- 『虹色の明日』 作者:浅月美穂 / 恋愛小説 リアル・現代
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全角42934.5文字
容量85869 bytes
原稿用紙約123.55枚
ある小学校に、林檎女と馬鹿にされる少女がいた。林檎は可愛いもの、自分をなぐさめてみても、学校に行けばいつもからかわれる。いつのまにか少女は、友達ができる術を身につけていた。そしてそんな少女はその三年後、ある人物と出会うことになる。出会いは突然だった、そんな言葉は無いけれど。彼女たちは本気で、本気の恋をしていたんだ。中学校最後の一年、少年少女はどんな想いを胸に秘めただろう。
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「笑っていれば、誰かが話しかけてくれる。あの時のように、一人ぼっちになることは無い。だからこそ私は笑う。これ以上、辛い思いをしないように」
これがある少女の日記に書かれた内容、そしてその後の少女の人生に、大きく影響していく言葉。
雨が降った日だった。まだ夏の暑さが残る九月の中旬。風は全くといって無く、ただ雨だけがざぁざぁと、何かが地面を叩きつけるかのように降っていた。
「りんごのくせに、邪魔なんだよ。さっさと帰れ」
鞄を背負い、教室を出た途端にこれだ。言われるまでもなく帰ろうとしていたのに、少女に向かって暴言が降ってくる。暴言を吐いているのは隣のクラスの男子数名だった。言い返そうと思えばできないことも無いのに、少女は耐えた。何も言わずにぐっと、泣きそうになるのを我慢したためか真っ赤になりながら。
“りんごじゃない、私の名前は紅菜だよ”
何度そう言おうとしたことか。
誰も助けてはくれなかった。元々そんなに友達が多いほうじゃない、けれどこんな場面を見て誰も、何も言ってくれなかった。「やめなよ」って、たったそれだけを誰も言わない。山田紅菜はりんごのように真っ赤な顔を隠すように手で覆い、廊下を走る。ぶつかってしまった男子が「うわ! 赤いのがうつる!」と言っているのが耳に入ったが、止まろうとも言い返そうとも思わなかった。ただひたすら、何かから逃げるように、その場を走り去った。
りんごちゃん、それは真っ赤になる女の子だけにつけられる、特別なあだ名であった。いじめっられっ子のりんごちゃん、と誰かが言う。
そして紅菜は思ったのだ。もしかして、友達が多ければいじめられることは無いんじゃないかと。友達がほしくなかったわけじゃない。ただ、どうやったら友達ができるのか、わからなかっただけ。紅菜はとても、色んな面で不器用な子だった。一生懸命考えた。どうすれば友達ができるのか、どうすればいじめられないのか。そして次の日から、思いついたことを早速実行し始めたのだ。
とにかく明るく振舞った。笑顔を絶やさなかった。みんなに合わせようと頑張った。そしていつのまにか紅菜には、愛想笑いというものができるようになっていた。いや、本人は気がついていない。
紅菜はそれを三年以上も続けてしまった。自分がどんな風に笑っているか、分かっていない。それはまるで、買ってくれる人物を待っている、ペットショップの動物のよう。
紅菜が中学三年生、四月の七日。桜舞い散る春の、暖かい日。「出会いは突然だった」なんて小説じみた言葉は無い。
「山田紅菜です、元二年二組でした。得意な科目は国語と音楽、苦手なのは社会です。よろしくお願いします」
微笑みながらお辞儀をして、スカートが皺にならないよう気をつけながら、椅子に深く腰掛ける。姿勢をきちんと伸ばし、女の子らしく。昔から両親と、そして一緒に住んでいる祖母に言われ続けてきたことだった。「女の子らしくなさい。そんなんじゃ将来お嫁にいけませんよ」
紅菜の隣の机に座る少年が立ち上がり、自己紹介を始める――はずだったのだが、緊張していたのか、彼が立ち上がると同時に机がガタッと大きくゆれ、上にのっていたはずの黒いペンケースが落ちた。缶ペンケースだったせいが、ガシャンッという何とも耳障りな音が教室中に響く。落ちた拍子にふたが開き、中のペンや消しゴムが転がった。
「大丈夫?」
すぐに拾い始めたのは、紅菜だった。優しく、丁寧にそして速く拾う。傍から見ればその様子は、天使を思わせたに違いない。紅菜は可愛い部類の人間であった。
「あ、山田さん。ありがとう」
紅菜は少年がたったそれだけのことを言う間に、中身を全てペンケースへとしまい終えていた。少年は恥ずかしさのせいかちょっと頬を赤くしながら、紅菜からペンケースを受け取る。紅菜は返事の代わりににっこりと微笑み、自分の席へとまた深く腰掛けた。
少年は赤いのを隠すためか、それとも仕切りなおすつもりか、わざとらしくコホンッと咳をする。男子達の野次が飛んだ「亮ちゃーん! ファイトー!」この出来事だけで、紅菜は少年がどんな人物なのか理解した。男子にも女子にも評判がいい、天然クン。天然クンはまた照れくさそうに笑う。そして小さく息を吸い込んだ。
「山田亮一です! 元二年四組、部活はサッカーで、一応キャプテンやってます! どうぞよろしく!」
黒板のほうにいる先生が亮一に聞こえるよう、チョークでトントンと黒板の文字の部分を叩く。〔自己紹介の内容〕と大きく書かれた下に、五つだけ箇条書きで書いてある。名前、二年生のときのクラス、部活(部活に入ってるひとだけ)、そしてその下に二行。先生はその二行を叩いていた。
「あ! え、えっとー、得意なのは体育で、苦手なのは音楽です! どうぞよろしく!」
またクラス中にどっと笑いがおこる。男子中心にだが、女子もクスクスと小さく笑う。亮一はさらに真っ赤になりながら、前の席に座る男子と話していた。紅菜も他の人々にあわさってクスクスと笑い、そして周りが静かになろうとするときにやめる。紅菜はこれを意識せず、自然とこなしていた。
亮一はこのクラスの出席番号で一番最後。つまり、自己紹介は彼で終わりである。先生は次の話を始めたが、紅菜はそんなことよりも亮一とその前の席の男子の会話を密かに聞いていた。
「亮一、おまえ真っ赤だったぜ!」
「うっせー、別にいいだろーが」
笑いながら言い返す亮一、そしてその相手の声を聞く。顔は先生の話を聞いています、とでもいうように先生のほうへ向けていた。
「りんごみたいだった」
途端に紅菜の持っていたシャープペンシルが落ち、机にあたってカシャンッと音をたてる。気付いたのは紅菜と、通路を挟んで紅菜の斜め前の少年だけだった。少年はそれを拾おうと手を伸ばしたが、紅菜がさっと拾う。少年は一瞬、行き場の無くなった手をぶらんと下げ紅菜を見ていたが、すぐに前へ向き直った。
「りんご」と聞くと思い出す。小学校のときに言われてきたこと、初めて見てしまった人間というものの醜さ。そしてこんな自分ができてしまったのも、小学六年生のときだった。
紅菜は教室のどこかにいるはずの「アイツ」を探す。自分をこんな風にしてしまった人間、一番憎んだ人間。そして見つけてしまった、先生のすぐ前に座っている「アイツ」を。玄関に貼られていた、クラス割の紙。それに「アイツ」の名が書いてあったのを、紅菜は見逃さなかった。「倉田啓介」と、フルネームで確かに書いてあったのだ。それを見て紅菜は何度も目をこすった。そして呟いていた「やめて、やめて、また繰り返されるの」と。
左肩に違和感を感じ、紅菜は左側――亮一のほうへ顔を向ける。
「あのさ、急にごめんな。お願いなんだけど……」
お願い、という言葉が使われるとき、紅菜の経験上大抵は面倒なことだった。
「サッカー部のマネージャーやらない?」
ほら、また面倒ごと、と紅菜は内心呆れたように笑う。サッカー部があることは誰でも知っていた。そして、メンバー十二人で試合に出るにはぎりぎり、後輩は一人しかいないため、紅菜たち三年生が卒業したら廃部だとも噂されている。
「ごめんね、勉強しなきゃいけないの。両親がそういうの厳しくて……」
そう言うつもりだったのに、紅菜の右側から先ほど紅菜のシャーペンを拾おうとしてくれた少年が話に入ってくる。少年はちょっと派手そうな茶髪だった、染めてるのだろうか。
「二年生、一人しかいないけど、結構いいやつなんだよー。人が少ない分、マネージャーの仕事もそんなに大変じゃないだろうしさー。何より山田さん、可愛いしね。きっと大歓迎されるよ!」
どこで息継ぎをしているのかと疑うぐらいの早口で、長々と少年は話す。この話しぶりで、少年もサッカー部なんだということが分かった。あれ、もしかして私、マネージャー決定? と紅菜は疑うぐらいの口ぶりだった。決定では無いかもしれないが、少なくとも期待はされている。いつのまにか亮一の前の席の少年までもが紅菜を、期待の目で見ていた。とてもじゃないが、断れる雰囲気じゃない。
「私で良ければ、やらせてもらえる?」
自分なりの笑顔をつくったはずだったのだが、少しだけ引きつった笑顔だった。
「ありがとう、山田さん」
「良かったなー、自分からやるなんて言ってくれて」
あんたが話に入ってくるからでしょ、と突っ込みを入れそうになったのだが、何とか踏みとどまる。ただ紅菜は、誰にも気付かれないようにじっと睨むことを忘れなかった。
「じゃ、早速後で一緒に川村先生のところ行ってもらってもいい?」
そうだ、サッカー部の顧問は川村先生だった。紅菜はそこで自分の失敗に気付く。川村先生は、紅菜の親戚。それも、遠い親戚なんかじゃない。紅菜の母の兄の息子、こう例えると分かりづらいが、十歳以上離れた従兄妹。そして、紅菜の初恋の人であり、その思いは今も続いている。
「うん」
本当は行きたくない、紅菜はそう思いながらも微笑む。
「俺、原南海斗っていうんだ」
茶髪の少年は自分のことを指差し、にっこりと微笑む。そんな素振りは無かったものの、少しだけ笑顔に違和感を感じて、自分と似てると紅菜は思った。
「まぁ副キャプテンってとこかな」
「全然役に立ってないけどな」
その言葉に、亮一の前の席の少年がぷっと吹き出す。そういえば彼の名前を聞いていない、と紅菜はその時思った。けれど名前を名乗ってくれる様子はない。自己紹介のときに聞いていただろうとでも思っているのだろうか。後で誰かに聞けばいい。
「亮一、それ酷くない?」
「事実じゃん」
先ほどから二人の会話に対しずっと笑っている少年は、お腹を抑えて笑い始める。そういえば、こんなに騒いだり立ち歩いたりしていて、何故先生は注意しないのだろう。紅菜が教室を見回すと、誰もが立ち歩き、先生までもが生徒と話している。休憩時間か。
「健太、笑いすぎー」
そこで話に入ってきたのは、綺麗で高い声だった。紅菜は新たな人物に顔を向ける。自分の前の席の女の子だった。確か名を、山下真里といっただろうか。
「うっせーなー。お前こそ、話に入ってくるなよ!」
健太と呼ばれた少年は、笑みをやめて真里に文句をつける。
「いいじゃん、私は山田さんと話をしたいんだから! あんたこそ邪魔すんな!」
こちらでも言い合いが始まってしまった。紅菜は思う、この二人はよくある幼馴染というやつではないか。友達にしてはあまりにも仲が良すぎるだろう。いつの間にか亮一と南海斗の言い合いは収まり、二人も紅菜と同じく、前の二人の言い合いを見ていた。
「山崎も山下も、そろそろ言い合いやめへんか?」
友達のような言い草で笑いを堪えながら呼びかけてきたのは、紅菜のクラスの担任になった、舛田貴子。昔、大阪に住んでいたという彼女の中途半端な関西弁は面白い。笑い上戸なのも、彼女ならでは。
健太の苗字は山崎というのか、と考えていた紅菜。指摘された二人は顔を真っ赤にして、どちらが何を言うこともなく席に座る。亮一と南海斗は指摘される前にさっと座っていた。
「お前のせいだぞ!」
「人のせいにすんな!」
健太と真里の文句の言い合いが聞こえる。先生は更に笑いを堪えて、話を開始した。話の内容は、明日の三時間目にある、新一年生のための部活動紹介。
「もしかして、明日の紹介に私も参加するの?」
紅菜は恐る恐る亮一にこっそりとたずねる。
「明日は見てていいよ。誰がいるかーとか、見てて」
良かった、と胸を撫で下ろした。よくよく考えれば、マネージャーの仕事さえ分からない中、どう発表すればいいのだ。参加するはずが無い。
「よし、それじゃあ今日はこれで終わりー」
大阪弁なのかも分からない、中途半端になまりを使い、舛田先生が出席番号一番の少年に呼びかける。挨拶お願い、と。言われた少年はちょっとふざけたように、さよーならーと叫ぶ。
「さよならー」
先生はさほど気にした様子も無く、名簿らしきものを持って教室を出て行った。先生が出て行って、生徒たちが一斉に自分のロッカーへと向かう。紅菜のロッカーは彼女の席のすぐ後ろだったのだが、人がたくさんいて、その中に紛れる気も無い紅菜は机によりかかっていた。
「山田さん、職員室行こう?」
「うん」
紅菜は亮一に見られないよう面倒だなぁとため息をついたが、どうせ自分の鞄を取るには少し待たなければならない。それでも、川村先生に会うのが一番嫌なのだが。紅菜たち三年生の教室は校舎が三階まである中、二階に位置している。職員室と同じ階だ。受験生は悩み事が多く、先生にすぐ相談できるようにだと噂を聞いたことがあった。
