- 『星の見える町 第一章』 作者:ピカット / 恋愛小説 リアル・現代
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全角12967文字
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普通の中学生長澤渚は一つの恋をした。静かながら、大きな恋を……しかし、それを奪ったのは紛れもない自分自身で、大きな渦に巻き込まれていく――しかし、大きな渦はやがて新しい出会いをもたらす。「救えなかった罰といや罰だよな」彼は苦笑する。忘れることの出来ない、『出会いと別れがもたらすはじまり』の前。激動の中学の記憶編。(第一章)
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「渚は悪くないよ」
屋上に干された洗濯物は、夜になってもまだ残されていた。看護婦が取り入れるのを忘れたらしい。清潔な洗剤の香りと鼻を突く夜の匂い。交じり合って、これが「死の匂い」なのかも、と思った。
「悪くないなんてない。この世の中であいつを救えたのはオレだけなんです」
言葉尻が予想以上に強くなり、また体が熱く脈打つのを感じた。熱くなった頬を鋭くて、冷たい風がすっと突き刺していく。気持ちいいとは別、痛い空気だった。
戸田先生は少し頭を抱えた。
「もしかしたらさ、オレのせいかな。あの時、オレがお前と由夏を一緒にしなければ、こういうことにならなかったのかな」
「違います」
嗚咽で震える声を即座に否定して、オレはキッパリと言った。戸田先生は顔を上げた。
「そういう、運命だったんでしょう。戸田先生のせいじゃない」
でも、そんなことはないんだ。そんなもの、彼を励ますためのウソで、運命なんか、ない。
オレは大きく息を吸って、
「先生。オレはもう誰も傷つけません」
「……情けないな。こういうとき、オレ、どういったらいいんだろう」
「下手に着飾った先生より、よっぽど信頼できます。やっぱり戸田先生はいい人です」
戸田先生の瞳には涙が浮かんでいた。かけがえのない生徒を失ってしまった悲しみか、自分の無力さを悔いているのか、定かではなかったが、今先生とオレの間は一つの思いで紡がれている。先生はオレだった。
だからこそ、先生はオレの心を客観的に映し出す鏡なのかもしれない。
「ゴメン、先生のほうが泣いててどうすんだって。一番悲しいのはお前なのに」
「先生はオレの心自身です。先生が居なかったらオレが泣いてました。でも先生のお陰で今オレがいる状況を冷静に見つめ直すことが出来てます」
「渚って変ってるよな」
彼の嗚咽が急に落ち着いた。急に大人じみた声に戻った。先生の年齢はオレと一回りも変らないのに、こういうところだけやけに大人じみているところ。
「そうかもしれません」
「そう簡単に肯定されると、オレが困るんだけど」
オレがかすかに笑った。彼は言った。
「なぁ、由夏のことは忘れろよ。陸上まで続けろとはいわないけど、お前にはお前の生きる道がある」
「それ瑛華にも言われましたよ」
とはいいつつ、影響力はまるで違っていた。
「そうですね。いつか忘れられる日が来ればいいのかもしれません」
「忘れることが怖い、なんてことはないか?」
「それでも、忘れられないと思います。それに、完全に回復しないと決まったわけじゃないし」
「そうか。ならいいんだ」
夜空に広がる町の雑景。夜空のパレットに色鮮やかな絵の具を落としていく。水彩画を見ているようだった。
先生は歩き出す。目的もなく。彼の目には未だに涙が浮かんでいたけれど、何かを捉え、光を帯びていた。
「由夏の代わりなんていないけど、由夏と同じくらい好きになれる人間はいるかもしれない」
「先生はオレ達が恋人同士だと思ってらっしゃるんですか?」
「そうだ。あの時点でお前と由夏は恋人同士だった」
オレは否定しなかった。でも実際はそんなことはなくて、彼女とオレの関係は限りなく友達に近かった。ただ一つだけ言える事は、オレはアイツに助け続けられてきた、ということ。
出会いは一年半前――春。
* * * * *
「野外活動実行委員は藤見由夏さんと長澤渚くん。反対意見はありませんか?」
