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『空に散る千の雫 伍〜八』 作者:ゅぇ / ショート*2 恋愛小説
全角31242文字
容量62484 bytes
原稿用紙約101.45枚
短編集。ひとは必ず、どこかで出逢う。
    ――伍――



  【恋し泣き】

 



 お母さんがおらへん。

 お父さんもおらへん。

 だぁれもおらんの。



 ◆ ◆ ◆


 だぁれもおらんねん。
 うちのお母さんもお父さんも、神様が連れていってしまってん。
 うちの大好きなものみんな、神様が連れていってしまってん。
 寝るまえにはいっつも神様にお祈りをして、みんなが長生きできますようにって。
 毎晩そうお願いしとったのに、神様はお母さんもお父さんも好きなひとも連れていってん。
 やからうちはもう二度と、神様なんて信じひん。

 ――残念やったな、神様。うちも一緒にそっちに連れていってくれとったら、こんなこと言わんのにな。



 ◆ ◆ ◆


 震災がきてから、二度目の衣替え。そろそろ世間の人たちも半袖になる。あれから一年と五ヶ月が経ったことになる。うちは大学の四回生になった。うちは四回生になったけど、お母さんは四十五歳のまんま、お父さんは四十四歳のまんま。うちの時計だけが着実に、着実に針を進めている。ごめんなぁ、お母さん。ごめんなぁ、お父さん。守ってあげられへんで、うちは子ども失格や。

 震災がきてから、二度目の夏。そろそろ本格的に復興がはじまる。あれから一年と五ヶ月が経ったことになる。うちは少し茶色かった髪を黒に染めた。うちは髪を黒に染めたけど、あいつは明るい茶色の髪のまんま。うちの時計だけが着実に、着実に針を進めている。ごめんなぁ、ごめんなぁ。苦しんでるときに一緒にいてあげられへんで、うちは親友失格や。


 ――恋し泣き。


 うちはもう二度と、神様なんて信じひん。



 

 お母さんとお父さんは、崩れた天井の下敷きになって死んだ。うちが悲鳴をあげて助けてってお母さんらを呼んだから、お母さんらはうちの部屋の天井の下敷きになって死んだ。うちが生き残ったのやって、ぎりぎりやったんや。
 友達も、親戚も、口をそろえて言う。咲希《さき》が悪いと違うねんで。悪いと思ったらあかんのやで。
 やけどなぁ、普通思うよ。獣でさえ親殺しなんてせぇへんのに、うちは親を殺した。殺したのと同じやないのん。お母さんらが下敷きになって死んでまうって分かってたら、うち、絶対呼ばんかったのに。
 ごめんなぁ、お母さん。ごめんなぁ、お父さん。今までずっと守ってもらいっぱなしで、うちが一回も守ってあげられることなんてなかったん。最後の最後でも守ってもらって、挙句に死なせてしまうなんて、そんなん反則やなぁ。
 うち、まだ実感が湧かへんねん。ちょっと夫婦ふたりで旅行いってるだけのような気がすんねん。だってお母さんとお父さんの息がとまるところ、直接この眼で見たわけと違うもんな。うちも大怪我して入院してさ、退院したときにはもう火葬終わってたもんな。お母さん、お父さん、うちまだ待ってるのんやって。ひょっこり帰ってくるんと違うかなって、待ってるんやって。死んだ人が成仏せんからいつまでも悲しんだり待ってたりしたらあかんて、昔おじいちゃんのお葬式でお坊さんが言うてはったけど、そんなん言われたからって悲しまずにおれるわけない。待たずにおれるわけない。だって死んだってまだ信じられへんのやから。

 
 退院してから知ったのは、お母さんとお父さんの死だけと違うかったんやで。
 お母さん、お父さん。うちが一番仲良かったカンちゃんも死んだんやで。

 
 うちとカンちゃんが知り合ったんは十八の春、大学一年の春やったやんな。うちらは近所の塾でバイト始めたばっかりやったん。カンちゃん、めっちゃ大人びてて背も高くて、お洒落やった。ずっと年上やと思っとったけど、タメやってびっくりしたな。仲良くなってから、そのネタで何回も笑ったよな。付き合ってるって誤解されるくらい仲良かったな。いっつも一緒におったな。
 お母さんもお父さんも、カンちゃんのこと一番信頼してた。よくうちん家来て、一緒に寝転がって漫画読んだりさ、音楽聴いたりしてさ、それで眠くなったら同じベッドで寝てたな。今でもうちはあの頃と同じベッドを使ってる。毎晩思いだすんよ、なぁカンちゃん。あの頃は、よくここにカンちゃんがおったよなって。幼馴染みみたいやったやんな。
 そりゃさ、ずっとそのままでいられるとは思ってなかったよ。お互い恋人ができたり結婚したりしたら、もうこんなふうにはできへんのやろうな、とは思ってた。
 なぁカンちゃん。
 なぁカンちゃん、覚えてる? ふたりでよく学校サボって、お昼ごはん食べに行ったなぁ。学校へ行ったふりしてさ、お決まりのマクドナルド行って、学校のこととかバイトのこととか、恋の話もしたやんね。何時間話しても、うちら飽きんかったね。性格も価値観も違ってたけど、何でか不思議と波長があって、つかず離れずの状態でいることができたなぁ。
 「仲ええなぁ」
 お互いの親に、よくそう言われたの懐かしいよ。なぁカンちゃん。今こうしてカンちゃんがいなくなってよく思うよ。カンちゃんて喋りすぎやったで。誰にいつ告白されたとか、本当は誰のことが好きやとか、何で今日学校休みなのかの説明から昨日一日の自分の行動まで、喋りすぎやったで。そこまで喋る子、今うちのまわりにはいてへんよ。そう思うたんび何かおかしくて笑ってしまって、それから悲しくなって、寂しくなって泣けてくるねん。
 カンちゃん、うち寂しい。カンちゃんだけと違うんや。お母さんもお父さんも、死んだんや。うち、身近なひとを一気に失った。何でうちも一緒に連れていってくれんかったんかな。生きたまま殺されるのと同じやんか、なぁ。

 
 なぁカンちゃん。
 

 よく映画観に行ったな。いっつも大学迎えに来てもらって、その帰りに伊丹までよく映画観に行ったな。
 カラオケにも行ったな。武庫川のジャンカラに行くのが一番多かったなぁ。別に飲み会でもないのにさ、ふたりきりでやたらテンション高かったよな。ほんま笑える。思い出せば、楽しく笑える思い出ばっかり残ってる。やのに涙ばっか出てくるよ。
 ふたりともエミネムが好きで、しょっちゅうツタヤに行ったん。そういえばアメリカのサスペンスドラマを借りて観てたん、九巻で止まってるんやでカンちゃん。十巻一緒に観るからおまえ先に観るなよ、ってさ。そんなこと言うから、あれからずっとうち続き観られへん。カンちゃんがおらな、観られへん。

 就職活動の話もしたし、将来の話もした。
 『この世界には、世界中で俺だけにしかできひん仕事が絶対ある』とかってさ、かっこいーこと言ってさ。何でその仕事見つける前に死んだんさ。なぁ、何で死んだんさ。
 お互い結婚したら、っていう話もしたやろ。うちらが同性同士やったらずっとずっと一緒にいられるのにな、って話もしたよな。男と女に生まれてきてしまったことが、少しさみしいなぁって。ちょっとしんみりしたあとにカンちゃんが言ったこと、忘れられへん。

 ――それでもやっぱ、俺らは死ぬまで仲良いやろ。一緒におるやろな。

 ――俺は咲希が嫌がらん限りは、おまえに会いに行くしさ、おまえも来るやろ。

 ――こういうのも何やけど、大事なひとやからな。

 うちら、たぶん親友やったよな。大事な大事な親友やったな。カンちゃんにだけは何でも言えたよ。カンちゃんだけは何でも話してくれたよ。一生にたったひとり、見つかるか見つからんかの貴重な存在やと思ってた。それが何でこんなにはやく離れてまうのん。うちら一生仲良しでいるつもりやったのに。まだ出会って二年しか経ってなかったのに。神様は意地悪や。確かに死ぬまで仲良かったよ。そんな皮肉なことって、そんな皮肉な結末って、そんなんナシやで。なぁカンちゃん、思わへん?



 ◆ ◆ ◆


 カンちゃん、カンちゃんまで何で死んだん。お母さんもお父さんもおらんくなって、そのうえに何でカンちゃんまで死んだん。
 何でよりによって一月の十六日に神戸の友達んちに泊まりに行ったんや。カンちゃんの家、断層からはずれてて、普通に無事やってんで。カンちゃんのお父さんもお母さんもお姉ちゃんも、家におって怪我ひとつなかったんやで。カンちゃん、あの日神戸に行かんかったら死なずにすんだんやで。
 誰か一月の十六日に時計の針を戻してよ。そしたらうち、カンちゃんを止める。神戸になんか行かさへん。
 誰か一月の十六日に時計の針を戻してよ。そしたらうち、お母さんもお父さんも守ってみせる。絶対に死なさへん。でも時間は戻せへんってことくらい、うちももう二十一歳や。よく分かってる。


 うちらには、まだまだ未来があったはず。今までと変わらない、うちらには時間があったはず。それがうちらの強みやったんと違うの? うちらはまだ若いから。まだ時間あるから。それがうちらの強みやったんと違うの? きっと将来も、こうして就職先の上司の愚痴とか言ってるんやろうなって、そう言い合ってた矢先やった。
 うち、悔しい。うち、淋しい。憎む相手が見つからん。なぁカンちゃん。今まで暇さえあれば電話してくだらん話しとったのになぁ。

 
 明日、学校一緒に行こう。
 
 火曜日、映画観に行こな。
 
 レポート書いて、ほんま頼む。
 
 暇やから相手して。
 
 新しいアルバム借りたで、聴く?


