- 『Works 第2章』 作者:火桜 ユウ / ファンタジー 異世界
-
全角56754文字
容量113508 bytes
原稿用紙約182.6枚
国内最北端の町、コズメア―――いずれ起こる運命の日の前に、ここでも物語は起こっていた。魔女狩りが終わって一年後に生を受けたケイン・ブラックホーンは、人々の様々な思惑の中で孤独に生きていた。やがて彼は少女と出会い、そこから運命は絡み出す。
-
<序章>
真っ赤に染まる空を眺め、彼は息を詰まらせた。
時間はもう既に夜を回っている。本来、空が朱に染まる時間はもう何時間も前だ。実際、彼は町に帰る途中で今日の夕日を見ている。
だがそれにも関わらず、空は真っ赤だった。
燃え上がる町を根元に。
「そんな……どうして……」
彼はたった一人、丘の上で生まれ育った町が灰になってゆくのを見ながら、ただそれだけ呟いた。
手元から、数冊の本が落ちる。半日掛けてまで行った別の町で買った本も、今の彼には意識の対象では無かった。
頭を抱える。
火の粉が風に乗って漂ってきては、頬や腕にあたる。熱さを覚えても、彼は振り払う事が出来なかった。
ふと何かの気配を覚え、顔を上げる。
朱に染まった空に、一つの影が見えた。何の支えも無い空にぽつん、と宙に浮かんでいる。
それが人間だ、と判断するのに数十秒は要した。
その影が片手を上げる。その瞬間、町から炎が伸びた。火は柱のように高く一線になったかと思うと、次には大蛇のようにうねり、町を呑み込む。
その炎の眩しさの中で、彼はその人影が女だという事に気付いた。
真っ赤に猛る炎を照明に、女が手を横に滑らせる。
ぽつ、と鬼火のようなものが女の上空で生まれ、渦巻いて徐々に大きくなる。その炎は巨大なつぶてとなり、町やその周辺に降り注いだ。
ただでさえ炭化し始めていた街並に、そのつぶては致命的なものだった。辛うじて輪郭だけは残っていた屋根という屋根を、炎の塊は何の慈悲もなく叩き潰す。
彼が生まれるずっと以前から、少しばかりの変革を経て続いてきた町の景観は、ハリボテよりももろ脆く崩れていった。
やがて、つぶての一つが、彼の方へ落ちてくる。
「…………!」
本能的に、彼は飛び退いた。爆音に近い音と共に、宙に浮いた体が衝撃に吹き飛ばされる。自分の跳躍よりも遥かに大きく飛びながら、彼はまたあの女を眺めた。だが彼が何を思うよりも早く、体が地面に叩き付けられる。少し離れた位置で炎が猛り出していた。
「……う…………」
受け身を取る間もなかった所為で、地面に頭を打ってしまった。視界がぐらぐらと揺れる。その中で、彼は炎から少しでも離れようと這いながら顔を上げた。
再び、町を見る。
先程よりも火の手が強くなった町は、まるで地獄を見ているようだ。
女は、ただそのまま空に佇んでいた。
彼は混乱しかけた頭の中で、その女を表すに相応しい単語を選んだ。
化け物―――否、それは少しばかり違う。それにしては、遠目に見てもその女は美し過ぎた。
風にかき回されて乱れているが、その飴色の髪は透き通るように滑らかで、澄んでいる。表情はさすがに判断出来ないまでも、非常に整った顔かたちをしているのだろうという事は、十四歳という若さの彼であっても、容易に想像が出来た。
飴色の髪―――その表現に、彼は覚えがあった。
昨日だったか一昨日だったかに読んだ歴史……人類の歩んできた僅かな時間の中でも、特に陰惨な事件。その発端となった一人の女。
それを思い出すと、言葉は一瞬で思い浮かべる事が出来た。
「……魔女」
彼が見ている事には全く気付いた素振りもなく、女は黙って町を見下ろしていた。
正確に言うのなら、町の中でも、特別なただ一点を。
はっとなり、彼はよろけながらも立ち上がった。頭を巡らせ、町を見渡す。
今度こそ、彼は背筋が凍るのを感じた。呼吸が止まる感覚に、はっきりと戦慄する。
この離れた丘の上からでもはっきりと解る建物。それもまた、炎に包まれている。
彼は蒼の双眸を見開き、喉を詰まらせた。唇が震える。
足下が崩れてゆくような感覚に、息が詰まり、膝に力が入らなくなる。
考えるよりも先に、彼はすくみかけた足で走り出した。燃え続ける町の方へ、真っすぐに駆け下りる。
途中で何度か足がもつれ、転ぶ。地面から突き出ていた木の根や小石にぶつかるも、体勢を立て直すのもままならないまま走る。それでまた転ぶ。
しかしそれでも、咳き込みながら彼は走り続けた。流れて眼球に刺激を与えてくる汗を拭いもせずに、ほぼ転がるように駆ける。
乾燥した喉が、発火し始める。
それは錯覚だろうという事を断言するのは、何よりも簡単だった。
だがそう思わずにはいられぬ程、乾いた喉も舌も、ひりひりと痛んだ。乾きをごまかそうと唾液を飲み込んでも、一層痛みが強くなる。
口腔内の苦痛にむせながら、彼は憎々しげにうめいた。
「彼女が……んだら……!」
声は、周囲の音にほとんどかき消されていた。遥か上空から飛来する火球が、全てを薙ぎ払い、弾き飛ばしてゆく。木造の家屋は紙の玩具のようにひしゃげ、炎の中で炭化し、次に直撃した火球によってぼろぼろと崩壊する。
その中を、彼はただひたすら走っていた。
炎に包まれて既に半壊しかけた町は、思いのほか静かだった。音と言えば、建物が耐えきれずに倒れる音と、炎の上げる猛り声。
時折、何かにつまづき、地面に触れそうになる。だがその度に、彼は強く地面を踏みしめ、無理矢理体勢を保った。そのせいで膝に痛みを感じたが、構わずに走り続ける。
もう何十分も全力で走り続けている。
体力がもつはずがないと、人間の機能をよく知る者は言うかも知れない。だが一方で、普段は眠っているだけの、爆発的な力があるのだと言う者もいるだろう。
実際は、どうでもいい事なのだとも知らずに、論争ばかりを繰り返す知恵者の戯言なのだが。
走ったところでどうにもならないと、冷淡な声が告げてくる。
だが、彼は振り払うように腕を大きく振り回した。
乾燥した樹木が焼ける臭いと、血液も内臓も中に封じたままの生肉が焦げる臭いに、胃の奥から迫り上がってくるものの気配に、顔をしかめた。
「貴方を……恨むぞ!」
だが聞いているとも解らない空に向かって、彼は怨嗟の念を声で示した。
◆ ◆ ◆
私は、彼女の幸せの為に戦おう。
彼女を不幸にするのならば、私は神とも戦おう。
彼女は毎日のように神に祈るが、私が祈り、付き従うのは彼女だけだ。
それが、私が生まれ落ちた唯一の意味だ。
私が何を信ずるべきかは、私が知っている。
私が何を守るべきかは、私が決める。
私は何も望まない。
巨万の富も、千里先に届く名声も。
例え手にしても、それは私が仕える彼女の為のもの。
だから手に入れたものが何であれ、捨てる覚悟は持ったその時からここにある。
彼女が必要だと言えば、手段をいとわず手に入れよう。
彼女が捨てろと言えば、躊躇もせずすぐに捨てよう。
しかし、彼女の為ならば私は何でもしてみせる。
後ろ指を刺されようと、罵られようと。
私は、彼女の幸せの為に戦おう。
彼女を不幸にするのならば、例え何を犠牲にしても立ち向かおう。
それが自身の腕であり、あるいは足であり……命であっても。
彼女が救われ、幸せになれるというのならば、私は何でもなげうてる。
幾千の敵兵であろうと、戦ってみせる。
凶悪な魔物であっても、挑んでみせる。
不可視の力であっても、防いでみせる。
それが、残酷な運命でしかなかったのだというのならば……―――
◇ ◇ ◇
ゴミ置き場に、小さな体が突っ込む。
ケインは突き出した拳を引き、蒼い目に掛かった銀色の前髪を払った。
驚いた顔で殴り飛ばされた少年と、それよりもいくらか背の低い彼を交互に見る周囲の少年たちを鼻先で笑う。
それに気付いた少年の一人が、怒りに顔を赤く染めて掴み掛かってくる。
「てめぇ、何のつもりだよ!」
それを皮切りに、十人以上もの少年たちが彼に殺到する。
麻色の襟元を掴んでいた少年が、拳を振りかぶる。それが彼の顔に向かって突き出されるよりも先に、ケインはその手首を捕え、捻り上げた。
ぎりぎりと音がする程あらぬ方向へ捻られ、喚き散らす仲間に、少年たちはやや身を引いた。
「何のつもり、だと?」
その様子を楽しむように、ケインは口の端を不敵に上げた。
「こういうつもりだって言ったら、どうするんだ?」
その言葉に、腕を捻られている少年は戦慄を覚えた。わずか十四年しか人生を歩んでいなくとも、その言葉の裏にある彼の真意に気付いたらしい。罵倒は、泣き叫ぶ声に変わった。
「やめろ!いやだ、やめてくれよぉ!」
「おいおい、あんまり暴れるなよ。手元が狂うだろ」
そう言いながら、彼は別の方向に捻る。
もう既に、少年はただ痛みに叫ぶだけだった。それを見て、さすがに周囲の少年たちも彼がしようとしている事が解ったらしい。焦り、顔を蒼白にさせ、一人が彼に飛び掛かる。
だがケインは、それを無造作に蹴り飛ばした。土煙を上げ、少年が体を折って地面に体を滑らせる。
自分たちとそう年の変わらない、そして小柄な部類に入る彼の意外な力量に、少年たちは驚きで声も出ないようだった。
見る者が見れば、彼がその年に似合わない程整った体付きをしている事に、気付く事が出来ただろう。
無駄な部分は一切ない、しかし必要な部分は隙もなく鍛えられている、年端も行かない少年の体を見、一体何をしているのか疑問に思う者は少なくない。
だが、国内最北端に位置する、このコズメアの町の周囲に広がる渓谷や山々を駆け回る彼の姿を見れば、おのずとその疑問は解かれるに違いない。
しかし、彼の日常を知る者は、非常識と言って良い程少ない。そもそも、彼に関わろうとする者自体、ほんのわずかな人物しかいなかった。
彼よりも年を重ねた者は、哀れみながらも寄ってはこない。疎ましそうに眉をひそめる者もいるが、どちらにしろ関わろうとはしなかった。
唯一寄ってくるのは同年齢か、一つか二つ年上の者たちだ。面白半分で話しかけてくる事が多いが、大半はこうして難癖をつけて憂さ晴らしでもしようかとしてくる。
もっと幼い頃は、多勢に無勢で抵抗するのすら虚しかったが、今では逆に追い返せる程にまで彼は力を付けていた。大人たちですら近付かないような大自然の中で自分を鍛え上げたのは、半分はこういう輩への対策からだった。
捻り上げて数分は経ったか、少年はもう半分絶叫している。
喧しさに顔をしかめると、何を勘違いしたのか少年はより声を上げて体をよじった。
さすがに本当に折ると面倒だと思い、ケインはとっさに手を離した。地面に転がってから、必死に駆け出して逃げる少年の後に、他の仲間たちもばらばらと続く。
ケインは嘆息しながら、その場に落ちていた本を拾い上げた。
三冊ある内、二冊は彼より一回りは上の者が読む本だ。そもそも彼と同い年の子供は、読書の時間を作るよりも友人たちと遊び回る方を優先する。
それを考えると、彼は目立つ目立たないに関わらず、同年代の少年たちからは変わり者の部類に入り、それはそのまま取り囲む口実になる。活動的な少年たちは、本を好むような大人しい相手を標的にする。例え相手が内向的でなくとも、異端な存在と見れば彼らは同じ事だ。
市民学校でもそういう事はよく起こる事で、それが問題になった事も少なくない。
ただその学校内で起こるいじめと、ケインに降り掛かってくる騒動は、発端が同じでも結果は異なる。それは先に述べた通り、彼の日々重なる努力のたまものだった。
だがもう一冊は、これは先の二冊とは真逆の意味で、彼には似合わないものだった。
表紙に馬に乗った騎士が描かれた、薄い児童書だ。薄いのに造りがしっかりしているのは、おそらく子供が読む事を想定されたからに違いない。騎士は、どう見てもどこかの王子のような身なりをしていたが、絵本の主人公というものはそういうものなのだろう。
表紙だけで、それが実にありきたりな物語であろう事は容易に想像出来る。
野で体を鍛え、独学だけで頭脳を育て上げてきた彼にとって、童話の類いは不似合い所か異常とも言える。
しかし、ケインは参考書二冊を小脇に抱え、その絵本の表紙についた埃や砂を払い、麻色の服の裾で足跡や汚れを拭き取った。
その手付きは、今までの行動とは打って変わって丁寧そのものだ。吊り上がり気味の碧眼で、本の隅から隅まで見直し、借りてきた時と同じくらいまで汚れが落ちたか確認する。
元々、図書館の中でも特別奥まった場所に押し込められていた本を、どうにか探して引っ張り出してきたものだ。かなり古ぼけて、紙も大分痛んでいる。多少汚れたくらいで、目立つものではなかった。
改めてそれを確認し、ケインはほっと胸を撫で下ろした。まるで何かを愛でるように、その本の表紙を指の先で撫でる。
そこでやっと、彼は年相応の表情を見せたとも言えた。無論、それを見ている物好きなどいないのだが。
ケインはその絵本も抱えると、足早に歩き出した。
予定していたよりも、幾分か時間が掛かってしまっている。急いだ方が良いのかもしれない、と胸中だけで呟き、ケインは歩き慣れた道を急いだ。
彼が進む道が、誰が言うのでもなく、開けてゆく。
疎んだ目で彼を見る者、気付いていながら知らぬ顔でいる者、その目の色は様々だったが、皆一様の反応であった。自分は関わりない、余計な厄介事には関わりたくない、それ故の疎遠。
それが悲しいなどと思った事など、彼にはなかった。そう思うには、周囲がそうする時間が長かったし、彼が物心つく頃にはもう既にそういう状況が出来上がっていた。
彼にとって、それは当たり前の事でしかなかったのだ。
ずっと昔から―――それを疑問に思う隙もない程昔から。
<呼ぶ、声>
ケイン・ブラックホーン。
時折自分で確認しなければ、とうに忘れていたかもしれない。
決して脳に異常があるのではない。呼んでくれる相手がいなかっただけだった。
だがそれに気付いただけで、どこからともなくひょっこり現れる訳がない。だから時折、自分で確認しなければならなかった。
母親は家にいたが、やはりそれもそれだけの事でしかない。
彼は、ある冬の日に生を受けた。
なんて事のない出産だった事を、覚えている者はほとんどいない。それよりも、彼が一歳と半年になった頃に疾走した父親の事の方が有名だった。
数年前にフラリと現れ、町で評判の美貌の持ち主、そして孤児として知られていた娘と結婚し、一子を授かったや否や姿を眩ました男。
酷い男と、哀れな女。
その間に生まれた子。
愛情を知らなかった娘が、初めてすがり付いたと言って良い愛情。
その途端に裏切られた。その結果がどうなるかなど、他人が知る由もない。想像も出来ない。
女が、愛した男に捨てられた事を忘れる為に、どんな事をしたか。どんな事を選んだか。
食事を与えられた覚えはない。記憶も定かではない時には、それなりに食べさせてもらっていたであろう事は解るが、覚えていなければ仕方がない。
彼は何も言わない。
泣きもしない。喚き散らしもしない。
他人も何も言わない。
構いもしない。関わったりはしない。
例え大勢の子供に取り囲まれ、口の横を腫らしても、額を切っても、彼に差し伸べられる手は一つとしてない。それに、彼はそういった腕を求めたりはしなかった。
彼にとって、全ては他人。実の母親であってもそれは変わらない。否―――母親という概念など、彼には元よりなかったのだ。
母は、寄せた愛情がはね除けられた事を認める事が出来ず、それをなかった事とした。
それを知ったのは、彼がいくらか年を重ねてからだったが、知ろうと知るまいと、何も変わる事などなかっただろう。
小さな体に不釣り合いなタイトルを取り揃えた本を抱え、道を行く。
銀色の髪と、蒼い瞳。それだけで彼は目立ち、それが彼にとっては不運であった。
その銀色も、蒼も、父親のものを受け継いだものだ。彼以外に、町にその色を持った者は誰もいない。
明らかにサイズの合わない服は、おそらく家の中から探し出して着ている物なのだろう。膝を隠す程もあるシャツが誰のものであるのかなど、知ろうとする者はいないが想像出来る者は多い。
彼が食べるものは、家のバケットの中から黙って持ち出す、乾いたパン。
喉が渇いたならば、どこかの家の庭先に忍び込んで、そこの井戸から拝借する。水くらいなら、食べ物程とがめる者もいない。
それでも腹が満たされないのならば、揚げ物屋の廃棄箱の中を覗いてみても良い。捨ててすぐの物であれば、腹を壊す確率は低い。