まともな討議もなく、ただ戸田先生の気まぐれで決まってしまった重役。それも、よりによって藤見と一緒とは――軽く哀れむような視線を感じながら、オレは大きくため息をついた。
藤見はというと、このざわめきを楽しむかのように笑っていた。まったく、のんきなもんだ。
「ほら、行けよ」
幕田はうな垂れるオレの肩を促すように強く叩いた。オレが渋々席から立ち上がった後「よりによって、ベンと一緒かよ」と、言う声まで聞こえ、気分がより落ち込んだ。
オレ達が前に出て、いよいよざわめきが教室全体に広がったのを見て、戸田先生が三回手を叩いた。一斉に静かになった教室の教卓の前、一身の限り、冷ややかな目を受けてオレは二度目のため息をつく。
これは大変なことになった――
「では、二人に抱負を述べてもらいたいと思います」
抱負も何も、あったもんじゃないだろうに。と思いつつも、何とかつなぎつなぎ知ってる単語を連ね、それらしい抱負を述べたのだが、その後の藤見の挨拶があまりにもしっかりとしすぎて、どうしてもオレの抱負が浮いた。月とすっぽんという構図はまさしくこれなのかも、と思うと、思い切りへこんだ。
「よろしくおねがいします」
下手をすれば、男子よりよっぽど低い声、それでも明るさを失わないのは彼女の声の大きな特徴かな、と思った。滑舌が良いのか、この手の声を持つ男子特有の篭った聞き取りづらさをまるで感じなかった。後ろに居る先生に促されるように、頭を下げて、そのまま藤見の顔を覗いて見ると、案の定、彼女は毅然とした表情だった。こいつだってオレと同じ境遇のはずなのに、落ち着きようがまるで違う。このあたりに、彼女のこなした場数の多さが伺えるといったところか。
「今日の部活は休みだぞー」
女子にはいつも弱気なくせに、男子には俄然強気の戸田先生は声を少し大きくして言った。先生の声は良く通って、聞いていて清々しい声なのだが、女子を相手にしたとたん、長所が消えてしまうのがやや惜しい先生だった。
もったいないな、なんて所詮他人事の流儀で先生を心配していると、彼がオレを引きとめた。周りが「遊ぼうよ」とか、楽しそうな会話を交わして教室から吐き出されるのを傍ら、オレは彼と一緒に教室に残った。その環の中に混じれないのは少し癪だったが、先生の顔はあまり見たことのない真面目な顔で、不平を言わす隙がない。
「渚。最近の足の調子はどうだ?」
「ええ、全力疾走はどうかわかりませんが、日常生活や軽いスポーツ程度ならなんら問題はないですね」
オレが答えると、彼は安堵で顔をほころばせながら、大きな息を吐く。先生はふらりと立ち上がって教室のドアを閉める。
「良かったよ。『100mの長澤』を潰そうものなら、本当に皆から責められるからな」
「その『皆から』っていうところ、先生らしいですね」
「それはなんだ? オレがいつも弱腰ってことを言いたいのか?」
オレが頷くと、先生は冗談じゃない、という顔で苦笑した。
100mの長澤というのは、100m走者のオレについた異名で、慢心ではなく、オレの足についた重圧を測り知ることが出来る。
もっとも、長澤と呼ばれるのは、たまねぎのキャラクターを連想させるので、オレはあまり好きではなかったのだが。
「お前は宮城県の期待を一身に受けてる走者なんだから。怪我なんかで才能を潰すなよ?」
「その台詞、五十回目くらいです」
冗談でなく、本当にそれくらいは聞いている。機会がある度、幾度なく聞かされていた台詞。戸田先生からだけではなく、他の大人たちからも同様だった。どころか回りの雰囲気もそれ。
しかし、と戸田先生が話すと、独特の「ねちねち」した感じが消えて、友達が友達を心配するような、さわやかな雰囲気に変ってしまう。つくづく不思議な先生だ。
「野活実行委員。何でオレが由夏と一緒にさせたんだと思う?」
先生は突然切り出した。オレは首を捻って
「さぁ、なんででしょうか」
オレはてっきり、先生の気まぐれだと思っていたけど。心の中で呟いた。
「二人を駅伝に出してみようかな、と思ったんだよ。でもお前は由夏のこと、あまり良く知らないだろうから――」
「先生が女子を名前で呼び捨てなんて珍しいですね」