亮一はコンッコンッと職員室のドアを二回軽く叩いてドアを開ける。亮一の失礼します、という言葉に合わせて紅菜も同じことを繰り返した。入り口に入ってすぐ職員用のゴミ箱があり、ちょっと歩くと一年生の先生方の机。そして二年生の先生方の机、一番奥に三年生のという配置になっている。校長室は別にあり、職員室の奥からドア一枚で繋がっているはずだ。
川村先生は二年生の担任になったと、始業式のときに紹介があった。担当するのは三年生の数学だが。隣に座るのは新しく赴任してきた三村理恵先生、三村先生とお茶を飲みながら笑っていた。
先生、と亮一が呼びかけると、亮一のほうに顔を向ける。そしてその後ろに立つ紅菜のことにも気がついたみたいだ。
「山田さんがサッカー部のマネージャーやってくれるらしいんですけど」
川村先生の目が見開くのを、紅菜は見逃さなかった。以前から紅菜は何度も家で、川村先生に言っていた。運動は嫌いだ、部活なんかやりたくない、学校でさえ面倒なのにと。紅菜にとって、今の川村先生の考えていることを見抜くのは容易だった。めずらしいこともあるもんだ、と驚いているだろう。
「そっかそっかー。ありがとう、山田さん」
山田さんの部分を一つ一つ強調していったのは、おそらく紅菜の気のせいでは無い。
「こ、これからよろしくお願いします。川村先生」
紅菜も負けじと川村先生の部分を強調する。他の人に気付かれないよう眉を引きつらせながら、深々と頭を下げる。そして心の中で呟いた、最悪だと。
「おー、よろしくな」
先生が悪戯っぽく微笑む。自分の心の中を全て見透かされているなと、紅菜は直感した。じゃあそろそろ、と亮一が出て行こうとしたため、紅菜もそれに従って職員室を出る。職員室を出てすぐに亮一はありがとう、と言った。
こちらこそ、と返し紅菜は教室へと歩みを進める。亮一は後ろから追い抜いていった。中学の二年間で、男子は妙に速く帰りたがるものだと紅菜は知っていた。いつも教室に残っているのは、雑談を楽しむ女子ぐらい。
「それじゃ、また明日」
紅菜が教室へ入ろうとしたとき、亮一は鞄を持って帰るところだった。手を振られ、紅菜も手を振り返し教室へと入る。もう誰も残っていなかった。紅菜は一番端にある自分のロッカーを開け、鞄と薄い上着を取る。自分の机の上にそれを置き、机の中に入れてあった本やペンケースを鞄の中へ入れた。
「おーおー、珍しいねぇ山田さん」
紅菜の手がぴたりと止まる。ドアのところに寄りかかっている声の主に向けて引きつった笑みを返し、そちらこそと返す。
「運動やだー、部活やだー、学校うざいー、とか色々言ってやがったのに、マネージャー引き受けたのか」
「部活をするのも、学校へくるのも、社会生活の一貫ですよ。ね、先生?」
思い切り女の子っぽく嫌味に微笑む。上着を着た後鞄を背負い、川村先生の横をすり抜ける。先生に向かってべっと舌を出すのを紅菜は忘れなかった。
「そうだね、山田さん。じゃ、明日から頑張れよー」
紅菜はそれに返事を返さなかった。家へ帰れば、嫌でも顔を合わせることになるのだ。
「今日も飯食いに行くからなー」
他人が聞いていれば、別の意味に聞こえそうな会話。川村先生は紅菜の家の向かいにある古いアパートに一人暮らししていて、紅菜の母の気遣いにより毎日夕食を一緒に食べている。一人暮らしは大変だし、お金がかかるからね、というのが母の気遣いの理由。
紅菜はまたもや返事を返さず、ただひたすら玄関へ向かった。階段を下りながらふと思う。川村先生は彼女がいないのかと。彼女がいたとしたら、彼女が部屋へ遊びにくることは無いのだろうかと。
そこではっと気付く。玄関のところで数名の先生が、生徒の見送りをしている。
「さようなら」
先生は紅菜に背を向けていたため、紅菜の声によりその存在に気付いた様子。さよなら、と返されて紅菜も微笑む。玄関から家へ、そんなに距離は無かったが、とにかく走って帰った。色々とやりたいことがあるのだ。
マネージャーをやることになったと、その顧問は川村先生だと両親に言わなければならない。部活でできなくなるかもしれない分、授業の予習をしなければならない。あぁそうだ。帰って最初にやることは、弟の隆と自分の分のお昼ご飯を作ること。
紅菜は受験生になって、忙しさが倍増したと感じていた。紅菜の両親は色んなことに対して厳しかったし、その分紅菜は完璧主義という言葉が似合う子に育ってしまった。
「頑張らないと」
いつも呟いている口癖を、紅菜はぽつりと呟いた。
部活動紹介は全学年が体育館に並ばせられて始められる。一年生はステージ側、その他は一年生から隙間を開けて反対側に。その隙間で、それぞれの部活が自分達の活動紹介をする。
最初は野球部から始まって、その少し狭い隙間の中でキャッチボールをしたり、壁や窓などに当たらないよう気をつけながら、バットでボールを打ったりと、まぁとにかく紅菜はうるさいという感想しか持たなかった。
次はバスケ部。真里と健太がいて、位置的に二人共副キャプテンらしい。女子と男子に分かれていて、どちらも似たようなことをしていた。ドリブルしたり、パスしたり、シュートを打ったりと、初心者にも分かるようなものばかり。その後もテニス部、卓球部と続き、もうすぐパソコン部などの文化系の紹介かと思ったとき、サッカー部らしき部員が出てきた。判断の基準は、サッカーボールとしよう。
出てきたのは亮一と南海斗を合わせたったの五人。亮一と南海斗だけがボールを持っていた。亮一が司会の人からマイクをもらい、スイッチを入れる。カチッと小さく音がした。
「こんにちは! 俺達サッカー部は、部員十二人で日々練習しています」
そして何かを確認するかのように、隅のほうへ目線を向ける。紅菜もつられてそちらを向いた。残りの部員七人ほどが、ゴールの準備をしている。それが終わったと確認し、亮一たちはボールを使った紹介に入る。
ゴールのところには、他の十一人とは違うユニフォームを着た少年が一人だけ立っていた。テレビか何かで見たような、キーパーらしい体勢で。
十一人の部員が一列に並び、一番前にいる亮一がボールを蹴る。ゴールに入って壁にぶつかってしまったらしく、ドンッという音が体育館に響いた。その後も一人一人が色々なことをやっていく。サッカー部の紹介が終わると、美術部やパソコン部の紹介が始まった。
紅菜の元へ、戻ってきたらしい亮一が駆け寄る。正直興味の無い紅菜は、特別はしゃぐわけでもなく、顔だけを亮一のほうへ向けた。終わって安心しているのか、亮一は笑顔。
「誰か知り合いいた?」
紅菜がサッカーに無関心なのを感じたのか、感想などは聞かず、部員に関する質問。紅菜はこの質問ににっこりと微笑んだ。
「ううん、山田君と原君だけ」
二年生は廊下で過去にすれ違っているのか、少しは見覚えがある。その中の一人、少しだけ話したことのあるかもしれないという人物がいたが、名前は思い出せなかった。
「そっかー。あ、今日の放課後から部活あるんだ。平日は毎日四時からなんだけど、大丈夫?」
四時からといえば、学校から帰ってすぐに紅菜が勉強を始める時間だった。まぁそれは、部活後に回せばいい話。紅菜は笑顔を崩さずにもちろんと返す。
「あと、今日だけでいいから、できれば三時ぐらいに来てもらえると助かるんだけど……」
「何かあるの?」
この日は短縮五時間授業のあと、職員会議があるからと再登校になっていた。こういうとき、紅菜が家につくのは自転車のときは早くて二時半。ぎりぎり来れる、だが悪魔でもぎりぎりだ。
「今までマネージャーっていなかったからさ、色んなところがすごい汚くて……片付け、手伝ってもらいたいんだ。二年生の奴、ほこりとか駄目っぽくて、ちょっと可哀想なんだよ」
優しいんだな、と感じた。
「わかった、じゃあ三時にグランドね」
サッカー部がグランドの片面でやっているのは、委員会か何かで居残りをしていた時に微かに見ていた。会話に一段落ついたころ、亮一は誰かに呼ばれそちらへ走っていく。紅菜は一人になってしまったが、すぐ真里が寄ってきたのでお喋りに付き合っていた。けれど真里と話しながら、何故か亮一の笑顔が頭から離れなかった。
授業が終わって二時半に家に着き、少しばかりお腹がすいたらしく紅菜は冷蔵庫を開ける。先日、自分の大好きなパンを母が買ってきてくれたのを思い出し、そのパンを取って袋をビリッと開ける。一口目を口に入れたとほぼ同時に、隆がただいまーと家にあがる。そういえば今日のバスケ部紹介のとき、隆がいたと紅菜はやっと気付いたのだった。
「紅菜、サッカー部のマネージャーやるんだって?」
隆が中一のとき、初めて紅菜と呼び捨てされ注意したものだが、今は紅菜自身もすっかり慣れてしまっていた。
「誰からそれ聞いたの?」
健太先輩、と返事が返ってくる。山崎か、と紅菜も納得した。
「健太先輩と同じクラスで、席近いんだろ。真里先輩とも仲いいんだってな。良かったじゃん」
「何がいいの?」
そこで隆はくっと小さく笑う。
「だってあの二人、見てて飽きないじゃん。」
この一言で初日に見せたあの口喧嘩は、部活でも健在しているのだと聞き取れる。後輩に見てて飽きないって言われるなんて、先輩としてどうなのかと紅菜も小さく笑う。
「そうそう、サッカー部に二年一人いるじゃん。そいつも見てて飽きない奴だな」
ほこりが苦手な二年生君、隆と同じクラスだったのかもしれない。だが隆のサッカー部という台詞によって、紅菜は思い出した。喋ったり、パンを食べたりしている間に、時間はどんどん迫っていたのだ。現在二時四十五分。家から学校まで自転車では十分のため、問題は無いはずだが、紅菜はまだ制服のまま。部活はもちろんジャージ、持ち物さえ準備していない。しかも紅菜は五分前行動を当たり前と考える人間で――。
「あぁあ!」
急にすぐ近くで叫ばれ、隆は耳を塞ぐ。どうした、と心配しているようだったが、迷惑そうだった。
「運動部って、持ち物何持っていけばいいの?」
制服のリボンを取り、脱いだブレザーを片手に持って、階段の手前で隆に問いかける。言わば制服をある程度脱ぎながらだった。さすがにスカートやワイシャツまで脱ぎはしなかったが。
「え、えぇえーと」
「早く!」
「多分、マネージャーは何もいらない!」
返事もせず紅菜は階段をかけあがる。部屋のドアを閉める音もしない、開けっ放しで着替えんなよと隆は呆れ半分、時計を見上げた。
「三時から部活なんて、速いなー」
紅菜が急いでる様子からして、大体の部活開始時間は予想できる。それはただの独り言だったのだが。ドタドタと紅菜が落ちるような勢いで階段を下りてきて、自転車の鍵と念のためか家の鍵だけ持って玄関を飛び出す。ジャージは着ていたものの、靴下をきちんとはき替えたかは確認できなかった。
紅菜は自転車をこぎながら片手を離し、自分の愛用している腕時計を見る。まだ家を出たばかりにも関わらず、時計の針は五十五分をさしていた。こんな時に限って信号が赤になってしまうのは、紅菜の運が悪いだけだろうか。
「早く、早く、早くー!」
誰に言うでもなくそう呟いている紅菜を、自転車に乗った二人の男の子が不思議そうに見る。そのうちの一人が変なのーと呟いたが、信号が青になったと同時に紅菜は自転車を勢いよくこぎ始めたため、小学生の言葉なんて聞いていられなかった。
「山田さん! こっち、こっちー」
信号を渡って真っ直ぐ行けば、すぐにグランドが見える。亮一はフェンス越しに紅菜に大きく手を振った。もう片方の手で、体育館のほうを指差す。紅菜は息切れしているのを隠すように、にっこりと微笑んで亮一の指示に従う。体育館の裏、ちょうど日陰になっているところへ案内された。自転車が一台だけ停まっている。
「サッカー部はここに停めていいんだ」
通常の自転車置き場に停めたら、学校の周りを半周しなければならない。暑い夏でも元気に活動できるよう、テニス部とサッカー部のみに指定の置き場がある。野球部はあまりにも部員が多すぎて、置く場所がないためか通常の置き場。
「川村先生にプリント預かってるんだけど、はい」
紅菜が自転車を停めようとしているときにそのプリントを渡そうとするものだから、紅菜は急いで停め終え、プリントを貰う。嫌な予感がした。そしてその予感、ずばり的中。
「その一、物置の掃除」
漫画などではよく、部室の掃除をやらされている。けれど紅菜たちの中学校にそんな立派な設備は無く、着替えなどは全て校舎の中、男女で分かれてはいるもののどの部活も一緒の更衣室。
「物置ってどこ?」
保体の授業や体育祭の時でしかグランドに足を運ばない紅菜に、物置の場所など分かるはずもない。亮一に案内されてみれば物置というのは、おそらく人が四人入るのが精一杯の小さな物置だった。鍵は一応ついている、けれど外面はところどころペンキが剥がれており、何とも古そうだった。中はまだ見ていないものの、紅菜は蜘蛛の巣があることを予感する。
他にもボール磨きなども書いてある。亮一も初めて見たのか、その内容を見て紅菜同様驚いていた。そんな中、陽気な声がグランドに響く。
「山田さーん」
シャラシャラと何か金属のこすれる音をさせながらのんびり日陰を歩いていたのは、川村先生だった。丸い輪でまとめられた何かの鍵、そしてその丸い輪を指に引っ掛けて回している。はい、とその輪を渡され、先に五個鍵がついていることを確認する。そして何ですか、これはと疑問をぶつけた。
「もちろん、物置の鍵」
物置の中にあるロッカーの鍵もあるよ、と付け加えてにっこりと笑う。
「先生、わざわざこれ届けてくれたんですか? ありがとうございます、手伝ってくれるんですよね?」
