- 『ドッペルゲンガー密室殺人』 作者:時貞 / サスペンス 未分類
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全角22153文字
容量44306 bytes
原稿用紙約67.15枚
――ドッペルゲンガー【ドイツ語:Doppelgänger】
自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種。自己像幻視。
ドイツの伝説では、ドッペルゲンガーを見た者は数日のうちに必ず死ぬ、
という言い伝えがある。
――密室【みっしつ】
締め切って外から入れない部屋。
「――殺人事件」
人に知られていない秘密の部屋。
Doppelgänger
某県、某所――。
閑静な住宅街のとある一室で、中年男性の惨殺死体が発見された。
死因は絞殺である。頭部に打撃痕のあるところから、なにか鈍器のような物で殴打を受けて倒れこんだ後、背後から両手で首を絞められたようであった。自殺である可能性は考えられず、完全に第三者による殺人事件であることが明らかであった。
初動捜査に当たった警察官たちは、皆困惑した。
殺害方法に関しては、さしたる珍しさも無い。ごくありふれた手段による殺人であった。しかしこの事件は、捜査陣を大きく混乱させる要素を孕んでいたのである。日を追うごとに捜査は難航し、無為な時間が流れ、ついには完全に迷宮入りの事件となってしまった。
捜査陣を悩ませた大きな要素。
殺害現場となったその部屋は、完全なる、そして完璧なる《密室》だったのである――。
*
私は小説家である。
これまでの作家人生において、数え切れないほどの作品を上梓してきた。出版された本の売上、そして巷の知名度からみても、そこそこ売れっ子の部類に属する作家なのであろう。
私のデビュー当時からの作品は、主に怪奇小説であった。いわゆるジェット・コースター型のホラー小説ではなく、日本の土壌に古くから根付いているような恐怖を、幻想的な描写をもってじわじわと炙り出していくような作風の怪奇小説が多かった。
そんな私の作風に転機が生まれたのは、デビューから十年後のことであった。
駆け出しの頃から付き合いのある編集者から、短編ミステリ小説の執筆を依頼されたのである。なんでもその出版社が新たに創刊するミステリ専門誌の第一号に、私の手になるミステリ小説を掲載したい、との意向であった。後から聞いた話しによると、当初はすべてミステリ専門作家の作品を掲載する予定であったのだが、そのうちの一人が私の作品を非常に高く評価しており、この機会にぜひにもと、その編集者に頼み込んだという。
もとより読む方に関してはミステリ小説のファンであったのと、長年付き合っている編集者からのたっての頼みということもあって、私はしばらく考えた後、執筆を承諾した。専門外のジャンルといった気安さや、新しいものに挑戦するといった楽しみもあったのだろうと思う。
さほど気負わずに書き上げたそのミステリ処女作は、私の予想を超えて書評家たちからかなりの好評価を得た。人気投票では第二位を獲得し、多くのミステリ読者たちから歓迎を受けた。それとともに、他の出版社からもミステリの執筆依頼が数多く押し寄せることとなる。
やがて私は、従来の怪奇小説と並行するかたちで、ミステリ小説の執筆も続けることとなった。ところが皮肉なことに、生み出すミステリが次々と歓迎されていくのに反比例して、怪奇小説の需要はぱったりと途絶えてしまった。徐々に執筆バランスがミステリに傾いていき、ついに私は、十二年ほど前から完全にミステリ専門作家となったのである。
「鬼頭先生、原稿の進捗具合はいかがでしょうか?」
「うむ。まぁ、そこそこに進んでいるよ」
「今回の企画、《ミステリ・黄金伝説》の大トリは鬼頭先生だってもう大々的に宣伝しちゃってますから、言い難いのですが、そのぉ……くれぐれも」
「わかっとる。私が穴をあけるわけがないだろう!」
そう言って、受話器を乱暴に叩きつけた。
私は不機嫌なまま書斎のソファーにどかりと座り込み、腕を組んで中空を睨みつけた。室温器のモーター音だけが微かに聞こえてくる。じっと目を閉じてそのままにしていると、モーター音が鼓膜の奥で何倍にも増幅され、まるで頭の中を無数の蝿が飛び交っているかのように感じられた。
私は気付かぬうちにウトウトしてしまったらしく、全身に巨大な銀蝿がたかっているという気味の悪い夢にうなされ、その自分の発したうなり声に驚いて目を覚ました。全身にじっとりと嫌な汗をかいている。私はゆっくりとソファーから立ち上がり、そのまま真っ直ぐに浴室へと向かった。
身体を綺麗に洗い流し、着物を着替えて再び書斎へと戻る。
デスクに腰を落ち着け、原稿用紙を前に長年愛用してきた万年筆を手に取った。そこでしばらく動きが止まる。そのまましばらく、原稿用紙の桝目をただただじっと見つめる。
――書けない……。
万年筆を静かに置くと、デスクに頬杖をついたまま目を瞑った。
私は、極度のスランプ状態に陥っていた――。
以前は原稿用紙を目にしただけで次々と斬新なアイデアが生まれ、ペンを持った瞬間に全編に渡る構想が浮かび上がった。ひとたびペンを走らせると、ストーリーが自在に流れ始める。登場人物たちは生命をもって、作品世界の中を駆け回ったものだった。それが今はどうだ。こうして日がな一日原稿用紙と向き合っているだけで、たった一行、いや、一文字すら書けないという状態が続いている。
「構想は、あるんだ……書けないはずがない」
私は声に出して、そう独り言を呟いていた。確かに漠然とした構想が、フラッシュライトのように頭の中でまたたく一瞬がある。しかしそれはほんの束の間で、この手に掴もうと思ったときには跡形もなく消え去ってしまっているのであった。
私はこの数日間、これまで使用したことなど無かった創作ノートをつけるように心がけていた。何でもいい。頭の中で生まれたものが消え去らないうちに、ノートに書き留めておこうと思いたったのである。
デスクの引出しを開け、その創作ノートを取り出す。そして、パラパラとページをくくってみるのであった。
ノートの中身は、自分でもよく意味の解らない内容ばかりであった。単なる言葉の羅列、いくつもの単語が切れ切れに連なっているだけといった代物である。それらをざっと目で追っていく。
――密室。
――首の切断。女? 少女? 密室の中に少女の首を。
――密室の中の蝿。蝿が作った密室。……蝿。
――完全なる密室の内側と外側で。
――氷の密室に死体が二つ、いや三つ。
――逆転の密室?
