- 『CU:BE(完)』 作者:河野つかさ / アクション ファンタジー
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全角123253文字
容量246506 bytes
原稿用紙約391.1枚
記憶をなくした少年、北斗。その彼が連れて来られたのは、特殊能力を持つエージェント揃いの影の便利業者、CU:BE(キューブ)だった! 仲間達との不思議な因果が示すものとは? 北斗の特殊能力が、次第に己の過去に迫っていく。自分探しの旅が始まった。
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序章
欠け始めたバニラ色の人工月が、天蓋のごく低い位置に投写されている。三等星以上から構成された冬の星座が、時刻にあわせてゆっくりと回転しながら空を横切ってゆく。完璧に管理されたドーム照明システムは、深夜二十三時の明度で都市を満たし、空調システムは摂氏マイナス八度を保ち続けている。人工雪の固まった路面にはうっすらと新雪がかぶさり、踏みしめるたびに高い擦りあうような独特の音を発する。
俺はこの音が好きだ。邪気を知らぬ無垢な心に帰るような、心地よい響きだ。
だが、今は、消えて欲しい。このかすかな、それでいて、冷えて張りつめた空気にやけに反響するこの音が、俺の位置をヤツラに知らせてしまう。消えてくれ! 今は俺をひとりにしてくれ! 逃してくれ、この魔境から!
林立する黒々としたビルの群れの間を、俺は何度も凍りついた路面に転倒しながら、それでも止まることなく走り続ける。俺を追う、ヤツラの空圧車の風切る音が、次第に迫ってくる。振り返りかけた俺は、脇腹を掠めた光線銃の光に弾き飛ばされ、氷の上に放り出された。したたかに腰と後頭部を打ち付け、数秒、息もできず視界が暗転した。両足がしびれて、すぐには動きそうもなかった。苦痛に顔を歪めながら、俺は荒い呼吸を整えた。右脇腹が、やけに熱い。探った右手の指に、ぬるりとした液体が絡みついた。凍えた指先には心地よい温もりだ。俺は無意識に暖を求めて更に指を深く差し入れ、内臓をまさぐられる痛みに悲鳴をあげた。意識がぼやけていた。空圧車の唸りが遠のいていく。同時に、視界が狂い、周囲のビルがその高さを増し、月が遠くなる。俺だけが縮小されているのか、それとも俺の倒れた地面が急速に降下しているのか……
世界の隅で、意識の混沌を抱えたまま、やがて俺は暗闇へと吸い込まれていった。
背に当たるのは、冷たく堅い氷ではない。
頬に触れる空気は暖かく、悪寒を覚えることはない。
照明は薄暗く、目に刺さることはない。
漫然とした空間に俺は寝かされていた。両手両足首は柔らかな床に金属の輪で固定され、起き上がることも、寝返りを打つこともできなかった。狭く薄暗く暖かな空間に裸で縛りつけられている俺は、さながら母体の中の胎児のようだ。今俺を内包しているこの金属製の子宮は、天井が高く、その一部は鏡張りになっていた。
俺の他に誰もいない。にもかかわらず、視線を感じた。その持ち主が知りたい。俺のその要求に答えるかのように、
『目が覚めた? 驚いたでしょう? でも安心して。傷の手当ては済んでいるよ』
声は室内に柔らかく響いた。
『体中に打撲があるようだけど、二、三日休めば心配ない。脳にも問題は見られなかった。具合が悪くなるようなら言ってね』
俺と同年代の少年の声だろうか、静かで暖かな響きを持っている。
『今、君の最終検査を行っている。今夜中に結論が出ることになると思うよ。ちなみに、今夜中、というのはあと二三時間後ってことだけれど』
俺はやけに心にまとわりつくようなこの声が、一体何の話をしているのか、わからなかった。
あ、と俺は小さく声を発してみた。全身が脱力していたが、どうにか喋るだけの力は残っているようだった。
「おまえは誰だ?」
擦れた声で俺は叫んだ。相手の姿は見えない。だが、確かに視線を感じる。そしてこの声はその視線の主の者に違いない。視線の持つ雰囲気と、この声の調子とがぴたりと重なる。
「俺を殺すつもりか?」
声はわずかに笑ったようだった。それは決して嫌な笑いではなく、少なからず俺を安心させた。
『そんなことしないよ。僕たちは敵ではないし、君に危害を加えるつもりもない』
「これでもか?」
俺は姿のない相手に示すように、右腕を持ち上げた。輪のついた短い鎖が金属音をたてて鳴った。声は少しばかり沈んだようだった。
『ごめんね。僕も悪趣味だと思うけど…… でも、上層部からの指示なんだ。もう少しだけ、我慢して欲しい』
声は不思議と俺の乱れる心をなだめた。
「おまえは、誰だ?」
俺は再び尋ねたが、今度は先程ほど語気を荒げることはしなかった。声はすぐに答えた。
『僕の名前は希美。柏木希美(かしわぎ のぞみ)』
「希美……」
『君は、西城北斗くん、だね』
さいじょう……ほくと…… 聞き覚えがあった。そうだ、確かに俺が知っている名だ。だが、俺の名前だっただろうか……
「何者なんだ、おまえは?」
『詳しいことは、また後日話すことになると思う。何にしても、君はひどく疲れているんだ。今はもっと眠っていた方がいい』
希美の声が調子を変えた。俺の精神を直接震わせる音調だった。命じられれば、従わざるを得ないような、そんな力を秘めた声調だ。俺は素直に瞼を閉じた。だが同時に、俺の内側から何かが湧き出してきて、その命令に従うことを拒むのがわかった。眠りたい。しかしその欲求に屈してはならない……
やがて抵抗もむなしく、俺は重たい睡魔に押し潰されるかのように、眠りの底へ帰った。
『おはようございます、北斗さん』
ぼんやりと眼を開けた俺に、再び姿のない声が話しかけた。希美のものではない。高く透き通るような女の声だ。
「おまえは?」
『桜庭梓(さくらば あずさ)と申します。どうぞよろしくお願い致します』
「あ、はぁ……」
希美の声には厚みがあった。裏表があったと言った方が適確かもしれない。それに対してこの梓という女の声は、逆に上滑りしていて、どこか作り物のようにさえ感じられる。だが、決して嫌な気分にさせるものではなかった。
『あなたの能力分析は現在進行中です。もうじき、結果が報告されるでしょう』
「能力分析?」
俺は眉をひそめた。ここがどんな場所なのか、俺には全く想像がつかなかった。
『おそらく、明日にはオークションが行われることと思われます。もう少しの辛抱です。我慢して下さいね』
「待て! 能力分析だとか、オークションだとか、何の話だ? 第一、ここは何処なんだ! 俺はこれからどうなる? おまえたちは何を企んでいるんだ! 俺は……」
『小うるさい奴だな』
低い、男の声が俺を遮った。暖かな室温が急速に冷気を帯びて体温を奪われていくような、そんな寒気すら覚える声だ。だが、それは厳しさがもたらす雰囲気に近い。
『少しおとなしくしていられないのか? いくら能力値が高くても、取り乱す奴は御免だ』
「……悪かったな」
俺はムッとして唸った。不機嫌になったおかげで、多少気持ちが収まる。
『飛雁(ひかり)さん、結果はいかがですか?』
梓が問い掛けた。飛雁…… 男の名だろうか。
『問題ない。面白い数値が並んでいる。希美、おまえの手ごたえはどうだ?』
『うん、こんなにしっかりとした抵抗は初めてだよ』
いつからその場にいたのだろう、やんわりとした希美の声が答えた。
『訓練していないわりには、強い耐性を持ってる。本能で逆らってきた感じだ』
『そうか…… 梓、おまえのヴィジョンは?』
『一緒、です、飛雁さん』
『やはり、そういう運命か』
俺は声から三人の気配を探った。こちらからは姿が見えないというのに、向こうには俺の様子が全て監視されているらしい。不愉快極まりない。その上、会話の内容はちんぷんかんぷんだ。
俺はわざと露骨に横を向いて押し黙った。
そんな俺に構わず、三人の会話が続く。
『それで、オークションの日取りは、やっぱり明日?』と希美。
『ああ。すでに北斗のデータは公開されている。希望者は七名。最終決定は今夜十二時だ』と飛雁。
『その七名の中に、あなたは入っているんですよね?』と梓。
『拾った方がいいよ。こんな逸材、他に渡すのは惜しいんだから』と希美。
……俺は息を潜めて聞き耳をたてた。間違いない、俺の身の振り方が論議されているんだ。だが、返答はなかった。いくら待っても、飛雁の声はなかった。もしかすると、すでにスピーカーのスイッチを、切られてしまったのかもしれない。
俺はしばらく耳をそばだてていたが、やがて諦めの溜息を漏らした。
全くもって、訳がわからない。俺は一体何処にいるんだろう。
第一章 チームナンバー 一〇四
一 オークション
人は、こんなに長く眠れるものだろうか。頬にあたる空気が動いて、俺の傍に黒い影が立った。静かに眼を開けると、亜麻色の髪の可愛らしい顔つきの少年が、微笑みを浮かべて俺を見下ろしていた。十四、五歳の、小柄な少年だ。まるでオーラのように柔らかい雰囲気に身を包んでいるが、どこか油断を許さない危険性を有しているようでもある。
「直接会うの、初めまして。柏木希美です」
悪意のない無垢な笑みだ。俺は惚けたように希美を見つめながら、彼が手足を固定している鎖の鍵を外してくれるのを待った。
「ここ、寒くない? 大丈夫? 本当にごめんね。上層部が警戒しちゃってて、どうしても最初はこんな扱いを受けるんだよね」
「…………」
「はい、これでよし。これ、着替えを用意してあるから」
言いながら、希美は足下に置いてあったスーツケースをベッドの上に開いた。
「多分、サイズは合ってると思うけど、もし都合が悪かったら遠慮なしに言ってね。あ、起き上がるのはゆっくりね。身体、薬がまだ効いてるから。でも、心配はないよ。動けばすぐに作用は消えるし、害の残るものじゃないしね」
俺は希美のてきぱきとしたペースに乗せられ、促されるままに服を着て、その部屋を出た。
廊下は室内に慣れた身体にはうすら寒く感じられたが、俺はすぐにそんなことなど忘れて、目の前に立っていたひとりの少女の姿に眼を奪われていた。
華奢な体つきの、十六、七の少女だった。色白で頬には僅かに紅がさし、金色の長い髪は滑らかに波打って背中へと流れている。瞳はやや薄いブラウンで、どこか照れ臭そうな笑みを口元に浮かべていた。彼女ははにかんだように唇を結んだまま、俺に頭を下げた。
「……梓……さん?」
ごく自然に俺の口からその名がこぼれた。少女は小さく頷いた。
「数々の無礼をお詫び申し上げます」
丁寧に梓は言った。俺は言葉が見つからず、ただ、ぶんぶんと首を横に振った。何故か頬が火照ってくる。梓はニッコリと笑うと、こちらへどうぞ、と言うように廊下の奥へ俺を誘った。
希美と梓に連れられて、白っぽい壁材の廊下を歩きながら、俺は改めて自分の置かれた状況を認識しようと努めた。どうやら、近代的な建物の内部であるようだった。俺が捕らわれていた部屋を出てから、一度も窓というものがない。明かりは天井に等間隔に設置されている、青白い蛍光灯だけである。建物全体の大きさは知れなかったが、雰囲気ではかなり大きな建築物であるように思われる。すれ違う人間はいない。廊下には部屋番号らしき数字の彫られた金属プレートがついただけの、赤塗りの簡素な扉が並んでいる。
曲がり角をいくつか過ぎて、灰色のエレベーターの前で俺たちは一度立ち止まった。
「先へ進む前に、簡単に今の状況を話しておくね」
希美は振り返ると、優しげに微笑みながらそう言った。
「ここはオルダーから少し離れた荒野の自治区にある、『The combat union : biological effectiveness』、通称『CU:BE(キューブ)』のビルディング。キューブは、頼まれればどんな仕事でも請け負う、言うなれば裏の便利業者。仕事は上層部からの指示で各チームごとに行ってる。ここには、現在一四八のチームがある」
「仕事?」
「そう。今回君をヤツラの手から救い出したのも、そのひとつだよ。僕らはチームナンバー一〇四、メンバーは飛雁と梓、それに僕の三人。リーダーは飛雁だよ」
飛雁……
俺は、スピーカーの声を思いだした。厳しい調子のあの声の持ち主は、この二人の上司、というわけか……
「飛雁さんには、もうすぐ会えますわ」
梓が横から付け足した。
「これから、あなたを賭けたオークションが開催されますの」
「オークション? 俺を賭けたって……」
俺は首を傾げた。
「いきなり、どういう……」
「北斗の力が認められて、僕らの仲間になってもらうことにしたんだよ。上層部が決めたの」
希美は天井を指さした。
「ま、待て、俺を仲間にって、そんな、いきなり……」
「突然で困るのはわかるんだけど……」
希美が申し訳なさそうに、
「取りあえず、後で断ってもいいから、もうちょっとだけ、付きあって欲しいんだ」
「……ま、まぁ…… 痛い目に合うわけじゃないなら……」
俺は口ごもった。
梓の前で、逃げ腰になるのはいい気はしないが、なにぶん、未知の部分が多すぎるのだ。
「大丈夫です、北斗さん」
梓がにっこりして、
「北斗さんは、見ているだけでいいんです」
「み、見てるだけ?」
「ええ。見ているだけです。ここでは、チームリーダーは自分のメンバーをオークションで勝ち取るんです。北斗さんが今回のターゲット、ということですね。今回のオークションには、飛雁さんを含めて八名がエントリーしていますわ。皆さん、北斗さんを自分のチームメンバーに加えたい、と考えて参加されています」
「メンバーに加えたい? えっと……飛雁も?」
「はい、有力候補ですわ」
「でも、あいつ、声の調子じゃ俺のこと嫌ってるように聞こえたけど」
「個人的感情と仕事上の都合とは別問題です。あなたが『優秀』であり、私たちのチームに必要な人材だと判断したから、彼はオークションへの参加を決めたのです」
俺はぼんやりと梓と希美を見比べていた。話の展開が急過ぎて、理解が追いつかなかった。
「なんとなく、わかった」
俺は弁解するように、
「だが、俺は何も、あんたたちの仲間になるなんて言ってない。あんたたちが何者なのかもよくわからないままだし、俺には……」
「だから、後で断ってもいいんだってば。それに、こう言っちゃ悪いけど、他に行くアテでもあるの?」
見透かしたように希美が言った。俺は思わず返答に詰まってしまった。俺に行くアテ? そんなものがあるだろうか。あっただろうか……?
「あなたがこれから先、いつまでCU:BEに残るか、それはオークションの後で決めてください。オークションの勝者の誘いを受けるも断るも、その選択権はあなた自身にあります。オークションはあくまでも、貴方をスカウトする権利を賭けて争うものです」
梓は小首をかしげるようにして、
「わかって頂けましたでしょうか?」
思わずハイ、と言わざるを得ない仕草だ。素直に俺は頷いてしまった。
「行こう。もう、決勝戦が始まるよ」
希美はエレベーターのボタンを操作して、ボックスのドアを開けた。
エレベーターを降りると、真っすぐな廊下が一本続いていた。その先には、両開きの物々しい黒い扉がひとつ。俺はふたりに続いてその扉をくぐった。と、途端に視界が開け、一瞬、自分が空中に浮遊している錯覚に捕らわれた。
俺は巨大な球形をした空間の、内側面の一部が僅かに張りだした棚にいた。棚自体はガラス質の透明なケースで覆われている。ちょうど球の赤道上に位置する展望台のようだ。足下には半径二〇メートルはある半球、頭の上にはやはり同じ大きさをもつ半球の空間が広がっている。内側面は様々な色でパッチワークのようなツギがあたっている。よく見ると、それはあらゆる素材によって作られた模様であることがわかった。黒っぽい金属の床、緑の芝生、赤い絨毯、ぬかるんだような土壌、鋭利な岩場、細かな砂地、高木の茂る林、さざ波のたつ湖…… まるでひとつの空間にあらゆる地形のジオラマを配置したかのような景観だった。
「びっくりしたでしょう?」
天井の湖をぽかんと眺めていた俺に、希美が言った。
「ここは、外側に向かって穏やかな重力が働いているんだ」
「ず、随分大掛かりなんだな」
「オークションだけじゃなくて、訓練にも使われる場所だからね。キューブって、こういう施設には投資を惜しまないんだ」
「……はぁ……」
「人工重力によって、あらゆるバトルフィールドが再現されているから、参加者は自分の有利なフィールドを選んで戦える。勿論、空中で戦っても構わない」
「空中で戦う?」
俺は思わず疑念の声を上げた。希美は何でもない、というように頷いた。
「考えてごらんよ。ここは外側に向かっての重力が働いている。ということは、計算上、球の中心は重力がゼロになる。中心に近づけば近づくほど、重力が弱まることになるでしょう? 高くジャンプすれば、床から天井まで一気に行けるし、それに……」
「希美さん、解説はその位にしておきましょう。始まりますわ」
梓が球体の下部を示した。金属の床の一部が開いて、下へ続く階段が見えた。俺はガラス壁にへばりつくようにして下を見下ろした。
『これより、西城北斗を賭け、オークション決勝戦を行う』
球体内に良く響く男声が告げた。
『挑戦者、笹垣京葉(ささがき きょうは)』
アナウンスに合わせて階段の下から現われたのは、黒い髪の長身の男だった。俺のいるガラスケースの壁の一部に、男の顔が映し出された。
「ここは賭人の為に用意された特別観戦ルームなのです」
驚いて男の映像を見つめていた俺に、梓が説明した。
「闘いの様子を観察し、その上で、勝者のリーダーに付いていくかどうかを決めて下さい」
俺はガラスに映った男の顔をまじまじと見た。整った顔立ちではあるが、その瞳の奥は凍えるように冷たい。年のころは二〇代前半程度か……
『挑戦者、飛雁・レールスター』
アナウンスの声に、俺は反射的に球体の底を振り返った。先ほど京葉の現われた階段から、今、姿を見せたのは、銀色の長い髪をした、細身の青年だった。京葉の映像の反対側のガラス壁に、青年の顔が投写される。透き通った灰色の眼が、冷静さをたたえて見開かれていた。
「飛雁……」
ガラス壁の映像の飛雁が、仰ぎ見るように顔を上げた。俺は咄嗟に下を見下ろした。間違いない。飛雁、俺を見ている!
階段の入口が閉まると、アナウンスが再び場内に響いた。
『両者、構え』
十メートルほど離れて、飛雁と京葉は向き合った。
と、飛雁の右手には、偃月刀のような刀が握られているではないか!
「ちょ、ちょっと待てよ! 戦うって、殺し合うってこと?」
慌てて俺は希美に叫んだ。
「殺し合いにはならない。ちゃんとその手前で止めるよ。決着はどちらかが武器を手放すか、ギブアップした時点でつく」
「だ、だが…… 京葉は武器なんか、何も持っていないように見えるけど……」
「よく見てご覧なさいな、彼の右手を」
梓はガラスモニターを指した。モニターの京葉の手には、ふとすれば見落としてしまいそうな、細い棒が握られていた。俺の小指ほどの太さしかない、透明な長い棒である。
「あれは晶刃といって、特殊なガラスで作られた武器なんだ。モニターではよくわからないけれど、この棒は両刃剣と同じ構造をしている。刀身そのものだと思ってくれればいいよ。だから、京葉はグローブをはめてるでしょう? これがないと、彼自身も指をそぎ落とされてしまうから……」
『ファイト!』
闘い開始の合図とともに、京葉の身体がひらりと宙に舞い上がった。一G未満の重力のため、地上の場合より高くジャンプすることは可能なはずだ。だが……
「おい、どうしてあの京葉とかいう奴、ずっと空中に浮きっぱなしなんだ? 弱くても重力が働いていれば、そのうち落ちるはずだろ?」
俺はガラスに張り付きながら尋ねた。希美が隣に並んで立って、様子を見守りながら、
「さっき、言いかけたんだけど…… CU:BEには、京葉みたいなのも結構多いんだ。『飛べる』能力を持つ者が」
「飛ぶ?」
「そう」
希美は頷いた。
「CU:BEのエージェントは、皆SAサー(Special Ability)を持っている。どんなSAかは、人によって様々。京葉のは自分の周りの重力を自由にコントロールする力なんだ」
「そんな馬鹿な!」
俺は思わず声を上げていた。確かに現代の科学力をもってすれば、多少の重力コントロールは可能だ。しかし、そんなものは全て機械によって行うものだ。生身の人間がおいそれと自由にできる力ではない。そんなことができるのは、おとぎ話の魔法使いか悪魔か神か……
俺はぞっとした。いくら突拍子のないことが続いているとはいえ、いきなり、そんな人間外モンスターと遭遇したとは思いたくない。科学的に考えて……
「わかった、あの京葉って奴、アンドロイドとか何かなんだろ? 体内に特殊な機械が埋め込まれている、とか?」
「違いますわ」
俺の精一杯の推論をあっさり否定して、梓が首を振った。
「京葉さんは紛れもなく生身の人間です。CU:BEには改造された者なんていませんの。 biological effectiveness、生体効果です。どんな能力者も、全て、完全な生体ですわ」
生身の人間が、重力を操る? そんな馬鹿げたことがあってたまるものか!
「こんなことで驚かないで下さいね。もっと恐ろしいSAを持つ者も、ここには多いですから」
俺はまるで悪い冗談でも聞いているかのような心地で、球体底のふたりを見守っていた。
動いたのは京葉の方だった。まるで背中に羽根でも生えているかのような滑らかな動きで、飛雁に急接近すると大きく片腕を振るった。その攻撃から逃れるように飛雁は飛び退いたが、赤い鮮血が宙に舞うのがはっきりと見えた。
「京葉は強いよ。知性派というより、肉弾戦で勝ち残ってきたようなリーダーだからね。彼が出場するからって、オークションを棄権するリーダーも多いんだ」
希美の説明を聞きながら、俺は立て続けに振るわれる京葉の攻撃と、それを身軽にかわす飛雁の動きとを見つめていた。
獲物を狙う猛禽類のように、京葉は繰り返しアタックを続けている。それに対して飛雁はただかわすことしかできない。
「飛雁の武器は近距離向きの平刃刀『サンダーバード』。リーチでは京葉にかなわないんだ」
希美が解説する。確かに、飛雁の手に握られているのは、刃の幅の広い剣だった。長さ二メートル以上ある京葉の武器に勝ち目はない。しかも、相手は空中から攻撃し、飛雁が反撃する前に再び宙へと逃れてしまう。
「飛雁は飛べないの? その、SAとかいうので……」
「飛雁さんのSAは飛行に関するものではないんです」
梓が冷静な瞳で戦況を眺めながら答えた。
「彼の力はもっと大きい……」
京葉が襲い、飛雁が避ける、そんな硬直状態が続いていた中、不意に飛雁が走り出した。今まで戦っていたフィールドを捨て、やはり金属質だが、より黒っぽい板で覆われたエリアへと移動する。
「そうか、重力操作を逆手に取って……」
「希美、どういうことだ?」
「飛雁が向かった先は、何の変哲もない金属板の床のように見えるけど、実は強力な重力が働いているんだ」
「強力な……?」
「うん。京葉は周囲の重力を打ち消して自分の周りに特殊な無重力空間を生み出している。でも、周囲の重力が強くなればなるほど、それを打ち消すことは…… つまり、飛び続けることは難しくなるんだ」
「飛雁さん、京葉さんの動きを止めるつもりなんだわ」
「でも……」
俺は強重力エリアへ入った飛雁を眼で追いながら、
「京葉と同じように飛雁だって、重力の影響を受けるだろ? 戦いづらくなることに変わりはないはずじゃ……」
「その通り。でも、少なくとも京葉を地上に引きずり下ろすことはできる。それ以後の戦いの条件は五分だから」
そう言って、希美は笑みを浮かべた。
「負けるはず、ないんだ。あの飛雁が」
「そうですね」
答える梓の顔も柔らかい。
飛雁はすでに手傷を負い、どう見ても苦戦を強いられているようにしか見えないが、このふたりの余裕は一体何なのだろう。ここがどんな組織なのか、まだよくわからないが、それでも、同じチームのメンバーが苦しんでいる姿を笑って見ていられるものなのだろうか。それとも、ふたりには、飛雁が必ず勝つという勝因がわかっているのだろうか。
そんなことを考えているうちに、飛雁に追いついた京葉が、重力エリアへと降り立った。どうやら希美の言葉通り、このエリアでは浮遊していることができないらしい。
だが、同時に飛雁の体にも同じだけの重力が加わっているのだ。飛雁の傷から流れる血の量が確実に増えている。早めに決着をつけなくては、飛雁の身体が先にもたなくなるだろう。
「三Gだね」
ぼそりと希美が言った。
「三G?」
「うん、あそこのエリア、三Gの重力がかかってる」
「!」
……単純計算して、通常の三倍の重力になる。
「飛雁……」
「大丈夫ですわ」
梓が俺の肩に手を置いた。
「飛雁さんは負けません」
「どうして言い切れるんだ?」
「見てご覧なさい」
梓に言われるままに、俺は飛雁の動きを注意深く観察した。地上に降りたことと、周囲の重力のためか、京葉の動きが鈍くなっている。相変わらず手にした透明な武器までは見えなかったが、それでも、飛雁が見事に無駄のない動きで刀身を逃れていることが俺にもよくわかる。まるで、相手の行動を先読みしているかのように、適確によけていく。
「『読心術』ですわ」
「ドクシンジュツ?」
「はい。飛雁さんは相手の心を読めるのです。だから、京葉さんの動きも把握できます」
「この重力下では、無駄に動いて体力を消耗することが一番怖いんだ。だから、飛雁はできるだけ相手を疲れさせてから、反撃するつもりなんだよ。SAを封じられたことで、京葉は焦ってる。深く考えずに飛雁の後を追ったようだけど、思ったより重力が大きくて焦ってるみたい。相手が心を乱せば乱すほど、飛雁には読みやすくなる」
希美の言う通り、京葉の動きが次第に乱雑になっていくのが俺にもよくわかった。強重力の働くこのエリアを脱しようとするが、飛雁がよく立ち回ってそれを許さない。思うようにならない京葉の苛立ちと焦りがその乱れた動きから伝わってくる。
飛雁は本当に京葉の心を読んでいるのだろうか。他人の心を察することくらいならできても、何を考えているか、完全に把握することなどできるものだろうか?
だが、飛雁の動きを見ている限り、俺はその力の存在を認めないわけにはいかないような気がしてきた。どういう理屈なのかはわからないが、飛雁には明らかに京葉の動きが見えているのだ。身体の動き、太刀筋、次のアクション、その全てが飛雁には読めるのだ。
不思議だった。初めて姿を眼にする飛雁に、俺は心魅かれていた。遠い昔から知っていたような気持ちにさせる、得も言われぬ魅力が飛雁にはあった。
俺は本当にこいつを知っている……?
京葉の動きが一瞬止まった。その瞬間を、飛雁は逃さなかった。すばやく懐に飛び込みサンダーバードを一閃。数秒あって、京葉はその場に膝をついた。肉眼ではよくわからなかったが、モニターには、京葉の武器がはじき飛ばされる様が、はっきりと映し出されていた。
『武器剥離! 勝者、飛雁・レールスター!』
アナウンスが会場に響き渡った。
飛雁は刀を降ろすと、真直ぐに俺を仰ぎ見た。俺の気のせいだろうか、数十メートル離れていて、ふたりの視線がぴたりと重なった。
「西城北斗!」
飛雁の声だ。どこか懐かしい声だ。
「俺について来い! 後悔はさせない!」
臆面もなく、飛雁は俺を見つめたまま叫んだ。
その声は幾度も耳の底に反響し、俺は自分でも気づかぬうちに、大きく頷いていた。
二 飛雁
オークションの後、俺はひとり、飛雁の休む医務室を訪ねた。薄暗い室内にはカーテンで仕切られたベッドがいくつか並んでいる。俺は医務員に教えられたベッドに近づくと、そっとカーテンの奥を覗いた。先程の京葉との戦いで負った傷の手当てを済ませた飛雁が眠っていた。俺は飛雁の枕元にかがんで、その横顔を見るとはなしに眺めていた。
どうして、俺はあのとき頷いたのだろう。頷けたのだろう。わからなかった。
縛りつけられているとき、スピーカーから聞こえてきた、冷静な声。
決闘場の底から、無言で俺を見上げた瞳。
こうして手の届く距離に彼がいることが、何故か不思議に思えてならない。
俺のために、傷まで負って…… 俺を、チームに引き入れるために…… 俺を、必要として……
見ず知らずの俺を、そこまで買ってくれた飛雁。
整った色白の顔に、長い銀色の前髪が一房かかっている。
俺はそっと、手を伸ばした。
と、前触れなく飛雁は眼を開けると、横目で俺を見た。
「……だ、大丈夫か?」
俺は慌てて手を引っ込めると、言葉の続きを探しながら頭を掻いた。が、焦ってしまって、言うべき言葉が見つからない。
飛雁はただ黙って俺を見つめるだけだ。俺はいよいよ動揺した。飛雁とは今が初対面同然なのだ。どんな風に話してよいのやら、さっぱりわからない。
「その、何ていうか、よくわからないんだけどさ」
俺は素直に言った。
「突然いろんなことが起きて、俺、自分がどうしていいのかとか……」
「…………」
「でもさ、おまえ、言ったよな。『後悔させない』って。あれ、信じていいか?」
「…………」
「なぁ……」
「…………ああ、信じろ」
飛雁は気だるそうな口調でそう言った。それから、ふっと口元を緩めて、
「見ず知らずの俺のことを、いきなり信じろと言っても無理かもしれないが。これだけは約束してやる。俺より先に死なせはしない」
「……何があっても?」
「何があっても!」
俺は生真面目そうな飛雁の顔を、しげしげと見つめた。
「おまえ、よくそういう台詞を臆面もなく言えるな」
「……何かおかしなことでも言っているか、俺は?」
「……いや……」
本当に不思議だった。どうして俺はこんなにも、この男が気になるのだろう。この男の、飛雁の灰色の瞳を、俺はどこかで知っているような気がしてならない。だが、どこで? そこまで考えが及んだとき、俺は頭の中が瞬時に真っ白になった。
俺には、たぐるべき記憶が何もなかったのだ!
俺の名前……サイジョウ、ホクト。俺はこの名を知っている。だが、正確には、俺が知っている唯一の名前であるだけで、自分のモノであったかどうか、それは危ういのだ。
俺は今までどこにいたのだ? わからない。何もわからない……
俺はあの夜、何者から逃れようとしていたのだ? わからない。あの夜より以前を、何も覚えていない。ヤツラとは何者だった? 俺は……
何ひとつわからないというのに、俺は何故が不安を覚えることはなかった。奇妙に落ち着いていた。まるで、こうあることが、当然であるかのように……
俺は飛雁に向き直った。飛雁なら、どこか懐かしい雰囲気のある飛雁なら、俺について何か知っているかもしれない。
「俺、誰なんだ?」
「…………?」
「飛雁、おまえたちは俺をヤツラから助け出してくれたんだよな?」
「ああ。それが上層部からの命令だったからな」
「『ヤツラ』って誰だ?」
俺の質問に飛雁は少なからず驚いたようだった。それも仕方ないだろう、何者かも知らない相手から、俺はあんなに必死になって逃げ続けていたのだ。それどころか、ヤツラに追われる前、どこにいたのか、それさえわからずじまいだ。
飛雁は落ち着いた調子で、
「俺たちが上層部から与えられた任務は、ドーム都市オルダーのあの地区で待ち伏せし、逃げてくるおまえを保護しろ、ってことだけだ。おまえを追っていたという連中についての情報は与えられていない」
「……覚えて……いないんだ……」
「……なに?」
俺は正直に言った。
「俺、覚えていないんだよ。自分がどこにいたのか…… 今まで、どうやって生きてきたのか…… どうしてヤツラが俺を追うのか…… ヤツラが何者なのか…… 自分が何者なのか……」
飛雁は真剣な顔で黙り込んだまま、注意深く聞いている。
「わからない…… 『西城北斗』……この名前がはたして本当に俺の名前なのか、それすらわからない……」
わからなかった。
突然雪のドームに投げ出されて、逃げなければ殺される、という危機感だけでヤツラの手を逃れ、飛雁たちに助けられて、オークションを観戦し、そして今ここで飛雁と向き合っている。
俺の中にあるものはこれが全てだった。自分の名前にさえ、確信が持てなかった。
わからなかった。
「『記憶喪失』ってやつか?」
飛雁が落ち着いた声でいった。不思議と、この声は俺を安心させる、もしかすると、俺はやはり以前にこいつを知っているのかもしれない。
「珍しいことじゃない。だが、大抵の奴は取り乱すものだが、おまえは随分落ち着いているな」
飛雁は胸の傷の痛みを堪えながら、上体を起こした。
「北斗、おまえが何者なのか、俺にもわからない。だが、CU:BEには多くの情報が集まってくる。しばらく、俺のもとにいろ。何かわかるかもしれない」
俺に断る理由はなかった。断ったところで、行くアテなどないのだから。それに、飛雁はどこか懐かしい。俺に関係のあった人物かもしれないし……
「俺が懐かしい?」
飛雁が呟いた一言に、俺は飛び上がった。
「な、何でわかった…… 俺の考えていること……!」
そうだ、読心術……
「飛雁、おまえ、俺の心を読んだな!」
飛雁は悪戯っぽくにやりと笑った。怒るべきシーンだというのに、俺は不覚にも、その笑みに余計親しみを覚えてしまう。
「悪かった。だが、おまえにも否があるんだぞ。俺は相手の身体に触れることで考えを読む。しかし、相手が強く念じたことなら、多少離れていても伝わることがある。おまえが心を乱したから、俺に読まれたんだ。京葉と同じようにな」
返す言葉がない。
「勝手に心を読まれるなんてのは、いい気持ちのするものではない。だから、仕事ではない限り、俺はこの力を使わない。安心しろ」
「そうして欲しい……」
「だが、おまえの心は読みやすい。少し自分の感情をコントロールする方法を学んだ方がいいな」
「どうやら、俺にも、その訓練が必要なようだな」
突然聞きなれない声が、俺の背後から飛び込んできた。驚いて振り返ると、そこには先程飛雁と刃を交えたばかりの京葉の姿が……
「おまえ、どうしてここに!」
俺は思わず立ち上がると、咄嗟に飛雁を庇うように腕を広げた。
「決着はついたはずだろう! 飛雁に何の用だ!」
京葉はスッと眼を細めた。背筋がゾクリとする。だが、俺は動かなかった。手負いの飛雁を渡すものか、という、義務感にも似た感情が、俺を支配していた。
京葉は静かに口を開くと、
「見舞いに来た」
「…………?」
俺は相手の返答に、声が出なかった。と、かすかな声に振り返れば、飛雁が噛み殺したように笑っている。
「北斗、おまえ、何か勘違いしていないか?」
「?」
「別に俺と京葉は、仲が悪い訳じゃないぞ」
「……あ……」
飛雁に言われて、俺はやっと、先程の戦いが私怨によるものではなかったことを思いだす。カッと頬が熱くなって、俺はたまらず下を向いてしまった。頭の上を、飛雁と京葉の明るい笑い声が飛び交う。
「大した新人じゃないか、飛雁」
京葉は俺の髪をグシャグシャ撫でながら、
「飼い主に敵対する奴に牙を剥く。この忠義心は買えるぜ。もっとも、状況判断能力不足の上、偏った先入観に支配されやすいようだが」
馬鹿にされた……
「羨ましいだろ、京葉」
飛雁が冗談っぽく言う。
「俺がいただいたからな。ザマ見ろ」
京葉の笑い声が聞こえた。
「今は譲ってやるさ。そのうち、おまえがくたばったら俺が引き取ってやるよ」
「ああ、その時は頼む。よかったな、北斗。俺が死んでも、行くアテができたぞ」
ふたりのオフザケのネタにされて、俺はふてくされたようにそっぽを向いた。飛雁の奴、厳しくてクールな頑固者かと思ったけど、そうでもないらしい。
と、京葉が不意に真面目な声で、
「廊下で待ってろ、北斗。飛雁と話がある」
俺はちらりと飛雁を見た。
「大丈夫だ、北斗。こいつ、中身は見かけほど悪人じゃない」
おい、それって安心していいのか?
「おとなしく待っているんだぞ、坊や。あとで居住区まで案内してやる。用もあるし」
京葉は俺を押し出すと、ひらひら手を振ってカーテンを閉めてしまった。
ここで反抗してもろくなことにならないだろう。俺はおとなしく人気の無い廊下に出て京葉を待つことにした。廊下の壁にもたれて、俺はぼんやりとこれからのことを考えた。
勢いとはいえ、俺はCU:BEの一員としてやっていくことになったのだ。失われた記憶を取り戻す為に……
おお、俺って、なかなかドラマティックではないか! 今まで、ただ状況の変化に流されるままだったが、ようやく、俺にも色々考える余裕が生まれたらしい。何も覚えていないというのは確かに不安定な心持ちのするものだが、それはそれ、嫌な想い出を抱えているより余程いい。それに、見るからに俺はまだ若い。というより、肉体的には十六、七だ。まだまだ、これからではないか!
