- 『5年3組の殺人【第三話】』 作者:赤い人 / ミステリ 未分類
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全角22511文字
容量45022 bytes
原稿用紙約70.4枚
クラス担任が運営していた秘密のホームページを巡って、教室には疑惑と殺意、そしてトリックが交錯する。小学校を舞台として展開される本格推理長編小説。
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第1章 見ず知らずの感情
Face.1 十和野 里子 [Satoko Towano]
現実は、いつも私を裏切るように出来ていると思った。
窓際の席が空くまで、どれだけここで待ち続ければいいのだろう。
あの人との待ち合わせまで、まだあと三十分はある。だけど、今日はどうしても先に入って待っていたかった。
大通りを行き交う人の波を、スクリーンで見ているような気分になれるあの席は、私の大のお気に入りだった。あの喫茶店の中であそこだけ、向かいの高層ビルの谷間に降りてくる夕日を眺めることができる。
薄暗い店内が、机も椅子も、向かいのカップル席も壁際の観葉植物も私の紅茶のカップまでみんな金色に染まってゆくのだ。確かに夏ともなると日射しがきつくてクラクラきちゃうこともあるけど、そこで窓の向こうの人波を何げなく見ながら、ただ長い間ぼ〜っとするのが好きだった。
あの席でなくては困る。
今日まで幾度もシミュレーションを重ねてきたのだ。テーブルの向こう側の彼。冷静に、抑揚のない声で淡々と話しを続ける私。感情を見せてはいけない。情を掴まれてしまっては、身動きすることができなくなってしまう。
テーブルの向かいにおいたスタンドの鏡に向かって、お芝居のように何度も練習を重ねてきたのだ。だから、あの席でなくては困る。
深呼吸だ。焦ったって仕方ない。ミックスサンドを食べ終えたあの女性が店から出てくるのも時間の問題だろう。落ち着け。練習通りやればいい。
「ふぅ」
古い空気を吐き出して、新しい酸素を迎える為にラジオ体操のように胸を張る。そのとき、タイミングを待っていたかのように「かごめかごめ」が鳴り、横断歩道に人波が溢れた。それと同時に、後ろでドアが開く音と軽快なベルの音。聞き慣れたマスターの声に後押しされて、若い女性が出てくる。
横目でそっと見送り、何気ないフリで振り返る。思った通り、あの窓際の席が開いている。夕日を背にした私は、一度居住まいを正すと、まっすぐに喫茶店のドアに向かって……
「……? ゴホッ、ゴホッ!」
そして、すっかり忘れていた吸い込んだ空気が、かけっこの銃声が鳴ったような勢いであふれ出した。
「イラッシャイ」
相変わらずここのマスターは入ってくる客に目も向けない。ただ黙々と、手元に並んだコーヒーカップを次から次へと磨いているだけで、客の少ない休日明けなんて一日中そうしていると言われても、きっと納得してしまう。
仕草だけ見ると、休み時間も一人ノートを広げているガリ勉生徒のようで、なんだか近寄りがたいのだけれど、コーヒー一杯で何時間粘ってもイヤな顔一つしないというのであれば、そういうそっけない態度の方が居心地がよいと感じるのは私だけではないのだろう。
だから私も勝手に、あの窓際の二人席へと向かうのだ。
ミックスサンドの皿が未だに置きざらしになっているけど、気にすることはない。いささか背もたれの角度に賛同しかねる椅子に座り、ワイン色のカバーのメニューに手を伸ばす。今さら読む必要もないのだが、新メニューを無視すると子供のように機嫌の悪くなるマスターの為だ。
注文しなければ水さえ持ってこない代わりに、介入してほしくないときはどんなに店が混雑していても絶対に文句など言ってこない。学生時代からの付き合いだというのに、マスターとはロクに口を聞いたこともないけど、ここには、信頼関係と呼んで差し支えないものがあるような気がしていた。
「マスター、エスプレッソお願いします」
「……エスプレッソ」
独り言のように復唱するその声に、何だか異国のイントネーションを感じてしまう。
ここのコーヒーがおいしいのはそのせいかも……なんて、いつかの感慨にめぐりあって苦笑した。
そのとき、私のすぐ後ろからベルの音と重たい足音が聞こえてきた。
「イラッシャイ」
「こんにちは。暑いねぇ、マスター」
当然、マスターは無言で返す。一日中クーラーの効いた店内にいるマスターに、共感の余地などあろうはずもない。
「外はホントもう、どうしようもないよ。9月だってのに、もう、まいっちゃうね」
それでも構わず自分の言いたいことだけを言ってしまう。
彼だ。間違いない。
店中に響くような足音が、だんだんとこちらに向かってくる。
彼が、最初にかけてくる言葉は決まっている。
「ごめんよ、待ったかい?」
肩に手をかけて、大きな顔を耳元に近づけて、そうささやくのだ。
「……ううん。」
私が小さな声で返すと、アゴを引き上げて「ンッ」と笑って、そのまま向かいの席に落ち着く。ニコニコと、いつも笑ってるみたいな目元のしわ。大きく膨らんだほっぺた。額にぺったりと貼りついた先行き不安な前髪をかきあげて、
「すいませ〜ん、おしぼりもらえますか〜?」
そう言って、右手をブンブン振り回す。120kgの巨体がアニメのように動く。
あきれるぐらい、いつもと変わらない。
マスターは5本の指をピンと伸ばして作った柱の上に、銀色のトレイをのせてやってくる。
彼の頼んだおしぼりの横には、私のエスプレッソ。
「ごめんね、マスター。汗かいちゃって」
彼はトレイの上からおしぼりを奪って、そのまま顔にベタリ。ゴシゴシ、ゴシゴシ。
私にとって、彼は結婚相手というよりはマスコットだった。
出会った頃にはそれこそ、「下品」とか「デブ」とか「オタクそう」とか思ったけれど、その分彼の違う面を見ることが驚きになった。
今では、彼のこんな様子もかわいいと思えるようになっていた。通常の女の神経からすれば病気と言われても仕方がない。
だけど、印象はそれからまた少し、変わってしまっていた。
「そういえば、話があるって……何だい?」
「……うん」
「何かな? う……ん、式場のことかい? まだゆっくりしててもいいと思うよ。お互いの両親への挨拶だって、まだ正式に済んでないわけだしさ」
そう言いながら、タルのような首周りをゴシゴシ。
済んでないのは彼の両親だけで、私の両親には先週会った。「大きな人ねぇ」というのが母の感想だったが、あの淡泊さからして、少なくとも気に入られたわけはないだろうと思う。もしもあのときこのテーブルマナーを見抜かれていたのなら、力ずくででも反対されたかもしれない。今となっては、その方が良かったかも知れないと思う。
「芝森先生」
「……え?」
一瞬の空気の停滞。
思ったとおりだ。こう呼べば、きっと彼は不審がるに違いない。
「なんだよ改まって。満でいいって。もうすぐ夫婦になるんだよ? ここは学校じゃないんだからさ」
「だけど、今日は芝森先生に用があったんです」
汗を吹き終えた彼はいささか釈然としない様子で、一旦声の調子を変えた。
「……では、十和野先生? それなら学校で用件をお聞きしたいですね。勤務時間外ですので」
「学校では、できない話なの」
いよいよだ。私は書類入れの中から、用意していたものを取り出した。
「これを見てくれる?」
そこにはコピー紙特有の黒詰めの文字で、こう書いてあった。
< ○学生のつぼみ トイレ盗撮白書 >
「これに見覚え、ある?」
「……いや、全然。……何だいこれ」
「ホームページよ」
「……ああ、そうか。……いや、ちょっと待ってよ。確かに僕も男だし、興味ないと言えば嘘になるよ? でも」
「このホームページには、小学生の女の子を盗撮したと思われる画像が大量にアップされているわ。更新日は毎週金曜0:00。管理人の名前はG−MEN。メールアドレスはgmen@xxxx.com」
「誤解だよ。僕はそんなページ見たこともないし」
「問題は、ここにアップされている画像の多くが、うちの学校の生徒だってことなの」
「……え?」
「この写真を見て」