プリントの内容を全て一人に押し付けるような、情のない人だとは紅菜自身思っていない。だからこそ聞いたのに、川村先生はさらりと言った。
「俺らはこれから自主練。ま、頑張ってねー」
そんな口調で話したら、従兄妹だということが分かってしまう。今まで隠してきたのに、と紅菜は心の中で毒づく。だが、この場には他に亮一しかいない。気にすることはないだろう。
「ごめんね、山田さん」
そうやって謝られると、逆に自分が悪者になってしまう気がする。紅菜は気にしないで、と微笑み物置の鍵を開けにかかった。硬い、相当古いらしく、開けづらいにもほどがある。錆びているんじゃないか。
しばらくそうやって粘っていると、ようやく少しずつ開き始める。鍵は開いたものの、扉は少しずつしか開かず、それにも時間を要した。扉を開け放って、思わずガッツポーズ。けれど次の瞬間、物置内から出てきたほこりの量に二回ほど咳き込んだ。
「ほこりの量にも限度ってものが……」
思わずぼそっと呟いて、服の袖で自分の口と鼻を押さえる。できるだけ息を止めて物置の中に飛び込み、一つだけあった小さな窓を開け放った。急いで飛び出てゆっくりと外の息を吸う。そしてほこりを出している間に、先生と亮一の元へ向かった。
「せんせー」
ほこりを少しばかり吸ってしまいよほど苦しいのか、紅菜の声と口調は少し変だった。川村先生はそれを予想していて、楽しんでいるらしく、にやにやと笑いながら紅菜のほうへ顔を向ける。
「雑巾とバケツ、あとはたきもか?」
川村先生の質問に、紅菜はただこくこくと頷く。亮一はそんな二人の様子を横目で見ながら、グランドを走っていた。
「貸してやるから、後でボール一個持ってこい。使うんだ」
もう一度大きく、頷く。先生は先ほど言った掃除用具を取りに、グランドを出て行った。だが、先生の首にぶらさがっていたらしいストップウォッチが鳴り響く。ピピピピピッ。それを聞いた先生は、それを止め、後ろを振り向こうともせず叫んだ。
「亮一、ちょっと待っとけ!」
「はい!」
亮一も負けじと大声をあげる。先生の姿が見えなくなり、グランドには紅菜と亮一の二人だけになった。どちらも何も言わず、亮一の荒い息だけが聞こえる。
「あーのさ」
不自然に伸ばした言葉を呟いたのは、亮一だった。紅菜は返事の代わりに、俯かせていた顔をあげる。
「川村先生と、仲いいの?」
亮一にしてみれば、そんな風に言うつもりじゃなかった。ただ、上手く言葉が見つからなかったのだ。ただ、川村先生と紅菜が先生と生徒じゃない、何か別の関係なのは薄々勘付いていた。
紅菜は迷っていた。亮一になら、別に言ってもいいんじゃないかと思う。けれど、もし他の誰かにまで広まると、ヒイキされているとか特別扱いだとか、面倒な噂がたつのだ。
「あー……従兄妹、なんだよね」
これ秘密ね、と付け足すのも忘れない。結局は、言うことにした。
「だからか。何か妙に親しげだったからさ」
「兄妹みたいな感じなの」
紅菜は心の奥で、初恋の人だと覚えていたものの、他人である亮一にそれを言おうとは思わない。紅菜自身、今も好きなのか分かっていないのだ。
「山田さん、先生といるとき、すっげーいい顔してる」
紅菜が驚いて目を見開いたまま亮一を見たためか、亮一は「あ、変な意味じゃないんだけど」と付け加えた。
「なんていうのかなー。友達と笑っているときより、ずっといい笑顔だなって思った」
自分の笑顔が人によって違うだなんて、思ったこともなかった紅菜は目を見開いたまま俯いてしまった。
「……私、友達といるときそんな変な顔してる?」
「無理してるって感じる」
そんなんじゃないよ、って返してくれるのを期待していた紅菜は、その返答にちょっと傷付いていた。まぁそれは、亮一の正直な気持ちだったのだろう。
「俺、川村先生といるときみたいな自然な顔、見たことない。いつも無理してるよ、山田さん」
「おーい、持ってきたぞー。さっさとボール拭いて亮一に使わせてやれー!」
そんな声がグランドに響いたのは、最後に亮一が喋ってから、一分も経っていないときだった。紅菜は川村先生に向かって軽くお辞儀をして、用具を全て受け取り物置へ向かう。そして思った。私の自然な顔って、どんなの?
小さな水のみ場でバケツに水を汲み、急いで雑巾を濡らす。物置のほうへ戻って最初にやることは、腕まくり。先ほど窓を開けたときに、どこかへ擦ってしまったのか、ほこりの塊のようなものがジャージの腕の部分についていたのだ。
そして雑巾でボールを一個手に持ち、きゅっきゅっと音をたてて素早く拭く。そして思った。ナイス、拓ちゃん。拓ちゃんとは、川村先生の名前、拓郎から取ったもの。拓朗は紅菜の性格を判断し、雑巾を二枚用意しておいてくれた。
ボールを濡れた雑巾で拭いたあと、そのままグランドで使うと、砂だらけになってしまう。濡れ雑巾の後に、乾いた雑巾で拭けば完璧なのだ。紅菜は乾いた雑巾を片手に持って、思い切り叫ぶ。
「拓ちゃーん! ボールいくよー」
その声に驚いたのは他でもない亮一で、拓ちゃんというあだ名に笑いを堪えながらも紅菜の様子を見ている。紅菜は足元にボールを置き、勢いをつけて蹴ろうとした。そして一種のお約束、紅菜の右足はボールのすぐ横を掠り、勢いのあまり紅菜は仰向けにどてっと転ぶ。
「大丈夫かー?」
拓朗はそれを予想していたのか、慌てず笑いながら、とりあえず心配しておきましょう風の口調で叫んだ。紅菜はすぐ上半身だけ起き上がり、微笑む。
「だーいじょうぶー」
とにかく、笑うことしかできなかった。
「山田さん、手」
いつのまにきたのか、亮一が紅菜に向かって右手を差し出している。左手はもちろん、笑いを堪えるために口元へ当てられていた。
「ありがとう」
紅菜は手をぎゅっと握って、力を込め、亮一にあまり体重をかけないようにして立ち上がる。すぐに二人して、笑いがこみ上げてきた。
「はは、山田さんの自然って、これ?」
さすがにここまで見たことは無かったのか、笑い泣きしそうなぐらいの勢いで亮一はお腹を抑えしゃがみ込む。紅菜はその問いに、にっと笑った。なんだか、すっきりしていた。
「山田さん、サイコー」
それは最高に面白いという意味で言われたのだろう。急にドンッと亮一の頭の上に拳がのる。
「サイコーはいいから。おら、早く練習しろ。紅菜は掃除」
亮一はまだ笑い足りない様子で、拓郎と共にゴールのほうへ戻っていった。紅菜は転んだ拍子に落としてしまったらしい雑巾を新たに水で絞り、また掃除を再開する。何だか楽しくなりそうだった。私の自然って、こういうことかな。
紅菜は微笑みながら、窓を拭き始めた。
もうすぐゴールデンウィークに入って、五日間の休みが続くと楽しみにしていたある日。ゆったりとした暖かさの中、ボールを蹴っているときだった。部活が終わる直前、後片付けを始めたとき。照れ笑いを浮かべて、拓郎は頭をかく。
「俺、結婚することになったんだ」
紅菜の手から、持っていたボールがすべり落ちる。そんなこと聞いてないよ、と紅菜は涙をためて拓郎の背中に目を向ける。
「へぇ、おめでとうございます」
拓郎へ微笑んだ亮一や南海斗を見る。信じられなかった、信じたくなかった。紅菜の初恋は、中学へ入ると同時に終わったはずだった。いや、終わったのだ。完全に。思いを伝えたわけじゃない、けれどいつのまにかそれは終わっていて、紅菜自身もいい思い出だと言えるぐらい、過去のものになっていた。
「結婚式、いつですか?」
「予定は七月。お前ら全員呼ぶからな、絶対こいよー」
要と拓郎の会話を、ぽかんと口を開けたまま見ている。泣きそうな紅菜が眼中に無いらしく、拓郎や亮一たちは楽しそうな会話を続けていた。お相手は、と聞かれた拓郎は頬を赤くして返事を返す。
「聞いて驚けー、三村先生だ」
「三村先生って、あの野球部の?」
三村先生と聞いて最初に浮かぶのは、野球部顧問の 三村雄という先生。一年生の担任で、美術を担当する。名前からしても分かるとおり、男。
「俺、先生がそんな趣味だったなんて思いませんでした」
でも俺たちはずっとついていきますよ、と亮一が大真面目に言うものだから、南海斗がその隣でお腹を抑え笑い出す。その中で三村とは野球部のほうの、と考えたのは全員であったが、亮一以外の誰もがもう一人の三村だということに気付いていた。結婚の報告が無ければ、紅菜もその輪に入って一緒に笑っていただろう。
「三村って、理恵先生でしょ? 三村先生って、まだ赴任してきて一ヵ月も経ってないのに。先生、手が早いですね」
南海斗の冗談にまた笑いが起こる。紅菜の表情は、固かった。亮一が自分に気がついて、自分の名を呼んでいるにも関わらず、拓郎から目が離れない。亮一が紅菜の名を呼んでいるのに気がついたのか、南海斗までもが自分を呼び始める。その間に亮一は走ってきて、紅菜の目の前でぶんぶんと手を振る。
「山田さん、大丈夫? 真っ青だよ」
「……嫌」
紅菜の目から一粒の涙が流れた。亮一がどうしたの、と耳を近づけるものの、紅菜の様子が変わらないため顔をあげる。そしてその涙に、気がついた。それでも騒がず、静かにじっと紅菜を見つめる。
「何があったのか分からないけど、ちょっとしゃがんで待ってて」
紅菜は一瞬亮一の顔を見て、不思議そうに考え込んだあと、言われたとおりその場にうずくまる。これは、他の誰かに涙が見えないようになんだろうか。
「紅菜ちゃん、どうしたの?」
いつの間にか、南海斗に紅菜ちゃんと呼ばれるようになっていた。紅菜だけではなく、真里のこと、果てには舛田先生までもちゃん付け。
「あぁ、なんか具合悪いんだって。そっとしておいてあげて」
そんなやり取りが耳に入ったが、今の紅菜には拓郎が自分の涙を見ないことを祈るしかなかった。拓郎がこれを見れば、理由を聞いてくるに決まってるから。自分が原因だなんて思うはずもなく。
「山田さん、部活終わったよ」
紅菜は組んだ腕の隙間から、そういえば先ほど落としたボールはどうなったかと、覗き込む。ボールは無い、ゆっくり視線をあげていくと、亮一が持って自分のほうを向いていた。
「話、聞こうか?」
別に話を聞いてもらわなくても良かった。けれど今まで誰にも言えなかった気持ちを、言いたいとどこかで訴える自分がいる。紅菜が小さく頷くと、亮一はボールを持ったまま物置近くの小さな石階段へ紅菜を連れて行く。明るくも暗くもない、そんなグランドに一筋の風が吹いた。
「山田君、初恋ってあった?」
紅菜がいきなり言い出した言葉に、亮一は驚くわけでもなく、恥ずかしがるわけでもなく、あったと呟いた。同じクラスの人、と紅菜が聞けば、違うと返ってくる。とても短い、そして寂しい会話だったが、亮一は文句言わず答えてくれた。
「もし初恋の人が結婚するって話をしてたら、どうする?」
結婚という言葉で、紅菜の思い人が誰なのか気付いたのかもしれない。けれど亮一はちょっと考え込んで、またぽつりと呟いた。
「多分、何もしないでお幸せにって言うと思う」
「好きだったことを思い出しても?」
そこでまた、うんと呟く。
「俺、自分の幸せっていらないんだ」
いらないの、と不思議そうに、紅菜が首をかしげる。そこで考えた、自分はどうだろうかと。
「自分の好きな人が幸せになってくれればいい。その人が、世界一好きな人と結婚して、死ぬまで二人傍にいて、悔いの無い人生だったって言ってくれれば、それでいい」
紅菜はしばらく何も返せなかった。紅菜なりに、衝撃を受けていた。亮一もそれ以上、何も言わなかった。
「……山田君って、すごいんだね」
すごいというのは、紅菜的にそういう風に考えられるのがすごいと言ったのだろう。だが亮一にその意味は分かっていなかったらしい。
「そんなこと無いよ、山田さんだってすごいじゃん」
どこら辺が、と聞けばすっげー頭いいし、と返ってくる。紅菜は思わず笑い出す。本当にこの人、話を聞いてたのかと考えたら、どうにも笑いが止まらなくなってしまった。
「本当、山田君ってすごいや」
紅菜が笑い出したのを見て亮一は首をかしげる。亮一はきちんと話を聞いていたのだろうが、理解はできていなかったようだ。紅菜が笑い終えると、亮一は立ち上がって伸びをする。そこで紅菜は腕時計を見て、もう七時になってしまったということに気付く。
「こんな遅くまで付き合わせてごめんね」
自転車置き場へ歩きながら、亮一は別に、と微笑む。
「こんなことで良かったら、いつでも付き合うよ」
また微笑んで、自転車にまたがる。紅菜も自分の自転車にまたがった。
「山田さんの家、どっち?」
こっちだよ、と指差したのは先日大急ぎで渡った信号のほう。山田君は、と聞き返せば同じ方向なのかよく分からない方向を指差された。紅菜は返答に困り、亮一の言葉を待つ。
「じゃ、途中まで一緒に帰ろうか」
亮一が返事を待たずこぎ始め、紅菜もそれにあわせる。
「あぁそうだ、質問」
校門を出たところで、亮一が片手の人差し指を真っ直ぐ上に向ける。その仕草に紅菜は微笑み何、と問いかける。
「南海斗からの伝言なんですが、紅菜ちゃんは彼氏いますか?」
いきなりの質問に、どうしようと迷う。正直に言うのもおもしろくない、恥ずかしい。けれど正直な答え以外に何も思いつかないのだ。いません、と頬を赤く染める。
「それじゃあこれは俺からの質問。山田さんのこと部活とか二人のときだけ、名前で呼んでいいですか?」
山田さんと山田君じゃ、お互い名前を呼ぶとき分かりづらいから、そう言い訳をし始める亮一がまた、可愛く思えて紅菜はいいよ、と微笑んだ。嬉しがったりする様子もなく、ありがとうと短く呟いて、亮一は右へ曲がろうとする。