私はため息をつくと、ノートをそっと引き出しの中に戻した。
密室? 蝿? 蝿というのはどういう意味だったのだろう? それにしても、密室という単語がよく目に付く。そうだ。私は今回の作品のテーマとして、密室殺人事件を取り上げようとしていた。それも、これまでにまったく類例の無い斬新な密室物を書こうと意気込んでいたのである。
私は椅子の背に凭れ掛かり、両手で頭を支えながら思考をめぐらせた。
――密室物。
おびただしい数のミステリで扱われているテーマである。私自身も、これまで数ある作品の中でたびたび取り上げてきた。もはや、まったく新しいトリックを創造することは不可能に近いといわれている。それだけ古くから、ミステリ作家にとって魅力的なテーマであったということだろう。
私自身正直言って、スランプに陥る以前から、これまで過去にまったく類例のない密室トリックを創造するまでには至らなかったのだ。それをいかに読者に新鮮に見せるか、驚かせることができるか――いままで様々な工夫を凝らしてきた。別の要素を絡ませたり、叙述トリックで翻弄するといったテクニックも幾度となく使った。そして、使い尽くしてしまったのだ。
「斬新なトリック、斬新なトリック、斬新なトリック……」
声に出して呟いてみる。
今回、K社から執筆依頼のあった《ミステリ・黄金伝説》という企画は、毎月一冊ずつ本格ミステリ作家の書き下ろし作品を単行本で発表するというもので、豪華な執筆陣がずらりとその名を連ねている。ミステリ・ファンの注目度はかなり高く、既に出版された他の作家たちの作品は、いずれも力の入った秀作ばかりであった。その企画の最後の作品、大トリをつとめるのがこの私なのであるが――。
これまでの作家人生において感じたことのない大きなプレッシャーが、巨大な鉛のようにずしりと圧し掛かってくる。私は胃の辺りにキリリとした痛みを感じながらも、必死になって脳細胞をフル回転させた。
「冒頭には強烈なインパクトを……圧倒的に不可解な殺人事件で幕を開ける。当然、密室殺人事件だ。衆人環視の密室内で、殺人事件が発生する。蟻の入る隙間も無いほど完璧な密室で……被害者以外に誰も出入りしなかったことは、多くの者が環視していた。当然自殺ではなく他殺である、と。それも、とびっきり不可解な死因がいい。……密室内で墜落死? 密室内で溺死? 首が切り落とされて胴体だけが残っていた。いや、首だけが残っていて、胴体が消失していたというのはどうだろう? ……うーむ」
結局また堂々巡りである。
――密室。
――新しい密室。
――完璧な密室。
――密室に死体を。
――密室、密室、ああ密室、ああ、ああ密室……。
私は何気なく壁掛け時計を眺めた。――午後七時十五分。
また最近の悪癖がはじまる。
創作に行き詰まった私は、この書斎にじっとこもっていることに耐え切れず、午後七時を過ぎると夜の飲み屋街に繰り出すようになっていたのだ。そして浴びるほど酒を飲み、しばしの現実逃避を図る。こんなことでスランプから脱却できるわけがないと、自分でも充分理解しているのだが、それでもこの時刻になると身体が勝手に反応してしまうのだ。
「さて」
私はまっさらな原稿用紙を横目で眺めながら立ち上がり、そしてゆっくりと書斎を出て行った。
少しだけ冷気を含んだ空気が頬に心地よい。
私は下駄をつっかけ、着物の裾を夜風にはためかせながら、馴染みの飲み屋へと歩を進めていた。もうすっかり小説のことなど頭から離れている。いや、意識的に忘れようとしていた。どうせ酒が入ってしまえば、さっぱり忘れることが出来るのだ。《ミステリ・黄金伝説》のことも、密室のことも、自分自身がスランプであるということも。
自宅から歩いて二十分。
私はもうすっかり身に馴染んでしまった、夜の飲み屋街の独特な空気の中を悠々と進んでいた。目の前を、黒と白の模様の太った猫が横切っていく。
最初の一軒目はいつもと同じ店だ。こじんまりとした店構えの小料理屋で、煮魚がことのほかうまい。私は先日食べたカレイの煮付けを想像し、生唾を飲み込みながら目的の店へと急いだ。
――そのとき、空気が変わった――ような気がした。
小料理《ふるさと》――。
私は見慣れた紫紺の暖簾をくぐり、店内の女将に「こんばんは」と声を掛けた。女将は握っていた包丁の手を止め私を見遣ると、「あら」といったような表情を浮かべ、それから口元に笑みをつくりながらこう言った。
「鬼頭先生、何か忘れ物?」
「は?」
カウンターでイカの丸焼きを肴に一杯やっていた常連客の男が振り返り、私の顔を見るなり嬉しそうに手招きをした。
「なんだなんだ、鬼頭先生。さっき帰ったばかりだと思ったらまた来たんかい? よっぽど俺の釣りの話が楽しかったらしいな? ほら、こっちに来てまた飲みなおそうや」
「…………」
はてな? 一体二人とも何を言ってるんだろう?
私を手招きしていた常連客の男が、不思議そうに声を高める。
「あっれー、先生。さっきまであんなに飲んでたのに、なんだかやけにシラフみたいじゃないか。いっつも酒が入ると、顔が茹でだこみたいに真っ赤になっちまうのに」
私は一瞬キョトンとしたが、すぐに彼らの悪だくみに気がついた。こんなバカげた話をして、きっと私をかつごうと企んでいるのだろう。だから私は、とても落ち着いた紳士的な声を作って、常連客の男にこう言ってやった。
「はて、今日はまだ、ここに来たのは一回目なのだが」
それを聞いて、常連客の男は腹を抱えて笑い出した。女将も可笑しそうに口元を押さえながら、
「やだ先生、珍しく冗談なんて。駄目ですよ、私たちをかつごうとしたって。さっきまであんなに楽しそうに飲んでらっしゃったじゃありませんか」
そう言って、いまだ笑い転げている男の前に湯気の立つ徳利を差し出した。ここまでしつこい悪戯をするような女将ではない。私はなにやらわけも解らぬまま、気付いときには店を出てしまっていた。
さっきから顔のまわりを、大きな銀蝿がぶんぶん音を立てて飛んでいる。
はてな? 一体何だったんだ、今のは――?
喉の奥に魚の小骨が刺さったような不快感を感じながらも、私の足は別の店に向かって進み始めていた。
「あれ? 鬼頭先生、何か忘れ物ですか?」
「嬉しいわぁ、さっき帰ったばっかりだと思ったら、またすぐ来てくださるなんて」
二件目に入ったスナックでの、マスターと女性店員の反応である。
「いらっしゃいませ。……おや、先生。また来てくださったんですか? 先ほどまでいらした席はまだ空いておりますよ」
三件目に入ったバーでの、バーテンダーの反応である。
ここまでくると私も混乱し、もはや何も言わずに店を飛び出すのが精一杯であった。一体これはどうしたことだろう? まさかこの飲み屋街全体がグルになって、私をかつごうとしているなんてことは到底思えない。一軒目の女将にしても、二件目のマスターにしても、そして三件目のバーテンダーにしても、冗談で言っているような様子は感じられなかった。
――もしかしたら私の記憶の方が間違っているのではないか?