CU:BEがどんな場所か、まだはっきりとはわからないが、飛雁のチームは居心地がよさそうだ。飛雁自身は懐かしい匂いがする。希美はどこか不思議な雰囲気を持っているが、親しみやすい感じだし、梓は……
「何をにやにやしている?」
顔を上げると、京葉が呆れたように俺を見下ろしていた。
「いや、別に……」
俺は目の前にちらついていた梓の笑顔を振り払った。
「飛雁と、何の話?」
俺は京葉の迫力に負けないように大声を出した。オークション会場でモニター越しに見た時よりも、実際に間近で見る方が、京葉の得も言われぬ迫力に圧倒される。冴えた黒い瞳の光は、理知的な冴えというよりは、研ぎ澄まされた鋭い刃物に似ている。どうもこの相手は苦手だ。
「別に。リーダー同士の仕事の話だ」
「ふぅん……」
「今日からすぐ、飛雁のチームで暮らすことになるんだろ? 場所、わからないだろ? 送ってやる」
京葉はさっさと先に立って歩き出した。
「俺に用ってのは、道案内か?」
「いや…… おまえのSAについて興味があるだけだ」
俺は並んで歩きながら、京葉の横顔を見上げた。オークションに参加したということは、この男も俺の能力とやらを欲しがっていたという事になる。
俺は頭の後ろで腕を組んだ。
「悪いけど、俺に聞いても何もわからないと思うよ。俺自身、自分にどんなSAとやらがあるのか、さっぱり見当もつかないんだから」
「そういう奴は結構多いから気にするな。自分じゃわからなくても、おまえの精密検査の結果から弾きだされた数値は信じられないほど高い。まぁ、能力はまだ未知だが、それがどんな力だとしても、一流として通用するレベルの潜在能力を持っていることは間違いない」
京葉はとうとうと説明した。
「CU:BEは決して安全な場所ではない。任務で命を落とす奴も少なくない。だが、決しておまえを縛りつける組織ではない。脱退したくなったら、いつでも飛雁に相談するがいいさ」
「覚えておくよ」
俺は京葉に案内されるままに廊下を進み、いくつかの階段とエレベーターを越えて、ガラス張りの連絡通路に出た。下を見ると、荒れた砂地の地面が見えた。夕焼けの赤色が惜しげもなく空全体を覆っていた。
「ここ、ドームじゃないのか?」
景色を眺めながら俺は尋ねた。
「ドーム都市オルダーの郊外四〇キロ、といった地点だ。都市内にこんなばかでかい施設があったら、目立って仕方がない。CU:BEはあくまでも裏世界の〈便利屋〉だからな」
二十三世紀、世界は多くのドーム都市によって成り立っている。地表の六割は砂漠や荒野と化し、人間が快適に生活できる空間ではなくなった。そのため、巨大なドームを建造し、その中で人々は生活を営み続けていた。俺がいた(はずの)オルダーも、二〇〇年前の日本、札幌の街をモデルに作られたドーム都市だ。
「そういえば、おまえ」
ぼんやり足を止めて景色に見入っていた俺の肩を、不意に京葉が押した。
再び歩き出しながら、
「飛雁に聞いたぜ。何も覚えていないんだってな?」
「……ああ。自分の名も……確証がない。自分の親さえわからないよ」
「それなら、俺たちと同じだな」
「どういうこと?」
京葉の言葉に驚いて俺は尋ねた。京葉はまっすぐ前を……遠くを見つめるような眼で、
「CU:BEでリーダーを任されている者は皆、親を知らない」
「飛雁も……京葉も?」
「ああ。生まれてすぐ、SA値が高い乳児を世界中から集めて育て上げ、CU:BEに忠誠心を持つよう教育する。それがここのやり方だ。そうやって組織の中で育てられた者の中で、能力を認められたごく少数がチームを持つことを許される。リーダーになれるのは十人にひとり」
「……じゃ、リーダーになれなかった人たちは?」
「SAが使いこなせれば一般のメンバーとして残る。才能がないと判断されれば……消される」
京葉はフッと寂しげに笑った。
「もともと戸籍など持っていないからな、俺たちは。余計な人材を養っていられるほど、CU:BEはお人よしじゃない。才能の有無は五、六歳児の段階ではっきりするものだから、逃げ出そうにも、どうにもならないんだ」
俺はしばらく黙った。飛雁や京葉…… その他、現在リーダーをつとめている者たちの生い立ちは、決して生易しいものではないらしい。
「京葉、聞いてもいいか?」
「うん?」
「梓や希美も、ここで育ったのか?」
「いや」
京葉はかぶりを振った。
俺たちの歩く通路はいつしか絨毯張りの暖かな雰囲気に変わって、照明も暖色系の柔らかいランプになっていた。会話しながら歩く人影にも出会うようになった。どうやら、居住スペースに入ったらしい。
「梓は三年前に一般からCU:BEに来た。彼女の時も、俺は飛雁にオークションで負かされたからな。よく覚えている」
「一般から?」
「能力があれば雇用する。梓のSAが認められたのさ」
「梓のSAって?」
俺は興味津々で訊いてみた。京葉はあっさりと、
「『未来予知』って奴だ」
……頭がクラクラする。どうしてそう、突拍子もないことをポンポン言えるんだ、ここの連中は……
「未来に起きる出来事がわかる、ってこと? そんなこと、本当にできるなら、恐いものなしじゃん」
「未来といっても、自分に関係のある事柄の、数日先程度までが限界だ」
「それだって、信じられない能力なんですけど……」
「未来予知、とは言うが、正確には、人間の一般的能力を越えた計算処理速度と、状況分析力の成せる技なんだ」
「……はぁ」
「より高度な予測だと思えばいい。曇り空を見れば、雨が降るかもしれない、という予測が出来るだろう。それの発展形、それが『未来予知』と呼ばれる。世間一般でいうところの、まったく自分と無関係なビジョンが見える、というような予言の類いとは別物だ」
確かに、そう言われると、そんなこともできそうな気がするが…… 随分と理屈っぽい超能力もあったものだ、と俺は感心してしまった。
「飛雁の『読心術』も、俺の『操重力』も、ちゃんと科学的に根拠がある。説明のつかない怪しげな技を扱う人間を雇うような危険な真似を、CU:BEはしないからな」
「希美は?」
たたみかけるように俺は言った。
「希美も民間からここへ来たのか?」
「……まぁな」
今まで強気だった京葉の表情が初めて曇った。何か話しづらい事情でもあるんだろうか?
「希美の昔話は本人に聞くことだな。俺から言えるのは、あいつのSAは、このCU:BEで最強最悪だ、ということくらいだ」
「CU:BEで最強で最悪?」
あのとぼけた顔をした坊やが? 一体どんなとんでもない力なんだろう?
「最強のSAって何なんだ?」
俺は期待を込めて京葉の答えを待った。彼は少し声を低めて、
「『催眠術』だ」
「…………へ?」
俺は少々的が外れたような気がした。催眠術?
「催眠術、って、あの、『眠たくなーれ』とか言いながら、五円玉で……」
「北斗」
京葉はじろりと俺を見下ろすと、
「その程度なら誰も恐れやしない。あいつは催眠術で人も殺せる」
「…………? 五円玉で?」
「もともと催眠術は本人の意志に関係なく、相手を操る術だ。それは眠りや告白を誘うものだけではない。たとえば、暗殺ターゲットに『自殺』を促すことも可能なんだ」
「げ……」
俺は思わず言葉に詰まった。相手を自在に操る? 確かに……無敵かもしれない!
「本来、人間には、催眠術に抵抗する力がある。『死』を促すような命令だと、対象は本能的に術の力に抵抗しようとするんだ。だから、よほど術者の能力値が高くないと、成功しない。希美にはそれができる」
……それはそれは。
「だからこそ、皆あいつを恐れている。だが、北斗、おまえはあいつより精神面で強いようだな」
俺はきょとんとしたまま京葉を見返した。
「何で?」
「ここへ連れられてきた直後、希美の『眠れ』という術に抵抗したそうじゃないか。『眠り』を誘うのは術者にとってもっとも簡単な操作なんだ。逆を言えば、この誘いを断る心の働きは、もっとも難しいと言える。だが、おまえは抵抗を示した……」
不意に京葉は立ち止まると、目の前の扉を示した。
「おしゃべりはここまでにしよう」
俺は木製の青い扉の横に添え付けられているプレートナンバーを確認した。
「一〇四……」
「ここがおまえのチームルームだ」
京葉は扉を押し開けた。中を覗いた俺はその内装に数秒戸惑った。
入ってすぐの部屋はオレンジ系の絨毯や白いソファ、木製テーブルが置かれ、落ち着いた内装だ。だが、落ち着かないのは部屋の形そのものである。六角形をしていて、全ての壁に同様のドアがあった。今俺が立っている入り口のドアも、その六角形の一辺にあるのだ。まるで、蜂の巣みたいだ。
京葉が横から言った。
「正面がバスルーム、左手奥が飛雁の個室。隣の左手手前が……」
京葉が説明しようとしたドアが開いて、赤いワンピース姿の梓が顔を出した。
「あら、京葉さん。オークションお疲れさまでした。お怪我はありませんでした?」
「! これは、これは……」
途端に京葉の声が輝く。俺を置いてさっさと梓に近づいていく。
「貴女に御心配いただけるとは光栄です」
素早く梓の手を取り、俺が止める間もなく口づける。
「ちょ、ちょっと……」
展開について行けずに慌てていた俺の袖を引く者がいる。振り返ると、にっこり笑顔の希美がいた。
「北斗さんを連れてきて下さったんですね。お手数をおかけしてしまって……」
「いいえ、当然のことをしたまでで……」
京葉は今までの鋭さはどこへやら、すっかりデレデレの顔で笑っている。
わかった。
俺に興味がある、なんてのは口実だ。京葉の狙いは最初ハナッから、梓のポイントを稼ぐことだったのか!
「北斗、北斗」
子供のように希美が俺の腕を引っ張っていく。
「な、何? 俺、今それどころじゃ……」
京葉と梓が気になってならない俺の胸中を知ってか知らずか、希美は無邪気に、
「北斗の部屋、僕の隣ね! わからないことは何でも聞いてよね!」
希美の笑顔に梓の笑顔、加えて京葉のにやけた顔を俺は複雑な気持ちで見回し、溜息をついた。
これから、俺は本当にどうなってしまうんだろう……
三 オブジェマインド
創始は今から四三年前というCU:BEは、ドーム都市の枠組みを越えて、広範囲で活動を続けている組織である。特殊技能SAを持った者たちによって組まれたチームを基本単位とし、要人の護衛から機密情報の調査、暗殺に関わる仕事を請負うことも少なくない。表向きは一般企業と見分けがつかないようカモフラージュされているが、裏世界では知らぬ者のいない、いわば影の便利機構らしい。combatのCはconvenienceのCだ、と希美が皮肉っぽく言っていたっけ。
ドーム都市郊外に建てられた大規模な施設内には、関係者全員が生活できる居住スペースの他、SAの技能訓練室、その他、図書館や体育館、プール、食堂、ショッピングモールなど、日常生活に必要な施設が完備されている。さながら、一つの都市のようだ。しかし、ここで生活する大半が、SAを持った人間兵器であるということか、考えてみればそら恐ろしい。俺自身がその一員であるという事実もまた、信じがたいのだが。
自分が何者であるのか、それすら分からないまま、俺はCU:BEの一員としてここで暮らすこととなった。
チームナンバー一〇四、飛雁・レールスターをリーダーとするこのチームの生活寮は、他のチームと同様、六角形を基本とした不思議な作りをしている。
入口から入ると、六角形のミーティングルーム(普段はチームメイトの共有空間として自由に使われているらしい)がある。出入り口が六角形の一辺に作られ、その正面の辺にはバスルームへ通じるドアがある。残りの四辺全てにも同様の青塗りのドアがあり、それらはそれぞれ各自の私室へ通じている。空調・暖房設備の整った室内は居心地もよく、文句ない環境だった。
食事は思い思いの時間に、施設内に数箇所設けられている食堂へ出かけて済ませることができる。テイクアウトで部屋食も可。追加料金なしで出前も可。
CU:BEビルから外出するには許可が必要だが、特に厳しく制限されているわけではない。
通常の給料に該当する報酬金歩合制で、働き如何で代わってくる。現金支給が原則で、自由に使うことが許されている。休日にはのんびりとドーム都市まで出かけることも自由だった。
俺が割り当てられたのは、入口から右奥の個室、希美の隣室だった。この部屋で寝起きするようになって一週間、毎日のように身体の精密検査やSA特性検査、CU:BEについての基礎的事項の講習などに追われ、自分の身に起きた大きな変化を冷静に考える暇もなかった。今日は確か、俺のSA配属先が決まるはずだ……
俺はビル内のショッピングモールで希美が見立ててくれた私服に着替えると、最後に通信機・発信機を兼ねた襟章をつけた。命令実行中(CU:BEでは『お仕事中』と呼ぶらしい。物騒な仕事もあったもんだ)は勿論、勤務時間中は、訓練、待機を問わず、着用が義務づけられている。オフの時でも、携帯しておいた方が、何かとチーム内で連絡がとれて便利だったりする。
ミーティングルームから、飛雁の呼ぶ声がした。上層部からの通達は、どんな些細なことでも、全て飛雁を通して伝えられる。上層部の置かれたビル最上階に出入りできるのは、CU:BEの中でも幹部とリーダーだけだ。
「おはよう、北斗」
「おはよ……」
俺はあくびをひとつして、
「何だかもう、身体がガタガタだよ。連日検査だとかで、あっちこっち引っ張り回されてさ。一瞬で検査を終わらせるSA持ってる人、いないの?」
「いたら便利だな。だが、安心しろ。検査も終了だ」
ミーティングルームの長椅子に座ったまま、飛雁は一枚の書類を差し出した。
「おまえの配属先が決まったぞ」
俺は細かな数字とアルファベットの並んだ書類を一瞥し、解読を諦めた溜め息をつく。CU:BEの書類は難解で、俺の手には負えない。
「これ、何て書いてあるんだ?」
俺は飛雁の隣に座って書類の説明を受けた。
紙面には、本日から俺が通うことになる特殊技能研究室の部屋番号と、細かな注意事項が並んでいるらしい。
「おまえの配属先は、コード六〇八、オブジェマインドだな」
オブジェマインド? 聞いたことのないSAだ。飛雁の読心術、梓の未来予知、京葉の操重力。そして、誰もが恐れる希美の催眠術(どうやら、俺には希美のSAに対抗するだけの精神力があるらしい)、その他、座学で学んだ多くのSAの中にも出てこなかった名前。
「なぁ、飛雁、オブジェマインドって何だ?」
飛雁は紙面を黙読しながら、
「非常に稀なSAのひとつだ。物に宿る記憶を読むことができる」
俺はぽかんとしたまま飛雁の顔を眺めた。
「信じられない、という顔だな、北斗」
「物に記憶があるって時点で、かなり……」
飛雁は僅かに思案してから、卓上の果物篭からリンゴをひとつ取り、
「持ってみろ」
言われるままに、俺はリンゴを受け取った。
「これがどうかしたのか?」
「手のひらに意識を集中しろ」
一体何事だろうとあやしみながら、俺はとりあえず言われるままにしてみた。手のひらから伝わるリンゴの感触に集中してゆく。と、突然、ぼんやりとした光景が目の前に浮かんできた。眼は開いていて、部屋の景色も見えているのに、それに重なるようにして、もう一つの風景が……
「どうだ、北斗。何が見える?」
「えっと……緑だ。木の緑……錯覚かな?」
「錯覚じゃない」
飛雁が俺の手からリンゴを取り上げた。同時に、緑の林の風景が視界から消えた。
「これがオブジェマインド。おまえは今、このリンゴの記憶を見た」
「リンゴの記憶?」
俺は疑いを込めて尋ねた。飛雁が苦笑する。どうやらまた、俺の強い疑いの念が飛雁に伝わってしまったらしい。
「そうだ。正確には、生体エネルギーを発しない物質……今の場合は、このリンゴの中でも既に死んだ細胞ということになるが……そこから記憶を引きだして見ることができる。それがオブジェマインドの力だ」
いきなりそんなことを言われても、俺はどうしていいかわからないが…… まぁ、ここは取りあえず頷いておこう。
「飛雁が他人の心を読むのと同じ?」
「俺の力は『生物』にしか作用しない。それも、現時点の思考を読むだけで、記憶まで掘り下げて知ることはできないんだ。オブジェマインドは反対に、『静物』の持つ記憶を読む。生きているものから記憶を引きだすことはできない。今おまえが見たのはおそらく、このリンゴが成長した果樹園の風景だろうな」
「生きてもいないものに記憶があるのか?」
飛雁は一口、リンゴを噛った。
「ある。正確には『光吸収』の作用による」
「わかるように説明してくれ」
「いいか。物は『光』があって初めて知覚することができる。物が見えるというのは、それ自体が光源であるか、またはその物に当たった光が反射するからだ。生きていない物に心はない。だが、生物と等しく光に接している。例えば、リンゴには心も眼もないが、リンゴが育った場所は確かに存在するわけだ。そしてそこが暗闇ではない限り、リンゴの組織はその『光』を記憶している。物理的な化学反応によってな」
「それは、無機物でも同じなのか? たとえば、金属製のテーブルやベッドとかでも……」
「ああ、同じだ」
俺はしばらく黙って、果物篭の中のリンゴやオレンジたちと、自分の手のひらとを見比べた。
「いきなりこんなことを言っても、信じられないかもしれないが……」
「いや…… 大丈夫だ」
俺は飛雁を見上げて頷いた。
「ここに来てから、信じられないことばかり現実になってる。これしきのことじゃ驚かない……ようにする」
「大分、耐性がついてきたか」
飛雁はにやりと笑った。
「いいことだ。その調子で、力を自在に使えるようになれ。いつか、おまえの無くした記憶とやらを掴む、役に立つかもしれん」
記憶、か……
リンゴにさえ記憶がある。なのに俺にはない。妙な気分だ。
「へぇ、オブジェマインドなんだぁ」
能天気な声で笑いながら、希美が部屋から出てきた。
「そのSA、今のCU:BEにはいないよね。貴重な人材手に入れたね、飛雁」
「まぁな」
飛雁はどこか、満足そうに見えた。
希美が俺の隣に腰を下ろす。
「北斗って、ホント、何者なんだろうね。そんな珍しい力持ってるし、僕のSAに逆らうし…… 遠い星から来た、王子様だったりして!」
「希美…… おまえ、楽しんでいるだろ、俺の記憶がないというこの状況を……」
こめかみを引きつらせながらも、俺は笑顔を絶やさなかった。ここ一週間の間に、俺はある程度、希美の性格を理解していた。とにかく、『お子様』なのだ。まともに怒ってもラチがあかない。こんな奴が、本当にCU:BE最強なのか?
「希美、悪いが、北斗を訓練ルームまで案内してやってくれ」
飛雁はリンゴの芯をゴミ箱に放り投げると、さっさと書類をまとめて立ち上がった。
「俺はこれから上層部うえの連中と会議があるんでな」
「はいよ、リーダー」
希美が笑って敬礼する。部屋を出ていこうとしていた飛雁が、不意に立ち止まり、振り返った。
「そうだ、北斗、大事なことを言い忘れていたが……」
飛雁はいつになく生真面目な口調で、
「研究室で死体を出されても、決して触れるな」
「し、死体っ! それはちょっと触りたくないけど…… でも、どうして?」
「入手経路も知れない身体に、ロクな記憶はない。もし、研究材料としてそれらしきものが出されたら、断固として断れよ。研究員が引かない場合は、俺の名前を出しておけ」
「死体って、そんなに危険なのか?」
希美に連れられて研究室に向かいながら、俺は尋ねた。
「危険も危険。絶対やめておいた方がいいね!」
何がそんなに楽しいのか、希美は終始笑顔である。
「北斗は知らないだろうけど、今までにも何人か、オブジェマインドの能力者が現れたことがあるんだ。でも、皆、ヤラレちゃった」
言いながら、自分の額をつつく。
「危ないんだよ。「死」ぬ瞬間の記憶ってやつはね。強い精神力と、オブジェマインドの操作性がないと、大抵は再起不能だね」
「……この力って、諸刃の剣なんだ……「観」えていいことばかりじゃないってことか」
よりによって、俺はどうしてそんな厄介な能力なんかを……
「でもね……」
ふと、希美の声色が変わった。
「実際CU:BEでは、死体を「観」れないと、仕事上、使い物にならないんだよねぇ」
背筋に冷たいものが流れる。後ろを歩いている俺には、この時の希美の表情はわからなかったが、見えないことがかえって幸せなような気がした。初めて希美の声を聞いた時に感じた、二面性が蘇る。どうしようもないほど明るい希美と、そこからは想像もできないほど、黒く鋭い希美。京葉をしてCU:BE最強最悪と言わしめる希美の力、それはもしかすると、本当に恐ろしい代物なのかもしれない……
「あれ、ビビッちゃった?」
くるりと振り向いた希美の顔は、いつも通りの笑顔。
「顔色悪いよ、北斗」
「……い、いや、ちょっと緊張しているだけだ」
「まさかぁ。北斗の検査結果を見せてもらったけど、緊張の「き」の字も知らないような神経してたよ。よっぽど安全でのほほんとした所で育ったんだね。警戒心、ゼロ!」
「……おまえ、俺を馬鹿にしてないか?」
「ぜーんぜん!」
おまえの方が、よっぽどのほほんものじゃないか……
俺は出かけた言葉を飲み込んだ。相手が飛雁だったら、間違いなく伝わってしまっただろう。
「とにかく、危なくなったら、無理しないで、飛雁に止められてる、って言うんだよ。そうすれば、研究員も無茶はできないからね」
「飛雁って、そんなにエライのか?」
「リーダーはチームメンバーに対して絶対の所有権を持ってるからね。リーダーの反対を押し切って、メンバーを傷つけたりすることはできないんだ。そんなことしたら、自分の命があぶないもん」
物騒だ。
そんなやりとりをしているうちに、どうやら研究室が集まる区域にたどり着いたらしい。白衣姿の、頭の堅そうな連中をよく見かけるようになった。そのうちの何人かの白衣には、鮮やかな赤い血糊が……
一体、ここはどういう研究をしているんだ!
「着いたよ、北斗」
「……へ?」
希美がにやにやしながら俺を見上げている。
「さ、行ってらっしゃい」
希美が開けたドアには、六〇八のプレート。
いよいよ、か……
ここが俺の墓場かもしれない、そんなことを考えながら、俺は金属製の重たいドアを抜けた。その先で俺を待っていたのは、俺の私室よりも狭い、こじんまりとした部屋。家具は四角いスチール机とビニール張りのパイプイス。四方の壁に窓はなく、天井には蛍光灯が二本だけ。何か得体の知れない機械などが並んでいる室内を想像していた俺は、拍子抜けしてしまった。
部屋では、ふたりの男とひとりの女が俺を待っていた。三人とも、左胸にCU:BEのマークの入った、同様の白衣を着込んでいる。幸い、血糊はついていない。
「西城北斗くん、ようこそ」
女研究員が笑顔で俺を迎えた。二〇代後半位の、物腰和らかな女性だ。それに反してふたりの男は、研究員というより、何かの格闘技の選手のように逞しい体つきをしている。
「そこに座ってください」
俺は言われるままに、女研究員の指示に従った。彼女は机を挟んで俺の向かいの席につき、ふたりの男は俺の両側に立った。彼らの一挙一動は全て示し合わせたものなのだろう。動きに隙がない。
女研究員は机の下からアタッシュケースを取り出すと、中身をひとつずつ、机上に置いた。
細く黒い万年筆。これは年代物のようだ。
錆びた鍵。これではもう、使い物になりそうもない。
ガラスで出来た手のひらサイズの白鳥。ペーパーウェイトだろうか。尾の部分が少し欠けている。
一通り並べると、彼女は順に手に取るように言った。今朝、飛雁がリンゴを例にやらせたのと同じことをしろ、というのだろう。この三つの品々に、どんな記憶があるのか……
俺はひとつ深呼吸をして、黒塗りの万年筆を握った。冷たい金属の感触……
「断片的でもかまいません。見えるものを教えてください」
俺は何度も手のひらの中で万年筆を握り直しながら、心を落ち着かせようと努力した。剛力そうな男が両脇で睨みを利かせているこの状況で、平生でいろ、というのは少々酷ではあったが……
やがて、視界に何かがちらつき始めた。
「……多分、白い紙……」
女はノートパソコンを開くと、黙って俺の発言をメモし始めたらしい。俺は女に重なって見えるもうひとつの風景に集中した。
「紙には横線…… 字は……何か書いてあるけど、英語……読めない。インクは……茶色……」
俺に見えたのはそこまでだった。それ以上意識を集中しても、他には何も見えない。
「では、次をお願いします」
俺は錆びた鍵を手に取った。ざらざらとした質感。じっと鍵を見つめ続ける。今度のヴィジョンはやけに暗い。この鍵は、暗い場所に長く置かれていたらしい。
「……これは、土? 散らばった土の上…… 茶色い世界。ほとんど暗い。時々茶色くて…… ああ、人。若い女の人だ。ブロンドの……白い手……」
「はい、そこまで」
女はそこで俺を遮った。俺はおとなしく次のオブジェを手にした。ガラスの白鳥……
だが、これは今までとまるで違っていた。光線を透過させやすいガラスの特徴によるのだろうか、なかなか映像が見えてこない。俺は眼を見開くようにして、物言わぬ白鳥に問い掛けた。
おまえは何処にいた? おまえは何を知っている?
ぼんやりと、色がゆらめいた。
「七色……」
俺は呟くように言った。声を出すことに気を取られると、映像が掻き消えてしまいそうだ。それほどに、頼りない。
「人の影…… それから…… 暗くなって…… 暗くなって…… それから…… !」
俺は思わずガラス細工を取り落とした。机の上に転がった白鳥から眼を背ける。
「何が見えましたか?」
女はゆっくりと尋ねた。
何が見えた? 何だ、あれは……
「赤」
蚊の鳴くような声で、俺は答えた。
「暗くなって、それから…… 赤い色が見えました」
先ほど廊下ですれ違った白衣たちの血糊が蘇る。
鼓動が早い。
頭が熱い。
神経が焼き切れそうだ!
「よくできました」
女は立ち上がるとにっこりと笑った。
「すみませんが、それ、片づけてください」
俺は机上の物から視線をそらしながら言った。見たくない。
「わかりました」
女は三つのオブジェをアタッシュケースの中にしまった。
「これらは皆、ある人物の持ち物なのです」
彼女は一言一言、俺の反応を確かめるように区切りながら、
「この万年筆は、その人物が遠方に住む恋人にあてた手紙を書く時に使っていた物です。また、この鍵は彼女の家の庭先の植木鉢に隠されていたスペアキーです」
ああ、それで暗くて、時々茶色で……
「俺の見た、あの女の人は?」
「ブロンドの、でしたね? 彼女が全てのオブジェの持ち主です。名前は……エリー・マクドネル。二七歳」
女はそこで一呼吸おいてから、
「彼女は恋人を殺しました。あなたが見た、ガラスの白鳥で頭部を殴ったのです」
…………血。やっぱり、そういうことか……
「それにしても、初めてでここまで見えるとは驚きだわ。お疲れさま。今日はもう、ここまでにしましょう」
女は満足そうに微笑むと、右手を差し出した。俺は素直に彼女の手を握り返した。
……おかしい。
手にひらに何か違和感。俺が振り払うより早く、女は何かを俺に握らせ、指を閉じてしまった。開こうとした俺の手を、男のひとりが押さえつけた。
「な、何をする! 放せ!」
もがいても、腕力の勝る男たちを振りほどけるはずがない。女は数歩離れて煙草に火をつけながら、俺を見た。
「さぁ、あなたの本当の力を見せてもらいましょうか」
「!」
「ここで役に立つかどうか、ね」
飛雁の忠告。
希美の言葉。
手の中のモノ。
まずい、これは……
俺の意志とは無関係に、訳のわからない雑多な映像が脳に流れ込んできた。
「経過は?」
…………声がする。
「順調です。大丈夫、心配はありませんわ」
………… 梓、か? 尋ねたのは、飛雁?
「まったく、研究員のやつらも、好き勝手やってくれる」
「仕方がありません。彼らはそれがお仕事ですもの」
俺はゆっくりと眼を開いた。見慣れた天井…… ああ、俺の部屋だ。ベッドの上だ。生きてる…… おかしい、俺は……死んだはずで…… いや、死んだのは俺じゃなくて……
「しっかりしろ! 他人の記憶に当てられるな!」
飛雁が真剣な顔で覗き込む。俺は声が出せないほど、身体から力が抜けていた。
「おい、俺がわかるか?」
「……ああ」
溜息のように、俺は喉を鳴らした。それ以外に反応の手段がなかった。
「酷い目にあいましたね」
梓がそっと俺の前髪を撫で付けた。顔が火照る。これで梓とふたりっきりなら、夢のような一時だろうに……
飛雁が俺の心情を読み取ったかのように咳払いし、頭を振った。
「そんなことを考えていられるようなら、心配ないな。梓、訓練に戻ってくれていいぞ」
やっぱり読まれてた……
ハイ、と梓は良い子のお返事をして、俺に微笑みかけるとおとなしく部屋を出ていった。
俺は横目で飛雁を睨んだ。
「おまえは気絶していて覚えてはいないだろうが、研究室からここへ担ぎ込まれて二時間ばかり、梓とふたりきりだったんだぞ。それで十分だろ?」
覚えていなけりゃ意味がない。
「確かにその通りだ」
飛雁は俺の枕元に腰掛けた。声が出せないこの状況でも、俺の心を読んでいる飛雁とは意志疎通ができる。なかなか、便利なものかもしれない。
「おまえが最後に握らされたのは、被害者の指だ。あの研究員ども、よっぽどおまえの能力値を高く買ってるらしい。さすがに、初回から死体を掴まされたのは、おまえが初めてだ。もっとも、あの指を「観」て、正気でいられた奴も初めてだが」
俺が何も言わなくても、強く心に思うことで、飛雁には言葉が伝わる。俺の知りたいことを話してくれる。
「どうせ、おまえが断る間もなく、罠にはめられたんだろう? ……やはりな。だが、おまえもこれからは不用意に素手で物に触るな」
飛雁は言いながら黒いグローブを取り出した。
「これは手で何かを感じ取る術者のために開発された物だ。こいつを着用していれば、余程強烈な記憶ででもない限り、見えることはない。力を完全にコントロールできるようになるまで、外さないことだ」
どれくらいかかる?
「まぁ、早くて三年ってとこか」
さ、三年…… 気の長い話だな……
飛雁は俺の胸の上にグローブを置いた。
「他に何か訊きたいことは?」
アズサ ト オマエ ノ カンケイ ハ?
飛雁はわずかに面食らったような顔をした。それから、ふっと口元を緩めて、
「さぁな」
俺の不機嫌さを読んで、飛雁は笑った。
「まぁ、いいじゃないか。細かいことを気にするな」
細かくない!
心で怒鳴っても、飛雁はただ笑うばかりだ。
「今回のことで、おまえの精神力の強さはCU:BE中に知れ渡ることになろうよ。そのうち、運も向いてくるさ」
そんなもんか?
俺は情けない気持ちで眼を閉じた。
四 セメタリー
研究室で『指』を握らされたとき、俺の中に何が流れ込んできたのか、正確には覚えていない。だが、圧倒的な恐怖と、その向こう側にあるたとえようもない開放感だけが、今でもこの身体に残っている。あまりにも漠然としていて、それでいて、決して俺と無関係ではない、そんな強烈な感覚だ。俺にも、いつか間違いなく「死」が訪れることを、本能が知っている。この身体が知っている。
漫然と寝返りを打って、俺は朝の惰眠をむさぼっていた。研究室へはもう、行かない。飛雁が上層部と話をつけてくれた。これからは独学で訓練を積まなくてはならない。俺にとってはその方が好ましい。朝から晩までタイムテーブルに縛りつけられて過ごすより、気の向くままに過ごせる方がいい。
今朝も、早くから飛雁は上層部へ呼び出されていた。梓は確か、夜勤明けで寝ているはずだ。希美は…… あれ、今日の希美の予定って、何だっけ……
「北斗、おはよう!」
突然耳元で、元気一杯希美ボイスが響いた。
「お、おはよう……」
寝ぼけ声で返事をして、俺は布団を被った。三日前倒れて以来、身体の気だるさはまだ全快してはいない。
「北斗、北斗にお客さんだよ」
俺は布団から眼だけ出して希美を見た。
「客? 俺に? 誰? 死体?」
「随分と悠長だな。もう十時になるぞ」
と、俺の部屋のドア付近に立っていたのは……
「京葉っ!」
俺は露骨に顔をしかめた。梓を挟んでこいつとはライバル関係にある(と俺は勝手に思っている)。
「しばらくだな。元気そうで何よりだ」
皮肉のつもりか? 俺が発狂してれば満足だったのか、こいつ……
「どうも、おかげさまで俺はまだ正気でいる」
京葉はずかずか入ってくると、ちらりと希美を見て、
「おまえ、席を外してくれ」
低く、厳しい声だ。希美は肩をすくめると、小さく頷いて部屋を出ていった。
「おい、今の言い方はないだろ」
希美の姿が消えてから、俺は京葉に抗議した。
「いくら希美のSAを恐れてるからって……」
「恐れているというより……」
京葉はベッドと衣装掛け以外に家具のない、殺風景な俺の部屋を見回しながら、
「嫌っている」
おい…… 余計悪いだろ。
「希美はイイコだよ」
俺はベッドの上に上体を起こすと、大きく伸びをした。
「おまえより、よっぽど素直で可愛げがある」
「おまえになんて、可愛がられなくて結構だ、北斗」
こいつ、むかつく!
「……朝っぱらから、おまえと痴話喧嘩しに来たわけじゃない」
ち、痴話喧嘩って……
「北斗、確認するが、おまえの名前かどうか、それは別にして、『西城北斗』という名前に聞き覚えがあることに間違いないな?」
「……ああ」
俺は頷いた。
「どういうわけか、知っている名前だ」
京葉は腕を組んで俺を見下ろし、
「俺のチームに、その名前に心当たりがいる奴がいてな」
「! 本当か!」
思わず身を乗り出す。
「ああ。そいつの話だと、今から二十年近く前、『西城北斗』と名乗る男から、CU:BEに依頼があったらしい。CU:BEは依頼主の情報など、全て機密事項として、受理後、処分してしまうから、詳しい依頼内容まではわからないが……」
二十年前に、俺の知っている名前と同じ男が、CU:BEに仕事を頼んでいた?
「俺の部下の話だと、その仕事に関わったのはチームナンバー三七だそうだ。だが、当時のメンバーは全て殉職していて、詳しいことはわからない……」
俺はじっと手を見つめた。この力が…… オブジェマインドの力が役に立つかもしれない……
「なぁ、京葉」
俺はできる限り誠意を込めて、
「何か、手がかりは残っていないか? そのチーム三七について…… 遺留品とか…… 使っていた部屋とか……」
京葉が申し訳なさげに首を振った。
「残念だが、殉職した者は遺骨以外残さないのがCU:BEの決まりなんだ。部屋も、十三年前に建物自体を改装したとき、潰されてしまっている」
「…………」
せっかく、何か手がかりが得られると思ったのに……
「そう、落ち込むな」
うなだれた俺を哀れに思ってか、京葉が優しい声を出した。
「その『西城北斗』が、おまえと関係のあった人物だ、という証拠はないんだ」
「関係のない人物だという、証拠もない」
「…………」
京葉は少し迷ったようだったか、沈黙の後、重たい口を開いた。
「飛雁に知られたら、また怒られそうだが……」
「何?」
「このCU:BEの地下には、セメタリーがあるんだ。CU:BEの連中の墓場が。おまえなら、そこで何かを見つけられるかもしれない……」
墓場?
「確かに骨に有力な記憶はないだろう。体内にあったものだから、外の世界の光は吸収していない。だが、古来から、墓場で人は不思議と秘密をしゃべりたがるものだ。死者に何かを語りかけた人物がいるかもしれない」
「京葉、そこには、どうやって行けばいい?」
可能性はゼロではない。行ってみて、損にはならないだろう。死体だの墓場だの、そんなものにばかり縁があるのはありがたくないが……
CU:BE地下六階。最下層は、数十本の太い柱で支えられただけの、殺伐とした空間になっていた。コンクリートのむき出しになった床、ちかちかと、時折点滅する、青白い蛍光灯。人気のない、ひんやりとした空気。そして、俺の背丈程度の金属製の棚が数十個。棚にはびっしりと小さな引きだしが着いている。引きだしには一つ一つに金属プレートが打たれ、そこには名前が掘り込まれていた。
「これが、墓?」
まるで、整理棚のようなこれが?
吐き気がするな。
CU:BEでリーダーを勤める者たちには戸籍がない、と、以前京葉が言っていた。表の社会に知られることなく、一生をここで過ごし、死んで尚、こんな冷たい部屋の小さな引きだしの中で眠るのが……
飛雁のチーム、ナンバー一〇四は、飛雁の代で初めて設立されたチームナンバーだと聞いている。まだ、墓参りをするべき相手はいない。だが、CU:BE創立当初からあるチーム一は、すでに八代目のリーダーが仕切っているらしい。飛雁や俺たちが死んでも、誰かがまた、一〇四のチームナンバーを引き継いでいくのだろう。
CU:BEにとって、俺たちは使い捨ての駒なんだろうか。
俺はゆっくりと棚の間を巡った。チームナンバー三七の棚は……
セメタリーの奥で、俺はようやく目的の棚を見つけた。そこには八名の名前が刻まれている。名前の下には享年と没年が記されている。どれも、今から十年以上前のものだ。
右手のグローブをはずし、俺は一枚ずつプレートに触れた。
誰かが、この墓の前に立って入れば、それを記憶しているはずだ……
それが、何かの手がかりになれば……
影が揺れた。
今、何かが見えたような気が……
……金色の髪…… 男…… 青い目……すごく悲しそうな…… 背が高い。どこの国の人だろう…… ……どこかで、見覚えのある顔……
俺は何度が眼をしばたいた。どれほど集中しても、それ以上は見えてこない。チーム三八のプレートのうち七枚が、この男の姿を記憶していた。何度も、ここを訪れたに違いない。
だが、最後の一枚には、その姿がなかった。そのプレートに掘られた名前は……
「天坂弘和……享年二十六歳…… 今から十二年前か……」
プレートは、死んでから刻まれるものだろう。ということは、男の姿を記憶していないこのプレート自体が、まさにその男の墓標だと考えられる。少なくとも、このプレートがここに安置されて以来、男はここを訪れてはいないのだ。
天坂弘和(あまさか ひろかず)…… 日本人のような名前だが、外見はどう見ても白人系だ。梓のようにクォーターとか……ハーフかも…… 単に帰化しただけかもしれない……
「北斗」
いきなり呼ばれて俺は飛び上がった。
振り返れば、いかめしい表情の飛雁。
「京葉の奴、ろくなことを教えないな」
飛雁は溜息をつくと、俺と並んで墓標を眺めた。
「おまえのようなSAの持ち主が、CU:BEの墓場などに出入りしない方がいい。ここには悲しみと憎しみしかない」
「……ああ」
俺は、今見たことをぼんやりと考えていた。放心状態の俺に気を使ったのだろうか、飛雁は力づけるように俺の肩に手を置いた。
「天坂弘和、か」
俺はハッとして、飛雁の手を振り払った。
「おまえって奴は…… 仕事以外じゃ見ないんじゃなかったのか?」
「これも仕事のうちだろう。部下の精神状態を把握しておかねばならない」
飛雁の行動に悪意がないことはわかるが…… しかし、具合が悪い。梓も希美も、よくこんなリーダーと一緒で肩が凝らないものだ……
「おまえは特別読みやすいだけだ」
………
「おまえも、ここに眠るのか?」
俺は冷たい空気が支配するセメタリーを、眼を細めて見回した。足を運ぶ者も途絶えたような、文字通り死しかない、こんな穴の中に……
飛雁はついてこい、と言うように俺に目配せして歩き出した。俺たちの靴音だけが反響する、うら寂しい地下の穴蔵。ここはCU:BEそのものの墓穴のようだ。部屋の奥、彼はひとつの棚の前で立ち止まった。
チーム一〇四の棚だ、ネームプレートのない引きだしが並んでいるが……
「!」
一番端に、一枚だけ、プレートがある。そこに彫られた名前は……
「飛雁・レールスター…… どういうことだ?」
俺は飛雁を振り返った。プレートは没年の蘭だけが抜けている。
「本来、死んでから彫るんだろ。第一、死んだ順に並べるはずじゃ……」
「俺は特別。上に申請して用意した」
「……飛雁……」
「構わないんだ。俺が一番先に死ぬ。そう決めているからな」
飛雁は自分のプレートを指でなぞった。
飛雁は俺に言った。
自分より先に死なせはしない、と。でも、そんなのは……
「悲しすぎる」
「北斗」
飛雁は俺を振り返らず、背を向けたまま、
「おまえに言い忘れたことがある」
「?」
「もし俺が、おまえのために傷ついたり、命を落とすことがあっても、おまえは悲しむな。苦しむな。そうでなければ、俺は命を賭しておまえを護ることができないから」
俺は飛雁の申し出に、言葉を失った。
いきなり、何を言うんだ、こいつ……
「おまえの心まで護れなければ、意味がない」
「飛雁!」
自分でも驚くべきことだが、俺はたまらずに飛雁の胸ぐらにつかみ掛かっていた。
「北……斗?」
「馬鹿を言うな!」
俺は叫んだ。
「おまえが傷ついたら、心配するに決まってるだろ! おまえが死んだら、泣きわめくに決まってるだろ! 二度とそんな馬鹿げたこと言うなっ!」
俺は息をきらせながら一息に怒鳴ると、飛雁を睨みつけた。
なぜ、こんなことをしているのか、わからない。だが、ひとつだけはっきりしている。飛雁を死なせない。俺のために、絶対に死なせない!