「あ、俺右なんだ」
私は左、と紅菜も自分の自転車を足で止める。二人でまた明日、と微笑んで、二人は正反対の道を走っていく。短くも楽しい帰り道だった。
日直のため黒板を消し、制服のブレザーにチョークの粉が飛び散ってしまった。そして粉を取るため、洋服ブラシをポケットから取り出したところだった。遊園地、と聞き返せば、真里がにっこりとそう、と微笑む。机の横にかけた鞄からパンフレットを取り出して、紅菜の机の上に広げる。
「新しくできた遊園地、いかない?」
テレビでも嫌になるほど宣伝されていて、紅菜もその存在ぐらいは知っていた。部活もあるし、家族といくのもなんだし、自分には縁の無い話だなと思っていたのに。まさか友達に誘われるなんて、思ってもいなかった。
「どうしよう。部活、あると思うんだけど……」
サッカー部五月の日程表はもらった。ゴールデンウィーク五日間の中で、休みなのは五日だけ。四日間は部員全員、顧問も必ず参加だ。結婚前なのに、色々準備しなくていいのかと紅菜は時々心配になるが。
「五日は休みだよね、俺も行きたいんだけど」
話に入ってきたのは、亮一をからかいに隣へきていた南海斗。亮一が廊下へ出て行ってしまったため、物足りない様子。南海斗と真里はいつのまにか、とても仲良くなっていた。冗談も言い合えるぐらいに。
「えー、女の子二人に男一人って、なんか嫌なんだけどー!」
合コンじゃないんだから、と紅菜は笑うが、真里は納得いかない様子だった。紅菜は思う、真里は合コンとか結構行きそうなタイプかなと。紅菜が乾いた笑いを見せる中、二人は誰を誘おうかと考えてる様子だった。
紅菜が時計を見上げると、休み時間はあと五分。早く決めてほしかった。
「あ、亮一は?」
隣のクラスの人に教科書を貸していたのか国語と書かれた教科書を持って席につく亮一、そして南海斗は嬉しそうに笑う。自分でもいい案だ、と思っているのだろう。何が、といった亮一に対して紅菜は遊園地だよと微笑む。
「でも俺、用事あるかも――」
「んなもんパスパス! それにさ、五日って亮一の誕生日じゃん? なんかおごってあげるからさー、俺達と一緒に楽しい思い出作ろうよ」
亮一は口答えするが、真里と南海斗は決定ーと呟き日程決めにかかる。いつがいい、待ち合わせはどうする、二人の長くなりそうな会話が始まってしまった。亮一の遊園地行きは決定してしまったようだ。
やがて国語の授業の始まりを合図する鐘が鳴る。
チャイムが鳴っても二人は席を離れようとしない。いや、会話が終わらない。だが真里はともかく、南海斗は健太の席を借りているのだ。健太が邪魔だけど二人の会話が弾みすぎて言い出せない、という顔で南海斗を見ている。そういえば、健太と南海斗はすごく仲がいいというわけでもない。
「南海斗、気付いてやれよ」
健太のことを可哀想に思ったのか、亮一が南海斗の頭を後ろから軽く小突く。やっと気がついた南海斗は健太を見て声をあげ、すぐに退いた。ごめんごめんと謝りながら、南海斗は自分の席へ座る。健太は何度も謝られ、もういいよと微笑む。だがその微笑は遠慮した感じのもので、どこか悲しそうでもあった。
遅れて入ってきた先生がごめんごめんと、先ほどの南海斗と同じ謝り方をするものだから紅菜はつい小さく笑ってしまった。授業中、ふと目についたのは南海斗と真里の手紙交換。先生が黒板に向くたび手紙を投げている。二人って付き合ってたっけ、と紅菜は思った。
紅菜が見ている間に、南海斗の投げた手紙が真里の手をすりぬけ健太の机の上のペンケースにあたって止まる。健太はすぐそれに気付き、手を差し出している真里にそれを渡した。真里はありがと、とだけ言って早速手紙を開く。健太の目は何だか、寂しそうだった。
授業終了のチャイムが鳴って先生が出て行くとほぼ同時に、真里は後ろの紅菜のほうを向き、南海斗は亮一をの後ろに回り彼を羽交い絞めする。亮一の驚いた声が紅菜に聞こえたものの、真里は気にもせず微笑む。
「はい、これ日程表」
メモ帳を破った紙の一番上に水色の字で大きく書いてある。そのタイトルに紅菜は疑問がわき、何か言おうと口を開いた瞬間。
「“遊園地ダブルデートプラン”って……デートじゃないじゃん」
紅菜が言う前に亮一が口を開く。そして意味は同じでも違う言葉で言おうとした紅菜はズキっと何かが傷んだのを感じた。
気にしない気にしない、と真里が紅菜の手元に紙を置く。紅菜はそれを取り、読んでいた。その間にも、真里は南海斗と共ににやにや怪しい笑みを浮かべて亮一に説明する。
「時間は九時から五時まで、待ち合わせは学校。もちろん自転車でよろしくねー」
「九時から五時って、開園から閉園じゃん」
今度は南海斗が気にしないと笑って、こっそりと亮一に何かを耳打ちした。紅菜は三人の会話の間に、紙を読む。時間、待ち合わせ場所、持ち物は……お金(マネー)。マネーの字はあきらかに他のと違っていて、南海斗の字とよく似ていた。その他に――。
「亮一君の分の昼食?」
言ってしまった途端、紅菜はマズイと思った。南海斗と真里の二人が、亮一君という呼び方に対しにやにや笑っているのだ。そうだ、二人きりのときだけの呼び方だったのに。
「えーっと、山田君の昼食を私が作っていくってどういうことでしょうか」
言い直した紅菜に対し二人の態度は変わらなかったが、私は原君のを作っていくからという真里の言葉で、少し納得できた。もしかして真里と原は付き合っていて初のデート、二人きりは恥ずかしいからオマケとして自分たちが誘われたんじゃないかという仮定が紅菜の中で浮かび上がる。何とも少女漫画風な想像だったが。
「わかった、じゃあ私が山田君の分作っていけばいいのね」
紅菜自身まだ中学生の女の子。恋の話は大好きで、自分が恋のキューピッドになれるとすればつい顔がにやけてしまう。いきなり顔つきの変わった紅菜に対し亮一が不思議な顔をしたのを紅菜は見逃さず、廊下まで連れ出してこっそりと告げる。
「亮一君、あの二人をくっつけるのに協力してもらっていい?」
亮一は心の中で苦笑いを浮かべていたのだが、紅菜が気付くはずもなく。ただ微笑んでうん、と頷く。そして亮一はこの時、南海斗に言われていたのだ。それはそう、協力してやるよと。亮一はその意味がよく分かっていなかったものの、紅菜の協力と何か関係があるのかと考えている。
ありがとう、と紅菜は微笑んで教室へ戻っていく、その際亮一の服の袖を引っ張ったのに亮一自身少しだけ驚いていた。紅菜はそんなこと考える暇もなく、真里のところへ戻っていったのだが。紅菜は授業中も部活中も、いつでも真里と南海斗のことを考えていた、絶対に二人のキューピッドになるんだ。
思っていたよりも時は早くすぎ、紅菜は朝の五時に目覚ましをかけていた。目覚ましのタイマーが五時をさし、ピピっと機械的な音がする。前日の夜、楽しみで寝られなかった紅菜は、起きたくないというように少しだけベッドの中で呻く。ドアが開いたのに、紅菜は気付いていなかった。紅菜の手よりも先に、入ってきた誰かが目覚ましを止める。音がやんだ。
「早く起きろよ」
紅菜は布団の中から手だけ出していて、相手の顔を見ていないものの、誰かは分かっていた。ごめんと小さく呟いて、紅菜はもぞもぞと布団から出る。目を擦りながら、隆を見上げる。もうジャージに着替えていた。
「隆、今日は早いんだね」
休みの日の隆はいつも紅菜より三時間ほど遅く起きていて。まさか五時に起きてるだなんて思ってもいなかった。隆は今日試合なんだ、と呆れたように笑って部屋を出て行く。もう一度寝たら困るからと、ドアを開けっぱなしにして。紅菜は今だにぼやける目を擦って、窓を開けた。いつもなら犬の散歩をさせているおばあさんがいて、紅菜に気付いて挨拶してくれる。けれど今日はおばあさんだけじゃない、六歳ぐらいの男の子が一緒に散歩していた。おばあさんが紅菜に気付いて、にっこりと微笑む。それに気付いた男の子が紅菜のことを指差してたずねる。
「おばあちゃん、だぁれ?」
「あれはねぇ、優しいお姉ちゃんだよ」
こちらに聞こえてるとも知らず会話する二人を紅菜はじっと見ていた。ふーん、と納得した様子の男の子は、紅菜に向かって微笑みながら、小さな手を振った。
「お姉ちゃん、ばいばーい」
男の子はおばあちゃんの孫だなと紅菜は思った。おばちゃんの優しい笑顔と、男の子の無邪気な笑顔は言葉は違えどよく似ていた。
「ばいばい」
紅菜は小さく呟いて、手を振りかえした。そして窓を開けたまま、布団を直す。いくらぐらい持って行こうかなと考えながら財布をあけ、ため息をついた。先日ずっと欲しかった本を買ってしまったため、お小遣いは二千円。紅菜の母はお小遣いの前借りをさせてくれはしない。さて、どうしたものか。そこで隆に借りることを考えた紅菜だが、貸し借りが嫌いな母に見つかったときのことを考え、貸してはくれないだろう。
あ、と何かが思いついたように小さく呟いた紅菜は、前日から決めていた服に着替え、階段をおりていった。
「おはよー」
紅菜がおりていくと、隆が朝食を食べていた。母親は流し台のほうで父親と祖母と紅菜の分の朝食を作っている。紅菜は食卓を通り過ぎた台所まで足早と歩いていき、母親に向かってにっこりと微笑んだ。
「お母さん、お弁当作りたいんだけど」
母は手を止め、紅菜のほうへ首だけを回す。
「どこか行くの?」
「うん、遊園地」
そこで母は怪しげに、彼氏でもできたのと微笑む。紅菜は友達だよと短く言った。
「じゃ、これが終わったら作っていいわよ。あと五分ぐらいで終わるから」
母は野菜サラダの盛り付けをしているらしく、ミニトマトとレタス、そしてハムを五枚の皿それぞれに盛り付けていた。五分間ここで立っているのも辛いと感じた紅菜は食卓へいき、隆が朝食を食べている横でぼーっとテレビを見ていた。とはいっても、朝の五時ではたいしたものもやっていなくて、欠伸をする。
「今日どっか行くのか?」
遊園地、と短く答え、置いてある新聞を広げる。紅菜がいつも見るのはテレビ欄だけだったが、今日は五分もあるため最初から見ていく。
「世の中物騒になったものだね、隆」
紅菜がぽつりと呟くと、ババくせぇと隆の笑い声が返ってくる。むっとなった紅菜は手を伸ばし、隆の分の野菜サラダに入っているミニトマトを奪ってさっさと口の中にいれた。隆はおい、と言うだけで何もしてこない。こういうところを面倒がるのが隆の癖だった。
「紅菜、台所開いたわよ」
母が紅菜の向かい側の椅子に座りながら喋りかける。紅菜が立ち上がると、食べ終わったらしい隆までもがごちそうさまと呟いて席を立つ。母はテレビのリモコンを手にとってチャンネルを変えていた。
昔から母よりも父、そして父よりも祖母に厳しく育てられていた紅菜は、大体の料理を作れるようになっていたし、もちろんお弁当だって何度か作っていた。けれど、隆以外の男の子のお弁当など作ったことがなく、好き嫌いを聞くのも忘れていたために前日お弁当のおかずになるものを買ってきた。卵焼きを作ろうと卵を見ると賞味期限が切れていたため、買ってくることになる。
冷蔵庫から買ってきた卵、そしてサンドイッチ用のパンを出して、台所に置く。冷凍庫から冷凍ミニグラタンを出すのも忘れなかった。
そこで紅菜はふと思う。これでお弁当箱一つ分うまるのかと。卵焼き、サンドイッチ、ミニグラタン……どう考えても足りなかった。
「お母さん、ミニトマト使っていい?」
いいわよ、と短い返事が返ってきて、紅菜は野菜室からミニトマトを取り出す。野菜サラダの残りだが、この際贅沢は言えなかった。そして三十分後、台所へ入ってきた隆は紅菜の気の落ちた様子に驚くことになる。隆は思った。入試に失敗した受験生みたいだと。
現在の時間八時三十分。思っていたよりも支度が早く終わってしまった紅菜は、二人分のお弁当の入った鞄を持ち、玄関で靴紐をしばっていた。先ほどとは打って変わって、不気味なほどの笑顔。鼻歌が聞こえてきそうなほど。その理由は、父がお小遣いをくれたことにあった。
朝食のとき、紅菜がぽつりと嬉しそうな演技を加えて微笑んでいた。
「今日、友達と遊園地行くんだ」
その言葉を聞いた彼氏反対の父は眉間に皺を寄せたが、友達ですってと母が付け加えると咳払いをした後おこづかいをくれた。千円札二枚、これで紅菜のお小遣いは四千円になる。新しくできた遊園地の入場料は案外安く、これだけあれば足りる。紅菜はにこにこ笑って、両足の靴紐を縛り終えた。
お気に入りの腕時計を見て、時間を確認する。八時三十五分。どうしようか迷った挙句、紅菜は家を出ることにした。ゴールデンウィークが関係無い父はもう仕事に出ていたし、試合だと言った隆も先ほど出て行ってしまった。茶碗を洗っているはずの母と、縫い物をする祖母。紅菜はドアを開けて、日差しを浴びながら自転車の鍵を穴へ差し込み、自転車にまたがる。
そこで紅菜は思い出した。そういえば、隆の試合をどこでやるか聞いていなかった。もし紅菜たちの学校なら、暑いからと開けられているドアから見れるかもしれない。隆は試合に出ているのだろうか。紅菜は車に気をつけながら、自転車をこぎ始めた。
紅菜が学校に着いたとき、玄関のほうには誰もいなくて、ボールを地面に当てる音も聞こえてこなかった。校門にいたら会えるだろう、そう考えた紅菜は校門のところで自転車をとめ、小さな日陰のところへ腰をおろす。日陰のところは、少ない木をはやすための芝生になっていた。
