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『朽ちずの歌。』 作者:ルノアの彫刻 / 未分類 未分類
全角4765.5文字
容量9531 bytes
原稿用紙約15.65枚
『朽ちずの歌』


 今も思い出す。
 空にかかる銀色の月は、齢を重ねて欠けるところの見当たらなくなった満月だった。冴え凍るほどにまぶしかったあの月の光を、おれははっきり覚えている。
 蒼い夜空を切り裂くような鋭い月光。わずかに漂う雲を染めて金色の光を放ち続ける天空の主。そんな遥かなものと同じくらい、目指した夢は遠かった。
 あの頃のおれにとって、夢なんていうのはその程度のものだった。手を伸ばしても届かない。ただ見上げてあこがれるだけの儚い希望。

 そこら辺にいる虫たちと何も変わらない、自堕落な毎日。
 昨日と明日をつなぐためだけにある今日。同じことを繰り返すだけの日々。
 平凡な一日の終わり。また今日と同じ明日がはじまると思っていた夜。
 そんな夜。そう、そんな夜だ。

 そんな夜に、おれは君と出逢ったんだ。

 おれの人生にもしも奇跡なんて代物が紛れ込んでいたとすれば、君との邂逅こそがそれだった。
 今の俺の姿を見たら、君はなんて言うだろう。
 笑うだろうか。泣くだろうか。

 どっちでもいいさ。ただひと言、おめでとうと言ってくれるのなら。

 ああそうだ。恥ずかしくて言ってなかったことがある。
 あの夜の月はたしかに綺麗だったけど、おれには君の真っ黒な瞳の方がずっと輝いて見えたんだ。

 最近、たまに眠れない。
 理由なんてない。月に一度か二度、どうやっても寝付けない日があるだけだ。
 ときおり無性に寂しくなって、眠るのが怖くなる。病気なんかじゃない。ただ、そういうときがあるんだ。
 そういうのって、君にもわかるかな?

 夜になると、あの頃のおれたちを思い出して、おれはどうしようもなく切なくなる。
 そんなとき、布団の中で君を想いながら泣くことがあるなんて言ったら、
 ――なあ、君は笑ってくれるのかな。

 ああ、困ったよ。
 おれはそろそろ、君の笑顔を忘れてしまいそうなんだ――。

 *

 万雷の拍手が鳴り響いた。
 沛然たる驟雨のような歓声が、圧力さえ伴って会場のあちらこちらに反響する。雑音めいた声も上へ下へ右へ左へと乱反射を繰り返せば、もはや出所が誰の口あったかも判然としない。

 混乱は極まった。
 まさに熱狂である。
 しかし幾千通りもの声援を細身の体一身に集める男自身は、そのすべてが心底うっとうしいと言わんばかりに眉を寄せて、まぶたを閉じた。
 相変わらずスポットライトは舞台の中央に佇むただひとりの男の姿を浮かび上がらせるばかり。数分前まで思う存分炸裂していたストロボも今はすっかりなりを潜めている。
 舞台の上には誰もいない。男以外には、誰も。

 男は何も言わず、巌のような沈黙を貫いた。唐突に存在意義を奪われたマイクは沈黙し、舞台の上だけが時を留めたかのような停滞を見せた。
 しかし観客はそんな様子などには一向に頓着せず、思い思いの声を張り上げている。
 四方に尾を曳く男の影が、華やかで輝かしい舞台に唯一の暗色を落としていた。濡れたように黒く染まった床は、きらびやかな場にそぐわなくてどこか滑稽に見える。
 額に汗を浮かべながら表情を失った顔を観客に晒し続ける男は、文字通り忘我の淵に立っていた。

 世界を圧する拍手の渦が己自身に向けられているなどとは到底考えてもいないような顔で、男はただ立ち尽くしている。
 栄光に酔いしれているわけではない。自らの名誉を誇っているのでもない。
 まして、偉業の達成に震えているわけでは決してない。
 ただひたすらに、おそれていたのだ。暁闇でさえ引き裂くようなこの幾多の照明を独占してなお、男は暗闇をおそれていたのだ。

