- 『暑さも寒さも彼岸まで 第四話』 作者:月明 光 / リアル・現代 お笑い
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全角35083文字
容量70166 bytes
原稿用紙約117枚
第四話 妹思いは姉の情
その日、藤原は珍しく早く目を覚ました。
言うまでもなく、明は部屋に居ない。
もう一度寝ようかと思ったが、時間が中途半端なので諦める。
ベッドから起き上がって大きく伸びをし、カーテンを開けた。
朝の日差しが窓から差し込み、暗い部屋を照らし出す。
制服に着替えると、藤原は階下へと降りていった。
藤原がリビングに入ると、既に明がそこに居た。
朝の仕事が落ち着いたらしく、椅子に座って休んでいる。
何故か自分の髪を前に持ってきて、先端のリボンを繁々と見つめていた。
その瞳は愁いを帯びており、いつもとは違う雰囲気を感じる。
「おはよう、明さん」
恐らく初めて、藤原から朝の挨拶をする。
「……あ、おはようございます、光様」
藤原の存在に気付き、明は挨拶を返した。
早朝でも決して曇る事の無い、屈託の無い優しい笑顔。
さっきまでの愁いも、瞬時に覆い隠してしまった。
「今日は早いですね。何かご予定でも?」
「いや……たまたま、な。何か手伝おうか?」
「お気持ちは嬉しいですけど、後は光様を起こすだけでしたので」
そう言って、明は頭を下げる。
明は、藤原には到底不可能な時間に起きて、仕事をしている。
成人とは言え、彼女とは年齢が三つしか離れていないのだ。
もう少し見習おう、と藤原は素直に思った。
しかし間も無く、藤原の興味は明のリボンへと移る。
「……そのリボン、大事なのか?」
藤原が、明のリボンを見ながら言い、
「はい。とても大切な物です」
明は即答した。
純白のリボンを、解いて掌に乗せる。
解かれた黒髪が、光沢を放ちながら綺麗に広がった。
「これは元々、妹のリボンでした」
「えっ……明さん、妹が居るんだ……」
明の言葉に、藤原は少し驚く。
別に変わった事でも無いのだが、藤原は明の身の上を殆ど知らない。
だから、こんな事すら一驚の対象となるなのだ。
雷が人一倍嫌いである事も、つい先日知ったばかりである。
もっと話をしようと思っていても、どうしても躊躇してしまう。
相手に土足で踏み込んでしまうのではないかと思ってしまう為だ。
更に明は続ける。
「私が実家を離れる時に、リボンを交換したんです。これが有る限り、妹はいつも私の傍に居ます。同様に、私は妹の傍に居てあげられます。これが有るから今まで頑張る事が出来ましたし、妹もそうなのだと信じています。身体が離れ離れになった今、これはとても大切な物です」
その言葉は、強い想いで満たされていた。
まるで、明と妹の二人分のそれが込められている様な、そんな温かさが流れ込んでくる。
「明さんって、妹思いなんだな」
藤原が、素直に言った。
「本当に……そう思いますか……?」
「…………?」
一瞬、明の表情が憂いを帯びる。
しかし、それはすぐに元の優しい笑顔に戻った。
「では、すぐに朝食が出来ますから」
怪訝な表情をしている藤原をそのままにして、明はキッチンへ向かう。
早めに朝食を食べ終えた藤原は、余裕を持ってアリスを迎えた。
今日も、アリスと同じ通学路を歩く。
「ふ〜ん、あのリボンにそんな秘密が……」
アリスに朝の一件について話すと、平凡なリアクションを見せた。
「やっぱり、誰にだって大切な人や物が有るんだね」
「アリスはどうなんだ?」
藤原がアリスに尋ねると、何故か彼女はニンマリと笑う。
「もうっ、判ってるクセにお兄ちゃんてば♪」
そして、頬を紅く染めながら藤原の背中を叩いた。
想像以上の威力に、藤原は思わず声を上げる。
「何故にそうなる……」
藤原のぼやきを無視して、アリスは彼の腕に抱き付いた。
「もちろんボクは、お兄ちゃんが大好きだよ♪」
「あぁ、そう……」
結局いつも通りの展開に、藤原は溜め息を吐く。
幸い、周囲には誰も居ない。
「……あの……お兄ちゃん……」
「……何だ?」
さっきとは打って変わって静かな声。
仕方無くアリスの方を向くと、彼女が真剣な顔で目を合わせる。
少し意外な展開に、藤原は戸惑った。
それでも、アリスの目線は藤原を突き刺して離さない。
「ボクは……本気だからね……」
そして、さっき以上に顔を紅潮させて言った。
改めて言うのは恥ずかしいらしく、その後何も言えなくなる。
目を合わせたまま、妙な時間が流れた。
耐えられなくなって、アリスの方が先に目線を逸らす。
藤原は微笑して、アリスの頭をグシグシと撫で付けた。
「恥ずかしいのはどっちだよ」
「だ、だって……」
アリスは俯いたまま、言い返さなかった。
しかし、腕は抱き付いたまま離さない。
寧ろ、より強く抱き付いてきているくらいだ。
「……ほら、さっさと行くぞ」
「う、うん……」
藤原は、アリスを引っ張る様にして歩いていった。
このまま学校へ行くとどうなるか、まだ気付いていない。
一悶着起こした後、藤原は教室に辿り着いた。
半分くらいの生徒が、既にそこで談笑している。
適当に挨拶を交わしつつ、藤原は机に鞄を置いた。
「聞いた話によるとだな……」
「……せめて挨拶くらいしろよ」
前の席の秋原が、前触れ無く話を始める。
いつもの事なので、藤原は溜め息を吐き、席に座った。
「今日、新任の教師が来るらしい」
「……どう言う事だよ?」
最初は聞く耳の無かった藤原だが、頬杖を付きながら続きを促す。
普通、こんな中途半端な時期に教師が赴任するとなれば、事前に何らかの連絡がある筈である。
それが、当日になってようやく……となれば、流石に藤原も気になった。
「俺独自の情報網によると、何らかの理由で、今日まで内密にしていたらしい。恐らく、漏洩すると困る様な事なのであろうな。……もっとも、教師赴任の何が特別なのかは全く解らんが。更に不思議なのは、その教師に関する情報が一切無いと言う事だ。名前、性別、年齢、体格、担当科目、その他諸々、何一つ解らなかった。俺の情報網でも、新聞部の情報網でも何一つ解らんとは、前代未聞だ……」
そう言って、秋原は難しい顔をした。
秋原と新聞部が解らないと言う事は、関係者以外解らないと言う事だ。
よっぽど、事前に知られては不味い教師が来るのだろうか。
「まあ、もう間も無く解る事だ。一限目が集会になったからな。……ふっ、恐らく今頃、真琴嬢が熱くなっておろうな」
「だろうな」
藤原は同意し、真琴のクラスの状況を想像して、溜め息を吐いた。
「望月さん、おはようっス♪」
アリスが教室に入ると、真っ先に真琴が声を掛けてきた。
「マコちゃんおは……うわぁ!?」
アリスも返そうとしたが、途中から悲鳴に取って代わられる。
真琴が、アリスの胸を触った為だ。
「ふむふむ……今日もバストは全然っスね♪」
「……何で嬉しそうなの?」
笑顔でグサリとくる言葉を放つ真琴に、アリスは沈んだ声で問う。
「幼女の成長を見守るのも、正義の義務っス!」
そんなアリスに、真琴は力強く叫んだ。
明らかに目的が逆である上に、理由として無理がある。
言及する気力も無くなって、アリスは溜め息を吐いた。
ほぼ毎日この様な目に遭っているのだが、触れられる時間はランダムなのだ。
ある時は昼休み、ある時は更衣室で、またある時は放課後……。
身構え様が無いので、判っていても、セクハラを避けられないのであった。
「……あ、今はそれどころじゃないっス!」
急に、真琴が我に返る。
「……? 何かあったの?」
「今日、新任の教師が赴任するそうなんです」
アリスの問いに、堀が答えた。
更に堀が続ける。
「今日になって突然……明らかにおかしいですよね。一説では、寺町先生をも凌駕する教師が赴任するから、混乱を避ける為とも……」
堀の話を引き継ぐ様にして、今度は真琴が話し始める。
「これはきっと、何かの陰謀っス! 平和な高校を侵しつつある影……絶対に見過ごせないっス!」
「……無い無い」
堀とアリスが、同時にツッこんだ。
結局、誰一人として真相を知る事無く、生徒達は体育館に集まり始めた。
すぐに整列出来る訳も無く、大抵の生徒は勝手に話を始める。
そんな渦中に、藤原と秋原も居た。
「ふっ……デマや暴動が起こらないだけでも奇蹟だな」
「教師一人で、そんな規模に発展するかよ……」
そんな遣り取りの最中、アリスが藤原に飛び付いてきた。
「お兄ちゃん、久しぶり!」
「……お前の価値観は解らん」
アリスを振り払いながら、藤原は溜め息を吐く。
程無くして、堀と真琴も来た。
「先輩、おはようっス―♪」
「先輩、おはようございます」
そして、それぞれ朝の挨拶をする。
「おはよう。それよりお前ら、自分の子供はちゃんと管理しろよ」
藤原は溜め息混じりに言い、アリスを二人に突き出す。
三人共、一瞬キョトンとした表情を浮かべた。
一番最初に、アリスが意味を理解する。
「お、お兄ちゃん! それどう言う意味!?」
流石にアリスも、子供呼ばわりされては黙っていない。
「形振り構わない奴は子供だ」
煙たそうに扱いながら、藤原は、言い捨てた。
次第に、残りの二人も意味を理解する。
それと同時に、真琴は嬉々とした表情でアリスを抱き寄せた。
「はい! 私、これからはいつでも望月さんの面倒を見るっス!」
「そこまで本気にされても……」
真琴のロリコン振りを失念していた自分を責めつつも、藤原は、アリスの救いを求める目線を無視した。
「ふむ、美少女育成モノと言うのもアリだな。光源氏や白河上皇など、前例も決して少なくはない。……いやしかし、アリス嬢が成長した姿は、余り見たくない……だが、それはそれで……」
秋原は、一人で勝手な妄想を巡らせていた。
「お前ら、そろそろちゃんと並べ。鶴橋の檄が飛ぶぞ。秋原、お前は最前列だろうが。さっさと行け」
藤原がその場を収めると、それぞれ自分の場所へ向かった。
その後アリスがどうなったのかは、誰も知らない。
それから暫くの後、集会が始まった。
校長が挨拶をし、すぐに本題に入る。