「……わかった」
飛雁は眼を閉じると、そっと俺の手をほどいた、その唇にうっすらと笑みが浮かんでいたような気がしたのは、思い過ごしだろうか。
「俺は、このCU:BEで育った。だから、この世界しか知らない。おまえたちは俺に新しい風を吹き込んでくれる。おかげで、腐らなくてすむ」
「飛雁……」
「北斗、チーム三七のこの一件、俺に預けてくれないか?」
「え?」
「俺なら、上層部のメインコンピュータにアクセスできる。しばらく時間をくれ。調べてみよう」
「飛雁」
俺は歓喜の声を上げた。つられたように、飛雁も微笑む。
「そうと決まれば、昼飯にしよう。午後には仕事の打ち合わせだぞ」
「仕事?」
「ああ。おまえにとって、初仕事だな」
俺は数秒墓標を見つめ、脳裏に焼き付けてから、飛雁を追って出口へと歩き始めた。
第二章 ファースト・ミッション 〇四三
一 ファースト・ミッション
俺は大変なことに気がついた。
俺自身の記憶を知るのに、もっとも手っ取り早い方法があったのだ!
「俺の服はどこだ?」
ミーティングルームで飛雁が仕事の説明を始める前に、俺は希美を捕まえて、勢いよく問い詰めた。
「服?」
希美はぽかんと俺の顔を見上げた。お茶の用意をしていた梓が不思議そうに振り返る。
「北斗さん、服って何ですの?」
「俺がおまえたちに保護されたときに着ていた服だよ。それをオブジェマインドで探れば、何かわかるかもしれないだろ!」
興奮気味に俺はまくしたてた。どうしてこんな簡単なことに、今まで気がつかなかったんだろう!
「なぁ、どこにあるんだ、俺の服?」
「あ、ああ、それは……」
希美が助けを求めるように、梓を見た。梓も肩をすくめただけで、答えようとはしない。どういうことだ?
「あのね、北斗。非常に言いにくいことなんだけど……」
希美は小声で、
「着てなかったんだ」
「は?」
「最初から、服、着てなかったんだよ、北斗」
…………
そんな馬鹿な……
「私たちも驚いたんです。まさか、あの雪の夜に、服も着ずに逃げてくるなんて……」
梓が気まずそうにうつむく。
「じゃ、何か? 俺は雪の中を裸で……」
「そう、すっぽんぽんで!」
希美がにこっと笑って、
「僕たち、一瞬、助けるのやめようかと思ったよ」
じゃあ、俺が裸で鎖につながれていたのは、何も服を脱がされた訳じゃなく、最初から着ていなかっただけ……
……待てよ。そういえば、俺の裸、梓に…………!
「何の話だ?」
飛雁が書類の束を手に、私室から出てきた。俺は慌てて両手を振った。
「何でもない! 何でもないんだ!」
「北斗、最初から服着てなかったよね?」
の、希美〜! 話を蒸し返すな!
「ああ。随分いい度胸していると感心したぞ」
飛雁は平生な顔でソファに落ち着くと、梓の差し出したお茶を美味そうに飲む。
「第一、北斗。もしおまえが衣服を身に付けていたら、俺が真っ先にそれをおまえに見せているはずだろう」
それも……そうか。
「一度に多くのことがあって混乱していたのはわかるが、今ごろ思い至るとはな……」
飛雁は呆れたように息をついた。
確かに、我ながら鈍かったとは思うけど……
でも、逆に考えれば、これは凄いヒントになるだろう。冬の夜、服も着ずに逃げなければならなかった事情が、俺にはあったのだ。
「シャワーでも入っている所を襲われたとか?」
希美が楽しそうな顔で推理を始める。
「確かに、髪が濡れていたような記憶がありますわ」
梓、意外に冷静に見てた訳ね……
「今はどうでもいい」
飛雁が横から遮った。
「飛雁、どうでもいいってことはないだろ……」
「おまえの記憶云々は、時間のかかる問題なんだ。とにかく今は仕事の方が優先だ」
梓と希美が飛雁の向かい側のソファに座った。俺は少し迷ってから、飛雁の隣に腰を下ろした。
今まで聞かされてきた話によると、どうやらCU:BEに持ち込まれる仕事は、そのほとんどが、機密情報を盗み出したり、暗殺がからんだり、と、危険なものである。飛雁たちはいいとしても、俺はオブジェマインドすらまともに使えない、新人なのだ。どう考えても、相手と直接対決などできる訳がない。
「今回の任務は、ミッションナンバー〇四三、運送物の護衛だ」
飛雁が書類を片手に説明を始めた。
「明後日早朝、ドーム都市オルダーのある施設から、トランスレール(運送専用の線路)によって運び出される一台のカーゴの護衛にあたる。目的地はドーム都市ルーシスの科学研究所。所要時間は三八時間後だ」
護衛、か。それなら、敵とドンパチやるようなこともないだろう。少しは楽かな。俺は心ひそかに安堵した。
「北斗、油断するな」
……あ、読まれた。
「運送列車の護衛なら表の警備会社に任せてもいいものだ。それをわざわざ高い金を支払ってCU:BEに依頼してきた。まず間違いなく、厄介なやつらに狙われているという証拠だぞ」
「どうしてわざわざ、トランスレールなんて使って運ぶんだ? 空輸した方が早いし安全だろ?」
「コストの問題じゃないかしら」
梓が言った。
「空輸するにしても、やはり護衛機が必要になりますわ。今の時代、燃料費が馬鹿にならないですから、結果的に、陸運でCU:BEに仕事を頼んだ方が、安く済むんだと思います」
「その通りだ」
飛雁は満足げに頷いた。
「中身は何なの?」
希美が身を乗り出す。
「列車強盗してまで、欲しがるようなもの?」
三人の視線を受けて、飛雁は少し言いづらそうに、
「とにかく、貴重なものだそうだ。大変に、な」
運送カーゴの中身は、今俺の前で口々にわめき散らしていた。
「何で……」
俺はこめかみを引きつらせながら、
「何でオウムなんだ!」
カーゴの中身は、三〇羽ほどのオウムの一群だったのだ。カーゴ内に張られた数本の止まり木の上で、緑色の小動物は好き勝手に喋り続けている。
「僕に怒られても……」
希美はオウムの一羽を腕に乗せて上機嫌な顔。
「僕的には、とても楽しい仕事だと思うんだけどな」
「何が、楽しい、だ! どうしてオウム運ぶのに、CU:BEが狩り出されなきゃいけないんだよ!」
「ウルセー 兄チャンダゼ」
希美の腕の一羽が、こともあろうに俺に文句をつけてきた。
「おまえ、鳥のくせに喧嘩売ろうってのか!」
「まぁまぁ、北斗さん」
梓がむかつくオウムの首を撫でながら、
「姿はオウムでも、知能は私たちと変わらないんですから」
「コノ兄チャンヨリ、オレノ方ガ利口ダゾ」
「な、なんだと!」
俺はオウムを睨みつけた。
信じられない話だが…… 信じたくない話だが……
どうやら、飛雁が説明してくれたことは本当らしい。
今回、俺たちが護衛することになった、このオウム連中は、DNA操作によって驚くべき知能を身に付けているのだ。そのため、ある組織が遺伝子配列の情報を得るべく、狙っているらしい。
希美の腕のオウムは、まるで見下すように首を傾げて俺を見た。
「オマエ、名前ハアルノカ?」
「……人に訊く前に自分が名乗れ!」
「レイモンド教授」
…………き、教授?
「この子は、このオウムたちの中で、一番博学で一番賢いんだって」
にこにこ顔で希美はオウムに頬擦りした。
飛雁が依頼主との交渉を追え、カーゴの前で待っていた俺たち三人のもとに戻ってくる。
「梓、おまえは機関車両へ。危険予知を頼む。希美と北斗はカーゴの中だ」
げ…… 鳥の羽と糞にまみれろ、と……
「で、飛雁は何処なんだよ」
「俺は、上だ」
「上?」
俺は飛雁が指さす方を見上げた。
「上って、カーゴの屋根にでも登っているつもりか?」
「そうだ」
…………
「出発だ。配置につけ」
梓が先頭の機関車に駆けていく。飛雁はカーゴの梯を伝って天井に立った。
「おまえ、本当にそんな所にいるつもりか? 時速一〇〇キロ越えるんだぞ!」
「だから、俺が登るんだ。それとも北斗、おまえが代わるか?」
「遠慮します」
冗談じゃない。常識で考えて、吹き飛ばされるに決まってる。
「落ちるなよ、飛雁」
「北斗、おまえこそ、油断するな」
飛雁は天井の突起に鎖で身体を固定しながら言った。
「油断スルナヨ、ホクト!」
希美の腕から俺の頭に飛び乗って、レイモンド教授は高笑いする。
知能は人並みかもしれないが、やっぱりムカツクッ!
かくして、俺と希美を乗せ、カーゴの扉は閉められた。
汽車は行く行く線路は続く。はるかに遠いルーシス目指し。
カーゴの中ではレイモンド教授を筆頭とするオウム軍団対俺という対立関係が生まれていた。どうしてこんなに鳥共に敵視されなきゃならんのか……
結局、逃げ出したのは……
「てめぇら、覚えてろ!」
俺の方だった……
カーゴの後ろの出口から、外部デッキに非難する。希美にはなついてるのに、どうして……
「北斗?」
ふてくされながら夕暮れの景色を眺めていた俺の上から飛雁の声がする。振り返ると、カーゴの屋根から身を乗り出して、飛雁がこちらを見下ろしていた。ひとつに束ねた銀色の髪が風になびいている。
「どうした? 走行中はカーゴの扉を開けないこと。ちゃんと始めに言っておいたじゃないか。……さては、追い出されたな」
「風に当たりたかっただけ!」
「おまえ、相変わらず読みやすいな」
もういいよ…… どうせオウムにまで馬鹿にされるような奴だよ、俺は。
「そう、すねるな」
飛雁、笑っています。
「どうせだから、おまえ、後ろを見張っていてくれ」
「了解、リーダー」
俺はやる気のない口調で言った。
すでに列車は行程の半ば近くにきている。
周囲は赤い砂地が広がり、遮るものなど何もなかった。列車は単調な音を立てながら、まっすぐに引かれたレールの上を走っていく。
二十一世紀、この地球にはまだ緑が多く残されていた。だが、度重なる核実験や、石油石炭の大量消費による大気汚染、原子力発電で生じた廃棄物の不完全な処理、森林伐採や水質汚濁、食料難にともなう動物の乱獲、漁獲量の増大、人間の便宜が最優先された結果が、この赤い土だ。季節もない、ただ乾燥した風と日中三〇度を越え夜間には零下にまで下がる気温の世界。
遠くで、三本の巨大な風車が回っていた。たった三本の風車。あれだけで、オルダーのようなドーム都市一個分の電力を賄うことができる。風力発電は環境を汚染することがない。どうしてこんな手段を、人間はもっと早くから取らなかったのだろう。
俺は背後のカーゴの中のオウムたちを思った。
人間に近い類人猿に言語を教えるという研究は、二十世紀からすで行われていた。だが、それは後天的な刺激によって学習させようという手段にすぎなかった。だが、遺伝子工学が急速な発達を見せた二十一世紀に半ばには、先天的特質によって、高知能の動物を生み出すという研究が中心になってきた。先天的、つまり、遺伝子のレベルから書き換えようというのだ。だが、研究成果はかんばしくなかった。DNAは四つの塩基の組み合わせからなる二重螺旋構造によって成り立っている。塩基配列を読み取ることは比較的容易に行われたが、問題は、それらの塩基が最終的にどのような形で表現するか、それがわからなかったことである。この難題の解明には、ひたすらに地道な交配実験が繰り返される必要があった。長い年月を経て、二十三世紀半ば現在、あのオウムたちのような高い知能を持った動物を生み出す……いや、作り出すことの成功したのである。
……というような難しい話を、出発前に飛雁がしてくれた。
「なぁ、飛雁?」
俺は襟の小型通信機に向かって問いかけた。風の音に対抗して大声を張り上げなくても、通信機を通せば普通に会話ができる。
「あのオウムたちの希少価値はわかるんだが、結局、彼らは何の為に作られたんだ?」
人語を解するオウム。どんな使い道があるんだろう。
『これから考えるんだ』
飛雁の答えはあっけなかった。俺は反応に戸惑った。
「これから考える?」
『そうだ。研究者にとって、彼らのような生き物を作り出すことそのものが、目的だ。それ以上のことは、生物学者の管轄外だ』
「あいつら、これからどうなるんだろうな?」
『さあな。目的地ルーシスは、この大陸でも名の知れた軍事都市だ。まず間違いなく、軍用目的で買われたんだろうが……』
「……買われた……」
俺は、一瞬、背筋が凍りついた。
「飛雁、あのオウムたち、買われたのか?」
『ああ。オルダーの生物科学研究所で生産された彼らを、ルーシスの軍事企業が買い入れたんだ。説明したじゃないか』
俺は我が肩を抱いた。
「でも…… あいつら、俺たちと同じ知能を持ってるんだぞ。それを売買するなんて……」
『確かに、気分は悪い。だが、北斗。知能の高低に関わらず、人間は命を金で売り買いする生き物だ』
「でも……」
飛雁の言う意味はわかる。知能が人間に劣るからといって、その命の売買が正当化される、という簡単な問題ではない。現在も世界のどこかでは、奴隷制度によって人身売買が横行していると聞いたことがある。
「何だか、面白くない」
俺は心底、そう思った。その売買の片棒を担ぐ…… 嫌な気分だ。
『仕方がない。それが人間の性だ』
飛雁の声も、心なしか沈んで聞こえた。
俺は東の空の一番星を眺めた。いつしかあたりは紺色の光に満たされ、遠くに墨のような雲が流れていた。
もうじき、全てが闇の中だ。
『北斗』
飛雁が呼んだ。
『気をつけろ。夜になるこれからが、正念場だ』
俺はデッキの手すりにもたれていた身体をしゃんと伸ばし、夕闇の景色に眼を凝らした。
二 混線
周囲に明かりのない荒野の夜は、本当に闇一色だ。列車の正面につけられている進行方向の線路を照らすライトだけが、この漆黒の中で唯一の明かりだ。だが、逆にこの光が、敵にこちらの居場所を知らせてしまう。
『梓、聞こえるか』
通信機を通して、飛雁が梓に話しかけるのが聞こえた。彼女は先頭の機関車両にいるはずだ。
『視覚がまったく利かない。予知で何かあったらすぐに知らせてくれ』
『了解しました』
「希美?」
俺は通信機に向かって話しかけた。俺とは違い、鳥たちから信望を得ていた希美はどうしているだろう。
「おい、希美?」
返事がない……
『希美、どうした?』
飛雁が呼んでも、返答はなかった。まさかあいつ、寝ているんじゃあるまいな?
『北斗、希美の様子を見てきてくれ。ゆっくりだ。鳥たちを驚かせるな!』
俺はぴたりと身体を扉の横の壁に当てると、ゆっくりと取手を横に引いた。少しずつ扉を開け、中を覗き込もうと首を伸ばして……
「うわっ!」
突然、何か黒い塊が、俺目がけて飛び出してきた。俺の胸元で一秒もがいて、それは羽音も高く空へと飛び立っていく。
「い、今の、オウム?」
俺は慌てて中へ駆け込むと後ろ手に扉を締めた。これ以上、逃がすわけにはいかない。
「梓、列車を止めてくれ! 一羽逃げたんだ!」
すぐに高い急ブレーキ音がして、貨車は大きく揺れた。俺は手探りでカーゴの中の電灯スイッチを見つけ、明かりをつけた。
「希美!」
カーゴの隅に、ぐったりとした希美が倒れている。
列車が止まるよりも早く、飛雁が駆けつける。
「北斗、カーゴの鍵を確認しろ! 梓、戦闘準備!」
飛雁の指示が飛ぶ。俺は荷物積み下ろし用の扉を確認した。内部からしか開けることのできない鍵が、しっかりと下ろされている。問題ない。俺と飛雁が入ってきた後部の扉の鍵は開いているが、扉の前にはずっと俺がいた。いくら闇の中とはいえ、誰も近づけるはずがない。カーゴ内部に、特に亀裂や穴などはない。念のために後部の扉に鍵をかけて振り返った俺を目がけて、オウムたちの総攻撃が行われた。
「マブシイ、マブシイ!」
「アンミンボウガイ!」
「バカホクト!」
「デンリョクムダショウヒ」
「ショウトウセヨ、ショウトウセヨ!」
オウムたちの嘴アタックや鉤爪クラッシュから、俺は必死で眼をかばった。こいつら、マジです!
「北斗、遊んでないでこっちを手伝え」
遊んでない! わかってよ、飛雁、この俺の悲惨な状況……
俺はどうにか飛雁の傍まで辿り着くと、希美の顔を覗いた。
「希美っ……」
飛雁に揺すぶられて、希美は小さな声で呻き、わずかに眼を開いた。
「よかった……無事か?」
「北斗の方が無事?」
傷だらけ羽だらけの俺を見て、希美は真顔で尋ねてきた。くそっ!
「とりあえず、怪我はないようだな」
飛雁は希美の身体を調べて、溜息をついた。
「一体何があったんだ?」
「……それが……」
希美は下を向いて、
「よく、わからないんだ。夕方が過ぎて、オウムさんたちが眠たいから明かりを消せって言うから消灯して…… 暗くても、僕、ちゃんと起きてたんだよ。そしたら、急に人の気配がして、振り返る間もなく頭殴られて…… 気絶」
「誰かが進入した、ってことか?」
飛雁はカーゴ内を見回した。オウムと止まり木、そして俺たち三人の他、特に荷物はない。
「貨物用の扉も内側から鍵がかかっていたし、後ろの扉の前には、ずっと俺がいた…… 屋根には飛雁がいたし……」
『こちらでも、あやしい人影は発見できませんでした』
梓の声が通信機から流れた。
『今、貨車の周囲を調べてみましたが、特に異常は見られません』
「ご苦労、梓。機関室に戻ってくれ」
飛雁は俺に向き直ると、
「オウムが一羽、逃げ出したんだって?」
俺は頷いた。
「すまないが、みな、止まり木に並んでくれないか?」
「リョウカイ、リョウカイ、リーダーサン」
飛雁に言われて、オウムたちは素直に従った。俺の頭に攻撃を加え続けていた一羽も、おとなしく隊列に加わる。こいつら……
「ひぃふぅみぃよぅいつむぅななやぁここのつとお。ひぃふぅみぃよぅ……」
飛雁が古典的な数詞を使いながら(こいつ、一体どういう育ち方をしてるんだ?)羽数を確認する。
「どう、飛雁?」
俺は首を傾げて尋ねた。
「数、足りてるか?」
「ああ、ぴったり三十二羽。問題ない」
「でも、俺がここに入ってきたとき、何かが飛び出して来たんだぞ。あれ、多分間違いなくオウムだと思うんだけど……」
「……ごめんなさい」
希美が蚊の鳴くような声で謝る。飛雁が唸った。
「北斗は一羽逃げたという。だが、実際にここにいるオウムの数は、発注書の数に間違いない……」
「なぁ、おまえたち……」
俺はオウムたちに向いた。が、やつらは口を開けて威嚇してくる。
「オマエタチ?」
「クチノキキカタニキヲツケロ!」
…………
「皆さん」
俺は口元が引きつるのがわかった。
「大変申し訳ありませんが、皆さんの中で、何か目撃した方はいらっしゃいませんでしょうかねぇ」
「ヤリャデキルジャネェカ」
「サイショカラソウイウシセイデタノメヨナ」
…………
「それで、どうなんでしょう?」
作り笑いのまま、俺は拳を握りしめた。沈黙の後、
「オレタチャトリメダ」
ぶち……
「クラカッタカラミエルワケネェジャン」
「ソレクライカンガエロヨナ」
「バカホクト、バカホクト!」
「てめぇら、いい加減にしろよっ!」
思わず殴りかかろうとした俺を、飛雁が押さえた。
「北斗、護衛する俺たちが傷つけてどうするんだ?」
「飛雁、おまえ、俺の見方か! それともこいつらの見方か!」
「…………それは…………」
「悩むなっ!」
汽車は行く行く線路は続く。ルーシス目前軍事都市。
被害らしい被害もなかったため、貨車は予定通りルーシスのドームへ続く大門をくぐった。
だが、腑に落ちない。
どうしても、腑に落ちない。
研究施設に到着すると、オウムたちは相手企業が用意していた特製の透明なケースに移された。防音効果もあるのだろう。一晩中聞かされていた、あのやかましいおしゃべりがまったく聞こえない。
最初から、こういうケースに入れて運べば良かったんだ。
受け取り手の研究員長と手続きを済ませている飛雁たちから離れて、俺はケースの前に立った。
「確かにあれは、鳥だったよな」
希美を気絶させた相手も、あの鳥だったんだろうか。そいつがどこからか進入し、希美を気絶させ、逃げ出すときに俺とぶつかった?
だが、カーゴには、鳥一羽進入できる抜け穴はなかったはずだ……
「北斗、帰るよ。急がないと、オルダー行きの列車に乗り遅れちゃう」
ぼんやりとしていた俺を、希美が呼びにきた。
「あ、ああ」
立ち去りかけて、俺はあることに気づき、再びオウムケースを覗いた。
「なぁ、希美?」
「うん?」
「あいつは? ほら、レモン……先生」
「……レイモンド教授のこと?」
「そう、それ!」
希美はケースの中を見回して、奥の一羽を指さした。
「あれじゃない? ほら、一番賢そうな顔してるよ」
どれも同じ顔に見えるぞ、俺には……
「北斗!」
向こうで飛雁も呼んでいる。俺は仕方なく、その場を後にした。
でも、何かがひっかかる。
オルダーに向かう列車の中で、俺はずっと黙り込んでいた。どう考えても、腑に落ちないことばかりだ。
「北斗さん?」
隣の梓が心配そうに声をかけてくれた。
「御気分が優れないようですが」
「いや、大丈夫」
俺は首を振った。少し離れた席で、飛雁がノートパソコンを開いて何やら打ち込んでいる。今回の仕事の報告書だろうか。その向こうで、希美は子供のように眠っていた。
「お休みになられた方がよろしいですね」
梓は膝の上の毛布を、俺にかけながら、
「私も、少し眠りますわ……」
…………
まるで、俺の肩に寄り添うような位置に、梓の顔があった。
白い瞼…… 紅色の唇…… 軽い金色の髪…… 細い肩……
俺は毛布を半分、梓にかけた。体温が伝わってくる。
俺はちらりと、飛雁に視線を走らせた。動揺したように、飛雁は俺から顔を反らして、パソコンの画面に戻った。どうやら、こちらの状態が気になっているらしい。
これは抜け駆けかな……
俺はそれとなく、梓の方に首を倒すと目を閉じた。
甘い一時は瞬く間に過ぎた。汽車は無情にもオルダーの第一ステーションに定刻通り到着した。既に夜も更け、今夜はオルダー市内のホテルに宿泊する予定になっていた。二十二時以降、ドーム都市は翌朝五時まで、全ての門を閉じてしまう。これは防犯上の理由によるらしい。もっとも、CU:BEメンバーの特殊能力をもってすれば、この警備厳重な深夜のドーム都市に出入りすることも、難しくはない。現に俺も、真夜中にここから助け出されたのだ。
ホテルはステーションのすぐ近くにあった。予約されていた部屋は、十九階のシングルとダブルがひとつずつ。数が合わない……
「それじゃ、お休みなさい」
梓が手を振ってシングル部屋に入っていく。俺と希美、飛雁の三人はダブル部屋で明かすことになった。
俺、梓と一緒がよかったのに……
簡易式ベッドを組み立てていた飛雁が、
「仮にも、梓は『女』だからな。CU:BEもそういう所には厳しいんだ。少々狭いが、今夜はこの部屋で三人で泊まる」
…………本気で俺、心を読まれないように訓練しなきゃ……
「いいじゃん。たまには男三人で仲良くやろうよね!」
希美は荷物を置くとシャワールームへ向かう。
「そうだ、飛雁。僕は北斗と一緒に寝るから、飛雁、ひとりでベッド使っていいよ」
「何勝手に決めてんだよっ!」
まったく、希美のやつ……
薄暗い照明の部屋で、俺はベッドの上に仰向けに寝転んだ。
頭の中に、レイモンド教授のことが蘇る。もしかして、俺にぶつかったあの鳥、教授だったんじゃ……
「北斗」
不意に飛雁が呼んだ。
「まだ、気にしているのか、そのレイモンドとかいうオウムのこと?」
「ああ」
俺は寝返りを打って飛雁の方へ身体を向けた。
「気になるんだ。胸騒ぎ、っていうか…… 第一、あの騒ぎの真相はわからずじまいだったんだろ?」
希美が誰かに殴られて、鳥が一羽ゲージから飛び出して…… でも、実際には予定通りの羽数が確認されている。
…………
待てよ。
「飛雁、本当に契約の羽数は、三十二羽だったのか?」
「契約書の数値はしっかり覚えている。いつも暗記するのが仕事なんでな」
「おまえの記憶力を疑うわけじゃないけど…… その契約書ってのは、今どこにあるんだ?」
飛雁は簡易ベッドの上に座ったまま、上着を脱いだ。シャツの上からでも、逞しい胸筋がわかる。二の腕の筋肉だって、俺の倍はあるんじゃないだろうか……
「契約書は、俺の頭の中だ。記憶した時点で焼却処分となる。証拠を一切残さないのが、CU:BEの方針なんだ」
「ってことは、確認とれないじゃないか」
「間違ってはいないさ。受取人だって、三十二羽で納得していたぞ」
それはそうだけど…… ひっかかってる。俺の中で、やっぱり何かが…… 俺はふと、自分の手を見た。飛雁から渡されたSA制御用のグローブ…… こいつを外せば……
「飛雁、たしかおまえ、契約書をファイルに挟んで持っていたよな? ほら、あの緑色のクリアファイル。今、持ってるか?」
「ああ、ファイルならあるが、中は空だぞ」
飛雁が半透明のファイルを投げてよこす。俺はグローブを外すと、ゆっくりと「観」始めた。
「光を透過させやすいものは、オブジェマインドでも辛いと思うが?」
「心配ない。ガラスも「観」たことがある」
俺はできるだけ丁寧に調べた。
「飛雁、今回の仕事のナンバーは何だっけ?」
「ミッションナンバー、〇四三だ」
俺の視界に、〇四三の文字が印字された書面の影が見える。ややこしい英文字の記載された書類のため、詳しい内容まではわからない。
「飛雁、羽数は数字か? それとも英単語か?」
「算用数字」
数字を追っていく。まず、ミッションナンバー。それから、今日の日付と、時刻…… おそらく、集合時刻などだろう。この数字は所要時間か……
細かな文字を一行ずつ追っていた俺は、眼に飛び込んできた数字に手を止めた。
「飛雁、ここに、三三って書いてあるぞ……」
「何?」
飛雁が俺の脇にたって、ファイルを覗いた。だが、残念ながら彼には文字が見えない。
「俺に触れ、飛雁。心を読め」
飛雁の手が、肩を掴んだ。俺は目の前に見える書面を強く心に描いた。
「どうだ? これは羽数じゃないのか?」
「……とんでもないことになった」
飛雁はしばらく黙り込んでから、かすれた声で呟いた。
「どうする?」
俺はファイルを置くと、飛雁を振り返った。
「とりあえず、先方に確認しなくては……」
「でも、ルーシスの奴らも、三二羽で納得してたんだろ? おかしいじゃないか。あいつらも勘違いしてたっていうのか?」
「勘違い?」
飛雁は窓に近づくと、勢いよくカーテンを開けた。外は音もなく、雪が降っている。大粒の湿った雪が、まっすぐに地上目指して落ちていく。
「勘違いじゃない。これは……」
「どうしたの? ふたりとも怖い顔して」
バスタオルを身体に巻いた希美が、心配顔でこちらを見ていた。飛雁は首を振った。
「何でもないんだ。北斗、シャワー、先に借りるぞ」
言って、飛雁は何事もなかったかのように希美と入れ替わりにバスルームへ。
「北斗、どうかしたの?」
「……え?」
希美が背を向けて冷蔵庫の飲み物をあさっている間に、俺は慌ててファイルをベッドの掛け布団の下に隠した。
「何でもない」
俺は平生を装って笑った。飛雁が希美に数の一件を告げなかったのだ。俺の口から言う必要はないだろう。
「あ、そう」
希美は特に疑問を持たなかったのか、冷蔵庫から見つけ出したスポーツ飲料を片手に、俺の隣のベッドに腰掛けた。
「ちゃんとひとりで寝るんだぞ」
「つれないなぁ」
希美が甘えた声を出す。それから、フッと窓の外を見上げて、
「外は凍えそうな雪だっていうのに……」
「……関係ないだろ」
まったく、こいつは何を考えているんだか……
だが、気になる。
飛雁やルーシスの奴らが、揃って数を間違えた、なんてことがあるだろうか? それに、飛雁はどうして希美にそのことを言わなかったんだ?
俺は幼さのタップリ残る希美の横顔を盗み見た。
希美のSA…… 催眠術……
…………
まさか、な……
三 潜入
真夜中、俺は妙な気配を感じて目を覚ました。ぼんやりと室内に明かりが灯っている。枕元のデジタル時計は深夜一時を少し過ぎている。
「梓?」
梓がいた。白い絹のネグリジェ姿で、鏡台の前の丸椅子に座っている。飛雁は今までに見たこともない厳しい顔で窓の前に立ち、俺の隣のベッドに腰掛けて、希美が下を向いている。重苦しい雰囲気だ。梓が俺に気づいてちらりと視線を投げ掛けたが、すぐにまたうつむく。俺は上体を起こして成り行きを見守った。
何が起きたのか、おおよその見当はつく。運搬したオウムの羽数について、飛雁が梓立ちあいのもと、希美を問い詰めたのだろう。俺は眼で三人の顔を見比べた。
「希美」
飛雁が甘えを許さない声で呼んだ。自分が呼ばれている訳ではないというのに、全身が震える。
「いい加減、本当のことを言ったらどうだ?」
希美は動かない。梓も黙ったままだ。
「おまえ、俺とルーシスの研究員に催眠術をかけたろう?」
「…………」
「飛雁……」
俺は布団の中に隠してあった飛雁のファイルを取りだした。
「俺の「観」たものが間違っていたのかもしれないし…… 一方的に希美を責めても……」
「おまえは黙っていろ、北斗」
…………こ…………恐い…………
飛雁の厳しさはどうやら俺が思っていた以上のようだ。
喋りたくても、俺の唇は飛雁の迫力に押されて凍りついてしまった。仕方なく、膝に乗せたファイルに眼を落とす。
「希美さん」
梓が促すように声をかける。
「教えて下さい。私、見えるんです。希美さんと一緒に戦っている自分の姿が。笑っている希美さんが。本当のことを話して下さい。私の「観」た未来を信じて下さい」
……押しと引きの説得、飛雁と梓の働きかけは、まさにそんな感じだ。恐喝とも取れる飛雁の語調と、優しく諭すような梓の語調とは対極にある。希美は硬く閉じていた目元を緩ませ、膝の上で拳を握った。
「……僕……止められなかったんだ……」
涙に震える希美の声。
「あの人は……レイモンド教授は……自分がルーシスでどんな目に会うのか、凄く恐がっていたんだ。一生『籠の鳥』で終わること、堪えられないって。他の人たちは恐がっていたけど、教授は逃げるんだ、って。……自由になりたいんだって……」
希美の眼に溢れた涙が、ポロポロと膝に落ちる。
「望んで研究材料に生まれてきた訳じゃないって…… 道具にするなら、どうして知能なんて与えたのか、って。人間たちは勝手だって…… 姿が違っていても、中身は同じなんだって…… 生きて……いるんだって……」
声を詰まらせてしゃくり上げる希美に、大股に飛雁は歩み寄ると、
「それで、俺たちを騙したのか?」
「……北斗が通信で僕を呼んだ時……」
希美は気丈に涙を拭った。
「僕、わざと黙っていたんだ。規則では、走行中に勝手に扉を開けられないことになってるから、止む終えない場合を作る必要があったんだ。返事がなければ、きっと誰かが来る、ってわかってたから…… 北斗が扉を開けたとき、逃げろって教授に…… 誰かに襲われたように見せかけるからいい、って……」
「希美さん……」
「数を覚えているのは飛雁だけだから……その……飛雁に催眠術をかけて記憶を変えて…… ルーシスの研究員にも……」
飛雁は眼を細めると、希美の足下に片膝を付いた。
「よく話してくれた」
その声にはもう、恐喝じみた厳しさはない。いつしか、梓の顔にも安堵の笑みが浮かんでいる。希美は涙の溜まった眼で飛雁を見下ろすと、そのまま飛雁の首に取りついて、声を上げて泣き出してしまう。
「ごめんなさい……僕……許されないこと……した……」
泣きじゃくる希美。飛雁は希美の背中を撫でながら、目を閉じた。
希美のしたことがどんな事態を招くのか、俺がその重大さを知ったのは、CU:BEに帰ってからのことだった。
飛雁が上層部へ事情を説明に行っている間、俺たち三人はミーティングルームで不安な気持ちを抱えたまま、待っていた。
「梓、これからどうなるんだ?」
俺は隣に座る梓に尋ねた。
「やっぱり、このまま何事もない、なんてことは……」
「ありませんわ。残念ながら……」
彼女は正面のソファで両膝を抱えている希美を見た。
「最悪、除名処分ですね。仕事上の事故による失態ならばまだしも、明らかにこれは意図的な過失ですもの」
「除名…… 希美が?」
「……飛雁さんも」
「飛雁も?」
「リーダーとして、監督不行き届きという咎です。私と北斗さんは、再びオークションに賭けられることになるでしょう……」
「チーム解散、ってことか?」
梓は黙って頷いた。希美が膝の間に顔をうずめる。
「ごめんなさい……」
「希美、おまえ、間違ってないぞ」
俺は自分でもとんでもないことを言っていると自覚しながら、
「教授の言い分はもっともじゃないか。俺は最初から、こんな仕事、やりたくなかったんだ」
「北斗……」
「除名されたって、別に命まで取られる訳じゃないんだろ」
「…………」
な、何だ、この沈黙は……
希美の赤く泣き腫らした眼に、再び涙。
「僕は追いだされるだけでも、飛雁は……飛雁は……」
「俺がどうしたって?」
扉が開いて、颯爽と飛雁が入ってくる。俺たちは同時に立ち上がった。
「どうなんだ、飛雁?」
「上層部は何と?」
「ひぃかぁりぃ……」
「びぃびぃ泣くな、希美」
飛雁は希美の頭を軽くこづくと、
「責任を取れ、とさ。これがチームの命運を賭けたミッション計画だ」
飛雁は脇に抱えていた書類を俺たちに突きつけた。
「これは非常に厄介なミッションになる。命の保証はできない。降りる奴はここで名乗ってくれ」
「僕、やります」
希美がしゃくり上げながら手を上げた。飛雁は呆れたように、
「だったらまず、泣くのを止めろ。冷たいシャワーでも浴びてシャキっとしてこい!」
「はい、リーダー!」
希美は言われるままにシャワールームへ駆け込んでいった。その後ろ姿を確認してから、飛雁は俺たちに向き直った。
「さて、おまえたちはどうする? おまえたちに落ち度はない。このまま身を引いても構わないが」
「飛雁さん、そういう形式ばった質問はやめていただけます?」
梓がにこりと笑って首を傾げた。俺の心臓がトクリと高鳴る。
「そうそう。時間の無駄だぜ」
梓が行くなら俺も行くに決まってんだろ。
俺は飛雁が読めるように、敢えて強く心で思った。
「……そうか。では支度しろ。詳細は移動中に伝える。北斗は俺と来い。渡す物がある」
ひらりと背を向けた飛雁は、小さな声で、
「すまんな」
「あなたの命には変えられませんわ」
梓は答えると、私室へ入って行った。
……そういうことか。
希美は除名で済んでも、飛雁は死をもって責任を取ることになるのだろう。CU:BEが裏の世界で信頼を得るためには、それだけ厳しい規則で固める必要性があるのかもしれない。
「行くぞ、北斗」
「あ、ああ」
俺は飛雁について居住区を出て、研究棟を過ぎ、資材管理棟へ入った。地下三階までエレベーターで降りる。
到着したフロアーには、一本の廊下だけがあった。その両側にはずらりとドアが並び、行き止まりにもひとつドアがある。全てのドアの横の壁には入室を制限するセキュリティ装置が付けられている。飛雁は正面のドア、つまり、一番奥の部屋の前で立ち止まると、セキュリティ装置のスイッチを入れた。
『声紋解錠システムです。お名前をお願いします』
機械独特の合成ボイスが問う。
「飛雁・レールスター」
『声紋が一致しました』
金属製の厳重そうなドアが上にスライドして道を開けた。ドアの向こうは一メートル四方程度の小さな部屋だ。真正面の壁には、ドアのものと同じようなセキュリティパネル、その下に前面だけが透明なボックスが埋め込まれている。
飛雁は俺を振り返った。
「おまえも知っての通り、CU:BEでは各自の能力に合わせて特殊武器、SW(special wepon)を与えられる。俺にサンダーバードがあるように、希美や梓にもSWが用意されている。今回、新たに加わったおまえ用に、上層部が用意した物がある」
飛雁はセキュリティパネルのスイッチを入れた。
『声紋解錠システムです』
合成ボイスが鳴る。
『お名前をお願いします』
飛雁が眼で俺に合図する。
俺はマイクの前に立った。
「西城北斗だ」
パネルのランプのうち、いくつかが明滅を繰り返し、入力された声を処理している。
『パスワードをどうぞ』
「パ、パスワード?」
俺は思わず機械に問い返してしまった。
「パスワードは『ホワイトアロー』だ」
飛雁が早口に言う。
『パスワードをどうぞ』
機械が繰り返す。
「ホ、ホワイトアロー……?」
どぎまぎしながら、俺は答えた。どうもこういうのは苦手だ。
セキュリティパネルはまた二秒ほど沈黙してから、
『声紋が一致しました』
パネルの取り付けられた壁の奥から、重たいモーター音が聞こえてくる。やがてパネル下の透明な面が開いて、中からトレイに乗った筒型の金属製の物体が押し出された。飛雁がそれを取り上げると、トレイは元通りに引っ込み、透明カバーも閉じてしまった。
「左腕を出してみろ」
俺はおとなしく腕を差し出した。
飛雁は小さなダイヤルやボタンなどで飾られた筒の一部を操作した。筒は蝶番のような金具で半分に開いた。それを俺の左二の腕にぴたりとはめる。思ったより、ずしりとした重さがある。
「おまえのSW、『ホワイトアロー』だ」
「『ホワイトアロー』?」
「電子ボウガンだ」
外見は、白い金属の腕輪のようだ。
「高圧高温の電子弾を短発射する最新鋭のSW。使いこなせるようになっておけ」
「どうやって撃つんだ?」
「左腕を前に突きだし、右手を肘に添えろ。目標物に照準を合わせる」
俺は言われるままにホワイトアローを構えた。
「慣れるまで思うようにならないだろうが、これから必要になる。しっかり訓練しろよ」
「……それで、狙うのはわかったが、どうやって撃つんだ?」
見たところ、引きがねもない。第一、右手を左肘に添えているから、ボタンひとつ押すこともできない。
「念じればいい。おまえの精神波長に反応する」
……また、そんなアヤシゲな代物かよ……
その時、飛雁の襟章通信機が鳴った。
『梓です。出発の準備が整いました』
「了解。希美とヘリポートへ向かえ。こちらもすぐに行く」
CU:BEビルは幾つかの大きなビルの集合体である。空圧車やヘリ、小型飛行機などが収容されている建物の最上階にヘリポートがある。梓たちと合流し、俺たちはヘリコプターの操縦席へ乗り込んだ。大型の運送用ヘリだ。座席は操縦席だけで、あとはフロアーになっている。飛雁の操縦で、ヘリは夕方の空へ舞い上がった。
目的地を入力し、自動操縦に切り替えると、飛雁は席を離れてフロアーに降りてきた。
「遅れたが、ミッションの説明を始める」
飛雁は車座に座った俺たちの真ん中に、書類を広げた。例のごとく、俺には分からない英文字ばかりだ。
「例のカーゴから逃亡したオウムの行方を、CU:BEの監視衛星が捕らえていた」
「監視衛星、ですか?」
梓が首を傾げた。
「そんな話、聞いたことないよ」
希美も驚いた様子だ。飛雁は頷いた。
「あまり公にはしていないが、上層部が俺たちのミッションを監視するために用意したものだ。そいつの記録によると、あの夜、俺たちが護衛していた車両から分離した熱源反応があった。それを追跡することで、おおよその目的地点が割り出されたのさ」
飛雁は書類の中から地図を探しだすと、一番上に置いた。
「ここだ」
「北極!」
異口同音に俺たちは叫んだ。よりによって、北極?