 もう、そんな会話もできへんのんな。うちがカンちゃんとこに行かん限り、同じ空間を共有することはできへんくなってんな。終わったんやんな。カンちゃん、ほんまに死んじゃってんな。
 圧死やってんてな。なぁカンちゃん、苦しんでるときに――カンちゃんが一番苦しんでるときに、一緒におられんでごめんな。あのとき神戸行くん、止められんでごめんな。



 ◆ ◆ ◆


 お母さん。お父さん。
 それからカンちゃん。

 大好きやった。
 今でも、これからも、ずっと大好きや。
 ごめんなぁ、お母さん。お父さん。カンちゃん。
 うち、まだ前に進まれへん。どんなに友達いっぱいおって楽しくても、どんなにおばあちゃんらが優しくしてくれても、思ってしまう。
 どんだけしてくれても、お母さんはおらん。お父さんはおらん。カンちゃんもおらん。代わりなんて、どこにもおらん。
 うち、まだ前に進まれへん。
 ごめんなぁ、お母さん、お父さん、カンちゃん。
 恋しくて恋しくて、涙が出るねん。恋しくて恋しくて、やっぱり泣いてしまうねん。
 うちの時計だけは着実に針を進めていくけど、まだ気持ちはあのころのまま。
 いつか生きてくうちに、前に進めるんかな。なぁカンちゃん。


 秋がくると、憂鬱になる。秋が終われば、あの冬がやってくるから。
 うちにとっての一月十七日は、いつまでたっても一九九五年の一月十七日のまんま。あの頃はお母さんがいた、とか。あのときはお父さんがおった、とか。あのときまではカンちゃんが傍におった、とか。そんなことばっか思ってる。

 冬がくると、思い出す。いつでも思い出す。お母さんと過ごした、あの暖かい日々。お父さんと過ごした、あの暖かい日々。それからカンちゃんと過ごした、あの明るく美しい日々を。
 うちは負けへん。絶対に負けへん。神様なんておらんのや。もしも神様なんて上等なものがおるんやったら、うちはそいつの首を思いきり絞めあげてやる。
 うちは負けへん。絶対に負けへん。いつかお母さんたちに、カンちゃんに会いに行く。胸張って、やで。会いに行く。
 うちはもう知ってしまった。大事なひとが、傍らから消えるっていう怖ろしさ。涙も出ないほどの虚無感。命がどれだけ重く、そうして重いくせにやたらと儚いこと。



 ◆ ◆ ◆

 恋し泣き。
 恋しくて恋しくて、求めて泣く。
 求めて泣きながら、さまよい歩く。
 さまよい歩きながら、いつか答えを見つけだす。






   
   奥山に   紅葉踏み分け  鳴く鹿の


              声聞くときぞ   秋は悲しき

                        
                          《猿丸大夫》








   ――六――

 

   【天路】


 
  天に続く路《みち》。

  彼につづく路が、わたしにとっての天路であった。


  ◇ ◇ ◇

 「もう沙絢も結婚したらいいのにさ」
 圭汰が苦笑してわたしの髪をそっと撫でた。
 「まだ二十四なんだけど」
 夕葉圭汰《ゆうばけいた》は、高校時代からの友だちである。小末沙絢《こすえさあや》――というのがわたしの名前。お互いに恋人がいて、けれどわたしたちは恋人よりも頻繁にふたりで会う。
 「だって早々に結婚しとかないと、あの人の場合大変なんじゃないの」
 「……何でさ」
 「男前じゃん。他の女に持っていかれたら泣くでしょ」
 圭汰のからかうような笑みに、わたしは苦笑いで返した。言葉にはせず、自分の心のなかで彼の言葉を反芻してみる――他の女に持っていかれたら泣くでしょ。

 ◇
 
 わたしの恋人は安齋舜《あんざいしゅん》といった。わたしと圭汰と舜。高校も同じ、大学もバイト先も同じだったわたしと圭汰。舜は、大学二年のときにわたしたちのバイト先にやってきた。
 わたしと舜は、最初から惹かれあったわけではない。どちらかというと、わたしは舜のことを嫌った。あのころ、わたしは彼に何か生理的にあわないものを感じていたはずだった。大学二年のときには知り合っていたものの、大学四年のクリスマスまでわたしと舜がふたりきりで遊ぶことなどなかった。ただ上っ面の、仲の良さげな会話だけは繰り返していたけれど。
 大学四年のクリスマス。わたしと舜はバイトが休みで、本当にたまたま会話の流れから一緒に夕飯を食べに行くことになった。今でも覚えている。あの日、圭汰はバイトのあと彼女とデートだった。そうでなければ、わたしが一緒に過ごしていたのは舜でなく圭汰だったろう。あのクリスマスの日から、わたしと舜のあいだに横たわっていた距離は急速に縮まっていったのだった。マイペースなふたりだった。
 『死ぬときは絶対寝てる間に楽に死にたいよな』
 『人生毎日休憩がいいし』
 『どうせ生まれてきたんなら、自分の好きなことでお金稼ぎたいよね』
 どうでもいい、くだらないことで意気投合した。俺たち似てる、とはしゃいだ。口ではよく調子のいい無茶なことを言うけれど、一本の筋をもった、まっすぐなひとだった――舜という男は。わたしは彼を尊敬した。
 わたしは大学を卒業してから、実家から少し離れたところで一人暮らしをはじめた。実家に戻るたび、一番に会いに行くのは――真っ先に会うことを望んでくれたのは、家族でも圭汰でも女友だちでもなく、舜だった。飽きるほどショッピングをして、飽きるほど車で夜景を見にいって、飽きるほど話をした。けれど飽きなかった。
 付き合う前に一度だけ車のなかでキスをして、社会人一年めの夏、わたしはなるべくしてなったかのように自然と舜の恋人になった。けれど。
 何に惹かれたんだろう? 彼の何を愛したんだろう? 
 それが今、わたしには答えられない。もどかしい。流れにあわせて彼の告白を受けたんじゃないだろうか、そんな不安が胸をよぎる。でも間違いなく彼のことは好き。この葛藤。

 ◇

 「男前じゃん。他の女に持っていかれたら泣くでしょ」
 「…………泣くかな」
 今夜は舜が所属しているバンドのライヴがある。わたしの傍には、だからというわけではないけれど、舜ではなく圭汰がいる。わたしが圭汰といることは、舜にもメールで伝えてあった。嘘をつかないこと。それがふたりの約束だった。
 「泣かないって?」
 「泣かないような気も、する」
 わたしは舜のライヴを見にいったことが、一度もない。恋人なのに、とまわりは言うけれど、一度もない。行きたいとも思ったことがない。彼のやる音楽は、わたしには合わなかった。行きたくないのに行くと、彼は怒る。

 『やりたくないことを無理してやるな。
 やりたいことは好きなだけやれ』

 舜は、そんな男だ。

 『やりたいことはやる。
 やりたくないことはやらない』

 わたしは、そんな女だ。
舜のそういう考えかたは、正直ありがたい。わたしは、だから彼のライヴには一度も行っていない。ライヴに行くよりは、圭汰と話していたほうがずっと楽しい。
 「まぁ、泣かなさそうな気もするよな。沙絢なら」
 圭汰は、わたしを応援してくれていた。けれどけっして、舜に快い感情を抱いているわけではない。
 俺、安齋くんとは微妙に合わない――圭汰がそう言った日から、わたしたちは三人で遊んだことがない。けれど、圭汰はわたしを応援してくれる。
 「安齋くんは好きじゃないけど、沙絢は俺にとって大事だしなぁ」
 そんな恥ずかしい台詞を、圭汰は茶目っけたっぷりの笑顔で言った。冗談めかしているが、それは彼の本心だ。十年近くの付き合いともなれば分かる。
 「あたし、正直いってさ……」
 わたしは一歩、踏みだそうとする。言うまいと思っていたこと。けれど最近ずっと心のどこかで思っていたこと。わたしはだめだ――圭汰といると、そんなことまで話してしまう。
 絶大な信頼と安心感。もしも圭汰を失ったら、わたしはむしろそのときこそ泣くだろう。
 「舜に対してどういう気持ちを持ってるのか、自分で分かんないんだ。確かに好きなのは好きなんだけど」
 「…………あぁ……」
 圭汰は、溜め息のようにそう言った。納得している表情だ。わたしたちはもう、お互いが今なにを考えているのか、表情だけでわかってしまうような――そんな仲になっていた。十年の付き合いだけでは生まれない、あたたかな心のふれあい。
 (やっぱり圭汰はわかってくれる)
 話を聞いてくれる。わたしはそう、話を聞いてくれる人がほしい。


 ◇

 付き合いはじめてから、わたしと舜は躰を重ねた。初めて躰を重ねた日の夜、あのときの躊躇をわたしはまだ鮮明に覚えている。実はほんの少しだけ、後悔があったことも。後悔といったって、やらなければよかったという後悔ではない。何とも説明のつかない、不可思議な感情だった。してはいけないようなことをしたような、そんな感覚だった。
 「南極物語ってあるじゃん」
 舜はたばこを吸わない。灰皿を手で弄びながら、彼は唐突に話題をふった。
 「タロとジロでしょ」
 「そう、それ」
 彼は確かに、変わっているといえば変わっているかもしれない。焼き肉が好きなくせに、食べるときにはいつも厭な顔をする。
 ――これって、牛を殺してるんだよなー。申し訳ないなぁ……でも焼き肉が好きとか矛盾してんなー……。
 焼き肉屋で真剣な顔をして、そんなことを言う男だった。
 ――この世のなかは汚いものにまみれてる。でも目に見えない綺麗な何かも、確かに存在すると思うわけ。
 そんなことも舜は言った。わたしはその言葉に、いつも心から共感した。
 「ニュースでやってたんだよ。何年間も置き去りにして、それから南極に人間が戻ったら二頭以外死んでたって」
 舜に腕枕をしてもらいながら、わたしは天井を見つめる。
 「そんなんさー、何年もあんなとこに置き去りにしてたら死ぬに決まってるだろっつー話じゃん」
 そう言って、彼は怒っていた。それにもわたしは、共感した。
 「ほんと、人間って最悪。汚ねーよ。でも俺も人間なんだよな」
 汚いと言いながら、自分もまた人間であるということを忘れていない。その葛藤が彼にはあって、わたしはまた彼のそんなところが好きでもあった。好きだというよりは、尊敬していたというほうがふさわしいかもしれない。
 だから余計に、抱かれるときの躊躇というのか違和感というのか、そういうものが自分でも理解できなかったのである。
 「人間が死んだらやいのやいの言うくせに、動物ならいくら死んでもいいんかっつー話じゃん。きれいごとかもしれないけどさ」
 そう言いながらわたしの躰に伸びてきた彼の手。しなやかな彼の手を、わたしはなぜだろう――笑って冗談めかしながら、拒んだ。彼を尊敬していた。彼が生身の男であることを、わたしは無意識のうちに厭がったのだろうか。
 ふと思ったことがある。尊敬と愛が繋がることなんて、無に等しいのかもしれない。