私は徐々に不安を覚えはじめていた。本当は今夜すでに、馴染みの店をひととおりまわっていたのではないか? だとすれば、何故その記憶がまったく残っていないのだろう? いくら酒に酔ったからといったって、ここまで徹底的に記憶が抜け落ちることなどありえるのだろうか。いや、私自身に関していうならば、どんなに酔ったとしても行ったばかりの店の記憶がまったく残っていないなどということは、今までの経験からいってもありえない。で、あるならば、これは一種の記憶障害なのだろうか――?
「小説が書けないスランプからくるストレスが、私の記憶に何らかの障害をあたえているのか……?」
ぼんやりとした足取りであてもなく歩き回りながら、私はそう呟いていた。
気付いたら飲み屋街から一キロほど離れた、駅前通りに来てしまっていた。
先ほどまでそよいでいた夜風も今はまったく感じられず、私の額や腋の下はねっとりと汗ばんでいる。
駅舎から、遅い帰宅の会社員たちがぱらぱらと通りに出てきた。私はただなんとはなしに、彼らの姿を眺めていたのだった。
駅から出てきた重い足取りの会社員たちは、そのまま通りに面したバス停の方へと流れていく。私の視線もそれにつられて、バス停の方へと流れていった。
――そのとき。
バスに乗り込もうとしていた一人の中年男性が、ふいに私の方へとその顔を向けた。
「――あっ」
その男は口元に一瞬ニヤリと薄笑いを浮かべると、そのままくるりと背を向けて、薄暗いバスの車内に乗り込んでいった。
私は思わず走り出そうとした。だがしかし、意に反して身体がまったく動かない。
「……い、今の男は……誰だ……?」
胸の動悸が激しい。
「あ、あいつは……あいつは……」
耳鳴りと眩暈がする。
バスに乗り込んでいった男の顔は、この私とまったく同じ顔であった。顔だけではない。背格好や着ている物までまったく一緒だった。少なくとも私には、他人の空似などとは到底思えなかった。その男を見たのはほんの一瞬、恐らく一、二秒のことだったろう。だがしかし――。
「この私が、もう一人……いる」
私の直感がそう告げていた。
*
一睡もしないまま夜が明けた。
そしてそのまま昼を迎え、午後になり、辺りが夕闇に包まれ始める時刻を迎えようとしている。
私は昨夜、なんとか自宅まで帰り着くと、そのまま書斎に閉じこもった。そしてブランデーを生のままあおり、ソファーに凭れながらなんとか眠りが訪れるのを待ったのだった。しかし睡魔はいっこうに私を襲ってくれず、いくら強いブランデーをあおっても、ますます目が冴えてしまうばかりであった。
小説の執筆はまったく進んでいない。いや、執筆しようとする気力がおこらない。原稿用紙を見るのも、万年筆を手に取るのも億劫であった。
虚ろな目でぼんやり天井を見つめていると、ふいに卓上電話が鳴り始めた。立ち上がるのも億劫だった私はしばらく無視を決め込んでいたが、ベルは執拗に鳴り響き、その音が頭にがんがん響くようだったので、やむなく私はよろよろと立ち上がり、受話器を掴んだのであった。
聞きなれた編集者の声が耳に飛び込んでくる。意に反して、やけに弾んだような明るい声音だった。
「鬼頭先生、そろそろお戻りの頃合かと思いまして、お電話させていただきました。今日はわざわざお出でくださりまして、誠にありがとうございました。今編集長が、さっそく原稿を拝読させていただいております」
――なんだって?
「いやぁ、驚きましたよ。先生が直接原稿をお持ちくださるなんて、思いも寄りませんでしたからね。私もこれから拝読させていただきますが、なんだか先生の新作に目を通すときはいつもドキドキしちゃいますよ」
――私が、原稿を届けに行っただって……?
疑問がそのまま声に出てしまった。
「私が、原稿を届けに行っただって……?」
「――は? は、はい。きっちり五百十二枚、確かにお預かりいたしました、けど」
まただ! またあいつだ! 昨夜の、もう一人の私の仕業に違いあるまい。しかし、小説の原稿を届けただって? 一体どんな物を届けたというんだろう……。
私は内心の動揺を必死に押し隠し、ごくさり気ない口調でこう問うた。
「ああ、実は今日の原稿なんだが、ちょっとタイトルを変えてみようかと思っててね」
「タイトルの変更ですか? ああ、それはまだ時間がありますから、まったく問題ありませんが」
「う、うむ、いくつか候補があったもんでね。……ときに、今日渡した原稿のタイトルは何と付いていたかな? 最近疲れ気味なもんで、度忘れしてしまったよ」
「はっはっは、お身体にはくれぐれもお気をつけてくださいよ。……えーと、原稿のタイトルは、っと。……そうそう! 《ドッペルゲンガー密室殺人》でしたね! いやぁ、凄くいいタイトルだと思いますけどねえ」
私は呆けたように突っ立ったまま、その原稿に付されたタイトルを呟いた。
「……ドッペルゲンガー、密室殺人……」
ドッペルゲンガー……?
ドッペルゲンガー……。
ドッペルゲンガー――!
「もしもし? 鬼頭先生? もしもーし」
私は静かに受話器を置いた。
――ドッペルゲンガー現象。
自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種だ。確かドイツでは、ドッペルゲンガーを見た者は数日のうちに必ず死ぬ、という言い伝えがあったはずだ。
もう一人の私。自分自身の姿を自分で見る――確かに昨夜バス停でみた人物は、私自身としか思えなかった――。
「ドッペルゲンガー……私は、私はあと数日で死ぬのか……?」
戦慄と混乱の濁流が、一気に私に襲い掛かってきた。
そして、そのまま意識を失った、ようだった――。
a murder committed in a sealed [locked] room
気が付くと私は、駅前通りに面した喫茶店の中に居た。店内でも奥まった位置にある四人掛けのテーブルに一人で座っている。ぼんやりと薄暗い照明。静かに流れているスロージャズ。ぐるりを見渡すが、私以外の客の姿は見当たらなかった。
私は目の前に置かれた紅茶のカップを手に取ると、静かに一口すすった。ほんのりと甘く、香り豊かな紅茶が喉に染み込む。と同時に、ようやく自分の今の状況にハっと気がついた。私はいつからこの喫茶店に居るのだろうか?
記憶を辿ってみるが、まったく覚えがない。私はしばらく紅茶のカップを手にしたまま、中空をぼんやりと眺めていた。いつのまにか店内に流れていたジャズが止まっている。ふと見ると、痩身長躯の男性店員が表の看板をしまうところであった。閉店時間なのであろう。
私はテーブルに置かれた伝票を掴み取り、レジに向かうと、紅茶の料金を支払って表に出た。生ぬるいような、不快な風が全身にまとわりつく。空を見上げると、どんよりと重い雲が月を覆っていた。
何やら頭が重く、全身が気だるい。流感にでもかかったのであろうか。私はゆっくりとした足取りで、自宅へと歩を進めた。しんと静まり返った夜道。遠くから微かに聞こえるさかりのついた牡犬の鳴き声と、私の立てる靴音以外は何も聞こえない。普段なら深夜を過ぎても人の姿が絶えない駅前通りにも関わらず、今はまったくその気配が感じられない。深夜過ぎ……。はて、一体いまは何時なのだろう?
