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『ゲドウ戦記 【8】』 作者:甘木 / リアル・現代 お笑い
全角15700文字
容量31400 bytes
原稿用紙約47.55枚
世界征服を目指す悪の組織〈初代赤龍会〉――その実体は町内征服もままならない弱小組織。ひょんな事から、初代赤龍会の総長になってしまった月護龍太。龍太をサポートするのだか、足を引っ張るのだか分からない、初代赤龍会の濃い面々と引き起こす矮小で下らない事件の数々……。この作品は月護龍太に降りかかってくる苦難と苦闘の記録である。
 【8】 Arbeit Macht Frei 3



「龍太さん、これ見て下さい。『トールのミョルニル』って書いてありますよ。トールって北欧神話の神様ですよね。トールが使ったハンマーがあると言うことは、本当にいたんですねぇ」
 よし野さんは感心したように両手を組んで、壁に掛けられた大きな金属製ハンマーを見ている。ハンマーは神々が使うには実用過ぎる無骨さが有り、どちらかというと解体現場なんかが似合っている。
「失礼ですが、それは偽物です。掠れてよく見えないかもしれませんが、柄のところにマジックで『佐藤工務店』書いてあります。そのハンマーだけじゃありません、ここにある物のほとんどが偽物やまがい物なんです」
 常居さんは木製の柄の黒ずんだところを指差す。
 確かに文字とも単なる汚れともつかないシミが見てとれる。
「じゃあ、このキリストが十字架にかけられたとき、手足に打ちこまれたクギというものも偽物ですか?」
 ボクは展示用の棚に置かれた、鉄製と思われるクギを手に取った。ずっしりとした重みが伝わってくる。
「ええ。それは鉄道のレールを固定する犬クギだと思います」
「犬クギって、こんなに長いものなんですか」
 クギは優に四〇センチはある。
「犬クギじゃないかもしれませんが、キリストを磔刑にした時のクギじゃないことは確かです」
「そ、そうなんですか」
 常居さんはそんなことも分からないのとばかり目を細める。ボクはその視線が痛くて、慌ててクギを元の場所に戻した。
「こっちには八百比丘尼が食べたという人魚のミイラがありますよ。わたし人魚のミイラなんて初めて見ました」
 常居さんの言葉を聞いてなかったのか、よし野さんは人魚のミイラが納められたガラスケースに、顔をくっつけんばかりに近づいて見ている。
「それは猿のミイラと魚をくっけたまがい物です。上半身の猿はニホンザルで……」
「ふぁぁあ。ここは贋作博物館かよ」
 純鈎さんは常居さんの説明を遮って、アクビ混じりに言う。
「いいえ。ここは社会資料室です。先程もはっきり言ったはずですが」
 説明を遮られたのが気に障ったのか、眉をひそめた常居さんは素っ気なくこたえる。
 純鈎さんは、ふんっと鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまう。
 何でか知らないけど、この二人はウマが合わないみたい。緋色先輩と常居さんも仲が悪いけど、これはオカルト否定派と肯定派の対立のせい。でも、純鈎さんと常居さんの間にはもっと別のものがあるみたい。とくに常居さんが一方的に純鈎さんを嫌っているみたいだし。ともかく、二人の間に流れる空気がピリピリしていて、凄く居づらいんですけど……ただでさえ荷物に囲まれた狭い部屋なのに、二人が醸す険悪な雰囲気のせいで余計に狭苦しく感じられる。