オレが指摘すると、彼は少し首を捻りながら「そうだね」と嘯いた。
「まぁ、いい子だよ。『ベン』なんてあだ名もあるみたいだけど、お前は絶対『ベン』って呼ぶんじゃないぞ? 『由夏』って呼ぶんだ」
「何でですか?」
「なんとなく、感じがよくないだろう。一応駅伝は隣の比東中とも一緒にチームを組むことになるんだから。名前で呼んでたらフレンドリーな感じがして、藤ヶ浦中の陸上部の評価上がること間違えなし! そうだろう?」
それは、なんとなく無駄なような気がしたが、とりあえず首を振ると悲しそうな顔をするだろうから、とりあえずその意見を首肯し、先生に別れを告げた。
そういえば、先生の言うとおりだ。同じ陸上部であるはずなのに、オレは彼女のことを何も知らない。面を向かって話したことは殆どなかったし、話すとしても出席の確認程度だった。そんな関係で性格を知れるわけもないし、したとしてそれは不正確なものになるだろう。
(ま、どうでもいいか)
校門を一人で出ていると、二人の人影が合った。肩を叩かれ振り向くと、彼女の指がオレの頬を軽く圧する。
「瑛華、待っててくれたの?」
「バカ。そんな大層なことじゃない。誤解されるでしょうが」
彼女は少し回りを見渡しながら、ボソッと言った。
しかし実際、誤解が嫌なのであれば、そのまま帰ればいい。それなのに残って待っていてくれるというのは、やはり瑛華の素直なところで素直じゃないところだ。
「その役回りでいけば、輝友は誤解を防ぐため?」
「違う」と、彼は軽く髪を靡かせながら、首を横に振った。
「オレをついでみたいに扱うんじゃない。オレもお前を待っててやったんだ」
「ありがと」
オレが素直に礼を言うと、輝友と瑛華は少し驚いた顔をし、オレの顔を見た。瑛華のほんのり赤い頬と後ろで結んだおさげ。それは驚くほどキレイに彼女の輪郭を強調し、どこか垢抜けて見えた。彼女もなんだかんだ言って成長してるのだなと、なんとなく感心していると、瑛華の顔が少し気味悪そうになってきた。
「足、どうだ?」
「状態はいいよ。ただ全力疾走は分からない」
「じゃぁ三日月堂まで競争してみるか? 一本道だし」
輝友の提案に、瑛華は反発した。
「ちょっと待ってよ、いくらなんでも二人には追いつけないよ」
「ハンデを設けるか?」
「イヤ。ハンデを貰うくらいなら、私は普通に走る」
強い口調で彼女が宣言してしまったので、輝友は「失敗したなぁ」と呟きながら、結局頷いてしまった。
三日月堂まで焼く100m。本来の調子ならオレの全力疾走が届く射程圏内だが、足を痛めたばかりだったし、カバンも持っていたので、イマイチ自信はない。
「じゃぁ、位置についてよーい……どん!」
それでもいいか。輝友の合図でオレ達は飛び出した。
かけがえのない未来に向かって――
* * * * *
「速い速い。さすが県大会記録保持者」
相変わらず、自分の負けを認めたくない輝友は、一見諦めとも見える声のなかにもちゃんと悔しさを滲ませていた。
「なんだかんだいって、一番悔しがってるの輝友じゃないの」
久しぶりの実戦で、思い切り息が上がったオレや、もともとスタミナがない輝友の足がやけにおぼつかないの尻目に、瑛華は鋭く突っ込む。
「でも、渚の足の状態、大分いいみたいだね。一方のコイツは、吹奏楽部は呼吸が全てなんじゃなかったのか?」
「仕方ないだろうが、苦手なもんは苦手なもんで!」
「それでクラが上手いなんて、私は神様が信じられん」
もうそろそろ、瑛華と輝友の喧嘩に発展しそうだったので、オレが制すると、お互い「フン」と鳴らしあって、そっぽを向いた。
(仲がいいんだか、悪いんだか)
双方の負けず嫌いがぶつかり合って、友達というにはピリピリとしすぎているが、近所のよしみというには薄っぺら過ぎる。とりあえず二人はとにかく密接な関係だった。二人とも吹奏楽部で、輝友の実力が飛びぬけているらしい。
瑛華はどう考えても美形に位置する顔立ちで、さらりと流れる黒髪は荒が見つけるほうが難しいくらい。ここまでなら男子に絶大な人気を誇りそうだが、喧嘩っ早いところや、妙に強気なところが災いして、人気とは正反対の位置に立つ性格だった。それでも、正義の味方ではあって、喧嘩も強かったから、女子からだけの人気はあったのだが。
