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『『匣庭の音律 第一回』』 作者:智弥 / リアル・現代 ミステリ
全角31271文字
容量62542 bytes
原稿用紙約100.85枚
 
 女が居る。
 どことも知れぬ深山の奧。
 なぎ倒された木々の間にうずくまるように女は佇んでいる。
 女の名は立烏帽子。
 天竺から大和を我がものとするためにやって来た鬼。
 本来なら美しいはずの立烏帽子の体が符によって焼けただれ、小袖を打ち重ねた
緋の袴は見る影もなく色を失っていた。
 烏帽子の前に立つ水干を纏った陰陽師風の男。
 彼もまた水干が大きく裂け肉好きの良い胸が大きく裂かれ傷ついている。
 傷は烏帽子がつけたものだ。
 佇んでいた立烏帽子が顔を上げる、同時に男が手にしていた小太刀を天にかざす。
「……しぃぃぃ、たか、としぃぃぃぃ!」
 声にならない叫び声を烏帽子が奏でる。
 男が振り上げた小太刀の刃が烏帽子の眉間へと打ち下ろされる刹那――
 雷鳴が響いた。
 同時に起きた閃光が二人の距離を裂いた――
 全てを真っ白な情景に飲み込みながら。
 
 チャイムの音が聞こえてきて水瀬遥は書いていた小説の手を止めた。
 小説から手を止めて遥は同じ姿勢で居た体をゆっくりとほぐす。
 それと同時に大きなため息をついた。
 ――また、やっちゃった。
 最終下校が近い教室内には遥以外の学生の姿はない。
 夕刻を迎えた教室は全体がほのかに茜色を帯び、昼間にここに学生達が授業を
受けている時の顔とは別の顔を見せている。
 例えるなら大きな空白の存在。
 教室のことを遥はいつも大きな箱庭だと思っていた。
 良く聞くフレーズで『友達は選べてもクラスメートは選べない』とい言葉があるが、
同様に学校は選べても組織の仕組み自体は返ることができないと遥は思っていた。
 どこの学校にも校風があり、伝統があるが、中に通うクラス単位で見ると
どこに学校にもそんなに違いがあるように思えない。
 気の合う友達を見つけ、気の合う友達同士でグループを形成して、形成された
集団同士がその教室内における暗黙のルールを作る。
 親の都合で転校が多い遥はどこの学校でもそのグループ同士が作る、
ルールになじむことができないでいた。
 そのために遥は自分自身をクラス内のお客さんと位置づけ、関わることを極力裂け
傍目にも無害で大人しい転校生を演じることにしていた。
 自分という存在が自分の意志とは関係なしに、クラスの中にあった空気を
変えてしまう。
 閉じられた教室という空間は極端に変化を嫌う反面、外来からの刺激には
好奇の目を寄せる。
 外から来た自分はどうしてもその変化の中心にならざらるおえない。
 ましてや転校してきた時期が、高校3年になってからだ。
 変な時期の転校生は本人の意志とは関係なく噂を呼ぶもので、
その噂が沈静化するまでの間、遥は居心地の悪い空気を味わい続けた。
 その噂も沈静化すると今度は遥の転校など無かったかのような空気が流れた。
 新しく友達を迎え入れるには高校3年という時期は不向きだったと遥は思う。
 同じ時間を過ごした学生達の間にある仲間意識は卒業を控えているだけに
余計に強い者であった。
 お客様である遥にはその空気の中に入り込めるような余地はない。
 だから友達を作ると言うことに関しては諦念に似た感情が働いていた。
 それよりは趣味を大切にしようと好きで書いている小説を放課後にせっせと書いている
のだが、書き始めると周りが見えなく性格なのか遥は時間の経過を完全に忘れていた。
 チャイムが鳴ったから手を止めたわけではなく、シーンに行き詰まったから手を
止めたという方が正しかった。
 ――うぅぅ、やっぱり現代じゃないと難しいかな。
 書きかけていた原稿用紙を遥は丸めながら呟く。
 この間、読んで面白かった『田村草子』を題材に立烏帽子の話しを書こうと
決めたのだが肝心の『田村草子』の資料から得られた情報が乏しく、立烏帽子と
立烏帽子の愛した男との迫力のある戦闘シーンを思い描いたものの性格上どうしても
戦闘とは遥に遠い物ができあがってしまう。
 向いてないと、何度も首を捻って、丸めた原稿用紙を自分の鞄の中に放り込んだ。
 現代人である自分が、歴史物を作るのには、歴史観が大きく足りないと遥は失敗の
原因を考える。
「現代だったら上手く行くのかな」
 誰に言うともなく呟いた。
 遥が立烏帽子を気に入った原因は、その容姿にあるといってもいい。
 鬼と呼ばれる類の物は大概は見る者を圧倒する恐ろしげな容貌をしているが、
立烏帽子に限って言えば、『田村草子』には年の頃は十六、七ばかりなる美しい女郎と
書かれている。澄んだ大きな瞳を持っていて、自分を討伐に来た田村丸もその美貌に
見とれてしまい、『かよなる美麗な女を討つとは何事ぞや。このうえはなかなかに
彼女にしたむべきかと思召し賜えしが、いやまてしばし我が心」と言わせている。
 この記述が面白くて遥はすっかり立烏帽子に魅せられてしまった。
 何か立烏帽子を使って話しを書けないものかと考えたあげく、
田村丸との壮絶な戦いを描いた歴史ロマンに挑んで失敗したのだった。
 歴史ロマンがダメなら別の方からアプローチしてみるべきだろうか。
 遥は読みふけった立烏帽子の文献を頭の中でなぞってみる。
 立烏帽子は別名、鈴鹿御前と呼ばれている。
 鈴鹿山に住んでいたところから、ついた名前であるが遥はそこで考える。
 御前は結婚した女の人の敬称だから外すとして、鈴鹿、これは山の名前だから
もう少し可愛く変えて『鈴華』。現代に彼女の名前を付けるとしたらコレかな。
 鈴と華。文字から伝わってくる彼女の美しさを称える印象が満足行く形に
変わったことで遥はなんだか嬉しくなった。
 鈴華が活躍するのは現代。
 それも舞台はこの私が通っている『八重坂西校』。
 歴史ロマンスは諦めて、実名小説に近い形にしようと思った。
 舞台も学校で登場人物も身近なクラスメートを使えばキャラを立てる手間も省ける。
 幸いにして八重坂西校にはネタになりそうな伝承があった。
 現代に蘇った立烏帽子こと、鈴華が八重坂西校にある七不思議伝説を利用して、
気に入った女の子を浚っていく。
 次々起きる七不思議を模した失踪事件。
 裏で暗躍する鈴華とその鈴華の存在を暴こうと活躍する――
 ここは田村丸の子孫がいいかな。
 頭の中に激流のように流れ込んだイメージがそこで止まる。
 確固たる執筆技術があるわけでもないからどうしてもイメージに任せる部分が
大きくなってしまう。
 イメージが止まってしまうとガソリン切れのバイクと同じでこれ以上は、
どう頑張っても前に進むことがない。
 ――本当の作家さんってどうしてるんだろ。
 止まってしまうとどうにもならないことは遥自身が良く知っているので、
一般学生の下校時間を大幅に遅れ教室から出ることにする。
 茜色の春から夏になりかけの夕陽が長く窓から窓へと差し込んでいる。
 差し込まれた緋色がリノリウムの廊下に反射し色という色を奪った。
 まるで遥が居る現実から切り離されたかのような光景。
 たそがれ(誰そ彼)時と呼ばれ、昼と夜の間のはずかな瞬間にかいま見ることが
できる世界の断片。
 この狭間の住人が学校のお客さんである遥自身であり、平安の御世に鬼と呼ばれた
立烏帽子などでは無いかとついつい思ってしまう。
 現実の世界には存在していてはいけないガラスの向こう側の住人達。
 時々、黄昏の狭間からその姿を見せる。
「だったら……格好いいのかなぁ」
 一人歩きするイメージににが笑いを漏らす。
 リノリウムの廊下が遥の長く伸びた影を映す。
 長く伸びた影の先に、顔は見えないが女生徒が立っていた。
 一般学生の下校時間からはだいぶ時間が経っていたために、自分以外の学生が
まだ残っていたことが遥には意外だった。
 小説を書いていたところを見られていたらと思うと気恥ずかしくなる。
 少し足早になって立っている女性との横を遥は通り過ぎようとして――
 ――立ち止まった。
「…………」
 ――鈴華と声に出してしまいそうになるのをこらえた。
 光の反射から解放され視線の先に映った女性との顔は、頭の中に思い描いていた
立烏帽子と似ていた。
 黒く伸びた長い髪。きめ細かく白い肌。何より印象的な清流そのものといえる
澄んだ瞳。化粧気のまったくない自然のままの美しさを湛えている。
 立ち止まった遥とは対照的に女性とは会釈を遥に残して横を通り過ぎていく。
 緩慢な動作でゆっくりと流れている時間の法則そのものがこの女性徒の前では
正常に働いてはくれない。
 遥は誰かが通り過ぎる時間がこんなに長いと感じたことは今まで無かった。
 振り向くことも許されないまま、廊下の一角でただ立ち尽くす。
 女生徒が通り過ぎるまでの間、遥の頭の中でうろ覚えの学年の女の子たちの
顔が浮かんで消えていく。
 ――あんな、綺麗な人……居たかな。
 学生の知識に疎いことに遥は始めて後悔した。
 明日辺りにクラスメートの誰かに聞けば分かるのだろうか。
 やっと自由になった体を振り向かせると、当然のようにそこに女性との姿は無く、
ただうす暗い空白が続いている。
 自分があの空白の向こう側から出てきたのだと思うと、遥はますますガラスの
向こう側の住人だという発想が強くなっていた。
 ――だから、あの子もきっと同じ。
 通り過ぎた女性徒の正体よりも遥自身が納得する理由をそこに見つけ、
昇降口へと向かって歩をゆっくりと進める。
 階段の脇に備え付けられている鏡の前で遥は立ち止まった。
 鏡の前で立ち止まると当然のように自分の姿が左右反対に映る。
 自分の容貌を思わず先ほどの女生徒と重ねてしまう。
 眠たそうに見える垂れ下がった目尻と小動物を思わせる繊細な造りと薄い唇。
 綺麗という形容よりも可愛いという形容が遥に与えられた敬称だった。
 栗色の短い髪といい、鈴華と違いすぎると遥は思った。
 架空のヒロインと自分の姿は比べるものではないが、類似点がまるでないのも
遥にとっては少し不満だった。
 ――小説の中では私の役所はどうしようかな。
 このままだと小説の中でもパッとしない役所になってしまいそうだと思った。
 目立たなくて地味だからとつくづく自分の容貌の不満を漏らしてしまう。
 コツコツと独りぼっちの足音が廊下の反射音を受けてなん組みもの足音に
聞こえてくる。
 ガラスの向こう側の住人はやっぱり傍観者であるべきなのかな。
 薄いガラスで隔てられているために、現実世界に干渉することはできない。
 クラス内での自分の立ち位置を考えて、小説内でも自分は干渉しない方が
良いのではないかとふと遥は思った。
 七不思議の伝承はこの学校の学生の間に伝わったものだ。
 遥自身はお客さんにしか過ぎないためにこの伝承に直接はなんの関わりもない。
 もともと知る必要性も関係する必要性も遥には無い。
 伝承を次の学年や来年入ってくるまだ見ぬ新入生に伝える義務を負っていない
遥にとって遥の書く小説内でも遥自身は蚊帳の外になる。
 少しつまらない結論に達したものの、遥にとっては一応、納得がいく結論で
あったためにその考え方に従うことに決めた。
 あとは――
 明日から七不思議の調査が必要だと思った。
 七不思議の不思議な部分と鈴華の存在をどうやって絡めていくか。
 昇降口について靴を履き替えたところで、今度の構想は漠然とした
歴史ロマンよりも上手く行くのではないかと遥は思った。
 
