- 『追悼』 作者:那音 / リアル・現代 ショート*2
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原稿用紙約13.4枚
僕は、記憶喪失になった。
追悼
一番初めの記憶にあるのは、雨と猫だった。
僕は雨の中、濡れたアスファルトに倒れていて、降り続けている雨に打たれていた。
冷たかったけれど、もうびしょ濡れになってしまった体には、その冷たさはむしろ心地よかった。
僕は、何で自分がこんなところにいるのかわからなかった。体が痛むというわけではないのでリンチにあったとかそういうわけではないのだろう。
だけど起きようとは思わなかった。体がだるくて、動く気力も沸いてこなかった。
不意に、指先に何かが触れた。見ると一匹の黒猫が僕の指先を舐めていた。まるで気だるげな僕を励ますように。まるで冷えた指先を温めるように。
「……どうしたの?」
声をかけると、猫は僕を見て小さく鳴いた。
「なんだ」
それは、泣いているように聞こえた。
「お前も一人なのか」
無意識にそう言っていた。お前も、と。自分も一人なのだと、自然にそう言っていた。
猫の温もりは、優しかった。
僕は結局、雨の中ずっと猫を抱いてぼんやりとしていて、警察のお世話になった。
僕は自分の名前も家も思い出せなかったが、どうやら家族が捜索願を出していたらしく、無事家族の元に戻された。
家族――家族だという人々――は警察の人に僕が記憶喪失だということを知らされると、これ見よがしに嘆いてみせた。記憶を失った僕を哀れがるというより、「記憶喪失の人間を抱えた家族の一員」である自分を嘆いているように見えた。それは僕が記憶を失って、彼らを他人としてしか見れないからなのだろうか。
ともあれ僕はそういう仮面でもつけているような家に、黒猫を一匹抱いて入っていった。
自分の部屋だと案内されたそこは、まるでゴミ屋敷のような惨状だった。
三つほど並んでいる本棚からは、大量に詰め込まれた本が雪崩を起こし、床には所狭しと本が積み重ねられていた。部屋の片隅に置かれた机の上も、いわば雑草のようにこの部屋を埋め尽くす本の餌食になっていた。
そんな本だらけの空間にぽっかりと穴が開いたように置いてあるテーブルには、カップラーメンやスナック菓子などのゴミの山と、それに埋もれるようなノートパソコン。
そしてカーテンを閉め切った薄暗い部屋には、なんとも言えない匂いが染み付いたようにこもっていた。
「あなた、引き篭もりだったのよ」
母親という女性は、動揺する僕にそう言った。
「学校にも行かないで、この部屋にずっとこもってたの。食事は扉の前に置くようにして……、あなたの姿を見た日は、ほとんどなかったわ……」
女性はそんな日々を思い出したのか、悲しげに――どこかわざとらしく――目頭を押さえた。
僕の腕の中で、黒猫が小さく鳴いた。こんな部屋に住むのは嫌だと言っているような声だった。
「……じゃあ、■■■ちゃん」
――記憶喪失になってから、気付いたことがある。
「何かあったら、すぐに呼んでね。遠慮しなくていいから」
「……うん」
女性は部屋から出て行く。僕は汚い部屋に黒猫と一緒に残された。
――僕は、僕の名前がわからない。
誰に名前を教えられても、呼ばれても、丁度名前を呼ばれるその時だけ、まるで全てを拒絶するような突き放すような酷い雑音が頭の中に流れて、自分の名前が聞こえない。
黒猫がまた、非難がましく鳴いた。
仕方ない。考えるのは後だ。
掃除をしよう。
大量の本はいらないと判断したものは捨て、残りは整理して本棚に並べた。ゴミは全部まとめて捨て、部屋全体に掃除機をかける。カーテンやベッドの毛布やシーツは洗濯してもらい、窓を全部開けて空気の入れ替えをした。窓を開けてみれば、この部屋は南向きの日当たりのいい部屋だった。
あとは部屋に染み付いた匂いを消すために、無臭の消臭剤を置きファ〇リーズをばら撒いた。洗濯したカーテンやシーツを戻し、改めて見てみると、この部屋はずいぶんと広くて清々しかった。
僕はまずダンボールで黒猫の家を作り、近くのコンビニでキャットフードを買って食べさせた。名前がないのも困るので「クロ」と名付けた。黒猫なので。安直なんだろうけれど、なんだかとても似合っていたので気に入った。
僕の分の食事は前と同じように扉の前に置いてもらうことにした。あんまり家族とも顔をあわせたくなかったし、なるべく一人で――クロと一緒にいたかったからだ。
クロと一緒に食べる食事は、本当に美味しかった。
記憶を失った僕は、当然とばかりに学校に行かなかった。
以前も行ってなかったというのだし、記憶を失ったのだから行く気にすらならなかった。
僕はずっと部屋でクロと戯れたり、本を読んだりしていた。おおよそ部屋からは出なかった。何か欲しい時は窓から外に出て近くのコンビニに行った。クロと散歩する時は夜の人気のない道を行った。
多分以前より酷いんじゃないかと思うぐらい、僕は部屋に引き篭もった。
そんな生活を続けて、僕はふとそれに気付いた。
机の引き出しにあった、日記。
机の引き出しだけは何故か片付いていたので、掃除の時その存在に気付かなかったのだ。