半ば、孤児―――いや、今は孤児でも、施設に行きさえすればそれなりに食べ物は揃っている。安全も保障されている事も多い。
彼の生活は、ほとんど浮浪者に近いものがあった。
彼がその人々と異なる一線は、独学でしかないとは言え、不相応とまで言える程身に付いた教養だ。
革製の紐で束ねた本を手に、駆ける。
出来るだけ表通りを歩かずに、裏通りを走って進む様は、事情を知らない者が見たらさぞかし不思議がっただろう。
だが、時間さえ選んでしまえば、彼にとってはむしろ、裏通りの方が安全だった。
大通りを歩けば、非力で目立ち気味の自分は何かと因縁をつけられる。いくら険しい山々を走り回っていても、数や暴力の前に六歳の彼はあまりにも無力だった。
予測し易い道と、安全だと予測し易い時間を選ぶ。それだけで、勝手は随分と異なってくる。
事実、彼は今も、何の苦もないまま開いた場所に出る事が出来た。
明らかに他とは一線を引いた建物。そこはいつでもちらほらと人が出入りしている。だが、彼はその門へは近付かず、裏手へ回った。
建物の壁を回り込んでゆくと、一層開けた場所に出る事が出来る。
柵に囲まれたそれを迂回して、粗末な石の階段で丘を上がると、古いケヤキの大木が立っている。
元々森だった場所を拓いた名残の木らしいが、珍しい花も咲かせない大木一本を―――ましてや墓地の裏に生えている木を見に来る者などいるはずもない。彼自身、この木を見る為に来ているのではない。
彼は腰のベルトに、本の束に結んだ革紐を括り付け、慣れた手順と手付きでその木を登り始めた。
程なくして、ほうきを逆さまにしたような格好の葉の大群の中に、体がすっかり隠れる。そうしてから、彼は丈夫そうな太い枝の一本に腰掛け、膝の上に本を置いた。
紐を解き、落ちないようにバランスを取りながら本の一冊を開く。
歴史関係の本にしては、かなり難解な部類に入るそれを、彼は一文字一文字、単語一つ熟語一つの意味を丁寧に追ってゆく。
この様子を見た者は、父親と母親に何の問題もなく、一般の子供と同じような教育を受けていたのなら、天才と称され、今頃四つも五つも上級の学校に入る事も出来ただろうと思うだろう。
彼自身は知り得ないが、彼が通う図書館の受付嬢は、常々そう思っていた。
だが、そんなものは幻想でしかない。
彼がこうして、率先して勉学に勤しんでいるのは、簡単に言うと、彼を取り囲んでは間抜けな暴力を振るってゆく同年代の子供たちと、決定的な線を引きたいからだ。
自分は、彼らには決して劣っていない。そう信じている。
不意に、風が吹いて木の葉を揺らす。古い樹木は細い枝の先だけ震えさせ、彼の座る枝は全く微動だにしなかった。
ここで本を読むのは、この大木が唯一彼を守ってくれる存在だったからだったかもしれない。葉の広い巨大な広葉樹は、彼がここにいる事を隠してくれる。雨風も―――まぁ、あまり激しい時はここに来る事すらないのだが―――多少はしのぐ事が出来る。
だが最大の理由は、ここが小高い丘の上で、一番低い枝の上に登っても、葉の合間からコズメアの町全体を覗く事が出来るからだった。
木の葉と木の葉の間から覗く事が出来る景観は、額縁に入った風景画と言っても良い。
春になれば花が咲く丘、その後は新緑、夏には遠くに望む山の尾根が光り、秋はそれが一転して色づく様、冬は確かに寂しいが、雪化粧を施された大地は、寒さを感じさせない程輝く。
そして、それらの中で変わらない、整然とした町。
大自然の真ん中に佇む、町。
国内最北端は伊達でなく、小さな町だ。村、と呼んでもさして問題はないだろうが、住民や自治体は嫌がる。それなりの警備体制は国から授かっているものの、ただそれだけでしかない、片田舎にある集落と言って良い。
そんな小さな集団の中に、ぽつんと疎外されて自分がいる。
悲しいとか、苦しいとかいった感情は彼にはなかったが、時折疑問に思う事がある。
何故、こんな矮小な中にいても、外れ者とそうでない者が生まれてしまうのか。
彼と同じ年代の子供が通う市民学校が良い例だ。
町から少し離れた位置にある、馬車で一時間の教育施設に行く子供は多い。町の中にはなく、市民学校と名が付いてはいるが、そこはこの町に住む子供たちの大半がひしめき合っている。
矮小な中に存在する、それよりも小さな集団の中ですら、疎外者は必ず生まれて迫害される。追いつめられる。自分と他者の違いに残酷な、人間の特性とも言えるものが、彼には理解出来なかった。
歴史上でも、規模は大きいが、同じような事が何度となく繰り返されてきている。
彼が生まれる一年前に、一応は終結したらしい魔女狩りもその一つだ。
土地ごとでその規模や残虐性は異なるようだが、魔女と摘発された者は皆一様に悲惨な末路をたどっている。
町や村を追われた者はまだ良い方で、公開処刑や無期限の投獄の例も多く、特殊なものになると、何とも確信がないままに、住民たちの手によって私刑にされた者や、わざわざ寝ている間に家に火を付けられて死んだ者もいる。
そもそも、魔女と一般の人間をわける境界線そのものが曖昧すぎる。
それ故、気に入らないからという理由で隣人をおとしめた者もいたとか。それもまた、人間が表に出そうと裏に隠そうとしても有している、野生の獣よりも残酷で陰湿な部分の現れだ。
しかし、それは避けようがない。
人間自体がいないどこか別世界にでも行かない限り、誰も彼も関わらなければならない。
それが解っているから、彼はせめて一時的にでも彼らに関わらない場所として、この孤独な大木に登っているのだ。
この枝に座っている以上、何が起きてもそれは足の下の事だ。足の下で起こっている事は、それがどんな事であろうと無干渉。無関係で済む。
それは、日が沈むまでのごく限られた時間内の事でしかなかったが……。
「ねぇ」
どこで何が起きようと、誰が何と言おうと。
「ねぇってば」
「…………」
きっと気のせいだと思っていた声がまた聞こえ、彼はバランスを崩しかけた。なんとか保って、本も落とさずにその場に留まる。
見下ろすと、彼の座っている枝よりも下の枝に、少女がいる。
太陽の光をそのまま繊維にしたような髪を後ろで束ね、夏の晴れ渡った空を閉じ込めたような瞳。額縁の中に収まっていても違和感はない、そんな印象を受けた。
だがそんな少女が、地上から五メートルは離れた枝によじ上ろうと体を動かしているのだ。何か信じ難いものを感じる。
スカートの端を適当に結い、白い足を大きく見せている。いくら彼と同じ程とは言っても、少女だ。いかがなものかと思う。
彼のものよりも遥かに小さく弱々しい手で枝に指を引っかけながらも、彼女は見上げて笑ってきた。透けるように白い肌。その指先が、無理に力を入れている所為で一層白くなっている。
「遊ぼう」
「…………」
正直、何を言っているのか解らなかった。
「いつもここにいるでしょう?暇なら、一緒に遊んで」
ただ、その少女の放った言葉に反応した。
いつもここにいる―――
それを知っている者がいた。その事に、彼は酷く驚いた。
するりと別の枝へ移り、足を引っかけつつもほぼ飛び降りに近い形で木から下りる。
「あっ……」
悲しそうな声を出す少女を一瞬だけ見上げて、彼はその場を後にしようと踵を返した。
「待って。行かないで」
泣き出しそうな、少女の声。
ほんの気まぐれで、もう一度見上げる。少女は何とか素早く木から下りようとしていたが、それでも怖がってか、なかなか思うように動けないようだった。
ため息一つ、彼は待つはずもなくそこから立ち去った。
「ねぇ、何か話そうよ」
ベンチの後ろから顔を出してきた少女に、少し驚く。
手にしていたパンをを小さくちぎって口に入れ、彼は黙って咀嚼した。
「何でも良いの。石遊びだって出来るよ」
最後の一片を急いで飲み下し、彼はその場を離れた。
「ねぇ、お腹空かない?」
河原で寝ていると、いつの間にかあの少女が隣に座っていた。手には、買ったばかりらしきビスケットの包み。
少女はそこから一枚を取りって自分の口に運び、もう一枚出して彼に差し出した。
この少女が、どうしてこうするのか理解に苦しむ。自分とは何の接点もないはずだ。一体、自分のどこを気に掛けているのか。
彼は碧眼を細めた。まだ幼さの残る顔かたちでは、睨んでもそうとは見えない。少女は変わらず笑ったまま、ビスケットを差し出していた。
はね除けるまではしなかったものの、彼はそれを無視して立ち上がった。
「この本ね、すごく面白いの」
そう言って手にしていた本を掲げる。幼児が見る絵本とは異なるものらしかったが、それでも面白いと言われようが興味は無い。文字が少々多いだけの絵本だ。彼が読むものとはほど遠い。
「この騎士様の言葉がね、とってもいいの」
騎士道物語だったらしい。
そういえば、表紙に描かれた絵もそれを示しているようだ。
聞きとした表情で語る彼女の声は、静寂な図書館によく響いた。元から少し高い声だ。ひそめてもその声は周囲に丸聞こえだろう。ちくりちくりと視線を感じる。
いつも町を歩いていても感じる、疎ましさを含めた視線と、純粋に迷惑を訴えてくる視線。慣れたつもりでも、受けて気持ちの良いものではない。
彼は教本と辞書を本棚に返しに行く振りをして、そのまま図書館から出た。
「雨宿りとか、しないの?」
金髪が額や頬にべたべたと張り付いてくるのを気にしながら、少女はやはり彼の後ろを歩いていた。
それほど強くはないが、雨は雨だ。普通ならば、大人でも慌てて軒下に入る雨天の下、少年と少女が二人だけ、距離も変えずにただ進んでゆく。
「そこから見える町って、どんな町?」
時々、この少女はいつも以上に訳の解らない発言をする。そんな事まで分析出来るようになってしまった。
スカートをたくし上げて登ってくる少女に、彼は一瞥を与えた。
訊かれた言葉の意味が解らない。町は町だ。何も変わらない。あったとしても、日々見ていると気付く事すらないような、微々たるものでしかない。
黙っていると、少女は構わずに登り続けた。最初にこの少女に声を掛けられてから幾分か経つが、いくら邪険にしても、けろりとした顔で付いてくる。
もう既に苛立ちにも慣れてきていたが、どんなところでも付いて来なくてもいいだろうと思う。
少女の指が、彼が登る際も使う出っぱりに引っ掛かる。最近、この少女は木に登るのが早くなってきた。最初の時のように下りて去ろうとしても、すぐに追いつかれる。
他の方法を考えなくてはならない。
そう考えた直後だ。耳慣れない音が聞こえた気がした。
ぴしり、と小さな音が一つだけ。
いぶかしみ、目だけで周囲を見回す。念の為に、自分の座っている枝の根元を見てみるが、何の変化もなかった。
「人形の家みたいだって思わない?それとも、積み木とかブロックとか……」
少女の見当外れな問い掛け。
そのすぐ後に、また音が―――
「―――っ!?」
殆ど本能的に、彼は手を伸ばしていた。支えになっていた出っぱりが皮ごと剥がれ落ち、重力に従って落下し始めていた少女の手首を、届かなくなる寸前で捕える。
悲鳴を出す手前だったのだろう。彼女は呑気に、目を瞬かせた。
彼は黙っていた。
黙ったまま、ゆっくりと少女の腕を持ち上げ、体を引き上げてやる。そこでやっと、少女は自分で動き、彼の座っている太い枝にしがみついた。微かに震えながら、必死に体勢を立て直そうとする。
もう大丈夫だろう。
そう思ってから、彼は自分のした行動に気付いた。別の枝に飛び移る。
「待って」
やっと体勢を保てたというのに、少女はすぐにまた下りようと、幹に足を掛けた。
が、やはり一度落ち掛けて怖いのか、身に付いていたはずのスピードが元に戻っている。
彼は無視して、枝や幹をつたって下りた。
「待ってってば」
町の方へと歩き出す背中に、少女の泣きそうな声が当たる。
どういう事なのか―――彼に、初めて罪悪感が生まれた。
悪い事など、何一つとしてしていないというのに……ただ、今までどんなに無視して
も、彼女はそんな声を出してはこなかった。だから、妙に気になってしまった。
でも、ただそれだけの事。
彼はそう断定し、足を進めた。
「―――ケイン!」
足が、止まる。
地面に、まるで凍りついたかのように貼り付く、錯覚。
今、誰が自分の名前を呼んだ?
「ケイン、待って」
少女が走り寄ってくる。
まごまごして下りていたのを考えると、どうやらしばらくの間、硬直していたらしい。
息を切らし、小さな肩を上下させながら、少女は膝に手をついた。そこでやっと、彼は自分が思わず振り返っていた事に気付いた。
水を含んだかのような、丸くて大きな碧眼が彼の姿を映し込む。
しばしの逡巡の後、彼女はわずかに紅潮した頬と、上擦った呼吸を整えた。
「……ありがとう」
それだけ言い、彼女は微笑を残して駆けて行った。
<呼ぶ、名>
墓地の見える丘の上に、昔からずっと変わらずにケヤキの木が立っている。
ケインは三冊の本を抱えたまま、その場をぐるりと見回した。
「マリア」
静かな中に、彼の声が響く。
「マリアどこにいる」
もう一度、彼は周囲に視線を巡らせた。以前から変わらない景色が、ただそのままある。他に何も無い。
ケインは顔をしかめた。
「マリア!さっさと出てこねぇとどうなるか解ってんだろうな!」
「は、はい!はいはい!ここにいます!」
半ば泣き叫ぶように、ケヤキの木の枝の上から少女が顔を出す。
色素の薄い金色の髪―――パールブロンドとでも言うのだろうか―――背中まで真っすぐ伸ばされたたそれに、面の広い葉が何枚か付いている。彼を見つめ返す瞳は、彼のものよりもいくらか明るい青だ。
令嬢とまではいかないが、それなりに気品ある部分は揃っている。が、健康的に日焼けした肌を見る限り、マリアは普通の少女だ。
ケインは鋭く少女を睨みながらも、木を降りようとする彼女に手を伸ばした。条件反射のようにその手を取る少女の手を、掴んで引く。
それは乱暴に引き寄せるようでもありながら、手付きそのものは壊れ物を扱うように。
地面に降りた彼女の頭に乗っている葉を全て払い落としてから、にこりと笑いかけながら、ケインはその鼻を強くつまんだ。
「痛い、痛い。ちょっと、痛いって、ケイン兄!」
「なぁ、マリア。呑気なもんだな。出向かいもしないでかくれんぼか、あ?」
じたばたともがくマリアに、ケインは彼女の鼻から手を離しながら、意地の悪い笑みで腰を屈めて顔を寄せた。
「か、隠れてなんかいないよ」
「へぇ。じゃあ何してた?」
問い掛けると、マリアはわずかに顔をそらした。拒絶するまでではなくとも、助けを求める目線で、何も無い宙を見やる。
ケインは間髪入れずに、彼女の顎を掴んで自分の方へ向けさせた。小さく悲鳴を上げる彼女に苛立つものを感じ、目を据わらせる。
彼女がだんまりを決め込もうとする時、その理由を想像する事は容易い。
それは単なる勘などではなく、今までの経験からだった。育った環境からか、普段は緊張感も危機感も何も持ち合わせていないくせに、自分に都合の悪い事柄に対しての防衛には異常な程にかたくなだ。
しかし、いかにかたくなに守ろうとしても、彼の前でそれは無駄なでしかない事は、マリアは十分解っていた。それでもいつも同じようにしてしまうのは、一種の意地のようなものであった。何の抵抗も出来ないのは、何かとしゃくなのだ。
だが、やはり彼女の抵抗は力がない。
顔を無理に固定され、目だけそらしている彼女の顔を覗き込みながら、ケインは口角を上げた。
「……喰うぞ」
その一言に、マリアの顔色が変わる。音が聞こえるかという程、血の気を引かせる。
「別に俺はそれでも構わねぇんだけどよ」
「ごめんなさい、寝てました!」
早口で、マリアは顔を赤くして謝った。
今年で十二歳になる彼女にとって、待ちくたびれて木の上で眠ってしまうというのは、何とも恥ずかしい事らしい。
だが、彼にとってはそれよりも。
ケインはそれまで辛うじて笑みと呼べていたものを退かせ、目を完全に据わらせた怒りの表情で、再び彼女の鼻を引っ張った。
「落ちたらどうする気なんだよ、お前は。登るな。いいな?」
「だってケイン兄……」
「いいな?」
「……はい」
有無も言わさない声と形相に、マリアは萎縮しきって頷いた。
うな垂れるマリアに、ケインは小さくため息をついて腰を戻した。
声変わりも始まったからか、そろそろ背も伸びてはきた。が、彼はまだ背が低い部類に入る。だがそれよりも小柄な彼女は、どう良く考えても、もう身長が大きく伸びる事はない。後数年もしたら、腰を屈めるぐらいでは顔の高さを合わせる事が出来なくなるかもしれない。