 タイトルをどうしようかボンヤリと考えながら、昇降口の外へと出て
改めて年代物の校舎を眺めた。
 閉じた匣――
 それが遥にとって変わることのない学校に関する印象だった。
 毎年、多くの学生を迎え入れ送り出す。
 建物自体が変わることは改修でもされない限りない。
 コンクリートでできているために無機質な印象はぬぐい去れないでいる。
 この学校で3年間という時間を過ごす学生達はどんな印象を抱くのだろう。
 数ヶ月過ごしただけの遥には分からない感慨があるのだろうか。
 自宅方向に向かって歩を進めると、ふいに開けっ放しの4階の窓から音楽が
聴こえてくる。
 耳に響いてくるピアノの旋律で遥は自分の足を止めた。
 曲名は分からないが、時々、CMソングとして流れてくることがあるので
遥はこの曲のフレーズを知っていた。
 まだ誰かがピアノを弾いているのだろうか。
 そんな疑問が遥の頭の中を過ぎったが、別の考えが遥の頭の中に浮かんできた。
 この学校の七不思議には一人でに鳴り出すピアノというものがある。
 いつから囁かれた噂なのかは遥は知るよしも無いが、まだ遥が話題の中心であった頃に
何度かその噂を聞いたことがある。
 ――いわく、勝手にピアノが鳴り出す。いわく、亡霊が弾いている。いわく、その音を聞くとピアノの音に悩まされることになる。
 どこから生まれた噂なのかは確かめようはないが、何年も下手すると何十年の前から
あった話しが今の現役の学生達の間に残っている。
 脚色はされ所々改ざんもされているだろうが、噂の現場自体は変わっていない。
 それに殆どの学生が七不思議のことを知っている。
 アメリカの大統領名よりも認知度はこの学校において高いかも知れない。
 ――一人でに鳴り出すピアノ。
 カーテンが大きく揺れうす暗い室内に夕陽の残り陽が差し込んでいる。
 音楽室でピアノを弾いている生徒が――
 ――私の小説内で消える。
 ガラスの向こう側の世界へと引きずられていってしまう。
 始めの事件が起きる現場が決まり、タイトルのことはすっかり忘れ、
遥は家路に向かうことにした。
 音楽室から聴こえてきた曲を鼻歌として口ずさむ。
 自分自身の描く小説の構想に胸を膨らませながら遥は家路へと着くのだった。

 誰も居なくなった夜の教室内にかすかな光が漏れる。
 教室は5階にある普段、生徒達が使うことのない、置き忘れられた教室。
 今よりももっと生徒数が多かった頃に使われていた棟だが、生徒数の減少と
屋上が真上にあるために現在では使用されることは無くなっている。
 その5階教室の一室でかすかな光は浮かんでいた。
 月明かりとは違う、もっと純白で繊細な光。
 繭が裂ける。
 ゆらゆらとゆらやらとその繊細な白に別の色が混じる。
 黒と、赤と、白と――
 裸形の女がゆっくりと繭の中から姿を現す。
 寄せ集められた闇が女の長く美しい黒髪を作り、月明かりの青白さが
その白い肌を紡ぐ。
 厚くふくよかな唇が真っ赤な色を刻む。
 開かれた瞳が誰も居ない教室内を見まわす。
 印象的ともいえる澄んだ瞳にはいくすじかの光が浮かんでいた。
 女の名前は立烏帽子――現世の名前を鈴華――
 立烏帽子自身も与えられたこの名前が気に入っていた。
「ふふふ……良い名前だこと」
 詩うようになめらかな口調で鈴華は言葉を口ずさむ。
「鈴華……気に入ったわ……貴方も気に入ってくれるかしら、田村丸」
 鈴華は自分と対峙した男のことを考える。
 あの落雷で田村丸は傷を負ったとしても死んだとは考えにくい。
 己の敵は落雷程度では死なないことを鈴華は良く知っている。
 田村丸の人を凌駕する力の殆どは鈴華自身が与えた物だ。
 その力をあのような形で自分に向けられることになるとは――
「貴方はどこに居て? 田村丸」
 ふたつの澄んだ瞳が夜空を侵す磨りガラスの月を臨む。
 田村丸は力を持ったといえ人であることに変わりがない。
 ふと鈴華は考える。
 自分が眠っていた時間を田村丸は人と同じ時の理の中に身を置いて居たとしたら
田村丸はもうすでにこの世に存在するはずはない。
 けれども、自分がこうしてここに存在している以上は田村丸も存在している
のだと鈴華は考え直した。
「どんな姿をしているのかしら、現世(うつよ)の貴方は――」
 同じ理の中で婚(くながう)った鈴華には分かる。
 ――力が必要だこと。
 弄ぶにしろ殺すにしろ、田村丸と相まみえるまでに鈴華には力が必要だった。
 改めて鈴華は自分が呼ばれることになった建物を見まわした。
 硬質のコンクリートで覆われた校舎。同じような形をした教室の数々。
 自分や田村丸などが住んでいた平安の世の面影はどこにもない。
 この冷たい建物が鈴華は嫌いではなかった。
 やけに大きいくせに所々に空白があるこの建物は、とうに無くなってしまった
鈴鹿山を偲ばせる物がある。
 それに――
 戯れに女性との真似をして歩いていた校舎の中で思わぬ収穫もあった。
「私の存在を認めてくれるのは嬉しいわ」
 書き物という形で鈴華はこの時代に、女学生の物語の中で存在していた。
 そのことが鈴華には妙におかしくて愉快だった。
 おまけに良い名前まで頂いたこと。
 だからせいぜい名前の知らない女学生が紡ぐ物語の通りに行動してやろうと
密かに考えていた。
 そうやって事件が大きくなっていけば、田村丸の血を受け継いだ子に出会うことが
しれないもの。
 形の良く整った顔が月明かりの下でゆっくりと歪む。
「しばらくは退屈しないですむかしら」
 鈴華の言葉がぬるい夜気の中に溶けていく。
 その声をその姿を、ガラスの向こう側に居る住人達以外は知らない。
 学校という匣庭に響く、異界の音律――
 人知れずその音律は現実を浸食するように奏でられていくのだった。