 *   *

 ボクたちは相原さんを成仏させた後、食事したりお風呂に入ったりして時間を潰し、深夜一時に常居さんの案内で社会資料室に集まった。
「この社会資料室は正式には『第二社会資料保管室』と言います。見ても分かるように使用頻度が極めて低い物品、すなわちがらくたを保管している場所です」
 常居さんの説明は簡潔だったけど、これほど正鵠を射た説明もなかった。教室より広い部屋に、何に使うのか分からない物が所狭しと置かれている。自動車ぐらいある大きな物や、ガラスケースに収まった細々とした物品、壁に掛けられた刀剣や得体の知れない長物。それらひとつひとつに『かぐや姫が求めた蓬莱の玉の枝の皮』とか『アーサー王がエクスカリバーを入手する前に使っていた剣カリバーン』とか『古代中国の王、神農が蚩尤を倒した時に使った指南車の車輪』とプレートがつけられている。
「前理事長は骨董品蒐集が趣味でした。しかしながら真贋を見抜く力は皆無。悪徳業者にいいように騙されて贋作を高値で大量に買わされました。いえ、もはや贋作とすら呼べない物品が大半です。現理事長がこの学校を買い取った時、これらを処分しようとしたらしいのですが、価値のないこれらを引き取ってくれる業者もなく、ここに置かれたまま今に至っています」
 常居さんは肩をすくめ少しだけ笑顔を見せる。
 夜のせいだろうか、常居さんの雰囲気が違って見えた。それともみんなが私服でいるせいかな。昼間は日本人形のように硬質な感じに見えたんだけど、今は私服で髪をポニーテールにしているから普通の女の子みたい。女の人って服が替わると随分変わるんだなぁ。常居さんだけじゃなくってみんなも雰囲気が違う。
 そう、ボクたちは服を着替えて集まっていた。
 純鈎さんは濃紺のTシャツに黒のショートスパッツ――活動的な純鈎さんらしい格好だ。だけどボディラインがはっきり出過ぎていて……目のやり場に困るなぁ。
 よし野さんはフリルの付いたブラウスの上に黄色がかったカーディガンと黒のロングスカート――ふわふわした女の子らしい格好で凄く似合っている。でも、これから怪異現象に立ち向かうには、そぐわない気もするのは気のせい?
 常居さんは薄手のセーターにジーパン――シンプルだけどスタイルがいいからカッコイイ。動きやすそうな格好だけど、どうせまた傍観者だよね。
 ボクは灰色のスエットの上下。儀武オジサンは「オマエら勝手にやれよ」と言って手伝ってくれない。
 で、緋色先輩は昔のヨーロッパで着ていたような、ワンピースタイプの白い寝間着に同色のナイトキャップと大きな枕――「枕が変わると寝られんのだ」が理由。でも、ボクたちは怪異現象を解決しに来たんで、寝るワケじゃ……。
 普通なら私服で学校にいると違和感がある。けれど、この社会資料室は学校とは思えない乱雑さがあって、なんだかフリーマーケットにでも来ているような気分がして違和感はない。
 強いて言えば、社会資料室に着くや「私は眠いのだ」と言って、『えんどう豆の上に寝たお姫様が使ったベッド』のプレートがついたベッドで緋色先輩が寝てしまったことぐらいかなぁ。でも『えんどう豆の上に寝たお姫様』って、アンデルセンの有名な童話だよね――いくら真贋を見極める力がないからって、モロ偽物じゃん。こんな物を買わされた前理事長って……ある意味凄い。そして何が起こるか分からないのに、寝てしまう緋色先輩も凄いな。
 と、感心している場合じゃない。動く鎧というヤツをなんとかしなきゃいけないんだっけ。丑三つ時の午前二時が近づいているし、そろそろ準備とかしないと。
「あのぉ常居さん、動く鎧って言うのはどこにあるんですか?」
「こちらです」
 くだんの鎧は緋色先輩が寝るベッドの近くに鎮座していた。
 黒ずんだ銀色の西洋甲冑。片手には大きな馬上鑓を持ち、胴体の部分には象徴化された十字架が彫金されている。鎧なんて言うから日本の甲冑を想像していたのに、ここにあるものは傷だらけの古ぼけた西洋甲冑だ。ファンタジーじゃお馴染みの小道具だけど、目の前のこれは妙な圧迫感がある。
「これ、年代物っぽく見えるんですけど、これも贋作なんですか」
「いいえ、これは本物の骨董品です。私が調べたところでは、一五世紀のドイツ貴族が作ったものらしいです。最初の持ち主はキリスト教で異端とされたベガルディ派だったため処刑されました。主を失った鎧は転売され、ヨーロッパの戦乱の中、次々と持ち主を変えていきました。そしてこの鎧を身につけて天寿を全うできた人間はいなかったとも言われています」
 常居さんは恐ろしげな来歴を淡々と語る。
「持ち主が全員死んだんですか。動くだけじゃなくって、呪いのかかった鎧なんですか」
 近寄って恐る恐る鎧に触っていたよし野さんは、慌てて手を離し兎のように飛び退く。
「呪いではないと思います。所有者たちが生きた時代は戦乱期です。戦いや病気や飢饉なんかで簡単に死ぬ時代ですから、早死にしたのは単なる偶然でしょう」
「そうなんですか」
 よし野さんは安心したように息をつく。
「じゃあどうして動き出すんです」
「理由は分かりません。調査不足です、すみません」
 ボクの質問に常居さんは素直に頭を下げる。
「理由は分かりませんが、夜中に動いているのは確かです。文化祭や校内合宿で泊まり込んだ生徒たちが何人も目撃しています。それに寮生で夜中に学校の方から金属音が響いてくるのを聞いた人もいます」
「中に誰か入って悪戯しているんじゃねぇの」
 純鈎さんはずぃっと鎧に近づくと、やおら胴体部分に正拳を入れた。
 ガッコォォォン。と、重い音が内部で反響する。
「ま、今は誰も入っていないようだな」
「今どころか、この鎧には誰も入れません。鎧の蝶番が壊れていて開かないんです。それにどうしてか分かりませんが、頭部パーツも腕部や足部パーツも外れません。人間が入り込むなんて無理なんです。だいいち単なる悪戯なら、あなたたちには頼みません」
 確かに蝶番は赤茶けた錆に覆われ、不細工な塊と化している。西洋甲冑という物は蝶番やベルトなどによって、胴体部分の前と後ろを固定して使うものだから、蝶番が動かなかったら着ることは叶わない。
「ですから」
 常居さんは一度言葉を止めると、ボクたちの顔をじっと見る。
「この鎧が動き出すのを止めて欲しいのです。来週の土曜日には、この学校で扇谷高校の女子サッカー部と合同合宿があります。それまでに怪異現象が解決していないと、他校にまでよからぬ噂が広がりかねません」


