな速さだったので先生が「うわっ」と、ボールを受けそこなった時は皆で先生をからかったりした事を思い出した。
 上り棒や滑り台、木の遊具…今の少女が見るとその自慢のグラウンドも記憶の時より小さくなっているように見えるが、ここで自分が力いっぱい遊んでいたという記憶が鮮やかに蘇って来る。
 ここの校庭で休み時間男子に混ざってみんなでドッジボールやっていたんだよね。
 少女は校庭に男子達が爪先で描いた微妙に線のずれているコートの中で、男女問わず激しくボールをぶつけ合った競技の事を思い出した。津市内の小学校6年生が集まって競い合った連合運動会で自分達の小学校が唯一優勝したのもこのドッジボールだった。
 クラスメートは1クラスで27人と他の小学校と比べてはるかに少なかったけど、それが逆にコートを広々と使えて避けるのに有利に働いて優勝に導かれた記憶が残っている。
「河合君が必殺オニオンボール!とかいって破壊力抜群のボールを投げては相手をばったばったとなぎ倒していたよね」
 少女の目にはグラウンドで勢い良く右手をしならせながらボールを投げ込んでいた河合君の姿が浮かんだ。スポーツ刈りのいかにもガキ大将というような容姿だ。
 しかし、今思うと河合君の「オニオンボール」って必殺技名ってセンス悪いし、恥ずかしいよね。あの時はみんな「オニオンボール」を真似しようとみんなで投げる練習までしていたけど……本当子供だったな――少女はクスリと笑った。
 そうそう、今座っているタイヤ遊具の周りに6年生の時女子で集まって、その時からマセていた明日香の大好き先生トークや漫画の話やアニメの話とかも一生懸命話していたよね。みんながみんな自分の話に夢中で殆んど人の話を聞いてなかったような気もしたりするけど、全然気にならなかったし楽しかったな。
 少女は同級生の小学校時代おかっぱ頭だった明日香という少女が熱っぽく3年生の時の担任だった稲垣先生の話をしている姿を思い出していた。今でも久しぶりに話をすると恋に恋する乙女パワー全快トークの明日香だけど、そういえば昔からこんなんだったな。そう思い出すと少女は少し苦笑いした。

 小学校の時は何もかもが楽しかったというような、たくさんの思い出が甦った。
 例え色眼鏡が少し付いていたとしても、それでも心から笑っていた時間がいっぱいあって、元気な自分が居たのは間違いが無かった。
 チョークやワックスの匂いがいっぱいする教室や廊下を、大きく息を吸い込みながら走り廻っては教頭先生に見つかって男子共々怒られたり、クラスメートが欠席して余った給食の牛乳を手に入れようと、我先にと自分の牛乳を一気飲みしようとした男子が牛気管に入れてしまい「ブハーッ」と思いっきり吐き出したのを見て大笑いしたり――みんながみんなイキイキとして楽しんでいた。最高に楽しかった。

 それなのに……今は、今の私はなんなのだろう。

 思考が思い出から現実に戻される。
 引き戻されて改めて痛感する過去と現在の自分の乖離。
 そういえば父さんと言い合いや喧嘩なんて小学校の時には一度もしたことが無かった。
 明日香の家にお泊まりに行くときも笑顔で送り出してくれたし、友達の話やその日の出来事も楽しそうに聞いていてくれていた。
 今のような気難しい父親ではなく、笑顔の優しい父親が居たのを思い出した。
だけど、中学に入ってからは明日香とはクラスが離れ離れになり、新しく仲良くしているみんなのことを私が父さんに話をすることも無くなり、気が付けば当り触り無い会話を日々繰り返していただけのような気もする。
 私が変わり、親も変わったんだ……少女は感じた。

 そして、話が同じ事の繰り返しになって、秘密や嘘も増えた。
 6月始めにグループのみんなの誘いで近くの男子高校生達と遊んだとき、少女はその高校生の一人にいきなり抱きつかれ、びっくりして怖くなって泣き出した事があった。しかしその出来事が、せっかく和やかだった場の雰囲気を悪くした最悪の行為だったとグループの少女達に慰めてもらうどころか強く責められ、危うく仲間外れにされそうになったのだ。
 少女が取った行動は思春期に入ったばかりの人間には当然の反応だった。しかし、その反応が少女の入っているグループの少女達にしてみれば「遅れている」行動にみえて格好悪く、情けなく映ったのだ。そして自分達が格好良いと思った行動を少女取れなかったのが許せなかったのだ。そして腹立たしく思ったのだろう。……理不尽な話である。
 その結果少女は、結局悪い事をしたわけでもないのにグループの少女達に平謝りして、今後泣いたりしないと約束して許してもらった。
 普段同じ事を右に習えでやるだけで新鮮で楽しく優しかった周りの反応が、まるで氷のように冷たくなったのが少女の心を怯えさせた。なにより、せっかく中学に入って出来た友達を失ってしまうのが怖かったのもあった。

 その日の夜、少女は何も食べるものがノドを通らず、父親も母親も心配したのだが何も言わずに部屋に篭って泣いた。
急に男に抱きつかれた恐怖も、優しく仲良くしてくれていた仲間達が慰めるどころか酷く冷たい目をして少女を睨んでいた恐怖も……誰にも言えず苦しくなって――ただ泣いた。

 それ以来、少女はその恐怖心を味わいたくない一心でグループに嫌われないように行動した。次の日にはグループのみんなは優しく楽しい、いつもの姿に戻っていた。しかしそれが、彼女達の言うことを聞いている間だけだということを少女は感じ取ってしまった。
 そして、その事実に逆らうことが出来ず、ただ嫌われないように言うことを聞き、付き合いを良くしなければならないのだという強迫観念となった少女は、付き合いで足りなくなったお金の為に母の財布に手を出すことを繰り返し……今回の両親に発覚するまでの間続けてしまっていたのだ。
 もしかしたら少女には、その強迫観念を続けなければ友人が居なくなるどころか「もっと酷いこと」があるような確信があったのかもしれない。

