- 『手探りの日に。』 作者:碓氷 雨 / ショート*2 恋愛小説
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原稿用紙約5.9枚
幸福の不幸の中間地点。
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そうだ、あの日もこんな風にはらはらと雪が降ってた。あんなにも寂しがっていた彼の手を、あたし
は握り締めてこう言ったのだ。
「幸せだよ」
今となっては“其れ”が本当だったかさえ分からない。ただ、幸せを決定付ける何かがあるとしたなら、
あたしはきっと、探しに行った。
「あ、名残雪」
川沿いを歩きながら、躊躇無く穂波が言った。そしていつもどおりに笑いかける。
「もう春なのに、ね」
雪、というキーワードを聞いたあたしが体を硬直させたことに、勿論彼女は気づいていない。
「太陽は出てるのに。また寒くなるのかな」
寒さに弱い穂波が、不安そうにそう言った。あたしはそれに、無言で微笑んだ。静かに流れてゆく水の
音が、頭の奥に響いて心地よい。かばんに入れてあったマフラーを取り出し、あたしは首に巻きつける。
本当に寒い。雪が降ると突然寒くなる。周りはそんな風な動作を見せないのに、あたしだけは指先まで
凍えそうになる。それがあの日以来だということを知っている人は勿論いない。あの日のことも、彼と
あたしがあの日傍にいたことも、誰にも言っていないから。言っておかしな事情だったわけではないけ
れど、せめてあの日の形だけは、あたしと彼だけのものにしておきたかった。
彗というあたしの恋人は、雪に埋もれて死んだ。大きなトラックに轢かれて、大好きだと言っていた雪
に埋もれて死んだ。誰かが自ら飛び込んでいたのを見たというのを、聞いたことがあるような気がする。
人は誰しもが一人であり、地球も世界も人を必要としていない。それは事実であり、だから人間はお
互いの傷を舐めあい生きるのだということも知っていた。それを知っている二人だからあたしたちは惹
かれあったのだ。少なくともあたしはそうだった。だけどあの瞬間や、その他いくつもの瞬間は独りで
はなかったのだ。彼と二人きりだった、彼と時間を共有していた時たちは、いつまでも色あせることな
く輝いてるはずだし、今だってそうだ。――仮にそうじゃなかったとしても、そうだと信じなければ折
れてしまいそうだ。いくら変わらぬように彼を好きだと思っても、誰かにそれを伝えても、時は容赦な
く過ぎていく。覚えていた感触は消えうせ、知っていた形は変形していき、何度も見て決して忘れまい
と思ったあの瞳さえも今ではうろ覚えだ。あの愛しかった一つ一つの顔のパーツや、柔らかかった声、
日に透けるときれいな茶色になった細い髪、きれいな指先、あたしの名前を呼ぶ声、――彼がちとせ、
と呼ぶ時の声が一番好きだった――全て知っているはずなのに、思い出せない。まるで油絵のようにぼ
やけて、泣いてしまったらそれこそ何も考えられなくなる。何も。
ぴたりと穂波が足を止める。ぱっと顔を上げると数々の墓石が並んでいた。どうやらあの雪の会話か
らあたしは無言で歩き続けていたらしい。穂波は口元を微かにあげてあたしを見た。あたしは穂波と一
度だけ目を合わせる。
「ばかみたいって、思う?」
え? という穂波の高い声が、あたしの耳をすんなりすり抜ける。
「こんなに必死になって彼のために何かをしようとしても、もう」
あたしの表情が曇っていくのが自分でもわかった。
「……遅かったのにねえ」
はらはらと雪は落ちていく。音一つたてないで、静かに静かに、気配さえも感じさせずに。まるであの
日の二人がぽつぽつと落ちていくようだった。
遠くを見つめるように、だけど確かにあたしを見つめて、“あたしだけ”の笑顔を見せてくれる彼が
好きだった。とても、好きだった。
「素敵だったね」
穂波が突然こぼす。一瞬だけ目を閉じて、それから小さな声で言う。
「素敵だったよ。じゃれあいながら言葉を交わす二人が」
うん、と返事をしたあたしの声は、まるで空に消えてしまいそうなほどだった。素敵だったと言ってく
れても、彼は戻らない。何が原因だったのかもわからない。わからないけど、それでも。
「好きだったの。彼が凄く」
静かな音が聞こえる。いつの間にかあたしの肩に積もった雪は溶けて、彼のいる土の中は暖かそうにな
っていた。どこからか、彼の声が聞こえた気がする。
――俺も好きだったよ。
それがもしも自意識過剰な声だとしたなら、とても幸せな自意識過剰だと思った。
あたしは彼の前でしゃがみこみ、手を合わせてから深く目を瞑った。
fin.
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2006/06/06(Tue)13:22:49 公開 / 碓氷 雨
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