差し出した写真には、小学生と思われる少女の下腹部が、ぼかしもモザイクも一切なく無造作に写し出されている。和式便器の前方から撮られたと思われるアングルから、かろうじてトイレの内装などが確認できる。
「……にわかには信じがたい話だね。トイレなんてどこも似たようなものだしさ。うちの学校とは限らないんじゃない?」
「ここにわずかだけど、女の子の靴下が写っているわ」
私が指さした白い靴下のすねのあたりには、小さな赤いリボンの飾りがついていた。
「3組の稲川さんのものだわ。間違いない」
「考えすぎだよ。靴下だって、似たようなものはいくらでもある」
「そう……それじゃ、これを見て」
次に取り出したプリントには、罫線で区切られた5〜10行程度の文章がきれいに並んでいた。
「……これは、掲示板だね」
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感謝の嵐。 投稿者:オカジ 投稿日:09/10(日)1:03
おおっ! 管理人さん僕のリクエストに答えてくれてうれしいです。
やっぱムービーはいいっすね! ぐりぐり動いてますよ!
本当に感謝です。新作期待しています。
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レスレス。 投稿者:G−MEN(管理人) 投稿日:09/9(土)23:55
>コジローさん
初カキコありがと〜です!
喜んで頂けたようで、頑張った甲斐がありました(^^)
また金曜に新作あげますので、良かったら見て下さいね。
それではまた〜(^0^)/
>YU−Iさん
そうそう、後ろに回っちゃうから(笑)
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はじめまして 投稿者:コジロー 投稿日:09/9(土)10:15
ども、みなさんこんばんは。
実はずっとROMってました。ところで管理人さんって広島の人?。
いや、何かそんな気がしたんですってば。
新作堪能させていただきました。また来ます〜。
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どうもです 投稿者:YU−I 投稿日:09/8(金)23:02
淳子ちゃんとてもいいです。
感動(>○<)
>fcd.さん
顔がみたい、それは同感。でもダメだよ。
管理人さんの手が後ろに回っちゃうから(笑)
でも会員用のページでならアップしてくれるかも。頼んでみる? ^-^ )
>管理人さん
ハブッてる…新しい言葉だわ。どういう意味かしら(笑)
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初カキコ 投稿者:fcd. 投稿日:09/8(金)3:12
どーも初めまして、fcd.と言います。
以後ヨロシクお願いします〜!。
稲川淳子チャン、見ました。顔が見られないのが残念〜。
でも将来は美人になるよ。きっと(笑)。
どーもゴチになりました〜!。
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スランプ… 投稿者:G−MEN(管理人) 投稿日:09/8(金)1:08
最近スランプです。いい画像がとれなくって。これも台風のせいかも?
曇り空が多くて光源が足りない…
新作はよ〜く目を凝らして見てください。そうすればきっと(笑)
>オカジさん
りょ〜かいです。でもちょっとデータ量大きいんで(16Mもあったよ)
会員用の方にあげときます。あ、他の方もどうぞどうぞ。
>YU−Iさん
あら、ハブッちゃってる(^^) まあまあそう言わずに(笑)
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新作まだですか〜? 投稿者:YU−I 投稿日:09/7(木)23:15
>管理人さん
最近管理人さんがイジってくれない…くすん。
新作もアップされないしぃ。どうなってるの!(怒)
あんまり手抜きしてると…通報しちゃうぞ☆
あ、ログ汚しちゃった? それではまた〜
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「何か気づいたことはない?」
「……確かに書いてあるね、稲川淳子って。同姓同名にしては偶然すぎる」
「そうね。それじゃ次に行きましょう」
「何だか授業みたいだね。十和野先生」
「9/8の管理人の書き込みを見て。ここで、彼は<ハブッてる>という言葉を使ってるわ。翌日のYU−Iという人のレスでも不審がられてる。文脈から察するに、この言葉は拗ねてるとかイジケてるとかって意味だと思うわ。これは広島の地方弁の<はぶてる>という言葉に相当するわ」
「なるほど……で?」
「校内で盗撮行為なんて外部の人間には不可能だと思わない? 見たことのない大人が頻繁に侵入していれば、生徒も騒ぎだすはずよ。だったら、真っ先に疑わしいのは教職員ということになるわ。だけどその中に、広島県出身者は一人しかいなかった」
「つまり、僕しかいないってことだね」
「そうよ」
「理屈はわかった。だけど、神に誓って僕じゃない。もっと落ち着いて、ちゃんと話そう」
「私は落ち着いているわ。この間、あなたの家に行ったとき」
「ああ、先週の土曜日だったかな」
「そのとき、既に私はあなたを疑っていたわ。だけど、信じたくはなかった。あなたを信じる為に、私は友達の掲示板に書き込む為だと偽って、あなたのパソコンを借りたわ」
「そのとき僕は台所でビーフストロガノフの仕込みをしていた。……そういえば、まだあれの感想を聞いていなかったね」
「あれは……本当に絶品だったわ。気分が晴れていれば、どれだけ素敵なディナーだったか知れないわ」
「それは良かった」
「でも、見てしまったのよ。ブックマークや履歴をいくらあさっても、何も出てはこなかった。考えすぎだと思って、あなたを疑ったことを申し分けなく思って、それから友達の掲示板に書き込みに行ったの。そしたら……」
「そうか……なるほど」
「掲示板の登録フォームには、既に<名前 G−MEN(管理人)><メールアドレス gmen@xxxx.com>と書き込まれていたの。……ね? 他に、あなたのパソコンにあの名前と、メールアドレスが記憶されている理由がない……」
「待てよ!」
バン! と彼が突然テーブルを叩いた音に、私の体がビクリと反応してしまった。
「そんなに君は、未来のダンナ様の言うことが信じられないのかい? 僕じゃないって、言ってるだろう」
「だって」……そう言い返そうとしたとき、私は彼が今までに見たことのないような恐ろしい形相をしていることに気づいた。
「そうか、わかった。いいよ、認めよう。確かに僕だ。だけど勘違いしないで欲しいんだ」
芝森は私を睨みつけていた視線を窓の向こうへと移し、悪びれた様子もなくしゃべりだした。
「まず、僕はロリコンじゃない。確かにああいったページを運営しているけど、それと僕の性癖とは無関係なんだ。あのページでは、会員用の裏ページで、あそこに公開されているような写真を納めたCDを有料で提供しているんだ。小遣い稼ぎみたいなものさ。うちの学校では教職員のバイトは禁止されているだろう? 僕の安月給なんてマンションの家賃にほとんどが消えてしまって、食費も削らなきゃならない状態なんだ。君との結婚資金のこともある。今は少しでも、お金が欲しかったんだ」
「それはあなたの問題でしょ」「結婚資金なんて、ムシのいい話を持ち出さないで」「私が心配してるのは生徒のことよ。あそこに写真を出されて、名前まで公開されて、もしかしたらそれだけで、その女の子の人生は終わってしまうかもしれない」
私の頭には数え切れないほどの非難が即座に浮かんだが、体の方はリハーサルにないシーンを演じることをひどく拒んでいた。口を開けば声が上の方に引っかかりそうになるし、ヒザはいつからかガクガクと震えていた。
「いいかい? 顔は公開していないんだし、よっぽどの身内でない限りアレがウチの生徒だなんてわからないよ。誰か無用に騒ぎ立てる者さえいなければ、バレることもないんだ」
(いいかげんにしてよ!)