 舜と付き合いはじめて、もう三年めになる。時おり、胸が騒ぐ――何が間違っているのかは分からない、けれど何かが間違っているような気がして。


 ◇

 
 圭汰の運転はうまい。ブレーキをかけるのが上手いのは、車の運転が上手い証拠。そんなことを、彼は大学時代に自慢げに話していた。
 ファーストフード店の駐車場、圭汰はすいすいとハンドルを握って車をいれた。
 「結婚したくないの?」
 「…………」
 ふたり同じハンバーガーセットを注文する。お金は圭汰が出した。圭汰がお金を出したら、その次に会うときはだいたいわたしがお金を出す。わたしたちの間には、そんな習慣がある。
 「で、どうなの」
 トレーを席に運ぶのも、圭汰の役目だ。灰皿をとってトレーに乗せるのは、わたしの役目。いつもの店、お決まりの席に腰をおろし、たばこに火をつけてから圭汰はわたしの顔を見た。
 「別にわたしは結婚したいともしたくないとも思わないんだけど……」
 言葉が濁る。もともと結婚願望は薄いほうだ。
 「安齋くんはどうだって?」
 「あのひと、結婚願望はまったくないよ。ほんとにまったく。むしろ結婚なんてしたくないってタイプ」
 結婚しなくたって一緒にいればそれでいい。結婚なんて、所詮便利だとか体裁だとかそんなものじゃないか。舜は、そういう考えのひとだ。
 「で、沙絢は」
 「結婚自体を考えたら、別にしたいともしたくないとも思わないよ。でも舜と結婚する自分とか、舜と結婚したあとの自分がまったく想像できないんだよね」
 「へぇ」
 なるほど、と圭汰はわたしにかからないよう煙を吐き出した。二十四歳、スーツだと実年齢よりも大人びて見える圭汰だが、私服姿の彼はとても若い。圭汰はそのまま、わたしの言葉を待った。
 「何か全然わかんないんだけど」
 「うん」
 「舜は好きなんだよ。でもさ、何か違う気がする」
 「うん」
 「何が違うのかわかんないんだけど」
 さっきと同じようなことを、わたしは繰り返して言った。それを圭汰は、ただ頷いて聞いていた。舜との付き合いより、圭汰との付き合いのほうが長い。わたしたちの間には友だちという関係よりも強い絆と理解があって、それをわたしたち自身が自覚している。圭
 汰といるときの安心感、信頼、それはわたしがいまだ舜に対して完全には抱くことのできていない感覚だ。それが分かるから、悲しく、もどかしい。
 「圭汰こそ結婚しないの」
 容貌もよくて頭もよくて、それから調子のいいことは言うんだけれど意外と繊細で、しっかりものを考えている。舜と圭汰は、そんなところが似ている。
 「だれと?」
 「彼女と」
 「どの彼女?」
 圭汰との間には、そんな不可解な会話が成立する。圭汰には昔から女の影が絶えずつきまとう――彼女がふたり、彼女が三人、それくらいはいつものこと。彼の、数少ない欠点。けれど大きな欠点。そして舜との大きな違い。
 「どれか本命になる気配はないの?」
 うーん、と彼は本気で悩む顔をした。彼には今ふたりの彼女がいて(妙な言い方だけれど)、彼は彼なりに、彼女たちを好きなのである。わたしは苦笑した。十年前からずっとそう、でもわたしは彼を嫌いになれない。
 「ないなぁ」
 たっぷりと考えこんでから、圭汰は結論を出した。
 「まだだめなの」
 「だめ。俺はねぇ、好きっていうのがどういうことなのかまだ分かんない」
 好きっていうことがどういうことなのか、分からない――それは重い言葉だった。特に今のわたしにとっては。何かきっかけがあったわけではない。いつからか、塵のように積もりはじめた得体のしれない疑問。
 「分かんないのに結婚なんて、怖くてできないし」
 わたしのつぶやきに、彼も頷いた。

 わたしはつい、比べてしまう。
 舜と圭汰を。

  
 もしも舜が他に愛するひとを見つけてしまったら。
 もしも圭汰が本気で愛するひとを見つけてしまったら。


 わたしはどちらに傷つくだろう。わたしはどちらに嫉妬するのだろう。


 
 ――答えは、心のどこか奥の奥のほうにすでに見えている。それが怖い。



 ◇ ◇ ◇

 
 天に続く路《みち》。

 彼につづく路が、わたしにとっての天路であった。

 
 ◇ ◇ ◇

 
 舜と圭汰は、誕生日まで同じだった。舜は一年浪人をしていたので、実質舜のほうがひとつ年上なのだけれど。
 わたしは、ごく当たり前の選択をする。誕生日は、圭汰ではなく舜と過ごすことにした。圭汰は圭汰で、いつものように巧妙に時間を区切ってふたりの彼女と過ごすのだろう。
 「おまえ、夕葉とほんと仲いいよな」
 その言葉の奥底に、どこか非難めいた色を感じてわたしは舜を見上げた。圭汰とふたりで会うことを止めるとか、俺はそんな束縛したくない。そう言っていた舜だった。
 「ああ…………うん」
 彼の言葉を、しかしわたしは認める。
 「そんなに会いたい?」
 舜はライヴを終えてきたばかり。青いカラコンを入れた双眸は、けっして怒っているわけではなく、どちらかといえば冗談めかした表情を湛えている。
 「別に何をおいても会いたい、とかそんなんじゃないけど」
 そりゃ会えないよりは会えるほうが、とわたしは答えた。夜景の見える山道、止めた車のなかでいつものように並んでいる。運転席に舜、助手席にわたし。シートを倒して、窓から夜空を見上げていた。ふ、と目の前が暗くかげり、舜の唇がわたしのそれに重ねられた。
 「もう会うのやめろよ。俺はおまえが夕葉と会うの、嫌。むかつく」

 今でも思う。申し訳なかったと思う。
 わたしは、そのときも反射的に彼の躰を押しのけてしまった。

 「俺をとるか夕葉をとるか、どっちかにして」
 そんな拒まなくても、と言いながら彼はそう続けた。物事は黒か白。とにかく白黒はっきりしていないと気の済まない性質《たち》だった。安齋舜はそういう性格だったから、わたしは彼のその言葉にも別に驚かなかった。きっと彼なりに、今までのわたしと圭汰の関係を許容してきたのだろう。そう思うから、どちらかといえば申し訳なさのほうが先にたった。
 こんなときが来ることを、わたしは心のどこかで予測していた。
 「そんなの……」
 「今すぐ決めて答えて」
 「何それ、無理だってそんな」
 「おまえが付き合ってるのって誰? おまえが好きなのって誰なの」
 舜の顔は、やはり怒っていない。どこか呆れたような顔をしていて、それがわたしには辛かった。自分が情けなかったし、舜のことを冷たいとも思った。呆れられているのが、とても悲しかった。
 「……舜」
 「だろ? なのに今すぐ決められない? 答えられないとかおかしいじゃん」
 「…………舜をとったら、わたし圭汰とはもう会ったらだめなんだよね」
 「俺がいるからいいだろ、別に。会いたかったら三人で会えばいい話」
 自分の目が泳いだのがわかった。わたしは知っている。圭汰が『安齋くんとは微妙に合わない』と言ったのと同じように、舜もまた圭汰に対してけっして好感情は持っていないということ。
 わたしはひとつ、溜め息をついた。圭汰に厭な思いをさせたくない――その気持ちが、舜に厭な思いをさせたくないという気持ちを上回ったことが切なくて。
 「もうさ、俺より夕葉を取るんなら別れよ。俺じゃない男を見てる女に、俺は興味ない」
 その態度が、その言葉が、わたしにとっては尊敬の的だった。彼のそんなところを、わたしは昔からかっこいいと思っていた。かっこいいと思う心はあっても、ここであなたと別れたくないと叫ぶ心は、わたしにはもうなかった。
 「うん、ごめん」
 素直になって言った言葉がそれだった。


 帰りの車のなか、舜とわたしは普通に話をした。舜は、いつもとまるで変わらなかった。わたしが寒そうにしていると、いつものように膝かけを掛けてくれたし、わたしがぼんやりとしているといつものように頭を撫でた。
 不思議な感覚だった。付き合う前も、こんな感じだった――わたしは小さく苦笑する。そして、舜といるのにも関わらず、この出来事を圭汰に何と報告しようかと考えていたのだった。
 これが答えだ。わたしの心の奥底で、きっと昔から存在していたもの。