 しかし今自分の犯してしまった行動は、思い出にある小学校時代の自分からは全く想像ができないものだった。
 ほんの少しの間だったのにまるで別人のようだ――少女は思った。
活発で、男子とケンカしたりボールを思いっきりぶつけたりして大暴れしていたはずの自分はどこに行ってしまったのだろう。
 寝ているうちに身体から小学生の自分の人格が誰かに持っていかれ、新しく引っ込み思案になった臆病な人格が身体に入れられたような感じだった。そうとしか思えなかった。

「結局はお父さんの言う通りかもしれないね……」
ポタリと大粒の涙が地面に落ちた。
 見ると少女の顔は後悔と反省の念で顔がくしゃくしゃになっていた。
 父親の言った事を私が認めたくなかった。本当は自分も気が付いている事だけど、思いたく無かっただけだったんだ。あの時心の中で感じた警鐘を認めたくなかったんだ。見ないようにして逃げていた事を言われたから、腹が立っただけだったんだ。

 でもね――肩を震わせた少女の目から大量の涙が零れ落ちる。
 でもね……私は、私はね……
「このまま、あの子達と仲良くやっていくしかないのよ!」
 気が付いていても少女の答えはそれしかなかった。たとえ、父親の言い分を認めても戻ることは出来ない――と、幼い考えの中で苦しみ悩んで、一人で出した結論だった。
 自分自身が勇気を出したところで何も変わらないだろう。むしろ、手のひらを返したように冷たい態度を取る仲間達に酷い目に合わされるかもしれない。それなら頑張って、より酷い結果が待っているよりも自分が我慢すれば良い――そう少女は考えたのだ。
 ただ私が我慢すれば良い。
 頬をとめどなく伝う涙が己の孤立感、無力感を滲ませていた。

 でも出来る事なら――少女は切実に思った。

 小学校時代の自分に帰りたい……と。
 あの頃の、自分に戻りたい……と。

「まぁ、そんな都合のいいことなんて無いんだけどね」
 暫くの間、涙の流れるままに居た少女は、軽く自分に言い聞かせるように呟いた後、タイヤ遊具から腰を起こし、「うーん」とゆっくりと伸びをした。
 あーあ、いっぱい泣いちゃったよ。こんなに泣いたの久しぶりだな、情けないけどスッキリした。……それにしてもボタボタポタポタといっぱい涙こぼしちゃったね、もしかして運動場の土が涙で水溜りになっているかも。
 まぁ……そんな事はないけどね、と苦笑いしながら少女は足元を覗いて見た。
 あれ?――そこで少女は不思議な事に気が付いた。足元の土に大量に染みているはずの涙の跡が無かったのだ。運動場の黄土色の土は水分を何も含んでいないように乾いており、染み一つ無かった。
 え、これは――どうして?
 急にまたザワリと全身に鳥肌が立った。
 空気が一瞬にして冷たくなる。
 一息殺して、少女は考え込んだ。
 シーンとした静寂の時間が訪れる。
 そして……今自分の居る環境があまりにも奇妙で不自然なことに気が付いてしまった。
 不自然な点は3つあった。それは気が付けばあまりにも不自然で――背筋がゾッと凍りつき、冷や汗が動悸とともにジワリと溢れ出した。

 まず、不自然な静寂――そういえばあんなに五月蝿く聞こえていたはずのカエルや虫の声が、耳を澄ましても一切聞こえてこないのだ。まるで異空間に迷い込んだかのように静まり返る無音の世界なのは何故?
 そして、グラウンド全体を眩しいほど照らしている照明――そう、あれほど眩しいまでに周囲を照らしているライトなのに――なのに!
 なんで虫が一匹も周りを飛んでいないの?
 少女の頭の中に先程の道中で電灯に群がる虫の群れが浮かんだ。そう、ただでさえ田舎で昆虫の類の多い場所なのに、そのうえ小学校の裏には山があってたくさん虫が出るはずなのに、あんなに明るい照明の周りを虫が全く群がっていないのはなんで?
 最後に――小学校。
 そう、榊原小学校。この不自然なまでに白く綺麗な小学校。
 ここに来た時に何故思い出さなかったのだろう、聞いたことがあったんだった――少女は以前聞いた話を思い出し、顔面蒼白になった。
 そう……この榊原小学校は今年の9月に取り壊しが決まったとお母さんから聞いたんだった!
 こんなに白いはずが無いんだ! こんなに綺麗なはずが無いんだ! だって――この小学校は……この小学校は、再来月には壊されるんだもん!
「どう……なってるの?」
 独白した声も自分の心臓の音もやけに遠くから聞こえるような気がした。
 寒い……少女は思った。
 急激に襲ってきた恐怖に足が竦み、身体が動かない。ただ目だけがまっすぐに開かれ前を見ることを許されるように機能するだけだった。

 ア リガ ト  ウ

 針を刺したような痛みが額に走り少女は一瞬目を閉じた。
 そして同時に少女の頭の中に、幼くたどたどしい子供の声が響きわたった。
 額の痛みはすぐに引き、目の自由はすぐに戻ってきたが、頭に響いた子供の声に全身から冷たい汗が流れ、気持ちが掻き乱れる。ガクガクと足が震えた。
 しかし、少女は気が付けば、「開けてはいけない」という本能的な命令を無視するかのように、きつく閉じていたはずの目を自分でも分からないうちに恐る恐る開けてしまった。