 常居さんに解決しろと言われたものの、妙案なんて言うものはそうそう浮かんでこない。よし野さんも「動きを止める方法ですか、そうですねぇ……」と言ったまま腕組みして黙ってしまう。純鈎さんは猫のような冷笑を浮かべ「こいつが動いてから考えればいいだろう。けど、本当に動くかどうか分からないけどな」と、常居さんを一瞥したあとカリバーンで素振りを始める。
 ボクも言うべきアイデアもなく、黙って鎧を眺めているしかなかった。純鈎さんの言葉じゃないけど、鎧が動くようには見えない。どっしりと重そうな金属の塊だし、中には誰も入っていないのは確認したし。
 ひゅん。しゅっ…………。
 純鈎さんが振り回す剣が空を切る音しか聞こえない。
 ひゅん。しゅっ…………。
 ひゅん。しゅっ…………カタカタ、カタカタ、カタカタ。
 えっ?
 耳慣れない異音が混ざる。と同時に鎧が不規則に揺れだした。
「鎧が動きだします。みんなさん、お願いします!」
 常居さんが叫ぶ声に合わすように重い音が響く。
 ずしゃ、がしゃ、ずしゃ、がしゃ。
 信じられないし、信じたくないけど、がらんどうのはずの鎧が目の前で立ち上がり歩き出した。ブリキのおもちゃのロボットが動くようにギクシャクとして、ゆっくりした歩みだけど本当に動いてる。馬上鑓を掲げ、がらくたを避けながら、がしゃ、ずしゃと。あまりの異様さにボクは動けず、ただ鎧を見つめていた。
 よし野さんがボクの後ろに隠れている気配が伝わってくる。視界の隅では常居さんがゆっくりと後ずさりして、純鈎さんがカリバーンを大上段に構えているのが見える。
 ずしゃ、がしゃ、ずしゃ、がしゃ。
 金属がぶつかり合う耳障りな音をたてて進んでくる。
 喉が渇いてつばを飲み込みたいのに、舌が縮み上がって嚥下できない……逃げ出したいんだけど、足が全然動いてくれない。首から下に意思の伝達が出来ない感じ。自分の身体のはずなんだけど、その実感がまったくもてない。本当に身体があるかどうかも分からない。指一本動かせないのに、目だけははっきりと鎧の姿を捉えている。
 ずしゃ、がしゃ、ずしゃ、がしゃ、ずしゃ、がしゃ、ずしゃ、がしゃ。
 ど、どうしよう…………。


「うるさい! 寝られないではないか!」
 緋色先輩の大音声が社会資料室を震わす。
 普段なら揶揄じみた物言いはしても、緋色先輩は感情をあらわにすることがない。でも今は、聞いているボクの胃袋が縮み上がるほどの怒りの感情が含まれている。
「貴様か!」
 緋色先輩はベッドから跳ね起きるや、壁に掛かっていたトールのミョルニルと常居さん曰く犬クギを掴んで、ノロノロと動く鎧の前に立った。右手にハンマー、左手に犬クギを持ったまますっと目を細めると中腰になる。
「我が眠りを妨げるものには、呪いが降りかかることをその身で知るがいい!」
 タックルするようにして鎧に体当たりした緋色先輩は、低い姿勢のまま鎧を壁際へと押していく。あの細い身体のどこからそんな力がでるのか分からないけど、重そうな鎧をじりじりと確実に押しやっていく。
「たかが金属の塊のくせに、私の安眠を妨げるとはいい根性だ!」
 緋色先輩はハンマーと犬クギを構えるや、鎧を片足で押さえつけハンマーを振り下ろす。
 ガン! ガン! ガン!
 口をへの字に曲げ不快感を露わにした緋色先輩が、ゆっくりした足取りで戻ってくると、
「こいつが動かなければ問題は解決ですな」
 片手にぶら下げたハンマーをずぃと常居さんの目の前に差し出す。
「そ、そうだけど……」
「ならばこれでよし。もうこいつはここから動けない。これはお返ししましょう」
 緋色先輩は呆けている常居さんにハンマーを押しつける。
「では私は寮の方に失礼させていただいて、睡眠の続きをさせてもらおう。このベッドには異物が入っているようで、寝ていて背中が痛くてたまらないからな」
 社会資料室を出て行こうとした緋色先輩は足を止め、振り返る。
「諸君に忠告しておこう。私は睡眠を邪魔をされることがなにより不快だ。たとえ親兄弟友人であろうとも、睡眠を邪魔する者はすべからく私の呪いが降りかかるものと覚悟したまえ」
 全世界の悪魔が柔和な顔に思えるほど、残酷な笑みを残して立ち去って行った。
「これって解決したことになるんでしょうか?」
 よし野さんは誰に向かって言うとなしにつぶやき、壁を見上げる。
「たぶん……いいんじゃないのかなぁ……」
 ボクは自分の言葉に自信はなかったけど、この状況なら……。
 鎧は磔刑になったキリストのように、広げた両腕と重ねられた足を犬クギで貫かれ壁に張りついている。壁ごと壊さないかぎり、鎧は永遠に緋色先輩の呪いから解かれることはなさそう。