詭弁、いいわけ、もうたくさんだ。だけど、言えない。いざとなると私はダメだ。
この人に強く出られない。間違ってるものは間違っている。あなたは最低だって、あなたなんかキライだって、今すぐ目の前から消えてって……そう言えたら、どれだけ楽になれるだろう。
「自首なんかしたって仕方ない。たかが盗撮、罪はそんなに重くはならないよ。だけどマスコミは喜んで騒ぎ出すだろうね。そうなったら、ウチの生徒も一躍有名人だ。そうは思わないかい? わかってる。もう止めるよ。ページも閉鎖する。それで君の気は済むんだろう? だからさ、そんなに事件にする必要はないじゃないか。もうすぐ僕たちは結婚するんだよ? ね、里子……」
彼は憮然とした態度を続けていたが、私はその中に<怯え>があることがわかってしまっていた。
その後、彼がどんな取りつくろいの言葉を投げたのか、もう覚えてはいない。
ただ記憶にあるのは、私の中に静かに沸き上がってきた、見ず知らずの感情だけ。
それは、殺意と呼ぶにはあまりにも、軽蔑した感情だった。
Face.2 時田 武蔵 [Takezou Tokita]
1.
背中から差し込んだ西日が、文面を白くなぞっていた。
不愉快な内容だと言うわけではない。ただ、そこに並んだつたない文字は、自己の存在を主張することをしない。老眼鏡を通してすら何だかぼやけてしまって、即座に浮かんだ私の不謹慎な「比喩」も、実際、仕方ないと思う。
「切り絵みたいだな」
コピー紙の向こう側の男は、私の独り言とも思える言葉に戸惑っているように見えたが、額の汗をひとしきり拭った後、「はぁ」と小さくつぶやいた。
「あの……気に入りませんか?」
「いや、これはこれでいい」
わかりきったことを聞くものだ。私が気に入ろうが気に入るまいが、生徒にとってはどうでもいいことだ。訂正を命じたところで、そんなものには何の意味もない。
机の上に両肘を置いて、両手の指を真ん中で絡める。その下に置かれた異常なほど白い紙の表題に、私はもう一度視線を通わせた。
<夢 5年3組>
そこには、確かにそう書いてある。だが私に言わせれば、この中に生徒たちの本当の夢など数えるほどもない。大半は両親の希望、それに見栄だ。
存在感を感じないのだ。文字の部分がそっくり切り取られて、下の机の木目が見えてしまうほどだ。
不謹慎な比喩も、仕方が無い。
「……それでは、これで失礼します」
居心地が悪くなったのか、芝森は一段背筋を伸ばしてからそう言った。しかし彼の体型では「腹を突きだした」と形容する方が正しい。本来ならば引き留めたくもないのだが、
「待ちなさい」
その日は、あいにくと彼に用があった。
「は……」
「君ね、芝森クン。少し頼まれてくれんかね」
「はい、何でしょう?」
頼み、との私の言葉に、芝森は一瞬嬉しそうな顔をした。醜く膨らんだ腹の肉と、普段のつまらなそうな表情さえなければ好青年と言えぬこともない。
彼のこの態度を見て勘違いする者は大勢いるだろうと思う。現に職員室でも彼のまわりでは給食時の教室のように話が弾んでいる。一昔も前ならば教師間のイジメの被害者に陥りそうなタイプだと思うのだが、その部分では私のストレスの軽減に貢献している。だからといって、好きになれぬことに変わりはない。
「最近、生徒たちの間であるウワサ話があることは知っているね?」
「えぇ、まぁ」
「出所も知っているね?」
「……はい」
「ずばり、君だろう」
慌てて弁解をしようと一歩を踏み出した芝森を制し、私は話しを続けた。
「3階のトイレに覗き穴があるというんだろう。いつ、誰が掘ったものかはわからないが、最近男子生徒が発見し、細かなイタズラの元になった」
「ええ。だから僕は」
「3階には5年生のクラスがある。あの年頃では、異性に感心をもちはじめている生徒も多い。君だって、その頃には毛も生え始めてきただろう」
「いや、僕は」
「生えてなかったのかね?」
口を半開きにしたまま苦い顔をする芝森。
「冗談だよ。そこで君はある作り話を持ち出して生徒を説得した。ところが相手が悪かった。あの、加嶋孝司だったというわけだな」
「……はい」
「どんな話をしたのか、聞かせてくれるかね」
芝森は、教頭も人が悪い、というような表情でこちらを見た。もちろん私はすでに彼の流した無責任なウワサ話の全容を押さえている。芝森もそれは承知のようで、イタズラを見つかった生徒のように恐縮しながら、やがて、おずおずと話を始めた。
「……それは、嵐の夜でした」
2.