「まず、今回の教師赴任について、情報の開示が今日になってしまったのは、校内の混乱を防ぎ、教師のプライバシーと安全を守る為です。教師の受け入れに於いて、色々と問題があったのも、理由の一つです」
やはり、普通の教師ではないらしい。
「では、実際に出て来て貰いましょう。……先生、どうぞ」
そう言うと、校長は舞台の端へと移動する。
少しして、舞台袖から教師が現れた。
それと同時に、全校生徒のほぼ全員が響動めく。
それに圧倒されたのか、教師は少したじろいだ。
しかし、すぐに気を取り直し、一歩一歩舞台の真ん中へと歩いていく。
その間にも、響動めきは波の様に伝わり、大きく広がっていった。
教師が真ん中に立ち、マイクを受け取ると、一斉に辺りが静まり返る。
教師は、ゆっくりと周囲を見渡した。
大衆にも怖じる事の無い、凛とした瞳。
身動ぎの度に揺れる、サイドポニーの長い黒髪。
百七十センチ弱程であろう体は、均整が取れている。
舞台の真ん中に立つ少女を、生徒達は固唾を呑んで見守っていた。
その中でも、藤原を筆頭とする五人は、動揺を隠せない。
何故なら、彼女は……
「今日から、この明草高校で英語を担当させて頂く、西口夕(にしぐちゆう)です。十七歳の、まだまだ若輩ですが、何卒宜しくお願いします」
明に非常によく似ていたからだ。
生徒達が再び響動めく前に、校長がマイクを構える。
「……はい。本人が仰った通り、西口先生は若干十七歳です。彼女は、幼少の頃から非常に穎脱頭脳を誇っていました。飛び級でアメリカの大学へ入学し、優秀な成績で卒業。そして今、こうして教壇に立つ事を望まれたと言う訳です。当然ながら、色々と問題がありました。しかし、彼女の教育に対する情熱は、昨今の教師に決して劣りません。同年代の教師を導入する事により、生徒と教師が互いに成長出来る。そう判断し、卓越した成績と併せて採用を決定しました」
校長が一通りの説明を終え、その後に続く様に夕が口を開く。
「校長先生の御言葉、誠に光栄です。……確かに、私の様な若輩は、本来教壇に立つ事を許されません。しかし私には、教える立場に値する教養と情熱が有る、そう自分では思っています。この明草高校に採用させて頂いた事、心から感謝しています。それに応えるべく、今日からは教師として、日々精進していきたいと思います。余り話が長引くのも良くないので、以上で。重ね重ね、宜しくお願いします」
話を終えると、夕は頭を下げた。
静寂から、再び響動めきに変わる。
その日の明草高校は、新任教師の話題で持ち切りだった。
藤原のクラスも、決して例外ではない。
まして、間も無く彼女の授業が始まるのだから、尚更だった。
チャイムが鳴り、教室のドアが開く。
サイドポニーの少女が、授業用のテキストを持って、教室に入ってきた。
同時に、教室がざわめき始める。
その後ろから、馴染みの教師も入ってきた。
恐らく、初日の授業なので、色々と見なければならないのだろう。
少女が教卓のポジションに着き、教師が教室の最後列に座る。
やや緊張した面持ちだが、それに押し潰されている様子は無い。
余所のクラスで、既に何度か授業をしたのだろう。
「では……改めまして、西口夕です」
まずは、改めて頭を下げる。
そして、黒板に自分の名前を書いた。
練習の跡が伺える、とても綺麗な字だ。
「私の様な若輩が教師になる事に、驚いている方も多いと思います。ですから、まずは自分の身の上を、簡単に話したいと思います」
そう言いながら、夕は正面に向き直った。
「私は、幼い頃から、大抵の勉学に対して、並々ならぬ才能を持っていました。……自分で言うのも何ですが、でないとこの様な場所に立てる訳が無いので。両親にそれを見出されてからは、その才を伸ばす為に時間を費やしてきました。結果を残す度に両親が誉めてくれるだけで、頑張る理由には十分でした」
そこまで言って、夕の表情が少し沈む。
「そんなある日、色々とあって、自分の在り方について疑問を抱きました。このまま、親の言う通りに生きていて良いのか、と。……勿論、勉学に対する気持ちが揺らいだ訳ではありません。只、本当に……言われるがままに生きていて良いのか、と。そう思うと、言い様の無い恐怖感に見舞われました。その頃、海外の大学に入学する話が持ち上がっていましたから、尚更でした」
彼女にも、悩んでいた時期があったと言う事だろう。
声が明るさを取り戻して、更に続ける。
「そんな私に、私にとっての恩師は言いました。『例え宛われた道でも、歩き方は幾らでも在る』と。その一言のお陰で、私は更に教養を深める事が出来ました。そして、十分に勉学を修めた時、私は決意しました。この知識は、新しい可能性を教え導く為に使おう、と。嘗て私が、恩師の一言に救われた様に、今度は私が未来の希望の為に尽くそう、と。様々な誘いがありましたが、どれも私の決意が揺らぐ程のものではありませんでした。そんな訳で、私はここに居ます。大勢の人に支えられて、ここに立っています」
そう言いながら、夕は胸に手を当てた。
一見堂々としている彼女だが、様々な支えがあっての事なのだろう。
だが、それこそが本当の意味の『強さ』なのかも知れない。
「英語を選択した理由は、如何な道に進むにせよ、英語を避けては通れないからです。大抵の大学は、受験科目に英語か在ります。情報化や国際化が進めば、尚更国際語である英語は必須となるでしょう。英語と言う科目を通して、なるべく多くの生徒を、なるべく望み通りの未来へと導く。それが、私の現在の目標です。……少し、話が長くなりましたね。さっきのクラスの時よりは、要約したつもりだったのですが……」
黒板に書いた自分の名前を消すと、夕は早速授業に取りかかった。
将棋部は、今日も緩る緩ると、空き教室で活動していた。
藤原と堀は対局しているが、
「堀、王取られたんだから、素直に負けを認めろ」
「王制から、民主主義に変わりました」
「…………」
やはりまともな対局ではなかった。
秋原は、ギャルゲーの雑誌を読みながら、
「なんと、これ程の美少女がサブ扱いとは……。恐らく、家庭用ゲーム機への移植でメイン昇格であろうな。更に、Hシーンを追加して逆移植、と言う事態も有り得る。売り上げの為とは言え、やはり一発で完璧な物を作って欲しいものだな」
一人呟いていた。
いつも通りの、部活風景。
只、ツインテールの背が低い少女が、少し前から加わった。
とは言っても、正式に入部した訳でも、将棋をする訳でもない。
藤原に逢いに来ているだけだ。
何度か藤原が追い払おうとしたが、今では黙認している。
「……西口先生の事だけどさ……」
そんな彼女が、話の発端だった。
「うむ。俺も気になっていた」
秋原も、雑誌を閉じて話の準備に入る。
堀がようやく負けを認めると、二人も駒を片付けた。
「やっぱりあの人は、アカリンの……」
アリスが、早くも核心に触れる。
この四人にとって、彼女の年齢は大した問題ではない。
只、余りにも明に似ている事だけが議論の対象だった。
「でも、苗字が同じなだけで決めつけるのはどうかと……」
そんなアリスに、堀はやんわりと反論した。
確かに……と呟き、アリスは考え込む。
「そもそも、明さんに妹がいるのか?」
「ああ。年齢とかは全然知らないけどな」
藤原が答えると、秋原は暫く腕を組み、
「では、まず、明さんとの共通点を挙げていこう」
それ程掛からずに提案した。
最初にアリスが挙手する。
「やっぱり顔だよね。ちょっとアカリンの方が柔らかい感じかな?」
三人共頷く。
人を区別する際に最も重要な顔が、非常に似ているのだ。
続いて堀が手を挙げた。
「割と背が高いですよね。先生の方が、数センチ低いでしょうか。でも、四捨五入すれば、百七十くらいありますよね」
やはり三人共頷く。
明が大体百七十強で、夕は恐らく百七十弱。
ちなみに、どちらも堀より背が高い。
今度は提案者が手を挙げた。
「教育実習生ならともかく、本当に教師とはな……。教師は、大体三種類に分けられるのだ。まず、エロス振り撒く妖艶なお姉さん。これは、保健婦に多いな。次に、友達感覚で付き合える若い教師。体育教師の傾向がやや強い。そして、どうやって教壇に立てたんだと言わんばかりの子供先生。夕先生の場合、若い教師寄りの子供先生だな。若い教師とするには幼いし、子供先生とするには大きい。どちらでもないが、どちらでもある……これは、今までの歴史と伝統を覆すかも知れん。ふっ、明さんと同じく、萌えのツボを刺激する才能を持ち合わせている様だ」
アリスだけが頷いた。
秋原の発言が無かったかの様に、藤原が口を開く。
「確かに、明さんにそっくりだよな。明さんと同じ家で生活している俺でさえ、そう思う。考え方とかも、明さんと同じでしっかりしてるし……。強いて言えば、違うのは髪型と胸くらいじゃないか? けど、それくらいは違って当然か……」
藤原の発言に、三人が暫く沈黙する。
議論が盛り上がっていた筈の空き教室は、水を打った様に静まり返った。
何のリアクションも無い事に、藤原が戸惑いを感じ始めた時、
「ふっ……まさか藤原が、その様な箇所に目を付けていたとはな……」
「よかったぁ、お兄ちゃんも、ちゃんと女の子でハァハァ出来るんだね♪」
「藤原先輩……見損ないました」
三人が思い思いに感想を述べた。
「え……何? 何か不味い事言ったのか、俺?」
理由も判らないまま、藤原は戸惑うばかりだった。
議論の最中、部室のドアが開く音がした。
四人の目線が、一ヶ所に集まる。
「こんちわっス―♪」
ポニーテールの少女が、元気に挨拶をしながら入ってきた。
同時に、アリスは部室の隅の方に移動する。
「何か用か、真琴? 取材の予定は聞いてないけど……」
「いえ、特に用は無いっス。強いて言えば……」
藤原の質問に答えながら、真琴は周囲を見渡す。
そして、教室の隅でうずくまっている、ツインテールの幼女を見付けた。
それに向かって、真琴は一直線に駆けていく。
激しい足音に気付き、アリスは逃げようとしたが、既に二百七十度は阻まれている。
残りの九十度で右往左往している間に、全ては終わった。
「幼女分の補給っス♪」
「うわあああぁぁああぁっ!?」
心底嬉しそうな顔で抱擁する真琴とは対照的に、アリスは阿鼻叫喚の声を上げる。