何の変哲もない、ただの大学ノートだ。表紙には小さく「日記」とだけ書かれていて、これでは誰の日記かわからない。でもまあ僕の部屋の僕の机の引き出しにあったのだから、きっと僕の日記なのだろう。
だから何の気兼ねもなく、そのノートを開いた。
――その日記は、とても寂しかった。
一日一行だけの、短い日記。それにそこに書かれた日付は、何日かとびとびになっていた。思いついたときに書かれた日記。そんな感じがした。
だけどそんなことよりも、そこに書かれた内容のほうが、寂しかった。
「死にたい」
その字が、一番よく目に付いた。
他にも「消えたい」とか「生まれてこなければよかった」とか、酷く自虐的な言葉が目に付いた。おおよそこの日記を埋めるのは、そんな自虐的で、退廃的な言葉だった。他にも「世界の全てが消え去ってしまえばいい」とか、他人にぶつけた暴力的な言葉もある。だけど大半は自分自身を嫌悪し、抹殺しようとする言葉だった。
そしてその字はとても乱雑で、どこか狂気をも感じさせた。
この部屋の惨状を思い出す。僕が引き篭もりだったという事実。そして、この日記。
僕はページをめくる。そして、その一文を見つけた。
「僕は、一人だ」
その字だけ、とても丁寧で綺麗だった。乱雑な字が並ぶ中、まるで真実みたいに。
きっと、この乱雑な字は感情の赴くままに書いてきたものなんだろう。だけどこれを書くときだけは、ふと冷静になったのだろう。そして感情のままに書いた日記を見て、僕はどう思ったんだろう。
そして僕は、自分の存在を静かに見つめて、これを書いた。
――僕は、一人だ。
寂しい文だと思った。
ポツ、とノートに水滴が落ちた。僕が悲しくてこぼした、涙だった。クロが僕をいたわるように鳴いた。
僕は、絶望していた。世界の全てが醜く見えて、世界のどこにも希望を見出せなくて、何より自分自身に絶望して、死にたがっていた。
だけど死ねずに足掻いている時、ふと冷静になって、感情をぶつけた醜い日記を見てしまった。さらに醜い自分を見てしまった。きっとその時の感情は、嫌悪なんてものじゃない、それよりもさらに強い憎悪だったのではないだろうか。
僕は世界の全てを憎み、自分自身さえも憎み、自分にさえ見捨てられた自分は、本当にどうしようもなく、一人だと気付く。
――お前も一人なのか。
あの時、記憶を失って目覚めたとき、クロに言った言葉を思い出す。
僕は本能的に、一人だという真実を覚えていた。
そして僕は、一人の絶望を抱えた僕は――死んだ。自殺した。記憶喪失という、手段をもって。
僕は絶望に塗れた記憶を捨てることで、死んだ。
だとしたら僕は誰なのだろう。僕は僕が持っていた絶望も嫌悪も憎悪も持っていない。
僕は、僕じゃない。僕は死んだ。
ノートを閉じる。名前を書いてない大学ノート。
死んだ僕の絶望と記憶が書き込まれた、日記。
これは、死んだ僕の亡骸だ。
「……クロ、行こう」
僕は日記とクロを抱いて部屋を出た。
死者は弔わなければならない。
「■■■ちゃん?」
――僕は、僕の名前が聞こえない理由を悟った。
「どうしたの? 何をしてるの?」
僕は死ぬことを望んだ。死にたくて死にたくてそうして記憶を放棄した。
僕は死んだ。だから僕の名前はもう聞こえない。
「埋葬だよ」
「え?」
「“僕”の埋葬」
僕は庭に日記を埋めていた。横でその様子をクロが興味深そうに見ていた。
「ま、埋葬……?」
母という女性は、僕がついにおかしくなってしまったとか思ったんだろうか。見なくても動揺が伝わってくる。
「■■■ちゃん、よく聞いて、あのね……」
「違う」
女性の言葉を遮って、僕は立ち上がった。
「僕はそんな名前じゃない」
「え……?」
「そいつは死んだ」
僕はクロを抱き上げ、小さな僕の墓に手を合わせた。クロも死を悼むように、小さく鳴いた。
「■■■ちゃん……」
「僕はもう、そんな名前の人間じゃない」
僕は女性に振り返った。女性の顔に少しの怯えが走る。
「その名前の人間は死んだ。もうこの世にいない。僕は生まれ変わった全く別の人間なんだ」
僕は僕が持っていた絶望も嫌悪も憎悪も持っていない。そして何より僕は僕のように、一人じゃない。僕にはクロがいる。
「そうだな……。僕は――僕はシロ。こいつがクロだから、僕はシロ。僕の名前だ」
生まれ変わって真っ白になったという意味でも、丁度いい。
「僕はもうあなたの息子じゃない。僕はもうここの家族じゃない。僕の――シロの居場所はここじゃない。だから、さよなら」
女性は口元を両手で押さえて地に膝を付いてしまった。絶望させてしまっただろうか。だけど僕はもうここにいたくない。いや、いちゃいけない。
ここは僕の死んだ場所であって、僕の生きる場所ではないのだから。
僕はクロを抱きしめて家を出た。女性は結局追ってくるようなことはしなかった。
最後に振り返って、巨大な墓標のような家を見る。
さよなら、僕。
僕は僕の死を悼んで、少しだけ、涙を流した。
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■作者からのメッセージ
友達から「追悼をテーマに小話書いて」といわれて書いた話です。
ちょっと、言わんとしてることがよくわかんない話ですが、個人的には気に入っています。