 *  *

 学生食堂で少し遅めの朝食を摂っていると、制服姿の常居さんが不機嫌そうに眉根を寄せた顔でやってきた。
「昨日の件ですが、事務長を通じて『解決と見なすと』と理事長からの連絡がありました」
「本当ですか。よかった」
 昨日の夜から胸の奥にたまっていた不安がやっと消え、ボクはさっきから手をつける気になれなかったハムサンドを頬張った。
「よかったですね」
 よし野さんはへにゃらとした笑顔で同意してくれる。
「あ、あぁ」
 純鈎さんは朝が弱いらしく、どよんとした半眼でコーヒーカップを眺めたまま、同意とも反意ともつかない声を出す。たぶんボクたちの話は理解していないと思う。それどころか起きているのかどうかも怪しいけど。
「理事長は認めましたけど……」
 腕を組んだ常居さんは、あれじゃ根本解決になっていないわよ、なんてブツブツ文句を言っている。
「クライアントでもないあなたに文句は言われたくはないですな」
「な、なによ! 心霊現象はもっと高次で複雑な手続きを踏んでこそ解消できるものなのよ。なのに、あなたたちがしたことは力業だけじゃない!」
 緋色先輩の言葉に常居さんは眉をつり上げてくってかかる。
「力業だろうが、怪異現象の解消を成せればいいのだ。ま、オカルト主義者の狭い視野では、このような発想の転換は無理だろうがな」
「なんでも力業で解決できるとでも思っているんですか。それこそ暴力第一主義者の視野狭窄ではないですかね」
 腕を組んだまま背をそらした常居さんは、椅子に座る緋色先輩を冷ややかな目で見下ろす。
「暴力第一主義で結構。机上の空論だけ述べ、何も解決できないオカルト主義者よりは、我々の方が幾分ましであろう」
 緋色先輩は常居さんに目をやることなく、出がらしのお茶を美味しそうに飲む。
 ………………。
 無言のまま緋色先輩を睨みつけていた常居さんは、深呼吸するように大きく息を吸い、ゆっくりとはき出す。
「次は更衣室の鏡に映る白い影に当たってもらいます。午前中は更衣室を空けましたので、十時までに更衣室に集まって下さい」
 何事もなかったように言う。
「では、失礼します」
 常居さんは小さく一礼すると、女の人とは思えない荒々しい大股でズンズンと歩いて行く。