 目を開けた先には、どこから現れたのか――白い着物を来た、おかっぱ頭の小さな女の子がぼうっと立って少女を見つめていた。女の子の腕や、首、顔といった着物から露出した部分はまるでこの世の者では無いように暗く青白く、少女を見つめる瞳は真っ暗で何もかも吸い込む暗闇のそれと似ている。
「――っ!」
 声にならない悲鳴が駆け抜け、少女はこれ以上ないくらい目を見開いて硬直した。
 身体は精神の「立っている」という命令を実行できなくなり力がするりと抜け、腰が情けなく地面に落ちて動けなくなった。
 ただ見開かれた瞳だけは恐怖と拒絶をもって、着物の女の子を見据えていた。
 しかし、女の子はその拒絶に気が付かないように、腰を抜かしている少女に近づくと、少し腰を屈めて改めて少女の瞳を見つめた。黒い虚空の中に吸い込まれそうな気分になった。

 アリガトウ

 ふいにまた頭の中にたどたどしい子供の声が響いた。
「あ、ありがとう……?」
 少女が恐る恐る聞き返すと、女の子はにっこりと目を閉じて頷いた。
 オモッテクレテアリガトウ
「え?」
 ガッコウヲ、オモッテクレテアリガトウ……ヤマシタナミチャン
 女の子は倒れている少女にすっと手を差し伸べた。
 サア、イキマショウ。センセイモマッテルヨ
「あ……」
 女の子に名前を呼ばれた少女は、何かに操られるように直ぐに女の子の手を握った。
 その途端、急速に少女の目がトロンと虚ろになり、まるで操り人形のようにカクンと身体が傾く。
 サア、イキマショウ……ナミチャン。モウ、シンパイシナイデイイカラネ……
 モウ、ツライオモイモシナクテイイカラネ……
 女の子は少女の手をしっかりと握り締め、ゆっくりゆっくりと校庭の方へ歩き出した。
 同じように、虚ろな瞳の少女もたどたどしい足取りで女の子と一緒に歩き出す。
 そして、二人は手を繋いだまま校庭の真中までゆっくりと歩くと――突然、サァッと霧のように消えてしまった。

 オモッテクレテアリガトウ、タイセツニスルカラネ……ナミチャン。

 女の子と少女が霞のように消えた後、すぐに暗闇と喧騒の世界が戻ってきた。
 急に思い出したのかそれとも世界が変わったのか、五月蝿すぎるほど耳障りなカエル達の合奏がザワザワと響いている。
 周りを見れば生えるに任せ伸びすぎた雑草が、広いグラウンドをびっちりと埋め尽くすように生い茂り、その背の高い雑草の先に白とはとても言えないような薄汚れた小学校の姿が、暗闇の中浮かんでいた。
 最後に、夏の空気が思い出したように流れ込み先程の空気をすべて綺麗に押し流し――自然な夏の夜を運んできた。

 生ぬるい――じっとりと纏わりつくような夏の空気だった。



 1.
 服部探偵事務所は名古屋駅南口から直線で徒歩4.5分のところにある「カニエビルヂング」という大変古めかしい雑居ビルの3Fに拠点を構えていた。道を挟んだ正面には駅裏でも有数の立派なビル群が立ち並ぶだけに、カニエビルの外観はより一層汚く見え、何故いまだに雑居ビルとして機能しているのか判らない位である。
 一階の手前にある郵便受けを抜け、狭い通路の奥に見えるビル管理室の手前のエレベーターを使って3Fに昇ると、降りた右手前にいきなり「服部探偵事務所」の看板と、ドアノブのついた扉が目に入る。こんなボロビルにあるのだから、ついた埃もそのままな看板かと思いきや、しっかりと毎日手入れをしているのだろう、埃はほとんどついておらず白地に大きな黒文字で書かれた堂々たるものだった。
 じりじりと蒸し暑い廊下は薄暗い照明が照らしているだけで人影も無く、静まり返った空間に時折外の車の喧騒が入ってくるだけだった。そのままぐるりと3階を見回したところ、このビルは一階につき一店舗の配置らしく奥を見ると急な階段とトイレが目に入っただけで他の事業所は見当たらないようだった。
 急な階段の下を覗いてみると、2階には薄暗い照明さえ灯いておらず、つきあたりの窓から入る光だけが薄っすらと入っているだけのようだ。恐らく借りている業者が居ないのか、潰れたのか……そんな処なのだろう。外の喧騒に比べてこのビル内は活気も、人の出入りもほとんど感じさせない――時間に取り残されたような一種レトロな感覚を呼び覚まされる。
 