*

「おはよう」
「おはようー」
 元気の良い声があちらこちらから返ってくる。
 朝の喧噪の中にある教室はいつもと同じ朝の顔を見せている。
 仲の良い物同士が集まって、とりとめもないことや宿題のことなどの
仕切りに話す。とくに話題の内容が重要なわけでなく、誰かと会話としている
ことの方が当人達にとっての関心事だった。
 教室という無作為に集められた閉じた匣を皆が有効に利用するために、
クラスという単位を大切にしている。
 異端になることを極端に恐れ、会話をして繋がっていることが、
ひとつのステータスとなる。
 内容は後から勝手についてくるためにそれほど重要でもない。
 そんなある意味では無意味なやり取りは水瀬遥はいつもの一歩引いた位置から
眺めていた。
 楽しそうに弾む会話も、時々沸き上がる歓声も、遥にとっては他人事だった。
 流れてくる会話は常に流動的で、本当に会話をしている当人にとって必要な
ことなのか疑問に思えてくることが多い。
 ――どうしてそんなことで笑えるの?
 何度も呟きそうになった言葉を遥は飲み込んだ。
 羨ましいのかどうかは遥自身にはよく分からない。
 今、楽しそうに笑っている原西沙耶かと野口由里は裏ではお互いのことを
死ぬほど憎み合っていることは部外者の遥にも伝わっているくらい有名な話なのにも
関わらずそんな事実が無いかのようにお互いに笑いあっている。
 そういう場面に出くわすたびに遥の中での疑問は大きくなる。
 どうやって笑っていられるのだろうか、それともそれがクラスになじむということなのだろうか。
 転校続きでひとつの学校に長く居ることがなかった遥にはよく分からない感覚だった。
 その隔てられている感覚が、遥をガラスの向こう側の世界へ置いている要因であることも遥自身はなんとなく気が付いていたが――
 ――なじめそうにないな。
 ひとつ小さく息を吐く。
「おはよう。水瀬」
 一瞬、かけられた声に遥は戸惑う。
「おはよう。……木下君」
「俺……木下違うから。好きなように呼んでくれとは言ったが、
好きに呼びすぎだろ、それ」
 考えていた事柄を中断してすぐに声の主へと向き直る。
 木下君は前の学校の隣の席の相手だったことを遥は思い出しすぐに後悔する。
 お客様意識が強いために転校して2ヶ月以上経つが顔と名前が一致しない
生徒が多い。
 名前を間違えられた相手は遥の間違いに不満を述べる訳でもなく一限目の
授業の準備を始めていた。
「ごめんなさいっ。私……もの覚えが悪くて」
「転校多いんだろ。仕方ないって、俺、坂本。坂本高利だからよろしくね。好きなように
呼んでくれって席が隣になった当日に宣言したから、本当に好きなように呼ばれたのかと
思って焦ったよ」
 自分の言動に高利が照れ笑いを浮かべる。
 坂本高利――
 隣の良く日に焼けた大柄男子にそう言われて、遥の中でやっと顔と名前が一致する。
「ごめんない。坂本……君。あの……おはよう」
 俯く遥に高利は笑いかける。
「気にしなくていいって、俺は気にしてないから」
「でも……失礼だよね。名前……」
「そんなに気にすることでもないよ。それに覚えてくれたんだろ、今度は」
「ごめんね……もう大丈夫だよぉ」
「だったら良いって。そんなに気にするようなことでもないって。あの窓側の席の汀(みぎわ)なんて読みが難しすぎて、初対面のヤツの9割が読み間違えた伝説を持つ人物だ」
「俺なんて一回や二回間違えられたってどうってことないよ」
 比べる対象としてはどうなのか疑問に思いつつも遥は頷いた。
 会話が打ち切れると丁度良く、他人が入ってきて短いHRが始まった。
 HRが終わるとすでに待機していた、数学の教師が入れ替わるように入ってきて、
遥の放課後までの長い退屈の時間が始まるのだった。

*

 放課後を告げるチャイムの音が鳴り響く。
 そのチャイムにつられるように坂本高利は今まで上半身を
預けていた机からムクリと起き上がった。
「あんたってば、本当にこういうタイミングがバッチリなのね」
「別に狙ってやっているわけじゃねぇよ」
「狙ってやっていたらそれはそれで才能だって認めて上げる」
「いいや、俺は頭が良いからこれ以上は才能は必要ないぞ」
「はぁぁっ、業者テストで嘆いていた子の台詞とは思えないわね」
「抜き打ちでやる方が悪いだろ、業者テストなんていうのは。テストは
正々堂々あるべきだ」
「単に日頃の勉強不足の問題をすり替えているようにしか聞こえないわね」
「失礼なことを言うなっ!」
 起きがけだっていうのにどうしてこう真紀の相手をさせられているのか
自分のおかれている状況に理不尽さを高利は感じていた。
 話している相手の篠原真紀は中学の頃からの腐れ縁だが、ありとあらゆる情報ネットワークを用いてあることないことネタを集めて人を脅かしてくる質の悪さを持っている。
 並以上の容姿を持っても男性友達が少ないのはその情報が悪質なゆえんだと高利は睨んでいた。
「ところでさ、トシ、今日暇?」
「真紀の用事につき合うほど俺は暇じゃないぞ」
「どうしてそう女の子に冷たいことが言えるのよ、あんたは」
「真紀の用事って基本的にろくでもないことが多いじゃないか! こっちはそのおかげでどれだけ迷惑がこおむったと思っているんだ」
 真紀の用事とは真紀の所属している部活に関わる事柄が多く――
 の不正確性を伴う情報からあちらこちらに迷惑がかかり部員の多くが止め、
現在では真紀一人という状況だが、真紀本人はまるで懲りるところが無く――
 少数精鋭を謳っているから恐れ入ったものだ。
「いいじゃない。学食でなにか奢るから」
「断固拒否っ! 何がバレー部と剣道部が癒着だ。真実を暴くとか言いながら、
結局はガセネタでどれだけ事後処理で迷惑を被ったと思っているんだ」
「あの件で新聞部って廃部じゃないのか?」
「だから、名称が変わったの。報道部」
「今日は報道部のことで相談に来たからこの件での相談は始めてだって」
「名前が変わっただけじゃないか、それ――某番組よろしくで名前が変わっても
中身が変わってないって……」
「今度は方向を変えて攻めてみようと思う」
「どっちにしても俺はパスだ」
 新聞部絡みで真紀に関わってろくな目に遭ったことがない。
 行動力に関しては認めないこともないが――
 行動力しかないのも個人的に問題だと思う。
「ふふふっ! 今回はすごいよ、トシも絶対に興味あるって」
「頼むから話しを聞いてくれ」
「今回の報道部が追う真実はね――」
「帰るは俺――」
 鞄を手にしたところで袖をぐぃっと引っ張られる。
「待ちなさいって、言っているでしょうが」
「だから俺は報道部の部員違うし」
「あれ、トシの名前で報道部もう申し込んでおいたよ。他にも旧新聞部の部員の名前を
全員分拝借させて頂いたから部として正式に採用されたわ」
「この学校の教師は頭がニワトリなのかっ! 普通はもっと違う処置が下るだろ」
「大らかなのが校風でしょ。うちは」
 真紀のことだから何か特別な手だてでも使ったのだろうか。
 邪推が簡単に浮かんでしまうところが真紀の恐ろしさだった。
「手伝ってくれたら、アサミンの情報を流して上げても良いわ」
「仲良かったっけ? 真紀と藤原って」
「私の情報網を甘く見ないことね。アサミンに悪い情報流されたくなかったら
手伝いなさい」
「それって脅迫という犯罪なんじゃないのかっ!」
「ふふふっ。近代の戦争は情報戦の側面が大きいのよ。トシ君」
「情報戦も何も、藤原が可愛いって言っただけだろうがっ!」
 真紀の前でそんな台詞を言ったのがそものそもの間違いだった。
 クラス替えして初めての時に真紀にふと何気なくクラスメートの藤原あさ美が
可愛いと漏らしたことが切欠で新聞部を始めありとあらゆる厄介ごとに
巻き込まれるようになった。
 後に自分が漏らした何気ないひと言がどれくらい大きな意味を持っていたのかを
知ることになって愕然としたが――
 藤原あさ美の人気の高さを知るにつれて自分の発言の軽率さを知ることになった。
 ライバルの数の多さや水面下で行われている藤原の気をひこうとする暗闘の多さ。
 アメリカと旧ソ連の冷戦を彷彿とされるやり取りがクラスの学年中のあちらこちらで
行われ、けん制がけん制を生んで今では近づくだけでファンクラブに目を付けられるとか
付けられないとか囁かれるほどになった。
 大概は根も葉もない噂に過ぎないが、わざわざ渦中の栗の中に放り込まれるのは
ごめん被りたい事態だった。
「頼むから忘れてくれ、ソレ。この年でヒットマンの影に怯えるってありえないから」
「あーでも、アサミンって意外とトシのこと気に入っているみたい。私がすごく頼りになるって吹き込んだからかな、感謝してよね」
「カンシャシテマスヨ」
 思わず声が裏返ってしまう。
 好意を持たれることは嬉しいが、反面、リスクが大きすぎる。
 毒リンゴだと分かっていても、人間は腹が減っていたらそのリンゴを
やっぱり食べるのだろうか。
「でさ、でさ、その話は一旦置いておくとして、今日の本件なんだけどね」
「ああ……手短に頼むは」
 頭の中に浮かんだリンゴのイメージが強すぎて、ここに至るまでの会話の経緯は
もうどうでも良くなっていた。