「レイモンド教授、北極まで飛んだのか?」
「信じがたい話だが、数値によれば間違いない」
「けれど、北極に一体何があるんでしょうか」
梓が思慮深げに眉を寄せた。こういう仕草もカワイイ。
「現在の北極に人類は住んでいませんし、あるものと言えば、いくつかの氷山くらいだと聞いていますわ」
「自由を求めて、じゃないの?」
希美が口を挟む。
「いくら人間が嫌いだからって、わざわざ北極なんて…… オウムはもともと南国の鳥だろ? 寒いトコじゃ生きていけないんじゃないのか?」
「珍しいことだが、北斗の言う通りだ」
一言余計だ、飛雁。
「脱走オウムを連れ帰ることが今回の目的だ。とにかく、熱源反応が消えた地点まで飛ぶ。そこに何があるかは、着いてみなくてはわからない。人工物があるという報告はないんだが……」
熱源反応が消えたということは、教授が死んだが、さもなくば熱の漏れない強固な建物の中に入ったということだ。どちらにしろ、俺たちは極寒の氷山に登る羽目になりそうだ。
「あの、みんな?」
遠慮がちに希美が俺たちを見回した。
「今回の事は、全部僕の勝手な行動が招いた失態です。だから、もし、誰かが犠牲にならなきゃいけないような状況に立たされたら…… 僕がなるから。だから、みんなは絶対危ないこと、しないで……」
希美……
「わかった」
飛雁は書類をまとめて立ち上がった。
「覚えておく。だが、現地に到着すれば、俺の指示に従ってもらうぞ」
希美はすまなそうに頷いた。
「到着まで八時間ある。今のうちに眠っておけ」
俺たちは思い思いの格好で毛布にくるまってフロアーで休むことにした。さりげなく、梓の傍に横になる俺。
飛雁に気付かれないよう、心を空っぽにするように努める。
「梓?」
俺は小声で呼んだ。
「はい」
寝返りを打って梓が俺の方を向く。白い頬に垂れたブロンドの髪が眩しい。
「寒くない?」
俺の声がわずかに上ずる。
「少し……」
梓が遠慮がちに応える。俺はここぞとばかりに、彼女距離を縮めると、自分の毛布の中に梓の細い身体を抱き込んだ。
「トランスレールの時のお返し」
言って、安心させるように笑って見せる。息のかかる距離で、梓が頬を赤らめる。眼が合えば、思わず唇を奪ってしまいそうで、俺は視線をそらし、天井を見上げた。
心臓が早い。この鼓動、梓に伝わっているだろうか……
突然、俺の上に毛布が降ってきた。
「う、うわ……」
顔にかぶさった毛布を振り払って、俺は上体を起こした。
「梓、寒ければそれを使え」
飛雁だ。飛雁が操縦席から自分の毛布を投げてよこしたのだ。何の為に? それは勿論……
よほど、俺の邪魔がしたいようだな!
挑戦的に、俺は心に強く思った。飛雁はさらりとした声で、
「北斗、おまえも寒いならば、こっちへ来い」
「なに?」
「俺が暖めてやる」
…………馬鹿を言え!
飛雁のやつ、ムキになってやがる…… おとなしそうな顔をして、こいつも梓を狙ってるな……
希美が隅の方でくしゃみをする、俺は梓におやすみを言うと、希美に自分の分の毛布を重ね、飛雁の座る操縦席の足下で膝をかかえて眠った。
四 氷山
徐々に白い平野が近づいてくる。だが、真下に広がる氷の下は、確固な地盤ではなく、うねる北極海の海水なのだ。
「離着陸プレート、射出!」
飛雁の指示に従って、梓がコンソールパネルのスイッチを操作した。正円の特殊金属のプレートが着氷目標地点に落とされた。今まで折りたたまれて収納されていたものが、自動的に開く仕掛けらしい。
「どうして、あんな板の上に降りるんだ?」
俺は並んで窓の外を見ていた希美に問いかけた。
「氷ってのは、個体のように見えて、実は粘度の高い液体と同じなんだ。直接着氷したら、時間とともに沈んで、ヘリの足が氷に埋まってしまうんだよ。だからあの円盤を使う。円盤ごと沈下しても、離陸には問題ないからね」
……なるほど、考えられているわけか……
俺たちは防寒服を着込むと、注意深く氷の上に降り立った。空は真っ青に晴れ渡っているのに、空気は肌を刺す冷たさだ。風が吹くたびに、体感温度が一層下がる。こんな所に長居はしたくない。
「こっちだ」
飛雁を先頭に、俺たちは教授の反応が消えた地点を目指した。
急激な地球温暖化のため、極の氷は二〇世紀の半分にまで溶解し、海面は上昇していた。北極の氷山も大きく形を変え、今残っている幾つかの氷山も、氷自体が柔らかくなってきているため、足下が崩れやすくなっている。
「この辺りなんだが」
飛雁は立ち止まると周囲を見回した。特に異変はない。
乾いた空と湿気の多い風、それに白い霜に覆われた氷……
俺たちは手分けして氷塊の間を調べて回った。
「あの、皆さん」
不意に梓が呼んだ。
「「観」えるんです。この下……深くの扉に向かう私たちの姿が……」
「道を辿れ」
飛雁が言う。梓は頷いた。
「……氷…… 氷です。ただ青白い氷の道…… 方向は……」
言って、梓は氷山の一角を指し示した。
「よし、行こう。足場が崩れやすい。気をつけろ」
飛雁に続いて、俺たちは氷山を登り始めた。表面は風に溶かされて滑りやすくなっている。注意深く、金属製の鉤手を使って登ってゆく。十メートルほど進んだ地点に、ぽっかりと氷山の中へ続く穴が開いていた。大人が身体をかがめてやっと通れるほどの大きさである。
「何でこんな不自然な横穴なんかがあるんだ?」
「入ってみればわかる」
飛雁が先へ進む。まったく、警戒心があるのかないのか……
「気をつけて下さい。三メートルほど先の足場がもろくなっています」
梓が予知で注意する。が……
「うわっ!」
見事に床が抜けて、俺は下の空洞へ真っ逆さま……
「大丈夫か!」
かろうじて、飛雁が俺の防寒服の裾を捕まえてくれた。逆さまに宙づりにされたまま、俺は下を見た。空洞の底に、何か黒いものが見える。飛雁たちがどうにか俺を引き上げてくれた。
「底に何かあるぞ」
俺は踏み抜いた穴から下を覗いた。
「海面じゃないのか?」
「違うよ。何か、人工物のようだ」
「人工物?」
興味をそそられたように、飛雁も俺の横から見下ろす。海面の更に下に、確かに金属のような黒い影がある。
「どうやら、この氷山の下に、何かの施設が隠されているようだな」
「施設?」
俺は問い返した。
「どうしてわざわざ、氷山の下に?」
「これ以上ない、隠れ場所だろう。ここなら、CU:BEの熱追跡衛星も感知できない。それ以前に、誰も氷山の下に人工物が隠されているなどと考えはしないだろうからな」
「一体、何者なんでしょう?」
梓が心細げに呟いた。飛雁は無表情のまま、
「少なくとも、社交的な連中じゃないだろうな」
横穴は緩やかに下降しながら、螺旋を描くように続いている。明らかに人の手による物だろう。表面の氷は透明度が高く、青白く色づいた陽の光が差し込んでくる。通路自体は幻想的で美しいが、その先に待つ物の得体が知れないというのは、決して好ましい状況ではない。
やがて、一本道の通路の突き当たりに、黒々とした金属製の長方形の扉が見えた。
「これです。私が「観」た物は」
梓が力強く頷いた。
「暗証番号式のドアロックがかかっているな」
飛雁が言う通り、ドアの表面には英字と数字のキーが並んでいる。飛雁は俺を振り返った。
「北斗、「観」てみるか?」
「え?」
「氷の記憶、を」
氷の記憶…… このドアを通った者の姿、そしてその者が押した暗証番号を、周囲の氷が記憶している…… でも…… 俺は顔をしかめた。
「難しいと思う。氷は殆ど透明だし、素手で触ったら解けちゃうし…… こんなオブジェは……」
「おまえなら大丈夫だ」
どこからそんな自信が出てくるのか、飛雁は言いきった。
「ガラスやクリアファイルすら「観」るおまえなら、な」
買いかぶりすぎじゃないか?
俺は疑いながらも、飛雁の身体の下をくぐって先頭に立った。グローブを外し、適当に周囲の氷に触れる。グローブの中で暖まっていた俺の手のひらは、触れた氷を簡単に溶かしてしまう。流石に液体からでは正確に光を読み取ることはできない。徐々に手が冷え、痛くなってきた頃、ようやく俺は残像の一部を読み取った。
「薄茶色の毛皮の防寒服……」
見えるものを洗いざらい言葉にして言ってしまおう。後は飛雁たちが組み合わせて解釈してくれるだろう。
「厚い革手袋…… 最初のキーは…… A」
俺の視界の中で、誰とも知れないその人物は、手袋をはめた指で、キーをひとつひとつ押していく。しめた、これなら暗証番号が読み取れる!
「次は…… J……28……79R……AAS6」
映像はそこまでだ。ドアが開き、人物は奥へと姿を消した。
「AJ2879RAAS6」
飛雁は氷の記憶の中の人物と同じように、キーを押下した。最後に認証キーを押す。ドアに点灯していた赤色ランプが青に変わり、張り付いていた氷を砕きながらドアが横にスライドした。
俺たちは頷きあうと、中へ続く梯を降りた。
内部は、近代的な金属の廊下になっていた。証明は電気だろうか、青白い電球が壁に幾つも並んでいる。空気は冷えていたが、外気よりははるかに暖かい。俺は防寒服のフードを脱いだ。
廊下は数メートル先で、円形の広場につながっていた。何もない、ただ平坦な空間だ。円形の床の直径に一本、切れ目がある。用途は不明だ。そこからは更に一本道の廊下が続く。人の気配はない。
廊下を進むと、その先で道は二手に分岐している。
飛雁は希美と梓に左の道へ進むよう、手で指示した。頷いてふたりは俺たちと別れた。ここにきて初めて、俺はあることに気づいた。この施設に入って以来、飛雁たちが一言も口をきかないのだ。全て手振りで合図する。俺もいつしかその雰囲気に飲まれて、言葉を失っていた。
俺と飛雁は足音を忍ばせて先へ進んだ。通路は湾曲していて、徐々に左にカーブしている。少し行った所で、かすかに話し声が聞こえてきた。……英語らしい。カーブの内側、つまり通路の左側の壁の上部三分の二程度が、ガラス張りになっている。
その部屋へ続くドアを越え、俺たちは身体を低くして壁の部分に隠れながら、そっと中の様子を覗いた。
白い服の男がひとり、女がふたりいる。三人とも、マスクで顔の下半分を隠していた。滅菌室か何かだろうか。そんな雰囲気だ。三人の人間の奥に、背丈よりも大きな円筒形の水槽が五基並んでいる。その内の三つは白っぽく濁った液体に満たされており、何やら正体の知れない赤い肉の塊が入っている。その隣は空、一番左端の水槽に水はなく、代わりに、水槽の横に緑色をした鳥が一羽……
レイモンド教授!
俺は思わず飛び出しそうになった声を、口を押さえてどうにかとどめた。飛雁が俺の心を読んで眼で問う。俺は頷いた。
間違いない、あれが俺の言っていたオウムだ。
その時、後方の廊下から、足音が近づいてきた。俺たちは咄嗟に辺りを見回して、身を隠せる場所を探した。
前方、突き当たりの壁にドアがある。どこに通じているかわからないが、それ以外に隠れられそうな場所はない。飛雁は左手のガラス室の連中に気づかれないように身体を低めたまま、ドアに駆け寄った。慌てて俺は後に続いた。
幸い、前方のドアに鍵はかかっていない。迷っている暇はなかった。俺たちは素早くドアを開けて中に入ると、音を立てずに閉めた。俺が廊下の足音の気配に神経を集中している間、飛雁は室内の様子を確かめている。足音はどうやら、ガラス室の方へと入っていったようだった。ようやくそこで俺は息を吐きだした。緊張のためか、心臓が早く鳴っている。
「誰もいないようだな」
一通り室内を見回った飛雁が、低い声でささやいた。たいして広くはないその部屋は、おそらく休憩室か何かなのだろう。ふたつの長椅子と低いテーブル、それに、五、六個の事務机が置かれ、机上にはファイルや書類が乱雑に積み上げられているものもある。部屋の奥には鉄パイプで組まれた二段ベッド、その隣の壁にある扉の上には、バスルームの札がかかっている。
「これからどうする?」
俺は飛雁に負けないくらい、声のトーンを落として尋ねた。
「俺たちの目的はひとつだ」
飛雁は机上に広げられていたファイルの書類をパラパラめくって情報を物色しながら、
「レイモンド教授とかいうあのオウムを取り戻すこと」
「どうやって助ける?」
「そうだな…… 方法はいくらでもあるが、一番穏便に済ませるには……」
書類をめくっていた飛雁の手が止まった。表情が凍りつくのがわかる。
「どうした?」
歩み寄った俺が書類を覗く前に、飛雁はパタンとファイルを閉じてしまった。
「何でもない。それより希美たちは……」
ちょうど、襟の通信機が鳴った。
「梓です。今、この施設の研究員らしき者たちを発見しました」
押し殺した梓の声が聞こえてくる。
「詳しい状況は?」
「はい。通路の右手にガラス張りの部屋。実験室か、研究室のように見受けられます。部屋へ続くドアの類いは見当たりません。室内には男性二名。女性二名。部屋の中央に五基の円筒形水槽。生体の培養槽と思われます。そのうちのひとつにオウムを発見。希美によれば、ターゲットに間違いないようです」
的確な梓の報告に、俺は感心した。なるほど、こうやって説明すればいいのか……
「了解、梓。俺たちは部屋の反対側にいる。こちらにはドアがついている。俺が進入してヤツラの注意を引く。その間に、希美と共に連中を倒せ。ただし、殺すな」
「了解」
通信が切れた。飛雁は俺に向き直った。
「北斗、おまえは廊下で待っていろ。もし、部屋から脱げ出す者がいたら取り押さえるんだ」
「と、取り押さえるって、どうやって?」
飛雁は顎をしゃくって、俺の左腕を示した。
「ホワイトアローを使え。おまえに相手を殺す意志がなければ、殺傷能力を持つ程のアローは発射されない。撃つときは躊躇するな」
そ、そんな…… まだ、試し撃ちもしてないのに……
「行くぞ」
飛雁はドアを開けると再び廊下に出た。俺に断る権利などない。仕方なく、身体をかがめ、ガラスの向こうの人間たちに気づかれないよう、大人しくしている。頼むから、誰も逃げ出さないでくれ! 俺は自信ないぞ!
室内をそっと覗く。水槽の向こうはこちらと同じようにガラス窓で廊下に接している。その隅に、梓の顔がちらりと見えた。
挟み撃ち、か。
飛雁は防寒服の袖から右腕を抜き、腰に吊るしてあったサンダーバードに手をかけたようだった。いつでも戦える態勢だ。
ドアに張り付き、中の会話に耳をそばだてている。英語の会話のため、俺には内容が掴めない。
と、室内からどっと笑い声が起こった。何があったんだろう、と俺が考える間もないうちに、飛雁はドアを開けると室内に飛び込んでいた。
驚きの悲鳴と、警戒の声。言葉の意味はわからなくても、大体、何を言っているのか想像はつく。
飛雁は英語で何か答えた。「CU:BE」という音と「レイモンド」という名前しか、聞き取れない。
俺は窓の縁から様子を見守った。男がひとり、飛雁に掴みかかろうとする。ズラリと音がして、飛雁がサンダーバードを引き抜いた。男がひるむ。他の三人も後ずさる。その時、鈍い銃声とともに、女のひとりが悲鳴を上げて床に転がった。どうやら、足を撃たれたらしい。顔を上げると、向こうの廊下に、大きな銃を両手に構えた梓がいた。一丁の銃だがトリガーがふたつ着いている。組み合わせによって様々な効果を産む、二連式高速銃『ダンシングドール』だ。
梓の第二撃が、飛雁に迫っていた男の足下で炸裂した。研究員たちが慌てた隙をついて、梓は銃の出力と弾質を操作し、ガラスを打ち砕く。その破片が崩れきらないうちに、希美が身軽に室内に駆け込んだ。その手には、両端に金属製の輪のついた、幅の広い鞭が握られている。鞭の表面がヤスリ状に加工されている、殺人鞭『南風』。希美はひらりと身体を宙に躍らせると、着地すると同時に逃げ出そうとした女の喉元にひとつ、鞭を振り降ろした。じゃり、と嫌な音がして、女の首筋から血が吹きだす。俺は思わず頭を引っ込めて目を閉じ、耳を塞いだ。それでも、怒号と悲鳴が遠くから響いてくる。これが一番穏便な方法なのか、飛雁よ!
どれくらい、そうしていただろう。
「北斗」
俺は肩を揺すられて弾かれたように眼を開けた。目の前に希美の顔があった。頬に赤い返り血を浴びている。
「行こう! 教授は助けた」
見れば、梓が腕にレイモンド教授を抱えている。
「急げ。何が起こるかわからないぞ」
飛雁が駆け出す。俺は震える足でどうにか立ち上がると、ガラス室の中は見ずに後を追った。
追跡はなかった。あの、円形のホールにたどり着くまでは。
出口はもう少しだ。ホールを突っ切って、通路の先の梯を登って氷の洞を抜ければ表に出られる。そこからヘリまで、走って一分かからない。
だが、円形ホールには、予想していなかった障害物が待ちかまえていた。あの研究員たちの誰かが、緊急の警備システムを発動させたのだろうか。俺たちがホールにさしかかると同時に、床が真ん中の溝から半分に分かれ、その下から昇降式のリフトに乗せられた巨大な金属製の戦闘マシンがせり上がってきた。
四基のマシンガンと、三方向に向いた砲口。駆動部分はキャタピラで、外殻は鋲の撃たれた白銀色の金属でコーティングされている。一昔前の陸上戦車のような外観だ。その戦闘マシンは、リフトが完全に上がりきらないうちから、俺たちを発見して大砲をぶっ放した。
「散れ!」
かろうじて直撃はまぬがれたが、廊下の壁に開いた穴から、海水が流れ込んでくる。
「とんでもない破壊力だな」
飛雁は汗を拭った。ただでさえ、それほど広くはないホールが、巨大なマシンのおかげで、完全に塞がれてしまった。あの装甲が相手では、飛雁のサンダーバードも、希美の南風も役に立たないだろう。梓がダンシングドールの出力を調整する。
「行きます!」
銃口が炎を吹く。が、梓の放った弾は、外殻に僅かに傷をつけただけで、はじき返された。
「この近距離で重圧弾が効かないなんて……」
梓は悔しげに唇を噛んだ。戦闘マシンが機関銃を乱射する。避けたくても逃げ場はない。俺の足下で、溜まり始めた海水が音を立てた。このままでは全身に機関砲を撃ち込まれるか、それとも海水で溺れ死ぬか、どちらかだ。
俺は天井を見上げた。換気用だろうか、腕の太さぐらいのパイプが走っている。足下には海水が満ちてくる。
希美が進み出た。
「ここは僕が引きつける。皆はその間に逃げて!」
「許可できない」
「飛雁!」
飛雁は厳しい口調で希美を退けた。
「言ったはずだ。現場では俺に従ってもらう、とな。無駄死にはさせない」
「飛雁!」
俺は機関砲を避けるために床に伏せていた飛雁の傍へ這っていった。
「ホワイトアローの弾は電気だって言ったよな」
「そうだが……」
それなら、いちかばちかだ。
「飛雁、天井に這い上がれ! パイプに登るんだ」
「何?」
「梓も希美も、だ。俺に考えがある」
「だが、今、頭を上げたら奴の標的になる」
「……とにかく上がれ。そして俺を引っ張り上げてくれ。情けないが、俺は自力で這い上がれるほど、筋力がない」
飛雁は俺の手首を掴んだ。
心を読まれる!
本能的に、俺はそれを察知した。にやり、と飛雁が笑う。
「わかった。北斗。やってみろ」
言って、希美と梓に合図する。
「一斉にいくぞ」
呼吸を合わせ、機関砲が途切れる瞬間を待つ。弾薬装填の為か、鳴り続いていた機関砲の音が切れた。
「今だ!」
飛雁は高く跳躍すると、天井のパイプに手をかけた。素早い動きで這い上がり、梓を引き上げる。その間に希美は南風をパイプに絡ませ、それを伝って上へ登った。
「北斗、来い!」
飛雁が手を伸ばす。俺は右腕を預け、左腕のホワイトアローの照準を真下に向けた。飛雁が鍛えられた腕で俺の身体を引いた。足が海水から離れる。機関砲の弾薬を補充したマシンの銃口が俺を狙う。
「撃て!」
飛雁が叫ぶと同時に、ホワイトアローが海面目掛けて光の矢を放った。海面上を細かな光の筋が駆け抜け、戦闘マシンの全身に絡みついた。
俺は立て続けにアローを撃った。ただ発射すれば良かった。狙うは、真下の海水だ。
マシンの何箇所かから白い煙が立ち上る。
ホワイトアローの矢は圧縮された電気の塊である。それが電導率の高い海水を介して戦闘マシンの電気回路をショートさせたのだ。
「行くぞ」
俺たちは海水の中に飛び降りると、戦闘マシンを乗り越え、外へ続く梯へと走った。
「北斗のおかげ、だね」
離陸したヘリのフロアーで、希美は防寒服を脱ぐとそう言って笑った。先に着替えを済ませた梓が教授を抱きかかえたまま、微笑む。
「助かりました、北斗さん」
俺は煩わしい防寒服の留め金を外しながら、
「飛雁のおかげだよ。俺ひとりじゃ、結局何もできなかった」
「そういうことだ」
飛雁が操縦席の背もたれ越しにこちらを振り向いた。
「何にしても、全員生き残ったことが重要だな」
「……ねぇ、飛雁?」
希美が梓の腕の中で眠るオウムを眺めながら、
「レイモンド教授、これからどうなるの?」
飛雁は難しい顔で、
「上層部との契約では、そのオウムを無事にルーシスへとどけ、受け取りのサインをもらってくることになっている。それで初めて、俺やおまえの処分が帳消しになるんだ」
「やっぱり、ルーシスの軍事屋たちの手に渡す、ってことか?」
「そうなる」
希美がうなだれる。どうにかならないのだろうか……
「仕方がない。もともと、そいつを含めて三十三羽をルーシスに引き渡すことが仕事だったんだ」
「迷惑ハ、カケナイ」
! レイモンド教授がのそりと起き上がった。まっすぐに飛雁を見上げる。
「世話ニナッタナ。兄チャン。ルーシスヘ向カッテクレ。コレ以上、迷惑ハカケタクナイ」
「でも、せっかく自由になるチャンスなのに……」
「馬鹿北斗ダナ、オマエ」
教授はぎょろりと黒い目玉で俺を見た。
「オレガ戻ラナケレバ、コノ銀髪ノ兄チャン、死ヌンダゾ」
……ああ、そうか…… それはそうだけど……
「両方助ける方法、ないのか? ほら、レイモンド教授も飛雁も、一緒に逃げちゃうとか。そうすれば、どちらとも助かる訳で……」
「CU:BEから逃げ切ることはできない」
飛雁が冷めた口調で言い、教授に向き直る。
「本当にいいのか? 俺たちに義理立てする必要はないんだぞ」
教授はぺこんと頷いた。
「兄チャン、ルーシスヘヤッテクレ」
…………
「希美、向こうについたら研究員にかけた催眠術、解いてもらうぞ」
飛雁は操縦パネルに向き直って、そう、言った。
ルーシス経由でCU:BEに戻った俺は、憂鬱な気分でシャワーを浴び、ミーティングルームのソファでふてくされたように横になっていた。
後味の悪い一件だった。飛雁の命と教授の命を天秤にかけるような決断だった。数日前の俺なら、迷わず飛雁を取っただろう。だが、一連の出来事の間に、俺はあのレイモンド教授というオウムが人間のように思えていた。人間のように……いや、もっと正確に表現するなら、俺と同質の存在、と言うべきか。外見は鳥でも、中身は俺たちと何も変わらない。もし、俺が教授の立場なら、やはり逃げ出そうとしたことだろう。
だが、ひとつ、気になることがあった。
どうして教授はあのカーゴを逃げ出した後、北極などに向かったのだろう。自由になりたいならば、他に行く場所がいくらでもあったはずだ。教授の話では、夢中で飛ぶうちに北極点まで来てしまった、ということだったが、そんなことがあり得るのだろうか。
「むしゃくしゃする!」
俺は腹立ちまぎれに叫んだ。
「大人ゲネェナ、マッタク」
「うるさい! もとはと言えば、おまえが逃げ出したりするから……」
「逃ゲタクモナルワ、アンナ所ナド」
……え?
声のした方を振り返ると、入り口に立つ飛雁の肩の上に、緑色の鳥類。
「……ひ、飛雁…… それ……」
飛雁は肯定するようににやりと笑った。
「レイモンド教授!」
俺は跳ね起きると教授に駆け寄って首を引っつかみ、締め上げた。
「何でこんなとこにいるんだ! また逃げ出してきたのか!」
「ソノ通リダ」
ギィギィ鳴きながら教授は答えた。飛雁が冷静に、
「ヘリの中でルーシスへ行くと言い出したとき、教授の心を読んだ。普通は人間以外の心など読めないものだが、教授の場合、脳の構造が俺たちに近かったため、わかったのだろう。それによれば、一度ルーシスに入って俺たちが責任を果たしたあと、改めて逃げ出す、とな」
そんな……
「放セ。死ヌ!」
「あ……」
俺は手を緩めて、今度は片足をつかみ、逆さ釣りにした。
「どうしてそういうことを口で言わないんだ! 飛雁だって水臭い。教えてくれればいいだろ!」
「失敗した場合、おまえたちを余計に苦しめると、教授が言うものでな」
……鳥に情けをかけられた……
「オレヲ見習ッテ、大人ニナレヨ、北斗」
羽根をばたつかせながら、レイモンド教授が愉快そうに笑う。
「シバラク、世話ニナッテヤル」
「何だって?」
「オマエノ面倒ヲ、見テヤロウトイウノダ。光栄ニ思エ」
…………
かくして、自由の鳥レイモンド教授は、彼自身の意志で俺たちと暮らすことになった。
第三章 トランスフォーメーション 〇一―〇二
一 新年祝賀会
十二月三十一日深夜。
俺は足音を忍ばせて部屋を出ると、ミーティングルームを横切り、飛雁の私室のドアをそっと開けた。
音を立てないように入室し、注意深くドアを閉める。私室は六角形のワンルーム構造になっている。明かりもつけずに、飛雁は机に向かってノートパソコンを叩いていた。
机の脇にはレイモンド教授専用の止まり木がある。教授は眼を閉じ、すっかり眠り込んでいるようだった。教授はずっと飛雁と行動している。現金なもので、チーム一の権力者の腰巾着に収まっているのだ。
「飛雁」
声を殺して俺は呼びかけた。
「言いつけ通り、夜這いに来てやったぞ」
飛雁は回転イスを回して振り返った。額に垂れた前髪を片手で掻き上げる。
「御苦労。夜伽の方はいいから、とりあえず話だけ聞いてくれ」
はいはい。
俺は飛雁の足下に脚を組んで座った。
「先日、北極の氷山の下の施設で、俺たちが逃げ込んだ部屋があっただろう?」
「ああ、覚えているよ。シャワールームとか、ベッドとかがあった、休憩室みたいな所だろ」
「そこで俺が見ていたファイルに関してなんだが」
そういえば、あの時、飛雁の奴、ファイルを見て何かに驚いていたようだけど。
「俺が見ていたのは、あの施設の来館者を記したリストだった。そこに……」
「……何だ?」
飛雁は険しく眉を寄せた顔で、
「『西城北斗』、その名があったんだ」
サイジョウ……ホクト……
「以前、CU:BEに仕事を依頼した人物、そして、おまえの記憶していた名前と一致する。もっとも、リストにあった名前は漢字ではなく、『Hokuto Saijyoh』、アルファベットだったが」
「…………」
「あの施設を訪れた『西城北斗』が、CU:BEに仕事を依頼した人物と同一かどうか、それはわからない。全く関係ない人物かもしれない」
「飛雁……」
俺は飛雁を見上げた。
「その『西城北斗』があそこへ行ったのはいつのことだ?」
「リストの記録によると、一ヶ月前だった」
「一ヶ月前?」
ちょうど、俺がCU:BEに来る少し前だ。
「北斗。一応、情報提供はしたが、あまり思い詰めるなよ」
飛雁は考え込んでしまった俺を気づかうように言った。
「あくまでも、同じ名前だというだけで、おまえと関係のある人物だと断定された訳ではないのだからな」
「わかってる」
そうは答えたものの、気にならない訳が無い。俺の記憶に関する唯一の手がかりなんだから。
「そういえば、北斗。明日の支度は出来ているのか?」
飛雁はノートパソコン画面に戻って尋ねた。
「任せといてくれ!」
自信たっぷりに俺は胸を叩いた。
「今日、希美と一緒にオルダーに行って、しっかり買い込んできたぞ」
「希美の見立てなら心配ないな」
「そうそう、あいつセンスいいから……って、俺の感性は当てにならないってことか?」
「……俺に恥をかかせないでくれよ」
飛雁はキーボードを叩きながら、
「明日の式にはCU:BEのボスも顔を出すことになっているんだからな。おまえが馬鹿をやれば、当然管理者である俺にまで嘲笑の眼が向けられることに……」
「わかった、わかった。おとなしくしてるって」
俺は長くなりそうな飛雁の説教を遮った。
「しかし、おまえも大変だよな。よりによって実行委員長に指名されるなんて」
「若手リーダーの登竜門だ。これを越えねばCU:BE幹部の席はない」
「何、おまえ、幹部なんか狙ってるの?」
「三十年以上先の話だ」
……気の長いことで……
「せいぜい出世の為に頑張ってくれたまえ。俺は梓と楽しませてもらうから」
ぎろっ、と飛雁が睨みつけてくる。だが、この脅しにも俺は随分と慣らされていた。梓のこととなると、飛雁も冷静さを欠く。その癖、自分から梓に近づくことはしないときている。
意外に度胸がないのかもしれないな、この男……
「言っておくがな、北斗!」
あれ、読まれたな、この反応は……
「俺は別に臆病なわけでも優柔不断なわけでもないぞ!」
「じゃ、何で梓にコクッちゃわないの?」
「!」
おいおい、飛雁さん、視線が泳いでますよ。
「飛雁は俺より梓との付き合い長いんだろ。梓だって飛雁のこと、悪いようには思っちゃいないだろうしさ。ここはバシッと決めろよ。おまえならキザなセリフも平気で言えるだろ。俺にだって、臆面もなくコッパズカシイこと、言ってたじゃん」
液晶ディスプレイの蒼白い光の中でも、飛雁のこわばった頬が紅く染まっていくのがわかる。
怒るかな、と俺が一瞬警戒したとき、不意に飛雁は微笑んだ。
「北斗、梓が俺なんか相手にしてくれる訳がないだろ」
な……
「そういうことだ」
飛雁はそれきり口をつぐむと、俺のことなど忘れたかのように仕事に戻った。
「おやすみ」
他に言うべき言葉が見つからず、俺は一言残して自分のベッドに帰った。
飛雁は凄い奴だと思う。
年は俺よりふたつ上なだけだが、能力の差はそんな開きどころではない。まず、身体の鍛え方が違う。SAも完璧に使いこなしている。頭もいい。人望もある。性格もオトナで、それでいてどことなく可愛げもある。(こういうのに女は弱いのだ、と俺は踏んでいる)そして何より、顔がいい。
他のどの点も、俺のこれからの努力である程度近づけるだろうが、いかんせん、生まれ持った顔ばかりはどうにもならない。飛雁が本物の星なら、俺はどんなに頑張っても、所詮プラネタリウムの星ってトコロか……
男の俺でも憧れるこの飛雁にさえ、梓は見向きもしない、って…… これは由々しき事態ではないか!
一晩寝ずに考えて、俺は決断をした。
蓼食う虫も好き好き、だ。希望を捨てるな!
当たって砕けろ、だ。やるっきゃねぇんだ!
そして極め付け、駄目でもともと! 昔の人はいいことを言ったもんだ。
俺の立てた作戦第一弾は、とにかく梓ともっと話をする、という一見地味に見える戦術だ。だが、相手を知るには欠かせない。
ちょうど今日は一月一日、元旦なのだ。そして、年に一度のCU:BE主催の新年祝賀会が催される。まるで俺と梓とを引きあわせる為に企画されたような会ではないか!
枕元のデジタル時計が午前七時をアラームで知らせた。俺は掛け布団を跳ね除けて飛び起きると、昨日、希美がオルダーで見立ててくれた式服に腕を通した。びしっとキメて、梓に新年の挨拶に行こう。
ミーティングルームで、明るい希美の声がした。それに答えたのは梓だ。まずい、急がねば……
「北斗ぉ!」
シャツのカフスに手間取っていた俺は、いきなり部屋に飛び込んできた希美のボディアタックを避け切れず、そのままベッドに押し倒されてしまった。新年早々、なんてザマだ!
「北斗、あけましておめでとう!」
「……あ、ああ、おめでと……」
どうにか希美をどかして、俺は起き上がった。右の肩が妙に寒い…… !