もうお馴染みの光景なので、見て見ぬ振りをする事にした。
「ところで真琴、西口先生の話をしてたんだけど……」
流石に哀れになってきたので、藤原が真琴に話を振る。
それと同時に、真琴の表情から笑顔が消えた。
「よく訊いてくれたっス……」
アリスを解放すると、真琴はゆっくりと中央へ移動する。
その表情は、非常に厳かだった。
丁度真ん中で立ち止まり、四人の目線が集まる。
「新任の教師……結構っス。天才先生……尚更結構っス」
真琴は、呟く様に話を始める。
すると突然、胸の前で拳を強く握り締めた。
そして、拳の通り力強く、咆吼する。
「でも! 新任の天才先生と言えば、十歳の子供と決まってるっス! あんなに身長が高いのは認めないっス! アンダー百五十当たり前っス!」
「……もう、ツッコまなくて良いか?」
そんな真琴に、藤原は最早何も言えなかった。
構う事無く、真琴は続ける。
「これからの時代は、子供が必要っス! ちょっとおちょくるだけで目をウルウルさせたり、台座が無いと黒板に手が届かなかったり……。そう言う無垢な子供が、今の荒んだ社会には必要っス! 現代社会には癒しが足りないっス!」
既に教師とは何の関係も無くなっているが、それに言及する者は居ない。
「解る! 解るぞその気持ち! 幼女を愛でる心こそ、現代には必要なのだ! 今、子供相手に犯罪を犯す愚者共の所為で、ロリ系のギャルゲーは危機に立たされている……。しかし、それは大きな過ち! ロリ系のゲームを通じて、人は子供を愛でる心を育てるのだ! 地位ばかり立派な連中は、我々の様な者の事など知ろうともしない……嘆かわしい事だ」
甚く共感している者が居るが、やはり誰も言及する事は無かった。
胸の奥から湧き出る、ぶつけ様の無い気持ちを抑えられず、真琴は窓際へ走る。
窓から半身を乗り出し、
「ストップ少子化――――――――――!!!!!」
彼女は力の限り叫んだ。
青春真っ只中の若さ故の、清純な雄叫びだった。
「な……何? 今の大声……」
真琴の咆吼からそれ程掛からず、部室のドアが再び開く。
教師になるのが七年遅かった夕が、戸惑いながら入ってきた。
「に、西口先生!?」
余りにも急な出来事に、一同驚きを隠せない。
「この高校について少しでも知る為に、部活動を見て回っているんです」
どうやら各所で同じリアクションをされたらしく、夕は平然と答えた。
藤原達の近くの椅子を、適当に選んで座る。
藤原達全員が同じ事を尋ねようとしたが、全員が同じ様に躊躇った。
「ここは、確か将棋部ですよね?」
「あ、はい……」
逆に尋ねられる始末である。
「全部で五人?」
更に尋ねられ、
「いえ、私は新聞部っス」
「この小さいのは『侵入部員』です」
やはり答えざるを得なかった。
「むぅ。お兄ちゃん、怒るよ!」
「怒りながら言うな」
藤原の発言に、アリスが激しく噛み付く。
『小さい』の方か、『侵入部員』の方か、或いは両方かは定かではない。
そんな光景を、
「…………」
夕は不思議そうに見つめていた。
「……貴方達、兄妹? あんまり似ていませんけど……」
そして、やはり不思議そうに尋ねる。
この光景を見れば、そう思っても仕方無いだろう。
「いや、こいつが俺の事をこう呼ぶだけなんで……」
「あ、そうなんですか。ごめんなさい。この前読んだ文献に、興味深い事が書いてあったから、つい……」
藤原が否定すると、夕は丁寧に謝った。
「……文献?」
しかし、今度は藤原が怪訝な表情を浮かべる。
二人が兄妹である事が関係する様な文献が、想像出来ないからだ。
「私がアメリカに居る間に、日本も結構変わったとい思いますから。日本に帰国する前に、日本に関する情報誌を買ったんです」
どうやら、前もっての準備も怠らなかったらしい。
だが、日本以外の場所で買ったと言うのが、少々気になる。
「それの百十八ページによると、最近の日本は、兄妹が恋人同士になる事が多いそうです。数年離れている間に、色々変わったのですね。しかし、今のところ、そう言う人は……」
その不安は、早くも現実の物となってしまった。
――これは、早いうちに直しておかないと……。
藤原がツッコむ前に、秋原が立ち上がる。
「その通り! 妹萌えこそ、日本の誇る新たな文化! 今は義妹が主流だが、最近実の妹も攻略出来るようになり、更なる発展を遂げている! 日本の文化、確かに異国にも伝わっている様だな……!」
「いや、明らかに湾曲して伝わってる」
言っても無駄な事が判りきっている上に、夕の前なので、藤原は控えめにツッコむ。
彼女は、本を盲信してしまう癖があるらしい。これは恐ろしい事だ。
その後、どうにか彼女の誤解を矯正する事が出来た。
しかし、これが氷山の一角に過ぎない事は、まだ誰も知る由が無かった。
「あの、ところで、先生にお訊きしたい事があるんですけど……」
「……? 何ですか?」
堀が、とうとう勇気を振り絞り、夕に尋ねる。
その瞬間、部室の空気が一気に緊張を孕んだ。
堀もそれを感じて、物怖じするが、どうにかそれを振り切ると、
「先生って……姉妹とか居ませんか?」
未知の領域へと踏み込んだ。
予想だにしなかった質問をされた所為か、夕は一瞬言葉を詰まらせる。
「姉妹ですか……。私には姉が……姉が……姉さんが……姉……」
夕は答えようとするが、何故か続きが出てこない。
表情も次第に曇っていき、声も小さくなっていく。
気が付けば、彼女の瞳には大粒の涙が浮かんでいた。
「す、すみません……。大丈夫……ですから……」
涙を拭いながら、夕はそれだけ口にする。
どうやら、地雷を踏んでしまったらしい。
堀がそう自覚した時には、既に幾つかの冷たい視線が集中していた。
『空気読めこの野郎』と言わんばかりの、鋭い目線だ。
人生には、往々にして理不尽な事がある。
良かれと思ってした事が、自分を追いつめることも多々ある。
今の堀が、まさにそうだった。
結局、夕の事は何も解らないまま、部活は終わった。
――まだ初日だし、焦る事でも無いだろ。
そう思いながら、藤原は日が沈んだばかりのスーパーに居た。
明が米を買うと言うので、自主的に荷物持ちとして参加したのだ。
「あの……本当に宜しいのですか? 別に私一人でも……」
当の明は、未だに遠慮がちだった。
「どうせ特にする事も無いし、遠慮しなくて良いよ。……それに、ここまで来て手ぶらで戻るのもな……」
「そうですか……ありがとうございます」
ショッピングカートを押しながら、明は頭を下げる。
米以外の品は既に済ませてあるので、あとは米を積むだけだ。
程無く、二人と一台は米が陳列されている場所に着く。
様々な銘柄の米が在るが、袋の柄以外で見分けられる人は、果たしてどれ程居るのだろうか。
「これをお願いします」
「判った」
明に指示された米を、藤原は抱えた。
その気になれば、ボディービルにでも使えそうな重さである。
それをショッピングカートに積み、目的の物は一通り揃った。
「では、行きましょう」
「ああ」
そして、一番空いているレジに並ぶ。
すぐに、明の順番が回ってきた。
店員がレジ打ちをしている間に、後ろに人が並ぶ。
「あ、藤原君……でしたっけ?」
「せ、先生!?」
それが夕である事に気付き、藤原は心底驚いた。
「藤原君も、この近くに住んでいるんですか?」
「は、はい。歩いて二十分くらいの場所です」
「そうですか。でしたら、割と近くですね」
「先生も、この辺りですか?」
「はい。一人暮らしを始めたばかりなので、色々と苦労しています。……誰かの付き添いですか?」
「そ、それは……その……」
そんな遣り取りをしているうちに、明はお金を払う。
「光様、お知り合いで……!?」
そして、藤原の方を向いた途端、顔色が変わった。
明の顔を見て、夕も同様に驚愕の表情を浮かべる。
「……姉さん? 姉さん、だよね?」
暫しの沈黙の後、夕は恐る恐る尋ねる。
「……貴女……夕……ですか……?」
動揺を隠せないまま、明は質問で返した。
「やっぱり姉さんだ……本当に……姉……」
感極まったらしく、途中で言葉が途切れる。
そのまま、大量の涙が夕の額を伝った。
「姉さん!」
それを拭おうともせず、夕は明の胸に飛び込んだ。
両腕を背中に回し、ギュッと抱き締める。
「姉さん……姉さん……会いたかった……五年間ずっと……!」
嗚咽を漏らしながら、夕は涙声で言った。
明は、戸惑いを払拭すると、夕を優しく抱き返す。
しかし、その瞳は、夕の様な喜び一色ではなかった。
騒ぎに気付いた人達の視線が、二人に集まる。
それでも、夕は明の胸に顔を埋めたままだった。
こうして、行きは二人だった買い物が、帰りは三人になった。
藤原は米を抱え、明はその他の荷物を持ち、夕は自分の荷物を持って、明の側を歩く。
誰がどう見ても嬉しそうな夕とは対照的に、明は気が気でない表情だ。
それでもやはり、妹の生活の様子が気になるらしく、彼女の持っている袋を覗く。
食材から察するに、どうやら和食が中心らしい。
恐らく、何年も日本を離れていた反動なのだろう。
――もう、ちゃんと自炊出来るのですね……。
明が覚えている夕は、握り飯一つ作る事さえ精一杯だった。
勉強に費やす時間の合間を縫って、自分が何度も指導したことを覚えている。
教えられた傍から淡々と飲み込んでいく学習風景とは対照的に、彼女は不器用だった。
何度も失敗して、それでも練習を重ね、頭以上に身体で覚える。
それらに取り組んでいる時の夕は、確かに輝いていた。
そんな彼女に、自分の料理捌きを見せつけて、姉さん風を吹かせたりもした。
……もっとも、彼女に勉強を教わる度に、そんな物は無に帰したのだが。
そんな思い出に浸っていた時、明の目に映ったのは、
――栄養補助食品、ですか。
この年齢で一人暮らしなのだから、毎食自炊と言う訳にもいかないのだろう。
やはり自然な食品が一番だが、仕方の無い事だ。
だが……。
――少し、多過ぎる様な……。
袋の半分を、栄養補助食品が占めているのだ。
流石に、これは度を超している。
「あ、あの、夕……」
「何、姉さん?」
明に声を掛けられ、夕は笑顔のまま顔を向けた。