そんな事を考えてから、ケインは抱えたままだった本の事を思い出した。
分厚い二冊はそのまま、薄っぺらな絵本を取り出す。それを見、マリアは声を上げた。
「その本……」
「ついでだ。借りてきた」
白馬に乗った騎士の絵が描かれた本に目を輝かせる彼女に、ケインは今度こそ嫌味も裏もなく、小さく笑った。
差し出してやると、マリアは迷わずそれを手に取った。表紙を眺め、引っくり返して裏表紙を見、そしてまた表紙に戻ると、そっと開く。
少し痛んだ上紙、もう一度書かれた本のタイトル。それらを丁寧に立ったまま目で追ってゆく彼女に、ケインは呆れるものを感じ、手を引いて木の根元に座らせた。
地面の上に直に座るのは、椅子や絨毯の上に座るのとは訳が違う。長時間そうしていると、比でない程疲れてくる。だが木の上でも寝る事が出来る神経だ。予想通り、そうする事に何の文句もないようだった。大人しく座り、何でもないとでも言うように本を読み進める。
市民学校に通っていれば、彼女も中等部に入る事が出来る年になる。その辺りをもう少し自覚してくれればと時々思う事があるが、別にそんな事はどうでも良かった。
ケインもまた、自分の本を開きながらその場に腰を下ろす。
彼女の読んでいるものとは字の大きさが半分程も違ってくるが、彼は特に何の苦もなく、彼女と全く同じようにページをめくってゆく。
これで視力が落ちないのは、ある意味奇跡なのかもしれない。
静まり返るが、それは互いにとって気分のいい静寂だった。マリアは知らないが、町での一騒動を起こした張本人とは考え難い程の穏やかさが、今の彼にはある。
最北端の地でも、初夏の日差しは心地良いものだ。それは眠気を誘ってくる。
読みふけっていたマリアは、不意に感じた睡魔にまばたきをした。あくびをかみ殺し、気付かれないように努める。
「眠くなったのか」
きっぱりと当てられ、マリアは目を丸くして彼の方を見た。彼は先程と全く変わらず、本に目を向けている。おそらく、彼女に声をかけた時もそうだったのだろう。
彼女にとっては努めたつもりでも、ケインにとっては全くの無意味な行動であった。その事に少々落ち込むものを覚えるが、そんな事ですら彼女にとっては承知の事だった。
「……ケイン兄って、何でそんなに鋭いかな」
彼に敵うはずがない。
彼に隠し事は出来ない。どんな小さな事であっても、彼は決して見逃さずに暴いてゆく。それは嘘の言葉でも、表情の変化でも、掌に握り込んで隠したものであっても同じ事だ。
例えこんなに些細な事であっても。
それを否定出来ない事は、以前から解っている。解っているから、余計に始末が悪い。
「……時々気持ち悪い」
「ほぉ」
ぱたん、としおり代わりに何かを挟む事もなく、彼は本を閉じた。滑るように振り向いてくる彼の顔に浮かんでいるものに、マリアは自分の失言に気付いて後ずさった。
「言うじゃねぇか、マリア。それなら俺も容赦しねぇ」
「えっとあの……」
本を胸に抱き込んで、マリアは座ったまま後ろへ下がった。勢いを付けて、一瞬で立ち上がって去ろうと考え、足に力を入れる。
だが、それが彼に解らないはずも、間に合うはずもなく、あっさりと手首を捕まえられた。
ケインのねめるような視線に、さすがのマリアも自分が地雷を踏んでしまった事に気付いたらしかった。
「怯えんなよ。まだ何をするとも言ってねぇだろ。……まだ」
最後の「まだ」を妙に強調する辺り、何かする気ではあったらしい。その事に気付き、マリアは更に引きつった声を上げた。
声は優しい。だが目が笑っていない。否、笑ってはいるが、それは先程までの笑みとは方向性が全く異なる。言ってしまえば悪魔の笑みだ。
体を強張らせて身を引こうとするが、力で敵うはずもない。
「ごめんなさい、ごめんなさい!私が悪かったです、馬鹿です、浅はかでした!」
彼女がそう早口にまくしたてると、ケインはにやり、と音が付きそうな笑みを浮かべた。
逃げようともがくも、やはり意味はない。いよいよ危機的な状況になってくる。
「……で、覚悟は出来てるか?」
「出来ないから謝ったんだけど」
「はっ、立派な減らず口だ。喰われる準備はいいって意味だよなぁ?」
「よくない、よくない!」
身をよじってまで首を振って否定するマリアに、ケインは意地の悪い笑みに、更に黒いものを交えた。
「いつも言ってるだろ。お前に拒否権はないんだよ」
「酷い!」
例え独裁者でも簡単に言わないような言葉を、ケインは何の迷いも悪意もなく、ただ当然の事として言い切った。
さすがに、その言葉にはマリアも彼を睨み上げた。しかし丸い目を必死に吊り上げてみせるものの、相手が悪いのは自覚している。無表情の彼の方が、いくらか鋭いだろう。睨まれている当のケインには、何の変化も見られない。
だがここで臆しては身が危ない。喉の奥に退き掛けた言葉を止めたのは、その直感からだった。
「そ、それ以上何かしようとしたら、墓地で喚くからね!」
「おいおい、反則だろ、それ」
呟いて舌打ちしながら、ケインはやっとマリアの手を離した。
動いてもいないのに汗が出ている。マリアは肩で息をしながら間合いを取った。座ったままのケインの腕が届く範囲よりも少々遠い位置まで後ずさりをし、睨んで威嚇する。
だが、ケインからしてみれば、それは仔猫が毛を逆立てているようなものでしかなかった。
鼻の先を鳴らし、再び本を開く。もがいている拍子に落ちたらしい絵本を拾い、先程と同じように差し出してやると、マリアは多少なりとも警戒している面持ちで、それを受け取った。前に座っていた位置より、少し彼から離れた位置に、改めて腰を下ろす。
その一メートル程の間に、ケインは眉間にしわを寄せた。本を閉じないまでも、不満そうに彼女を見る。
すると、マリアもその視線に勘付いたらしい。促すよう目を向けると、拒否の目で答えてくる。
だが一瞬後に、マリアは怯えた表情で肩を震わせた。明らかに据わった彼の碧眼に、何か察するものがあったのだろう。渋々というよりも、むしろおどおどしながら、元の位置まで戻る。
それを満足げに横目で見ながら、ケインはページをめくった。一方で、抵抗しきる事が出来なかったマリアは、ただただ口惜しそうに口をへの字に結んでいる。
十二歳になるとは言っても、まだあどけなさの方が目立つ年だ。そうやっていると、妙に子供くさくて面白い。
しばしの間、再び静けさが辺りを包む。
大地を撫でるように吹いた風に、マリアはわずかに身震いした。
大木があるとは言え、吹きさらしに近い場所だ。気付く程の強さの風が吹けば、寒さは感じる。
寒さを忘れようと、マリアはケインと同じく本に集中した。しかし、いくら集中しても、あまり意味はない。くしゃみが出た。
ケインが、目ざとく彼女を横目で見る。
鼻水が出ないように鼻をすすりながら、マリアは肩を震わせながら咳払いした。気付かれると何をされるか、何を言われるか解らないのでした行為だが、全く役に立っていないのを、彼女は気付いていない。
ケインは無言で立ち上がり、マリアを腕を引いて立たせる。
「……帰るぞ」
「え、何?」
「帰るって言ったんだよ」
仏頂面で彼がそう言うや否や、マリアは頬を膨らませた。
「や」
わずか一言の拒否。
一秒にも満たないようなその一言に、ケインは眉間にしわを寄せた。
怒ってはいない。だが、呆れかえって不機嫌になっている。
しばしの逡巡の後、ケインはわざとらしくため息をつくと、腰のベルトから垂れていた革紐で本を束ね、膨れっ面のマリアを、軽々と肩に担ぎ上げた。
「ちょっと……ケイン兄!」
驚いてまたマリアは本を落としたが、地面に落ちる寸前で、ケインは片手でそれを受けた。
身長や体重には大きな差はない相手を一人、薄っぺらな紙箱のように持ち上げるのには、男女の力の差以上のものが必要になる。彼は弱冠十四歳にして、成人した者であっても出来ないような事をやってみせていた。
それでも大人しく引き下がる訳もなく、マリアは声を限りに抗議の絶叫をほとばしらせていた。
しばらくは聞いていない振りをして歩き始めていたケインも、さすがに耳のすぐ傍で叫ばれるのには辛抱が効かなくなる。
「うるっせぇんだよ!そんなに口を塞いで欲しいか。あ!?」
喧嘩腰の口調であったが、そう言う彼は少々楽しそうにさえ見える。実際、何で塞ぐかは言わないでいるのだから、底意地の悪さは相当なものだ。
彼の思った通り、マリアはそれで黙った。
思惑通りなのだが―――先程とは打って変わり、にわかにがっかりしたように、軽く舌打ちをする。
その理由を知るのはいささか怖いものがあったので、マリアはそのまま黙る事にした。 出来れば降ろして欲しいところではあったが、言っても聞いてくれないだろう事はもうずっと以前から知っている。
それに―――
悲しいけども、言う程嫌なものでもなかった。
ケインの言う言葉は、どれもマリアを虐げているようで、実のところその逆だ。少々異常な部分も目立つが、彼は彼女には優しい。それは十分理解しているつもりだった。
……裏側にあるものの存在さえ忘れる事が出来たら、その事をどんなに喜べたか。
マリアは息をつく代わりに、静かに目を伏せた。
◆ ◆ ◆
林檎を一口かじり、見回す。
傍らには、膝にあるものとはまた別の本と―――そしてもう一つの林檎。
通りから外れた位置にある川は、流れも穏やかで氾濫する事はほとんどない。だから水門の様子を見に来るものなど全くいないと言っても過言ではない。あの大木に続いて、よく来る場所の一つだ。
本を汚さないように気を配りながら、熟れた林檎をかじる。みずみずしい果実の甘みと酸味が、噛む度に口の中に広がった。
その度に、彼は周囲を見回した。相変わらず、誰もいない。
それが彼にとっては当然のはずなのだが……落ち着かない。
……馬鹿馬鹿しい。
自分に軽い嫌悪感を覚えて、彼は本を持って立ち上がった。
もう一つの、一口も食べていない林檎はそのままにして。
灰色の雲が空を覆っているのも気にならない。
元々あまり気にしていた訳ではないが、自覚出来る程落ち着けないという事実が、憎らしかった。
ふと空を見上げる。
三角形の屋根に、十字に組まれた木の板。もう何年も見ているが、やはり他とは全く雰囲気の異なる建物だ。
厳かで、そうかと思えば和やかな。
あるだけで威圧感のある大きな扉は、いつもならば通り過ぎて裏の墓地広場に回るのを、今は扉の前で立ち止まっている。
彼も普段と違うならば、扉も今と普段で異なる。誰でも中に入る事が出来るように解放されているのが常なのだが、鍵は開いてはいても、戸板は閉ざされている。
手で押せば開く事は解りきっている。
だが、どうしても力が入らない。指先が震える。
戻ろうと、踵を返す。
……が、もう一度振り返って、扉を見る。
「―――どうかしたかい?」
のんびりと間延びした声が、不意に背後から響いた。気付かなかったが、すぐ後ろに老人が一人、不思議そうに首を傾げている。
ぼんやりした様子を見ると、どうもぼけてきているらしい。彼の顔を見て、何の色も示さない。
とっさにその場から離れようとするが、老人は何を思ったのか、彼の手を取った。簡単に振りほどける。だがそうはせずに、引かれるまま中へ連れ込まれた。
「入りたいんだろう?」
入れてから何を言っているのか、彼は憮然と腕を払った。それから改めて、中を見回して息を飲む。
涼やかな静寂と、凛とした空気。
祭壇に灯るろうそくも、照らし出される黄金色の十字架も、色とりどりのステンドグラスから零れて床に落ちる色も、全てが来る者、祈る者を温かく迎えてくる。
老人は内装に見入る少年を残し、ずらりと並べられた椅子の一つに腰掛けた。中にいるのは、彼とその老人だけだ。
―――否、礼拝堂の最前、中央にもう一人。あまりにもこの中の雰囲気と同化しており、なかなか気付く事が出来なかった。
全身を黒い服で包んだ中年の男。首からは、銀製らしき十字架のペンダントを下げている。
彼は、その男を何度か見た覚えがあった。墓地で、葬儀がある時には必ずその場に居合わせては、遺族らしき人々に何かを話したり、祈りを捧げたりしている。一人で何やら、墓石の一つをただ眺めているのも見た事があった。
何となく見ていると、男が振り返る。彼の顔を見ると、柔らかに微笑む。
その事に、彼は驚いていた。あの少女が自分の事を知らないのなら理解出来るが、この男は知っているはずだ。見分けがつかない、というのも考えにくい。
戸惑う彼に、男は無遠慮に近付いてきた。外套のような服だが、作りが異なる。踵まで隠す程の裾まで、真っすぐな黒だ。
そこまで見て、彼はこの男が誰なのかやっと解った。
喉に出掛かった言葉が、その場で詰まって声にならない。
「おいで」
壁に声が反響する。彼の頭の中で反芻されるように。
「見舞いに来てくれたんだろう?」
解らない。
解らない。
解らない。
最近、こんな事ばかりだ。
それがどうしてなのかも解らない。自分の行動すら理解出来ない事もある。
自分しか食べるはずがないのに、林檎を二つ持ち出してしまう事も。
本を読んでいるのに、文字が頭に入って来ない事も。
気付くと、辺りを見回してしまっている事も。
躊躇していると、男は笑ったまま祭壇の横にある扉を示した。
目立たないように作られており、促されな開ければ解らない。おそらく参拝者などの為でなく、ここの者専用の扉なのだろう。
男は戸を少しばかり開き、手招きした。
招かれるまま、そのドアをくぐると、そこはそれまでいた礼拝堂とは打って変わり、地味な木造の廊下だった。壁は乳白色で塗装されているが、所々はげており、何故かクレヨンの跡のようなものまである。狭く、人が三人もいれば通る事が出来なくなってしまうだろう。
圧迫感のある壁と床は、あまり長くなかった。先導する男は、これもまた地味な扉の前まで来て立ち止まる。
何となしに見上げると、男は無言で頷いた。
だからという訳ではなかったが、ドアノブに手を掛ける。
先程は扉を開ける事が出来なかった。押せばあの老人にも開ける事が出来たのに、出来なかった。
だが。
深呼吸一つ、ノブを回す。何の苦もなく開いた戸の先にあったのは、独特の空気だった。
―――重病人のいる、病んだ静けさ。
廊下と同じ、乳白色の壁。ただし、こちらは少々派手だった。抽象画のような落書きの跡が、いくつも鮮やかに残っている。どうぶつを模したぬいぐるみや、小物の並んだ棚も、原色をそのまま使ったものばかりで、廊下よりも明るく見えた。
白いカーテンのすぐ下に置かれたベッドに、あの少女が寝ている。目は開いているようだったが、夢うつつと言った様子だという事が、彼の位置でもはっきりと見て取れた。
その手前の椅子に、彼女と風貌がよく似た、だがいくらか小柄な少女が座っている。誰かが入って来た気配に過敏に反応し、勢いよく振り向いて首を傾げている。
彼のすぐ後ろで、扉が閉まる。見れば、男はいなくなっていた。
「お兄ちゃん……誰?」
どこか舌足らずな口調で聞かれ、彼は戸惑った。
誰と訊かれても、どう答えれば良いのか解らない。彼の年でこういった事は珍しいのだが、彼は自分を他人に紹介したりした事など、一度としてなかったのだ。
「―――お友達よ。私の」
ベッドから上半身を出し、彼女が彼の代わりに、きっぱりと答えてくる。
友達。
たったそれだけの単語に、彼は大きく目を見開いた。
彼女は迷いもなく言い切ったのだ。友達だ、と。
あれだけ無視し、冷たくあしらってきた自分を。
「ケイン」
また、自分の名を呼ぶ。
青白い顔で、必死にいつもの笑顔を作ろうとする姿が痛々しい。
彼は思わず、唇の裏を噛んだ。気を抜けば、泣き叫んでしまいそうだったからだ。
「妹の、マリア。仲良くしてね」
傍らの少女を示し、力なく笑う。
自分でも驚いた事だが、彼は無言で、首を縦に振っていた。
これだけは直感で解っていたのかもしれない。
この頼みだけは、どんな形にしろ、どんなに下手でも、どんな結末になろうと、受け入れて、叶えてやらなければならない、と。
◇ ◇ ◇
町に出歩く事は、あまりない。
それは、彼があまりにも悲しく知れ渡っているからだ。
ただでさえ目立つその容姿に加え、言葉、行動……全てが彼を、群衆の中から浮き立たった存在にしている。