「希美っ!」
俺は大声を上げた。
「これ……」
シャツの右肩部分が破れている。希美に飛びつかれた時だろう。
「どうすんだよ、一枚しか買ってないのに……」
「ごめん、僕の持ってくるから待ってて!」
まったく……
俺は破れたシャツを脱ぎながら溜息をついた。希美がなついてくれるのはいいが、あいつの場合、愛情表現が度を越しているからなぁ。
その時、ミーティングルームから、もっとも聞きたくない声がした。
「新年おめでとうございます、梓さん」
京葉だ!
部屋のドアにぴたりと耳を貼り付けて会話を盗み聞きする。まさか、元日の朝早々、意中の梓の前に上半身裸で出ていく訳にもいかない。
「飛雁はもう、出かけましたか?」
「ええ、実行委員長のお仕事で、今朝早くに会場へ入ったようですわ。飛雁さんに御用事ですか?」
「いいえ、貴女をお誘いに来たのです式にはまだ時間がありますが、貴女さえよろしければ、先に初詣へ行きませんか? ガレージに車を用意してありますよ」
は、初詣? こいつ、古典的な方法で梓を連れ出す気なのか? 出ていきたいが、今はまずい。おそらく京葉はめかし込んで来ているに違いない。普段着で出ていっても、格の違いを梓に思い知らせるだけだ。俺には不利……
「ありがとうございます、京葉さん。でも、まだ北斗さんに挨拶を済ませていませんし……」
いいぞ、梓。断るんだ!
「元旦の朝から寝坊している方が悪いんです。それに、彼には後でいくらでも会えるじゃないですか」
京葉の奴、好き勝手言いやがって……
「貴女の外出許可証もこの通り、しっかり取得しております。是非、御一緒させてください」
……梓、断れ…… 断ってくれ……
俺は心の中で必死に願った。
「それでは、せっかくですから、お世話になります」
あずさぁ!
ばたん、と隣の部屋のドアが開く。しめた、希美だ。
「あれ、梓、どこか行くの?」
「はい。京葉さんと初詣に。式場へは直接向かいますから。北斗さんによろしくお伝え下さい」
「うん、わかった」
止めろ、希美!
「北斗、年の始めからシャツ破っちゃってさぁ。ドジなんだから」
余計なこと言わんでいい! そんなことバラしてる暇があったら、梓を止めないか!
「いってらっしゃーい」
…………ばたむ。
終わった…… 俺の『梓にアタック計画第一弾』……
「のぉぞぉみぃ……」
俺はドアを細く開けて、恨めしげに希美を睨んだ。希美ちゃん、にっこり微笑んで、
「ああ、遅れてごめん。はい、これ着ていいよ。ちゃんとクリーニングに出してあるからね」
この、小悪魔!
新年を祝う祝賀会は、CU:BEビルの大会場で行われる予定になっていた。総勢一万人を収容できる大ホールでの、立食形式のパーティだ。毎年、実行委員には若手のリーダーが指名される。そしてその中でも、委員長に任命されるのは、将来幹部を約束されるような、優秀なリーダーだけだ。今年は見事に飛雁に白羽の矢がたてられたわけだが、希美の話では、ここ三年ばかり、ずっと飛雁が委員長らしい。飛雁が優秀なのは認めるが、CU:BEには他に使える人材がいない、ということだろうか…… それとも単に、面倒を押し付けられているということか……
祝賀会場は、CU:BEビルのほぼ中央に位置する。大ホールは六箇所ある両開きの大扉が解放され、室内には日本の雅楽が流れている。開始時刻間近になると、ビルのあちらこちらから式服に身を包んだ社員たちが集まってくる。チームに所属する俺たちのような戦闘員ばかりではない。事務職や研究員(俺に指を握らせてくれた、あの子憎たらしい連中もいる)、ショッピングモールに店を出している店長やそこの従業員まで、とにかくCU:BEに関わる全ての人間が招待されていた。中には、仕事がらみでの『お得意様』も混じっているらしい。そのため、正装で行儀正しく振る舞うよう、飛雁から厳しく言い付かっている。
参加は強制ではない。だが、事実上は半強制。この会には、CU:BEの創始者であり、現在のCU:BEの大ボスが出席するのである。それを蹴ることは後々、自分たちに不利益になると皆心得ているのだ。
会場に集まった連中の服装は様々だった。CU:BEには日本人以外も多い。身近な所では、飛雁はロシア系だし、梓はフランス系である。会場内には和服を始め、各国の民族衣装に身を包んだ男女が溢れかえっている。特に女性のいでたちはどれも華やかだ。
俺は希美と共に会場内に入ると、すぐに梓を探しに走った。京葉の奴、この式場でも梓をエスコートする気でいるのだろう。冗談じゃない! 二連敗してたまるか!
「北斗、そんなに急いで…… う、うわ!」
希美が後ろで食器を運ぶウエイターとぶつかったらしい。派手な音を立ててグラスが床に砕ける。だが、俺は止まらなかった。梓だ。とにかく梓を探さなくては……
必死に人込みをかき分けながら会場を歩き回っていた俺の足が、不意に止まった。
見える…… 目の前に女神がいる……
隣に立っているのは燕尾服姿の京葉だが、そんな奴のことはもう、どうでもいい。
光沢のある、若草色の振袖には柔らかい白梅が描かれている。結い上げた金色の髪には桜の枝をあしらった簪、白い草履に赤い鼻緒。そして、何とも言えない色香の漂ううなじ…… ほつれ毛をなで付ける指の白さ…… 薄化粧しているのだろうか、ほんのり紅にそまった頬と雪景色に咲く紅梅のような唇。長いまつげに縁取られた深い茶色の瞳はわずかに潤んだように……
ごくり、と俺は唾を飲み込んだ。
どれくらいそうしていたのだろう。俺は声をかけることもできずに、まるで雪から生まれた春の精のような梓のあで姿に見とれていた。時間が止まればいい。一生、ただ遠くから、この幻のような少女を見つめ続けることさえできたなら……
「北斗、酷いじゃない、置いていくなんて!」
……邪魔が入った。
希美がすねたような眼で俺を見上げている。が、俺と視線が合うなり、希美は不思議そうに首を傾げた。
「北斗…… 大丈夫?」
「な、なにが?」
まずい。顔が赤いのだろうか。それとも目つきがヤラシかったか……
「鼻血、出てる」
「…………」
思わず鼻を押さえた俺と、声を聞いてこちらを振り返った梓と、眼が合った。
「ああ、待って、ほくとぉ!」
俺は脱兎のごとくその場を走り去った。
穴があったら……
入りたい……
もう、出てきたくない……
一生、梓に会えない……
さっきから、会場の隅に座り込んでいる俺の肩を、ぽんぽんと希美が叩いて慰めてくれる。だが、俺のこの絶望感が癒されることはない……
「俺、もう、梓に会えない…… あんなトコ見られて、これからどうしたらいいのかわからない……」
「まぁ、よくあることだし」
……ねぇって。
「希美、俺を殺してくれ! もう、生きてられない!」
俺は希美の胸ぐらを掴んでがくがく揺さぶった。
「何をそんなに腐れてるんだ?」
顔を上げると飛雁が立っていた。黒いスマートなスーツ姿で、髪を少し結い上げ、あとは流れるままに背へ垂らしている。左腕の腕章は、実行委員長を示すものだ。いつもなら飛雁の肩にはレイモンド教授がとまっている所だが、どうやら今日は部屋で留守番らしい。
「ひかりぃ!」
俺は思わず飛雁の脚にがっしと抱きついた。
「俺、もう、生きていけない……」
…………
間がある。
飛雁が小刻みに震えている、そう思った直後、空気を入れ過ぎたゴム風船が破裂するように、飛雁はその場で腹を抱えて笑い始めた。
……俺の心を読んで、状況を把握したのだろう……
「悲劇だ!」
俺は叫んだ。
「いや、喜劇だな」
腹がよじれるほど笑ってから、飛雁はフッと真面目な顔に戻って、
「あまり気にするな。梓だって、わかってくれるさ」
な、何をわかるっていうんだよ……!
飛雁は俺の傍に寄りそうように片膝をついた。
「そんなことより、ボスの登場だぞ。大人しくしてろ」
飛雁は大ホールの一番奥に設けられたステージを顎で示した。
「CU:BEのボス。名前も素顔も明かさない。実行委員長の俺でも、半径十メートルには近づけない、ってお方だ」
「へぇ……」
室内にファンファーレが響く。それぞれ歓談に興じていた参加者たちが、ぴたりと私語を止め、その場に膝を付いた。
ステージの上に、六人ほどの黒服の男たちが上がる。その後から、白いスーツの胸に赤いバラをつけた人物が幕の陰から現われた。白スーツの人物は目元を覆う仮面をつけ、素顔を隠している。体格と顔の下半分から見て、六十代ほどの男だ。
会場は一分前の喧騒と打って変わって、しんと静まり返っている。ただ、楽団の奏でる雅楽の笛の音だけが響き続けていた。
おもむろに男は口を開いた。
「諸君」
掠れた、老人の声だ。だが、芯の強さが感じられる。
「新年おめでとう。本年も、諸君らの活躍に期待する」
男はスタンドマイクに向かってそれだけ言うと、さっさと舞台を降りてしまった。
俺は呆然とその姿を追った。
「おい、飛雁。ボスの話ってこれで終わりか?」
飛雁は立ち上がると周囲に視線を走らせながら、
「ああ、終わりだ。おまえ、いつまでもウジウジしていないで、希美と食事でもしてこい」
「飛雁は?」
俺が尋ねるより早く、飛雁は活気を取り戻したパーティ会場の一角に走り出していた。
「おまえら、酒の一気飲みは禁止だと言っただろうが!」
走りながら叫ぶ飛雁。
「飛雁も大変だねぇ」
希美がさりげなく俺の腕を取る。俺は更にさりげなくそれを払うと首の後ろで腕を組んだ。飛雁が酔いの回った若い連中から一升瓶を取り上げて怒鳴っているのを眺めながら、
「実行委員長の仕事なのか、あれも」
「実行委員なんて、殆ど監視員みたいなものだからね。CU:BEには未成年も多いし、ああいう地道な取り締まりが大事なんだ」
「悪の便利屋が飲酒規制法を守っているというのも、妙な話だな」
「未成年の飲酒はSAの健やかな成熟にも影響するからね。酒・煙草は厳禁なんだ」
希美はいつしか、俺の燕尾服の裾を掴んでいる。懲りない奴だな。
「それより、ご飯食べに行こうよ。さっきから北斗、ずっと走り回ってるんだもん。僕、お腹すいちゃった」
俺は希美に引っ張られるままにテーブルに近づき、適当に皿に料理を取った。ローストビーフを一切れ頬張りながら、俺は空になったステージの上を眺めた。
「なぁ、希美。あのボス、って、毎年こうなのか?」
「何が?」
ショートケーキの生クリームを美味そうに舐めながら、希美は首を傾げた。
「毎年、あんなに短い挨拶で終りなのか?」
「うん、あんなもん」
赤い苺をつまんで、
「CU:BEのボスってのは、ただそれだけで色んな連中に狙われるからね。公の場所に出てくるだけで大事おおごとなんだ」
CU:BEの仕事内容を考えれば、それも当然のことなんだろう。
「あのボスってのは、ずっとこのビルにいるのか?」
「ううん、普段はオルダーで暮らしてるよ」
希美はチーズケーキを忙しく口に運びながら、
「すっごい警備厳重なビルで、最高のセキュリティに守られて暮らし……んぐ……」
喉を詰まらせ、慌ててミルクセーキに手を伸ばす。
「CU:BEの他にも仕事持ってるし……」
言いながら、オレンジのタルトを一口でぱくり。
まったく、よくそういう甘いものが次から次に食えるな……
「ボスに関しては、CU:BEでも厳重に隠されている部分だからね。本名を知ってる奴も少ないよ」
希美がテーブルに積み上げられていたクッキーを皿に移す。俺はすかさず、その皿を取り上げた。
「おまえ、少しまともな料理を食ってからにしろ。さっきから、甘いものばかりだろ」
「いいじゃん、お正月なんだから」
「理由になってない!」
希美と皿の取り合いをしていた俺は、何かに呼ばれたような気がして振り返った。若草色の可憐な後ろ姿が雑踏の中へ分け入っていく。
梓っ!
俺は希美にクッキー皿を押し付けると、後を追った。
二 二階堂澄矢
大ホールを取り巻くように廊下が続いている。廊下には数ヶ所にテラスがついていて、会場を抜け出したカップルたちがふたりきりの世界を作っている。
午後の気だるい光が廊下を満たし、ゆったりと流れる時間に合わせて、雲が西から東へ揺れていく。ホール内の喧騒が遠のく、静かな空間。こんなムード溢れる場所で、梓と京葉がふたりきり…… それは避けなくては!
先ほどの鼻血騒動の一件は闇に伏すとして、今はあのふたりを…… 正確には梓を取り戻すことが重要だ。
俺はぐるりと廊下を回ってみた。ホールの正面入口の反対側のテラスで、背中から人を遠ざける雰囲気を発しながら、一人の男が黄昏ていた。
京葉だ。
辺りに梓の影はない。
俺は周囲を見回しながら、京葉の後ろに忍び寄った。いつもなら俺の気配に気づくはずの京葉が、何故か今は振り返りもしない。明らかに様子がおかしい。
「京葉?」
俺は相手の顔を横から覗き込んで、その変貌に眼を見張った。
「お、おまえ、その顔、どうしたんだよ!」
京葉の左頬には、まるで判で押したように、赤い手のひらの跡が残っていた。間違いない。ひっぱたかれたんだ。誰に? そりゃ、この状況なら……
京葉はぷい、と横を向いてしまった。俺はグローブを外すと、京葉のもたれているテラスの柵に触れた。柵の記憶…… そこには梓の唇を奪おうとして、思いきり平手を食らう京葉の姿があった。
俺はぽん、と京葉の肩を叩くと、
「いい殴られっぷりだったな」
「……! お、おまえ!」
俺は京葉に右手を突きつけた。
「油断するな。俺は美味しいシーンを見逃さない男だ」
「…………」
俺は京葉の元を後にした。
まず、第一の障害はクリアした。だが、梓に言い寄る男は多いという(希美談)。うかうかしていると、そのうち、他の男が梓を……
俺は頭を振って、嫌な想像を追い払った。あの京葉をさえ、一撃で撃退した梓だ。心配はないと思うが……
ホールの階の廊下に梓はいなかった。
俺は思いきってエレベーターに乗った。
上か? 下か?
……上だ! 俺の勘がそう告げている! 恋する男の第六感。信じて損はない!
「梓、待ってろ……」
軽薄男に言い寄られて、きっと梓の心は傷ついているに違いない! そうだ、そうに決まってる!
かなり勝手に決めつけて、俺は最上階のボタンを押した。
途中で止まることなく、エレベーターは最上階、三〇階の屋上へ到着し、ドアを開けた。
このビルは催事場ばかりが集められている。この屋上も、時々野外パーティなどに利用されている。
がらんとしたコンクリートの屋上の端に、梓が立っていた。そのすぐ傍に、見慣れない細身長身の男がいる。正装ではない。CU:BEのメンバーではないのだろうか?
俺は真直ぐにふたりを目指して歩き始めた。先に俺に気づいたのは、男の方だった。男の顔を見るなり、俺は思わず溜息を漏らしそうになった。
……悔しいが、美形だ。
黒く艶のある髪、細い眉と黒曜石の瞳。白く透けるような肌は、梓の傍にいても決して見劣りしない。しかも、ムカツクことに、俺より脚が長い!
「北斗さん……」
梓がうつむいていた顔を上げた。うっすらと眼に涙を浮かべている。
俺は男を睨みつけた。物腰から察して、俺よりはるかに腕っぷしも強そうだが、梓を泣かすような奴は誰だろうと許しはしない!
完全に頭に血が昇っていた俺は、怖い物知らずで男の前に立ちはだかった。男はスッと眼を細めた。
「西城北斗、だな」
!
「おまえ、どうして俺の名を……」
男は眼を伏せて鼻で笑うと、
「CU:BEにいたのか。通りで見つからない訳だ」
俺は不覚にも一歩後ずさった。この男、俺のことを知ってる?
……いや、今はそんなことより、梓が問題だ。
「おまえ、何者だ? 梓に何の用だ?」
男が答えるよりも早く、梓が俺と男との間に入った。
「北斗さん、彼は私の友人です。どうか、落ち着いて下さい」
梓の表情が堅い。どういう仲か、だいたい察しがつく。
「二階堂澄矢(すみや)」
男が名乗った。
二階堂澄矢? 気取った名前。気にくわない。
「北斗さん、大丈夫です。少し話をしていただけですから」
「でも、梓、泣いて……」
「梓」
澄矢が馴れ馴れしく梓を呼び捨てた。その一挙一動に腹が立つ。こういう美形は何をしてもサマになるものだから、始末に悪い。
「待っているぞ」
「澄矢……」
梓が切ない声で呼ぶ。
「明日の朝、六時、迎えをよこす。それまでに決めておいてくれ」
言うなり、澄矢はひらりと身体を返して、ビルの上から空中に……
「!」
俺は慌てて下を覗いた。だが、すでにそこには澄矢の姿はなかった。
俺、夢でも見てたんだろうか…… こんな真昼から……
キツネにつままれたような気分で振り返ると、梓が床に泣き崩れていた。
柔らかい、梓の髪。触れる肩のぬくもり。
俺たちは二人きりで、誰もいない屋上に座り込んでいた。
これが一時間前なら、俺はそれこそ鼻血を吹くどころではすまなかっただろう。だが、今はそんな熱い気持ちを打ち消すような現実が目の前にあった。
二階堂澄矢。その出現が何かを大きく変えようとしている。
「澄矢は……」
落ち着いた梓が、細い声で話し始めた。
「澄矢は私の幼なじみなのです。両親と疎遠だった私は、いつも彼と一緒にいました。けれど、いつしかあの人は、闇の世界に生きるようになった……」
「闇の世界?」
「オルダーの闇社会です。違法行為によって収益を上げる、そんな組織の中に組み込まれていきました。私は……それを止めることが出来なかった……」
梓は苦しげに目元を歪めた。俺は(特に下心なく)梓の肩を握る手に力を込めた。
「三年前、私は澄矢を連れ出そうとしました。けれど、それが組織の上の人たちにばれて、追われる身となったんです」
「組織は、澄矢を必要としたんだね?」
梓は頷いた。
「澄矢には、SAがありました。それを組織に買われていたんです。私が警察に行けば、澄矢にも迷惑がかかってしまいます。これ以上、あの人を追いつめたくなかった…… だから私は……」
「CU:BEに来た……」
「はい。私のSAを認めてくれるこの組織に」
かすかにエレベーターのドアの開閉音がして、飛雁が姿を見せた。俺たちを探しにきたのだろう。
「三年の間に状況は変わりました」
梓は立ち上がると、ゆっくりと屋上の端に歩み寄った。そのまま、身を投げてしまいそうなほど、頼りない背中…… 俺はすぐにでも梓を止められる距離まで近づいた。
「澄矢はオルダーの闇社会を仕切る立場にまで上り詰めていました。もはや、私の手の届く人ではなかったんです……」
冬の乾いた風が、梓の前髪を揺らして吹き抜けていく。梓の着物からだろうか、心地よい香の香りが鼻孔をくすぐる。飛雁が俺の後ろで立ち止まる。
「CU:BEに澄矢暗殺の仕事が来る度に、私は不安でたまりませんでした。そして、不謹慎なことですが、その全てが失敗に終わる度に、今度は胸を撫で下ろしたのです。CU:BEのメンバーに犠牲者が出ることがあっても……」
梓……
「その澄矢が、梓に何の用だったんだ?」
俺は我慢出来ずに核心を尋ねた。予想はついている。だが、認めたくない。
「……私と……」
梓は赤い地平線に眼を向けた。
「私と、やり直したいと言ってくれたんです。組織を抜けてやり直したいと…… 私に、力を貸して欲しい、と……」
………… やっぱり、ね。
「梓は……どうしたいの?」
俺の問い掛けに、梓はしばらく黙っていた。その沈黙が拷問のように感じられる。俺はわずかに振り返って飛雁を見た。飛雁の表情は冷静そのものだったが、顔は蒼白…… 噛みしめた唇が白くなっている。
と、飛雁が激痛を感じたように顔を歪め、梓に背を向けた。
その刹那、
「私、行こうと思います」
はっきりとした梓の意思表示。飛雁はこれを心で察したのだろう。
俺の全身から血の気が引くのがわかった。
「澄矢を……」
俺の声は無様に震えている。
「澄矢の言葉を信じているんだね?」
きっぱりと頷く梓。もう、止められないことを思い知らされる。
俺は最後の救いを求めるように、飛雁を振り返った。こちらに背を向けた飛雁の肩も小刻みに震えていた。
飛雁は知っていたのだろう。梓の中に、ずっと澄矢の存在があったことを。だからこそ、自分の想いを打ち明けられずにいたのだろう。
『俺なんか相手にしてくれる訳がない』
その言葉の意味がようやくわかった。
「梓」
飛雁が一音一音を噛みしめるように呼んだ。
止めてくれ、飛雁。おまえが止めれば、もしかしたら……
「退社届は出しておく」
飛雁!
エレベーターに向かって歩き出した飛雁の後を、数秒遅れて俺は追った。
「いいのかよ、飛雁!」
小声で、だが鋭い調子で、
「本当にこのまま行かせて…… おまえ、本当にそれでいいのか?」
飛雁がちらりと俺を見下ろす。感情のない…… いや、込み上げる激情を力ずくで押し殺した眼だ。
「俺がいいかどうかではない。梓が何を望むか、その方が大切だろう」
……飛雁……
俺が屋上で呆然と立ち尽くしている頃、大ホールでは席をはずした実行委員長の代わりに、希美が騒ぐ厄介者たちを片っ端から催眠術で眠らせていたらしい。
俺も眠ってしまいたい……
三 愚かな男ども
男って情けないと思う。
俺は梓がいなくなって以来、ずっとそんなことばかり考えていた。梓が傍にいるだけで、根拠のない自信や勇気が沸いてきて、自分でも驚くような大胆なことができたものだ。なのに、今、彼女がいないこの部屋で、俺は無気力と脱力感の塊になって、ぼんやりとミーティングルームの天井を見上げている。
「はぁ……」
長い溜息が漏れる。
「四十八回」
向かいのソファで希美が数えた。朝から俺が漏らした溜息の通算らしい。その希美も、今朝からずっと趣味の刺繍を続けているが、思うようにいかないらしく、何度も糸をほどいている。
梓がいなくなって、五日。正月気分もどこかへ消し飛んでしまった。銃使いの梓が脱退したことで、俺たちのチームの遠距離攻撃担当はホワイトアローを使う俺だけになった。飛雁から、射撃練習を急ぐように言われているが、とてもそんな気分にはなれない。
一番梓とも付き合いが長く、おそらく俺や京葉なんかより、はるかに梓に惚れ込んでいたはずの飛雁なのに、特に落ち込む様子は見られない。今も、京葉や他のリーダーたちと一緒に、次のミッションの計画会議に参加している。あいつのことだから、俺たちに隠れて泣いてるかもしれないが…… それとも、本気で、梓がよければそれでいい、なんて思ってるんだろうか……
理屈の上では、飛雁の言っていること、俺にもわかる。だけど、俺自身のこの気持ちは、どこへ持っていけばいいんだ?
「はぁ……」
「四十九」
「なぁ、希美?」
「はぁい?」
「男って、情けないなぁ」
「北斗、別に男が全て北斗みたいになっちゃう訳じゃないよ。梓がいなくて僕だって寂しいけど、北斗みたいに一日中ボケボケしてないし……」
どうせ俺は駄目人間です。
「はぁ…… もう、嫌……」
「五十回突破!」
「希美、おまえ、人が落ち込んでるのに、どうしてそう……」
と、廊下に通じるドアが開く音がした。
「梓?」
「……よぉ」
「き、京葉……」
俺は浮かせていた腰を再びソファのクッションに降ろした。ドアが開くたびに、もしかしたら、という甘い期待が起きてしまう。そんなこと、あるはずないのに……
「何の用ですか? 梓はいませんよ」
俺はぶっきらぼうに京葉に言った。
「おまえに話があったんだ」
少しやつれたように見える京葉は、ちらりと希美を見下ろした。希美は肩をすくめて、刺繍道具を片づけると、早足に自分の部屋に戻ってゆく。
「あいかわらず、酷い態度だな。希美が可愛そうだ」
俺は不機嫌を隠さずに言った。根は悪い奴だとは思わないが、希美に対するこの冷たい態度は許せない。
「そう、突っぱねるな、北斗」
京葉は希美を追い出したソファに座ると、身を乗り出すようにして俺を見た。
「梓を助けにいかないか?」
「!」
一瞬、頭の中が真っ白になる。
「な、何だって?」
わかっているはずなのに、問い返してしまう。俺、動揺している。
「いいか、北斗、よく聞け」
京葉はまるで悪巧みをする小悪党のように、舌なめずりをしながら、
「近いうちにCU:BEにオルダー闇社会を仕切る、二階堂の暗殺指令が下される。上層部から、飛雁が仕入れてきたネタだ。今回はCU:BEの総力をあげた作戦らしい。その前に、俺たちの手で、澄矢を倒し、梓を取り戻そうじゃないか。作戦が開始されれば、梓だって危険な目に会いかねないんだ。そうなる前に、澄矢を消してしまえば……」
俺はからからに乾いた喉で唾を飲み込んだ。
京葉の言うことには一理ある。
「だが……」
俺は声を低めた。
「それって、規則違反じゃないのか? 仕事以外で、誰かを……」
「ああ。公になれば、まず間違いなく俺は極刑。おまえもCU:BE追放」
「…………」
俺は昨年暮れのレイモンド教授の一件を思いだした。希美の勝手な行動の為に、飛雁までがヤバイ立場に立たされたのだ。
「京葉……」
俺は慎重になっていた。
「まず、飛雁に相談してみなきゃ…… 俺が勝手にやったら、あとで飛雁に迷惑が……」
「おまえ、俺の話をちゃんと聞いていたのか?」
「え?」
「このネタは飛雁から仕入れたんだ。もっと正確に言ってやろうか? この計画は飛雁が言い出したんだよ」
う、嘘……
惚れた相手にコクれなかった、あの飛雁が?
「随分、大胆なことするな、あいつ……」
「ああ、俺たちも驚いている。だが、梓に惚れてたのは、俺たちだけじゃない。他にもリーダークラスの連中を八人、引き込んでいる」
「げ……」
何だか話がでかくなってきたぞ……
「それって、もしかして……」
京葉はゆっくりと頷いた。
「CU:BEに対する反逆行為だ。それを馬鹿な男どもが揃ってやろう、って訳さ。どうだ、面白そうだろ」
京葉の眼はマジだ。ここで断れば、秘密を知った俺をそのままにはしておかないだろう。もっとも、幸いにして俺には断る理由などなかった。
「乗ろう。決行はいつだ?」
「今夜二十三時」
俺は急な予定に一瞬驚いたが、すぐに不敵に笑って見せ、
「上等じゃネェか」
かくして、ひとりの女に目が眩んだ愚かな男連中の戦いが始まった。
男って単細胞だと思う。
猪突猛進の勢いでひとつのことしか見えなくなった男の底力、これは侮れないぞ! それが女の為となれば、もう、形振り構っていられない。
「全員揃ったな」
闇夜のCU:BEビル前。俺と京葉を含め、十人の戦闘服を着込んだ男達が並ぶ。その前に、颯爽と現れたのは、赤黒いスマートな戦闘服姿の飛雁。髪を高く結い上げ、額には汗止め用に布を巻き、腰には抜き身のサンダーバード。普段の飛雁と一番違っているのは、油断のない厳しい眼光だ。
……正直、こんなにマジな飛雁見たの、初めてだ。まるで別人みたい…… 梓が幸せならそれでいい、なんて言ってたわりに、結構思い詰めていたんだな。
「抜かるな。しくじれば死だ」
暗い上に初対面の為よくわからないが、男たちの表情はどれも飛雁に負けないほど険しい。飛雁が、男のひとりに眼で合図する。と、俺たちの後ろに今までなかったはずの四台の空圧車が現れた。視覚を狂わせるSAの効果なのだろう。
「行くぞ」
あらかじめ行動が決められているのだろうか、男達は速やかに車に分乗する。俺は飛雁と京葉と共に先頭の車に乗り込んだ。目指すはオルダーの暗黒街だ。
並走する四台の空圧車。飛雁が手で何か合図を送る。それに反応して他の三台が進路を変え、俺たちの車から離れていく。
オルダーには十八ヶ所もの入り口がある。それぞれの車は別ルートで都市に進入するのだろう。
「だいぶ、俺たちの動きが読めるようになってきたな」
助手席の飛雁が、この夜初めて個人的に俺に声を掛けた。その調子はいつもの飛雁と変わらない。俺は少し安堵した。
「北斗、おまえには道案内を頼むぞ」
ハンドルを握っていた京葉がちらりと横目で飛雁を見る。
「オブジェマインドを使わせる気か?」
俺は後部座席から身を乗り出して、ふたりの間に顔を出した。
「結構、優秀なんだぞ、こいつの力は」
飛雁が嬉しそうに言った。
「俺たちも何度も助けられた。それに、機転も利く」
「自分の記憶は戻らないのに、物の記憶はよく見える、か。皮肉なものだな」
「おかげでおまえの決定的なシーン、見せてもらったぜ」
俺は意地悪く梓にひっぱたかれたときのことを蒸し返した。
「何のことだ? 決定的なシーンってのは?」
「飛雁、聞いてくれよ、こいつったら……」
ぐっ…… の、喉が締められて息が……
「余計なこと言ってみろ。そのまま窒息死させてやる」
「……き、きょう……は……てめぇ……」
京葉の奴、俺の喉にSAで何かしたらしい。操重力にはこんな使い道もあるのか……
「京葉。大人げないぞ。梓にひっぱたかれた位で」
いきなり呼吸が元に戻って、俺は思いきり咳き込んだ。
「飛雁、どうして……」
京葉の顔が青ざめる。
「北斗の心は読みやすいんだ」
「単純北斗めが……」
「そのかわり俺も北斗の決定的瞬間を教えてやる」
え? 俺の? 飛雁、何を…… ああっ!
「こいつ、梓の着物姿見て……」
俺は慌てて飛雁の口を押さえた。
う、腕が重い……
京葉の操重力に負けて俺は腕を降ろさざるを得なかった。畜生、まだこんな使い方もあったのか……
「鼻血吹いたそうだ」
飛雁ぃ!
「おい、京葉! 飛雁の失態教えろ!」
「何ムキになってんだ、おまえ」
「だって、今のままじゃ、飛雁だけがヨワミないじゃん!」
飛雁が頭痛でもするように額を押さえた。
「北斗、子供の喧嘩じゃないんだから……」
「あるぞ、飛雁の失態」
にやりと笑う京葉。飛雁ががばっと振り返る。
「できたてほやほやの失態」
「京葉、おまえ、あのこと……」
「何?」
期待を込めて俺は京葉に耳を近づけた。と……
「い、いたたたたた……」
反対の耳を飛雁に引っ張られる。
「くだらないこと、聞かなくていい」
かくして飛雁の秘密を聞くことないまま、俺はオルダーへと入ることになった。
男って執念深いと思う。
梓を助ける。それは大義名分かもしれない。肝心なのは、澄矢をぶん殴るってことだ。失恋男どもの大暴走を、最早誰も止められない。
俺たち三人は南側の八番ゲートからオルダーに進入した。深夜はゲートが堅く閉ざされ、出入りは禁止されているが、そこはCU:BEの腕利き揃い、抜かりなくゲートの監視員は買収していたらしい。
オルダーは地下鉄道の発展した街だ。中には、古くなって使われなくなった通路も多い。京葉はそんな廃道のひとつに空圧車を隠した。
「ここからは歩いて行くぞ」
飛雁がサンダーバードの感触を確かめる。京葉の手にも、晶刃が握られている。俺はひとつ深呼吸して腹を決めた。
これはミッションではない。個人的な危険行為なのだ。
俺たちは廃道を出て、深夜のオルダーへ上がった。真夜中ということもあって、周囲に人気はない。冬の湿気を含んだ冷たい空気と、作り物の星座。満月が出ている。本当の天体は今夜は新月だが、人工月のかかるオルダーでは、毎日違った形の月が出るのだ。これも都市に住む人々にとっては魅力的な趣向らしい。
俺は堅い雪の路面を、飛雁と京葉に続いて走り始めた。正直言って、ふたりのスピードについていくだけで辛い。生まれた時からCU:BEの中で鍛えられてきたリーダーと、ここひと月、訓練らしい訓練など受けていない俺とでは、行動を共にすることに無理がある。俺は引き離されまいと、懸命に走った。そんな俺に反して、飛雁たちはペースを乱すことなく走り続ける。
まさか、目的地までぶっ通しで走るつもりじゃないだろうな。
飛雁が走りながら俺を振り返った。
「そのつもりだ。遅れずについてこい」
無理だって!
今でさえ、もう、息が上がって、脚がもつれてるのに……
「梓の為だぞ」
……俺、やります!
オルダーの一角には、建築物が古くなったり、地盤がもろくなったり、時には天井ドームに亀裂が入ったりで、危険と見なされた地域がある。そこは修復が行われることもなく、ただ立ち入り禁止のテープが境界を成しているだけで、放置されていた。そんな立ち入り禁止区域の中に、闇社会の連中が住み着いている。俺たちはテープを越えて、闇の連中の巣くう地域に踏み入った。
冬の夜のオルダーを、俺はやはり一ヶ月前にもこうして必死に走っていたっけ……
梓を助けることは勿論最優先事項だが、同時に俺は澄矢に個人的に聞きたいことがある。澄矢は俺を知っていた。しかも、あの口ぶりでは、俺を探していた様子だ。もしかして、あの夜俺を追っていた連中は、澄矢たちだったのだろうか?
とにかく、知ってることを洗いざらい喋ってもらうまでは、生かしておかなくては……
そこまで考えて、俺は妙な気分になった。何だか自分が、古典的な悪役のような気がしてくる。たまにはこういうのも、新鮮でいい。
突然、飛雁たちが立ち止まった。俺は息を乱しながら、その場に膝をついた。胸が苦しい。こんなに走ったのは生まれて初めてかもしれない。
「北斗。調べによれば、このあたりで今日の夕刻、澄矢を見かけたという情報がある。ここからはお前の出番だ。調べてくれ」
…………え、何だって?
俺は酸欠状態のまま、ふらふら立ち上がった。
調べろ? ああ、ここの地面や建物の壁をオブジェマインドで「観」ろってことか……
俺は肩で息をしながら両手のグローブを外すと、とりあえず手近な建物の廃材に触った。このあたりはまともな形をしている建築物は少ない。ほとんどが崩れたコンクリートや鉄骨の山のように見える。実際に裏の住人が暮らすのは、この地域の地下らしい。
俺は冷たいコンクリートを丁寧に調べた。比較的新しい記憶は鮮明に見えるものだ。古ければ古いほど薄れるし、より深くに眠っている。言葉で表現するのは難しいが、オブジェに宿る記憶の新旧は、触ってみると浅い深いの違いとして見えてくる。
今日の夕刻なら、浅い記憶だ。
俺は適当に場所を移しながら、澄矢の姿を探した。どこにいる。さあ、出てこい!
黒い髪の若い男…… サングラスの為に顔はよくわからないが、こいつに違いない…… これも男の第六感!
俺は男の姿を追った。手を周囲の壁や地面に添わせながら、男が歩いた道を辿る。指先が冷えて痛くなっていたが、ここでやめるわけにはいかない。常に同じ深度で記憶を「観」てゆく。少しでも力の加減を間違うと、あっと言う間に時間がずれ、一年も二年も前の記憶に出会ってしまうのだ。浅く、浅く…… あくまでも、数時間前の記憶を頼りに……
男の姿が、ひとつの扉に消えた。俺は廃材から手を離した。
目の前に、今、オブジェマインドの中に「観」たのと同じ扉がある。男、澄矢はここへ入っていったのだ。
「北斗……」
飛雁が俺を呼んだ。俺は真直ぐに飛雁の顔を見つめて頷いた。
京葉が扉に近づく。廃材のような家屋やビルの連なる中で、その扉もまた、傾いている。金属製の分厚い扉だが、崩れた壁材の重みで酷く歪んでいるのだ。京葉が取手を回してみたが、内側から鍵がかかっているらしく、ビクともしない。眼につく場所に、カギ穴や解錠用のパネルの類いはない。
飛雁が俺をに向かって、自分の左二の腕を叩いて見せる。ホワイトアローを使えと言っているらしい。
俺は京葉の横に立つと、扉を詳しく調べた。取手の横の、ドアと壁の透き間から、錠が下りているのが見える。俺はジャケットから左腕を抜くと、ホワイトアローを構えた。俺の精神を読み取って出力を決定するという、SWの性質上、ホワイトアローは直接肌の上に装着する必要がある。おかげでこの寒空の下、俺は左腕をさらす羽目になる。(もっとも、素っ裸で走るよりはマシだが)
ホワイトアローの出力を調整し、錠前を焼き切る。頃合いを見計らって、京葉が扉を蹴り開けた。
飛雁が先頭を行く。その後について、俺は壁に手を添えたまま進んだ。最後尾を京葉が歩く。
ドアの奥には、下へ続く階段が伸びていた。外から差し込む月明かりが届かなくなると、真の闇だ。俺は小声で飛雁を呼んだ。
「ここは暗すぎる。壁も、何も記憶していない」
明度が極端に低い所では、どんな物質も記憶を残していない。光がなければ何も見えないというのは、生物の眼も原子も同じなのだという。感光性のフィルムのようなものなのだ。
俺たちは仕方なく、道なりに進むことにした。飛雁は赤外線ゴーグルのスイッチを入れた。
「階段が続いている。細い通路だ。階段の下にドアがある。カード式のようだ。……止まるぞ」
飛雁が立ち止まる。俺はそれに合わせて歩みを止めた。
「どうする? カード式じゃ、俺のオブジェマインドも使えないし…… まぁ、どっちにしろ、この暗闇じゃ何も見えないけどさ」
「静かに」
飛雁は俺を制すると押し黙った。暗がりの中ではよくわからないが、どうやら床に耳をつけて音を聞いているらしい。遠くで、水滴の滴る音が聞こえるだけで、他に何の気配もない。
ここがもし、澄矢たちのたむろするような施設なら、警備員がいてもおかしくなさそうなものだが……
飛雁は立ち上がると、そっとドアに手をかけたようだった。金属のこすれる音がして、鋭い光の縦線が俺たちの前に現れた。
ドアが開いて、向こうの光が差し込んできたのだ。
鍵がかかっていなかった、ということか…… 妙だな。
「油断するな。北斗、オブジェマインドだ」
はいはい、道案内は任せてくれ。
俺は飛雁に続いて、ドアをくぐり、明るい廊下に出た。今までの雰囲気と一変して、その廊下は真新しい素材で作られている。ここから先が、澄矢たちの本当のアジトなのだろう。だが、不思議と警備の連中の姿はない。天井を見上げてみたが、監視カメラのようなものも見受けられなかった。
「北斗、澄矢を追え」
飛雁がサンダーバードを構える。俺は壁に手をついた。はっきりと読み取れる画像が、俺の視覚に溢れてくる。
数人の男たちに護衛されて、この通路を通る澄矢。俺はオブジェマインドを続けながら、幻影の中の澄矢を追って歩き始めた。
直進し、突き当たり左、それからふたつコーナーを回って、次は右……
不意に、京葉が俺の腕を引いた。現実に帰った俺は、慌ててあたりを見回した。行く手に人の話し声がする。飛雁が壁にぴたりと身を寄せて、奥の様子を探っている。おそらく、相手の心を読もうとしているのだろう。
俺は飛雁越しに先を覗いた。角の向こうに、ふたりの男が立っている。その後ろには、銀色の大扉。
俺は飛雁にならって、身体を壁に押し付け、息を殺して成り行きを見守った。万が一、相手と戦闘になっても、俺は何も出来ない。役立たずとは言われても、足手まといとは言われたくない。俺はとにかく、飛雁と京葉の邪魔だけはしないよう、おとなしくしていよう。
目の前に強烈なヴィジョンが現れるまで、俺は、俺の手が壁に触れていたことに気づかなかった。
強烈なヴィジョン!