「それ、どれくらいの割合で食べているのですか?」
明に問われ、夕は少し沈黙する。
質問の意味を理解すると、
「ああ、これ? 二日に一回くらい自炊して、後は全部これだよ。最近は色々と忙しかったから、どうしても……ね」
苦笑しながら答えた。
――これは重症ですね……。
あくまで補助に過ぎない食品が、これ程の割合を占めているとは。
仕事熱心なのは結構だが、それが身体を杜撰に扱う理由には成り得ない。
妹の現状を垣間見て、姉は早くも心配で心が満たされる。
ついさっきまで考えていた別の不安は、どこかへ飛んでいってしまった。
丁度二十分で、三人は藤原宅に到着した。
鍵を開け、ドアを開くと、
「お兄ちゃん、遅〜い!」
「幼女を焦らすとは……ふっ、お前もなかなかだな」
幼女と変質者が、玄関で迎える。
「……何故?」
色々な思いが交錯する中、藤原はそれだけを口にした。
返答次第では、ここに犯罪者が二人出来る。
「ふっ……俺の情報網は、広いだけでなく速いのだ」
「留守を守るのは、妻の大事な役目だもん♪」
答えにすらなっていない答えに、藤原は脱力した。
後者に至っては、現実と妄想の区別すら出来ていない。
電話を掛ける気力すら奪われてしまった。
溜め息を吐きながら、藤原は夢想家の目を覚まさせるべく米を預ける。
重さに耐えられず、彼女は尻餅をつき、そのまま押し倒された。
四肢をばたつかせながら何かを叫ぶ彼女を無視して、藤原は靴を脱ぐ。
「秋原さん、望月さん、人の家に無断で上がり込んではいけません」
アリスに伸し掛かる米を退かしながら、明はやんわりと二人を咎めた。
被害者が加害者に接する時の口調とは思えない。
「ふっ……まあ、そう言うな明さん。俺達は最早、家族も同然ではないか」
「そうそう。ボクに至っては妻だしね」
そして、加害者が被害者に接する時の口調とも思えなかった。
藤原は無言で、アリスにリベンジのチャンスを与える。
大方の予想通り、挑戦者の二連敗となった。
「あ、将棋部の秋原君と、侵入部員の望月さんだ。どうしたの、こんな時間に?」
アリスに伸し掛かる米を退かしながら、夕は二人に尋ねる。
どうやら、一度会った人の顔は忘れない畑の人らしい。
「この辺りで夕先生の目撃情報があってな。拠点としてここを選んだのだ」
「『旦那様を迎える新妻』を、一度やってみたかったんだ♪ お兄ちゃん、ご飯にする? それともお風呂? もちろん、ボ・クだよねー♪」
どちらも相当身勝手な理由だった。
藤原は、無言で三連戦を課す。
結果は、大方の予想通りだ。
「折角ですし、少しゆっくりしていってはいかがですか?」
「ふむ、俺も色々聞きたいしな……そうさせて貰おう」
明の寛容な提案に、秋原は賛同する。
明に許可を請われ、藤原はやむを得ず了承した。
明と夕と秋原が、先にリビングへ入っていく。
藤原は、未だ格闘中のアリスの側に行き、しゃがみ込んで目を合わせる。
ここぞとばかりに、アリスは潤んだ瞳で訴えた。
「……何か言う事は?」
「流産しちゃうよぉ……」
「…………」
溜め息を吐きながら、藤原は次の対戦相手を探す。
身の危機を察したアリスは、
「ご、ごめんなさい……」
「判ればよろしい」
「紅茶をお持ちしました」
明は買い物の品を片付けると、紅茶を煎れ、四人が囲むテーブルに置いた。
テーブルを囲む様に配置されている椅子には、藤原達が座っている。
藤原の隣はアリスが占め、更にその隣には秋原、向かいに夕と言う位置関係だ。
三人が並んで座るには少々厳しいが、アリスが藤原に密着する事によって解決している。
明は四人に紅茶を配り終えると、、自分の紅茶を持って、夕の隣に座った。
「しかし、本当に夕先生が明さんの妹とはな……世間とは狭い物だ」
秋原が、半ば独り言の様に、しみじみと呟く。
「私も、まさかこんな所で姉さんに会えるなんて、全然思わなかった。だから……言葉では言い表せないくらいに嬉しい。本当に、只、嬉しい」
そんな秋原に答える様に、夕は言う。
言葉通り、心の奥底から喜びが溢れてきているかの様な、そんな声だった。
「おや、夕先生。今はタメ語で良いのか?」
「うん。プライベートまで堅苦しい言葉使ってたら、お互い息苦しいでしょ? 皆も、こう言う時は気を回さなくて良いから、楽にして」
秋原の問いに、夕は優しい笑顔で答える。
この辺りも、姉によく似ている様だ。
只、姉よりも若干くだけた感じと言うべきか。
それとも、公私をハッキリと分けるタイプと言う方が正しいであろうか。
「アカリンとゆーちゃんって、どれくらい会ってなかったの?」
早速、アリスが軽い口調で尋ねる。
「姉さんが、中学卒業してすぐに実家離れたから、五年くらい。……ゆーちゃん?」
その質問に答えた後、夕はアリスに尋ね返した。
「夕だからゆーちゃん。……ダメかな?」
「う、ううん。そう言う風に呼ばれた事、今まで無かったから」
アリスに躊躇いがちに問われ、夕は少し焦って答える。
おいおいいきなりか、と言わんばかりに、藤原は溜め息を吐いた。
「……それにしても、五年ぶりか。そりゃあ、スーパーの真ん中でも泣くよな」
「そ、そう言う意地悪な事言わないの!」
後になって思い返すと恥ずかしいらしく、夕は藤原を咎める。
「まあ、アリスに至っては絞め殺そうとしたからな。ずいぶんマシな方だろ」
アリスとの邂逅を思い出しながら、藤原は言った。
八年ぶりなのだから普通の対応なのかも知れないが、受け身になる方はそうも言っていられない。
もちろん、その後が大問題だったのだが、だからこそ今のアリスが在るとも言えるだろう。
「あの様子だと、別れる時とか壮絶だったんじゃないのか? アリスの時は半端じゃなかったからな……」
八年前の事を思い浮かべながら、藤原は問う。
昔の事だからこそ簡単に言えるが、もう二度とあの様な状況は御免だ。
今思えば、初めて感極まった人の恐ろしさを知った日でもある。
「……うん、泣いたよ。号泣した」
暫くの間の後、夕は沈んだ声で答えた。
やはり、余り思い出したくない事らしい。
だが、表情はすぐに元に戻る。
「……でもね、いつまでも泣いていられないなって、結構すぐに立ち直ったの。いつまでもそんな状態なのは、只の我儘だから。だって、姉さんはその前に」
「夕!」
ずっと黙っていた明が、突然夕の言葉を遮る。
唐突な出来事に、全員の心臓が跳ね上がった。
「……す、すみません」
我に返ったのか、明はばつの悪そうな表情を浮かべる。
「夕、その事は無闇に口外しないで下さい」
そして咎める様に言った。
いつもとは様子が違う明に、三人は驚くばかりだ。
夕が、果たして何を言おうとしたのか。
三人共疑問に思ったが、三人共尋ねる事が出来なかった。
「ごめんなさい。でも……」
「確かに隠す様な事ではありませんけど、言う必要がある事でもありません。当事者である私が拒む以上、貴女が勝手に口外する事は許されません」
夕の発言を覆う様に、明は言い放つ。
いつもの彼女からは想像出来ない程に、棘の有る声だ。
その発言を受けて、夕の表情が一気に変わった。
「『当事者』……? そんな言い方無いよ! いくら姉さんでも! 辛かったのは姉さんだけじゃないんだよ!? 私だって、本当に、本当に……!」
激しく抗言する途中で感極まったらしく、瞳に大粒の涙が浮かぶ。
そんな状況を収めたのは、
「まあ、取り敢えず今は保留としようではないか。身体が再会したところで、心が離れ離れになってしまっては無意味だ。ここは、地雷を踏んだ藤原が謝罪して終わるとしよう」
秋原だった。
「え、俺!? ……す、すみませんでした」
色々とツッコみたいところだが、そう言う状況でもないので、取り敢えず頭を下げる。
「……すみません。熱くなり過ぎました」
「ごめんなさい。私が軽率だったよ」
そんな藤原を見て、明と夕は我に返った。
目の前で繰り広げられた修羅場の余波が、部屋に漂う。
ピリピリとした重苦しい空気が、否応無しに感じられた。
「アカリンとゆーちゃんって、昔はどんな娘だったの?」
それを振り払うべく、アリスは話の方向を変える。
この空気を払拭したいのは、誰もが同じであった。
故に、強張っていた明と夕の表情も、次第に元に戻る。
「姉さんは、小学生の頃から何でも出来る人だったよ。スポーツは万能だし、料理も上手だし、人当たりが良いし、生徒会長にも抜擢されたし」
「そ、そんなに誉められる程では……」
「でも、全部事実だよ? ……まあ、そう言う控えめなのも良いところだけどね」
「ですが、学業は夕に適いませんでしたよ。テストの前は、よくお世話になりました」
誇らしげに語る夕に、明は恥ずかしそうに謙遜する。
そんな様子を見て、三人は胸を撫で下ろした。
やはり、この二人は元々仲が良いのだ。
でなければ、こうもすぐに相手の良いところを言えはしない。
多少行き違うことはあるとしても、それは人が二人以上集まれば、自然現象だ。
築き上げた関係に亀裂が入った時の、修復の速さこそ重要と言える。
「それにしても、夕が教師ですか……。年齢もそうですけど、大変ではないですか?」
明がしみじみと呟き、夕に尋ねる。
「うん! 大丈夫!」
夕は、元気な声で答えた。
が、
「……本当は、少し不安だよ。この年齢だから、教員免許を取り上げられるかも知れないし。私の伝えたい事が、本当に生徒達に伝わるかも判らないし……。……ダメだよね、いきなりこんな弱音吐いたら……」
すぐに脆い部分を露見させる。
学校での凛とした表情からは、とても想像出来なかった。
だが、それだけ素の部分を見せているとも言える。
大衆の面前では、必死に弱音を隠していたのだろう。
それがとても上手だったから、仮面の裏側の表情に、誰一人として気付かなかったのだ。
「まあ、誰しも少なからず不安を抱えて生きているものだ。社会での上手な生き方は、ググっても載っておらんからな。自分なりのやり方を、実践で覚える以外に無かろう。自分で決めた道なら、他者の心無い言葉など気にならん筈だ。自分の人生は自分の物だ。自分を信じずに何を信じる事が出来ようか」
そんな夕に、秋原が言う。
一箇所怪しい部分があるが、それなりにシリアスな場面なので、誰も言及しない。