駅前通りから小道に入り、数分歩いて森林公園沿いに出たときであった。
――背筋に何か、ぞくりと身を震わせるような悪寒が走った。
この感覚。
これまで一度も感じたことのないような、異様な感覚……。
「多くの作家が密室物にこだわる、その理由は何だね?」
私の背後、いや、私の耳元でそう囁く声が聞こえた。
「お前はいま、密室物にこだわっている。その理由は何だね?」
さらに問い掛けるその声。私は振り返ることが出来ない。全身が凍り付いてしまったかのように身動きが出来ない。なぜなら――。
「密室物にこだわっている。さて、その理由は何だね?」
この声は、この聞き覚えのある声は……《私自身》の声ではないか――!
「なぁ?」
ぞわぞわと、足元から無数の芋虫が這い上がってくるかのような感覚。全身に鳥肌が立っていることが解る。私自身に、私自身の声が囁きかけているのだ。異様だ。これは、これは悪夢か!
――突然、全身が軽くなった。
私を捕えていた呪縛が解かれる。そして、弾かれたように背後を振り返った。だがしかし、そこにはすでに誰の姿も無かった。目に映るものは、深い闇。いまのは幻聴か? それにしては実に明瞭な声だった。息遣いの感触さえ、いまも生々しく残っている。私の耳が、いや、頭がおかしくなってしまったのだろうか……。
私はしばらくその場に立ちすくんでいたが、やがて大きくかぶりを振ると、再び家路へと足を進めた。
ようやく自宅の前に着く。
門をくぐって前庭に足を踏み入れようとした、そのときだった。
「なぁ、密室にこだわる理由を聞かせてくれないか?」
またしてもあの声。《私自身》の声が耳元で囁かれる。と同時に、背後から右の肩をグイと強い力で捕まれた。そして、そのまま無理やり後ろを振り向かされる。
「…………!」
全身が総毛立った。
そこには、私と何から何まで瓜二つの人物が、いや、《私自身》が立っていた。
「どうだい、もう一人の自分と対面した気分は?」
もう一人の《私自身》が口元に薄笑いを浮かべながら、そう問い掛ける。私はまるで全身の血が逆流したかのような強い衝撃を受け、獣にも似た咆哮をあげていた。
「――う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――!」
*
「――う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――!」
獣のような咆哮が耳を劈き、私はガバリと身を起こした。それが自分の喉から発せられたものだと気付くまで、数十秒の時間を要した。周りを見渡す。目の前には見慣れた電話台。
「ゆ、夢か……」
全身にびっしょりと汗をかいている。濡れた着物が肌に密着して気持ちが悪い。私は半身を起こした状態でしばらくぼんやりと中空を眺め、それから少しずつ思考をめぐらせていった。突如として、頭にひとつのキーワードが浮かび上がる。
――ドッペルゲンガー現象。
昨日からこの身に起こる不可解な現象は、やはりドッペルゲンガー現象なのであろうか。ドッペルゲンガー。もう一人の自分――。この現象についての知識はあるが、現実にあり得ることなど無いと思い込んでいた。いや、今だって信じられない。私の周囲のあらゆる人間が画策して、大規模な悪戯を仕掛けているのではないか? しかし、一体何のために……?
ふと気付いて、壁に掛けられた時計に目を向けた。針は八時十五分を示している。編集者からの電話で気分が混乱し、意識が遠くなっていったのが、おそらく午後七時より少し前だったはずだ。すると私は、あれから一時間半近く気を失っていたというのか。
ゆっくり、ゆっくりと慎重に立ち上がる。何故だかわからないが、そうしないとまるで足元の床が崩れていってしまいそうな気がした。
そのときふいに電話のベルが鳴り響いたため、私は機械仕掛けの人形のようにギョクンと飛び上がってしまった。立ったまま、しばらく電話器を見つめる。理由はわからないが、受話器を取るのが怖い。十回ほどの呼び出し音の後、電話はぱたりと鳴き止んだ。
「……ふぅ――」
思わず口から深い溜息がもれる。
私はおもむろに歩き出すと、とりあえず書斎へと向かうことにした。頭の中がどんよりと濁っているような感覚。歩くたびによろよろと、身体が左右にふらついた。汗まみれとなった着物からは、不快な匂いが漂ってくる。
書斎に入り室内の窓を開けた途端、私は思わず愕然とした。
明るい太陽光が燦燦と降り注いでいる。
夜の八時過ぎだと思い込んでいたのだが、実際は朝の八時過ぎだったのだ。ということは、私の意識が遠のいてから十ニ時間以上も経過している計算になる。一体どうしてしまったんだ?
――昨日、いや、一昨日からの不可解な現象。
――この目で目撃したもう一人の自分。
――ドッペルゲンガー密室殺人という原稿。
考えることが多すぎて、自分がまず何をしたら良いのか解らない。私はソファーに凭れかかり、目を瞑って瞼を指で押さえた。目の奥のほうに、じんじんと鈍い痛みがある。
そうこうしているうちに、一時間近くが経過したであろうか。
朦朧とした意識の中に、再びあの電話のベル音が鋭く入り込んできた。耳障りなベル音は、今度はいくら待っても鳴り止む気配がない。私はやむなく重い腰をあげると、書斎を後にした。
受話器を取り上げ重い口調で名乗った途端、編集者の慌しい声が耳に響いてきた。よほど焦っているらしい。何度もどもって声がうわずっている。
「せ、先生! こ、困りました。昨日お持ちいただいた原稿ですが、あれは今回の企画では採用出来ないそうです。編集長の判断です。大変申し訳ございませんが、大至急書き直しをお願い致します!」
昨日の原稿――。例の《ドッペルゲンガー密室殺人》というやつか……。
「鬼頭先生! 聞こえてますか?」
「……あ、ああ」
「くどいようですが、今回お願いしたいのは本格ミステリ作品です。《ドッペルゲンガー密室殺人》は私も拝読させていただきましたが……、そのぉ、大変言い難いんですが……、あれじゃあちょっと」
「わ、わかった。あと四日、いや、三日待ってくれ。じ、実は、もう一作並行して書き進めていた作品があってね。そっちは純然たる本格物だから――」
そう言うしか無かった。
「本当ですか? それなら助かります。それでは三日後に先生のご自宅に伺いますが、よろしいですね?」
「あ、ああ。もちろん」
編集者の安堵の声を耳にしながら、私は静かに受話器を置いた。
しかし、一体どうしたものか? 書き進めていた作品があるなどというのは、当然嘘である。しかしああ言い切ってしまった手前、なんとか徹夜作業で書き上げねばなるまい。今の私にそんな芸当が出来るのか? それも、こんな精神状態で。
書斎に戻り、デスクに腰を落ち着ける。
目の前には相変わらずまっさらなままの原稿用紙が、まるで私を嘲笑うかのように積まれている。私はとりあえず万年筆を手にとり、じっと原稿用紙の桝目を睨んだ。すると自分の意識に反して、万年筆を握った手が勝手に動き始めたのであった。
――?