俺が身体を隠している壁に残されていた記憶。
そこには、俺自身がいた!
見覚えのない服を着て、背の高い金髪の男と歩いている。年は今の俺とたいして変わらない。ほんの少し前だろうか。だが、動揺してしまった俺は、正確な記憶の「深さ」を感じ取ることが出来なかった。
並んで歩く男の顔に見覚えがある。あの、CU:BEのセメタリーで「観」た、金髪の美青年だ。俺の推測が確かならば、名前はおそらく、天坂弘和……
だが、天坂弘和は十二年前に死んでいる。俺と一緒に歩ける訳がない。それとも、あの金髪の男は、天坂弘和と別人なんだろうか……
とにかく、ここに俺の姿が残されているということは、俺がここを通ったという動かぬ証拠。澄矢も、俺のことを知っているようだったし…… これはやはり、問いただしてみる価値がある。
俺がひとり、自分の過去について想像を巡らしている間に、飛雁と京葉がタイミングを合わせて曲がり角の先へ飛び出した。慌てて先を覗く。だが、その時にはすでに、ふたりの男は床に転がっていた。
「飛雁……?」
「心配ない、殺してはいない」
俺は恐る恐る出ていった。警備の目的で立っていたのだろう、倒れた男たちの他には、誰もいない。
「飛雁、どうも気になる。随分手薄じゃないか?」
京葉が銀色の扉を見ながら、不審そうに呟いた。
「俺たちの進入は、既に知られている」
飛雁は冷静に言い放つと、銀の扉をためらいもなく開いた。両開きの大きなその扉の向こうでは、手に機関銃を構えた男達十数人が、皆その筒先を俺たちに向けて立っていた。
四 梓は梓だよ
俺たちは武器を捨てると、おとなしく両手を挙げた。
「飛雁、おまえ、こうなること知っていたのか!」
京葉が鋭く叫ぶ。
「考えてみればわかるだろう」
飛雁はいたって冷静だ。
「澄矢には、梓がついているんだ。俺たちの進入くらい、予知できる」
……そういうことか……
「地下階段を降りたとき、既に周囲を囲まれていることがわかっていた。下手に逃げ出すよりは、先へ進んだ方が賢明だと思ったんでね」
「なるほど、肝の据わったリーダーどのだ」
言いながら、機関銃の男達の向こうから、黒服姿の澄矢が現れた。
「梓が世話になっていたようだな」
澄矢は小型の拳銃を取り出すと、まっすぐに飛雁に照準を合わせた。京葉や俺など、眼中にない、という様子だ。
「敬意を払って、俺自ら引き金を引いてやろう」
とっさに、俺の身体が動いた。
俺は飛雁の前に飛び出すと、澄矢を睨みつけた。
「飛雁は撃たせない!」
無意識に、そんな言葉が口をついて出る。
「おやおや……」
澄矢は大げさに肩をすくめて見せた。
「北斗、おまえ、いつからそいつの犬になったんだ?」
犬、か。
澄矢の嘲笑にも、俺は腹が立たなかった。飛雁の犬なら望むところだ。
それよりも、今は澄矢から俺の過去について聞き出さなければならない。
「おまえ、俺を知っているんだな?」
俺は、澄矢は氷のように冷たい微笑を見つめた。
「ああ。知っているとも」
俺の全身に緊張が走る。
「北斗よ。おまえのことは、生まれたときから知っているぞ」
「…………」
「俺たちの所へ戻れ、北斗。おまえはここ以外の世界では生きられない」
「…………」
と、今度は飛雁が俺を庇うように前に出る。
「ほほう?」
澄矢は腕を組むと、余裕タップリに、
「飛雁・レールスター、おまえも、父の意志を継ぐつもりか。無駄なことだ。その人形を守っても、何にも生まれはしない」
……何のことだ?
澄矢は俺を顎で指した。
「『北斗』はただの肉の塊にすぎない。そこには肉としての価値しか存在しない」
……澄矢の言いたいことが、よく、わからない……
だが、何だろう。今まで感じたことのない、所在なさを覚えて、俺は思わず、飛雁を見上げた。
俺の心に生まれた不安を、飛雁は敏感に感じ取ったのだろう、彼の目元が険しく歪んだ。
「黙れ」
飛雁の身体にみなぎる気迫。
「それ以上、一言でも北斗を中傷してみろ。たとえ梓に憎まれようとも、貴様を許しはしない!」
飛雁!
俺は、このとき、初めて飛雁の本当の強さを知った。飛雁は俺の命だけではなく、心も、名誉も、その全てを守ろうとしてる…… 徹底的に、俺という存在を守ろうとしてくれている……
「俺は、平気だ、飛雁」
飛雁への感謝以上の気持ちが、俺の口にその言葉をのぼらせた。
「俺は何とも思っちゃいない。それより、こんな男を信じた梓が可愛そうだ」
「梓、か」
澄矢はよく響く声で高く笑った。
「単に幼なじみというだけで、俺を疑うことを知らない愚かな奴よ。だが、奴の力は使える。俺がこれから闇社会を牛耳る上でな」
こいつ…… 改心する、なんてのは嘘だったんだ! 梓、騙されて……
「なるほど、それだけ聞けば十分だ」
飛雁がにやりと笑う。
「用は済んだ」
「飛雁?」
俺は笑みの浮かんだ飛雁の顔を見た。十数丁の機関銃の銃口を突きつけられて、なぜ、笑える? 笑っていられる?
「今だ!」
飛雁が叫ぶ。
一瞬の出来事だった。
廊下から飛び込んできた小さな影。希美だ! 少年は、機関銃の男達を飛び越えて一気に澄矢の喉元に迫った。ザッと鈍い音が響いて鮮血が舞う。その隙に、飛雁と京葉がそれぞれのSWを拾い上げ、銃を構えた男達に襲いかかった。俺はとっさにその場に座り込んで頭を抱えてうずくまった。
情けない話だが、こういうシーンを目の当たりにするのは怖い……
血が怖い訳じゃない。悲鳴や死体が怖い訳じゃない。ただ、普段笑いあっている友人が人を殺める姿を見たくない。それだけが怖い。その表情、その動き、その声。一度焼き付いたら、二度とまともに顔を見られないような気がして、俺は耳を塞ぎ、眼を堅く閉じる。
周囲の空気が静まるのに、長くはかからなかった。
俺の肩を、乱暴に京葉が揺すった。
「いつまでそうしている気だ?」
晶刃から垂れた血が、グローブまで濡らしている。
「澄矢が逃げた。追うぞ」
俺は震える膝でどうにか立ち上がった。よろめく俺を、希美が支えてくれる。だが、その希美の幼い顔も、おびただしい返り血を受けている。俺は無意識にグローブをはめた。素手で希美の服に触れるのも、恐ろしかった。
俺がどんなに見たくないと思っても、部屋の惨状は嫌でも目に入る。赤い絨毯の上に、転がったいくつもの身体。俺は逃げるように廊下に出た。が、廊下の壁に身体を預けて、俺は立ち止まった。極度の緊張が続いたためか、身体も頭もしびれている。
「北斗、何をしている?」
京葉がきつい口調で、
「オブジェマインドで追うんだ。北斗!」
「よせ、京葉」
飛雁が、動けない俺の前に膝をついて、優しい目で見上げた。
「無理はしなくていい。ここからは俺がやる。おまえは希美とCU:BEへ戻れ」
「……だ、だけど……」
「いいんだ、北斗。おまえは立派に案内役を果たしてくれた。これで十分だ。濡れ仕事は俺や京葉の担当だ」
……駄目だ。最後まで、ついていく。ついていきたいんだ。
俺はきっぱりと首を振って拒絶した。
「俺も行く。澄矢に聞きたいことがある。それに、このまま梓を放ってはおけない」
「北斗が行くなら、僕も行くよ」
希美が、俺の肩を支えながら、飛雁を振り返った。
「澄矢は許せない。絶対に」
希美の眼に、嫌な光が灯る。狂気じみた色。俺は思わず希美の手を握った。驚いたように俺を見た希美の目は、いつものあどけない瞳に戻っている。
「わかった。ふたりとも、ついてこい」
飛雁はきびすを返して歩き出した。京葉が最後尾で舌打ちするのが聞こえる。おそらく、希美が同行することが気に入らないのだろう。
「飛雁、澄矢の行方がわかるのか?」
俺は迷わず道を選んでいく飛雁を不思議に思って尋ねた。
「澄矢の心は乱れている。希美に深傷を負わされたからな。今なら、あいつの心の波長が離れていても読み取れる。急ごう。梓の元に向かっている」
俺たちはいつしか小走りになっていた。飛雁に導かれるまま、いくつもの階段を降り、廊下を抜ける。
「そういえば、澄矢もSAを持っている、って聞いたけど……」
「テレポート」
俺の唐突な質問に希美が答えた。
「言ったことのある場所なら、高速で移動できる。まるで、一瞬で移ったように。もっとも、壁や天井を突き抜けるような移動は無理だけどね。さっきも、あの部屋の扉が開いたままだったから、逃げられたんだ」
テレポート? そうか、それで、屋上から飛び降りても無事だったんだ。おそらく、安全な場所に移動したのだろう。しかし、突拍子もないSAばかりだ…… もっとも、今では俺もそんな妙技を持つひとりなのだが。
飛雁が立ち止まった。目の前に、地下に続く梯がある。梯の周りには、点々と血の痕があった。どうやら、澄矢はあの部屋からこの場所まで、SAで移動したらしい。
俺たちは慎重に梯を降りた。ついた先は、地下道だった。薄暗い電灯が所々に点滅しているような、じめじめした石造りの地下道が続いている。梯を降りてすぐの所に、一台のリニアカーが置いてある。地下道内に平行して二本のレールが走っている所をみると、おそらくもう一台あったのだろう。重症を負っている状態でSAを使うことは、命を削ることにつながる。澄矢が使ったに違いない。
飛雁はリニアカーを一通り調べると、京葉に向いた。
「京葉、操重力を頼む。推力システムは生きているが、電磁石を砕かれてしまっている」
追手を避けるために、澄矢がやっていったのかもしれない。レールから電磁石の力で浮かんで走るリニアカーにとって、推力よりも磁石が破損する方が厄介なのだ。
全員が乗り込むと、京葉はSAでリニアカーをわずかに浮上させた。これこそが正しい操重力の使い道だと思う。
飛雁が推力のスイッチを入れる。レールにそって、リニアカーは徐々にスピードを増しながら走り始めた。
後部座席の俺と希美は互いに身をもたせて目を閉じた。短い間に、あまりに多くのことが重なって、今、自分が何をしなければいいのか、それさえあやうい。だが、飛雁と共に行こう。その思いだけが、俺の行動を決定している。
何故だろう。
そういえば、澄矢が言っていた。飛雁が、父の意志を継いで俺を護る、と。だとしたら、俺は飛雁の父親にも、護ってもらっていたことになる。飛雁の父親が俺の恩人……だから、俺は飛雁を護りたいと感じるのだろうか。飛雁を懐かしく思い、彼に対して警戒心を抱くことがなかったのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えていたとき、
「どうして、こいつを連れてきた?」
前の席で、京葉が飛雁にささやくのが聞こえた。希美のことを言っているのだろう。幸か不幸か、希美はぐっすり眠っているようだ。こんな会話を聞かれたくはない。
「計画には、なかったはずだぞ、飛雁」
「だが、おかげで命拾いしたじゃないか」
「結果を言っているんじゃない。こんな危険な奴には関わりたくないだけだ」
「おまえはそう言うがな、京葉。希美はおまえが思っているほど、手に負えない厄介者じゃないぞ」
「だが、こいつの親父は……」
「おい」
たまり兼ねて、俺はふたりの間に口を挟んだ。
「希美個人を攻めるだけでは足りずに、身内まで持ち出すのか」
京葉がぎろりと俺を睨む。
「北斗、おまえも飛雁も、どうかしてる。催眠術師の本当の怖さを知らないんだ」
俺は隣で眠る希美の顔を見た。無垢な寝顔。なぜ、この子をこれほど責めるのだ? 希美が京葉に何をしたというんだ?
希美を傷つけられるのは、我慢がならない。
「京葉、この一件が片づいたら、一発殴らせろ」
「……勝手にしろ」
リニアカーは走り続け、いつしか俺は眠りに落ちていた。
どれくらい走っただろう。距離的には、既にオルダーを出ているはずだ。地下通路のため、地上の風景はわからない。
俺たちはレールの終点で、もう一台の血のついたリニアカーを見つけた。やはり澄矢はここに来ているのだ。プラットフォームには点々と血が残っている。血痕は灰色の階段へと続き、階段の上のドアは半分開いたままになっている。
俺たちは足音を忍ばせて階段を上がり、扉をくぐった所で息を飲んだ。
ドームの中だった。それも、透明なドームだ。天井や壁、床にさえ照明が用意され、外からは半球型の光の玉のように見えるだろう。それも、緑色に輝く玉だ。ドーム内は、あらゆる植物で満たされていたのだ。
足下にはさまざまな色合いの緑の葉が茂り、壁天井には蔦生の植物が一面に這う。俺の身長ほどの低木が何本か植え込まれ、ドームの真ん中を貫くように、白い石を敷き詰めた小道がある。道は奥へ伸び、床は奥へ行くに従い、階段状に高くなって、一番向こうに、木々に囲まれた白い石造りの天蓋がアーチ型に作られている。
空気は澄んでいて、柔らかい草木の香りが俺の混乱気味の心を落ち着かせてくれる。所々に咲いた色とりどりの花が、控えめな芳香を放っている。暖かい風が、小道を吹き抜けていった。空調システムの生み出す人工の風なのだろう。
初めてだ。こんなにみずみずしい空気を感じたのは…… 俺が知っているのは、いつも冷たい風と熱すぎる風。優しい風を頬に受けるのは、生まれて、初めてだ…… そんな気がする。植物たちの息遣いが聞こえるようだ。木々の間に、人間の隠れている様子はない。
満身に光を浴びる植物と、きらきら光る石の小道を通って、俺たちは奥へ進んだ。
小道には、紅い鮮血がぽつりぽつりと残っている。血の痕を追って、やがて、白亜の天蓋に近づいた俺たちは、天蓋の下の石造りのベンチに腰を下ろした、桜庭梓に出会った。
裾の長い薄紅色のドレスが、乱反射する照明を受けて官能的に波打っている。彼女のすらりと伸びた白い腕に抱かれ、膝に頭を預けて、澄矢が眼を閉じている。眠っているのか、それとも……
希美に受けた喉の傷からは、今も尚、出血が続いている。梓の細い指が鮮血に濡れながら、傷口を押さえていた。
「梓」
飛雁が進み出た。梓は顔を上げない。ただ、澄矢の寝顔を見つめたまま、まるで幼い子をあやす母親のように、その背中を撫でている。
「どうして、ここへ来たのですか?」
梓の静かな、それでいてよく通る懐かしい声。俺は唇を噛んだ。脚が震える。梓のうつむいた横顔を見つめ、これは夢なのではないかと思う。
「どうして、私たちを、そっとしておいてくれないのですか?」
「梓、近いうちにCU:BEがオルダー闇社会を消しにかかる。ドームの一部を吹き飛ばしてでも、澄矢たちを抹殺するつもりだ」
事務的な口調の飛雁。梓はその報告に驚いた様子はなかった。
「知っています」
彼女は呟くように答えた。京葉が一歩出る。
「澄矢は、あなたを利用しているだけだ。改心するつもりなんか無い。騙されているんです!」
梓は眼を伏せた。
「……知っています」
俺たちは言葉に詰まった。
梓は、全てを承知の上で、ここにとどまっているのか? 澄矢に裏切られて、それでも?
「三年、私はずっと考えていました」
小さくとも、しっかりとした声で梓は話し始めた。
「三年前、私は逃げることしかできませんでした。澄矢に、普通の暮らしに戻って欲しい、それだけが願いでした。けれど、CU:BEで時を過ごし、私自身の本当の願いを見つめ続けて、気がついたんです。どんな世界でも構わない、と。澄矢と共にいられるなら、澄矢が私を必要としてくれるのなら、たとえそれが人の道に外れていようと。……いえ、正しい道なんて、初めからどこにもない……と」
梓……
「私たちを、そっとしておいて下さい。もう、構わないで……」
飛雁の、毅然としていた目元が曇った。
「おまえは、それでいいのか?」
その声は、CU:BEのリーダーとしてのものではない。梓を想う、飛雁自身の声だ。
「俺は、おまえが幸せだというなら、どんな事にも耐えよう。身を引くことが望みなら、喜んで背を向けよう。だが、梓、俺に偽りが通用しないことは、おまえが一番よくわかっているだろう?」
梓は初めて顔を上げ、飛雁を見つめた。茶色の深い瞳に哀しみが宿っている。今にも、涙が零れそうな瞳だ。
胸が痛い。
「飛雁さん。人の心にあるものは、真実だけではありません。たとえ矛盾しているように見えても、私にとって、こうすることが全て。あなたの眼にどんな心が映っても、私には、今こうしていることが最良の道なのです」
「……逃げるのか?」
飛雁の声が震えている。
「……逃げるというのか、現実(目の前)から」
「……私には、あなたのように強く生きる力はありません……」
「嘘だ!」
珍しい。飛雁が声を荒らげる。それも、怒りじゃない。哀しみ…… どうして、そんな眼をする? 飛雁……
「俺はおまえの強さを知っている。だからこそ、俺はここへ来たんだ。変わった俺を見て欲しかったから。おまえの強さに、俺はずっと憧れてきた。俺にはない、強さに……」
「飛雁さん……」
「来い、梓!」
「…………」
飛雁……
梓の顔が苦しげに歪められる。澄矢の肩を強く掴む。
俺も希美も京葉も、そして飛雁も、ただ梓を見守ることしか出来なかった。梓が下す決断を待つことしか出来なかった。
緑がかすかに揺れている。花の香が漂ってくる。俺は堅く拳を握り締めた。
怖い…… 何だろう、凄く怖い…… 何が? わからない。
小刻みに震える梓の膝の上で、澄矢が身体を起こした。ゆっくりと、眠りから目覚める、幸せな子供のように。
「澄矢……」
梓が気遣わしげに呼びかけた。と……
俺は我が眼を疑った。
「動くな」
澄矢が梓の胸に銃口を突きつけたのだ!
「澄矢……?」
梓の困惑が伝わってくる。飛雁がサンダーバードに、京葉が晶刃に手をかける。
「武器を捨てろ」
梓を人質に取ったまま、澄矢が吠える。
手負いの彼は気が立っている……
飛雁が大人しく武器を投げ出す。サンダーバードが石に弾かれて高い音を立てた。京葉も、希美も、SWを捨てる。俺はふと、左腕のホワイトアローを思った。ジャケットを着ているおかげで、澄矢には気づかれていない。俺はわざと両手のグローブを外して落とした。何も持っていないことを示すように、両手を開いて見せる。
澄矢は嫌な笑みを浮かべた。余裕? 違う。すでに澄矢には、自力で歩く力さえ残されていないはずだ。あれだけの出血では、意識を保っているだけで精いっぱいだ。
だが、おそらく、銃の引き金を引くことくらいならできる。
「飛雁、おまえの父親に俺たちは、随分と邪魔をされたものだ。もっとも、おまえ自身は知らぬことだろうがな」
飛雁は澄矢から眼を離さない。
「ここで始末をつけてやる」
身体が動いた。気づけば、俺は飛雁の前に立っていた。そう、まただ! 飛雁を庇おうとする。無意識に身体が動くんだ。
「犬、か」
嘲るように澄矢が吐き捨てる。
「恩人の子に、忠義を尽くすか。それくらいの知能はあるようだな、北斗」
「…………何故だ? 何故、俺のことを知っている? おまえは……」
「それが知りたければ、飛雁を殺せ」
…………
「そうすれば、洗いざらい聞かせてやろう。急ぐことだ。俺は気が短いんでね」
梓の胸に銃口が食い込む。こいつ、本当に撃つ気なのか!
「北斗」
飛雁が静かな声で呼んだ。
「奴は本気だ。奴の身体は長く持たない。だが、梓は道連れにするつもりだ」
「飛雁……」
「俺を殺せ、北斗」
!
「おまえがようやく掴んだ記憶の手がかりだろう? 自分のことを知るチャンスだ」
俺は、足下に転がっているサンダーバードを見つめた。
できるはずはなかった。
ああ、そうだ!
この身体が知っている。俺は、飛雁を護る。それは、俺の過去に何があろうと、絶対なんだ!
だが、澄矢から俺のことを聞きだせる機会は今しかない。
長引かせれば、自分の命に限界を感じた澄矢が、梓を道連れに果てるだけだ。そうなってからでは遅い。
「北斗」
飛雁の目が、俺に命ずる。俺は震える手で、サンダーバードを拾い上げた。
「いい子だ、北斗」
澄矢が間延びした口調で言った。
「殺せ、北斗」
澄矢が言う。
「殺せ、北斗」
飛雁が言う。
俺には、できない。
わかっている。それだけは確信している。
飛雁、これだけ近くにいて、俺の気持ちがわからないおまえではないだろう?
なのに、どうして俺に不可能を命じる?
どうして、俺にこの刃を握らせた? どうして……
あ…………
手のひらから伝わるサンダーバードの記憶。
笑う俺の顔……
飛雁の眼に、俺の笑顔はこんな風に映ってるのか。
刹那、何かが俺の全身を突き抜けた。
ここに、俺がいる!
過去がどこにあっても、俺はここにいるんだ!
「どうした? やれ!」
澄矢の声が苛立つ。
俺は澄矢に向き直った。
「断る」
はっきりと、俺は言い放った。
「おまえの知る俺の過去より、大切な『今』を知った」
「愚かな…… たとえ、おまえの前に何があろうとも、過去は変わらぬ。おまえの存在が変わることはない」
澄矢の指が引き金にかかる。梓が覚悟を決めたように眼を閉じる。
「北斗」
澄矢には聞こえない、低い声で飛雁が言った。
「澄矢は撃つ。四秒だ!」
俺はサンダーバードを手放すと、素早く右手を左肘に添えて、ジャケットの下から、ホワイトアローを構え発砲した。
澄矢の銃がはじき飛ばされる。
梓は澄矢の腕を逃れると、床を転がって銃を拾い、飛び起きた。素早い。流石はCU:BEで鍛えられた運動神経だ。
梓は澄矢に銃を向け、見下ろした。だが、彼女に撃つ意志はない。ただ、涙ぐんだその目が、あまりに痛々しかった。
俺は澄矢に一歩一歩、歩み寄った。倒れた彼の傍にかがみ込む。
澄矢の顔や手足は蒼白で、全身に汗が浮いている。限界を越えているのだ。
「澄矢」
うっすらと開いている澄矢の黒い瞳。色あせた唇から、とぎれとぎれの呼吸。喉の傷は既に流す血も失せたように、生々しい口を開いている。
「北……斗……」
薄氷の笑みが、今まさに命果てようとする顔に浮かぶ。
「教えてやる…… おまえは……」
澄矢の眼が俺を捕らえてはなさない。唇がかすかに動き、絞り出すような声が……
その時、希美が音もなく俺の脇に立った。梓の手から銃を取り上げると、無造作に澄矢に向けて引き金を引いた。
銃声。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ……
銃弾は澄矢の頭蓋を砕き、俺の顔に生暖かい血が飛び散った。
声が出なかった。
俺は震えながら、希美を見上げた。
どこか物憂げな、感情のない眼だ。自分が今、ひとりの人間にとどめをさしたことなど、何も感じてはいないというような……
「北斗」
希美がうつろな眼のまま、呟くように言った。
「北斗は、僕の友達だよ。それが全て」
俺は、何故震えていたのだろう。
恐怖か。歓喜か。
わからない。
「ここに、いたんだ」
俺はCU:BE住宅棟の端にある、展望テラスの一角で、飛雁と梓を見つけて近づいた。
闇夜に紛れてオルダーに進入したあの日から、すでに三日が過ぎている。CU:BEに復帰した梓は、今まで通り、俺たちのチームに配属が決まっている。
全てが元通りのように思えた。
俺の心に残った、いくつかのわだかまりを除いては。
「邪魔、かな?」
俺は冷やかすように飛雁を見た。飛雁は鼻で笑うと、夕暮れの砂漠の景色を眺めた。隣に立つ梓の頬にも、赤い夕陽が溶けていた。
俺は敢えてふたりの間に分け入って、手すりにもたれた。
「北斗さん」
梓が肩までに切った髪を耳にかけながら、照れ臭そうに俺を呼んだ。短い髪もよく似合っている。
「本当に、ごめんなさい。今度のことで、あなたにご心痛を……」
「いいの、いいの」
俺は笑って見せ、
「膠着状態が少しは改善された訳だし。あのオルダーの施設の壁に残されていた記憶、あれ、やっぱり俺だと思うんだ。一緒にいた男も、多分あいつだし……」
「あいつって?」
飛雁が尋ねる。
「ほら、前にセメタリーで墓標を見ていたことがあっただろ? あのときに「観」た、金髪の男だよ。あいつ、天坂弘和じゃなかったんだ。だって、十二年前に死んだ人が、俺と一緒に歩いてるわけないもんね」
「北斗さん…… い、今、なんて?」
梓が食い入るように俺を見つめた。て、照れます……
「いや、だから、十二年前に死んだ人が……」
「その人の名前、何とおっしゃいました?」
「え? 天坂弘和。俺はそう、思っていたんだけど、結局間違っていたみたいで……」
「その人、金髪で青い目で……」
梓は慌てた手つきで、胸に下げていたロケットを開き、俺に差し出した。
「この人じゃありませんか?」
ロケットの中には、三人の人物が映った写真が入っている。日本人女性と、ブロンドの少年、それに……
「……この人だ。間違いない!」
セメタリーで「観」た、そして、オルダーの壁で「観」た、あの男だ!
「どうして? どうして梓がこの写真を?」
梓はロケットの写真を見つめ、
「父です」
「!」
俺と飛雁の驚きの声が和音になる。
「天坂弘和は私の父の名です。でも、CU:BEのメンバーだったなんて、知りませんでした…… 父の想い出、ほとんどないんです。ただ、ある日、血まみれになって家に帰ってきて、そのまま、亡くなりました。私の目の前で…… 十二年前、私が五つの時です」
俺はしばらく声が出なかった。
梓の父親? 確かに十二年前に死んでいるはずの人物が、俺と一緒に歩けるはずがない。人違いか? いや、この人物に違いないはずだ……
頭が混乱してくる。
「何にしても」
飛雁が俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「少しでも進展してよかったじゃないか。梓の父親の遺品から、「観」えるものがあるかもしれないぞ」
「ま、まぁ。そうだけど」
俺は夕暮れの景色を眺めた。何だか、夢でも見ているようだ。俺の過去。記憶。少しずつ、明らかになっていく。梓の父親。澄矢の口ぶりでは、飛雁の父親と俺とも関係があるらしい。
俺はふと、素朴な疑問を口にした。
「そういえば、梓の名字って、『桜庭』でしょ? でも、お父さんは『天坂』っていうの?」
「はい」
梓の頬が赤いのは、どうやら夕陽のせいだけではなさそうだ。
「『桜庭梓』という名前は、飛雁さんがつけて下さったんです」
「はぁ?」
俺はじろりと飛雁を見上げた。
「何でまた?」
「本名のままでは、追手をマケないだろ? それに、本名じゃ梓に合わない」
?
「梓の本名って、そんなに似合わない名前なの?」
「似合わない、って訳ではないんですけどね」
梓は天使の笑みを浮かべた。
「『天坂義高』じゃ、周りが混乱すると思いまして」
「へぇ、ヨシタカっていうんだ、梓……」
適当に相づちを打ってから、俺は思考が停止した。
義高?
「それって、男の名前じゃ……」
「そうだ」
飛雁が大きく伸びをする。
「何で女の子に、そんな名前つける訳?」
「…………」
飛雁と梓が、ぽかんとした顔で俺を見る。
何だ、この妙な沈黙は。
「あの、私、男ですけど?」
…………!
………!
……!
…!
!
俺の絶叫が、CU:BEビル中に響き渡ったことは言うまでもない。
「おまえ、知らなかったのか?」
けらけらと飛雁が笑う。
「梓は男だぞ。三年前、CU:BE(ここ)へ来たとき、身体を変えたんだ。色々厄介だったから、それくらいしないと命が危うかった。まぁ、俺のようにCU:BEに縛られて生きる者には、そこまで大胆な行動は考えられないがな」
……俺にも、考えられません。
「内緒にするつもりは無かったんです。ただ、てっきりどなたかからお聞きになっているものとばかり……」
あ、梓……
「じゃ、何か?」
俺はがくがく震える声で、
「飛雁も京葉も他の連中も、梓が男だって知った上で、追い掛け回していた訳?」
飛雁が照れたように眉を寄せる。
「別に、身体が男だろうが女だろうが、梓は梓だろ。肝心なのは、その心だ。それともおまえ、相手を肉体で選ぶのか?」
え? い、いや、何と答えてよいか……
「梓は、梓か……」
俺はたまらず、その場に座り込んでしまった。何故か、涙が溢れてくる。
「北斗さん?」
俺を気づかう梓の顔は優しい。そしてやっぱりカワイイ。
「そうだね……」
俺は梓にハンカチで涙を拭いてもらいながら、
「梓は梓だね」
笑った。
第四章 スペアパーツ 〇一
一 黄昏ドーム
俺がCU:BEへ来て、一ヶ月が過ぎた。
文字通り裸一貫でこの施設に収容され、自分が何者なのかわからないまま、それでもどうにかここまでやってくることができた。
俺が今までに集めた情報はどれも断片的なものばかりだ。
『西城北斗』という名前が自分に関係していること。
飛雁を懐かしく感じること。
十六年前に、『西城北斗』の名で、何者かがCU:BEに仕事を依頼していること。
その依頼に『天坂弘和』が関わっていること。
『天坂弘和』は梓の実の父親であること。
『天坂弘和』は十二年前に、確かに死んでいること。
自分は『天坂弘和』と一緒に歩いたことがあること。
飛雁の父親が、俺の恩人であるらしいこと。
一ヶ月前に、『西城北斗』が北極の生態研究所を訪ねていること。
『二階堂澄矢』が俺の逃亡に関係していたこと。
うまくパズルが組み上がらない。
俺はミーティングルームのソファに仰向けに寝ころびながら、じっと両手を見つめた。
結局、手がかりになるかと期待していた梓の父親の持ち物は、何も残されていなかった。梓の実家は既に建て替えられた後で、母親は梓がCU:BEに入る前に他の男と出ていってしまい、今は行方知れず。
飛雁の両親については、CU:BEでもトップシークレットのため、情報を得ることができない。
チーム三十三が受けたという十六年前の仕事についてもわからないまま。
オルダーの地下施設にもう一度行くことができれば…… だが、あの地域は澄矢の死によって組織の存続が危うくなり、結果、オルダーの自治組織が買い取ってしまった。既に補修工事が開始され、古い廃材はあらかた始末されてしまった。
完全に手詰まり状態だ。
「北斗?」
希美が身支度を済ませて部屋から出てきた。これから梓や飛雁と一緒にオルダーへ行くことになっている。気晴らしを兼ねて、俺の記憶の断片を探す為に。
「なぁ、希美。俺って一体何者……」
「まぁた、そんなこと言って」
希美はプゥと頬を膨らませた。
「北斗は『僕の友達』だって言ったでしょ。それだけじゃ不足?」
「……『梓の恋人』って肩書きが欲しい……」
「そうはさせんぞ!」
飛雁がシャツのボタンを半分だけかけた状態で部屋から飛び出してくる。着替えの途中だったらしい。俺は苦笑を禁じえなかった。こういう大人げない所があるから、飛雁は面白い。
「いいか、梓は何としても俺が……」
「俺が?」
飛雁は言葉につまり、顔を赤らめてそっぽを向いた。澄矢の一件の後、俺はてっきり飛雁と梓がウマくいっているものと思っていたが、どうやらこの意気地無しは、まだはっきりと梓にコクっていないらしい。
「誰が意気地無しだ!」
飛雁、取り乱すな、みっともない。
「誰が、みっともないって!」
「どうかなさいました?」
梓がコートのベルトを結びながら部屋から出てくる。
飛雁は慌てて梓に背を向け、シャツのボタンを止め始める。
「大きな声を出して……」
「何でもない」
飛雁が気取った声を出す。
「飛雁がね、梓のこと……」
「希美!」
飛雁が怒鳴る。顔が染めたように赤い。希美はにっこりと幸せそうに笑った。この笑顔に、俺たちは弱いのだ。見る者を幸せにする笑顔だ。
俺はふと、戦闘時の希美の鋭い眼を思いだした。完全に別人のように、希美は変わってしまう。どうしてこんなに違うんだろう……
「ねぇ、早く行こうよ。飛雁、制限時間、あと一分ね!」
「ま、待て! 今、上着取ってくるから!」
飛雁が部屋に戻る。すっかり希美のペースにはめられてしまっている。その様子がおかしくて、俺たちは声をあげて笑っていた。
こんな平和が、何より幸せだったのだと、このあと、俺は懐かしく思いだすことになる。
梓の運転する空圧車で、俺たちはオルダーへ入った。
映画館、レストラン、遊園地、動物園、ショッピングモール。俺たちはオルダー中を飛び回るような調子で、ハメを外して一日を過ごした。
飛雁の笑顔。梓の笑顔。希美の笑顔。
高台にある公園で、俺は街の黄昏を眺めながら、大きく伸びをした。隣で飛雁が空を見上げている。ドームに映し出された、偽物の空。梓と希美が俺たちの後ろの花壇に座り込んで、花の香りを楽しんでいる。
「なぁ、北斗」
飛雁が眩しそうに梓たちを眺めながら、
「このままじゃ、ダメなのか?」
「何が?」
飛雁は眼を細めた。
「どうしても、自分の過去を知りたいか?」
……どうして、そんなこと、聞くんだ?
俺は敢えて言葉にせずに、心で尋ねた。その方が、深く飛雁とつながっていられるようで、俺は好きだった。
「おまえが、ずっと自分自身を探していることは知っている。これは単なる俺の我侭だということも自覚しているつもりだ。だが……」
飛雁?
「おまえは俺に言ったな? いや、俺が勝手におまえの心を読んだんだっけ? 『飛雁が懐かしい』と」
ああ。
「俺も、おまえが『懐かしい』んだ」
!
「まさか、おまえも記憶がないとか……」
俺は思わず声に出して尋ねた。飛雁が笑って首を振る。
「いいや。俺はちゃんと覚えてる。ただ、なんとなく、そう感じただけだ」
澄矢の口ぶりでは、おまえの父親と、俺と、関係があったらしいな。
「ああ。だが、俺は父について何も知らない。母も、誰なのかわからない」
不安に、ならないか? 自分は誰か、って?
「俺は俺だ、北斗。言っただろう、俺は俺、梓は梓、希美は希美、そして、おまえはおまえ。たとえ親がだれだろうと、たとえ生まれがなんだろうと、今、俺の傍にいてくれるおまえたちは、それだけで十分なんだ」
俺は、俺、ね。
ふと、澄矢に脅され、飛雁を殺せと言われた時のことを想いだす。
おまえ、俺にサンダーバードの記憶を「観」せるために、わざと拾わせたんだろ?