「広い街の夜に、おれはひとりだけ取り残された」

 いつかの自分の台詞が甦ってくる。暗くて暗くて、摩天楼のネオンばかりが醜悪に輝き続けていたあの街の記憶とともに。

 夜になれば原色の強烈な印象を放つ多くの看板が光を灯す雑多な街だった。
 夏になれば饐えたにおいが道路のいたるところから立ち昇るような薄汚れた街。
 過ぎ行く人々の顔には疲労と疲弊だけが刻まれていて、この街からは希望なんて言葉はすっかり忘れ去られたのだと決め込んでいた。

 悪意と欺瞞に満ちていたあの世界。そんな醜さを心底倦厭しながらも腰を落ち着けることにしたのは、少なくともあそこには信じるに足る夢があったからだ。
 吹き溜まりのような世界の涯。欲望ばかりが渦巻く猥雑な繁華街には、それでも未来を信じることのできる可能性という光があった。
 ほとんど偽りの輝きに過ぎない光源に、多くの若者が引き寄せられた。
 本物はわずか一握りの、そのまた一部。無に等しい確率の低さを知りながら、なぜか自分ばかりは本物だと無邪気に信じ込んでいた青の時代。
 夢を見ることに精一杯で、己の身の程も知らなかった哀れなガキ。
 言ってしまえば、男はそんなろくでなしのひとりだった。

 ――あの日、彼女に出会うまでは。

 心にぽっかりと穿たれた孔には、茫漠とした寂寥の風が吹きぬけていくようだ。
 こうして栄光の舞台に立った今でも、寂しさは癒えない。夢を叶えたはずの男が得たものは、歌えば歌うほどに募っていく切なさだけだった。

 ドームの中央で、男は追憶を断ち切った。
 天井を見上げても、当然星は見えない。誰にも気づかれないように、本当にそっと嘆息する。
 せめてこの灰色の吐息ばかりは、天井を突き破って天空にまで届いて欲しいと切に願った。

 舞台の上で奇妙に身じろぎした男の動作を、しかし見咎めた観客などひとりもいない。誰もが目の前の狂騒についていこうと必死で声を張り上げている。
 滑稽だとは思わない。醜いとも愚かしいとも思わない。
 ただ寂しい光景だと、男はそう思うのだ。

 雲霞の如き客たちは、叫ぶことに夢中で誰も男の表情を注視しようとはしていない。
 それはそうだと男は思う。舞台からは幾万の人間が眼下にひしめき合っている様が望まれるが、その中のいったいどれだけの人間が男自身を眺めているというのだろう。

 彼らは所詮、男をひとりの人間として見てはいない。
 夢の形、憧憬の的。象徴的な具体性。
 彼らが必要としているのは男という人間ではなく、この華やかな舞台に立つことができる英雄的な歌手の肩書きだけだ。
 たとえば男が名前と顔を捨てて失踪したとすれば、おそらくこの国の誰もが数年もしないうちに記憶を一新するだろう。
 そういう存在を目指していたのかと自問すればするほどに、胸の孔を広げようとする虚しさをこらえきれない。

 男は思い知る。いまさらになって思い知る。
 本当に男の瞳を見てくれたのは、本当に男の歌を聴いてくれたのは、この世でただひとり、彼女だけだったのだと。

 *

「なにしてるの?」

 ふと、彼女の声を聞いた気がして振り返った。
 しかし背後には誰もいない。男は冷たく笑った。そうだ、彼女がこの場にいるはずがない。
 姿を見たいという希望が、どうしても会いたいという願望が、男に時ならぬ幻を聞かせたに違いなかった。
 それは惨めだった。
 それは無様だった。
 それは、この上もないほどに冷酷な仕打ちだった。

 男は心中でつぶやく。誰にも聞こえないように、そっとつぶやく。
 何万人のファンを泣かせても、何十万人の人を笑わせても。
 ――おれは、君ひとり笑わせることさえできやしない。