一行書いた時点で、ふと手が止まった。私は驚いて原稿用紙を見つめる。
――《ドッペルゲンガー密室殺人》 鬼頭龍一郎
な、なんだこれは? 私は何を書こうとしているんだ……。
原稿用紙を手に取り、くしゃくしゃに丸めて屑篭に放り込む。それから大きくかぶりを振った。
「ふぅ――」
全身に力が入らない。
私はデスクから離れると、開け放たれたままの窓辺に立ち尽くした。燦燦と降り注ぐ日差しがまぶしい。思わず片手で庇をつくった。その視線の先に……。
「――あッ!」
私は思わず大きくそう叫んでいた。
――あいつが居る!
あいつが、もう一人の私が、こちらに横顔を見せた体勢でじっと立ち尽くしている。
やがてそいつは私の視線に気付いたのか、ゆっくりと首をまわした。視線と視線がぶつかる。陽光を浴びて立ち尽くすもう一人の私は、口元に微かな薄笑いを浮かべていた。
私は衝動的に書斎を飛び出ると、そのまま玄関に向かって駆け出していった。
あいつ!
あいつを!
あいつをッ!
another
くっくっく、今ごろあいつはどんな精神状態だろうか?
狼狽し、困惑し、混乱し、疲労し、そして恐怖していることだろう。
何故なら《私》が現れたから。
《私》と遭遇してしまった以上、あいつは死の運命から逃れられない。
どんなにあがこうとも、この運命からは逃れられないのだ。
あいつを待ち受けているのは、死、死、死、死、死――。
しかしその前にあいつを翻弄し、弄んで、精神をずたずたにしてやるのだ。
…………
ここにこうして立つ。
するとあいつは、窓を開けて外の様子をうかがうだろう。
そしてまた、この《私》の姿を目撃するはずだ……。
――おっと、思ったとおりだ。やはりあいつが窓から顔を出した。
あいつはどんな表情をしているのだろう?
…………
くっくっく、あの憔悴しきった表情はどうだ。
……おや? 窓から急に離れやがった。
もしやあいつ、この《私》に接触するつもりか? くっくっくっくっく。
はっはっはっはっはっはっはっはっはぁ――――。
…………
*
私は裸足のままで直に革靴を履くと、勢い良くドアを押し開けて表に飛び出した。眩しい陽光に一瞬だけ目をしかめる。そして駆け出しながら、あいつの立っていた位置に目を凝らした。――だが。
「……い、いない」
あいつの姿は忽然と消えていた。周囲を見渡すが、あいつと思しき人物の姿はどこにも見当たらない。誰の姿も見当たらない。大きな松の木の下で、丸まっている猫の姿が目に映るだけであった。
あいつは一瞬にして消えた? そんなバカな。さきほど見たものは、この私の幻覚だったとでもいうのだろうか……?
「――はっ、はっはっはっはっはぁ! ……一体……、一体、一体、一体、一体ぃッ! どうなっているんだ!」
私は声を荒げていた。驚いた猫が飛び起きて、逆毛を立てながら慌てて逃げ去っていく。
その直後である。
ふいに胸のあたりが苦しくなってきた。突然無我夢中で駆け出したりした所為か? 心臓の辺りが苦しい。徐々に、苦しさとともにきりきりとした痛みも増していく。今まで味わったことの無いほどの痛みである。私は右手で胸の中心あたりを押さえながら、その場にうずくまった。
「う、ううう」
心臓を万力でぐいぐいと絞め付けられるような痛み。額からだらだらと脂汗が流れ落ち、目の前に少しずつ紫色の靄が掛かってくる。
――わ、私は、このまま、死ぬのか?
漠然とそんな思いが込み上げてきた。双眸から涙が溢れ出す。これは何に対する涙か? 苦痛に対する涙? 悔し涙? それとも……。
紫色の靄が、やがて薄黒い靄に変わってくる。
意識が途切れる直前に、私の頭に二つの言葉が浮かび、そして交錯した。
――ドッペルゲンガー。
――死の予兆。
「ドッペルゲンガー、死の予兆――」
私の耳元で、《私自身》の声が確かにそう囁いていた。
*
ふわふわと、穏やかな波間を漂っているような感覚。
心地よい浮遊感。私の周りには見渡す限りの淡く、青い空間が広がっている。これが死後の世界というものなのだろうか。私は仰向けに横たわったまま、ふわふわと優しく揺られながら上昇していく。肉体も、そして精神もすべての重力から解放されたかのようだ。私はゆっくりと目を瞑り、そして、再びゆっくりと目を開いた。青い、青い空間の先に、ほんの小さな一点の染みのようなものが見える。あれは何だろう? 私は仰向けの姿勢を崩さないまま、目だけをじっとその一点に凝らした。
ゆっくり、ゆっくりと上昇していく私。それに合わせて、徐々に、徐々にその大きさを増していく黒い染み。鉛筆の先程度の大きさだったその染みが、やがて野球のボール程の大きさにまでなっていった。私は更に上昇し、その黒い染みへと近づいて行く――。
じっと目を凝らしていた私は、その黒い染みの正体に気付いて思わず「あっ」と声をあげた。
――蝿!
黒い染みは、ぞわぞわと微妙にその形態を変えていき、やがて四散した。それは、無数の蝿どものかたまりだったのである。
蝿どもは一気に下降すると、私の周囲をぐるりと囲んで旋回をはじめた。ぶんぶんと耳障りな羽音が、私の鼓膜を通して脳髄を直に刺激する。
――う、うるさい。
私は必死に蝿どもを追い払おうとした。だがしかし、両腕も両足もまったく動かすことが出来ない。やがて、一際大きな一匹の蝿が額にとまった。必死に首を振って追い払ってやろうとするのだが、その首すらも動かないのである。私に動かすことが出来るのは、両目と瞼、それだけであった。
旋回を止めた蝿どもが、私の身体のいたるところにたかりはじめる。私はきつく目を閉じた。ますます高まる不快な羽音が、私の脳髄に響き渡る。
――う、うるさい。うるさい、うるさい、うるさい。
両目をきつく閉じたまま、蝿どもが消えてなくなることを強く念じた。――消えろ! 消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、消えろ――!