「今ごろ気づいたか」
飛雁は目を閉じ、
「おまえの過去がどうあれ、今を見て欲しかった。澄矢の言葉に、おまえが傷つけられるようで……」
感謝、したらいいのかな。
「わからない。余計なお世話かもしれん」
感謝、する。
俺は飛雁を見つめた。俺よりずっと大人で、なのに誰より、俺に近い、飛雁。
おまえも希美も、俺を護ろうとしてくれたんだな。
「おそらく、梓もそのつもりで銃を拾ったのだろう」
過去より、今、か。わかる。わかるけど、やっぱり俺は知りたいよ。ゆっくりでいいから。
「そうか」
飛雁は深く息を吐いた。
「……北斗、希美の父親を知っているか?」
ふと、飛雁が花壇に寝転ぶ希美を見つめた。
「父親? そういえば、この前、京葉も何か言おうとしていたみたいだけど……」
飛雁や梓の家族については聞いたが、考えて見れば、俺は希美について何も知らないのだ。
「あいつの父親は、CU:BEのボスだ」
飛雁は声を低めた。
「祝賀会のときに会っただろう? あの男だ。希美はボスの一人息子でな。将来は後を継ぐんじゃないか、と噂されてる」
「じゃ、将来自分が仕切る組織を学ぶ為に、今、CU:BEに来てるのか?」
飛雁は首を振った。
「どうやら、そうじゃないらしい。これ以上のことは、俺には話してくれない」
俺は改めて希美を見た。
「あいつ、普段はあんなに無邪気で明るいだろ? なのに、闘いになると、まるで人が変わったように冷徹で……どうしてあんなに変わるんだ?」
「希美は、自己催眠をかけているんだ」
飛雁が物憂げに答えた。
「自己催眠?」
「あいつは知っているんだ。俺たちとうまくやるためには、そのままの自分では駄目なのだと。だからああやって、明るい少年の仮面を被る。自分で自分に催眠術をかけてな」
「あれが、仮面?」
どう見ても、地でやっているようにしか見えないが……
「それで、京葉は希美を避けているのか……」
「ああ。京葉には、希美のあの仮面が目障りなんだ。つい、催眠術師の恐ろしさを忘れさせてしまう、あの仮面が」
それで、あんなに希美に冷たいのか。
「京葉だけじゃない。二年前、希美がCU:BEのオークションにかけられたとき、誰も参加を希望しなかった。俺を除いて」
「それって……」
「希美の催眠術の能力値が異様に高かったからな。警戒したんだ。一歩間違えば、チームの人間までが希美のいいように操られる可能性がある」
フッと飛雁は笑った。
「現に俺も、レイモンド教授の件では、してやられた訳だが」
「でも、俺には効かないよ、希美の催眠術」
飛雁はしばらく表情を変えずに、景色を眺めていた。透き通った灰色の眼……どこかで、似たような眼を見たことがあるような…… 何だか、考えれば考えるほど、混乱してくる。
「北斗、おまえの肌、キレイだよな」
!
「な、何言って……」
俺は思わずコートの襟を押さえた。
「い、言っておくけど、変な気起こすなよ! 俺はおまえのこと嫌いじゃないけど、その、別に梓みたいな意味で好きだと言っているわけじゃなくて……」
飛雁は呆れたように俺を睨んだ。
「誰がおまえの身体に興味がある、と言った? 肌の組成に関してだ」
は?
飛雁はジャケットのポケットをまさぐると、畳んだ紙切れを一枚、俺に渡した。
「おまえに渡すのを忘れていた。おまえの診断書のコピーだ」
俺は押し付けられるままにそれを受け取ると、紙を開いた。
飛雁が俺の為に特別に用意してくれたのだろう。意味の分からない英単語やアルファベットの略称に、赤文字で細かな説明が加えられている。
「その診断書によれば、おまえの皮膚は非常に薄い。まるで生まれたての赤ん坊と同じだ」
それって、どういう……
「おまえがどこでどのように育ったかは分からないが、普通の育ち方をしていない、ってことだけは確かなようだ」
紙切れには、身長・体重などの基本的な数値に加え、SAに関する能力値も記されている。
「希美の催眠術など、受け付けなくて当然だ、それほどに数値が高い。確かにおまえにはオブジェマインドの才能がある。だが、それだけでは終わらない。そこに出された数値が真実なら、おまえのSAはひとつではない。正確には、途方もない可能性を秘めている」
俺としては、オブジェマインドだけで十分だけど。
「おまえがそう思っている間は、他の力は発現しないだろう」
飛雁は眼を閉じた。
「気をつけろ。狙われるぞ」
それ、どういうこと?
「おまえのような逸材を欲しがる輩は多い、ってことだ」
戦闘員として?
「それだけじゃない、切り刻んで研究する材料としても、な」
……ぞっとしない。
「ああ」
俺は平和そのもののようなオルダーの町を眺めた。ドームの天井を支える巨大な柱が、等間隔に百本近く建てられている。特殊プラスチックの天蓋に護られて、この都市は人々を生かしている。世界中に散らばる数百のドーム都市は、皆それぞの特徴を持って運営され、人々は自分の好みに合った都市を選ぶことができた。
目の前に広がるこのオルダーのどこかで、俺は育ったのだろうか?
一ヶ月前、俺は何処から逃げ出してきたのだろう。
……考えすぎて、腹が減ってきた。
「そうだな、夕食にでもするか」
飛雁が希美たちに声をかけようとする。俺は慌ててそれを止めた。
「飛雁、俺と希美は消えてやるよ」
俺の突然の申し出に、飛雁は不思議そうな顔をする。
「チャンスを作ってやる、って言ってるんだ。今夜で梓をモノにできなかったら、次は俺がアタックさせてもらうからな」
「…………」
「それじゃ、九時にゲートで待ってるから、頑張れよ!」
力いっぱい飛雁の背中をひっぱたくと、俺は梓に適当な理由を言って、希美を連れて公園を離れた。
「北斗、友達思いだねぇ」
希美が並んで歩きながら、にやにやした顔で言う。俺もつられてにんまり笑う。
「そりゃ、飼い主サマの為だからね。俺、忠犬だし」
「面白がってるだけでしょ」
「何を言う? 身を切られるようなんだぞ。俺だって、梓が本命なんだから」
「男だ、って聞いて、大慌てしてたくせに」
「済んだことだ」
俺たちはふざけあいなら、適当にレストラン街をぶらついていた。どの店も競うようにライトアップされ、夕闇の暗さを打ち消している。賑やかに話しながら歩く人々の群れは、俺の心にわだかまる寂しさにも似た不安感を、紛らわせてくれる。そして何より、希美の笑顔が嬉しい。
「北斗、何食べる? 僕、おいしいパスタの店、知っているんだけど?」
「ああ、任せるよ。おまえ、オルダーには詳しいもんな」
「ここ二年の間で勉強しました!」
にっこり笑う希美。
これが、本当に自己催眠の結果の笑顔なんだろうか。
「北斗、ほら、あそこのお店!」
希美が通りの向こうを指さしたとき、突然四方八方から、金属のぶつかり合う重たい音が聞こえてきた。まるで、ドーム自体がきしんでいるようだ。
その直後、パッとドーム中の電灯が消える。ざわざわと周囲の人々がささやきあい、遠くからパニックを起こしたような甲高い悲鳴が上がる。
真の闇だ。
俺は手探りに希美を引き寄せた。
「希美、何があったんだろう?」
「わからない。事故かな? さっき聞こえてきた音、多分ゲートの……」
薄暗い、非常灯が点灯する。だが、深夜の明度にも劣るほど頼りない明るさだ。ドーム中に反響する女声のアナウンスが流れた。
『オルダードーム内の皆さまに御案内いたします。現在、電力システム移譲の為、一時的に全てのゲートが閉鎖されております。また、非常灯、ならびに非常時音声アナウンスを除き、全ての電力の供給が停止しております。復旧作業を進めておりますので、皆さまには、落ち着いてその場でお待ち下さいますよう、お願い申し上げます』
ドーム都市の電力トラブル、か。珍しいこともあるものだな、と俺は変に関心してしまった。最新鋭のコンピュータによって管理されているドームの維持システムが、ほとんどすべて停止してしまうとは……
「閉じこめらちゃったね」
希美が俺の腕をしっかり抱いた。非常時なので大目に見る。
「飛雁の奴、このアクシデントをうまく利用していればいいけど……」
「あのふたりじゃ、ムードもへったくれもないよ。こういうのには慣れっこだもん」
世話の焼ける親友だ……
だし受けに、上着の襟につけてあった通信機が鳴った。
「飛雁か?」
俺は通信機に向かって尋ねた。が、返答はない。その代わり、聞きなれない男の声が返ってきた。酷く慌てているようだ。
『CU:BE全職員へ。緊急事態発生。現在全てのビル機能が、ウイルスによって麻痺した。物理攻撃の恐れあり。戦闘態勢をとれ。外出中の職員は全て万全な体勢のもと、帰還されたし。繰り返す、緊急事態発生……』
希美の通信機からも、同様のメッセージが流れてくる。俺はチャンネルを変えて飛雁を呼びだした。
「聞こえるか、飛雁!」
隣で希美が梓を呼んでいる。電波が混線しているのだろうか、雑音が混じって聞き取りにくい。
「飛雁!」
『……北斗か? 今の通信は聞いたか?』
「ああ。こっちは希美と一緒だ。場所はKZ通りの南三ブロック、どうしたらいい?」
『……CU:BEに戻る。車を停めてあるゲートで落ち合おう』
「でも、都市は閉鎖されてる……」
『裏の抜け道はいくらでもある。希美に案内してもらえ。おそらくこれはただの事故じゃない。急げ、次に何が起こるかわからないぞ!』
「了解、リーダー」
俺は希美と共にごった返す人込みの中を急いだ。だが、なれない緊急時とあって、人々は誰もがヒステリックになっているらしい。誰かにぶつかる度に怒鳴られる。喧嘩をふっかけてくる相手さえいる。(そういう場合は希美の催眠術でおネンネしてもらう)
ゲートまで、あとわずかでつけるだろう。だが、俺たちの予想は甘かった。ゲート付近には、街中とは比べられないほど多くの人間が集まっていた。閉じこめられた、という不安感から、人々は手近のゲートに殺到していたのだ。駐車場まで進めそうにない。
「希美、こいつら全部眠らせられない?」
俺は無理を承知で言った。
「名案だね。全員やるのに一週間かかるけど、いい?」
あたりを見回したが、飛雁たちの姿は見つけられない。
俺は通信機を入れた。何度も呼びかけたが、反応がない。どうやら、ドーム内に妨害電波が飛び交っているらしい。
と、希美が不意に身体を押し付けてきた。
「どうした?」
「北斗、あれ……」
希美の視線を辿った先には、まっすぐに俺たちを見つめている、男達の集団…… 七、八人はいるだろうか。皆、黒ずくめで帽子をかぶり、サングラスやトレンチコートの襟で顔を隠している。どうみても怪しい。そして、ヤバそうだ。
「希美、逃げよう」
別方向へ向かおうとした俺は、そちらにも、同様の姿の連中がいるのを見つけて踏みとどまった。背後は押しても動かない群衆。前方にはこちらに迫ってくる怪しい集団。
「北斗……」
希美が震えた声を出す。勤務時間外のため、俺も希美もSWを所持していない。
万事休す。
男達が迫ってくる。俺は身を硬くした。
二 希美
体中が痛い。そして何より、後頭部が割れるように痛い。
どうやら、硬い床の上に転がされているようだ。
俺は眼を開けた。薄暗い赤いランプが数ヶ所に灯っただけの、四角い箱の中だ。どこかで見覚えがある…… そうか、トランスレールの貨車の中なんだ。
両手を後ろで縛られ、自由が気かない。俺は寝返りを打って視界を回した。隅の方に、俺と同じように縛り上げられた希美が倒れている。
幸い、足は自由だ。俺はどうにか立ち上がると、よろめきながら希美に近づいた。たいして広くはない貨車の中には、どうやら俺たちだけのようだ。盗聴器や監視カメラがどこかに設置されている可能性は捨てきれないが、目立ったものは何もない。
汽車は走っているのだろう。規則正しい、レールの継ぎ目の音と振動が床から伝わってくる。
「希美!」
俺は乾いた咽喉で呼んだ。
「起きろ、希美!」
希美が苦しげに息を吐く。良かった、どうやら気を失っているだけのようだ。
俺は希美の隣に座り込むと、今の状況を整理した。
オルダーで飛雁との約束のゲートにたどり着き、怪しげな男連中に後頭部をしたたか殴られて気を失っていたのだ。
これから、どこへ連れていかれるのだろう。あいつらは何者だ?
そういえば飛雁が、気をつけろ、って言っていたっけ。早速どこかの組織が俺に目をつけたのだろうか? 俺はひき肉みたいに解剖されるのだろうか……
オルダーはあの後、どうなったんだろう。飛雁と梓のことだから、大事には至らないと思うが…… 念のために調べて見たが、やはり俺も希美も通信機を盗られている。
とにかく、ここから逃げ出さなくては……
貨車の扉は貨物運送用の大きなものだけだ。それも、外側から錠が降りているらしい。天井や床にも、通風口さえ見あたらない。
ホワイトアローがあれば、鍵を焼き切ることもできただろうが、残念ながら、あれは俺の私室の金庫の中だ。
そうだ、オブジェマインドで何かわからないだろうか? ここに俺たちを乗せた連中の姿くらいは残っているかもしれない。だが、惜しまれることに、この体勢では自分でグローブを外すことができない。せめて、希美が目を覚ましてくれれば……
ちょうど、俺の希望に答えるように、希美がぼんやりと眼を開けた。
「希美、俺がわかるか?」
身体を傾けて希美の顔を上から覘く。
「……北斗?」
「良かった。希美、俺のグローブの指先を噛んでくれ。外したい」
俺は身体をひねって希美の前に手を回した。
「うん」
「頼んだぞ。オブジェマインドでここを調べれば、俺たちを閉じこめた犯人くらい、わかる……つっ!」
希美、指まで噛むな!
「ごめん、間違った……」
大丈夫か、こいつ……
希美にグローブの先をかませたまま、俺は少しずつ体勢を変えた。どうにか右手だけ、外すことに成功する、左手はグローブを巻き込む形でロープが掛けられているため、脱ぐことができない。
俺は身体を倒し、床をまさぐった、冷たい、金属板を丁寧に調べていく。
辺りが暗い。よく、「観」えない。
……あの男たちだ。俺と希美はすでに腕を縛り上げられた状態で、男に担がれている。男たちは俺たちを貨車の中に乱暴に放り出した。そうか、これで全身が痛んだ訳だ…… 畜生! 人を何だと思っていやがる!
貨車内に残されていたのはそれだけだった、役に立ちそうもないな。
「北斗、どう?」
起き上がっていた希美と背中を合わせて、仕方なく俺は座った。背中から希美の体温が伝わってくる。寒い貨車の中では、これだけでもありがたい。
「どうもこうもない。俺たちは粉袋みたいに、どさっとここに放り込まれたらしい」
「あいつら、多分……」
「心当たりがあるのか?」
「うん。おそらく、合成人間……」
「何だ、そりゃ?」
「北斗が来る前に、何度か戦ったことがあるんだ。ルーシスで開発された、戦闘用のアンドロイドだよ」
「ルーシス…… あの軍事都市か」
ルーシスへは以前の教授のミッションで一度行っただけだったが、常に薄暗い、陰気で殺伐とした場所だったと記憶している。
「あいつら、強いのか?」
「筋力は普通の人間の比じゃない。でも、主人に命令されなきゃ、何もできない人形だよ。知能はないに等しい。だから、催眠術もきかないんだ」
催眠術はある程度の知能を持った生き物にしか通用しない。脳の構造によるらしい…… ん。待てよ?
「俺に催眠術が効かないってのも、まさか知能が足りないから、なんてことはないよな?」
「あ、そうかも……」
嘘……
「冗談だよ、北斗」
…………
「北斗の場合は特異体質。それだけのこと。だって、ちゃんと飛雁の読心術には反応してるでしょ?」
「ああ、嫌というほど、心読まれてます」
近距離なら、俺のSOSが飛雁に届くのだろうが、列車で高速移動している今、彼とどれだけ距離が隔てられてしまったかわからない。気を失っていたために、飛雁に助けを求められるチャンスを逃したかも……
「考えてもしかたないよ」
希美が背中にもたれてくるのがわかる。
「とりあえず、どこかに着くのを待とうよ。今の段階でできることは何もない」
「おまえ、随分落ち着いているな? これから、どんな目に合うかわからないんだぞ」
「だから、だよ」
?
「どんな目に合うかわからない、つまり、それが全部悪いことだとは限らないでしょ」
「悪いことだと思うぞ、十中八九」
「それに、北斗と一緒だもん。恐くない。僕、北斗と一緒なら、大丈夫だよ」
希美の声に、暗さはない。本心からそう言っているのがわかる。だが、俺には不思議でならないのだ。確かに希美は人懐っこい性格をしている。たとえそれが仮面だとしても。とはいえ、出会ってまだ一ヶ月あまりの俺に、梓や飛雁以上の周宅を見せるのは頷けなかった。単に新しいものに対する興味なのだろうか。
「希美?」
「うん?」
「おまえ、どうしてそんなに俺になついてくれるんだ? そりゃ、嬉しいけどさ。俺たち、出会ってまだひと月しかたってない」
希美は即答しなかった。単調な列車の車輪の音が聞こえる。
「北斗には、僕のSAが効かないから、だよ」
?
「僕ね、皆に嫌われてる」
ぽつりぽつり、希美は話し始めた。
「父さんにも、ね」
「父さん? おまえの父親って、確か……」
「うん。CU:BEのボス。他にも、大手の医療会社や軍事施設なんかを持ってる。オルダーはほとんど、父さんの縄張りだよ」
「その人がお、おまえを?」
「うん、嫌ってる」
「どうして? おまえ、ひとり息子だろ? 実の息子を嫌う父親なんて……」
「いるんだよ。それに、僕、『実子』じゃないもん」
…血がつながっていない養子、ということだろうか?
母親の連れ子だったとか?
だが、希美の話は俺の予想を遥に越えていた。
「北斗、僕ね。人間じゃないの」
「は?」
「僕ね、クローンなんだ」
ク、クローン?
「ちょっと待て! クローンは確か、医療目的以外で製造が禁止されていたんじゃ……」
「人間の欲求が法律で押さえられるなら、犯罪なんて起きないんだよ」
…………
「全ての始まりは二〇年前だった」
希美は深く息を吸い込んだ。
「両親の間に男の子が生まれた。その子は両親に愛されながら、健康に育った。ところが、五才の誕生日を迎える前日、母親とその子を乗せた航空機が、休暇先の父親の元へ向かう途中に落雷にあって墜落。母親は死亡。子供は瀕死の重症で、病院に運ばれた時には、もう、助からない状態だった。父親は酷く嘆いてね。息を引き取る前に、子供の体細胞を培養液で保管し、技術の粋を集めてクローンとして蘇らせた」
何だが、物語のような展開だ。そんなことが、現実に起きてしまったのか……
「クローンは順調に成長した。世間には息子は死んだことになっているけど、父親は影でその子を大切に育てたんだ。でも、その子が五才の時、周りはおかしなことに気づいた。詳しく調べてみてわかったんだ。その子には、とんでもないSAがある、ってことが……」
「催眠術……」
「うん。父親はその子の力が暴走することを恐れた。殺すべきだという声もあった。でも、父はその子を生かした。自分から遠ざけ、頑強な施設に閉じこめてね。その子は自分の力を認めてくれる、唯一の組織CU:BEへ入った。二年前に……」
「それが、おまえ、だと?」
「……うん」
そこで希美は少し黙った。
「僕は五才で突然こんな力が発現した。これは、僕がクローンだから遺伝子異常が起きて発生した力だって、科学者たちは言った。でも、僕、思うんだ。もし始めの子が五才まで生きていたら、どうなったんだろう、って。そして、普通に生まれたその子が、僕と同じ力を持っていたとしたら、やはり父さんは同じことをしただろうか、って……」
希美の話は途方もなくて、俺はしばらく無言だった。
希美がクローン?
確かに、今の技術で人間のクローンを作ることは可能だ。だが、あくまでも臓器移植などを目的にした医療クローンに限って、合法的に認められているにすぎない。死んだ子供の代わり? 公になれば、これは重罪だ。
「どうして、俺に話す気になった?」
希美は小さく笑った。
「北斗には、僕の催眠術が効かない。だから、僕を恐がらない。それが嬉しくて」
「嬉しい?」
「皆、疑うんだよ。『今自分は、希美に操られているんじゃないか』ってね。だから、どこかよそよそしい。でも、北斗は違う」
「そりゃ、確かに俺にはおまえの力が効かないけれど。それが理由?」
「うん、それが理由」
汽車の速度が次第に落ちているのがわかる。目的地が近いのだろうか。
「それから、もうひとつ」
「ん?」
「北斗はさっき言ったよね。出会ってから、まだ一ヶ月しかたっていないって」
「ああ」
希美はわずかに俺を振り向いた。その目があまりに真剣なことに、俺はたじろいだ。
「僕たちね、出会ってから、もう、十年はたっているよ」
「?」
「僕はずっと、北斗だけを見てきた。北斗は、覚えていないだろうけれど……」
希美の言う意味がわからない。問いただそうとしたとき、急ブレーキがかかって、貨車は乱暴に停止した。重たい音がして、貨車の扉が開かれる。俺たちを連行した合成人間たちが、外で待ちかまえていた。
「出ろ」
ゴムのこすれ合うような、耳障りな声だ。
「西城北斗、おまえだけだ」
……希美……
俺は二人の男に引き立てられながら、希美を振り返った。脅えた希美の目が、俺を追っている。
「北斗!」
「大丈夫だ、希美」
俺は引きつった顔で、無理に笑った。
「飛雁たちが助けに来てくれるさ」
言ったものの、俺にも自信がない。だが、希美をこれ以上不安にさせたくない。
俺が男達に引きずられて降りると、再び貨車の扉が閉められた。
もし、この男達が俺たちを殺すつもりな、とっくにやっているはずだ。まだ、少しの間は生きられるかな?
そう考えて、俺はうっすら笑みを漏らした。
俺も随分、場慣れしてきたものだ。この状況下で落ちついてる。
前方に巨大なドーム都市のゲートがそびえている。夜の闇の中、俺は男達に連れられゲートをくぐり、薄暗いビルの裏街道を歩き始める。おそらく、ルーシスに間違いないだろう。天井までが灰色一緒でできている。ここに済む連中は、道を歩くのに最低限の明度があれば、それで満足らしい。刻一刻と変化する空を再現することにも、月や星の形を楽しむことにも興味がないと見える。二四時間、ずっと同じ明るさで同じ気温、湿度。変化のない安定した空間が、このルーシス特徴だ。
ドーム内には、やはり代わり映えのしない、似たような造りの灰色のビルが立ち並んでいる。まるで、灰色の箱だ。だが、男達が向かっているビルは、他と少し違っていた。恐ろしく背が高いのだ。まるで、このビルがルーシスを支えている柱の一本であるかのようだ。事実、最上階はドームの天蓋に届くほどである。
俺は男達にぴったりと脇を固められたまま、その建物の一階部分の壁に開いた出入り口から、内部へ進んだ。
遠くで、トランスレールの汽笛が聞こえた。
三 追憶の箱の中
ビルの内部はあまりに殺風景だ。コンクリートの廊下に、鋲の打たれた重たそうな金属のドアが並ぶ。移動手段はなんと、階段だけだ。ドーム天井まで届く高層ビルにすら、エレベータもエスカレータも設置されていない。むき出しのコンクリートで作られた階段だけしかない。完全に、用さえ足せば十分、といった雰囲気だ。
俺は男たちとともに階段を登った。だが、ここは高さ百メートルを楽に越えるビルなのだ、まさか、階段で最上階まで一気に上がるような恐ろしい真似はしないだろうな……
そういえば、合成人間は並大抵の筋力じゃない、とか、希美が言っていたな。ということは、もしかすると、本当に最上階までこのまま……
……こいつら、階段で俺を殺すことが目的なんだろうか。
案の定、合成人間たちは止まる気配を見せない。足がだだるい。のどが痛い。胸が苦しい。それに加えて、腹まで減ってきやがる。限界が近い。
階段のフロアーについているプレート式の階表示は、今、二八を示している、一体、どこまで登るんだ……
俺がふらつく度に、脇を歩く合成人間にこづかれる。鍛えていない俺の身体には辛い。飛雁や京葉なら、きっと顔色ひとつ変えずに最上階まで駆け上がるのではないだろうか。あいつら、マトモじゃないもんなぁ。
全身が酸欠状態に陥り、意識がもうろうとしてきたころ、ようやく合成人間たちは廊下に出た。四十一階だ。
階段はまだ上まで続いているが、この階に用があるらしい。
俺は重たい足でどうにか男達について言った。
その階の作りは奇妙だった。まっすぐに伸びた廊下は五〇メートルほど続いているが、ドアは片側にひとつしかない。階段の位置から察して、ドアの反対の壁はビルの外壁らしい。
男たちは俺をただひとつのドアの前に連れていくと、俺の手を締め上げていたロープを解いた。取っ手を引いてドアを開けると、乱暴に俺の背中を蹴飛ばして室内に押し込む。
「つぅ……」
顔面から床にたたきつけられて、俺はうめいた。後ろで重たい音がして、ドアがロックされたことがわかる。薄暗い廊下から突然部屋に入った俺の目に、室内の蛍光灯の光は強すぎる。眼をしばたきながら、俺は辺りを見回した。
室内の様相は廊下や外観と一片して、近未来的だ。
真っ白い床は継ぎ目のない強化金属でできているし、壁には一面にスクリーンやボタン、レバー、スイッチ、デジタル表示の計器、スピーカーやその他、俺には用途のわからないような機械が据え付けられている。何かの監視室のように感じる。部屋は広いが、廊下の奥行きから考えると、隣にもう一部屋ありそうな感じだ。
俺の予想通り、四方のうち、ひとつの壁だけが他と違う作りをしていた。隅に自動開閉式のドアがあり、それ以外の部分は真っ白なスモークガラスになっている、ガラス越しに奥は見えない。
俺は無意識のうちにスモークガラスへと近づいていった。
視線を感じる。
室内には誰もいないが、それでも、どこかから見られているような気がする。以前、CU:BEに来た直後に、ベッドに縛りつけられながら感じた、あの雰囲気だ。
俺はそっと指先でスモークガラスに触れようとして、寸前で手を止めた。
右手はグローブをしていない。俺は敢えて、左手でガラス面に触れた。思ったより、ザラザラとした凹凸がある。眼を凝らしたが、中は見えなかった。壁の右端にあるドアに近づく。ドアは自動で、前に立てば上にスライドして自然に開く仕組みになっている。電動式のそのドアは、俺に反応して静かに開いた。
中を覗く。
暖かい空気で満たされたその部屋は、こちらの部屋よりも狭い。
なぜか、不思議と落ち着く。暖色系のライトが照らし出す室内には、俺の背丈を超える物体が一つ、ぽつんと置かれているだけだった。
人ひとり入れる大きさの、円筒形のガラスの筒だ。下部と上部は銀色の金属で造られていて、そこから這い出したコードが床や天井を伝って部屋の隅の金属製の箱につながっている。
これと似たようなものを、俺は別の場所で見たことがある、
北極の氷山の下の施設で、だ。生物の培養槽だ、と飛雁が言っていたっけ……
俺は一歩一歩確かめるように培養槽に近づいた。足下のコードを踏まないように注意する。コードが生きものの血管のように思えるのだ。背後で扉がしまったが、俺は驚かなかった。
培養槽の正面に立つ。水槽の中身はなかった。水槽自体は非常に透明度の高いガラスでできていて、光線がほぼ一〇〇パーセント透過してしまう。内部で多少でも屈折があれば映像も残されるが、とても望めそうにない。これはオブジェマインドでも、何かを読み取るのは難しいだろう。
次に、足下を見た。床は橙色の強化プラスチックだろうか。これなら、何か映像が残っているはずだ。
俺は頭をあげて周囲を見回した。やはり誰もいないが、視線を感じる。気味が悪い。誰かが、どこかから、俺のことをじっと見ているような気がしてならない。
しばらく突っ立ったまま待って見たが、何の変化もない。しんとした静けさに、耳が痛くなりそうだ。
俺は左手のグローブを外した。両の手のひらを見つめる。オブジェマインド。俺に残されている、ただひとつの手段。
俺は深呼吸を繰り返した。この部屋に残されている記憶。俺がここへ連れてこられた理由は、全てこの部屋の記憶が語ってくれる。そんな気がする。
俺は心を沈め、床に片膝をついた。両手をそっと、床に触れさせる。目を閉じ、意識を手のひらに集中させる。
深く、深く、深く……
この場所に眠っている、最古の記憶から読み取ってみよう…… 何かが、そこで俺を待っているはずだから……
この記憶、十六年前。
飛雁? いや、もっと年をとっている…… 銀色の髪の男。培養槽から出るコードを調べているようだ…… 消えた。
黒い髪…… 少年? 消えた。
また、別の男だ。
彼を知っている! 天坂弘和だ。セメタリーや、オルダーで見た、そして梓の写真で見たのと同じ男…… 銀髪の男と何やら話をしている…… もうひとり部屋に入ってきた……女? 消えた。
水槽の横にイスを置いて、そこにおなかの大きな女の人が座っている…… 物憂げな顔…… 銀髪の男が近づいてきて、女性にキスする…… 消えた。
培養槽に真っ赤な水が満たされている…… 消えた。
銀髪の男が、培養槽にもたれている……泣いている? 消えた。
誰もいない…… 培養槽の赤い水の中で、何かがうごめく……動物だろうか? 消えた。
水が徐々に透明に近づいていく……水槽の中に、胎児がいる……眠っている……水の中で…… 消えた。
黒い髪の少年……後ろ姿……胎児を見上げているようだ…… 消えた。
漆黒。ずっと、漆黒だ、この部屋の明かりが消されていたということだろうか……
この記憶、十二年前。
部屋中、血のように赤い光が満ちている…… 緊急灯か? 誰かが駆け込んでくる。水槽が割られている…… 中には何もない…… 消えた。
少しずつ、俺の手は現在に近づいてくる。
この記憶、一ヶ月前。
空の新しい水槽…… 男が立っている……後ろ姿で顔はわからない……黒髪の男で…… 消えた。
記憶はそれで全てだ。
俺の前に、『今』の部屋がある。俺は立ち上がると、水槽を見上げた。
梓の父、天坂弘和は、ここを訪れたことがあったのだ。黒髪の少年…… あれは、俺だろうか? いや、全ては十六年前の話だ。俺はまだ、生まれて間も無い……
記憶の中に何度も現われた銀髪の男……彼はおそらく、飛雁の父親に間違いないだろう。今の飛雁と面影が似ている。一緒にいた身重の女性は、彼の妻だろうか。だとしたら、あの時腹の中にいた子供は飛雁? だが、記憶は十六年前のものだ。飛雁は現在十八歳、この年齢が正しいとしたら、計算が合わない。
培養槽の中の胎児は、彼女が産んだ子だろうか。
十二年前、培養槽の中の子は姿を消した。それ以来、水槽は空のままだ。十二年前…… その時期は、天坂弘和が死んだ頃と重なる。
つながり始めている。
ばらばらだったピースが、この部屋で一つに組み上げられる。
完成した、それが語るものは……
「俺の……記憶なのか……」
記憶……
いや、記録……だ。
俺自身の知らない、俺の記録!
俺は無意識に左胸を抑えた。心臓が静かに動いている。
この部屋で、俺は生まれた?
この部屋で、俺は育った?
今から十二年前まで?
俺の母親は、あの女性なんだろうか?
では父は? 飛雁の父親? 俺と飛雁は兄弟? 異母か同母か……
『おまえの両親は、科学だ』
俺はとっさに部屋中を見回した。スピーカーの類いは見当たらない。だが、明らかに俺に向かって、誰かが話しかけている。聞き覚えのない声だ。男の、大人の男の声。
『おまえは、あの女の子宮を借りて生まれたにすぎん』
子宮を、借りた?
『あの男は我々の研究に否定的だった。そのため、我々はあの男の妻の子宮に、おまえの胚を着床させたのだ。人質としてな』
声は部屋に反響して、どの方向から発せられているのか、わからなかった。
『女はおまえを産む際に死んだ。あの男はおまえを殺そうとした。だが、生まれたおまえに罪はないと、思いとどまった。しかし、私たちにとって、彼のような危険分子は目障りなものだ』
「……飛雁の父親を……」
「消した。おまえはあの男の甘さで生き残ったのだ』
飛雁の父親、俺の恩人…… そうだったのか…… 俺が、飛雁に懐かしさを覚えるのも、きっと、その人の面影を無意識に覚えているから…… 飛雁が俺を懐かしく思うのも、同じ女性に育まれて生まれ落ちた子だから……
『おまえは順調に育った。十二年前、天坂弘和が裏切り、ここからおまえを連れだすまでは』
俺の出生時に立ち会った天坂弘和が、四年後、声の主を裏切って、俺をここから…… その直後に、彼は死んでいる。
『我々は十二年間、ずっとおまえを探していたのだ。二ヶ月前、ようやく、オルダーの施設の奥でおまえを見つけることができた。だが、邪魔が入った』
…………
『何者かが、我々よりも先に、おまえを施設から逃がしたのだ。しかも、覚醒させて、な』
……覚……醒……
『今から思えば、おまえを逃がしたのはCU:BEだったのだ。やつらは、十六年前に私が仕事を依頼した時から、ずっとおまえに目をつけていたのだろう』
十六年前……CU:BEに仕事を依頼……そうか!
「おまえ、西城北斗か!」
声は数秒沈黙し、やがて笑みを含んで語りかけてきた。
『その通りだ。我が、クローン君』
…………そんなことだろうと思った。
俺は記憶喪失なんかじゃない。
記憶なんて、最初からなかったんだ!
胎児のうちに培養槽に入れられて、それきり、一ヶ月前まで眠り続けていたんだ…… 何も覚えていなくて、当然なんだ!
「何故、俺を作った? 何のために!」
『不思議なことを聞くものだね、クローン君。君にはわずかだが、十六年前の私の記憶の一部があるはずだ』
俺を作った目的……
俺は息を飲んだ。俺の右手が今掴んでいる……
『そうだ、クローン君、私が欲しいのは、君の心臓だ』
心臓……
『私は十五歳の頃、心臓の病に犯された。克服するには、是が非でも心臓移植が必要だった。だが、私は特異体質でね。他人から移植を受けることはできなかったのだ』
移植……
『私は十六歳で父の跡を継ぎ、この軍事都市ルーシスの頂点を極めた。だが、私の心臓はいつ突然に止まってもおかしくない状態なのだ。心臓だけではない。移植を受けられない私の身体を維持するには、もう一つ、同じ身体が必要だった。医療目的のクローンは法律上認められている。だが、私は父から、この都市と共に数々のよくない噂も受け継いでいた。そのため、表の医療機関は、どこも私のクローン制作を拒んだ。そんな時、私はCU:BEの生体科学部門に仕事を依頼したのだ』
医療目的のクローン制作……二一世紀後半には、すでに容認されていたと聞く……
『だが、彼らは私のクローンをSA開発の実験台にしていたのだ。やつらは私の目を盗み、この施設に出入りを許されていた天坂を使っておまえを連れだし、ひそかにCU:BEとは無関係の保健施設でおまえを保管していた。二階堂澄矢がおまえを取り戻すはずだった』
「だけど、一ヶ月前、俺はCU:BEの手で逃がされて……」
『澄矢は死ぬ前に、私におまえの居所を知らせてきた。だからこうして、おまえを連れ戻すことができたわけだ』
「オルダーを閉鎖したのも、CU:BEビルにウイルスをまき散らしたのも、おまえなのか?」
『おまえを手に入れ、私の力を世の中に知らしめるためだ。オルダーの人民の命は私次第だ。抜け道も、私の部下が抑えている。彼らを突破するのはたやすくないぞ』
……よりによって、俺はこんな嫌なヤツのクローンなのか?
「前に、レイモンド教授をさらったのも、おまえなのか?」
『あの一件では、世話になったな』
底意地の悪そうな笑い声が返ってくる。
『生体兵器の開発所だったのだが、浸水のため、使い物にならなくなったぞ。結構、気に入っていたんだがね』
ザマ見ろ。
『おまえは、殺さぬ』
!
『もう一度培養液の中で眠ってもらおう。おまえの心臓は私の身体を維持するには、まだ未発達なのでな』
冗談じゃない! 腑分けされるのがわかっていて、おとなしくしていられる訳が無い。
俺はドアに駆け寄った。だが、反応がない。拳でたたき、体当たりを食らわしても、びくともしない。他に出入り口はないし……
スモークガラスの濁りが消える。ガラスの向こうに監視室が見える。いつのまにか、監視室には数人の合成人間が集まっていた。帽子やサングラスを取り去った顔は、およそ人間とは似つかない。はげ上がったいびつな形の頭、眼はくぼんだ部分に小型カメラのレンズが埋め込まれたもの。唇はなく、横に長い長方形の穴が空いている。これでは、顔を隠さずに出歩くことは無理だ。
と、部屋の隅から、白いガスが流れ込んでくる。俺は慌てて部屋の反対側へ逃れたが、ガスの充満スピードは早く、あっという間に部屋中に満ちてしまう。息を止めるにも限界がある。
『おとなしくしていてくれたまえ、クローン君。私も自分の身体に、手荒な真似をするのは好まないのでね』
今まで散々、やってきたくせに……
俺は苦しさに負けてガスを吸い込んだ。ぐらりと世界が回転する。体中から力が抜けて、俺は床の上に倒れた。
意識はあるが、指一本動かない、おそらく、筋弛緩ガスだろう。胸が苦しい。俺はうっすらと眼を空けたまま、まばたきすることもできずにあえいだ。
これからどうなるんだ? このまま培養槽に放り込まれて、あいつに解剖されるのを待つのだろうか。
俺は何のために生まれてきたんだ?
『肉としての価値しかない』
澄矢の言葉が思い出される。そうだ、澄矢はこのことを言っていたんだ。俺には、『西城北斗』に臓器を提供すること以外、使い道はない、と……
全身がぴくりとも動かない。だが、恐怖はない。重たい睡魔。全てを放棄して楽になりたいと願う自分がいる。何も考えたくはない。何ひとつ、考えたくはない。このまま漫然とした堕落に引き込まれて眠ってしまいたい。楽に、なりたい……
遠くで、鋭い音が何度も響いた。聞いたことのある音……これは、銃声だ。独特のその音は、幾度となく俺の耳を打った。次第に近づいてくる。隣の部屋で、高音のわめき声が上がる。レーザー音がこだまする。どさり、と重たいものが床に転がる。
だが、その全ては俺にとって、遠い世界での出来事なのだ。俺には関係のない、遥か別世界の出来事なのだ。俺は眠りたい。もう、全てを棄てて、眠ってしまいたい……
大きな振動が俺のすぐ隣で起こった。
「…………」
何かを叫ぶ声。よく、わからない。思考がぼやけていて、はっきりしない…… 誰かが、俺の上体をかかえて、部屋から引きずり出した。右腕に、ちくりと、鋭い痛み。
俺はどうにか視点を合わせ、俺を抱えている人物を見上げた。
「……あ……」
「北斗さん!」
梓だ。俺は眼だけで周囲を見回した。監視室に集まっていた合成人間は皆、床に突っ伏している。培養槽の部屋へとつながる扉は、強力な銃弾で撃ち抜かれていた。ガスの充満した部屋から、梓が俺を助けだしてくれたのだ。
「……あ……」
声を出したかったが、舌が動かない。梓はありったけの優しさをこめた笑みで俺を見つめ、膝の上で抱きしめてくれた。
「無事で良かった……北斗さん。大丈夫、今、解毒剤を注射しました。すぐに、身体が動くようになりますよ」
暖かい。
梓の胸に抱かれて、俺はその心地よさに思わず溜め息を漏らした。震える右手に無理に力を込めて、彼女の服をしっかりとつかむ。
全身が麻痺していても、オブジェマインドは使用できるようだ。梓の衣服の記憶が伝わってくる。
…………
俺はそっと、指をほどいた。
少しくらいはいいよな、飛雁。今だけ、梓に甘えても、許してくれるよな……
どうしたんだろう、涙がこぼれた。
「飛雁さんはCU:BEへ行っています」
梓は鈍くなっている俺の脳の理解速度に合わせるように、ゆっくりとした口調で言った。
「CU:BEの状況が改善され次第、ここへ助けにきてくれることになっています。私は未来予測で、ここまできました」
飛雁はCU:BEへ…… そうか……
「北斗さん、希美さんとご一緒ではなかったのですか?」
俺は次第に感覚が戻ってきた舌で答えた。
「途中まで、一緒だった…… でも、あいつだけ、トランスレールでどこかへ……」
梓の表情が曇る。
「本来であれば、CU:BEの衛星で目的の貨車を追うことができるのですが、コンピュータが死んでいるため、今は……
どこにいるにせよ、希美はきっと助ける。きっと、だ!