以前は、その境遇故に根暗で対人恐怖症の哀れな少年、と評されていたのだが、ある時を境に彼は際立った存在になっていった。
その境界となった日に何があったか、知る者は少ない。知っていたとしても、それが彼とどう結びつくのか想像出来なかっただろう。
とにもかくにも、彼が大きく変化した事だけは確かだ、と人々は身に染み込む程認識していた。
本を抱えている事に変わりはないが、身に纏う空気が変わったと思うだろう。
以前は最低限、騒動は避けていたようだったのに対し、今は吹っかけられればすぐに手を出す。それも、相手の戦意だけでなく、自信やプライドも根こそぎ削ぎ落とすような手段で撃退してゆく。
人生の十分の一程しか生きていない少年に、その倍の時間は歩んできたであろう青年たちが泣かされた光景を見た時には、不干渉主義の町民たちも目を見張った。
さすがに母親に何か抗議したりする者もいたようだが、誰もが予想した通りの展開にしかならない。母親は、彼の存在自体を否定しているのだ。
少年本人に言う事をこそこそと相談する者もいたようだったが、そんな光景を見た以上、狂犬のような気性を内に潜ませている少年をいさめようと近付く者は、この町にはいなかった。いたとしても他の誰かがそれを止めるので、結局は同じ事でしかない。
唯一彼を押さえ付けられるような存在は、牧師の家族。
だが、彼が相手を再起不能なまでに痛めつける程の騒ぎになるのは、大抵はその家族が関係している。
滅多に往来を出歩く事がない彼がそこにいる時、隣にいる一人の少女。
例え少女が隣にいない時でも、彼が手に持って歩いている物の中に、必ず一つは彼女への物が大切に抱かれている。
それは本であったり、菓子であったり、時には少女趣味の雑貨であったりするのだが……それらに手を出された時は勿論、小声で罵られた時であっても、彼は相手に手心は加えない。
哀れむ目、蔑む目、疎ましい目を向けられる事を極端に嫌っていた彼は、自分が意識したのではない事で、それら全てを打ち砕いた。
「いつからこんなに底意地が悪くなったんだろ……」
「あぁ?何か言ったか、マリア」
地面に転がった相手を足蹴にしたところで、ケインはマリアがぼそりと何か言ったのを敏感に聞き取り、顔だけを彼女に向けた。
その少し離れた道上に、潰れたミートパイが落ちている。……今回の騒動の原因である。
街灯の柱の影というのは、心許ない隠れ場所ではあったが、その手前に不動ともいえる存在があれば、例え隠れる場所が猫の後ろでも全く心配なかった。
たった数秒前まで相手にしていた青年たちは、明らかに彼よりも頭一つと半分、下手をすれば二つ分は差がある。
身長が低いのは、単に成長が遅いからだという事は解りきっている。声もいくらか低くなってきているとは言え、まだ男特有の低さまで辿り着いていない。
成長しきった相手よりも小柄に見えてしまっても、彼が見た目通りでない事もマリアは十分すぎる程知っていた。
その頼りに成背中に守られるのは、正直なところ、彼女は嫌いではなかった。むしろ……―――
……だが、嬉々として相手を虐げている場面を常日頃から見ていると、どうにもその感情が薄れてしまう。消えはしないのだが、霧がかって見え難い。
「そこまでする必要ってあるのかなって」
マリアは、空腹を訴えて鳴る腹を恨めしく思った。確かに昼食用に買ったミートパイは惜しかったかもしれない。
だが、マリアがそう言った途端に、ケインはすっと目を細めながら、乱暴な足取りで彼女に近付いた。途中で、汚れた惣菜屋の包み紙を拾う。
まずい、とマリアは直感で悟った。
どことなく楽しそうだったように見えても、彼はすこぶる機嫌が悪かったのだ。うっぷんを晴らして鎮火しかけた火に、息を吹きかけてしまった。
こうなると彼女が今まで隠れていた柱は、何の役にも立たなくなる。
逃げなくては、と思うが、遅かった。野山を駆け回っているせいで固くなっている彼の手が、彼女のか細い手首を掴む。
「ひでぇな、マリア。逃げんなよ」
口調がひどく優しい。口許は緩く弧を描いている。だが目は笑っていない。
それは、彼が彼女に対して腹を立てている証拠だ。
全身の血の気が引くのを感じながら、マリアは打開策を考えた。が、そうそう良い手段が数秒で浮かび上がる事はない。
「なぁマリア、お前の好物は?」
半眼で、確信に満ちた問いを投げかけてくる彼は、彼女が思うのもおかしな話だが、悪魔的な怖さがあった。
ケインはただ唇を笑みの形に保っているだけだ。蒼い瞳の奥は当然見えない。
「……ミートパイ」
「正解。なら、次だ。俺が嫌いな物は?」
これも解りきった質問だった。
ケインが彼女に何を言わせようとしているかなど、長年の付き合いですぐに解る。無論の事、ケインも彼女がそれを察していると知っていて、わざわざこういった質問をしている。
性悪、と言われても、それがどうした、と返せる性分というのは、ごろつきなどよりも手に負えない。ケインは、自他ともに認める、その手に負えない性分の典型だった。
対し、マリアはそれを上手くさばける器量は持ち合わせていない。
(神様って不平等……)
思いかけて、留まる。
仮にも牧師の娘が、崇める対象に対して非難など、口にしていなくとも思うべきではない。
しかし、思わざるを得ないのも事実だ。
無意識にうつむいていた顔を、ケインが顎を掴んで上げさせる。無言の圧力がのしかかってくる。
「オブラート、だっけ?」
「……あぁ、確かに嫌いだがな。俺がそんな答えを待ってると思ったのか?」
ごまかす事など、出来るはずもない。
それはマリアも解っていたが、一層鋭くなった蒼い眼光に、身がすくむ。
「―――人ごみ」
「そうだ、よくできたな。続きは……そうだな。戻ってからゆっくりするか。ゆっくり」
そこでやっと、ケインは本当に笑った。
ただし、ほっとするような笑みでは決してなく、見る者の心にトラウマを残しそうなまでに深い陰影を落としていた。
また自ら地雷を踏んでしまった事に、マリアははっきりと肩を落としていた。
身長がまだ低いとは言っても、マリアよりはいくらか頭が高い位置にある為、彼女に目線を合わせようとすると、どうしても屈むしかない。
背を伸ばし、ケインはマリアの手首を掴んだまま歩き出した。遠巻きに成り行きを眺めていた町民たちを目だけで追い払うと、来た道を戻る。
だが、それは教会とは異なる方向だ。
「……ケイン兄?」
疑問に思い、マリアは歩調を早めてケインの顔を伺った。
もう既に無表情に戻ってはいるが、一点を目指している事は間違いない。
しばし歩いたところで、マリアは、ケインが数分前にも入った惣菜屋を目指している事に気付いた。その店で作られているミートパイが、彼女の一番の好物なのだという事を、ケインはよく知っている。
それを買い、いつものケヤキの木の下で待っている説教には目眩がしたが、今はただ引かれていくだけでも構わないだろうと、マリアは気楽に考えてしまっていた。
手首を掴んでいる手の力が弱まったところで、その固い手を少しだけ握り返す。
これくらいは、許されるはずだろう。
<呼ぶ、目>
日増しに、彼女は明らかに痩せていった。食事も満足に取る事が出来ないらしい。食べ手も、すぐに戻してしまうのだ。
しけってしまったビスケットを食べながら、彼はマリアと共に彼女が読む本の話に聞き入っていた。
ベッドに寝たきりの生活にうんざりしているのが、その本を読む様子からでもよく解る。元から落書きや玩具の多かった部屋は、最初にここに来た時よりも物が散乱していた。
見舞い品かとも思っていたが、どうやらそれは全て、彼女の父親が買い与えたか、妹であるマリアが自分の部屋から出してきたものらしい。
だがその中、彼女が今読んでいる本は、彼が図書館から借りてきたものだ。
以前、彼女が持って歩いていた本だ。薄い外見には似合わない丈夫な作りの表面に描かれた、馬に乗って勇ましく駆けている王子のような身なりの騎士の姿は、どこか古ぼけている。借りる時に見た製版日は、相当古い物だという事が知れた。
聞いている限り、表紙の通りの、ありきたりな騎士道物語だ。仕える深窓の令嬢へ向けられる届かぬ想いと忠誠心。
敵の大将を打ち破り、騎士は認められた。だが既に、令嬢には婚約者がいた。政治的な、いかにも馬鹿馬鹿しい婚約であるのは、書いていなくとも想像するのには難くない。
想いは届いているのかいないのか。窓辺に佇む姫君を見る度に、騎士は思い悩む。だが、例え届いていても、伝える事は叶わない。
……彼女の声は、ひどくか細かった。
聞きづらく、おそらくビスケットがしけっていなければ、話の内容は聞き取れなかっただろう。
しけって歯ごたえのないビスケットにいちいち顔をしかめるマリアの頭を撫でる。彼女よりも色素が薄い金色の髪は、触っていて心地が良かった。
もう一度、指に力を入れればその部分だけ陥没してしまいそうなビスケットを頬張る。
ビスケット、飴玉、果物……どれもこれも、彼は今まで食べた事がないものだったが、何を食べても、今は味など感じない。
彼女の話を聞いていなければならない。
日が暮れても、雨が降っても。
自分は彼女に話を聞かせる事など出来ないから、その分聞いていなければならない。
不意に、小さな彼女の声が、わずかに弾む。
「私は彼女の幸せの為に戦おう。彼女を不幸にするならば、私は神とも戦おう……」
おそらく、これがいつしか言っていた、彼女の好きな騎士のセリフなのだろう。
横目でマリアを見る。
やはり彼女の妹だ。頬を上気させ、普段から明るい碧眼を更に輝かせている。
だが……彼はにわかに瞼を伏せた。
薄っぺらな言葉だと思う。
神と戦って勝つ力など、誰も持っているはずがない。数多くの物語の中でも、悪魔には勝つ事が出来る。だがそれは、妖精の力や神の力を借りた善良な者だけだ。神に勝った話など、どこにもない。
だから人は、神にすがる。
御言葉に従い、祈る。懺悔をし、悔い改めてはまた祈る。
そうすれば、輝かんばかりの恩恵を受け、不幸に見回れる事などないと思い込んでいるからだ。
そんな事など、あるわけがないのに。
あると言うのならば、今すぐ彼女をベッドから解放させてみせてほしい。そうなれば、彼も神の御力というものを信じてみても良いと思っていた。
しかし……そんな奇跡が起こるはずがない。
彼女はきっと、明日もベッドの中で無理に笑っているのだろう。
「ケイン兄?」
マリアが、彼の顔を覗き込む。
どう呼べとも言わないままでいたら、この少女は自分をこう呼ぶようになっていた。
複雑な思いで、彼はマリアに目配りした。彼女の方へも目を向けると―――いつものように笑っている。
その笑顔に耐えられなくなり、彼はマリアの瞳を見つめ返してまた頭を撫で回した。
冷たい雨が降っていた。
浅く不規則な息遣いを聞きながら、彼は彼女を見つめていた。
以前は、彼を追いかけて紅潮させていた頬にも、今は色がない。紙のように白いその頬は、出会った頃と比べて落ちたように痩せ細っていた。
時折、しゃくり上げる声が隣から聞こえる。
マリア。
彼女の妹は、碧眼を涙にいっぱいにさせながらも、それをこぼすまいと必死に耐えていた。だが、彼が手を伸ばすと、堰を切ったように泣き出してしがみついてきた。
どうするべきなのか迷ったが、取り敢えずその背中を軽く撫でてやる。
父親から、話を聞いたのだろう。彼と同じように言われたのかは解り得ないが、姉である彼女の病について……この様子を見る限り、少なくとも治療出来ないという事は聞いたのではないだろうか。
先天的な血の病だと聞いた。
伝染するものではないから、病気の事は知っていても外に出るのを許していたのだと。せめて生ある内に、好きなだけ好きな事をさせようという、平凡な親心なのだろう。
―――彼女の病を知らなかったのは、自分だけだった。
他の同年齢の子供たちは、全員かどうかは定かではないが、彼女の周りにいた子供たちは、それぞれの親から聞いて知っていたらしい。
だから彼女は―――独りだった。
伝染しない、と言っても、はやり病気を持っているという事だけで疎まれる。避けられる。
彼のように取り囲まれる事はなくとも、彼女は彼と同じだった。
……黙ったまま、彼は唇の裏側を噛んだ。
ちら、と背後を見る。彼女の父親でもある牧師が、うなだれている。
マリアのように泣いてはいない。ずっと以前から泣いてきたのだろう。彼女らの母親の事は聞いた事がなかったが、名前が刻まれた墓石があるのを見た事はあった。
やっぱりだ、と彼は胸中で呟いた。
神に従い、祈っても、恩恵も救いも還ってはこない。これ程無慈悲な事があるだろうか。
「……ケイン」
彼女が、名前を呼ぶ。息をするだけで苦しいはずなのに、誰にも呼んでもらえなかった彼の名を。
薄く笑いながら、泣いている妹の横顔を見る。どこか悲しそうなのは、妹を思っての事だろうか。それとも、彼の背後にいる父親の事だろうか。
何にしろ、自分の事ではないのだろう。
「ケイン」
また呼んでくる彼女を、ケインは見つめ返した。すがりついているマリアの背中を撫でるのはやめずに、静かに次の言葉を待つ。
彼女は笑ってみせた。
痛々しいものではあったが、無理にではない。ごく自然に、いつだったかのような笑顔を見せる。
「マリアと、仲良くしてあげてね」
その言葉に、彼は目を見開いた。
以前にも聞いたような言葉ではあったが、意味が異なる。
その意味の裏にあるものを理解する事は、聡明な彼には容易過ぎた。
容易過ぎて―――彼は、生まれて初めて泣いた。
一筋だけの涙を流し、頷く。
今度は無意識に、ではない。はっきりと、決意する。
「……約束する」
無情に落ち来る雨粒の音に、かき消されないように、はっきりと。
「イヴ」
呼ぶ。
誰に教えられたわけでもなく覚えていた、彼女の名。
彼女はまた、輝かんばかりの笑みを見せてくれた。
彼女の墓は、他よりも小さかった。
隣に母親の墓もあるからか、それともこれで十分だという事か……教会の屋根にそびえる十字架と同じ形の墓標の前で、彼は目を細めた。
「ケイン兄?」
ビスケットとひかえめな花束を持ってきた少女に、銀色の髪で風を引っ掻く。
「どうした?」
問い掛けると、マリアは何か迷ったように表情を曇らせた。
さっと持って来た物を墓石の前に供え、うつむく。
彼女のものよりも色素の薄い金髪と大きな碧眼。全てが、不安げに揺れている。視線は定まらず、宙をさまよう。
彼はそれをしばし見つめ、手を伸ばした。
固い指先が、彼女のやわらかな髪の間に、分けるように緩やかに入ってゆく。
しばしすくようにしてその髪の感触を指先に覚えさせ、次に手の甲で頬を撫でる。
マリアは驚きで口を開けたまま、立ち尽くしていた。丸い目を更に大きく開く。頬に触れる指の腹から、彼女の体温が上がってゆくのを感じた。
―――言いようのない感覚が、胸の奥に満ちてゆく。
朱色に染まりつつある町の風景を横目に、彼はいくらか、以前よりもこの町を心地良いと感じている事に気付いた。無論の事、あの母親と母親が住んでいる家は別だ―――わずかながら、感謝しているが。
彼女と出会い、そしてマリアとも出会えた。ここ以外だったのならば……もし、この姉妹に会えなかったのならば……そう思うと、足がすくむ。
彼女らは、自分に意味を持たせてくれた。
ただここにいる感覚だけでなく、生きているのだと感じさせてくれた。独りの時では、決して得る事の出来なかった確信、充実感、温もり、悲しみ、憤り、喜び、穏やかさ、そして……決意。
自分は、それに報いよう。
それが、自分が出来る唯一の事だ。
だが……今まで他人と関わらずに、ただ自分の為だけに生きてきた自分に、何が出来る?何をすれば良い?
問い掛ける術を、彼は持っていない。だからただ、もう見て解る程まで顔を赤くさせてゆくマリアを見下ろし、数回のまばたきをする。
そして―――
「あ」
マリアが、驚きに声を上げる。
疑問を思って眉根を寄せると、彼女は実に無邪気に笑った。
先程まで一体何を悩んでいたのか……それが馬鹿馬鹿しくなる程の、輝かんばかりの、彼女によく似た、笑顔。
「ケイン兄が笑うところ、初めて見た!」
笑った?
少女の言葉が信じられず、また目を瞬かせる。
「何?自分で解らないの?」
解らない。
もしそれが真実ならば、どうして笑った?どうして笑えた?
何故、マリアはそれだけの事でこんなにも喜んでいる?どうしてこんなに嬉しそうに笑う?