するとどうだ。
私の頭を直撃していたあの不快な羽音が、突如としてピタリと止んだではないか。
恐る恐る、ゆっくりと目を開けていく……。私は思わず、ほっと安堵の吐息をついた。あの蝿どもの群れが、跡形もなく消え去っているではないか。全身の緊張が弛緩する。深く息を吸い込んだ――その瞬間。
――お、落ちる!
私の全身に、一気に重力が圧し掛かってきた。バランスを崩し、手足をばたつかせたまま一直線に落下していく。私を覆っていた青い空間は、いつしか血の色のような真っ赤な空間へと変貌していた。
――お、落ちる! 落ちる、落ちる、落ちる、落ちる、落ちる――!
地面が見える。
何も無い、無機質な灰色一色の地面が、物凄い速度で私の眼前に迫ってくる。
このままでは激突する! ――そう思った瞬間、落下していた私の身体が急停止した。…………。
「もし、あなた。大丈夫ですか? あなた、しっかりしてください」
誰かが私の肩を揺さぶっている。
「もし、あなた。意識はありますか? 救急車を呼んできましょうか?」
救急車という単語を聞いた途端、一気に記憶がよみがえってきた。
そうだ。私は、《あいつ》を追って外に駆け出して、急に胸が苦しくなって倒れこんで……ということは、私はまだ死んではいないのか? 生きているのか!
私は両目を開くと同時に、顔を起こした。どうやらうつ伏せに倒れこんでしまっていたようだ。土の臭いが鼻につく。
「ああ、意識はありますか? あなた、一体こんなところでどうされたんです?」
横向きの姿勢になって自分の胸を押さえてみた。――大丈夫だ。先ほどまであれほど苦しい激痛に襲われていたのがまるで嘘のように、すっかり体調は正常に戻っている。私は半身を起こすと、ゆっくり立ち上がって着物についた土くれを払い落とした。
「立ち上がっても大丈夫ですか? 救急車を呼びましょうか?」
仕立ての良い背広を着こなした三十代と思しき男性が、心配げな表情で私の顔を覗き込んでくる。
「あ、ああ。……だ、大丈夫です。ちょっと転んでしまったようで」
私は慌てて取り繕うと、無理に笑顔をつくってみせた。
「……なら良いんですが。本当に大丈夫ですか?」
「え、ええ。慌てて出てきたもので……、ご心配お掛けいたしました」
親切な男性は、訝しげな表情を残して立ち去っていった。私は彼の姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くして何度も頭を下げていた。
男性が角を曲がって見えなくなったとき、私はふと、自分の足元に置かれていた分厚い封書に気が付いた。はて、いつの間にこんな物が落ちていたんだろう? 先ほどの男性が置き忘れてしまったものではないか。
私は急いでその分厚い封書を取り上げると、何気なしに表を返してみた。そして、その封書の宛名を見た瞬間、背筋にぞっと冷たいものが走るのを感じた。
――鬼頭龍一郎様
宛名自体に驚いたわけではない。その、ズシリと重い封書に書かれた《鬼頭龍一郎》という文字が、明らかに自分自身の筆跡だったのである。
私は狂ったように茶色い封筒を破ると、中身を取り出した。
「……こ、これは……」
それは、ビッシリと文字で埋め尽くされた原稿用紙であった。その原稿用紙に書かれた文字も、私の筆跡そのものである。原稿用紙の一枚目、最初の一行にはこう記されていた。
――《ドッペルゲンガー密室殺人》 鬼頭龍一郎
私は飛び出さんばかりに目を見開きながら、原稿の文字を目で追っていった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ドッペルゲンガー密室殺人 鬼頭龍一郎
私は小説家である。
これまでの作家人生において、数え切れないほどの作品を上梓してきた。出版された本の売上、そして巷の知名度からみても、そこそこ売れっ子の部類に属する作家なのであろう。
私のデビュー当時からの作品は、主に怪奇小説であった。いわゆるジェット・コースター型のホラー小説ではなく、日本の土壌に古くから根付いているような恐怖を、幻想的な描写をもってじわじわと炙り出していくような作風の怪奇小説が多かった。
そんな私の作風に転機が生まれたのは、デビューから十年後のことであった――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ――――!」
私は原稿用紙を放り出すと、髪を振り乱しながら狂ったように自宅へと書け戻っていった。
――狂ってる! 狂ってる! 狂ってる! あいつが、あいつが、あいつが! ……私が――?
another
くっくっく、みたか、あのザマを。
さぁて、いよいよだ。
あいつはすっかり半狂人といった状態になっている。
すべては《私》の思惑通りに進行しているということだ。
《私》の思惑通りに。
…………
あとは最後の仕上げを待つのみだが、一番の気がかりはあいつが自滅してしまわないかということだ。
いや、そんなことはあるまい。
すべては《私》の思惑通りに進行しており、この後もそのシナリオから逸れることなどないはずなのだ。
すべては《私》の思惑通りに。
くっくっく、くっくっくっくっく。
…………
*
電話のベルが鳴っている。
恐らく、編集者からの催促の電話だろう。だが、それがどうした。今の私にとっては、原稿を落とすなどといった些細なことよりも、もっともっと重大なことがあるのだ。
生きるか、死ぬか――。
ドッペルゲンガーを見た者は数日のうちに必ず死ぬ、という言い伝えがあるのは充分承知だ。しかし、そんなものはあくまでも伝説、いや、迷信の類でしかないのだ。だが現実問題として、私をおおいに苦しめている《もう一人の私》という存在が確実に居る。
この存在は脅威だ。私にとって、非常に大きな脅威だ。このままあいつに跳梁され続けられたら、私は近いうちに発狂してしまうだろう。いや、いまだってぎりぎりのところで踏みとどまっているが、精神状態は限界に近いのだ。知らず知らずに、自分から死の道を選んでしまう可能性だって否定しきれない。それほど私はあいつに恐怖し、追い詰められている。
「生き抜くためには――」
私は声に出して言ってみた。
「――脅威を排除しなければならない」
鏡に自分の顔を映してみる。生気の無い亡霊のような中年男が、目ばかりギラギラと光らせて睨み返していた。
「あいつを、もう一人の私をどうにかして見つけ出す」
鏡の中の自分に言い聞かせる。
「見つけ出して……この手で殺してやる」
私は右の拳を鏡に叩きつけた。
そして、心の中で何度も呟く。
――先にあいつを殺してやる、先にあいつを殺してやる、先にあいつを殺してやる、先にあいつを殺してやる、先にあいつを殺してやる、先にあいつを殺してやる――。
*
私はあてどもなく街をさまよい歩いていた。懐には鋭利なナイフを忍ばせてある。
《もう一人の私》を見つけ出す――そう意気込んで家を出たのはいいが、具体的にどういった行動を取れば良いのかがわからない。だがしかし、あいつは必ずまた私に接触してくるだろう。そういった確信に近い思いがあった。
見慣れた街の、見慣れた風景が、何故かしら今夜は異質に見える。まるで、夢の中で見る街をさまよっているかのようであった。
しばらく歩いてふと足を止めると、古びた造りの一軒の宿屋を見掛けた。木造の二階建てで、外壁には煤や黒ずんだ染みが多く見られる。私はしばらくぼんやりとその宿屋を見つめていたが、やがて、何かの引力に引かれでもするかのように宿屋の扉を開いていた。