 ◇

 
 「別れた!?」
 素っ頓狂な声を、圭汰は出した。舜と別れたその翌日、わたしは圭汰の家まで歩いていった。行き慣れている、彼の家。この午前中の時間帯は、彼以外だれもいない。
 「ん、別れた」
 「また何で急に」
 「違和感に耐えきれなくなった。好きなんだけど、舜はわたしにとっての生涯のひとじゃない」
 たばこの煙を吐き出して、圭汰は数秒のあいだ黙りこんだ。彼のベッドにわたしが腰をかけ、その目の前の床に彼があぐらをかいて座っている。
 「うん」
 沈黙のあとで、圭汰はうなずいた。昨夜の出来事を、わたしは思いだすままに圭汰に話した。どっちか選べって言われたの、というと、圭汰は爆笑した。
 「沙絢、それで安齋くんじゃなくて俺を選んだんだ」
 まあ当然だ俺も沙絢のことが好きだから、と彼はまた調子の良いことを言う。彼女がふたりもいる男だ。口のうまさは天下一品、バイト時代にもそれで舜によくからかわれていた。わたしは溜め息をひとつついて、苦笑した。
 「そうだよ、圭汰を選んだの。ほんと、ばかだね」
 「何だ、ばかって」
 「舜を失うのと、圭汰を失うのと、どっちが辛いかって話だよ。舜が誰かと結婚すんのと、圭汰が誰かと結婚すんのとどっちに嫉妬するのかって話」
 「だから、俺でしょ?」
 笑いながら圭汰はまだまだ調子に乗っている。


 苦労するだろうな、と昔から思っていた。
 圭汰に恋をした子はきっと苦労するだろうな、と。
 圭汰を愛した子は、きっと苦しむだろうな、と。


 「そう。だから、わたしは圭汰が好きらしいって話。ほんと、困る話」
 夕葉圭汰は、ぽかんとした顔でわたしを見つめて、それからしばらくしてようやく笑った。
 「じゃあ俺も彼女と別れなきゃだめだって話か」
 わたしが失いたくないのは、圭汰だ。


 ◇ ◇ ◇

 
 天に続く路《みち》。
 わたしにとっての天路は、舜ではなく圭汰につづいていたらしい。十年もかけて、ようやく表出した心の真実。



 彼につづく路が、わたしにとっての天路であった。

 
 遠く、しかし近い、愛おしむべき路であった。





   かささぎの    渡せる階《はし》に   置く霜の

                    白きを見れば    夜ぞふけにける

                                             《中納言家持》








   ― 七 ―




  
  【郷愁哀憐】

 


 馥郁たる森の香り。抜けるような美しい蒼天。このドイツミュンヘンにやって来たばかりのころは、それらのすべてが新鮮で、目に鮮やかだった。小鳥のさえずりから人々の往来まで、何もかもが珍しく何もかもが楽しかった。ドイツという国が、すべてをあげて自分を歓迎してくれているかのようにさえ、思われた。
 厳正な試験にみごと合格し、夢のヴェルンブルク音楽学院に転入してきて約七ヶ月。あの七ヶ月前の浮きたつ歓喜の情はすでになく、芦崎真凜《あしざきまりん》はここでの生活に疲れきっていた。

 
 ――あたし、何でここにいるんだろう。


  ◇ ◇ ◇

 真凜はこれといって目立つ美貌も持っていなければ、みんなを味方につけるだけの突出した社交性も持ち合わせていなかった。ひと一倍の努力家ではあったし、そのおかげでヴェルンブルクの厳しい転入試験に合格したわけだったが、楽園であるはずのその場所はすぐに真凜にとって地獄と化した。
 (あたしはピアノでお金を稼ぎたいのに……プロの演奏家になりたいのに)
 真凜ほどのピアノの弾き手は、このヴェルンブルク音楽学院には掃いて捨てるほど在籍していた。ここにやってきて希望に胸躍らせていたのもつかの間、彼女はみごとに自信を打ち砕かれたのである。知らないほうが幸せだったことを、うっかり知ってしまった。そんな気持ちだった。
 『マリン、何してんだぁ? レッスン行こうぜ』
 『サーシャ……』
 ロシア人特有のうつくしい碧眼が、真凜をのぞきこんでいる。アレクサンドル=キュイ――ロシア生まれのドイツ育ち。彼の長い手指が、真凜の瞳に映った。
 『こんなとこで何ぐずぐずしてんのさ』
 幼いころからドイツで育ったせいだろう。彼のドイツ語は非常に流暢で、ぎこちないところもない。この男を見るたびに、真凜は切ない思いに駆られるのだった。甘いときめきでも、恋心でもない。
 『ほら、行くよ』
 羨望と、焦燥である。ピアノを弾くために生まれてきたかのような、長くうつくしい手指。体重をのせればダイナミックな音色を出せる、強靱な身体。ピアノを弾くということは――ぱっと見て優雅なようでありながら、けしてそうではない。ピアノと一対一で向き合って話し、時にはからだごとぶつかり、時には繊細に愛おしんでやる。強靱な体力と精神力がなければ、ピアノは弾けぬ。
 小柄な真凜には、その強靱な体力がない。精神力もない。
 (……自覚してる)
 だから小さなことで、すぐに揺れる。サーシャの恵まれた才能に嫉妬する。あたしはここにいるべきではないのだと涙ぐむ。 自分の弱さが分かるから、真凜はそれが余計に悔しい。
 『サーシャはほんとにピアノが好きなのね』
 真凜は皮肉っぽくそう言った。スコアを見るのにも疲れてしまっていた。昔はそんなこと、けっしてなかったのに。ピアノを弾く、鍵盤に触れるだけでときめく甘い気持ち。あの気持ちが今、どうしても思い出せない。
 『うん、好きだよ。マリンも好きだからここに来たんだろ?』
 『……好きなだけじゃどうにもならないけど』
 サーシャは、真凜の皮肉にも動じない。気づいていないのかもしれない、と思いながら彼女はなるべくサーシャの顔を見ないようにして廊下を歩いた。

 
 好きなだけで物事うまく運ぶなんて、そんな世の中甘くないこと、もう知ってる。


 真凜は、夜遅くまで学院のレッスン室に残ってピアノの練習をする。はやくみんなを抜きたかった。はやく自分で自分の技能を誇れるようになりたかった。はやく他の人間に自分の力を認められたかった。
 音楽祭の課題曲は、リストである。超絶技巧練習曲第四番『マゼッパ』――それなりに正確には弾けるのに、何かが違う。不倫の恋をとがめられて馬に縛られ、ウクライナまで運ばれてゆくマゼッパ伯爵。正確には弾けるのに、自分の旋律のなかに、その情景が視えない。旋律のなかに、孤独な自分だけがたっていて――それがどうしようもなく不安で腹立たしい。こんな演奏ではいけない、という思いに押しつぶされていく。奏でる旋律のなかに自分の姿があってはならない――そこには悲しみと烈しい愛に苦しむマゼッパ伯爵がいなくてはならないというのに。
 「…………っ、もう」
 もう嫌、という言葉をかろうじてのみこみ、真凜はピアノ椅子から腰をあげた。静寂が彼女の耳をつんざく。奇妙な感覚ではあったが、今の真凜にとってはたしかに静寂がうるさかった。もうどのレッスン室でも、練習している生徒はいないようだ。静謐な空気を嫌った真凜はゆっくりと溜め息をつき、窓辺に歩み寄った。
 (……月だ)
 すっかり暗くなった学院の中庭は、あたたかなオレンジ色のカンテラで照らされている。まるでハロウィーンシーズンのディズニーランドみたいだ、と真凜はごく小さな笑みを唇に浮かべた。
 何もかもが真凜の知らないもののように映る。まわりにいる外国人が何を考えているかも分からなかったし、自分がまわりにどう思われているかも分からない。
 けれど夜空にぽっかりと浮かんでいる月だけは、真凜の知っている月だった。つい七ヶ月前までは、故国の地で見上げていた月だった。
 (お母さんも見てるかしら)
 同じ月を見ているのに、すぐには会いにも行けない。心が近ければ近いほど、遠い距離がもどかしい。


 ――となりの部屋からピアノの音が聞こえてきたのは、そのときだった。



 ◇ ◇ ◇

 
 真凜の眉がかすかに動いた。そして、彼女はぶわりと鳥肌だつのを感じた。
 (………だれ)
 ひとには、感覚的に“ちがう”と感じる力がある――多かれ少なかれ。誰もいないと思っていたとなりのレッスン室、いつ誰がそこに出入りしたのかは分からなかったが、とにかくそこから流れてきた音色に真凜は戦慄を覚えた。
 “ちがう”と感じたうえに、恐怖を感じた。どこかで聴いたことのある音色のような気がする……真凜はそっと自分のいたレッスン室を出て、となりのレッスン室の扉にそっと寄り添った。

 
 マゼッパは、ポーランドの国王の小姓であった。彼を伯爵だとする説もあるが。
 真凜はいま、ポーランドにいた。そこに立つマゼッパはどこか凛々としていて、小姓というよりはどちらかといえば確かに伯爵らしい気品を備えている。テレビドラマを見ているような心持ちだ。マゼッパと貴族の姫が想いを交わすありさまを、そのままリアルに見つめているような。
 真凜はいまドイツの音楽院にいるのではなく、たしかにマゼッパが苦悩するポーランドに立っていた。それが、このピアノの弾き手が持つ特殊な力であることに、まだ真凜は気づいていない。

 “愛している”
 愛している――貴女を。
 どうしても、どうしたって抑えようのない感情だった。一目みて心惹かれ、たとえ身分に隔たりがあったとしても隠せない想い。
 “愛している、貴女を”
 (愛だわ)
 愛している、その強く深い感情が音色に包まれて流れてゆく。轟々と流れおちる雄滝のような、音色の波濤だ。奥の奥に甘さをひそめ、ただひたすら力強く抱きしめる――マゼッパの想いだ、と真凜は思った。