俺は梓の瞳を見つめた。心の底まで、見通せるように、じっと……
俺は梓が好きだ。梓の心根が好きだ。梓の生き方が好きだ。
「梓……」
「はい」
「こんな時になんなんだけど……」
「はい」
「……俺の、気持ち、気付いてる?」
梓の白い頬が紅潮する。われながら不謹慎だと思うが、こんな状況でもなければ……
「……はい」
梓は小さな声でうなずいた。
俺はまだあまり自由の利かない腕をのばして、梓の首にからませ、抱きしめた。
「……北斗……さん?」
唇に梓が触れる。この暖かさを、俺は一生忘れない。たとえこの先、どんな運命が待ち受けていようとも。
叫びたくなるほどの喜びと、胸の底に突き刺さる罪の意識。
身体の感覚が戻るまで、俺は梓の優しさで全身を満たしていた。
四 脱出、そして進撃
俺たちは走った。倒しても倒しても新手が来る合成人間を相手に、もはや、逃げる以外になかったのだ。
「北斗さん!」
梓のダンシングドールが火を吹く。銃砲に打たれて倒れた合成人間の身体を乗り越えて、俺たちは息を切らせながら階段を駆け上がった。階下からはぞくぞくと追ってが迫ってくる。逃げ道は上しかない。梓のダンシングドールは強力だが、敵を全て倒している余裕はない。
走りながら、俺は心ひそかに梓に感心した。さすがは、飛雁の傍で鍛えられているだけのことはある。不屈の精神と疲れを感じさせない体力は、俺を遥かに凌駕している。俺は歯を食いしばって走った。足手まといにだけはなりたくない。みっともない所は見せたくない。第一、ここで止まれば、間違いなく俺は培養槽に逆戻り、梓はともすれば殺されてしまうかもしれない。進むしかなかった。
すでに六十階を超えている。ビルの高さから考えて、屋上は近いはずだ…… 階段の突き当たりに、シャッターが降りている。近くに開閉用のレバーなどはない。
俺はシャッターの下に手をかけた。力を込めて持ち上げる。耳障りな金属の甲高い悲鳴が響いて、シャッターは少しずつ上へと上がった。だが、力を抜けばすぐにずり落ちてしまう。梓が追手に向かってダンシングドールの特殊火炎弾を放つ。
「梓、先に行け!」
俺はシャッターを押さえながら叫んだ。床から五〇センチほどの隙間が開いている。梓は素早く身を滑らせて隙間をくぐった。外側から、今度は彼女が支える。
「北斗さん!」
「ああ!」
俺は迫っていた合成人間の手を振りきって、シャッターをくぐった。が、右足首を武骨な手に捕まれる。
「くそ!」
合成人間の怪力が、俺を引き戻そうとする。俺は自由の利く左足と両腕を突っ張らせて、必死にその力に抵抗した。梓が肩でシャッターを支え、猛一方の手でダンシングドールの引きがねを引いた。鋭く青白い光線が、合成人間の腕を焼き切る。俺がシャッターの下から右足を抜くのと、シャッターが音を立てて閉まるのとは同時だった。
俺はそのまま仰向けに寝ころんで、乱れた呼吸を繰り返した。梓の肩も、わずかに上下している。
「大丈夫ですか、北斗さん?」
梓が俺の足に絡みついていた合成人間の腕を外してくれた。
「どうにか、ね。梓こそお疲れさま。俺、役に立てなくてごめん」
梓は笑って首を振った。
「いいえ、お互い様ですわ」
俺は上を見上げた。ドームの天井が近い。背伸びをすれば届きそうな距離に、強化プラスチックの薄黄色の天井が広がっている。屋上はがらんと平坦だった。待ち伏せる敵がいないのはいいが、追いつめられた状況にかわりはない。高さ三百メートルのビルの屋上。これからどうしたら……
ガン、と嫌な音が響いた。見れば、頑強なシャッターの一部が、向こう側から加えられた力に変形している。俺は座ったまま、後ずさった。ガン、とまた音がして、シャッターはなおも形を変える。
「まずい、破る気だな!」
どうやら、敵は、持ち上げて開けるより、突き破ることを選んだらしい。
俺たちはシャッターから一番離れた屋上の端まで後退した。ちら、と下を見る。眼がくらみそうな高さだ。
そうするうちに、シャッターは確実に強度を失っていく。梓が苦しげに顔を歪めながら、ダンシングドールを構える。この状態で闘ったとしても、やられるのは時間の問題だ。敵は尽きることなく押し寄せてくるが、ダンシングドールには弾薬の限界がある。俺は救いを求めるように周囲を見回した。だが、使えそうな物は何もない。俺は思わず舌打ちした。こんなとき、飛ぶことができたら…… せめて、京葉のようなSAがあれば……
京葉のSA? そうか!
「梓」
「はい」
ダンシングドールを構えたまま。梓は緊張した声で応えた。
「俺を、信じてくれるか? このままじゃやられる。俺に、命、預けてくれ」
驚いたように、梓は眼を見開いて俺を振り返った。その瞬間、馬鹿力に耐えきれなくなったシャッターが破れ、合成人間たちがのっそりとした動きで屋上へ上がってきた。
梓はダンシングドールを下ろした。
「わかりました。お預けします」
俺は大きくうなずくと、梓の身体を引き寄せた。
「しっかり捕まっていろ。飛ぶぞ!」
「北斗さん!」
「心配ない! ……たぶん」
梓は覚悟を決めてくれたのだろうか、俺の首に腕を回すと、肩に顔をうずめた。身体に食い込む梓の力がいとおしい。だが、今はそんな幸せに浸っている場合ではない。動きは鈍重だが、合成人間たちは着実に俺たちに近づいてくる。こちらに伸ばされた手が俺の肌を掠めようとしたとき、俺は思いきってビルの端から空中へ身体を踊らせた。
急激な加速! 意識が吹っ飛びかける。梓を強く抱き、全身の細胞を奮い立たせる。
飛ぶんだ、北斗! 飛べ!
重力よ、ひっくり返ってくれ!
鈍いショック!
眼に見えない弾力性の高いゴムの塊が、俺たちを受け止めたような気がして、俺は硬くつむっていた眼を恐る恐る開いた。目の前にビルの壁がある。足下には……何もなかった。俺たちはゆっくりと地上へ向けて降下しているのだ! まるで、粘度の高い液体の中を徐々に落ちていくように。
「梓……」
俺はそっと梓を呼んだ。操重力は俺の身体にしか働いていない。そのため、梓の体重は俺の肩にかかっている。
「北斗……さん? これは……」
梓は俺に捕まったまま、呟いた。
「京葉のSAと同じだ」
「……どうして、それを北斗さんが?」
「飛雁の言葉を思い出したんだ。『おまえには、オブジェマインド以外のSAが眠っている』って。俺がその気にならなきゃ発現することはなかったそうだけど」
「その気になったんですね」
「まぁね」
俺はどさくさに紛れて、梓の髪に顔を埋めた。
「ごめん、本当は自信なかったよ」
俺たちは静かに、ルーシスの地面に下り立った。だが、一息ついている暇はなかった。ビルの影から、ぞろぞろと合成人間たちが現われ、俺たちを捕らえようと腕を伸ばして迫ってくる。一体、この都市には、どれだけの数の合成人間がうろついているんだろう。早く、ルーシスから逃げなければ……
「こちらです!」
駆け出した梓に続いて、俺はビルの脇道に入った。一台の屋根のない空圧車が停められている。梓がここへ来る時に使用したものだろう。
「乗って下さい! 出ます!」
俺は慌てて助手席に飛び乗った。同時に梓がアクセルを踏み込む。顔に似合わず、彼女の運転は荒っぽい。追手を蹴散らしながらの逃避行ともなれば、それはなおさらだった。だが、荒っぽいながらも、その腕前には飛雁も一目置いている。次は俺が命を預ける番だな。俺は腹をくくって、座席の前の安全柵にしっかりと腕を絡ませた。梓と一緒に行けるなら、地獄だろうが文句はない!
合成人間たちは体当たりで車を止めようとしたが、梓は巧みにハンドルをさばいて、彼らを寄せ付けない。ひとりの合成人間が正面から空圧車のバンパーにぶち当たり、押さえつけた。恐ろしい怪力だ。車のエンジンが悲鳴をあげる。
「退きなさい!」
梓は叫ぶと同時にエンジンの回転数限界まで出力を上げる。俺は頭を抱えた。エンジンが爆発してもおかしくない!
……が、鈍い音とともに弾き飛ばされたのは、合成人間の方だった。
「私を止めようなんて、百年早いのです」
い、いや、今の梓は百万年かかっても、誰も止められないと思うよ……
華麗なまでのドライビングテクニックで、車は小路から小路へと縦横無尽に駆け抜けた。やがてドーム外壁へと続く大通りにぶつかる。大通りの先はゲートだ。だが、今、その巨大ゲートは閉ざされてしまっている。このままでは、正面衝突をまぬがれない。
「北斗さん、少し揺れますので、しっかり捕まっていて下さいね」
す、少しって、どれくらいだろう……
俺はがくがくする車のシートにしがみつきながら考えた。
と、梓が運転席に立つ。片足はアクセルにかけたまま、反対の靴のかかとでハンドルを操り、両手でダンシングドールを肩に構える。
何だかよくわからないが、めちゃくちゃワイルドで格好いいです、梓ちゃん!
急速にゲートが近づいてくる。スピードを緩める様子はない。衝突寸前、
「行きます!」
ダンシングドールが最大出力で重圧弾を撃ち放った。耳を聾する爆音。車が爆風にあおられて宙に舞い、進行方向を軸に何度か回転する。頭を低めていなければ、おそらく地面にぶつかって首を骨折していたに違いない。
手足を縮めて丸くなっていた俺は、やがて落ち着きを取り戻したエンジンの音に気付いて、恐々と顔をあげた。
既にそこは赤い砂漠。
ルーシスを脱したのだ。
「梓!」
俺は歓喜に声をあげた。梓は気持ちよさそうに風に髪をとかせながら、横目で俺を見て、悪戯っぽく微笑んだ。
「梓、やっぱりおまえ、最高だ!」
嬉しくて、たまらなかった。
飛雁の言っていた通りだ! 男だろうが女だろうが、そんなことはどうでもいい。やっぱり梓は最高なんだ。それだけだ!
ルーシスから十分に離れてから、俺たちは空圧車を止めた。エンジンが切れると、辺りは急に静かになる。天頂の太陽が眩しい光線の束を俺たちめがけて投げ掛けてくる。梓は車の収納ボックスから、飲料水と携帯用の乾燥食料を出した。丸一日以上何も口にしていなかった俺には、味気ない携帯食料もご馳走に思える。一気に腹に流し込むと、長い溜め息をついて車の後部座席に横になった。梓は運転席でメーターやスイッチのチェックをしている。
青い空には、白い雲がひとつ、流れていた。時々、風が砂を運ぶ音がするだけで、あとは沈黙が続く。合成人間たちは諦めたのだろうか。追手がかかっている様子はなかった。
「これから、どうします?」
梓が言った。
「車は問題ありません。燃料も十分ですから、まだ走れますよ」
「……希美を、助けなきゃ……」
「でも、どこへ連れて行かれたのかわからなければ……」
トランスレールはルーシスから多くの都市へつながっている。オブジェマインドを使えば、貨車の通ったレールを探ることは可能だが、運の悪いことに、俺と希美が引き離されたとき、外は闇だったのだ。レールは何も記憶していないだろう。それ以前に、希美があれからずっとトランスレールで移動したという確証はない。どこかで車か、航空機の載せられた可能性もある。
「居場所さえわかれば……」
俺は空を振り仰いだ。美しい、青い色の中に、ぽつんと緑色の染みがある。俺は眼をこすった。……いや、錯覚じゃないぞ。
「ホクト! 嬢チャン!」
「レ、レイモンド教授!」
俺は後部座席で飛び起きた。梓が差し出した腕に、教授はひらりと舞い降りる。
「おまえ、何でこんなトコうろついているんだ?」
じろり、と教授が俺を睨む。
「ウロツイテイタ訳デハナイ。追跡シテイタノダ、坊チャンヲ!」
「希美を?」
俺と梓は顔を見合わせた。
「それで、わかったのか、希美の居場所は!」
教授は胸の羽毛を誇らしげに膨らませた。
「当タリ前ダ。オマエヨリ、遥カニ優秀ダゾ、俺ハ」
はいはい。
「どこなんですか? 教えて下さい」
梓が悩ましげな視線で教授を見る。スケベ鳥は、生意気にも梓の胸にすり寄りながら、甘えた声を出した。
「ココカラ南南西ヘ八〇キロ。島ダ」
俺は車に備え付けてあるナビゲーションシステムを覗きながら、
「島なんてない海域だぞ」
「……もしかして……」
梓が何かに気付いたように、慌ただしくナビを操作する。
「間違いありません。この海域はおそらく……」
「?」
「何ダ?」
「『ジーンリッパー』です」
「何、それ?」
「持ち主も知れない、漂う人工島。生命科学研究所です。一節では、軍用の生体兵器を扱っているとも言われています」
「生体兵器? もしそれが本当なら、希美は……」
「レイモンド教授は、このことを飛雁さんに知らせて下さい。広範囲に通信妨害電波が出ていて、連絡がとれないんです」
「ワカッタ、任セロヨ、嬢チャン!」
勢いよく、教授が羽ばたいていく。梓がエンジンをかける。俺は反射的に座席に掴まった。
車は急発進の後、加速して南南西を目指した。
『ジーンリッパー』…… おそらく、もうひとりの『西城北斗』がそこにいる。
梓と同じSAが、俺にそう、告げている。
人工島『ジーンリッパー』。
高い波が立つことのない、どろっとした海面に浮かぶ、多角形の金属の板上の人工島だ。面積は一キロ四方はあるだろう、凹凸が少なく、海上部分は二階建ての普通家屋の高さしかない。だが、それ以上の階層の施設が海面下に沈んでいるのだ。まるで、基部の大きな氷山のように。
黒々とした金属の島。俺と同じように、人の科学によって生み出された、人工の島。
空圧車はホバークラフト機能で海面を滑るように進み、ジーンリッパーの一画に接岸した。
小さな赤いランプの点灯したカメラが、自動追尾で俺たちを捕らえた。同様のカメラが島のあちらこちらに設置されている。だが、攻撃してくる様子はない。見えるものいえば、カメラの群れだけだ。まったく人の気配が感じられない……
俺は車から島に飛び移った。カメラが俺を追うだけで、他に主立った変化はない。金属の壁でしきられた、迷路のようなトンネルが広がっている。おそらく、中枢部分は海面下だろう。どこかに、下へ続く道があるはずだ。
俺の後ろから上陸しようとした梓を、俺は腕を広げ制止した。
「来ない方がいい」
俺ははっきりとした声で行った。
「ダンシングドールは、ルーシスのゲートを破るときに、エネルギーを使い果たしているだろ? それに、ここから先は俺自身の問題なんだ。梓が巻き込まれる必要はない。希美は必ず俺が助けだすから……」
「北斗さん」
梓が俺の腕を押しのけ、毅然として首を横にふる。
「優しいんですね。けれど、私にも「観」えているんです。同じ未来が」
俺は梓の深い茶色の瞳を見つめた。
同じ未来が「観」えている…… 俺は迷宮のような島の概観に視線を転じた。この奥で俺を待っている地獄絵図が、梓にも「観」えている……
「大丈夫です、北斗さん。私、あながが思っているほど、弱くはありません」
「…………」
これ以上、梓を巻き込みたくない。元はといえば、全て俺が原因で起きた事態なんだ。『俺』自身の不始末は『俺』が片づけるのが筋……
「梓、お願いだから」
「足手まといにはなりません」
「……そんなこと、思っちゃいないよ」
俺は彼女を抱きしめ、耳元でささやいた。
「俺、クローンなんだそうだ」
「え……」
「ここに、俺のナチュラル(体細胞を提供した正常固体)がいる。これは、俺自身の闘いなんだ。行かせて欲しい。そして、君にはここで待っていて欲しい。俺には記憶も過去もない。でも、帰る場所、それだけは無くしたくない」
そっと腕を緩めると、梓は潤んだ眼で俺を見上げた。その瞳に引き寄せられるように、俺は彼女に深く、口づけた。
「……行ってくる」
背を向け、歩き出した俺を、梓が呼び止める。
「忘れないで下さい」
「…………」
「北斗さんは、北斗さんです。他の誰でもありません。何があっても、あなたはあなたです!」
俺は、振り返らず、頷いた。
五 希望(のぞみ)
金属のトンネルが毛細血管のように入り組んで島の表面を覆っている。俺が進める一歩一歩が、あの凄惨な光景に近づいているのだ。通路の奥に「観」た、未来予測の光景は、血なまぐさい、惨状……
明かりのない通路では、無秩序に開いた穴から差し込んでくる太陽の光だけが頼りだった。オブジェマインドでも、多くのことはわからない。希美がここを通ったとしても、それが夜であれば、何も記憶は残っていないだろう。
だが、と俺は思った。壁や天井や床や、そんな周囲の金属が覚えていなくても、あるいは、アレならば、何か記憶を宿しているのではないだろうか……
徐々に、匂いがきつくなる。靴の先に何かが当たる。俺は屈みこんで足下を調べた。やはりそうだ。「観」た通りの景色だ。
血の匂い。臓物の匂い。俺が蹴飛ばしかけたのは、頭を銃で吹き飛ばされた、男の身体だった。
俺はトンネルの奥へ眼を凝らした。
累々と続く男女の死体の山。服装から判断して、おそらくは警備員や科学者たちなのだろう。どの身体にも、複数の銃創が残されている。明らかに、惨殺だ。
俺は眼を閉じ、覚悟を決めた。すでに冷えきった、男の腕に触れる。オブジェマインド……
記憶をさかのぼる。
ここに倒れる……誰かに額を割られる……やみくもに銃を乱射する……走る……逃げる……声が聞こえる……『コロシアエ!』……
『コロシアエ!』
その声を聞いた人々が、こうして死体の山を築いたというのか。死体はまるで道しるべのように奥へ奥へと続いている。
俺は屍を踏み分けて、先へ進んだ。
嫌な予感がする。
『西城北斗』が自らの施設の人間たちに、殺し合いをさせるとは思えない。では、誰が?
こんなことができるのは、あいつしかいない。信じたくない。でも……
死体の道がふつと切れ、下へ続く穴がぽっかりと口を開けている。行くしかない。どんな現実であろうと、俺はそれを見届けなくてはならない。俺が俺の存在を確認するためにも。
長いはしごが降りている。下は明るい通路になっているが、やはり延々と死体の道は続いている。血が流されてから、数時間が経過しているらしい。鮮血はなく、全て乾いて黒く変色している。臓物臭に胸が詰まる。
本当であれば、最新の科学力が結集した、整然と整った施設なのだろう。だが、今はまるで狂気の館のように残酷な場面がいたる所に見られる。新しい廊下は、凄惨な様相を呈したまま、静かに俺を迎えた。
通路は何方向にも分かれている。死人たちはその身体で俺に道を示していた。幾つもの角を曲がり、階段を下りた。施設内の全ての人間が死に絶えてしまったのだろうか。俺のナチュラルはどうなったのだろう……
死体が切れた。廊下の突き当たりが左へ続いている。俺は道なりに進み、左に折れた。と、前方の廊下に、細身の白衣姿の女が立っている。右手には短銃が握られていたが、俺を狙うそぶりはない。ぼんやりとした眼でこちらを見つめている、俺は声もかけられないまま、一歩近づいた。女はゆっくりと俺に背を向けると、寝ぼけてでもいるかのような危うげな足取りで歩き始めた。
これが、次の道案内だ、俺は直感した。
意図的に誰かが俺を導いている。だが、どうしてこんな方法を使うのだ。
女から、十メートルほど距離をとったまま、俺は後に続いた。女はやがて、白塗りの扉の前で立ち止まった。
あそこがゴールなのだろうか、俺がそう思った刹那、女は無造作に自分の頭に銃を当て、一発、引きがねを引いた。鮮血がレリーフの掘られた扉をそめ、頭蓋の内容物が床に散乱し、自らの血の上に、身体が吹き飛ぶ。
俺は眼を背けた。行かねばならない。だが、この先で俺を待つものは……
俺は一歩、一歩、踏みしめるように扉に近づいた。周囲は金属製だが、その扉だけは高価な木で出来ている。扉の表面には、額に角を持つ二頭のユニコーンが掘られ、その瞳には青い宝石が埋め込まれている。
女の血で濡れた金色の棒状のノブが、俺を待っていた。
ユニコーンの間。この奥で、全てが終わる。
俺は長い間、動かなかった。
眼には見えない運命の、ある一瞬が訪れるのを待っていたのかもしれない。この扉を開く、そうするにふさわしい瞬間を探していたのかもしれない。
胸の奥の、複雑な歯車が噛み合った。
今だ!
俺はノブに手をかけると、力の限り手前に引いた。重たい扉は音もなく開き、部屋の壮麗な内装が視界一杯に飛び込んできた。
白い大理石の床に、銀糸で飾られた白い絹張りのイスと机、あでやかな色の花瓶と、そこに生けられた深紅の薔薇の束。柔らかそうな毛皮をかけた長イス。天井から下がるのは、数十本のガラスのロウソクを飾ったシャンデリア。入り口の正面の壁は、一面が鏡になっている。
俺は後ろでに扉を閉めた。そして、鏡の壁の前に立つ少年を見つめた。
「来てくれたね」
彼は振り返り、静かに微笑んだ。氷のように冴えた笑み。
「どう? なかなか面白い道案内だったでしょう? ああ、でも、北斗の趣味じゃなかったかな?」
少年は亜麻色の髪を掻き上げ、机に近づいた。机上のパネルを操作する。壁の一面に天井から液晶スクリーンが降りてくる。そこには、施設中の監視カメラからの映像を映し出すことができるようになっているらしい。今、画面一杯に表示されているのは、海上の空圧車の中で心配そうに通路を見つめている梓だ。
「梓を、置いてきちゃったんだね」
「……希美」
俺の声は震えていた。
「一体、何があった? どうしてあれだけ多くの人間が死んでいる?」
希美は微笑むだけだ。だが、その笑みは俺の知る、人を幸せにする笑みではない。歪んだ唇から生まれる、どす黒い感情の結晶だ。
「僕はただ、館内放送で言っただけなんだよ」
「『コロシアエ』と?」
「なぁんだ、知ってたの?」
希美は笑っていた。催眠術師の恐ろしさ、それを、俺は今、身を持って思い知らされた。京葉が希美を避けていた理由が、ようやく理解できた。たった一言で、希美は数百人の人間を殺し合わせたのだ。自分で手を下すことなく、たった一言で。今、目の前にいるのは、俺たちの愛した希美じゃない…… いや、これこそが、仮面を棄てた、本当の希美なのか。
「希美!」
俺は足早に少年に歩み寄ると、胸ぐらを掴んで引き寄せた。
「どうしてこんな真似をする!」
「どうして?」
希美は平然と、
「変なことを訊くんだね。僕は、アタリマエのことをしただけなのに……」
「アタリマエ、だと? 連中に殺し合いをさせることが、当然のことだと言うのか!」
詰め寄る俺に、希美は顔色ひとつ変えない。
「方法は問題じゃないんだ、北斗。彼らが死ぬ、それだけで十分じゃない?」
「…………」
「だって、そうでしょう? 彼らは僕らを道具として生み出した。僕らの心を、平気で踏みにじって、それでも自分たちが幸せになることに疑問を抱かない。最低なヤツラだ」
「の、希美……」
「知っているよ。僕は、北斗のこと、全部、知っている」
俺は震える手を放した。
希美の言いたいことはわかる。
そしてそれは、俺の言い分でもある。確かに俺はナチュラルに対して嫌悪感を抱いている。俺の命を顧みない『西城北斗』に。だが、希美のやり方は、何一つ、解決しないのではないか……
「北斗に、とっておきのプレゼントがあるんだ」
希美はデスクの操作盤に触れた。
「僕を捕まえて、生体兵器として利用するつもりだったみたいだけど、考えが甘かったんだよ。僕の力を見くびっていた。愚かな人」
壁一面の鏡が反射率を失い、透明なガラスに変わる。その向こう側には、ルーシスで見た物と同様の、巨大な培養槽が一基、水を満たして置かれ、中には黒髪の男の姿がある。
俺は我知らず、ガラスに近づき、男を凝視した。
気を失っているのだろうか、それとも、培養液の作用で眠っているのだろうか……
わかる。
『西城北斗』だ。
三一歳になる、俺のナチュラルだ。
あの髪、あの肌、あの顔…… 全てが俺だ。
いや、俺が彼だ。
「これは、気に入ってくれるでしょう?」
希美が言った。
「この施設で生き残っている人間はこいつだけだよ。北斗が自分で決着をつけたいだろうと思って、とっておいたんだ」
決着…… 決着?
俺は、はっと我に返った。
そうだ、俺はここへ決着をつけにきたはずだ。だが、その方法など、考えていなかった……
「ねぇ、殺す?」
希美が悪戯を考える子供のように、眼を輝かせる。俺は答えられなかった。
どうしたらいい? どうしたら……
希美の言うように、命を絶つ? そうすれば、俺はもう、身体を狙われることはない。だが、それでは俺は、ナチュラルと同じではないか? 相手の命を顧みない、傲慢な存在として終わる、それだけではないか……
「北斗、僕と一緒にやろうよ」
希美が俺の腕にもたれてくる。
「人間たち、嫌い。我が侭で自分勝手で、大義名分さえあれば、自分たちが何をしても正しいとおごっている。僕、嫌いだ」
「……希美……」
「やろうよ。世界中の人間に認めさせるんだ。僕らだって、生きているってコト」
クローンだって、生きている…… 俺は、生きている?
心臓が高鳴る。全身が火照る。
俺は生きている? 生きている? 生きている……のか?
命って何だ?
ナチュラルとクローンは違う? 何が違う?
「わからない」
俺は希美を見つめ返した。
「わからないよ、俺には。アイツを殺すことが、本当に俺たちの『生』を証明することになるのか……」
「北斗」
希美は、俺をあやすように声を和らげた。
「北斗は言っていたよね。『自分が何者なのか知りたい』って。アイツがいなくなれば、あなたは間違いなく『西城北斗』になれるんだよ。もう、自分が誰かなんて、悩まなくていい。世界でたったひとりの存在になれるんだ。素晴らしいことだよ」
世界でたったひとり? 誰かのコピーではなく、誰かの代用品ではなく、俺自体が存在の全て……
「さぁ、北斗」
希美は俺に拳銃を握らせた。重たい、冷たい感触。
「観」えかけた残像を、俺は振り払った。
壁全体が横にスライドし、培養槽へ続く道を開いた。培養液の中で眠る、無抵抗の相手…… 命を奪うは容易い……
俺は数歩、近づいた。北斗の顔を見上げる。
俺と同じ髪、俺と同じ肌、俺と同じ顔……
オルダーの壁の中で、天坂弘和と共に歩いていた北斗は、今の俺とそっくりだった。ということは、このまま年を重ねれば、一六年後には、俺はこんな姿になるのだろうか。
「どうしたの、北斗」
希美がせかせる。
「やりなよ。そいつがいなくなれば、『北斗』は『北斗』になれるんだから」
!
北斗は北斗……
俺の脳裏に、別れ際の梓の言葉が蘇った。
『何があっても、北斗さんは北斗さんです……』
俺は銃を棄てた。希美に向き直る。
「意味がない、希美」
「…………」
「こいつを殺しても、何も変わらないよ」
「な、何言ってるんだよ! 北斗はクローンなんだよ! 僕と同じように…… 僕は、ずっと、ずっと、培養槽の中の北斗を見てきたんだ! 十年間、毎日……」
CU:BEが俺を隠していたオルダーの施設に、希美もまた、閉じこめられていたのだ。ずっと前から俺を知っている、と言った意味が、ようやくわかった。俺にとってはわずか何週間のつきあいでも、希美にとって俺は、同じ悲しみを背負った旧友だったのだ。
「ナチュラルがいる限り、クローンは誰でもない、ただのスペアパーツにすぎない。今のままじゃ、北斗は誰にもなれない!」
俺はもう一度、北斗を見つめた。と、足下の床に、白い顆粒の入った小瓶が転がっている。素早くラベルを読み取る。どうやら、心臓発作用の薬のようだ。こいつ、心臓が弱いと言っていたから、そのためのものだろう。この培養槽に入れられてどれだけたっているかわからないが、早めに助けないと命にかかわる。
「希美」
俺はまっすぐに希美に向かった。
「俺は、俺だよ」
「……ほく……と?」
「ナチュラルもクローンも関係ない。希美だって、言ってくれたじゃないか。『友達だ』と。俺はそれで、十分だから……」
希美の顔から、血の気が引いていく。ぐっと、唇を噛む。
「北斗、僕と一緒に……」
俺はかぶりを振って、きっぱりと拒絶した。
「おまえと一緒に行くのは、飛雁や梓の待っている場所だけだ。帰ろう、希美。これ以上、命を奪うな」
「北斗は憎くないの!」
希美が叫んだ。
「望んでこんな姿に生まれてきた訳じゃない、って! 道具にするなら、どうして心なんて与えたのか、って! 人間は勝手だ…… クローンだって……僕らだって……生きて……いる……」
希美の頬を涙が伝う。
おびただしい数の屍を重ね、それ以上の数の人間を憎悪する少年の、心の底からの叫び……
俺もまた、同じ叫びを発してもおかしくはない。だが、希美の涙は俺の胸を締めつけはしても、人類への憎悪へつながることはなかった。
「レイモンド教授……」
俺は呟いた。
「彼は鳥の姿をしていても、俺たちと変わらない。生きている」
「…………」
「桜庭梓」
「…………梓?」
「身体はどうあろうと、梓の本質は何も変わらない」
「…………」
「柏木希美」
「!」
「クローンだろうが、ナチュラルだろうが、そんなことはどうでもいい。俺の、親友に変わりはないんだから」
「……北斗……」
希美は眼を伏せた。
「北斗なら、僕の気持ち、わかってくれると思っていたんだけど……」
「わかる」
俺はちらりと、北斗に眼を走らせた。表情が痙攣するように動いている。心臓が痛むのだろうか…… 急がなくては……
「わかるから、言うんだ。おまえに、これ以上、罪を重ねさせたくない」
「罪? 僕がやろうとしてることが罪なら、人間が僕らにしたことは許されるというの? 僕らを産みだすことは、罪じゃないっていうの?」
「俺にはわからない。だが、ひとつだけ言える。俺は生まれて良かった」
飛雁の笑顔……
「飛雁や、梓や、希美に会えてよかった。過去の記憶なんて、もう、いらない。新しいものを、これから増やしていけばいい。その中で、おまえにも笑っていて欲しいんだ」
梓の笑顔……
「希美、おまえにも、俺と一緒に生きて欲しいんだ。おまえだって、生きていたいはずだ。命なら、そう願うものなのだから」
希美の、笑顔……
「おまえの身体は、誰かのコピーなんかじゃない! おまえ自身の、紛れもない、おまえ自身の魂の形なんだ!」
……あ……
「だ、だから…… だから……」
……胸が……
「おまえの、笑顔は、あんなにも……俺たちを……幸せに……でき……た……」
……いた……い……声……続かない……
「……北斗!」
痛い! 心臓…… ああっ……
終章 北斗
…………
…………
…………
…………
…………俺は…………生きて…………いるのか?
小刻みに振動が伝わってくる。
遠くから、俺を呼ぶ声がする。
この声は…… 飛雁?
俺は支えているのは、飛雁の腕……
眼を開けると、静かな灰色の瞳が俺を映していた。
「飛雁」
俺はかすれた声で言った。
「飛雁、全て、わかったよ」
「……ああ」
飛雁の手が、俺の肩を掴む。
言うまでもなかったな、おまえには。
「ああ」
ここは?
「ヘリの中だ。もう、心配ない」
梓は?
「無事だ。操縦席にいる。装置不良で、自動操縦がきかない」
俺は……どうして……
「教授から連絡を受けて、ジーンリッパーへ向かった。奥の部屋でおまえを見つけた時には、既に気を失っていた」
助かったのか……
「そのようだな。手に、こんなものを握っていたぞ」
飛雁が差し出したのは、ガラス製の小瓶。
「中身はカラだったが、おまえが放そうとしないから持ってきた。何か意味があるのか?」
希美だ……
「え?」
俺に、記憶はない。希美が飲ませてくれたんだ……!
「梓とふたりで施設中を探したが、希美は、いなかったぞ……」
いなかった? ユニコーンのレリーフの扉のある部屋は?
「ああ、誰もいなかった。培養槽の中で男がひとり、死んでいただけだ」
死んでいた? 死因は?
「わからん。だが、外傷はなかった」
……心臓だ……
ナチュラルが、死んだ。
彼の心臓の病は、生まれ持ったものだったのだろう。俺は心で苦笑した。結局、俺は彼にとって、役立たずだったわけだ。俺の身体にも、その疾病が残されていたのだから……
俺は飛雁に身体を預けたまま、上体を起こした。
飛雁、CU:BEはどうなっている?
飛雁は首を振った。
「データベースが完全に死んだ。復旧に二年はかかる」
オルダーは?
「京葉たちのチームがルーシスに侵入して、オルダーの管理システムを狂わせていた大本のコンピュータを破壊した。都市機能は回復している」
そうか……
「北斗?」
うん?
飛雁が渋い顔で、梓と俺を見比べた。
……言いたいことは、よくわかる。
〈どういうつもりだ?〉
どうもこうもない。始めから言っていたはずだぞ。おまえがもたもたするから、俺に先を越されるんだ。意気地なしめ。
〈誰が意気地無しだ! だいたい、おまえは節操がなさ過ぎる! そこまで手が早いとは思わなかったぞ!〉
おもえこそ、キザなセリフ吐きやがって。梓の服に、しっかり記憶が残っていたぞ。
飛雁の頬が、瞬く間に紅潮する。
「表出ろ、北斗! ケリをつけてやる!」
「望むところだ!」
大声を上げた俺たちに驚いて、梓が駆けつけてくる。
「どうしたんですか、突然……」
「止めるな、梓! これだけは引けないんだ!」
俺は拳を固めた。腕力で飛雁に勝てるとは夢にも思っていない。だが、身体がうずいて仕方がない。一暴れしないことには、このうずきは収まりそうもない。
「止めはしませんけど、今はやめて下さい」
「?」
「表に出たら、落ちます」
「え?」
「ヘリの中ですってば……」
そういえば…… 俺たちは揃って窓の外を見た。青々とした空が広がっている……アレ?
「そ、そういえば、梓、操縦は?」
「俺ガ代ワッテヤッタゾ!」
教授っ! 俺は一瞬、眩暈を覚えた。俺たちと変わらないとわかっているつもりだが、それでも緑色の鳥類が操縦席でレバーを足で操作している図は、俺に強烈なショックを与えた。
「……待てよ、北斗……」
飛雁が、きょとんとした顔で俺を見た。
「おまえ、さっき、俺の心を読んでいなかったか……」
え?
「……読めてた……かも……」
そういえば……読心術…… 確かに、飛雁の考えていることが……
俺の頭に、稲妻のような考えが閃いた。
「飛雁、さっきの小瓶、貸してくれ!」
引ったくるようにして飛雁の手から、心臓薬の瓶を奪う。
もしかしたら……
両手で小瓶を包むように握る。眼を閉じ、手のひらに意識を集中……
オブジェマインド……
小瓶の、記憶……
茶色い髪……白い頬……伝う涙……優しい瞳……希美。
よし、次は……
希美の、心を読む!
「観」える。希美の心。希美の言葉。
最後に、笑顔。
俺たちを幸せにする、希美の笑顔。
仮面なんかじゃない! 素顔の優しさ。
希美はこの小瓶に込めて、俺に伝えたかったんだ。胸が熱い。
俺は顔を上げた。
蒼い蒼い空の高みから、純白の雪が舞い落ちてくる。
碧空から降る雪。
帰ってくるよな、希美……
今度は俺が待つよ。おまえは、十二年間、俺を待っていてくれたんだから……
「飛雁」
俺は空を見上げながら呼んだ。
「俺の親友が、CU:BEに来たら……」
風が見える。陽の光をまとった風が、雪を身体に絡めながら過ぎてゆく。
「オークションにかけられたら……」
遠く赤い地平線。
「参加してくれよな。たったひとりでも、さ」
「そいつのSAは、催眠術か?」
飛雁と梓が、俺の後ろから外を眺める。
俺は、首を横に振った。
「アイツのSAは、『希望(のぞみ)』。人を、幸せにする力だよ」
俺の目は、もう、迷わない。
俺の名は、西城北斗。
間違いなく、これは俺の名前。
だって……
「北斗!」
ほら、ね。
大切な人達が、俺を、そう、呼ぶのだから。
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■作者からのメッセージ
『CU:BE』完結です。
ここまでおつき合い下さった皆様、お疲れさまでした。
腕を磨いて、また、参加させていただきたいと思います。本当に、ありがとうございました。