 走り続けるうちに自分の原始の思いさえ失ってしまった哀れな男の、それが悔恨だった。ただ唄うことが楽しく仕方がなかった若葉の頃。あの輝かしい一瞬の間に、どうして時を止めようとしなかったのだろう。
 醜く汚れても、どれほど穢れても、男は頂点を目指し続けた。過ぎ行く時がただ繰り返されるだけの日々に成り下がったとき、好きで好きで仕方がなかったはずの歌は、いつの間にか苦悩の根源にまでその身を堕としていた。

 なぜ歌うことの頂きを目指したのか。その目的さえ忘れてしまっては、もはや歌うことの意味さえなくなってしまうというのに、男は無為の旋律を追い続けた。
 歌えば歌うほどに遠くなる理想に絶望したのは、一度や二度のことではない。

 そうしてついに、男はその果てしない坂路を踏破した。
 東京ドームを満員どころか破裂戦前までファンで満たした男の偉業は、たしかに日本音楽史に刻まれるべき栄光だろう。
 しかし男は気づいてしまった。道を極めたその先にはもはや何もないのだと、この期に及んで悟ってしまった。

 そうして、思い出す。

 もとより男は、そんなことなど望んではいなかったのだ。
 男はただ、彼女に自分の歌を聴いて欲しかっただけなのだ。
 それだけを夢見て、それだけを目指して、拷問にも等しい努力を積み重ねてきたはずだ。

 いつから、手段と目的が入れ替わってしまったのだろう。

 数え切れない幸運があって、幾多の人に助けられた。この舞台にこうして立っていられることは奇跡に等しい。
 間違いだらけの道のりだった。後悔は際限もない。どれだけ自分を責めようとも、とても足りない。
 それでも、この国最高の舞台にまで駆け上がってきた実力にだけは紛いがなかったと信じている。

 ――なあ。
 おれの歌は、君にふさわしいものになれたのかな。

 男の声に応えるものは、もちろんどこにもいない。
 壁に反射した黄色い声はどこまでも留まることなく増えていき、一向に収まる気配を見せないまま高まりを募らせていく。
 最後の曲はもう終わったというのに、割れんばかりの声援に包まれた会場はなお熱を求めているようだ。
 貪欲な人々。笑えはしない。さげすむこともできない。だって、おれは世界で一番貪欲な人間なのだから。

 数々の星よりもなお輝かしいライトを一身に集める男の耳には、叫ぶように寄せられる歓声さえ届かない。

 男は奥歯を強く噛み、幾万のファンを黙殺した。
 届かなかった思いを取り戻すようにしてマイクを握り締める。
 予定にはいれていない。だが、最後に一曲だけわがままをさせてもらおう。

 伴奏なんていらない。
 観客になんて聞かせなくていい。

 一曲だけでいい。ここで、この最高の舞台で、彼女のためだけに歌わせて欲しい。
 あの古びたアパートには伴奏なんてなかった。
 あの古びたアパートには観客なんていなかった。

 だから今、おれはこの国最高の舞台の上で、君のためだけに歌を唄うよ。
 もう昔になってしまったあの頃、ふたりで一緒に口ずさんだあの歌を――。

 *

    All right then, I'll go to hell.
    Yes, today is the last period of the sorrow in your life.

    Do you know what I say?

    It's very easy word but it's very precious fact.
    OK, I'll repeat for you.

    I say.
    As long as you love me, I'm here with you.

    Never forget. Never forget!
    Everytime, I'm here with you.

    Thus as I pray, Never Ending Wish.

    They named it that――.



    わかったわ。わたしが地獄に行けばいいのよね?
    そう。君の悲嘆は今日で終わる。

    君、わかってる?

    これはね、本当に簡単なこと。だけど、本当に大事なこと。
    しかたないから、もう一度言おうかな。

    いい?
    君がわたしを愛する限り、私はここに、君の傍にいる。

    忘れないで。絶対に。
    いつだって、わたしは君の傍にいる。いつだってわたしはここにいる。

    祈るわ。君のために。この願いを。

    それはね――。


                               『朽ちずの歌』
2006/04/22(Sat)12:44:57 公開 / ルノアの彫刻
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