 *  *

「おお、若い女の子の体臭が充満している。この甘酸っぱさ……青春の香だねぇ」
 儀武オジサンは高原の澄んだ空気を吸い込むように、両手を広げて更衣室の匂いを吸い込んでいる。
「オジサン、恥ずかしいからやめてよ」
「女子更衣室なんて滅多に入れないんだぞ、恥ずかしがらずに龍太も吸え。いいねぇ、この匂い。十年は若返る。青春の高校時代が思い出されるぜ。なぁ」
 儀武オジサンはつやつやと顔を輝かせてボクの肩を叩く。
 そりゃあ男子更衣室に比べたら汗の匂いも甘ったるいものがあるし、香水の鮮やかな匂いも残っているけど、よし野さんたち女の人もいる前でそんなことできないよぉ。それに十年若返ったら、ボク幼稚園なんですけど。
「そこでなにしているの? 鏡はこっちだよ。こっち、早くおいでよ」
 初めて見る女の人に声を掛けられて、ボクたちは問題の鏡の前に集まった。
 鏡は更衣室の一番奥の壁にはめ込まれるように設置されていた。高さ二メートル、幅一メートルはある大きなものだけど、装飾がされているわけでもなく、どこにでもある鏡のように見える。
「普通の鏡ですねぇ」
「ああ、普通の鏡だぜ。あたしもこの更衣室で何度も着替えているけど、白い影なんて見たことないぜ。確かにさ、変な噂は聞いたことあるけど、あたしの知っている限り白い影を見たヤツなんていないぜ」
 よし野さんの言葉に、純鈎さんはそうだと即答する。
 在校生の純鈎さんが見たこともないのに、本当に白い影なんかいるんだろうか。
「鏡は湿度や表面の汚れなどで曇りが浮かぶ。おおかたそれを見間違えたのだろう。ほら見てみたまえ、どこに白い影があるかね」
 緋色先輩に腕を掴まれて鏡の前に引っ張られ、ボクは緋色先輩と並んで鏡に映った。
 鏡の中にはセーラー服を着たいつのも顔の緋色先輩と、緊張して歪な笑顔を浮かべスカートの裾を握っているボク。さらにその奥には、よし野さんや純鈎さん、冷ややかな目で見ている常居さん、興味津々という感じのさっきの女の子、そして鼻の穴をこれ以上ないと言うほど広げて深呼吸している儀武オジサン。
 白い影なんか無い。よかったぁ……。
「あ、そこに白い影が!」
「ひゃあ!」
 緊張が解けたときに、不意に声を掛けられたから変な声が出てしまった。
「ウソ、ウソ、冗談だよ。君はいい反応をするね。でも、今は女の子なんだから『きゃあ』って言わなきゃだめだよ」
 さっきからボクたちを見ていた女の子が笑いながら近寄ってくる。
 誰だろうこの人は?
「あっ、この人誰だろうって顔しているね。悪い、悪い、自己紹介がまだだったね。私は聖リチャード女子高校二年の雛薫子(ひな・かおるこ)。民俗学クラブ副部長をしてます。今日は皆さんのお手伝いに来ました。よろしくね総長さん」
 雛さんはボクの背中をドンと叩いて――まるでフライパンで叩かれたみたいに、凄く痛かったんですけど――にゃははと笑う。
 雛さんは和風な名前だけど、見た目は正反対だった。
 目鼻がくっきりしていて、欧米人のような派手めの顔。背は高いし、胸なんか三八口径の銃じゃ撃ち抜けないほど大きい。そのうえ馴れ馴れしいほどに明るいというか、物怖じしない性格のよう。
 雛さんはボクをジロジロと眺め、にぱっと陽性の笑みを浮かべる
「似合っているね、セーラー服。喋らなきゃ男だって絶対に分からないよ。でもムネは真っ平らだなぁ、ブラはつけていないんだ。で……下はどうなっているのかな!」
 と言うや、ボクのスカートを跳ね上げる。
「わぁあ!」
「あはははは、男物のパンツじゃん。どうせならカワイイの穿けばいいのに」
 スカートを抑えてしゃがみ込んでいるボクの頭上から、やたらと明るい笑い声が降ってくる。
「ごめんねぇ。でも『わぁあ』じゃダメだよ、さっきも言ったろう『きゃあ』って叫ばなきゃ。けど、今みたいにしゃがみ込んで恥じらう姿はポイント高いよ」
 悪びれたふうもなく、雛さんは楽しそうに言う。
 ボクのスカートをまくっておいて、なにがポイントが高いだよ……ポイントって何?
「薫子、遊んでいないで準備しなさい」
 常居さんの言葉に「はーい」とこたえた雛さんは、部屋の隅に置いたトートバッグ持ってくる。
「ちゃんと持ってきたでしょうね」
「だいじょうぶ。雪南部長は心配性なんだから。ほら持ってきているでしょう」
 雛さんがバッグから出したものは大型のナイフだった。ナイフと言うよりはダガーと言った方が正しいかもしれない。無骨で銀色に輝く刃には禍々しさすらある。まるでアクション映画に出てくるナイフのよう。
 ただ、映画に出てくるナイフとはちょっと違ったところもある。それは、ナイフの刃に『AGLA』と書かれていることだ。
「なんですかこの『AGLA』って?」
 ナイフのメーカー名にしては随分と大きく書かれているし、書かれている文字の色も変。濃褐色とでも言うのだろうか、まるで乾いた血のようにも見える。
「それはな、力ある言葉『アグラ』だ。『主よ、汝は強大であり永遠なり』のヘブライ語Athah gabor leolam , Adoniaの頭文字をとったものだ」
 答えは思いがけないところから返ってきた。ボクの疑問にこたえてくれたのは常居さんでも雛さんでもなく、女子高生の香を吸っていたはずの儀武オジサンだった。
 儀武オジサンはナイフを掴み上げ、随分とごっついねぇと感心している。
「よくご存じですね」
 常居さんが整った顔に驚きの表情を浮かべる。
「ん、まぁね。サントメ・プリンシペに行った時、魔術師を名乗るおっさんに教えてもらったんだ」
 儀武オジサンが海外を放浪していたのは知っていたけど、魔術師と知り合うなんて何やっていたんだろう。と、サントメ・プリンシペってどこなの?
「サントメ・プリンシペ民主共和国。アフリカのギニア沖に浮かぶ島々からなる人口一八万余の小国だ。現在の政府は軍事クーデターによって成立したものだが、クーデターの背後にはアンゴラ系正義の組織『SPMPLA労働者党』の関与が噂されている」
 まるでボクの心を読んだように、緋色先輩がさらりとこたえてくれる。
 緋色先輩って物知りだなぁ。ボクも二年生になったら緋色先輩みたいに知識が増えるんだろうか……て、ことはないよね。ボクって頭悪いし。はぁ……。
「さて緋色先生、地理の授業はもうよろしいですか。生徒さんもあきているようですしね」
 ボクのため息を緋色先輩の解説に対してのものと思ったのか、常居さんが少し皮肉った言い方をする。
「こんどは常居先生が似非科学を教授してくれるのですかな」
 口調こそ軽いけど、緋色先輩の瞳には冷たい光が浮かんでいる。
「先程説明がありましたが、このナイフにはAGLAが書かれています。この言葉によりナイフは霊的な力を帯びています。たいがいの霊障や下位の魔物はこのナイフで排除できるはずです」
 常居さんは完全に緋色先輩を無視して説明を始める。
「皆さんには、このナイフをお貸しします。しかし無責任な言い方になってしまいますが、鏡の中の白い影に効果があるかどうかは分かりません」
「えっ、効果が分からないんですか。どうして?」
「わ、私たちは……白い影……見たこと…………ないんです」
 常居さんはボクたちから視線をそらし、うつむいてボソボソと言う。
「恥じることはない」
 えっ! 緋色先輩が常居さんを慰めている。
「白い影などしょせん錯覚なのだ。見えなくて当たり前。それよりも、ありもしないものを信じ、目くじらたてて追いかけている己の姿の方を恥じ入るべきだな」
 いや……単に追い打ちを掛けているだけだった。
「錯覚じゃありません! 私たちでは白い影が出現する条件にそぐわなかっただけです!」
「条件? そんなの初耳だよ。条件ってなんだよ」
 それまで興味なさそうにベンチに座っていた純鈎さんが立ち上がる。やっぱり在校生としては気になるんだろうか。
「条件は二つです。第一は鏡に一人で映っていること。第二は映る人物が美形であることです」
 は? 第一条件は分かるとしても、第二条件って冗談? でも、常居さんは凄く真面目な表情をしている。
「美形?」
 純鈎さんが片方の目を細め、ちょっと変な表情で聞き返す。
「そうです。鏡に映る人の容姿が美しくないと白い影は現れないのです。私も薫子も独りで鏡に映ってみましたが、残念ながら白い影は出てきてくれませんでした」
 常居さんは自嘲的な笑いを唇の端に浮かべる。
 あっ、そうか。鏡に映っても白い影が出てこないと言うことは、あなたは美形ではないと言われているのと同じだもんなぁ。常居さんも雛さんもブサイクじゃないけど――常居さんは整いすぎて非人間的な顔だし、雛さんは明るくて派手な顔立ちだけど――美形というにはちょっと違う気がする。
「いやいや二人とも水準高いよ。二人とも俺の好みだぜ。どう、鏡なんて放っておいて、俺とデートでも行かない。美味いメキシコ料理屋があるんだ、一緒に行こうよ」
 儀武オジサンはしまりのない笑顔で、馴れ馴れしく常居さんと雛さんの肩に手をかける。
「遠慮します。中年は好みではありませんので」
「あはははは、オジサンと食事なんてお断り」
 同時に声があがった。