「今後の活動内容を要約するとそう言うこと」
「なんだかえらくまともな活動に思えてきた」
 真紀からの説明を聞いてゆっくりと頷く。
 今度はどんなスクープを追わされるのか内心では冷や冷やしていたが、
活動が内容が妙にまともであったために少し拍子抜けな感じがした。
「なんで……また、学校の七不思議を調べるんだ?」
 今までの真紀の活動イメージからはほど遠い内容だった。
 メディアは真実を求めるべきだというスローガンのもと、学長が市長に裏で手をまして
この街の利権を握っているやら、果ては体育教師の熱愛相手は同級生だなどと、
どこから情報を仕入れてくるのか本人以外は眉唾ものの情報に振りまわされてきたことが多い。
「どういう方向転換なんだ?」
 そんな真紀だからこそ、学校の七不思議なんてありきたりな話しには縁遠く思えた。
「メディアは真実を追究するという姿勢には変わりは無いわ。ただ方向性を変えていこうと思って」
「七不思議って荒唐無稽なお話だとしても、ひとつ疑問に思わないかな? トシ」
「どういうこと?」
「つまりね。それを伝えていく人間が居るってこと」
「あ、なるほど! 七不思議って俺らの代で生まれた訳じゃないよな。そういえば」
「私の集めた情報によると、果穂の七つ上のお姉さんがここの出身なのね。その頃には、
今と同じような話しはできあがっていたんだって」
「七年以上の歳月が七不思議ができてから経っているってわけか」
「これって不思議なことだって思わない? 七年前の卒業生と私たちが誰に頼まれるわけでもなく
同じ情報を共有しているって。しかも来年入ってくる新入生にもね」
「学校っていう一種の閉鎖空間を抜きにしても調べてみる価値がある題材と思うの」
「確かに真紀のいう不思議な側面はあるな。噂の根元っていうのか、情報の出所は分からないけど、不特定多数が知っているわけか。しかも場所が学校と限定されている」
「噂の根元が誰であるか分からないっていうのがひとつのポイントだと思うわ。
なんとなくで知っている。だから言動に責任が伴わし、知っていないと仲間はずれみたいな感覚があるじゃない」
「そうだな。流行のドラマって面白いから見るんじゃなくて、見ていないと話題についていかれないから見るって話しは良く聞くしな」
「だからどこかで情報を流すことに、なんらかの意味があると思う。なんら意味のない情報が、数年、もしくは数十年かけて学校に残るとは思えないもの」
 そこまで言ってから真紀は腕を組む。
 いつもの真紀の姿はそこにないように感じられた。
「だから七不思議にはこの学校に関する秘密なり、なんらかの象徴なり、警告なりが含まれていると思う」
「それってでも少し飛躍しすぎてないか」
「飛躍ではないな。口伝として語り継がれるものは何かしらの真実を含んでいるケースは多いもの」
 本当に目の前に居る相手は真紀なのだろうか――
 それとも自分が知らないだけで、真紀とはもともとこういう人間だったのだろうか。
 誰も居なくなった教室内で取り残された自分の思考だけが真紀の言葉に揺れている。
「例えば民俗学で大きな問題になるんだけど、祈祷師が依りましの言葉を借りて、その地方に流行った疫病なり
厄災の正体を暴くことがあるんだけど、ここで大切なのは事実がどうこうじゃなくて、その地方の人が納得する
理由なの。疫病は○○の呪いであるとか、○○の神様が怒っているとか、事実ではないけれど納得がいく理由。それが口伝として残っていくわけ。七不思議にもそういう側面があるとは思わない?」
 揺れていた思考が真紀の言葉にますます揺り動かされる。
「それが学校の秘密ってこと?」
「そういうことなるわね。学校のなんらかの秘密を知っている人間に、七不思議という形で語り継いで、残しているって考え方は意外とありじゃないかしら」
「なるほど不特定多数には無意味でも、中にはその情報から真相にたどり着く人間も居る、その真相にたどり着く人間のために、情報が口伝化されているのか」
「そういう風に考えてみると、その謎を真実という側面から解いてみる気にならない?」
「確かに興味深いし面白い案だとは思う。でもさそれって全部、真紀の推論だろ。後、成立している不思議事態が
年代によって違っているかもしれない、もしくはフェイクかもしれないだろ。確かめるすべってあるのか」
 否定はしてみたものの強い否定でないことは自分にも分かった。
 普段何気なく知っていた七不思議が、急に価値を持ち始めたのだ。
 それに対する探求心がないといえば嘘になる。
「そうね、ひとつは七不思議の話の収集ともうひとつは成立年代の特定と話しの差異のすり合わせかな」
「報道部でそのネタを扱ってどうするんだ?」
「決まってるじゃない。誰も解決したことのない謎を解決する。報道の理念である真実の探求。それにプラスして、学校っていう閉鎖空間の中で生まれる集団的幻視のメカニズムの誕生の解析」
「もう報道部がやらずに誰がやるってテーマじゃないっ!」
「……そうだな、やってみるか」
 真紀の言葉をそのまま鵜呑みにすることはできないでいる。
 それでも不思議なことへの興味はつきないでいた。
 人は誰も自分の理解の及ばない世界に憧れる傾向がある。
 学校という閉鎖空間には多々、一般の学生が知りうることのない世界が潜んでいる。
 何かの間違いのように日常の時間のふっと迷い込んできて、そうして放っておけば
ただの幻想して消えてしまうような、架空が学校という閉鎖空間の中でちみもうりょうのようにばっこしている。現実をどこかで浸食する機会をうかがっているかのように――
「まずは七不思議全体の把握からだな」
 それらの闇は取り返しの付かない現実の変容をはらんでいるような不安が――
「使える情報を洗い出して、その情報を元に実地調査から検証ね」
 そんな不安を高利自身、どこかぬぐい去れないものを感じていた。
 
*
 
 チャイムの音で遥の意識は原稿用紙の中の世界から、現実世界へと引き戻された。
 集中力がそこで途切れたのと、長いことをシャーペンを握りしめていた指が
悲鳴を訴えのも手伝って、今さらながらに体が悲鳴を上げ始めた。
 ――あぅぅ、痛っ。
 同じ姿勢で長いこと居たせいで筋肉が凝り固まってしまっている。
 柔らかさが足りないとついつい独り言がでてしまう。。
 それにしても――。
 自分の隣に席になったばかりに、小説の登場人物にされているだろうとは、
坂本高利は夢にも思わないだろうと。
 坂本高利を主人にした理由はいくつかあったが、立烏帽子と婚(くなが)った相手の名前は、坂上田村丸(さかのうえのたむらまろ)という。
 父親の名前が確か、坂上隆利(さかのうえのたかとし)で、字は違うが折しも高利と
同じ名前を持っていた。
 坂の多い八重坂市でなら、坂上が坂本になっても不思議ではない。
 偶然の類似性と隣の席であるために、朧ながら人物像をつかんでいる高利を遥は七不思議を追い求め鈴華と最終的に対峙することになる役柄に選んだ。
 それに高利と一緒に行動していることが多い、篠原真紀という女性も遥にとって見れば
格好のキャラクターの一人だった。
 何よりも個性的な所が遥が真紀を小説に登場させた要因だった。
 所々遥自身の想像が混じっているが、新聞部における真紀の伝説的な活動は、
クラス内での話題の中心になることが多く、部外者である遥の元にも尾ひれがついて
流れてくることが多い。
 女の子とは思えない行動力と物怖じしない性格。
 サッパリとしていて男勝りな言動など遥の知らない世界の住人そのものだった。
 少し論理的ななったものの、真紀という女の子の魅力はその行動力にあり、
周りを引きずり込んで事件の核心に迫っていくところだろうと遥は考えた。
 行動派の真紀と理論派の高利、中々良い組み合わせだと思った。
 高利と真紀が架空の報道部の部員となって、七不思議の真相究明に当たる、
真相究明の途中で連続して起こる失踪事件。裏で暗躍する鈴華。
 頭の中で漠然と浮かんでくるイメージを必死につなぎ合わせる。
 不連続の断片的なシーンを、連続性を伴ったものに変換する。
「えへへっ……なんだか本物の小説家さんみたい」
 満足のいくシーンが脳裏の中で展開されまた独り言を遥は呟いてしまう。
 ひとしきり構成を脳内で終え遥は誰も居ない教室を改めて眺めた。
 高かった日は、西の空へと移動している。
 開け放たれた窓から吹き込む風がカーテンを揺らしていた。
 初夏の空気を含んだ風はどこか生ぬるさを含んでいる。
 ほの朱く染まる誰も居ない教室――
 どこか墓標のようなイメージを連想させた。
 教室はいつまでの変わることなくここにあるというのに、授業が終わった後の教室は
あまりに寂しすぎる。
 1日の終わりが教室の中にある。
 だから今日という日の墓標なんだと遥は思った。
 夕暮れ時は極端に校舎から人が消える。
 それは――
 やはり本能的に人間が死を嫌うからだろうと遥は思った――

 最終下校間近の校内を歩く。
 一般学生の帰宅時間はとうに過ぎているために部活に所属していない
遥にとって下校時間はすでに過ぎていた。
 部活や特別な用事でもない限り学校ないに残る理由は少ない。
 残る理由が少ない学校になぜ毎日来るのかという疑問が浮かんできた。
 学校には行くことに意義があると、テレビの教養番組でコメンテェータが
述べていたことをなんとなく思い返す。
 理由が特にない学校に行くことになんの意味があるのか遥には疑問だった。
 学校の登校を選択制にしたら出席率はどの程度になるのかなどとりとめもない
考えが浮かんでは消えていく。
 真っ直ぐに昇降口へと向かうことを遥は特に理由もないまま避け、
音楽室がある3階の棟へと自然と足が向かっていた。
 教室から出るときに見た時計の時間が、昨日遥が帰宅した時間をほぼ
同じ時間を刻んでいた。
 今日もまたあのピアノの音に出会えるかもしれない。
 第一の失踪事件を予定している音楽室には一人でに鳴り出すピアノの噂がある。
 遥自身もピアノが一人でに鳴り出すなんて考えてはいないが――
 理解の及ばない何か、その何かが存在していても、学校という空間は不思議でない
空気をはらんでいるといつも思っていた。
 同じくらいの年頃の同じくらいの学力の子を集めた空間。
 一見同じような子が集まっているようにみえて、やっぱりみんなバラバラ。
 学校には不可思議な秩序と矛盾が寄り集まっている。
 そんな場所だからこそ、現実では起こりえないことが起こりえたとしても
不思議ではない。
 学校の怪談のような類は信じていない遥も、その学校独特の口伝には信憑性があると
遥は多少なりとも思っていた。
 だから音楽室に向かう足が自然と早足になっていって――
 動悸が早くなっている。
 小説以外の力が働いているかのように、遥の体が自然と音楽室へと
吸い寄せられていく。
 最終的に小走りになりながら音楽室の扉に遥は手をかけた。
 音楽の授業を選択していない遥が音楽室に来るのは、転校初日に案内されて
以来二度目だった。