「秋原君……!」
当の本人が感銘を受けているのだから、気にする必要も無さそうだ。
明も秋原の意見に賛成らしく、うんうんと頷く。
「……要は、無い胸張って生きろと言う事だ」
だが、それもこの一言で台無しだ。
ある程度予想していたとは言え、藤原は溜め息を吐いた。
夕は頬を紅くし、思わず両腕で胸を隠す。
「なに、心配せずとも、それはそれで十分に需要が在る。一見、アリス嬢と被っている様にも見えるが、それは浅はかな考え! 夕嬢の『貧乳』と、アリス嬢の『ロリ系』や『つるぺた』は別物だ。ロリ系とは、年齢に対して全体的な容姿が幼い者。つるぺたとは、年齢やその他身体の成長度合いから考えて、もともと膨らんでいない者。対して貧乳とは、年齢や身体的特徴を考慮した時、発育すべき胸だけが成長していない者の事を指す。最近『微乳』と呼ぶ者も増えてきているが、小さい胸を愛する心が有れば、呼称など大した意味を持たん。ギャップに魅せられた心こそ、漢にとって生涯の宝なのだ! 無論、明さんの様な『巨乳』の人気は絶大であり、それを否定する気は毛頭無い。只、『大は小を兼ねる』は、胸に関してはその限りではない、と言う事だ。大きい事は良い事であるし、小さい事もまた、良い事なのだ。『十七歳の貧乳教師』……うむ、キャッチフレーズとしてはまあまあだな」
「お前……慰めたいのか? 止めを刺したいのか?」
やたら『貧乳』と連呼する秋原に、藤原は呆れながらツッコんだ。
秋原の言葉は、既に夕の心をグサッと貫いている。
「……会った時から判ってたんだよ、『更に差をつけられた』って……うん。昔から、一緒にお風呂に入ったりする度に、追いつけそうも無いなって思ってたし。……でもね、血が繋がっているんだから、私にも可能性は有るかな……って。十五歳くらいまでは信じてたんだけどね。朝起きたら突然……って言うの。判ってたけどね、そんな訳無いって。でも、やっぱり信じたいでしょ? でも、これはこれで便利なんだよ? 邪魔にならないし、肩凝らないし、それに……」
夕は、今までで一番暗い表情で、自虐的な口調で話し始めた。
彼女から放たれる負のオーラが、部屋中を満たしていく。
「ゆーちゃんもそうなの……? じゃあ仲間だね……。ボクも、毎年身体測定が怖いんだよ。……体重計じゃないよ? 全然増えないから。結構努力したんだよ? ぶら下がったり、牛乳飲んだり……」
更にアリスにも伝染した。
彼女もまた、暗い表情で負のオーラを放つ。
秀麗なボディラインを誇る明には当然伝染しないが、それ故に戸惑いを覚える。
「あ、あの……私はどうすれば……?」
「多分、何をやっても逆効果だと思う。明さんなら余計に」
「では、そろそろ帰るとしよう。いつまでも居ては邪魔になるからな」
「じゃあ、ボクも」
どうにか夕とアリスの傷が癒え、秋原とアリスは帰る準備を始めた。
大した荷物も無いので、すぐに準備が整う。
「ふっ……お前もこれから大変だな、藤原。明さんと夕嬢……どちらを選ぶか、精々悩むが良い。なに、いざという時はハーレムエンドを選べば良いのだ。双子のヒロインに多いのだが、あの二人なら在っても不思議ではない」
「何の話だよ……」
藤原と秋原がそんな遣り取りをしている間、
「良い、ゆーちゃん? お兄ちゃんと既成事実を作る様な真似だけはしないでね」
「き、きせーじじつ……?」
「じゃ、ナイチチ条約締結♪」
「な、ないちち……?」
アリスは夕に一方的な約束事をしていた。
こうして、不法侵入者二人が帰っていく。
人数が四十%減っただけで、喧騒が八十%は削減された気分だ。
「夕はどうしますか?」
まだ残っている夕に、明が尋ねる。
余り遅くに帰らせるのは、十七歳の少女には少々危険だ。
ちゃんと予定を聞いておかなければ、後で面倒になる。
夕は腕を組んで、暫く考える。
その表情は、数多の選択肢から選んでいる最中のものではなく、既に決めた何かを実行するか否かで迷っている時のものだった。
そして、組んでいた手を解く。
「今晩、ここに泊まっても良いかな? 姉さんと一緒に居たいんだ」
「ダメです」
夕の頼みを、明は一蹴する。
基本的に寛容な彼女にとっては、珍しい対応だ。
「ここは光様の家です。私達の都合で、迷惑を掛ける訳にはいきません」
「…………」
明のもっともな言葉に、夕は何も言い返す事が出来なかった。
今日から、自分も社会人なのだ。
公私を混同してはいけない事は、ちゃんと理解しなければならない。
「……ま、別に良いんじゃないか?」
そんな二人に、藤原が割って入った。
夕も明も、驚いて藤原の方を向く。
「し、しかし光様……」
「折角会えたんだ、積もる話も有るだろ? 部屋ならどうにかなるだろうし」
「うん、うん!」
明を説得する藤原に、夕は嬉しそうに同意する。
その表情は、十七歳の少女のそれだ。
「俺は気にしないから、少しくらい甘えさせてやっても良いんじゃないか?」
「……光様が……そう仰るのでしたら……」
とうとう、明は折れた。
「やったぁ! じゃあ私、泊まる準備してくるね!」
言葉通り喜びを露にしながら、夕は藤原宅を飛び出していく。
自分が買った物を置いていく程だから、余程嬉しいのだろう。
明が追いかけようとしたが、既にその背中は見えなくなっていた。
あっと言う間に二人になり、藤原家に静寂が戻る。
だが、それも夕が戻ってくるまでの、束の間のことだろう。
藤原は大きく息を吐いて、椅子に座った。
「紅茶、いかがです?」
「ああ、頼む」
明は、湯を沸かすべくキッチンに向かった。
「嬉しそうだったな、夕」
「ええ。食生活が偏っている様ですし、丁度良いのかも知れませんね」
「お袋の味ならぬ姉の味……か」
その遣り取りの後、暫くは静寂がリビングとキッチンを支配する。
藤原は特に何をするでもなく、明は薬缶と火を見ていた。
水が湯に変わる間際の音がし始めた頃、明が口を開く。
「……何故、夕の宿泊を許可したのですか?」
「夕の為と、明さんの為だ」
「私の……為……?」
藤原の言葉を繰り返しながら、明は首を傾げた。
「夕に会った時の明さん、嬉しいと言うよりも戸惑ってるって感じがしたから。それからもずっと……何となくだけど、様子が変だった。昔、何かあったのか? 再会を素直に喜べなくなる様な何かが」
「…………」
藤原の問いに、明は沈黙する。
どうやら、黙認と解釈して良さそうだ。
藤原がそう思い始めた時、明は再び口を開いた。
「……ある所に、一人の女性が居ました」
物語調だ。
「その女性は、紆余曲折あって、中学卒業後は実家を離れる事になっていました。理由は、言葉通り色々あるのですが、今は置いておきましょう。旅立ちの日、私はとても早く起きました。暁よりも早起きでした。時計がデジタルなので、見た時に四時十八分三十六秒であった事は、今も覚えています。起き上がろうとした時に、身体に何か温かい物が纏はりついている事に気付きました。それ程掛からずに、すやすやと眠っている女の子の顔が目に映ります。昨晩、一緒に寝たいと泣きついてきた妹でした。十二歳にもなって……と女性は思いながらも、彼女の意を汲んでそれを許可したのです」
「明さんと夕……って事か?」
「……御想像に任せます」
藤原の問いに、明は暗い表情で答えた。
恐らく、肯定と思って良いのだろう。
更に明は続ける。
「抱き枕の様な状況にあった彼女は、妹を起こさないように腕を解きました。……とは言っても、妹は寝起きが悪く、多少の事では起きないのですが。目覚ましが鳴らないようにすると、女性は着替え始めました。パジャマを脱ぎながら、彼女は思います。あと数時間で、妹ともお別れなのだと。服を着ながら、彼女は思います。妹を起こしてしまったら、お互い別れが辛くなる、と。着替えが終わり、身形を整えた頃には、彼女は決めていました。このまま、妹を起こさずに発とう、と」
「つまり……夕が『号泣した』って言ってたのは……」
「……今は……何も訊かないで下さい」
明は言及を拒んだが、想像は容易だ。
夕が『号泣した』本当の理由は、恐らく……。
「まだ十分に時間が有るので、女性は妹の隣に、顔を合わせるように寝転がります。十センチ程の空間を隔てて、妹の寝顔が見えました。女性は、妹の頭をそっと撫でてあげます。まだ一緒に寝ていた頃から、よくこうしてあげていました。妹が何かを成し得た時にこうすると、更に嬉しそうに笑ったからです。妹が泣き出した時にこうすると、少しそれが緩和したからです。妹の顔を見ながら、女性は色々な事を思い出します。勉強ばかりの妹に、その他の大切な事を、知り得る限り教えました。綺麗な髪を切らせたくなかったので、勉強時は私の余りのリボンで結ってあげました。雷の夜に、泣き叫びながら妹に抱き付いていた時、妹の頭を撫でられました。世話ばかり掛かる妹だと思っていましたが、実は同じくらい支えられてもいました。その事に気付いた時には、女性の瞳からは涙が溢れていました。自分が妹から逃げる様に発ってしまう事が、とても甘受出来なかったからです」
少しずつ、明の言葉が感情を帯び始める。
薬缶から湯気が噴き出し、明は火を止めた。
湯をカップに入れ、カップを温める。
少しして、カップの湯を捨て、ティーバッグと新しい湯を入れた。
じわりじわりと、湯が紅く染まっていく。
紅茶特有の高貴な香りが、少しずつ部屋を泳ぎ始めた。
そして、明は更に話を続ける。
「……しかし、もし妹を起こせば、どうなるでしょう。別れの際、きっと泣き付いてくるでしょう。離れたくない、とも言うでしょう。そうなった時、女性は強く突き放す事が出来ると言い切る自信が有りませんでした。それでもやはり、妹から逃げてしまうのです。妹の涙から逃げてしまうのです。その事実は、如何な理由であれ変わりません。自分は何て弱虫な人間なのだろう、と強く自分を責めました。もう少し強ければ、自分は勿論、妹も泣かせない方法が在るかも知れないのに。そう思うと、尚更涙が溢れてきました」
「そこまで解っていたのに……どうして……」
「…………」
藤原の言葉に、明は何も答えなかった。
只、沈んだ表情で淡々とそれを受け止めた。