もう一度腕時計を見る。八時四十五分。他の三人はそろそろ家を出るころだろう。紅菜は急に眠気を感じ、口を押さえながら欠伸する。すると遠くのほうからリンっと自転車のベルの音が鳴った。
「紅菜さん!」
山田さん、というのと同じ口ぶりで叫んできたのは、亮一だった。片手を高くあげ、こちらに手を振っている。紅菜も立ち上がって手を振り替えした。片手乗りなんて先生に見つかったら怒られるだろうな、と思いながらも。
「早いねー、まだ紅菜さんだけ?」
紅菜はうん、と小さく呟いて微笑む。亮一は紅菜の自転車の隣に自分のを止め、紅菜にあわせて隣に座る。日陰に吹く風がとても気持ちいい。
「遊園地、混んでるかな」
オープンしたてのその遊園地は、オープン以来一日二万人の記録を持続しているんだとか。しかも今日は子供の日。紅菜の頭の中では、親子連れが描かれていた。
「どうだろう。でも車だと道が混むけど、自転車だから案外楽に行けるかもよ」
以前友人と動物園に友人の母親の車で行って、入り口までつくのに一時間かかったのを紅菜は思い出していた。亮一は安心させるような口ぶりでいう。紅菜は思った、なんかお母さんみたいだと。
急に亮一の名を呼ぶ、うるさいほどの声が聞こえて、その後高い声で紅菜の名を呼んでいる真里が見えた。最初の声は南海斗。よほどスピードをつけていたのか、南海斗の自転車はキキーっと道路にうっすら跡を残して止まる。真里はゆっくりとついてきていた。
やっほー、と微笑む二人に対して、紅菜もにっこりと笑う。そして心の中で呟いた、この二人ってやっぱり付き合ってるんだと。
「じゃ、行くか」
いつのまにか自転車にまたがろうとしていた亮一に気付き、紅菜は自分の自転車へ慌てて駆け寄る。南海斗が先頭、そしてその隣に亮一、後ろには真里と紅菜。四人はそれぞれの思いを胸に、遊園地へと自転車を進めていった。
やはりというべきか、車が通っているはずの道路は数え切れない車で埋め尽くされていて、四人はそんな道路の歩道を、誰かに見られているような視線を感じながら進んだ。きっと車の中にいる人々は思っているだろう。自転車できたほうが楽だったなと。それは紅菜たちが遊園地の近場に住んでいるからこれるわけで、わざわざ遠くからきた人間に自転車で来いと言っても無理なものだが。
「こっちにさー、大きい駐輪場あるんだー」
来たことがあるような口ぶりで南海斗は遊園地の裏門のほうを指差す。正門のほうには自転車が十台ほど停めれるかどうかのスペースしかない。
「前にここ動物園だったじゃん、その時にここ停めてたんだー」
紅菜が以前きた動物園はつぶれ、新しくできたのがこの遊園地。動物を見るのが好きだった紅菜は、少しだけ残念がっていた。
「とりあえず入ろっか」
南海斗に言われ四人は入場料を払い、裏門から入る。入ってすぐにチケット売り場と書かれた小屋があった。遊園地のいたるところに売り場はあって、その売り場で一日乗り放題の腕輪を買う。一度つけたらボタンからは外れないもので、外す時はちぎればいいだけだ。ちぎれたら使えないため、何かにひっかけてちぎれないよう気をつけなければならない。
「何乗るー?」
よくよく考えれば、いつも何かの行動を始めさせるのは南海斗。そしてそれに対し答えるのが真里、後ろで同意するのは亮一と紅菜になっていて。南海斗と真里が肩を並べる後ろで、二人は一定の距離をあけ話しながら歩いていた。
「じゃー、まず定番のジェットコースターかな」
真里がそう呟いた時、いきなり亮一の足が止まる。紅菜はどうしたの、と呟いて亮一に駆け寄った。少し先にいた二人も紅菜と亮一のことに気がついてその場に止まる。真里がどーしたのーと紅菜に向かって叫んだ。紅菜がそれに答えないため、真里と南海斗が二人に駆け寄る。紅菜は亮一にどうしたの、と呼びかけていた。
「本当にジェットコースター乗るのか?」
南海斗に向かって亮一は呟く。南海斗は亮一の凍りついた原因が分かったらしく、にやにやと笑いながら亮一の肩をぽんと叩いた。
「大丈夫だよー、きっとそんなに恐くないから」
笑いながら南海斗は無理やり亮一の腕を引っ張る。亮一は顔を強張らせながらも、女の子二人の前でそんな顔を見せてはいけないと思い、乗ることにした。けれど亮一は気付いていない。亮一がちょうど立ち止まっていたすぐ後ろに、ジェットコースターの看板があったことに。その看板には書かれていた、日本で一番高いジェットコースターと。長いだけならまだいいが、高いということは、最初の一番高い部分が日本一なわけで――その看板に気がついたのは、真里と南海斗だけだった。
「本当に大丈夫だよな」
ジェットコースターに乗り、係員がお客を確認しているのを見ていた紅菜は、不安そうに南海斗に話かける亮一を見てにっこりと微笑んだ。仲がいいんだなと感心していたのだ。なのに、亮一はそれを呆れられたと勘違いしたのか、顔を真っ赤にした。亮一と紅菜は隣で、後ろには真里と南海斗。南海斗は後ろから手を出し、亮一を笑いながらなぐさめている。亮一はもう後ろを向かない、我慢しているようでもあった。
「ほらほらお兄ちゃん、手出しちゃ駄目だよ」
五十歳ぐらいだろうか。白髪まじりのおじいさんが南海斗に向かって微笑む。南海斗は、はーいと答えて手を引っ込めた。プルルルと機械音が響く、ガコンっという音と共にジェットコースターは動き出した。
そこで紅菜はやっと気付く。亮一が目をぎゅっと瞑って、自分の手を握っていることに。そしてそれはジェットコースターが高く上っていくのと比例して、どんどん強く握られていっている。少しだけ痛かったが、紅菜は我慢した。無理やり乗せたの、私達だもんねと。実際、紅菜は見ていただけなのだが。
ガンッという音と共に亮一の手が離れた。驚きのあまり一瞬恐さを忘れ――。
「ぎゃあぁぁぁぁあああ!」
紅菜の後ろから聞こえた真里の叫び声をかき消すほどの悲鳴をあげた亮一は、何が何だかわからないといった様子で口をぽかんと開けている。紅菜は亮一の手を手探りで探し、ぎゅっと握ってあげた。まぁそれは紅菜なりの、優しさ。
紅菜の優しさがあろうとも、亮一の具合の悪さは頂点に達していた。なんとかジェットコースターから降りたものの、近くの日陰に座り込む。
「亮ちゃーん、大丈夫ー?」
亮一は顔をあげ、自分を亮ちゃんと呼んだ南海斗を睨んだ。元はといえば、自分をジェットコースターに乗せたのはこいつなんだ。南海斗の隣で亮一の顔を覗きこんでいる真里も大丈夫かと聞いていたが、亮一は答えられる状況じゃない。
そのうち、紅菜が買ってきたペットボトルの水を持って走ってきた。
「もう十一時だし、二人共遊んできていいよ。私、山田君の傍にいるから。お弁当も別々でいいし」
それは紅菜が真里と南海斗のことを気遣って言ったことで、真里と南海斗はわかったと遠慮がちに微笑んで、二人一緒に歩いていった。紅菜は亮一の隣に座ろうと、芝生に足を踏み入れる。
「ごめん、俺のせいで」
亮一は紅菜に視線を合わせず謝っていた。紅菜は一瞬驚いて立ちすくんだものの、すぐにふっと笑って隣に座る。そしてぽつりと呟いた。
「こっちこそごめんね。亮一君、せっかくの誕生日なのに」
そしてペットボトルを差し出す。亮一の顔はまだ青ざめていて、歩ける様子も何か食べられる様子もない。飲めるとしたら水ぐらいだ。亮一はゆっくりとペットボトルを受け取り、少しずつ飲み始める。紅菜はぼーっと、一点を見つめていた。さわさわと吹く風に揺れる一本の草だった。
「紅菜がいてくれるから――」
呼び捨てされたのに対し、紅菜の目が見開かれる。そしてその視線は、草から亮一のほうへ向いた。亮一は真っ赤な顔を隠すかのようにさりげなく手で当てていた。
「今日は、最高の誕生日になった」
紅菜自身、自分の顔が赤くなっていることが分かり頬を軽く押さえる。
「……呼び捨て?」
恥ずかしさのあまり何も言い返せなくて呟いた言葉に、亮一は驚いた様子だった。
「あぁあ! ごめん! 紅菜さん、っていうのが何か呼びづかったから……」
かといってちゃん付けも変だし、と慌てて付け加える亮一を見て紅菜はくすりと笑った。そして小さく呟く。ありがとう、と……。それが何に対してのありがとうなのか、亮一には分かっていなかった。けれど紅菜は確かに呟いたのだ。
亮一は紅菜の言葉を、呼び捨てでもいいというふうに受け取った。
「呼び捨てをオーケーしてもらえたんで、こっちもオーケーしてもらいたいんですが」
顔をあげた亮一を見て紅菜は気付く。今だにいつでも水を飲めるよう、ペットボトルを口元にあげているものの、亮一の顔色は明らかによくなっていた。
「実は、ひとめぼれだったんですよ」
冗談かと思うぐらいの笑顔で、敬語で、亮一はそう告げた。「え?」と紅菜は呟いて、視線を動かさなかった。いや、亮一にじっと視線を向けられて、動かせなかった。
「最初はさ、女の子らしくて、天使みたいだなって思って、マネージャー誘ったんだ。けど先生と笑ってるの見て、違う意味で可愛いなって思って、好きになってた」
紅菜も亮一も、お互いを見つめあったまま動かない。辺りには何故か人がいなくて、風の音だけが聞こえていた。亮一が急に真面目な顔になって呟く。
「付き合って、もらえませんか?」
紅菜は自分の体が熱くなっていくのを感じた。そしてまたりんごちゃんになってしまうと思った。けれども、視線をそらせなかった。
「……私と、ですか?」
「紅菜とです」
敬語の会話のぎこちなさに、お互い同時にふきだしていた。二人して笑った後、また亮一がたずねてくる。返事は、と。あまりにも真面目で可愛く思えてきて、紅菜は少し意地悪をすることにした。
「私には好きな人がいます」
こう始めたとき、亮一の顔が強張る。告白の返事でこう返される時、大抵悪い返事なのだ。けれど紅菜は続ける。
「本当の私を見つけてくれた人で、私の本当の姿を見てくれて――そしてその人は、私を包んでくれる優しい人でした」
亮一は、それが川村先生だと思ったのだろう。紅菜の今までの態度を見ていれば、川村先生を好いているのは一目瞭然。だが紅菜はそこで、にっこりと微笑んだ。
「そしてその人は、学校で私の隣の席に座っています」
亮一の顔がぱっと明るくなった。まるでもやもやの霧が晴れたかのように。そして亮一の顔が輝くのと同時に、亮一の後頭部から衝撃がくる。
「おっめでっとさーん!」
二人は木の日陰で休んでいたため、二人の後ろはがら空き。そして後ろから忍び足できていた真里と南海斗に気付かず、今まで話していたわけだ。
「ぎゃあ!」
亮一の小さな悲鳴が聞こえて、南海斗はあーと小さく呟く。紅菜は急に思い出した、亮一の口元にあったペットボトルの口の部分に、亮一の顔がある。大丈夫かと叫べば、亮一は何も答えない。その代わり、南海斗の顎に向かって思い切り頭をぶつける。今度は南海斗が小さく悲鳴をあげた。
南海斗は後ろにひっくり返り、芝生に寝転んだまま起き上がろうとしない。亮一はそんな南海斗に向かって、べっと舌を出した。
「今度は俺らが遊びに行ってくる」
そう言い残した亮一は、紅菜へ行こうと言って連れて行く。その様子を、にこにこ笑いながら見ていた真里は、南海斗へ呟いた。
「よかったね、あの二人付き合えて」
最初から亮一の気持ちに気付き、付き合わせる計画をしていたのは真里と南海斗。本来ならば、真里と南海斗が喧嘩して、紅菜と亮一を会わせて相談させよう、そんなことを考えていた。まさか、亮一があそこまでジェットコースターが駄目だとは、二人とも思いもしなかったのだ。真里は腕時計を見て、呟く。
「あと四時間、楽しんできてね」
南海斗と真里の二人は付き合っていない。だが、真里は南海斗に対して恋という感情を抱いていたし、南海斗もそれにうすうす気付いていた。真里が南海斗を好きになったきっかけは、二人が小学六年生のときのこと。けれど真里は南海斗がそのときの出来事を覚えているなんて思ってもいなかったし、自分から言うつもりもなかった。いや、言いたくなかった。真里にとって封印したい記憶が、そこにはあった。
真里はハンカチを近くの水のみ場で濡らしながら思う。南海斗は、あの時のことを覚えているのだろうかと。
南海斗のところへ戻ると、彼はまだ寝転がったままで。真里はそんな南海斗の顔にハンカチを広げてかける。普通濡らしたハンカチは額にあてるものだが、南海斗が打ったのは顎。顎だけにかけても落ちてしまうと思った真里の、気遣いだった。
「南海斗君、彼女いる?」
しばらく南海斗は答えなくて、ただ涼んでいるようにも見えた。やがて小さく、いないと呟く。逆に聞き返してきた、真里ちゃんはと。
「私、小六のときから好きな人がいるんだ」
絶対に叶わない恋だけどね、と付け加えて真里は南海斗の隣に腰をおろす。もちろんその好きな人とは南海斗のことなのだが、本人は知らない。だからこそ応援するつもりで言った。
「頑張って、応援してるよ」
真里はその言葉に心を痛めることになる。
しばらくして紅菜と亮一は満足気な顔で真里や南海斗のところへ戻った。南海斗はにへらっと笑い、真里もいつもと変わらず微笑んでいる。けれど紅菜も亮一もお互い気付いていた。二人の間に何かあったんだと。そしてその笑顔は本当の笑顔じゃないと。
「帰ろっか」
南海斗の一言で、四人は遊園地の裏門を出て行った……。
紅菜の笑顔は、拓郎の言葉に引きつっていた。
「明日から毎日、休みなしで練習だ! もうすぐ中連、三年は引退試合になる! 絶対に記録に残す試合をしろ!」
