- 『モラトリアム』 作者:七つ色 / 未分類 未分類
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全角1811.5文字
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原稿用紙約6.45枚
段々と、蝉の声が頭を占めていく。
蝉で満たされた意識が、最後の人が飛び込んだ音で現実に引き戻された。
プールのこちら側では自分のノルマを泳ぎ終わった人たちがいくつかのグループに分かれて楽しげに話をしていた。
いつもなら私も適当に話に加わるのだけど、今日はとてもそんな気分じゃない。
そんな私とは対照的に太陽は燦々と輝いている。
お陰でさっきから顔が火照ってしょうがない。
私はもう一度プールに潜って、顔と、慣れない考え事をしているせいで熱を帯びた頭を冷やすことにした。
友達には好きな男の子がいて、その男の子が私に付き合ってほしいと告白してきた。
ただ、それだけ。
でも頭はそれ以来ずっと呆としたまま。
どんな答えを出せばいいのかさっぱり分からない。
亜紀は大事な友達だから絶対に悲しませたくない。
でも――。
私自身はあいつのことをどう思っているのだろう。
それが分からない間は簡単に答えちゃいけない気がする。
それはあいつにも亜紀にも失礼なことのはずだ。
そもそも私は告白されたのなんか生まれて初めてなのだ。
それでどうして冷静な判断ができるだろうか。
そこまで考えたところで息が続かなくなって水面に顔を出す。
ちょうど授業終了を告げる笛の音が耳に入った。
水泳の後はお腹が空く。
おまけに体がだるくなる。
四限だったのが幸いして教室には昼食をとったのち昼寝という生徒がほとんどだった。
カーテンを引かれた室内は、誰かが照明を消したお陰でほんのわずかに暗く、でも日光の暖かさは確かに窓から注いでいて、クーラーの設定は弱風。
寝るには最高の環境だと思う。
私も机の上を片付けて寝るためのスペースを確保しようと、出しっぱなしになっていたノート類を鞄の中にしまう。
鞄を開けたとき、一枚の紙が入っていることに気がついた。
そこには『今日の夕方6時にこの前の公園に来てください』と、一文だけ。
せっかくの快適な気分がちょっと害された。
これはアレだ。
とっとと返事を返せと、そういうことだろう。
「はぁ……」
自然とため息がこぼれてしまった。
「またため息ついてる」
亜紀の困ったような声が聞こえた。
「あ、ごめん。亜紀は起きてたんだ」
近くまで来ていたことに気がつかなかった。
さっきの手紙を見られてなければいいけど。
「うん。……最近ため息多いよ。何か悩み事?」
空いていた隣の席に腰をおろしながら私の顔を覗き込む。
まだ少し濡れた髪から軽く塩素の匂いがした。
「ちょっとね。でも――」
大丈夫、とは言えなかった。
亜紀の目は真剣で、まっすぐ私のことを心配してくれているのが分かった。
一度口を閉じて言い直す。
「心配してくれてありがとう。実はちょっとしんどいんだ」
そっか、と言ってからひと呼吸おいて、
「もし違ってたらごめんね。……告白された?」
亜紀は核心をついてきた。
誰からか、は確認しなくても分かる。
もう隠し事をしても無駄だろう。
「まだ返事はしてないよ。でも今日中には返事を伝えないといけない」
亜紀は辛そうに見えた。
うつむいて、唇を引き結んでいるのが分かる。
こんな表情をさせたいわけじゃないのに。
「亜紀――」
不意に顔があがった。
「大丈夫。わたしは大丈夫だから、ちゃんと考えて返事をしてあげて」
一番辛いのは自分のはずなのに、亜紀は私とあいつの両方を心配してくれている。
その思いを無駄にしないためにもちゃんと考えて答えを出さなければいけない。
それでも。
どうしても6時までに答えを出さなければいけないのだろうか。
そんなの風に急かされるのは何か……嫌だ。
教室に掲示されてる時間割を見る。
午後の授業は古典と数学と物理。
よし、サボろう。
鞄を手に教室を出る。
「え、どこ行くの?」
「ごめん。あいつへの返事はまた今度伝える」
背中越しに答えた。
亜紀には悪いけど、とりあえず手紙の件はすっぽかしてやろう。
しばらくは保留だ。
階段を一段飛ばしで降りる。
さて、新しくできた喫茶店にでも行ってこようかな。
廊下を普段よりも早足で歩く。
いや、バイト先に早めに行って手伝うのも悪くない。
下駄箱で外履きに履き替える。
あぁ、海に行くのもいいかも。
学校を出る。
外は暑くて、蝉がうるさくて、でも久しぶりに微風が吹いていて心地よかった。
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2006/05/07(Sun)17:28:24 公開 / 七つ色
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■作者からのメッセージ
はじめまして、七つ色(ななついろ)と申します。
この話のテーマは「逃避」です。
最近何かと決断を迫られることが多いので、「別に逃げてもいいじゃん」な感じの話を書いてみました。
でもやっぱり決断するときは決断しないといけないんですよね。
ここまで目を通して下さってありがとうございました。
批評・ご指導、よろしくお願いします。