狭い玄関口に突っ立っていると、奥から一人の老婆が姿を現した。ずいぶんと小柄で、腰が異様に曲がっている。薄くなりかけた白髪を後ろで一つに束ね、染みだらけの顔には深い皺が幾重にも刻まれていた。
私の前まで来ると、老婆は巾着のようにすぼめられた口をもごもごと動かして、やっと聞き取れるほどの小さな声でこう問うた。
「……お泊りかね?」
私は無言で頷く。
「ウチは、食事は出せねえんだけんど」
私はまたもや無言で頷いた。
老婆も頷き返すと、私の先に立って薄暗い廊下を歩きはじめた。思った以上に長い廊下である。私は老婆の背中に「宿帳の記入は良いのか?」と訊ねたが、老婆の耳には届いていないようだった。
廊下の突き当たり、入り口から一番奥にあたる部屋に私は案内された。何気なく木製のドアを見ると、手書きの張り紙で《藤の間》と名付けられている。私はドアを押し開き、部屋の中へと足を踏み入れた。
室内はまるで装飾などなく、味も素っ気もない造りであった。衣類を掛けるためであろう木製の箪笥が一つと、中央に丸い卓袱台が一つ置かれているだけである。
「では、ごゆっくり……」
背後で老婆のくぐもった声が聞こえ、ドアが静かに閉められた。
私は取りあえず上着を脱いで箪笥に仕舞い込むと、茶色く変色した畳の上に大の字になって寝転がった。
私はこんなところに投宿して、これから一体どうするつもりなのであろうか? そんなことをぼんやりと考えながら天井の染みを見つめていると、しだいに瞼が重くなり、猛烈な眠りの世界に誘い込まれていったのだった。
another
動き出したようだな。
ここまで《私》の思惑通りに事が進むとは、我ながら武者震いするほどの思いだ。
…………
くっくっく、今のうちにゆっくり休むといい。
最終局面はもう間近なのだ。
今は束の間、《私》の存在を忘れてぐっすりと眠るがいい。
目覚めたら嫌でも……、くっくっくっくっく。
さぁて、《私》も少し休むこととしよう。
明日になったら、いよいよ最終局面だ。
全てが明日の夜には――。
くっくっくっくっく……、はっはっはっはっはぁ――!
…………
*
久しぶりにぐっすりと深い眠りを味わった。
ゆっくりと目を開けると、私は蒲団も敷かずに畳の上で大の字の体勢で横になっていた。窓越しに小鳥のさえずる声が聞こえてくる。差し込んでくる陽光の明るさから察するに、外は上天気であるようだ。
私はゆっくりと起き上がると、寝乱れていた着物を直し、寝癖のついた髪を手で撫で付けた。ふと、壁掛け時計に目を向けると、時刻は朝の八時をまわっているところであった。随分と長い時間眠り込んでいたものである。私は久々に食欲があることに少しだけ喜びを感じていた。
木製のドアを開けて、廊下を入り口へと進む。どうやらこの廊下は年中薄暗いらしい。まるで私が部屋から出てくる時間を見計らっていたかのように、入り口の上りがまちのところにこの宿の老婆が立っていた。
「お帰りで?」
私は頷くと、一泊の宿代を支払うために懐から財布を取り出した。老婆が請求した宿代は、驚くほどに安かった。こんな料金で経営が成り立っていけるのだろうかという、余計な心配を抱かせる額である。
「世話になった」
「へえ。またのお越しを」
老婆がちょこんと白髪の頭を下げる。
「ちょっと腹が減ったんで朝飯を食いたいんだが、この近場で手頃な店はあるかね?」
「……はぁ。ここを右に出て五分ほど歩いたところに、小さな食堂があるけんど」
私は老婆に礼を言うと、その古びた宿を後にした。
聞いたとおりにしばらく歩くと、先ほどの宿さながらに古びた造りの食堂が一軒、ぽつねんと建っているのが見えた。白い暖簾は陽にさらされて赤茶け、《大衆食堂 おおみ》という文字が微かに読み取れるが、まるで人の気配が感じられない。私はゆっくりと店に近づくと、軋んで開け難い木戸に力を掛けながら店内を覗き込んだ。
隅の椅子に座り込んで新聞を読んでいる無精ひげの男が、この店の店主であろうか。他に客らしき姿はない。無精ひげの男は私の姿を認めると、手にしていた新聞紙を折りたたんで椅子から立ち上がった。
「ああ、お客さん。ちょうど良かった。さっきあんた、忘れ物してっただろ?」
――なんだって?
また、あの感触がよみがえる。
全身をおびただしい蝿が、ゾワゾワと這い回るかのような不快な感触――。
あいつだ! また、あいつが私の行動を先回りして現れたに違いない。
「ちゃんと取っておいてやったよ。ほい、これ」
無精ひげの店主は胸ポケットから皺の寄った茶封筒を取り出し、私の前に差し出した。条件反射で手に掴む。そして、その茶封筒の表書きをまじまじと見つめた。
――鬼頭龍一郎様
全身がカッカと熱くなり、呼吸がぜえぜえと荒くなる。
「お客さん、大丈夫かい? 顔色が悪いけど。……ちょ、ちょっとお客さん」
私はその茶封筒を強く握り締めたまま、足音荒く外へと飛び出した。
逃げるように店から駈け離れ、まったく人気のない路地裏に飛び込むと、手にしていた茶封筒の皺を引き伸ばしてまじまじと見つめた。表書きに記された《鬼頭龍一郎》というこの文字、筆跡はやはりどう見ても自分自身のものとしか思えない。
震える指先で封を破ると、中には一枚の薄いハトロン紙が丁寧に折りたたんで入っていた。私は目を更にして、そのハトロン紙に書かれた文字を追っていく。
鬼頭龍一郎様
まだ、完全に精神崩壊を起こしていない貴殿には敬意を称する。
今、貴殿の頭の中を完全に占めているもの。それは、この私のことであろう。
くっくっくっくっく。
さぁ、そろそろ《私たち》の決着をつけようではないか。
私は今夜待っている。
場所は、○○町三丁目八の六にある孔明荘アパートの二階、五号室だ。
このアパートは私、《鬼頭龍一郎》の名義で最近借りたものだよ。
はっはっはっはっは。
時間は深夜十二時きっかり。
お前は必ず来るであろう。いや、来ることはわかっている。
それでは今夜、楽しみに待っている。
鬼頭龍一郎
「ふっ、ふっ、ふざけるなっ!」
私はハトロン紙をくしゃくしゃに丸めると、道端に力強く投げ捨てた。がしかし、すぐに思い直して拾い上げる。そして、もう一度文面に目を通した。
「……孔明荘アパートの二階、五号室……、深夜十二時……、決着……、か」
全身を覆っていた熱がすっかりおさまった私の口元には、知らず知らず薄笑いが浮かんでいた。
*
私は常夜灯の寂しげな灯りに薄ぼんやりと照らされながら、目的の場所――孔明荘アパートへと歩を進めていた。心中には怒りとも恐れとも、そして不安とも興奮ともまったく違う、形容しがたい不思議な感情が渦巻いている。
一心に前を向いて歩いていた私は、ふいに足元を横切った素早いものに驚いて、思わず身を引いた。目を向けると、朧な灯りの下に大きな黒猫の後姿が見える。そのまま走り去るかに見えた黒猫はふいに立ち止まり、いきなり私の方に振り返った。そして、大きく口を広げて威嚇の鳴き声をあげる。薄明かりの下で見る黒猫の口の中は、まるで血に染まってでもいるかのように真っ赤に見えた。
another
来る。
もうすぐだ。
あいつはもう、すぐ近くまで来ている。
…………
来い。
早く来い。
お前が来ることによって、この《私》の――いや、《私たち》の究極の目的が達せられるのだ!