解らない。
解らない。
解らない。
「ねぇ、もう一度見せてよ」
彼の腕を掴み、振り回してせがむ。
困惑する彼を、それもまた面白いというふうに。
笑って、笑って、また笑う。
(あぁ……そうか)
唐突に、彼は悟った。
問い掛ける事など、なかった。簡単な事だったのだ。
また明日も彼女は笑うのだろう。
走り回って笑い、本を見て笑い、何かを食べて笑い……それを、枯れないようにしてやれば良い。
例え、何を犠牲にしても。
どんなに代価を払っても。
どんなに時を費やしても。
「そうか……クク……」
呟くように低く笑うと、マリアは更に驚いたように身を引いた。
掴んでいた腕も放し、彼の顔を見上げてくる。
その瞬間、マリアは今まで見た事もない彼の表情に、再び目を開いた。
先程の笑みが微笑みというのならば、今彼が浮かべている笑みは、それとは全く違ったものだろう。
口角を不敵に上げた、どこか危険な笑み。
それを見た途端、マリアは後退しようとしたが、彼はその寸前で彼女の手首を捕えた。
「どうした、マリア。俺の笑みが見たいんだろう?見せてやるよ。こっちに来い」
今までにない饒舌で、楽しそうに言う彼にも驚くが、その言葉の裏に隠されているであろう意図に、マリアは背筋を震わせた。本能的に、危機を感じる。
「ケ……ケイン兄?どうかしたの?」
ただならぬ雰囲気に臆してしまい、マリアがやっと訊く事が出来たのはその一言だけだった。
「何が」
「な、何か……今までと違うよ?」
「あぁ。まぁ、あえて言うなら……そうだな。悟った、とでも言っておこうか」
「悟り……?」
彼が浮かべている表情とあまりにも似つかわしくない単語に、マリアは顔をしかめた。
何をどう悟ったら、こんな猟奇的とも言える笑みを浮かべる事が出来るのだろうか。つい数分前までは表情に乏しかったと言うのに、何が彼の中であったのだろうか。
ぐるぐると、マリアが頭の中で疑問を巡らせていると、彼は更に笑みを深めた。
「疑問は晴れたか?ならもっと寄れよ。見せてやる」
「……えっと……やっぱりいい」
怯えた空気すら漂わせるマリアに、ケインは不機嫌そうに目許を歪めた。
それだけの事であったが、恐怖心を更に煽るには十分すぎる。マリアは喉から引きつった悲鳴を上げて腕を引いてみるが、微動だにしない。
顔を青ざめさせるマリアに、彼は面のような表情のままだったが、突如、破顔した。
「そう怯えんなよ。取って喰ったりは……しねぇから」
「その間が怖い!遠慮します!」
「お前に拒否権はない」
きっぱりとそう断言し、彼は暴れるマリアの腕を引いてその場から歩き出した。
いつだったか聞いた、あの騎士道物語の薄っぺらだと思った一文が、今更になって理解出来た気がした。
(上等だ、イヴ。何だってしてやろうじゃねぇか)
彼がこっそりと振り返って墓石に目をやり、穏やかに微笑んだ事に、喚き散らし続けるマリアは気付かない。
◇ ◇ ◇
「何で駄目なの?」
頬を膨らませ、マリアが不満をそのまま口にする。
ケインは頭を抱えたい衝動に駆られたが、それを抑え付け、その代わりに彼女の頭に手を置いた。ぐしゃぐしゃと乱暴に撫でてやると、マリアは迷惑そうながらも照れくさそうに首をすくめる。
その仕草に思わず微笑みながら、乱れた彼女の髪を手櫛ですいて直す。数回すいてやるだけで元に戻る癖の少ない髪は、触れていて心地良い。
「隣町は遠いんだ。連れて行ってやりたいのは山々だが……治安がそんなによくないらしいんでな。だから駄目だ」
本当のところ、ケインは半日以上もマリアの傍を離れるのには抵抗がある。
だが、今後の事も考えると、市民学校にも行っていない彼は、少しでも多くの文献を読み、多くの知識を自ら取り入れていかなければならない。
そうなると、この町の図書館だけでは、どうしても物足りなくなってくるのだ。
「取り寄せたりとか出来ないの?」
その一言に、ケインは顔をしかめた。触れられたくない部分に触れられてしまったが、それを怒るのも面倒になってしまっている、そんな複雑さ。
居心地が悪そうに、ケインはマリアから目をそらした。
「……俺にそんな金はないんだよ」
その言葉に、マリアは自分の失言に気付いたように肩を震わせた。
当たり前のように思えるものを、彼はほとんど持っていない。十分な食事も、服も、欲しい物があれば買ってくれる親も。
今はマリアの父親が気を遣ってしてくれる事も多くなってきているが、彼はそれをあまりよく思っていない。
好意は嬉しいが、それはまだ自分が独りでは生きていけない事を意味している。
彼の年でそれは当然の事であったが、ケインにとって、それは何とも歯がゆいものなのだ。
「……ごめん、なさい」
小さく謝り、ばつが悪そうに沈むマリアをしばし見つめ、ケインはいつものように口の端を上げて不敵に笑った。
「悪いと思ってるなら……そうだな、帰ったら色々やってもらおうか。色々と」
「え」
呻きながら顔を上げるマリアの額を、指先で小突く。
「帰ってくるまで、いい子にしてろよ?」
「…………」
「何だぁ、その何か言いたそうなツラは」
笑いながら、たちが悪い、と彼自身そう思う。
問題を起こすのは、いつも彼の方なのだ。彼女がそう言われ、腑に落ちない表情をしても何もおかしくはない。
自分の意地の悪さは、十分すぎる程自覚している。
「じゃあ、行ってくる。教会にいるんだぞ?」
「解ってる」
不服そうであったが、マリアは頷いた。
彼女は、滅多な事がない限り、彼との約束を破ったりはしない。それはもう解りきっている事だ。
ケインは満足そうに、町から出る道を歩き出した。
「ケイン兄」
いつからだろうか。
そう呼ばれ始めたのは。
「ケイン兄」
いつからだろうか。
そう呼ばれる事を、喜ばしく思えるようになったのは。
引いてくる手を握り返すのに、ためらいも何もなくなったのは。
くるくるとよく変わる表情。
大きく口を開けて笑う声。
無遠慮に見上げてくる蒼い瞳。
からかうと顔を上気させて怒る仕草。
それがおかしくて、ついちょっかいを増してしまう。
何の自覚もなしに自分を心配させる破天荒な部分。
目を据わらせると身をすくませる反応。
つねるとよく伸びる肌。
優しくしてやると、すぐに照れてそらす視線。
不機嫌になると膨らむ頬。
ぱたぱたとよく動く足。
その度に揺れるパールブロンド。
撫でるとやわらかく、するすると指の間を取ってゆく髪の毛。
無駄だと解っているくせに、抵抗してくる手。
時々、何かを思い悩んでは寄せる眉。
絶対にそれを言わない姿。
問いつめると必死に隠そうとする姿。
安心すると出る、ため息。
ばれていないと思っている浅はかさ。
ミートパイを食べている時の幸せ顔。
それを見ている時間。
安っぽい物語で流せる涙。
動揺してしまう自分。
それに気付かないでいる鈍感さ。
隣にいる時に感じる温度。
触れると解る、自分との体温の差。
爪を切っている時の真剣な眼差し。
何かあると叫ぶ癖。
甲高くて耳を突くわめき声。
自分に捕まった時の最後の抵抗が、引っ掻く事。
追い込むと睨み付けてくる目の動き。
何も考えずにいたずらしてしまう事。
すぐに滑る口。
それに遅く後悔する事。
慌てて謝る事。
こりない事。
減らず口。
そんなささいな事で、かちんときてしまう。
気遣ってくる時の触れてくる指先。
意外と不器用な指先。
傍にいてくれる事。
呼んでくれる事。
それから……―――
―――……いつからだろうか。
見る度、感じる度に、占めてくる、この気持ちは。
「ケイン兄」
いつからだろうか。
そう呼ばれる度に噴き出しそうになる、この、ざわつく気分は。
いつか、何も考えられなくなってしまいそうな、危機感は。
何の脈絡もなく顔を出す、不可解な焦燥感は。
いつからだろうか。
それらを押さえ付け始めたのは。
<呼ぶ、運命>
はっとなり、彼はよろけながらも立ち上がった。頭を巡らせ、町を見渡す。
今度こそ、彼は背筋が凍るのを感じた。呼吸が止まる感覚に、はっきりと戦慄する。
この離れた丘の上からでもはっきりと解る建物。それもまた、炎に包まれている。
彼は蒼の双眸を見開き、喉を詰まらせた。唇が震える。
足下が崩れてゆくような感覚に、息が詰まり、膝に力が入らなくなる。
考えるよりも先に、彼はすくみかけた足で走り出した。燃え続ける町の方へ、真っすぐに駆け下りる。
途中で何度か足がもつれ、転ぶ。地面から突き出ていた木の根や小石にぶつかるも、体勢を立て直すのもままならないまま走る。それでまた転ぶ。
しかしそれでも、咳き込みながら彼は走り続けた。流れて眼球に刺激を与えてくる汗を拭いもせずに、ほぼ転がるように駆ける。
乾燥した喉が、発火し始める。
それは錯覚だろうという事を断言するのは、何よりも簡単だった。
だがそう思わずにはいられぬ程、乾いた喉も舌も、ひりひりと痛んだ。乾きをごまかそうと唾液を飲み込んでも、一層痛みが強くなる。
口腔内の苦痛にむせながら、彼は憎々しげにうめいた。
「彼女が……死んだら……!」
声は、周囲の音にほとんどかき消されていた。遥か上空から飛来する火球が、全てを薙ぎ払い、弾き飛ばしてゆく。木造の家屋は紙の玩具のようにひしゃげ、炎の中で炭化し、次に直撃した火球によってぼろぼろと崩壊する。
その中を、彼はただひたすら走っていた。
炎に包まれて既に半壊しかけた町は、思いのほか静かだった。音と言えば、建物が耐えきれずに倒れる音と、炎の上げる猛り声。
時折、何かにつまづき、地面に触れそうになる。だがその度に、彼は強く地面を踏みしめ、無理矢理体勢を保った。そのせいで膝に痛みを感じたが、構わずに走り続ける。
もう何十分も全力で走り続けている。
体力がもつはずがないと、人間の機能をよく知る者は言うかも知れない。だが一方で、普段は眠っているだけの、爆発的な力があるのだと言う者もいるだろう。
実際は、どうでもいい事なのだとも知らずに、論争ばかりを繰り返す知恵者の戯言なのだが。
走ったところでどうにもならないと、冷淡な声が告げてくる。
だが、彼は振り払うように腕を大きく振り回した。
乾燥した樹木が焼ける臭いと、血液も内臓も中に封じたままの生肉が焦げる臭いに、胃の奥から迫り上がってくるものの気配に、顔をしかめた。
「貴方を……恨むぞ!」
だが聞いているとも解らない空に向かって、彼は怨嗟の念を声で示した。
炎が、全てを焦がし散らしてゆく。
樹木、家、店、あるいは人間も。
時折、呪詛にも似たうめき声が聞こえもしたが、構わずにケインは走り続けた。口の中は、言うまでもなく喉の奥まで乾いており、ほとんど感覚がない。
もしかしたら、火の粉が口から体内に入り込み、今まさに肺を焼き尽くそうとしているのではないだろうか。
恐ろしい想像は、例えどんなに脈絡がなくとも、現実味がなくとも、人を怯えさせる。しかし、ケインは怯える事すら忘れて走っていた。
それよりも遥かに恐ろしい恐怖。それが、彼の中を占めている。自分のみに降り掛かる災厄よりも恐ろしいと思える予感が、彼の足を動かしている。
自分にはそれしかない。
誓ったのだ。
大げさと笑う者もいるかもしれないが、それが彼の全てだった。
通い慣れた道は、今はもう面影すら残っていない。倒れた柱やがれき……真っ黒に焦げた、何か。
それを越えながら、走る。転がるように、熱気をかき分けて。
空を見上げる。
あの魔女の姿は見えない。もういないのか、それとも炎で見えないだけなのか……。だがそれよりも、崩れかけた屋根の向こうに見える十字架までもが、巨大な炎に包まれているのが目に入った。
ぞっと背筋を震わせ、彼は速度を上げようとした。が、つま先が何かに引っ掛かり、大きく転倒して地面を滑る。
酸素を求めていたのか、ずっと口を開けていたようだ。砂利が口の中に入り込み、歯の表面を擦る。
だが、すぐに立ち上がりながら、駆け出した。痛みなどは、彼を止めるにはもはや役不足になっている。
視界が開ける。
橙と赤。
形の決まらないまま苦しんでいるかのような二色。咆哮を夜空に上げ、体内に呑み込んだ教会を焼き尽くそうとしている。
風が吹く度に、火の粉が舞い散り、肌や髪をちりちりと焼く。
だが、どうしてか熱さは感じなかった。
感じるのは、不思議な事に底冷えするような寒さ……。
「マリア……」
かすれた声は、何かが崩れた音でかき消された。
彼女は自分に嘘はつかない。約束を違えたりはしない。
いろ、と言えば、そこにいる。
心臓が凍る。
自らの中に生まれたかつてない恐怖に震えている事に、彼は気付けなかった。
私は、彼女の幸せの為に戦おう。
彼女を不幸にするのならば、私は神とも戦おう。
彼女は毎日のように神に祈るが、私が祈り、付き従うのは彼女だけだ。
それが、私が生まれ落ちた唯一の意味だ。
私が何を信ずるべきかは、私が知っている。
私が何を守るべきかは、私が決める。
嗄れた喉で、血を吐くかと言う程叫びながら、辛うじて原型だけは止めている扉の奥へ飛び込んだ。
初めてそこに入った時に感じた荘厳な空気も、神々しさも、もうどこにもない。あるのはただ、絶対的な死の担い手。
救いの手は、どこにもない。
金色に炎の色を映した神の像は、どこかまがまがしく悪魔的なシルエットを浮かび上がらせている。
「……あんたは……」
それを刹那に見上げ、ケインは呻いた。
「何の為に存在しているんだ!」
また走り出す中で、毒づく。罵る。侮蔑する。
誰も救う事もないのに、祈られ、崇められる、無力な神に。
否―――無力なだけならまだいい。信じなければ良いのだから。
だが、また自分から全てを奪うと言うのだろうか。
自分からは、生まれた時から当然あるべきものを、二年前は、病と言う手段で彼女を連れ去った。
それだけではない。もう何年も昔には、彼女らから母親を取り上げた。
これ以上、まだ奪おうと言うのだろうか。
少なくともまだ信じている、何の罪もない、あの少女まで。
廊下に出ると、礼拝堂とは比でない程の荒れようが広がっていた。下手に踏み込めば、自分自身も炎に呑み込まれ、他と同じように灰になってしまうだろう。
(進ませない、てか?)
拳を握りしめる。
何かが、張りつめていた何かが、音をたてて切れた気がした。
「上等だ」
手近な場所に転がっていた人の背丈程もある木片―――おそらく、天井の梁の一部を片手で担ぎ上げ、ケインは足を進めた。
汗で湿った髪を払い、大きく木片を振るって炎の衣をまとったがれきを打ち砕く。一瞬の強風に火は数秒だけ大人しくなるが、すぐにまた猛々しく暴れ狂う。
その刹那の中―――儚く揺れる金色が見えた。
「マリア!」
ほぼ悲鳴に近い声で、少女の名を叫ぶ。
ケインは木片を放り出し、その場にしゃがみ込んだまま微動だにしない彼女の肩を掴んで、体を向けさせる。
マリアは、今まで見た事がない程虚ろな目をしていた。
それが、記憶を甦らせる。酷似していた。イヴが死んだ時の、彼女の寸前の瞳。
ぞっとしながら、ケインはマリアの体をまさぐった。実はひどい怪我をしていて、ショック状態なのではないだろうか……そう思うと気が狂いそうになる。それを必死で抑え、彼女の全身をくまなく探る。
だが、ところどころすすで汚れ、軽度の火傷を負ってはいるものの、彼が最悪の事態として想像したような怪我は何一つなかった。
最後に、彼女の胸元に耳を当てる。ついでに口許に掌も当ててみるが、どちらも正常だった。
安堵するが、それならば、彼女はどうしたというのだろうか。
「マリア!」
呼んでみる。が、返事はない。
舌打ち一つ、ケインは彼女を担ごうと身を屈めた。華奢な背中に手を回し、膝の裏に手を入れると、そこで初めてマリアが身じろぐ。
「ケイン兄、待って」
やっと喋った彼女に内心ほっとするが、ケインは眉間にしわを作った。この状況で待てと言われ、苛立つなと言う方が無理な話だ。
「何だ?」
その顔を見ると、マリアはぼんやりとした表情で、先程まで彼女が見ていた方を、力なく指差した。それはひどく緩慢に、ゆっくりと。
「お父さんが……そこに、いるの」
彼は示された方に目をやり、息を飲んで絶句した。
先程まで彼が振り回していたものと同じ、天井の梁の一部。皮肉にも十字形に組まれたようにも見えるそれが……神父の体を押し潰していた。
こちらに伸びた腕の先に、いつも彼が身に付けていた銀製の十字架のペンダントが掛かっている。―――娘に渡す寸前で、力尽きたのだろう。
数秒だけ立ち尽くしてから、ケインはその神父の手からペンダントを取った。
血塗れたそれを握り込み、一つだけ小さく頭を下げ、出口に向かって駆け出す。
抱えた少女が、弾かれたように暴れ始めた。
「ケイン兄!お父さんを助けて!」
奥歯を噛み締める。
先程よりも火の手が回った礼拝堂は、もう廃墟に近い形でどうにか保っていた。もう、長くはないだろう。
「やだやだやだやだやだ、やだ!やだよ!下ろして!」
無視出来ない声。
きけない懇願。
ケインは、ただマリアを抱き締める手に力を込め、走る事しか出来なかった。
「下ろしてよ!お父さんが……!」
苦しみの表情の彼に気付いたのか、マリアはそこで悲鳴を切った。
代わりに聞こえてくるのは、噛み殺した嗚咽。胸元の服を握りしめる手は震えている。
崩れ落ちてくるがれきを避ける狭間で、神像を睨み付ける。
彼女は何も罪はない。神父は、日々崇め、祈っていた。
それなのに。
本当に、何も救わないのか?
本当に、何も救えないのか?
それだけならば、まだいい。
それなのに。
……それなのに。
あなたは、奪うだけなのか?