 そんなビル内にある、この服部探偵事務所の扉の先を見ると――8月真昼の殺人的なまでのじりじりとした暑さに、強風にした扇風機一機で対抗しようと挑み、今まさに敗戦を迎えようとしている、20代前半であろう青年の姿が目に入ってきた。
 リサイクルショップで購入したらしき、安物のオフィスデスクにぐったりと突っ伏しているその青年の右手には屈服寸前の証か、エアコンのリモコンが握りしめらており、スイッチを押そうか押すまいかという心の葛藤からか小刻みにフルフルと震えている。
 黒のスラックスに同じく黒い半袖のカッターシャツ、ノーネクタイでシャツの第一ボタンをはずしたというラフな着こなしだが、夏服とは言えその全身黒でまとめた衣装は、見た目かなり暑苦しい。
 青年の目元辺りまで伸びている髪は、今や滲み出る汗でぴっちりと額にくっついており、顎のラインが綺麗に整った端正な顔立ちも、まとわりつく湿気と止まらない汗にたまらないとの不快感を示していた。
 部屋の気温は、ほぼ外気と変わらない37℃。今年一番の暑さだろうか。
 青年がいくら扇風機を強風にしていても、この暑さでは逆に熱風機の役割として務めを果たしてしまうようで――じめじめとした空気が、外気など比較にならないほど強烈に青年の周りに纏わりついては体力を奪っていた。また、悲惨なことにうっかり先週出し忘れた生ごみが、暑さによって腐敗が進み、物凄い臭いとなってそれはもう大変不愉快に探偵事務所内を満たしていた。
 次の生ごみ収集の日は木曜日……3日後だ。それまでこの臭いと、どこから沸いたかわからない小バエ達と一緒かよ、失敗した。長いな――青年は深いため息をついた。
「母さん……俺、もうこの空気限界。今度こそエアコンつけても良いよね? ね?」
 突然、青年は強風でガーガ―と五月蝿く音を立てている扇風機の近くに、まるで人が居るかのように自然な態度で話し掛けた。
 しかし、探偵事務所には目に見える限り青年一人しか居ない。勿論その場所には誰も居るようには見えない。何かが居るという気配も感じない。傍から見ると青年の猫なで声は誰も居ない空間に投げかけられ、そしてそのまま虚しく消えたようにみえる。
 だが別段青年は、空想癖がある人物ではない。そこには青年には見えている――常人には見えなくても、ある能力を有する人物なら見ることができるであろう――若い女性が、腰に手を当て、「困ったものだ」というような表情で、安物の机にへばり付いてぐったりとしている青年を見つめていたのだった。
『まーだダメよ。私があれだけ注意したゴミ出しの約束を守らなかった罰です! それに、今月は仕事もほとんど入ってなくて、お金も危なくなってきているでしょ。電気代の節約の為にお客さんが来るまで絶対に我慢しなさい! あーもう! 服部家の皆様にあれだけしっかり教育された家の子がまさか、こーんなに生活がだらしなくなって、こーんなに金銭感覚が薄くなっちゃうなんて……本当、お母さん悲しいわ。そもそも……』
 弱音を吐くのを待っていましたとばかりにぐったりとした青年に向かって、くどくどと身振り手振りの説教を始めたその女性は、見た感じ青年とそう年齢が変わらないように見えた。
 ほっそりとした華奢な身体と、黒髪のロングヘアー。青年と同じように顎のライン整った清楚な顔立ち。そこにセルフレームの眼鏡が少し大きめの目と非常にバランス良くぴったりと当てはまっている、美人というより可愛らしいという形容の方が相応しい感じの優しそうな女性だ。
 しかし、夏場のはずだというのに不自然な冬場の白いコートにマタニティドレス。そして女性の体がうっすらと透けている事実が、彼女は既にこの世の者として存在をしていないことを暗に物語っていた。
「母さん、わかったから! もう許してよ。 反省してますって。確かにゴミ出しは本当に失敗したと思ってる。でもね、母さんには分からないかも知れないけど、こんなに悪臭が漂ううえにどこから来たのか分からない小バエがうようよ湧いている事務所なんて、精神衛生上良くないと言うか……お客さんが、もし今きたとしたら営業する以前の問題になると思わない?せめて冷房を入れて空気を引き締めてさ、悪臭を防ぎつつ気合も一新! って感じにしたほうが良いって絶対。ね? お願いしますってば!」
 青年は、「母さん」と呼ぶその若い女性の延々と続きそうな方向性の変わった説教を止めるように大きく声を出し、哀願するように両手を女性の方に合わせると、瞳を潤ませながら必死にエアコンの使用許可を求めた。
 水を飲もうとするたび、コップの中に気が付けば小バエがダイブしては浮かび、結局飲みかけのまま流しに捨てさせられる作業を繰り返すのはもうたくさんだ。せめて今より少しでも涼しければ、小バエ共も大人しくなるだろうし悪臭も抑えられるだろう――何度もエアコンをつけては女性に問答無用で消され、悶絶していた青年の必死のお願いだった。
『……仕方がないわねぇ、まぁ確かにこのままだと色々業務に支障があるわよね。それじゃあ、もう一回聞くけど、これからはお母さんの言うことちゃんと聞くって約束できる? ちゃんと約束したら許可してあげるわよ……そうね、まずは部屋の掃除を涼しくなったらやってもらおうかしら?』
 青年の必死の願いが通じたのか、はたまた初めからこの約束をさせるつもりだったのか――女性は大きな目を悪戯っ子のように「くりん」とさせると青年に近づき、指切りをするように立てた小指を向けた。
「はい! します、します! 約束します。じゃあエアコンつけていいんだね? お母さんありがとう!」
 青年はガタンと半身を起こし元気良く返事をすると、女性の差し出した小指に自分の小指を絡ませしっかりと指切りをした。そして、すぐさまエアコンのスイッチを入れる。
 「ガァー」と機械音が唸ると共に、少し埃くさいような臭いが流れ、その後ひんやりとした心地よい冷気が機械口から流れ出してきた。
 ああ涼しい……湿度も暑さもサヨナラだ、これでやっと動けるようになる――暫く心地よい冷風に身を晒して涼んでいた青年は、満足そうに微笑むと女性との約束を果たすために、これまたリサイクルショップで購入した安物の椅子を軋ませながら立ち上がった。
 涼んでいた青年が、その後ちゃんと立ち上がったのを見て女性も満足そうに微笑んだ。
『はい! 宜しい。やっぱり晶はしっかりした子よね。じゃあ約束通り部屋の掃除を頑張ってね。そうそう、給湯室の生ゴミの山には殺虫剤を使って小バエ駆除。絶対やらなきゃダメよ。このまま放っておいたら、どんどん腐って小バエどころか羽の生えた恐ろしい黒い悪魔がカサカサと現れちゃうかも知れないんだから』
「はいはーい、了解」
 青年は生返事を返すと、とりあえず水を飲もうと冷蔵庫に入っている1.5リットルのペットボトルに入っている軟水の天然水「ガルヴィック」を取り出すとコップになみなみと注いだ。
『あ、そうそう』
 給湯室で勢い良く水を飲む青年の背中に、女性は思い出したように声をかけた。
『今日ね、久しぶりに仲谷さんから電話が入りそうよ』
 青年はその言葉に水を飲むのを一旦止め、懐かしい名前を聞いたな、と相好を崩した。