「そういえば、お前野外活動の実行委員らしいな。誰と?」
あまり触れられたくない話題だった。でも聞かれたからに、無視する訳には行かず、渋々「ベンと一緒なんだ」と告げると、二人の「へぇー」という声が上手く重なった。
二人は暫し、驚いたように顔を見合わせていたが、すぐにそっぽを向いた。瑛華は広がる田んぼを見つめるようにして、彼と視線を合わせようとしなかった。そこで会話の相手が輝友だけになった。
「お前は藤見と一緒かー。いいんじゃない? 彼女美人だし」
オレを励ましているのか、茶化しているのか、良く分からない口調で笑う輝友に、オレはどう反応すべきか悩んでいると、隣に居た瑛華がそっぽを向いたままに、
「由夏はいいヤツだよ? 渚は同じ陸上部じゃなかったの?」
「確かにそうだけど、あんまり喋るヤツじゃないからなぁ。オレとしては瑛華と藤見が一緒に居ること自体結構違和感あるんだけど」
オレが言うと、彼女は口元をキュッと結んで、不満げにオレを見つめてきた。さっきから機嫌が悪いが一体何があったんだろう。
「まぁまぁ、二人ともそんな喧嘩腰にならず。喧嘩はよくないよ」
彼はもともと色素の薄い栗色で、サラリと流れる髪を少しなびかせ、やけに穏やかにオレ達の間に割って入った。さっきから喧嘩してたやつに、こんなことを言われるのは心底心外に感じたが、ここで彼を跳ね除けたら、この空気を元に戻すのはより難しいものになってしまうだろう。
「女の子として純粋に可愛いと思うけどな。顔立ちもいいし、勉強できるし、声もいいし。どこが不満なのか全然分からんぞ?」
「声か、確かに力があるといえばそうだな」
輝友の意外な着目点に、驚きながら頷くと、瑛華がやっと面を向かって
「私は何で彼女が低い評価なのか分かんないんだけどね。つれないからかな、それなりに面白いと思うんだけど」
「それは人の主観だからなぁ、でもなんとなく人を寄せ付けない雰囲気があるじゃない」
悪口でもなんでもない、オレの素直な感想だった。同じ陸上部とはいえ、出欠の確認ぐらいしか喋ったことがないというのは事実だったし。
「そう解釈しちゃダメだよ。人を理解して上げられないってのは人として、絶対褒められたことじゃないんだから。当然の理みたいに扱って、遠ざけようなんて卑怯でしょ?」
「お前はいつも正論だよな」
「どーも」
なんとなく、気が楽になったのは、紛れもなく瑛華のお陰だった。
とはいえ、放課後部活に行くことすら許されず、資料室に閉じ込められるのは、やっぱりオレの性分には合わない気はまだしていた。
「今日実行委員だからな」
早速逃げようとしたオレのブレザーを先生は強引に引っ張って、ドアの向こうに広がる世界から強く引き戻した。
悔しがるオレに先生は更に追い討ちを掛けるように、
「オレが陸上部の顧問だってこと忘れてないか? 考えてみろ、お前がサボって部活に行ったところで、オレの手元にくる出欠表にはちゃーんと記されて、分かるようになってるんだ。どうだ? それでも抵抗するようなら、オレも何か手を考えるが」
「男子にだけ強気なんだから……」
「バカにするな、ここまで強気に出るのはお前くらいだぞ」
「それ、全然自慢になってませんよ」
突っ込みを入れる気力すら吸い取られたオレは、先生の仰せのまま、資料室に向かった。資料室はとにかく豊富な資料と、人の出入りの少なさ、会議にはもってこいの環境が揃っていた。しかし、オレには都合が悪いだけになる。
「渚くんと一緒か」
とぼとぼと歩いていたオレの脇に、藤見がいた。
「足の調子はどうなの?」
「え? まぁ順調だけど」
藤見は無口。そんなイメージがあったからこそ、彼女の口から自然な問いかけが生まれたことに大きな衝撃が生まれた。
「先生とは仲いいんだね」
「戸田先生? そんなことは」
「だって、タメ口だったでしょ? 私あんまりそういうことできないから、結構羨ましく思ってた」
「羨ましいかぁ? それに、藤見だって藤見で戸田先生が名前で呼び捨てにしてるくらいなんだから、仲いいんじゃないの?」
藤見はかすかに頬を緩ませて、そうかなぁ、と呟いた。そういえば、彼女の笑顔も初めて見る。少し胸がときめくのを感じた。
思ってた以上に、可愛い……か?