恐らく、本人が最も自覚しているのだろう。
だからこそ、尚更辛い。
如何な感情も、認識する事から始まるのだから。
尚も明は続ける。
「……ふと、女性はある事を思いつきました。立ち上がり、髪を結っていたリボンを解きます。代わりに、妹が最も好んで使っていた、純白のリボンで髪を結いました。そして、ついさっきまで自分の髪を結っていたリボンで、妹の髪を結いました。……妹は眠っている状態なので、結構苦心しましたが。これが、女性が妹にしてあげられる精一杯でした。妹なら、きっとリボンの意味を理解してくれる。そう確信し、女性は荷物を持って、部屋のドアを開けました。廊下への最初の一歩を踏み出す前に、女性は言います。……さようなら、と。そして、その時になってようやく気付きました。自分は、この一言を、面と向かって言う勇気が無かったのだ、と。溢れ出す涙を拭わずに、女性は部屋から出ていきました。それ以来、女性は一度も妹に会う事がありませんでした……今日まで」
話を終えると、明はカップからティーバッグを出した。
砂糖を入れ、スプーンで掻き混ぜ、リビングに持ってくる。
既に置いてあったコースターの上に、カップを置いた。
藤原は無言でカップを手に取り、紅茶を啜る。
今の明の心情を映した様な、ほろ苦い味だった。
「……さっきまで、ずっと嘘吐いてたって事か」
「はい。……彼女を傷付けたくありませんでしたから」
明の答えに、藤原は小さく溜め息を吐く。
「私は、もう彼女の姉を名乗る資格なんて無いんです。彼女の思いから逃げて、傷付けてしまった私には、もう……。ですから、身体の代わりにリボンを預けたんです。あの娘の中に居る『私』は、私よりも心強くて、頼りになる筈です。思い出に住まう人間は、持ち主の思い通りに美化されますから。何も告げずに逃げる様な軟弱さなど、持っている筈がありませんから」
明は、感情を押し殺す様に淡々と述べた。
それは、まるで自分に言い聞かせている様でもあった。
藤原は少し黙った後、
「本当に……本当に、そう思っているのか?」
咎める様に言う。
明は何も言い返さず、俯いたままだった。
そんな明を見て、藤原は再び溜め息を吐く。
「夕が本当に望んでいるのが何か、まだ解らないのか? 思い出と戯れる事が夕の幸せだなんて、本当に思っているのか? ……結局、明さんは逃げているだけじゃないか。自分が負い目に感じている事を、突き付けられるのが怖いだけじゃないか。すぐに、必ず勘付かれるぞ。上っ面だけの対応なんて。そうなれば、夕は尚更傷付く。大切な人に避けられているなんて知ったら、当然だ」
そこまで言って、藤原は紅茶を少し飲む。
明は、ずっと黙ったままだ。
更に藤原は続ける。
「本当に夕に悪い事したって思っているなら、他にする事があるだろ。大切な人に居て欲しい場所は、思い出の中なんかじゃない。呼んだらすぐに応えてくれる様な、いつでも互いの気持ちを確かめ合える場所だ。夕は、自分からそこに行こうとしているんだ。明さんに近付こうとしているんだ。それくらい、あの様子見たら判るだろ? ……夕が来るまでに、その辺り考え直した方が良い」
藤原はそう言い放つと、残りの紅茶を飲み干し、リビングを出ていった。
階段を上る音がしたから、自分の部屋に戻ったのだろう。
藤原が去った後も、明は暫くその場に立ち尽くす。
時計の秒針が動く音だけが、部屋に響いた。
「……夕……私は……」
「ただいま!」
一時間も経たないうちに、玄関から元気な声が聞こえた。
チャイムも鳴らさずに入って来られたので、藤原と明は慌てて迎える。
「は、早かったな……」
「帰りは自転車で来たんだ。通勤も自転車だよ」
どうやら、ここから通勤するつもりらしい。
そして、藤原はある事に気付く。
「お前、『ただいま』だの『帰り』だの……」
「…………? 何かおかしい?」
「いや……もう良い……」
当たり前の様にここを自宅扱いする夕に、藤原は言及する気すら失せた。
破損物さえ出さなければ、秋原達よりはマシだろう。
姉が居る手前、勝手な事はするまい。
「……夕」
「何、姉さん?」
明に声を掛けられ、夕は目を合わせる。
明は何か言おうとしたが、少し躊躇った。
夕は、じっと明の言葉を待っている。
どうにか体勢を整えると、
「……お帰りなさい」
優しい声で言った。
いつも通りの、曇りの無い声だ。
夕は嬉しそうに笑って、
「姉さん、ただいま♪」
「さて、夕食は何に致しますか?」
夕の部屋を整え終えて、明は藤原と夕に尋ねる。
その顔には、いつもの優しい笑顔が戻っていた。
藤原が何か言おうとする前に、
「和食! ご飯! 味噌!」
夕が詰め寄る様に言い放つ。
明は苦笑して、
「光様も、それでよろしいですか?」
藤原に尋ねる。
特に反対する理由も無かったので、藤原も苦笑しながら了承した。
「ちゃんと手伝うから、一緒にやらせて」
そう言いながら、夕は半ば強引に明を連れて、キッチンに入る。
明は少し困った表情をしながらも、溢れ出す喜びを抑え切れない様だった。
藤原は、そんな二人を見て安堵する。
やはり、大切な人同士は、こう在るべきだ。
身体も、心も側に在るべきなのだ。
お互いに歩み寄れば、それは決して難しくない。
自分に正直ならば、自然とそうなる筈だ。
現に、今の明と夕がそうなのだから。
大切な人と一緒に居る事が出来るのならば、なるべくそうした方が良い。
側から居なくなってからでは、遅過ぎるのだ。
声が届かなくなってからでは、遅過ぎるのだ。
藤原がそんな事を考えていた時、夕が冷蔵庫を開ける。
真っ先に目に映ったのは、一角を占拠しているコーヒーだった。
「な……何……これ……?」
「秋原がコーヒー好きだから、ストックさせられてるんだよ」
少し驚きながら尋ねる夕に、藤原は溜め息混じりに答える。
最近は、明の紅茶のお陰でそうでもないが、一時は凄まじいものだった。
数種類のメーカーの缶コーヒーが、一段を制圧していた事もある。
藤原の両親は、あまり家で食事を摂らなかったので、特に何も言われはしなかったが。
「夕はコーヒーが苦手ですし、誤って飲む事は無いと思いますよ」
「ね、姉さん……」
明に言われ、夕は頬を紅く染めながら咎める。
苦味が苦手なのは、何となく子供っぽい気がするからだ。
だが、もうその言葉を取り消す事は出来ない。
「ふーん、アリスと一緒だな。あいつも無理なんだよ、コーヒー」
「嘘!?」
藤原の一言に、夕は驚愕した。
コンプレックスである、姉に似る事の無かった数少ない部位、胸。
その原因が、何となく掴めたからだ。
「そうか……これが……!」
夕は冷蔵庫に手を入れ、缶コーヒーを一本取り出す。
砂糖もミルクも一切入っていない、ブラックコーヒーだ。
……勿論、科学的な根拠は一切無い。
だが、世の中には解明されていない事が多々在る。
特に好まないとは言え、問題なくコーヒーを飲める明。
自分と同じく、コーヒーが全く飲めないアリス。
この二人を照らし合わせて考えた時、浮かび上がる答えは……一つ。
「これで……私も……!」
緊張した手付きで、缶コーヒーを開ける。
同時に、コーヒー豆の香ばしい香りが鼻を突いた。
これから自分がしようとしている事を改めて認識し、思わず息を呑む。
だが、躊躇はしない。自分を変える為ならば。
教師として教壇に立つ為、苦味と貧乳を克服し、大人に一歩近付くのだ。
今までありがとう。そしてさようなら、幼かった自分。
「目標は姉さん! ……のちょっと下くらい……」
下着だけはお下がりを着られなかった事を思い出しながら、ゆっくりと口へと近付けていく。
あの頃は受け入れられなかった、大人の味。
しかし、もう自分は十七歳。しかも教師。即ち社会人。
アメリカで読んだ文献の三十八ページによると、日本女性は十七の夏に『オトナ』になる。
引換に何かを失うらしいが、更に今は夏ではないが、そんな事はどうでも良い。
姉の背を追うのは、妹の宿命。ならば、姉と同じ『オトナの女』を目指すのも宿命。
覚悟を決めると、夕は恐る恐る飲み口に口を付けた。
缶の中身が舌に触れると同時に、
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!?」
「ゆ、夕!?」
夕はその場で悶絶する。
「ま、いきなりブラックは無理だろうな……」
当然の結果に、藤原は苦笑しながら呟いた。
オトナになり損ねた夕に水を飲ませると、明は冷蔵庫の中を覗く。
確か、夕が魚を買っていた筈だ。それを使おう。
そう決めると、袋に入っていたパックを取り出す。
パックの中には、大きな口とゴツゴツした頭が特徴的な、紅い魚。
「……か、カサゴ?」
色々とあったが、夕食は無事に出来上がった。
夕の希望により、和風を中心にした料理が並んでいる。
この日の夕食は、千切りにした野菜の味噌汁に、夕が握ったと思われる握り飯。
何故夕食に握り飯なのかは、訊けそうな雰囲気ではない。
トマトとレタスのサラダには、輪切りにした茹で卵が飾られている。
「この煮付け美味しいな……あんまり見ない魚だけど」
「そ、そうですか。ありがとうございます」
最初は少々驚かされたカサゴも、どうやら問題無いらしい。
「そう言えば、姉さん」
「何ですか?」
食事の途中、夕が明に尋ねる。
「姉さんはどうなの? メイドになって。姉さんが私を心配するなら、私だって姉さんが心配だよ」
「私‥…ですか。決して楽ではありませんけど、相応の充実感があります。生涯の約半分は労働に捧げるのですから、大切にしたいですね。仕事を通じての出会いや、それによって生ずる様々な何か、を」
夕の問いに、明は優しい、それでいて毅然とした態度で答えた。
強い意志で仕事をしている者の、どこまでも真っ直ぐな答えだった。
「そう……良かった。私が心配する事じゃなかったね」
そんな答えに、夕は安堵の表情を浮かべる。
「でも、やっぱり大変なんでしょ? 特に男性相手だと。アメリカで読んだ文献の七十二ページによると、男性に仕えるメイドは、『夜のお相手』や『朝のご奉仕』をしないといけないらしいし」
夕の言葉に、藤原は飲んでいたお茶を吹き出した。
――意味解ってて言ってるのか!?