 服部晶。それが、服部探偵事務所を開業している若き探偵の名前だ。
 彼は高校卒業後、とある人物の勧めで興信所のアルバイトを始めた。約4年ほど興信所で、所長からの探偵としての厳しい指導をしっかりと守り、地道に働いていたのだが――昨年そこから彼は一人独立し名古屋市内のボロビルとはいえ、それなりに立地条件の良い場所に探偵事務所を構えたのだった。
 彼の4年間の興信所での業務成績は、総合的に見ると格別に優秀という訳ではなかったが、特に悪いという訳でもなかった――まさしく普通という言葉が一番当てはまるような目立たない成績だったようである。紙面上で見る彼には何も特別な個性を感じさせるものはない。
 だが晶は、稀に何か異常とも思えるほど冴え渡った力を発揮する事があり、同僚達に「神が降臨した」と揶揄されるほどの仕事振りを発揮する事があった。しかし、その解決は概してペットの失踪事件や子供の家出のような安易な依頼であり、それ故に同僚たちに時々思い出したように扱われるだけで特に印象に残らなかったという。
 そのような仕事振りをみると、例え異常に冴え渡った仕事振りが偶にあったとしても、普段は平凡な成績で――しかも23歳という若さで独立開業など普通に考えると夢のまた夢のように見える。
 しかし、彼は今実際に独立し、なんとかご飯が食べていけるほどの生活を送っているのである。
 それはいったい何故なのだろうか?
 そこには、同僚たちは知らない――所長や数少ない関係者だけが知っている服部晶という人物の秘密があった。
 それは先程の女性との会話のような出来事を至極当たり前に出来る能力。
 普通の人には見たり聞いたりすることの出来ないモノを、見る事も出来れば聞くことも出来る能力――そう、晶は俗に言う「霊感」という不思議な力を持っているのだ。
 しかも、霊感を持つ者は一般的に「視覚」「聴覚」の二覚のみを持ち、使いこなしているのだが、晶はそれに加え「嗅覚」「味覚」「触覚」を持つ――即ち五感全てを見えざるものに対しても使いこなす事が出来るという類稀な能力を持っているのであった。
 この世には存在しないものに対して話すことも、触る事も出来る力。
 過去、興信所で出した手柄は、この能力を上手く使い解決への手がかりを得る事が出来た故のものだったのだ。
 しかし、確かに晶の能力は大変凄いもののように見えるのではあるが、実際はこの能力自体がダイレクトに事件の即時解決に繋がる……という事が殆ど無いのも事実であった。
 それは何故かと言うと、結局世界が違えども晶の能力はただの通行人、もしくはちょっとお節介をしに来た見知らぬお兄さんという――「あかの他人」そのものなのである。
 霊を見付けたからといって、晶の能力はその霊に対する五感を働かせるだけで終わってしまうのだ。
 漫画や小説にあるような、霊や意識の残ったものに触れれば犯行現場のイメージが見えるわけでは無ければ、当然犯人の顔が見えるわけでもない、空想の便利且つ超実践的な能力とは程遠い地味なものなのだ。
 しかも、もし殺されてしまったという哀れな霊に偶然出会えた場合、大抵の霊が死の直前の恐怖で凝り固まった意識だけ残っているという狂った状態であり、会話をする事など殆ど出来ない事が多く全く情報が入らないどころか、逆に晶自体がその強烈な思念に囚われそうになるという危険な状態になる事が多い。その為、現在晶は、母さんと呼ぶ女性にそういった危険な霊に接触する事を厳しく禁じられているのだった。
 結局、見えて、臭いを嗅げて、話せて(聞けて)、触れて、そしていつ使えるかは分からないけれど……味が分かる――というだけなのである。

 だが、それでも何も見えない普通のスタートラインの人々に比べたら遥かに有利な場合が多く、得る情報(被害者の衣服の特定等)も多い。あとは足を使って地道な作業を継続すれば自ずと結果が見えてくるのは必定だろう。そして肝心の晶の仕事振りは、所長の言う探偵の心構えをしっかりと守り、足を多く使い、地道な聞き込みや張り込み作業も嫌な顔せずにしっかりとこなしていた。
 そして5年目の春、生まれ持った能力の事を知り、それを使って普通の成績であっても、その真面目な働きを評価したのであろうか――所長は「もう独立させるのに十分だろう」と、晶を所員全員の前に呼び出すと彼を探偵として独立させる旨を宣言した。
 そのあまりにも突然の宣言に所員どころか晶まで驚いたものの、そのまま勢いで送別会が開かれ、彼は興信所からめでたく送り出されたのであった。
 