 扉を開くと――
 強烈な夕陽が飛び込んでくる。
 西向きの音楽室は最後まで夕陽が残り続けていた。
 燃えるような差し込む赤が、遥から全ての視界を奪った。
 視界が奪われることで鋭敏になった聴覚に昨日と同じピアノの旋律が響いてくる。
 曲名は昨日同様に思い出すことができないが、昨日よりも近くにいる分旋律自体の強弱や全体の印象などが色濃く耳に伝わってきた。
 目が夕陽になじむまでの僅かな時間、遥は音楽の中に引き込まれていた。
 そのために扉を閉めることも忘れ、ほうけたように立っていた。
 少し経って目がなじんで、シルエット状の人影が現れた時になって、ほうけているように見える自分の姿に気づき慌てて扉を閉めた。
「何か音楽室に用ですか?」
 遥の扉を閉める音に反応してシルエット状の人物が口を開く。
「あの……そのっ、ごめんなさい」
 用事という用事があったわけでないのでとっさに頭を下げる。
「じゃまするつもりは、なかったんですっ。……ピアノの音が聞こえてきたからっ」
「……水瀬さん?」
「えっ、あ、っ、はい」
 遠慮とためらいがちに呼ばれた自分に遥は余計に驚いた。
「あのっ、ごめんなさいっ」
「謝らないでもいいけど。水瀬さん、部活してたっけ?」
「あのっ、えぇっと、して……ません」
「あっ、その攻めているわけじゃなくて、急に音楽室に水瀬さんが来たから驚いただけ」
「私のこと、覚えてない? 一応、クラスメートなんだけな」
 シルエット状の女の子が拗ねた調子で遥に語りかける。
 いっぱいっぱいの精神状態をなんとか落ち着けて、シルエット状の女の子の顔が
なんとか判別できるくらいの距離まで遥は近づいた。
 制服のリボンの色が遥と同じ青色。
 ソバージュがかかった茶色の髪に大人びた顔の作りの女の子。
 遥の頭の中でうろ覚えのクラスメートの顔が浮かんでは消えていく。
「まっ、あんまり話したことないから覚えていてもらってないか、ちょっとショック」
「えっと、なのごめんなさいっ。私物覚えが悪くて――」
 謝る遥に女性とは笑顔を向ける。
「ああ、いいって、私ほら、田丸智子。一応、クラスメート」
「あのっ、私っ……水瀬遥です」
「あはは。知っているよ。だって水瀬さん、転校生でしょ」
「ああ、うん、そうです」
「そんなに硬くならないで普通にしてよ、普通に。前の学校みたいに」
「あ、うん、ごめんね。私っ、あのっ、人見知り激しくて……いつもオドオドして」
「そうなんだ。ま、でもそういうのって本人の意志とは関係なくなっちゃうんでしょ。
だったらそんなに謝らなくていいよ」
「あのっ、のっ、うん。ごめんなさい」
「だから謝らなくていいって言っているのに」
「あはっ、そうだったね」
「そうそう、そんなに謝ってばかりだと疲れちゃうよ。悪いことしているわけじゃ
ないのに」
「ありがとう……」
「いいって、落ち着いた?」
「うん。だからありがとう」
「お礼を言われることでもないんだけど……ま、いいかっ。ところでどうして音楽室に?」
「攻めているわけじゃなくて、水瀬さん音楽に興味ある?」
 ゆっくりと今度はどもらないように、自分の中で遥は言葉を整理する。
「あのね、昨日帰る時に音楽室からピアノの音が聞こえてきたから、誰が弾いているのかなと思って、あの、知ってる曲だったから曲名を教えてもらいたくて」
 自分の書いている小説のネタを探しに来たとは口が裂けても言えるわけもなく、
相手に変な印象を与えないように細心の注意を払い、架空の原稿用紙で何度も校正をかけた言葉をゆっくりと口にする。
「ああ、そうだったんだ。今、弾いていた曲のこと?」
「うん。何度かCMで聴いたことがある曲だったの。それで知っていて」
「そうだね、ウィスキーか何かのCMの曲に使われていたね。この曲」
 そう告げた後で、智子がピアノを弾き始める。
 智子の指が鍵盤を叩き、叩かれた鍵盤から、遥の知っているフレーズが生まれてくる。
「この曲はね。『アヴェ・マリ』……」
 簡単な曲の説明とメロディが続いてくる。
 遥は流れてくる音楽に耳を傾けた。
 智子の十本の指先が音楽という名の錬金術を奏でてくれる。
 鍵盤から鍵盤へと行き来する指先――
 寄り集まった音の集合体が音から、音楽へと名前と形を変える。
 まるで賢者の石が鉛を金に変えるかのように。
 音楽には不思議な力があると遥は常日頃から思っていた。
 その不思議な力ゆえに、鈴華の持つ力と何か相反する都合の悪い――
 例えば清浄な力が働いていたとしたら。
 静かな音楽室に響く『アヴェ・マリア』の曲が遥の中にある日常と非日常の隔たりを
ゆっくりと溶かしていく。
 ただただ宙を遊泳する意識とは別に視線だけが、曲を奏で続けるピアノから離れることができないでいた。

*

 音楽室の扉を高利が開く。
 無人の音楽室の中にピアノだけがここに存在することを許されているかのように
悠然と佇んでいた。
 軽音部と合唱部が各自で部室を持っているために、音楽室は追試でもない限りは
放課後は無人の空間となる。
「やっぱりというか誰も居ないか」
 放課後の音楽室に誰かが居る可能性の方が少ない。
 鍵が開いていて自由に使えるものの音楽室を使って何かをする理由がほとんど無いというのが、無人の理由ではないかと思う。
「都合が良いって言えば都合が良いんじゃない。人目に付かないのはありがたいわ」
「そうだな。調査の方を始めるか」
 扉を閉め音楽室の中で後から入ってきた真紀と二人っきりになった。
 七不思議のひとつ、一人でに鳴り出すピアノの検証に音楽室まで来たが音楽室自体に
ピアノが一人でに鳴り出すような仕掛けがあるとは考えにくい。
 結果としてピアノ本体に無いか細工がないか調べることにした。
 そのために音楽室を訪れたわけだが――
「思うんだけどピアノってさ、あたりまえだけど誰かが弾かないと音がでないよな」
 こうして誰も居ない音楽室では当然のようにピアノが音楽を奏でるようなこともない。
「何をあたりまえなことを言っているわけ?」
「そこが七不思議の問題なんじゃないか、音が鳴ることに問題が行き勝ちだけど……
鳴らしている誰かが居ることが前提じゃないと、ピアノが鳴るって成立しないだろ」
「ピアノが鳴る仕組みを考えるんじゃなくて、ピアノを鳴らしているのが誰か。
そっちに焦点を当てて考えた方が真相に近づける気がしないか?」
「なるほど。トシ良いところに目をつけたわね。ピアノを弾いている人物が分かれば、
理由も分かって解決になるか」
「多分だけど、その曲を弾いている。弾かれている曲が真紀の言うなんらかの、
特定の人物にとっての警告なり、真相なんじゃないのか」
「そうか。弾いている人物と選曲か。それなら私の得た情報が役に立つかも」
「どういう情報を得た来たんだ?」
「一人でに鳴り出すピアノの話しを集めてみたんだけど、だいたいこんな話しで
落ち着いたわ」
「何年か前、私たちの先輩の代にピアノのすごい上手い先輩が居て、毎日、毎日、
このピアノを使って練習していたんだって、それがね、ピアノの大きなコンクールがあって、うちの学校の期待を一身に背負ってたんだけど、コンクール前日に事故にあって、
その先輩亡くなってしまったの」
「それで……鳴り出すピアノの曲なんだけどその先輩が課題曲に使っていた
曲なんだって。だからコンクールに出られなかった先輩の幽霊が弾いているって
いうのが噂のをまとめた結果ってわけ」
「ピアノが鳴り出す時間っていうのが最終下校間近の17時50分過ぎ、先輩が亡くなった時間とピッタリ合うんだって」
「なるほど……な」
 真紀の言葉を頭の中でゆっくりとそしゃくする。
 確かに噂として成立要素は多く持っている。
「でも真紀。音楽室を使わせたくない、もしくはピアノを調べさせたくないから、
その先輩の亡くなった事故を使ったとも考えられないか?」
 自分の先ほどの発言を覆すようだが漠然とそんな疑問が浮かんできた。
「例えば先輩が亡くなれば、使っていたピアノを処分するかもしれないだろ。
そんな噂が立ったら、縁起悪いってことで、現に今、音楽室に人居ないし」
「なんらかの理由でピアノの処分をもくろむ人間居たら、先輩の事故はピアノ処分の
格好な材料になると思うぞ」
「一種の情報操作って感じで」
「それは無いんじゃない。ピアノに何か秘密があるなんて考えににくいわね」
「でも安易に先輩の亡霊が弾いていると考えるよりは……具体性があるか」
 真紀が考え込んだような仕草を見せる。
 学校が生徒を預かる以上、なんらかの事故が起こることも考えられる。
 不幸にして在学中に亡くなる学生がでることも数年に一度は現実としてある。
 その中で七不思議、いいかえれば一種の噂として、学校内に伝承として残るには
残るなりの理由があると考えるのが自然だろう。
 つきつめるとなんらかの形で利用できるからではないだろうか。
「このピアノっていつ来たヤツなんだ。ピアノの寿命って分からないけど頻繁に
変えるようなものでもないと思うぞ」
 ピアノのどこかに一般学生には分からないような、なんらかのメッセージが
残っている可能性がないとは限らない。
 それゆえに人払いをかねて噂が扱われたとしたら――
「調べて見るわ」
「分かるのか?」
「ピアノってだいたい後ろを見ると寄贈年月日が書いてあるものよ」
「寄贈年月日前後で噂になったような事故があったか調べれば、俺の考えた仮説が
正しいかどうか照明できる気がするぞ」
「そうね。ピアノ寄贈の時期と事故の関係は当たってみる価値はあるわ」
 そう言いながら真紀がピアノにかかっているカバーをくぐって、
鍵盤の裏側にある止め板に視線を向けていた。
 頭の中でいくつも浮かんでは消える仮説の可能性を高利は考える。
 確率論の物差しで不可思議な事象に当たるのは、イスラム教徒の前で豚肉を
食べるのと同じくらい危険なことだとふと思った。
 前提条件の物差しを自分たちの持っている常識で測ってしまうと、
どこで強烈なしっぺ返しが待っているとも限らない。
 仮説には絶対的な反証が必要となってくる。
 反証を打破できるだけの材料がそろわなかった時点でその仮説は消える。
 仮説の取捨選択のための反証か――
「あ、分かったわっ! 今から23年前に寄贈ってなってる」
 真紀の声で高利は思考を一旦中断させた。
「23年前ってずいぶんと前なんだな」
「そうね……少なくとも私たちは生まれてなかったわ」
「23年前の事件記事っていうとやっぱり図書館かどこかか」
「人が亡くなっているくらいだから新聞沙汰にはなったでしょうね。うちの高校は名前変わってないし」
「そういえば、今年で創立何年なんだ? ここは」
「え、何年……かしら、考えたこともなかったわね」
「学校って知っているようで知らないことに囲まれてるよな」
「言われるとそうね。トシは全校生徒の数知っている?」
「いいや、しらねぇ」
「実は私も、教員の数はおろか……学年の人数も把握できていないわ。何が言いたいかというと……」
「数値としている出ている数と、実数が変わっていても誰も気づかないってこと」
「どういうことだ?」
「つまりね。例えば学年全体の人数が二四三人だったとして」
「二四三人が確実に学校に登校している確証はないでしょ。不登校だったり病欠だったり休学だったり、理由は色々だけど、その数通りに登校している確証がないわけ」
「言われてみるとそうだな。うちのクラスですら怪しいところだ」
「この曖昧な数って結構、怖いことだって思わない」
「私たちの知らない誰かが、勝手に出入りできる余地があるってことでしょ」
 ――考えすぎだろ。
 本来なら笑い飛ばせるような事柄にも笑えない奇妙さがあった。
「七不思議の伝承ってその人数合わせっていうか、私たちの知らない誰かの
出入り口に使われているとしたら……どう思う? トシ」
「可能性とはしてどれも否定しきれないな。新聞記事から洗い出すか」
 なんだろう――
 この漠然とした不安は。
「とにかく仮説が多くても話しがまとまらなくなる」
 一歩間違ってしまうと自分の存在が、ここにあるはずのない何かに
書き換えられてしまうような漠然とした不安。
 ――考えすぎているのか。
 目に見えない何かにまとわりつかれているような感覚。
 そんな感覚をぬぐい去るように、音楽室の扉に手をかけた。
 手をかけると反対側から扉を横にスライドさせる同じ力が加わった。
 ほぼ同時に出ようとした高利の体と智子の体がぶつかりそうになった。
「うわぁっ!」
「おっ……」
 同じタイミングで短い悲鳴と驚きの声が上がる。
 反射的にお互いに後方へと身を引いた。
「あっ……悪ぃっ」
「あ、こっちこそ不注意」
「……て、坂本に、それと真紀、何してるわけ? 音楽室で」
「えっ、あ。田丸。その辺りの事情は……部長に聞いてくれ」
「どうして、そこで私に振るわけっ!」
「だって……ほら、説明責任って代表が負うもんだろ」
「都合の良い時だけっ! 人を部長呼ばわりするなぁぁぁっ」