夜もふけた10時半、一人の子どもが学校に忍び込みました。彼は自分の机の中に教科書を忘れてしまって、すごく焦っていました。というのも、彼のクラスの担任の先生は、190cmを超える大きな体の男の人なのですが、授業中に眠ったり、宿題を忘れたりすると、ひどく怒るらしいのです。
製図に使う鉄の定規をビュンビュンいわせて、それはそれは強く、お尻を叩くらしいのです。つい先日も、彼の友達がやられました。全部で10回。後でズボンを脱いでみたら、叩かれたところは不細工に膨らんで、真っ青になっていたそうです。その話を思い出して、彼は震えが止まらなくなりました。
そんなわけで、彼は学校の裏側の竹やぶの中から、緑色のフェンスに開いた犬小屋ぐらいの穴を通って、学校の中に入りました。周りには民家や大きな道路もあって、電灯もたくさんあったのですが、彼には何故か、辺りがとても暗く感じました。
台風が近づいていると、家を出る前にテレビのニュースでやっていました。ヒィー、ヒィーと風が吹いていて、気味が悪くなった彼は急いで校舎の中に入ろうとしました。校舎の裏口のドアには何故か鍵はかかっていませんでした。ドアノブをゆっくり回すとギィギィ言いながら扉は開いて、彼が体を滑り込ませたあと、激しい風に押されるようにガシャン! と閉まりました。
彼は目的の教室へと走りました。自分の影に追い立てられるように、恐怖が頭の中を真っ青に染めてゆくのを感じながら、ひたすら、3階の自分のクラスへと……
「待って」
どこかから、声が聞こえました。
「助けて」
見ると、すぐ突き当たりのトイレの扉が半開きになっています。
「……誰かいるの?」
彼は勇気を出して声をかけましたが、返事はありません。ゆっくりと、開いた扉の前まで歩いて、恐る恐る中を覗いてみました。
ヒィー、ヒィーと風が鳴っていました。だけど、窓はどこも開いていません。そのとき、また声が聞こえました。
「こっちよ」
「……どこ?」
「こっちだよ」
窓の外から少しだけ青い光が漏れていて、中は意外に明るかったのです。
ヒィー、と風が、彼の頬をかすめました。どうやら手前の、和式便器のボックスから吹いてきているようなのです。ボックスのドアはやはり開いていました。恐る恐る、遠巻きにボックスの中を眺めてみましたが、どうやら誰もいないようです。
(幽霊だ……)
彼は全身から汗が噴き出すのを感じました。逃げなくちゃ、そう思いました。
「こっちにおいで」
ボックスの中から吹いてきた風が、彼の耳もとでささやきました。そこから血がサァーッと引いていって、足がガクガク震えだしました。
ヒイィッ、ヒイィッ。風が呼んでいます。彼の足が、勝手に前に歩き始めました。いつのまにか、首から下が彼の言うことを聞かなくなっていました。
「ヒヒヒッ。そうだよ、おいで。早く、早く」
グラグラと、操り人形のように膝が定まらないのに、それでも一歩、一歩。
目からはとっくに涙があふれ出していました。口からは、すでに何を言ってるのか自分でわからないほど、たくさんの言葉が出ていきました。
ヒィィィッ! ヒイイィィッ! 風が鳴っていると思っていたその音は、いつの間にか自分の口から出ていました。狂った鳥みたいな自分の声を聞いて、彼はもう、まともではいられませんでした。
間もなく、彼の体の全てがボックスの中に収まり、ドアは一人でに閉まりました。彼が自分の意志ではなく回れ右をすると、そこには五百円玉ぐらいの小さな穴が開いていました。
覗いたら殺される。彼は直感しました。必死でまぶたを閉じようとしました。
そうして、辺りが真っ暗になりました。
目を閉じると、不思議とさっきまで聞こえていた風の音が聞こえなくなりました。ギュッと手を握ってみると、爪が手のひらに食い込みました。さっきまで動かなかった体が動くようになっています。
……助かった? 恐る恐る、彼は目を開けました。すると。
小さな穴の向こうで、赤い布がバサバサとはためいているのが見えました。それに交じって、長い、黒い髪も風になびいていました。
フッ。
突然、穴の向こうが真っ暗になりました。向こうから誰かが手で穴を塞いだみたいに。
だけど奥の方で何かが動いています。奥の方で、ヌメリと光るそれは……人の眼球でした。
ズリ、ズリリ。
穴の内壁をこすりながら、目玉がこちらに向かってきました。ギョロギョロと動きながら、視線はまっすぐこちらに向いたまま。やがて、覗き穴からポッコリ顔出したそれは、一瞬瞳孔を大きく開き……ポトリ。
そしてブラリ、ブラリ。視神経でぶらさがって、ピクピクと揺れました。
「わたしの目を返して……」
誰かが呟きました。しかし彼はもう声も出せませんでした。
「あなたの目玉をちょうだい……」
彼は最後の風景に、トイレの壁からいくつもの腕が伸びてくるのを見ました。その後は、自分の視界が真っ赤に染まって、真っ暗になって……
後から聞いた話によると、その昔、覗き穴から男子トイレを覗いていた女生徒が、反対側から男子生徒にコンパスを突きこまれて失明。自殺したことがあったそうです。
その女生徒と同じように、彼の目に光が戻ることは、二度となかったそうです。
3.
「……こ、怖いじゃないか」
知らないうちに、手のひらにはジットリと汗をかいていた。胸の中では、まだバクバクと内臓が踊っている。
「十和野クンから聞いていたのとは随分違うな……」
「いやぁ、教頭用に少しアレンジを」
こいつはまったく……余計なことにばかり気が回る。
「ともかくだね、そういうわけで一部の生徒が浮き足だっているのだよ」
そう言っても目の前の青年はニヤニヤとしまりのない顔をしている。よっぽど私を怖がらせたのが自慢なのだろう。こういうところがキライなのだ。
「君は事態の深刻さをわかっているのかね?」
「……え、もちろんですよ」
「これで何かあれば、君と私の責任問題なのだよ?」
「何か、ですか」
何か、と聞かれて思い起こすことはこの青年も同じだろう。いや、この学校に勤めるものなら誰でも共通の忌まわしい記憶がある。
「最悪、<運動会トトカルチョ事件>の再来もありうる」
「ま、まさか……」
「ないとは言えんだろう。その証拠にほれ」
私が指さした壁際の黒板には、職員宛ての令書に混じって、一枚のカラフルなプリントが掛けられていた。
「今朝早く、稲川淳子が刷りに来たよ。教頭先生もどうぞ☆ なんて一部もらったのが、アレだ」
丁寧な飾りのついた文字で描かれたうたい文句は、<納涼! 校内怪奇ツアー 3階トイレで花子さんと握手 参加者急募>だった。
「あの悪夢を思い起こさせるだろう。このままでは父兄にあわせる顔がないのだよ。わかるね?」
芝森は「そりゃあもう」といった顔で脂汗にまみれている。
「誤解しないで欲しいのだよ。これは教頭命令ではない。私の個人的なお願いなんだがね」
私はこの青年が絶対に断れない手順を踏んで、
「これから1週間ほどの間、宿直を頼まれてくれんかね」
と、裁決を下した。
4.