「おー、晶か? 久しぶりだなー。生きてるかー?」
 仲谷重徳から晶の携帯に電話が入ったのは、その日の夕暮れ時であった。
 既に部屋の片付けは終わりの段階に差し掛かっており、「これを終わらせれば任務終了」と決めた最後の山場である書類の整頓を始めてから少し経った頃――そろそろエンジンが掛かり始めて来たかな、というある意味都合の悪い時に掛かって来たのだ。
「あ、どうもしげさん! 本当にお久しぶりです。ちゃんと生きてますよー」
 もう少し後に掛けてきてくれたら、もっと良かったのに――晶は、少し残念そうにビニールテープで纏めた書類を机に置き直したが、重徳にはそれを微塵も感じさせない、嬉しさをたっぷりと含んだ元気な声で返事を返した。
 晶は、テーブルの向こうから「仲谷さんでしょ?」という顔をしてこちらを見ていた女性に向かって、左手の親指と人差し指で丸印を作ると、机の椅子を引きキィと軋ませながら座った。
 興味津々といった表情で、先程まで晶に部屋の掃除を熱心に指導していた女性も近づいてくる。
「そうか、そうか、お前の場合死んどってもホンマに返事しそうやから心配になるんやわ。ちゃんと元気にやっとるようなら何よりだわ。母ちゃんも元気にまだおるんか?」
 受話器の向こうでガハハと笑う声がした。変わらない関西訛りと独特の笑い声に晶の頬が思わず弛む。
「いやいや、俺の場合は死んだら返事できませんって、たぶん。まぁ、近くにそうで無い人が居ますから自信はありませんが……その母さんは元気にしていますよ。今も後ろでにやにやしながら俺達の話聞いていますから」
 実際晶が後ろを振り返ると、爽やかに手を振りながらこちらを見ている女性が目に入った。「にやにやどころか手を振っていました……」と、現状を呆れた口調で添える。
「はぁー、相変らず仲良いこって。そろそろ歳も近づいてきてるってのにねえ。羨ましいというか、なんというか……」
「仲が良い親子と言う事で宜しくお願いします」
 晶の言葉に、女性も「その通り」と頷く。
「はいはい」
 半ば呆れたような重徳の声が携帯から聞こえる。そして、少し沈黙があった後に、重徳はハタと思い出したように晶に話し掛けた。
「あ、そうそう所長に聞いてたんだが、お前独立したんだってな? おめでとう」
「えー今更ですか! もう1年以上前の話ですよ、それ。現役警察官としては情報遅すぎません? というか、しげさんなら流石に去年の間に一度は来てくれると思っていたのですけど?」
 晶はわざと語尾を伸ばし、重徳をなじるように言った。それは、彼にとって重徳は、数少ない本当に大切な知人の一人だったからである。
 重徳は、声を聞く限りでは若々しく聞こえるが、実際はもう40歳になるだろうかというベテランの域に入った警察官だ。
 彼は、初めて家族以外で晶という人間の全てを認めてくれた人物であり、かなり歳の差が離れているが良き友人であり、父のような存在として信頼されている人物である。
 その彼が晶と知り合ったのは、もう10年以上前になるだろうか――愛知県で発生した女子高校生殺害事件の時だった。

 当時その地域の駐在勤務だった重徳が、自転車に乗って聞き込み捜査を行っている折に、少年だった晶に呼び止められたのだ。
 当時舌足らずな口調で一生懸命に自分の目に見えた事を話し、山中を指差した晶を――「気味が悪い事ばかり言う少年がいる」と町で噂になっていたにも関わらず――重徳はバカにせずにしっかりと聞き、最後の目撃情報に程近い川べりを探すだけではなく、山中ももっと探すべきだと上司に進言したのだ。
 そして己も山中の捜索に加わったところ――被害者の女子高生は、山中でもとりわけ傾斜の険しい場所の杉の木群に引っかかった状態で無残な絞殺体として発見されたのだった。
 そして後日、遺体発見現場にあった証拠品を基に、現場付近を良く知る人物が捜査線上に浮かび上がり逮捕されるに至った。
 こうして犯人が逮捕され、無事この事件が収束を向かえた折に重徳は、晶の元を訪れると優しく「お前のおかげでお姉ちゃんは見つかったぜ。ありがとな」と、感謝の言葉を掛け――嬉しそうに瞳を輝かせている晶の頭をクシャクシャと勢いよく撫でたのだった。重徳の大きな手が離れると、晶の髪の毛は撫でられていた所だけ強風が吹いたかのように大きく逆立っていた。それでも晶は、そのクシャクシャの髪の毛を直そうともせずに照れ笑いを浮かべながら誇らしげに立っていたのだった。