「お陰で少し元気になった。ありがと」
「藤見ってさぁ。なんていうの? もっと暗い人かと思ってた」
「よく言われるけど、そんなことはないと思うなぁ。私のイメージってそんなに暗いのかな」
「そんなこと、ないと思うけどね」
そういえば、オレは何で彼女を暗いと感じてたんだろう。
あまり喋ったことがなかったから? でも、他にだって話したことのないような女子はいるよな。顔立ちをどう解釈しても暗くはならないだろうし、声に要因があるとは思えない。
しばらく思考をめぐらせていたが、もともと大したことのなかった好奇心が萎えるのは時間の問題だった。
(そんなこと、どうでもいいか)
隣の藤見はオレの二三倍とも思えるスピードで、渡された課題の作業を進めていた。自主研修の班を決めるための単純作業。それだけに時間が削られていく、自分の精神力と共に。
せっかくの、共同作業なんだし、少しくらい喋ってみるか。
オレは心に決めて、ペンの勢いを少しばかり緩めた。彼女が気軽に話せるような話題を吟味するためだった。
「藤見ってさぁ」
「藤見って呼ぶのやめて。あんまり私そう呼ばれるの好きじゃないから」
彼女は全く同じ動きのまま、即座に反応した。
「じゃぁなんて呼べばいいの?」
戸田先生は「由夏と呼べ」とうるさかったけど、要は彼女自身の希望だろう。
「ベンはやめてほしいなぁ。それ以外だったら何でもいい」
彼女の小さな手に握られたシャープペンがカタカタと音を立てて、用紙には整った字体をした文字がどんどん記されていく。あまりにも滑らかで効率よく進んでいく作業に、彼女のこなした場数の多さがここにも伺えた。
「なら、由夏……でいいの?」
「構わないよ。私も渚って呼ぶから」
人の字を見ればその人の性格までもが自ずと分かるものだというけれど、それで考えるなら、彼女の性格は決して柔らかくはなさそうだった。それでも丸みだけはしっかりと帯びていて、それでいて崩れない。考えれば考えるほど、そのままに見えたのが可笑しかった。
次第に他のクラスの実行委員の人達も集まってきて、委員の顧問榎田先生もやってきた。
作業途中の用紙を自然な動作で見つめながら
「足の状態はどう?」
榎田先生がオレに会うといつもこれだ。先生に限らず、大人の殆どがそうなのだけど。例外が居るとしたら、オレの親と戸田先生くらい。両親は近くの図書館で借りてきた本から「自主性」という言葉を引っ張り出してきて以来、都合よくオレに全てを任せている。
「順調です」
棚からいつも出す答えを取り出して、先生に渡すと、オレはひたすら作業に集中することを決めた。このままでは一時間も部活が出来ない。そんなことがあってたまるか。
手書きで記入された、クラス分のデータを積み重ねると、思わず声が出た。
「渚、お陰で大分はかどったよ」
オレが記入したのは彼女のこなした量の三割にも届かないが、それでも彼女の役には立ったらしい。一瞬、明日もやらなきゃいけない、ということすら忘れ、喜べた。
藤見……由夏が榎田先生に作業を渡すと、先生は感心したように手を叩いて「これ、二人でやったんだ?」と褒めてくれた。そこまでは明日へ続く辛い未来に、幸福がオブラートのようにつつんでくれていたのだが、いざオレ達の手から作業の証が離れると、オブラートは消え、辛い未来が暗く浮き上がった。
ついため息が出た。
「六時五分か。ゴメンね、部活終了までに終わらせられなくて」
彼女は腕時計を残念そうに見つめていた。赤い夕日で、頬を染めた彼女の横顔に瑛華の「由夏はいいヤツだよ」という言葉を思い出した。アイツがあれほどムキになったのも、今なら分かる。それくらいの価値を秘めた女の子なのかもしれない。
「いや、そんなことない。多分行ってても大して走れないだろうし、トレーニングくらいなら家でも出来るしね」
「そう?」
「大丈夫大丈夫、本当に大丈夫だから」