それからすぐに芝森も最後の帰宅をし、夕暮れの職員室で私は一人、たそがれていた。
黄金色に染まった広い室内を見渡して、ため息を一つこぼす。私の若い頃はこうではなかった。今後の授業計画や生徒に関する諸処の問題。クラスを受け持つ担任教師のほとんどは、夜遅くまで自分の机で考え込んでいたものだ。
それが今ではこの過疎状態。クラブ顧問の教師が何人かは校内に残っているが、それも時間の問題と言える。最近の教師は労働時間に異常にうるさい。肝心の授業は逆に生徒に教えられるほどだというのに、定められた勤務時間を一分でも過ぎると、まるで帰宅部の学生のように職員室から消えてしまう。
本来教師に勤務時間やプライベートなどない。生徒より先ず生きたものが先生であり、生きることが教育なのである。いつ如何なる時も生徒の規範となるべく行動し、その上で教育を示さねばならない。
しかしそんなこと公に言おうものなら、やれ労働基準法だ何だと、恥知らずな抗議を呼んでしまうのだ。最近ではそういうのを「逆ギレ」と言うそうだが。
……いいや、いかんいかん。監督する立場の私がそのように後ろ向きでは。
生徒に接するように彼らに接し、教えの道を諭すのが私の役目、私の役職の意味ではないか。
近頃、どうも弱気になっていかん。いや弱気と言うよりも、何か得体の知れない虚無にのっかかられているようで、フヌケになってしまうことがある。
これがウツだとでも言うのだろうか。
コンコン。
ノックの音がした。いつの間にか頭を抱えていた私の返事を待つこともなく、ガラッと開き、見覚えのある顔がピョコっとのぞいた。
「……すいませ〜ん、タケゾー先生、いますか?」
「いますも何も、ここには私しかいないよ、冴木クン」
彼は少し安心したような表情をすると、頭一つ分開けたドアからくたびれたジーパンを突きだし、次にNIKEと書かれた返り点のついたTシャツをニョキっと出し、どこかの国のスパイのような身のこなしで、音のしないようにドアを締めた。
「つまり、また逃げてきたのだね」
「ええ。ひとまずまいたようですが」
冴木陽一はこの学校の卒業生で、現在は隣町の教育大学に通っている。通学手段はもっぱら人力二輪で、何でも彼の通学経路における最大の難関「地獄坂」の中腹にこの学校があるらしく、帰宅途中に私のところに寄って一休みなど、実はよくあることなのだ。
しかし、最近とみに多くなってきた気はする。原因は自明というものだが。
実は私もこの青年と会うことを、密かな楽しみとしているのだ。
「それ、何ですか?」
「相変わらず目が早いね。卒業文集にのせる<将来の夢>というやつさ。君も昔書いただろう」
「ということは、今年の6年生ですか」
「いや、5年生なんだよ。6年になると何かと忙しいらしくてね。卒業文集なんて作ってるヒマはない、将来の夢だなんて、受験を控えた子供を刺激しないでくれ……なんて言われてね」
「最近はそんな親ばっかりですか」
少し難しい顔をする。彼も受験で苦労した子供の一人だ。
「後の方はそうさ。だが、先の方は当の生徒からの意見だ」
「世も末ですねぇ」
だが、我ら二人が気に病んでも仕方がない。
「どれ、少し付き合わないかね」
私は腰を立ち上げて手の甲で二度叩いた。冴木クンは一瞬不審な表情を浮かべたが、すぐに納得したらしく、ドアを後ろ手に開けて
「お供します」
と言った。こういう勘の良さは、見せかけだけの誠意よりよほど好感を誘うのだということを芝森にも教えてやらねばなるまい。
コツコツとリノリウムの床を靴底で叩きながら、先ほどの話に戻すことにする。
「大半は医者と弁護士だったが、いくつか面白いものもあったのだよ。君があのとき書いたようにね」
「だけど僕はタケゾー先生に教わったんですよ。何事も中途半端はいけない。やるなら本気でそうなる為の努力をしなさい。努力のできないものは最初から書くなって」
「ああ、そんなことも言ったな。しかし今思えば……」
そこまで言って、私は思いとどまった。
「野間学は、刑事になりたいそうだよ」
「へぇ、父親の後を継ぐんですね。尊敬してるんだ」
「稲川淳子はモデルだ。あの子は将来美人になるよ」
「……賛同はしかねますが」
「そして加嶋孝司は、<生涯一学徒>だそうだ。インテリの彼らしい」
「へぇ」
「しかし最大の破壊力は佐倉咲美だ。聞きたいかね?」
「いえ、遠慮しておきます」
彼の即答からして、どうやらそういうことらしい。
ほどなく我らは目的の場所に到達し、目的の行為にうつった。
ベルトを引き上げ、ズボンを伸ばしたところでチャックを開く。私の若い頃には「社会の窓」なんてシャレた呼び名もあった。
腰を突きだして背筋を反る。それが私のスタイルだ。視線は上に向けて口をポカーっと開けてリラックス。するとチョボチョボと流れ出す黄金水。
「何故、男はこうも連れションが好きなのだろうか。考えたことはあるかね?」
そういって便器を一つ開けた窓際を見ると、「覗かないでください」と言わんばかりに便器に密着した彼の姿が見える。教え子の成長を確認したいという純粋な思惑しかないのに。
「そうですね。何故一人のときは窓際を選ぶのか。何故さりげなく一つ間を開けて並ぶのか。興味はつきませんねぇ」
そう言いながらかすかに体を震わせている。
「何故、若者はこうも早いのか」
冴木クンは下目に確認しながら、もうチャックを閉じる音をさせている。
「そして何故、モノをしまうときに必ず確認するのか」
彼はすっきりした表情で私の後ろを通って洗面所へと向かう。
「何故年寄りはこうも長いんでしょうね」
「君にもいつかわかる。残尿感というヤツは、地獄の苦しみなのだよっ……ほっ」
「……そして何故、振るのか」
シャアーっと、手をゆすぎながら聞いてみる。
「ところで、やはり佐倉咲美とは何でもないのかね?」
「何をやぶからぼうに」
「校内中の噂だよ」
ついでにメガネを拭いておこうとハンカチを取り出す。その横でしわがれた布きれみたいにイヤな顔をする若人。
「僕はただの家庭教師、あの子は生徒。僕は大学生、あの子は小学5年生。何より、僕はロリコンじゃありません」
「私からすれば大した違いではないよ。あと6年もすれば彼女も立派なレディーだ。君も生活力の何たるかが解り始める年頃だと思う。問題は無いじゃないかね」
「だいたい、そういうのは条例で禁止されているんですよ」
「単に好き合ってるだけには問題なかろう。それとも何かね、やはり君は女性をそういう対象としか……」
「人聞きの悪い。健康なだけですよ僕は。大学に行けば、周りに健全な恋愛対象などいくらでもいます。何が哀しくて小学生に手を出すんですか」
往生際の悪い少年だ。フゥーっとため息の後に、首を振るジェスチャーをする。
「そうムキになるのなら、いいさ。だがこれだけは言っておく」
聞きたくない、という風に冴木クンは両耳に指を突っ込んだ。
「あの子は本気だぞ」
それからしばらく経って、遅れてきた晩夏の宵闇の中に、冴木クンの愛車が消えていった。日中はまだまだ暑いが、日が落ちてからの風は何か冬の匂いを感じさせる。さみしい季節がやってくるのだ。
すると不意に、私をすさまじい寂寞が襲った。
小さな瓶の中に押し込まれて、目の前が真っ暗になって、その上体育座りを強制される、そんな感覚。
さみしいような、空っぽのような気持ちが、瓶の中に止め処なく流れ込んでくる。
冴木クン。
私は君との別れ際には、いつも言い忘れていた言葉があることを思い出すんだ。
卒業文集に載っていた、君の夢。君は私のような教師になりたいと言った。
だけどそれは本当の夢ではないね。君の本当の夢は、すぐに消しゴムのカスになってしまった。
それは私のせいだ。私がいさめた、君の本当の夢は……
「大人になっても何にもならない。僕は僕になるんだ」
口に出してみると、一人きりの職員室が余計に哀しくなる。
私は、了見のせまい大人だった。
君はあのとき既に、自分が自分でいることの難しさを知っていたのかも知れないね。
変わってしまうことの恐ろしさを。信念を守り通す強さを。
だが、私はこの年になるまでわからなかったのだ。
あのとき、どうして微笑んでやらなかったのだろう。一生かけてでも価値のある、素晴らしい夢だって言えなかったのだろう。
私を許してほしいのだ。
私の頬を、熱いものがつたっていった。瓶の中の水に混じって、後から塩辛い思いをさせるつもりなのだろう。
何故このところ、こんなことばかり考えるようになってしまったのだろう。
何故こんなにも、涙もろい老人になってしまったのだろう。
私らしくないね。冴木クン。
私は小学校教頭、時田武蔵。齢58にして初めて、ウツという魔物に出会ったのだ。
Face.3 佐倉 咲美 [Sakumi Sakura]
1.