 晶はその出来事を今でも昨日の事のように覚えていた。
 あの時初めて家族以外の人間に気味悪がられず、それどころか信じてもらえたという喜びでいっぱいだった。
 重徳が自分を必要としてくれて、役にまで立つ事が出来た――あの時の嬉しい気持ちは、今でも軽い高揚感とともに甦ってくる。
 自分にとって最高の思い出は何か?――と聞かれたなら、間違いなく自分はこの場面を答えるだろう、晶にはそんな確信があった。
 そんな大切な友人である重徳が、幾ら忙しいとは言え自分が独立して以来、今まで電話も来店も無かった事を、晶は少々寂しく感じていたのだった。
「う……それは、すまんかった」
 重徳も気にしていたのか、痛いところを突かれたというように、申し訳なさそうに声が曇る。
 その詰まった声に、晶は重徳の素直な感情が見えた気がして、ふと一時浮かんだ寂しさの感情で重徳をなじった事を後悔した。
 しげさんにはしげさんの忙しかった理由があったのに、自分の感情だけ出してしまうのは、やってはいけない事だった。
 晶は、普段人間関係で徹底して気を付けていた事を、思わず湧き出した感情でうっかり破ってしまったのだ。
「冗談ですよ。しげさんが忙しいのは分かっていますから。気にしないで下さい。」
 慌てて取り繕うように、努めて晶は明るく言った。
「コラコラコラ! お前はいつから俺にまで探偵商売するようになったんだ? 感情抑えてまで人の気持ちに媚び売る必要は無いって、何度言ったら分かるんだよ。本当、昔からその辺変わらないな……少なくとも俺には、そんな事するなって前にも言わなかったか?俺は気を使われる覚えは無いし、使う必要も無い。わかったな?」
「ちょっとちょっと、挨拶来なかった人が逆に説教しないで下さいよー」
 しかし、その晶の微妙な空気をすぐに察した重徳に、逆に厳しくやり込められる。
 しげさんは本当変わらないな――前にも同じ事で、面と向かって怒られた事を思い出し晶は逆に嬉しくなって、舌をぺロっと出した。
「わかったか? わからなかったか?」
 携帯の向こうでカリカリした声が問い詰める。
「はいはい! わかりました。わかりました。気をつけますって」
 同じだ。本当に、しつこい位同じだ。晶の遠慮した気持ちをとことん否定し、「お前は他人に遠慮せず、もっと自分が考えた行動するべきだ」と力強く励ましてくれた重徳だ。
 晶は、こみ上げてくる笑いを抑えきれずにクスクスと洩らしながら返答した。携帯の向こうから、「それなら良し」と満足そうな声が返ってきた。
「やっぱりしげさんは全然変わりませんね。安心しました」
「当たり前だろう。たかが一年話さなかったくらいでガキじゃあるまいし、立派な大人がおいそれと性格変わってたまるかってんだ。ま、俺の人格が変わるとしたら、宝くじで3億円当たった時か、ワイドショーで根掘り葉掘りいらん事まで調べられて全人格否定される容疑者になってしまった時くらいなもんだな」
 後述で変わるのは自分もまっぴらだ、と晶も思った。
 重徳は昔から根っからのワイドショー嫌いだった。
(逮捕されたからと言って、その人物はまだ、あくまで「容疑者」なんだ。それを奴ら、正義の代弁者で有るかのように勝手に断罪し、いかにも生真面目な顔をして、一般人の代表みたいな善人面を振舞いながら不安を煽るだけ煽った挙句、実に成りもしない上から見た理想論のご高説を垂れまくっている。お前ら個人の感想会聞いているんじゃねえよって感じだ。挙句の果てには、容疑者の過去の出来事や犯罪を暴き立てては、それをまるで鬼の首を獲ったように報道し「こんな事をする奴だからまたやった」みたいな言い方までする。最悪だよな? もう既に解決を果たし、済んだ出来事を掘り返しては人格を否定するんだぜ? 折角みんながその事を忘れ始め、また人生をやり直す時が来たかもしれない時にだ。ハイエナみたいなもんだろ?)
 そう言ってマスコミに懸かれば、長所までも短所に変えられてしまうという「言葉の暴力を許してはいけない」と重徳は、かつて晶に力説していたのだ。重徳はこうも言っていた。(再犯率が高いのは、日本が後ろ指を指すシステムが出来上がっているからだ)と。
 今でも晶には、あの重徳考えが若干偏っているように感じていたが、全てが間違っているとも思えなかった。ワイドショーが事件を報道する事で、社会の警鐘役として一役買っている部分があるのを認める一方で、逆に反吐が出そうな汚らしい事実無根の報道を見て嫌悪感を覚えるときも有るからだ。
「相変らずワイドショー嫌いみたいですね」晶がため息混じり言うと「当たり前だろ」と即答が返ってきて、思わず苦笑いした。
「それでな……話は戻るが、お前の所に挨拶に行けなかったのはだな。全く情けない話なんだが、また上司と言い争いをして……ちょっと去年から愛知じゃなくて、三重県に異動になってしまったわけよ」
 重徳の声はバツの悪そうに渋くなる。
「異動? またですか?」
「そう、異動。もうこれが面倒臭いんだわ。色々手続きや引継ぎでごたごたしてしまってる内に、お前の祝いをする機会を失っちまってだな、しゃーないから丸々二日くらい休み取った時にでも土産でも持って行こうかな? と思ってたわけなんだわ。まぁ、結局思っただけになってもうたんだけどな。1年経ったか……すまんなぁ」
 ああ、またか。晶は重徳の話に苦笑いした。3年前に転勤する事になったと興信所に言いに来たときも、勤務地で上司と言い争いをして違う場所に飛ばされることになったと豪快に笑い飛ばしていたのを思い出したのだ。
 しかも、今回は愛知県から三重県だ。県まで跨いでしまっているではないか。その豪快な飛ばされ方に、この人の我が道振りの凄さを思い知らされる。
「三重県っすか。まぁ隣の県だから良いじゃないですか。結婚で外国に行く事になりました、とか言われるより遥かにマシですよ」
「お、一人身の寂しい男に向かって言ってくれるな、晶よ。お前こそ、俺には見えんが別嬪さんの母ちゃんとべったりで、どうせ彼女なんて出来てないんだろ?」
 別嬪さんと言われた女性が、晶の隣で満更でも無いように頬を染める。晶が「こらこら」と女性に向かって呆れた表情を向けると、慌てて姿勢を直し額を掻いて照れ笑いした。
「うー、彼女が居ないのは正解ですよ。反論の余地もございません。……しかし、まだ俺にはチャンスがありますって、まだ努力もしてないですし。でも、しげさんは今年でもう38歳でしょ? 本当そろそろヤバイんじゃないですか?」
 晶の声音が自分の事は棚に上げて、明らかにからかい口調になっている。
重徳に女気が無いのは昔からの事だった――かといって別に、あちらの気色の方が好きというわけではない。
 彼は意外な事に女性に対して極度の上がり症なのだ。
 昔から女性との会話となると、この強気で豪快な重徳は影を潜め――カチカチに凍りつき、張り付いた笑顔を浮かべ、汗だくになりながら裏返った声で話をする、何とも情けない重徳になるのだ。
 生まれは男系。高校時代も男子校。色気づいた時には周りに女は母ちゃんだけだったと、女気の無い寂しい青春時代を送った重徳は酒を飲みながら散々愚痴っていたものだった。何度かあった縁談も、重徳のこの上がり症で尽く潰してきてしまっていた。
(もし、仲谷に嫁さんが出来たらそりゃもう物凄いお祝いを用意してやるわ)
 所長が公言してからもう3年。どうやら未だにその兆しはないらしい。
「それは、もうええって」
 自分に風向きが悪くなりそうな話題は早々に切り上げようとしてか重徳は口調を変えた。
「それよりな」
「はい」
「折角の電話に急に仕事の話で悪いんやが、お前ん所に明日な、たぶんやけど客が行くと思うんやわ」
「探偵の仕事ですか?」
 急な口調の変化と真面目な空気に、自然と晶の表情も引き締まる。
 女性だけが、その話の流れが来る事を分かっていたかのように微笑んでいた。
「そう。ちょっと……な、まだ表沙汰になっていない、俺が関わっている捜査があるんやが、それがどうもお前の仕事の臭いがぷんぷんするわけよ」
「どういう事です?」
 訝しげに、晶の眉が上がる。
「俗に言う「かどわかし」ってやつかな? 子供が数人ここ一ヶ月で次々と行方不明になっとるんよ。だが、まぁーとにかく胡散臭いんだ。犯行声明もなけりゃ身代金の請求も無い。現段階では未だに、子供達は本当にただ消えちまっただけなんだわ。足跡の痕跡等で色々分かった事も有るんだが、これがまた胡散臭い。……って、これ以上は守秘義務で俺の口からは言えんで、明日行くと思う客……まぁ初めに行方不明になった中学生の親なんだが、そっちに聞いてくれ」
 晶の口があんぐり開いた。重徳は、まだ事件の概要も把握していなさそうな事を「胡散臭い」からという理由で自分に押し付けようとしているのではないか?そんな気さえした。
 別に毎年のように夏の子供の家出と言うのは良くある事だった。この事は誘拐ですらないかもしれないのに。
 これは、しげさん特有の早とちりなんじゃ――そう晶が言いかけた言葉を、重徳が遮った。
「もちろん、これは俺の独断だが、当てずっぽうじゃ無いぜ。絶対に他所の探偵ではなく、お前の力が必要になる。そう思ったから伝えたんだ。それに――」
 重徳は声の調子を落として呟いた。
「あまりにその御両親が憔悴しきっていて、いたたまれなくてな……藁にもすがる想いなんだよ。見ていて本当に辛い。理由がわからない分尚更だろうに。せめて雲を掴むような詮索から抜け出せれば良いんだが……」
 晶には重徳の苦々しい思いが良くわかった。残された者の悲痛は想像するだけでも息苦しくなる。しかも、肉親……我が子ならば、その苦痛は如何程のものか。
 重徳は、警察官として自分の責務を果たすだけでなく、個人としても何とかして解決策を見つけてあげたい一心なのだろう。人情に厚い彼らしい行動だと晶は思った。
 同じ事を思ったのだろう、女性も沈痛な面持ちで頷いている。
「わかりました。自分も、詳しい事を聞きまして出来得る限りの事はしますよ」
 晶が、了解の返事を示すと携帯の向こう側からほっとしたような雰囲気が伝わってきた。
 もしかしたら依頼人というご両親が近くに居るのかもしれないな、と晶は感じた。
「すまねえ、ありがたい。久々の電話で、与太話以外に仕事の話までしちまった挙句、辛気臭くなってすまなかったな」
「良いですよ、気にしないで下さいな。実際、話の流れからすると俺がそっちに近々行く事になるのは目に見えていますし、その時はお世話になると言う方向でよろしくお願いします」
 晶は、座っていた椅子から立ち上がると陽が傾き空が朱に染まっている景色を眺めた。
 その後2.3分晶と重徳は軽く話をし、電話を切った。