オレとしては、結構気を配ったつもりだったのだが、それでも、彼女のしぼんだ顔は変らなかった。見るにたえられず、オレはふらふらと立ち上がって、窓の方角に向かった。夕日が田んぼに映って、結局窓から見える全景をレッドに染めている。
「ねぇ渚」
「何?」
夕日の赤が網膜に焼きつき始めたのを感じ、オレは視線をそらした。
「もしかして、陸上でのプレッシャーに負けてない?」
「え? どういうことだ」
「いや、ね。さっき榎田先生が足の心配したとき、渚の顔が一気に曇ったから。もしかしてそういう声をうっとうしく感じてるのかな、と思ったの。期待されることに疲れてたんじゃないかなって」
「あ、うん」
彼女があまりにも的確にオレの心を読むので、オレは抵抗する余地もなく、素直に頷いた。それで、なんでさっきからバツの悪そうな顔なのかと訊くと、
「もしかして、私悪いことしちゃったかなと思って」
「え?」
「いや、私も同じようなこと言ってたじゃない?」
「そんなこと気にしてたの?」
自分の声がすっかり裏返りそうになる。
律儀というか、なんというか……。言葉がなかった。
一人で就く家路に、由夏の顔を幾度なく思い浮かべながら、オレは歩いていた。
* * * * *
夏がやってくると、運動部の練習にも急に熱が入ってきて、殆ど活動がないと思われていた野球部のランニングの声も聞こえるようになってきた。
オレとはいうと、由夏と一緒になった野外活動実行委員に熱が入りつつも、その生活リズムに大分慣れてきて、練習にもようやく取り組めるようになった。
その一方で、順調だったはずの足の調子が、下降線を辿り始め、中総体に黄色信号が灯り始めた。
100mを駆け抜けて、すぐに感じる右足の違和感。タイムは出ているはずなのに、何か納得がいかない。
重圧がない、といえばウソだった。いやおう無しに浴びせられる視線の強さは中一のときなんかとは比べ物にならない。
だから、由夏の指摘も当っていたのかもしれない。
オレは期待を背負うことに疲れ初めて来ている――のか?
「すごいねー、早い早い」
ストップウォッチに出た数字をマジマジと見つめた由夏の目は、驚くほど丸に近かった。
「何秒だ?」
「12.53秒」
「ダメだなぁ、やっぱり調子悪りぃな」
「12秒で調子悪いの?」
「ある程度、せめて11秒の前半くらい取れないとメンツが立たんし」
「ひゃー」
こんなことを言うのは、自分で自分の行き場をなくすようで、もちろん好ましいやり方でないことは知っていたが、実際全国大会で優勝するようなタイムを目指すなら、それくらいは必要ではあるのは事実だった。オレの答えに由夏は得体の知れない何かを見るような顔で、
「雰囲気か、そんなに気にするものなのかなぁ」
「そうだけど、オレにとっちゃ後ろで期待してくれる人が居るから走れてるわけだし」
「そんなもんかぁ」
彼女は何か言いたげに、一瞬息を吸いかけたけど、少し躊躇ってそのまま何も言わなかった。
「由夏はいいよなぁ、何にも悩みなさそうで」
「そんなことないよ」
キッパリと断言する、彼女のやけに真っ直ぐな視線は気になったが、それを加味してもあまり説得力はなかった。そんな、のほほんとした顔をして、悩みがあると打ち明けられたところで、信じるほうがおかしいような気がする。
「まぁ頑張ってよね」
おう、と。由夏の言葉に、威勢良く頷いてみたのはいいものの。
それ以来、日を増すごとにタイムも徐々に落ちて、時間だけが過ぎていく。それで、練習すればするほどに痛みは大きくなってきた。
(どうしようかなぁ)
やっぱり、試合に出るべきか。それとも棄権するべきか。
「よっ!」
思考の中に突然食い込んでくる声。後ろから聞こえる、ややスキップ調で、小気味良いテンポで高鳴りする足音は彼という人物を断定しやすくしていた。
「輝友か……」
「なんだその落ち込んだ声は」
「いや、なんとなく。今日という日がビミョーだったから」
次の言葉で、彼がオレに聞いてくるのは、間違えなく足の状態だろう。これは戸田先生のものとも、他の先生たちのとも本質が違うもので、期待というよりは、期待に押し潰されそうなオレを気使うものだった。