 真紀が冷静さを取り戻すの待ってから、智美へと音楽室に居た
事情を簡潔に高利が説明した。
 真紀の怒声が高利の中にあった漠とした不安を振り払い、
平穏な日常が元の形を取り戻そうとしていた。
 そのために高利の中にある疑問はここで解決しておこうと思い――
 新聞部改め報道部の活動内容に首を傾げている級友に高利も疑問を
ぶつけることにした。
「俺たちがここに居る理由は説明通り、七不思議の検証なんだけど、田丸はなんで
音楽室に? 音楽室での放課後の活動って確かなかったよな」
「私が音楽室に居たらいけない?」
「俺とか真紀よりも健全な理由だろうと思うけど、七不思議を追う側として、少しでも
音楽室に関する疑問はクリアにしておきたいんだ」
「健全って、トシっ! 私たちの活動だって立派な部活動じゃないっ、健全よ、健全っ」
 話しが進まないので不満を述べる真紀を無視しておく。
「ピアノでも弾きに来たのか?」
「そんなところ……かな。でも部活動とかじゃないから」
「……そうか」
 ゆっくりと確かな足取りでピアノへと向かう智子。
 確かに音楽室は一般学生のために放課後は開放されている。
「確か田丸って中学の頃、体育館の壇上にあったピアノを全校生徒の前で弾いたよな、
校歌とか……2年ぐらいの頃だっけ。合唱コンクールでもピアノ弾いていた……」
「へぇ、憶えていたんだ。坂本。そんな昔のこと」
「いや2年の頃、同じクラスだったから。うちのクラスにすごいピアノが上手いヤツが
居るって当時、話題になってたんだ」
 『なに、なに、なんの話し』と目を輝かせている真紀を右手で制する。
 真紀が会話に加わってくると話しの方向が定まらなくなることは目に見えていた。
「同じクラスだったんだ、ごめん。そんなこと忘れてた」
「俺も今思い出したくらいだ。接点なんてなかったからな。……でだ。
なんで、わざわざ学校のピアノなんて弾きに? 田丸のことろって家にピアノあるんじゃ
ないのか」
「確かにうちにはピアノはあるのは。でも学校で弾いたらいけない?
七不思議の真相究明よりは、音楽室の使い方として私の方が正しい使い方だと思うけど」
「そう言われると返す言葉もないな……ジャマするつもりはないよ」
「あ、それと私は七不思議なんて信じていないから」
「学年で信じているヤツの方が少数派だろうな。おもしろ半分で受け止めている
方が割と普通の反応だと思う」
「信じているわけじゃないのに調べてるんだ、そんなの」
「信じてないけど完全に否定できるものでもないから。現にみんな知っているわけだ。
なんだか秘密みたいなものでも見つかれば面白そうじゃん」
「オカルトってむやみに暴かない方がいいと思う。暴かれることで辛い思いをする
人間が居るかもしれないじゃない……」
「そうだな。その可能性もなくはないな。そうなったらこの企画は引き上げだな」
「引き上げよ、引き上げ。うちの部の理念に反するもんそれ」
「だったら私の知っている噂も聞いてくれる?」
 ピアノの椅子に智子が腰を降ろす。
「ああ、何か知っていることがあるなら聞かせてくれるか」
「うん。情報が少しでも多い方がいいわね」
「私の知っている話しはみんなの知っている話しとほとんど変わらないわ」
「でももっと悲しいお話。その先輩はピアノが上手かったわ。ピアノが上手くて子供の頃から賞を何度も取って天才だって騒がれていたの」
「先輩はピアノが好きだった訳じゃなかった。ピアノを先輩が弾く姿を見て喜ぶ母親の
姿を見ているのが好きだったの。だから練習して上手くなって母親が喜ぶ姿を見て
先輩も喜んでいた」
「…………」
「でも先輩のそんな気持ちとは反して周りの期待は高まっていった。先輩のピアノは
確かに上手くて人の心に残るものだったかもしれない。でも先輩がピアノを聞かせたい
相手は先輩の母親であって、コンクールの審査員や音楽家ではなかったわ」
「先輩は周りからかけられる期待が自分の知らないところで膨らんでいくのが
怖かったんだと思う。失敗できない、そんな思いが先輩を縛っていって、
ピアノを弾くのが嫌になってしまったの。でもコンクールはある、その重圧からは逃げたい」
「先輩はそこで考えたわ、事故に遭って負傷すればコンクールに出なくてもすむと。
優勝できなかった時の周りの反応を考えると、事故での不参加ならまだいいわけが立つんじゃないかと……思ったんだろうね」
 智子の話には具体性があると高利は思った。
 まるで見てきたような具体性。
 話しを集め待った限りここまで具体性を帯びた話しは得ることができなかった。
「先輩は商店街の道路でわざと飛び出したの。信号待ちで止まっていたトラックにわざと
ぶつかるためにね。速度が全然出ていない車ならねんざ程度ですむと考えたのね、きっと」
「事実、先輩は信号が変わってすぐに走り出したトラックにぶつかったわ。打ち身で道路に倒れた時はとても喜んだでしょうね。これでコンクールにでなくてすむって」
「それだと先輩が亡くなるなんてことは……」
 智子の首が左右に振られる。
「喜んだのもつかの間、先輩にぶつかったトラックの後ろに玉突きになって、
何台もの車がぶつかったの、トラックが急停車したためかしら。倒れていた先輩に……
玉突きで押されたトラックがのしかかる形になったわ……」
「先輩は死ぬつもりなんて全然なかったの。ただ少し怪我をすれば良かったのに。
どうしてかしら……死んじゃった」
「運がなかったじゃすまないよなそれ」
「その時の先輩の課題曲がこれよ」
 そう言って智子が鍵盤をゆっくりと叩き始める。
 叩かれた鍵盤からひとつのメロディが生まれていく。
「1年の頃にここでこの曲を弾いていたわ。そうしたら先輩方がみんな
ぎょっとした顔をしていくの。始めは疑問だったけれど、何人かの先輩に聞いて
どうしてみんながあんな表情になるのか分かったわ」
「それと同時に先輩の気持ちが分かったから、私はここでピアノを弾くようになった。
その先輩はただピアノが好きだっただけなのに、コンクールとか関係なしにピアノが
弾きたかったんだろうなって思って」
「一人でに鳴り出すピアノなんてあるわけがないでしょ。多分、その先輩のことを
慕っていた後輩か誰かが同じ曲を弾いているのを聴いて、誰かが思いついただけだと思う」
「……かもしれないな」
 ピアノを愛する物同士、その先輩と智子には相通じるものがあるのだろうか。
 悲運の先輩とそれを忍ぶ後輩のピアノの音。
 もともと独立しあったものがひとつになった可能性もある。
「ジャマして悪かった。いくぞ、真紀」
「わぁ、どうしたの、トシ。ちょっと……」
「さようなら、坂本。真紀」
「ああ。じゃあな……」
 片手を上げてから音楽室を出た。
 