再び走り出しながらも、問いは答えが出ないまま続いた。
私は何も望まない。
巨万の富も、千里先に届く名声も。
例え手にしても、それは私が仕える彼女の為のもの。
だから手に入れたものが何であれ、捨てる覚悟は持ったその時からここにある。
彼女が必要だと言えば、手段をいとわず手に入れよう。
彼女が捨てろと言えば、躊躇もせずすぐに捨てよう。
足がもつれ掛けたところで、ケインはようやく自分の脈の速さに気付いた。
墓地の裏―――このケヤキの大木は、奇跡的に何ともなかった。マリアを下ろし、崩れるようにその場に膝をつく。汗が溢れて冷たい地面に染みを作るが、すぐに消える。
マリアは何も言わず、ただ座り込んで教会を見ている。
時々、しゃくり上げる声があり、ケインは砂利を握りしめた。
そこでやっと、十字架のペンダントの事を思い出す。神父がいつも胸に下げていたそれを睨み、ケインは奥歯を噛み締めた。
渡すべきか、と少女の背中を一瞥するも、すぐに思い直し、自分の服の中にしまう。今渡しても、彼女の負担になるだけだ。
炎の熱気は、風に乗って伝わってくる。熱のせいで空気が乱されているのか、でたらめに吹き荒れる風に、木の葉がバサバサと揺らす。
その音が―――うめき声に聞こえてしまうのは気のせいだろうか。
この時程、ケインは自分の無力さを嘆いた事はなかった。
自分に力がある、とは思ってはいた。ただそれは、あくまでも人間的範囲内の、それも最弱の部類に位置する力でしかない。
それは解っていた。自治体の意見一つだけで、自分はこの町にいる事が出来なくなる事など、知っていた。
だから、自分が町にいたからと言って、この惨劇がどうにかなったとは到底思えない。
が、それでも圧倒的な力の前では、何一つ出来ない自分が憎らしかった。
力が欲しい。
それはずっと思い続けてきた事だったが、これ程口惜しいと思った事はない。
砂や小虫が口に飛び込んでくる。それを唾液とともに吐き出し、早々に呼吸を整えて膝を殴りながら立ち上がった。
「マリア……」
呼ぶが、彼女はやはり黙っていた。
ショックでそのまま気絶してしまったのではないかと、おかしな予感まで浮かんでしまう。
だが、そんなはずはない。
彼女はとうとう、家族全員を失ってしまったのだ。それも、目の前で。気絶などする余裕すら、彼女にはないだろう。
彼もまた、立ったはいいがどうして良いのか解らず、動けずにいた。
目線の先にある教会が、ごう音をたてて崩れゆく。何も残らない。全て灰になってゆく。
耐えきれなくなり、ケインは空を見上げた。
高いところは漆黒で、星の輝き一つ見えない。根元は、赤く染まっているというのに。
闇。
目が慣れてきたと言っても、やはり暗さは重々しくのしかかってくる。
天にある月も星々も、地の上でもがき苦しみ助けを求める自分たちには、何の関心もないのだろうか。
―――が。
突如、巨大な光が辺りを照らした。
眩しさに目がくらむが、ケインはとっさにマリアの腕を掴んで引き上げた。マリアもまた、悲鳴を上げながら彼にしがみつく。
光はすぐに収まった。小さく、一点に収束してゆく。
それの中心に人の形を見付け、ケインはマリアを背後に押しやり、適当な石を拾い上げた。
その人影の顔が見えたところで、彼は身を強張らせた。
純白のマントとローブは、空気に任せて揺れているが、汚れ一つ傷一つない。手にした錫杖も、腰に下げた短剣も、みな新品のようだった。
ほっそりとした顔かたちは、戦慄を覚える程美しい。美しいが、冷たい―――長い飴色の髪も、同様。
魔女。
しばしの間、沈黙が続く。
魔女の方にどういった思惑があるのか知り得ないが、ケインはただ呆然とする事しか出来なかった。どうにかしてあの炎の中から逃げ出す事が出来たと言うその矢先に、その元凶が目の前に現れた。聡明な彼でも、混乱は避ける事は出来ない。
魔女が、唇を笑みの形に歪める。
決して好印象を受ける事のない、狂った笑み。
その瞬間、気が遠くなる。石を持っていない方の手で額を押さえるが、それでどうにかなるわけでもなかった。
視界が、白濁する。
足下が揺れ、からだが傾きそうになる。だがその直後、腕に巻き付いてきた細い指の感触に、意識が覚める。
ケインは地面を踏みしめ、魔女を睨み据えた。
自分を繋ぎ止めてくれた、怯えきったマリアの体を、しっかりと抱き締める。
魔女は、その瞬間笑みを消した。笑みの代わりに、激しい感情を表にする。
思わず、ケインはマリアを抱く腕に力を込めた。それは、相手に寒気を覚えるというものでは足りない程の―――憤怒。
「許せぬ……裏切り者め!」
激昂すると、魔女は錫杖の先を向けてきた。
反射的に、ケインはマリアの体を突き飛ばし、石を投げる。
そのすぐ後に、ケインは腹に何かが衝突したような感覚を覚えた。強く、抗いようのない不可視の力が、彼の体を殴りつけ、ケヤキの木の幹に叩き付ける。
二つの、悲鳴。
「がっ……!」
ケインは腹の中身を吐き出しながら、体を折ってその場に沈み込んだ。激しく咳き込む中で、マリアが彼の名を叫ぶのが聞こえる。
顔だけ上げると、魔女は顔を押さえていた。美しい顎の先から、赤い血が滴り落ちている。とっさに投げた石が、わずかに擦ったらしい。
ケインは口許に微笑を浮かべた。咳が止まっていれば、悪態の一つでもついていたところだ。
彼のその気配に、魔女は血塗れた顔で怒りに染め上げ、錫杖を再び掲げた。
逃げなくては、と頭の中で警鐘が鳴る。だが体が、思ったように素早く動く事が出来ない。
錫杖が、振り下ろされる。
「やめて!」
叫びながら、マリアがその間に割って入る。
考えてやった行動ではない。無謀すぎる。
彼女を見る魔女の切れ長の目が、鋭く細められる。
身が凍りつく程の悪寒が、駆け抜けた。
「マリア……!」
かすれた声で呼びながら、手を伸ばす。が、届く寸前で、その手は空を切った。魔女の手が彼女のパールブロンドを掴み、引き寄せる。
「い、痛……」
マリアは、痛みに思わず顔をしかめて声を上げた。見上げると、魔女は冷笑を浮かべてケインを見下ろしている。どういうわけか、もう既に傷は塞がりかけていた。
彼女の髪を根元近くまで握り込み、彼によく見えるように頭を引っ張り上げる。
「これが大事か?」
その魔女の言葉と、恐怖で涙目になっているマリアの顔に、ケインは今までにない鋭い表情で魔女を睨み上げた。怒りに、震えさえ起こる。
マリアは何とか宙ぶらにならないようにつま先で地面に足をつけているが、魔女のその行動は、まるで汚い物でも掴むかのような手付きだった。
ケインが、よろけながらも立ち上がる。それは静かであったが、蒼い瞳に激しさをたたえ、年を感じさせない威圧感を全身から放っていた。汚れた口許を拭きながら、足を前後に開いて拳を固める。
その様子に、魔女は明らかに嘲笑した。
「敵うと思っているのか?私に、力も扱う事の出来ないお前が」
「……さぁな。だが取り敢えず、あんたの顔面殴り飛ばしたいんだよ」
武器になりそうな物を探す事はしない。
敵うはずがない事は解りきっているが、魔女のその美しすぎる顔を殴りたくて仕方がなかった。
「出来るわけがない。私はお前を許さないのだから」
言い放ち、魔女はマリアを更に前へ出した。魔女の手が動く度に、マリアの顔が苦痛に歪む。
「お前には最大限まで苦しめ、痛め、絶望してもらう。それが私の復讐だ」
「さっきから思ってたが、一応訊いてやるよ。何の事だ?」
何を言っているのかさっぱり解らない魔女の言葉に、あまり気は乗らなかったが訊いておく。
だが、魔女は冷たい目で彼を睨みつけ、鼻を鳴らした。
「知る必要も意味もない。お前はお前でいる事が罪だ」
はっきりと言われた、言葉。
ケインは自分の心臓の音が、一つ大きく響いた事を感じた。
「お前の存在する意味はない。いや、存在自体が間違っている」
それは、彼が最も恐れている事。
見透かされたような言葉が、続く。
ひどく、胸を抉る。
「お前が生まれた事はこの上ない間違いだ」
「……うるさい」
「汚らわしい、などでは物足りぬ。無意味どころか、罪だ。お前の存在は」
「黙れ」
「現に、お前はこの少女すら守れまい?私がその気になれば、瞬時にこれを粉々にする事など雑作もない。何も出来ないお前の存在に何の意味がある?」
呼吸が止まる。
次の瞬間、ケインはなり振り構わず飛び出していた。
何の考えもない。ただ、反射的に魔女に向かう。
衝撃と、悲鳴。
ケインはまたケヤキの木に打ち付けられていた。
わずかに血を吐き、何か違和感がある事に気付く。肺から空気が漏れる音を聞きながら見ると、右の肩を錫杖が貫いていた。
「ケイン兄!」
半分狂ったように泣き叫ぶマリアを、うるさそうに魔女が見下す。
単に投げたのか、それとも飛ばしたのか解らないが、マリアを引きずりながら歩み寄り、錫杖の先を掴んで引き抜く。
血が噴き出すと同時に、楔がなくなったケインの体は、ずるずるとその場に沈んだ。
「無力だな、まったく無力だ」
嘲笑し、魔女は錫杖を放り出し、靴のつま先で彼の顔を蹴り上げた。
「汚らわしい……その髪の銀も、瞳の蒼も全て。お前の全てが汚らわしい!」
声を張り上げ、出来たばかりの傷口を踏まれる。
悲鳴を上げるのはマリアだけで、彼は一言も発する事はなかった。出来なかった。
(俺は、何も出来ない、のか?)
無力感に、歯噛みする。
魔女はそれを見て冷笑を浮かべ、つま先で彼の顎を上げた。
「絶望したか?裏切り者」
(絶望……)
その単語は……疎遠であるようで、実のところ身近なものである事を彼はよく知っていた。
「ならば……もっと絶望してもらおうか」
魔女の目が、マリアに向く。
彼の方へ手を伸ばして喚いているマリアは気付かない。その魔女の目が何を意味しているか―――ケインは今度こそ、目を見開いて恐怖した。
とっさに動く事が出来たのは、もはや奇跡に近い。
無事な腕を伸ばす。だが……届かない。間に合わない。
「あああああああああああ!」
絶叫は、誰のものなのか。
絶望しているのは、誰なのか。
無力なのは、誰なのか。
ケインが無理に伸ばした腕が、マリアの服を掴む。マリアは、魔女が何かする寸前で身をひるがえしていた。
動けないはずのマリアが、どうして動けるのか。焦りで上手く働かない頭が、そればかりを巡らせる。だが、彼に背を向けた彼女の姿を見れば、それはすぐに解決した。何が起こったのかなど、見ればすぐに解る事だ。
マリアは、握り込まれていた長い髪を、魔女の腰にあった短剣で根元近くから切り―――振り返り様に、魔女に刃を突き立ていた。
ぱらぱらと、マリアの服を掴んだ手の上に、彼女のパールブロンドが落ちる。
それを見ながら、ケインは初めてそこで、自分が呼吸すら止めていた事に気付いた。熱気を帯びた空気を吸い込むと、思い出したように右の肩が痛む。
一瞬の出来事に、魔女もまた目を見開いて自分に何が起こったのか理解していないようだった。だが、自分の短剣が刺さっている脇腹を見下ろし、自分の血で汚れた手に気付くと、怒りに肩を震わせ始める。
我に返り、ケインは掴んだ布をたどり、マリアの体を捕まえた。乾いた音をたて、短剣がその場に落ちる。
魔女に怯えているのか、それとも人を刺してしまった事に愕然としているのか―――おそらく、その両者だろう。震えている少女の体を抱き込み、這うようにして魔女から離れる。
それは逃げる、と言うにはあまりにも遅く、幼稚な動きだったが、それでもそうする事しか思い付かなかった。
かすれた嗚咽を漏らしてしがみついてくるマリアの背中を強く抱きながら、数センチで遠く魔女から離れようと足を動かす。
「逃げられると思うか!」
魔女の慟哭。
その刹那―――マリアの体が跳ねた。
「マリア?」
異変に、ケインは動きを止めてマリアの顔を覗き込んだ。
抱えた際に付着したのだろう、彼の血で汚れたマリアの顔は、蒼白だった。
燃え盛る炎の赤さの中でも解る程、肌は白い。蒼い双眸は虚ろで、焦点が合っていない。
それらが何を意味するのかなど解らないが、また別の恐怖を彼に与えるには十分過ぎた。
「……何をした」
振り返る彼の目にこもった感情に、魔女は気付いたようだった。
両の口角を不適に上げ、彼らを見下す。
「永遠の闇だ……逃れる事は、出来ぬ」
そこまで言い、魔女は刺された脇腹に手をあてがった。ひと撫でで、破れた服の合間から見えていた傷が、何事もなかったかのように消える。
そうしてから、魔女はおかしくてたまらないと言うふうに体を折って笑い出した。
「あははははは!そうだ、逃れられぬ!存分に絶望するがいい!」
「うるせぇよ、ゲラゲラと!何をしたって訊いてんだ!答えろ!」
耐えきれなくなり、ケインもまた声を張り上げた。
だが魔女はただ狂喜しているだけ。
高笑いが、樹木の葉すらも揺らすかのように響くだけ。
ケインはマリアをその場に寝かせ、膝もしっかりとしないまま立って魔女の襟に掴み掛かった。
彼よりも身長は低いが、それを感じさせない。彼に掴まれてもなお、魔女は余裕たっぷりに、恍惚の笑みを浮かべた。
「恐ろしいか?」
問うや否や、また魔女は声を出して笑い出した。
「恐怖するがいい。その、緩やかで確実な死に!」
確実な死―――
その事について問いただそうとしたその直後に、右肩を錫杖で打ち据えられた。
衝撃と痛撃に、ケインは地面に膝を付けた。錫杖の先が、傷を押さえ付ける。気絶しそうになるのを、唇を噛んで耐えていると、魔女は再び錫杖を振りかざした。
ひどく緩慢に見える映像の中、手に何かがあたっているのを感じて下を見る。
鈍く光る、汚れた銀の十字架。
(あんたは……)
ただ、そう思う。
(本当に何も救えないんだな)
まるで自分のようだ、と。
「……絶望するには、まだ早い。少年」
低い、別の声が聞こえた。
一陣の風。
そう表現するしかない突風が吹き抜ける。ケヤキの葉が大きく揺れ、ざわりと騒いだ。
何か冷たい気配を身近に覚え、ケインは顔を上げた。
まず最初に目に入ったのは、夜風にたなびく白銀。
炎に照らされていても輝かしい毛並みの獣が、いつの間にか彼のすぐ前に佇んでいた。
巨大な山犬―――とも思ったが、すぐにそれを打ち消す。犬と言うには、その巨体はあまりにも勇猛過ぎる。
いつだったか見た本の中に、その獣に近いものを見た事があった。ここでも最北の地だけに、遠くに見掛けた事もある。
大きさと毛並みの色を別と考えると、それは巨大な狼であった。音もなく出現した獣は、威嚇するのでも警戒しているのでもなく、昂然とそこに立っている。
彼の腕二本分もある尾が、彼の血だらけの肩を撫でた。たったそれだけで、傷の痛みがわずかに引く。
見てみると、痕は大きく残ってはいるものの塞がっており、出血は完全に止まっていた。さすがに貫かれた違和感は消えないが、致命傷でなくなったのは確かだ。
さらに顔を上げると、魔女は大きく後退して離れた場所にいた。
その表情は、初めてと言っていい程まで、ひどく緊迫している。絶大な力を持った魔女が、いきなり現れた巨大な狼に対し、明らかに狼狽している。
「……アナスタシア、か」
魔女は、憎々しいと言わんばかりにそれだけ呟いた。
ケインが何の事か考えあぐねていると、狼が数歩、前へ歩み出る。
「その通りです。ベルア・アンバー……沈黙の魔女よ」
ケインは、その光景に目を見開いた。
狼のあぎとから発せられたのは、明らかに人間の、それも女の声だ。この獣が現れる寸前で聞こえた声と同じものを、その獣が操っている。
自分は幻でも見ているのではないだろうかとさえ思えたが、握り込んだペンダントの冷たさと、未だに燃え続けている炎の熱さは現実でしかない。
不意に、狼が彼の方を見た。
彼の銀髪によく似た白銀の毛並みの中に、一対だけ異なった色が真っすぐに彼を見据える。金色に近い、飴色の瞳。
「あの子を見ていて上げなさい、少年。それがお前の役目でしょう」
女声としては低い部類の声だったが、どこか穏やかな言葉に、ケインははっと振り返った。
マリアは、変わらずそこにいた。微動だにせず、まるで凍りついたように。
ぞっと背中を震わせ、ケインはマリアの方へ向かった。
「マリア!」
ほぼ泣き叫ぶのに近い声で彼女を呼ぶと、そこで初めてマリアは反応を示した。細い指の先を痙攣させ、首を動かそうとしているのか、頭をわずかに動かす。
触れてみると、その肌は信じられない程冷たい。氷、とまではいかないまでも、その冷たさは常軌を逸していた。
反射的に、彼女の体を抱き上げ、掌で強く擦る。
ぐったりと重力に従ってもたげた頭を、手を添えて自分の方へ向けさせる。虚ろな碧眼には、涙が堪っていた。
動かす度に鈍さが響く右手の指の腹で、それを払ってやる。マリアは僅かに口を動かして何か言おうとしたようだったが、音にならずに終わる。