「お前と由夏。似てるよ」
輝友の突拍子もない言葉に、声を詰まらせる。危うくむせ返りそうになった。
「喜んだらいいのか、悲しんだらいいのか、分かんない台詞だな」
「結構仲良くなったみたいで、結構結構。傍から見ると恋人みたいだなと思ってたけど、実際そんなことはなさそうだな」
自分は冷静でいたいのに、体が熱を帯びてきて、顔に血が上ってくる。顔が赤くなっていると分かるから、余計たちが悪い。
「顔、赤いよ」
「うるせぇよ」
輝友はワンテンポ置いて、オレの顔を見つめた。彼の顔を見ていると、体の熱も次第に取れて、お互い正面を見合ったままに時間が過ぎて行った。
「どうせ、足の状態良くないんだろ?」
「バカ言え、最高だよ」
「お前の最高は最高だったためしがない」
彼はキッパリといって、オレ達の間に流れた空気を楽しむかのように一笑した。彼の輪郭が夏の日差しでデフォルメされて、大人っぽい輝きを持っていた。
「お前そんなコンディションで大会出ようっての?」
「悪いか?」
「悪いよ。だって、あっちは本気で走って来るんだぞ? それを相手にこっちがそれじゃ、相手に失礼ってもんじゃないのか?」
「だから、全力で走るよ。県大会まで進出できれば日があく。そこでゆっくり回復させればいいんだから」
「そんなんでいいのか? お前は陸上に何のポリシーも持ってないんだな?」
「ポリシーも何も。走りたいから走る、それだけだよ」
オレの答えに、彼はまた何か不服そうな顔をしたが、息と一緒に呑みこんだようだった。
一つため息をついて、彼は訊く。
「お前はなんで陸上部で走ろうと思ったの?」
「足が速いからだろ」
「そう、だよな」
頷きながらも、あからさまに納得してない、彼の残念そうな顔はなぜか脳裏に焼きついて、離れなかった。
学校と、家までは距離がほとんどないから、もともとスタミナのないオレであっても、何とか走りきることは出来た。
額から流れる汗が髪をしっとりと濡らした。駆け抜けたときの風が濡れた髪に触って、少しだけ冷たかった。
オレは輝友の言葉をずっと考えていた。もっとも、オレの思考が一番回らない時は走るときだからあまり意味はなさそうだったが。
何のために走るのか、なんて今更の言葉だ。別に道徳じみたこと考えることはないけれど、オレが走る理由なんて分かりきってる。
涼しいから走る。体を温めるために走る。それだけだろう。他に何の理由もあったものじゃないはずだ。
家の前の小路に入ると、息が切れて、同時に体がどうしようもないほど熱くなってきた。体の周りを巻いていた清風が勢いが消えたからなんだろう。
そして、ここまで考えられるということは、足の状態は悪くない。違和感を感じない。
「ここまでだと、問題はないんだけどなぁ」
この程度、ジョギング程度の走りなら、違和感はない。問題は100m、全力疾走の段階。
(確かに、全力疾走が出来なかったら、オレじゃないよなぁ、輝友が言いたいのはそういうことか?)
家に入ると、リビングのほうから、コール音が聞こえた。どうやら、家で充電していたPHSが鳴っているらしかった。
液晶画面の瑛華の名前が表示されていた。
オレは電話に出るべきか、一瞬迷ったが、結局受信ボタンを押してしまった。
「はい、もしもし?」
『おー、渚。元気かー?」
「元気もなにも、さっき学校であってただろうが」
『中総体まで後一週間だな〜。足の状態は順調?』
「実は冬のあの時を、思い出してる」
なんでこんなことを言ったのかは、自分でも良く分からなかった。
ただ、それを口にして、一つだけハッキリしたことがある。体全体に強い慄きが体に走ったということは、まだこの出来事がオレの脆さの象徴であることを示す。
『冬の時って、徒競走で大怪我した時のこと? 順調じゃないの?』
「正直最悪なんだよ。走れる状態じゃないかもしれない」
輝友には威勢を張ったくせに、オレは今、何でこんなに弱気なんだろう。瑛華だからか?