 急に音楽室を出たことに真紀が不満の声をあげる。
 それを高利は無視した。
 確かめたいことが頭の中にいくつかあった。
「詳しいことは明日、説明するから待ってくれ。俺の方で調べておくことがあるから、
真紀の方は図書館の事件の切り抜きを頼む」
「ちょっとどういうことっ! なんだか一人で分かったよな顔して。私にも分かるように
ちゃんと説明してっ!」
「だから、明日するって言っているだろ。まだ仮説の段階なんだ」
「なにそれ、結構真相に近いのその仮説?」
「それを確かめるために調べ物をするんじゃないか。だから、明日な」
「それってさっきの智子の話と関係あるの?」
「ああ。ひとつのキィワードであると思ってもいい。とにかく明日だな」
「そこまで言うからにはちゃんと聞かせてもらうからね。忘れましたじゃ許さないからっ!」
「アサミンにあることないこと吹き込んで――」
「だからどうしてそこに落ち着くんだおまえはっ!」
「ほら、トシはなんだかんだ言っても私の助手っていう立場をわきまえてもらわないと。
ちょっと主役っぽいのよね……今のトシ」
「死ぬほどどうでもいい理由だぞっ! それ」
 真紀との日常的なやりとり――ただそのやり取りの中に紛れ込んでいるような違和感。
 その違和感を引き取るように――
「……明日、な」
 高利はポツリと呟いた。

*

 書いていた原稿用紙の手を遥は止めた。
 音楽室での智子とのやり取りから想像を働かせてここまで物語を書いた物の、
失踪とどう繋がるのか悩んでしまう。
 智子を失踪させるにしても理由が見あたらない。
 主人公である高利や真紀を失踪させるわけにもいかなかった。
 それにと遥は思う。
 高利はいったい何に気が付いたというのだろうか。
 ほとんど思いつきで書いたために詳細は遥自身にも分からないでいた。
 書いているとどうしても癖で事件を魅力的にしようとすることばかり考えてしまう。
 色々なワードを盛り込むのは楽しいが、改めて構成の難しさを思い知らされた感じだった。
「このままだと鈴華の登場もないなぁっ」
 七不思議の謎解きがメインの話しになってしまうために鈴華の出番が少ないのも
遥にとっては不満の残る内容だった。
 よくよく考えてみると鈴華は暗躍するキャラクターだから表に出てきては
いけないかと思いなす。
 いかにして智子を音楽室から失踪させるか、一人でになるピアノの真相とは――
「うぅぅっ、どうしようかな」
 浮かんでは消えるアイデァはどれも遥自身を満足させるものではなく、
場つなぎのものが多くなってしまう。
 問題をひとつ先送りにしてしまうと、後から後から矛盾が溢れてきて最終的には、
矛盾の塊になりそうで恐ろしかった。
「でもっ、こういうのって……矛盾があってもいいのかな」
 首をひとつ傾げる。
 誰かに読ませることを前提にして書いているものではないのだ。
 矛盾していても破綻していても自分が満足できればそれでいいから書いているのに。
 どうしても技術的なことや構成的なことを気にしてしまう。
 好きなように書く、けれどもルールには従う。
 これはこれでひとつの矛盾ではないだろうか。
 本物の小説家はいったいどういう風に思っているのだろう。
 書きたい物を書くと良く言うが、読んでくれる対象をどう見ているのだろう。
 大好きな推理小説でそれを考えると、推理小説の知識がある程度、持っていることを
前提に作品が書かれていることが多いように思えてきた。
 事件の例えで推理小説の名前が出てくるが多いのも特徴的だ。
 例えば密室での殺人状況から見て、乱歩の某という作品を見立てているような
趣があるなど――
「私の読者っていったいどういう人なんだろう」
 読まれることを前提にして小説は生まれてくる。
 世界に一人しか、自分しか居ない状況になっても、小説は今のように
存在することができるのか遥には疑問だった。
 見せる対象の居ない何かが、生まれてくる価値はあるのだろうか。
 見せることを考えていないこの作品はなんのためにあるのだろう。
 書いている途中でそんな疑問が浮かんでは消えた――
 遥のよく陥るパラドックス現象の一種だった。

*

 誰も居なくなった音楽室にピアノの音が鳴り響いている。
 奏でられている曲のタイトルは『アヴェ・マリア』。
 非業の死を遂げた高利達の先輩が有名な音楽コンクールで弾くはずだった課題曲。
 もちろんピアノが一人でに鳴るはずもなく弾いているのは智子。
 ピアノを弾いている手が直ぐに止まる。
 高利達の会話が智子の中で引っかかっているためかどうも意識が楽曲に
集中しきれないでいた。
 どうしてあんな話しをしたのか智子は考える。
 確かに一年の頃に智子はこの場所でピアノを弾いた。
 もちろんこの学校にそんな噂があったことや、自分の弾いていた曲がいわく付きの
楽曲だったことは智子自身も知らなかった。
 だからこの場所で始めてピアノを弾いた頃に出会った先輩の何かに怯えたような
表情は今でも忘れることができないでいる。
 それにしても智子は思う。
 どういう形で噂が伝わっているのかは分からないが、噂になっている先輩の気持ちを
考えて上げられた人間が居たのだろうかと思う。
 智子自身も高利が指摘したようにピアノに情熱を注いでいた。
 子供の頃からピアニストになることを夢みて、毎日厳しい練習にも耐えて小さな
賞を何度か受賞することがあった。
 子どもながら智子は自分がピアニストになるって思っていた。
 周りももちろんそういう目で智子のことを見ていて、智子の周りにはいつも
取り巻きのような人たちが居た。
 知らず知らずのうちにその噂の元ネタとなった先輩と自分の姿が重なってしまう。
 智子自身も中学の2年の頃にある事故でピアノを弾くことができなくなった。
 その事故でピアノを弾く楽しみを失ってしまい、ぷっつりと糸が切れたようにピアノを
弾くのをやめてしまった。
 ピアノを止めると後は坂道を転がり落ちるようだったことを智子自身も憶えている。
 智子の居場所が直ぐになくなって、取り巻きのような人たちは直ぐに居なくなった。
 すぐに智子の変わりに別の有名人が校内にできあがり、智子がピアノを弾いていたなんて事実はすぐに過去のものへとなった。
 もしあのままピアノを弾き続けていたら――
 智子自身そう何度か思い返したことはある。
 ピアノを止めた頃の智子の気持ちを分かってもらえないのと同様に、
ピアノを弾いていても自分の気持ちは分かってもらえないだろうと智子は思う。
 期待やプレッシャーを背負わされるのは、自分ひとりなのだ。
 その期待に応えられないと自分以上に周りが失望してしまう。
 残酷なことだと智子は思う。
 だからたまたまた智子自身が好きだった曲が、先輩の課題曲だと知った時は
運命に似たものを感じることができた。
 その曲を弾くことで孤独に耐えることができなかった先輩と自分の抱えている
孤独とを重ね合わせて分かり合っているのである。
 そのために一人でピアノを弾くことを智子は好んだ。
『アヴェ・マリア』を奏でることが智子にとってのイニシエーションである。
 イニシエーションとは常に回復の意味合いを持っていることを智子は何かの
本を読んで識っていた。
 なんの回復なのかは智子自身にも決めかねているが、ここでピアノを弾いている間は、
少なくともピアノを弾くことが好きなのである。
 もう一度、ピアノを弾くためのイニシエーション。
 自分のピアノを聴かせる相手が、悲運のピアニストである先輩。
 智子にとってこれ以上ない観客だと思った。
 たった一人のための演奏会――
「…………」
 坂本高利が自分がピアノを弾いていたことを憶えていたことが智子には
以外で仕方がなかった。
 それと七不思議の謎の解明に取り組んでいるという言葉も意外だった。
 中学の頃の高利の印象を思い出そうとするが、意図的に中学時代の記憶を消している
節がある智子には上手く思い出すことができなかった。
 思い出すことのジレンマが智子の演奏会の手を何度も止めている。
 意識がピアノにどうしても集中しきれないのだ。
 心のどこかにあった、自分がピアノを弾いていた姿を憶えていて欲しい――
 胸に秘めていた欲求が、急に現実として現れたからだろうか。
 噂になんの真相があるというのだろう。
「ふぅ……っ」
 今日、何度目かのため息を智子はついた。
 ――帰ることにしよう。
 気分が乗らない時に何をうやっても上手くいかないのは智子自身が
一番良く知っていた。
 それに中途半端な演奏を先輩に聴かせるのは失礼だと思った。
 智子が完全にピアノから意識を離すとすぐに違和感に気づいた。
 いかに集中力が散漫だったといえ、ピアノに向かうと智子は一種の入神状態に
陥ることが多い。
 ピアノ以外の景色が見えなくなるために、気が付くと日付が変わっているなんて
ことが良くあった。
 それにしてもと、智子は思う。
 現在の時刻が分からないまでも、どうして教室内に霧が立ちこめているのか――
 いつの間にか湿度を含んだミルク色の澱が学校内を浸食していた。
「どうしてっ!?」
 見渡す限り、霧、霧、霧、に飲み込まれ廊下の蛍光灯の光が水彩画のように
ぼぉぉぉっと浮かび上がっている。
 髪の毛も皮膚も衣服も汗をかいたかのようにじっとりと霧が智子に
まとわりついてくる。
 見慣れた学校の音楽室は今や智子の知らない場所へと変わりつつあった。
 視界がだんだん狭くなってくることに智子は恐怖を覚えながら室内から
出ることに決めた。
 急いでピアノから離れ扉へと手をかける。
 廊下にも同じように霧がかかっていて白い迷宮の中に閉じこめたかのような錯覚が
襲ってくる。
 あちらこちらで浮かび上がる蛍光灯の光だけが頼りだった。
 