「哀れだな、アナスタシア。獣の姿になってまで自分を繋ぎ止めているとはな」
「さて……哀れはどちらでしょう」
狼は、肩をすくめる代わりに前足の先の地面を軽く擦った。
「まぁ、いい。ベルア、どういうつもりですか?人間に呪などかけて」
「私を裏切ったあの男だ!絶対に許すものか!」
魔女が、激しい怒りをぶつけんばかりに叫び、ケインを睨み付ける。
ケインもまた、魔女を鋭く睨んだ。すると、狼が再び彼の方を見る。
じっと見つめるその瞳の意図は解り得ないが、その金を思わせる瞳が、一瞬だけ細められたような気がした。
「……とにかく、少女に掛けた呪を解きなさい。感情を抑制させる事です。それが我らを破滅に導いたと、覚えているでしょう?」
「知るものか!」
言い放つと、魔女は素早く錫杖を掲げた。錫杖の先に、光の筋が複雑な模様を描き出す。
狼が勘付いたように飛び出すが、間に合わない。魔女の姿は、光の粒子を残して霞のように揺らぎ、掻き消えた。
魔女が立っていた位置に足をつけ、その場をぐるりと見回してから、狼が一つだけ深く嘆息する。
「……まさか、会得するとは……誤算は大きかったようですね」
そう呟くのも、ケインには聞こえた。
燃え盛る故郷を背に、マリアを抱いたまま立ち上がる。途中でぐらりと倒れそうになるが、地面を踏みしめる。
「どういう……事だ!」
それしか言いようがなく、自分でも間抜けな問い方だと思う。
焦燥感と恐怖が、未だに胸の内に巣食っているのがよく自覚出来る。
狼はその彼の内面を鋭く見透かしたように目を細めた。黄金色に近い瞳が、未だにくすぶり続けている炎に照らされて妖しく光る。
やがて目を開き、更に近寄る。吐息を漏らして鼻の先で彼の握り込んだままの手に触れた。
一瞬何が起こったのか解らなかったが、すぐに手の中にあったものがマリアの首に掛かっている事に気付き、それと狼の目を見比べる。
「私はこの先の渓谷にいます。一週間……その間に何かあったら、入り口にきて呼びなさい」
そう言い、呆然とするケインを後目に身を翻し、狼は遥か高みに瞬く星を見上げた。
「……残酷な運命ほど、悲しいものはない……」
しかし、彼女の為ならば私は何でもしてみせる。
後ろ指を刺されようと、罵られようと。
<呼ぶ、力>
夜が開けるまでの時間が、これ程長いとは思わなかった。
出血は抑えられても、傷跡は生々しく残っている右肩は、普通に動かすのも難しい。痛みはないが、まるで骨折した時のように引きつった違和感がある。
だが背中の彼女を落とす事は決してしてはいけない。ケインは左の腕に力を込め、マリアの体重を支えた。先程まで起きていた彼女も、精神的な疲労には素直に従ったようだ。今は安らかな寝息をたてている。
正直なところ、眠ってくれて助かった。
ケインは、意図せずとも視界に入ってくる焼けただれた町と、住人だったものの末路に、何度となく吐き気を覚えていた。嗅覚を刺激してくる、何種類もの焦げた臭いが、胃の奥を突いてくる。
黒くなった何かの看板を蹴り飛ばし、ゆっくりと壊滅した町を歩いてゆく。廃墟と言うには生温い、そんな光景だ。
今朝、隣町に行く時には想像すらもしていなかった。
特段、好きだとも嫌いだとも言えないこの町が、こうして消失してしまうなどとは。
複雑な気分だった。
友人や知人が多かったなら、泣き叫んで地面でも叩いていただろうが、あいにくと言うべきか、幸運にもと言うべきか、そういう類いの人物は、彼にはこの少女と彼女の父親くらいしかいなかった。だからこうして、炭化した町の中も歩いて行く事が出来ている。
見覚えのある形の建物―――の跡の前で、足を止める。
屋根は落ち、ほとんど柱と土台と、あとはほんの少しの家具の燃えかすしか残っていなかったが……はっきりと解る。
往来を行く人々に、店内の惣菜がよく見えるように考えられて作られた大きな窓ガラスは粉々に砕け、中のものもことごとく消し炭と化している。
ケインはその店を見上げながら、しばし考えた後にそちらへ足を向けた。今にも崩れそうな雰囲気があった為、上着を脱いで地面に置き、その上にマリアを寝かせてから中へ入る。
炭になった柱か梁だかをかき分けながら、見付けた物を一つ一つ確認しながら放り捨てたり、ポケットにしまい込んだりしてゆく。
合成金属で作られたナイフ、フォーク、スプーン。包丁らしきものもあったが、使い勝手がよくなさそうだと思い、捨てる。紙幣は燃えてしまったのだろう。レジの辺りからは貨幣ばかりがざらざらと出てきた。
更に奥へ入ってみる。マリアが気になるのでそうそう入り込む事は出来ないが。
野菜や果物の残骸が転がって潰れている中を、同じように柱などを慎重にどかしながら探ってゆく。奇跡的に残ったのだろう。塩のビンが出てきた。
それを小脇に抱え、もう少しその奥をかき分けると、黒い粉が出てくる。しばらくそれを眺めてから、ケインはその粉を指の先で掘り出してゆく。いくらか掘り進むと、やがて白い粉になった。小麦粉が積まれていたところだったのだろう。
辺りを見渡してから、ケインは一度マリアを寝かせたところまで戻った。起こさないように彼女の体を動かし、下に敷いていた自分の上着を取る。ついでに塩のビンを彼女の隣へ置き、また店の中へ入る。
小麦粉の場所まで戻ると、彼は服の適当な部分を破り、結び、簡単な袋を作った。汚い、などと言っていられる場合ではない。炭で汚れた手で、その袋の中へわずかに残った小麦粉を入れてゆく。
あらかた入れ終え、ケインはすぐにそこから出た。マリアの側に置いておいた塩のビンも中に入れて袋の口を結び、彼女の体を再び背負って歩き出す。
眠っていない上に、小柄とは言え人を一人背負っているのだ。いくら日頃鍛えているとは言っても、その足取りは遅々としたものにならざるを得ない。
その遅く重い足のお蔭で―――町の様子は事細かく見る事が出来た。
いつも人が溢れていた大通りも、よく通っていた図書館も、食べ物を探しに来ていた揚げ物屋も。
そして―――自分の、生まれた家も。
また足を止め、ケインはその残骸を眺めた。その入り口に近い道上に、人間だったものがある。
その指に、唯一変わらずに残っているものにケインは顔をしかめた。
捨てられ、忘れようと努めていても尚、いつも付けていた指輪。
外に向かって伸ばされた手は、一体何を求めていたのだろう。
片膝を付き、それの傍らにしゃがむ。その指先に触れてみると、簡単に崩れて風に吹かれてしまった。
「……あなたを可哀相だとかは、思わないでおくよ。言われ慣れていただろう?」
指先に残った黒い炭の跡を、舐める。
「…………母さん」
最後にそれだけ言い、ケインはまた歩き出した。
その足はやはり遅く、重々しかったが。
昼近く―――かどうかは解らないが、マリアが目を覚ましたのは、太陽が大分高く昇った頃だった。
町に近い場所に流れる川辺で寝かせていた為、ゴツゴツとした感触に唸りながら瞼を開ける。
「……あれ」
ぼんやりとした視界の中で、マリアは首を傾げた。何かが引っ掛かる。
「よぉ。起きたか」
ふっと彼女の上に影が落ちる。ぼやけた視界でもはっきりと解る、銀色の髪に深い蒼の双眸。普段と違って、普通に微笑んでいる点に多少の違和感があるものの、マリアは目を見開いた。
「ケイン兄」
呼ぶと、ケインはどこか安心したように笑み、彼女の背中に手を回した。
突然の事に焦るマリアに、喉の奥で低く笑いながら、上体を起こしてやる。すると彼女は、自分が川原にいる事に疑問を持ったようだった。見渡し、眉をしかめる。
そこに、チャラ、と胸元で何かが音を立てたのを聞き、下を見る。
自分の首から下がった銀製の十字架。
それにマリアが指で触れると、ケインは一転して暗い表情になった。その彼の顔と、十字架のペンダントを見比べてから―――マリアは自分の手の甲に噛み付いた。
「マリア!」
喰いちぎるかと言う程強く自分自身の手を噛むマリアに、ケインは慌ててその手を掴んでやめさせた。
くっきりと歯形が残った手の甲。マリアは唇を噛み締めて下を向いた。
「……夢じゃ……ないんだ」
泣きもせずにぽつりと言うマリアの声に、ケインは何も言えなかった。
彼自身、悪い夢ならどんなに良かったかと思っている。不意に引き戻され、いつも通りの日常が始まるのでは、と淡い願望も抱いたりもした。
だが、右の肩は紛れもなく痛む。そして何よりも、いくらか離れた位置に流れているこの川まで来たというのに届く、この焦げた臭い……全て、これが現実なのだと物語っている。
黙りこくり、今にも泣き出してしまいそうなマリアを見、ケインは何度目となるのか、拳を握りしめた。
自分は……あまりにも無力だ。もう少し、ほんの少しでも、どんなものでも構わない。力があれば、と思ってしまう。
(……は。情けねぇ)
苦笑し、マリアの頭をやや乱暴に撫でる。―――と、そこで気付いた。
数時間前までは背中の中心くらいまであったパールブロンドは、ばっさりと、下手をすると彼の銀髪よりも短くなっている。
彼女自身の手で切られた髪。
これだけいつもと変わらずに地面を照らしている陽光に輝く彼女の髪を、一房取って指で梳いてゆく。
「……悪ぃな」
「へ?何?」
強張った声で、マリアは数回素早くまばたきをしながら聞き返した。何やら緊張したような面持ちで、いつもならばからかっているところだ。
だがケインは、ただマリアのまばらな短さになってしまった髪を指に通すだけ。
「こんなに短くなっちまってよ……すまない」
いつもの彼でない態度に、マリアは戸惑いを隠せなかった。何か言わなければと思うものの、何を言ったら良いのか解らず口ごもる。
ケインのその様子は、あの『悟り』より以前に立ち戻ってしまったかのようにも見えた。
川のせせらぎだけが、その場に響く。
ややあって、ケインはふと腰を上げた。
がしがしと後ろの髪を掻きながら、彼女に背中を向け、即席の石のかまどの中から、細い木の棒に刺さったすり身の団子のような物を出してくる。
不意に気付いて別の方を見ると、魚の骨が散らばっているのが見えた。その周辺には水を掛けた跡がある。さばいた跡を川の水で流したのだろう。
その不器用な気遣いに、マリアは苦笑を浮かべた。
テーブルテニスのボール程しかない団子を差し出し、ケインは一緒に出した塩のビンに視線を落とした。
「食欲ないかもしれねぇけど……少し食っとけ。塩でしか味付けしてないけどな」
「うん……ありがと」
無理に笑い、マリアはそれを受け取った。
内心、いらないと言われるのではないかと危惧していたケインだったが、ほっと胸を撫で下ろす。
あの魔女に何かされたようであったし、あの狼の言葉も気になっていたのだが、特に何も変化はないようだ。
それが解っただけでも、今はいい。
ケインは、自分も魚の団子にかぶりついた。塩しか味を付けていないからか、思ったよりもすんなりと喉を通る。
(これからどうするかだな)
晴れた空を見上げながら、肩を落とす。
ここを離れた方がいい事は解っているが、なにぶん持ち合わせがほとんどない。あの店の中の様子を見ただけであったが、おそらく他の建物の跡も、金の類いは貨幣しか残っていないだろう。かき集めればいくらかにはなるだろうが……隣町に移り住む程まで望む事は出来ない。
何より、マリアに彼と同じ辛酸を舐めさせる訳にはいかない。かと言って、働くにしても彼はまだ幼すぎるし、それに学歴が全くないのだ。まともな働き口はないだろう。
それに孤児の施設に入るには、彼らのように十歳を過ぎている場合、入れてくれるところは少ない。孤児院を探す間にも金がいる。
……いざとなれば、犯罪を重ねてでも稼がなければならないかもしれない。その場合、マリアに危害が加わらないようにしてやる必要もある。
そんな事を考え続けてから、ケインはマリアが硬直している事に気付いた。
眉をひそめ、その彼女の横顔を見る。
団子は一口だけ食べたらしい。食べて―――そのまま固まっている。
「……マリア?」
顔を覗き込む。
その途端、マリアが弾かれたように動いた。体当たりするように彼の方へ手を伸ばしてくる。
何事か解らずに、わずかに身を強張らせるが、マリアの手は彼の横をかすめ、塩のビンを取った。
味付けが薄かったか、と間抜けな自分に嘆息するが、次の瞬間には更に目を見開く事になった。
マリアが団子に掛けた塩の量が、半端なものではなかったのだ。魚の身の色が、ほとんど塩の白さで隠れてしまっている。
その異常さに声をかけるよりも先に、マリアは団子にかぶりついた。何か焦った表情で、何かを恐れて、怯えているように。
口の中に団子を入れてしまってから、マリアは先程よりも深く首を垂れ、自分の服を握りしめた。しばしすると、その手の上に雫が一つ、二つ、と落ちる。
耐えきれなくなってケインが肩に触れると、マリアは勢いよく顔を上げた。嘘であってほしい、夢でいてほしい。そんな目の色に、ケインは戦慄を覚える。
「マリア?」
「ケイン兄……どうしよう」
かすれた声がその口から聞こえる。口の中のものを飲み込んでいないのか、ややくぐもった、聞き取りづらいものであったが、他に目立った音もない為、聞き逃す事はなかった。
「何でだろう……わけ解らない」
「何が」
なだめるように肩をさすってやると、マリアは体全体を震わせ、彼にすがりついてきた。
勢いで後ろに倒れそうになるのを何とか堪え、ケインはその小さな体を受け止めてやる。軽く背中を叩くが、マリアは彼の胸元に顔を埋めたまま、顔を上げようとはしてこない。
さすがにケインも呆れ、首を傾げる。
「なぁ。俺だってわけが解らねぇよ。どうしたのか言え」
そう言うと、一際大きくマリアが震えた。
彼の薄いシャツを掴む指に力が入る。
「解らないの」
「だから、何がだよ」
消え入りそうな声に、少々苛ついた声で聞き返すと、マリアはやっと顔を上げた。
「味が、解らないの!」
言われた言葉の意味を、彼はすぐに理解出来なかった。
きょとん、と目を開いていると、更に彼女の声が続く。
「塩をいっぱいかけても、砂とか粘度みたいだし……それに、何の匂いも感じないの。魚の匂いも、水の匂いも―――ケイン兄の匂いも!」
理解出来なかった。
理解したくなかった。
まさか、と思う。だが信じ難い。信じたくない。
ケインは一言も口に出す事が出来なかった。
ただ黙って、マリアの体をかき抱くしかなかった。
私は、彼女の幸せの為に戦おう。
彼女を不幸にするのならば、例え何を犠牲にしても立ち向かおう。
それが自身の腕であり、あるいは足であり……命であっても。
彼女が救われ、幸せになれるというのならば、私は何でもなげうてる。
幾千の敵兵であろうと、戦ってみせる。
凶悪な魔物であっても、挑んでみせる。
不可視の力であっても、防いでみせる。
それが、残酷な運命でしかなかったのだというのならば……―――
歩き慣れた森は、霧のせいでどこか別の場所のような雰囲気を持っていた。
その中に浮かび上がる、白い影。
白銀の毛並みに、飴色の瞳の巨体を持った狼。黙って佇んでいるだけで威圧されてしまいそうなその存在を、ケインは鋭く見据えた。
「マリアを治せ」
その一言。
巨大な狼に戸惑いながらも、ケインの腕にしがみついていたマリアは、その立った一言に大きく反応して彼の顔を見上げた。
ケインの顔は、何の色も示していない。面のような顔で、狼に負けない眼光を放っているだけ。
あの時の魔女とこの狼の会話は短かく、そして意味不明な部分も多かったが……解るものは確かにあった。
マリアが、「呪」などというものを掛けられて、こうなっているのだ、と。
狼は、ふと視線を逸らした。
「死の沈黙……この呪は、徐々に五感を奪ってゆくものです。最後には完全に闇の中に放り込まれ、発狂して死ぬ……禁じ手とされて来ていましたが、彼女には関係ないのでしょう」
闇の中に放り込まれる―――その言い回しには、何か引っ掛かるものがあった。だがそれよりもその後に言われた事の方が、彼にとっては重要な事であった。
(死ぬ?発狂して?)
それだけが頭の中で繰り返される。
マリアを見る。彼女もまた彼を見上げ、彩度の異なる蒼がぶつかり合う。
マリアは何を言われたのか、いまいち理解出来ていないようだった。
だが、そう思うケインも理解しきれていない。
否―――信じたくないのだ。
個である生物が、自らを孤ではないと思えるもの―――それが、周囲を認知するものである、五感だ。
それが失われれば、比類のない闇。
そんなものに突然放り込まれれば、その人物に待っているのは……最も悲惨な最期だ。
それがマリアに、降り掛かる?
たった今、家ばかりか最後の肉親まで失った、たった12歳の彼女が?