休みなしですか、とため息をつきながら紅菜は拓郎を睨む。紅菜はサッカー部と野球部のグランドに引かれた境界線のそばで、サッカー部よりのところにいた。野球部側ではまだ終わる気配の無い野球部がバットを振っている。中連は七月の初旬にあり、三年生はこれが最後。そう言い聞かせられ、どの部活も熱心に取り組んでいる。しかもサッカー部は一度もまともな成績を残したことが無いわけで、最後くらいと期待されていた。
部活が終わったらしく、部員達が紅菜が立っている場所の横にある荷物置き場へ走ってくる。みながタオルを入れるため荷物を探ったり、鞄ごと持ち上げたりする中で亮一と紅菜の目があった。亮一が微笑み、紅菜も微笑む。
「ラブだねー」
二人の視線の間に入ってきたのは南海斗で、紅菜のほうを向いていた南海斗の頭を亮一が後ろから軽く叩く。南海斗は痛がる様子もなく、笑いながらさっさと荷物を取って歩いていった。
紅菜は帰ろうと、荷物を持ち上げる。帰り道には毎日亮一がいて、色々と話したりしていた。
「あの、さ。今日、川村先生に呼ばれてるんだ。待っててもらっていい?」
うん、と紅菜は頷いて、荷物置き場であった石段に座る。亮一は紅菜を待たせたくないと思ったのか、急いで玄関のほうへ走っていってしまった。サッカー部員は誰もいない、話す人もいない紅菜は、ぼーっと空を見上げていた。暗いなぁと、そう思いながら。
サッカーするとき、腕時計をしていて壊れたら嫌だと紅菜は部活のときだけ時計を鞄の中に入れるようにしていた。そしてその時計を取り出し、時間を確認する。
「六時四十分……」
あくまで大体なのだが、サッカー部が終わるのはいつも六時半。野球部は一体、何時までやっているのだろうか。
休憩になったらしく、野球部の部員が小さな水飲み場に並んでいた。野球部とサッカー部の間にある水飲み場は、今紅菜が座っているところのすぐ隣。紅菜は一瞬だけ野球部員を見たのだが、その中の一人に視線が釘付けになる。そしてその視線に気がついたのか、水を飲み終わったばかりで口を服の裾で拭いている奴が紅菜のほうへ歩いてきた。
「倉田、啓介……」
「よう」
啓介の後ろから二年生らしき子が呼びかけてくる。
啓介先輩どうしたんですか、と聞かれた啓介は先戻っててくれと短く答えて、紅菜のほうへ進める足を止めようとしなかった。紅菜はその場に凍り付いていて、動かない。
「話すの久しぶりだな、山田」
紅菜は何も言わなかった、亮一が早く戻ってきてくれるのを心待ちにしている。啓介から助かるには、亮一か誰か他の人がいればいいのだ。何も言わない紅菜の耳元に顔を近づけ、ぼそりと呟く。
「亮一も趣味悪くなったもんだな」
紅菜は何も答えない。顔が青ざめているのが自分でも分かっていた。
「あんまり調子に乗るんじゃねぇぞ、林檎女」
そう言い捨てて、啓介は野球部の部員が集まっている、野球部の荷物置き場へ歩いていく。そうだ、と紅菜は思い出した。これは警告なのだ。
啓介は、紅菜と少しだけ似ていた。小学生の紅菜には、啓介の笑顔が愛想笑いだと分かっていたし、少しだけ親近感もあった。だからこそ、少しだけ仲良くなろうと思い始めていた。紅菜がそう思ったのは、二人が小学校に入学した年の話。
「りんごみたい、可愛いね」
小学一年生のころは、真っ赤なことに可愛いと言われるだけで、嬉しくはなかったけれど照れくさかったのを覚えている。そしてりんごといい始めたのは、啓介だった。
「りんごちゃんだー」
二年生、女子男子関係なくそう指差されるようになって、紅菜は少し嫌だなと思った。けれど何も言わなかった。
「紅菜ちゃん、何でそんなに真っ赤なの?」
三年生、女の子がそう聞いてくる。他の子は発表などで真っ赤になるほど緊張したりしないのに、紅菜は妙に緊張してしまい、すぐ赤くなる子だった。
「りんごちゃーん、可愛いねー」
四年生、一年生のころ紅菜が自分達の父母に可愛いといわれていたのを思い出した子たちが、嫌味ったらしくそう言い始める。
「紅菜ちゃん、あそぼー」
五年生、紅菜自身は分かっていなかったが、紅菜は可愛い部類に入る子で、いつの間にか遊ぼうと誘ってくれる友達も減っていた。
「りんごのくせに」
六年生、りんごを馬鹿にし始めたのは誰だっただろう。給食で出た林檎を紅菜が食べていると、すぐに男子の一人が林檎が共食いしてると叫んだ。そしてそれが伝染していく。担任も友達も、何もしてくれなかった。
六年間、いつも林檎のことで悩んでいた。けれど紅菜は林檎が好きだったし、名前の紅という字も気に入っていた。けれど林檎といい始めたのは、啓介だったのだ。紅菜がそれに気付いたのは六年生の時で、もう啓介とは仲良くなりすぎていた。一緒に帰ってもいたし、とにかくとても仲が良かったのだ。気付いた時にはもう、引き返せなくなっていた。
そしてその本性を見せ始めた啓介、二人は小学六年生になってまもなく、どちらかともなくお互いを嫌うようになっていた。
「紅菜、帰ろう?」
紅菜が我に返ると、目には亮一が映っていた。あまりの至近距離にばっと顔を真っ赤にし、一歩後ずさる。亮一はそんな紅菜を見てけらけら笑いながら、荷物を手に持った。自分のはもちろん、紅菜のも一緒に。そしてさっさと歩き出してしまう。紅菜はそのことに気付いてすぐ、亮一に駆け寄った。
「自分の分は自分で持つよ」
「いいよ、紅菜疲れてるみたいだし」
先ほどぼーっとしていたことをまだ根にもっているのか、亮一が安心させるように笑う。紅菜はそんな亮一の優しさに、ありがとうと微笑む。すぐに自転車置き場についたため、荷物を受け取りかごに入れて、自転車にまたがった。
「あ、そうだ」
呟きながら亮一はポケットから紙を二枚差し出す。[枯れた涙]という恋愛映画の無料チケット。二百円割引券が配られていたとき、紅菜が見たいなと本当に小さく呟いていたものだ。まさかそれを聞いていたのか、紅菜は驚きながらそのチケットを受け取る。
「今度の日曜日、映画行きませんか」
告白のときと同じ口調だった。紅菜は目を見開く。
「[枯れた涙]、見たそうだったし」
このチケットどうしたの、と紅菜は目を見開いたままたずねる。亮一は川村先生が新聞配達のおじさんからもらって、いらないからくれたんだと微笑んだ。けれどそこで紅菜は少し疑問を感じる。あれ、拓ちゃんって新聞とってたっけ。
「日曜日、どうですか」
待ちかねた亮一が緊張のためか少しだけ顔を強張らせる。紅菜は嬉しいとかそういう気持ち以前に、感動していた。五月の末に席替えして、隣の席じゃなくなったのに。それでも、気にしていてくれていたのだ。好きな映画なんて話したことも無いのに。ただ、じっとチケットを見ていただけなのに。
「ぜひ、お願いします」
敬語の会話がどことなくおかしくて、二人はまた笑い出していた。
紅菜にとって、彼氏というのは初めてで、もちろんデートなんていうのも初めて。拓郎と買い物へいくことはあったが、それでも彼氏彼女なんてものじゃなかった。どちらかといえば、兄妹。先日から色々と悩んでいた紅菜は、チケットをもらった日から隆に相談することが多くなっていた。
「隆、どうしよう」
同年代で隆以外の男の子とデートするなんて初めてだ、どうしようと紅菜はしきりに呟いていた。最近拓郎と隆は紅菜と全然買い物に行こうとしないため、最近では全くなかった異性との買い物。
「気をつけろよ」
紅菜と隆の父親は、二人が友達を作ってどこかへ遊びにいったり、部活をすることをあまり快くは思っていない。彼氏なんてもっての他。いつもは母に説得され渋々頷いているものの、彼氏となってはさすがに許されない。勉強に支障がでるからだと以前話しているのを聞いた。隆は紅菜に警告したあと、自分の部屋へ入っていく。
紅菜も自分の部屋へ入りドアを閉める。午前中は部活があり汗を流すためシャワーを浴びてきたところだ。今から着替えて昼食を食べなければならない。先ほど、昼食は十二時半からだと隆が言っていた。現在十五分、確認した紅菜は支度を始める。
支度を始める中で、警告といえば……と紅菜は思い出したことがあった。
「林檎女……」
そういえば調子にのるなって言われたな、紅菜は泣き出したい気持ちを押さえ、それを誤魔化すかのように手を動かす。お小遣いは遊園地のときの失敗を考え、きちんと残しておいた。映画のチケットも一枚、お財布にいれる。お出かけの時、紅菜はいつも服を前日から選んでおくため、ハンガーにかかった服を見上げてにっこりと笑う。
そろそろ着替えなきゃと紅菜がハンガーを手にとった途端、コンコンとドアがノックされる。まさか父さん、そんなあってほしくないな考えが浮かんだが、ノックした相手はぽつりと呟いた。
「メシだってよ」
早く着替えて下りてこいと付け足され、紅菜は安堵する。待ち合わせは紅菜たちが帰り道いつも分かれる信号、一時だと言っていた。学校は人がいるから、という亮一に紅菜が不思議な感じを覚えたのは、紅菜の考えすぎだろうか。
さっさと家を出たい紅菜は、着替え終わってすぐに下へ降りる。仕事が休みだという父を含め家族全員がもう食べ始めていた。といってもトーストなのだが。洋食が好みそうな性格の父は意外にもパンが好きだし、逆にパンが好きそうな母は和食が好き、和食が好きそうな祖母は洋食が好き。何とも珍しい三種類のおかずを取り揃えた紅菜の家の昼食。今日は母が出掛けて先ほど帰ってきたためか父が作ったようで、トーストの原因は父。紅菜自信どうでもいい話なのだが。
「二人共、午後はどこかでかけるの?」
会話の無い昼食に耐え切れず、母が聞いてくる。紅菜は驚いたが、それを顔に出さないよう努めた。隆が家で寝てると答えると、母は紅菜へ視線を向ける。
「映画行く」
家族全員が静まり返ったように感じたのは紅菜だけではない。けれど温和な母はそんなことに気がつかず、微笑んでいた。
「あら、紅菜この前からよく遊びに行くのね。彼氏でもできたの?」
彼氏という言葉に、一番反応したのは父だった。
「母さん、この間も言ったけど、山下真里っていう子だって。写真も見せたでしょ。仮にも受験生なんだから彼氏なんて作ってる暇ないよ」
最後の言葉は父からの疑いを晴らすためだったのだが、紅菜は言い終わった後全員の顔を見て、心の中でほっとする。真里のことは遊園地に行った時から言っていて、写真も学校で撮った学級写真を見せたのみ。それでも母は騙されてくれていた。それでも実際、紅菜は真里に誘われ遊園地のあとも何度かでかけている。
「ごちそうさま」
いつも一番に食べ終わる隆が立ち上がったため、紅菜も急いで残りを口に詰め込む。
「ごちそうさま!」
隆の後を追い台所へお皿をさげ、二人して階段をのぼっていった。父と母は不思議そうに見ていたことに、二人は気付いていない。
「良かった、何とか誤魔化せた」
紅菜が微笑むと、隆も少しだけはにかんだ。紅菜は何も言わず自分の部屋へ入っていく。そしてすぐお気に入りのショルダーバッグと腕時計を持ち、階段を下りていった。昼食に時間をかけてしまったのか、待ち合わせ時間が迫っている。すでに四十五分になっていた。
「行ってきます!」
言い捨てるように叫んで、玄関から飛び出していく。映画館のある街へはバスで行かなければならないため、待ち合わせ場所まで歩き。大抵の人なら十五分はかかる。だが紅菜はその十五分を、十分に縮めようと走っていた。整えた髪がぐしゃぐしゃにならないよう気をつけながら。
紅菜が待ち合わせ場所についたのは十二時五十九分。顔をあげるとそこには真っ赤な顔をした亮一がいて、亮一君のほうが林檎なんじゃと思った紅菜はくすりと笑う。
「あっと、えっと――」
「行こっか」
妙に緊張している亮一が可愛らしくて、紅菜は歩きながらも小さく笑っていた。待ち合わせ場所からバス停まではたった五分ほどの距離しかなく、二人は急ぐこともなくゆっくりと歩いていた。
「[枯れた涙]って、切ない感じがするよね。題名からして」
CMでもやってたし、と付け足す紅菜を見て亮一は先ほどから妙に緊張している体を硬直させながら答える。
「主人公の二人、別れちゃうのかもしれないね」
「嫌だなぁ、未来ちゃんと愁君好きなのに」
紅菜が言った未来とは萩原未来、一五歳で役者デビューした現在十七歳のヒロイン役。愁君は十六歳でデビュー、十八歳からしばらく出演などはしていなかったのだが、久しぶりの出演が[枯れた涙]になる。
「あ、バスきたよ」
紅菜たちの目の前にはバス停に並ぶ人だかりができていて、紅菜たちは一番後ろに並んでいた。バスは青い線が入っていて、久しぶりに乗るという紅菜は少し嬉しそう。
「なんか亮一君とバスに乗れてよかった」
紅菜はただ何となく思ったことを言っただけなのだが、それは亮一の顔を真っ赤にさせることに繋がった。俺も紅菜とで良かったと亮一が言おうとした瞬間、紅菜が悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「そういえば真里たちって、付き合ってるの?」
そんな他愛もない話を繰り返して、二人を乗せたバスはゆっくりと街への道のりを進んでいった。
恋愛映画がすきなのは、何も紅菜だけでは無い。紅菜たちが映画館の入り口へ並ぼうとしていたところ、すでに何十人もの人が並んでいて、紅菜たちはその一番後ろに恐る恐るついた。
「結構混んでるね」
亮一は頷いて、列の前のほうへ視線を移動させる。だが一番前が見えない。席に座れるかどうかさえ心配だった。前の人が前へずれ二人の前が空き、二人は前へずれる。そんなことを繰り返し、気がつけば入り口は目の前だった。