 重徳との会話が終わり、変わりに耳障りな機械音が入り込んできた携帯電話を、晶は耳から離し電源ボタンを確認すると軽く押して通話を切るとズボンのポケットに入れる。
 暑さと戦いつつも、のんびりとしていた一日の最後に、どうやら仕事の依頼が入ってきたようだ。
 晶の表情は引き締まったまま、外の景色を眺めていた。
 とにかく、しげさんが紹介したという――もしくは先程の通話の時に近くで聞いていたかもしれない――依頼人さんと話してからだ。
 三重県に行った先にまだ何があるかはわからない。だけど、しげさんが「絶対に必要になる」と言った言葉には答えたい――そう力強く思った。
 彼が必要になると言うんだった、なるのだろう。それに何より――母さんが、しげさんから電話が来る事に気が付いていた時点で、考えたらそうではないか。
 予感、推論ではなく、これは自分の仕事だと言う確信に変わる。
「母さん、俺、三重県に行く事になりそうだね」
 晶が振り返ると、話を聞いていた女性は真剣な面持ちで頷いた。――かと思うと、小さな舌をぺロっと出して晶を見つめる。
「何? どうしたの?」
 お茶目な女性の行動に嫌な予感が甦る。
『……そして、その前に部屋の片付けの仕上げね』
 ニッコリと微笑むと、机の上に無造作に積み上げられた大量の書類の山を指差した。
「あ……そうだった」
 書類の山を目にし――晶は途中で止まっていた片付けの事を思い出し、今までの真剣な表情が崩れ「めんどくさいなぁ」と、ゲンナリと肩を落とした。
「あのさ……一度切れた集中力って中々戻らないんだよねー」
『つべこべ言わずに、さっさと始めなさい!』
 ぶつぶつ不満を言いながら作業を再開した晶の背中に、女性の叱責が飛んだ。

続きます
2006/07/10(Mon)16:37:54 公開 / 茂吉
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■作者からのメッセージ
ものすごーくお久しぶりです。茂吉と申します。この掲示板に投稿させていただくのは気が付けば1年以上ぶりになりますがよろしくお願いします。今回で、やっと主人公が登場です。まだまだ核心部分への道のりは遠く、表現に吐きそうになっていますが、他の部分も組み立ててあるので頑張って近いうちに出せていければと思っています。この作品は夏のイベント用として書いているのですが、推敲下手で表現がつたない人なので、どんどんご意見頂ければ幸いです。それでは、ここまで読んでいただき本当にありがとうございました。
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