これは、『“知っている”と言う無知』とでも言うべきだろう。
『知ったか振り』と言う言葉も在るが、それは何となく違う気がするからだ。
今のうちにどうにかすべきなのだろうが、明が居る手前では、犯罪になるかも知れない。
慎重に言葉を選べば選ぶ程、藤原の語彙は削られていく。
いっそ、秋原やアリスの様に、何でも平気で口に出来る様になりたい気さえするが、そんなキャラではないし、第一あんなキャラになったらお終いな気がする。
「夜のお相手……朝のご奉仕……どう言う意味でしょう? 教わった覚えが無いですし、以前仕えていた方にも要求されませんでしたし……」
当の明は、意味が全く解らない様だった。
『AV』の意味さえ解らなかったのだから、当然だろう。
「……夕、解りますか?」
「ううん、全然」
どうやら、姉妹揃ってこう言う知識は皆無らしい。
知らないからこそ、ここまで無防備な発言が出来るのであろうが。
二人の目線が、藤原に向けられる。
藤原は、内心とても焦りながら、
「お、俺も知らないけど……まあ、今でも十分世話になってるし。それが何にせよ、今まで必要無かったって事は、これからも要らないんじゃないか?」
上手く話を纏めた。
発言の意味を自覚していない辺り、この二人はアリスよりも質が悪いかも知れない。
そんな不安を抱きつつも、健全な食卓に戻ったので安堵した。
「……あ、夕、ご飯粒が付いていますよ」
「え? どこどこ?」
明に言われ、夕は口の周りを触る。
だが、なかなかご飯粒を探り当てる事は出来なかった。
見兼ねた明は、小さく溜め息を吐いて、
「ほら、ここですよ」
夕の頬に付着していたご飯粒を取った。
恐らく、握り飯を食べている時に付着したのだろう。
「他人が見ている前で、恥ずかしいですよ」
「ご、ごめんなさい。姉さんと食べるの久しぶりだし、姉さんが炊いたお米が美味しかったから……」
夕がそう言って謝ると、明は頬を少し紅く染める。
「た、炊いたのは炊飯器ですから……」
「でも、洗ったのは姉さんだよ? 洗い方で結構違ってくるし」
「そ……そう……ですか……」
どこまでも淀みなく褒めちぎる夕に、明は頬を更に紅くした。
そんな光景を、藤原は楽しそうに見ていた。
夕が居ると、とにかく家が賑やかだ。
夕自身もそうだが、明も、夕の前では表情がコロコロと変わる。
自分と二人の時では、こうもいかないのだ。
それだけ、姉妹の絆が強いと言う事だろう。
それに、こうして食事中に色々と話す事自体、藤原にとっては希薄である。
両親の仕事の都合上、孤食が習慣化していたからだ。
それが嫌だったと言う訳ではない。
只、時折訪れる閑寂とした空気が、とにかく虚しかった。
……もっとも、今となっては、寧ろ騒がしい程なのだが。
「俺も、兄弟とか欲しかったかな……」
そんな事を考えていた所為か、思わずそう漏らしてしまう。
「血が繋がっていれば仲が良い、とは限らないと思いますよ。一人っ子の方が良かった、と言う方も少なくありませんし」
「でも、俺の周囲に兄弟居る人って居たっけな……?」
そう言いながら、藤原は腕を組む。
「そう言えば、文献の百七ページによると、日本の兄妹の大半は義妹が」
「あ、明日はいつもの部室が使えないんだった。堀に連絡しておかないと」
夕の発言を覆う様に、藤原は言った。
「兄貴ー、藤原って人からメール来たぞー」
「後で見ますから置いといて下さい。……携帯を覗く女性は好かれませんよ」
藤原家の夕食も終わり、各々が自由に行動していた。
明は夕食の片付け、夕は教師の仕事、藤原は特に何もせずにくつろいでいる。
散々騒いだ後に、自然と訪れる静寂。
それは、決して気まずいものではなく、寧ろ安心感を漂わせていた。
「……お風呂、どうします?」
明が片付けを終わらせた後、それは破られる。
「姉さん、一緒に入ろうよ」
「し、しかしまだ仕事が……」
夕の誘いに、明は戸惑いがちに言った。
もう今更仕事を気に掛ける意味も無い気がするが、やはり躊躇してしまう。
ある意味、最後の牙城の様な感じだ。
「別に良いんじゃないか? 仕事なら後でも出来るだろうし」
「……今日の私、師匠が見たら何と言うでしょうか……」
溜め息混じりに、明は折れた。
どうやら、今日は『姉』として振舞う事になりそうだ。
夕は、嬉しそうに入浴の準備を始めた。
鞄の中から、寝巻と思われる服やタオルを取り出す。
あっと言う間に準備を終えると、夕はリビングを出ていった。
「姉さん、早く早く!」
「は、はい………」
夕の呼びかけに応え、明は夕を追いかけていく。
「……光様」
「何?」
部屋を出る一歩手前で、明は立ち止まった。
伸びをしながら、藤原は応える。
「今日の事は……感謝の言葉もありません。
光様のお諫めが無ければ、私は夕の気持ちに気付く事が出来ませんでした。
本当に……本当に、ありがとうございました」
「そんな大袈裟な。俺は只、退屈な話をしただけだよ」
頭を下げる明に、藤原は苦笑しながら言った。
そんな藤原に、明は微笑む。
「光様にも、大切な方がいらっしゃるのでしょうね。でなければ、あんな事すぐに言えないでしょうから」
「さあ、な。……そろそろ行ったらどうだ。夕が待ってるぞ」
「はい」
明は会釈して、リビングを去っていった。
一人になり、本格的に静かになったリビング。
藤原は、新聞を手に取り、椅子に身を預ける。
「大切な人、か……」
自嘲気味に呟きながら、藤原は新聞を広げた。
秒針が動く音と、新聞を捲る音だけが、部屋に染み入っていく。
「……部長……」
「姉さん、遅ーい」
明が浴室に入った時、既に夕は湯船に浸かっていた。
寝巻を取りに行っている間待たせた所為か、不満げな表情を浮かべている。
だが、それも束の間の事で、すぐにくつろいだ表情になった。
「やっぱり日本のお風呂が一番かな〜。アメリカのは、あんまり浸かることを想定してないから」
身体を目一杯伸ばしながら、夕は呟く。
「そうですか。やはり、アメリカのお風呂は浅いのですか?」
掛け湯をしながら、明は夕に尋ねた。
「うん。あっちは洗う事優先だから。ゆっくりするのには向いてないよ」
夕の答えを聞きながら、明は髪を上げる。
普段は髪に隠れている背や項が、露出される数少ない時間だ。
明の目線で察した夕は、端に詰めてスペースを空ける。
そこに明が浸かり、隣り合う様な姿勢で落ち着いた。
二人同時に浸かったので、湯が湯船から押し出されていく。
波打ち際の様な音を立てて追い出された湯は、少しずつ排水溝へ飲み込まれていった。
少しの間、二人は無言で湯に身を委ねる。
一日分の仕事疲れが、息を吐く度に放たれていく様な感覚だ。
「……良い人だね、藤原君」
「ええ。私もそう思います」
囁く様に言う夕に、明は同意する。
無理矢理押しかけてきた妹を、こうして泊めて貰っているのだ。
それだけでも、同意する理由には十分だ。
今回だけに限った話ではない。
時折、端から見ると冷たい態度をとる事もあるが、考えているのは常に相手の事だ。
アリスとの遣り取りを見ていると、それが良く解る。
手厳しい対応も少なくないが、それと同じくらいに大切に思っているのも明らかだ。
もしかしたら、只の照れ隠しなのかも知れない。
「ま、公私混合はしないけどね。居眠りしてたら白亜ぶつけてやるんだから」
冗談交じりに言う夕に、明は苦笑した。
「さて……髪洗おうかな……」
夕が湯船から上がり、水位が一気に下がる。
上げていた髪を解くと、長い髪が一斉に広がった。
髪を結わなければ、明との識別は殆ど不可能だろう。
「良ければ、背中でも洗いましょうか?」
「えっ、い、良いよ別に。もういい歳なんだし……」
明の誘いを、夕は戸惑いながら拒否する。
だが、その言葉には力がこもっていない。
そんな夕に、明は小さく笑った。
「髪とか、よく私が洗っていたじゃないですか」
「それは、シャンプーしている時に目を開けられないからで、今は……」
「シャワー出しっぱなしですか?」
「え……あ……う……」
どうやら図星らしい。
「それは困りますね。貴女の髪は長いですし、洗うのにも時間が掛かる筈です。他人の家で、資源を無駄遣いするつもりですか?」
「うぅ……」
茶目っ気の有る笑顔で問う明に、夕は何も言い返す事が出来なかった。
新聞も読み終わり、藤原はリビングでテレビを見ていた。
その途中、リビングのドアが開く。
「光様、そろそろお風呂が空きますよ」
「ああ、後で行くよ」
どうやら、明が先に上がってきた様だ。
藤原はテレビをみながら答え、声がした方を向く。
それと同時に、言い様の無い違和感を感じた。
確かに口調は明のそれで、寝巻の柄も明のそれだ。
ドライヤーで乾かしたばかりの長い髪も、明のそれと変わりない。
だが、彼女は……。
「……夕か?」
「え!? もう!?」
僅か数秒で見破られ、夕は取り繕う事無く驚いた。
「な、何で判ったの?」
「いや……だって……なあ……」
夕に問われ、藤原は言葉を濁す。
判る人なら一目瞭然な相違点が有るのだが、本人の前では言い辛いからだ。
だが、当の本人も、それ程掛からずに理解した。
「そんな見比べ方卑怯だよ……軽い気持ちでやっただけなのに……」
呟く様に藤原を非難しながら、夕は両腕で胸を隠す。
「夕!? 夕!? 私の着替えは!?」
脱衣所の方向から、戸惑いを隠せない声が聞こえた。
「では、残していた仕事があるので」
夕を叱った後、明はリビングを出ていった。
「怒られた……」
「あれで怒られない方がどうかと思うけどな」
青菜に塩の状態の夕に、藤原は溜め息混じりに言う。
「……さて、仕事仕事」
だが、夕はすぐに気を取り直し、テーブルにノートパソコンを置いた。
どうやら、色々とやる事があるらしい。
この歳で教師の職に就くのだから、当然なのかも知れないが。
「やっぱり、大変なのか?」
「藤原君がどう思っているかは知らないけど、教壇に立つまでにやる事って沢山あるんだよ。余所のクラス受け持ってる先生と、進度とかで話し合わないといけないし、教科書には載ってないけど大切な事を、どうするか考えないといけないし」
やはり、楽な仕事ではない様だ。
人を育てると言う事は、それだけ重大と言う事なのだろう。
「……そうだ、夕。プライベートはお互いタメ語で良いんだろ? だったら、夕もいちいち俺を君付けしなくて良いよ。こっちが気になるから」
「そう? ……うん、判ったよ、光」
藤原の提案を、夕は微笑んで快諾した。
その表情は明によく似ているが、こちらの方があどけない印象を受ける。
「……ああ、そっちで呼ぶのか」
あまり名前で呼ばれないので、藤原は一瞬戸惑ってしまった。
夕がパソコンの電源を点けると、お互いに少しの間沈黙する。
時計の秒針が動く音と、夕がキーボードを打つ音が、リビングに響いた。
「姉さんとは、仲良くしてくれているんだよね? 私の変装を見破ったくらいなんだから」
「あ、ああ……」
突然話を振られ、藤原は反射的に返事をする。
あの変装は、別に仲良くなくても見破られそうだが、それは敢えて胸の内に仕舞った。
『仲が良い』と言うのも何か違う気がするが、当初よりは解り合えたと思っている。
もちろん、明がどう思っているかは知らないが。
「明さん、雷が苦手なんだな。この前、夜に突然俺の部屋に来てさ……」
「あ、もう知ってるんだ。当然だよね、あんなに怖がるんだもん」
秋原やアリスの前では出来ない話に、夕は弾んだ声で応える。
「子供の頃からそうだったよ。いつもは頼りになるけど、雷だと全然ダメ。いつでも、どこでも泣きついてくるんだよ。どっちが年上なのか判らないくらい。でも、苦手が有る方が可愛いよね。人間味が有る……って言うのかな」
とても楽しそうに、姉の恥ずかしい話をする夕。
つまり、彼女のそんな弱味も受け入れているのだろう。
きっと迷惑を被った事もあるだろうが、それも含めて。
仲が良くなければ、到底不可能な話だ。
「確かに、コーヒーが苦手で貧乳を気にしている人は、人間味が有るな」
「……怒るよ」
「怒りながら言うなって」
宥めているのか挑発しているのか判らない藤原の言葉に、夕は膨れながら入力を続ける。
頭に血が上っている所為か、バックスペースを押す回数が一気に増えた。