放課後のことだった。わたしはいつものようにアイツを探して、校内をさまよっていた。
わたしの教室、5年3組は校舎の3階にあって、窓からはグラウンドを一望できる。その先には正門があって、歩道の先には大きな道路、その向こう側にはコンビニがある。
相変わらず学校帰りの生徒でにぎわっているようだけど、あの中に5年3組は一人もいないと断言できる。うちのクラスメートは、今さら学校帰りに買い食いなどしない。
オヤツは堂々と教室の中に持って入るし、ペットボトルは、各自カバンの中に常に携帯している。授業中に取り出して飲むものも少なくはない。
授業に出れば疲れる。クーラーの無い教室はウダルほど暑い。水分の補給ぐらい当然だ。そう言って、全教室に冷房が完備されるまで、わたしたちの抵抗は続く。
全て加嶋孝司の考えたことだ。しかし、そんな屁理屈に付き合うのも、いささか飽きた。
だから今回のことにも乗り気ではない。私たちの主張と校内肝試し大会と、何の関係があるというのだ。だから、こんなセリフで冷やかしにいくのも仕方ない。
「精が出るわね。三バカが寄り集まって、何の悪だくみかしら」
「人聞きが悪いな」
やはり最初に口を開いたのは加嶋孝司だった。こいつはわたしの顔を見るたび、何故かいつもニヤニヤとする。気味が悪いのだ、正直言って。
次に口を開いたのは品の無い女だ。
「ちょうどいいじゃない。委員長にも協力してもらおうって、言ってたところよ」
冗談じゃない。即答する。
「先生を騙す役なんて引き受けないわよ」
「騙せなんて言わないさ。頼んで欲しいことがあるんだ」
「どちらにしても、ノーよ」
7月の運動会は、PTA問題にまで発展したらしい。この三バカは「大成功だ」なんて祝杯をあげたらしいが、そんなものに交わるのはまっぴらだ。
「話だけでも聞いてよ」
そう馴れ馴れしく言ったのは、三バカの3番目、通称「ドジ」こと野間学だ。
「この間みんなにパンフは見せたよね。だけど調子にのって、誰かが教頭先生にまで見せたらしくって」
するとすかさず、
「何よ! あたしが悪いっての!?」
と、このパターンも見飽きた。
先ほどから品性のない声をあげている女が、稲川淳子だ。性格をひとことであらわすと、見栄っ張りでおしゃべりで負けず嫌い。守銭奴のくせにお祭り好きで派手好き。あとは、声のボリュームをしぼるダイヤルが壊れたラジオみたいなものだ。
加嶋孝司の「彼女」であるこの女のせいで、今まで問題が無意味に大げさになってきたのだ。
「ちがうよぉ、そんな怒らなくったって……あ、それでね、芝森先生がずっと学校に泊まり込んでるみたいなんだ」
「さすがの僕らも、担任の前で事件を起こすのが忍びなくってね」
つまり、計画を成功させる自信があると言いたいのだろう。芝森先生が宿直している間に校内で事件が起これば、それらは全て先生の責任になる。
「だから君に頼みたいんだ。飼育小屋の世話は5年生が任されることになっているだろう?台風が近づいているからウサギ達が心配だ、先生に様子を見ていて欲しいって、そう言えば済むことさ。芝森は生徒のたっての頼みで宿直を離れ、その間に僕たちは校内に侵入する。少しの間でいいんだ。校舎に入れば、後で何が起ころうと全てアトラクションだからね」
「芝森先生があとで怒られてもさ、僕たちが頼んだんだって、かばってあげようよ」
「ウサギを心配する役と肝試しの参加者をちゃーんと分けておけば、ただの偶然ってことになるじゃない?」
相変わらず下らないことには頭が回るようだ。
左の手首を持ち上げると、もう4時を回っていた。大学の講義もとっくに終わっている。
アイツのことだから、さっさと帰り道についているはずだ。だけどまっすぐ帰るとは限らない。
つい昨日だって、教頭先生と遅くまで話し込んでいたそうだ。
しかし、今日は6時から見たいテレビがあると言っていた。
どちらにしても、ここは時間の無駄だ。切り上げよう。
「飼育委員の北原さんにでも頼んだら? あの子おとなしいから、ガキ大将の頼みなら何でも聞くんじゃないかしら。それじゃ、わたしは用があるから」
「ちょっと、待ちなさいよ!」
待たない。そのつもりだった。だけど。
「ま〜た、お兄ちゃんのお尻を追っかけにいくんだ」
振り返り際に聞こえたその言葉を、聞き流すことはできなかった。
間髪入れず稲川淳子の喉元に手を伸ばす。小さなリボンのついた襟元を引きちぎる勢いで掴みあげた。
「……何かあなたに、迷惑かけたかしら?」
「や、やだ、冗談っ、そんなにムキになんなくても」
パッ、と手を離すとダンッ、と椅子の上に弾み、そのままグラリと、今度は床の上に着地した。スカートの中身を、見守る男子2名にさらけ出しながら。
そう。あいにく、今はムシの居所が悪い。
2.