亮一は何も言わずチケットを渡し、紅菜も同じように渡す。にこにこ愛想のいい店員は、紅菜たちにも微笑んだ。
「意外に空いてる?」
先ほどまで並んでいた行列は嘘のように、席はまばらに空いていて、二人は後ろのほうの真ん中へ座った。そういえば最近大人気の魔法映画がやりはじめたな、と紅菜は思う。紅菜の思ったとおり、先ほどの行列の人々はほとんどがそちらへいってしまった。
周りを見てもカップルばかりだが、中学生はいない。二十代のカップルが多いようだった。
「良かった、結構空いてるね」
紅菜が亮一に微笑みかけると、亮一は少しだけ顔を赤くして微笑み返した。腕時計を見て、残り何分か確認する。五分だった。
「俺、飲み物買ってくるよ。何がいい?」
紅菜は少しだけ驚いて立ち上がる。亮一にお金を出させるわけにもいかないと感じていた。けれど何も言えなかった。
「え、あぁ、えーと……亮一君と同じので」
亮一は分かったと頷いて席を立ち、早歩きで売り場へ向かう。亮一の姿が見えなくなった紅菜は一息ついたあと、ぼーっと考え事をしていた。紅菜の考え事は、パンフレット。CMで見たとき、絶対に見たいと思った紅菜だが、まだ本当に面白いか分からない。自分のお小遣いだって限りなくあるわけではないため、慎重に使わなくては。
紅菜の頬に冷たいものがあたる。紅菜はつい小さく声をあげていた。左側から小さな笑い声が聞こえ、紅菜は口を開けたままそちらへ恐る恐る顔を向ける。亮一君、と小さく呟いた。
「あー、ごめんごめん。あまりにも真面目な顔してたから、つい」
亮一が笑って差し出した、冷たいカフェオレと書いてあるカップを紅菜は置き場へ置き、ありがとうと微笑む。亮一も自分の席へつき、そういえばさーと話し始めた。そんな言葉で始まった話は本当にどうでもいいことだったのだけれど、それが本当のカップルなんじゃないかと紅菜は喜んでいた。こんな風に色々話せるのが好きな人って、嬉しいことだと。
「あ、始まるね」
ブザーが鳴ったと同時に場内が暗くなり、幕が開く。最初は他の映画のCMで、五分経ってから[枯れた涙]が始まった。
「僕らは本気の恋をしていたと思う」そんな文字から始まった映画。そのストーリーはとても悲しいもので、題名から分かるとおり失恋映画だった。けれど失恋というほど悲しくもなく、ハッピーエンドでもバッドエンドでもない。そんな終わり方が、二人は心に残ったのだと思う。紅菜と亮一はその映画中一言も話さず、お互いに夢中で見ていた。何かにとりつかれたかのように。
「亮一君、パンフレット買ってきていい?」
売店は混んでいたため時間がかかるからと紅菜がたずねると、亮一はいいよと微笑んだ。紅菜が売店のほうへ行き見えなくなった途端、亮一は考える。あの映画は、自分と紅菜の恋によく似ていたなと。登場人物の性格、付き合うことになったきっかけ、そんなことまでもが似ていた。けれどそれが何だか嬉しくて、けれど切なくて、紅菜は映画の途中涙を拭っていた。
「おまたせー、行こ!」
たった二時間半の映画だったのだが、紅菜と亮一は満足だった。二人が映画館を出たころ、すでに四時が過ぎていたし、二人はお互い家に帰ってやらなければならないこともあった。だからこそ二人の足は自然と、バス停に向かっていたのかもしれない。
亮一君、と紅菜は歩きながら呼んだ。
「亮一でいいよ」
タイミングを失ったかのようにうんと紅菜は呟き、しばらく何も話そうとしない。やがて決心したかのように頬を赤く染めながらたずねた。
「[枯れた涙]では、初デートの時どんな進展があったか分かる?」
紅菜が亮一の顔を見ないでたずねたためか、亮一はのんびりと考えて答えを出した。
「ごめん、分からない」
そっか、と寂しげに微笑んだ紅菜は赤くなった信号を見て、立ち止まる。亮一もそれに従っていた。亮一は何も答えを聞いてこない、だから紅菜も答える必要は無い。だが急に、少し冷たかった手にやわらかいものが触れ、温かくなる。精一杯に差し出された、かたかたと小刻みに震える手。それはもちろん亮一の手で、紅菜の左手を少しずつ温めていた。
「なんだ、分かってたんじゃん……」
真っ赤になった紅菜の呟きは、亮一にさえも聞こえない。紅菜がやってほしかったこと、映画を見て思ったことは初デートで手を繋ぐこと。手をつなぎたいと思ったからこその質問をあっさり返され、紅菜は少し落ち込んでいたはずだった。けれど今は、とても幸せだった。信号を渡りバス停につく。紅菜は更なる質問をぶつけた。
「亮一、もし私が亮一のそばからいなくなったらどうするの?」
映画はヒロインの死から立ち直り前向きな主人公ということで終わっていた。バッドエンドに近いものがあるが、それでも微妙なところである。
「どうするだろう、まだ分からない。紅菜はもし逆の立場だったらどうする?」
逆に聞き返され、紅菜はしばらくの間まっすぐ前を見て考え込んでいた。亮一が呟く、バスが来たと。紅菜は亮一が呟くと同時に少しだけ微笑んだ。
「亮一がどこかで笑っていてくれるのなら、悲しくないかな」
それは亮一にしか聞こえなかったのだけれど、紅菜は微笑んでいた。バスに乗る際、つないでいた手が離れる。亮一は小さく「あ」と呟いたが、紅菜は気にしなかった。ただ微笑んで、亮一に席を決めるよう言うだけ。隣同士の席に座って、さりげなく右手で左手の温度を確かめる。亮一の手の温もりは、まだ消えていなかった。
二人はバスから下りてすぐまた別れることになるのだが、真っ赤な林檎ちゃん二人はしばらく話した後、互いに家へと歩み始めた。
もちろん紅菜は家へ帰ってすぐ隆に全て自慢のように話し、パンフレットを貸し自分の部屋へ戻った。もちろん父さんには見つからないよう、何も言われないよう服も着替え、すぐ勉強にとりかかる。
紅菜の手が一瞬止まった。
「亮一、大好き」
そう呟いて紅菜はまた、亮一を思い浮かべるのだった。
七月に入ってすぐ中連があった。サッカー部は川村先生のくじ運の悪さのせいか、一回戦から去年の優勝校と戦うことになる。誰もが負けると思った、そしてそんな中勝てるというのが一種のお約束。
けれど、紅菜たちは簡単に負けてなんてやらなかった。元々サッカー部のメンバーは、意地っ張りと負けず嫌いと意地悪と鈍感の四セットが揃っていると紅菜は笑う。意地っ張りは二年生で隆と同じクラスの藤村秋。負けず嫌いはキーパーで、一年生のころから違うクラスなのに紅菜を知っていたという織戸要。意地悪は南海斗、鈍感は亮一。相手チームに挑発されたとき、こんなチームだけどよろしくと素直に微笑んだ鈍感君。一番笑っていたのは南海斗だった。
「亮一行けー!」
試合中、南海斗の声が響いて……負けた。たったの一点差。あと一分あったら同点だった。その試合を見ていた者は去年の優勝チーム相手にもう少しだった、と喜んでいたものの、周囲の反応は違った。また一回戦負けかよ、と文句を言われたこともある。それでも紅菜たちは満足だった。周囲の目なんて気にしない、雨の日の練習では誰もが泥まみれになる。周囲の目なんて気にしていたら、サッカーなんてやっていられないのだ。
けれど紅菜たち三年生が引退し、残りは秋と一年生三人。足りないな、と亮一は呟く。新しいキャプテンはもちろん秋で、亮一から頑張れよと言われ悔し涙なのか分からないが、とにかく涙を流していた。
「紅菜、四ヶ月本当にありがとう」
紅菜はいつのまにか、サッカーが好きになっていて、部活も好きになっていて。一番好きなのは、学校だと思う。それらを好きになった原因は全て亮一にある。紅菜はにっこりと微笑んで頭をさげた。
「こちらこそ、ありがとう。本当に楽しかったです」
部活三昧の日々はこうして終わり、紅菜たちはこれから受験生としてまた忙しくなる。
お祭りに行こうと言い出したのは、南海斗だった。学校では遊園地に行った時の四人でいることが多くなってて、今回もそうかと思えば、真里はまだ誘っていないと。紅菜は真里と席が近く、時々手紙交換するほどで。席の遠い南海斗からすれば、紅菜が誘った方が来やすいと思ったのだろう。
「真里、一緒にお祭り行かない?」
真里は嬉しそうな顔をしたものの、急に寂しげに笑ってごめんと呟いた。
「先約があるんだ、本当ゴメン」
紅菜は先約が誰かとは聞かないで、すぐ他の話にうつった。寂しげな笑顔が妙に心に残って、深く聞いてはいけないと訴えていた。南海斗に紅菜が真里のことを教えると、最近真里の様子がおかしいということを呟いていた。紅菜は思う、真里に好きな人ができたんじゃないかと。けれど好きな人ができた場合、逆に赤くなるとかそういうことが多いのだと思うが。
真里を抜いた三人でのお祭りの日が、刻々とせまっていた。
そこで問題が一つあることに、紅菜は気がついていなかった。
「隆、どうしよう」
「紅菜、いつもそれ言ってる」
ため息をつく紅菜のすぐ目の前で、隆は考え込んでいた。紅菜がお祭りに行ったのは、過去に一度。小学五年生の時、母と隆と三人で。友達とお祭りに行ったことのない紅菜は、今回絶対に行きたいと楽しみにしていた。けれど、紅菜の父が許すはず無い。
「彼氏と行くって正直に――」
「別れさせられるよ。絶対嫌だ」
隆はまだ父の恐さを分かっていない。父が紅菜に厳しいのは、紅菜が女の子だからという点もあるのかもしれない。けれど度が過ぎた厳しさは逆にうるさく感じるものだ。
「……母さんに相談するしか無い?」
隆は母のいる一階を指差すが、紅菜は同時にため息をついた。そしてコンコンとドアが叩かれる。部屋の主である紅菜は、叫んだ。
「母さーん?」
ドアが開き、母が顔を出す。そしてにやりと笑い呟いた。
「お呼びのようね」
他の家庭よりは少し若い母と、少し老けた父。母は紅菜と並んでいても、姉と間違えられるほど若く見えた。実際若いほうだと思う。考え方も若く、色々と相談相手になる。厳しい時は厳しいが、大抵のことは笑って許してくれた。
「友達とお祭り行きたいんだけど、父さんどうしよう」
行ってこればいいじゃない、とあまりにも普通に言うものだから、紅菜は全てを説明しなければならなくなった。本来は真里と男の子二人との四人で行こうとしたこと、真里が行けなくなったこと、三人で行くことを父さんは反対するだろうと。さすがに亮一と付き合っているなんてことは言わなかった。
「お祭りっていつ?」
二十一日と紅菜が呟くと、母は紅菜の部屋にあるカレンダーを見ながら考えていた。そしてにっこり笑い、また紅菜と隆のほうへ向き直る。
「金曜日なら、父さん夜遅いわ。九時ぐらいに帰ってくるから、八時ぐらいまでなら大丈夫なんじゃない?」
学校で決められている外出時間は八時。八時には家に入っていろという意味で、八時以降はボランティアの父母が見回りをし始める。お祭りの日も同じく、八時までだ。
「俺もいいの?」
部活が休みなのだろうか、隆は頬を緩ませて自分を指差す。母さんはもちろんと微笑んだ。小学生の時、父さんは自分達だけでお祭りに行かせてくれなかった。自分では連れて行ってもくれなかった。中学に入って絶対にお祭りに行ってやるぞ、と隆は誓っていたのだ。
「うっしゃ! じゃ、母さん電話使うよー」
隆が部屋を飛び出し階段を下りていって、電話をかける。話し声が早くも聞こえてきた。母も部屋を出て行こうとしたが、紅菜が呼び止める。
「ありがとう」
母はそれだけで満足な様子だったが、何か買ってきてねと笑っていた。
問題は全て無くなり、紅菜はカレンダーを見上げる。今日は十八日。あと三日、とても楽しみだった。
紅菜が母に浴衣を着せられ、走っていく少し先で、南海斗は紅菜に向かって手を振っていた。その隣には亮一もいる。
紅菜と南海斗はもうお互いを呼び捨てするぐらいの仲になっていて、亮一と真里をあわせた四人の中で、もう君付けやさん付けなんか必要無かった。
「紅菜浴衣だー、カワイイー!」
紅菜は南海斗の褒め言葉より、亮一が何か言ってくれるのを期待していた。だが何も言おうとしない亮一。紅菜は挨拶のような南海斗の褒め言葉を軽く交わし、三人は歩いて祭り会場である神社へ向かう。紅菜たちの学校で今日部活があるのはテニス部のみ。誰かに会えるといいね、なんていいながら歩いていた。真里に会えたらいいなと紅菜はずっと思っていた。
「うわぁ、すっごい」
三年ぶりのお祭りは、やはり小学生のころと比べると目線が違っていた。小学生のころ大きいと思っていた大人も、今ではそんなに変わらない。
「さーて、早速やりますか? 亮一君」
南海斗がわざとらしく咳払いをして、亮一の肩を叩く。亮一は嫌そうな顔をして、紅菜のほうを一瞬見た。何、と紅菜が視線を向けるとそらされる。そんなことが繰り返されていた。
「紅菜はどうする?」
いきなり話題をふられた紅菜は、偶然チョコバナナの出店を見つける。紅菜はすぐに笑顔になって、南海斗にも微笑んだ。
「私、チョコバナナ買ってくる。二人はどこいるの?」
射撃やってる、と南海斗が指差すと、亮一はもう弾をつめ、構えていた。三人はそこで分かれ、紅菜は出店のほうへ走っていく。店のおじさんに二百円払って、好きなのを一本抜く。射撃の出店へ向かいながら一口食べ、少し小走りになる。南海斗の茶髪が少し目立っていて、すぐに分かった。話しかけようとしてやめる。
「……え?」
射撃用の鉄砲を亮一が構えてる隣で、南海斗がたくさんの景品らしきものを持って応援している。あれ、もしかしてあれ全部亮一?