馬鹿げている。
「掛けた当人しか解く事が出来ません。私には……弱めて進行を遅らせる事しか出来ない」
狼の言葉を聞きながらも、頭の中で響くのはたった一つ。
五感がなくなる。
幸せそうにミートパイを食べている顔も、頬をつねられてしかめる顔も、花の匂いに微笑む顔も、彼の言葉に赤くなったり青くなったりする顔も、全てなくなる。
「……ふざけるな」
嘘だ、と思う。
だが、事実マリアはすでに味覚と嗅覚を失っている。
何を食べても、土塊を口の中に入れているだけのようだと言う。焼くと目にしみる程の臭いを放つ葉の煙の中にいても、平然としている。
「ふざけるな!早く治せ!」
「……残念ですが、私ではその呪を解く事は出来ません」
「なら、あの魔女の行き先を教えろ!」
間髪入れない彼の言葉に、狼はわずかながら驚いたようであった。獣の表情の変化など、人間にしてみれば解るものではないのだが、どういう訳か気配でそうと解る。
狼はゆっくりと彼に近付いた。
「教えたら、どうしますか?」
「決まってる」
静かに、はっきりと、断言する。
「行って、殺してでも、治させる」
彼がそう言うと、狼は瞼を伏せた。何かを考えるように耳を揺らし、鼻を震わせる。
ややあって、狼は目を開けて彼を見た。じっと彼の目を覗き込み、小さく吐息を漏らす。その仕草は、気味が悪い程人間じみていた。
「……今の貴方では、あの狂った魔女に太刀打ち出来ませんよ」
「だから何だ」
躊躇などない、と言外で語っているのではないかと言う程、彼の口調は淡々としていた。
もうケインの中では、選択肢などと言ったものはない。
この狼では治せない。あの魔女なら治せる。それならば手段は一つしかない。彼にとっては、それだけの事なのだ。
それを見透かしたのか、狼は飴色の瞳を光らせた。
「ならば……契約しますか?」
突然、脈絡のない単語の出現に、ケインは初めて疑問に表情を曇らせた。マリアも何かただならぬものを感じたのか、しがみついてくる力を強める。
その彼女の背中を撫でてやりながら、ケインはその狼もそうしているように、相手の目の奥を伺った。
その視線の意図を察したのだろう。狼はまたも、彼が口を開くよりも先に先手を取った。
「獣の姿ですが、私もまた、魔女です。力の継承は女としか出来ませんが……『契約』という形ならば、貴方にあの魔女に対抗出来る力を授ける事が出来ます」
マリアが、小さく息を飲む。
魔女の力でこんな事になっているのだ。私も魔女だと言われ、狼狽えない方が難しい。
だが、ケインはすっと目を細めて狼を見つめた。
「『契約』ってことは……俺も何か差し出すってことだよな?」
「……察しが良いですね。その通り」
「何が望みだ。言っておくが、シャレ抜きで何もねぇぞ」
言って、マリアをの背中に回している右手はそのままに、左手で自分の身を示す。着ていた上着は小麦を入れる袋にしてしまって、今彼が着ているのは粗末なシャツ一枚。他にはナイフやフォーク、それと少々の小銭しかない。
途方もないものを言われた場合、どう対処すべきか。
彼が悶々と考えあぐねていると、狼はふん、と鼻を小さく鳴らした。
「そう……お前のその、蒼い目を貰うと言ったら、どうします?」
「なっ……」
魔女の問い掛けに、驚愕の声を出したのは,ケインではなく、魔女に怯えていたマリアであった。
恐れで彼にしがみついていた彼女は,瞬時に怒りに肩を震わせた。彼から身を離し,狼に食って掛かるかと言う勢いで喚き散らす。
「何、それ!そんな事出来る訳ないでしょう!馬鹿げてるわ。ケイン兄、断って―――」
言葉は途切れる。
急に暗転した視界に、マリアは疑問を声にする事も出来なかった。
もしかしたら『呪』というものが進行し、視覚までもがなくなってしまったのではないかと思って背筋を凍らせたが、僅かに光彩がある事で安堵を覚える。
だが,次にはほんの少しの圧迫感に眉をひそめる。失った五感の内で残っている触感……それで探ると,それはどうも布のようだった。温度もある。それは、人の胸だった。
それが解って注意深くなってみると、後頭部に大きな掌の感触もある。ただし,抱き締められていると言うよりは,胸に顔を押し付けられていると表現した方が正しい。
「……ケイン兄?」
自分にこのような事が出来るのは、ケインしかいない。
だが、何故今この状況でこんな事をするのか。その意図が解らない。
クク、といつも聞く、彼の人を食ったような低い笑い声が聞こえる。
「魔女にしては欲がないな」
「何、ですって?」
「こんなもんが欲しいのかって事だ」
彼が軽い口調でそう言った後に、マリアは異様な音を聞いた。
ひどく生々しい……まるで生肉の中に、手を入れて掻き回すような―――
「ケイン兄!」
ぞっとして、マリアは体を引き剥がそうともがいた。
彼が、どうして彼女の視界を塞いでいるのか。その意味を唐突に理解して。
だが強くもがけばもがく程、後ろ頭にあてられた手の力が強くなる。
その間も音はやまない。体全体に悪寒が走り、膝が震える感覚に、マリアは目の前にある胸板を思い切り叩いた。
「いやだよ、やめて!いいよ!私はいいから!やめてよ、お願いだから!
音は続く。その中に,わずかな苦悶の声も混じる。
ぼた、と頭の上に液体が落ちるのを感じたマリアは,すでにむせび泣きに近かった。
叩くのをやめ、爪を立てて引っ掻く。
「やめて、やめてったら!私は、平気だから!やめて、ケイン!」
『兄』と最後に付いていない事に、ケインは一瞬手を止め、息を飲んだ。
とっさに叫んでしまったのだろう。
ケインは口許に微苦笑を浮かべた。手に、より力を込める。
「マリア、いつも言ってるだろ」
全くいつもと同じ軽口に、マリアが喉の奥を引きつらせる。
「お前に拒否権はないんだよ」
ぶちり、と一層異質な音。
「いやぁああああああああ!」
叫ぶ、彼女。
彼の左の頬に、大量の赤。
それを乱雑に拭い、ケインは手にした自身の碧眼を、狼の足下に投げつけた。
「契約成立だ。俺に力を与えろ」
平然と言ってのけてから、ケインはシャツを強く握りしめて肩を震わせるマリアの背中を、幼子をあやすような手付きで撫でた。
その少女への手付きとは裏腹に、高圧的とも言える物の言いに、狼は自分の足下に転がっている、血まみれの眼球を見つめた。
「……えぐれ、とまでは言っていなかったでしょう?」
「あぁ、悪かった。俺は短気な方なんだ」
軽く肩をすくめても尚、マリアを押さえる手には力を込めたまま。
狼は深く、長く息を吐いた。じっと静かに、二人を見定める。
片方だけの蒼い目が、同じように狼を見る。暗い穴になってしまった左の目からは、おびただしい量の血が流れていて、先程に引き続き正視に耐えない。
だが―――ケインは口許に薄い笑みを浮かべていた。
痛みを感じていない、という事はあり得ない。先程は苦痛に顔を歪めてもいたのだ。
「……やはり、そうなのですね」
小さく、口の中で呟いた狼の言葉は、マリアにはもちろん、ケインにすら聞こえなかった。
狼はその白銀の尾を大きく振るい、天に向かって一声だけ吠えた。その途端に、立ちこめていた霧が晴れる。
「『声の魔女』アナスタシア・エメラルドの名において、契約の成立を認めます。名前は?」
名前―――
ケインはその単語に、初めて口をつぐんだ。
名前。自分の名前。
かつて彼は、それは単なる記号でしかないと思っていた。自分と他者、他者とまた別の他者とを区別するための手段の一つ。
だから、自分には意味がない。存在意義自体が希薄な自分には、名前と言う記号は特段大切な意味を持っていない。
そう思っていたから、彼は自分から名乗った事がなかった。
マリアもイヴも、誰かから聞いて彼の名前を知っていた。それに言わずとも、彼の名は彼が異質故にあの町で知られていた。
「俺は……」
あの憎むべき魔女は、彼の存在は無意味だと言った。罪だと断言し、無力だとせせら笑った。
確かに、自分は無力だ。自分という存在は、罪なのかもしれない。
無意味、なのかも、しれない。
(……無力なら、力を持てばいい)
今までも、そうしてきた。
(罪は、背負えばいい)
そして背負ったのならば―――
(……意味はある)
左目の痛み。
自分の存在の意味、するべき事を示す、証。
そして存在の意味があるのならば、自分の名前も単なる記号ではなくなる。意味を持つ。役目がある。
「ケイン・ブラックホーン。お前と契約し、力を得る」
<終章>
私は、彼女の幸せの為に戦おう。
彼女を不幸にするのならば、私は神とも戦おう。
彼女は毎日のように神に祈るが、私が祈り、付き従うのは彼女だけだ。
それが、私が生まれ落ちた唯一の意味だ。
私が何を信ずるべきかは、私が知っている。
私が何を守るべきかは、私が決める。
私は何も望まない。
巨万の富も、千里先に届く名声も。
例え手にしても、それは私が仕える彼女の為のもの。
だから手に入れたものが何であれ、捨てる覚悟は持ったその時からここにある。
彼女が必要だと言えば、手段をいとわず手に入れよう。
彼女が捨てろと言えば、躊躇もせずすぐに捨てよう。
しかし、彼女の為ならば私は何でもしてみせる。
後ろ指を刺されようと、罵られようと。
私は、彼女の幸せの為に戦おう。
彼女を不幸にするのならば、例え何を犠牲にしても立ち向かおう。
それが自身の腕であり、あるいは足であり……命であっても。
彼女が救われ、幸せになれるというのならば、私は何でもなげうてる。
幾千の敵兵であろうと、戦ってみせる。
凶悪な魔物であっても、挑んでみせる。
不可視の力であっても、防いでみせる。
それが残酷な運命でしかないと言うのならば―――
◇ ◇ ◇
また明日も彼女は笑うのだろう。走り回って笑い、本を見て笑い、何かを食べて笑い……それを、枯れないようにしてやれば良い。
例え、何を犠牲にしても。
どんなに代価を払っても。
どんなに時を費やしても。
…………。
いつだったか思った事。
いつしか願っていた事。
続くように、終わらないように、枯れないように。
誰にも終わらせない。
誰にも遮らせない。
誰にも手折らせない。
例え、何を犠牲にしても。
どんなに代価を払っても。
どんなに時を費やしても。
唐突に思い出す。
唐突に悟る。
自分の名前を呼んでくれた、イヴ。
自分の腕を引いてくれる、マリア。
二人が気に入っていた、おとぎ話の騎士の言葉―――
あれは、薄っぺらでも何でもなかった。
この決意を表すのならば、あの言葉が丁度良い。
いつしか自分がほくそ笑んだ、あの言葉。
…………。
俺は、彼女の幸せの為に戦おう。
彼女を不幸にするのならば、俺は神とも戦おう。
彼女は毎日のように神に祈るが、俺が祈り、付き従うのは彼女だけだ。
それが、俺が生まれ落ちた唯一の意味だ。
俺が何を信ずるべきかは、俺が知っている。
俺が何を守るべきかは、俺が決める。
俺は何も望まない。
巨万の富も、千里先に届く名声も。
例え手にしても、それは俺が守る彼女の為のもの。
だから手に入れたものが何であれ、捨てる覚悟は持ったその時からここにある。
彼女が必要だと言えば、手段をいとわず手に入れよう。
彼女が捨てろと言えば、躊躇もせずすぐに捨てよう。
しかし、彼女の為ならば俺は何でもしてみせる。
後ろ指を刺されようと、罵られようと。
俺は、彼女の幸せの為に戦おう。
彼女を不幸にするのならば、例え何を犠牲にしても立ち向かおう。
それが自身の腕であり、あるいは足であり……命であっても。
彼女が救われ、幸せになれるというのならば、俺は何でもなげうてる。
幾千の敵兵であろうと、戦ってみせる。
凶悪な魔物であっても、挑んでみせる。
不可視の力であっても、防いでみせる。
それが残酷な運命でしかないと言うのならば―――
―――打ち砕いてでも。
◆ ◆ ◆
墓地の見える丘の上に、昔からずっと変わらずにケヤキの木が立っている。
ケインはをいびつに膨らんだ鞄を背負ったまま、その場をぐるりと見回した。
「マリア」
静かな中に、彼の声が響く。
「マリアどこにいる」
もう一度、彼は周囲に視線を巡らせた。七年前から変わらない景色が、ただそのままある。他に何も無い。
ケインは顔をしかめた。
「マリア!さっさと出てこねぇとどうなるか解ってんだろうな!」
「は、はい!はいはい!ここにいます!」
半ば泣き叫ぶように、ケヤキの木の枝の上から少女が顔を出す。
短いパールブロンドに、相も変わらず数枚の葉を付け、マリアは慌てて木の枝から足を出した。
見ている方が不安になる程細い―――解っていても、嘆息は止める事は出来ない。
ケインは鋭く彼女を睨みながらも、木を降りようとする彼女に手を伸ばした。条件反射のようにその手を取る少女の手を、掴んで引く。
壊れ物を扱うかのような手付きは、以前よりも丁寧で。
七年の月日がたち、彼は身長も伸び、声もいくらか低くなった。銀色の髪も、伸びてきたので後ろで適当に無造作に結っている。
だが、彼女に目立った変化はない。ただ以前よりも痩せてしまっているだけで、背も伸びていなければ、顔付きに目立って変化が訪れた様子もない。
それはあの魔女に掛けられた『呪』ではない。ただ単に、栄養剤と水だけでは十分なものが取れないための、軽度の栄養不足によるものだった。
首から下がった銀十字。模様のような呪術言葉が刺繍された服。それさえなければ、ただ少し痩せただけかとも思えた。
しかし、確実に『呪』はマリアを脅かしている。
ざぁっと、風が吹く。
木の葉を揺らし、ケインの外套の裾を舞い上げ―――銀色の前髪の隙間から、黒い布で覆われた左の顔があらわになる。
マリアの表情が暗くなる。
この大げさな眼帯を見るその度に、彼女はひどく落ち込む。気にするな、と言っても、何を言っても。
だから―――
「いたたたたたたた!」
彼女の頭に乗っている葉を全て払い落としてから、にこりと笑いかけながら、ケインはその鼻を強くつまんだ。
「そういや登るなって言ったよなぁ。忘れたのか、あ?」
顔はにこやかだが、声はそれとは真逆だ。
声変わりがとうに終わり、前とは比べ物にならない程低くなった彼の声は、そうするだけで妙な迫力があった。
この七年の間、ほとんど傍にいたマリアもそれは感じているらしい。その居すくまる程の眼光と声に、マリアは小さくヒィ、とかすれた悲鳴を上げた。
「忘れてない、忘れてないって!」
「ほぉ、じゃあ確信犯か。喰われても文句は言えねぇなぁ」
「ひぃいい!」
誘導尋問に近いやり取りに、マリアはつねり続けるケインの手から逃れようとするも、それを見越したケインに、反対の左手でがっちりと捕まってしまった。
マリアが身をすくめると、楽しむように蒼い隻眼を細める。
「おいおい、悲鳴上げるなんてひでぇな。傷付いちまった」
「え、何が?……って、痛い痛い!」
ごく当然の疑問のように口にしてしまったマリアの口の横を、無言で引き上げる。
「……いつまでやっているのです、ケイン」
背後から、冷静な声が凛とその場を締める。
マリアは天の救い、とばかりに、いつの間にか現れたアナスタシアに瞳を輝かせた。
巨体で音もなく歩み寄ってくるその様は、どこか非現実じみていたが、白銀の尾が揺れる度、その足が一歩を踏み出す度に、体全体が萎縮するような雰囲気は確かだった。
「正直なところ、七年で習得するとは思いませんでしたが……中身は変わりませんね、二人とも」
「私もですか」
頬を引かれ続けているが、マリアは不満そうに口を尖らせた。
アナスタシアは、自分を魔女と名乗っているが姿は狼だ。だが、獣の姿とは不釣り合いに、首をうんざりと左右に振る仕草は、ひどく人間くさい。
「学習能力を付けなさい」
自覚はあるらしく、ずばりと言われてマリアは肩を落とした。
彼女の子供のような反応に、アナスタシアはわずかに、自身にまとう空気に柔和なものを混ぜる。
ケインは丘から下へ、視線を巡らせた。
七年の月日は、焼け果てた町に別の命を生み出し始めていた。どこからか渡来した種が芽吹き、小さな葉を人工物であったものの跡にいくつもまとわせている。
もう何年かしたら、小さな木でも生えてくるのだろう。
それを見る事が出来るかどうか―――無論、彼女の事だが―――それは自分次第だ。
「ケイン」
呼ばれ、振り向くと、飴色の瞳がしっかりと彼を捕えていた。
「『沈黙の魔女』、ベルアはどこかおかしい。私の知っている彼女ではなかった……気を付けなさい」
「助言、感謝します、師匠」
ケインのその言葉に一番驚いたのは、すぐ傍らにいたマリアだった。
彼が誰かに対して、何の嫌味もなく感謝の辞を述べるなど、滅多にない事なのだ。
だがその顔を見上げ、マリアは怪訝に首を傾げた。ケインは感謝を口にしていながら、厳しい表情をしている。それはこれからを思案しているのではなく、純然たる敵意のような、矛盾したものだった。
「ついでに、餞別として一つ、訊いておきたい」
「……何です?」
ケインに驚きもせず、アナスタシアは平然としていた。まるで予期していた事だと言わんばかりの態度。ケインは片方だけの碧眼を歪めた。
「師匠、貴方だけでなく、あの魔女……ベルア?どうして居るのですか?」
「……もう少し、詳しく言いなさい」
「じゃあ、遠慮なく言おう。魔女は二十年以上も前に、クラプフェンとかいう荒れ地の塔に閉じ込められた魔女で最後のはずだ。居ないはずなんだ、貴方たちは。どうして、今、居るんだ」
マリアが、彼の言い方をたしなめるように右の腕を引いてくる。
『沈黙の魔女』に貫かれた右肩を補正するためでもある大仰なグローブ越しでは、彼女の体温も感じなければ感触もあまりない。
だがケインは、引いてくるマリアの細い指に、自分の指を絡ませた。わ、と小さく声を上げて顔を染めるマリアに、いつも通りの人の悪い笑みを浮かべる。
そして、再び魔女の威圧に負けない程の鋭い眼差しを向ける。
しばしの睨み合い。先に折れたのは、巨大な狼の方であった。
虚空を滑らせるように顔をそむけ、長くまばたきをする。
「今の私の口からは言い兼ねます。いつか……いつか解ります。貴方が貴方である限り―――貴方が役目を果たそうとすれば、必ず」
言って、白銀の狼は蒼穹を睨み上げた。
「……どこかに救いはあるのでしょうか……」
その誰にとも言えない問い掛けの後に、風がまた強く吹く。深い藍色の外套の裾がひるがえる。
ケインはその長い顔を見据えながら、マリアの手を握る力を強めた。
-
-
■作者からのメッセージ
Worksの第2章です。
第1章を読んでくれた方は、疑問に思った方もいると思います。第1章で主人公として出てきたヴィオラデルに対して、こちらではケインが主人公の位置になっています。時間軸も、読んで頂ければ解るかもしれないのですが、若干異なった始まりになっています。
ですが、完全別物ではなく、繋がっています。
賛否両論あるかと思いますが、これからもよろしくお願い致します。
5/4
ご指摘のあった、読み難い漢字を修正してからアップしました。読み易く……なったでしょうか?
第一章のヴィオラデル編は、ログの方にあります。よろしければそちらもどうぞ。
5/28
最初にあった、町の崩壊の話になりました。
あまり生々しくなりすぎないように努めたんですが……。
6/11
Works第2章、終了です。
ケインの過去に力が入ってしまって、第1章よりも長くなってしまいましたが、いかがだったでしょうか。
5〜6章で完結という予定なので、次からいよいよ確信に迫っていくという事になると思います。
これからもよろしくお願い致します。