はげたタイルの切れ端を蹴飛ばしながら廊下を歩く。ゴルフのように、タイルに追いついてはまた蹴る。目的地まで繰り返し。
そうだ。どうせ居所なんてわからないのだから、焦ったって仕方がない。会えるとしたら、それは運の問題であって、「どこどこに行けば」ということではない。アイツは、そういう奴なのだ。
上履きのつま先はスルメのように薄い。蹴るたびにジンと、血が集まるような痛みが走る。ホントに血でも出ようものなら、真っ赤に染まった靴下をあいつに送りつけて、「あなたを探し歩いて血マメもつぶれました」なんて、すました声で言ってやる。
それっ。
怒りにまかせて放ったシュートは、職員室の戸に当たる前に砕け散った。低学年の頃によくつまずいたあの段差だ。まったく、いつもわたしの邪魔をする。
「失礼します」
乱暴に戸を引き剥がし、わたしの半身が通り抜けたところでさらに引き戻す。がんっと閉まった後に、半分外れたような手応えがした。そのままズカズカと、一番奥の机まで足を進める。
見慣れたハゲ頭がだんだんズームアップされていくと、私の憤りもヒートアップしていった。
「アイツをどこに隠したんですか」
んっ、と手元の書類に向かったまま低く呻いた。が、わたしの方に視線を上げる気配もない。もう一度強く言わねばなるまい。
「教頭先生!」
コブシで木造りの机の中央を殴りつけると、ようやくビクッと、
「ど、どうしたんだね」と言った。
「い、いや、私は知らないよ。落ち着きたまえ、佐倉クン」
「アイツがいつも教頭のところに逃げ込んでいるのは知ってます。かくまってないで、すぐに居場所を教えてください」
「ま、まぁ待て。冷静に。今日はまだ来ていないよ、本当に」
「……本当ですか?」
「あぁ、私の教育人生にかけて、嘘は言わんよ」
「それでは失礼しました」
やっぱり教頭のところにも来ていない。今日は、もう帰ってしまったのかもしれない。
わたしは混乱しているのだろう。脳内では滝のようにアドレナリンが噴出していることだろう。こんなに全身がピリピリするのもそのせいで、行動が矛盾するのもそのせいだと思う。教頭先生には本当に失礼をしたと、裏側では思っている。
わたしを動かしているみじめなほどの焦りも、その後ろ側のあきらめも、全部わかっているはずなのに、それが今のわたしの全てではなかった。
「ちょっと待って」
十和野先生が追いかけてきていた。いけない。あの声で「咲美ちゃんたら」などと言われると困ってしまう。
弱いものイジメは好きではない。
「咲美ちゃんったら……何やってるの」
「あ……ごめんなさい。ちょっと、イライラしてたから」
「それは見ればわかるけど、ダメよ。教頭先生にあんな態度しちゃ……帰って謝りましょ」
先生も一緒に謝ったげる、というような目で見られると、実際たまらなくなる。
この人が見ている弱っちいわたしを壊して、「指図するな」とばかりに声を荒げたくなる。
要するにナメられているのだ。
だけど、それができない。きっとこの人は泣いてしまうから。
……それで結局、こうなってしまうのだ。
「さっきはどうも、すいませんでした」
「いや、私もうろたえてしまった。恥ずかしいところを見られたね。うちのカミさん以来十年ぶりだよ、女性を恐ろしいと思ったのは」
そういって教頭先生は笑った。子供だと思って、無茶苦茶を言う。
「しかし教頭先生。わたし、アイツのことに関しては、本当にお恨み申し上げております」
「……ははは。そうか、困ったなぁ」
笑いが少し乾いた。
「ちょっと、咲美ちゃん」
十和野先生は相変わらず心配そうな顔でこちらを見る。そんなに警戒しなくても、もうキレたりしませんよ。そんな顔色しなくったって……
「……先生? ちょっと、顔色悪くない? クマができてますよ?」
「え……、そう?」
「ああ、本当に少し顔色が悪いようだな。ちゃんと寝ているかね」
「あ……、ちょっと、事情があって……」
「事情って何?」
わかりやすい人だ。すごく困った顔をする。
「あ……それは」
「ん? 話してみなさい。相談には乗るよ」と教頭がメガネの真ん中を押した。
「でも……」
「往生際が悪いですよ。もうわたし達、心配してしまいました。これで話してくれなかったら、明日の朝にはわたし達にも同じようなクマができます」
「そうだぞ。生徒に隠し事は良くない。何でも話したまえ」
わたし達の悪ノリに十和野先生の顔は一層くもったが、やがて観念したのか、とある「事件」について話しはじめた。それはもう少し後になって考えると、ある大きな事件の発端に過ぎなかったのだが――
「最近、おかしな電話がかかってくるんです」
「電話? イタズラ電話?」
「うん。それが、30分か40分に一度くらい」
「相手は? 何て言ってるの?」
「その時によって違うわ。かけてくる人も違うみたい。ずっと、フーフーって息が聞こえるだけとか、何人かの男の人の笑い声が聞こえたりとか、あとは……いやらしいことを言われたりとか」
「どんなことを聞かれるんだね?」
「それはいいです。……で、他には? 家の電話にかかってくるの?」
「ううん、家の電話にも、携帯にもかかってくるわ」
「電源を切っておけばいいんじゃない? 電話線も抜いて」
「だけど、もし学校からの連絡だったりしたらって思って」
「そんなこと言ってる場合じゃないわよ。だって、携帯にまでかかってくるなんて、明らかに先生を狙ってるんでしょ」
「……やっぱり、そうなのよね……」
「警察には知らせたのかね?」
「いえ、それは教頭にご相談しなくちゃと思いましたし……」
「警察って、そういうのダメなのよ。ストーカーとか、わかってても被害が出るまで何もしてくれないって言ってたわ」
「そういう知り合いがいるのかね?」
「テレビで。とにかく、はっきりさせなくちゃダメよ」
わたしは肩にかけたカバンの片側の持ち手を下ろし、小物入れのジッパーを開けた。
「はい、これを持って」
取り出したのは携帯電話だ。母がいつでも捕まるように持たせてくれたものだが、実際にかかってきたことは一度もない。淳子に「飾り気のないケータイね」なんて言われたことを一瞬思い出したが、それは素直な愛着のあらわれだと思う。
「教頭先生も、今から言う番号をメモって下さい。そしたら、十和野先生は親しい人だけにその番号を教えて、ちゃんと事情を話して、しばらくはその番号で連絡を受けて下さい」
「ちょっと、咲美ちゃん、ダメよ、これは借りられないわ」
「いいんですよ。どうせ、わたしにかかってくることないし。こちらからかけない限り料金もとられないわ。かかってくるの専用に使うなら、遠慮なんてしなくてもいいです」
「だけど……」
「いいったらいいの! わたし、用があるからこれで失礼します!」
わたしは何故だか、逃げるように職員室を後にした。
3.