全くその通りで、亮一にすごいねと言うとそれほどでもないと答えが返ってきた。南海斗は次にやりたいと言い出して、店の人にお金を払っていたりする。
「あ、先輩」
先輩という部分に紅菜という呼び声が重なる。紅菜が振り返ると隆がいて、その隣には秋。二人はそこまで仲良かったんだ、と紅菜は少し驚いていた。同じクラスだということしか知らなかったため。
紅菜、と誰かに呟かれた気がして、紅菜はばっと声のほうへ振り向く。水色の浴衣を身にまとった真里がいた。健太の腕を組んで、まるでカップルのように。真里と南海斗が付き合っていると思っていた紅菜はその光景に一瞬呆然とする。それに気がついた真里が腕を離し、紅菜に走りよってきた。
「紅菜、亮一ときたんでしょ?」
夢中で射撃をしている亮一と南海斗に気がついていないらしい真里が不思議そうに首をひねる。紅菜は二人のほうを指差して、射撃だってと呟いた。
「……南海斗も」
その呟きが聞こえたのは紅菜だけで、その後真里は紅菜にぽつりとあることを囁いた。終わると同時に健太のほうへ走っていって、なにやら話している。じゃあ俺はどうすんだよ、と文句が聞こえた。しばらくすると話し合いも終わったようで、真里がまた紅菜の元へ戻ってきた。
「行こう!」
真里が紅菜の腕を引く、紅菜は亮一たちのほうをちらりと見たが、二人は気付いている様子もない。二人の隣には隆や秋、そして健太までもがいて、男子は男子で射撃を始めているようだった。
真里に引っ張ってこられたのは、お祭り会場からのびた階段をのぼったところにある小さな神社で、みなお祭りを楽しんでいるためか誰もいなかった。紅菜は知らなかったのだが、お祭り会場の一番奥に大きな神社ができて、その小さな神社には人がいなくなってしまっていた。
「……真里、どうしたの。いきなり」
真里は先ほど紅菜に呟いた。ついてきて、と。そして紅菜はここまでついてきたわけだが、真里が紅菜の手を握ったまま離さず紅菜に背を向けているため紅菜は真里の顔をのぞきこんだ。
泣いてる、と紅菜は呟いた。真里の瞳からは何粒もの涙が流れ、浴衣にしみこんでいる。その時真里は思っていた、理由を聞かれると。けれど紅菜は聞かない。何も言わず真里を石段へ座らせただけだった。
「自分にもし好きな人がいて、別の失いたくない大事な人に告白されたらどうする?」
真里は紅菜に呼びかけるように呟いた。紅菜はぼーっと空を見上げる。まだ薄明るい、時計を見ればまだ五時だった。考えているようで考えていない紅菜は、やがてその質問に答える。
「その好きな人を、どれくらい好きなのかによるかもしれない」
紅菜の答えはそうだった。ちょっと好き、程度なら告白にオーケーの返事を出してしまうし、すごくすごく……そう、自分が亮一を好きなくらい好きだったら、迷わず断ってしまうだろう。紅菜にとって亮一という存在は、それほど大事なものだった。
真里が黙り込む。
「……真里にとって、どっちが大事なの?」
真里は自分のことだなんて言わなかったけれど、真里の言い草からして分からないというほうがおかしいと思う。真里もそれを分かっていたのか、黙り込んで近くに落ちていた石を手に包む。
「どっちなんだろう」
紅菜も何も答えない。浴衣の裾を指でいじっているだけ。真里は拾った少し大きめ石を、誰もいないと思われる林のほうへ投げた。まるで、自分の気持ちを投げるかのように。答えるべき真里が何も言わないため、紅菜も何も言わず黙っていた。ただぼーっと、二人して黒く染まっていく空を見上げながら。
「私、明日が怖い」
紅菜はその言葉に、首をかしげる。
「明日が怖い?」
真里はもう一度頷いて、俯いてしまった。
「健太に告白されたのは、紅菜にお祭り行こうって誘ってもらった前の日。私は南海斗が好きで、ずっと迷ってた」
それなら相談してくれればよかったのに、と呟いた紅菜。真里はしばらく黙り込んで、すぐにぽつりと呟いた。
「紅菜の幸せ、壊したくなかったんだもん」
紅菜は今幸せの真っ最中だから、自分の事情で紅菜の幸せを壊したくなかったと、真里は苦しそうに微笑んだ。告白を受けてから約半月。そうやって一人で抱え込んでいたのだろうか。
「私は、真里の幸せを壊したくない」
相談してほしかった。真里の目の下の隈が日々ひどくなっていることに気がついていたし、勉強や部活に身が入らないことも隆に聞いたりして知っていた。自分の幸せを考えてくれた真里の気持ちはありがたい。でも、紅菜の幸せを作ってくれたのは、真里なのだ。真里に幸せを恩返ししてやりたいというのが、紅菜の思い。
「私、まだ真里に恩返ししてない」
恩返しというのは名目で、もしかしたら親友の幸せに恩返しなんて言葉は必要ないのかもしれない。
「頼ってくれていい、甘えてくれていい、私達はお互い、甘えんぼなんだから」
自分で言った言葉なのだが、紅菜はその言葉で考えていた。そうだ、自分はいつも誰かに甘えていた。隆、真里、南海斗……。いつもいつも、助けられて。救われていたんだ。
「真里が辛いとき、何も知らないで幸せでいるほうが、私は辛いよ」
真里は何も言わなかった。何も言わない、けれど肩が震えていて、紅菜はその小刻みに震える肩にそっと手を置く。すると真里は紅菜に抱きついて、泣き始めた。誰もいない神社の敷地内に、真里の泣き声が響く。ざわざわと木の触れ合う音がして、真里の声も木霊していった。
真里が落ち着いて顔をあげたころ、紅菜は隣にいなかった。ちょっと待ってて、とそれだけを言い残して紅菜は石段をおりていってしまった。ちょっと待ってて、ということは、あの地獄階段だと呼ばれる何段もの石段をのぼって、またここへくるということだ。
それが辛いのは、真里もよく分かっていた。実際、最初上ったとき真里は一瞬、ここはやめておこうと思ったのだから。
いきなり自分の名前を呼ぶ紅菜の声が聞こえ、真里は石段のほうへ視線を泳がす。紅菜は二本の何かを両手に一本ずつ持っていたのだが、それが何か真里からは見えない。街灯のないこの神社は、暗すぎたのだ。
微笑んだ紅菜に一本を差し出され、真里は何だろうと思いながらもそれをもらう。ありがとう、と言いながら棒らしきものの感触を確かめると、割り箸だった。
「私、これ好きなんだー」
紅菜がそれを食べ始めたのが見えたため、真里も口を開けて一口。懐かしい、と真里は呟いた。小学生以来、食べていなかった。中学校に入ってからは、太るからとこんなものを友達同士で食べたりできなかったから。
「チョコバナナ、久しぶりに食べるとおいしいね」
「久しぶりじゃなくてもおいしいよ」
紅菜は食べている間、ずっと笑顔で。真里もそれにつられて微笑んでしまう。悩みはもう、ふっとんでいた。
「そうそう、真里さー」
呼びかけ、紅菜は最後の一口を頬張る。もごもご口の中でバナナを食べながら、紅菜はたずねてきた。
「明日が怖いって言ってたけど」
真里はうん、と頷いた。
「明日が怖いのはみんな一緒だよ。だって明日は、何色か分からないんだから」
真里は意味がわからないとでも言うように、首をかしげた。
「明日の色?」
紅菜はうん、と短く呟いて、空を指差した。
「空の色はその時間によって変わるけど、その人の色は一日中変わらない。悲しかったらブルーだし、恋したらピンクだし。けど明日の色を予想しろなんて言われても、予想できないでしょ。何色か分からないから怖い、けどそれが人生で、それが楽しいんじゃないのかな」
それは真里が思っていたよりもずっと難しい言葉だったけれど、それでも真里の心がすっと晴れるのに、その言葉は充分で、有り余るほどだった。そしてそれを、と紅菜は続ける。
「“虹色の明日”と呼ぶのです」
先生の真似をするかのように敬語でわざとらしく、紅菜は言った後に微笑んで、真里の顔を見た。だって、明日の色は何色か分からなくて、たくさんの色の中から選ばれる。それはまるで、虹みたいなんだと紅菜は話していた。
真里と紅菜が射撃の出店場所へ戻ると、すぐそばの大きな岩のところで男子郡は色々と話していて、二人が近付くと文句があびせられた。
「遅いぞー!」
一番怒られていたのは真里で、慣れているらしく軽い様子で謝っていたものの、泣きはらした痕はかすかに残っている。大丈夫だろうか、と紅菜は心配になったものの、こちらも少し怒っている様子。
「本当ごめん、理由は言えないんだけど、ちょっと色々あって……」
南海斗は笑いながら、じゃあ何か奢ってねと。亮一は中々許してはくれない。やがて南海斗は紅菜にこっそりと呟いた。
「心配してたみたいだよ、中々戻ってこないから」
そういうことですか、と紅菜は内心微笑んだ。亮一の怒りは心配である。大事な人だから、なのかもしれないが、紅菜はただそれを嬉しそうに見ていた。
帰り道、南海斗とわかれた二人は何も言わず歩いていた。
「心配、かけてごめんね」
亮一の機嫌はずっと悪かった。特に、南海斗と紅菜が話しているときばかり。もちろん亮一は許していなくむすっとしていたため、紅菜は話しかけづらかっただけなのだが。
「……ただの俺のヤキモチだから、気にしないで」
思っていたよりも優しい返事が返ってきた紅菜は驚きのあまり、亮一を見上げる。顔は真っ赤で、また林檎になっていた。ヤキモチだったら、幸せなので許しましょうか。そう誰かに語りかけるように紅菜は心の中で呟いて、亮一の手を一瞬だけ握った。すぐ離し、自分の家のほうへ走っていく。後ろを振り返って一言。
「じゃあ、また!」
真っ赤な林檎が手を振っているのが見えた。
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■作者からのメッセージ
初めまして。
現実にはありえないかもしれないけれど、理想の恋というものを書いてみました。
三年生になったばかりの四月から、卒業までの三月を書いています。
3/29 四月〜七月の分を。
四月は「出会い」、五月「告白・誕生日」、
六月「初デート」、七月「お祭り」です。
「お祭り」では、虹色の明日というタイトルがどういう由来なのかということで。