 
 ……♪♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫……

 
 愛しているのに、引き裂かれるひとたち。
 真凜は視ている――貴族の姫と想いを交わしたために、馬にくくりつけられて追放されるマゼッパの姿を。想像しただけならば間抜けにもなりかねない姿だというのに、真凜の眼に映るその男はなぜか凛々しい。卑屈な表情の欠片もない、強靱な双眸。
 (愛しているのね)
 音色の波に、すでに真凜は浸っている。愛を知った男の双眸に、真凜は胸を衝かれていた。
 “たとえ追放されたとしても”
 後悔などしない。たとえ追放されたとしても、わたしはいつか必ず戻る。
 旋律のなかで、マゼッパはどこまでもどこまでも凜としていた。彼は馬にくくりつけられて追放された間抜けで低俗な男ではなく、ひたすらに女を愛おしみ抱きしめた美しい男であった。

 
 ……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫

 
 すうっ、と沈黙が訪れてから少しして、真凜はようやく我にかえった。
 「…………」
 (……頭が……)
 心が半分ほど、まだマゼッパの世界にいるような気がする。まるで誘蛾灯に吸いよせられる蛾のように、真凜はいつの間にか扉のすぐ傍に座りこんでいた。
 『マゼッパ』。今この耳で聴いた『マゼッパ』のなかに、弾き手の姿はなかった。そこはまさにマゼッパの世界であり、その他の無駄なものは何ひとつ存在しなかった。彼らの愛と逃亡の一部始終を、彼ら以外の登場人物を使うことなく描いていた。
 (聴いたんじゃないわ)
 真凜はふらりと立ち上がる。聴いたというよりは、視たといったほうがふさわしい。ピアノがわかる人間だからこそ、感じる何か。一流音楽院の生徒だからこそわかる、この弾き手のレベルの高さ。嫉妬を感じる間もなく、羨望を感じる間もなく、真凜は無意識のうちにレッスン室の扉をたたいた。
 (……ぁ)
 自分のちょっとした大胆さに驚く間もなく、扉がひらかれた。


 ◇ ◇ ◇

 「…………」
 芦崎真凜は、絶句した。絶句し、ただ彼女は身動きできずに立ち尽くした。世界中でいちばんのピアニストだと――世界でもっとも音楽に愛された楽神《ミューズ》だと賞賛の嵐を浴びるひと。同じ音楽院にいたって、向こうは多忙な有名人。会うことなどないと思っていたひと。そのひとが、今、真凜の眼前にいた。
 (うそ……)
 『……どうしたの、大丈夫?』
 優しげな声が、女性の綺麗な唇から紡がれた。
 「北条……流麗……」
 ――北条流麗《ほうじょうるり》。ピアノを弾くものなら憧れる。音楽に携わるものなら憧れる。嫉妬もし、時には憎みもし、けれど最後にはやはり憧れる天上のひと。感嘆のつぶやきのなかで、思わず彼女を呼び捨てにしてしまった真凜は、あわてて口を手で覆った。
 真凜のなかにも、嫉妬と羨望はあった――テレビで、コンサートで、世界中で賞賛される彼女を見るたびに、わたしもああなりたいと。わたしもああやって生計を立てていければと。あのひとが学院にいなければ、もしかしたらわたしにも機会はあったかもしれないのに――だとか(それはもちろんただの勘違いなのだけれど)そんなことを思っていたはずだった。だから、万がいち眼前に北条流麗というピアニストをみるとしたならば、そのときはけっして心地よい感情が先にたつことはないだろう。そうも思っていた。
 「……あなた、日本人?」
 「………っは」
 はい、という肯定の声はかすれて宙に消えた。真凜のなかに、まったく不快感はなかった。
 「こんな夜遅くまで練習してたの?」
 今度は声を出さずに、こくりとうなずく。とても感じの良い人だった。
 「音楽祭も近いものね。ね、自由曲は何弾くの?」
 「自由曲……は、あの、ラフマニノフのソナタ……」
 少し口ごもっている自分が、やはり悔しい。けれどこんなのは反則、世界でもっとも賞賛されているピアニストと不意に遭遇するなんて。
 「ラフマニノフ弾くの? 何番?」
 「二番です」
 ようやっと、声が落ち着いた。そのことが、真凜を安心させる。
 (日本語……あたし、日本語でしゃべってる)
 柔らかな懐かしさが、彼女の胸をいっぱいに満たしはじめていた。明るい部屋の灯のもとで、北条流麗の笑顔がひどくまぶしい。他のだれにもない純粋な表情でこちらを見つめてくるから、こちらもまたどこか純粋な気持ちになる。
 「そっかぁ。あたしもね、ラフマニノフとショパンと迷ったの」
 (……なんだか……)
 「でね、やっぱりショパンが好きだからショパンにしようかなって思ったんだけど、たまたま友だちがシューマン弾いてたのを聴いて、シューマンのソナタにしたの」
 (なんだか、友だちみたい)
 ――昔からの。
 人好きのする爽やかな笑顔。きっとこちらの緊張を察して、饒舌に話してくれているのだろう。優しさと愛のかたまり、みたいなひとだ。真凜は思った。
 「ピアノが好きなんですね」
 サーシャに言ったときよりはましといえど、まだやはり皮肉の色がこもっていたかもしれない。
 「うん、好きよ。あなたも好きでしょ?」
 サーシャと同じ、皮肉にもまったく気づかないような純粋な笑顔で返された。



 芦崎真凜、十六歳。
 北条流麗、二十二歳。


 あたしが初めてドイツに来たのも、十六歳のときだったのよ。北条流麗は、そう言って真凜に笑いかけた。


 ◇ ◇ ◇

 
 『ねぇ、おまえ見た? 見た?』
 『何を?』
 『ルリだよ! ルリ=ホウジョウ! 先週帰国してきたんだってさ!』
 『…………』
 真凜は小さく苦笑した。“帰国”――彼女の祖国は日本ではないのか。真凜にとってドイツの地を踏むことはあくまで“渡独”であり、“帰国”ではない。
 『まぁ……』
 曖昧に返事をかえして、真凜はスコアに視線を落とした。リストの『マゼッパ』、一番はじめのフォルテシモ――あの情熱を、忘れない。マゼッパの情熱が憑いた流麗の心。あれからずっと、このフォルテシモを見るたびに思いだす。
 北条流麗が帰国してしまうと、もう同じ科であるだけに彼女の姿を頻繁に見かけることになった。その傍らには、いつも有名人が集っていた。
 
 ヴァイオリンの美しき貴公子、カイン=ロウェル。
 アウトローな孤高のチェリスト、ビーリアル=ウェズリー。
 ピアノ界の華やかな女王、マリア=ルッツ。

 彼らは流麗よりも昔からここにいるはずなのに、なぜか真凜の眼には、彼らが流麗に惹かれて集まっているようにみえた。
 「あ、真凜」
 そんな彼女が、真凜を見かけるといつだって声をかけてくれる――それも日本語で。
 「流麗……」
 『お、っまえ……』
 知り合いなのか、おい知り合いなのか、俺そんなこと聞いてないぞ!!……とでも言いたげな表情で、サーシャが目を剥いて真凜の顔を見つめる。
 (わかりやすいなぁ……)
 「来週の音楽祭、楽しみね」
 日本語で話しかけてくれる。いつも微笑みかけてくれる。それが彼女のあたたかい心遣いだと気づくまでに、時間はかからなかった。
 十六歳、日本での学業なかばでひとり渡独するということ。それがどういうことなのか、北条流麗がよく知っているという証だった。
 「だれ?」
 「こないだレッスン室で知り合った子。十六歳なんだって、芦崎真凜ちゃん」
 「へぇ……よろしく。カイン=ロウェルです」
 丁寧かつ流暢な日本語である。それもまた気遣いなのだろう――このふたりの間には、やはりマスコミが噂し、世間が噂しあう通りの深い絆と愛情があるのだ。はからずも真凜はそれを察して、口を閉ざした。
 (わかってない)
 だってこのひとには、カイン=ロウェルという王子様がついているじゃない。わたしとは違うわ。
 「どうしたらピアノって、上手に弾けるんですか。あなたたちみたいに」
 カイン=ロウェルの後ろでたばこを吸っていた、紅いマニキュアの女がくすりと笑った。それが嘲笑にみえて、真凜の頭に血がのぼった。この女の笑い方はいつもこうなのだけれど――もちろん真凜にそんなことが分かるはずもない。
 「好きなら弾けるわよ」
 きっと真凜の言葉の陰にひそんだ刺々しさに、流麗は気づいたのだろう。困惑したように口ごもり、そのかわりにマニキュアの女がそう答えた。まるで流麗を守るかのようなタイミングであった。
 「好きなら……?」
 「そうよ。あんた、ピアノがそこまで好きではないんじゃないの。上手に弾けなくて悩んでるっていうなら」
 「好きです、あたしピアノが好きです!」
 女――マリア=ルッツが、呆れたようにたばこの煙をふわりと吐き出す。さらにカチンときた。
 「でも好きってだけでは生きていけないもの! そんなに甘くないじゃない!」
 『おい、マリン……』
 「あなたたちは才能があるからそんなことが言えるのよ!」
 ひどく悔しかった。流麗を筆頭に、今ここにいる全員に馬鹿にされ見下されているような気がして。
 『当たり前じゃない。才能がないなら、なおさら好きでもなきゃやってられないってのよ』
 マリアの唇が日本語でなくドイツ語をかたどり、そこでようやく話の流れを理解したサーシャが、こちらは困ったようにその場に立ちすくんでいる。そんななかで、ひとつだけ流麗が息をはいた。ため息とは少し違う、何か申し訳なさげな息のつき方だった。
 「ねぇ」
 その声の優しさにも、真凜はそっぽをむく。流麗がわたしと同じ年だったころ――けっして彼女はこんなに子供ではなかっただろう。そう思えば思うほど、真凜はかたくなに流麗の優しさを拒んだ。拒もうと思って拒んだのではない、思わず拒んでしまう精神の幼さ。孤独感。それがまた悔しくて、悔しいことがこれまた悔しい。
 「あたし、ピアノを弾くために生まれてきたの」
 (…………)
 分かってる。あなたのピアノを聴けば分かるわ。
 「別にピアノで食べていこうとか、そんなことは思っていなかったの。ただ好きだったのよ。ほんとうに」
 この間聴いた、あの『マゼッパ』を思いだす。きっとあの旋律は、彼女以外の誰にも奏でることなんでできないだろう。
 「今も変わらないわ。ただひたすらにピアノが好き。きっと世界で一番、あたしがピアノを愛してる。その自信があるの」
 カイン=ロウェルが、流麗の傍らで優しい笑みを湛えたのが分かった。
 「それに持って生まれたものだってあるわ。あたしはそれに恵まれた。神様の贈り物よ」
 ――そうに違いない。でなければ、あんな音色が出せるはずがない。真凜は涙をこらえるために、うつむいた。分かっているのだ。そう、ちゃんと分かっている。自分がどんなにピアノを好きでも、自分がどんなにもがいてみても、けっして流麗にはなれないこと。
 このひとは、ピアノにもっとも愛された世界でたったひとりの人間なのだということ。
 「でもあたしがここまでピアノに愛してもらえるのは、あたしがピアノを愛しているからなんだよ。分かる? 好きなだけじゃだめって言ったけど、愛さないとだめなの。ただ好きなだけじゃ、ピアノは答えてくれないわ。気位が高いの」
 なぜこんなにも親身になって話をするのだろう、この北条流麗というひとは。
 真凜は黙りこくったまま、それでもただ流麗の言葉に耳を傾けた。これ以上、子供にはなりたくなかったし、この場にいる人々に子供にみられたくもなかった。涙だけはこらえなくては――きゅっ、と唇をかみしめる。
 「それもね、愛してあげるっていう態度だとだめなのね」
 ちらり、と流麗を一瞥した。何かひどく楽しそうな表情をして、まるで歌うように語っている。それがほんの少しだけおかしかった。
 「愛してあげるっていう態度だと拗ねちゃって、いい音を出してくれないのよ」
 カイン=ロウェルが、こちらに向けてひとつウインクをする。ごめんね、というような少し呆れた優しい双眸だった。ピアノのことを語りはじめるとなかなか止まらないのさ、というような。ヴァイオリンを弾いているときの眸《ひとみ》と同じだ。
 「だからね、心底からあなたを愛してやまないの。あなたを愛さずにはいられないの、だからあたしもあなたに愛してもらいたいの。そういう愛し方じゃないと、答えてくれないのよ。あなたの愛し方は――少し気負いすぎてるのかもしれないわ。だからピアノがついていけていないのかも」


 ♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫……


 ピアノは気高い楽器である。誇り高く、気品に満ちあふれている。遙か昔からの木々から受け継いだ熱い血潮を、その堂々たる風貌にひそめながら。
 義務的な愛情など受けつけぬ――愛されるべくして愛されるものであるから。


 ……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫……


 心底からあなたを愛してやまないの。
 あなたを愛さずにはいられないの。
 もう、それは恋なのよ。
 あなたに愛してもらえないと、悲しくて切なくて涙がでるわ。


 だから愛してね――お願い。


 ◇ ◇ ◇

 
 ピアノを弾いてみる。北条流麗がピアノを語るときの、あの輝かしい表情を思い浮かべながら。

 心底からあなたを愛してやまないの。
 あなたを愛さずにはいられないの。

 それは幼いころ、ピアノを弾きはじめたときの恋心にも似た感情。

 
 …………♪♫♪♬

 「……っ」
 (あ!)
 瞬間、真凛は息をのんだ。ざわりと体じゅうが鳥肌だった。
 (これだ)
 ほんの一瞬である。まったくの一瞬、うっかりすればもはや気づかないほどの一瞬。ほんのわずかな旋律のなかに、彼女は聴いた。
 (これだわ)

 ………♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪……

 しばらくの間をおいて、再び弾きはじめる。さきほどの音色は、奏でられない。けれど間違いない、と真凛は思った。さっき奏でた旋律が、ずっとずっと求めていた――いや、ずっとずっと忘れていた旋律だ。
 (そうよ、これだわ)
 マゼッパ。恋するマゼッパ、荒馬にくくられてゆく彼。その世界に、もう真凛はいない。マゼッパと、彼が愛する貴族の姫。彼ら以外にだれもいない。

 
 ……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫……

 
 拙い。
 しかし確かに、理想の旋律がところどころで飛び跳ねる。躍動感。純愛。弾きつづけるうちに、マゼッパの世界からどんどん自分の姿が消えていくのがわかる。
 ほら、どんどんマゼッパの世界になってゆく。
 (魔法みたい……!)
 手指ではない。心が、なにかをつかんだ。昨日までがうそのように、音色のひとつひとつがたっぷりと潤っていくのがわかった。
 ほんとうに――ほんとうに魔法みたいだ。

 
 ねぇ、すごいわ。魔法使いね。

 
 思わずピアノに語りかけていることに、真凛は気づかない。まるで滑稽なくらい、自分で奏でる旋律が心地よかった。
 黒光りする美しいピアノが、ようやくあたたかく自分を見守ってくれているように感じられる。うれしさと安堵に、真凛は思わず瞳を閉じた。指がすべるように動きはじめていた。ほんの少し、ほんのほんの少しだけ近づいた――あのひとの音色に。
 (きっとこうやって比べたりなんかするの、不純なんだろうけど)
 でもわたし、やっぱりピアノが好き。


 ◇ ◇ ◇

 『なんか、落ち着いたね』
 『…………』
 サーシャが、くすりと微笑みかけてきた。
 (いやな人)
 何もかも見透かすような双眸をして。
 『憑きものが落ちて、もとの気持ちを取り戻したって感じ』
 『わかるの?』
 『わかるわかる』
 馥郁たる森の香り。抜けるような美しい蒼天。今日もヴェルンブルク音楽学院は、碧空のしたで落ち着いたたたずまいを見せている。吹き抜ける風が、サーシャと真凛の髪をやさしくなぶっていく。色の違う髪の毛だ。けれど彼らにとって、髪の毛の色が違うことも、母国語が異なることも、肌の色や目の色が違うことも、関係ない。彼らのあいだには、ピアノがあるから。
 『ほんとにわかるの?』
 『わかるよ、だってピアノがあるもん。ピアノを聴けばさ、何考えてるかとかすぐ分かるよ』
 いつだって、ピアノの神様が導いてくれる。道に迷ったとしても、苦しくて倒れたとしても。北条流麗は、きっとピアノの神様の化身だ。それかピアノの神様につかわされた天使。わたしを助けてくれた。
 「天使なのかも」
 『……え?』
 至上の美しき旋律を、完璧に奏でられるようになったわけではない。北条流麗のような音色を奏でることは、きっと一生無理だろうとも思う。
 『なんでもないわよ』
 『日本語で独り言いうなよぉ。気になるだろ』
 けれど、一小節が二小節。二小節が三小節。きっと理想の旋律を、最後まで弾くことができるようになるはず。そうすれば、大丈夫。わたしの未来は、明るく輝く。そしてその先には、いつでもピアノがある。


 何が大事かなんて、ほんとうに簡単なこと。


 「やっぱり愛なんだわ」




 ――このドイツの空に輝く月は、きっと日本でも輝く月。孤独感をつのらせるだけだった月影は、もう真凛を泣かせない。あの日本でも輝いている月が、自分のうえにある。それだけでがんばれる。
 愛をひとつ。それを思い出すだけで、ひとは変われる。





        天の原    ふりさけ見れば    春日なる

                       三笠の山に     出でし月かも

                                             《安部仲麻呂》







    ――八――



   【青春航路】


 
  ――男と女の友情は、たしかに成立する。

  
  ――成立しないとすれば、それは彼ら以外の人間の仕業である。


  ◇ ◇ ◇

 「もうほんとありえないっての」
 白石美彩子《しらいしみさこ》は腹立たしげに言いながら、手にしていたファッション雑誌をばしっと机に投げつけた。久々に地元に帰ってきてもこれか、と俺は話半分に聞き流しながらカプチーノを淹れる。それから手作りのミルフィーユを、小皿にのせて彼女の前に出してやった。渥美翔《あつみしょう》――俺は菓子職人だ。お洒落にいうならパティシエ、か。
 「おまえ今日帰ってきたばっかでさ、親にも顔みせずにいいんかよ」
 「いいのよ、これから二週間は嫌ってほど顔あわせるんだもの」
 いただきます、とつぶやくように言って美彩子はカプチーノに口をつける。綺麗で上品な唇に、白く泡がくっついて可愛らしい。可愛らしいが、容貌はすっきりと美しく、どこか不思議と冷涼な空気をまとっている。
 「そんなことよりさ」
 俺と美彩子は、高校のときからの付き合いである。クラスの中心でバカどもと大騒ぎしていた俺。クールに構えつつ他人とそれなりにうまく付き合っていた美彩子。いつだったか俺と美彩子が隣どうしの席になって、仲良くなったのはそれからである。
 クールな第一印象、外見とは裏腹に、性格は意外とおおざっぱで爽やかな少女だった。もちろんそれより前から、彼女は男子間で大人気――そんな彼女と自分がもっとも親しい間柄であるということが少しだけ自慢でもあった。
 「そんなことより、って……」
 苦笑しながら、俺はそれでも続きを催促する。俺も話し好き、彼女も話し好き、けれどそれが衝突することはない。今日は今までに溜まった愚痴を彼女が話す、その番である。
 「まだ帰ってこないの? 山国くん」
 「帰ってこないのよ。自衛隊も撤退するっていうのに、まだ残るんだって」
 ほんといい加減にしてほしいわ、と美彩子はミルフィーユにフォークをたてる。山国悠人《やまぐにゆうと》というのが、美彩子が付き合っている年下の恋人であった。自分の夢と信念にむかって、一年と八ヶ月ほども前にイラクに渡ってしまった男だ。
 「厄介な相手を好きになったよな、美彩子もさぁ」
 「ほんとよ。行く場所が場所だけにね」
 ほんとうの戦争はこれからなんだ――そんなハガキが一枚だけきたのだという。
 「ほかの男なら、すごいねって見送れるわよ。でも自分の彼氏ってなったら、そんなのハイそうですかって言えるわけないじゃない」
 「そりゃそうだ」
 彼の祖母の親友は、原爆で死んだのだという。広島出身の祖母や祖父から話を聞くたびに、彼は戦争というものについて深く考えるようになったらしい。そうして高校のときの幼稚園実習で子どもの魅力にとり憑かれ――それから可愛がっていた幼い従弟が轢き逃げ事件の被害者となって死んで――そのあたりから彼はもうすでにボランティアとして戦乱の地へおもむくことを考えていたというのである。
 俺にはわからない。平和ボケした日本人にいったい何ができるんだ、とも思うし、宗教が絡んでいる以上俺たちのような人種にはとうてい理解できない何かがあるんだとも思う。
 「わたしもそう思うわよ」
 