だけど、どこへ行けばいいのだろう。
夏の夕日はかろうじて陸橋の上辺りでたたずんではいるが、もうすぐそっぽ向いて一人だけ帰ってくつもりに違いなかった。
わたしはいつの間にかグラウンドを越えて、歩道の赤いレンガと、砂のかかったコンクリートの狭間を見ていた。そこには重い鉄柵が通るために鉄の溝が掘られ、ただじっと封印のときを待っているように見える。
「早く帰れ」とでも言いたそうなそぶりで、大した風でもないのにガチャ、と音を立てる。
ここから一歩踏み出せば、そこは外の世界だ。
(帰ればいいんだ)
ここにいたって、もうアイツには会えないだろう。また明日同じように探せばいい。
また明日、同じように会えないかもしれないが。
(何をやっていたんだろう。わたしは)
一人であせって、怒って、きょろきょろして。つま先が痛かった。教科書をいっぱい詰め込んだカバンが、肩に食い込んで痛かった。
(だけど、帰ったって)
どっちにしたって、一人なんだ。
真正面から降り注ぐオレンジ色の日射しが、まるで正反対なのに、雨の日のような切なさでわたしを打った。
どこにいたって同じだ。わたしは昔から、迎えの来ない子どもだったじゃない。
そう考えるとスーッと力が抜けていって、立っていられなくなった。
わたしは門にすがるように座り込むと、ゆっくりと膝を抱いた。
ここで待っていたら、いつかアイツが通りかかるかもしれない。だけど、もしも通りかからなかったら、わたしはどうなるんだろう?
風が強くなってきた。台風が近づいているんだ、と漠然と考えた。
後ろの方で街路樹がバサバサと枝をはためかせた。すると、すごくイヤな記憶がした。
4.
コウモリなのかカラスなのかわからないけど、黒いトリがわたしの上を飛んでいった。
驚いて見上げると、大きな木のすき間から見える空は群青色になっていて、幼いわたしにも夜が近いことはわかった。
一陣、風が吹いた。すると木々がシャワシャワと葉を擦った。見知らぬ大人に囲まれてヒソヒソ話をされるのと同じくらい、気味が悪かった。
しだいに、あたりの輪郭に区別がなくなってきた。月明かりにほんの薄く青みがさした暗幕の上に、たくさんの影絵がのってるみたいだった。わたしは目を閉じて、土の上に座り込んだ。
生きることをあきらめようとしていた。このままここで、お腹が空いて死んでしまうんだと思うと、どんどん心の中が痛くなってきた。
自虐的な痛みだということがわかっていたからだ。生きようと思えば、どんなに楽天的にだって振る舞える。そうしている内にそんな気にもなってくるだろう。こだわっているのはつまらないことだ。一人ぼっちだってことを、さびしいことだって思いこんでいるだけなのだ。
人の気持ちなんて、どうにでもなるんだ。あのとき、わたしがうずくまっていた自分自身を見捨てたように、全部捨てて帰ればいい。選り好みしなければ、子どもの内なら、帰る場所はあるんだ。
そうして、笑いなよ。恥知らずに。
帰ろう。そう思って、立ち上がったときだった。
「咲美ちゃん? まだいたの?」と後ろから声がした。
――いけない!
「こっち来ないで!」
「……え?」
きっと、バレてしまったと思う。今のわたしは鼻水やら何やらで顔中ぐちゃぐちゃだった。
声を出したときだって、震えぱなしだった。
十和野先生はそれきり何も言わなかった。何が起こっているのかわからないのだろう。
しばらくそのまま立ちつくしていたが、やがてゆっくりこちらに向かって、そして突然、抱きすくめられた。
「……っ」
「よし、よし」と胸に押しあてられたまま、なでられる。
先生の服がぐちゃぐちゃになってしまう。
「子どもあつかい……すんな」
「あなた子どもじゃない、変な子ね」
先生の体があたたかかった。それで初めて自分の体が冷たくなっていることに気づいた。不思議と、居心地が良かった。それこそ恥知らずなのに。
どれくらいそうしていただろう。わたしは不意に、先生の胸から飛び退いた。
「先生、もう大丈夫だから、先に行っていいよ」
まだ顔を上げることはできなかったが、声は普通に出せた。
「……え、でも」
「大丈夫だよ。あと30分だけ待って、それでも来なかったらちゃんと帰る」
「……冴木君を?」
「うん。先生がいたらカッコ悪いからさ。お願い」
先生はしばらく考えたあと、「また明日ね」と言って通り過ぎていった。
去り際に、肩越しにこちらを振り向いたのが見えた。陸橋の上からも、もう一度振り向くのだろう。だけど、これ以上弱みは見せられなかった。
そして、また一人ぼっちになった。
5.
ポツン、ポツンと空が泣き出した。
小さな水の粒が降りてくるのが、髪の毛のすき間から見えた。
校門の真ん中で、ただ真っ直ぐ立って道路を眺めていた。車が霧のようなしぶきをあげて通り過ぎる。あそこから見れば、わたしは幽霊のように見えたかもしれないと思った。
けど、わたしの心は逆に晴れ晴れとしていた。さびしい気持ちは雨音に紛れて、いつしか薄らいでいた。ウインカーの点滅や青信号がまぶしいぐらいに輝いて、万華鏡のように美しかった。
全身ずぶ濡れだ。大切にしていた教科書も、きれいに書き込んだノートも台無しだろう。
だけど、後悔なんてしそうもない。
……じゃぁ、そろそろ帰ろうかと、一歩を踏み出した。
うおおおおおォッ!!
一歩を踏み出したわたしの前を、何かが奇声をあげながら通りすぎていった。
その人はそのまま10Mぐらい走ったところでブレーキ音をさせて、その後さらに10Mぐらい滑っていった。
雨の中を自転車で走るのが好きだという、風変わりな男がいた。どうせ雨音で聞こえないだろうと思って、絶叫やら自作の歌やらを全力で叫びながら走る。
恥ずかしいから止めてよね。町でみかけても他人のフリをするからね。
そんな風に、わたしは言った覚えがある。
「何やってんだ!? おまえ!」
その奇人は、20M先から大声でいった。
わたしの足は、知らない内に駆けだしていた。もう水たまりなんて気にしない。
あの人のところへ、全速力で走って、そして、
「うあっ!?」
自転車ごと押し倒して、二人で雨の歩道の上に転がった。
「何すんだ!」
「いいじゃん。減るもんじゃなし」
「だからガキは嫌いなんだよ! いいから離れろ!」
被害妄想と言われるかもしれないけど、わたしは、心の底から願うことは何一つ叶わないって、いつからか、そんな風に思うようになっていた。いらないものはいくらでも手に入るくせに、本当に欲しいものは何一つ……
だけど、いつも彼は、そんなわたしのちっぽけな想像を越えてくれる。
わたしは佐倉咲美。10月17日生まれの満10歳。
将来の夢は、冴木陽一のお嫁さん。
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2006/04/08(Sat)01:22:54 公開 /
赤い人
■この作品の著作権は
赤い人さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
新機軸!マルチサイト形式で展開される本格長編推理小説、のつもりで鋭意更新中です。