「ダメです。八角さん、自分の殻に籠もって『俺はまだ二七歳だ。オジサンじゃない。中年じゃない』なんてつぶやいています」
 現役女子高生に速攻で断られたショックのあまり、儀武オジサンは更衣室の隅にうずくまって壁に向かってブツブツ言っている。放っておけばいいのに、よし野さんは儀武オジサンを慰めようとして色々励ましていた――結果は……全然効果がなくって諦めて戻ってきたところだった。
「この際オジサンは無視して、白い影を片づけましょう」
 ボクの言葉に緋色先輩は、無駄なことだ、とつぶやいてそっぽを向いてしまう。
「常居さん、白い影ってどんなことをするんですか?」
「初めは映っている本人と同じ姿だそうです。しかし鏡の中の姿が滲んで白い影のようになり、そして本人が想っている人や憧れの人の姿になるそうです。それは恋人だったり、親兄弟友人などさまざまですが、共通していることが一つあります。それは、鏡の中から腕が伸びてきて掴みかかってくるとのことです」
「掴みかかるって……鏡の中に引き込もうとすると言うことですか?」
 常居さんは首を振る。
「分かりません。私が知る被害者は全員、その腕を振り切って逃げていますから。それに私が調べたところでは、在校中に行方不明になった人間はいません。生徒たちの間では異世界に連れ込まれるとも言われていますが、真偽のほどは不明です」
「はあ……怖いですね。でも……」
 なにそれって言いたくなるのを飲み込んで、ボクは間抜けな感想をかえした。
 だって鏡から腕が出てくるのは怖いと思うけど、逃げ切れるんでしょう。それにさ、白い影が出てくれば美人ということの証明になるし。だったら……。
「仰りたいことは分かります。被害者と言われる人間の中には、見栄のため嘘をついている人も結構いました。でも数度にわたる面談の結果、確実と思われる案件が数件あります。そのどれもが被害者は美形です」
 常居さんは硬い表情に不快感のような影を僅かに浮かべる。その表情を貼りつけたまま、魂まで出てくるんじゃないかと思えるほど深いため息をつく。
「はなはだ不本意ですが……この案件は緋色さんにお願いしたいと思います。白い影をおびき出して下さい」