 けれどひとりでも、たったひとりでも無駄な犠牲を出したくない。
 宗教のことが分からないからこそ、無垢な子どもだけは救えるかもしれない。
 救うというのは傲慢でおこがましい言い方かもしれないけれど。
 そのためには、日本という社会で子どもたちを援助するために働くよりも、戦争の地で生死の境を目にしながら子どもの命を助けるほうが、俺には分かりやすいんだ。俺、頭あんまり良くないからさ。ああいうところだと、“あの子は今、命の危機に瀕しているとか、そういうことに気づきやすいんだ”――と。
 結局、自分のやったことをこの目ではっきり確認したいだけなのかもしれないけど。
 
 「…………とか何とか言って。気持ちは分かるわ、分かるけど何だか気に入らない」
 そうだろうな、と俺は思う。俺と彼女の付き合いがはじまって、もうどれくらい経つだろう――高校二年、いや一年のときからの話だから、十一年めにもなるだろうか。それだけ見ていれば、もう分かる。
 (きっと今までで一番愛してんだろうな)
 さくさくのパイ生地を切り崩しながら、美彩子は柳眉を思いきりひそめてため息をつく。
 「店はどうなの?」
 彼女が話題を不意に変えるときは、さっきまでの話題に飽きた証拠である。俺はまた苦笑いをふくんで二度ほど重ねてうなずいた。
 「ま、順調だ」
 高校生のときから夢だった。自分の店を持つということ――大学卒業後、製菓の専門学校へ通い、両親がなけなしの金をはたいてフランス留学までさせてくれた。それまでにも毎日のように菓子を作っていたし、またバイトでも厨房でデザートを担当していたこともあって、まあまあそれなりスピーディーに自分の店を持つことができたのである。まだ客は多いほうではない。
 「ほんと、人は見かけによらないわ」
 だが、この美彩子が職場で俺の店を宣伝してくれているから、けっして売り上げに困苦することはなかった――白石美彩子は、教師である。


 ◇ ◇ ◇

 あのころ、俺たちは迷っていた。あのころに帰りたいとも思うし、帰りたくないとも思う。少しだけ切なくて、けれどとても輝かしい日々である。

 『翔は何になりたいの』
 『俺? …………んー、有名人?』
 ふんっ、と美彩子に嘲笑された。セーラー服の襟を揺らす彼女は、高校三年という年齢のわりには大人びてみえる。シャープな容貌の線が、そう思わせるのかもしれない。
 『笑うなよ。じゃおまえは何になりたいんだっつの』
 彼女は今度は、自嘲的な笑みを浮かべた。
 『……とりあえずちゃんとした人間?』
 『何じゃそら』
 美彩子には、ふたつ年下の彼氏がいる。隣の男子校の一年生で、俺も何度か顔をあわせたことがあった。学校内でも、学校外でも、俺と美彩子が付き合っているという噂は絶えなかったけれど、まったくそんな噂に動じない男だった。
 『わたし、浮気性かも』
 『ぶっ』
 美彩子はうつくしい。けれどたまに可愛い。浮気性かも、と言った美彩子の流れる視線が、ひどく可愛らしくて笑えた。
 『彼氏がいるのに、よそのカップルとか見たらさ……』
 学校裏のベンチ。放課後の掃除をする生徒たちを見ながら、俺と美彩子は言葉を交わす。ん、と続きを促すと、彼女は続けた。
 『あぁーあの人いいかも、とかすぐ思うのよ』
 どうなのよそれって、と美彩子は自分で自分に呆れたように天を仰いだ。俺は知っている。彼女の恋人が――山国悠人という例の恋人が、美彩子とデートする時間も惜しんでバイトに専念していること。

 ――それ、浮気してるんじゃねぇの。

 ――たぶん違う。浮気するくらいなら、わたしはたぶんふられる。

 浮気を疑って、俺がひとりでこっそりと調べたこともあった。でも、そいつは本当に寸暇を惜しんでバイトをしていた。馬鹿か、と思った。だって、その金で何か美彩子に高価なプレゼントでもしてやるのかと思っていたのに、そんなわけでもなかったのだ。美彩子はろくに何のプレゼントも貰わないまま、ずっと山国と付き合っていた。プレゼントがもらえないこと、デートできないこと。そういう数々のことに対して、美彩子はそれほど不満をもらさなかった。
 『だからわたし、ちゃんとした人間になりたい』
 俺から見れば、じゅうぶんちゃんとした人間に見える。頭もいいし、外見も文句なしだ。大学進学も、ほぼ推薦が決まっている(それもレベルの高い学校に)。そう言うと、そういうことじゃないのよね、と彼女はぽつりとつぶやいた。
 『芯が欲しいの』
 『……芯?』
 わかるような、わからないような。
 『そう。どんなときでも動かない軸みたいなものがね、自分のなかに欲しい』
 (だからさ……)
 と、俺は思う。傍目には美彩子は芯のある人間に見えるんだよ、と。いつでも堂々としていて、誰にも媚を売らない。自分というものを確実に持っている、そんな神々しい女に見えるよ、と。
 『何か……悠人を見てると、自分がたまに恥ずかしくなる』
 再びぽつりと、美彩子はつぶやいた。
 もはやそれって、恋ではないんじゃないのか。俺はその言葉をぐっと飲みこむ。恋って、もっとときめきがあって、もっと楽しくて、もっと浮き立つようなものじゃないのか。

 
 ――あのころ、俺たちは迷っていた。俺は自分がどの道に進むべきか迷っていて、美彩子は自分がどう在るべきか迷っていた。俺たちは、周りをみてひどく焦っていたのだ。
 俺はそれでも、まあまあの大学に進学した。美彩子も進学した。
 大学は違ったが俺たちの付き合いは続き、美彩子はまだ山国と付き合っていた。俺と美彩子がふたりきりで遊んでも、笑って「俺の彼女とらないでね」と言える山国。それが美彩子をどうでもいいと思っている証拠ではなく、愛している証拠だと分かるまでには時間がかかったけれど――俺はそんな山国を、年下ながら少しだけ尊敬していた。こいつは芯があるんだな、と感じた。

 『芯が欲しいの』

 そんなときにはいつも、高校の裏庭でつぶやいた美彩子の言葉が俺の脳裏によみがえるのだった。


 
 ――あのころ、俺たちは迷っていた。けれど大学に進学してから、迷いながらも少しずつ進みはじめた。俺は製菓の道に惹かれ、それから美彩子はバイトに明け暮れた。
 騒がしい幼稚園児をみるといつも顔をしかめていた、そんな美彩子にしては信じられないバイト。塾の講師である。
 『おまえが塾の講師とかありえねぇー』
 ふん、と美彩子はまた笑った。この涼しげな、少しだけ偉そうな笑い方が俺は好きだ。
 『何でそんなの始めたの』
 『時給がいい』
 『金かよ!』
 俺はもうそのとき、大学卒業後には製菓に進もうと思っていた。揺るぎない目標が、見つかっていたのである。それが嬉しくて、自分なりに誇らしく、また安心できて、俺は美彩子のことにまで気を配ってやれなかった。あのころ、まだ美彩子は揺れていたのだ。迷っていた。とりあえず大学で教職課程をとって、司書課程をとって。いろんなものに手をつけていた彼女は、ただひたむきにバイトに打ち込んだ。
 山国と会えないことで切なげな顔をしなくなったのは、大学の四年もなかばを過ぎたころである。美彩子たちは、会える日よりも会えない日のほうが多いまま、恋人らしいことをほとんどしないまま、それでも長いこと続いていた。それは美彩子の愛でもあり、山国の愛でもあった。俺は信じている――山国悠人は、美彩子のことをきっと愛している。
 『就職どうすんの?』
 大学四年のなかばごろ、俺がふと彼女にそう訊ねたとき、彼女はきっぱりとこう言った。
 『わたし、教職に就こうかなと思って』
 『まじで!?』
 きっぱりと彼女は答えたが、かと言って教職に特別な何かを感じているようにも見えない。
 『別になりたい職業はないけど、でもあえて選ぶならこれが一番合ってるかなと思ったの』
 彼女もまた、進みはじめていた。


 ◇ ◇ ◇

 俺たちは、何度も何度でも現実に打ちのめされる。けれど心を許せる本当の友だちがたったひとりでもいれば、何とか這ってでも乗り越えられると俺は思う。その友だちが、美彩子だった。
 俺が落ち込んでいるときには不思議と美彩子は元気で、いつも俺を励ました。
 美彩子が落ち込んでいるときには不思議と俺は元気で、いつも美彩子を励ました。
 俺たちはうまいこと交互に落ち込み、励ましあった。時にはかける言葉が見つからないときもあったけれど。