来い。
来い、来い、来い、来い、来い、来い――!
*
「ここか……」
孔明荘アパート――。
予想していた以上に、真新しい佇まいの建物であった。だがしかし、住民の気配がまったく感じられない。さすがに深夜の十二時ということもあろうが、それにしても不気味に静まり返った建物であった。外から見た限りでも、灯りの点いている部屋などまったく見当たらない。それ以上に、人間が住んでいるといった気配がまったく感じられないのだ。建てられたまま放置されたアパート――そう、ゴーストアパートという言葉が頭に浮かんでくる。
私は大きくひとつ咳払いをすると、意を決して二階へ通ずる階段を上りはじめた。異様なほどに鼓動が早い。まるで、口から心臓が飛び出してきそうなほどだ。全身にはねっとりとした汗が浮かんでいる。両手を強く握り締めると、ぬめぬめした古い油のような感触があった。自然に忍び足になってしまう。
二階へと辿り着いた。
たいした階段ではなかったにも関わらず、私の呼吸は乱れていた。着物の袖で額の汗を拭い、ゆっくりと足を運ぶ。
階段の直近の部屋には、ドアに十号室の表示があった。
このアパートは二階建てで、一階と二階とに各五部屋ずつ配置されている。ということは、私がこれから目指す部屋――あの《もう一人の私》が待っているという部屋は、階段を上がった位置から一番奥にあたる部屋らしい。
私は高まる鼓動を必死で押さえつけながら、一歩一歩慎重に足を運んでいった。
九号室、八号室、七号室、六号室――。
「こ、ここか……」
思わず沸き上がってきた生唾を飲み下す。
あいつが指定してきた五号室の前、私はその部屋のドアをじっくりと凝視した。一秒、三秒、五秒、十秒――。
それからゆっくりと腹の底から息を吐き出し、意を決してドアノブに手を掛けた。ノックなどぜずに、直接ドアノブに力を込める。
すると、ドアは何の抵抗もみせずにゆっくりと開いていくのであった。
部屋の奥には暗黒の闇が広がっている。
私は躊躇せず、土足のまま室内へと足を踏み入れていった。
――決着を、着けてやる!
間取りの解らない真っ暗な室内を、ほとんど手探りの状態でゆっくりと進む。どうやら、玄関口から上がってすぐの位置は台所らしい。私は足元に気を付けながら、じりじりと台所らしきその場所を踏み進んでいった。
突き当たりに、木製のドアがある。私はその位置までにじり寄ると、大きく息を吐いた。このドアの奥にあいつが潜んでいるのだろうか――?
私は一旦ドアから離れた。そして思わず舌打ちする。このまま丸腰であいつと対峙するのは心もとない。何か武器になるような物を用意してこなかったのは、あまりにも迂闊だった。ここに何か武器として使えそうな物はあるまいか。
少し闇に慣れた眼で、台所と思しき場所を探索する。だがしかし、刃物などといった手頃な武器として使えそうな物は見当たらなかった。仕方無しに、流し台に置いてあった陶製の灰皿を掴み上げ、懐に仕舞う。そして、再び突き当たりのドアの位置まで戻った。
私は慎重にドアノブに手を掛けた。
心臓が破裂しそうなほどに高鳴っている。
ぎゅっと強く奥歯を噛み締めながら、思い切ってドアノブを回した。このドアも内側から施錠されておらず、何の抵抗も見せずにするりと開いた。勢いあまってつんのめりそうになるのを必死で堪え、私は懐に手を当てたまま室内に素早く眼を走らせた。
かなりの広さのある部屋、のようである。灯りはまったく点いていないが、私の眼はすっかり暗闇に慣れてしまっていた。おそらくここは、リビングに相応する部屋なのであろう。
左右を何度も見回す。――誰の姿も見えない。何の物音も聞こえない……。
私は思わず大声をあげた。
「おい、約束どおり来てやったぞ! とっとと出て来い!」
私の声が、誰も居ない室内に虚しく響く。
「おい、きっかり十二時だ! いるんだろう? 隠れてないで出て来い!」
そのときである。
私は自分の背後に、強烈な悪意を持った存在を感じた。と同時に、猛烈な勢いで背中を突き飛ばされていた。勢いのついた私は、そのまま前のめりに倒れこむ。懐に仕舞いこんでいた灰皿が肋骨に当たり、思わず苦痛の呻き声が洩れた。
「う、ううう……」
部屋のドアが閉ざされるのを耳で感じた。私はカーペットに片手をつき、首を回して背後に視線を向けた。
ぼうっとした人影が見える。しかし、その人影はもっとも自分自身が良く知っているものであった。
「お、お前か!」
人影が口を開く。
「くっくっくっくっく、鬼頭龍一郎の部屋へようこそ。――鬼頭龍一郎君」
――続く――
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2006/04/19(Wed)14:13:21 公開 / 時貞
■この作品の著作権は時貞さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
お読みくださりまして誠にありがとうございます。
公私ともども誠に忙しく、ほんっとうに小説から遠ざかっておりました。案の定、過去ログに流されてしまっておりましたが、今作だけは何としてでも完結させてやろうと、意地で更新させていただきました(汗)現行ログには移行せず、こちらでこのままひっそりと進めさせていただきます。と、いいつつ、ようやく次回で完結です(笑)色々とありましたが、一つの物語を完結させることの難しさをつくづくと実感させられました。やはり常連の皆様は凄いなと、心より感嘆してしまいます。
このような拙作ですが、皆様からのアドバイスやご感想を心よりお待ちしております!!
それでは。