 緋色先輩一人を鏡の前に残して、ボクたちは鏡に映らないようロッカーの陰に隠れて待機していた。ボクたちの場所からは緋色先輩は見えない。みんな息を殺しているから、緋色先輩の気配だけが伝わってくる。
 当の緋色先輩は鏡の前にベンチを置いて座っている。囮役を命じられたから文句を言うかなと思っていたけど、なぜか素直に常居さんの言葉に従っている。けれど、AGLAが書かれたナイフは「無用だ」と言って受け取らなかったけど。
「動きがないな。人選を誤ったんじゃないか」
 純鈎さんは顔をしかめてつぶやく。
 そうかなぁ、常居さんの選択は正しいと思うけど。常居さんでも雛さんでもダメだったのだし、ましてやボクや儀武オジサンじゃお話にならない。純鈎さんはワイルドさの方が目立つし、よし野さんは美形と言うより親しみやすい可愛らしさという感じだもん。ボクたちの中で美形と言えば、やっぱ緋色先輩になるよなぁ。客観的に見ても緋色先輩はハンサムだし――性格は除くけど――たぶん、緋色先輩も自覚しているから囮役を断らなかったんだと思う。
 ………………。
 …………。
 ……。
 どれだけの時間が経ったのだろう、待機しているボクたちも待ちくたびれ、倦怠感のような弛緩した空気に包まれていた。儀武オジサンは相変わらず壁に向かってブツブツ言っているし、純鈎さんはベンチで横になっている。ボクとよし野さんはベンチに並んで座り、無言のまま頬杖ついていた。この中で緊張感を維持しているのは常居さんと雛さんだけだ。二人とも小声で対処方法を相談している。
 ――雪南部長、白い影をどう処分するんですか。
 ――決まっていないわ。
 ――えっ! じゃあ本当に出てきたらどうするんです。
 ――出てきたら、きっとどうにかなるわよ。
 どうやら、緋色先輩を囮にしたものの、その先のことは決まっていないようだ。
『ん?』
 いままで無言だった緋色先輩が声を漏らす。
『ま、まさか……これは……あっ、この人は……』
 小さな声だけど、心の底から驚いている響きがある。
「出やがったか!」
「待って!」
 ベンチから飛び出していこうとした純鈎さんを常居さんが引き留めた。
「なんだよ、白い影を倒すんだろう。邪魔するな」
「いまはまだ白い影は腕を伸ばしてないと思います。白い影が鏡から出てきたところで対処した方がいいはずです」
「わ、わかったよ。だからそのナイフをどけてくれ」
 純鈎さんののど元には、AGLAが書かれたナイフがぴったり押しつけられている。
「あっ、これは失礼」
 ナイフが離れると、純鈎さんは崩れ落ちるようにベンチに座りこむ。
『おっ、あぁぁぁぁ……いい……こんなところで真実の愛に出会えるとは……』
 ボクたちがドタバタしているうち、緋色先輩の声があえぎのような、艶めかしいものへと変わっていた。
『……私の腕を掴んで……そうか、君も私を求めているのだな……ならば共に…………』
 何が起こっているんだろう?
 いや、緋色先輩は鏡の中に誰を見たのだろう?
 凄く気になる。
「いまです!」
 常居さんのかけ声と共に一斉にロッカーの影から飛び出す。純鈎さんがベンチを蹴ると、それを追うように雛さん常居さんが続く。ボクは横に座っていたよし野さんが、もたついたため出遅れる。よし野さんの背中を押すようにして鏡の前に出た。
「わぁあ」
 と、ロッカーの影から出た途端、雛さんにぶつかってしまった。
 雛さんはロッカーの横で立ち止まっている。雛さんだけじゃない、純鈎さんも常居さんも立ち止まっている。
「マジかよ……マジかよ…………」
 純鈎さんが苦しげな声でぽつりと漏らす。
 なにがどうしたの? ボクは立ちつくす三人の横から覗き込んだ。
 …………は? 目がおかしくなったのかな?
 緋色先輩がダブって見える。
「ひっ! 緋色さんが二人」
 ボクの後ろからよし野さんのひび割れるような声――よし野さんにも見えているんだ。と言うことは……本当にいるんだ。緋色先輩が二人も。
 いまボクの目の前では、セーラー服姿の緋色先輩が二人抱き合っていた。
 確か常居さんの話じゃ、自分が憧れている人、想っている人の姿が具現化すると言っていたはず。緋色先輩が二人いるということは、一人は白い影が変身した姿だよね。と言うことは……緋色先輩が憧れているのは自分自身ってことなの?
「これほど美しい存在があるだろうか。ああ、この世でこのような完璧な美に出会えるとは……夢のようだ」
 緋色先輩の恍惚とした声が粘り着くように響いてくる。
「ともに一つになろうではないか」
 抱擁と言うより緋色先輩(A)が、もう一方の緋色先輩(B)を力の限り抱きしめているようにも見える。
「さ、より力強い抱擁を」
 緋色先輩(B)を抱きしめる緋色先輩(A)の抱擁にさらに力が入る。緋色先輩(A)二の腕が倍に膨らんで血管が表面に浮かび上がる。緋色先輩(B)は逃れようとするように身体をよじるが、しっかりと絡められた腕からは逃れられない。まるでタコに絡め取られた魚のように絶望的な抵抗にしか見えない。苦しげに顔を歪めた緋色先輩(B)は、叫ぶように口を開けるけど、その口からはなんの声も出てはこない。
 陸に揚げられた魚のように口をパクパクさせていた緋色先輩(B)は、すがるような目でボクたちの方を見る。
 そんな目で見られたってボクにはどうにもできないよ。盛りのついた緋色先輩を取り押さえるなんて絶対無理。まだ、厳冬期のエベレストを無酸素で冬季装備なしで、ついでに竹馬に乗って登る方が成功する可能性がありそう。
 ボクだけじゃなくってみんなも同じ気持ちみたい。純鈎さんはあからさまに視線を泳がしてあさっての方向を見てるし、よし野さんは視線を落としたままふるふると首を振っている。雛さんは関係者じゃないとばかり傍観を決め込んでいるふう。そして常居さんはAGLAが書かれたナイフを両手でしっかり握りしめたまま、ちょっと顔を前に出し気味にして食い入るように見ている。ひょっとして常居さんって男同士の愛が好きな、いわゆる腐女子ってやっなんですか。
「さあ、ともに手を取り合って淫靡な世界へ。もとい、官能の世界へ。もとい、淫猥な世界へ。もとい……ええい言葉なぞしょせん空虚なもの。我らに言葉はいらぬ、肉体で語り合えばよいのだ!」
 放送禁止コードすれすれのセリフを吐くや、緋色先輩(A)は緋色先輩(B)の首筋に噛みついた。本気で噛んだワケじゃないだろうけど、緋色先輩(B)はビクンと体を震わせる。
 首筋に噛みついた緋色先輩(A)は、そのまま顔をゆっくりと胸元へと動かしていく。緋色先輩(B)の首筋には噛まれて赤くなった場所から、胸元にかけててらりと唾液のあとが光っている。
「身体の力が抜けてきたではないか。そうか、ついに私を受け入れる気になったのだな」
 緋色先輩(A)は左腕だけで緋色先輩(B)を抱え、右手を緋色先輩(B)のスカートの中へと差し込んでゆく。緋色先輩(B)が苦痛じみた渋面をつくる。
「己に素直になりたまえ。いや、私こそ素直ではないな。我らに睦言など不要であったな」
 緋色先輩(B)の胸元まで口をはわせていた緋色先輩(A)は、ゆっくりと顔を上げると緋色先輩(B)の唇に己の口を重ねようと……。
「いやぁぁぁぁぁぁあ!」
 金属でガラスをひっかくような悲鳴が上がる。
 と、同時に常居さんが悲鳴の余韻を引きずったまま、緋色先輩たちを突き飛ばした。
「気持ち悪い! 気持ち悪い! 不潔よ! そんな物見せないで!」
 金切り声を上げながら、常居さんは倒れている緋色先輩を殴りつける……ナイフを持ったままで。
 ナイフは緋色先輩の心臓の真上に突き刺さる――ナイフが心臓に刺さったら死ぬんだよ。血が出るんだよ。殺人だよ。マズイよ、マズイよ。だから、だから――ボクは直視するのが怖くって目をつぶってしまった。
 ぱりん。
 とんっ。
 何かが割れる音とナイフが床に突き刺さる音が……あれ?
 …………悲鳴は? 苦痛の叫びは? 何がどうなったの?
 恐る恐る目を開けると――仰向けになったまま虚ろな目をして「私は……愛おしい私はどこに行ったのだ」とつぶやく緋色先輩と、床にしゃがみ込みナイフを握りしめたままハアハアと肩で息をする常居さんの姿が飛びこんでくる。
「な、何があったんです? どうなったんです?」
「常居さんが緋色さんを刺した途端、緋色さんが粉々に砕けてしまったんです。ねえ龍太さん、わたしたち夢を見ていたんでしょうか?」
 ボクの質問に質問で答えるよし野さんは、自分のほっぺたをつねって「痛いです」と弱々しい声で言う。
 砕けた? よく見れば緋色先輩や常居さんの周りには、キラキラと輝く破片が散らばっている。ボクはその一つを拾い上げた。それは割れた鏡の破片に見える。
「誰も触っていないのに、なんで鏡が割れているんだよ」
 純鈎さんは壁を指差している。
 そう、純鈎さんの言葉通り、壁に埋め込まれていた鏡は粉々に割れていた。