 俺たちが二十三の年。
 俺がフランス留学から帰ってきたちょうどその頃、俺が菓子作りに自信を得てわくわくしていた頃。白石美彩子は絶望の淵にいた。
 久しぶりに俺たちはファミレスで待ち合わせをした。やはり美彩子は変わらない――変わらず綺麗で、堂々としている。だが俺の話にあわせて笑う瞳が渇いていて、ふと訊ねた。
 『何があった?』
 わかるのが、友だちだ。このとき異変に気づいてやれて、本当によかった。友だちでいてもいいよ、と神様に許されたような気分にさえもなった。
 『悠人が、イラクに行った』
 アメリカがイラクへの爆撃を開始してから、数ヶ月経ったころだった。俺はつい先日まで暮らしていたフランスのことで頭がいっぱいで、イラクやアメリカの情勢なんて考える間もなくて。だから最初、美彩子の言葉の深刻さにまるで気づかなかったのだった。かける言葉が、見つからなかった。
 『馬鹿よ。死にに行くようなものじゃない』
 悔しそうに――ほんとうに悔しそうに美彩子は唇を噛んだ。これほどまでに悔しそうな美彩子を、はじめて見る。その悔しさがこっちにまで伝染してくるほど、強い感情だった。
 『人助けだって。ばっかみたい』
 何しに行ったんだ、と聞くと美彩子は吐き捨てるようにそう答えた。ばっかみたい、と吐き捨てる言葉のなかに、馬鹿だと本当には思っていない節が感じとれた。やっぱりな、と俺は思う。美彩子はまだ――山国の強い強い芯に、負けているんだ。

 ◇

 俺は平和ボケした島国の一市民で、みんなから見ればただの偽善者かもしれない。
 俺はどっちかといえば無宗教者で、宗教国の実情なんて分からないかもしれない。
 でも遠い国で戦争はだめだとか、可哀想だとか、言うだけの人間にはなりたくない。
 現地に行ってたとえたった一人でも。
 たった一人でも、死ななくていいはずの人間を死なせない。
 それはけっして意味のないことじゃないと思うんだ。
 自己満足かもしれないけれど、それでも俺は行きたいんだ。
 テレビ画面の前で、文句を言ってるだけの人間になるのだけは嫌だよ。
 たとえ俺の自己満足だとしたって、俺のすることを喜んでくれる人も絶対いるはずだから。俺はそれを拠り所にするよ。

 ◇

 山国悠人は、そう言ってイラクへ単身旅立ったのだという。美彩子は、恋人の説得に応じた。彼女が腹をたてている理由――簡単な話だ。
 (愛してんだな)
 俺はそのときも、そう思ったんだ。よく覚えている。


 ――あれからずっと、美彩子は苛々と日々をすごしていた。イラクのニュースを聞きたがるわりに、新聞を見ようとしなかった。テレビでイラク関連のニュースが流れるたびに不機嫌になり、日本人ジャーナリストが人質にされたり、日本人が殺害されたりしたニュースを見たときにはソファを腹立ちまぎれに蹴りつけてその場を立ったりもした。
 『自業自得よ』
 そんなこともつぶやいた。けれど国が彼らを助けようと動いたときに、国民から非難の声があがったことがある。
 勝手に危険地域に行った奴らに血税を使うのか。
 これだけ国を騒がせてどう責任をとるんだ。
 『国民の金を国民のために使って何が悪いの。こんな国だから馬鹿にされるのよ』
 そんなときには、こう怒鳴ったりもした。美彩子は、美彩子のなかにある色々なものの葛藤に苦しんでいたのだろう。あのころ、彼女は情緒不安定だった。他の男と寝たことだって――あった。
 (でも愛してんだろ)
 わたしは、彼の一番でいたい。
 けれど自分の信念を恋人のために曲げるような男を、愛した覚えはない。
 そんなことを、美彩子は何度も俺に洩らした。切なくも見え、誇らかにも見えた。俺は美彩子たちのようなカップルを、いまだかつて見たことがない。
 俺はどうにかして美彩子を救いたくて、心底から笑わせてやりたくて悩んだ。人を愛するということは、いったいどこまで人を苦しめるのだろう。ドラマなんかだったら笑って見れるのに、これが友だちだと俺までこんなに苦しい。
 そんな男はやめてしまえ、といいたい気持ち。
 けれど山国という男を知っているが故に、いえない気持ち。
 あいつは美彩子を愛してる。あいつらは、苦しいとわかっていてもどうしてもやめられないんだ。
 (応援するしかないんだ)
 何度も自分に言い聞かせた。
 けれど彼女を立ち直らせたのは、俺ではない。やっぱりそれは、山国の役目だった。
 
 『本なんか書いてる暇があったら、連絡のひとつでも寄越せってのよ!』
 本屋で山国悠人が書いた本を買って、美彩子は俺のうちに飛び込んできた。あのとき、美彩子は泣いていた。







     『祈り――Misa――』

 

 僕は、戦争というものをこの眼で見た。
 戦争が憎悪を生む瞬間も、僕はこの眼で見た。
 平和な国に住んでいる人々は、憎悪してはいけないと説くかもしれない。
 けれど大切な人を奪われた人々は、憎悪することでしか悲しみを紛らわせない。
 僕たちにはまるで理解できない感情が、ここにはあった。

 きっと僕も、大切な人を奪われたなら、憎むだろう。
 きっと僕も、大切な人を奪われたなら、怒るだろう。

 僕には大切な人がいる。
 僕がイラクに行くと知ったとき、彼女は黙ってただ泣いた。
 申し訳なくて、申し訳なくて、そして僕もまた寂しくて、
 思わずイラクへ行くのをやめようと思ったけれど、
 それではいつか必ず後悔すると思った。
 何て我侭な人間だろうと思ったけれど、それでも彼女なら分かってくれると
 そう信じた。

 今、彼女は何をしているだろう。
 今、彼女は何を想っているだろう。
 そんなことを考えながら、僕は今日も血を流す人々の姿を見る。

 首から上が吹き飛んでしまった赤ん坊がいた。もしも彼が生きていれば、いったいどんな人生を歩んだだろう。
 手足を失った少女がいた。もしも彼女が手足を失ったりしなければ、いったいどんな人生を歩んだだろう。義手義足のその少女は、わたし陸上選手になりたいの、と眼を輝かせた。
 孫を空爆で失った老人がいた。もしも孫を殺されていなければ、彼はいったいどんな老後を楽しんだだろう。
 婚約者をテロで失った青年がいた。もしも婚約者を殺されていなければ、彼はいったいどんな結婚生活を送っただろう。

 眼を失った少女。腕を失った少年。恋人を失った女性。妻を失った中年の男性。子どもを失った若い夫婦。未来を失った無数の若者たち。命を失った無数の人間たち。

 僕は知った。戦争は、失うことだらけだ。得るものなんて、ひとつもない。
 僕は知った。綺麗ごとだけ並べていても幸せにはなれない。けれど綺麗ごとを口にするからこそ、前に進めることもある。
 僕は知った。失うことの恐怖を目の当たりにすればするほど、愛しい人の存在がますます大きくなることを。

 僕にはまだすることがある。
 僕にはまだ見るべきものがある。
 僕にはまだできることがある。
 だから僕は祈りながら生きる。
 彼女が、僕の帰りを待っていてくれますように――。

 ――Misa, I love You――



 彼女を救ったのがやはり山国だったということは、俺を少しだけ寂しくさせた。男と女の感情なんかではなく、純粋な友だちとしての感情である。ほんの少しだけ、俺が救えなかったのが悔しい。


 ◇ ◇ ◇

 
 もうほんとありえないっての、と俺のうちに来た翌日、また美彩子は俺のうちのリビングにいた。今日もハガキを持っている。
 「もうほんと嫌になる」
 そう言いながら、穏やかな表情。何だかんだでやっぱり嬉しいんだな、と俺まで少し穏やかな気持ちになる。俺たちは、一生の友だちだ。美彩子の喜びは俺の喜びであり、俺の喜びは美彩子の喜びでもある。男女の友情は成立しないというけれど、それはまわりの人間が成立させないだけの話だ。男女の友情を認めないだけの話だ。
 山国を認める俺の心には、少しだけ不純なものがある。こいつが美彩子の恋人なら、俺たちはずっと友だちでいられる。男女の友情を認めるだけの、器のでかい男だから。だから俺は、山国を認める。
 「見てこれ。ほんと、頭悪いわ」
 ハガキには、筆ペンでこれだけ書かれていた。美彩子が国語教師だからかもしれない。きっと色々と調べたのだろう。彼なりに、粋なことをしたいと思ったのだろうか。

 

 “わがいおは都のたつみ鹿ぞすむ世を牛山と人は言うなり!!”



 牛じゃないっつの、と美彩子が苦笑した。汚い字だった。

 



   わが庵は    都のたつみ   しかぞすむ  


                    世をうぢ山と    人はいふなり


                                    《喜撰法師》
2006/08/03(Thu)20:06:28 公開 / ゅぇ
■この作品の著作権はゅぇさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
過去ログに投稿していたときの『一』の主人公猫拾いの兄ちゃん渥美翔と、『三』(だったかな)の主人公ちょっと浮気しちゃった置いてけぼり姉ちゃん白石美彩子のお話になりました。最初は白石美彩子と山国悠人の馴れ初めを書きかけていたのですが、違和感を覚えて書き直し。渥美翔と美彩子の話にしてしまうと、ぱっぱかぱっぱか勝手に指が動きました。イラク戦争に関しては、いろいろと葛藤があります。日本のことが嫌いでもあるし、好きでもある。北朝鮮にしたってそう。大嫌いなのだけれど、もしかしたらわたしには分からない信念が何かあるのではないか、とも思ってしまう。イラクにしてもそう。わたしには分からない、同じフィールドに立たない限り絶対に分かることのない何かがあるんだろうと思ったりします。人は大変です。でもやっぱり大事なのは、愛する気持ちかな、とも思います。いつから愛を語る宣教者みたいになったんだろう、わたし(笑)愛が大事と思いつつ、『愛なんて幻想よ』と思う自分もいます。人間、葛藤ですね(笑)美彩子という名前は、わたしの親友の元カノからいただきました☆
読んでくださる皆様がた、いつもありがとうございます。
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