 目隠しされた歩かされているような気分に智子はなってきた。
 普段良く知っている場所がまるで見たことのないような場所へと変わってくる。
 曲がり角ひとつとってみても、教室ひとつとってボンヤリとした輪郭だけが、
ほの暗い混沌の中から浮かび上がってすぐに霧の中に溶けていく。
 記憶の断片のようだと智子は思った。
 何気なく識っていると思っていたものは実は全体の印象にしか過ぎず、
本当の所は曖昧でしかないと。
 智子にとっての高利の印象と同じで――
 そこで、智子はかぶりをふる。
 霧がますます密度を増す。
 自分の教室まで戻ることができればと智子は思った。
 教室の鞄の中に携帯電話があった。
 携帯電話さえ手に入れることができれば――
 智子がそう考えた刹那――
 闇の中で確かに人影を見つけることができた。
 自分と同じ学校の制服を着た人影。
 シルエット状であるために誰かまでは分からないでいる。
 人影が居ることで智子は安堵感を覚えた。
 人影へと向かって自然と足が速くなっていく。
 白い迷宮の中に一人で取り残されるのは不安だった。
 それに本当にここが慣れ親しんだ学校なのか智子には分からなくなっていた。
 これほどまでに濃い霧を智子はまだ見たことがない。
 学校は集団生活の場のようにみえて独りぼっちになることが多い場所だと
智子は思った。
 だから余計に人影を恋しく思ってしまう。
 ピアノを辞めて独りぼっちになったあの時も――
 やっぱり誰かに支えていて欲しいと智子は思った。
 だから――今回も――一人で居るのは怖い――
 智子の足がどんどん人影へと近づいていく。
 人影は智子の存在に気づいているのか足が止まったように思えた。
 距離がどんどん詰まっていって――
 シルエットが人間の顔へと書き換えられていく。
 見知った顔だった――
「藤原さん!」
 クラスメートの名前を智子は叫ぶ。
 智子の声に藤原あさ美の反応はない。
 まるで智子の存在など始めからないかのように。
「藤原さんっ! 藤原さんっ!」
 叫んだ、必死に叫んだ。
 それでもあさ美は何の反応なく佇みつくしている。
 智子の声はあさ美には届かない。
 へとへとになるまで智子は叫んだ。
 やがて叫ぶことにも諦めを覚えた。
 藤原あさ美には自分の声は届かない。
 ――何かが違う。
 智子がそう思った時にもうひとつの人影が視界に映った。
 だから智子もあさ美と同じように佇みつくした。
 ――彼女の声は自分には届くのだろうか。
 そんな疑問と共にミルク色の中に自分の姿がかき消えていくのを智子は感じた。
 それでも智子はその人影を待ちつづけた――

*

 霧が少しずつ晴れる。
 学校内は夕刻から夜へと姿を変えていた。
 磨りガラスのような月が中天へと差しかかり教室内の闇を侵す。
 天上に最も近い位置にある5階教室は月の光の中にあった。
 繊細な強い光が窓辺から差し込み、霧の消えつつある教室の明確な姿をさらす。
 教室の中央には鈴華が立っていた。
 鈴華は満足げな表情で横たわる田丸智子を見下ろしていた。
「これでよろしいかしら。作者さん」
 小説内の遊びにつきあって智子をさらったことに鈴華は愉悦の笑みを作る。
 学校を巣と定め獲物を喰らい、力を蓄えることが鈴華の目的であったが、
鈴華を脅かす者が何も居ないこの場所はいささか退屈でもあった。
 力を蓄えるまでの間の遊戯として女学生の考えた小説を利用することを
思いついたが、女学生が明日どんな反応を示すのかと思うと鈴華にとっては
愉快だった。
「こういう楽しみ方もあるわね」
 ただ気に入ったものを浚い喰らうだけでなく、何もせずに反応を見て楽しむ
ことも長い刻を消費するひとつの手段と鈴華は思った。
 手に入れた贄(にえ)を鈴華は抱きかかえる。
「どうやって喰らってあげましょうかしら」
 化け物としての可虐性を含んだ妖しい笑みを鈴華は浮かべた。
 気に入った者を弄ぶのは久しぶりのことだった。
 鈴華の頭の中で残虐な情景が浮かんでは消えていく。
 泣かして、汚して、喰らって、壊すことが、鈴華にとっての楽しみだった。
 田村丸と婚(くながう)ってから潜んでしまった残虐性が一人になったことで
鈴華の中で目を覚まし始めていた。
「喰らって上げるわ。智子」
 気絶している智子の耳元に吐息を吹きかける。
 月下での智子と鈴華の交わりには儚さと美しさが混同して。
 壊される側も、壊す側も、ただ美しく――
 振り下ろされた鈴華の爪が智子の腸を裂き血しぶきが飛び散る。
 生命力を宿した朱が、月光の光の中で、生き物のように踊った。
 血だまりの腸から取り出されたのは生き肝。
 久しぶりの食事に鈴華は満足そうに笑みを浮かべるのだった。

*

 学校へと着くといつもと雰囲気が違っていた。
 独特のどこか浮ついた空気がなく、示し合わせたように重い空気が
張りつめている。
 集団の意識とはすごいものだと改めて遥は思った。
 みんながみんな一様に重たい表情を浮かべ同じことを考えている。
 共通認識はどこかで管理されているのではないか。
 学校内において自分たちが考えて作り出される話題がほとんどない
ことが遥の考えに拍車をかける。
 どこどこの先生が嫌いとか、○○の授業がつまらないとか、
本当に自分たちにとって必要な話題なのか考えることが多い。
 転校が多くクラスになじむことがほとんどなかった遥にとってみて、
クラス内共通の話題は常に疑問の対象だった。
 だから今日の空気も何かクラス内独特のもので自分には関係が
ないだろうと遥は思っていた。
 ボンヤリといつものように意識を別の場所に小説世界の中に向ける。
 ――ガラスの向こう側の世界。
 遥がその世界に足を踏み込みかけたところで現実へと引き戻された。
 重々しい空気の解決の中心になるはずの教師が重い口を開いた。
 ほとんど遥にとっては関係がないだろうと思っていた事柄だっただけに
教師の口からその名前が出たときにはかなり強い衝撃を遥は受けた。
「えー、静かに。昨日、放課後に田丸に会った者は居るか? どうも田丸が家に
帰ってないみたいで。足取りに関してしっている者は誰か居ないか」
 口を開いた教師の言葉で教室内がさらに重い空気へと変わった。
 田丸智子が失踪した。
 漠然と言い交わされていた噂が教師の口を借りたことで真実へと変わる。
「鞄はどうも教室に残されたままみたいだったから……そのなんだ……」
「事件に巻き込まれた可能性があるってことですか?」
「智子は、事件に巻き込まれたことってですか? 警察とか連絡したんですか」
「てか、家に帰ってないって連絡とか誰か取れないのか?」
「ダメだって携帯鞄の中、チャコもケイコも何度かかけたけどダメだったって」
「静かにしろっ! まだ何も分からない段階なんだ。とにかく放課後に田丸に
会った者が居たら職員室まで。いいか絶対に他言無用だから。田丸のプライバシーにも
大きく関わるんだ。遊び半分で話題にしていいことじゃないっ!」
 担任の最後の声は上ずっていた。
 担任だというのに遥は名前を覚えていないが、その様子からかなり慌てていることが
伝わってくる。
 口を開く者が居なくなっても教室内の空気は相変わらず重いままだった。
 浮かんでは消える疑問をぶつける対象がそれを拒んだからだろうか。
 それにしても、と遥は思う。
 ――どうして田丸さんが。
 確かに昨日、音楽室で智子と会話をした。
 CMに使われた曲名を教えて貰った後、何曲か曲を聴かせて貰ったのだ。
 智子の失踪は小説内でもまだ行われていない。
 昨日の智子の様子から失踪するようなそぶりはまるで感じることができなかった。
 思い詰めている様子や何かに追われている様子など。
 失踪と聞いて思い当たりそうな理由を遥は考える。
 小説内では田丸智子は最初の鈴華の犠牲者として消える予定だった。
 智子に特定したわけではないが、ピアノを弾いていた女の子が消える予定で、
その女の子が智子だと分かったから、智子が消える予定になった。
 でも、小説を先回りするように事件が起きてしまった。
「どうしてっ」
 ――ここは現実だよね。
 ふとあたりまえのことを確かめずには居られなくなってきた。
 あたりまえのことだけがここが現実世界。
 鈴華も居なければ、報道部も存在しない。
 それなのにどうして――智子は消えてしまったのか。
 架空が現実に取って代わってしまう。
 たまたま偶然だっただけだよね。
 くらくらと目眩のする頭を必死で押さえる。
 ここは鏡の向こう側の世界ではないのだ。
 現実世界で少し退屈で、自分はクラスのお客さんだから、ただ見ているだけの場所。
 私の書いた何かが、力を持つなんてあるはずがないよ。
 あくまで偶然でしかない。
 どういう理由があって田丸智子が失踪したにしろ、小説の中のできごととは
関係がないのだ。
 それでも目眩をぬぐい去ることができないのは――
 一瞬、どこかで鈴華が居るような影を感じたからだろうか。
 ――これは私の期待が生み出した失踪。
 ガラスの向こう側に居る自分がかすかに微笑んだような感覚に遥は囚われるのだった。

 続く
2006/04/22(Sat)04:17:07 公開 / 智弥
■この作品の著作権は智弥さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
現実と虚構が入り混じってお互いを浸食しながら、ひとつの物語へと向かって進んでいきます。 学校という閉鎖空間を上手く利用できたらいいなと思っています。 どっちが嘘でどっちが現実か興味を持って読んで頂ければ幸いです。
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