 結局ボクたちはワケが分からないまま、ショックから立ち直った常居さんの「この案件はこれで解決と見なします」の言葉によって更衣室を後にすることになった。
 でも、鏡の中の白い影についても、怪異現象そのものが解決したかも分からない。
 分かったことは――確かに緋色先輩が二人いたこと。偶然か故意かは分からないけど常居さんが緋色先輩の一人を刺したこと。刺した途端、緋色先輩の一人が消え、壁の鏡がひとりでに割れたこと。
 それと、常居さんはボーイズラブに嫌悪感を抱いていること。実は雛さんはボーイズラブが好きだったこと。だって、緋色先輩が砕けた時、雛さんはため息混じりに「ああ、もったいないなぁ。生で男同士の愛が見られるなんて滅多にないのに。まあ、ここまででもいいオカズになったかな。ご飯五杯はいけるね」なんて言っていたから。
「皆さん。早く更衣室を空けて下さい。午後からはソフトボール部がここを使う予定です」
 表情に疲れを滲ませた常居さんに従ってボクたちは更衣室を出る。
 壁に向かってブツブツ言い続ける儀武オジサンと、「さあ、もう一度出てきたまえ。私の最愛の人よ。私はここにいるぞ」と呪詛じみたセリフを言いながら、鏡の破片を覗き込んでいる緋色先輩を残して。

 *  *

『きゃぁぁぁあ! 男がいる! 変質者よ!』
 午後になって更衣室の方から悲鳴が聞こえた。
 けれどそれはボクの関知するところじゃない。だってそれは怪異現象じゃなくって、現実のことだから。ボクたちが依頼されたのは怪異現象の解消だもんね。


 つづく
2006/04/25(Tue)23:06:00 公開 / 甘木
■この作品の著作権は甘木さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
やっと更新することができました。
今回は(今回も?)緋色先輩が大活躍です。あまりにも活躍してくれるものですから、書いている私の頭が痛くなってくるほどです。なにはともあれ、怪異現象も四つクリア(?)しました。残すはあと二つ。次回には今回は活躍の場がなかった純鈎、よし野、龍太の見せ場を作ってやりたいです……できればいいなぁ。

このような駄文ですが、読んでいただけたら幸いです。また、甘口・辛口・中辛のどれでもかまいませんので、御感想・御意見・罵詈など一言いただけたら幸いです。
この作品に対する感想 - 昇順
ゲドウ戦記のタイトルを見てきました……。どうにもこうにもおもしろいタイトルですね……。笑えましたよか。怪奇現象も興味深いですね。緋色先輩は自己陶酔ですかね。でもいいキャラしてやがりますな、よく考えましたね。
 水山 虎でした。
2010/12/26(Sun)17:35:440点水山 虎
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