(待て、瑛華だからって、どういうことだ?)
『どうせ、渚のことだ。強行出場考えてるでしょ』
「察しがいいな」
『これでも、目指す職業は医者ですから、観察力は命だよ』
「そうか」
一瞬、脳裏に瑛華の白衣姿を想像して、ぞっとしたけれど、確かに瑛華の白衣はやけにはまっているに思えた。なんとなく、だけど。
『あれ、話してなかったっけ』
「初耳だよ」
『だから、私の立場でいうと、渚には出てほしくない。分かるでしょ? どう考えても、その出場があなたの右足に悪影響を与えることは確かなんだから……でも』
「でも……?」
『私がこんなことをいうと、ひねくれ者のナギのことだ。ぜーったい強行出場するに決まってる! だからあえて言おう、勝手に出なさい!』
「そういうお前も大分ひねくれてるけど」
彼女の優しさに触れて嬉しい反面、この言葉に感動したオレがそのまま中総体を諦めてしまうのか、と思うと、なんだか複雑な心境になった。やっぱりオレは中総体に出たいらしい。
『ところでね、そんな渚を心配した由夏からデートの誘いだって』
「はぁ?」
『皆で街に出て、なんかおいしいものでも食べましょうってこと』
「その皆っていうのに、瑛華や輝友も含まれるんだろ」
彼女はその問いに具体的には答えなかったが「ふふ」と笑った時点で、察しはついていた。
瑛華にとって、要は街に詳しくないオレ達をやさしくナビゲーションするように見せかけ、結局おいしいものを食べたいだけなのだろう。
いつの間にか、二人は店の外で、伝票がオレの目の前に置かれてる、なんて良くマンガにありがちな光景が本当にありそうで怖い。あまりにもリアルに想像できてしまうので、戦慄も強かった。
『嬉しい? 由夏みたいな美人さんと食事って』
その言葉に体が反応する。
「やっぱりアイツって美人か?」
オレは間違えなく美人だと思うけど、由夏が他の女子と付き合うとき、オレの知ってる彼女とは少し異なって見えたことがあった。
男子からは「ベン」などと、褒め言葉なのか貶してるだけなのか、良く分からないあだ名で呼ばれているけれど、男子と付き合うほうが、なぜか違和感を感じない。
そんな状態は、決して仲がいいとはいえないのかもしれないけど、それなりには会話もするし、両者は楽しそうだった。
オレの突然の切り替えしに、電話越しからも彼女の困惑の様子が見て取れるようだった。
「女子の目から見て、やっぱり美人か?」
『私は内面的に素晴らしい子だと思うんだけど、外も可愛いし』
「そうか」
相手の瑛華は何故こんな質問をされたのか、少し理解に苦しんでいるようだったが、それも構わないと思っていた。
さっきから、あまりにお互いが分かりすぎていたので、逆に心配になっていたところだったし。
別にこの質問自体にさほどの意味があったわけではないし。
『じゃぁ、明日。時間は十時頃。多岐公園のベンチ前ね』
「分かった」
『じゃぁね』
受話器をつけた、耳元がぽわんと熱かったのは、気温のせいだけではないのだろう。
(明日、由夏はどんな服装なんだろう)
軽く想像して、頬を赤らめる自分が居た。
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2006/06/19(Mon)16:55:19 公開 /
ピカット
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■作者からのメッセージ
お久しぶりです。おぼえていらっしゃる方は多分折られないと思うのですが(汗
以前「星の見える町」を連載していましたピカットと申します。一時、創作意欲低下のため筆を止めていましたが、ようやく意欲が湧いてきました。
創作意欲が減った一つの原因として、原稿がなくなってしまったことがあるのですが、それを機会にと書きなおしてみました。よってまったくストーリーが違うのですが、アドバイスのほうをよろしくお願いします。
最低一週間に一回の更新を心がけたいと思います。
1/4 第一話加筆
1/6 第二話更新
1/7 第二話加筆・作品説明更新
1/15 スランプの中、第三話更新
6/19 再執筆開始