――自分も、人の欠点楽しそうに話してたくせに……。
少し不公平な感覚を覚えながらも、藤原は謝罪の言葉を探す。
だが、その前に、再び夕から話を振ってきた。
「……姉さんってね、実は結構脆いところが有るんだ。……雷じゃなくて」
その口調は、さっきまでとは対照的なそれだ。
それでも、彼女の目線は画面に向いている。
「一度……姉さんが人間として壊れた事があった。でも私は、その時、姉さんに何も出来なかった。大切にされておきながら、私は姉さんの支えになれなかったんだ。……思えば、あの時に初めて、勉学しか出来ない自分に疑問を持ったんだっけ」
「ちょ……今、明さんが壊れたって……!?」
聞き捨てならない言葉が聞こえ、藤原は夕に詰め寄った。
だが、夕は画面の方を向いた。
絶対に答えて貰えない事を悟った藤原は、素直に引き下がった。
「姉さんに止められてるから、詳しくは言えない……。言えるとしたら、姉さんが『姉さんの全て』を失った事が、事の始まり。それだけ。……幸い、姉さんは殆ど自力で這い上がってきたけど」
夕は、自嘲的な口調で話を続ける。
その表情は、藤原が今日一日彼女を見てきた中で、最も暗いものだった。
「でも、もしかしたら、また壊れてしまうかも知れない。……一度あった事なんだから、二度目を考えるのは当然でしょ? 姉さんって、立てなくなるまで我慢する質だし。そして、もう私は姉さんの傍に居る事が出来ない。だから、これからは……光に姉さんを支えて欲しいの」
「な、何で?」
夕の唐突な頼みに、藤原は声が少し裏返る。
「今、姉さんと一緒に過ごす時間が一番多いのは、光でしょ。だから。……ほら、遠くの親戚より近くの他人って言うし。光なら、姉さんを任せても大丈夫かな……って」
ぎこちない笑顔で、夕は答えた。
本当は、自分自身で姉を支えてあげたいのだろう。
だが、現状では殆ど不可能だ。
住んでいる場所こそそれ程遠くないが、お互いに仕事がある。
歩む道が違う事は、想像以上に大きな隔たりだ。
十七年しか生きていない若輩の藤原でも、それくらいは理解している。
身を以て、痛いくらいに理解している。
だから、夕の笑顔と言う仮面の裏側も、自ずと理解出来る。
そんな藤原が出した返答は、
「……断る」
夕にとっては信じられないであろうものだった。
案の定、夕は固まったまま動かない。
そして、少しずつ仮面が剥がれていく。
「……どうして!?」
「生憎、俺は他人の面倒を見られる程に、出来た人間じゃないんだよ」
ようやく口を開いた夕に、藤原は淡々と答えた。
そして、藤原は更に続ける。
「自分の姉だろ? 自分が傍に居てやれば良いじゃないか。それ程難しい事じゃない。この家の現在の責任者を無理にでも言いくるめて、取り敢えず居着けば良い」
「…………」
藤原の言葉の意味に気付き、夕の表情が少しずつ明るくなっていった。
何か言おうとして、上手く言葉に出来ず、それを二回繰り返す。
「……週に三回くらい! 生活費とかちゃんと出すし、家事も手伝う!」
そして、一気に藤原に詰め寄った。
藤原は小さく笑って、
「考えとくよ。……先に風呂行ってくる」
言葉通り脱衣所へ向かう。
「良い返事、待ってるからね!」
その少し後、明がリビングに入ってきた。
「仕事、終わったの?」
「はい」
夕の問いに、明は簡潔に答える。
冷蔵庫に向かい、紅い液体が入っている五百ミリリットルのペットボトルを取り出した。
これは、煎れた紅茶を冷まして移したものである。
もちろん煎れ立てが最も美味だが、毎回煎れるのも手間が掛かる。
纏めて煎れて保存しておけば、少なくとも手軽さは一番なのだ。
日が経つと味が落ちるので、一度に保存する量は、五百ミリリットルで十分である。
それをコップに注ぎ、仕事終わりの身体に染み渡らせる。
大きく息を吐くと、それらを片付け、夕の隣に座った。
「夕はどうですか?」
「見た通り。もう少しで終わるよ」
「英語のプリントですか」
「うん。今度の授業で使おうと思って」
二人で同じパソコンの画面を覗きながら、ゆるゆるとした会話が続く。
夕のキーボードを打つ手が少しずつ遅くなっている事に気付き、明は夕の顔を見る。
夕は、うつらうつらと眠気に揺さぶられていた。
無理矢理目を見開いたり、力無く閉じたりを繰り返している。
そんな様子を見て、明は含み笑いを浮かべた。
時計は、十時を少し過ぎている。
昔から、夕はこの時間には眠る体勢に入っていた。
どうやら、今もそれは変わらない様である。
「夕、余り無理をしない方が良いですよ」
明が忠告してから、数秒経って夕は反応する。
「だ、大丈夫……これで終わりにするから。それに……今日は、まだ寝たくないの」
「どうして……ですか?」
夕の言葉に、明は怪訝な表情を浮かべた。
「……怖いの。姉さんより先に寝たら、また姉さんがどこかに行ってしまいそうな気がして……。そんな訳無い事はちゃんと判っているんだけど……それでも……」
夕は、消え入る様な声で答える。
それが眠いからなのか、別の理由が有るからなのかは、定かではない。
夕の言葉に、明は胸が痛んだ。
五年前に自分のした事が、まだ彼女の中に深く根付いているのだ。
もちろん、こうなっている事は判っていた。
藤原にも言われた通り、自分は彼女から逃げてしまったのだから。
だが、針で刺されれば誰だって痛い。
判っている結果でも、直接ぶつけられれば痛いものだ。
しかし、だからこそ目を背ける訳にはいかない。
大切な事実は、大抵が痛いものなのだから。
「ね、姉さん……?」
急に明に抱き寄せられ、夕は少し目が覚める。
「私は、まだまだ未熟ですね。人としても……姉としても」
明は、独り言の様に呟いた。
夕に身体を委ねさせ、暫く抱擁を続ける。
それは、一度離れてしまったものを、半ば強引にくっつけている様だった。
「夕……こんな私を、まだ姉だと思って下さいますか?」
「当然だよ。でも、もう勝手に居なくなったりしないで。もう、告げられた別れを拒否する様な子供じゃないから。姉さんが私を思ってくれた様に、私も姉さんの事を思っていたいんだよ」
「夕……」
明は、夕をギュッと抱き締めた。
その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。
二人の間に出来ていた隔たりが、ようやく埋まった瞬間だった。
ある事を思い付き、明は夕の体を離す。
自分の髪を結う白いリボンを解き、夕の黒いリボンも同様に解く。
二人の長い黒髪が、しなやかに広がった。
「姉さん……?」
「もう、こんな独り善がりは必要有りませんから」
少し戸惑う夕に、明は自らに言い聞かせる様に言う。
そして、自分の髪を黒で結い、夕の髪を白で結った。
五年ぶりに、互いのリボンが持ち主に戻る。
何故か嬉しくなってきて、自然と笑みが零れる。
どうやら、夕も同じらしい。
「やっぱり、姉さんがしていたリボン、私のだったんだ……」
「はい。勝手に交換して、済みませんでした」
「ううん、良いの。あれからずっと、あのリボン使ってたから。だって……」
頭を下げる明に、夕は笑顔で言う。
少しの間をおいてから出た言葉は、
「あのリボン、勇気を分けてくれる気がしたから」
「今度から、お湯を減らさないように言っとかないとな……」
暫くして、藤原が風呂から戻ってきた。
灯が点いている部屋とは思えない静けさに、一瞬戸惑う。
椅子に座っている明と夕に声を掛けようとして、すんでのところで止めた。
「まったく……風邪引いたらどうするんだ」
溜め息混じりに、藤原は呟く。
「…………」
「…………」
互いに寄り添い様にして眠っている二人には、当然聞こえなかった。
ま、良いか……と呟き、藤原は二階へ上がる。
少し経って、リビングから戻ってきた藤原の手には、一枚の毛布が在った。
それを二人に掛けた時、二人のリボンが入れ替わっている事に気付く。
少し考えて、大体の理由を察すると、
「……おやすみ、二人共」
藤原は自室へ向かった。
「やっぱり、西口先生は明さんの妹だったんですか。ほぼ確信していたとは言え、流石に驚きますね」
「うむ。後付けっぽい気がするが、まあアリであろうな」
次の日の放課後。
今日の将棋部は、他の部との兼ね合いもあり、いつもとは違う部屋である。
使用頻度が低い空き教室なので、少し埃っぽいが、気にならない程度だ。
そこで、藤原は四人――秋原、堀、アリス、真琴――に昨日の話をしていた。
まともに説明出来る自信が無いので、明が壊れた、と言う話は避けたが。
「これで明さんは、名実共に『お姉さん』と言う新たな属性を得た訳だ。包容力とそこはかなエロスを漂わせる、大人の嗜みと言える属性だな。……しかし、アリス嬢と西口先生が『妹』で被っているのが気になる。アリス嬢は『幼馴染』や『魔女っ娘』、西口先生は『教師』や『貧乳』を併せているが……。キャラの潰し合いをしない事を、祈るくらいしか出来んか……」
秋原がそんな心配をしている間、
「また別の女を泊めたなんて信じらんないよボクと言うものがありながら
何で何でどうしてお兄ちゃんのバカバカバカバカバカバカバカバカ!」
「とうとうラブコメに挑戦っスか!? やっぱり目標はハーレムっスね!?」
藤原は右に左に揺さぶられていた。
何か叫んでいる様だが、二人の声の所為で聞こえない。
「ふっ……案ずるな、藤原。西口先生の件は、俺の情報操作の庇護下に置いてやろう」
秋原の声も、今の藤原には届かなかった。
そんな部室をノックする音が聞こえ、五人は一斉に黙る。
「……はい、どうぞ」
藤原が入室を了承すると、扉が開いた。
入ってきたのは、白いリボンで髪を結んだ、サイドテールの少女。
この中で唯一制服ではないので、否応無しに目立ってしまう。
「夕……じゃない。西口先生、何か用ですか?」
藤原が問うと、夕は勿体ぶった仕草をして、
「今日から、私がこの部の顧問になりました」
無い胸を張り、少し誇らしげに言った。
対照的に、他の五人は黙ったままだ。
「……うむ、学園モノなら、ありがちな展開だな」
こう言う展開に強い秋原が、最初にリアクションをした。
「で、ルールは知っているんですか?」
続く様に藤原が尋ねる。
「失礼ですね。これでも昔、姉さんと時々対局していたんですよ」
少しムッとした表情を浮かべながら、夕は将棋盤を覗く。
藤原と堀が対局している最中の盤だ。
「……で、ポーンはどれ?」
「根本的に間違ってるじゃないですか……」
真顔で尋ねる夕に、藤原は大きく溜め息を吐いた。
自分の日常を大きく覆した女性の妹。
どうやら彼女には、公私共に振り回される事になりそうだ。
「……あの、僕が出てきてすらいないんですけど……後半」
「ふっ……案ずるな、堀よ。真琴嬢もそうではないか」
「ですよね。僕の勘違いですよね」
「だが、彼女には近々大舞台が予定されている」
「……ですよね……」
妹思いは姉の情 完
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2006/04/21(Fri)17:59:10 公開 / 月明 光
■この作品の著作権は月明 光さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
まずはトマトママさんへのレスをこの場で。
特にこだわりを持っている書き方でもないので、試す意味を含めて視点を意識してみました。これでどうでしょう?
あと、「うれい」をようやく修正しました。
意外と長くなった第四話も、これで終わりです。
書き始めの頃は、夕が既存キャラに馴染めるか不安でしたが、どうにかなりそうですね。
当初は無かった設定が、かなり入ってしまいましたが(汗
うちの弟や妹も、夕くらいしっかりしてくれればなぁ……と思う今日この頃。
せめて、連日の様に喧嘩するのだけは勘弁して欲しいです。
誰か、喧嘩を簡単に仲裁する方法知らないでしょうかね……。
暫くは閑話を書く予定です。
以前消えた閑話その一〜その三のスレッドを立て直して、続きで書いた方が良いのでしょうかね。
このシリーズ以外にも書きたいものがあったりするので、それも気分次第で。